一
「元禄の
南町奉行配下の与力鹿間紋十郎と云う人物が、ある夜同心を二人連れて、市中をこっそり見廻っていた。
本郷湯島の坂の上まで来ると、紋十郎は足を止めた。坂の下からシトシトと女乗り物が上って来る。駕籠のまわりには十人の武士がピッタリ身体を寄せ合って、無言でトットと歩いている。不思議なことには十人の武士が十人ながら白い布で、厳重に覆面していることで、そして、男とは思われないほどその足並は柔弱である。
怪しいと見て取った紋十郎は、二人の同心へ合図をして、
つと現われたのは紋十郎である。
「あいやしばらくお待ちくだされい」
「深夜と申し殊には厳寒、女乗り物を担がれて方々は
紋十郎はまず尋ねた。
思慮ある武士ではあったけれど、紋十郎は若かったので、相手の様子に血を湧かせた。
「無礼な態度!
「黙れ!」
と、不意に、覆面の一人が、この時鋭く叱

「そういう手前こそ何者じゃ! 厳寒であろうと深夜であろうと、用事あればどこへ参ろうと
「む」と紋十郎は突き込まれたので、思わず言葉を詰まらせたが、「南町奉行配下の与力鹿間紋十郎と申す者、して方々のご身分は?」
「ははあ、不浄役人か」紋十郎の問いには答えず、侮ったように呟いたが、
「不浄役人のその方達に身分を明かすような我々でない。咎め立てせずと引き下がった方がかえってその方の身のためじゃ」
「黙れ!」と紋十郎は突っ刎ねた。「身分も宣らず行く先も云わぬとは、いよいよもって怪しい奴、仕儀によっては引っ
しかし相手はこう云われても驚きも恐れもしなかった。
「愚か者め」と憐れむように、覆面の武士は呟いたが、スーと駕籠脇へ寄り添った。「お聞きの通り不浄役人ども、駕籠先を止めましてござりますが、いかが取り計らい致しましょうや?」
「
「は、
声と一緒に粛々と、女乗り物は動き出した。白縮緬の覆面した十人の武士はそれを囲んでタッタッと歩いて行く。振り返ろうともしないのである。
やがて乗り物も供人も夜の闇に埋もれて見えなくなったが、尚
紋十郎と同心とは、下げた頭を尚下げたまま、互いにいつまでも黙っていた。度胆を抜かれた恰好である。
「すんでにあぶないところであったぞ」紋十郎は呟きながら、闇の中へ消えた駕籠の後を、しばらくじっと眺めやったが、首を捻って腕を組んだ。
二
こういう出来事があってから幾月か経って春となった。元禄時代の春と来ては、それこそ素晴らしいものである。「花見の宴に小袖幕を張り、酒を燗するに
遊里で取り分け持てるのはすなわち銀座の客衆で、全くこの時代の銀座と来ては三宝四宝の吹き出し最中で、十九、二十の若い手代さえ、昼夜に金銀を
しかし豪奢なその銀座衆さえ、紀伊国屋文左衛門には及ばなかった。奈良屋茂左衛門にも勝てなかった。そしてこの両人の豪遊振りについては、大尽舞いの唄にこう記されている。
「そもそもお客の始まりは、
で、その奈良屋茂左衛門がまだ浦里を身請けしない前の、ある春の日のことであったが、取り巻を連れて吉原の新町の
一蝶の作った花見の唄を、市川


「この泰平の世の中に、不思議のことがあるものじゃの」
「不思議の事とは何んですかな?」
大仏師の民部がすぐ訊いた。彼はまたの名を扇遊とも云って、
「なにさ、近頃評判の高い、白縮緬組の
「ああ彼奴らでございますか。いや面白い手合いですな。さすがの北条安房守様も手が出せないということですな」
「相手が千代田の御殿女中と来ては町奉行には手は出せまいよ」
「と云って見す見す
「全く智恵がありませんな」こう云って横から口を出したのは、商人で医者を兼ねた半兵衛であった。村田というのがその姓で、聞き香、茶の湯、鞠、

