邪宗縁起
一
十四の
(……そは
「姫やどうぞ読まないでおくれ。
「いいえお姉様お聞き遊ばせよ。これからが面白いのでございますもの。――許婚のある
「姫やどうぞ読まないでおくれ。妾は聞きたくはないのだよ」
「お姉様それでは止めましょうね。……」
姫は静かに
「ああ、もう今日も日が暮れる。お部屋が大変暗くなった……お姉様
「妾はこのような夕暮れが一番気に入っているのだよ……もう少しこのままにしておいておくれ……お前はそうでもなかったねえ」
「お姉様
「
「陰気な事は嫌いですの。このお部屋も嫌いですの。いつも陰気でございますもの。お姉様灯火を点けましょうか」
姉の

幼い妹の久田姫がこのお部屋も嫌いですのと姉に訴えたのはもっともであった。
久田姫は立ち上がった。静かに画像の前へ行き二人の武士を見比べたが、
「ねえお姉様、何故このお二人は、こうも恐ろしいお顔をして向かい合っているのでございましょう。お互いの眼から毒でも吹き出しお互いの眼を
「ほんとにお前の云う通りその画像のお二人は不思議なお顔をしているのねえ」
「お姉様」と云いながら久田姫はつと近寄り柵の
「それこそ妄想というものですよ」柵はこうは云ったものの、その声は際立って
「お前はいつぞやも画像を見て同じような事を云ったのねえ。……ああお前のその妄想がどんなに妾を苦しめるでしょう……いいえお前のお父様はどちらにも似てはおいでなさらないのですよ」妹の顔をつくづく見守り重い
「いいえ妾には信じられませぬ」久田姫は
こう云うと久田姫は眼を抑えた。指と指との隙を洩れて涙が一筋流れ出た。彼女は泣いているのである。
窓を透して射し込んでいた
その時静かに襖が開いて
「まあこのお部屋の暗いことは。
二
「はい」
と久田姫は立ち上がった。そろそろと
年寄りの尼を真ん中にして久田姫と
尼は
「アーメン」
「アーメン」
と二人の姉妹もそれに続いてさも恭しくこう云った。
「お祈りはもう済みました。お休みなさりませ、お休みなさりませ」
尼は云い捨てて立ち去った。室内は再び静かになった。と、遠くから
久田姫は立ち上がり何気なく窓へ近寄って行ったが、
「……おお湖は真っ暗だ。どうやら嵐が出たらしい。
姉の
「お姉様」
と云いながら久田姫は窓を離れ姉の後ろへ寄り添った。
「何をお泣きなされます。
隣りの部屋へ歩きながら、
「妾はこれからはただ一人で考えることに致しましょう。お休みなさりませお姉様。夜はまだ早いのではございますが、妾は悲しくなりましたゆえ、いつものように夜の床の上でご本を読むことに致します。お休みなさりませお姉様」
彼女の立ち去ったその後は遠くから聞こえる祈祷の声ばかりが
ふと柵は顔を上げたがその眼には涙が溢れている。
「可哀そうな久田姫や、お前は何一つこの
彼女はよろよろと立ち上がり画像の前まで行ったかと思うと二幅の画像を
「ほんとに姫が云ったように何んとマアこの二人の人は悲しそうな顔をしているのであろう。云えば恥となり云わねば
その時一人の老人が影のように部屋の中へはいって来た。乱れた白髪
「お
「おお、お前は島太夫……何か妾にご用なの?」
「もうお休みでござりますか?」
「お
「それがよろしゅうござります。不吉の晩はなるだけ早くお休み遊ばすに限ります」
「え、不吉の晩というのは?」
老人は窓を指さしたが、
「ご覧あそばせ闇の湖に一つ
云われて
「十四年前のある晩のこと、ちょうどあのような赤い灯が湖水を越えて行きましたが、よもやお忘れではござりますまいな? その時あなた様は今夜のようにやはりその窓でそのように湖水を眺めておられました。……お顔の色もお体も今夜のように
「……その夜お城から乗り出した
「それも妾は覚えている。一人は
「はい、そうしてそのお方様こそこの城の
「夏彦様! 夏彦様!」
三
突然思慕に
「不吉の夜でござります」――老いたる従者はまた云った。「何故と申しますに、十四年前の古い思い出が
影のように現われた老人は、影のようにこの部屋から去ろうとしたが、ふと戸口で振り返った。
「思い出したことがござります。と申するは
「私の
「また二点鐘を打つ時は……」
「夏彦様が帰った合図!」
「その通りでござります。今夜のような不吉の晩にはその鐘が不意に湖上から鳴らないものでもござりませぬ。よくよくご用心遊ばしませ」
足音を消して老人は廻廊の方へ出て行った。
後は
と、
「夏彦様夏彦様、果たし合いにお勝ちくださりませ! そうしてどうぞ一刻も早くお城へお帰りくださりませ! 三点鐘の鳴らぬよう二点鐘の鳴りますように神様お加護くださりませ!」
とたんに湖上から鐘の音が窓を通して聞こえて来た。赤い灯火のついている軍船で鳴らす鐘に相違ない。
ボーンと、一つ
「二点鐘!」と柵は聞き耳をたてながら呟いた。しかし間もなく三つ目の鐘が鮮かに尾を曳いて鳴り渡った。そしてそのまま絶えたのである。三点鐘が鳴ったのだ。恋しい夏彦は帰らずに、名ばかり許婚の宗介が果たし合いに勝って帰って来たのだ。
柵の顔は蒼白となり眼ばかりギラギラと輝いたが、その眼で夏彦の画像を見詰め物狂わしくこう叫んだ。
「夏彦様夏彦様! あなたは永久にこのお城へはお帰りなさらないのでござりますね。十四年の間、恋と
彼女はにわかに冷ややかな眼で宗介の画像に見入ったが、
「あなたがこのお城へ帰ったとて何が待っておりましょうぞ。お
それから彼女はそろそろと歩いて姫の寝間の前まで来た。
「可哀そうな久田姫や、お前の恋しがっているお父様は、もうこの世にはおいでなさらぬのだよ。お前はこれからは一生をちょうど
そこに立ててある
あわただしい足音を響かせて、島太夫が部屋へ飛び込んで来たのはそれから間もなくのことであった。
「お
と彼は
「お、これは灯が消えている。それにお休みなされたらしい。……お姫様! お姫様! お起き遊ばさねばなりませぬ! 三点鐘が鳴りました!」
しかしどこからも返辞がない。几帳の蔭はひそやかである。
四
「寝息も聞こえぬとはどうしたことだ。よくよくご熟睡遊ばしたと見える。がどうしてもお起こし申さねばならぬ」彼は几帳へ手を掛けたが、「ごめんくださりませお姫様……あっ! これは!
思わず膝をついた
「誰だ!」と島太夫は声を掛ける。「何用あって参ったぞ! 身分を明かし名をなのれ!」
すると不思議な侵入者は葬式に鳴らす太鼓のような深い不気味な濁った声で、
「命令するのだ!
「そういうお声は? ……あなた様は?」
「俺はこの城の持ち主だ! 俺は橘宗介だ!」
「お殿様でござりましたか」
「何より先に
島太夫は
宗介は部屋の中を見廻したが、
「……これが昔の俺の城か。あの
「その間中このお城にもいろいろの出来事がござりました」
老いたる
「お城に止どまった
「城は亡びても武士は死んでも俺の
「はい、ご無事でござります」
「俺はあの女を愛していた。あの女は俺の許婚だ。俺は死ぬほど愛していた。それだのに柵は俺のことを
「…………」――老人は無言で包物を受け取り龕の前まで歩み寄ったが、そろそろと包物をほどいて見た。男の生首が現われた。
「見たか。首を。夏彦の
「…………」
五
「何も恐れることはない。何も
「お連れ致さずともお
聞くと一緒に宗介はつかつかと几帳の前まで行った。
「柵、柵、眼を
とにわかに
と、灯火の
思わず宗介は両手を延ばし彼女の
「お姉様!」
と叫びながら柵の屍骸へ取り
「誰だ!」
と宗介は眼を見張りその乙女を見詰めたが、何んに驚いたか抱えていた柵をはたと床へ取り落とした。
と、島太夫は沈痛にむしろ
「お姫様でござります。柵様が十四年前にお産み遊ばしたお姫様の久田姫でござります」
「十四年前に産んだというか? ふうむ、確かに十四年前だな? ……これ娘顔を上げろ! おおいかにも
宗介は腰の太刀を抜き、
「栄えに栄えた城は亡び仇も恋人も

叫び狂い
ここまで語って来た杉右衛門は岩の上に突っ立ったまま静かに
「さて」と杉右衛門は語りつづけた。「我らのご先祖

と窩人の
「ところがこの頃どこから来たものか白法師と自分から名を
「そうだそうだ!」
と叫ぶ声が集まった窩人の口々から雷のように
「さて」と一段声を高め杉右衛門はさらに云い出そうとしたが、にわかに棒のように立ちすくみ山の峰の方を見詰め出した。群がった窩人達は怪しみながら彼の眼を追って峰の方を見た。と同音に「わっ!」と叫び大事な
峰は今や山火事なのである。
窩人の部落は今やまさに焼き払われようとしているのである。
六
窩人の頭領杉右衛門の娘の今年十九の
父は寄り合いに出かけて行き弟の牛丸もどこへ行ったものか家の内にはいなかった。
彼女は泣き
「あの人

彼女の前に誰かいて、その人に訴えてでもいるかのように彼女はいつまでも泣き
秋の真昼のことであって黄味の勝った陽の光が家の内まで射し込んでいる。
山吹は窩人族の乙女としてはほとんど類なく美しかった。やはり頭領の一人娘だけに衣裳などでも他の娘などより立派な物を着ているので自然引っ立ちもするのであろうが、下界高島の城下における立派な武士の令嬢と云っても充分通る
その美しい山吹が秋陽に半顔を照らしながらシクシク泣いているのであるから、ちょっと形容出来がたいほど
その時、手近かの林の中から
「うわア、姉さん泣いてらあ。こいつアほんとに面白いや」
林の中で捕ったのでもあろう雉を一羽
「今ね、姉さん、多四郎さんがね、姉さんを訪ねてここへ来るよ」
「え、まあ本当! 多四郎さんが?」
「林の中から坂路の方を見たら素晴らしく
「まあそれじゃ本当なんだね」
山吹は思わず手を上げて髪の乱れを掻き上げた。
牛丸はそれを見るとニヤニヤして、
「ふうんこいつア妙だなあ、多四郎さんのこととなると姉さん変にソワソワするんだもの」
「そんな事云うもんじゃありませんよ。お前さんはまだ子供じゃないの。……それで多四郎さんは何んと云って?」
「ああ
「そうしてお前さんは何んて答えて?」心配そうに訊くのであった。
牛丸はまたもニヤニヤしながら、「二十二だって云ってやったよ。つまり三つ懸け値をしてね」
「まあ」と
「どうしようどうしよう
二人の
七
牛丸は部屋の中を見廻したが盆に高く積まれてある秋栗の山を見付けると、
「姉さん誰かお客さんがあったの?」
「ああ、あったよ岩太郎さんがね……」
「ああそう、あの人はいい人だねえ。
「
二人はちょっと眼を見合わせたがそのまましばらく黙っていた。
林から林へ移って行く小鳥の群が幾度となく二人の前を過ぎて行った。風もないのにホロホロホロホロと
事のない時の部落の光景はまことに平和なものである。
「や、来たらしい。足の音がするよ。多四郎さんが来たんだよ」
牛丸はこう云って坂の方を首をのばして見やったが、
「下界の奴なんか意気地なしさね、あんな坂を上るのに大息を吐いているんだからな。――俺らはそれでは林へ行って今度は山鳥でも捕ってやろう」
牛丸はそのまま走り出したが、やがて林に隠れてしまった。同時にひょっこり坂の登り口へ形のよい姿を現わしたのは問題の主の多四郎であった。
彼は年の頃二十四、五、
「お、これは山吹様、あなたお一人でございますかな? お父様はどこへ参られましたかな? え、寄り合いにおいでなされたと?」
多四郎は愛想よく笑いながら山吹の
山吹は何んとなく狼狽して思わず顔を赤らめたりしたが、
「はい、お父様は寄り合いで天狗の宮まで参りました。白法師様を
「あっちへ行っても白法師こっちへ来ても白法師。どうやらお山は白法師のために荒らされているようでございますなあ」
「私のためには
「それはまた何故でございますの」
「だってそうではございませんか。こうしてたった二人きりで差し向かっていることの出来ますのもその白法師様のお蔭ですからな」
云いながら素早く山吹の手をギュッと握ったが、そこは
「エヘヘヘヘ」
と笑ったものの多四郎は少なからずテレたものか、テレ隠しに盆の上の栗を
「ほほう大きな栗ですなあ」わざとらしく眼を見張る。
「よかったらお
「へ、余り物とおっしゃると?」
「あの、お客がありましたのよ」
「あなた一人の所へね?」もう
「ええ心やすい人ですもの。岩さんという方ですわ」
彼女は
「
「それじゃ部落の人ですね」さも
「へ、
「どうぞ」
と山吹は乗り出して来たがもうその眼は
「それジワジワとおいでなすったぞ。この大江戸の話ばかりが
――多四郎はこんなことを思いながら上唇をペロリとなめ、
「……何が美しいと云ったところで江戸の
八
「え、大変とおっしゃると?」
山吹は顔を上気させ眼をうるませて聞き惚れていたが
「何、大変と申したところで悪い意味じゃありませんよ。つまり素晴らしいと云ったまで。――そりゃア素晴らしゅうござんすよ。この辺に咲く山桜、あんなものじゃあありませんね。桃色大輪の吉野桜、それが千本となく万本となく、
「まあ」――と山吹は感嘆の声を思わず口から洩らしたが、「そういう江戸には美しいお方が
「それは沢山おりますとも。それに
「まあ」
とまたも感嘆して山吹は
「ああ
「しめた!」と多四郎は思ったがそういう様子は

「江戸へ行きたいとおっしゃるので? おいでなさりませご案内しましょう。ですから私はお逢いするたびに申しておるではありませんか。あなたのような美しい方が何んでこのような山の中の、しかも
「でも……」と山吹は云いよどんだ。「何んにも知らない田舎者がそのような繁華の土地へ出てあちこちで恥を掻くよりもいっそやっぱりここにいて兎や猿と暮らした方が身のためになりはしますまいか」
「その心配はご無用です。この多四郎が付いておりやす」彼はポンと胸を叩いたがこういう
「あの、そうしてあなたのお家も、お江戸にあるのでございましょうねえ?」
「お江戸? そうそう江戸にあります」
こう多四郎は云ったものの心中ギクリとしたのであった。彼は城下の人間で江戸などに邸はないからである。
「広いお家でございましょうねえ?」
山吹はまたも
「え、私の家ですかな? ……ええまあ随分広うごすなあ」――その実多四郎は家ときたら
「ご家内も随分多いんでしょうねえ?」
「家内ええと、二、二十人」――彼は思わず
「ああ、駄目だわ! 妾なんか!」
突然絶望の声を上げ、山吹が両眼を
「ああ、妾なんか及ばないわ!」
再び彼女は叫んだものである。
「及ばない? 何が? どうしてですな?」
云いながら好機
山吹も今度はとられた手を振り放そうとはしなかった。じっとそのままとらせている。
「でもやっぱり行きたいわ。……」
「あなたはどういうご身分のお方? お
「違いますとも。そうではありませんとも」
「では、お百姓? ああ商人ね! 大きな大きな商人ね! でもどうしてそんなお方が行商などをなさいますの?」
「さあ、そこです。……」
と、多四郎は、また額を
「つまり、見習いをしているので。……」
「ああそう、それで解りました」
山吹はそこで押し黙って何か空想にふけり出した。と、多四郎は彼女の手を自分の口まで持って来てつと唇を着けようとする。その手を山吹はちょっと引いたがそれは無心でしたことであった。そんな事より今や彼女は自分が江戸へ出て行って立身出世をした時の事を空想に浮かべているのであった。
で、多四郎は
と、山吹は
「ああ
「では参ろうじゃありませんか。花の大江戸の真ん中へね」
多四郎は山吹の手を引いた。彼女は彼に引かるるままに彼の胸の上に顔を埋ずめた。
「連れて行ってください! 連れて行ってください! 妾どうしたって江戸へ行きます!」
九
とたんに笑い声が聞こえて来た。ハッとして二人が顔を上げると牛丸が門口に立っている。
「ヤーイ、何をベチャクチャしてるのだい! 岩さんに云い付けるぞ!」
「馬鹿!
そこは部落の女である。猛烈の感情を一時に出して山吹は弟を
「岩さんが何んだ! 岩太郎が何んだよ! 来たら追い出してやるばかりさ!」
「ふん」と牛丸も
山吹も多四郎もそれを聞くと首を差し出して森の方を見た。
「あら、ほんとに岩さんが来る」山吹は
「ははあ、不格好なあの男がそれじゃ岩という男ですな」多四郎は鼻を鳴らしながら、「私の家の庭男にも当たらぬ」
牛丸はさもさも嬉しそうに、「
「おや」
とにわかに多四郎は不安の様子を現わした。
「何んて恐ろしい顔付きだろう。あの妙な人の顔付きは!」
彼は両掛けを取り上げた。そうして横手の
「あら、多四郎さんどうなすったの

山吹は驚いて叫んだが、「
――
後には、部屋の中には誰もいない。黄色い秋陽がしらしらと敷物の上を照らしている。小鳥が一羽戸惑いしてツト部屋の中へ飛び込んで来たが、すぐ驚いたように飛び出して行った。しんと
と、
「牛丸さん、今日は」
「ああ、岩さん、今日は」
「姉さん家においでかね?」
「ええいますよ家の中に」
「どなたかお客さんでもありますか?」
「…………」
「とにかくはいって見ましょうかね」
すぐと土間へはいって来たのは、牛丸と岩太郎と
岩太郎は多四郎と同年輩であった。人柄はまるで反対であった。真面目で熱烈で堅実でいかにも部落の若者らしい。
白衣の人物はそれとは異なり真に神のように
岩太郎は四辺を見廻したが、
「おや誰も家にはいないじゃないか」
「やあ姉さんはどこへ行ったんだろう」牛丸は部屋部屋を探し歩いたが、
「いないいないどこにもいない。ああそれじゃ逃げたんだな。岩さんと逢うのが恥ずかしくて。ようし俺ら探して来よう」
飛び出そうとするのを抑えたのは白衣の妙な人であった。
「探さずともそのうち帰って来よう。巣のある鳥は巣へ帰るものじゃ。……で、お前さんが牛丸さんかね?」
親しそうに妙な人は尋ねたが、その声はちょうど岩を走る清水のように清らかであった。
「悪戯者の牛丸とは私のことでございます」
と、さも
「ハッハッハッ。悪戯者とは面白いね。自分から云うのは正直でよい。――ところでたった今ここから出て坂の方へ逃げた者がある。あれはどういう人間だね?」
「若い男じゃございませんか? もしそうなら多四郎の奴です」
一〇
「なに多四郎?」
と、それを聞くと岩太郎は
「
「へえ、さようでございますか。悪い奴でございますなあ」岩太郎はひどく驚いたが、「それにしてもどうしてあなた様はそれをご存知なのでございましょう?」
「ああそれは何んでもない。私は寸刻の隙さえ惜しんでこの山中を見廻っている者じゃ。で、私はある日の事、その木小屋を見付けたのじゃ。……おや、誰か戸口にいるな。私の話を盗み聞きしている」
なるほど、そう云った瞬間に山吹が戸口からはいって来た。さすがに頬を赤く染め
「ああ姉さん」
「おお山吹!」
二つの声が同時に呼んだ。山吹と呼んだのは岩太郎である。
岩太郎はツト進み出たが、
「山吹、
云われて山吹は眼をあげてその妙な人を眺めたが、にわかにその眼は光を増した。
妙な人は神々しい顔に
「あああなたが山吹さんで? お目にかかれたのを喜んでおります」
「
「山吹!」と岩太郎は情熱をこめ、「山吹、俺は安心している。ここにおられるこのお方がきっと俺達二人の者を
「いやいや
「そうです」
と岩太郎は感謝の
「……恋を失った口惜しさに

「そうそうあの時のあなたというものはまるで狂人のようでしたね」
妙な人は打ち案じながら、
「けれど
「どうぞおきかせくださいますよう」
「……第一番に云って置きたいことは
「はい」と山吹は活気づき、
「それではどうぞ江戸の話をお聞かせなされてくださいまし」
「よろしゅうござる、江戸の話をそれではお聞かせ致すとしましょう」
妙な人は
「江戸は悪魔の巣でござるよ!」
一句鋭く
「いえ違います違います!」
と
「いいえ江戸は美しい人達の
「聞け!」と再び鋭い声が妙な人の口から
さて、そもそも妙な人は何を語ろうとするのであろう? しかし少なくも妙な人は、虚栄虚飾に
一一
岩太郎と山吹とを前に据えて
「……江戸は将軍家おわす所、それはそれはこの上もなく派手な賑やかな所です。上は大名旗本から下は職人商人まで身分不相応に

