手紙
恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。
帰省してから一カ月余になった。昼はもとより夜も暑いのと蚊が多いのとで、
今夜も矢張そうであった。
家のものは今
「もう寝たんですか。」
「寝たのでない、横に立って居るのや。」と弟の浅七が
「起きとりゃ蚊が攻めるし、寢るより仕方がないわいの。」と母は蚊帳の中で
恭三は自分の部屋へ行こうとして、
「手紙か何か来ませんでしたか。」と尋ねた。
「お、来とるぞ。」と恭三の父は鼻のつまった様な声で答えた。彼は今日笹屋の土蔵の
手紙が来て居ると聞いて恭三は胸を
「えッ、どれッ

「お前のとこへ来たのでない。」
「へえい……。」
急に張合が抜けて、恭三はぼんやり広間に立って居た。
「
「おう。」
「何処から?」
「
「一寸読んで見て呉れ、別に用事はないのやろうけれど。」と父がやさしく言った。
「浅七、お前読まなんだのかい。」
恭三は不平そうに言った。
「うむ、何も読まん。」
「何をヘザモザ言うのやい。浅七が見たのなら、何もお前に読んで呉れと言わんない

父親の調子は荒かった。
恭三はハッとした。意外なことになったと思った。が妙な行きがかりで
「何処にありますか。」と大抵其在所が分って居たが
父は答えなかった。
「
恭三は洋灯を明るくして台所へ行った。炉縁の角の所に端書と手紙とが載って居た。恭三は立膝のまゝでそれを手に取った。
生温い灰の香が鼻についた。蚊が二三羽耳の傍で
先ず端書を読んだ。京都へ行って居る八重という本家の娘からの暑中見舞であった。手紙の方は村から一里余離れた
恭三は両方共読み終えたが、
蚊が
「非道い蚊だな!」と言って足を叩いた。
「蚊が居って呉れねば、本当に極楽やれど。」と母は毎晩口癖の様に言うことを言った。
恭三は
「読んだかい?」
「え、読みました。」と
「何と言うて来たかい。」
「別に何でもありません。八重さのは暑中見舞いですし、弟様のは礼状です。」
「それだけか?」
「え、それッ限です。」
「ふーむ。」
恭三の
恭三は父の心を察した。済まないとは思ったが、さて何とも言い様がなかった。
「もう宜い、/\、お前に読んで貰わんわい、これから……。へむ、何たい。あんまり……。」
恭三はつとめて平気に、
「このお父さまは何を
父は
「馬鹿言えッ! それならお前に読うで貰わいでも、
「でも一つは暑中見舞だし、一つは長々お世話になったという礼状ですもの。他に言い様がないじゃありませんか。」
「それだけなら、おりゃ眼が見えんでも知っとるわい。
「だって……」
「もう宜い、宜いとも! 明日の朝浅七に見て貰うさかい。さア寝て呉れ、
こう言われると恭三も困った。黙って寝るわけにも行かぬし、そうかと言って屈従する程淡白でもなかった。こゝで一寸気を変えて、「悪うございました。」と一言謝ってそして手紙を詳しく説明すれば、それで何の事もなく済んで
「じゃどう言うたら宜いのですか?」と仕方なしに投げだす様に言った。
「己りゃ知らんない。お前の心に聞け!」
今まで黙って居た母親は此時始めて口を出した。
「もう相手にならんと、蚊が食うさかい、早う蚊帳へ入らっしゃい。お父さんは酔うとるもんで、又いつもの愚痴が始まったのやわいの。」
「何じゃ! おれが酔うとる? 何処に己りゃ酔うて居るかいや。」
「そうじゃないかいね、お前様、そんなね酔うて愚痴を言うとるじゃないかね。」
「何時愚痴を言うたい? これが愚痴かい。人に手紙を読うでやるのに、あんな読方が何処の国にあろい?」
「あれで分ってるでないかいね、
「
「
「まるで
奥の間の方から猫がニャンと泣いてのそ/\やって来た。それで父親は
「屁糞喰らえ!」と
母と弟とはドッと笑い出した。恭三は黙って居った。猫は恭三の前に一寸立ち止って、もう一度ニャンと啼いてすと/\と庭に下りて行った。父親は独言の様に、
「己りゃこんな無学なもんじゃさかい、愚痴やも知れねど、手紙というものはそんなもんじゃないと思うのじゃ。同じ暑さ見舞でも種々書き様があろうがい。大変暑なったが、そちらも無事か私も
恭三も最早争うまいと思つたが、
「だってお父様、こんな拝啓とか頓首とかお