「全く智恵がありませんな。それに第一不都合じゃ。悪戯をするに事を欠いて、御殿女中ともあろう者が
「いかにも沙汰の限りではあるが、さてそれがどうにも出来ないのじゃ」玄龍は苦笑を頬に浮かべ、「どうにもならないその訳も色々あるが
「へえ、遠島になりますかな? いやこいつはたまらない」半兵衛は首を縮めたが、「変な時世になったものじゃ。
すると、座敷の隅の方で、
「
「お前には解っているのかえ?」
「解っているとも大解りじゃ」
「一つ教えて貰いたいな」
「生類憐れみのあのお
「それがどうしたというのだえ?」
「これはいよいよ驚いた。これまでいっても解らぬかな……今の話の白縮緬組、南都の悪僧が
「ふうむ、なるほど、それで解った」半兵衛は初めて頷いたのである。
五代将軍綱吉は、聡明の人ではあったけれど、愛子を
三
三日見ぬ間の桜も散り、江戸は青葉の世界となった。
奈良茂は今日も揚屋の座敷で、いつもの取り巻にとり巻かれながら、うまくもない酒に浸っていた。いよいよ身請けという段になって、にわかに浦里が
「それだけはどうぞ堪忍して。少し望みがありますゆえ」と、いくら尋ねてもただこういって浦里は他には何もいわない。日頃女を信じ切っていたため、その女からこう出られると、裏切られたような気持ちがして、彼は心が落ち着かないのであった。
それに近頃若い男が、彼に楯突いて浦里のもとへ、しげしげ通って来るという、厭な噂も耳にしたので彼は益

「仮りにも俺に楯突こうという者、紀文の他にはない筈だ」
いったい
奈良茂の機嫌が悪いので、半兵衛や民部は心を
一蝶や
「金の威力で自由にしようとしても、自由にならないものもある。女の心などはまずそれだ。自由にならないから面白いとも云える。それを怒ったでは野暮というものだ」心の中ではこんなようにさえひそかに考えているのであった。
佐々木玄龍は所用あって今日は座席には来ていなかった。
「宗匠、何んと思われるな、
「それがさ、実に面白いではないか。
其角は豪放に笑ったが、
「この
「
「それにしても彼奴ら何者であろうの? いつも三人で出るそうじゃが」
「いやいやいつもは二人じゃそうな。一人は若衆、一人は
「さようさよう、そうであったの……何んでもその中の若衆が素晴らしい手利きだということじゃの。暁
「いずれ変名には相違ないが、季節に合った面白い名じゃ」しばらく其角は打ち案じたが、「暁に杜鵑か、それで一句出来そうじゃの」
「お前がそれで一句出来たら、私が
「いや面白い面白い」
そこへこれも取り巻の二朱判吉兵衛が現われたので、にわかに座敷が騒がしくなった。
「やい、吉兵衛、よく来られたの!」
奈良茂の
「誰か吉兵衛を引っ捉えろ!」奈良茂は自分で立ち上がった。
「早く
吉兵衛は大形に頭を抱え座敷をゴロゴロ転がりながら、さも悲しそうに叫ぶのであった。
「お助けお助け! どうぞお助け! 髪を剃られてなるものか! ハテ皆様も見ておらずとお
「やい、これ、吉兵衛の二心め! よも忘れてはいまいがな! 今年の一月京町の揚屋で俺が雪見をしていたら、紀文の指図で雪の上へ小判をバラバラばら蒔いて争い拾う人達の下駄でせっかくの雪を泥にしたのは、吉兵衛貴様の
四
涙を流して詫びた甲斐もなく、ついに吉兵衛は
こんな騒ぎに日が暮れて、間ごとに燈灯が華やかに灯り、
今日は一度も浦里は座敷へ顔さえ出さなかった。奈良茂の機嫌は益

ちょうどこの夜の丑満時のこと、隅田川に沿った駒形の土手を、静かに歩いて行く三人連れがある。紅縮緬で覆面をし
真っ先に進むは若衆と見えて匂うばかりの振り袖に紅の肌着の袖口長く、茶宇の袴の裾を曳き、気高い態に歩いて行く。その次に行くのは女であった。

