カンカン虫殺人事件

大阪圭吉




 K造船工場の第二号乾船渠ドライ・ドックに勤めている原田喜三郎と山田源之助の二人が行方不明になってから五日目の朝の事である。
 失踪者の一にん、原田喜三郎の惨殺屍体したいが、造船工場からほど遠からぬ海上に浮び上ったと報告しらせを受けて、青山喬介きょうすけと私は、暖い外套を着込むと、大急ぎで工場までやって来た。
 原田喜三郎と山田源之助は、二人ともK造船所直属のカンカンムシで、入渠船にゅうきょせんの修繕や、船底ボタムのカキオコシ、塗り換えなどをして食って行く労働者である。その二人が五日前の晩から行方不明になってしまい、捜査に努力した水陸両警察署も、何等なんら手掛てがかりを得る事も出来ず、事件はそのまま忘れられようとしていた時の事だけに、なかば予期していた事とは言え、失踪者の惨殺屍体が発見されたと聞いて、私達が飛上ったのも無理からぬ話である。
 門前で車を降りた私達は、真直まっすぐにK造船所の構内へやって来た。事務所の角を曲ると、鉄工場の黒い建物を背景バックにして、二つの大きな、深い、乾船渠ドライ・ドックの堀が横たわっている。その堀と堀の間には、たくましいクレーンのむれが黒々とそびえ立って、その下に押し潰されそうな白塗りの船員宿泊所が立っている。発見された屍体したいは、その建物の前へアンペラを敷いて寝かしてあった。
 もう検屍けんしも済んだと見えて、警察の一行は引挙ひきあげてしまい、ただ五六人の菜ッ葉服が、屍体にかじり付いて泣いている細君らしい女の姿を、いたましそうに覗き込んでいた。喬介はただちに屍体に近付くと、遺族に身柄を打明けて、原田喜三郎の検屍を始めた。地味な労働服を着た被害者の屍体は、長い間水浸しになっていたと見えて、四十前後のヒゲ面も、露出された肩も足も、一様にしらはじけて、恐ろしく緊張を欠いた肌一面に、深い擦過傷さっかしょうが、幾つも幾つも遠慮なく付いている。はだけられた胸部には、丁度ちょうど心臓の真上のところに、細長い穴がぽっかりいて、その口元には、白い肉片がむしり出ていた。
『メスで突き刺したんだね。これが致命傷なんだよ。』
 喬介は私にそう告げ終ると、なおも屍体を調べ続けた。顔面はそれ程引き歪められていると言う方ではないが、ただ左の顔だけ一面にソバカスの出来ているのが、なんとなく気味悪く思われた。喬介は又喬介で、どう言うつもりかそのソバカスに顔を近付け、御丁寧に調べ廻していた。が、やがて屍体を裏返すと、呆れた様に私を見返った。成る程、屍体の後頭部には鉄の棒で殴り付けた様な穴が、破壊された骨片こっぺんをむき出してむごたらしくぶちぬかれている。屍体の背面には表側と同じ様に、深い擦過傷が所々しょしょに喰い込み、労働服の背中にはまだ柔い黒色こくしょくの機械油が、引き裂かれた上着の下のジャケットのあたりまで、引っこすった様にべっとりと染み込んでいる。そしておよそ私達を吃驚びっくりさした事には、後へ廻された両の手首は丈夫な麻縄で堅く縛られ、すっこきの結び玉から何にかへくくり付けた様に飛び出している綱の続きは、一フィート程の処で荒々しく千切ちぎれている事だ。黒い機械油は、手首から麻縄の上までべっとり染み付いている。
 一通りの検屍を終った喬介は、そばの婦人に向ってしずかに口を切った。
『いやどうも失礼いたしました。早速さっそくで恐縮の至りなんですが、御主人が行方不明になられた晩の模様をお聞かせ下さいませんか?』
『と言いますと?』
『つまりですな。御主人が最後にうちを出られた時の様子です。』
『ハイ。』婦人は涙を拭いながら話し始めた。
『あの晩工場から暗くなってから帰って来た主人は、御飯を食べると急な夜業やぎょうがあるからと言ってぐに出てきました。』
一寸ちょっと待って下さい。』と喬介は側に立っていた菜葉服なっぱふくの一人に向って、『その晩、夜業は確かにあったんですね?』
『いいえ。夜業はなかったです。』労働者が答えた。