云いながら静かに身を
「畑を耕す男、車を押す女。楽しそうに叫んでいる子供や犬。……何んと
こう云いながら妙な人は二人の方へ手を延ばした。と、山吹も岩太郎も思わずその手へ
「美しい
「はい」
と岩太郎は涙を流し、つつましく
「たとえ殺すと云われましても今日のお教えに
「岩さん、
「おおそうか、有難てえなア。何んの許すも許さぬもねえ。
二人はひしと抱き合った、すすりなきの声が聞こえて来る、岩太郎の胸へ顔を埋めたそれは山吹の泣き声である。すなわち甘い誘惑のために危うく足を踏みはずそうとして、わずかに助けられた悲喜の情が泣き声となってほとばしったのである。
誰もじっと黙っている。
秋の真昼は静かである。
さっきから門口に
「あなたは偉い方ですねえ、あなたはどういう方なんです?」
すると白衣の妙な人は穏かな微笑を頬に
「
「坊さん? ううん、坊さんじゃないよ。だって頭に髪があるじゃないか」
「だから私は
「あなたの名は何んて云うの?」
「私には本来名はないのじゃ。……私は白衣を
「えっ」
と牛丸は驚いたが、驚いたのは牛丸ばかりではなく山吹も岩太郎も仰天して、妙な人をつくづくと見た。
「何も驚くことはない」
白法師は
「部落の人達が憎み嫌う白法師とは私のことじゃ。しかし私は悪魔ではない。私はかえって天使の
白法師の眼はこう云った時
二人の恋人は抱き合ったまま白法師の後を見送っている。
一二
こういうことがあってから一月ほどの日が
冬という季節は窩人達にとっては
雪は毎日降りに降る。
火を
彼らの話の題材と云えば「宗介天狗」の事ばかりで、彼らにとって「宗介天狗」は誰よりも尊い守り本尊であった。
もちろん白法師の噂も出た。
「部落の平和を破る者だ」
こう云って人々は憎むのであった。――しかし
深山の夜は更けていた。
空に
見渡す限り雪に
と、一点黒い影が雪の上へ浮かび出た。熊か? いやいや人間らしい。しかもどうやら重い物を背中に背負っているらしい。ノロノロ
ここは八ヶ嶽の中腹である。窩人の部落からは真下に当たる「
その絶壁の下まで来ると黒い人影は立ち止まった。
「おい」
と、不意に呼びかけた。
「俺だ俺だ早く戸を開けてくれ」――
誰をいったい呼んでいるのであろう。誰もその辺にはいないではないか。それに戸を開けろと云ったところでどこにも家などないではないか。
と、不思議にもどこからともなく答える声が聞こえて来た。
「おい、誰だ? 権九郎か?」
すると黒い人影は寒そうに声を
「
「
「へ、ご念にゃ及ばねえ。数々の
「お前一人で来たんだろうな?」
「こいついよいよ関所だわえ。
「よし。それじゃ戸を開けるぜ」
声と一緒にガチンという錠を外す音が聞こえて来たがすぐその後からギーという戸の
木々で隠され雪で蔽われ外見からはほとんど見えないけれど絶壁の裾の
再び戸の軋る音がして火影が一時に消えたのは、その小屋の戸が閉ざされたからで、権九郎の姿の見えなくなったのは、その小屋の中へはいったからであろう。
後は寂しく静かである。
バサッと大きな音がした。
その時、突然峰の方から
灌木に
焚火を中にして二人の男が茶碗で酒を呑んでいる。
五味多四郎と権九郎とである。
色魔らしい美しい多四郎の顔は、酒と火気とで紅色を呈し、馬鹿に機嫌がよいと見えてのべつ幕なしに
権九郎の方は四十過ぎらしく、肥えた
小屋の中は陽気である。
一三
「おや、いったいどうしたんだろう? やけに部落では騒いでるじゃねえか」
権九郎はちょいと耳を
「そうさ。馬鹿に賑やかだの。宴会でも開いているのだろうよ」ニヤニヤ笑いながら多四郎は云う。「計画いよいよ図に当たりかね」
「え、何んだって? 計画だって?
「まあサ権九、そうは云わねえものだ。大きな仕事をしようとするには長い用意がいるからの」
「そいつア俺にも解っているが、さてその計画というやつがな、どうも俺には呑み込めねえ。たかが城下の味噌や米をこの
「こうこう権九、拝むぜ拝むぜ。蚊の涙にも足りねえようなそれっぱかりの儲けを目当にこんな小屋まで造ると思うか。俺ののぞみはもっと大きい」
「豪勢強気に出やがったな。こいつア大きに話せるわえ。それじゃ頼む聞かせてくんな。お前の計画っていうやつをな」
「うふ、とうとう降参か、智恵のねえ奴は気の毒なものさね。……よしか、話すから聞きねえよ。俺の目差す
「何んだ
「だからどうだって云うのだえ?」
「珍らしくもねえとこう云うのさ」
「お前は玉を見ねえからだ」
「たとえどんなに上玉でもものの千両とは売れもしめえ」
「何んだ金が欲しいのか。金なら別口が控えていらあ……女の話はお預けか?」
「いやさ順序で聞きやしょう」権九郎はニタリと苦笑する。
「ほほう
「そいつア聞くにも当たるめえ」
「しかも杉右衛門の一人娘よ」
「部落の頭の杉右衛門のな?」
「うん」と多四郎は大きく頷く、「年は十九、
「へ、そいつもご同様改めて聞くにも当たりますめえ」
「そこは順序だ。黙って聞きねえよ。よしか。素晴らしい
「
「江戸へ駈け落ちと評定一決。……」
「へえ、そいつア強気だのう」
「ところがどうも後が悪い」
「……と、来るだろうと思っていた。本文通り
「
「見たくもねえ人相だの。まず女難は云うまでもなしか」
「うわア、
「ええ物覚えの悪い野郎だ。邪魔がはいったところまでよ」
「うん。違えねえ、その邪魔だが、相手もあろうに坊主とけつかる」
「ウワッハハハ、ウワッハハハ」
「おい笑うのは
「でもお前坊主丸儲けよ。お前に勝ち目はねえじゃねえか」
「だから
「え、悄気てるって? その
「引き戻す
「智恵を貸さねえものでもねえが、女の様子はどうなんだえ」
「俺らに逃げを張っているのだ」
「ふうん、そいつア困ったのう」
「何んだ! それで智恵面があるか! 人に貸そうも凄じい。……ちゃアんと目算は出来てるのよ。そうよここだ、胸三寸」
「それじゃ早く云えばいいに」
「お前をちょっと
「
と云いながら権九郎は城下からここまで背負って来た包み物を解き出した。
美しい
「男が見てさえ悪かあねえ。若い女に見せようものなら、それこそ飛びついて来るだろう」
「ははあ、それじゃその
「坊さんの説教と俺の術とどっちが娘っ子によく利くか、験して見るのも悪かあねえ、何んと権九そうじゃねえか」
一四
焚火はどんどん景気よく燃える、小屋の中は暖かい。
畳なら十枚は敷けるであろう、一間しかない小屋の中には、
「さて」
と権九郎は舌なめずりをし、茶碗の酒をグッと干したが、
「女の話はそれで打ち止めか、金の話はどうなんだい?」
「こいつあちょっと話せねえの。計画
「へ、云ってるぜ、ちゃらっぽこを、その計画が怪しいものさ」
「おやおや
「まあそう云わずと聞かせてくんな、一人占めは
「へ、またお決まりの芝居もどきか。うん一人占めと云われちゃ俺も何んだか気持ちが悪い。よしきたそれじゃ明かしてやろう、まず金高から聞かせようかの」
「千両かな? 二千両かな?」
「千や二千の
「うわあ、大きく出やがったぞ」
「俺の睨みがはずれなけりゃ小判で数えて一万両か」
「何、一万? 正気の沙汰かな?」
「なんと
「そうしてそりゃあどこにあるのだ?」
「
「ふうん、それじゃ窩人部落か?」
「天狗の宮の内陣にな。……そこに大きな木像がある。身の
「それがいったいどうしたんだい?」
「木像は
「それは大きに勇ましいことで」
「その甲冑が一万両だ!」
「どうも俺にゃ解らねえ」
「
「……が、どうして盗む気だな? まさか部落も通れめえ」
すると多四郎はひょいと立ったが、そこに置いてある
「おお権九、ちょっと来ねえ、
先に立って小屋を出た。
で、権九郎も続いて出る。
戸外の雪は松明に照らされボッとそこだけ桃色に明るみ
多四郎は雪を踏み砕き絶壁の方へ歩いて行ったが、急に立ち止まって振り返った。
「おお権九、ここを見るがいい」
云いながら松明を差し付けた。
氷雪に
「ううむ」
と権九郎は唸り出した。この根気強い丹念仕事にすっかり感心したのであった。
「どうだ」と多四郎は気負った声で、「これでも俺を馬鹿にするか。……これは俺が
「一言もねえ、感心した。そうだここまで
「名に負うそいつが重いと来ている」
「一万両の金目だからの」
「ところで俺は
「いや飛んだ銀流しよ」
「そこでお前を見立てたのよ」
「これじゃまるで据え膳だ、出来上がったところでさあ一口か」
「厭か」
「何んの」
「では承知か」
「是非片棒かつぎやしょう」
ドッとまたもや山上から賑やかな笑い声が聞こえて来た。
「あれだ、あれだよ、あの笑い声だよ、俺達にとっての
「はてね、俺には解らねえ」
「何さ、雪のある間だけは部落はいつもお祭りだってことよ。その隙に仕事をしようって事よ」
一五
こういうことがあってからまた幾月かの日が経った。
一月となり二月となり、暖かい江戸では梅が散り桜の花が咲こうというのに、窩人部落の笹の平は深い雪に包まれていた。
そうして大変平和であった。
いつも唄声と笑い声とが点々と散らばって立っている家々の中から聞こえて来た。
彼らは歓楽に
しかしそういう平和な部落にも時あって
ある日、大声で
人々は驚いて彼を引き止めて、どうしたのかと
「杉右衛門の娘の俺の
これが岩太郎の返辞であった。
「
と、人々は、それを聞くとまず云った。
「この結構な
こう云って彼らは部落を去った女を、あるいは憎みあるいは憐れんだ。
しかし今は早春であり部落は雪に包まれている。彼らにとっての享楽時代である。で、彼らは
とは云え、
まず岩太郎の心持ちから云えば、嫉妬、憤怒、そして悲哀。――この三つの感情が胸の中で取っ組み合い一時の平和さえ得られないのであった。
で、せめて
杉右衛門の心持ちも悲惨であった。彼は部落の
「部落の長たる自分の娘が宗介天狗のお心持ちに
しかし、そう思う心の端から、
「身分違いの部落の女が、下界の男と契ったところでやがて捨てられるは知れたことだ、一旦山を下りたからは二度と再び帰って来ることは出来ぬ。人里にも住めず山にも帰れず、その時いったいどうするぞ? 首を
十年前に妻を死なせ、女気といえば娘ばかり、その娘に逃げられた今は家には杉右衛門ただ一人。時々同じ
今日も
どうやら熊でも捕れたらしい。いわゆる恐ろしい「熊吹雪」である。
杉右衛門はじっと考えている。
もう夕暮れに近かった。部屋の中はほとんど暗い。しかし
その時表の戸が開いて若者がノッソリはいって来た。
「おお岩か」
とそれと見ると、
「ああそうだよ。
こう云いながら岩太郎は囲炉裡の側へ近寄って来たが杉右衛門に向かい合って
「
白鳥をドサリと囲炉裡
「なに酒か済まねえなア」
それから焚火でかんをして二人はグイグイやり出した。
しばらく二人とも黙っている。
それが二人には胸苦しいのである。
一六
「岩」
と不意に杉右衛門は云った。
「お前ちっとも酔わねえじゃねえか」
「そういう爺つぁんだって酔ってねえようだな」
「どうしたのか俺はちっとも酔えねえ」
「俺もそうだ、ちっとも酔えねえ」
そこで二人は沈黙した。その沈黙は長かった。そうして息苦しい沈黙である。
戸の隙間から吹き込むと見えて雪が二人の肩へ掛かった。嵐の名残りが迷い込んだものかパッと焚火が横になぐれたが、またすぐスッと立ち直った。
まだ二人は黙っている。
と、突然岩太郎が云った。
「どうも俺には解らねえ! どう考えても解らねえ!」
「何が!」
と杉右衛門が突っ込んで行く。
「何がってお前女の心がよ!」
「女と云わずに山吹と云え!」
「おお云うとも! おお云うとも! 俺にはどうしても解らねえ。あの山吹の心持ちがよ!」
「あいつは悪魔に
「そう云ってしまえばそれまでだが、俺はもっと知りてえのだ、何が山吹を
「そんな事を聞いて何んになる」
「なんにもならねえが聞いてみてえのよ」
「ふん、つまらねえ
そこでまた二人は黙り込んだ。二升の酒が尽きかかった。
「そうだ。あいつがよくなかった」
今度は杉右衛門が呻くように云った。「あの時うんと叱って置いたらこんな騒動にはなるめえものを」
「え?」と岩太郎は聞き咎める。「爺つぁん何かあったのかな?」
「あいつがいなくなる少し前よ、珍らしくあの男がやって来た」
「あの男? 多四郎かな?」
「そうだ行商のあいつがな、そうしてそこの縁先で色々の物を拡げたっけ。俺が見てさえ眼が
「もう解った。ふうむ、そうか。……それでやっと胸に落ちた。爺つぁん!」――と岩太郎は声を
「おいよ」と杉右衛門は眼を見張る。
「俺アいよいよ思い切るよ」
「うん。その方がよさそうだ」
「思い思われた男を捨てて帯や簪へ眼を移すようなそんな女には用はねえ」
「うん。いかにももっともだ。……俺もとうから心の中では親子の縁を切っているのだ」
「白法師様も
「え、何んだって? 白法師だって?」
「なあにこっちの話だよ」
そこでまたもや黙り込んだ。酒はおつもりになったらしい、二人は何んとなく手持ち無沙汰にじっと火ばかり見詰めている。
「爺つぁん、それじゃ俺は帰るよ」
岩太郎は立ち上がった。
「そうか。それじゃまた来るがいい」
岩太郎は表の戸を開けて吹雪の中へ出て行った。
杉右衛門は
杉右衛門はそれでも身動きさえしない。
間もなく夜がやって来た。嵐の勢いが強まったと見えてヒューッヒューッと
杉右衛門はにわかに立ち上がり、表の方へよろめき行くとガラリと戸を開けて飛び出した。
杉右衛門はグルリともんどりを打つと、雪の上へ転がった。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる彼はあたかも
いかにも
一七
「ヨイショ」「ドッコイ」「ヨイショ」「ドッコイ」
こういう掛け声が聞こえて来た。それは二人の声であって、重い物でも持っているらしい。しかし姿は見えなかった。と云うのは夜だからで、しかも所は八ヶ嶽の天狗の宮の真後ろの崖で、早春のことであったから氷雪が厚く積もっている。雪は今し方止んだばかりで、雲間を洩れた月光が斜めに崖を照らしている。
その崖には斜めに高く人工の道が出来ている。半年の月日を
「ヨイショ」「ドッコイ」と忍び音に互いに声を掛け合いながらソロリソロリと下りて来る。
それは多四郎と権九郎とで、
すっかり崖を下りきった所で二人はホッと吐息をして、
「もう一息だ、やってしまおうぜ」
「合点」と権九郎が
で、また二人は荷物を担いで、そばに立っている木小屋の前を足音を立てずに通り過ぎ、雪を
間もなく森へはいったが、大きな杉の根方から犬の啼き声が聞こえて来た。
「これ! 畜生!」と叱りながら二人はそっちへ近寄って行く。そこに一台の
「どっこいしょ」と云いながら、二人は荷物を重そうに橇の上へズシリと置いたが続いて自分達も飛び乗った。権九郎が手綱を取り多四郎が荷物の側へ寄る。ピシッと一鞭くれながら権九郎は振り返った。
「おい多四郎どうしたものだ。せめてお別れの挨拶でもしねえ、振り返って小屋ぐらい見たがよかろう。……ヒューッ」
と口笛で犬をあやす。すると巨大な三頭の犬はグイと頭を下へ垂れ後脚へ力をウンと入れた。とたんにスルリと前へ出る。パッと立つ雪煙り、静かに橇は
「へ」
と多四郎は鼻で笑ったが、「
「おおおお偉そうに云ってるぜ。へ、どうしたが呆れ返らあ。お前一時はあの女で
「うん、そうよ、一時はな。……窩人窩人で城下の奴らが鬼のように恐れているその窩人の娘とあっては、ちょっと
「ところで味はよかったかな」
「俺にとっちゃ初物だった。第一体がよかったよ。色の白さと柔かさとに
「畜生!」
と権九郎は叫びながらヒューと
「当たらずといえども遠からずさ」
「それだけの女を振りすてて何んでまたお前は逃げるんだい。こいつが俺にゃ解らねえ」
「そいつあ今も云った筈だ。たかが窩人の娘じゃねえか。まさか一生
「ふん、それじゃ飽きたんだな」
「正直のところまずそこだね」
「それにしては智恵がねえな」権九郎は
「智恵がねえ? この俺がな?」
多四郎はにわかに眼を丸くする。
「捨ててしまうとは
「へん、なんだ、そんな事か、孔明の智恵も
「ナニ承知? ……何故しねえ」
「つまり玉なりが
「聞きてえものだ、どう異うね?」
「里の女ならそれもよかろう。思い込んだが最後之助、どんな事でもやり通そうという窩人の娘にゃ向かねえね」
「ふん、どうして向かねえんだい?」
「そんな気振りでも見せようものなら、こっちが寝首を掻かれるくらいよ」
「へえ、そんなに凄いんかい」
「何しろ向こうは夢中だからな」
「こら、畜生! 道草を食うな」
権九郎は
権九郎はむやみと鞭を振る。
一八
雪で
橇の上の人間は――五味多四郎と権九郎とは、少しの間黙っていた。権九郎は手綱を
「しかし待てよ」と呟くとそっとその手を抜き出した。「
と腕を
権九郎は多四郎へ背を向けたまま無心に手綱を操っていた。隙だらけの姿勢である。多四郎は四方を見廻した。戦いには地の利が肝心だ。……こう思ったからでもあろう。この時橇は山と谿との狭い
いつの間にか空が曇り、一旦止んでいた牡丹雪が風に連れて降って来た。見る見る月影は薄れて行きやがて全く消えてしまった。
雪明りで
この時、多四郎は右の手をまた
「さあ今だ! さあ今だ!」
多四郎は自分で自分の胸へこう口の中で云い聞かせながらジリジリと前へ寄って行った。その時、岩にでも乗り上げたものか不意に橇が傾いた。とたんに多四郎は懐中からヌッと腕を引き抜いたが、その手が空へ上がったかと思うとキラリと何か
「多四郎! わりゃ、俺を斬ったな」
血に
多四郎は短刀を逆手に握り悠然と橇から下り立ったが、冷ややかに権九郎を睨み付け、
「どうだ権九、苦しいか」
「仲間を斬ってどうする気だ! さては手前血迷ったな。あ、苦しい。息が詰まる」
「何んで俺が血迷うものか。ずんとずんと正気の沙汰だ」
「なに正気? むうそうか。それじゃ
「今やっと気が付いたか。……一人占めにする気だわえ」
「そうはいかねえ!」
と云いながら権九郎はヒョロヒョロ立ち上がったが、肩の
「そっちがその気ならこっちもこうだ、さあ小僧覚悟しろ!」
これも呑んでいた
最初の傷手で権九郎は次第次第に弱って来た。肩からタラタラ
「それ行くぞ」
と多四郎は嘲けりながら飛び廻った。彼は
多四郎は
「おい権九、いやさ権九郎、何んと俺様は智恵者であろうがな。産まれながら
一九
「……おお苦しいか苦しいか。さぞ痛かろう痛かろう。肩からドクドク血が出ているなア。その苦しみもほんの一時、後は往生観念仏、楽になろうというものだ」
「む、むううう」
と権九郎は口を利くことさえ出来なくなった。それでもいわゆる最後の一念、全身の力を足にこめ
手の匕首をまず落とし、それから枯木が倒れるように権九郎は雪の上へ
多四郎はヒラリと橇へ乗った。
一言も云わず見返りもせず彼は橇を走らせた。間もなく彼と橇の影とは吹雪に
ウォーとその時森の方から
四方に散っていた狼がさっと集まって一団となるや、その一団の狼は鼻面を低く地へ垂れて人間の血を恋うようにこっちへノシノシと走って来たが、死骸の埋ずまっている場所まで来るとグルグルグルグル廻り出した。廻りながらパッパッと雪を掻く。掻かれた雪は
死骸は狼に喰い裂かれ、後へ残ったのは
小屋の中は暖かった。
山吹はじっと坐っていた。
その眼は焚火を見詰めていたが心は別のことを考えていた。
多四郎は容易に帰って来ない。――帰らないのが
しかし彼女はそんなこととは夢にも考えはしなかった。で、熱心に待っていた。
不意に彼女は顔を上げ窓の方へ眼をやった。
コトンコトンと音がする。
彼女は
山吹は寂しそうに笑ったが、
「おおおお今日も大雪で山には
こう云いながら鍋を取り上げ食べ残りの
「もうないよ。あっちへお行き」
こう云いながら手を振ると、熊は二、三度
そこで山吹は窓を閉じ元の場所へ帰って来た。じっと焚火を見詰めながら、また物思いにふけるのである。
夜は次第に更けて行った。
彼女はいつまでも待っていた。身動きさえしないのである。
その時足音が聞こえて来た。しかし人の足音ではない。シトシトシトシトと小屋の
「おや来たんだよ、お爺さん達が」
呟きながら山吹はまただるそうに立ち上がると入口の戸を開けてやった。その戸口からはいって来たのは五匹の凄じい狼であった。全身、雪で白かったが鼻面ばかりは赤かった。
権九郎の死骸を食い荒らしたその五匹の狼達であった。
しかも一匹の狼は肉の着いた骨をくわえていた。それは権九郎の骨なのである。しかしもちろん山吹はそんなことは夢にも知らない。で、彼女はこう云った。
「おおおお、お前達も寒かろう。さあさあ遠慮なく火にあたるがいいよ」
二〇
五匹の狼は尾を振りながら彼女の体へじゃれついた。すぐに突き飛ばされ
熊も狼も狐狸も山吹にとっては友達であった。窩人部落にいた頃から彼女と獣達とは仲がよかったが、この木小屋へ来てからは一層両者は仲良くなり、多四郎の留守を
その夜一晩待ったけれど多四郎は帰って来なかった。
翌る朝、彼女は小屋を出てそれとなくあっちこっち探してみたが恋しい
夜が日に次ぎ日が夜につづき、恐怖、不安、疑惑、憤怒、嫉妬の月日が経って行った。
春がおとずれ初夏が来た。山の雪はおおかた消え
山吹はこの頃
彼女はようやくこの頃になって、自分が多四郎に捨てられたことをはっきり心に悟るようになった。
「復讐!」――と彼女は心に誓った。あたかも
「でも子供には罪はない、何も彼も子供が産まれてからだ」
で、彼女は小屋の中で産み落とす日を待っていた。
やがて真夏がおとずれて来た。
笹の平の窩人達は祭りの用意に忙しかった。
これは毎年の
窩人達は元気よく
やがて祭りの当日が来た。
天狗の宮の境内は旗や幟で飾られた。盛装を凝らした窩人達は夜のうちから詰めかけて来て、
騒がしかった境内が一時に
桐五郎の持っている松明が、内陣の奥でチラチラと火花を散らして燃えているのが神秘めいて厳かである。
ギーとまたも
群集はにわかに緊張した。神聖の幕屋がひらかれたからだ。群集の眼は一斉に内陣の奥へ注がれた。
その群集の眼前へ杉右衛門と桐五郎とが飛び出して来た。
「恐ろしい事じゃ!
杉右衛門が、
「宗介天狗は
桐五郎が続いて叫んだ。二人ながらガタガタ
群集は
が、次の瞬間には恐ろしい混乱が
二一
ある者はこれを神罰だと云った。
「我らの不忠実を怒らせられ神が
またある者はこうも叫んだ。「泥棒が盗んだに相違ない。
またある者は次のように云った。
「白法師の
「そうだそうだ」
と群集は
「白法師をひっとらえろ!」――「草を分けても探し出せ!」――「白法師を狩れ白法師を狩れ!」
群集は興奮して境内を出た。祭りは一変して白法師狩りとなった。
この日の真昼頃白法師は大岩の上に坐っていた。白衣、長髪、裸の足――昔に変わらぬ優しい微笑。
彼の前には岩太郎がいた。彼は仲間の隙を窺い、危急を白法師へ告げに来たのだ。
「悪いことは申しませぬ。早くお逃げ遊ばすよう。白法師狩りの者どもが間もなくやって参りましょう。どうぞどうぞ、一時も早く山をお立ち去り遊ばすよう」
云っているうちも気遣わしそうに岩太郎は四辺を見廻した。
「いや」
と白法師は静かに云った。「
「危険でございます白法師様!」
「いや」とまたもしずかに云った。「いや私には危険はない。私には深い自信がある。……これまでも彼らは幾度となくこの私を
「はいさようでございます。
「それも私には解っておる。彼らは彼らの守り本尊を私に穢されたと思っているらしい。がそれは間違っている。……黄金の
「おっしゃるまでもござりませぬ」
岩太郎は頭を下げた。「尊い尊いあなた様がなんでさようなことをなされましょう。とは云え部落の者達は甲冑を盗んだはあなた様だと思い詰めておるのでござります。草を分け枝を切っても今度こそは逃がしはせぬと、部落の男女子供まで一人残らず馳せ集まり、人数おおよそ五百人余り山を囲んでさっきから探しておるのでござります」
「なるほど」
と法師は眼をとじてしばらくじっと考えていたが、「断じて
「それが安全でござります。何より安全でござります」
「いや、私には危険はない。このままこの山におるとしても、私には神の
この時ドッと
しまった! と岩太郎は心で叫び、
「もう遅いかも知れませぬが、いそいでお隠れなさいまし! 一刻も早く、白法師様!」
しかし岩太郎がこう云った時にはもうそこにはいなかった。と見ると遥かの山の峰に何やら動くものがある。そうしてそこから風に伝わってこういう声が聞こえて来た。
「おさらばじゃ岩太郎! またお前達とも逢うだろう。それまではおさらばじゃ」
「ああ、あれが白法師様だ」
岩太郎は
二二
宗介天狗のご神体が
十人二十人組を組んで笹の平を去る者が出来た。「黄金の甲冑を取り戻すまでは俺達はここへは帰って来まい」――「黄金の甲冑を探しに行こう。日本の国の
こう云って彼らは出て行くのであった。
一月二月と経つうちに笹の平の窩人の数はわずか二百人となってしまった。こうして秋が去り冬が来た頃には、笹の平は無人境となった。最後に残った二百人を杉右衛門自ら
天狗の宮には
ある日、一匹の野狐が恐らく猟師にでも追われたのであろう、天狗の宮の拝殿へ一目散に駈け込んで来たが、幾日経っても出て行かなかった。そこを住家としたのである。次第に
こうして再び春となった。
野生えの梅が花を点じ小鳥が楽しそうに鳴くようになった。
この時、崖下の小屋の中で
宇宙のあらゆる動物のうち人間と名付くる生物が一番順応性を持っている。
こんなに苦しい境遇にあっても山吹は不思議に
こうして幾月か月が経ちまた幾年か年が経った。
五年の歳月が飛び去ったのである。
五年に渡る
ある日彼女は猪太郎を枕もとへ呼び寄せた。そうして彼女は云ったのである。
「……
山吹は猪太郎の右の腕へ
こう云ってしまうと山吹はいかにも安心したようにさも
五歳の猪太郎はその日以来全く
こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、
こうしてまたも五年の月日が
いでや
これまで書き
高遠城下の巻
一
「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よいかも知れませんな」
「よろしくないのでございましょうか?」
「さよう、よくないかも知れませんな」
「では、どちらなのでございましょう?」
「さよう」
と云ったまま返辞をしない。
奥方お石殿は不安そうにじっとその様子を見守っている。それからまたも聞くのであった。
「先生、いかがでございましょう? すこしはよろしいのでございましょうか?」
「さよう、よろしいかもしれませんな」
「よろしくないのでございましょうか」
「奥!」
と
「先生には先生のお考えがある。そういつまでもお尋ねするはかえって失礼にあたるではないか」
「はい。失礼致しました」お石はそっと涙を拭きつつましく
部屋の中がひとしきり
「ちょっとお耳を……」
と云いながら
「あまり奥方がご
「ははあ、さようでございますかな。
「蘭学の方ではこの病気を急性肺炎と申します。今夜があぶのうございますぞ」
「今夜?」とさすがに弓之進も
「いずれ後刻、再度来診」
こう云って北山の帰った後は火の消えたように寂しくなった。
二人の中の一粒種、十一歳の可愛い盛り、葉之助は大熱に浮かされながら
「もし、ほんとに死にましょうか?」お石はほとんど半狂乱である。
「天野北山は蘭医の大家、
二人は愛児の枕もとからちょっとの間も離れようとはしない。
「それでもあなた、この葉之助は、
お石は畳へ突っ伏した。
すると不意に葉之助がムックリ床の上へ起き上がった。
「代りが来るのだ、代りが来るのだ! 次に来る者はさらに偉い!」
叫んだかと思うとバッタリ
こうしてが
「あなた、元気をお出し遊ばせ」
「奥、お前こそ元気をお出し」
などと夫婦で慰め合うようになった。
「江戸から大歌舞伎が来たそうだ。どうだなお前
「はい、有難う存じます。それより秋になりましたゆえお好きの山遊びにおいで遊ばせ」
「うん、山遊びか、行ってもよいな」
「明日にもお出掛け遊ばすよう」
「北山殿もお好きであった。ひとつ誘って見ようかな」
「それがよろしゅうございます」
そこで使いを立ててみると喜んで
その翌日は
まだ日の出ないそのうちから三人の弟子を引き連れて天野北山はやって来た。
「鏡氏、お早うござる」
「北山先生、お早いことで」
双方機嫌よく挨拶する。
若党
奥様は玄関へ手をつかえ、
「ごゆっくり」と云って
「奥、それでは行ってくるぞ」
で、一行は門を出た。
間もなく野良路へ差しかかる。ザクザクと立った霜柱、それを踏んで進んで行く。
二
的場、野笹、長藤村、それから目差す鉢伏山だ。
鉢伏山の中腹で一同割籠をひらくことになった。見渡す限りの満山の錦、嵐が
「よろしゅうござるな」
「いや絶景」
と、弓之進も北山も満足しながら瓢の酒を汲み合った。
その時突然供の者どもが一度にワッと立ち上がった。
「熊! 熊!」と騒ぎ立つ。
「何、熊?」と弓之進は、若党の指差す方角を見ると横手の谷の底に当たって真っ黒の物が
「金吾、弓を!」と弓之進は若党を呼んで弓を取った。名に負う鏡弓之進は、
「待った待った射っちゃいけねえ!」
鋭い声が聞こえて来た。
何者とばかり放す手を止め声のした方をきっと見ると、ひと
「
「オーッ」と熊も一生懸命、後脚で立って振り落とそうとする。
「どっこいどっこいそうはいかねえ! これでも喰らって
キラリ山刀が
「オーッ」と熊はまた吠えたがこれぞ断末魔の叫びであったかドタリと横へ転がった。
「どうだ熊公驚いたか。一度俺に睨まれたが最後トドの詰まりはこうならなけりゃならねえ。アッハハハ、いい気持ちだ。どれ皮でも
熊の死骸を仰向けに蹴り返しその前へむずと膝を突くとブッツリ月の輪へ山刀を刺した。と、その時、どうしたものか
「お母様!」
と一声叫ぶとそのままグッタリ仆れてしまった。
余り見事な格闘振りに弓之進や北山を初めとし弟子若党
「北山殿、脈を早く!」
「心得たり」と北山は若者の手首をぐいと握ったが、
「大丈夫、脈はござる」
「それで安心。よい
「あまりに精神を感動させその結果気絶をしたのでござるよ」
「手当の必要はござらぬかな?」
「このままでよろしい大丈夫でござる。や! なんだ! この
云いながら北山は若者の手をグイと前へ引き寄せた。いかさま右の二の腕に上下
「人間の歯ではござらぬかな?」
「さよう、人間の歯でござる」
この時、気絶から
「ああ恐ろしい夢を見た」
こう云うとムックリ起き上がった。それから弓之進をじっと見た。その
「お父様!」
と呼んだものである。それからまたも気を失い、熊の死骸へ
この時、
「うむ、そうか! こいつだな!」
……ポンと膝を叩いたものである。
翌年の秋、鏡家へ飯田の城下から養子が来た。
堀
三
「鏡家の養子葉之助殿は十二歳だということであるが一見十八、九に見えますな」
家中の若侍達寄るとさわると葉之助の噂をするのであった。
「ノッソリとしてズングリとしてまるで
などと悪口する者もある。
「ノッソリの方は当たっているがズングリの方はちと
なあんて中には
「ところでどうだろう剣道の方は?」
「無論駄目駄目。
「いやいやまんざらそうでもあるまい。飯田の南条右近というは小野派一刀流では使い手だそうだ。その方の三男とあって見れば
「論より証拠立ち合ったら解る」
「いやいや相手はご家老のご養子、
「武芸には身分の高下はない」
「しかし相手はまだ子供だ、十二歳だというではないか。我々は立派な壮年でござる」「と云ってあの仁とて十八、九には、充分見えるではござらぬか」「たとえ
ある日、これらの若侍どもが、立川町に立っている
通りかかったのが葉之助で、若党の倉平を供に連れ、ふと武者窓の前まで来ると小気味のよい
「ちょっと待て倉平」
と声をかけて置いてひょいと窓から覗いていた。
早くも見付けた若侍ども、「おや」と一人が
「これはこれは葉之助殿、そこでは充分に見えません。
「さあさあ内へ、さあさあ内へ」
まるで車掌が電車の中へ客を追い込もうとするかのようにむやみに内へを連発する。
「これはどうもとんだ失礼、覗きましたは私の
「いやいやそんな事は何んでもござらぬ。ポンポン竹刀の音がすればつい覗きたくもなりますからな。外からでは充分見えません。内へはいってゆっくりと」
「それにこれまで駈け違いしみじみ
「おい近藤何を云うんだ」白井というのが注意する。
「何はともあれおはいりくだされ」
「倉平、どうしたものだろうな?」
「若旦那、お帰りなさいませ」事態
そこへまたもや二、三人若侍どもが現われた。
「葉之助殿ではござらぬか。これはこれは珍客珍客! 近藤、白井、何をしている。早く葉之助殿をご案内せい」
「何んとでござる葉之助殿、おはいりくだされおはいりくだされ」
「せっかくのお勧め拝見しましょう」
「しめた!」「おい!」「ハハハ」
そこで葉之助はノッソリと道場の内へはいって行く。
「おい、はいって行くぜはいって行くぜ」
「可哀そうに殴られるともしらず」「知らぬが仏という奴だな」「それにしても大きいなあ」「十二とは思われない」「十九、二十、二十一、二には見える」「随分力もありそうだぞ」「あの力でみっちり殴られたら」「そりゃ随分に痛かろうさ」
そろそろ
葉之助の姿がノッソリと道場の中へ現われると、集まっていた門弟どもまたひとしきり噂をした。よせばよいのに気の毒な――こう思う者も多かったが
「こちらへこちらへ」と云いながら、白井というのが案内した席は皮肉千万にも
「これはご師範でござりますか」葉之助は
「おお鏡のご養子でござるか」
あちこちでクスクス笑う声がする。
四
しかし葉之助は気にも掛けず端然と坐って膝に手を置いた。それからジロリと構内を見る。どうして
葉之助が現われるとほとんど同時にバタバタと稽古は止めになったので、構内には竹刀の音もない。変に間の抜けた様子であったが、つと進み出たのは近藤
「鏡氏、一本お稽古を」
「いや」と葉之助は言下に云った。「二、三本どうぞお見せくだされ」
「へへえ、さようで」
と近藤司気太妙な顔をして引っ込んだが、これは正に当然である。ご覧なされと引っ張り込んで置いて誰も一本も使わないうちにさあ立ち合えと云うのであるからポンと蹴るのは理の当然だ。
「偉いぞさすがは鏡家の養子」葉之助
「ふん、チョビスケの近藤め、出鼻から赤恥をかかされおって」
しかし一方若侍どもは悠々
「誰か出て二、三本使ったらどうだ」
「しからば拙者」「しからば
五組あまりバラバラと出た。
「お面」「お胴」「参った」「まだまだ」
ポンポンポンポン打ち合ったが
「おい近藤、行ってみるがいい」
「あいよあいよ」と
「アッハハハハ」と大きな声で突然葉之助は笑い出した。
近藤司気太驚くまいことか! 眼ばかりパチクリ
「剣術のお稽古とは見えませぬな。まるで
「真剣のお稽古拝見したいもので」
「へへえ、さようで」と器量の悪い話、近藤司気太引き退ったが、「いけねえいけねえ拙者は止めだ。どうも俺には苦手と見える」
「
「あいや鏡氏、葉之助殿、ご迷惑でござりましょうが、
「本来私はこの場にはお稽古拝見に上がりましたもの、仕合の儀は幾重にも辞退致さねばなりませぬが剣道は私も好むところ、且つは再三のお勧めもあり……」
「それではお立ち合いくださるか?」
「未熟の腕ではござりまするが……」
「それは千万
してやったりとニタリと笑い、「して打ち物は?」
「短い竹刀を……」
「しからばご随意にお選びくだされ」
ワッと一同これを聞くと思わず声を上げたほどである。
つと立ち上がった葉之助はわずか一尺二寸ばかりの短い竹刀を手に握ると
「あいや鏡氏、お仕度なされ」
見兼ねたものかこの時初めて石渡三蔵が声を掛けた。
「私、これにて充分にござります」
「面も胴も必要がない?」
「一家中ではござりまするが流儀の相違がござります。他流試合真剣勝負、この意気をもって致します覚悟……」
「ははあさようかな。いやお立派じゃ……ええとしからば白井氏も、面胴取って立ち合いなされ」
「これはどうもめんどうなことで」
白井誠三郎不承不承に面や胴を脱いだものの、ここで三分の恐れを抱いた。
居流れていた門弟衆も、これを聞くと眼を見合わせた。
「何んと思われるな佐伯氏? この試合どう見られるな?」「ひょっとするとアテが外れますぞ。相手の勢いがあまりに強い」「
葉之助贔屓の連中はこれに反して大喜びだ。
「見ておいでなされ白井誠三郎、
「静かに静かに、構えましたよ」
「どれどれ、なるほど、青眼ですな……おや白井め振り冠りましたな」
「葉之助殿の位取り、なかなか立派ではござらぬか。あれがヒラリと変化すると白井誠三郎
五
今や葉之助は中段に付けて、相手の様子を
「かまうものか、ひっぱたいてやれ」
トンと竹刀を八相に開く。誘いの隙でも何んでもない。まして本当の隙ではない。それにもかかわらず誠三郎は、「ヤッ」と一声打ち込んで来た。右へ開いて、
「小野派一刀流五点の序、脇構えより敵の肩先ケサに払って妙剣と申す!」
ちゃあんと手口を説明したものだ。鮮かとも何んとも云いようがない。ひっぱたいて置いてひっぱたいた順序をひっぱたいた人間が説明する。もうこれ以上はない
「参った」
と誠三郎は声を掛けたが、声を掛けるにも及ばない話。
「わっ!」とどよめきが起こったが、拍子抜けのしたどよめきである。
「山田左膳。お相手
「心得ました。お手柔かに」
ピタリと二人は睨み合った。左膳は
形が変わると下段に構えた。誘いの隙を左肩へ見せる。
「ははあこの隙は誘いだな」
「エイ!」と一声。それより早く、一足飛びこんだ葉之助、ガッチリ受けて
「小野派一刀流五点の二位、下段より仕掛け隙を見て肩へ来るを鍔元競り合い、体当りで
またもちゃあんと説明されたものだ。
「参った!」これも紋切り型。
今度は誰も笑わなかった。人々はちょっと凄くなった。二太刀を合わせたものはない。実に葉之助の強さ加減は人々の度胆を抜くに足りる。
「天晴れの腕前感心致してござる。未熟ながら拙者がお相手」
こう云ったのは石渡三蔵で、上段の間からヒラリと下りると壁にかけてあった
「拙者木剣が得意でござればこれをもってお相手致す。貴殿もご随意にお取りくだされい」
「いえ、私は、これにて結構」
「ほほう、短いその竹刀でな?」
「はい」と云ってニッと笑う。
「さようッ」と云ったが憎々しく、「拙者の仕合振り、荒うござるぞ!」
「はい、充分においでくだされ」
「ふん」と三蔵は鼻で笑い、「いざ!」
と云って木剣を下ろした。
「いざ」と葉之助も竹刀を下ろす。一座
とまれ三蔵は免許の腕前、血気盛んの三十八歳、代稽古をする身分である。いかに葉之助が巧いと云っても年齢ようやく十二歳、年の相違だけでも
「
と、二、三人の者が声を掛けたが、
双方ピッタリ
「うん、どうやら少しは出来る」葉之助は呟いた、「が俺には小敵だ」
「エイ!」
と珍らしく声をかけつと一足前へ出た。
「ヤッ!」
と三蔵も声をかけたがつと一足
双方無言で睨み合う。
「さて、どうしたものだろうな。思い切って打ち込むかとにかく相手は代稽古、俺に負けては
と云って一足進む。「ヤッ」と云って一足下がる。「エイ!」「ヤッ」「エイ!」「ヤッ」
押され押されて三蔵はピッタリ羽目板へへばりついてしまった。額からはタラタラ汗が流れる。ぼーッと眼の前が霞んで来た。ハッハッハッと
当たって砕けろ! と三蔵は、うんと
「カーッ」
ととたんにどこからともなく物凄い気合が掛かって来た。
六
アッと驚いた葉之助、一足後へ引き退がる。そこを狙って石渡三蔵左の肩を真っ向から……
「遅い!」
とまた同じ声がどこからともなく響いて来た。
「勝負なし!」
と声は続く。
その時正面の切り戸から悠然と立ち出でた小兵の人物、年格好は五十五、六、木綿の紋付に
「石渡氏、何事でござる! 子供を相手に木剣の立ち合い、不都合千万、控えさっしゃい! あいや鏡葉之助殿、拙者は松崎清左衛門、当道場の
大小を置くと
場内シーンと静まり返り
葉之助もさすがに顔色を変えた。
名に負う松崎清左衛門といえば当時日本でも一流の剣客、
今その人が鉄扇を構え、さあ来い来たれと云うのである。いかに葉之助が小天狗でもこれには圧倒されざるを得ない。
しかし今さら逃げも出来ぬ。
「先生ご免」
と竹刀を握り、小野派における万全の構え、
「ははあ感心、守勢に出たな」
清左衛門は
「エイ!」
と一つ誘って見る。葉之助は動かない。
「ははあ、益

