近時政論考

陸羯南




    序

 モンテスキューいわく、「予の校を去るや数巻の法書を手にせり、しかしてただその精神を尋繹じんえきせり」と。ボルドー議会の会長たるとき、いわく、「予は議場において身に適するの地位なきを知る、議題は予これを詳悉するをかたんぜず、しかも議事規則に至りてはごうも会得するところあらず、予は会長としてこれに注意せざるにあらざれども、いわゆる伎倆なるもののきわめて陋愚なるを悟り、しかしてなお揚々として座を占むるに堪えざるなり」と。すなわち職を辞してもっぱら政理の究察に従事せり。ああ、これ先生の一世の知識を開拓して余りありし所以ゆえんなるか。ヴォルテル称揚して言えらく、「人類の偉業を失うや久し、モ君出でてこれを回復しこれを恢張せり」と。陸羯南の人となり、真に先生に彷彿ほうふつたるものあり。峭深しょうしんの文をもって事情を穿うがち是非を明らかにするは韓非に似て、しかしてしかく惨※さんかく[#「激」の「さんずい」に代えて「石」、73-上-16]ならず。もし不幸にして萎爾いじするなくば、必ず東洋の巨人たらん。かつて『近時政論考』の著あり、余の意想を啓発すること鮮少ならざりき。多謝。
三宅雄二郎識
  明治二十四年五月
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    例言

一、本篇は昨明治二十三年八月九月の交において著者病中に起稿し、わが『日本』に漸次掲載せしところのものを一括せしに過ぎず。著者講究の粗漏よりして、あるいは諸論派の本旨を誤認せしものなきにあらざるべし。識者誨教を惜しむなかれば幸甚のみ。
一、本篇もとより日刊新聞の社説欄を埋むるために起草せしものなれば、したがって草し、したがって掲げ再閲の暇あるべきなし。別に一冊となして大方に示さんとの望みは著者はじめよりこれを有せず。しかれども読者諸彦のしばしば書を寄せて過当の奨励をなすもの往々これあるにより厚顔にもここにふたたび印刷職工を煩わせり。
一、著者かつて維新以来の政憲沿革を考え、「近世憲法論」と題して旧『東京電報』の紙上に掲げたるものあり。またその後「日本憲法論」と題し一昨年発布の新憲法に鄙見を加え、わが『日本』に掲げたるものあり。本篇は実にこれらの不足を補わんがために起草せしものなれば、付録となして巻末に添えたり。また昨年一月に「自由主義」と題して五、六日間掲載せしものも読者中あるいはこれを出版せよと恵告せし人あり。これまた『政論考』の補遺として巻中に挾入せり。
一、著者今日に至るまでその著述を出版せしことはなはだ少なし。往時かつて『主権原論』と言える反訳書をおおやけにし、一昨年に至りて『日本外交私議』を刊行し、昨年末に『予算論』と言える小冊子を出したるのみ。しかれどもこれみな反訳にあらざれば雑説のみ、較々著述の体を具えたるものは本篇をもってはじめてとなす。ただ新聞記者の業に在る者潜心校閲の暇なく、新聞紙を切り抜きたるままこれを植字に付したるは醜を掩うあたわざるゆえんなり。
著者誌
  明治二十四年五月
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    緒論

 冷は氷よりも冷なるはなく、熱は火よりも熱なるはなし、しかれども、氷にあらずして冷やかなるものあり、火にあらずして熱きものあり、いやしくも冷やかなるものみな氷なり、いやしくも熱きものみな火なりというはその誤れるや明白なり。湯にしてやや冷を帯ぶるものを見、これをして水なりといい、水にして少しく熱を含むものを見、これを指して湯なりという、ここにおいて庸俗の徒ははなはだ惑う。湯の微熱なるものと水の微冷なるものとはほとんど相近し、しかれども水はすなわち水たり、湯はすなわち湯たり、これを混同するはそのはじめをきわめざるがゆえのみ。政治上の論派を区別するもまたこれに似たるものあり、民権を主張するものにことごとく調和論派ならんや、王権を弁護するもの豈にことごとく専制論派ならんや、ただその論拠の如何いかんを顧みるのみ。仏国大革命の後に当たり、政論の分派雑然として生ず、当時かのシャトーブリヤン氏とロワイエ・コロラル氏とはほとんどその論派を同じくし、世評は往々これを誤れり、しかれども甲は保守派中の進歩論者にして乙は進歩派中の保守論者たり、何となればその論拠において異なるところあればなり。このゆえに政論の種類を知りその異同を弁ぜんと欲せば、まず政論の沿革変遷を通覧せざるべからず、いたずらにその名称を見てその実相を察せざるときは、錯乱雑駁なる今日の政界において誤謬に陥らざることほとんどまれなり。
 名実の相合せざるや久し、風節の衰うるまた一日にあらず、儒名にして墨行、僧名にして俗行、自由主義を唱道してしかしてひそかに権略を事とする者あり、進歩主義を仮装してしかして陰に功利を貪る者あり、理よろしく永久平和を唱うべき者また国防論を草するあり、理よろしく一切放任を望むべき者あえて官金を受くるあり、名目のたのむに足らざるやかくのごとし。この時に当たりて良民それいずくにか適従すべき、思うにその岐路に迷う者すこぶる多からん。店に羊頭を掛けてその肉を売らんというものあり、客入りてこれをもとむればこれに狗肉くにくを与う、知らざる者は見て羊肉となし、しかしてあやしまず、世間政論を業とする者これに類すること多し。
 帝国議会の選挙すでに終りを告ぐ、立憲政体は一、二月を出でずして実施せられん、世人の言うがごとく今日は実に明治時代の第二革新に属す、いかにしてこの第二革新は吾人に到着せしか、必ずそのよりて来たるところあるや疑いなし。天皇の叡聖にしてつとに智識を世界に求め盛んに経綸を行なわせたまうによるというといえども、維新以来朝野の間に生じたる政論の運動はあずかりて力なしというべからず。日本の文化はつねに上よりこれを誘導す、政論の運動、すなわち政治思想の発達は明治政府実にこれを誘起したり、しかれども維新以後の人民たる吾人は内外交通開発の恵みを受けて自ら近世の政道を発見し得たること少なしとせず、しかして今やよく立憲政体と相支吾しごすることを免る、これ吾人のいささか世界に対して栄とするに足るものなり。
 吾人はすでに若干の思想を有す、しかれども今日まではただこれを言論に発するを得るのみ、これを実行し得ることは今日以後にあり、今日以後はこれを実行し得るの途を有す、しかれどもはたしてこれを仕遂ぐるや否やはあらかじるべからず、かつただこれを言論の上に発せんか、利弊いまだ知るべからず、しかれどもこれを実行の途に置くときはいかなる効果を生ずべきか、一念ここに至らば吾人は生平いだくところの思想に再考を費やすべきものあらん。上智の人はしばらく措き、中人以下に至りては必ず先入を主となすの思想を有す、しかれどももし自他の思想を比較し今昔の変遷を考量するときは、あるいはもってようやく己れの誤謬を知るを得べく、あるいはもっていよいよ己れの真正を確かむるを得べし、しからば吾輩のここに『近時政論考』を草する豈に無用の業ならんや。
 世に政党と称するものあり、今回当選の幸を得て帝国議会の議員となる人々は往々この党籍に在り、かかる人々はみな政事上に定見ありてもって党籍に入るものならん、しかしてその定見が必ず党議と相合するものなるべし、帝国議会の一員となれる人は豈に羊頭を見て狗肉を買うものあらんや。しかりといえども水の微冷なるものを見て湯と誤り湯の微熱なるものを見て水と謬ることはすなわちあるいはこれなしと言うべからず。いわんや、世に頑愚固陋の徒あり、衆民多数の康福を主張するを指して叛逆不臣の説となす、世に狡獪姦佞かんねいの輩あり、国家権威の鞏固きょうこを唱道するをいて専権圧制の論となす、大識見を備うる者にあらざるよりは、それよく惑わすところとならざらんや。吾輩はあえて議員諸氏に向かいてこの編を草するにあらず、世の良民にして選挙権を有し読書講究の暇なき者のためいささか参考の資に供せんと欲するのみ。その選出議員が実地の問題に遭いて生平の持説に背くことなきか、選挙人たる者、沿革変遷の上より今日世に存する政論の種類を考え、もって選出議員の言動と比較せよ。
 吾輩は昨年のはじめ旧『東京電報』紙上において「日本近世の憲法」を草し、もっていささか維新以来政府の立法的変遷を略叙せり、今や議会まさに開け民間人士の実地に運動せんとするに際し、この編を草してもって民間の政論的変遷を略叙す、また時機に応じて前説の不足を補わんと欲するの意なり。
 天下もとより同名にして異質なるものあり、その原因を殊にしてしかしてその結果を同じくするものまた少なしと言うべからず。昔討幕攘夷の論盛んに起こるや、全国の志士群起してこれに応ず、これに反対して皇武合体を唱え開港貿易を説く者、少数といえどもなお諸方に割拠してもって一の論派たることを得たり。当時この二論派は実に日本の政界を支配したるものにして、百世の下、史乗にその跡を留む。しかれども今日より仔細にその事実を観察するときは、甲種の論派に入るもの豈に必ずしも勤王愛国の士のみならんや、あるいはふたたび元亀天正の機会を造り、大は覇業を企て小は封侯を思うものなきにあらず。乙論派を代表する者といえどもまた然り、世界の大勢に通じ、日本の前途を考え、もって世論の激流に逆らうものは傑人たるを疑うべからず、しかれども、皇武合体を唱うる者あるいは改革に反対する守旧の思想に出でたるあらん、開港貿易を説く者あるいは戦争を厭忌する偸安とうあんの思想に出でたるあらん。吾輩はこの点において古今政界の常態を知る、その心情を察せずしていたずらにその言論を取り、もって政界の論派を別つはすこぶる迂に似たり、しかりといえども当時に若干の同意者を得て、世道人心に感化を及ぼしたる説は、その原因のいかんを問わず、吾輩はこれを一の論派として算列せざるを得ず、けだしまた人をもって言を廃せざるの志なり。
 政治思想を言論に現わしてもって人心を感化するものは政論派の事なり、政治思想を行為に現わしてもって世道を経綸するは政党派の事なり。日本は今日まで政論派ありといえどもいまだ真の政党派はあらず、その名づけて政党と称するはみな仮称なり。吾輩はこの標準によりて本編を起草せり、ゆえに当時に在りて自ら政論家をもって居らざる人といえども、その説の多少政論に影響を及ぼしたる者は、あえて収めてもって一政論派の代表者となす。家塾を開きて業を授くる者あるいは必ずしも政論を教ゆるにあらず。しかれどもその門人にして政論に従事するあれば、これを採りて一の政論派となす、著書を出版して世に公売する者あるいは必ずしも政論を弘むるにあらず、しかれどもこの著書にして政治思想に感化を及ぼしたるあれば、これを採りて一の政論派となす、講談会を開き新聞紙を発する者必ずしも政論をもっぱらとするにあらず、しかれども世の政論に影響を及ぼしたるの跡あるものはこれを採りて一の政論派となす。しかしてかの自ら政党と称し政社と号するもののごときはもとより一の政論派たらざるべからず、思うにその目的は政論を弘めて人心を感化するよりも、むしろ一個の勢力を構造して諸種の欲望を達するにあるべし、しかれども吾輩はその裏面を見ることをあえてせず、ただ生平その機関たる新聞雑誌に言うところの政議を採りてこれを一の論派と見做みなし去らんと欲するのみ。
 西人の説を聞き、西人の書を読み、ここより一の片句をぬすみ、かしこより一の断編をけずり、もってその政論を組成せんと試む、ここにおいて首尾の貫通を失い左右の支吾をきたし、とうてい一の論派たる価値あらず、かくのごときもの往々その例を見る。しかりといえどもこれ近時の政界に免るべからず、吾輩はほぼその事情を知れり、維新以来わずかに二十有三年、文化の進行は大長歩をもってしたりというといえども、深奥の学理は豈に容易に人心に入るべけんや、かつ当初十年はまさに破壊の時代にあり、旧学理すでに廃して新学理いまだ興らず、この間において文学社会も世潮渦流の中に彷徨す。幕府の時代にありて早くすでに蘭学を修め、一転して英に入り仏に入る者は、実に新思想の播布にあずかりたるや多し、しかれども充分に政理を講明して吾人のために燈光を立てたる者は寥々たり、けだし中興以来の政府は碩学鴻儒せきがくこうじゅを羅し去りてこれを官海に収め、かれらの新政理を民間に弘むることを忌む。これまた一の原因たらずんばあらず。しからば政論派の不完全なるものあるまた怪しむに足らず、不完全の論派といえども人心を感化するものは吾輩これを一の論派としてかぞえざるを得ず、時としては主権在民論者も勤王説を加味し、時としてはキリスト崇拝論者も国権説を主張す、しかして世人これを怪しまず往々その勢力を感受す、これわが国において一の論派たるに足るものなり。