『なかった? ふむ。ないものをあると言うからには、何か知られくない事情があったんだな。お内儀かみさん、心当りは御座居ませんか?』
『別に、御座居ませんけど――』
『そうですか。で、御主人は一人で出掛でかられた[#「出掛でかられた」はママ]んですね?』
『いいえ。源さんが、あの山田源之助さんが呼びに来られて、一緒に出掛けました。』
『御近所ですか?』
『ええ、直ぐ近くですし、それにとても心安い間柄でしたから寄ってれたんです。出がけに表戸の前で、「あの若僧わかぞうすっかり震え上ってしまいおった。」とか「今夜は久し振りに飲めるぞ。」とか二人で話し合いながら出てくのを、わたしはこっそり立聞きしていました。』
『ほう。くそんな話を覚えていられましたね?』
『ええ。前の日まで中気で寝ていた源さんは、その日無理をして仕事に出ため工場であやまって右腕に肉離れをしてしまったのです。で、そんな怪我をした弱い中気の体で、又酒など飲んでは――と他人事ひとごとながら心配でしたので、あの話は好く覚えております。』
『いや有難う。それで、そのまま二人共帰らないんですね?』
『ええそうなんです。』
『有難う。』
 喬介は丁寧に礼を言って彼等の側を離れると、私をあごで呼びながら船渠ドックの方へ歩き出した。
『いや、驚いたねえ。随分クソ丁寧に殺したものだねえ。』
 喬介に寄り添いながら私が言った。
『全くだ。体中傷だらけだよ。心臓の刺傷さしきずと後頭部の猛烈な打撲傷――二つの致命傷が一つの肉体に加えられているんだ。そして、その上に身体からだ一面に恐るべき擦過傷がある。随分惨忍な殺人だよ。勿論屍体はあの通り麻縄でガッチリ縛り、海の真中まんなかおもしを着けて沈めたんさ。犯人の頭脳のレベルは決して高いものではないね。まあ九分九厘知識階級の人間でない事は確かだ。だが、推理を起すに当っては、やはり充分な注意を払わなければならん。で、ず最初に僕が頭をひねったのは、あの幾通りかの傷や機械油が、被害者の体へ加えられて行った順序だ。確かにあれけの変化が一度に起ったとは思われん。いや、それどころか各々おのおのの変化には、みんなハッキリした順序が見えている。後頭部の打撲傷や身体各所の激しい擦過傷を思い出し給え。あの二通りの傷は、心臓部の刺傷に比較して恐ろしく周囲の皮膚が擦りむけていたね。一体人間の皮膚と言う奴は、勿論生きている人間の、しかも薄い上皮ではなくあの屍人しにんのそれの様に一枚下の厚い奴の事だよ。そう言う皮膚は、あんなに易々やすやすと傷口の周囲までまくれてしまうものかね? 僕はそう思えないんだ。ただ、もう息のかよっていない、そろそろ虫のきかかりそうな、或は又、数日間水浸しになっていたとか言う様な屍体では、そう言う事も信じられる。で、この考え方からして、最も妥当な順序を立てて見ると、先ず最初被害者は、鋭利な刃物で心臓を一突きに刺されて絶命する。次に後手うしろでに縛り挙げられ、おもしを着けられて海中へ投げ込まれる。ここで暫く時間を置いて、次にあの致命的な打撲傷と恐るべき擦過傷が幾分柔かくなった肌へ加えられる。茲で面白い証拠を僕は見ておいたよ。後手に縛られた両腕の表側には擦過傷があるが、腕の後側や腕の下に当る胸の横から背中の一部へかけては、衣服のほころびさえも見られない事だ。次に、あの黒い機械油のシミだが、溶け加減と言い、染み工合と言い、確かに暫く水浸しになっていたに違いはないが、すべての傷の一番最後から着いたものなんだ。何故なぜってあの油は、背中の上部の上衣うわぎから、ほころびの中のジャケットやり破れた肌の上まで、そして縛られた麻縄の表側へまでも、ひっこすった様に着いていたからね。さあ、これで一通りこの方は済んだつもりだ。ひとつ、これから殺人の現場げんじょうを調べて見ようじゃあないか。』
 喬介はこう言って、鉄工場の方へどんどん歩き出した。私は驚いて思わず声をげた。
