浦添考

伊波普猷





 沖縄の歴史をしらべた事のある人は、浦添うらそいという名称の沖縄の上古史から離す事の出来ない名称である事に気が付くであろう。むかし舜天しゅんてんや英祖や察度さっとのような王者を出した浦添は果して如何いかなる所であったろう。
 浦添の事をしらべるに参考となるべき史料は至って少い。しかし、たとい文献となって遺っていないでも、神の名とかところの名とかいうような固有名詞が伝わってさえいれば、その解釈によって研究の端緒は開けるのである。さて浦添という名称にどんな意味があるかとしらべてみたら、浦添という漢字はアテ字であって、もとはうらおそいとカナで書いたという事がわかった。浦添のようどれの碑文に、
うらおそいよりしよりにてりあがりめしよわちやことうらおそいのようどれは……
という文句がある。明の天啓年間に編纂した『オモロ双紙』にもうらおそいと書いてある。うらおそいは後に縮まってうらそいとなり、ついに浦添の二字であらわされるようになった。うらおそいはうら(浦)おそう(襲)という言葉の名詞形で、浦々を支配する所という意をもっている。(金石文には、浦襲とも見えている。これから推して熊襲くまそも、くま即ち山地を襲う人民の意に解したら面白いと思う。)この言葉の活用している例をオモロに求めると、
きこゑきみがなしうらのかすおそう……
 尊い王がどの浦も支配するの意である。オモロにはこれに似た例が多い。
てにぎやしたおそてしよりもりふさよわせ……
 天下を支配して首里に君臨せよの意である。また、
きこゑきみがなし
しまおそてちよわれ
ゑぞこかよわぎやめ
あぢおそいしよ世しりよわれ
 尊き王よこの国を治めよ船の通わんかぎりわが王これを支配せよという意である。また「だしまおそうあぢおそい」(この島を治むる君)、「だきよりおそうあぢおそい」(この国を領する君)というようなこともある。うらおそう、しまおそう、くにおそう、天ぎや下おそう、国しる、島しる、世しる、いずれも国を治めるという意である、オモロには形容詞になって、「くにおそいぎみ」というように用いられた例もある。国を治むる人という意で、くにおそい、くにもり、くにしり、のように名詞法になった例も多い。按司添の添はおそいで、治むる人という意味をもっている。ヤラザモリ城の碑文に、しまおそい大さと、しもしましり、という地名のあるのも注意すべきである。これらの例によって浦添の語原は明らかになったが、今一つ他の例を挙げて、一層これを確めよう。百九十三年前旧琉球王国政府で編纂した『混効験集』内裏言葉コウトダイヤレクトを集めたもの)に、
もんだすい  百浦添御本殿
ということがある。「もんだすい」は俗にいわゆる唐破風からはーふで、旧琉球王国の内閣である。「もんだすい」が「もゝうらおそい」の転訛したものであることは、「みおやだいりのおもろお双紙」にある昔神代に百浦添御普請御祝いの時の頌歌を見てもわかる。
しより(首里に)おわる(在す)てだこが(王が)
もゝうらおそい(百浦添御本殿を)げらいて(修築して)
たまばしり(玉の戸)たまやりど(玉の戸)みもん(美しいかな)
ぐすく(城に)おわる(在す)てだこが(王が) 〔十三―一〇〕
 ももうらおそいは三十一年毎に建てなおすためしになっていたが(?)、その落成式の時にはいつもこのオモロを歌ったのである。また、
しよりおわるてだこ
みかなしのてだこ
もゝうらおそいちよわちへ
世そうもり〔正しくは世そわりに〕ちよわちへ 〔五―三九〕