「分らんさかい聞くのじゃないか。お前はそう言うがそりゃ負惜しみというものじゃ、六かしい事は己等に分らんかも知れねど、それを一々、さあこう書いてある、あゝ言うてあると歌でも読む様にして片端から読うで聞かして呉れりゃ嬉しいのじゃ。お前が他人に頼まれた時に、それで宜いと思うか考えて見い。無学な者ちゅう者は何にも分らんとって、一々聞きたがるもんじゃわい。分らいでも皆な読うで貰うと安心するというもんじゃわい。」と少し調子を変えて、「お前の所から来る手紙は、金を送って呉れって言うより外ね何もないのやれど、それでも一々浅七に初めから読ますのじゃ。それを聞いて己でも、お母さんでも心持よく思うのじゃ。」
「そりゃ私の手紙は
「もう宜い

恭三は何とも言われぬ妙な気持になって尚お暫くたって居たが、やがて黙って自分の部屋へ行った。
祭見物
「お父さんな、まだ帰らんのか。」と浅七は外から
「まだや。」と母親は漬物を刻みながら無頓着に答えた。
「何ちゅう遅いな、皆もう帰ったのに。」
「もう間がないだろうよ。」と恭三は燃えかゝる松葉を火箸で押えながら言った。煙は部屋中になって居る。洋灯の光は薄暗く其煙の中に見える。
「どうやら分らんちゃ。
「今年ゃ七海に
浅七は炉の中から松葉を二三本取って揃えたり爪で切ったりしながら言った。
「宜い加減に帰りゃいゝのやれど、ほんとね飲んだと来たら我身知らずで困るとこ、……さあ、待っとらんとお前たちゃ先に飯をすまいたらよかろう。いつ帰るやら分らんもの。」と母親はお膳を出しかけた。
「まあもう暫く待って見ましょう。」と恭三は言って、煙にむせて二三度咳をした。
「六平の者共は帰ったかいね。」と浅七が尋ねた。
「六平もまだや、さき方
「あの六平の
こんな話をして居る時、外から「御馳走がありますか。」と言って這入って来たものがあった。
「誰様や?」と恭三の母は伸び上つて庭の方を見た。
「おれ様や! おやまア、こりゃ何ちゅう煙たいこっちゃいの、
「うむ権六さか。何うも早や蚊でならんとこと。お前様たちの所は何うや?」
「矢張居って困ったもんじゃ。」
こう言つて家の中を覗いて恭三と浅七の居るのを見て、
「お、お前達は見に行かなんだのか。」
「何を。」と浅七が言った。
「
「そうや/\、もう弟様らちは若い衆やさかいの。」
「まあ上らんかいの。」
「えんじゃ、そうして居られん。一寸聞きたいことがあって来たのやがな。」と此人の癖であるが
「まだや/\、今も其話をしとる所やとこと。」
「そうか。うちの親爺もまだで、あんまり遅いさかい、どうかと思うて来たのやとこ。」
「えーい。そこな親爺様も行ったのかいね。そうかいね、まあ、こりゃ何ちゅうこっちゃ!」
恭三の母は如何にも意外だという風に言った。
「まことね、あんな身体して居って、程のあった、何う気が向いたか出掛けて行ったわいね。」
「必然家の恭さんと一緒に飲んどるんやろう。」と浅七が口を入れた。
「そうかも知れん。」と権六の細君が言って、少し気を変えて、「今年の祭は大変賑やかやったそうな、何でも神輿が二十一台に大旗が三十本も出たといね。」
「えいそうかいね、何んせ近年にない豊作やさかい。」
「おいね、
「それでも
「そうでも無いとこと、……まあもう暫く待って見ましょう。」
こう言って権六の細君は帰った。
それから暫くしてから隣りの六平が子供を連れて帰って来た。先刻迎いに行った女房とは
「可愛相に、お前はまた何で浜通り来なんだがいの?」と恭三の母は女房に同情を寄せた。
「私もそう思うたのやれど、山王の森まで見に行ったもんやさかい、あれから浜へ戻るのが大変やし、それに日も暮れたもんで内浦通来たのやわいね。」と当惑したという樣子であった。
「そりゃそうと、うちの親爺に遇わなんだかいの。」
「あのう、神輿様が
六平は引返して女房を迎いに行って来るから子供を暫く見て居て呉れと頼んで行った。三人の子供は恭三の家へ入って炉の傍で
三十分程たって六平は女房と一緒に帰って来た。恭三の父はまだ帰らなかった。
六平の女房が、富来の町から八町程手前の小釜の森の下まで来た時、恭三の父は只一人暗がりに歌を唄いながら歩いて居た。もう此時分は祭見物に行ったものは大方帰って了って、一里の浜路には村の者とは誰にも遇わなかった。亭主や子供に遇わないので
「己りゃ今時分まで一人何して居ったと思うかい。ふむ、こう見えても一寸も酔って居らんぞ。己れはな。村の奴等が皆帰ったかどうか、ちゃーんと