『エッ! 殺人の現場? どうして君はそれを知っているんだ。』
 私の質問に微笑を浮べた喬介は、歩きながら言葉を続けた。
『ふむ。何でもないさ。君はあの死人の左の顔面に気味悪いソバカスのあったのを覚えているだろう。僕はあれを見た瞬間に、ソバカスが顔の一方にけあるのを不思議に思ったんだ。で、よく調べて見ると、なんの事はない鉄の切屑きりくずの粉が一面にめり込んでいるのさ。つまり、ソバカスと思ったいさな斑点は、被害者が心臓を突き刺されて、俯向うつむきになったままバッタリとノビてしまったトタンに、めり込んだ鉄屑なんだ。僕はこの推理の延長から、殺人の現場げんじょうを直感する。それは旋盤工場である。旋盤工場はあの鉄工場の一部にあるはずだ。其処そこの裏手の屑捨場くずすてばまで歩けば、もうそれで充分だ。』
 私は黙って喬介の後へ続いた。途中で行逢ゆきあった職工の一人に屑捨場の所在を訊ねた私達は、それから間もなく鉄工場の隅の裏手へやって来た。其処には、油で黒くなった古い鉄粉や、まだ銀色に光る新しい鉄粉が、山と積って捨てられてある。
 喬介は直ちに手袋をはめると、比較的あたらしい鉄屑のそばへ腰をかがめて、ごそごそとさばき始めた。暫く一面にき廻していたが、んの変化も見られない。追々おいおい私は倦怠けんたいを覚え始めた。
 と、喬介の顔色が急にあからみかけて来た。成る程、喬介の手元を見ると、あらたに掘り出されたまだ余り古くない白銀色の鉄粉の層の上に、褐色の錆を浮かした大きなしみが出て来た。被害者の心臓から流れ出た血のあとだ。私がその血痕を夢中で見詰めている間に、喬介は何かチラッと光る物を拾い挙げて私の側へ寄り添った。
『君こんなものがあったよ。』
 喬介が笑いながら私の前へ差し出したのは、飛びッきり上等のかざりが付いた鋭利な一丁のジャックナイフだ。鉄屑の油や細かい粉で散々によごれているが、刃先の方には血痕らしい赤錆が浮いている。
『残念だがこう穢れていてはとても指紋の検出は出来ん。』
 喬介は、手袋の指先で、柄元の塵を払い退けた。と、あざやかにG・Yと刻んだ二文字の英字が見えて来た。途端に、私の頭の中で電光の様な推理がひらめいた。G・Y――とは、「山田源之助」をローマ字綴りにした場合の頭文字イニシャルの配列である。そこで私は、すかさず言葉を掛けた。
『君、こりゃあ山田源之助の頭文字イニシャルだ。犯人は源之助なんだね。』
『うむ。まあそう考えてくのも悪くはないさ』と、落着き払って喬介は言う、『だが、の多くの条件の符合を無視して、ただこれだけで犯人を山田と断定する事は、どう考えても危険性の多い話だ。僕は先ず、被害者は一体何をしにこんな処までやって来たのだろうか? その方を先に考えたい。そして君は、あの先程被害者の細君が話した「若僧震えあがってしまった」とか「今夜は久し振りに飲める」とか言う二人の間の密やかな会話を覚えているだろう? あの会話は、あの晩二人の間に「若僧」と呼ばれた一人の第三者が関係していた事を意味する。勿論、その第三者と言う男は、二人よりも年若としわかであったろうし、そして又――』
 喬介はここことばを切ると、腰を屈めて何か鉄屑の間から拾いあげた。よく見ると鉄屑の油で穢れてはいるが、まだ新しい中味の豊富な広告マッチだ。レッテルの図案の中に「小料理・関東煮」としてある。喬介は微笑しながら再び語を続けた。
『そして又その男と言うのはだね。恐らく此の頃何処どこか、多分西の方へでも旅行した事のある男だ。どうしてって、ほら君の見る通りこのナイフの側に落ちていた広告マッチのレッテルには「小料理・関東煮」としてある。関東煮とは、吾々われわれ東京人の所謂いわゆるおでんの事だよ。地方へくとおでんの事をく関東煮と呼ぶ。殊に関西では、僕自身度々たびたび聞いた名称だよ。従って、このマッチは、レッテルの文案に「関東煮」としてあるだけで、充分に東京の料理店のマッチでない事はわかはずだ。――』