    第一期の政論

     第一 国権論および富国論

 大革新大破壊の前後には国中の士論ただ積極と消極の二派に分裂するに過ぎず。いわく攘夷論、いわく開港論、二つのものは外政上における常時の論派なり。いわく王政復古、いわく皇武合体、二つのものは内政上における常時の論派なり。封建時代の当時にありて、国内諸方関険相へだち、交通の便否もとより今日と日を同じくして語るべからず、したがって天下の人心はおのおのその地方に固着し、国内いまだ統一するに至らず、しかして士論の帰するところただ両派に過ぎざるは何ぞや。思想単純の時代というといえども、一は安危の繋がるところ小異を顧みるにいとまあらざるがゆえにあらずや。すでにして攘夷論は理論上においてのみならず実行上においてもまた大いに排斥せられ、世はついに開港貿易説の支配するところとなれり。かくのごとく積極論派は外政上において失敗したりといえども、内政上には大捷たいしょうを博し、王政再興論はついに全国の輿論よろんとなるに至れり。別言すれば外政上に大捷を得たる消極論派も内政についてはまた大敗を取りたりというべし。維新の際に至り、わが国の政論は政体とともに一変し、ほとんどまた旧時の面目にあらず、あたかも維新前の二大論派がおのおのその一半を譲りて相調和したるの姿あり。この調和の後、暫時にして隠然また二政論を現出す。これを維新後政論派の第一期となすべし。
 外人は讐敵なり、よろしく親交すべからず。この思想は当時すでに社会の表面より駆逐せられたり。皇室は虚位なるべし、これに実権を付すべからず、この思想もまたすでに輿論の排除するところとなれり。ここにおいて開港論派と王権論派とは互いに手を握りて笑談す。これ旧時とまったく面目を異にせる大変改なりき。これよりその後、有識者の思想は開港貿易もって広く万国と交際し、王政復興もってことごとく海内を統一すというに帰す。政事上の思想この大体に一致したりといえども、将来の希望に至りてまた二派に分裂するは自然の状勢とや言うべき。当時日本人民は新たに鎖国時代より出でて眼前に世界万国といえるものを見、そのはなはだ富強なるに驚きてほとんどその措くところを失いたり。識者間の考量もまたもっぱら国交上にありて、いかにして彼らと富強をひとしくすべきかの問題は、士君子をして解釈に苦しましめたるや疑いあらず。やや欧米の事情に通ずる人々はおのおのその知るところを取り、あるいは近時露土戦争の例を引き公法上彼のその国権を重んずるゆえんを説き、あるいは鉄道、電信等の事を挙げ経済上彼のその国富を増す理由を説き、もって当務者および有志者に報告したり。
 ここにおいて一方には国権論派ともいうべきもの起こり、中央集権の必要を説き、陸海兵制の改正を説き、行政諸部の整理を説き、主として法制上の進歩を唱道せり。他の一方には国富論派ともいうべきものありて、正反対とまでにはあらざれども、士族の世禄を排斥し、工農の権利を主張し、君臣の関係をばくし四民の平等を唱え、主として経済上の進歩を急務としたるがごとし。当時この二論派を代表したるははたして何人なんぴとなりしか。吾輩は今日より回想するに福沢諭吉氏は一方の巨擘きょはくにして国富論派を代表したるや疑うべからず。同氏はもと政治論者にあらず、おもに社交上に向かって改革を主張したり。しかれども社交的改革の必要よりして自然政治上に論及するは免るべからず。有名なるその著書『西洋事情』のごときは間接に新政論を惹起したるや明らかなり。吾輩はこの学者の政論を吟味するに際し、まずその社交上の論旨をここに想起し、氏が当時わが国において新論派中もっとも急激なる論者たることを示さん。
 反動的論派はたいていその正を得ること難し、福沢氏の説実に旧時の思想に反動して起こりたるもの多きに似たり、ゆえに公私の際を論ずれば私利はすなわち公益の本なりと言い、もって利己主義を唱道す。上下官民の際については双方の約束に過ぎず君のために死を致すがごときを排斥し、もって自由主義を唱道す。ことに男尊女卑の弊害を論じて故森有礼氏とともに男女同権論を唱えたるは当時の社会をしてすこぶる驚愕せしめたり、これらの点については福沢氏一派の論者実にもっとも急激なる革新論者たり。しかれども政治上においてはかの国権論派に比すればかえって保守主義に傾きたるもまた奇ならずや。この論派の政治主義は英国の進歩党と米国の共和党と調合をしたるもののごとし。彼社交上において階級儀式の類を排斥すれども、旧時の遺物たる封建制にははなはだしき反対をなさざりき、むしろ中央集権の説に隠然反対して早くも地方自治の利を信認せり。世人に向かいて利己主義を教えたるもなお当時の諸藩主に国家の公益を忠告し、世人に向かいて自由主義を教えたるもなお貴族の特権を是認したり。この論派はもっぱら国富の増加を主眼としたるがゆえに、いやしくも経済上に妨害あらずと信ずるときは、あえて権義道理の消長を問わざりき、この点においては浅近なる実利的論派にしてごうも抽象的原則または高尚の理想を有するあらず、要するにこの論派は社交上の急進家にして政治上の保守家というべきのみ。
「空理を後にして実用を先にす」とは国富論派の神髄なり。この論派は英国・米国の学風より生出したりといえども、あえて学者の理論を標準として政治の事を説くものにあらず、彼実に日本の現状に応じて説を立て、政法上道理に合うと否とを問わず、事情の許す限りはこれを利用して実益を生ぜしむることをその標準となしたるがごとし。ゆえに自由主義を取るとはいえ、必ずしも政府の干渉を攻撃せず、必ずしも藩閥の専制を排斥せず、道理よりはむしろ利益を重んずることこの論派の特色なりき。かの「実力は道理を造る」と言うビスマルク主義はむしろこの論派の是認するところに係る。近くこれを評すれば政論社会の通人ともいうべき論派なり。当時世の才子達人をもって居るものはみな競いてこの宗派の信徒となりしがごとし。
 国権論派とも称すべき他の一派は欧州大陸の学風をけて発生したり。この論派はあえて国富の必要を知らざるにあらざれども、その淵源はおもに近世の法理学にあるがゆえに、自ら権義の理を重んずるの傾きあり。吾輩は加藤弘之氏、箕作麟祥みつくりりんしょう氏、津田真道氏をもって国権論法の巨擘となすに躊躇せず。この論派はその細目において一致を欠きたるや疑いなしといえども、近世の政治思想、すなわち国家といえるものの理想を抱き、主権単一の原則を奉じ、もって封建制の弊を認めたる点には異同なけん。彼らはもとより自由平等の思想には乏しからず、しかれども国民として外邦に対交せんにはまず国権の組織を整理するの必要を説き、つぎに人民と政府との権義を講じて法政の改良を促したり。加藤氏の『国体新論』箕作氏の『万国政体論』のごとき、津田氏『拷問論』のごとき、当時の日本人をして法政上の新思想を起こさしめたるや少なからず、かの『国法汎論』『仏蘭西法律書』の類は『西洋事情』のごとく俗間に行なわれざるも識者の間には一時大いに繙読はんどくせられたり。
 この派の論者は説すこぶる高尚に傾き、かつ当時いずれも政府の顧問となり、著述講談に従事すること少なきがゆえに、その論派の強勢なる割合には民間の人心を感化したることかえって少なし、しかれども政府の当局者をして賛成せしめ、政治上および立法上に影響を及ぼしたることは国富論派の比にあらず。この論派は社交上において説を立てたることはなはだ少なしといえども、加藤氏はかの男女同権論に向かいては明らかに反対を表したり。政事上におけるこの論派の大意を見るにもとより改革論派たるに相違なきも、またあえて急激の改革説にはあらず、この論派は一方の論派のごとき反動的に出でずしてもっぱらその信ずるところを主張するものなりき、ゆえにその論旨はつねに温和着実の点に止まれるもののごとし。今、加藤氏が福沢氏に答えたる論文に付きその一部を左に挙げん。
 先生の論はリベラールなり、リベラールはけっして不可なるにはあらず、欧州各国近世道の上進を裨補ひほするもっともリベラールの功に在り、されどもリベラールの論はなはだしきに過ぐる時は国権はついに衰弱せざるを得ざるに至るべく、国権ついに衰弱すれば国家またけっして立つべからず、フランツといえる人の国家理論に「リベラール党とコムニスト党との論はまったく相表裏すれどもともにあやまれり、そのゆえはリベラール党は務めて国権を減縮し務めて民権を拡張せんと欲す、ゆえに教育の事、電信の事、郵便の事、その他すべて公衆に係れる事をも悉皆しっかい人民に委托してけっして政府をしてこれらの事に関せしめざるを良善となす、しかるにコムニスト党は務めて国権を拡張し務めて民権を減縮して農工商の諸業をも悉皆国家の自らつかさどるを良好となす、けだし二党おのおの国権と民権の相分かるるゆえんを知らざればなり云々」と言えり、内養〔政府の仕事〕を軽しとして外刺〔民間の仕事〕を重しとなすのはなはだしきに至るときはついにこのリベラール党の論に帰する恐れなきあたわず。
 国権論派の穏和進歩主義たることは以上の一説をもって概見するに足る。しかれどもこの論派は現在の事弊につきて無感覚なるにあらず、国富論派が日本人民の旧思想ただ虚礼虚儀に拘泥し卑屈服従偏倚して、個人的生存の気象なきを憂とし、もっぱらこの旧弊を破除せんと欲したるがごとく、国権論派は政権の分裂して人心散乱の弊を見、法制の粗濫にして官吏放恣の害を察し、泰西流の政理をもってこれを匡済きょうさいすることを目的としたるがごとし。およそ政論派の起こるは偶然に起こるものにあらず、必ず時弊に応じて起こるを常とす、当時なお封建の余勢を承け三百年太平の後に当たり、人心散乱公同の思想なく、民風卑屈自立の気象なし、全国はただ依頼心と畏縮心とをもって充満せられたり。国富派はおもにこの依頼心を排斥せんと欲し、猶予なく利己主義を奨励す、国権派はおもにこの畏縮心を打破せんと欲し、あえて愛国心の必要を説きたり、愛国心公共心を説きたるは当時人心のいまだ一致せざるを匡済するに出でたるならんか、かつこの論派は主として政治法制の改良を唱え、いまだ立憲政を主張するに至らざるも、秘密政治・放恣政治の害を論じたるは明白なりき。今この二政論派を汎評するときは政法上において国権派は急進家にして国富派はむしろ漸進家たるに似たり、両派ともに進歩主義なりといえどもいまだ立憲政体の主張者たるには至らざりき。

     第二 民選議院論

 戊辰ぼしんの大改革はある点においては新思想と旧思想の調和に起これり。ある点においては主戦論と主和論との譲歩に成れり。されば維新以後の功臣政府にこの二分子の存在すること自然の結果なりというべし。学者間において政論の二派に分かるる以上は、その反照として政事家間にもまた隠然両派の党を生ずるに至らん、何となれば当時の政事家はとくに知識の供給を学者輩に仰ぎたればなり。明治七年に至りて一派の急進論者は突然政事家の社会より出で来たれり。これより先、時の廟議はすでに国権派と内治派との二大分裂をはらみ、しばしば政事家間に衝突を起こしたりという。明治四年廃藩置県の業成りて後、内治派の巨擘たる岩倉公は欧米回覧の企てをなし、木戸、大久保、伊藤の諸官を率いて本国を去れり、ここにおいて廟堂は西郷大将をはじめ副島、江藤、後藤、板垣の諸参議を残し、ほとんど国権派の世となれり。勝、大木、大隈の諸政事家はこの間もっぱらその主任の政に鞅掌おうしょうし、廟堂の大議は多くかの人々をもって決定せしにあらざるか。ついに征韓論は諸公の間に勢力を占め、六年の中頃に至りてますますその歩を進めたるもののごとし、同九月に至りて岩倉大使の一行は欧米より帰り、みなこの議を聞きて固くその不可を論じ、ついにいわゆる内閣分離を見るに至る、この分離は翌年に及んでかの有名なる民選議院論に変じ、立憲政体催促の嚆矢こうしとなれり。
 一種特別の事情より突出したるこの急進論派はかの二政論派といかなる関係あるか、吾輩は、前に述べ置きたるごとく、今その裏面を穿鑿せんさくすることをあえてせず、表面上よりこれを見れば当時の学者間に現われたる国権論派と相照応するに似たり。当時にあり法制上の改革を主張したるものは実にこの論派なり。政体上の新説を立てたる者はこの論派なり。とくに政府部内にありて時の政事家に新思想を注入したるものはみなこの論派なり。されば民選議院論はかの国権論派より産出したりというも豈に不可ならんや。それ真理を説きて人に示すは学者の事なり。その説を聞きてこれを行なうはすなわち政事家なり。学者なるものは必ずしもその説の実行を促さず、ただ政事家は機に応じてこれが行否を決するのみ。吾輩は当時の民選議院論をもって学者の論派となすにあらず、しかれども権力を失いたる政事家がその持説として唱道し、大いに世道人心を動かすに至りてはすなわち一の論派と見做すにおいて妨げあらじ。この急進論派は他年の民権説に端啓を与えたるや疑うべからず。しかして当時にありては第一にその師友たりし国権論派の反対を受けただ一時の空論と見做されて止みぬ。これ豈に気運のいまだ熟せざるがゆえにあらずや。しかれども爾後一年を経ずして士論はこの急進論を奉じ、いわゆる民権論は政府に反対して勃興するに至る。
 民選議院論派は第一期の政論派の後殿こうでんとして興り、第二期の政論派たる過激論派の先駆をなせり、吾輩はこの両期の続目においてかの政論史上記臆すべき一の出来事を略叙せざるべからず。当時新たに帰朝したる岩倉大使の一行は一の政策を抱き来たりしや疑いなきがごとし。思うにかの国権論派は民権論を主張するには至らざるもすこぶる自由主義を是認し、専制政治に向かって遠慮なく非難を加えたるに似たり、国富論派といえどもこの点においてはほとんど同一の論旨ありき。加藤氏が「軽国政府」と言える題にて述べたる短文にも「人民をしてあえて国事を聴く能わざらしめもってほしいままに人民を制圧せんと欲するところの政府は余これを目して国家を軽んずるの政府と言う云々」と明言したり。神田孝平氏の財政論にも「人民は給料と費用を出して政府を雇い政をなさしむるものなり」などの語ありてすこぶる自由的論旨を猶予なく発揮したり。しかして政府は毫もこれらの論述に嫌忌を挾まず、当時は実に言論自由の世にてありき。
 国権派の政治家、すなわち後の民選議院建白者は政策において粗豪の嫌いなきにあらざれども、その気質は※(「にんべん+周」、第4水準2-1-59)てきとう正大を旨とし、学者の講談、志士の横議には毫も危懼を抱かず、むしろ喜んで聴くの風ありき。とくに旧幕吏の圧制にりまた欧米各国が言論の自由を貴ぶことを聞き深くこの点について自ら戒めたるがごとし。征韓の議は端なくこの政事家らをしてその位を去らしめ、廟堂に残りたる他の一派はここに至りてはじめて民間に強大の反対党を有したり。しかれどもこの分離がむしろ岩倉右府一派の希望に合したることは爾後の政策を見て推知するに足る。彼らは欧米回覧において各国の政府みな同主義の政事家をもって組織することを実見し、および政府の威力を保つために幾分か言論の自由を抑制することを発見したるや疑いなし。この分離以後は政府に奉仕する学者また旧時のごとく政論を公にすることなく、これら学者の機関たる『明六雑誌』の類も暫時にして廃刊し、言論の自由はこれよりようやく退縮の期に臨めり。

