少年と海

加能作次郎




        一

「おとと、また白山はくさんが見える!」
 外から帰って来た為吉ためきちは、縁側に網をすいている父親の姿を見るや否や、まだ立ち止らない中にこう言いました。この為吉の言葉に何の意味があるとも思わない父親は、
「そうかい。」と一寸ちょっと為吉の方を見ただけで、
「どこに遊んでおった?」と手を休めもせずに言いました。
「浜に、沖見ていたの。」と為吉は縁側に腰掛け、「白山が見えとる。」ともう一度言いました。
 父親は始めて手を休めて不思議そうに為吉の顔をしげしげとながめました。そして、
「白山が見えりゃなんだい?」と優しく言いました。
 父親はこのごろ為吉が妙にふさいでばかりいるのが合点がてんがいかないのでした。為吉はまだやっつでしたが、非常に頭のよい賢こい子で、何かにつけて大人おとなのようなかんがえを持っていました。神経質で始終何か考えてばかりいる子でした。
 為吉はうつむいて前垂まえだれひもをいじっていてしばらく答えませんでした。何か心の中で当てにして来たことが、ぴったり父の心に入らないで、話の気勢をくじかれたような気がしたのでした。そしてまだ自分の思うていたことを言わない先に、
「浜にだれかおったか?」と父親に尋ねられて、いよいよ話が別の方へそれて行くのをもどかしいように情ないように感じました。
「誰もおらなんだ。」
「お前一人何していたい?」
「沖見とったの。」
「えい、そうか。」と父親はに落ちぬ顔付をしましたが、深く尋ねようともしませんでした。
 為吉はなおもじもじしていましたが、ふと思いついたように、
暴風しけになってぬかしら?」と言いました。
「なぜ? なりそうな様子かい?」と父親は不思議そうに尋ねました。
「白山が見えてるから。」
「白山が見えたって、お前。」
「それでも、暴風しけになる時には、いつでも白山が見えるもの。」
 父親は為吉が変なことを言うなと思いましたが、別に気にもとめず、
「どうもないだろう。」とすわったままひさしの先から空を見上げて、「大丈夫やろう、あの通り北風雲あいぐもだから。」と言いました。
「それでも白山が見えるから、今に南東風くだりになるかも知れん。僕が沖を見ていたら、帆前船が一そう南東風くだりが吹いて来ると思うたか、一生懸命に福浦ふくうらへ入って行った。ありゃきっと暴風しけになると思うて逃げて行ったのに違いなかろう。」と為吉は自信があるように言いました。
 父親はにっこり笑いました。為吉の子供らしい無邪気の言葉が、父親にはおかしいほどでした。そして、
「お前、三里も向うが見えるかい?」とからかうように言いました。
 福浦というのは、為吉の村の向岸むこうぎしみさきはしにある港で、ここから海上三里のところにあるのでした。
 為吉の村は、能登国のとのくにの西海岸にある小さな漁村で、そして父親は貧しい漁夫りょうしでした。村の北の方は小高い山をい、南に海を受けているので、南東くだりの風が吹くと、いつも海が荒れるのでした。漁舟りょうぶねや、沖を航海している帆前船などが難船して、乗組の漁夫りょうしや水夫が溺死できししたりするのは、いつもその風の吹く時でした。そしてその風の吹く時には、きっと福浦岬から続いた海中に加賀かがの白山がくっきりとそびえ立っているのが見えるのでした。そのほかの時には大抵たいてい、空の色合いろあいや、雲の具合で見えないのが普通でした。
「白山が見えると、南東風くだりが吹く、海が荒れる、船が難破する、そして人が死ぬ。」