『いや、もういい。よく判ったよ。』
 私は喬介の推理に、多少のねたましさを感じて口を入れた。喬介は、先程のジャックナイフをハンカチに包んで広告マッチと一緒にポケットへ仕舞い込みながら、私の肩に手を置いた。
『じゃあ君。これから一つ機械油の――あの被害者の背中に引ッこすッた様に着いていたどろりとした黒い油のこぼれているところを探そう。』
 そこで私は、喬介に従って大きな鉄工場の建物の中へ這入はいった。
 回転する鉄棒、ベルト、歯車、野獣の様な叫喚きょうかんげる旋盤機や巨大なマグネットの間を、一人の労働者に案内されながら私達は油のこぼれた場所を探し廻った。が、喬介の推理を受入れてれる様な場所は見当らない。で、がっかりした私達は、工場を出て、今度は、二つの乾船渠ドライ・ドックの間の起重機クレーンの林の中へやって来た。其処そこで、大きな鳥打帽ハンチングかぶった背広服に仕事着の技師らしい男に行逢ゆきあうと、喬介は早速さっそくその男をとらえて切り出した。
『少しおたずねしますがね。この造船所の構内で、ここ一両日の間に、れか誤って機械油をぶちまけてしまった、と言う様な事はなかったでしょうか? ほんの一寸ちょっとした事でいいんですが――』
 喬介の突拍子もない細かな質問を受けて、若い技師はいささか面喰めんくらった様子を見せたが、間もなく私達の眼の前の船渠ドックを指差しながら口を切った。
『その二号船渠ドックで、昨日油差しを引っくりかえした様でした。んでしたら御案内しましょう。』
 技師はそう言って、私達を連れて歩き出した。間もなく私達は、その大きな空の乾船渠ドライ・ドックの底へ梯子伝いに降り立った。技師は、海水を堰塞えんそくしている船渠ドック門の扉船とせんから五六けんへだたった位置にやって来ると、コンクリートの渠底きょていの一部を指差しながら私達を振り返った。
『こいつなんですがね。――』
 成る程其処そこには、三尺四方くらいの機械油のたまりが、一度水に浸されたらしくなかばぼやけて残っている。その溜りの中央が、丁度ちょうど被害者の背中でこすり取られたらしく、白っぽいコンクリートの床を見せて、溜りを左右二つに割っている。
『誰がこぼしたんです?』
『水夫です。五日前の朝から昨晩まで修繕のめに入渠にゅうきょしていた帝国郵船の貨物船カーゴ・ボートで、天祥丸てんしょうまると言う船のセーラーです。推進機スクリューの油差しに出掛けて誤ってこぼしたらしいです。』
『ああそうですか――』
 こう言って喬介は、何か失望したらしく首をうなだれてふさぎ込んでしまったが、やがて何思ったか元気で顔をげると、
『その天祥丸と言う汽船ふねは、何処どこからやって来たんです?』
『神戸出帆しゅっぱんです。』技師が答えた。
『神戸――? で、寄港地は?』
『四日市だけです。』
『エッ! 四日市? そうだ。』
 喬介は思わず叫び声を挙げると、にか思い出した様にポケットの中へ手を突込つきこんで、先程の広告マッチを取り出し、ハンカチでよごれをぬぐって一寸ちょっとレッテルに見入っていたが、間もなく元気で話を続けた。
『で、その天祥丸って言う船は、今何処どこにいるんですか?』
『今は芝浦に碇泊ていはくしています。んでも荷物の積込みが遅れたとかって船主キーパーの督促で、昨晩日が暮れてから修繕が終ると、そのまま大急ぎで小蒸汽こじょうき曳航えいこうされて出渠しゅっきょしました。そうですねえ、今日の正午だそうですから、もう四時間もすると出帆です。』
『有難う。で、その船は五日前の朝入渠にゅうきょしたと言いましたね? すると、あの被害者が行方不明になった、つまり殺された日の朝ですね?』
『ええそうです。』
『じゃあ構内の宿泊所には、その晩天祥丸の船員が泊っていた訳ですね? つまり、夜業はなくても、この造船所の構内には、その晩天祥丸の船員がいたんですね?』
『ええ。まあ、少々はですな。』
『と言うと?』