というオモロもある。吾らが敬慕する首里の王が百浦襲(正殿)に在してというほどの意である。「世そうもり」は国を襲う所で、「もゝうらおそい」の対語である。「もゝうらおそい」は百浦即ち数知れぬ浦々を支配する局の意で、政令の出づる所という事になる。おもろには、くにつぼ(国局)ともいってある。これで浦添の意味は一入ひとしお明白になったが、なお浦添が果してその名称の意味にふさわしい所であったかどうかを吟味して、いよいよこの解釈の誤っていない事を証明してみよう。(神歌には無為にして治める所の義に「あだおそい」と「からおそい」という語もある。)


 浦添の名は文治三年、為朝の子といわれる、尊敦そんとんが浦添から起って琉球の王位に登った時に著しくなった。この尊敦(舜天と尊敦とは音の似た所がある)は十五歳にして浦添按司に推された位であったから、当時浦添に於てよほど人望があったものと思われる。しかして三代七十三年の間その朝廷で勢力のあったものは浦添の人であった。中にいて名高いのは、
ゑぞのいくさもい
月のかずあすびたち
ともゝとわかてだはやせ
いぢへきいくさもい
夏はしげちもる
冬は御酒もる 〔十五―一八〕
と歌われた(このオモロの新解釈については『沖縄考』五三頁―五四頁を見よ)英祖のイクサモイであった。れはヱゾの城主の嫡子で七年の間、舜天の孫義本王の摂政をつとめて、遂にその譲を受けたというように伝えられている。彼れがいたという城は伊祖城といって、今もなお残っているが、浦添城をへだたること十町ばかりの山脈つづきで、しかかれこれとがその両端をなしている。規模は狭隘きょうあいではあるが、要害の点に於ては浦添城に勝っていたのであろう。「うらおそいのおもろ双紙」にいわゆるヱゾの石城ヱゾの金城とはこの城のことである。
ゑぞゑぞのいしぐすく
あまみきよがたくだるぐすく
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五―一五〕
 伊祖の石城はアマミキヨが築いた城ぞ、伊祖の金城は、という意である。六百五十年前に於てさえ古い城と思われていたのである。また、
ゑぞのいしぐすく
のぼてみちやるまさり
ゑぞのかなぐすく 〔十五―一七〕
 伊祖の石城は登って見たら、勝れている、伊祖の金城は、という意である。とにかく要害であったということがわかる。
ゑぞゑぞのいしぐすく
いよやにおそてちよわれ
ゑぞゑぞのかなぐすく 〔十五―一六〕
 伊祖の石城よ、いよいよますます支配してよ、伊祖の金城よ、と。いかに近隣を威圧しつつあったかを想像させる。以上のオモロによって判断してみると、英祖はおとなしく義本の譲を受けたのではなくして、武力を以て舜天の統を威圧したのではなかろうかと疑われる。英祖の時(弘長元年)に、何処からか禅鑑という僧が漂流して来て、浦添に極楽寺を建てたのは注意すべき事と思う。仏教はこの時始めて沖縄に入ったのである。袋中たいちゅうの『琉球神道記』によれば、いわゆる琉球固有の文字の発明された所も浦添である。また「琉球文にて記せる最後の金石文」の立っているようどれも此処ここにある。英祖の統は五伝して西威せいせに至って衰えた。ほとんど百年の間である。これに代って琉球の中山に君臨したのもやはり浦添の人で、時の浦添按司察度(ヂヤナモイ)である。ここで誰れでも気のつく事は、浦添の人が一たび首里おやぐに(首里の都)に入ると百年たずで腐敗して、新しい浦添の人がこれに代ることである。とにかく沖縄史の幕が開けてから尚巴志しょうはしが三山を統一するまで、およそ三百年の間首里おやぐにで繁昌したのは浦添の人であった。実に「きこゑうらおそいや(名高き浦添は)あぢの(按司の)すでおやぐに(産地)」であった。思うに浦添は首里の出来ない以前に於ては沖縄島の中心であったろう。以上の歴史的事実で浦添に国を治むる所という意味のあることはわかりかけたが、次に浦添の歴史地理を調べて結論を急ごう。


 案ずるに沖縄の港は牧那渡まちなととまり、那覇という順に開けたのであろう。察度さっと王時代に牧湊まきみなとが中山で重要な港であったことは、『中山世鑑ちゅうざんせいかん』に、