とまたも誘ってみたがやはり
清左衛門は一歩進んだ。と葉之助は一歩下がる。間。じっとして動かない。と葉之助は一歩進んだ。と清左衛門が一歩退く。
「偉い。俺を押し返しおる。どうも恐ろしい向こう意気だ、しかも守勢を持ち
「はっ」と驚いた葉之助、トントンと二足前へ出たが、「参りましてござります!」
「前途有望、前途有望、将来益

「はい、有難う存じます」葉之助は汗を拭く。
「誰に
「はい、父右近に従きまして」
「ははあ、そうしてそれ以外には?」
「師は父だけにござります」
「それは不思議、しかとさようかな?」
「何しに
「それにしては
清左衛門は首を捻った。
「未熟者ではござりまするが、今日よりご門弟にお加えくだされませ」
「いや」と、不思議にも清左衛門は、それを聞くと冷淡に云った。「少しく存ずる
「……存ずる旨? 存ずる旨とは?」葉之助は
「存ずる旨とは、読んで字の如しじゃ」
七
「葉之助、ちょっと参れ……聞けばお前は立川町の松崎道場で大勢を相手に腕立てしたと云うことであるが、よもや本当ではあるまいな?」
「は……本当でございます」
「なぜそのようなことをしたか」
「止むを得ない仕儀に立ち至りまして……」
「止むを得ない仕儀? どういう訳かな?」
「あらかじめ
「おおさようか、是非に及ばぬの……噂によれば近藤、白井、山田等という門弟衆を、苦もなく打ち込んだということだが?」
「はい、相手が余り弱く……」
「うん、それで勝ったというか」
「つい勝ちましてございます」
「松崎殿とも立ち合ったそうだの」
「一手ご指南にあずかりました」
「松崎殿はお強いであろうな」
「まるで
「そうであろうとも、あのお方などは
「ほとほと驚嘆致しました」
「お前の
「いえ、お恥ずかしゅう存じます」
「さすがはご親父南条殿は小野派一刀流では天下の名人、松崎殿にも劣るまいが、その三男に産まれただけあって十二歳の小腕には過ぎた
「お褒めにあずかり、有難う存じます」
「しかし天下には名人も多い」
「は、さようでございます」
「決して慢心致してはならぬ」
「慢心は

「他人との立ち合いも無用に致せ」
「心得ましてござります」
「負ければ恥、勝てば怨まれる、腕立てせぬが安全じゃ」
「
「松崎道場でのお前の振る舞い、家中もっぱら評判じゃ」
「恐縮の至りに存じます」
「今のところお前の方が評判もよければ同情者も多い」
「ははあさようでございますか」
「評判がよいとて油断は出来ぬ」
「いかにも油断は出来ませぬ」
「よい評判は悪くなりたがる」
「お言葉通りにござります」
「落ちた評判は取り返し
「落とさぬよう致したいもので」
「そこだ」
と弓之進は膝を打った。
「よく気が付いた。そうなくてはならぬ。ついては今後は
「は?」
と云って葉之助は思わずその眼を見張ったものである。
「今後は白痴になりますよう」
弓之進は再びこう云うとじっと葉之助を見守った。
「どうだ葉之助、まだ解らぬかな?」
「お言葉は解っておりますが……」
「うむ、その意味が解らぬそうな。それでは一つ例を引こう。武士の
「お父上! ようやく解りました!」
「おお解ったか。それは
「私昼行灯になりましょう」
「ハッハハハ、昼行灯になれよ」
「きっとなってお目にかけます」
「昼の行灯は馬鹿気たもの、人は笑っても憎みはしない」
「
「我が家は内藤家の二番家老、門地高ければ憎まれ
「昼行灯に限ります」
「お、
その時襖が静かに開いて、茶を捧げたお石殿が部屋の中へはいって来た。
「
「お母様」
と葉之助は、甘えた声で呼んだかと思うと、足を投げ出し横になった。「お菓子くだされお菓子くだされ!」
腕を延ばすと菓子鉢の菓子をやにわに摘んで頬張った。
「まあこの子は」
とお石は驚き、「
「アッハハハ、その
弓之進は手を
「これで我が家も葉之助もまずは安全というものじゃ。めでたいめでたい! アッハハハ」
八
内藤駿河守正勝は初老を過ごすこと五つであったが、性
ある日弓之進が
「そちの養子葉之助、今年十二の弱年ながら珍らしい武道の達人の由、部屋住みのまま百石を取らせる、早々殿中へ差し出すよう、
「これはこれは分に過ぎたる有難きご
「これこれ弓之進、
濶達の性質を
「性来白痴の葉之助が、近藤司気太、白井誠三郎、山田左膳というような武道自慢の若者どもを打ち込むほどの
「恐らく怪我勝ちにござりましょう」
「石渡頼母の三男などは代稽古の技倆ということだが、葉之助とは段違いだそうだ。そんな白痴なら白痴結構。是非明日より出仕をさせろ」
こう云われてはしかたがない。それに有難いご諚である。弓之進はお受けをした。
で、翌日から葉之助はご前勤めをすることになった。
艶々した前髪立ち、年は十二というけれど一見すれば十八、九、鼻高く眼涼しく、美少年であって
「何んのこれが白痴なものか」
駿河守は一眼見るとひどく葉之助が気に入った。
しかし葉之助は往々にして度外れた事をするのであった。例えばご前で足を延ばしたり、歩きながら居睡りをしたり、突然大きな
「武道の
「ぼんやりとしてノッソリとして、ヌッと立っている
「何をやっても一向冴えない。ボーッとしたところは昼の
「昼行灯昼行灯、よい、これはよい
「昼行灯様! 昼行灯様!」
朋輩どもは葉之助の事を間もなく昼行灯と
「はてな?」
と駿河守は首を傾げた。「あれほど利口な葉之助が、時々心を取り失うとはちょっとどうも受け取れないことだ。事実脳が弱いのかそれとも
ある日にわかの殿の仰せで、弓射の試合を始めることになった。
駿河守は馬に乗り近習若侍を後に従え、矢場を指して走らせて行く。
矢場には
「おお源兵衛か今日はご苦労」駿河守は頷いたが、「すぐに
「かしこまりましてござります」
源兵衛がご前を退くと、
射手が十人ズラリと並ぶ。
ヒューッ、ヒューッと
番数次第に取り進んだ。
最後に現われた三人の射手は、
甲乙なしに引き退いた。
後には誰も出る者がない。今日の射法は終わったのである。
「これ葉之助」と駿河守は
「そちは剣道では一家中並ぶ者のない達人と聞くが、弓と馬とは弓馬と申して表芸の中の表芸、武士たる者の心得なくてはならぬ。そちにも心得あることと思う。立ち出でて
「は」
と云ったが葉之助、こう云われては断わることは出来ない。未熟と申して尻込みすれば家門の恥辱、身の不面目となる。白痴を気取ってはいられなくなった。
「
謹んでお受けすると列を離れ、ツツーと設けの座に進んだ。
「葉之助殿おやりなさるかな。貴殿何流をお習いかな」
佐々木源兵衛は
「はい、竹林派をほんの少々」
云いながら無造作に弓を握る。
九
これを見ると若侍達は互いにヒソヒソ
「行灯殿が弓を射るそうな。はてどこへぶちこむやら」「
「それはよけれど
「いやいやそうばかりも云われませぬよ」
中には
「いやそれも怪我勝ちだそうで」
「では今度ももしかすると怪我勝ちするかもしれませんな」
「そう再々怪我勝ちされてはちとどうも
「黙って黙って! 矢をつがえました」
「あれが竹林派の固めかな」
「いやいやあれは昼行灯流で」
「ナール、これはよう云われました」
この時葉之助は矢を取るとパッチリつがえてキリキリキリ、
「どうだ?」
と侍達は眼を

「おやおや最初から仕損じましたな」
「二本目は与一も困る
「ウワーッ、いよいよ昼行灯だ! 一の矢二の矢を仕損じながら、
「恥なければ心安し。一向平気と見えますな」
「殿も小首を傾げておられる」「いったい殿がお悪いのだ。あんなものを召使うばかりか贔屓にさえもしておられる」「あれは殿の酔狂さ」
「それまた射ますぞ。静かに静かに」
しかし葉之助は益

ガッチリ弓を棚に掛け、
「未熟の
「うむ」
と云ったが駿河守は
「源兵衛、源兵衛」
と急に呼んだ。弓道師範の佐々木源兵衛小腰を
「的をここへ持って来い」
「はっ」と云うと源兵衛は、扇を上げて差し招いた。旗の役の小侍は、それと見ると的を捧げ、矢場を縦に走って来たが、
的を眺めた駿河守は、
「おお」と思わず声を洩らした。「どうだ源兵衛これを見い!」
「はっ」と云って差し覗くと、思わずこれも「うむ」と唸った。矢は五本ながら
「なんと源兵衛、どう思うな!」
「恐れ入ってござります」
「
「申すまでもございません」
「どうだ、
「いやもう印可は抜いております」
「三蔵とはどっちが上手だ?」
「これは段が違います」
「そうであろう」と頷いたが、葉之助の方へ眼をやると、「さて、お前に聞くことがある。
「いえ、一向存じませぬ」
葉之助は空
「知らぬとあってはしかたもないが、そちの学んだ竹林派について、詳しく来歴を語るよう」
「はっ」
と云ったが葉之助、これはどうも知らぬとは云えない。そこで形を改めると、
「竹林派の来歴申し上げまする。そもそも、始祖は
弁舌さわやかに言上した。
一〇
「昼行灯どころの騒ぎではない。これは素晴らしい
駿河守は頷いた。
「今日の競技はこれで終わる。者ども続け!」
と云い捨てると駿河守は馬に乗った。タッタッタッタッと帰館になる。近習若侍に立ち
松崎清左衛門は何が不足で葉之助の入門を
「そういう訳なら師を取らずに
間もなく葉之助は心の中でこういう大望を抱くようになった。彼はご殿から下がって来るや郊外の森へ出かけて行き、八幡宮の社前に坐って無念無想に入ることがあり、またある時は木刀を
「一にも押し、二にも押し、これが相撲の秘伝だそうだ。一にも突き二にも突き、これが剣道の極意である。しかし極意であるだけに誰も学んで珍らしくない……さてそれでは突き以外に必勝の術はあるまいか」
来る夜も来る夜も葉之助はこの点ばかりを考えた。しかし容易には考え付かない。
「突きを止めれば
こう押し詰めて来て葉之助は、「肩だ!」と叫ばざるを得なかった。
「肩ほど斬りよいものはない。相手の右の肩先から左の
と思い付いてからは、彼は何んの
「宮本武蔵の十字の構えを、有馬喜兵衛は打ち破ろうと、木の股ばかりを裂いたというが、よも木の幹は割れなかったであろう――いかに松崎が偉いと云っても武蔵に比べては劣るであろう。もう一年、もう二年、練磨に練磨を積んだ上、松崎に試合を申し込み、清左衛門めを打ち据えてくれよう」
仮想の敵があるために、彼の技倆は一日一日と上達をするばかりであった。
こうして六年は経過した。葉之助は十八歳となり、一人前の男となった。
「おお葉之助か近う参れ」
ある日、それは夕方であったが、駿河守はこう云って鏡葉之助を膝近く呼んだ。
「は」と云って
「そちに
駿河守は
「は、何ご用でござりましょう?」
「
「して、妖怪と仰せられますは?」さすがの葉之助も不安そうに訊き返さざるを得なかった。
「そちも噂は聞いていよう。永く当家の
「は」
とは云ったが葉之助は、
いかにも彼はその噂を世間の評判で知っていた。久しい前から紋兵衛の邸へ
一一
相手が兇悪な盗賊とかまたは
「主命を
「いや」と駿河守は
「そうまで仰せられる殿のお言葉をお受け
「おお参るか。それは頼もしい」
「ご免くだされ」
と座を
「大事をとって行くがいいぞ」
「お心添え
国広の刀をひっさげて葉之助はご前を退出した。
富豪大鳥井紋兵衛の
「
夜具からヒョイと顔を出すと、
「灯火は十も点っております」
附き添っている十人の中には、剣客もあれば力士もあり
「ご覧なさいませ部屋の中には
「いいや暗い、真っ暗だ。早く灯心を
「それじゃ
「へい」と云うと手代の卯平は、静かに立って一つ一つ行灯の火を掻き立てた。いくらか部屋が明るくなる。
「時に今は
「はい」と佐介はちょっと考え、「
「まだそんなに早いのか」
「
「ああ夜が早く明ければよい……俺は夜が大嫌いだ。……俺には夜が恐ろしいのだ」
ザワザワと吹く春風が雨戸を通して聞こえて来た。と、コトンと音がした。
「あれは何んだ? あの音は?」
「さあ何んでござろうの」剣術使いの佐伯
「ナニ狐?」と紋兵衛は、恐怖の瞳を
「よろしゅうござる」
と大儀そうに、聞太はスックリ立ち上がったが
「アッハハハハ」
と笑い声がすると、雨戸や障子が
聞太は部屋へはいって来たが、
「狐ではなくて犬でござった。黒めが尾を振っていましたわい」
「犬でござったのかな。それで安心」紋兵衛はホッと溜息をした。
と、紋兵衛は悲しそうな声で、
「ああ
天野北山は黙っていた。
長崎仕込みの立派な
「北山先生薬くだされ!」
「ならぬ!」
と北山は
一二
「あなたの病気は薬でも
「懺悔?」と紋兵衛は恐ろしそうに、「何もございません、何もございません! 懺悔することなどはございません!」
「
と北山は
「いいえ、そんな事はございません。正直な人間でございます。人に恨まれる覚えもなく、人に憎まれる覚えもない正直な人間でございます」
「どうも
「はい、江戸でございます」
「江戸はどこだな? どの辺だな?」北山は遠慮なく押し詰める。
「はい」と紋兵衛は狼狽しながら、「江戸は芝でございます」
「おおさようか、芝はどこだ?」
「はい、芝は錦糸堀で……」
「何を
「芝にはそんな所はない、錦糸堀は
「おお、そうそうその本所で、私は産まれたのでございます」
「うん、そうか、では聞くが、錦糸堀は本所のどの辺にあるな?」
「はい、本所のとっつきに」
「アッハハハハ、まるで反対だ。錦糸堀は本所の
北山はじっと眼を据えて紋兵衛の顔を見守った。しかし紋兵衛はものを云わない。
「どうやらこれも云えないと見える……後ろ暗いことでもあるのであろう」
「黙れ!」
と突然狂気
「黙れ!
「何?」
と北山も眼を
「俺は正直の人間だ!」紋兵衛は大声で怒鳴りつづける。「後ろ暗えこととは何事だ! 俺は正直に働いて正当に金を儲けたのだ! それが何んで悪いのか!」
「うんそうか、それが本当なら、貴公はなかなか働き者だ。この北山
「いいや云わねえ、云う必要はねえ! 何んで貴様に云う必要がある! それから云え、それから云え!」
「云ってやろう、俺は医者だ!」
「医者だからどうしたと云うのだい!」
「病いの
「病いの基を調べるって? いいやそんな必要はねえ」
「貴公、可哀そうに血迷っているな」
「血迷うものか! 俺は正気だ!」
「病気の基を
「癒すにゃア及ばねえうっちゃって置いてくれ!」
「おお、そうか、それならよい」
ズイと北山は立ち上がった。「今後招いても来てはやらぬぞ」
「…………」
「貴公、死相が現われておる。取り殺されるも長くはあるまい」
「わッ」と突然紋兵衛は畳の上へ突っ伏したが、
「お助けくだされ北山様! お願いでござります天野先生! 殺されるのは嫌でございます! 申します申します、何んでも申します!」
「おお云うか。云うならよい。天野北山聞いて遣わす。そうして病気も癒してやる……何をやって金を儲けた?」
「はいそれは……」
と云いかけた時奥の襖がスーと開いて若い女が現われた。紋兵衛の娘のお露である。
「お父様」と手を
「お使者?」
と紋兵衛は不思議そうに、「ハテなんのお使者であろう?」
「ご病気見舞いだとおっしゃられました」
「どんなご
「はい」とお露は
「さようか、そうしてお名前は?」
「鏡葉之助様と
一三
「美しいな」と思ったからである。しかしそれとて軽い意味なので、一眼惚れと云うようなそんなところまでは行っていない。
一旦引っ込んだその娘が再びしとやかに現われた時、また「美しいな」と思ったものである。
お露は夜眼にも知れるほど顔を
「むさくるしい
「ご免」と云うと葉之助は、刀を提げて玄関を上がる。
「
こう心で呟いた時、お露がスーと襖を開けた。
「父の病室にござります」
「さようでござるか」とツトはいる。
北山はじめ附き人達は遠慮して隣室へ退ったので部屋には紋兵衛一人しかいない。病人というので
殿の使いとは云うものの表立った使者ではなく、きわめて略式の訪問なのだ。
「いやそのまま」と云いながら葉之助は座を構え、「邸に
「何しに疎略に思いましょうぞ。ハイハイまことに有難いことで……あなた様にもご苦労千万、まずお
紋兵衛は静かに顔を上げた。名は互いに知ってはいたが顔を合わせるのは今日が初めて、二人の顔がピッタリ合った。
と、俄然紋兵衛の顔へ恐怖が
「わッ、幽霊!」と
「これこれどうした? 幽霊とは何んだ?」
驚いたのは葉之助で、紋兵衛の様子をじっと眺める。
「
蛇に魅入られた

「これこれ紋兵衛殿どうしたものだ。拙者は鏡葉之助でござる。山吹などとは何事でござる。心を
こう云いながら葉之助は、気の毒そうに苦笑したが、「ははあこれも
「何、鏡葉之助殿とな?」
逆立った眼で葉之助を
また狂わしくなるのであった。
「殿の命で、城中から」
「いいや違う。そうではあるまい。八ヶ嶽から来たのであろう?」
「殿の命で、城中から」
「嘘だ嘘だ! 嘘に相違ない! 八ヶ嶽の
血走って眼をカッと開け、紋兵衛は葉之助を睨んだものである。
その時、
「お返しくだされ。お返しくだされ。
こう叫んでいるのであった。
一四
ムックリ
「あ、あ、あ、あ」とまず喘ぎ、「来たア!」と叫ぶとヒョロヒョロ立ち、「来てくれ! 来てくれ! 誰か来てくれ! 人殺しだア! 誰か来てくれ! ……おお鏡様葉之助様! あいつらが来たのでござります! お助けなされてくださりませ! 人助けでござります、お助けなされてくださりませ! ……返せと云って何を返すのだ! 鎧冑? そんなものは知らぬ! おおそんなものを何んで知ろう! よしんば知っていようとも、みんな過ぎ去った昔の事だ! ならぬ、ならぬ、返すことはならぬ! いやいや俺は知らぬのだ!」
「五味多四郎様! 五味多四郎様! どうぞお返しくださりませ、宗介天狗の
「知らぬ知らぬ俺は知らぬ! 俺は何んにも知らぬのだ! ……葉之助様! 鏡様! どうぞお助けくださりませ! や、貴様は山吹だな! おお山吹だ山吹だ! おのれ貴様まで怨みに来たか! おお恐ろしい恐ろしい、睨んでくれるな睨んでくれるな! 堪忍してくれ俺が悪かった! あ、あ、あ、あ、胸苦しや! 冷たい腕が胸を
急に紋兵衛は
その時
鏡葉之助はそれを聞くと何がなしにゾッとした。聞き覚えのある笑い声だからだ。
「遠い昔に、
声の聞こえる部屋の隅へ
「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう? さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、
葉之助は笑い出した。不思議な笑いに
と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、
「奇怪千万」と葉之助は、やにわに
そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には
余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。
「こんな
叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。
「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。
その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が
「お返しくだされお返しくだされ。宗介天狗の黄金の甲冑、どうぞお返しくださいませ」
「これはいったいどうしたことだ」葉之助は呟いた。「あれは妖怪の声だというに、俺には
葉之助は
一五
ここで物語は一変する。
大正十三年の今日でも、甲信の人達は信じ切っているが、武田信玄の
これはどうやら歴史上から見ても、
いかにもこれは七十二の疑塚より確かに安心には相違ないが、しかし絶対に安心とは云えない。諏訪湖の水の乾く時が来たら、死骸は石棺のまま現われなければならない。そうでなくとも
成功したか失敗したか? その人間とは何者か? それは物語の進むにつれて
そうして実にこの事件は、この「八ヶ嶽の魔神」という、きわめて伝奇的の物語にとってもかなり重大な関係がある。したがって物語の主人公、鏡葉之助その人にとっても重大な関係がなくてはならない。
鏡葉之助の消息を一時途中で中絶させ、事件を他方面へ移したのもこういう関係があるからである。
信州諏訪の