    第二期の政論

     第一 民権論派

 道理を証明して人心を教化するところの学者はすでに政論壇上を退きたり。政論の事ついに慷慨志士の社会に移りたるはこれを第二期政論派の特色なりと言うべきなり。当時世に有志の徒なるものありて、実に維新前慷慨志士〔すなわち当時の当路者〕の気風をぐ。この徒あるいは洋学の初歩に通じたるあり、あるいは単に和漢の教育を受けたるあり、もとより一家の学者たるものなしといえども、またことごとく無謀の人のみにはあらず。彼らは慷慨憂国の士をもって自ら任じ国事について相当の意見を抱きたるはもちろん、往々その意見を政府に建白して志士たるの責を尽くさんと試みたる一にして足らず、しかれども言論出版をもって意見を公にするを得たるは実に当時印刷事業進歩のたまものなり。彼らはしばしば国是確定、紀綱緊張の説を主張し、または朝鮮征討、国権拡充を唱道したり。しかれども権義上の新説をもって政府に反対するは実に当時民選議院論建白の出でたるに始まる。
 吾輩はこの期の政論派を汎称して民権論派と言う、何となればその論旨の異同如何にかかわらず、みな民権自由の説をもって時の政府を攻撃するものなればなり。しかれどもこの論派にありて当時すでに二種の分子を孕み、いまだ相軋轢あつれきするに至らざるも、隠然その傾向を異にしたるは争うべからざるがごとし。民権論派はもと民選議院論に促されて起こりたるの姿あれども、これただその民権説に促されたるのみ、いわゆる寡人政府の専横というに同意したるのみ、民選議院設立を急務とするの点に至りてはこの論派あえて熱心にこれを唱道せざるがごとし。当時の論旨を察するに、この論派は民権拡張を主張すというよりは、むしろ現政府を攻撃すというにあり。この過激なる論派を代表せし人々は今日これを詳悉しょうしつすることはなはだ難し。ただ吾輩の記臆するところを挙ぐれば、一方には小松原英太郎、関新吾、加藤九郎などの諸氏あり。他方には末広重恭、杉田定一、栗原亮一らの諸氏ありて政論のために禍をまねきたること一、二回に止まらず。これより先政府は民間政論の漸くかまびすしきを見、明治八年半ばごろ厳重なる法律を制定し、もって志士の横議を抑制したり。しかれどもこの法律はかえりてますます政論派を激昂せしめ、天下の人をしていよいよ政府の圧制を感知せしめたるの状なきにあらず。これよりその後、民権論なるものは青年志士の唱えて栄とするところとなるに至れり。
 当時日刊新聞紙の業ようやく進歩し、いわゆる新聞記者なるものはかの激論的雑誌記者とともに政論を唱道したり。『横浜毎日新聞』、『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』、『読売新聞』の類はもっともいちじるしきものなりき。しかれども新聞紙はいまだ政論の機関となるに至らずして、おもに事実の報道に止まり、したがってその政論もまたやや穏和婉曲にてありき。民権論派の主義の大体を考うるに今日の民権説と少しくその趣を異にし、その立言はすべて駁撃ばくげき的よりはむしろ弾劾的に近く、道理を講述すというよりはむしろ事実を指摘するにあり。しかれどもその天下の人心を動かしたるにおいては吾輩しばらくこれを一の論派として算えん。彼らの言論に以為おもえらく、「政府なるものは人民を保護するにあり、もし保護せずして反りてこれを虐遇するはこれを圧制政府という。圧制政府はいつにおいてもどこにおいても人民の顛覆するところとならざるべからず。欧米各国において共和政治の起こりたるはみな圧制政府を嫌うがためなり、すなわち圧制政府の倒るるは自然の数というべし」、しかして彼らはまた大呼して「民権は血をもってこれを買うべし」といえり。
 これに因りてこれを見れば、彼らは政治の理論を説くにあらずして政変の事実を説くものなりき。事実の上よりしてその説を立てもって時の政治を排斥したるに過ぎず、すなわち彼らはほとんど理論上の根拠を付せざるに似たり。千五百年代英国において民権説の勃興するや、時の学者らはおもに宗教の上よりその論拠を取り来たり、暴虐の君主は神の意に背く、ゆえに神に代わりてこれを顛覆せざるべからずといえり。学理のいまだ進歩せざる当時にありても、ややその根拠を確かめたるもののごとし。当時わが国の民権論派はほとんど共和政治を主張するまでに至りたれども、ただ事実の上に起点を置き、いまだ一定の原則を明らかにしたることあらず、日本の近世史上にはその跡を止むるの価値あるも、政治の理論としてははなはだ微弱なるものと言わざるべからず。しかるにこれに続きてやや充備したる民権論派の萌芽は生じたり。この論派は最新洋学者の代表するところにして慶応義塾等において英米の政治書を読みたる者は多くこの論派に帰す。ここにおいて民権論派は隠然三種に分かるるの姿を現わせり、しかして当時有名の新聞記者福地源一郎氏は隠然政府弁護者となりて暗に民権論の反対に立ち、自ら漸新主義の政論者をもって居りたるもののごとし。
 功臣分離の時よりもって西南戦争の年に至るまで、この間の政論をば吾輩仮りに民権論派と名づけたり。この論派中にはおおよそ四種の分子ありといえども、その三種は時の政府に反対して民権を主張したるはすなわち同一轍なりしというべし。他の一種といえどもあえて明らかに政府の弁護者と称せられたるにあらず、ただ民権説を主張するにおいてやや国情を※(「酉+斗」、第4水準2-90-33)しんしゃくしたるに過ぎず、当時にありてはこの論派中各種の間においていまだいちじるしき論争を開きたることあらず。このゆえに吾輩はこれを一般に民権論派と称してその各種の異同を吟味せん、何をか民権論派の四種と言う。
 第一種と第二種とは吾輩の前段において過激論派と称したるもの、すなわち民選議院建白を聞きてただちに起こりたるところのものなり。この第一種は幽欝民権論ともいうべきものにして、多くは在野征韓論者の変形にしてその論素は実に和漢歴史の智識より生ず、ゆえにその民権を唱えたるの危激なりしにかかわらず、民権拡張の道理にははなはだしき熱心を抱かず、目的はただ政府の二、三大臣のみにて政事を執り、在野の賢良とともにせざることを不満としてこれを痛く非難するに過ぎざるがごとし。されば西南戦争の鎮定とともに彼らはその旗幟きしを撤して、また前日のごとく危言激論をさざるに至れり。第二種はこれに反して快活民権論ともいうべく、浅薄ながらも西洋の学説を聞き、日本将来の政体は現時のごとく君主または二、三権臣の専制に任すべからず、文明国の風に倣い人民の権利を重んじ、人民の公議輿論をもって政をなさざるべからずと信じたるもののごとし。これ実に日本における自由主義の萌芽にして政論史上記臆すべき価あり。第三種の民権論者はこの期に在りて最新の政論者なり、吾輩これを翻訳民権論と名づくべし、彼らはみな昨日まで窓下に読書せし壮年もしくは新たに西洋より帰りたる人々なり。第二種の論者よりは幾分か多くの洋籍をひもとき、英米学者の代議政体論、議院政治論、憲法論、立法論などは彼らよりも一層精しく講究せり。吾輩はこの論派の代表者を挙ぐるあたわざれども、二、三年の後、改進党なるものを組織したる人はたいていこの派に属せしがごとし、彼らは戦争よりも貿易の重んずべきを論じ、いずれの国も欧米文明の風潮に抗すべからざるを論じ、国政は君民共治の至当なるを論じ、立法・司法・行政の三権を鼎立せしむべきを論じ、要するにもっぱら英国の政体をただちに日本に模造するの説を抱きたるがごとし。この翻訳的論派はかの過激的民権論よりも一層穏当なるがごとく見え、隠然多くの賛成者を朝野の間に博したり、何となればその全体は尊王主義と民権主義との抱合たる姿を有すればなり。当時廟堂在位の諸公はいかなる意見を政論上に抱きたるや。思うにまた民権説を蔑視し厭忌し危懼したるにはあらざるべし。しかれども過激なる民権論をもって国を禍するものと見做したるや明白なり、吾輩は当時の『東京日日新聞』主筆たる福地氏をもってこの代表者とす、これを第四種すなわち折衷民権論となす、同氏の草したる民権論にいわく、
 民権は人民のためにも全国のためにも最上無比の結構なる権理なれども、その権理の中には幾分か叛逆の精神を含みたるものなるにつき、もしその実践を誤れば名状しあたわざるところの争乱を醸すやあたかも阿片モルヒネに利用害用あるがごとし。
と。しかして当時民権を唱うる人々の内心を分析してその私党心あるを説き、またこの人々の身分を評論して無産の士族なることを説き、ついに民権論の国乱を醸すに至るべきを揚言せり。しかれどもこの第四種の論派はあえて民権の道理に反対したるにあらず。ただ日本の国状を顧慮して民権を漸次に拡充すべきところを論じ、地方官会議の設置をもって民権拡充の一端となし、しきりに漸進の可なるを主張せり。吾輩はこの論者をもって当時政府の弁護者となすに躊躇せざるなり。しかれども当時の政府自身が民権の反対者にあらずして、むしろその味方たる実なきにあらず、ただその急漸の差あるに過ぎざるのみ。これが代表たる折衷民権論派はその前より他の論派とともに民権論を唱えたることはすこぶる多く、したがって世人をして民権なるものの本性を知らしめたることはかつて他の論派に譲らざりき。これ吾輩のここに民権論派の一種として算え来たれるゆえんなりとす。
 氷にあらずしてなお冷やかなるものあり、火にあらずしてなお熱なるものあり、今火ならざるをもって熱にあらず、氷にあらざるをもって冷にあらずと言う、これ粗浅の見たるを免れず、吾輩は最初においてこの事を一言せしはこれがためなり。血をもって民権を買うべしとの論派と、民権の中に幾分か叛逆の精神ありとの論派と、その間の距離幾許いくばくぞや。しかれども立憲政体を立てて民権を拡充すとの点においてはいずれも同一なり。民権を唱道するにおいては同一なれども、かの普通選挙一局議院を主張したる論派と、英国風の制限選挙二局議院を主張したる論派とははなはだ径庭あり。吾輩が当時の論派を一括して民権論派となし、むしろこの時代を称して民権論の時代となすはこれがためのみ、しかしてこの時代は西南戦争によりてとみに一変したるを見る。

    第三期の政論

     第一 国会期成同盟

 兵馬の争いは言論の争いを停止するの力あり、鹿児島私学校党の一揆は、ただに当時の政府を驚駭せしめたるのみならず、世の言論をもって政府に反対する諸人をも驚かし、一時文墨の業を中止して投筆の志を興さしめたり。吾輩はこの期節をもって近時政論史の一大段落となす。しかして第三期の政論を紀するに先だち、ここに当時以後の政論に関し一言し置くべきことあり。何ぞや他にあらず、政事に係る新思想はこの変乱によりてほとんど全国に延蔓せしことこれなり。当時に至るまで政論を唱えたるものは主として東京にあり、かつ民間にありて政論に従事せしものはおもに旧幕臣または維新以来江戸に居留せし人々に係る、地方土着の士人に至りてはなお脾肉ひにくせたるを慨嘆し、父祖伝来の戎器じゅうきを貯蔵して時機をちたる、これ当時一般の状態にあらずや。試みに全国を大別してこれを観察せんに、新しき政事思想を抱きて国事を吟味するものは文明の中心たる東京をもって本となし、これに次ぎたるは第二の都府とも称すべき大阪を然りとす。大阪は商業の地なり、何故に政事思想はこの地に発達せしか、いわく土着の人民然るにあらず、土佐人の出張所あるをもってなり。
 さきに民選議院論を唱えたる政事家の一人板垣退助氏は時の政府に不平を抱きてその郷里土佐にあり、薩摩の西郷とともに民間の勢力をもちたるがごとし。当地その同論者たる江藤氏は佐賀の乱にたおれ、後藤氏は政界を去りて実業に当たり、副島氏は東京にありて高談雅話に閑日月を送る。ここにおいて政府の反対者たる政事家はただ九州と四国とに蟠踞ばんきょしていわゆる西南の天には殺気の横たわるを見るに至れり。吾輩は第二期の政論派すなわち民権論派を区別して四種となせり、その中に悒欝ゆううつ的論派とも言うべき慷慨民権派は実に薩摩なる西郷氏を欽慕するものに係る、しかして快活的論派とも言うべきはすなわち土佐の板垣氏に連絡ありてその根拠を大阪の立志社連に有せり。十年の乱は実に政界を一変せり。かの一派の民権論者は西郷の敗亡とともにほとんどその跡を絶ち、あるいは官途に入り、あるいは実業に従い、またあるいは零落して社会の下層に沈没し去れり。快活的の一派はこれに反してますますその勢力を博し、当時西郷の敗亡を袖手しゅうしゅ傍観したる板垣氏はひとり民権派の首領たる名誉をほしいままにして、政界の将来に大望を有するに至る、これを十年十一年の交における政論の一局状となす。
 兵馬の力をもって政権を取らんと欲するものはこの時をもってほとんど屏息へいそくせり。これと同時に政論はほとんど全国に延蔓するに至る。関西地方は土佐の立志社、大阪の愛国社、すなわちかの快活的論派をもって誘導せられ、関東地方は多くかの翻訳的論派に動かされたり。しかしてかの折衷的論派は関の東西を問わずおよそ老実の思想を有する者みなこれを標準とせしものに似たり。十年以後一、二年間政論の全局は以上に述べたるがごとし。この間において政論は幾分か高尚の点に向かって進み、自由民権の説はかの王権および政府権威の理とともに世人のようやく講究するところとなれり。これ実に第三期の政論の萌芽と言うべし。かつ当時の一政変は政論をしてますます改革的方針に向かわしめたるものあり、十一年の中ごろ、時の政府に強大の権力を占め内閣の機軸たるところの一政事家は賊の兇手に罹りて生命をおとしたり。岩倉右府の力量をもってすといえども抑制すべからざりし二、三藩閥の関係はこれがために幾分か調和を失い、政府部内の権力はふたたび一致を欠き、ついに種々の政弊を世人に認めしむるに至る。
 西南の役に当たり兵馬倥偬こうそうの際に、矯激の建白書を捧げ、平和の手段をもって暗に薩州の叛軍に応じたるかの土州民権論者は、大久保参議の薨去こうきょを見てふたたびその気焔を吐き、処々の有志者を促して国会開設の請願をなさしめたり、ついに国会期成同盟会なるものは成立せり。この同盟会なるものはすなわち第二期政論より第三期にうつるの連鎖にして、なお第一期の後における民選議院建白とほとんど同一の効力ありき。次に第三期の政論に前駆をなしたるがごときものは大隈参議の退職なり。この政事家はさきに征韓論に不同意なりし人なり、多分かの民選議院建白にも不同意なりし人なり、大久保参議の時代には現政府の順良なる同意者なりき、しかして当時に至りにわかに政府に反対して民間の国会論者に同意を表したり。この政事家は国権論派にあらずして国富論派なりき、政事上に向かっては板垣氏その他の人々に比してむしろ保守主義の人なるや疑いなし。しかして十三年の当時にあり速やかに国会を開設すべきことを発論し、他の内閣員に合わずして職を退きたり。この一政変は第三期の政論にすこぶる大なる誘起力を与え、期成同盟会に入らざりしかの翻訳的論派は一変して一の強大なる政論派を成すに至れり。しかして隠然保守主義を取りたる折衷的論派はまったく政府の弁護者となりて他の二政論派に反対をなしたり、これを第三期政論の啓端となす。

     第二 新自由主義

 国会期成同盟会なるものは往時の民選議院建白を宗として起こりしもののごとし。しかれどもその六、七年間において政論状態は一変し、民権論派なるもの四種に分かれて并立したることは実に第二期の政論派なりき。この四種のうち第一種の慷慨派は十年の役とともにほとんどその形を失いたるも、残余の分子は他の三種に合して当時ふたたび国会請願の連中に入れり。期成同盟会は種々の分子をもって成立したるものなれば、あたかも昨年春の大同団結に類するものあり。すなわち各種の心事をもって同一の事業に向かうゆえに同盟会なるものは一の論派としてここに加うるの価格はあらず、吾輩はただ二期の連鎖としてこれを挙げんのみ。第三期の政論派は当時まさにその萌芽を吐きたり。しかしてここに新自由主義というべき一派はにわかにその間に発生し、従来の快活的民権派に新しき武器を供給したるがごとし。吾輩は仮りにこれを名づけて新自由論派と言わん。今のベルリン※(「答+りっとう」、第4水準2-3-29)ちゅうさつ公使なる西園寺侯は新たに仏国より帰りて、二、三の同志を糾合し、たとえ暫時なりとも『東洋自由新聞』を発行せしこと、および今の兆民居士、中江篤介氏が帷を下して徒を集め、故田中耕造氏らとともに仏国の自由主義を講述しもって『政理叢談』を刊行せしことは、これ実に自由論派の嚆矢こうしというべきか。
 新自由論派は第二期の政論派よりもその民権を説くにおいては一層深遠なりき。何となれば彼らは、事実の上に論拠を置くことをなさず、西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄したればなり。中江氏らのおもに崇奉せしはルーソーの民約論なるがごとく、『政理叢談』はほとんどルーソー主義と革命主義とをもってその骨髄となしたるがごとし。その説の大要に以為おもえらく、「自由平等は人間社会の大原則なり、世に階級あるの理なく、人爵あるの理なく、礼法慣習を守るべきの理なく、世襲権利あるの理なく、したがって世襲君主あるの理なし、俗は質朴簡易を貴ぶ、政は君主共和を尚ぶ」と。要するに新自由論派はかのルーソーとともに古代のローマ共和政を慕うこと、なお漢儒が唐虞三代の道を慕うがごとくなりき。その説は深遠にしてかつ快活なるがごとく、一時は壮年血気の士をして『政理叢談』を尊信せしむるに至れり。この論派の特色は理論を主として実施を次にし、いわゆる論派スクールたるの本領を具えたることこれなり。その一時世に尊信せられたるは実にこの点にあり、しかしてその広く世に採用せられざりしもまたこの点に在り。ついにこの論派はかの快活民権論派に合してこれに理論の供給をなすに至れり。