空には上弦の初夏の月が、
三人の者は話さえせずただ黙々と歩いて行く。
と、先頭の若衆が、ピタリと足を止めたものである。三人は顔を見合わせた。それから
その時、往来の遙かあなたから、一団の人影が現われたが、女乗り物を真ん中にしてタッタッタッと進んで来る。近寄るままよく見れば白縮緬で顔を隠した十人の武士の群れであった。
白縮緬の一群は、四方に
つとその行く手を遮ったのは紅縮緬の若衆である。
「その駕籠止めい!」
と、絹を裂くような声。
乗り物はタタと後へ引いた。十人の武士はその
「やあ
「
若衆の声は凛々と響き、鬼をも
白縮緬の一群は、気を呑まれて
「この御乗り物に
「
「やあ源氏太郎様を犬といったな!」
「犬といったが悪いと申すか。では畜生と申そうかの」
「お犬様を畜生とは
「畜生で悪くば獣といおうぞ」
「問答無用、やあ方々、お
「おっ!」と
若衆は一歩進み出たが、
「汝ら武士に
刀の束に手を掛けたままじりじりと詰め寄った。若衆一人に詰め寄せられて白縮緬組の十人の者は次第次第に
「天罰!」
と鋭い若衆の声。流星地上に落ちるかと見えたのは抜き打ちに払った刀の閃めきで、「あっ!」と叫んだのは切り込んで行った武士。悉くそれが同時であった。生死は知らず地上には一人俯向きに仆れている。
「朋輩の仇!」
と、声もろともに、左右から二人切り込んだ。
「やっ!」「やっ!」とただ二声。それで勝負は着いたのである。地上には二人の白縮緬組が刀を握ったまま仆れている。
後に残った七人は、一度に刀を手もとに引いて、身体を守るばかりであった。
その時、ヒラリと駕籠の垂れが、風もないのに
「やあ、お犬様だ!」
と、白縮緬組は、驚きの声を筒抜かせた。
五
さすがは名犬、源氏太郎は、早速には飛びかかっても行かなかった。鼻面を低く地に着けて、上眼で敵を睨みながら、陰々たる唸りの声を上げ、若衆の周囲を廻り出した。相手を疲れさせるためでもあろう。
若衆は刀を下段に構え、廻る犬に連れて廻り出した。時々「やっ」と声を掛けて犬に怒りを起こさせようとする。誘いの隙を見せた時、犬は虚空に五尺余りも
掛け声も掛けずただ一閃、刀を横に払ったかと思うと「ギャッ」と一声声を揚げたまま、源氏太郎は胴を割られ二つになって地に落ちた。
「切ったわ切ったわお犬様を!」
驚き恐れた叫び声が、白縮緬組七人の口から、同時にワッと湧き起こった。
忽然その時駕籠の戸が内から音もなく開けられた。プンと火縄の匂いがして、スーッと立ち出でた一人の
人々は一度に声を呑んだ。
天地寂廖として音もない。
と、
「下郎推参!」
と呼び掛けたが、ニタリと笑ったその艶顔には、凄愴たる鬼気さえ籠もっている。若衆はブルッと
こうして瞬間の時が経った。
ハッと種ヶ島の火花が散りあわや一発打ち放されようとした時、「えい!」と掛けた掛け声が、夜の闇の中から聞こえたかと思うと、カチリと打ち合う音がして
奴姿の大男も大刀を抜いて現われ出たが、白縮緬組七人の中へ面もふらず切って行った。
若衆は手弱女の頤の辺へ片手を掛けて顔を持ち上げ月の光につくづくと見た。丹花の唇、芙蓉の眉、まことに古い形容ではあるが、この手弱女には似つかわしい。下髪にした黒髪が頬に
柳営に仕える局としても余りに美しく高貴である。
若衆の口から洩れたのは焔のような溜息であった。彼は静かに膝を退け、そっと手弱女を引き起こした。それから彼は立ち上がり腕を組んで黙然と眺めていた。
七人の相手を追い散らし、馳せ返って来た奴姿は、それと見るよりつと進み寄り血刀をグイと突き付けた。
「これ」
と制したのは若衆である。投げ捨てた刀を拾い上げ、パチリ鞘に収めてから袴の
「千代はどうした。見て参れ」
「おおそうじゃ。お嬢様……」
行きかかる時、人家の軒から、粛々と進み出た三人の武士。その三人に囲まれながら、
「千代か?」と若衆は声をかけた。
「あいや暁杜鵑之介殿。お妹ごまさしくお引き渡す間、その女人こちらへお譲りくだされい」
三人の武士のその一人が、ツカツカと前に進み出ながら、慇懃の言葉でこういった。
「何人でござるぞ? そう仰せらるるは?」
若衆も前へ進み出た。ぴったり二人は顔を合わせたのである。
武士は言葉を潜めたが、
「北条安房守配下の与力、鹿間紋十郎と申す者でござる」
「む。ご貴殿が鹿間殿か――してあの女人は何人でござるな?」
「あれこそ、お伝の方でござる」
「…………」
若衆は無言で頷いた。そうして改めて女人を見た。
「いかにもお譲り致しましょう」
「お譲りくださるか。
「千代、袖平、参ろうかの」
悠然と若衆は歩を運んだ。
六
「由井殿!」
と、不意に、紋十郎は、若衆の後から声を掛けた。ハッとして若衆は立ち
「寸志でござる。お受け取りくだされい」
一葉の紙を突き付けた。
若衆は無言で受け取って月の光で透かして見たが、
「や、これは
「今夜のお礼に差し上げ申す――貴殿の今宵の働きに
若衆は深く感動したが、言葉もなくて
「ご芳志有難くお受け申す」感情を籠めていうのであった。
その同じ夜の暁であったが、
先刻一蝶と約束した、読み込みの句が出来ないからで、
「余人ならともかく一蝶と来たら、あれでなかなかの文章家だからな。変な下手な句は見せられぬ」
こんなことを心で思ったりして益

