東京に於ける學校の主もなるものは、幾んど城北の臺地に集まれり。本郷臺の帝國大學、第一高等學校、上野臺の東京音樂學校、東京美術學校、目白臺の學習院、女子大學、早稻田より高田臺へかけての早稻田大學、市ヶ谷臺の陸軍士官學校、陸軍中央幼年學校、戸山學校、陸軍砲工學校、氷川臺の東京盲唖學校、小石川臺の高等師範學校、府立第二高等女學校、女子師範學校など、これ也。さき頃、新たに小日向臺に、帝國女子大學建築地と記せる木標が立ちたり。その畫ける指の示すがまゝに小さき路を行けば、大塚彈藥庫に接して、建築中の校舍あり。されど帝國女子大學の看板は無くて、帝國女子專門學校の看板あり。之に附屬せる帝國高等女學校は、其の一部分にて開校せるさま也。校舍將に成らむとして頓挫せるにや、ほんの數人の工人がこつ/\働けるさまにて、いつ出來上ることやら、一見人をして氣の毒の念に堪へざらしむ。木標には、帝國女子大學とありて、校舍には帝國女子專門學校とせざるを得ざる事情を聞けば、益

設立者は、誰あらう、もと國光社を創めて、國粹發揮を唱へ、「國光」「女鑑」などを發行して、世に其名を知られたる西澤之助氏也。後ち國光社は、教科書肆となり、印刷所となりしが、西氏は轉じて、帝國高等女學校を創めて、今日に至れり。氏は更に帝國女子大學をも創めむと多年苦心の結果、漸く成立せむとせしに、文部省に否認せられたり。さてこそ、女子大學と名乘る能はずして、女子專門學校と名乘れる也。
何故に文部省が否認したるかは、われ知らず。唯

東洋協會專門學校も、この附近に在り。もとは、東洋を冠せずして臺灣を冠し、臺灣向きの人才を教育せしが、韓國滿洲が我が勢力範圍となるに及びて、改めて東洋を冠せり。私立なれど、官の保護金あり。外國語學校と商業學校とを合したるやうな學校なるが、この校の盛衰は、外に及ぼす我が勢力の消長を卜するに足るべし。
斯かる二大校を有せる小日向臺は、南は江戸川に臨み、東は茗荷谷を隔てて小石川臺に對し、西は音羽谷を隔てて目白臺に對し、北は小石川臺と一つになりて大塚臺に連なる。四方いづれより行くも、坂路あり。從つて馬車の往來稀なる市中の別天地也。彈藥庫の側に立てる一株の銀杏樹、甚だ高し。小日向臺の王者の觀あり。和田垣博士の門内に、偉大なる檜葉の樹あり。云ふ是れ東京市中の檜葉の最も大なるものなりと。主人の博士も、この檜葉の如く、當代一種の偉人として世に仰がる。内に誠を藏し、血と涙とを湛へて、包むに奇才と博識とを以てし、或は磊落に、或は飄逸に、或は奇拔に、或は嚴正に、或は滑稽に、卓然として名利の※[#「くさかんむり/大/巳」、46-12]より逸出せる博士の人格は、今の世、絶えて其比を見ず。人も木も共に小日向臺の名物也。
なほこの臺には、新渡戸博士も住めり。英詩人野口米次郎氏も住めり。舊會津侯、舊津輕侯の屋敷もあり。徳川家の別莊もあり。さばかり壯大なる屋敷もなく、また陋屋も無し。小日向神社境内の稻荷祠畔は、眺望開けたり。小日向臺の西南端は久世山とて、眺望は更に佳也、凡そ一萬坪、今に空地として存す。少し手を加へて、市の一公園となさむは、如何にや。
何ぴとの子にや、まだ幼少なる女の雜種兒の、日夕この臺を上下するものあり。服裝、洋にあらず、和にあらず、ちぐはぐの樣せるに、行人目をそばだてざるは無し。この兒、學校にゆきても、誰も相手にするものなく、悄然として獨り遊ぶなりと聞く。憐れなる哉、雜種兒の境遇。されど、知らず、日本の文明も、いつ雜種兒の境遇をはなるゝにや。
(明治四十三年)