     第三 自由改進帝政の三派

 すでにして快活民権派の泰斗たいと、今の板垣伯は自由党なるものを組織し、次に翻訳民権派は今の大隈伯を戴きて改進党を組織せり、しかして二派ともに時の政府に向かいてその論鋒を揃えたり。ここにおいてかの折衷民権派たりし福地氏は明らかに政府の弁護者となり、他の守旧論派と連合してもって帝政党を作り、自由・改進二派と正反対の位地に立ちて論戦を開くに至れり。この三派は実にわが国政党の嚆矢なりといえども、吾輩はやはり論派としてこれを吟味せん。第三期の政論派は当時政界の現状に対し明らかに保守と進歩との二極を代表したり。その進歩派と称すべきはすなわち自由論派にして保守派と見做すべきはかの帝政論派なり、しかしてこの両極の間に立ちたるものは改進論派と名づくべき温和的進歩党なりき。吾輩はこの三派各個の論旨を吟味するの前に、まずこの諸論派がいかなる関係をもって立ちしやを一言すべし。立憲政体設立の期を定めたる大詔の下りし年すなわち明治十四年より、条約改正論の騒がしかりし明治二十年に至るまで、この六年間は実に政論史上の第三期に属す。この期の政論が前期に比して大いに進歩せしことは言を俟たずといえども、もしその裏面よりこれを考察せばまたすこぶる厭うべきものあらん、吾輩かつもっぱら表面よりこれを見ん。
 自由、改進、帝政、この三論派は互いにいかなる点をもって相分かるるや。吾輩はまた前期の沿革に連繋してこれを論定せんのみ、何となれば何事も断然滅するものなくまた突然生ずるものなければなり。自由論派と帝政論派とはその淵源を第一期の国権論派に有し、しかしてひとり改進論はかの国富論派より来たるや疑いなし、もし第二期に向かってその系統を求むれば、自由論派は急激民権派より生じ、帝政論派は折衷民権派より来たり、しかして改進論派は翻訳民権派の形たるに過ぎず。このゆえに既往の沿革に対しては自由・帝政の二派は兄弟にして改進の一派とは路人の関係なり。現時の政事に対しては改進・自由の二派ほとんど朋友にして帝政の一派とは仇敵の関係を有す。しかりといえども沿革の関係は争うべからざるものあり、自由派と帝政派とは国権論においてはなはだ相近かりき。自由派の代表者たる板垣氏の著『無上政法論』に言う、
 民権は国権と関係を相なすものにして、民権は国権ありてしかる後安く、国権鞏固ならざればすなわち民権もまた安きことあたわざるなり云々
と。しかして帝政派の宣言にいわく、「内は万世不易の国体を保守し公衆の康福権利を鞏固ならしめ、外は国権を拡張し各国に対して光栄を保たんことをこいねがい云々」と。さればその二派は国権と民権とを併せ重んじ、二者を別にしてその先後を立てざることほとんど同一なるを見るべし。しかるに改進派これに反しその宣言においては一語の国権に及ぶなく、その綱領においては、
 内治の改良を主とし国権の拡張に及ぼすこと。外国に対しては勉めて政略上の交渉を薄くし通商の関係を厚くすること、
と明言せり。自由・帝政の二派は国権民権を併せ重んじ、とくに自由派はむしろ国権を先にし無上政法を立つるためには政略上の交渉を深くするの傾きあり、しかして改進派はまったくこれに反対の意見を有せり。三派の大主義における異同は実にかくのごとし、ただ帝政派は当時政府の弁護者となりかつ旧勤王論者と相合したるため、主義上と言うよりはむしろ情実上において他の二派に敵視せらたるが[#「敵視せらたるが」はママ]ごとし、しかして現政府の反対たる自由・改進の二派が時としては互いに反目激争のことありしは思うに他に理由あるべしといえども、一は国権論の上にはなはだしき異同を有するがためにあらざるか。

     第四 自由論派

 気質慣習の成るは一朝一夕のゆえにあらざるなり、本朝古代のありさまはこれを知ること詳ならず。漢土儒道の入り来たりし以来、わが国人はその感化を受けたること多からん、支那仏教の渡りし後もまた大いに風習を変更せられたるや知るべきなり。しかりといえどもこれみな東洋の文物のみ、東洋人種のやや似寄りたる国々にありてはその風俗習慣の根柢また相似たるものあり。儒道仏教の容易に移流したるは何ぞあやしむに足らん。おおよそ東洋諸国の風習たるや主として服従忍辱を尚ぶ、その社会の構成は上下層々互いにその上を敬しその下を制しいわゆる上制下服に基づく、ゆえに父は父たらずといえども子は子たらざるべからず、夫は夫たらずといえども婦は婦たらざるべからず、兄は兄たらずといえども弟は弟たらざるべからず、これを家庭倫理の大本となす。この原則は社交の上にも移り、長幼の間、主僕の際、みな上制下服の則をもって律せられ、ついに政事の上にも移りて君臣の関係、官民の交渉また上制下服をもって通則となす。ここにおいてか社会の団結はただ圧制と服従とをもってその成立を保つというに至る。泰西にありてはすなわち然らず、およそ父子夫婦兄弟の際はつとに平等の気風を存し、社会の構成は上制下服に基づかずして左抗右抵に基づけり。この気風は社交に移りて長幼の序なく主僕の順なし、政事上にありては君臣の関係、官民の交渉、東洋のごときにあらず。
 西洋奴隷制のごときもと彝倫いりんの思想より起こるにあらず。むしろ人間社会における強弱優劣の関係より来る、西洋に奴隷制の存せしはなお東洋に乞丐制きっかいせいの存せしごときのみ、その彝倫の道にありては上下尊卑を主とせずして、つねに左右平等を主とす。しかして社交には智愚貧富の差を免れず、政事には君臣上下の別自ら必要たらざるを得ず、ここにおいて貴族の制を生じ僧族の制を生じ、族制なるものはついに無限の権力をもって公衆に臨む、その社交原則たる左右平等は日に衰縮して上下尊卑の事弊はまた抑うべからず、世運ここに至りていわゆる自由主義なるもの起これり。これによりてこれを見れば泰西において自由主義の起これるはそのはじめ一の反動なり、時弊を匡正するがためにやむを得ずして起これるものなり。しかして自由主義のはたして人間進歩の大本たるを認めたるは実に近世のことのみ。
 それ東洋の人民は上制下服をもって社交の常則となし左抗右抵をもって変乱の階となす。これに反して西洋人は左抗右抵をもって人間の通法となし上制下服をもって衰替の源となす。西人かつて左抵右抗のもって社会平和を保つに足らざるを知り、貧富強弱の差よりもって貴賤尊卑の別自然に起こるべきを知り、ホッブスのごとき専制論者出でたり、また個々平等の事実に存するなくついに下等人類の牛馬と同じきものの実際に存するを知り、アリストートのごとき奴隷論者さえ出でたり。しかりといえども人心に浸潤する気質慣習は容易に回すべからず、専制論者の説はもと最上の権力を固くしてもって貧弱を救い富強を抑うるにありといえども、たまたまもって虐主暴人のために恰好の口実となり、専横の弊は乱離の弊に代わりて起こりますます社会の悪を長ずるに至れり、これよりその後政論はいよいよ事実の激動して発達し、あるいは宗教の理に基づき、あるいは道義の道に基づき、またあるいは法律経済の原則に基づき、かの無限王権および貴族特権を攻撃してしかして自由平等の説を唱うるもの屈指するにいとまあらず。その後もっともいちじるしく個人自由を主張して極度に達し、この自由を国家主権の上に置かんと欲してその説を得ず、ついに「社会は人民各自の相互契約に出ず」と説きたるはかのいわゆるルーソーの『民約論』これなり。
『民約論』の主義は実に個人自由主義の極度に達したるものなり、しかして仏国の人民はかつてこれが実行を試みその功をなさざりき。しかりといえどもこの人民が八十九年に宣言したる自由平等博愛の旨義と主権在民の原則とは欧州大陸を振動し、その余波として数十年の後、千余里の外ついに東洋のわが国にまで及ぶに至る。今の板垣伯および星、大井、中江の諸氏が唱道せし自由論派はすなわちこれなり。第三期において自由論派の起これるは実に第二期の過激民権派と相連繋してなお新自由主義に潤飾せられたるものなり、吾輩はこの論派のわが人民の政治思想に大功績ありしを知る、ただその説の時弊に切にして痛快なるに因り、あるいは青年子弟の速了するところとなり種々の誤謬を世間に播布せられ、その言の旧慣に反して新奇なるにより、老実なる父老あるいはこれを驚聞して国体に傷害ある邪説と目するに至る。けだし俗言は耳に入りやすく高談は世に容れられがたし、利害を棄て毀誉を排しもって真理を明らかにせんと欲するものは豈に尋常の熱心ならんや、吾輩は当時の自由論派の世に待遇せられたるを回想して深く感ずるところあり。
 およそ士君子の正理を説きて世道人心を感化せんとするや、その説の時に薄遇せらるるを憂えず、しかしてその理の世に誤解せらるるを憂う、当時は政府の方針すでに立憲政体を建つるに決し、明らかに聖詔をもってこれを人民に知らしめ、人民たるものすでにようやく民権の何物たるを略知したるの時代なり。この時に当たりて自由論派は何故に共和主義または破壊主義と目せられしや。思うにまた世の誤解多きに坐するのみ。この誤解たるや、あるいはその末流の徒、真にいまだ先覚者の説を翫味がんみせずしてこれを誤解敷衍ふえんするあり、あるいはその反対の人あえて主唱者の意を※(「酉+斗」、第4水準2-90-33)しんしゃくせずしてこれを誤解弁駁するあり、またあるいは小人姦夫がことさらにこれをいて邪説なりと伝うあり。この誤解たるやまったくこの三者に出ずるものというべし。吾輩のさきに国民主義を唱うるや、人あるいはこれを評して鎖国主義なり攘夷主義なり頑固主義なりと罵れり、これなお該論派の自由主義を評して共和主義なり無君主義なり破壊主義なりと言いしがごときのみ、俗人の迷夢を警醒して正理を唱うものは古今となく東西となくみなかくのごときの困難あり、草して自由論派に至り吾輩は深くここに感ずるなきあたわず。
 君は君たらずといえども臣はもって臣たらざるべからず。君主の権威は無限なり、ゆえにその命令を奉ずる政府の権威も下民に対してはほとんど無限なり、下民のその上に対する服従もまたしたがって無限なり、この際ただ君相の道徳もってわずかに万民の権利安寧を保するに足る、もし暴君暗相ありて虐政を行なうときは万民のこれに対する手段はただ弑逆しいぎゃく放伐あるに過ぎず。以上は西人のわが東洋政事を評する大略なり、東洋人はもとより上制下服の風習を完美とする者にあらず、しかれども虐政の起こるは実にこの風習の弊害にしてその常態にはあらずと信じたるがごとし。ただ世運日に進み事物のようやく複雑に赴くや、明君賢相のつねに出ずるをたのむべからずして、なるべく虐政を防ぐの法を設けざるべからざるに至る、日本において立憲政体の要用は実にこれより起これり。しかれども風習気質は容易に変ずべきにあらず、当時世人の立憲政体なるものを視るや、なお天皇の仁慈に出でたる一の良制を視るがごとく、衆みなこれを賛称するにかかわらず、真にその理を解する者はいまだ多からず、政事思想の幼稚なること誠にかくのごときものあり、その自由主義の世に誤解せられたる何ぞ怪しむに足らんや。泰西において自由平等の説ははじめ教理より起こる、一転して法理のために潤飾せられついに動かすべからざるの原則となれり、当時わが国にありては法理いまだ民心に容らず、いずくんぞよく自由平等の原義を解せん、そのこれを見て君相を軽んじ国体を破るの邪説となすはもとよりそのところなり、自由論派の薄遇、一は気質風習のいまだ化せざるによる者あり。
 自由論派は猶予なく自由を唱えて政府の干渉を排斥し、猶予なく平等を唱えて衆民の思想を喚起せり。彼その説に以為おもえらく、
 人は本来自由なり、人によりて治めらるるを甘んぜずして自ら治むるを勉むべし、自ら治むるの方法は代議政体にくはなし、人は本来平等なり、貧富智愚によりて権利に差違あるべからず、何人も国の政事には参与するの天権あり、これを実行するは代議政体に如くなし、
と。この説やもって旧時の思想を攪破するに足る、しかれども旧時の思想を誘掖ゆうえきするにはいまだ充分なりというべからず。何となればこの論派はほとんど史蹟および現実を離れて単に理想上にその根拠を有すればなり。彼ただちに自由を主張す、しかして日本人は史蹟において古来専制の政に慣れいまだ自治の事を聞見せしことなく、かつまた事実においてその能力を自信するあらず、彼ただちに平等を主張す、しかして日本人は史蹟において永く貴賤階級の風習に染みかつ事実においても賢不肖の差はなはだしきを知る。史蹟および現実においてはすでにかくのごとし。これ当時世人のすこぶるこの論派に疑惑するゆえんにして、しかしてこの論派の起こりしもまたこれあるがためにほかならず。
 然りといえども立憲政体は当時聖詔すでにその設立を宣言したり。人民はこれを君主の徳義に帰しこれを君主の恩恵となししかして怪しまず。かの帝政論派なるものは実にこの君徳君恩を称賛してもって世道人心を誘起せんと試みたり。自由論派はこれに反してもっぱら自由の理、平等の理を唱道し、むしろ史蹟および現状を攻撃してただその信ずるところの道理を講じたるは、もって旧慣を攪破かくはするに足るもいまだ人心を誘掖するに充分ならざりき、要するに自由論派はこの点において一の純理的論派なり。すでに純理的論派なればしたがってその希望もまた理想界に向かいてはなはだ広し、彼他の論派とともに代議政体を希望せり、しかしてこの政体について希望するところは他諸論派よりも一層理想界に入ること深きは自然なりというべし。自由論派において代議政体と言えるは今日欧州諸国においても多く見るべからざる理想的政体なりき。彼自由平等の原則をでき得るだけこれに実行せんことを望みたり。彼貧富智愚によりて権利に差なきを説きもって普通選挙を主張せり、彼また貴賤老少によりて意向に別あるを排しもって一局議院を主張せり、彼自由の文字を尊重して干渉保護の語を忌むことは他の論派よりもはなはだ深し、ゆえに実際の利害いかんを問わずいやしくも干渉政略または保護貿易の類をも猶予なく排したるがごとし。
 さらばかの言論自由のごとき、集会自由のごとき、信仰自由のごとき、ならびに自由教育のごとき、いやしくも文字に縁故ある事柄は彼これを主張すること他の論派に比して一層広濶にしてむしろ抽象自由を主張したり。彼ただに自由平等をもって旨義となしたるのみならず、主権在民の旨義もまたその抱懐するところに係る、その結果としてはかの改進論派とともに国約憲法を主張したり、この点は実に当時にありてもっとも大なる問題にして帝政論派すなわち当時のいわゆる保守論派といちじるしく反対せしところなり。然りといえどもこの論派は帝政論派が当時共和主義なりとまでに難じたるごとくにはあらず、彼自由主義を主張することかくまで広漠なりしも、あえてにわかに君主政を廃して共和政をなすの主義にはあらざりき、むしろその自由主義をもって君主政を維持せんと欲するのみ。
 ただ自由論派の立言法は世人をして惑わしめたるものなきにあらず、板垣氏『尊王論』の大意に以為らく、「立憲政体を立つるの詔は吾人に自由を与え吾人をして自由の民たらしむるの叡慮に出ず、ゆえに自由を主張するは聖詔を奉ずる者なり、これに反するものは皇家を率いて危難の深淵に臨ましむるものなり」と。この尊王旨義ははなはだ明白なり、然りといえども当時論者は政府部内の人にあらずして一個の人民なり、しかしその述ぶるところは時の政府に忠告するにあらずして同胞人民に勧説するにあり、しからばこの立論は少しく奇なりと言うべし。試みにその立論を換言すれば「皇家すでに自由政体を人民に約したり、もしこの約を履まざればやむを得ず吾人人民は皇家を危くせざるべからず」と言うに均しからん、思うに論者の意豈にかくのごときものならんや、ただその地位を忘れてその立言を誤りたるのみ、しかれども当時帝政論派より痛く非難を受けたるはまったくかかる点にありしがごとし。
 この論派は自由放任を主張することはなはだ切なりき。しかれどもその政府の職務に関する主説はかの改進党と大いに異なるものあり、改進論派は政府の職務をして社会の秩序安寧を保つに止まらしめんことを主張せり、しかして自由論派はいわく、
 政府を立つるはもと何等の精神をもってこれを立つるものなるか、要するに強が弱を虐するを防ぐがためのほかあらず、しかるに今やかえって強が弱を虐するの精神をもって富かつ智なる者をして貧かつ愚なるものを圧せしむるの政をなすは豈にその大理にもとるのはなはだしきものにはあらずや〔大坂戎座えびすざ板垣氏演説筆記〕。
 これによりてこれを見れば、自由論派は自由論派と言うよりはむしろ一の平民論デモクラシー派と言うべし、政府は秩序安寧を保つに止まらず、なお貧富智愚の間に干渉してその凌轢りょうれきを防がざるべからず。これ実に自由論派の本領にして改進論派と相容れざるの点ならんか。自由論派と改進論派とはともに欧州のリベラールより来たれり、しかして甲は平等を主として乙は自由を主とす、甲は現時の階級を排して平民主義に傾き、乙は在来の秩序を重んじて貴族主義に傾く、もって両論派の差違を見るに足り、またもって自由論派の本色を知るに足るべし。