その時にわかに隣りの室へ、人がはいって来たらしく、ひそひそ話し合う気勢がする。
「こいつはどうも面白くない。隣りの室で騒がれたひにはいよいよもって句は出来ぬな」
彼は渋面を作りながら、何気なく隣室の人声へ所在ない耳を傾けた。
誰か苦しんででもいると見えて、呻吟の声が聞こえて来る。
と、おろおろした女の声で、
「お兄様!」と呼ぶ声がする。それに続いて男の声で、
「若旦那様! しっかりなさりませ!」
と、力を付けるような声もする。
「むう。むう」
と苦しそうな呻吟の声は尚続いた、どうやら物でも
暁の光は次第に蒼く次第に明るく射し込んで来る。
と、また女のおろおろ声。
「お兄様! お兄様!」
「若旦那様!
「何?」
と其角は眼を見張った。
「杜鵑之介といったようじゃな? 杜鵑之介! 杜鵑! そうして今は暁だ!
と、思わず叫び、側の短冊を取り上げた。
スラスラと書いたその一句は……
あかつきの
嘔吐は隣りか
ほととぎす
狭斜の巷の情と景とを併わせ備えた名句として、其角の無数の秀句の中で嶄然頭角を現わしているこの「ほととぎす」の一句こそはこういう事情の下に出来上がったのである。嘔吐は隣りか
ほととぎす
翌日隣室に若い侍が、毒を飲んで一人死んでいた。前髪立ての美男であって、浦里のもとへ通って来た嫖客の一人だということであったが、それかあらぬか浦里は、自分親しく施主に立って立派な葬式を営んだため、噂がパッと拡がった。しかし間もなくその浦里も奈良茂のために根引きされて、吉原から姿を隠したので、
それにしても暁杜鵑之介と
古い当時の記録を見ると、次のようなことが記されてある。
「慶安の巨魁由井正雪の孫、幕府に
浦里のお千代は、兄と共々、深夜に廓を抜け出して、市中を横行した当時の覇気を、兄の死と一緒に封じ込み、ただ貞節の妻として奈良茂に仕えたということであった。