「船が沢山出ましたな」
「二十隻あまりも出ましたかな」
「漁船と
「諏訪家の幔幕が張り廻してある」
「乗っておられるのはお武家様ばかりだ」
「お武家様と漁師とは遠目に見ても異いますな」
「しかし今度のお
「さあそれは考えものだ」
「いや全く考えものだ」
「噂によると神宮寺の
「あいつらが怒るとちょっと恐い」
「名に負う
「今度は若殿も失敗かな」
「立派なお方には相違ないが、どうも血気に
「それもこれもお若いからよ」
「ちと
「今度の企ても好奇心からよ」
「巫女達はきっと
「これまで水狐族に祟られたもので、難を免れたものはない」
「恐ろしいほど執念深いからな」
「先祖代々執念深いのさ」
「それにあいつらは妖術を使う」
「
「切支丹ではない
「日本固有の陰陽術かな」
「そうだ
「おや」と一人が指差した。「いよいよ若殿のご座船が出るぞ」
「どれどれ? なるほど、ご座船らしいな」
「若殿自らお
「もしも水狐族が
「無論水狐族も恐ろしいが、それより私には明神のお罰が一層恐ろしく思われるよ」
「日本第一大軍神、
「これは昔からの云い伝えだが、諏訪法性の
「ちゃあんと
「二十四孝のご殿かね」
「……こんな殿ごと添い
「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」
「それからお前奥庭になってよ、
一六
「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。
「
「
「ほんとに扇を持っておられる」
「オーイオーイと差し招けば……」
「どっちだどっちだ、
「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。
で、人達は口を
今、ご座船は停止した。
諏訪
そのご座船を
東の空には八ヶ嶽が連々として
しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、
と、頼正は眼を上げて、二十隻の
すると、ご座船に一番近い一隻の船の船首から、
若殿頼正を初めとし、船中の武士は云うまでもなく、岸に群がっている町人百姓まで、
飛び込んだ男は
血気の頼正は物に
「どうだ灘兵衛、石棺はあったか?」
「なかなかもって」
と灘兵衛は、潮焼けした顔へ
「泥は厚し、水草はあり、湖水の底を究めますこと、容易な業ではござんせん」
「いかさまそれは
「二日、三日ないしは五日、どのように水を潜ったところで、

「うん、この辺にはなさそうか。ではどの辺に埋もれていような?」
「それが解れば占めたもの、心配する事アござんせん」
「ではそれも解らぬかな」頼正の顔は
「確かなところは解りませんな。……とにかくもう少し西南寄り、神宮寺の方で潜って見やしょう」
「そうか。よし、船を廻せ!」
頼正は漕ぎ手に命を下す。
ギーと
見ていた湖岸の連中は、ここでまたひそひそと噂し出す。
「神宮寺の方へ行くようだね」
「これはどうも
「死地に乗り入るは大袈裟だが、どうも少々心なしだな」
「水狐部落の巫女どもに悪い
「あいつらと来たら無鉄砲だからな。ご領主であろうと将軍様であろうと、そんな物には驚きはしない」
「何か事件が起こらなければよいが」
「そうだ、何か悪い事件がな」
「あの
船隊はその間に岬を廻り、すっかり視野から消えてしまった。
一七
若殿のご座船を先頭に、二十隻の船は
ここ辺りは入江であって、
その神の森を遠く囲繞し、
船の上から頼正は水狐族の部落を眺めていたが、たちまちその眼を湖上へ返すと、
「さて今度はどうであろう? 石棺の
頼正は
突然彼は「あっ」と叫んだ。彼の視線の落ちた所、
「ご帰館ご帰館!」と叫ぶ者もある。
「灘兵衛が殺されたに相違ない」「悪魚の餌食となったのであろう」「いや巫女どもの復讐じゃ!」「水狐族めの復讐じゃ!」
「ご帰館ご帰館!」「船を廻せ!」互いに口々に
「待て!」とこの時頼正は、
「…………」
これを聞くと船中の武士ども一度にハッと
「誰かある誰かある、灘兵衛の生死確かめよ!」
「臆病者め!
云うと一緒に頼正は羽織を背後へかなぐり捨てた。
「こは何事にござります! 千金の
「放せ放せ! 放せと云うに!」
「殿!」とこの時進み出たのは諏訪家剣道指南番宮川武右衛門という老人であった。「殿、私が参りましょう」
「おお武右衛門、そち参るか」頼正は初めて機嫌を直したが、
「しかしそちは既に老年、この難役しとげられるかな?」
「は」と云うと武右衛門は膝の上へ手を置いて慎ましやかに一礼したが、「勝つも負けるも時の運。とは云え相手は妖怪か悪魚。それに安房の
「不覚を取ると知りながら、尚その方参ると云うか」
「はい、行かねばなりませぬ」「行かねばならぬ? それは何故か?」「他に行く者ござりませぬ」
「いかさま……」と云うと頼正は
「いえ、たとえ他にござりましても、この老人
「はて、それはまた何故であろうな?」
「私、指南番にござります。剣道指南番にござります。しかるにこの頃私は老朽、役に立ちませぬ。それにも
と武右衛門はこう云って来てにわかに一膝いざり出たが、「お願いの筋がござります」
一八
「願いの筋とな? 申して見るがよいぞ」――頼正は優しく云ったものである。
「もしも私不幸にして、悪魚の餌食となりました際には、なにとぞ今回のお企て、すぐにお取り止めくださいますよう。これがお願いにござります」
「それは成らぬ」と頼正は気の毒そうに頭を振った。
「そちは今回の企てを何んのためと思っておるな?」
「お
「いや」と武右衛門は顔を上げた。
「さようなご深慮とも
「解ってくれたか。それで安心」
「ご免」と云うと武右衛門はスックとばかり立ち上がった。クルクルと帯を
「いよいよ武右衛門湖水へ入る気か」
「殿、二言はござりませぬ」
「勇ましく思うぞ。きっと仕れ」
「は」
と云うと衣裳を脱ぎ、下帯へ短刀を
頼正を始め家臣一同、歯を喰いしばり
と、
「あっ、武右衛門もやられたわ!」
頼正、躍り上がつて叫んだ時、水、ゴボゴボと湧き上がり、その割れ目から顔を出したのは、血にまみれた武右衛門である。
「それ、者ども、武右衛門を助けい!」
「あっ」と云うと二、三人、衣裳のまま飛び込んだが
「腕! 腕!」と誰かが叫んだ。無残! 武右衛門の右の腕が肩の付け根から喰い取られている。
「
「殿、湖底は地獄でござるぞ!」武右衛門は
「巫女姿の一人の老婆?」頼正は思わず
「
「苔蒸した石棺に腰をかけ?」
「口に灘兵衛の生首をくわえ……」
「ううむ、灘兵衛の生首をくわえ?」
「私を見ると笑いましてござる。あ、あ、あ、笑いましてござる。……あ、あ、あ」
と云ったかと思うとそのままグッタリ首を垂れた。武右衛門は気絶をしたのである。
船中一時に
息苦しい瞬間の沈黙を、頼正の声がぶち破った。
「帰館帰館! 船を返せ!」
ギー、ギー、ギー、ギー、二十隻の船から
今はほとんど順序もない、若殿のご座船を中に包み、後の船が先になり、先の船が後になり、高島城の水門を差し右往、左往に漕いで行く。
石棺引き上げの第一日目はこうして失敗に終わったのである。
ある夜、一人城を出て、湖水の方へ
湖水の岸に柳があり、その
頼正は静かに近寄って行った。
「見ればうら若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ?」こう優しく云ったものである。
女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が
月の光に化粧された、その女の

一九
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の
湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益

「このような深夜にこのような処で若い
こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。
「
すると乙女は泣く
「
「ナニ
「京都から参ったのでございます」
「うむ、そうしてただ一人でか?」
「
「誘拐された? それは気の毒。で、何者に誘拐されたな?」
「ハイ、今から二十日ほど前、乳母を連れて清水寺に参詣に参った帰路、人形使いに身を

「おおさようか、益

「はい有難うはございますが、母と

「かえすがえすも不幸な身の上、はてこれは困ったことだ」頼正はその眼を
「どこにどうしておりますやら、和田峠とやら申す山で、ようやく人買いの眼を
「それでここで泣いていたのか?」
「はい」と云って身を顫わせる。
月は益

「そうしてそちの名は何んと云うぞ?」
「はい、
「水藻、水藻、しおらしい名だ。これからそちはどうする気だな?」
「はい、どうしたらよろしいやら、いっそやっぱり湖水の底へ……どうぞ死なしてくださりませ! どうぞ死なしてくださりませ!」物狂わしく身をもがく。
「この頼正がある限りは決してそちは死なしはせぬ。何故そのように死にたいぞ?」
「憐れな身の上でございますゆえ……」
「この頼正がある限りはお前は不幸に沈ませては置かぬ。それともそちは
云い云い肩へ手を置いた。水藻はそれを避けようともしない。堅く身を縮めるばかりである。
「返辞のないは
「それともそちは恥ずかしいか?」
乙女は黙って頷いた。
「まだそちは死にたいか?」
「死ぬのが厭になりました」
「楽しく二人で生きようではないか」
水藻は袖から顔を上げたが涙に濡れた星のような眼が、この時かすかに
「おお笑ったな。そうなくてはならぬ。
二〇
こういう事があってから十日余りの日が経った。その時諏訪の家中一般に一つの噂が拡まった。
――若殿が毎夜城を出てどこかへ行かれるというのである。――
――それから間もなく若殿に関してもう一つの噂が拡まった。若殿にはこの頃隠し女が出来てそこへ通われるというのである。――
で、人達は取り沙汰した。
「武道好みの若殿に女が出来たとは面白いな」
「さて、どんな女であろうぞ?」「いったい何者の娘であろうな?」「家中の者の娘であろうか?」「それとも他国の遊女売女かな?」「湖水の石棺を引き上げようというあの乱暴な

そのうち、家中の人達の眼に、当の若殿頼正が、日に日に
――そこでまた噂が拡まった。
「これは魅入られたに違いない。いよいよ相手は
「あッ、なるほど!」
と人々は、この意見に
「いかさまこれは水狐族であろう。水狐族なら
「そうだこれは祟る筈だ。
「しかしどうして突き止めたものか?」
「誰が一番適任かな?」
「拙者突き止めてお眼にかける!」
こう豪然と云った者がある。佐分利流の槍術指南
「お、右田殿か、これは適任」
「さよう、これは適任でござる」
人々は同音に
「よろしゅうござる、引き受け申した。たかが相手は水狐族の娘、拙者必ず槍先をもって悪魔退散致させましょう」
――で、運八はその日の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。
深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影がひらりと下り立った。他ならぬ若殿頼正である。
眼に見えぬ糸に曳かれるように、
すると裏門の
「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに
町を抜けると
「これはしまった」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。
「ご老婆ちょっと物を尋ねる」
運八は
二一
老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。
「年寄りの
右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり
運八はいよいよ
はっと思ったその瞬間運八はグラグラと眼が
数人の百姓に
この運八の失策は
しかるに若殿頼正は依然として城を抜け出してどこへともなく通って行く。そうして日に夜に衰弱する。
この奇怪な諏訪家の噂は、伊那の内藤家へも聞こえて来た。
ある日、駿河守正勝は鏡葉之助をお側へ召したが、
「気の毒ながら諏訪家へ参り、
「は」と云ったが葉之助は迷惑そうな顔をした。
「諏訪家と当家とは縁辺である。聞き捨て見捨てにもなるまいではないか」
「他に人はござりますまいか?」
「そちに限る。そちに限る。何故と申すに他でもない大鳥井紋兵衛を苦しめた得体の知れなかった妖怪も、一度そちが見舞って以来姿を潜めたというではないか。そちに威徳があればこそだ。
「いかなる名義で参りましょうや?」
「当家からの使者としてな。若殿頼正の病気見舞いとしてな」
「やむを得ませぬ、ご
「首尾よくやれば当家の名誉。諏訪家においても恩に着よう。さていつ
「事は急ぐに限ります。明早朝お
「供揃い美々しく致すよう」
――で、その翌朝、大供を従え、鏡葉之助は発足した。
中一日を旅で暮らし、その翌日諏訪へ着いたが
翌日が正式の会見日である。
その夜諏訪から重役が幾人となく
「お家は代々文学のお家柄、蔵書など沢山ござりましょうな?」
「さよう、
「文庫拝見致したいもので」
「いと
兵庫は葉之助を導いて書籍蔵へ案内した。実に立派な文庫である。万巻に余る古今の書が整々然として並べられてある。
葉之助は心中感に耐えながら「ス」の部を根気よく調査したが、その結果ようやく探し当てたのは「水狐族縁起」という写本であって、部屋に戻ると葉之助は熱心にそれを読み出した。
水狐族なるものの発生とその宗教の
――平安朝時代のことであるが、この諏訪の国の湖水の岸に一個の城が
二二
「俺はあらゆる人間を呪う。俺は浮世を呪ってやる!」こう叫んだ宗介が八ヶ嶽へ走って
彼ら部落民全体を通じて最も特色とするところは、男女を問わず
「ふうむ、そうか」
と葉之助は、写本を一通り読んでしまうと、驚いたように呟いた。
「容易ならない敵ではある。それに人数が多すぎる。一部落の人間を相手としては、いかほど武道に達した者でも、討ち果たすことは
森閑と更けた城内の夜、別館客座敷の真ん中に坐り葉之助はじっと考え込んだが、
「考えていても仕方がない。味方を知り敵を知るは必勝の法と兵学にもある。これから
スッと立って廻廊へ出、雨戸を開けると庭へ出た。城の裏門までやって来ると一人の番人が立っていた。
「どなたでござるな? どこへおいでなさる?」
「拙者は内藤家より使者の者、所用あって城下へ出ます。早々小門をお開けくださるよう」
「はっ」と云って
「ほほう、いかなる人といえども刻限過ぎにはこの小門を通行致すことなりませぬとな」
「諏訪家の
「しかるに毎夜その掟を破り他出する者がござるとのこと、何んと不都合ではござらぬかな」
「いやいや決してさような者、諏訪家家中にはおりませぬ」
「いやいや家中の
「はて、どなたでございましょうや?」
「すなわち若殿頼正公」
「あッ、なるほど!」と思わず云って門番はキョトンと眼を丸くした。
「何んとでござるな。一言もござるまい」
葉之助は笑ったものである。
「いや一言もござりませぬ」
「しからば開門なさるよう」
「やむを得ぬ儀、いざお通り」
ギーと門番は門を開けた。ポンと潜った葉之助は、昼間あらかじめ調べて置いた、野良の細道をサッサッと神宮寺村の方へ歩いて行く。遅い月が出たばかりで
間もなく遥かの行手に当たって水狐族の部落が見渡された。家数にして百軒余り、人数にして三百人もあろうか、今はもちろん寝静まっていて人影一つ見えようともしない。夜眼にハッキリとは解らないが、家の造り方も
と、
「はてな?」と呟いて葉之助は思わず足を止めたものである。
二三
音楽の音は
葉之助はしばらく聞いていたがやがて忍びやかに寄って行った。木蔭に隠れて向こうを見ると、神明造りの館の庭に数人の女が坐っていたが、いずれも若い水狐族の女で、一人は笛、一人は羯鼓、一人は鉦を叩いている。そうして一人の
静かに老婆は立ち上がった。それから両手を差し出した。それを上下へ上げ下げする。何かを招いているらしい。
と、城下の方角から、一つの黒点があらわれたが、それが風のように走って来る。魔法使いの老婆の手が遥かに
三人の女と老婆とは、にわかにスーッと立ち上がった。そうして音楽を奏しながら階段を悠々と昇り出した。やはり老婆は左右の手を上へ下へと上げ下げする。やがて屋内へ姿を消した。
頼正の眼は見開かれている。
後は
木蔭で見ていた葉之助は何がなしにゾッとした。
「……水狐族の妖術だな。あの老婆が
強い好奇心に誘われて静かに葉之助は木蔭を立ち出で、階段へ足をそっと掛け一階二階と昇って見た。とたんにヒューと空を切って一本の投げ棒が飛んで来たが、葉之助の足を払おうとする。ハッと驚いた葉之助は、身を躍らせて階段からヒラリと地上へ飛び下りた。しかしどこにも人影はない。月の光が蒼茫と前庭一杯に射し込んでいた。木立や
葉之助はまたもゾッとした。「帰った方がよさそうだ」こう思わざるを得なかった。そこで彼は身を忍ばせ水狐部落を抜け出し、野良の細道をスタスタと湖水の岸まで引き返して来た。
一人の女が湖水の岸の柳の蔭に立っている。どうやら泣いているらしい。
「これ女中どうなされたな?」
葉之助は怪しんで近寄って行った。見れば美しい娘である。
「このような
「はい」と云ったがその娘は顔から袖を放そうとはしない。白い頸、崩れた髪、なよなよとした腰の
「どこのお方で何んと云われるな?」
葉之助は優しくまた訊いた。
「産まれは
「いやいやそうではござるまい」鏡葉之助は静かに云った。
「生れは神宮寺、名は久田……」
「え?」と娘は顔を上げる。
「馬鹿!」と一喝、葉之助は、抜き打ちに
心に隙はなかったが、相手の不思議の振る舞いを怪しく思った葉之助は、じっとその手へ眼を付けた。次第に精神が恍惚となる。すなわち今日の催眠術だ。葉之助はそれへ掛かったのである。「あ、やられた」と思った時には、身動きすることさえ出来なかった。月も湖水も柳の木も、娘の姿ももう見えない。グルグルグルグルと渦巻き渦巻く奇怪な物象が眼の前で、空へ空へ空へ空へ、高く高く高く高く、ただ立ち昇るばかりである。
彼は刀を握ったまま湖水の岸へ転がった。彼は昏々と眠ったのである。そうして翌朝百姓によって呼び覚まされたその時には、腰の大小から衣裳まで
二四
これは武士たる葉之助にとっては云いようもない恥辱であった。
彼は城内の別館で、
しかし
「内藤家より参られた病気見舞いの使者殿が不思議なご病気になられたそうな」
「さよう不思議なご病気にな。一名
「噂によれば葉之助という
「いやいやそれは中傷で、葉之助殿は非常な武芸者、高遠城下で
「何さ、高遠の妖怪は諏訪の妖怪と事
しかも、葉之助は
ある日葉之助はいつも通り別館の座敷に端座してじっと思案に
彼はカッと眼を開けた。それから改めて読み出した。と、にわかに彼の眼は一行の文字に喰い入った。
「八ヶ嶽山上窩人に対しては、
こうそこには記されてある。
「うん、これだ!」
と葉之助はポンとばかりに膝を叩いた。
「なんという俺は
途中で充分足
三日目の昼頃
鏡葉之助は小屋の前にやや
それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。
二五
「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
忙しく
で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。
こうしてようやく
見られないのが当然である。十数年前に窩人達は
しかしもちろん葉之助にはそんな消息は解っていない。で、窩人の廃墟ばかりあって、窩人その者のいないということが、少なからず彼を失望させた。
「だがさっきの呼び声は決して自分の
そこで彼は何より先にその人間を探すことにした。
一軒一軒根気よくかつては窩人の住家であり、今は狐狸の巣となっている、
「さては
ようやく疑わしくなった時、またもや同じ呼び声がどこからともなく聞こえて来た。
「いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい!」と。
声は山の方からやって来る。
で葉之助は元気付き声のする方へ走って行った。荒野を上の方へ越した時、丘の上に森があり、森の中に神殿があり、内陣の奥に槍を持ったさも
とは云え何んとなくその木像が尊く懐かしく思われたので、葉之助は手を合わせて
「おお猪太郎、よく戻ったな」
ギョッと驚いた葉之助が思わずその眼を見張った時、木像の蔭からスルスルと、白衣長髪の人影が、彼の眼の前へ現われた。まことに神々しい姿である。慈愛に溢れた容貌である。人と云うより神に近い。
その神人はまた云った。
「おお猪太郎、よく戻ったな」
意外の人物の出現に、胆を潰した葉之助はしばらく無言で
「これはどなたか存じませぬが、お人違いではございませぬかな。私事は高遠の家中、鏡葉之助と申す者、猪太郎ではございませぬ」
「さようさよう只今の名は葉之助殿でござったな。しかしやっぱり猪太郎じゃ。さよう少くも幼名はな」神々しい姿のその人はこう云うと
「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」
「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は
すると葉之助は笑い出したが、
「これは何をおっしゃることやらとんと私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に
果ては少しく怒りさえした。
二六
すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、
「お前の父母は何んと云うな?」
「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」
「さようさようそうであったな。それは
「ナニ、仮り親でございますと? 奇怪な仰せ、その仔細は?」葉之助は気色ばむ。
「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然
「先刻より様々の仰せ、不思議なことばかりでございますが、そもそもあなたにはいかなるご身分、いかなるお方でございましょう?」
「私はお前の産まれない前に、この山中にいた者じゃ」
「ははあ、さようでございますか」
「そうしてお前の実の親とは深い関係のあるものじゃ。
「……?」
「善、平等、慈悲、平和、私はこれらの
「ははあさようでございますか」
「お前の産まれる少し前に
「そうしてあなたのお名前は?」
「この山では私の事を白法師と呼んでいた」
「白法師様でございますな」
「困った事にはこの浮世には、私と反対な立場にいて私に反対する悪い奴がいる。悪、不平等、
「それは何者でございましょう?」
「黒法師とでも云って置こう。また悪玉と云ってもよい。したがって私は善玉で。……三世を貫く因果なるものはこの善玉と悪玉との勝負闘争に
「種族? 種族? 種族とは?」
「お前の属する種族の事じゃ」
「私は士族でございます」
「さよう、今はな、今は武士じゃ」
「元から武士でございました」
「そうではない、そうではない」
「では何者でございましょう?」
「それは云えぬ。今は云えぬ。それをお前へ教える者は他でもない黒法師じゃ」
「その黒法師はどこにおりましょう?」
「あらゆる人間に付きまとっている。だからお前にも付きまとっている」
「私の眼には見えませぬ」
「間もなくお前にも見えて来よう」
「種族の犠牲? 黒法師? ああ私には解らない!」
「水狐族! 水狐族!」白法師は卒然と云った。「これをお前は滅ぼそうとしてこの山中へ来たのであろうな?」
「仰せの通りでございます」
「窩人にとっては水狐族こそは祖先以来の仇なのじゃ」
「そのように聞いておりました」
「だからお前の仇でもある」
「それはなぜでございましょう?」
「やがて解る、やがて解る。……とまれお前はお前の属するある一つの種族のため、他の種族と戦わねばならぬ。水狐族どもと戦わねばならぬ。そうしてお前は久田の
「しかしどうしたら憎い妖婆を討ち取ることが出来ましょうか?」こう葉之助は不安そうに訊いた。
「あれを見るがいい。あれを見ろ」
こう云いながら白法師は内陣の木像の持っている平安朝型の長槍を、手を上げて指差した。
「あの木像こそ他ならぬ窩人族の
云われて葉之助は躍り上がったが、神殿へ