当時牧那渡に倭人商船数多参りけるが、過半は皆鉄をぞ積みてける。彼男子(察度)この鉄を皆買取てけり。其比そのころは牧那渡の橋は無くて、上下往来の大道は金宮こがねみやの麓よりぞ有りける。
とあるのでもわかる。また同書によって察度の第宅ていたくなる大謝名おおじゃなの金宮の辺がかなり繁昌した所であった事もわかる。『オモロ双紙』によれば泊も那覇?――も古くは浦添間切まぎりの中であったという事がわかる。浦添間切内の事を歌った「うらおそいのおもろさうし」(明の天啓三年編纂)に、
あさとおきておやみかま
かまゑつむしよりおやぐに
あめくぐちおやどまり
なはどまりおやどまり 〔十五―一〕
という事がある。「あさと」は真和志まわし間切の安里村で、「あめくぐち」は天久の港即ち泊港の事である。「なはどまり」は那覇港の事で、「おやどまり」は大きな港という事である。このオモロは安里の役人のオヤミカマが属島から首里政府に奉る貢物を受取る事を歌ったのである。当時、泊は安里村の一部で浦添間切に属する港であって、那覇は浦添間切の西南端に位する小な島であった。英祖の時代に西北諸島すなわち久米、慶良間けらま伊平屋いへや及び奄美あまみ大島がはじめて入貢したので官衙かんがを泊村に官舎をその北に建てた。この頃には泊港が沖縄第一の港であったのである。察度の時代に宮古、八重山が附属するようになったので、いわゆる「ぢばなれ」(属島)の船舶の出入が頻繁となり、三山統一後には一層頻繁となった。
きこゑうらおそいに
にしひがのかまへもちよせて
とよむうらおそいに 〔十五―二六〕
というオモロはこの辺の事を歌ったのである。名高き浦添に西東の貢物を寄せ集めて云々というほどの意である。
きこゑうらおそいや
しまのおややれば
もゝぢやらのかまへつでみおやせ
とよむうらおそいや 〔十五―二一〕
 前のと似て、名高き浦添は島々の頭なれば諸按司より献じ来る貢物を取立てて奉れよとの意である。さて始めのほどは泊港に関する一切の事務は安里うっちに一任しておいたが、最早もはや間に合わなくなったのである。『中山世譜ちゅうざんせいふ』〔『球陽』〕に、
尚徳王成化二年王命呉弘肇(泊里主宗重)始任泊地頭職而掌管泊邑及大島徳島鬼界与論永良部島至于近世改称泊町奉行後亦仍称泊地頭兼任取次職(始建泊地頭)
と見えている如く、いつしか泊地頭を置く必要を感じたのである。今をさること四百四十一年前のことである。


 沖縄と南洋諸島との交通が、察度以前に既に開けていたという証拠はあるが、南洋諸島の船舶が何港に碇泊したかということは判然しない。南洋諸島との貿易は十五、六世紀に至ってようやく盛んになり、支那との往来もまた繁くなったが、泊港はこれらの船舶を入るるには余りに狭く、かたがた政治上の都合などもあって、那覇を築港して貿易港にあてた。『中山世譜』に、
本国自唐宋以来、与朝鮮日本暹羅瓜哇等諸国、互相通好、往来貿易、但世遠籍湮、往来年月、難以委記、即今那覇親見世者、因与諸国交通貿易、故建公館于那覇、令置官吏以掌其事、名其館曰親見世、又建公倉于那覇江中、以蔵貿物、名其倉、曰御物城、然何世建之、今難以詳考、
と書いてある。那覇が貿易港になったということは『那覇由来記』を見てもわかる。また「江戸立之時仰渡並応答之条々之写」という書にも「昔は沖縄島那覇港者唐融通の港にて候由」という記事がある。しかし『中山世譜』より前に出た、『中山世鑑』には少しもこういう記事がないというので、この事実を疑う人があったら、『中山世鑑』よりも二十三年も前に出来た『オモロ双紙』を一瞥するがよい。そうすると、
しよりおわるてだこが うきしまはげらへて たう なばんよりやうなはとまり ぐすくおわるてだこが 〔十三―八〕