つまり、八〇パーセントは淫売婦おんなところ――という意味です。』
わかりました。で、その日天祥丸以外に入渠船にゅうきょせんがありましたか?』
『なかったです。』
『有難う。』
 技師は喬介との会話が終ると、一号船渠ドック入渠船にゅうきょせんがあるからと言って、向うの船渠ドックの方へ出掛けて行った。そこで私も喬介に誘われて、面白半分に技師の後に従った。
 一号船渠ドック渠門きょもんの前には、千トン位いの貨物船カーゴ・ボートが、小蒸汽こじょうきに曳航されて待っていた。私達が着くと間もなく、扉船とせんの上部海水注入孔のバルブが開いて、真ッ白に泡立った海水が、おそろしいうなりを立てて船渠ドックの中へ迸出ほんしゅつし始めた。いで径二尺五寸程の大きな下部注水孔のバルブも開いて、吸い込まれて面喰めんくらった魚を渠底きょていのコンクリートへ叩き付け始めた。その小気味良い景色にうっとり見惚みとれていた私の肩を、喬介が軽く叩いた。
『君。船の入渠にゅうきょする所でも見ながら暫く待っていてたまえね。僕はこれから、ちょいと犯人をとらえて来る――』
 喬介はそう言い残したまま、呆気に取られている私を見返りもせずプイと構内を飛び出してしまった。仕方がないので私は、船渠ドックの開閉作業を見物しながら喬介の帰りを待つ事にした。
 一時間して船渠ドックが満水になっても、喬介はまだ帰らない。扉船とせん内の海水が排除されて、その巨大な鋼鉄製の扉船が渠門きょもんの水上へポッカリ浮びあがっても、それからその浮び挙った扉船を小船にかして前方の海上へ運び去り、小蒸汽こじょうきに曳航された入渠船が、渦巻きの静まり切らぬ船渠ドック内へ引っ張り込まれても、喬介はまだ来ない。渠門に再び扉船がはめ込まれて、外海と劃別かくべつされた船渠ドック内の海水が、ポンプにって排除され始めた頃に、やっと表門の方から一台の自動車が這入はいって来た。喬介かと思ったら警視庁の車である。さて、事件が大分だいぶ複雑化して来たなと一人で決め込んだ私の眼の前へ、車のドアはいして元気よく飛び出した男は、ナントが親友青山喬介だ。驚いた私の前へ、続いて現れたのは、ガッチリ捕縄ほじょうを掛けられた、船員らしい色の黒い何処どことなく凄味のある慓悍ひょうかんな青年だ。二人の警官にまもられている。
 喬介にともなわれた一行が、二号船渠ドックの海に面した岸壁のあたりまで来た時に、どきまぎ[#「どきまぎ」はママ]しながら彼等について行った私に向って、初めて喬介が口を切った。
『君。天祥丸の水夫長、そして殺人犯人矢島五郎君を紹介するよ。』
 喬介はそう言って、捕縄を掛けられたセーラーを私に引合ひきあわした。私は、まだ犯人を山田源之助だと思っていたので、と言うよりも私は、ナイフにり込まれた頭文字イニシャルって私の作り上げた推理を、まだ意地悪く信じていたかったので、矢島五郎――と聞いた時に、いささか昂奮こうふんしてしまった。が、間もなく喬介は縛られた男を私達から遠去とおざけて、喋り始めた。
『先程技師の人から、天祥丸が四日市へ寄港したと聞いた時に、僕はふとあの広告マッチの関東煮としてある方ではなく、その裏側のレッテルに、ヨの字を冒頭にした幾つかの片仮名が、ゴテゴテ小いさく並んでいたのを思い出したんだ。で、早速取り出してよごれを拭って見たのさ――』と喬介は先程のマッチを私の眼の前へ差し出しながら『見給え。「勘八」と言う店名の下に、小さく「ヨッカイチ会館隣り」としてあるだろう?』
『うむ。』
 私は大きくうなずいた。