     第五 改進論派

 改進論派は真に泰西のリベラール論派を模擬するものなり、泰西においてリベラール論派と称する者は中等の生活を権利の根源とし個人自由を政治の標準となす。わが国の改進論派は実にこれに似たるものあり。それ改進論派はリベラール論派なり、しかして前に述べたる自由論派は泰西にいわゆるデモクラシック論派に近し、デモクラシック派の理想は人類平等にあり、しかして衆庶社会の権利を張り公同自由の政治を挙げんことをその主眼となす。改進論派のもって自由論派と異なるところは実にリベラール派とデモクラシック派との差違に均しからん。これ二論派の明白なる区画にしてかの帝政論派との関係もまた実にここにあり。
〔備考〕個人自由とは近来わが政論社会に行なわるる文字なり。今改進論派を吟味するに当たり端なくこの文字を提出するがゆえに、ここにその大要を説明せん。個人的自由とは一個人としてその固有能力を発達するの自由を指称す。たとえば富豪はその財産の力によりて自由に幸栄を増し、学者はその知識の力によりて自由に地位を高め、貧かつ愚なるものもまた国家の干渉を頼まずしてその固有の能力に応ずる発達をなすがごとき、これを個人的自由すなわちリベルテー・インジヴィジュエルとぞ名づく。改進論派はこれを政治の標準となすがゆえに、したがって貴族の成立を是認しまた賤民の存在を常視す。すなわち中等社会〔ミッテルスタンド〕はこれを平均の度としてその標準となすところに係る、しかしてこの三種族の間に法律上の階級を固くせざるは、実に優勝劣敗の天則に任じて個人的発達を自由にするゆえんなり。個人的自由に反対して世人がつねに称道する国家的自由なるものあり、吾輩は国家的自由の何物たるを知るあたわず、しかれども泰西においては個人的自由に対するに公同的自由すなわち平等一般に享受するの自由というをもってせり。邦人の称する国家的自由は多分これを指称するならんか、公同的自由もしくは国家的自由とは、今の板垣伯が八、九年前に明語せしごとく、「自己の自由をげて公同の自由を伸ばす」とのいいにして、貧富智愚の差等にかかわらず人民みな平等に自由を享有することを指す。すなわち板垣伯のいわゆる「富かつ智なる者が貧かつ愚なる者を圧するの政」は、個人的自由において尋常なるも、公同的自由、国家的自由には反するの政なりとす。以上は二者の区別なるも読者はこれをかの世俗にいわゆる個人主義および国家主義の関係と混じるなかれ、この対語は国家と個人との関係を意味するに似たり。すなわち干渉主義と自治主義との異称と知るべし。なお通俗にこれを言えば政府と人民との関係にして、個人主義とはすなわち人民自治の領分を拡めんとの謂なるべし。同じく自治主義なり、しかして一は個人的自由に基づきて制限選挙および二局議院を主張し、一は公同的自由に基づきて普通選挙および一局議院を主張す、これ改進論派と自由論派との差違なり。この二論派とかの帝政論派とはともに立憲政体すなわち自由制度を主張して異同なかりき、しかして二論派は個人主義すなわち自治主義に傾きて帝政論派は国家主義すなわち干渉主義に傾く、その前者との差別はこれにて明白なるべし。次に自由にはまた人文自由すなわち個人が社会に対する自由と政治自由すなわち個人が国家に対する自由との別あり。政治自由は憲法または法律によりて生じ、人文自由は行政によりて定まる、しかしてその前者との関係を言えば人文自由は個人主義と国家主義とによりて消長し、政治自由とは個人的自由と公同的自由すなわち俗に言う国家的自由とによりて伸縮すべきものなり。例を挙げてこれを言えば法律をもって制限選挙を定め参政の自由〔政治自由の一種〕を制限するは個人能力の差別を認むるもの、すなわち個人的自由の勝利にして公同的自由の敗亡なり、すなわち行政において工業の賃銀を定め職人の自由〔人文自由の一種〕を保護するは国家主義すなわち干渉主義の勝利にして個人主義すなわち自由主義の敗亡なり。これによりてこれを見れば個人的自由とは差別上の自由にして国家的自由とは平等上の自由、別言すれば個人的自由の極度なり、また国家主義とは政府の干渉を是認する主義にして個人主義とはこれに反し人民の自治を主張する主義なり、世人は今日なおいまだこれらの区別を明らかにせざるがごとし、また人文自由とは社交上の自由にして政治自由とは国憲上の自由なり、しかしてかの自由論派はこの二者を混同したるがごとし。
 改進論派は貧富智愚の差別を深く考量して制限選挙および二局議院を主張せり。この点においては個人的自由の味方にして帝政論派と相近く自由論派とははなはだ遠し。改進論派は政府の干渉を排斥して人民の自治を主張しすなわち個人主義の味方なり。この点においては自由論派とはなはだ近くして帝政論派とはすこぶる遠し。改進論派は貧富強弱の懸隔を放任して優勝劣敗を常視し、政治自由の制限をば是認するも人文自由に係る干渉は痛くこれを排斥するがごとし、この点においては自由帝政の二論と相離るるや遠しと言うべし。改進論派は自由論派とともに主権在民の説を是認して帝政論派の主権在君論に反対したり。しかれどもその説は帝室および国会を一団となしてこれを主権所在の点となし、英国の例を引きて幾分か取捨を加えたるは自由論派と異同あり。改進論派は帝政論派とともに秩序と進歩とを重んじて自由論派の急激的変革に反対したり、しかれども内治の改良を主として国権の拡張を後にしたるは帝政論派と大いに異同あり。
 改進論派は第一期の帝政論派たる国富論派より来たることはすでに前章に述べたるがごとし。さればかの国権論派の一後胤たる自由論派と相隔絶することは自然なりと言うべきか。この二論派はともに欧米の文物を取りて日本の改良進歩を図るの論派なり、しかれども自由論派はその祖先たる論派と同じく主として政治上の進歩を希望し、むしろ理想上の希望を国家の体制に抱く、しかして改進論派は国富上の進歩を期し、社会経済の改良を先にし、その方法として政体の改良を唱え政府の干渉を排斥したるがごとし。この論派は英国のリベラール派に擬したるものにして内治外政いずれも平和的進歩を主眼となす、ゆえに内治については急激改革の害を論じて秩序的進歩を主張し、外政については国権の拡張を後にして通商的交際を要務としたり、けだし破壊と戦乱とは経済世界においてもっとも悪事とするところなればなり。
 自由論派はその論拠をつねに義理の上に置き、ただ人類を見て種族クラツスを見ず。しかして改進論派はもっぱら便益をもってその標準となし、社会に現存する自然の種族をばみなこれを正当視したり、この点においては改進論派はかの自由論派の理想主義に反対して一の現実論派なり。自由論派はただに日本人民の自由を希望するに止まらず、この自由のためにはまず国権を拡張し、きて東洋全体に自由主義を及ぼし、ついに世界各国に政法を立てんと希望したるは板垣氏の『無上政法論』に明らかなり、しかして改進論派は人智の劣等国力の微弱を自信し、なるべく国際関係を避けもって内治の進歩を主張し国権の消長をば後にしたり、この点においては該論派は海外に対して一種の保守論派なりき、以上はその自由論派と著しく相違せる大要にして第四期の政論界に至り大いに衝突を起こせしゆえんなりと思わる。然りといえども自由論派が権利上の説を人民の旧思想を喚起したるがごとく、改進論派は経済上の説をもって人民の政治思想を養成したるやその功大なりと言わざるべからず、立憲政体のため民間に施したる準備の功績は吾輩けっしてその自由論派に譲らざることを断言せん。かつ日本において発達したる政論派中当時に至るまでいまだこの論派より充実したるものはあらず、学理と実際とに照らしてその説を立てしかして首尾不同前後撞着の弊少なかりしは、実にこの論派を然りとなす、改進論派の吟味はここに止め、吾輩はこれよりかの帝政論派なるものの大要を吟味せん。

     第六 帝政論派

 自由論派は抽象的自由を信じてこれをわが国に拡張し、ついに東洋の旧習を一洗せんとするの大望を抱きたり。この論派こそ実に世人の旧思想を警醒し人類の平等を喚起したる奇特の論派なれ、吾輩はその詭激急躁きげききゅうそうなるにもかかわらずこの点においては該論派の功績を認む。この論派に次ぎて起こりたるはかの改進論派なりといえども、これ自由論派に反対せしにはあらず、むしろ政治の現状を攻撃する点においてはほとんどその朋友なりき、すなわち立憲政体建設の催促においてまったく同一の方面に立ちたり。これに反して「立憲政体建設期の弁護」を勉めたるはすなわち第三に現われたる立憲帝政論派これなり。第一期の政論時代において政法上の急進主義を取りたる国権論派は実に自由論派と帝政論派との祖先なり、しかれども第二期に至り自由論派の父とも称すべき急激民権派に反対し「民選議院尚早論」を唱えたるものは帝政論派の父たる折衷民権派なりき。されば帝政論派は議院尚早論を紹述して当時に起こり、その父祖の系統において親戚たるにもかかわらず、痛く自由論派に反対し、あわせてこの点についての付和論派たる改進論派に反対したり。これを要するに帝政論派なるものは政法の改革および自由制度の設立につき他の二論派と相異なることなきも、ただ「改革および設立の期節」においてまったく反対したるものなり。
 帝政論派の代表者たるものは実に今の帝国憲法の起草者および註釈者たるところの伊藤伯を然りとなす。福地、丸山の諸氏は常時表面の論者たりしといえどもその本陣はまったく当時の内閣にありというべし。表面より虚心にこれを評すれば当時の内閣は自由制度の反対者にあらず、むしろその味方として自由制度の設立に進行するものなりき、されば帝政論派をもって専制論派または守旧論派となすことはなお自由論派を破壊論派または共和論派となせしがごときのみ。然りといえども大圜線だいかんせんの一断片を取りこれをげて別に一小圜を作るは論派の弊なり、自由論派が「主権在民」の理を唱道せしかば帝政論派もまた自ら進んで空理の競争場に入り、あえて「主権在君」の説を唱えこれに反対したり。ここにおいて改進論派はその中を執りて「主権在君民」の論を立て一方に自由論派の急激を排し、他の一方には帝政論派の守旧を撃ちたり。しかして帝政論派はこれより民間風潮の逆流に置かれて一の守旧論派と見做さるるに至れり、けだしその自ら取るところの過ちなりと言わざるべからず。
 帝政論派は大なる欠点を有せり、彼その論旨を世人に知らしめんとするよりは、むしろ他の論派に反対してこれを防御せんとしたり。言わば彼帝政論派の熱心は進撃的にあらずして防守的にあり、しかして防守の熱心は彼をして藩閥政府に対する攻撃をも防御せしめたり。彼すでに十五年の聖詔にしたがって立憲政体を是認したり。立憲政体の義においては取りも直さず責任内閣を包含せり。しかして藩閥内閣なるものの義においてはいかに弁護の労を取るも強者の権利または戦勝者の権利もしくは軍人政治の意を存せざるべからず、該論派のこれを弁護したるは実にその賛成するところの立憲政体の義に撞着せり。帝政論派はかの改進論派とともに急激の改革を攻撃して秩序的進歩を主張せり。その藩閥内閣を弁護せしは、けだし秩序的進歩を主張するがためならんか、しかれどもこれ大なる過失なりき、秩序的進歩とは貧富智愚の差を是認する自由的競争および貴賤上下の別を保持するの匡済的改革を言うのみ、けっして強者の権利、戦勝者の権利または軍人政治の類を許容するものにはあらず。
 帝政論派は藩閥内閣を弁護して「政権は口舌をもって争うべからず、実功をもって争うべし、死力を出して幕府をたおしたる者がその功によりて政権を握れり、これを尊敬するは人民の礼徳なり」とまでに立言せり、これ政権を一種の財産のごとく見做したるの説なり。功を賞するに官をもってすることを是認したるなり、帝政論派の欠点実にこれよりはなはだしきものあらず。しかれども当時他の二論派が主張するところの議院内閣すなわち一名政党内閣と言えるはいかなる意義を有せしか、世人一般はいかにこれを解せしか、これ一の疑問なり。帝政論派の主義によれば帝室内閣こそ至当の制なるがごとし、彼その説の大要にいわく、「政党内閣は党派政治となり、一変して偏頗へんぱの政治となり、ついに言うべからざるの弊害を生ぜん、帝室内閣は党派に偏せずいわゆる無偏無党、王道蕩々の美政を維持するに足らん云々」と。しかして彼また以為らく、「世の政党内閣を主張する者は輿論を代表する党派をもって政弊をすくうの謂にあらず、むしろ党派の勢いを仮りて政権を奪わんと欲するのみ」と、はたしてこの言のごとくならば政党内閣論はすなわち朋党争権論なり、帝政派のこれを攻撃するは至当なり、しかれどもこれがために藩閥内閣を弁護して戦功者握権を是認するに至りてはすなわち寸を直くするために尺を曲ぐるの愚説と言うべし、帝政論派のただ時の政府に容れられてかえって世の攻撃するところとなりしはまったくこの点にありき。
 然りといえども帝政論派もまた政界に功なしというべからざるなり、当時世の風潮は民権自由の説に傾きいわゆる末流の徒は公然言論をもって王室の尊厳を犯すあるに至る、そのいまだかかる粗暴に至らざる者といえども世の風潮をはばかりて明らかに日本帝国の国体を言うことをあえてせず。当時民間の政論家をもって自任する者は日本の旧慣を弁護することを憚り、わずかに英国の例をりてもって西洋風の勤王論を口にするあるのみ。実に当時の政論家は国体論または忠君論を禁物となしたるありさまなり。この時に当たり断然起ちて万世不易の国体を説き王権論を説き欽定憲法論を説きたるものはひとり帝政論派なり。吾輩はその説の往々偏癖に流るるものなるを知るも、世の潮流に逆らいて民権熱に清涼剤を投じたるの功を没すべからずと信ずるなり。帝政論派はもとより一の論派たる価値なきにあらず、然れどもその藩閥内閣を弁護するによりて勢力は他の二論派に及ばざりき、ついに二派に先だちて政論界より退きたり。これを第三期の末における政論の状想となす。第三期より第四期に移るの際に当たり、二、三の新論派はようやく萌芽を吐きたり、経済論派、法学論派のごときものこれなり。請う次回においてその大要を吟味せん。