というオモロを見出すであろう。これは右に出した漢文と殆ど同意義で首里にまします王が浮島を築港して唐南蛮の船舶の寄合う那覇港となした、という意である。今日の風月楼は昔の御物城おものぐすくの趾で、南洋貿易後代の遺物である。その附近から今でも青磁の破片が沢山発見される。これらの青磁には立派な唐草模様が付いていて、広東省広州府石湾で製造した青磁だということが証明された。『混効験集』を按ずるに「うきしま」は那覇のことである。今日地勢から見ても、那覇がかつて島であったということは容易たやすく想像される。その昔、首里人が那覇を見おろして浮島と呼んだのも無理はない。四百五十五年前までは首里から那覇へ行くにはよほどの困難を感じたが、尚金福の時いわゆる長虹堤を築いて首里と那覇とを連絡した。『遺老説伝』に、
尚金福王命国公懐機築建長堤以便往来懐機以海底已深無力可施恭備祭品祈天告神一七日間海水乾涸即国内人民婦女運来石塊云々
とある記事や『那覇由来記』に、
さて沖道を築ける事は、前代尚金福王の御時国公といふ人有り、人を利し世を治むる故に、斯名付、其比封王有唐家の勅使此首里往復の路不平なり。此人俄に改め一七日にして石を布山を平ぐ、云々。
とある記事を見ても首里、那覇の往来は昔は干潮の時でなければ出来なかったがこの大工事によっていつでも渡ることが出来るようになったということがわかる。この長堤あるいは沖道というのは瀉原かたばるのツンマーシヤーの前から十貫瀬じっかんじを経て崇元寺に至るまでの道路である。
 こういうようにして、那覇は出来上ったのである。(最近神歌及び『由来記』の研究から、沖縄及び那覇の語源を発見したが、それは近著『沖縄考』で発表した。)爾来じらい泊港は本島及び属島の船舶をつなぐ国港となり、那覇港は外国船を入れる貿易港となった。当時御物城の下に支那及び南洋の船の輻輳ふくそうしていたことはあのオモロを見てもわかる。察度の時に沖縄に帰化した三十六姓を那覇に置いたことや、武寧ぶねいの時に始めて天使館を那覇に立てて冊封使さくほうし時中を迎えたことなどを見ると、那覇の村落が五、六百年前からあったということはあきらかである。『中山世譜』〔『球陽』〕に、
尚清王嘉靖七戊子年命毛見彩授那覇里主此職自此始已無疑矣
 この時に至って那覇は全く出来上って、泊港の繁昌を奪ったのである。
 政治上に於ける浦添人は尚巴志の勃興によってその勢力を失ったが、牧湊、泊、那覇の三港を有する浦添は依然として「うらおそい」であった。記録の語る所によれば、宜野湾ぎのわん間切は寛文三年(二百二十年前)に浦添・北谷ちゃたん中城なかぐすくの三間切をいて置いたとのことである。しかして嘉数・大謝名・伊佐・宜野湾などの村が浦添に属していたことはオモロによりて明白である。また西原間切の棚原村も浦添の中であった。案ずるに昔は真和志間切の大半も浦添間切に属していたのであろう。またオモロによりて首里の北部が浦添間切に属していたことも明かである。首里ももと浦添から分離したのではなかろうか。さてかくの如くかなり広い面積を有し、主要なる港湾を備え、而も多くの歴史的人物を産出した浦添の名称が浦々を支配する所という意味を有していることはほとんど争うべからざる事実である。
(明治三十八年稿『琉球新報』所載・昭和十七年七月改稿)





底本:「古琉球」岩波文庫、岩波書店
   2000(平成12)年12月15日第1刷発行
   2015(平成27)年2月5日第8刷発行
底本の親本:「古琉球」青磁社
   1942(昭和17)年10月20日初版発行
初出:「琉球新報」
   1905(明治38)年
※〔 〕内の注記は、校訂者外間守善氏による加筆です。
入力:砂場清隆
校正:かたこ
2021年7月27日作成
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