二七
……「久田の姥を殺した
背後の方から白法師がこう云って呼びかけるのを聞き流し、鏡葉之助が勇躍して山を里の方へ
彼はただただ嬉しかった。
「憎い妖婆を討つ事が出来る。堕ちた名誉を取り返すことが出来る。呪詛が何んだ、呪詛が何んだ!」
これが葉之助の心持ちであった。
「有難いのはこの槍だ。槍よどうぞ俺のために霊妙な力を現わしてくれ。魔法使いの久田の姥めをただ一突きに突き殺させてくれ!」
これが葉之助の願いであった。
足を早めてドンドン下る。
途中で一夜野宿をし、その翌日の真昼頃、高島の城下に帰り着いたが、
やがて日が暮れ夜となり、その夜が更けて深夜となった。
湖水に添って
間もなく水狐族の部落へ来たが、
「よし」
と呟くと葉之助は、木蔭家蔭を伝いながら、久田の姥の住居の方へ、足音を忍んで寄って行った。
広い前庭までやって来た時彼はハッとして立ち止まった。
「はてな?」
と葉之助は怪しんだ。で、一層足音を忍ばせ、暗い物蔭を伝い伝い、彼らの話し声を聞き取ろうと、そっちの方へ寄って行った。
何やら彼らは話し合っている。
「どうしたどうした、まだ出来ないか」
「節があるので削り
「いいかげんでいい、いいかげんでいい」
シュッシュッという板を削る音。
「釘をよこせ、釘をよこせ」
「おっとよしきた、それ釘だ」
コンコンという釘を打つ音が、夜の
何を造っているのであろう。
とまた彼らは話し出した。
「
「それは、最後のお別れだからな」
「
「うん、そうとも、
「百歳過ぎたお婆とな」
「どう致しまして、十七、八、水の出花のお娘ごとよ」
「アッハハハ、違えねえ」
彼らは小声で笑い合い、ひとしきりコンコンと仕事をした。
「思えばちょっとばかり可哀そうだな」また一人が云い出した。
「若い身空を水葬礼か」
「それも皆んな心がらだ」
「俺らに逆らった天罰だ」
「湖水を
「諏訪家の若殿頼正なら、若殿らしく
「いい気味だよ、いい気味だよ」
そこで彼らはまた笑った。
「……さて、あらかた棺も出来た」
「早く
そこで彼らは沈黙した。
これを聞いた葉之助はゾッとせざるを得なかった。
彼らは頼正の死骸を納める棺を造っていたのであった。そうして若殿頼正は、今夜もこの家へ引き寄せられ、美しい娘の
「これはこうしてはいられない」
葉之助は足擦りした。とたんにガチャンと音がした。彼は何物かに
「もうこうなれば仕方がない。一人残らず討ち取ってやろう」
突嗟に思案した葉之助は、そこに立っていた杉の古木の驚くばかり太い幹へピッタリ体をくっ付けた。
それとも知らず水狐族は四人
二八
眼前三尺に逼った時、葉之助の手はツト延びた。真っ先に進んだ水狐族の胸の真ん中を
眼にも止まらぬ早業である。声一つ敵に立てさせない。
ブルッと
階段を上がると廻廊で、突き当たりは杉の大戸、手を掛けて引き開けると灯火のない闇の部屋、そこを通って奥へ行く。と、一つの部屋を隔てて
窺い寄った葉之助、立ててある几帳の
老婆は口をカッと開けたがホーッ、ホーッ、ホーッ、ホーッと、頼正公の顔の辺へ息をしきりに吹きかける。そのつど頼正は
じっと見定めた葉之助は、几帳をパッと
ピタリと槍を構えたものである。
さすがに老婆も驚いたが、抱いていた頼正を投げ出すと、スックとばかり立ち上がつた。身の
二人は眼と眼を見合わせた。
「小僧推参!」
と忍び
あわやまたもや葉之助は、恐ろしい
と、奇蹟が現われた。
平安朝型の長槍が、すなわち窩人の守護本尊宗介天狗の木像から借り受けて来た長槍が、葉之助の意志に
葉之助は驚いたが、それにも増して驚いたのは実に久田の
彼女はじっと槍を見た。見る見る顔に苦悶が
「宗介の槍! 宗介の槍! ……おおその槍を持っているからは、
しかし葉之助は返辞さえしない。ジリジリジリジリと突き進む。それに押されて久田の姥は一足一足後へ退がる。
やはり二人は睨み合っている。
頭上に高く
しかし久田は倒れなかった。
両手を掛けて槍の柄をムズとばかり握ったものである。
「……
こう妖婆は叫んだが、それと一緒に息絶えた。
初めてホッとした葉之助は、昏倒している頼正を片手を廻して背中に負い、片手で血まみれの槍を突き、階段を下りて庭へ出た。
部落は幸いにも寝静まっている。これほどの騒動も知らないと見える。
で、葉之助は静々と水狐族の部落を引き上げて行く。
部落を抜け田圃へ
妖婆の
こうして彼はその夜の
怨念復讐の巻
一
鏡葉之助の槍先に久田の姥が退治られて以来、諏訪家の若殿頼正は、メキメキと元気を恢復した。
使命を果たした葉之助は、非常な面目を施した。彼の武勇は諏訪一円、武士も町人も賞讃した。彼に賜わった諏訪家の進物は、馬五頭でも運び切れなかった。
いよいよ諏訪家に
さて高遠へ着いて見ると、彼の功名は注進によって
いかに
「葉之助様がお帰りなされたそうで」
「おお、お帰りなされたそうだで」
「大変にご功名をなされましたそうで」
「そういうお噂だ。結構なことだ」
「お偉いお方でございますのね」
「まず高遠第一であろうな」
「あの、それに私達には、ご恩人でございますわ」
「そうともそうとも、恩人だとも」
「あのお方がおいでくだされて以来、
「おおそうだ、有難いことにな」
「お礼申さねばなりませんわ」
「私もとうからそう思っているのさ」
「どうしたらご恩が返されましょう」
「さあ、そいつが考えものだて」
「まさかお金も差し上げられず……」
「相手はご家老のご子息様だ、そんな事は断じて出来ない」
「では、品物も差し上げられませんのね」
「とてもお納めくださるまいよ」
「ではお父様いっそのこと、お
「うん、そうしてご
「それがよろしいかと存じます」
「なるほどこれはよいかもしれない」
大鳥井紋兵衛と娘お露とは、ここでようやく相談を
翌日紋兵衛は
帰国以来葉之助は、いろいろの人から招待されて、もう馳走には飽き飽きしていた。で、紋兵衛に招かれても心中大して嬉しくもなかった。と云って断われば角が立つ。そこでともかくも応ずることにした。もっとも娘のお露に対しては
「あの娘は美しい。そうして大変
中一日日を置いて彼は大鳥井家へ出掛けて行った。
心をこめた種々の馳走はやはり彼には嬉しかった。
お露とたった二人だけで、数奇を凝らした茶室の中で、彼女の手前で茶をよばれたのは、分けても彼には好もしかった。
石州流の作法によって造り上げられた庭園を、お露の案内で
「綺麗なお月様……」
「おお名月……」
二人は
葉籠りをした小鳥の群が、にわかに騒がしく啼き出した。あまりに明るい月光に、朝が来たと思ったのであろう。
いつか二人は寄り添っていた。互いの体の
ふとお露は溜息をした。
と、葉之助も溜息をした。
ピチッと泉水で魚が跳ねた。
後はひっそりと静かである。
互いに何か話そうとして、なんにも話すことが出来なかった。話そうと思えば思うほど口が固く結ばれた。
で二人は黙っていた。二人とも若くて美しい。二人とも恋には経験がない。これが二人には初恋であった。
二人は
二
やっぱり二人は黙っていた。
もし
若さと美貌と勇気と名声、これを一身に兼備している葉之助のような人物こそは、お露のような乙女にとっては、無二の恋の対象であった。ましてその人は家のためまた大事な父のためには
今こそ心中を打ち明けるにはまたとない絶好の機会である。場所は庭の中の
葉之助にとってはこれまでは、このお露という美しい娘は淡い恋の対象に過ぎなかった。ただ時々思い出し、思い出してはすぐ忘れた。しかるにこの日招かれて来て、そうして彼女に会って見て、そうして彼女から
彼のような性質の者が、一旦恋心を唆られると坂を転がる石のように止どまるところを知らないものである。……
で、二人は黙っていた。しかし二人は二人とも、相手の心は解っていた。不満ながらも満足をして二人は黙っているのであった。
「これ葉之助、ちょっと参れ」
ある日父の弓之進が、こう葉之助を部屋へ呼んだ。
「は、ご用でございますか?」
「お前近頃大鳥井家へ、足
云われて葉之助は顔を
「はい、いえ、別に、これと申して……」
「もちろん、行って悪いとは云わぬ。また先方としてみればいわばお前は恩人であるから、招いて
「注意することに致します」
「そうだな。少し注意した方がいい。家中の評判も高いからな」
これには葉之助も驚いた。
「家中の評判とおっしゃいますと?」
「何さ、別に心配はいらぬ。お前は今では家中の花、悪いに付け善いに付け噂をされるのは当然だよ」
「どんな噂でございましょう?」
「ちと、そいつが面白くない。……大鳥井家は財産家それに美しい娘がある。で、その二つを目的として、繁々通うとこう云うのだ」
「…………」
「アッハハハハ、莫迦な話だ。不肖なれど鏡家は当藩での家老職、まずは名門と云ってよい。たとえ財産はあるにしても大鳥井家はたかが百姓、そんなものに眼が
「はい、さようでございます」
「強慾者だということである」
「そんな噂でございます」
「お露とかいう娘の方はそれに反して評判がよい。だが
「ハイ、よい娘でございます」
葉之助は顔を赧らめた。
「たとえどんなによい娘でも、家格の相違があるからは嫁としてその
「参る
「そうであろうな。そうなくてはならぬ。……さてこう事が解って見れば痛くない腹を探られたくもない」
「ハイ、さようでございます」
「で、繁々行かぬがよい」
「気を付けることに致します」
「お前の武勇聡明にはまこと私も頭を下げる。これについては一言もない。ただ将来注意すべきは、女の色香これ一つだ。これを
「その辺充分将来とも気を付けるでございましょう」
葉之助は手を
三
淡々しいように見えていてその実地獄の
鏡葉之助はその時以来
欝した心を欝しさせたままいつまでも
葉之助の心が日一日、荒々しいものに変わって行ったのは、止むを得ないことである。彼は時に幻覚を見た。また往々「変な声」を聞いた。
「永久安穏はあるまいぞよ!」その変な声はどこからともなくこう彼に呼び掛けた。気味の悪い声であった。主のない声であった。
そうしてそれは
そうして彼はその声に聞き覚えあるような気持ちがした。
この言葉に嘘はなかった。実際彼は日一日と心に不安を覚えるようになった。心の片隅に小鬼でもいて、それが鋭い爪の先で彼の心を引っ掻くかのような、いても立ってもいられないような変な
「どうしたのだろう? 不思議な事だ」
彼にとっても、この事実は不思議と云わざるを得なかった。
で、意志の力をもって、得体の知れないこの不安を圧伏しようと心掛けた。しかしそれは無駄であった。
「何物か俺を
ついに彼はこの点に思い到らざるを得なかった。
「たしかに、あの声には聞き覚えがある。……おおそうだ、久田の声だ!」
正にそれに相違なかった。水狐族の
久田の姥の怨念は、ただこれだけでは済まなかった。
間もなく恐ろしい事件が起こった。そうしてそれが葉之助の身を破滅の淵へぶち込んだ。
ある夜、書見に
と例の声が聞こえて来た。
にわかに心が掻き乱れ坐っていることが出来なくなった。
で、戸を開けて外へ出た。秋の終り冬の初めの、それは名月の夜であったが、彼はフラフラと歩いて行った。
どうしたものかその入道を見ると、葉之助はゾッと
「いよいよ現われたな黒法師めが! こいつ悪玉に相違ない!」こう思ったからであった。
ムラムラと殺気が
声も掛けず抜き打ちに背後からザックリ斬り付けたのはその次の瞬間のことであった。と、ワッという悲鳴が起こり、静かな夜気を顫わせたが、見れば地上に一人の老人が、左の肩から右の胴まで物の見事に割り付けられ、
「や、これは黒法師ではない。これは城下の町人だ」
葉之助はハッと
しかるにここに奇怪な事が彼の心中に湧き起こった。……老人を斬った瞬間に、彼の心中にトグロを巻いていた不安と焦燥が消えたことである。……彼の頭は
飼い慣らされた猛獣が、血の味を知ったら大変である。原始的性格の葉之助が
のみならずここにもう一つ奇怪な現象が行われた。
それは彼が殺人をしたその翌朝のことであったが、床から起き出た彼を見ると、母親のお石が叫ぶように云った。
「お前、いつもと顔が
「本当ですか? どうしたのでしょう」
で、葉之助は鏡を見た。なるほど、いささか異っている。白い顔色が益

思わず葉之助は唸ったものである。それから呟いたものである。
「不思議だ、不思議だ、何んということだ」
……が、決して不思議ではない。何んのこれが不思議なものか。
美しい犬へ肉をくれると、より一層美しくなる。死骸から咲き出た草花は、他の草花より美しい。
人を殺して血を浴びた彼が、美しくなったのは当然である。
四
二度目に人を斬ったのは、陽の当たっている
その日彼は山手の方へ
と行手の峠道へポツリ人影が現われたが、長い
「幻覚かな? 本物かな?」
その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
三人目には
高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の
誰も知ることが出来なかった。
家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
で、その夜も夜警隊は
円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。
誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、
こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
そこで止むを得ず葉之助は、殿の命に従うことにした。
ご前を下がって行く彼の姿を、じっと見送っていた武士があったが、他ならぬ剣道指南役、客分の松崎清左衛門であった。
「なんと清左衛門、葉之助は、若いに似合わぬ立派な男だな」
駿河守は何気なく云った。
「
「しかし、いささか、心得ぬ節が。……」
「心得ぬ節? どんな事か?」
「最近にわかに葉之助殿は、器量を上げられてございます」
「いかにもいかにも、あれは奇態だ」
「まことに奇態でございます」
「しかし、元から美少年ではあった」
「ハイ、美少年でございました。それに野性がございました。それも
「そういう噂もチラリと聞いた」
「しかるに最近に至りまして、さらにその上へより悪いものが加わりましてございます」
「ふうむ、そうかな? それは何かな?」
「ハイ、妖気でございます」自信ありげに清左衛門は云った。
「ナニ、妖気? これは不思議!」
「まことに不思議でございます」
「しかし
「しかし、確かでございます」
「どういう点が疑わしいな?」
「これは感覚でございます。そこを指しては申されません」
駿河守は首
「やがてお解りになりましょう」
五
殺人の本人、葉之助へその捕り方を命じたのは、笑うべき皮肉と云わざるを得ない。
辻斬りが絶えないばかりでなく反対にその数の増したのは当然過ぎるほど当然である。
こうして真の恐怖時代、こうして真の無警察時代が高遠城下へ招来された。
冬の夜空の月凍って、ビョービョーと吠える犬の声さえ陰に聞こえる深夜の町を、捕り方と称する殺人鬼が影のように通って行く! おお人々よ気を付けたがよい。その美しい容貌に、その優雅な
しんしんと雪が降って来た。
いやいや決して嘘ではない! 信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。
「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」
父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」
事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。
しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから!
「もう捨てては置かれない」
こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」
それは松崎清左衛門であった。
当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに
しかしはたして出るだろうか?
その夜も雪が降っていた。
角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、
その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から
尚二人は歩いて行った。
木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。
羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。
それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。
一道の殺気
「待て!」
と云う
「おお、あなたはお父上!」
「おのれ、葉之助! さては
「ご免!」
と叫ぶと覆面の武士すなわち葉之助は踵を返し、
手練の投げた雪礫は砲弾ほどの威力があり、それを背に受けた葉之助はもんどりうって倒れたが、そこは必死の場合である。パッと飛び起きて走り去った。あまりに意外な事実に、呆然とした弓之進はただ、棒のように立っていた。その時彼を呼ぶ者がある。
「鏡氏、お察し申す」
弓之進は眼を上げた。傘の武士が立っていた。
「そういう貴殿は? ……おお松崎氏!」
「捕えて見れば我が子なり。……鏡氏、驚かれたであろうな?」
「葉之助めが
弓之進は

「拙者断じて他言致さぬ。家に帰られ葉之助殿を、何んとかご処分なさるがよかろう」
雪は次第に
返辞をしようと思っても口に出すことが出来ないのであった。
彼は内藤家の家老であった。その立派な家柄の子が、こんな大事を
葉之助へ一封の
六
弓之進の死は変死であった。が、内藤家にとっては由緒ある功臣、絶家させることは出来ないというので、病死ということに取りつくろわせ、盛んな葬式が終えると同時に家督は葉之助に下された。
ひとしきり弓之進の死について家中ではいろいろ取り沙汰したが、生前非常な人望家でみんなの者から敬われていたので、非難の声は聞かれなかった。そうしてついに誰一人として自殺の原因を知るものがなかった。
わずかにそれを知っている者といえば、松崎清左衛門と葉之助だけであった。
その葉之助は父の死後自分に
「……辻斬りの本人がお前だと知っては、
これが遺書の大意であった。
で、ある日葉之助は北山方を訪れた。
一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。
「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。
「それはまた何故でございましょう?」葉之助は
「何故と云ってそうではないか。しかし……」
と云って北山はまたそこで考え込んだが、
「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを
「私は誰の子でございましょう?」
「それはこれにも書いてある通り、
「え、山の子とおっしゃいますと?」
「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」
「ハハアさようでございますか」
「ところが病気で
「不思議な言葉でございますな」
「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には
「死んだのではありますまいね」葉之助は不安そうに訊ねた。
「死んだのではない気絶したのだ。ところで不思議にも気絶から
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、そうでないと云えばそうでないとも云える。西洋医学ではこの状態を精神転換と云っている。すなわち過去をすっかり忘れ、気絶から醒めたその時から新規に
七
この
「他にお詫びのしようもない。ただ、立派な人物になろう。それが何よりのご恩返しだ」
それからの彼と云うものは、武事に文事に
この彼の大勇猛心には、乗ずべき隙もなかったか、黒法師も現われず、「永久安穏はあるまいぞよ」という奇怪な声も聞こえて来なかった。
で、彼の生活はその後平和に流れたのであった。しかしたった一度だけ、不思議が彼を襲ったことがあった。
それは
すると誰やら若い女が
近寄って見ればお露であった。
亡き父の
「何が悲しくてお泣きなさる」
こう云う声は
お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。
「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」
葉之助はこう思った。
そうしてそれは本当であった。
一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。
お露は不幸にも後者であった。
葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。
その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち
葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から
と、葉之助の一方の手が、やさしくお露の顎にかかった。しずかに顔を持ち上げようとする彼女の顔は手に連れて、
とたんに
ハッと驚いた葉之助は、無慈悲に抱いていた手を放した。
素早く四辺を見廻したがそれらしい人の影も見えない。
「はてな?」と彼は呟いたが、やにわに袖を
「
と叫ぶと一緒に、葉之助は小柄を引き抜いたが、グッとその顔へ突き通した。飛び散る血汐、焼けるような痛み、それと同時に人顔は消え二十枚の歯形が現われた。
八
それから間もなく引き続いて、怪しいことが起こって来た。それはやはり二の腕にある二十枚の歯形に関することで、そうして対象は紋兵衛であった。
つまり紋兵衛と顔を合わせるごとに、二十枚の歯形が人面疽と変じ、そうしてこのように叫ぶのであった。
「お殺しよその男を!」
すると不思議にも葉之助は、その紋兵衛が憎くなりムラムラと殺気が起こるのであった。しかしさすがに刀を抜いて討ち果たすところまでは行かなかった。
「歯形といい人面疽といい、恐ろしいことばかりが付きまとう。俺は
そうして尚もこう思った。
「大鳥井一家とこの俺とは、何か
しかし彼には精神転換前の、自分を知ることが出来なかった。
「とにかく俺は大鳥井家へは絶対に足踏みをしないことにしよう。お露との恋も忘れよう」
そうして彼はこの決心を強い意志で実行した。
春が
甲州街道五十三里を、大名行列いとも
一行の中には葉之助もいた。彼にとっては江戸は
夏が逝って初秋が来た。その頃紋兵衛とお露とが江戸見物にやって来た。芝は三田の寺町へ格好な家を一軒借りてこれも市中の見物に
ふたたび葉之助が
「葉之助殿のお
こう思って紋兵衛はお露を連れてこの大江戸へは来たのであった。
それにもう一つ紋兵衛は、五千石の旗本で、駿河守には実の舎弟、森家へ養子に行ったところから、森
この二人の上京は、実のところ葉之助にとっては、
それは非番の日であったが、葉之助は市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。
「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を
それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、フと駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。
「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」
こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後をつけて見ようと決心した。
駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て
「これはいったいどうしたことだ?
九
もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。
駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり
廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、
と、その時、きわめて
金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
下屋敷の内には一人もなかった。
しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
他でもない葉之助であった。
その葉之助は駕籠をつけてこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく
駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛のような音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。
「なんであろう?」と怪しみながら、彼はじっと耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。
なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく
「お、これは?」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に
「
何か頷くと葉之助は、
その夜が明けて朝となった。
いつも早起きの金一郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと
これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、
「何者の
「突き傷もなければ切り傷もない」
「血一滴こぼれてもいない」
「毒殺らしい徴候もない」
「絞殺らしい証拠もない」
「奇怪な殺人、疑問の死」
上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。
葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、
「若君
「笛のような
一〇
信州伊那郡高遠の城下、三の
「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」
「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」
「心臓
「絞殺の疑いもないのだそうだ」
「ではどうして
「解らないよ。俺には解らぬ」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」
「ではどうして金一郎様は、お
「さあそれは、今は解らぬ」
「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」
「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお
「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。
「だが」とにわかに北山は、四辺を
「だが、俺には解ることがある」
「ははあ、何事でございますな?」
「この事件の目的だがな」
「金一郎様殺しの目的が?」
「一学! これはお家騒動だよ!」
「よく私には解りませんが」
「当家のお世継ぎはどなたであったな?」
「それは
「金一郎様
「ご次男金二郎様でございましょうが?」
「金二郎様が
「先生先生何をおっしゃるので!
「まあさ、これは仮定だよ。……金二郎様なき後は誰が内藤家を継がれるな?」
「もう継ぐお方はございません」
「と云う意味は駿河守様には、お二人しかお子様がないからであろうな?」
「そういう意味でございます」
「しかしお世継ぎがないとあっては、内藤家は断絶する」
「大変なことでございますな」
「大変なことさ。とんでもないことさ。だからどうしても他の方面から、至急お世継ぎを持って来なければならない」
「ははあ、ご養子でございますかな?」
「うん、そうだ、ご近親からな。一番近しいご親戚からな」
「これは、ごもっともでございますな」
「ところがどなたが内藤家にとって一番近しいご親戚かな?」
「さあ」と云って考えたが、「森
「そうだよそうだよ、森帯刀様だよ」
こう云うと北山は微妙に笑ったが、
「どうだ」とやがて
「はい。しかし、どうも私には……」
「おやおや、これでも解らないのか?」
「とんと
「頭が悪いな。え、一学」
「私の馬鹿は昔からで」
「それが今日は特に悪い」
「いやはやどうも、お口の悪いことで」
「お前、今日は、便秘だろう?」
「いえ、そうでもございません」
「なあに、そうだよ、便秘に相違ない」
「これはまたなぜでございますな」
「便秘だと頭が悪くなる」
「あッ、やっぱり、そこへ行きますので」
「ひまし油を飲めよ。ひまし油を」
「仕方がありません、飲むことにしましょう」
「アッハハハ、それがいい」
面白そうに笑ったが、にわかに北山は真面目になり、
「これは少しく秘密だが、お前にだけ話すことにしよう。この前の参覲交替の節、俺も殿のお供をして、江戸へ参ったことがある。するとある日帯刀様から、使いが来て招かれた」
「ははあ、さようでございますか」
「で早速
「面白いお話でもございましたかな?」
「ところが一人相客がいた」
「ははあどなたでございましたな?」
「江戸の有名な蘭学医、お前も名ぐらいは知っていよう、大槻玄卿という人物だ」
一一
「はい、よく名前は承知しております」
「帯刀様のご様子を見ると、
「なるほど、これは物騒で」
「で俺はいい加減にして、お
「ハイ、どうやら
「で俺は案じるのだ、どうぞご次男金二郎様に、もしものことがないようにとな」
「これは心配でございますな」
「今度の江戸の事件について、誰かもっと詳しいことを知らせてくれるものはあるまいかと、心待ちに待っているのだがな」
その時、襖が静かにあき小間使いが顔を現わした。
「江戸からのお
「江戸からの飛脚? おおそうか。いや有難い。待っていたのだ。すぐ裏庭へ通すよう」
「かしこまりましてございます」
小間使いが去ったその後で、天野北山は立ち上がった。さて裏縁へ来て見ると、見覚えのある鏡家の若党山岸佐平がかしこまっていた。
「佐平ではないか。ご苦労ご苦労」
「はっ」と云うと進み寄り、
「私主人葉之助より、密々先生に差し上げるようにと、預かり参りましたこの書面、どうぞご覧くださいますよう」
「おおそうか、拝見しよう」
「次に」と云いながら山岸佐平は、また懐中へ手をやると小さい包みを取り出したが、「これも主人より預かりましたもの、
「そうであったか、ご苦労ご苦労、
云いすてて置いて北山は、自分の部屋へつとはいった。
書面をひらいて読み下すと、次のような意味のことが書いてあった。
「前略、とり急ぎしたため申し候 、さて今回金一郎様、不慮のことにてご他界遊ばされ、君臣一同愁嘆至極 、なんと申してよろしきや、適当の言葉もござなく候、しかるに当夜私事、偶然のこととは云いながら、二、三怪しき事件に逢い、疑惑容易に解 き難きについては、先生のご意見承わりたく、左に列記仕 り候。
当日、私非番のため、家を出でて市中を彷徨 い、深夜に至りて帰路につき、愛宕下まで参りしおりから、蘭医大槻玄卿邸の、裏門にあたって一挺の駕籠、忍ぶが如くに下ろされおり、何気なく見れば一人の老人まさにその駕籠に乗らんとす。しかるに全く意外にも該 老人こそ余人ならず、先生にもご存知の大鳥井紋兵衛、これは怪しと存ぜしまま後を慕って参りしところ、紋兵衛の駕籠は根岸に入り我らが主君には実のご舎弟、帯刀様のお屋敷内へ、姿を隠し申し候、誠に奇怪とは存じながら、せんすべなければ立ち帰らんと、歩みを移せしそのおりから、忽 ち前面の草原にあたり、あたかも笛を吹くがようなる美妙 な音色湧き起こり、瞬間にして消え候さえ、合点ゆかざる怪事なるに、草原を見れば白粉 ようなる純白の粉長々と、帯刀様のお屋敷より、我らがご主君の下屋敷まで、一筋筋を引きおり候。
いよいよ怪しと存ぜしまま、その白粉 を摘み取り、自宅へ持ち帰り候が、別封をもってお眼にかけし物こそ、その白粉にござ候。
かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、白粉 ようなる白粉 につき、厳重なるお調べ願いたくいかがのものに候や。下略」
当日、私非番のため、家を出でて市中を
いよいよ怪しと存ぜしまま、その
かくて翌日と相成るや、金一郎様の変死あり、何んとももって合点ゆかず、異様の感に打たれ候ものから、貴意を得る次第に候が、
「ふうむ、いかさま、これは怪しい」
読んでしまうと北山は、じっと思案の首を傾げた。それからやおら立ち上がると、実験室へはいって行った。
まず部屋の戸をしっかりと閉じ、次に火器へ火を点じた。それから葉之助から送って来た油紙包みの紐を切り、ついで取り出した白粉を、鼻にあてて静かに嗅いだ。
「匂いがする。変な匂いだ」そこでしばらく考えたが、「なんの匂いとも解らない」
それから立ち上がると棚へ行き、試験管を引き出した。白粉を入れて水を注ぎ、さらにその中へ入れたのは紫色をした液体であった。
で、試験管を火にあてた。
しかし何んの反応もない。
「これはいけない。ではこっちだな」
こう云うと彼は他の薬品を、改めて試験管へ注ぎ込んだ。
で、またそれを火にかけた。
やはり何んの反応もない。
北山の顔には何んとも云えない、疑惑の情が現われたが、どうやら彼ほどの蘭学医でも、白粉の性質が解らないらしい。
一二
しかし天野北山としては、解らないと云ってうっちゃることは、どうにもこの際出来難かった。
「お家騒動の張本人を、森帯刀様と仮定すると、その
しかしあせればあせるほど、白粉の見当が付かなかった。
「これはこうしてはいられない。江戸へ出よう江戸へ出よう。そうして大槻と
「はっ」と云うと前田一学は、もっけな顔をしてはいって来た。
「江戸行きだ、用意せい」
「江戸行き? これは、どうしたことで?」
「お前も行くのだ。急げ急げ!」
主人の性急な性質は、よく一学には解っていた。で、理由を訊ねようともせず、旅行の用意に取りかかり、明日とも云わずその日のうちに、二人は高遠を発足した。
一方、鏡葉之助は、北山へ飛脚を出してからも、根岸にある主君の下屋敷を念頭から放すことは出来なかった。で、非番にあたる日などは、ほとんど終日下屋敷の附近を、ブラブラ
ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい
小芝居、手品、見世物、
「悪くないな。陽気だな」
など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を
で彼は木戸を払いつと内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで
「そうは云ってもまんざらじゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間
「あいつにゃ
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえの人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の
「ウワーッ、荒熊だ荒熊だ!」「熊と相撲を取るんだな」「
と異様な風采をした一人の老人が現われた。
「あれいけねえ、お
などとまたもや見物は、大声をあげて喚き出した。
一三
しかし老人はビクともせず、
で見物は次第に静まり、小屋の中は
「ええ、ご見物の皆様方へ、熊相撲の始まる前に、お話ししたいことがございます」
不意の、
「他のことではございません」老人はすぐに後をつづけた。
「我々山男の身分について申し上げたいのでございます。私の名は杉右衛門、一座の頭でございます。一口に山男とは申しますが、これを正しく申しますと、
「黙れ!」
と突然
「何を
「そうだそうだ!」と四方から、それに和する声がした。
「そんな下界が嫌いなら何故下界へ下りて来た!」
「それには訳がございます。それというのも下界人の、憎むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかされたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から
「
また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰
「引っ込め、
と見物は、今や総立ちになろうとした。
と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
と
「や!」
と叫ぶと
江戸市中狂乱の巻
一
浅草奥山の見世物小屋から、葉之助は邸へ帰って来た。
意外の人が待っていた。
蘭医天野北山と弟子の前田一学とが客間に控えていたのであった。
「おお、これは北山先生」
葉之助は喜んで一礼した。
「前田氏にもよう見えられた」
「葉之助殿、出て来ましたよ」北山はいつになく性急に、「さて早速申し上げる、先日はお手紙と不思議の
「ははあ、さようでございますか」葉之助は案外だというように、「先生ほどの大医にも、お解りにならないとは不思議千万」
「いや
「ははあ、それでは先生には、大槻玄卿が怪しいと、こう
「さよう、怪しく思われてな」北山はしばらく打ち案じたが、「卒直に云うとまずこうだ。……金一郎様のご他界は、内藤家におけるお家騒動の、犠牲というに他ならぬ。そうして騒動の元兇は、これは少しく
「えっ?」
と葉之助は眼を見張った。
「ご次男と申せば金二郎様、それがやられるとおっしゃるのは?」
「やられるともやられるとも。油断をすると今夜にもやられる」北山はキッと眼を据えたが、「あいつらの目的とするところは、内藤家乗っ取りの陰謀だからな、ご長男様ご次男様、お二人がなくなられるとお世継ぎがない。そこで帯刀様が乗り込んで来られる。どうだ、これで胸に落ちたろう」
云われて葉之助は「ムー」と呻いた。
「いやそれほどの陰謀とは、私夢にも存じませなんだ。これは一刻の油断も出来ない。恐ろしいことでございますな。……」
「人の世は全く恐ろしいよ。さて今度は
「これはごもっともでございますな。それでは手狭でも私の家に、こっそりお
「いやいやそれも妙策でない。人の出入りもあろうから、どうで知れずには済まされぬ。それより
「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」
葉之助は意気込んで引受けた。
二
北山と一学とは人目を
さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。
ここは寂しい宇田川町、夜がしんしんと更けていた。
源介という
「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」
こんなことを云いながら歩いていた。
と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。
「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見
はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。
「やい、こん畜生! 悪い奴だ!」
源介は
この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。
「
云い云い女に近付いて行った。
と、倒れていた若い女は、
しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり、源介の胸へしがみ付いている。
源介の魂は宙へ飛んだ。で、むやみと
こう思ったそのとたん、女はヒョイと胸から離れ、まず衣裳の乱れを
「あぶないところをお助けくだされ、何んとお礼を申してよいやら、ほんとに有難う存じました」
切り口上で礼を云った。
「へえ、ナーニ、どう致しやして。でもマア
相手に真面目に出られたので、つい源介も真面目に云った。
「はい、ちょっと主人の用事で、新銭座の方まで参りましたところ後から
「ナール、空地でとっ捉まえられたんだね。で、お家はどこですえ?」
「はいツイそこの愛宕下で。……あのまことに申し兼ねますが、お助けくだされたおついでに、お送りなされてはくださいますまいか」
「またさっきの悪い奴が追っかけて来ねえものでもねえ、ようごす、送ってあげやしょう」
こうは云ったが源介は、腹の中では舌打ちをした。「どうもこいつア駄目らしいぞ。これが下町の娘っ子なら、たらして宿へも連れ込めるが、山の手のお屋敷風、さようしからばの切り口上じゃ、ちょっとどうも手が出ねえ。物にするなあ諦めて、お礼でもしこたま貰うとしよう」
「じゃ
「それではお送りくださいますので、それはマア有難う存じます」云い云い女は並んで歩いた。
柴井町から露月町、日蔭町まで来た時であったが、
「まあいいお体格でございますこと」不意に女がこう云った。
「え?」と源介は女を見たが、早速には意味が解らなかった。「なんですえ、体格とは?」
「あなたのお体でございますわ」
「ナーンだ
「体が
「ずいぶんお目方もございましょうね?」
「へえ」と云ったが源介は、裏切られたような気持ちがした。
「ほんとに何んだいこの女は! あぶなく酷い目に逢いかかったのに、もう
「ずいぶん骨太でいらっしゃいますことね」
「あれ、あんな事云やあがる。厭になっちまうなこの女は。――ヘイヘイ骨太でございますとも」
「ホ、ホ、ホ、ホ、結構ですわ」
「ワーッ、今度は笑いやがった。変に気に入らねえ女だなあ」源介はすっかりウンザリした。
すると、女がまた云った。
「
源介はピタリと足を止めた。そうして女をじっと見た。ズーンと何物かで脳天を、ぶち抜かれたような気持ちがした。
と、女は手を上げて、そこに立っていた巨大な屋敷の、黒板塀をトントンと打った。それが何かの合図と見えて、そこの切り戸がスーと開いた。
「主人の屋敷でございますの、お礼を致したいと存じます。どうぞおはいりくださいまし」
云いすてて女ははいって行った。
何んとも云われない芳香が、切り戸口から匂ってきた。源介にとっては誘惑であった。彼はその匂いに引き入れられるように、ブラブラと内へはいって行った。
間もなく彼の叫び声がした。
「やあ綺麗な花園だなあ」
それから後は
そうして源介はその夜限り、この地上から消えてしまった。彼の姿は未来
「やあ綺麗な花園だなあ」
この彼の叫び声はいったいどういう意味なのであろう?
三
ここで再び物語は、鏡葉之助の身の上に返る。
ある日葉之助はいつものように、四国町の邸を出て、殿の下屋敷を警護するため、根岸の方へ歩いて行った。増上寺附近まで来た時であったが、「ヒーッ」という女の悲鳴がした。同時に山門の暗い蔭から、裾を乱した若い女が、彼の方へ走って来た。そうしてその後から二人の男が何か
「ははあ、さては
呟いたとたんに若い女は
「お助けくださりませ、お助けくださりませ!」
「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな?」
「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい!」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ! お送りなされてくださりませ! いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ!」取り付いた手を放そうともしない。
「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな?」
「愛宕下でございます」女は髪をつくろった。
「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。
「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」
「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上にちと大胆、今後は注意なさるがよい」
若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうしてひたすら縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。
しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、
「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」
「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。
そこで葉之助は考えた。
「この屋敷へ入り込むのは、
そこで葉之助は云われるままに、木戸を潜ることにした。
四
女がコツコツと戸を叩くと、内側へスーと切り戸があいた。プーッと匂って来る快い匂い、まず葉之助の心をさらった。
はてなと思いながらはいったとたん、思わずあっと声を上げた。
黒い高塀に囲まれているので、往来からは見えなかったが、庭一面に草花が
「これは綺麗な花園でござるな」感嘆して立ち止まった。
するとその時
「
「
「おおこれが
さすがの葉之助も感心して、園に添って歩いて行った。すると一箇所一間四方ぐらい、その茴香の花園が枯れ
「これはどうも
「はい主人も心配して、恢復策を講じますものの、一旦枯れかかった茴香は、容易なことでは生き返らず、こまっておるのでございます」女はこう云いながら耳を澄ました。どこかで地面を掘っている。鋤にあたる小石の音が、コチンコチンと聞こえて来る。
薬草園を通り過ぎると、館の裏座敷の前へ出た。明るい
「さあどうぞお上がり遊ばしませ」
云いながら女が先に上がり、スラリと障子を引きあけた。何んとなく身の締まる思いがして、葉之助は一瞬間
「しばらくご免を」と挨拶をし女は奥へ引き込んだ。
敷物の上へ端然と坐り、葉之助は部屋の中を見廻した。床に一軸が懸かっていた。それは神農の図であった。
「愚老、大槻玄卿でござる」こう云って坐って一礼したが、
「家人をお助けくだされた
「拙者は鏡葉之助、内藤駿河守の家臣でござるが。ナニ助けたと申し条、ただちょっと通りかかったまで、そのご挨拶では痛み入る」葉之助も傲然と云った。「こんな坊主に負けるものか!」こういう腹があったからである。
「ほほう、内藤家の鏡氏、いやそれはご名門だ。お噂は
玄卿も相手が葉之助と聞いて、にわかに
その時小間使いが現われたが、それは別の小間使いであった。片手に
「うん、よろしい、そこへ置け」こう云って玄卿は
「いやナニ鏡葉之助殿、これは南蛮茶と申しましてな、日本ではめったに得られないもの、たいして美味でもござらぬが、珍らしいのが
こう云いながら玄卿は、湯差しを手ずから取り上げると、茶漉しの上から茶碗の中へ深紅の液を注ぎ込んだ。それから
「まず拙者お毒味を致す」
こう云うと一つの茶碗を取り上げ、半分ばかりグッと呑んだ。
「
「さようでござるかな、これは珍味」
葉之助は茶碗を取り上げたが、そこでちょっとためらった。
五
茶碗を取り上げた葉之助が、急に飲むのを
「評判のよくない大槻玄卿、どんなものをくれるか解るものか」つまり彼はこう思ったのであった。
玄卿はするとニヤリと笑った。
「いや鏡葉之助殿、愚老毒などは差し上げません。どうぞ安心してお
図星を差されたものである。
「とんでもないこと、どう致しまして」
葉之助は苦笑したが、今はのっ引きならなかった。で、一息にグーと飲んだ。日本の緑茶とは趣きの異った、強い香りの甘渋い味の、なかなか結構な飲み物であった。
「珍味珍味」と葉之助は、お世辞でなくて本当に
「産まれて初めての南蛮紅茶舌の正月を致してござる」
「お気に
「いや、もはや充分でござる」
葉之助は辞退した。
「さようでござるかな。お
で玄卿は茶器を片付けた。
それから二つ三つ話があった。
と、葉之助は次第次第に引き入れられるように眠くなった。
「これはおかしい」とこう思った時には、全身へ
「ううむ、やっぱり毒であったか!」
葉之助は切歯した。それから刀を抜こうとした。ただ心があせるばかりで手が云うことを聞かなかった。
「残念!」と彼は喚くように云った。しかし言葉は出なかった。ただそう云ったと思ったばかりで、その実言葉は舌の先からちょっとも外へは出なかった。
彼は前ノメリに倒れてしまった。
しかしそれでも意識はあった。
それから起こった出来事を、彼はぼんやり覚えていた。
……まず二、三人の男の手が、彼を宙へ
……………………
……………………
新鮮な空気がはいって来た。
葉之助は正気附いた。
そうして自由に息が出来た。
だが身動きは出来なかった。
彼はやはり穴の中にいた。
土が一杯に冠さっていた。
しかし痲痺からは覚めていた。毒薬の
どうして息が出来るのだろう? どこかに穴でも開いたのであろうか?
そうだ、穴があいたのであった。
ちょうど彼の口の上に、穴があいているのであった。
しかし普通の穴ではなかった。
竹の筒が差し込まれているのであった。
誰がそんなことをしたのだろう? もちろん誰だか解らなかった。
とまれそのため葉之助は、一時死から
彼は充分に息をした。どうかして穴から出ようとした。しかしそれは絶望であった。
で、じっとして待つことにした。
するとその時竹筒を伝って、人の声が聞こえて来た。
彼に呼びかけているのであった。
「鏡殿、葉之助殿」
それは男の声であった。
そうして確かに聞き覚えがあった。
そこで葉之助は返辞をした。
「どなたでござるな。え、どなたで?」
「一学でござる。前田一学で」
「おっ」と葉之助はそれを聞くと、助かったような気持ちがした。「さようでござるか、前田氏でござるか。……それにしてもこれはどうしたことで」
「生き埋めにされたのでございますよ」
「生き埋め? 生き埋め? なんのために?」
「枯れかけた
「ナニ、茴香を? 枯れかけた茴香を?」
「さよう」と一学の声が云った。「肥料にされたのでございます。……あなたばかりではございません。十数人の人間が。……人が来るようでございます。……しばらくお待ちくださいますよう」
六
そこでしばらく話が絶え、後はしばらく
と、また話し声が聞こえて来た。
「葉之助殿、お苦しいかな?」
「苦しゅうござる。早く出してくだされ」
「それが、そうは出来ませんので」
「ナニ出来ない? なぜでござるな?」
「まだ人達が目覚めております」
「ではいつここから出られるので?」葉之助はジリジリした。
「間もなく寝静まるでございましょう、もう少々お待ちくだされ」
「それにしても前田氏には、どうしてこんな処におられるな」
「玄卿の秘密を
「で、秘密はわかりましたかな?」
「さよう、おおかたはわかりました」
「それでは白粉の性質も?」
「さよう、おおかたは突き止めてござる」
「さようでござるかそれはお手柄。で、いったい何んでござるな?」
「
「ううむ、なるほど、茴香のな。やはり毒薬でござろうな?」
「さよう、さよう、毒薬でござる」
「おおそれでは金一郎様には、毒殺されたのでございますな」
「ところが、そうではございません」
「そうではないとな? これは不思議?」
「茴香剤は毒薬とは云え、後に痕跡を残します。……しかるに若殿の
「さようさよう、痕跡がなかった。……だが、毒殺でないとすると……」
「全く不思議でございます」
「白粉の性質が解っても、それでは一向仕方がないな」
「だが前後の事情から見て、茴香剤の白粉が、金一郎様殺害に、関係のあることはたしかにございます」
「で、白粉の特性は?」
「刺戟剤でございます。まず、しばらくお待ちください。客があるようでございます。……誰か裏門を叩いております。……
前田一学は立ち去ったらしい。
後はふたたび静かになった。
葉之助はだんだん苦しくなった。
湿気が体へ滲み通った。
呼吸もだんだん苦しくなった。ひどく衰弱を感じて来た。
次第に眠気を催して来た。
一学は帰って来なかった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
こう思いながらウツラウツラした。
これは恐ろしい眠りであった。ふたたび覚めない眠りであった。眠ったが最後葉之助は、生き返ることは出来ないだろう。
はたして彼の運命は?
ちょうど同じ夜のことであった。
神田の諸人宿の奥まった部屋に、天野北山は坐っていた。
薬箱が置いてあった。
アルコールランプが置いてあった。
試験管が置いてあった。
そうして彼は蘭語の医書を、むずかしい顔をして読んでいた。
そこには次のように書いてあった。
「……茴香には三種の区別あり、野茴香、大茴香、小茴香、しかして茴香の薬用部は、枝葉に非ずして果実なり。大きさおよそ二分ばかり、緑褐色長円形をなす。一種強烈なる芳香を有し、