六平の女房は後について歩いた。恭三の父は幾度も幾度も
「あ、酔うた/\、五勺の酒に……
一合飲んだら…………」
と唄うかと思うと、一合飲んだら…………」
「こら! 嬶さ! 六平の嚊あ! 貴様何しに来た?」といったり、「やあ、小釜の狐、赤狐! 欺されたら欺して見い。こら、貴様等に……馬鹿狐奴が、へむ。」などと出放題の事を言ったりした。
斯んな風で村の入口まで一緒に来たが、それからは六平の女房に先に帰れと言って承知しなかった。一緒に帰っては間男でもしたと思われるから
「帰ったぞ、おい旦那様のお帰りやぞ。」と上機嫌に裏口から入って来た。
「お帰り。」
と母も浅七も同時に言った。浅七は庭へ下りて洗足の水を汲んだ。
「さあ洗え。」
と父は上り段に腰掛け
「恭三! 貴様は何で己の足を洗わんか。」と父は呶鳴った。
恭三は意外に思ったが、何にも言わずに笑って居た。
「己れが帰ったのに足位洗わんちゅう法があるか、浅七がこうして洗うて居るのに、さあ片足ずつ洗え。」
恭三は直ぐ父の命令に服しかねた。けれども又黙って居る訳にも行かなかった。
父は酔った時に限って恭三に向って不平やら遠回しの教訓めいたことを言うのを恭三は能く知って居た。父もまた素顔で恭三に意見することの出来ぬ程恭三は年もとり教育もあることを知って居た。それで時々酔に托して婉曲な小言を言うことがあるのであった。それは多くの場合母に対する義理からであった。母は恭三の実母ではない。だからこの場合に於ても実子の浅七がこうして父の足を洗って居るのに、恭三が兄だからとて素知らん顔して居ると思われるが心外だという父の真情からそう言ったのかも知れぬ。父は恭三一人あるために今日までどれ程母に気兼をしたか知れない。恭三はよく之を知って居た。こうして酒に酔って居る時に
「私は弟に頼んだんです。浅七、おれの代理をつとめて呉れよ。」と彼は深く考えもせずに言った。
これを聞いて父は大に満足したという風であった。
「そうか/\、そんなら宜い。」
こう言つて妙な声で唄い出した。
足を洗ってからも尚お暫く父は上らなかった。
「さあ、宜い加減にして上ろうぞ。」と母はお膳を並べた。
皆膳に向った。けれども父は如何にしても箸を取ろうとはしなかった。
「恭三、お前は己の帰るのを飯も食わずに待って居ったのか。」
「え。」
「浅七もか?」
「あい、待って居ました。」
「そうか、よく待って居った。さあ己りゃ飯を食べるぞ、いゝか。」
「さあ一緒に食べんかいねえ。」と母は箸箱を手に取った。
父は「ふふーむ。」と笑って居てなか/\膳に向わなかった。囲炉裏に向って、
「さあ、早く食べんかいねえ。」と母は又促した。
「おりゃ食いとうない。お前等先に食え。」
「そんなことを言わんと、一緒に食べんかいね、此人あ、皆な腹減らかいて待って居ったのに。」
「お、そうか/\、有り難い。今食べるぞ。」と言ったが中々食べかけなかった。
「山高帽子が流行して、
禿げた頭が便利だね。オッペケペ……」
こう唄って「ハハゝゝ」と大声に笑った。禿げた頭が便利だね。オッペケペ……」
母はもどかしそうに、
「もう関わんと先に食べんかの」と恭三に向って言った。
「お父さん、少し食べないと、夜またお
父は一寸頭だけふり向けて恭三の顔をじろりと眺めた。充血した眼は大方ふさぎかゝって居た。てか/\と赤光に光った額には大きな皺が三四筋刻んだ様に深くなって居るのが恭三の眼にとまった。
「さあ早う、お汁が
母は
「うむ……。」と父は独り合点して又笑った。「今日は本当ね、面白い祭じゃった。」
「一寸祭の話でもして聞かせて下さい。」と恭三は飯を盛りながら言った。
「よし/\。」
父が祭の話をし始める時分には皆な飯を済まして居た。それでもまだ彼は食べかけなかった。そして種々と祭の話をした。同じことを何度も/\繰り返しては言った。
「七海があんな小さな
浅七は、それから/\と巧に話の糸口を引き出した。
若い人足共の喧嘩の事、人出の多かった事、二十台あまりの神輿が並んだ時の立派さ、夕日が照り返して、
父は此上もなく喜んだ。恭三達が自分の話を皆面白相に聞いて居るのを見て如何にも満足に思ったらしい。何時の間にか其処に横になって大きな
母は飯を食べなかった事を何度も
(明治四十三年)