 こんな考が、村の人達の話や、自分の実見やらで、いつの間にか為吉の頭に出来あがっているのでした。つい一カ月ばかり前にも、村の漁舟が一艘沖から帰りがけに、その風にって難破し、五六人の乗組の漁夫りょうしがみんな溺死して、その死体がそれから四五日もたってから隣村となりむらの海岸に漂著ひょうちゃくしましたが、その日も矢張やはり朝から白山の姿が物すごく海の中に魔物のように立っていました。この新しい恐ろしい出来事が為吉の頭にきざみ込まれているのでした。彼は今日きょう学校から帰って、ぐ浜へ遊びに行ったのですが、ふといつもの福浦岬の端の水天髣髴ほうふつとしているところに、白山の恐ろしい姿が薄青く浮んでいるのを見とめたので、早速さっそく父親に注意しに来たのでした。恐らく父親はこれを聞いたら、それは大変だ、早く船を揚げねばならぬと言って、浜へ飛び出して来るだろうと思っていましたが、父親は、一向平気でいるので、為吉はひどく張合はりあいが抜けたのでした。で、暫く黙って、いえの前の野菜畑の上に眼を落していましたが、急に思い出したように、
「おとう、あの仏壇ぶつだん抽出ひきだしに、県庁からもろうた褒美ほうびがあるね?」と尋ねました。
「何? そんなものがあるかな。」と父親はいぶかしそうに尋ねました。
「あのう、ほら暴風しけうた船を助けた褒美だよ。」
 父親はまるで自分とは関係のない昔話でも聞かされるような気がしました。
「そんなものがあったかな。そりゃお前、十年も昔のことで、お前がまだ生れない前のことだったが。」
 遠い遠い記憶を呼び起すように、為吉の父はかがまっていた長い背を伸して、じっと向うの方を見つめました。
「どうして助けたのかね?」と為吉は尋ねました。
「あの時は、大変な暴風しけでな。」
矢張やっぱ南東風くだりだったね?」
「あ、大南東風おおくだりだった。」
「えい。」と為吉は熱心になって、「その時も矢張やっぱり白山が見えていただろうね?」
「そんなことは覚えていないけれど、恐ろしい大浪おおなみが立って、浜の石垣いしがきがみんなこわれてしもうた。」
「よう、そんな時に助けに行けたね、――死んだものがおったかね?」
「何でも十四五人乗りの大きな帆前船だったが、二人ばかりどうしても行方ゆくえが分らなかった。何しろお前、あのさきはしの暗礁へ乗り上げたので、――それで村中の漁夫りょうしがその大暴風おおしけの中に船をおろして助けに行ったのだが、あんな恐ろしいことはおらァ覚えてからなかった。」
 為吉は眼を光らして聞いていました。父は為吉の問に応じて、その難破船の乗組員を救助した時の壮烈な、そして物凄ものすごい光景を思い出し話して聞かせました。その時為吉の父親は、二十七八の血気盛りの勇敢な漁夫りょうしで、ある漁船の船頭をしていたのでした。そして県庁から、人の生命を助けた効によって、褒状ほうじょうを貰いました。その褒状は仏壇の抽出の奥の方にしまいんで置いて、もう忘れてしまっていたのでした。
 為吉は奥の仏間へ駆けて行って、その褒状を出して来ました。厚いとり子紙こがみに、墨色も濃く、難破船を救助したことは奇特の至りだという言葉ことばが書いてありました。そして終りに××県知事じゅ五位勲四等△△△△と、その下に大きな四角ないんを押してありました。
「それからのちには、もう、そんなことはなかったかね?」と為吉は尋ねました。
「漁舟なんかお前、一年に二艘や三艘打ちあげられるけれど、あんなことはなかったよ。」
 父親は、眼をつぶって、昔を思い出している様子でした。