北山はここで舌打ちをした。
「どうもこれでは仕方がない。だがしかし例の白粉が、茴香剤に相違ないと、前田一学から知らせて来たからには、それに相違はあるまいが、しかしどうも疑わしいな」
腕を組んで考え込んだ。
気がムシャクシャしてならなかった。
で、宿を出て歩くことにした。
他に行くところもなかったので、浅草の方へ足を向けた。
観音堂へ
相当夜が深かったので、他に参詣の人もなかった。
七
観音堂の裏手の丘に、十数人の男女がいた。寝そべっているもの、坐っているもの、立っているもの、横になっているもの、雑然として
「星が流れた」
と誰かが云った。
「ふん、明日も天気だろう」
すぐに誰かがこう答えた。
で、ちょっとの間しずかであった。
微風が木立を
赤児のむずかる声がした。と、子守唄が聞こえて来た。その子の母が唄うのであろう。美しい細々とした声であった。
虫が
微風がまたも辷って行った。
「ああいいな。どんなにいいか知れねえ。……土の匂いがにおって来る。……枯草の
老人の声がこう云った。
「八ヶ嶽! 八ヶ嶽! おお
一人の声がそれに応じた。やはり老人の声であったが。
「見捨ててから久しくなる。そろそろ八ヶ嶽を忘れそうだ」
「俺は夢にさえ思い出す」以前の老人が云いつづけた。「笹の平! 宗介神社! 天狗の岩! 岩屋の住居! 秋になると木の実が熟し、冬になると猪が捕れた。そうして春になると山桜が咲き、夏になると労働した。……平和と自由だったあの時代! 俺は夢にさえ思い出す」
「
「星が飛んだ!」
とまた誰かが云った。
虫の声が鳴きつづけた。
窩人達は眠ろうとした。
しかし彼らは眠られないらしい。
そこで彼らは話し出した。
彼らは浅草奥山の、見世物小屋の太夫達であった。
「八ヶ嶽の山男」
――こういう看板を上げている、その掛け小屋の太夫達であった。
しかし彼らは窩人であった。
彼らは小屋内に眠るより、
二十年近い過去となった。その頃彼らは八ヶ嶽を出て、下界の
到る所で迫害された。
山男! こういう
長い漂泊の間には、死ぬ者もあれば逃げるものもあった。しかし、子を産む女もあった。
で、絶えず変化した。
しかし目的は一つであった。
復讐をするということであった。
丘の近くに池があった。パタパタと水鳥の羽音がした。
「水鳥だな」
と誰かが云った。それは若々しい声であった。
「鳥はいいな。羽根がある」
もう一つの若々しい声が云った。
「飛んで行きたいよ。高い山へ!」「飛んで行きたいよ深い森へ!」「信州の山へ! 八ヶ嶽へ!」「そうだ俺らの古巣へな」
三、四人の声がこう云った。
愉快そうな笑い声が聞こえて来た。
枯草の匂いが立ち迷った。
で、またひとしきり静かになった。
観音堂は闇を抜いて、星空にまで届いている。と、
「また白蛇を盗まれたそうで」
突然こういう声がした。
「では二匹盗まれたんだな」
もう一人の声がこう云った。「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「八ヶ嶽だけに住んでる蛇だ」
「毒蛇だのに、誰が盗んだかな」
「いずれ馬鹿者が盗んだんだろう」
ここで再び笑い声がした。
それが消えると静かになった。カラカラと駒下駄の音がした。横に曲がってやがて消えた。
また微風が訪れて来た。
興行物の小屋掛けが、闇の中に立っていた。ギャーッと
「冬になるまでには帰りたいものだ」
老人の声がこう云った。
「帰れるともきっと帰れる」もう一人の老人の声が云った。
「そう長く悪運が続くわけがない」
「多四郎め! 思い知るがいい!」
「だが葉之助は可哀そうだ」突然誰かがこう云った。
「仕方がない、
「母の罪を償うのだ」
「あれの母の山吹は、部落きっての美人だった。お頭杉右衛門の娘だった。若大将岩太郎の
「ところが多四郎めに
八
観音堂への参詣を済まし、
「葉之助葉之助と云っているが、鏡葉之助のことではあるまいかな?」
これは疑うのが当然であった。
と、木蔭に身を隠し、次の話を待っていた。
「だが葉之助は偉い奴だ」老人の声がこう云った。「俺らの敵の水狐族部落を、見事に亡ぼしてくれたんだからな」
「そうだ、あの功は没せられない」合槌を打つ声が聞こえて来た。「あの一事で母親の罪は、
「噂によると水狐族めも、さすらいの旅へ上ったそうだ」
「江戸へ来ているということだ」
「どこかでぶつからないものでもない」
「ぶつかったが最後、戦いだ」
「そうだ戦いだ、腕が鳴るなあ」
「種族と種族との戦いだからな」
「種族の怨みというものは、未来
「だが、水狐族の部落の
「姥を殺したのは葉之助だ」
「葉之助は俺らの恩人だ」
「だが気の毒にも呪われている」
「永久安穏はないだろう」
「眠い」
と女の声がした。
するとみんな黙ってしまった。
彼らは
やがて
木蔭を立ち出で北山は、町の方へ足を向けた。
「ふうむそれでは葉之助は、山男の血統を引いてるのか」
彼は心で呟いた。
「久田の姥を殺したのは、鏡葉之助の他にはない。……彼らの噂した葉之助は、鏡葉之助に違いない……これを聞いたら葉之助はどんな気持ちになるだろう……明かした方がいいだろうか? 明かさない方がいいだろうか? ……だが多四郎とは何者だろう?」
上野の方へ足を向けた。
「大胆不敵な葉之助のことだ、素姓の卑しい山男達の、たとえ血統を引いていると聞いても、よもやひどい失望はしまい。……やはりこれは明かした方がいい……そうだ、今夜も葉之助は、根岸の殿の下屋敷附近を、警戒しているに違いない。行き逢って様子を見ることにしよう」
根岸の方へ足を向けた。
根岸は閑静な土地であった。夜など人一人通ろうともしない。
間もなく下屋敷の側まで来た。
葉之助の姿は見えなかった。
で、裏の方へ廻って行った。
すると、広い空地へ出た。空地の闇を貫いて、一筋白い長い線が、一文字に地面へ引かれていた。
それと知った時北山は、思わず「アッ」と声を上げた。「白粉! 白粉! 例の白粉だ!」
とたんに笛の音が聞こえて来た。
銀笛のような音であった。白粉の上を伝わって来た。その白粉は白々と、森帯刀家の下屋敷まで、一直線につづいた。
笛の音は間近に
北山は再び「アッ」と云った。
それからあたかも
そうして笛の音を聞き澄ました。
笛の音は足もとまで逼って来た。しかしそこから引っ返して行った。
だんだん音が遠ざかり、やがて全く消えてしまった。
北山は全身ビッショリと冷たい汗を掻いていた。と、地面へ手を延ばし、一
「解った!」と呻くように叫んだものである。
九
地下に埋められた葉之助は、さてそれからどうなったろう?
奇々怪々たる出来事が引き続き起こったのであった。
ちょっと待てと云って立ち去ったまま、一学は帰って来なかった。で葉之助は待っていた。待っているのはよいとしても、
「死ぬかも知れない! 死ぬかも知れない! だがいったいそれにしても、一学氏はどうしたのだろう? どうして助けに来ないのだろう? 逃げてしまったのではあるまいか? いやいやそんな人物ではない。では何か危険なことでも、あの人の身の上に起こったのであろうか? ……とにかくこうしてはおられない。生きている人間が生きながら、地下に埋められているなんて、どう考えたって恐ろしいことだ! 出なければならない! 出なければならない! おお俺の体の上には、土がいっぱいに冠さっているのだ。
しかし、
「せめて手だけでも動かせないかしら?」
彼は右手を動かそうとした。土が重く冠さっていた。容易に動かすことは出来なかった。しかし非常な努力の後、それでも少しずつ動かせるようになった。
「よし。有難い。大丈夫だ」
で、土を掻き退けようとした。すると指先に何かさわった。石ではない固いものであった。そこでそれを引っ掴んだ。その感触が鉄らしかった。しかもそれは
「鉄の環があろうとは、これはいったいどうしたことだ?」葉之助には不思議であった。
溺れる者は
その瞬間に起こったことは、彼にとっては奇蹟よりも、もっと驚くべきことであった。
そこへ落ち込んだ葉之助は、あまりの意外に茫然とした。が、幸い
「やや、ここに横穴がある」彼は思わず声を上げた。そうだ、そこには横穴があった。考えざるを得なかった。
「この縦穴を這い出したなら、玄卿の屋敷へ出ることが出来る。幸い両刀は持っている。憎い玄卿めを討ち取ることも出来る。しかし俺は
そこで彼は手探りで、横穴を奥の方へ辿って行った。
思った通りその横穴は、深く奥へ続いていた。一間行っても、二間行っても突きあたろうとはしなかった。天井は低く横も狭く、非常に窮屈な穴ではあったが、空気もそれほど濁ってはいず、水なども落ちては来なかった。
やがて五間行き十間行き、半町あまりも辿って行ったが、依然横穴は続いていた。
少しずつ、葉之助は不安になった。
「いったいどこまで続くのだろう?」彼は立ち止まって考え込んだ。しかし後へ戻ることは、かえって危険のように思われた。やはり進むより仕方なかった。
一〇
で、彼は進んで行った。一町あまりも行った頃であったが、彼は何かに
「いよいよ
「人家へ続いているのだな」意外に思わざるを得なかった。
彼は扉を押してみた。すると案外にもすぐ開いた。はたしてそこは人の家であった。人の家の一室であった。
そうだそれは部屋であった。しかも普通の部屋ではなかった。
それは非常に広い部屋で、畳を敷いたら百畳も敷けよう、
呻く者、泣く者、喚く者、縛られたまま転げ廻る者、
人の類も様々であった。まず女から云う時は、町家の娘、ご殿女中、
男の方も同じであった。商家の手代、商家の
そうしてそれらの人々の上を、行灯の微光が照らしていた。
低い
これを見た葉之助は驚くよりも、恐怖せざるを得なかった。彼は棒のように突っ立った。
「いったいここはどこだろう? いったいどういう家だろう? この人達は何者だろう? いったい何をしているのだろう?」
しかし彼の驚きは――いや彼の恐怖心は、しばらく経つと倍加された。彼は一層驚いたのであった。
さらにさらに恐怖したのであった。
と云うのはそれらの人々が、決して苦しんでいるのではなく、そうして何者かに幽囚されて、
「光明遍照! 光明遍照! 喜びの神! 幸いの神! 男女の神!
ここは邪教の道場なのであった。ここは
おお大江戸の真ん中に、こんな邪教があろうとは!
と、その時、
まず
……それは微妙な音楽であった。邪教に不似合いの音楽であった。神聖高尚な音色であった。
俄然道場は一変した。男は女から飛び離れ、女は男から身を退けた。いずれも一斉にひざまずいた。そうして彼らは合掌した。
「ご来降! ご来降!」と同音に叫んだ。
「教主様のお出まし! 教主様のお出まし!」
異口同音にこう云った。
次第に音楽は高まって来た。それがだんだん近寄って来た。やがて戸口の外まで来た。
しずかにしずかに戸が開いた。
つと二人の童子が現われ、続いて行列がはいって来た。童子が松明を捧げていた。光明が一杯部屋に充ちた。
教主は男女二人であった。いずれも若く美しかった。普通に美しいと云っただけでは、物足りないような美しさであった。女は年の頃十八、九であろうか、
男の年頃は二十一、二で、どうやら女の兄らしかった。その面が似通っていた。胸には同じく珠をかけ、足には大口を穿いていた。だがその手に持っているものは、
一一
教主の後から老女が続き、そのまた後ろから幾人かの、美しい男女が続いた。
部屋の中は
行列は部屋を迂廻した。
信者の群は先を争い、二人の教主へ触れようとした。
男の信者は女の教主へ、女の信者は男の教主へ、とりわけ触れようとひしめいた。
男の教主の怪しき
こうして行列は静々と、広い部屋を迂廻した。
そうして葉之助へ近付いて来た。
葉之助は
どうしてよいか解らなかった。もちろん彼は邪教徒ではなかった。で、教主を拝することは、良心に
「いったいどうしたらいいだろう?」
焦心せざるを得なかった、
その間も行列は進んで来た。
しかしてやがて葉之助の前へ二人の教主は立ち止まった。
葉之助は絶体絶命となった。で、
二人の教主の胸の辺に、不思議な
それは恐ろしい
「あっ」という声に驚いて二人の教主は眼を