     第七 経済論派および法学論派

 泰西学問のようやく盛んならんとするや、東京に二、三の強大なる私塾ありき。そのもっともいちじるしきものは今なお存するところの慶応義塾これなり。この塾は昔時国富論派の代表なる福沢諭吉氏の創立にして、これに次ぎ泰西の経済説を教えたるは古洋学者の巨擘たる尺振八せきしんぱち氏の家塾なりという。この二塾より出でたる青年者は実に日本における経済学の拡張者たり。第一期にありておもに経済財政の学を講じたる学者は今の元老院議官神田孝平氏なりといえども、その後政府につかえて実地の政務に当たり、学説を弘むるのことはまったく福沢、尺の両氏に譲りたるもののごとし。されば第三期の終りにおいて改進論派にしたがって経済論派の出でたるはこの二人の老学に誘起せられ、すなわち遠く国富論派の正系を継ぎたるものと言うべし。かつ第一期の国権論派中にいちじるしき学者の一人、今の司法次官箕作麟祥氏は当時にありて一の私塾を開き、かの慶応義塾などと相対立して法学の教授をなしたり。すでにして国権論派に傾きたる当時の政府は高等教育の制度を設け、種々の変革を経て東京大学と名づけ国権論派の巨擘たる今の加藤博士をその総理となせり。この官立学校より出でたるものはおもに法学者にして、自然にも第一期の国権論派の正統を承けたるに似たり。ここにおいて政論社会はようやく一変し、かの帝政論派のごときは実にこの学派の力を仮りたるや疑うべからず、吾輩はこれを称して法学論派となすべし。
 当時の経済論派および法学論派多くは英国の学風を祖述するものに過ぎず、ゆえに経済派の説は主としてマンチェスター派より来たりて非干渉および自由貿易に傾き、ただ法学派は官立学校において英学派の教授を受けたるにかかわらず、幾分か仏国またはドイツの学風を帯びかつその先輩たる国権論派の主義に感染するところあるをもって、政論上においてはみだりに英国の風を学ばざるの傾きあり。二派の新論派はかくのごとき差違ありき。されば経済論派は一方において自由論派の助勢となり、他方においては改進論派の有力なる味方となり、しかして法学論派は別に帝政論を授けて他の自由・改進の二論派に反対したり。しかれども吾輩はこの新論派が著明なる形体を備えたることを見ず、ただ当時の実状を回想して暗々裏にその跡を認めたるに過ぎざるなり。いかなる人々がこの二学派の代表たりしか、経済論派に付いては吾輩今の『東京経済雑誌』をもってその根拠となし、法学論派に付いてはかの帝政論派とともにただ『東京日日新聞』をその目標とするに止まる。今その政事上に係る論旨の大要を吟味してもっていささかこれが存在を明らかにすべし。
 経済論派は改進論派のごとくに非干渉主義を取り、また自由論派のごとくに人類平等主義を取るものなるは明白なり。彼その説に以為らく、「政府の民業に干渉し、またはこれを保護することは自由競争の大則に反して富の発達を妨ぐるものなり、人すでにおのおの利己の心あり、利己のためにはおのおのその賦能を用いて進行す、優者は勝ちて劣者は敗る、貧富転換して公衆の富はじめて進む、政府の干渉はたまたまもってこれを妨ぐるのみ」。しかしてこの学派は日本の実状においては民業或いは干渉を要するものあることを顧みず、今の日本をただちに十八世紀末の欧州と同一視せんと欲したりき。しかれども経済論派は政府の干渉をもって民業に益なしとはなさず、ただ干渉によりての発達は自然の発達にあらずして、その発達はたまたま他の自由営業に妨害を与うと言うのみ。要するに経済論派は政府の職掌を単に警保の一部に止め、自由競争を認めてただその不正の手段を禁止するにありとなすものなり。この点においてはほとんどかの改進論派と同じ、貧富の懸隔を自然に任せ、政府すなわち国家権力の干渉調停をば会社主義の臭味として痛くこれを攻撃せり、この点においてはかの自由論派とやや相反すと言うべし。
 しかれども経済論派は人類の平等を認めて深く貴族主義には反対せり。思うに人為の階級特権は自由競争の原則に反するをもってなり、この点においては自由論派とはなはだ相近くして一種のデモクラシック派と言うべきところあり。しかれども自然の階級すなわち貧富の懸隔をば社会の常勢、むしろ国富発達の正当なる順序としてこれを是認し、かえりて資本の分散を国富進歩の妨害とまでに説きたり、この点においては改進論派と近くして自由論派と遠かりき。自由論派は無上政治をもって国際的紛争を防がんと希望したるがごとく、経済論派は自由貿易主義をもって世界の一致和合を謀らんと希望す。この理想は自由論派とやや同じきの姿ありといえども、経済論派の眼中には国権の消長を置かずして、単に財富の増減を目的となす、けだし自由論派は国権を鞏固にせんがために無上政法を主張するも、経済論派はむしろ国権をもって世界進歩の妨害となし、しかして自由貿易を唱うるものなり、ここに至りて自由論派と相反して改進論派の一種と相合し、かつ改進論派中保護貿易派とは相反するを見る。
 法学論派に至りてはすなわち国権論派の胤流として、おもに国法の改良を目的とし、かつ泰西における近世法学の歴史的思想に感染するところの改革論派なり。この論派にいちじるしき点はすなわちこの歴史的思想にしてその結果としては他の自由・改進の両派に反対し、むしろ帝政論派と相近くして漸進主義を取るものに似たり。しかれども帝政論派のごとくに現実的利害のみには固着せず、権義に係る理想よりして国家の権力と個人の権利とをふたつながらこれを認め、かの仏国の革命主義を攻撃しつつ一方には国家権力の鞏固をもって個人の権利を保護することを説くものなり。彼かつて法理の上より主権在君論を主張し、もって帝政論派の主義を賛助したるは当時にありてすこぶるいちじるしきものあり。彼かつて法理の上より君主政体の正しきを説き、共和主義の臭味を排斥せんと試みたり、彼かつて天賦人権論を説きて世の純理民権説に反対したり。しかれどもこの論派は経済論派に比すれば反りて熱心を欠き、いまだ世人に対してその主義の全豹を示したることあらず、思うに英国風の法学者はまったく政界と相隔離し、政論派としては経済学者に比して大いに譲るところあり、当時日本の法学論派は実にこの風に倣い、法学をもってほとんど世外の事物となし深く顧みざるの傾きあるがゆえならんか。

    第四期の政論

     第一 最新の政論

 政界の実地問題にしてもっとも大なるものは、当時にありて新憲法編纂の事業なりき。伊藤伯はこの大任を負いて欧州に旅行し、十八年に至りて帰朝せしが、時勢の必要を感じて従来の大宝令的官制を廃し、新たに西洋に倣いて内閣を置き、伯自らその首相となりて大いに更始するところありき。けだし立憲政体の準備をその口実となす。伯すでに内政の更始に当たれるが、その同僚たる井上伯は当時の任にありて、かの維新以来の大問題たる条約改正の業に鞅掌し、着々歩を進めて外交的会議を東京に開くに至れり。二伯の事業は実に維新以後未曽有の大業にして、政府はこの業のためにはほとんど何事をも犠牲にするの傾きありき。さきに伊藤伯が欧州を巡遊して憲法取調べをなすや、かの立憲帝政国として王権の強大なるドイツ帝国をもって最良の講究所となしたるは何人も知るところなり。時あたかもドイツ大宰相ビスマルク公が東洋貿易策に心を傾け、汽船会社を保護して定期航海を奨励し、もって英仏と競争を試みんとするに際す。伯の旅行はビスマルク公のためにこの上もなき機会となりしがごとし。さればドイツ政府は伯のためにでき得るだけの好意を表し、この機に乗じてドイツの勢力を日本に及ぼさんことを計画したるや疑いあらず、憲法編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法典編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法科大学の教師はドイツより来たれり、しかして条約改正の業もまたドイツ政府において隠然これを賛助するの傾きさえありき。
 日本はすでにドイツ風なるものの流行を感じたり、しかのみならずかの井上伯はその重任たる条約改正を成就せんには欧州各国の風習を日本に入れ、欧州人をして日本をその同情国なりと思わしむるの必要を感じたり。かの十七年における清仏の戦争は、伯これを視て東西両洋の優劣を示せる最近の例証となし、とうてい尋常の手段にては外国と同等の交際をなすあたわずとや思いけん、まず日本国民を挙げて泰西風に化成するにあらざれば樽俎そんその間に条約を改正すべからずとまでに決心したるがごとし。ここにおいて日本の上流社会は百事日本風を棄てて欧州風に変革しかしこくも宮廷内における礼式をさえ欧州に模擬したりき。これ実に明治十七、八年より二十年に至るまでの事情にして、吾輩これを欧化時代と称すべし。第三期の政論派が第四期に移りたるは実にこの時代にあり、この期の政論状況を汎叙すれば誠に奇怪なる変化を見るに足るべし。いかに変化せしか、いわく第三期において保守派とまでに称せられたるかの帝政論派は一変して欧化論派となれり。いわく前期の激進派たる自由論派はこの時において反りて保守論派となれり。いわく改進論派の一部は欧化論派に傾き他の一部は保守論派に傾きたり、これ豈に政論の奇変にあらずや。
 もし文明進歩と言えることを解して泰西風に変化することとなさば、当時の政府ほど「進歩主義」なりしものはいまだこれあらざるなり。もし進歩主義と言えるものがただ泰西の事物または泰西の理論に模倣するの主義を意味するならば、今の進歩主義と自称する論派は当時にありて双手を挙げて政府の方針を賛頌せざるべからざりしならん。しかるに自由論派または改進論派は毫も賛成を表せざるのみならず、反りて痛くこれに反対したり、しかして「保守主義」と呼ばれたる帝政論派の遺類、たとえば『東京日日新聞』のごときは大いに政府を賛助したることこれはなはだ奇なりと言うべし。人みなかの帝政論派は政府賛助派なりと。あるいは然らん、しかれども吾輩はこの篇においてその裏面を探るものにあらず、もし裏面を穿ちしならば当時の自由論派または改進論派は政府攻撃派なるやも知るべからざればなり。しからば当時政論派の変化は表面よりして奇観を呈したりというもとより可なり。しかれども当時の政府は主としてドイツ風を模擬せり、改進論派のこれに反対せしはその英国風ならざるをもってなるか、自由論派のこれに反対せしはその仏国風ならざるをもってなるか、少なくも、王権の強大が英国風に反しまたは貴族の爵号が仏国米国の風に反すとの点をもって、二論派はドイツ風なる政府に反対したるか、はたしてしからばこれ国風の争いなり、いわゆる欧化主義においてはみな同一なりと言うべし。
 この紛々たる時に至りて一の新論派は出でたり、すなわち国民論派または国粋論派または日本論派と称すべきものこれなり、この論派は実に当時の流勢に逆らい、泰西風の模倣をもって実益および学理に反することとなし、深く国民の特性を弁護したるものなり。この新論派に正反対をなしたるものは第三期の末に起こりたる経済論派にして、これに味方をなしたるものは法学論派なり。しかして旧論派たりし自由論派は味方とまでにならざるも反対にはあらず、改進論派は正反対にはあらざるも側面より反対を試みたるは明白なりき。帝政論派の遺類にして欧化論派とも称うべきは国民論派に対して理もとより正反対の地にありといえども、彼ドイツ風の歴史的論派に多少の淵源を有するがゆえに、この新論派に対してはあえて正面の攻撃をなすあたわざるがごとし、これを当時における最近諸論派の関係とす。
 論派たる価なしといえども通俗の便としてなお掲ぐべきものあり、いわく大同論派、いわく自治論派、この二論派は実に論派として掲ぐるほどの価なし、何となれば理論上においてはいかなる抱懐ありしやを知るあたわざればなり。ゆえに強いてこれを論派と見做しここに列記せんと欲せば自治論派はこれを旧帝政論派の遺類たる欧化論派の中に算うべく、しかして大同論派はかの自由論派とその形を異にせしものに過ぎずと言うの外ならず。次に最新の論派として算入すべきものはいわゆる保守論派を然りとなす。保守論派の中にもまたほとんど二種の別あることを見る。すなわちもっともいちじるしきは保守中正論派にしてこの論派は実にかの国粋論派〔適当に言えば国民論派〕より分かれたるものなり。その次に来たるべきは皇典保守論派とも言うべきものなり。この論派は自治論派とその根源をともにし旧帝政論派の遺類の一種なりとす。今便宜のために前期と関連してこの第四期政論の名称を左に掲げん。
     〔第四期〕      〔第三期〕
(一)自由論派 〔旧〕┐
           ├     自由論派
(六)大同論派 〔新〕┘
(二)改進論派 〔旧〕      改進論派
(三)経済論派 〔旧〕      経済論派
(四)法学論派 〔旧〕      法学論派
(五)国民論派 〔新〕      未成
(七)保守論派 〔新〕      未成
(八)自治論派 〔新〕┐
           ├     帝政論派
(九)皇典論派 〔新〕┘
 発生の順序をもってすれば頭上に冠したる番号のごとしといえども、もし前期との関係をもってすれば実に右に掲げたるごとく、おのおのそのよりて起こるところあり。しかしてまったくこの最後の期において新たに発生したるものはただ国民論派〔または国粋論派〕および保守論派の二派に過ぎず。しかれども吾輩はこの新論派を叙するに先だちて名称の新しき他の三論派すなわち大同論派、自治論派、皇典論派を略説せんと欲す。この論派がいかなる主義を保有するかは吾輩これを知るあたわずといえども、その政論上における傾向はややこれを窺うことを得べきなり。請うその大略を吟味し去りて相互の関係を明らかにせん。