『で、天祥丸の乗組員でこのマッチを持った男と、行方不明になった二人の男とが、あの晩旋盤工場の裏の鉄屑の捨場でった、と言うふうに僕は推理を進めた。ところで、いいかい君。山田源之助は、中気で、しかも右腕に怪我をしていたはずだ。その源之助が、あれあざやかに喜三郎の心臓を突き刺す事が出来ると思うかい? 一寸ちょっと六ヶい話だ。そこで僕は、先程此処ここを出ると早速さっそく山田源之助の遺族を訪ねて、源之助が右利きであった事をたしかめて見た。ところが其処そこで一層都合の良い事には、喜三郎と源之助の二人は、三年ぜんまで、どうだい君、天祥丸の水夫をしていたんだぜ。そこで僕は充分の自信を持って芝浦まで出掛け、予定の行動を取ったんさ。外でもない。まだ出帆前の天祥丸の船長に逢って、頭文字イニシャルの配列がG・Yとなる男が乗組員の中に何人あるか調べて貰った。すると事務長の八木稔と言うのと、この水夫長の矢島五郎君の二人だ。ところが、事務長の八木稔の方はもう五十近い親爺おやじだ。それに引き換えて水夫長の矢島五郎君は、船長も驚いている程の凄腕なんだが、年はまだ二十九歳の所謂いわゆる例の「若僧」と言われた部類に属しとる。で、僕は早速さっそく矢島君にこっそりと面会して、あのジャックナイフを買い取ってれんかとワタリ[#「ワタリ」は底本では「ワタリ」]を付けて見たんさ。すると、ナイフを見た矢島君は、途端にダアとなって震えながら百圓札を一枚気張ってれたよ。で、僕は札を受取るかわりに、矢島君に捕縄ほじょうを掛けさして貰ったんさ。先生、多少は駄々をねたがね。なに、大した事はなかったよ。』
 喬介はそう言って、笑いながら右腕の袖口カフスをまくしげて見せた。手首の奥に白い繃帯ほうたい、赤い血を薄くにじませて巻かれてあった。
『じゃあ一体、山田源之助はどうなったと言うんだい?』
 ごっくりとつばを飲み込みながら私がたずねた。[#底本ではこの行1字下げしていない]
『さあ、それなんだがね――』
 喬介は振り返って、遠去とおざけてあった矢島五郎の側まであゆると、かたえの警官には眼もれず、こう声を掛けた。
『矢島君。さあひとつ、いさぎよく言ってれ給え。山田源之助の屍体を運んで行って、この海の中のどの辺へ沈めたのかって事をだね。多分原田喜三郎と同じ場所なんだろう?』
『…………』
 矢島は黙って喬介をにらみ付けていた。
『君、言えないのかね。え? じゃあ仕方がない。僕がその場所を知らしてあげよう。』
 喬介は涼しい顔をして一号船渠ドックの方へ飛んでくと、間もなく、今入渠船にゅうきょせん据付すえつけ作業を終ったばかりの潜水夫もぐりを一人連れて来た。
 潜水夫もぐりは私達の立っている近くの岸壁まで来て、暫く何か喬介から指図さしずを受けていたが、やがて二人の職工を呼び寄せると、気管ホースやポンプの仕度したくを手伝わせ、間もなく岸壁に梯子を下げて、ぐ眼の前の海の中へ這入はいって行った。十分程すると、私達の立っているところより少しく左にって、第二号船渠ドック扉船とせんから三メートルへだたった海上へ、おびただしい泡が真黒まっくろな泥水と一緒に浮び上って来た。
 この時、私達の耳元で、恐しい野獣の様なうなり声が聞えた。振り向くと、矢島五郎が、鼻の頭をびっしょりと汗で濡らし、真っさおになりながら唇を噛み締めて地団駄じたんだ[#ルビの「じたんだ」はママ]踏んでいる。喬介は微笑ほほえみながら再び海上へ眼をった。五分程すると、梯子の下へ潜水夫もぐりが戻って来た。見ると、原田喜三郎と同じ様に、両腕を後手に縛りあげられた屍体を、背中に背負っている。
『あッ! 源さんだ。』
 今までポンプを押していた職工の一人が、突飛とっぴもない声で叫んだ。矢島は、ガックリと顔を伏せてその場へ坐り込んでしまった。
 源之助の屍体には、喜三郎の屍体に見られた様な打撲傷やかすり傷はなかった。ただ、心臓の上に、同じ様な刺傷があるだけだ。
『古い鉄の歯車の大きな奴をおもしにしてありましたよ。とても持って来れませんので、途中で綱を切ってしまったんです。そう言えば、もう一本中途でむしり取った様に切れた綱がおもしに着いていましたが、あれに喜三郎さんの屍体が縛り付けてあったんでしょうなあ――』
 仕事を終った潜水夫もぐりは、そう言って大きく息を吸い込だ。
 喬介は、矢島の肩に手を掛けながら、