        二

 それから間もなく為吉は再び浜へ下りてきました。入江には小さな漁舟が五六そうふなべりを接してつながれていました。かすかななみが船腹をぴたぴたと言わせていました。夏の暑い日の午後で、丁度昼寝時だったので、浜にはだれもおらず、死んだように静かでした。ただ日盛りの太陽が熱そうに岩の上に照りかえしているばかりでした。大分だいぶ離れた向うの方の入江に子供が五六人海水浴をしていましたが、為吉が、ここに来ていることに気がつきませんでした。
 為吉はしばらく岸に立って沖をながめていましたが、やがて一番左のはしの自分のうちの舟のともづなを引っ張って飛び乗りました。船が揺れた拍子に、波のあおりを食って、どの舟も一様にゆらゆらと小さな動揺を始めました。為吉はへさきへ行って、立ったまま沖を眺めました。
矢張やっぱ白山はくさんが見える!」
 こう彼は口の中でつぶやきました。青い海と青い空とのさかいに、同じような青の上に、白い薄いヴェールをかぶったような、おぼろげなかすんだ色に、大きな島のように浮んでいました。白い雲がいただきの方を包んでいました。
 為吉は心をおどらせました。白帆が二つみっつそのふもとと思われるところに見えました。じっと見つめていると、そこから大風おおかぜが吹き起り、山のような大浪おおなみが押し寄せて来そうな気がしました。あの白帆が、だんだんこちらへ風に追われて来て、真正面まともにこの村のみさきへ吹きつけられ、岩の上に打ちあげられて、そこに難破するのではなかろうかと為吉は自分で作った恐怖におそわれるのでした。漫々として浪一つ立たない静かな海も、どこかその底の底には、恐ろしい大怪物がひそんでいて、今にも荒れ出して、天地を震撼しんかんさせそうに思われました。耳をすますと遠い遠い海のかなたが、深い深い海の底に、轟々ごうごうと鳴り響いているような気がするのでした。
 ふと対岸の福浦岬の上にあたって、むくむくと灰色の古綿のような雲がのぼって来たのを見とめた時、為吉は、「南東風くだりだ!」と思わず叫びました。ぬらっとして、油をまいたようなたいらかな海面がくずれて、一体に動揺を始めたようでした。入江の出口から右の方に長く続いているさきはしが突き出ている、その先きの小島に波が白く砕け始めるようになって来ました。かもめが七八羽、いつの間にか飛んで来て、岬の端にきながら群れ飛んでいました。ずっと沖の方がくろずんで来ました。生温なまぬるい風が一陣さっと為吉の顔をなでました。
 一心に沖を見ていた為吉は、ふと心づいてあたりを見廻みまわしました。浜には矢張やはり誰もいませんでした。何の物音もなく、村全体は、深い昼寝の夢にふけっているようでした。とびが一羽ものものしげに低く浜の方にかけっていました。
 為吉はまた沖を眺めました。白山は益々ますますはっきりして来ました。さっきの白帆が大分だいぶ大きくなって、しまきが沖の方からだんだんこちらに近づいて来ました。あのしまきがこの海岸に達すると、もう本物の南東風くだりだ、もう、それも十分じっぷんがない、――白山、南東風くだり、難破船、溺死できし――、こういうかんがえがごっちゃになって為吉の頭の中を往来しました。誰か死ぬというようなおもいが、ひらめくように起りました。胸が何物かに引きしめられて、息苦しいような気さえして来ました。何を思う余裕もなく、為吉は刻一刻に荒れて来そうに思われる海の上を見つめていました。自分が今どんなところにいるかということも忘れてしまっていました。
 じっと耳をすましていると、どこかに助けを呼び求めている声が空耳に聞えて来るのでした。幾人いくたり幾人いくたりも、細い悲しげな声を合せて、呼んでいるように為吉の耳に聞えました。何だか聞き覚えのある声のようにも思われました。一カ月まえに難船して死んだ村の人達の声のような気もしました。為吉は身をすくめました。糸を引くような細い声は、絶えたかと思うと、また続きました。その声はどこか海の底か、空中かから来るような気がしました。為吉は一心になって耳をすましました。
 いつの間にか入江の口にも波が立って来ました。自分の乗っている船腹に打ちつけるしおのぴたぴたする音が高くなって、舟は絶えず、小さな動揺を続けました。
 突然、あだかもこれから攻めよせて来る海の大動乱を知らせる先触れのよう、一きわ、きわだった大きな波が、二三うねどこからともなく起って、入江の口へ押しよせました。それが次第に近寄って、むくむくと大蛇だいじゃが横にうように舟のへさきへ寄って来たかと思うと、舳をならべていた小舟は一斉いっせいに首をもたげて波の上に乗りました。一また一はなはだしい動揺と共にふなばたと舷とが強く打ち合って、更に横さまに大揺れに揺れました。
「わあッ!」という叫び声がしたかと思うと、もう為吉の姿は舳に見えませんでした。最後の波は岸に打ちあげて、白いあわを岸の岩の上に残して退きました。
 午後三時ごろの夏の熱い太陽が、一団の灰色雲の間からこの入江を一層いっそう暑苦しく照らしていました。鳶が悠々ゆうゆうと低い空をかけっていました。

 夕暮方に、この浜には盛んな藁火わらびの煙があがりました。それは為吉の死骸しがいをあたためるためでした。為吉の父も母も、その死骸に取りすがって泣いていました。
 その頃から空が曇り、浪が高く海岸に咆哮ほうこうして、本当の大暴風おおあらしとなって来ました。





底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年6月25日発行
   1974(昭和49)年9月10日29刷改版
   1989(平成元)年10月15日48刷
底本の親本:「赤い鳥」復刻版、日本近代文学館
   1968(昭和43)〜1969(昭和44)年
初出:「赤い鳥」
   1920(大正9)年8月号
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2001年8月27日公開
2005年9月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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