     第二 大同論派

 大同論派は自由論派よりきたるものなるや明白なり。しかれどもその旨とするところはただ藩閥政治を攻撃して政党政治を立つるにあり、しかしてこの目的を達するには理論上の異同を棄てて事実上意見の大同を取るべからずと言うにほかならず。かくのごとくその論基はただ現実的問題にあり、これをもって一の論派として算するにはすこぶる難し。もし強いてこれが理想を探らばやはり自由論派の思想と同一ならんのみ。されば吾輩はここに理想を探ることをなさず、単にこの論派の傾きが当時いずれの論派に近かりしやを一言せん。彼実に自由論派よりきたる、ゆえにその傾向は自由論派を近しとすることこれ自然なり。しかれども自由論派の深奥なる理想は彼毫もこれを継承せざるのみならず、かえってこれに反対したるがごとき傾向あり。彼自由主義をもって非藩閥主義となすのみ、自由平等の理を取りて世界共通の人道となすがごとき理想は彼さらにこれを抱懐せず。ただ国権を拡張するの一事に至りては自由論派より継承したるがごとくなるも、その主旨はすなわち大異同あり、国権拡張は自由論派にありて個人自由を伸張する方法なれども、大同論派にありてはやはり国民の利益および名誉を計るにほかならず。彼また痛く政府の欧化主義に対して反対し、泰西模擬の弊は一国の滅亡に係るとまでに攻撃したり。この点においては新論派たる国民論派とすこぶる相合し、大同論派の代表者たる後藤伯が当時すなわち十九年二十年の交において国民論派の代表ともいうべき谷子と偶然にも条約問題に反対せしはいちじるしき事実なりとす。藩閥政府を非とするの一事をもって政論社会を動かしたることは、政論ありて以来いまだ大同論派より強大なるものあらず、吾輩は非藩閥論派としてこの功績を認むるに躊躇せず、しかして二十二年の条約問題に付いてもこの論派の勢力少なしとなさず、吾輩はこの点において国権論派の一種となす。

     第三 自治論派

 前期において帝政論派と称するものは実に二個の分子を包含せり。その一種なるドイツ帝政崇拝主義の論者はこの期に至りてまったく欧化主義を賛成したり、世に称する自治論派と言うはすなわちこれなり。自治論派は何の理想もなきもののごとし。ただ西洋と対等の交際をなさんには日本を西洋の風に陶化せざるべからず、西洋の風に陶化せんためにはまず人々が自らその財産を殖して生活の程度を高めざるべからず、人間万事金の世の中、道徳節操のごとき権利名誉のごときみな金ありてはじめてこれを言うべし、金なきものはともに国政を議すべからず、金を貴くするには奢侈を奨励せざるべからず、以上は自治論派の大旨なるがごとし。この点においてかの経済論派または改進論派とややその傾きを同じくし、自由論派、大同論派、また国民論派とは氷炭相容れざるの関係あり。この点においてはほとんど第一期の国富論派を再述するものにして西洋崇拝の一事は経済論派の一部たるキリスト論派に賛揚せられ、金銭崇拝の一事は経済論派そのものに賛揚せられたるがごとし。自治論派は政論と言わんよりはむしろ一種の経済論と言うべし。

     第四 皇典論派

 皇典論派もまた旧帝政論派の遺類にして皇道をもって天下を治めんと欲するものなり。この論派において皇道と称するはすなわち日本古代の慣例中かの官職世襲のことを指すがごとし、国に功労ある者は高位高官に上ること当然なり、その勢力をもって政府を立つること当然なり。民権自由の説のごときは日本に唱うべからず、以上は皇典論派の大意なるがごとし。さればこの論派は一の強大なる藩閥論派にしていわゆる最近の保守論派と見做すの価あり。今日にありて保守論派として算うべきものはまず指をこの論派に屈せざるべからず。然れどもこの論派は西洋に倣いたる法典編纂をもって至当のこととなす。これはなはだ奇たりと言うべし、この点においては自治論派と相和し、しかして他の諸論派よりは強大なる反撃を受く、いずれにしてもこれらは政論としての価はなはだ低しと言うべし。しかれども今日にありて保守論派の本色を保つものはこれよりいちじるしきはなく、将来に至りても保守主義を残すものはこの論派ならん、しかしてこれに次ぎて保守の傾きあるものはかの保守中正論派を然りとなす。吾輩は次章においてこれを略叙せん。

     第五 保守論派〔保守中正論派〕

 およそ論派の名称は大抵みな批評家のくだすもの多し、我は何種の論派なりと自ら名のる者ほとんどこれなきを常とす。政論の部類は泰西の学者その傾向につきてこれを四種に分かつ。すなわちラジカリズム〔急進論派〕、リベラリズム〔進歩論派〕、コンセルワチズム〔保守論派〕、アプソリュチズム〔守旧論派〕、この四種のものは学問上において区別するところの種類なり。いかなる論派といえどもはじめより自らこの部類を選みてその名称を取るものにあらず。その信ずるところの真理を主張して政論壇上に登る時は、批評家その傾きを見てこれに名称を付することこれその常例なり。今やわが国の政論派はすなわち然らず、その政論を唱うるや、まず自ら学問上の区別を見てその名称を選び、その名称に応じてその説を立つるもののごとし。ゆえに名称のために拘束せられてその信ずるところの真理を主張するあたわず、あるいは真理を主張してかえってその名称と齟齬そごするものあり。名を先にして実を後にす。ああまた奇なりと言うべし。かのリベラリズムに倣い進歩または自由の名称を選むものを見よ、彼すでに進歩と言う。ゆえにいやしくも進歩の名に反することは善となく悪となくこれを排斥す。彼すでに自由と言う。いやしくも自由の名を有することは利害邪正の別を論ぜずしてこれを取る。しかして進歩または自由のはたして何物たることははじめよりこれを講明せず。自ら保守論派と称するものはかのコンセルワチズムに倣うものなるや否や、吾輩これを知らざるなり、彼すでに保守というもの思うに必ずその実あらん。近時社会の風潮は滔々として改革に赴く。この時に当たりて「保守」なる名称は世人おおむねこれを忌避す。ひとり世俗の毀誉を顧みずしてあえて自ら保守の称を取るものは実に保守中正論派をもって然りとなす。
 世に奇傑の士あり、鳥尾得庵先生これなり。先生気高くして識深し。才文武を兼ねてしかして久しく時に遇わず。近時人もし晦跡かいせきの英傑を談ずれば必ず指を先生に屈す。先生つねに世運の衰替を慨し、かつて二、三子と大道協会なるものを興して儒仏の真理を講ぜんことを計る。これを先生近来の事業の端緒となす。すでにして世運正に欧化時代に際す、先生ますます回瀾かいらん事業の必要を感じ、まさに大いに道を弘めて時弊を匡救せんとす、当時政論の中衰せるに会し、欧化主義に反対して政論を立つるものは自ら政府の敵視するところとなり、政論社会はひそかにこの論派の激烈なるを危ぶみ、なお第二期における民権論派を視るがごとくせり。しかしてその欧化主義に反対せしにもかかわらず世人いまだこの論派を目するに保守論をもってするには至らざりき。すでにして得庵先生は堀江、原田の諸議官とともに一派を立て自ら保守中正論派と称し、『保守新論』をもって機関となし、大いにその説を世間に弘む、ここにおいてか保守論派は明らかに世の認むるところとなり、政論社会の一方に割拠して少なからざるの勢力を有す。
 保守論派ははたして保守の実を備うるか、泰西にいわゆる保守なるものは自由平等の原則を軽んずること、これその特性の一なりとす、わが邦保守論派ははたしてその実あるか、得庵先生の著『王法論』にいわく、
 均しくこれ人なり、豈に君民の別尊卑の等ありてもってその人を異にせんや、そのこれを異にするゆえんのものは他なし、その徳を立つるがためのみ、その道を修むるがためのみ、徳立たざれば君君にあらず、民民にあらず、道修まらざれば父父にあらず、子子にあらず云々。
 先生すでに天地平等万物一体はじめより高卑物我の分あらざることをもって理説の根本となす。平等を本として差別を末とすることほとんどかのルーソーの『人間不平等原因論』に似たるものあり。またその法原の章にいわく、
 ここに人あり、同類相集まり同気相求め一地に拠りてもって生業す、これを国という、しかして国人みなその幸福を享けんと欲すれば、必ず相利して相害せざるの理によらざるを得ず、これを倫理という、倫理すでに明らかなり、これを文に掲げもって国家の大法を定め、もってこの民の幸福を保つ、これを法憲という。
 法憲を解することかくのごとにして、しかして不正の法、不能の人を説きて以為らく、「その法を犯さざればその身を安んずるあたわず、その人を去らざればその命を保つあたわず、これ人その人にあらず、法その法にあらず」と。なお一歩を進めていわく、
 このゆえに国を治むる必ずその法ありて後にその人あり。必ずその職ありて後にその権あり。その人のあるゆえんのものは何ぞや、民人これを許せばなり。その権あるゆえんのものは何ぞや、民人これを托せばなり。〔中略〕国君自ら貴きあたわず、その貴きゆえんのものは民人これを愛せばなり、それ民人のその君を愛するゆえんのもの豈にひとりその君に私するものならんや、また自らその性命を愛し自らその幸福を望めばなり。
 これによりてこれを見れば自称保守論派の論旨は泰西学者の社会契約の論に近似し、ほとんどかの自由論派または改進論派の上に凌駕するの進歩主義なりと言うべし。
 彼また主義の章において以為らく、「諸法己によりてもって生ず、ゆえに自由と謂い、諸法己によりて存す、ゆえに自主と謂う、自由なるものは身心の主にして彼我の性法なり、自由なるものは世間の義にして自他の常情なり」云々と。これ人民の自治を説きもって立法の一人に私定すべからざるゆえんを言うなり。しかしてこの政論派は立憲政体の至当を認め自由制度の至理を認め毫も旧時の慣例に固着するところあらず、しからば自ら保守と称すといえどもその実はむしろ激烈なる進歩主義と言わざるべからず。しかれどもその自由自主の理を推してもって痛くかの欧化主義に反対して自ら保守論派と称し、つねに儒仏の道を唱えてみだりに泰西の学説を口にせざるがゆえに、俗人は誤りてこれを保守論派と名づけたるに似たり。名実の相合せざるや誠にかくのごときものあり。世に一家の見識なくわずかに泰西旧学者の説を借り来たりて陳腐の政論を綴造ていぞうし、自ら称して自由論派または進歩論派となすものあり。かくのごときものはこの保守論派に対してはなはだ慚色なきあたわざるべし。ただ泰西事物の名をもって斬新の標章となし、東洋の事物を挙げて取捨なく排棄するの時代においては、これらの無識者流もまた時好の厚遇するところとなるのみ、滔々たる社会豈に他の理由あらんや。
 吾輩は政論考を草して保守中正論派に至り、編を重ぬることすでに十七、最後において吾輩の持説たる国民論派を略叙せんと欲す。吾輩はここに至るまで実にまったく批評家たるの地位に立てり。しかれども国民論派を吟味するに当たりては理において自らこれが批評家たるあたわず、むしろその説明者または代表者となりて順当にこれを述べざるを得ず。保守論派と国民論派とは欧化時代においてともに現出したりしといえども、元来この二派はもと同根のものにあらず、その欧化主義に反対するや、保守論派は自主自由の理をもってその論拠となし、しかして国民論派は国民の天賦任務をもってその本となす。一は主として国の権理を全うせんがために起こり、他の一は権理を重んぜざるにあらざるもむしろ国の義務を全うせんがために起これり。二者もとより反対にはあらざるも、その差違を言えばややかくのごときものあり。吾輩は保守論派をもってこの篇の終尾となし、さらに「国民論派」と題してこれが補遺とし、もって政論考を完了せんと欲す。