『君。もう一つ訊くがね。工場の裏で二人に逢った時に、何故話を丸くしないでこんなむごい事をしてしまったのかね?』
 喬介の質問に、キッと顔をげて矢島は、自棄糞やけくそに高い声で喋り出した。
『こうなりゃあ、何ももぶちまけちまうよ。三年前まで二人はあっしと一緒に天祥丸に乗り組んでいたんだ。ところが丁度ちょうど天祥丸がまだ新品南支那みなみしな遠航をやってた時だ。この前の船長で、しこたまこれを持ってた柿沼って野郎を、あっし暴風しけの晩に海ん中へ叩ッ込んで、ユダみてえに掴み込んでやがった金をすっかりひったくったのを二人が嗅ぎ付けてしまったんだ。そいつをあの晩ゴタゴタ並べて強請ゆすりに来たんだ。だから片付けちまったんだ。ただ、それだけさ。』
『いやどうも、色々有り難う。』
 喬介はそう言って、警官に眼で合図した。
 喬介は、重苦しい冬の海を見詰めながら語り始めた。
『どうして源之助も殺されていると言うことが判ったのかだって? そりゃあ君、前後の事情を考え合せて、ほとんど直感的にそう推定したんさ。すると君は、じゃあ何故なぜ源之助の屍体の沈められた場所が、あんなに簡単に判ったかって言うだろう。その説明は、山田源之助と一緒に殺された原田喜三郎の屍体が、今朝発見されるまでの行程を一通り説明すれば、それで充分なんだ。つまり、あの鉄工場の裏で突き殺された二つの屍体は、此処ここまで運ばれ、おもしを附けられて海中へ投げ込まれる。丁度ちょうど二号船渠ドック扉船とせんぐ側だ。それから四日たって昨日の晩だ。修繕の終った天祥丸は、K造船工場に暇乞いとまごいをして芝浦へ急行しなければならない。そこで出渠しゅっきょの作業が始まる。第二号乾船渠ドライ・ドック扉門ともんの注水孔は、バルブを開いて、恐しいいきおいで海水を船渠ドックの中へ吸い込み始める。すると渠門きょもんの近くの海中へおもしを着けられて沈められ、綱の長さでコンブ見たいにふわりふわりしていた屍体はどうなる? んの事はない面喰めんくらった魚と同じ事だよ。直径二尺五寸の鉄の穴に、傷だらけになりながら恐しい力で吸い込まれ、コンクリートの渠底きょていへ叩き付けられるんだ。丁度ちょうどその日天祥丸のセーラーが、誤ってぶちまけたと言う機械油の上を、惰性[#「惰性」は底本では「隋性」]の力で押し流される。やが船渠ドックが満水になると、渠門きょもんは開かれて天祥丸は小蒸汽こじょうきき出される。浮力の加減で船底せんていにハリツイていた喜三郎の屍体は、そのまま連れ出されて外海そとうみへ漂流する訳だ。勿論もちろん、源之助の屍体がそんな眼にわなかったのは、屍体の位置と注水孔との距離の遠近とか、おもしに縛られた綱の長短とかが影響していたに違いないんだ――。』
 喬介は語り終ってたばこの吸殻を海の中へ投げ込んだ。
『じゃあ一体、二人が矢島を強請ゆすったとか、話を丸く収めなかったのが、つまりこの事件の動機だね。ありゃあ一体どうして判ったのかね?』
 私は最後の質問を発した。
『ハッハッハッハッ――あいつぁ僕にも、矢島が自白するまでは少しも判らなかったよ。ただ、前後の事情を考えて見て、何故なぜ話を丸くしなかったのか――なんてカマを掛けて見たけなんだ。』





底本:「新青年 復刻版 昭和7年12月(13巻14号)」本の友社
   1990年10月発行
※この作品は、「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。なお、底本のルビは適宜取り除き、現代の送り仮名と異なる漢字と難読語にふりがなを残しました。また、文中の接続詞の「迄」は読み易さを考えて「まで」に変えています。
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2001年12月21日公開
2005年11月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について