そうしてその眼は必然的に、声の主へ注がれた。
教主二人の四つの眼と、葉之助の眼とはぶつかった。
それは火のような睨み合いであった。
が、それは短かった。
男の教主がまず叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
女の教主が続いて叫んだ。
「鏡葉之助だ! 鏡葉之助だ!」
「この男を
――つづいて起こったのが混乱であった。
こんな順序で行われた。
一斉に信徒達が立ち上がった。
グルリと葉之助を取り囲んだ。
行列は
喚き声! 怒鳴り声! 泣き叫ぶ声!
「教法の敵!」「搦め取れ!」「切って棄てろ! 切って棄てろ!」
群集がヒタヒタと
殺気が場中に
予期したことではあったけれど、葉之助の心は動揺した。
世の中で何が恐ろしいと云って、狂信者ほど恐ろしいものはない。彼らには一切反省がない。あるものは迷信ばかりだ。おおそうして迷信たるや、一切の罪悪の根本ではないか! 「迷信」は笑いながら人を殺す! 笑って人を殺す者は宇宙において迷信者ばかりだ!
その迷信者が充ち充ちているのだ。それが
「もうこうなればヤブレカブレだ! 切って切って切り捲くるばかりだ!
小野派一刀流真の構え! 中段に付けて睨み付けた。
一二
眼に余る大勢の相手であった。八方へ眼を配るべきを彼は逆に応用した。正一眼一心前方ただ正面をひたすらに睨んだ。飛び込んで来る敵を切ろうとするのだ。
「横竪上下遠近の事」一刀流兵法十二ヵ条のうち、六番目にある極意であった。
正面をさえ睨んでいれば、横竪上下遠近の敵が、自ら心眼に映ずるのであった。と云ってもちろん初学者には――いやいや相当の使い手になっても、容易にそこまでは達しられない。ただ奥義の
構えた太刀には隙がなかった。
と、一人飛び込んで来た。
鏡葉之助は美少年、女のような
武士は「わっ」と悲鳴を上げた。そうして畳へころがった。プーッと吹き出す血の
「えい」とも「やっ」とも、声を掛けない。水のように静かであった。返り血一滴浴びていない。
一瞬間ブルッと武者顫いをした。全身に勇気の籠もった証拠だ。
ワーッと叫んで信者どもはバラバラと後へ退いた。しかしすぐに盛り返した。迷信者は何物をも恐れない。
左右から二人かかって来た。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
心掛けある武士であった。二人は気合を掛け合った。左右へ心を散らせようとした。が、それはムダであった。葉之助は動かなかった。
敵をただ打つと思うな身を守れ
おのずから洩る賤家 の月
おのずから洩る
葉之助の心組みがそれであった。
金剛不動! 身じろぎもしない。
「やっ! やっ! やっ!」
「やっ! やっ! やっ!」
二人の武士はセリ詰めて来た。尚、葉之助は動かなかった。
場内は
出番の来るのを待っていた。まさに

その時
一人の武士が頭上を狙い、もう一人の武士が胴を眼がけ、同時に葉之助へ切り込んだのを、一髪の間に身を
受けた時には切っていた。
他流でいうところの「
金翅鳥片羽九万八千里、海上に出でて竜を食う、――その大気魄に
一三
鏡葉之助は三人を切った。大概の者ならこれだけで、精気消耗する筈であった。葉之助の精気も無論
彼の勇気は百倍した。そうして彼は決心した。「殺されるか殺すかだ! これは
十人の武士が
やにわに飛び込んだ葉之助は、切りよい左手の一人の武士を、ザックリ袈裟に切り倒した。とたんに自分もツルリと辷り、バッタリ
ワッと叫んだ残りの九人、乱刃を葉之助へ浴びせかけた。一髪の間に葉之助は寝ながら刀で足を払った。一刀流の陣所払い! 負けたと見せて盛り返し、一挙に多勢を屠る極意、しかし普通の場合には、
果然九人は一時に、足を
飛び上がった葉之助、なだれる信徒の後を追い戸口の方へ
胆を冷やさせる「面部斬り」――相手の生命を取るのではなく、
で、もちろん封じ手で、印可以上に尊ばれ、人を見て許すことになっていた。
また一名「木の葉返し」とも云った。風に吹き立つ枯葉のように、八方分身十方隠れ、一人の体を八方に
はたして信徒達は騒ぎ立った。風に木の葉が
「裏切り者がいる! 裏切り者がいる!」
「一人ではない! 敵は多勢だ!」
「謀反人がいる! 謀反人がいる!」
信徒同士組打ちをした。互いに斬り合う者もあった。
「助けてくれーエッ」
と叫ぶ者があった。倒れた信徒の体の上を、無数の人が踏んで走った。ムクムクと戸口から逃げはじめた。
葉之助の策略は成功した。
混乱に次いで混乱が起こり、収拾することが出来なかった。
「静まれ静まれ敵は一人だ!」
心掛けある信徒でもあろう。一人の者が大音に叫んだ。ツと葉之助は走り寄り、その叫び主を斬り落とした。
「
一人の信徒が叫び声を上げた。が、すぐにその信徒は、虚空を掴んでぶっ倒れた。肩から大袈裟に斬られたのであった。
尚二、三本松明は、大広間を
その一本がバサリと落ちた、松明の持ち主が「ムー」と呻き、床へ倒れてのたうった。見れば片手を斬り落とされていた。
と、もう一本の松明が消えた。つづいてもう一本の松明が消えた。
部屋の中は闇となった。その暗々たる闇の中で、信徒達は揉み合った。
互いに相手を疑ぐった。手にさわる者と掴み合った。
そうしてドッと先を争い、戸口から外へ逃げ出した。
その中に葉之助も交じっていた。部屋の外は広い廊下で、左右にズラリと部屋があった。その部屋の中へ信徒達は、
一四
葉之助は廊下を真っ直ぐに走った。
廊下が尽きて階段となり、階段の下に中庭があった。
そこへ下り立った葉之助は、ベッタリ地の上に坐ってしまった。そうして
もしもこの時葉之助が、バッタリ地の上に倒れるか、ないしは
今日
気力全身に満ちた時、彼は刀を持ちかえようとした。さすがに腕にはシコリが来て、指を開くことが出来なかった。で、
「息の音を止めたは八人でもあろうか。
彼は刃こぼれを見ようとした。グイと切っ先を
「うむ、有難い、刃こぼれはない」
これは刃こぼれはない筈であった。それほど人は切っていたが、チャリンと刀を合わせたのは、二、三合しかないからであった。
「よし」と云うと左の袖を、柄へキリキリと巻きつけた。それからキューッと血を拭った。
耳を澄ましたが物音がしない。そこでユラリと立ち上がった。
「どのみち地理を調べなければならない」
で、そろそろと歩いて行った。
一つの建物の壁に添い、東の方へ進んで行った。
その人影は家の角を廻った。
「ははあ角口に隠れていて、
葉之助は用心した。足音を忍んで角まで行った。じっと物音を聞き澄ました。
コトンと窓の開く音がした。ハッと彼は飛び
彼はキッと窓を見上げた。しかしもう窓は閉ざされていた。そこで彼は角を曲がった。どこにも人影は見られなかった。そうして行手は石垣であった。
そこで彼は引き返した。
で、
同じ建物の壁に添い、西の方へ歩いて行った。やがて建物の角へ来た。サッと刀を突き出してみた。向こう側に誰もいないらしい。で、遠廻りに弛く廻った。
すぐ眼の前に
「斬りいい形だ。叩っ斬ってやろう」
葉之助は忍び寄った。掛け声なしの横撲り、男の肩へ斬り付けた。と思った一刹那、女がクルリとこっちを向き、ヒューッと何か投げつけた。危うく避けたその間に、二人の姿は掻き消えた。投げられた物は紐であった。紐が彼へ飛び掛かって来た。それは一匹の毒蛇であった。
で、三つに斬り払った。
行手は厳重の石垣であった。越して逃げることは出来なかった。
でまた彼は引き返した、こうして以前の場所へ来た。
反対の側にも建物があった。地面から五、六階の石段があり、それを上ると戸口であった。もちろんその戸は閉ざされていた。そこで彼は石段を上がり、その戸をグイと引っ張って見た。と、意外にも戸があいた。とたんに彼は転がり落ちた。転がったのが
一五
円錐形の巨大な石が――今日で云えば
ドーンと戸口は締められた。後は
人声のないということは、その凄さを二倍にした。立ち騒がないということは、その恐ろしさを二倍にした。
今は葉之助は途方に暮れた。
「どうしたものだ。どうしてくれよう。どこから、逃げよう。どうしたらいいのだ」
混乱せざるを得なかった。
とまれじっとしてはいられなかった。その建物を東の方へ廻った。と、建物の角へ来た。
曲がった眼前に大入道が、雲突くばかりに立っていた。
「えい!」一声斬りつけた。カーンという金の音がした。そうして刀が
大入道は邪神像であった。
「しまった!」と彼は思わず叫び、
こうしてまたも葉之助は、後へ帰らざるを得なかった。さて元の場所へ帰っては来たが、新たにとるべき手段はない。
そこで無駄とは知りながら、西の方へ廻って行った。例によって角へ来た。用心しながらゆるゆる曲がった。と行手に石垣があり、立派な門が建っていた。
「ははあ門があるからには、門の向こう側は往来だろう。よしよしあの門を乗り越してやれ」
門の柱へ手を掛けた。ひらりと屋根へ飛び上がった。そうして向こう側を
思わず彼は「あっ」と云った。そこに大勢の人影が夜目にも解る弓姿勢で、タラタラと並んでいたからであった。弓を引き絞り
彼は
彼はすっかり計られたのであった。腹背敵を受けてしまった。もう助かる
が、しかし彼の頭を、その時一筋の光明が、ピカリと光って通り過ぎた。
「ここは江戸だ。しかも深夜だ、よもや鉄砲を撃つことは出来まい。撃ったが最後世間へ知れ、
で、彼は屋根棟へ寝た。
一筋の矢が飛んで来た。パッと刀で切り払った。つづいて二本飛んで来た。幸いにそれは的を外れた。
寝たまま葉之助は考えた。
「高所に上って矢を受ける。まるで殺されるのを待つようなものだ。身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。弓手の真ん中へ飛び下りてやろう」
四本目の矢が飛んで来た。それを二つに切り折ると共に、ヤッとばかりに飛び下りた。
計略たしか図にあたり、弓手は八方へ逃げ散った。しかし葉之助の思惑は他の方面で破られた。そこは決して往来ではなかった。いっそう広い中庭であった。
一つの檻へ近寄って見た。三匹の熊が闇の中で爛々とその眼を怒らせていた。
これには葉之助もゾッとした。もう一つの檻へ行って見た。十数頭の狼が、グルグルグルグル檻に添ってさもいらいらと走っていた。ここでも葉之助はゾッとした。さてもう一つの檻の前へ行った。一匹の猪が
大勢の人が屋根の上に、一列に並んで立っていた。
そうしてその中には教主もいた。男女二人の教主がいた。
何かが始まろうとしているらしい。何かを始めようとしているらしい。
何をしようとするのだろう? と、ガチンと音がした。「ウオーッ」と唸る熊の声がした。檻を誰かが開けたらしい。三頭の熊がしずしずと檻から外へ現われ出た。それが松明の火で見えた。続いてガチンと音がした。
無数の狼が先を争い、檻の中から走り出た。
一六
教徒達の意図は証明された。彼らは葉之助を
邪教徒らしいやり方であった。
そうして教主をはじめとし、大勢の教徒達が屋根の上から、それを見ようとしているのであった。
信じられない事であった。信じられない事であった。
が、厳たる事実であった。現に猛獣がいるではないか。ジリジリ
そうだ猛獣は逼って来た。
狼群は円い輪を作り、葉之助の
もちろん熊も吠えなかった。ただ「ウオーッ」と唸るだけであった。
さすがの鏡葉之助も、頭髪逆立つ思いがした。
「もう駄目だ、もういけない」
彼は悲惨にも観念した。人間同士の闘いなら、まだまだ遁がれる道はあった。相手は群狼と熊とであった。遁がれることは出来なかった。葉之助は脇差しを投げ出した。それから大地へ端座した。眼を
グルグルグルグル狼の群は、彼の周囲を駈け廻った。その輪をだんだん縮めて来た。
熊は三頭鼻面を揃えジリジリと前へ押し出して来た。
が、熊も狼も、容易に飛び付こうとはしなかった。
その時突然奇蹟が起こった。
まず一匹の大熊が、葉之助の前へゴロリと寝た。そうして葉之助の足を
葉之助自身は知らないのではあったが、彼は
ところで窩人と山の獣とは、ほとんど
そこでこういう奇蹟めいたことが、
足を嘗められた葉之助は、ブルッと
もちろん彼には何んのために、獣達が
「熊よ狼よ俺の味方だ! さああいつらをやっつけてくれ! 俺が命ずる。やっつけてしまえ!」
「ウオーッ」と熊は初めて吠えた。そうして門の方へ突進した。
「ウオーッ」と狼群も吠え声を上げた。そうして門の方へ突進した。
葉之助は猪の
尚、いくつかの檻があった。土佐犬の檻、猛牛の檻、そうして、どうして手に入れたものか、一つの檻には
熊が門を揺すぶった。狼が屋根へ飛び上がった。喚き声、叫び声、泣き声、怒声! 人獣争闘の
読者諸君よ、この争闘を、単に邪教の教会ばかりで演ぜられると思っては間違うであろう。江戸市中一円に向かって、恐ろしい騒動を引き起こしたのである。
いかに次回が
一七
奇蹟を行う力があると、葉之助は自分を信ずることが出来た。
彼は猛獣をけしかけた。
「さあ勇敢にあばれ廻れ! 永い間檻へ入れられて、苦しめられたお前達だ、苦しめた奴を苦しめてやれ!
猛獣は
豹は門の屋根へ飛び上がった。
屋根の上から悲鳴が起こった。
人のなだれ落ちる音がした。恐らく男女二人の教主も、なだれ落ちたに相違ない。
松明の火が瞬間に消えた。
どこにも人影が見られなかった。
もう一頭の豹が屋根を越した。
門の向こう側で悲鳴がした。喚声、罵声、叫声、ヒーッと泣き叫ぶ声がした。
逃げ迷う人々の足音がした。
ウオーッという豹の吠え声がした。
三頭の熊が門の柱を、その強い力で揺すぶった。グラグラと門が揺れ出した。と、屋根の瓦が落ち、扉が砕けて左右に開いた。
そこから熊が飛び出して行った。
十数頭の狼が、つづいて門から飛び出した。その後から駈け出したのが、巨大な五頭の猛牛であった。と、三十頭の土佐犬が、葉之助の周囲を囲みながら、
入り込んだ所は中庭であった、すなわち第一の中庭であった。
そこで格闘が行われていた。
それは人獣の格闘であった。
人間の死骸が転がっていた。
食い殺された人間であった。
半死半生の人間もいた、ある者は
葉之助は用捨しなかった。
猛獣が用捨する筈がない。
ムラムラと土佐犬は走り掛けた。
向こうに一団、こっちに一団、取り組み合っている人影があった。熊と、豹と、狼と、取っ組み合っている人間であった。
みるみる死骸が増えて行った。
投げ捨てられた松明が、メラメラと
百人余りの一団が、建物の方へ走っていた。教主を守護した信者達が、そこに開いている戸口から、屋内へ逃げ込もうとしているのであった。
二頭の豹が飛び掛かって行った。数人の者が引き
殺された者は動かなかった。
宗教的信仰の力強さが、そういうところでも
猛獣の群は襲い掛かった。
十頭の狼が飛びかかった。
瞬間に十人が食い仆された。しかしみんな飛び起きた。
教主を守れ! 教主を守れ! 教主を守った一団は、だんだん戸口へ近寄って行った。
猛獣の群れの襲撃は、益

だがとうとう石段まで来た。
その時牛が走りかかった。
一団の只中へ角を入れた。
バラバラと信徒は崩れ立った。
しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。とまた牛が突き崩した。バラバラと信徒達は崩れ立った。しかし次の瞬間には、またムラムラと集まった。
教主を守れ! 教主を守れ!
狼はヒュー、ヒューと宙を飛んだ。豹は人間の頭を
教主を守れ! 教主を守れ!
一団は石段を上って行った。
とうとう彼らは戸口まで来た。
彼らは家の中へ
熊も豹も狼も、つづいて家の中へ飛び込んだ。土佐犬が続いて飛び込んだ。
つづいて葉之助も踊り込んだ。
こうして格闘は中庭から、家の中へ移された。
猛獣は部屋の中へ混み入った。
そこでも格闘が行われた。
鏡葉之助は切って廻った。
落ちていた刀を拾い取った。
一八
「教主はどこだ、教主をやっつけろ」
葉之助は探し廻った。
急に廊下が左へ曲がった。
と、教主の一団が見えた。真っ黒に
葉之助は追い詰めた。
手近の一人を切り仆した。ワーッという悲鳴が起こり、パッと血汐が左右に飛んだ。
彼らの中の数人が、にわかに
葉之助は右剣を斜めに振った。バッタリ一人が床の上へ仆れた。そこへ一人が飛び込んで来た。と、葉之助は左剣で払った。一つの首が床の上へ落ち、ドンという気味の悪い音を立てた。
後の二人は逃げ出した。すぐに狼が飛びついた。そうして
教主の一団は遠ざかった。
葉之助は後を追った。
狼と犬とが従った。
ふたたび彼らへ追いつこうとした。
にわかに彼らが立ち止まった。
彼らの顔は笑っていた。走って来る葉之助を凝視した。悪意を持った嘲笑であった。
つと一人が前へ進み、廊下の壁へ手を触れた。とたんに廊下の板敷が外れ、葉之助は床下へ落ち込んだ。
彼らはドッと笑声を上げ、そのままドンドン走って行った。
と、数匹の狼が、ヒュウヒュウと床下へ飛び込んだ。間もなく次々に飛び出して来た。巨大な一匹の狼の背に、葉之助はしがみついていた。彼は左の手を
しかし狼は吠えなかった。葉之助の周囲へ集まって来た。挫いた左の腕の附け根を暖かい舌で嘗め廻した。
獣には獣の治療法があった。彼ら特色の治療法であった。彼らの
窩人と獣とは友達であった。
獣特色の治療法は、一面窩人の治療法でもあった。
葉之助の痛みは瞬間に止んだ。腕の運動も自由になった。
彼の勇気は
彼は猛然と立ち上がった。
それから彼は追っかけた。
教主達の姿は見えなかった。どうやら廊下を曲がったらしい。葉之助と狼と土佐犬とは、廊下を真っ直ぐに走って行った。と、廊下は右へ曲がった。葉之助も右へ曲がった。彼らの姿は見えなかった。廊下をズンズン走って行った。すると廊下は突き当たった。頑固な石壁が立っていた。
「はてな?」
と葉之助は途方に暮れた。
「行き止まりだ。
突然一匹の土佐犬が、一声高く
果然壁に穴が開いた。
そこに開き戸があったのであった。
犬はヒラリと飛び込んだ。
同時にギャッという悲鳴が聞こえた。
首を切られた犬の死骸が、ピョンと廊下へ刎ね返って来た。
向こう側に誰かいるらしい。待ち伏せをしているらしい。
犬達は
「
と葉之助は手で止めた。
犬の死骸を抱き上げた。それを戸口から投げ込んだ。つづいて自分も飛び込んだ。
二人の武士が立っていた。
ドンと武士はぶっ仆れた。狼と犬とが群がりたかった。見る間に寸々に引き裂いた。
「えい」と葉之助は声を掛けた。すぐワッという声がした。もう一人の武士が切り仆された。
犬と狼とが引き裂いた。
一九
葉之助は部屋を見廻した。
それはまさしく
多くの男女の信者達は、この部屋でお恵みを受けたのだろう。
あちこちに脱ぎ捨てた衣裳があった。
信者達は裸体で逃げ出したと見える。
部屋部屋には一個ずつ
反対の側に戸口があった。
葉之助はそこから出た。
長い一筋の廊下があった。
彼はそれを向こうへ渡った。狼と犬とが従った。
と、独立した塔へ出た。
教主達はその内へ逃げ込んだらしい。ガヤガヤ騒ぐ声がした。
葉之助は入り込んだ。
階段が上へ通じていた。上の方から人声がした。
で、葉之助は駈け上がった。犬と狼とが従った。
上り切った所に部屋があった。が、誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上がって行った。
その結果は同じであった。上り切った所に部屋があった。しかし誰もいなかった。階段が上へ通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。そこで葉之助は勇を
だがその結果は同じであった。上り切った所に部屋があり、部屋には誰もいなかった。
階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。で、葉之助は上ることにした。
上り切った所に部屋があった。やはり誰もいなかった。階段が上に通じていた。そっちから人声が聞こえて来た。
で、またも葉之助は上へ上らなければならなかった。
上り切った所に部屋があった。そこが頂上の部屋らしかった。上へ通じる階段がなく、頭の上には天井裏があった。
しかし彼らはいなかった。
ではどこから逃げたのだろう?
裏口へ下りる階段口があった。表と裏とに階段が、
「
呟きながら葉之助は、裏の階段口へ行って見た。
彼は思わず「あっ」と云った。肝心の階段が取り
表の階段口へ行ってみた。またも彼は「あっ」と叫んだ。たった今上って来た階段が、いつの間にか取り外されていた。
「ううむ、さては計られたか!」
飛び下りることは出来なかった。階段口は一直線に土台下から最上層まで、真っ直ぐに垂直に
彼はゾッと悪寒を感じた。
急いで窓を開けて見た。
地は闇にとざされていた。下へ下りるべき手がかりはなかった。
「計られた! 計られた! 計られた!」
彼は思わず地団駄を踏んだ。
まさしく彼は計られたのであった。上へ上へと
これは恐るべき運命であった。
いったいどうしたらよいだろう?
犬と狼とは騒ぎ出した。彼らは葉之助の後を追い、一緒にここまで上って来た。彼らも恐ろしい運命を、動物特有の直感で、早くも察したものらしい。
階段口を覗いたり、葉之助の顔を見上げたりした。
やがて憐れみを乞うように、悲しそうな声で唸り出した。
葉之助は狼狽した。
その時一層恐ろしいことが、彼と獣達とを
と云うのは階段口から、黒い煙りが
二〇
焼き打ち! 焼き打ち! 焼き打ちなのであった!
邪教徒が塔へ火を掛けたのだ。
遁がれることは出来なかった。
「残念!」と葉之助は
窓から外を覗いて見た。カッと外は赤かった。火は
無数の人間の姿が見えた。
塔の上を振り仰ぎ、指を差して
「残念!」と葉之助はまた呻いた。
煙りがドンドン上って来た。物の仆れる音がした。メリメリという音がした。火の粉がパラパラと降って来た。
塔は土台から焼けているのであった。
間もなく塔は仆れるだろう。
そうなったら
と、その時、狼達が、不思議な
次々に窓際へ飛んで行き、窓から外へ鼻面を出し、「ウオー、ウオー、ウオー、ウオー」と長く引っ張って吠え出した。
これぞ狼の友呼び声で、深山幽谷で聞く時は、身の毛のよだつ声であった。
「これは不思議」と葉之助は、窓から下を見下ろした。
奇怪な事が行われた。いや、それが当然なのかもしれない。
友呼びの声に誘われたように、あっちからもこっちからも狼が――いや、熊も土佐犬も、そうして豹までも走り出して来た。
パッと人の群は八方へ散った。
猛獣の群は塔を見上げ、ウオーッ、ウオーッと
そうして体を寄せ合った。
突然一匹の狼が、葉之助の横顔を斜めに
葉之助はハッとした。
「可哀そうに
いや、粉微塵にはならなかった。体を寄せ合った獣の上へ、狼の体が落下した。蒲団の上へでも落ちたように、狼の体は安全であった。
すぐに狼は飛び起きた。そうして仲間の狼へ、自分の体をピッタリと付けた。そうして塔上の
と、葉之助の横顔を掠め、次々に狼が窓から飛んだ。
みんな彼らは安全であった。
飛び下りるとすぐに起き直り、仲間の体へくっ付いた。そうして誘うようにウオーッと吠えた。
塔内の狼は一匹残らず、窓から地上へ飛び下りた。
葉之助とそうして土佐犬ばかりが、塔の中へ残された。
「よし」
と葉之助は頷いた。
一匹の土佐犬を抱き
次々に犬を投げ下ろした。
彼らはみんな安全であった。
とうとう葉之助一人となった。
煙りは塔を立ちこめた。
ユサユサ塔が揺れ出した。
すぐにも塔は崩れるだろう。
獣達は彼を呼んだ。飛び下りろ飛び下りろと彼を呼んだ。
葉之助は決心した。窓縁へ足をかけ、両刀を高く頭上へ上げ、キッと下を見下ろした。
「ヤッ」と彼は一声叫び、窓から外へ身を躍らせた。
熊の背中が彼を受けた。彼はピョンと飛び上がった。綿の上へでも落ちたようであった。
とたんに塔が傾いた。火の粉がパラパラと八方へ散った。幾軒かの建物へ飛び火した。あちこちから火の手が上がった。
大門の開く音がした。
人の走り出る音がした。
町の火の見で
猛獣がそれを追っかけた。
ふたたび人獣争闘が、焔の中で行われた。
葉之助は両刀を縦横に
猛獣が彼を警護した。
彼は大門の前まで来た。門の外は往来であった。それは大江戸の町であった。
一団の人影が走って行った。教主の一団と想像された。
「それ!」
と葉之助は声をかけた。猛獣の群が追っかけた。葉之助は
火消しの群が走って来た。町々の人達が駈け付けて来た。
ワーッ、ワーッと
猛獣の群が走るからであった。
返り血を浴びた葉之助が、血刀を提げて走るからであった。
獣の群は
おりから空は嵐であった。火が隣家へ燃え移った。
二一
教主の一団が走って行った。その後を猛獣が追っかけた。そうしてその後から葉之助が走った。
深夜の江戸は湧き立った。邪教の道場は燃え落ちた。火が八方へ燃え移った。町火消し、弥次馬、役人達が、四方八方から駈けつけて来た。
悲鳴、叫喚、怒号、呪詛。……ここ
その同じ夜のことであった。
遠く離れた浅草は、立ち騒ぐ人も少かった。しかしもちろん人々は、二階や屋根へ駈け上がり、遥かに見える芝の火事を、不安そうに噂した。
「芝と浅草では離れ過ぎていらあ。対岸の火事っていう奴さ。江戸中丸焼けにならねえ限りは、まず安泰というものさ。風邪でも引いちゃあ詰まらねえ、戸締りでもして寝るがいい」
こんなことを云って引っ込む者もあった。神経質の連中ばかりが、いつまでも芝の方を眺めていた。
観音堂の裏手の丘から、囁く声が聞こえて来た。
「おい、芝が火事だそうだ」
「江戸中みんな焼けるがいい」
「そうして浮世の人間どもが、一人残らず焼け死ぬがいい」
「そうして俺ら窩人ばかりが、この浮世に生き残るといい」
夜の闇が
遥か
「時は来た!」と杉右衛門が云った。「水狐族めと戦う時が!」
窩人達は一斉に立ち上がり、杉右衛門の周囲を取り巻いた。「おい岩太郎話してやれ」杉右衛門が岩太郎にこう云った。
つと岩太郎は前へ出た。
「みんな聞きな、こういう訳だ。火事だと聞いて見に行った。
窩人達はバラバラと小屋の方へ走った。
現われた時には武器を持っていた。
長の杉右衛門を真ん中に包み、副将岩太郎を先頭に立て、一団となって走り出した。
彼らは声を立てなかった。足音をさえ立てまいとした。妨害されるのを恐れたからであった。
境内を出ると馬道であった。それを突っ切って仲町へ出た。田原町の方へ突進した。清島町、稲荷町、車坂を抜けて山下へ出、黒門町から広小路、こうして神田の大通りへ出た。
神田辺りはやや騒がしく、町人達は門へ出て、芝の大火を眺めていた。
その前を
町の人達は仰天した。だが
芝の火事は大きくなったと見え、火の手が町の屋根越しに、天を焼いて真っ赤に見えた。
窩人の一団は走って行った。室町を経て日本橋を通って京橋へ出た。
こうして一団は銀座へ出た。
と、行手から真っ黒に塊まり、大勢の人影が走って来た。
それは水狐族と信者とであった。
こうして二種族は衝突した。
初めて
二二
鏡葉之助はどうしたろう?
この時鏡葉之助は、裏町伝いに根岸に向かい、皆川町の辺を走っていた。
彼はたった一人であった。獣達の姿は見えなかった。豹も狼も土佐犬も、道々火消しや役人や、町の人達に退治られた。たまたま死からまぬかれた獣は、山を慕って逃げてしまった。
だがどうして葉之助は、水狐族の群に追い縋り、討って取ろうとはしないのだろう?
彼は途中で思い出したのであった。
「殿の根岸の下屋敷を警戒するのが役目だった
で彼は道を変え、根岸を指して走っていた。
左右から木立が
と行手から来る者があった。ひどく急いでいるようであった。空には月も星もなく、その空さえも見えないほどに、木立が頭上を蔽うていた。で四辺は闇であった。
闇の中で二人は擦れ違った。
「はてな、何んとなく知った人のようだ」
葉之助は
すると擦れ違ったその人も、どうやらこっちを見たようであった。
が、その人も急いでいれば、葉之助も心が
葉之助は根岸へ来た。
殿の下屋敷の裏手へ行った。
「あっ」と彼は仰天した。地面に一筋白々と、筋が引かれているではないか。
「しまった!」と彼はまた云った。
しかし間もなくその筋が、
それと同時に不思議にも思った。
「いったい誰の
首を傾げざるを得なかった。
「この白粉の重大な意味は、俺と
ようやく葉之助は思い
「危険が去ったとは云われない。今夜はここで夜明かしをしよう」
葉之助は決心した。
体が綿のように
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
こう思いながらもウトウトと、眠りに入ってしまいそうであった。
夜風が空を渡っていた。木立に中って
彼はとうとう眠ってしまった。
鶯谷の暗闇で、葉之助と擦れ違った人物は、谷中の方へ走って行った。
芝の方にあたって火の手が見えた。
「や、これは大きな火事だ」
それは天野北山であった。
「殿のお屋敷は大丈夫かな?」
走り走りこんなことを思った。
「葉之助殿はどうしたろう? 殿の下屋敷を警戒するよう、あれほどしっかり頼んでおいたのに、今夜のような危険な時に、その姿を見せないとは、
だんだん火事は大きくなるな。行って様子を見たいものだ。だが俺の出府した事は、殿にも家中にも知らせてない。顔を出すのも変な物だ」
谷中から下谷へ出た。
「さてこれからどうしたものだ。葉之助殿には至急会いたい。窩人の血統だということを教えてやる必要があるようだ」
火事は
「とにかくこっそり
駕籠屋が一軒起きていた。
「おい、芝までやってくれ」
「へい、よろしゅうございます」
威勢のいい若者が駕籠を出した。で北山はポンと乗った。
駕籠は宙を飛んで走り出した。
銀座手前まで来た時であった。前方にあたって鬨の声が聞こえた。大きな
「旦那旦那大喧嘩です」
駕籠
「裏通りからやるがいい」
駕籠の中から北山が云った。
そこで駕籠は
二三
火元はどうやら愛宕下らしい。木挽町あたりも騒がしかった。かてて大喧嘩というところから、人心はまさに兢々としていた。
「火消し同士の喧嘩だそうだ」「いや浅草の芸人と、武士との喧嘩だということだ」「いや賭場が割れたんだそうだ」「いや謀反人だと云うことだ」「いや、一方は芸人で、一方は神様だということだ」「神様が喧嘩をするものか」
往来に集まった人々は、口々にこんなことを云っていた。
駕籠はズンズン走って行った。芝口へ出、
この辺もかなり騒がしかった。
「ここで下ろせ」
と北山は云った。
駕籠から下りた北山は、葉之助の屋敷の玄関へ立った。
案内を乞うと声に応じ、取り次ぎの小侍が現われた。
「これはこれは北山先生で」
「葉之助殿ご在宅かな」
「いえ、お留守でございます」気の毒そうに小侍は云った。
「ふうむ、お留守か、どこへ行かれたな」
「はいこの頃は毎晩のように、どこかへお出かけでございます」
「ははあさようか、毎晩のようにな」
――それではやはり葉之助は、下屋敷へ警戒に行くものと見える。今夜も行ったに相違ない。きっと駈け違って逢わなかったのだろう。
天野北山はこう思った。
「葉之助殿お帰りになったら、
「大火の様子、ご注意なされ」
で北山は往来へ出た。
そうして新しく駕籠を雇い、神田の
葉之助は草の上に眠りこけていた。決して不覚とせめることは出来ない、彼は実際一晩のうちに、余りに体を使い過ぎた。これが尋常の人間なら、とうに死んでいただろう。
だが眠ったということは、彼にとっては不幸であった。
黒々と空に聳えている森帯刀家の裏門が、この時音もなくスーと開いた。
忍び出た二つの人影があった。一人は立派な侍で、一人はどうやら町人らしかった。
地上に引かれた筋に添い、葉之助の方へ近寄って来た。
間もなく葉之助の側まで来た。
二人は
「紋兵衛、これで秘密が解った」こう云ったのは武士であった。「ここに眠っているこの侍が、
「はい、どうやらそんなようで」
「ここで白粉が蹴散らされている」
「以前にも一度ありました」
「こいつの所業に相違ない」
「
「いったいこいつ何者であろう?」
そこで町人は覗き込んだ。
「おっ、これは葉之助殿だ!」
「何、葉之助? 鏡葉之助か?」
「はい、帯刀様、さようでございます」
「そうか」
と武士は腕を組んだ。
「鏡葉之助とあってみれば斬ってすてることも出来ないな」
「とんでもないことで。それは出来ません」
「と云って捨てては置かれない」
「私に妙案がございます」
町人は武士の耳の辺で、何かヒソヒソと
「うむ、こいつは妙案だ」
「では」と云うと町人は、
しばらく二人は見詰めていた。
「もうよろしゅうございましょう」
町人はこう云うと白布を取った。それから葉之助を抱き上げた。葉之助は死んだように他愛がなかった。
武士が葉之助の頭を抱え、町人が葉之助の足を持った。
森帯刀の屋敷の方へ、二人はソロソロと歩いて行った。上野の山に
葉之助を抱えた二人の姿は、文字通り誰にも見られずに、森帯刀家の裏門から、屋敷の中へ消えてしまった。
闇ばかりが拡がっていた。
二四
この頃江戸の真ん中では、窩人と水狐族との
種族と種族との争いであった。宗教と宗教との争いであった。先祖から遺伝された憎悪と憎悪とがぶつかり合った争いであった。
火事の光はここまでも届き、空が
一群がパタパタと逃げ出した。他の群がそれを追っかけた。逃げた群は路地へ隠れた。他の群はそれを追い詰めた。逃げた群が盛り返して来た。路地で格闘が行われた。
数人が人家へ逃げ込もうとした。その家では戸を立てた。家人は内からその戸を抑えた。数人がそこへ追っかけて来た。そこでも切り合いが始まった。
人家の屋根へ上がる者があった。その屋根の上に敵がいた。取っ組んだまま転がり落ちた。
一人の
石が雨のように降って来た。額を割られて呻く者があった。
二、三人パタパタと地へ斃れた。窩人だか水狐族だか解らなかった。死骸を乗り越えて進む者があった。
岩太郎の武者振りは
藤巻柄の五尺もある刀を、棒でも振るように振り廻した。またたく間に数人を切り斃した。一人の敵が飛びかかって来た。横撲りに叩き伏せた。ムラムラと四、五人が掛かって来た。大廻しに刀を振り廻した。四、五人が後へ逃げ出した。彼は突然振り返った。一人の敵が狙っていた。
「畜生!」と叫ぶと肩を切った。プーッと霧のように血が吹いた。
杉右衛門は窩人に守られていた。往来の真ん中へ突っ立っていた。声を
「大将を討ち取れ! 大将を討ち取れ!」
彼の顔は光っていた。火事の光が照らしたからであった。彼は槍を
水狐族の男女の教主達も、信者に守られて立っていた。二人ながら大声で叫んだ。
「教法の敵! 教法の敵!」
「一人も
窩人の群は教主を目掛け、大波のように寄せて行った。しかし途中で
水狐族の群が杉右衛門を目掛け、あべこべにドッと押し寄せて行った。これも途中で遮られた。
火事は容易に消えなかった。空は益