     第六 国民論派

   国民的精神
 国民的精神、この言葉を絶叫するや、世人は視てもってかの鎖国的精神またはかの攘夷的精神の再来なりとなせり。偏見にして固陋ころうなる者は旧精神の再興として喜びてこれを迎え、浅識にして軽薄なる者は古精神の復活として嘲りてこれを排したり。当時吾輩が国民論派〔あえて自らこの名称を取るにあらず、便宜のため仮りにこれを冠するのみ〕を唱道するや、浅識者、軽薄子の嘲りを憂えずして、むしろかの偏見者、固陋徒の喜びを憂う。何となれば国民論派の大旨はむしろ軽薄子の軽忽に認むるかの博愛主義に近きところあるも、反りて固陋徒の抱懐する排外的思想には遠ざかるをもってなり。吾輩は今ここに国民論派を叙するに当たり、かの軽薄子のため、またはかの固陋徒のために、まず泰西において国民的精神のいかにして発達せしかを略説すべし。
   泰西国民精神の変還[#「変還」はママ]
 泰西の政学者はみな揚言していわく、近時の政治はすなわち国民的政治なりと、この語簡なりといえどもその旨や遠しと言うべし、いわゆる国民的政治とは外に対して国民的特立および内に向かって国民的統一を意味するものなり。この一点においても世人は「国民論派」の実に最新政論派たることを知るに余りあらん。いかにして泰西近時の政治は国民的政治たるに至りしか、吾輩の見るところによればそのここに至るまで三段の変遷を経過したるがごとし、何をか三変遷という、いわく、〔第一〕宗教的変遷、〔第二〕政治的変遷、終りに〔第三〕軍事的変遷、吾輩請うこの三遷を左に略叙せん。
   その宗教的変遷
 国民と言える感情は合理の感情なり。欧州においてこの感情の発達はなはだ遅かりしはいかなる原因によりしか、史学家の説によればかのキリスト教の勢力をもってその因となす。宗教革命の以前にありては、宗教の感情は愛国の感情よりも非常に強かりしこと何人も知るところのごとし。この時に当たりキリスト教を奉ずる者は国の異同を問わず互いに相結托して強大なる団体をし、もって国家法度の外に超立するのありさまなり。されば仏国人民にして宗教のためその国に叛きあえて隣国のスペインに合同するあり。ゲルマンの公侯にしてその国皇に叛き救援をその同宗教国の人民に請うあり。宗教上の統一、むしろ宗教上の専制はほとんど国民と言える感情を破壊し、政府なるものはただその空名を擁して実権を有せざるに至る、この無政府的禍乱に反動して起こりたるものはかの宗教革命なり。宗教革命は教権の統一および専権を破りて信教自由を立つ、信教の自由すでに立ちて教権ようやく衰え、しかして国民的感情ははじめてふたたび人心に萌す。これを第一の変遷となす。日本近時の政論派にしてキリスト教と抱合し、あえて国民的感情を嘲る者は、まさに泰西百年前の政論を復習するに過ぎざるのみ。しかしてこの輩は自ら称して進歩と叫ぶ、吾輩はこれを呼びて泰西的復古論派といわん。
   その政治的変遷
 欧州人はすでに宗教上の圧制を破り外部に対して国民的精神を回復せり。しかれども当時の国民はなおその内部における統一を失い、権力の偏重によりて政治上の圧制を存す。ここにおいて人民はこの第二の圧制を破ることに向かいたり。八十九年における仏国大革命は実に国民的感情の第二変遷を来たせり。この革命はもと毫も国民的感情に関係なく、その鋒もっぱら旧慣の破壊に向かい、封建論を唱うる者を死刑に処したるがごときの点より見れば、むしろ国民的感情に反対するの観ありき。しかれども国民的政治は国民統一をもってその一条件となす。封建遺制の錯雑を一掃して、かの宣言書にいわゆる単一不分の共和国を立つるは、日本の維新改革に近似して内部における国民的精神の発達と言うべし。すでにして仏人の国民精神すなわち愛国心はその適度を越えてほとんど非国民精神を呼び起こしたり。宣言の一条たる四海兄弟の原則は端なく国民といえる藩籬はんりを忘れしめ、共和国の兵は国の異同を問わずただ暴君に向かうべしと大叫するに至りたり。ここにおいて欧州諸国はさきにローマ教皇の威力に脅かされたるごとく、その第二として仏国革命の威力に脅かされ、ふたたび国民的感情の挫折に遭遇せり。しかしてこの恐るべき威力に対してはまた反動を来たすこと自然なりと言うべし。欧州人はすでに革命の思想に流圧せられたり、しかれどもその自由を保ちその幸福を全うせんには彼らいたずらに革命党の力を借りて一時に快を取るの不得策を感知せり、彼らは国民的精神をもって国民の統一を謀り、しかして国民的政治を建つるの必要に迫られたり。国民的精神はここに至りてふたたび活動し、宗教の異同はもちろん、政論の異同にかかわらず、国籍を同じくするものがともに団結を固くして一致するの至当を認む、吾輩はこれを国民的精神の第二変遷とす。
   その軍事的変遷
 革命の騒乱すでにしずまりたり。希世の英雄ナポレオン第一世は欧州全土を席巻したり。南地中海岸より北スカンジナーヴに至るまで大小の諸国は仏国の旗色を見て降を請い、万乗の王公は仏国武官の監督を受けてわずかにその位を保ちその政を執ることを得たり。ここにおいて欧州人の国民的精神は第三回の挫折をなし、ほとんど「国民」と称する団体を「地方」と言える無形人のごとくに感知するに至れり。法律制度より言語礼習に至るまで人々みな仏国の風に倣い、偸安姑息とうあんこそくの貴族輩に至りては争いてナポレオン帝に臣事せんことを望む。欧州の国民的精神はすでに二回の挫折を経たりといえども、いまだこの回のごとくにはなはだしきことはあらざりき。この回の挫折はほとんど社会の根柢にまで動揺を来たし、当時欧州諸邦が仏国勢力を感受したるさまはなお日本がさきに欧州勢力を感受したる時のごとし。
   泰西における国民論派の発達
 かかるはなはだしき挫折に対しいかでかその反動の起こらざるべき。当時ドイツの学者ラインホールド・シュミード氏の著わせし記述にいわく、
 仏国のかかる待遇は久しく眠りたるドイツ国民的感情を喚醒するに至れり。一八〇六年において恥ずべき敗北を取りし後、ドイツ人はその屈辱をそそがんがため国民的精神と言える造兵場につきて新兵器を捜索したり。さきに国民旨義を排斥して冷淡なる感情または狭隘なる思想とまでに公言したるフィフテ氏といえども、この実勢を見てかの有名なる演説、「ドイツ国民に告ぐ」と題する有名の演説をなし、切に国民的感情を喚起して、この感想あるにあらざれば、自国の安寧を保つあたわずとまでに切言したり。
 イタリアの学者ジョゼフ・ド・メストル氏の『外交通信録』もまた当時の著述に係れり。その一節に言えるあり、いわく、
 国民と言える事柄は世界においてゆるがせにすべからざる事柄なり。礼容においても感情においても、また利益においても、国民と言える思想は一日もゆるがせにすべからず、〔中略〕各国民を統一することは地図の上において別に困難を覚えず。しかれども実際においてはまったく反対なり。世にはとうてい混一すべからざる国民あり。現にイタリアの国民的精神は今日正に激動するにあらずや。
 かくのごとく欧州の諸学者は当時ナポレオンの軍事的勢力に反動して国民論派を拡張したり。この論派がついに勝利を占めて欧州諸国は互いにその特立を全うし、ドイツおよびイタリアのごときは当時非常の屈辱に遭いしにもかかわらず、今日は世界強国の中に算入せらる、これ一に国民的精神の発達に因らずんばあらず。
   泰西国民論派の本領
 泰西国民的精神の変遷すでにかくのごとし。その国民論派の功績またかくのごとし。されば泰西にありてはナショナリテーの原則をもって鎖国主義・攘夷主義となすものいまだこれあらざるなり。ただにこれあらざるのみならず、むしろこの原則をもってするにあらざれば自由および幸福を全うすべからず。また国民の進歩を望むべからずと言うに至る。けだし国民論派は排外的論派にあらずして反りて博愛的論派なり。保守的論派にあらずしてむしろ進歩的論派なり。百年前に現われたる旧論派にあらずして実に近時に生じたる新論派なり。わが国民論派の欧化主義に反動して起こりたるは、なお彼の国民論派の仏国圧制に反動して起こりたるがごときのみ。日本人民が欧州の文化に向かって伏拝したることはまさに欧州諸邦の人民が仏国の兵威に向かって伏拝したると同一般なり。されば国民論派の日本に起こりし原因はその欧州に起こりし原因と比較して、ただ文力と武力との差違あるに過ぎず。
   日本における国民論派の大旨
 世界と国民との関係はなお国家と個人との関係に同じ。個人といえる思想が国家と相容るるに難からざるがごとく、国民的精神は世界すなわち博愛的感情ともとより両立するにあまりあり、個人が国家に対してつくすべきの義務あるがごとく、国民といえる高等の団体もまた世界に対して負うべきの任務あり。世界の文明はなお社会の文明のごとく、各種能力の協合および各種勢力の競争によりてもってその発達を致すものたるや疑いなし。国民天賦の任務は世界の文明に力を致すにありとすれば、この任務を竭さんがために国民たるものその固有の勢力とその特有の能力とを勉めて保存しおよび発達せざるべからず。以上は国民論派の第一に抱くところの観念にして、国政上の論旨はすべてこの観念より来る。国民論派はその目的をかかる高尚の点に置くがゆえに、他の政論派のごとく政治一方の局面に向かって運行するものにはあらず、国民論派はすでに国民的特性すなわち歴史上より縁起するところのその能力および勢力の保存および発達を大旨とす。されば或る点よりみれば進歩主義たるべく、また他の点より見れば保守主義たるべく、けっして保守もしくは進歩の名をもってこれに冠することを得べからず。かの立憲政体の設立をもって最終の目的となすところの諸政論派とはもとより同一視すべからず。これすなわち国民論派の特色なり。
   政事における国民論派の大要
 国民的政治〔ナショナル・ポリチック〕とは外に対して国民の特立を意味し、しかして内においては国民の統一を意味す。国民の統一とはおよそ本来において国民全体に属すべきものは必ずこれを国民的ナションナールにするの謂なり。昔時にありてはいまだ国民の統一なるものあらず、そのこれあるがごときはただ外観に過ぎずして、さらに実相を見れば一種族・一地方または一党与の専恣たることを免れざるなり。帝室のごとき、政府のごとき、法制のごとき、裁判のごとき、兵馬のごとき、租税のごとき、およそこれらの事物はみな本来において国民全体に属すべきものとす。しかるに昔時にありてはかかる事物みな国民中の一部に任してその私領となせり。これ国民統一の実なきものなり。国民論派は内部に向かいてこの偏頗および分裂を匡済せんと欲す。されば国民的政治とはこの点においてはすなわち世俗のいわゆる輿論政治なりと言うべし、「天下は天下の天下なり」と言える確言をばこれを実地に適用し、国民全体をして国民的任務を分掌せしめんことは国民論派の内治における第一の要旨なりとす、この理由によりて国民論派は立憲君主政体の善政体なることを確定す。
   国民論派と他の諸論派
〔第一〕国民論派は立憲政体すなわち代議政体を善良の政体なりと認むれども、その善政体たるゆえんはまったく国民的統一をなすの便法たるをもってなり。他の政論派はみないわく、「代議政体はもっとも進歩せる政体なり、文明諸国において建つるところの文明政体なり、十九世紀の大勢に適応する自由政体なり、ゆえに日本もこの大勢に応じて東洋的政体を変改すべし」と。国民論派もまたその然るを知る。しかれどもかかる流行的理論をいて軽々しく政体その他の変改を主張することは国民論派のあえてせざるところなり。何となればこの論派はいたずらに改革そのものを目的とするにあらず。しかしてむしろ改革より生ずべき結果を目的とするものなればなり。
〔第二〕国民論派は立憲政体をもって最終の目的となすものにはあらず。これまた他の政論派と大いに異なるところの一点なり。他の論派は進歩主義の名をもって立憲政の施行を主張し、自由主義の名をもって代議政の設立を主張す、しかれども国民論派は国民的任務を尽くさんがために国民全般にこの任務を負わしめんことを期し、この期望よりして代議政体の至当を認む。代議政すなわち立憲政は他の論派にありては最終の目的なれども、国民論派にありては一の方法たるに過ぎず。しからばその目的はいかん、いわく、「国民全体の力をもって内部の富強進歩を計り、もって世界の文明に力を致さんこと」これその最終の目的なり。ゆえにこの論派は国家または個人の観念を取りてその一方に偏依するがごときことあらず。国の情態に応じ国家の権力と個人の権利とを調和し、これをして偏依の患なからしめんことを期す。何となればその偏依あるいは自由を破滅し、あるいは秩序を紊乱びんらんし、しかして国民的統一を失えばなり。
〔第三〕国民論派は社会百般の事物についてのごとく、政治法律の上についても国民的特立を必要の条件となす。けだしこの論派はつねに史蹟を考量の中に算え各国民の間に制度文物の異同あることをば確認せり、しかのみならず強固なる国民はその一国民たるの表標として特別の制度を有するの至当なるを確認せり。このゆえに代議制度はもと泰西より取りきたるにもせよ、一旦これを日本に移植する上は必ずこれに特別の色容を付し、日本国民とこの制度との密着を図らざるべからず、これまた国民論派の他論派に異なるところの特性なり。元来代議政体は英国をもってその創立者となす。しかれどもこれを仏国に移したる後はついに仏国的色容を帯び、これを独国へ移したる後はまた独国的色容を帯ぶ。しかしてその代議制度たるゆえんに至りてはみな同じ、国民論派は立憲政体を日本的にして世界中に一種の制度を創成せんことを期するものなり。
   国民論派の内政旨義
 立憲政体に対する国民論派が他の論派と異なるところの諸点は以上に述べたるがごとし。要するに国民論派は単に抽象的原則を神聖にしてこれを崇拝するものにあらず。まず国民の任務を確認してこれに要用なるものを採択し、もって国政上の大旨を定むるものなり。自由主義は個人の賦能を発達して国民実力の進歩を図るに必要なり、平等主義は国家の安寧を保持して国民多数の志望を充たすに必要なり、ゆえに国家論派はこの二原則を政事上の重要なる条件と見做す。あえてその天賦の権利たりまたは泰西の風儀たるがゆえをもってするにはあらざるなり。専制の要素は国家の綜収および活動に必要なり、ゆえに国民論派は天皇の大権を固くせんことを期す。共和の要素は権力の濫用を防ぐに必要なり、ゆえに国民論派は内閣の責任を明らかにせんことを期す。貴族主義は国家の秩序を保つに必要なり、ゆえに国民論派は華族および貴族院の存立に異議を抱かず。平民主義は権利の享有をあまねくするに必要なり、ゆえに国民論派は衆議院の完全なる機制および選挙権の拡張を期す。個人の力を用いてあたわざるものには干渉もとより必要なり、国家の権を施して反りて害あるものには自治もとより必要なり。国民論派はあえて抽象的理論をり、もって一切の干渉を非し、また一切の自治を是とするものにあらず。要は国民の統一およびその進歩を期するに外ならず。個人主義を取るものは国家は個人のために存すと主張し、国家主義を取るものは個人は国家のために存すと主張す。二者ともに旧時の迷想を争うに過ぎず。国民論派は個人と国家とを并立してはじめて国家の統一および発育を得るものとなせり。すなわち国民の事情に応じてこの二者の伸縮を決し、理論上の伸縮いずれにあるも国民の事情に適応するかぎりはその実際上の結果はすなわちみな同一なればなり。
   国民論派の対外旨義
 国民論派の内治に係る旨義は大概かくのごとし。今その外政に係る大要を吟味せん。国民論派は第一に世界中各国民の対等権利を識認するものなり。個人に貧富賢愚の差あることは実際上免れがたし、しかれどもその実際上の差等あるにもかかわらず、個人自身よりしては自ら侮りて卑屈の地に立つべからざるなり。該論派はこの自負の感情をもって一国民にも存すべきものとなす。各国民みなその兵力富力に差等あるは事実なり、日本国民は欧州の諸国民に比して貧弱たることを免れず、しかれども一国民として世界に立つの間はこの無形上の差等に驚きて自ら侮ることを得ず。この点において国民論派は内治干渉の嫌いあるものに対ししばしば痛く反対をなしたり。国民論派の主持するところの国民的特立なるものは必ず国民的自負心を要用となす、ゆえに国民的自負心はけっして不正当の感情にあらざるのみならず、これなければ一国民たるものの存在を明らかにするあたわざるなり。しかして世界の文明はこの国民的自負心の競争より起こるものというも不可なかるべし。されば国民論派は日本の比較上貧弱なることを知らざるにあらざれども、この差等を別問題として国際上の対等権利は一日も屈辱すべからずとなし、一旦不幸にして屈辱したるものはこれが回復を一日も忘るべからずとなす。これを要するに他の政論派は欧米諸国民の富強をもってその人種固有の能力に帰し、とうてい東洋人種の企及すべきにあらずと断ずれども、王公将相いずくんぞ種あらんや。国民論派は一国民自身の位地よりして、またその本分よりしてかの自然的優劣論をば痛く排斥するものなり。
   国民論派の発達
 国民論派は実に欧化風潮に反対して起こりたり。しかれどもこの論派はただに欧化風潮を停止することをもって満足するものにあらず。なお進んで日本の社交上および政事上に構成的論旨を有するものなり、されば国民論派は一時の反動的論派にあらずして、将来永遠に大目的を有するところの新論派と言うべし。彼もとより自由の理を識認す。しかれども自由なるものは智識の進歩に応じて存することを信ず。彼もとより平等の義を識認す。しかれども平等なるものは道徳の発育とともに生ずることを信ず。智識は自由の本なり道徳は平等の源なり、自由の理明らかに平等の義立ちて、しかして国民的政治は全きを得。自治の能なきものは人に治められざるを得ず、自営の力なきものは他に制せられざるを得ず、自由は智識の進歩して固有の能力を用ゆるものほど多くこれを有す。貴賤の間に礼譲存し貧富の交に敬愛行なわれ、しかして後にはじめて平等の義、国民一致の実相を見るべし。国民論派はこの点よりして教育の要件たることを信ず。さきに国民論派のはじめて世に現われたるは『日本人』においてし、次にこれを発揚するにあずかりたるものはわが『日本』これなり。当初世人はその言論のすこぶる世の風潮に逆らうのはなはだしきをもって、あるいはこれを攘夷論と罵り、あるいはこれを鎖国説と嘲り、目するに排外的激論の再生をもってしたり。かつ固陋にして単に旧物を慕うの論者は一強援を得たるがごとくに感じ、争い起こりてこれに和し、ついに国粋保存と言える異称は守旧論派の代名詞となるに至れり。これ国民論派の発達を妨げたる一大妨障なりき。吾輩は『近時政論考』を草し終わらんとするに臨み、いささかその大旨を明らかにしてこれが妨障を除かざるべからずと信ず。今この編の終尾において吾輩はふたたび揚言せん、いわく、「君子のその真理を明らかにせんとするや、その説の時に容れられざるを憂えず、その理の世に誤解せらるるを憂う」と。吾輩はとくに国民論派のためにこれを言う。





底本:「日本の名著 37 陸羯南 三宅雪嶺」中公バックス、中央公論社
   1984(昭和59)年8月20日初版発行
底本の親本:「近時政論考」日本新聞社
   1891(明治24)年6月4日発行
入力:tsuru
校正:小林繁雄
2006年9月13日作成
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