火事を眺める群集と、格闘を眺める群集とで、往来は人で一杯になった。
死骸がゴロゴロ転がった。流された血で道が
ワーッ、ワーッ、という
その時見物が叫び出した。
「それお役人のご出張だ!」
瞬間に格闘は終りを告げた。
窩人も水狐族も死骸を担ぎ、八方に姿を隠してしまった。
しかし二種族の憎悪と復讐心は、決して終りを告げたのではなかった。明治大正の今日に至っても尚二種族は田舎に都会に、あらゆる複雑の組織の下に、復讐し合っているのであった。
旅籠へ帰って来た北山は、むさくるしい部屋にムズと坐り、何かじっと考え込んだ。
やおら立ち上がって
「いや、ともかくも明日にしよう」
思い返して寝ることにした。
で、薬壺を棚へ載せ、襖を立てて寝る用意をした。
翌朝早く眼を覚ました。
旅籠を出ると駕籠へ乗り、葉之助の屋敷へ急がせた。
玄関へ立って案内を乞うた。すぐに小侍が現われた。
「葉之助殿ご在宅かな」
「は、昨晩出かけましたきり、いまだにお帰りございません」
「ふうん」と云ったが北山は、小首を傾げざるを得なかった。
二五
旅籠へ帰って来た北山は考え込まざるを得なかった。
「葉之助殿はどうしたろう?」
何んとなく不安な気持ちがした。手を
「鶯谷で擦れ違った、昨夜の若い侍は、葉之助殿に相違ない。あれからきっと葉之助殿は、下屋敷警護に行かれたのだろう。さてそれから? さてそれから?」
――それからのことは解らなかった。
だが何んとなく下屋敷附近で、変事があったのではあるまいかと、気づかわれるような
「まさかそんなこともあるまいが、帯刀様のお屋敷へでも
ふとこんなことも案じられた。
「絶対にないとは云われない。彼らの陰謀を偶然のことから、俺が目付けて邪魔をした。白粉を足で蹴散らした。と、その後へ葉之助殿が行った。陰謀組の連中が、どうして陰謀を破られたか。それを調べにやって来る。双方が広場で衝突する。ううむ、こいつはありそうなことだ」
北山はじっくりと考え込んだ。
「だが鏡葉之助殿は、武道にかけては一種の天才、
彼は益

「だがまさかに殺されはしまい」
とは云えそれとて絶対には、安心することは出来なかった。
「そうだ、これから出かけて行き、広場の様子を見てやろう! 格闘したものなら
で、彼は行くことにした。
しかしその前に仕事があった。
薬を調合しなければならない。
襖を開けると薬棚があった。いろいろの薬を取り出した。
編笠を冠って
「根岸まで急いでやってくれ」
「へい」と駕籠は駈け出した。
「よろしい」と云って駕籠を出た。
それからブラブラ歩いて行った。
内藤家のお下屋敷、それを廻って広場の方へ行った。広場の彼方に屋敷があった。帯刀様の屋敷であった。北山は地上へ眼を付けた。一筋引かれた白粉の痕は、もうどこにも見られなかった。その辺は綺麗に
「
北山は
「思い切って森家へ乗り込もうか、乗り込んで乗り込めないこともない。とにかく一度ではあったけれど、帯刀様にお呼ばれして、おうかがいしたこともあるものだからな」
だが表向き乗り込んだのでは、葉之助の消息を訊ねることが、不可能のように思われた。
「では乗り込んでも仕方がない」
彼は思案に余ってしまった。
「この方はもう少し考えることにしよう……もう一つの方を探って見よう」
浅草の方へ足を向けた。
奥山は例によって賑わっていた。
「八ヶ嶽の山男」それを掛けている小屋掛けの前で、北山はピタリと足を止めた。
見れば看板が外されてあった。木戸にも人がいなかった。小屋の口は閉ざされていた、どうやら興行していないらしい。
と、一人の若者が、戸口を開けて現われた。元気のないような顔をして、ぼんやり外を眺めていた。小屋者であるということは、衣裳の様子ですぐ解った。
北山はそっちへ寄って行った。
「今日は興行はお休みかね?」何気ないように声を掛けた。
すると若者は北山を見たが、
「へえ、まあそんな
「天気もよければ人も出ている。こんないい日にどうして休んだね?」北山は尚も何気なさそうに訊いた。
若者はちょっと眉をひそめた。いらざるお世話だと云いたげであった。でも、渋々とこんなことを云った。
「何もね、休みたかあなかったんで……太夫が一人もいないんでね……で、仕方なく休んだんでさあ」
二六
「ほほう、山男達はいないのかい」失望もし驚きもし、こう北山は大声で云った。「じゃあ山へ帰ったんだね」
「山へ帰ったか里へ行ったか、何んで私が知りますものか」
「で、いつからいないのかな?」
「
「では無断で逃げたんだな」
「逃げたには相違ありませんがね。道具をみんな置いて行ったので、いずれ帰っては来ましょうよ」
「道具?」と北山は眼を光らせた。「で、動物はどうなっている」
「つまりそいつが道具なんで……熊や猿や狼などを、ほったらかしたまま行っちまったんで」
「たしか蛇もいたようだが?」こう探るように北山は訊いた。
「ええおりますよ、幾通りもね」
北山は懐中へ手を入れた。紙入れを取り出し小粒を
「少いけれど取ってお置き」
「これは旦那、済みませんねえ」
小屋者はヒョロヒョロ辞儀をした。
「ところでちょいと頼みがある。動物を見せてはくれまいか」
「へえへえお易いご用です」
若者は小屋の中へはいって行った。北山は後から従いて行った。
小屋の中は薄暗く、妙にジメジメと湿っていた。小屋を抜けて庭へ出た。そこに
一つの小さな檻があった。
その中に五、六匹の小蛇がいた。卯の花のように白い肌へ、陽の光がチラチラとこぼれていた。一尺ほどの小蛇であった。みんな
北山はその前で足を止めた。
それから蛇を観察した。
「ねえ、若衆、綺麗な蛇だね」
北山は若者へ話しかけた。
「綺麗な蛇でございますな。だが、大変な毒蛇だそうで」若者は
「何んという蛇だか知っているかね」
「山男達が云っていました。信州の国は八ヶ嶽、そこだけに住んでいる
「宗介蛇とは面白いな」北山はちょっと微笑した。
「蘭語でいうとエロキロスというのだ」
「へえ、エロキロス、変な名ですなあ」
「蛇は六匹いるようだね」
「昔は十匹おりましたが、今じゃあ六匹しかおりません。山男達の話によると、三匹がところ、盗まれたそうで」
「十匹で三匹盗まれりゃあ、後七匹いる筈だが、ここには六匹しかいないじゃあないか。後の一匹はどうしたね」
「ああ後の一匹ですか、さっき人が来て買って行きました」
「え?」
と北山は眼を見張った、「ふうむ、この蛇をな、買って行ったんだな」「へえさようでございますよ」「どんな様子の人間だったな?」「五十恰好の商人風、江戸の人じゃあありませんな。
北山は黙って考え込んだ。腹の中で
「今夜が危険だ。うっちゃっては置けない」で彼は卒然と云った。「
「おやおやあなたもご入用なので」
「で、一匹幾らかな」
「さっきのお方は一匹一両で……」
「よし、
北山は紙入れを取り出した。小判六枚を
「さあ六両、受け取ってくれ」
「へえ、六両? どうしたので?」
「六匹みんな買い取るのさ」
「そいつあどうも困りましたねえ」
若者は小判と北山の顔とをしばらくの間見比べていた。
「どうして困るな? 困る筈はあるまい」
しかし若者は頭をかいた。
「どうもね、旦那困りますので。だってそうじゃありませんか、この白蛇は山男の物で、私の物じゃあございません」
「では何故一匹売ったんだ?」北山は叱るように声を強めた。「一匹も六匹も同じじゃあないか」
「いいえ、そんな事はありません。一匹や二匹なら逃げたと云っても、云い訳が立つじゃあありませんか」
「六枚の小判が欲しくないそうな」北山は小判を掌の上で鳴らした。「……死んだと云えばいいじゃないか」
「でも死骸がなかったひには」尚若者は
「いや死骸ならくれてやるよ」
北山は小判を突き付けた。「それなら文句はないだろう」
二七
若者は小判を手に受けた。
「どうしてご持参なさいます?」
「持って帰るには及ばないよ」
北山は懐中から黄袋を出した。「食い合いっ振りが見たいのさ」
黄袋の口を檻の上へ
粉薬が六匹の蛇へかかった。蛇は一斉に鎌首を上げた。プーッと頬を
ゾッとするような光景であった。
まず一匹が
若者は拳を握りしめていた。
北山は気味悪く微笑した。
「まずこれで安心した……悪人の
黄袋を
やがてこの日の夜が来た。
鏡葉之助は眼を覚ました。
そこは真っ暗の部屋らしかった。
葉之助の全身は
「いったいここはどこだろう? 確かに自分の家ではない。……いつから俺は眠ったんだろう? ……一年も眠ったような気持ちがする」
彼は
「……それでも
彼は
「いややはり家の中だ……それにしてもいったい何者が、いつ俺をこんな家の中へ、俺に知らせずに担ぎ込んだのだろう? ……人に担がれても知らないほど、眠っていたとは呆れ返るな……とにかく屋敷の様子を見よう」
葉之助は立ち上がった。
まず正面へ歩いて行った。そこには正しく床の間があった。ズッと右手へ歩いて行った。と、手先に襖がさわった。それをソロソロと引き開けた。出た所に廊下があった。その廊下を左手へ進んだ。幾個かの部屋が並んでいた。と、丁字形の廊下となった。網を掛けた
「大名か旗本の下屋敷だな」
葉之助は直覚した。
廊下の行き詰まりに庭があった。で、庭へ下りて行った。植え込みが隙間なく植えてあった。それを潜って忍びやかに歩いた。
深夜と見えて人気がなかった。時々
黒板塀がかかっていた。その根もとに
葉之助は素早く身を隠した。二人の話を聞こうとした。
間が遠くて聞こえなかった。で、植え込みの間を潜り、ソロソロと二人へ近寄った。月が二人の真上にあった。二人の姿は
断片的に話し声が聞こえた。
「……恐らく今夜は邪魔はあるまい」
武士の方がこう云った。
「……今夜は大丈夫でございましょう」
町人の方がこう答えた。
「……ではソロソロ放そうか」
「それがよろしゅうございましょう」
「……薬は確かに撒いたろうな」
「その辺如才はありません」
ここでしばらく話が絶えた。
町人が棒を取り上げた。側に置いてあった棒であった。どうやら太い竹筒らしい。
武士は二、三歩後へ退がった。町人は注意深く及び腰をした。
町人はソロソロと手を延ばし、竹筒の先の
二人の前から白粉が、一筋塀裾へ引かれていた。塀の一所に穴があった。穴を通って白粉が、
と、微妙な音がした。口笛でも吹くような音であった。竹筒の中からスルスルと、一筋の白い紐が出た。白粉の上を一散に、塀の外へ走り出した。
「あっ」
と葉之助は声を上げた。植え込みから飛び出した。そうして町人へ組み付いた。
二八
「あっ」
と今度は町人が叫んだ。
「誰だ?」
と武士が
町人は葉之助を突き飛ばそうとした。が、葉之助は
突然武士が刀を抜いた。ヒョイと葉之助は後へ退いた。刀は町人の首を切った。ヒーッと町人が悲鳴を上げた。
「しまった!」と武士は刀を引いた。
その時笛の音が帰って来た。塀の口から白い蛇が、荒れ狂って飛び込んで来た。手近の武士へ飛びかかった。
「ワッ」
と武士は悲鳴を上げた。ヨロヨロと塀へもたれかかった。白蛇も精力が尽きたと見え、体を延ばして動かなくなった。
ガックリ武士は首を垂れた。前のめりに地に斃れた。
町人と武士、そうして白蛇、三つの死骸を月が照らした。
不意に女の笑い声がした。
「多四郎! 多四郎! 思い知ったか!
葉之助は四辺を見廻した。女の姿は見えなかった。だが声は繰り返した。
「猪太郎! 猪太郎! よくおやりだ! お礼を云うよ、お母さんからね」
声はそのまま止んでしまった。
気が附いて葉之助は腕を捲くった。二の腕に出来ていた二十枚の歯形――
屋敷の中が騒がしくなった。人の走って来る
葉之助は塀へ手を掛けた。身を
広場を横切って町の方へ走った。
と、誰かと衝突した。
「これは失礼」「これは失礼」
云い合い顔を
「や、これは北山先生!」
「おお、これは葉之助殿!」
「先生には今時分こんな所に?」
「万事は後で……ともかく一緒に……」
二人は町の方へ走って行った。
その翌日のことであった。神田の
「……
ところが
「いかにもさようでございました。馳せ返って来た毒蛇は、帯刀様へ食い付きました」葉之助は頷いた。
「帯刀様の
「まずさようでございます。だが本来帯刀様は、私を切ろうとなすったので。それを私が素早く紋兵衛を盾に取ったので、いわば私が殺したようなもので」
「それはそうと葉之助殿、貴殿の幼名は猪太郎という、どうやら窩人の血統を受け継いでいるように思われる。母は、窩人の
「母は山吹、父は多四郎、そうして私の幼名が、猪太郎というのでございますな? そうして八ヶ嶽の窩人の血統? ううむ」と葉之助は腕を組んだ。
二九
翌日鏡葉之助は、蘭医大槻玄卿の、悪逆非道の振る舞いにつき、ひそかに
その結果町奉行の手入れとなり、玄卿邸の茴香畑は、人足の手によって掘り返された。はたして幾人かの男女の死骸が、土の下から現われた。で玄卿は召し捕られ、間もなく
だが邪教水狐族の、秘密の道場へつづいていた、地下の長い横穴については、事実大槻玄卿も、知っていなかったということである。では恐らくその穴は、ずっと昔の穴居時代などに、作られたところの穴かも知れない。
だがマアそれはどうでもよかろう。
さて鏡葉之助は、それからどんな生活をしたか?
「いつまでも年を取らないだろう。……永久安穏はあるまいぞよ」
水狐族の
彼はいつまでも若かった。心がいつも不安であった。
今日の言葉で説明すれば、強迫観念とでも云うのであろう。絶えず何者かに駈り立てられていた。
そうしてかつて高遠城下で、夜な夜な辻斬りをしたように、またもや彼は江戸の市中を、血刀を提げて毎夜毎夜、
と、木陰から人影が出た。
無紋の黒の着流しに、お
と、双方行き違おうとした。
不意に武士は顔を上げた。
つづいて
他ならぬ鏡葉之助であった。
浅草の観世音、その境内の
一本の
一人の女がその前を、
武士がヒョロヒョロと前へ出た。居合い腰になった一瞬間、日の出ない灰色の空を切り、紫立って光る物があった。とたんに「キャッ」という女の悲鳴。首のない女の死骸が一つ、前のめりに転がった。ドクドクと流れる切り口からの血! 深紅の水溜りが地面へ出来た。
だが斬り手の武士は、公孫樹の幹をゆるやかに廻り、雷門の方へ歩いて行った。鳩の啼き声、
両国橋の真ん中で、斬り仆された武士があった。
笠森の茶店の
千住の
江戸は――大袈裟な形容をすれば、恐怖時代を現じ出した。
南北町奉行が大いに
どうやら物盗りでもなさそうであり、どうやら意趣斬りでもなさそうであり、云い得べくんば
で容易に目付からなかった。
まさか内藤家の家老の家柄、鏡家の当主葉之助が、辻斬りの元兇であろうとは、想像もつかないことである。
だがやがてパッタリと、辻斬り沙汰がなくなった。
内藤駿河守が江戸を立って、伊那高遠へ帰ったからであった。
だが内藤家の行列が、塩尻の宿へかかった時、一つの事件が突発した。と云っても表面から見れば別に大したことでもなく、鏡葉之助が
鏡家は内藤家では由緒ある家柄、その当主が逃亡したとあっては、うっちゃって置くことは出来なかった。
八方へ手を分けて捜索した。しかし行方は知れなかった。
三〇
彼はいったいどうしたのだろう? いったいどこへ行ったのだろう?
彼は八ヶ嶽へ行ったのであった。
彼は母山吹の
塩尻から岡谷へ抜け、高島の城下を
三日を費やして
まじまじと照る陽の光、こうこうと鳴く狐の声、小鳥のさえずり、風の音、深山の
しかし一人の窩人達も、そこには住んでいなかった。
葉之助は拝殿へ腰をかけ、四辺の風物へ眼をやった。
と、その時聞き覚えのある、男の声が聞こえて来た。
「猪太郎、猪太郎、よく参った」
拝殿の奥の木像の蔭から、一人の人物が現われた。白衣長髪の白法師であった。
「おおあなたは白法師様」葉之助は立って
「
葉之助と並んで白法師は、拝殿の縁へ腰をかけた。
「どうだ葉之助、昔の素姓が、ようやくお前にも解ったろう」
「はい、ようやくわかりました。……母は窩人で山吹と云い、父は里の商人で、多四郎と云うことでございます」
「だが多四郎の後身が、大鳥井紋兵衛だとは知るまいな」
「えっ」と葉之助は眼を
「そうだ」と白法師は頷いた。「詳しく事情を話してやろう」
そこで白法師は話し出した。
多四郎が山吹を
これが白法師の話であった。
「久田の
「あべこべに利用すると申しますと?」葉之助は反問した。
「それは自分で考えるがいい」
白法師と別れ、八ヶ嶽を下り、人里へ出た葉之助は、高遠城下へは帰らずに、
時勢はズンズン移って行った。
天保が過ぎて弘化となり、やがて嘉永となり安政となり、万延、文久、元治、慶応、そうして明治となり大正となった。
この物語に現われた、あらゆる人達は一人残らず、地球の表から消えてなくなり、その人達の
しかし本当に久田の姥の、あの恐ろしい呪詛の言葉が、言葉通り行われているとしたら、主人公の鏡葉之助ばかりは、依然若々しい容貌をして、今日も
だがそんな事があり得るだろうか?
あらゆる不合理の迷信を
三一
大正十三年の夏であった。
私、――すなわち国枝史郎は、数人の友人と連れ立って、日本アルプスを踏破した。
三千六百〇三尺、奥穂高の登山小屋で、愉快に一夜を明かすことになった。
案内の
「こんな話がありますよ」
こう云って佐平の話した話が、これまで書きつづけた「八ヶ嶽の魔神」の話である。
「ところで鏡葉之助ですがね、今でも活きているのですよ。この山の背後蒲田川の
「だが」と私は訊いて見た。「いつどうして葉之助が、そんな所へ行ったんだね」
「明治初年だということです。漂浪している窩人の群と、甲州のどこかで逢ったんだそうです。もちろんその時は窩人達は、幾度か代が変わっていて、杉右衛門も岩太郎も死んでしまい、別の杉右衛門と岩太郎とが、引率していたということですがね。そこで葉之助は云ったそうです。ありもしない宗介の甲冑など、いつまでも探すには及ぶまい。窩人――もっともその頃は、
私の好奇心は燃え上がった。で、翌日案内され、十石ヶ嶽まで行くことにした。
道は随分
眼の下に広々とした
夢でもなければ幻でもなかった。
彼らの国があったのである。
噂によれば、
いつまでも活きている鏡葉之助、人間の意志の
永遠に活きるということは、何んと愉快なことではないか。
しかし永遠に活きるものは、同時に永遠の受難者でもある。
そうしてそれこそ本当の、偉大な人間そのものではないか。
それはとにかく私としては、自分自身へこんなように云いたい。
「ひどく浮世が暮らしにくくなったら、構うものか浮世を振りすて、日本アルプスへ分け上り、山窩国の中へはいって行こう。そうして葉之助と協力し、その国を大いに発展させよう。そうして小うるさい社会と人間から、すっかり逃避することによって、楽々と
私の故郷は信州諏訪、八ヶ嶽が東南に見える。
去年の秋にたった一人で、笹の平へ行って見た。天保時代の建物たる宗介天狗の拝殿も、窩人達の住居もなかったが、その
その一つへ腰を下ろし、
秋の日射しの美しい、小鳥の声の遠く響く、
「静かだなあ」と私は云った。
不幸な恋をした山吹のことが、しきりに想われてならなかった。
多四郎の不純な恋に対する、憤りのようなものが湧いて来た。
「浮世の俗流というものは全くもって始末が悪い。天狗の甲冑を盗むばかりか、乙女の心臓をさえ盗むんだからなあ」などと感慨に耽ったりした。
(完)