二人町奴

国枝史郎





「それ喧嘩だ」
「浪人組同志だ」
「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ」
 ワーッ[#「ワーッ」は底本では「ワーツ」]と群衆なだれを打ち、一時に左右へ開いたが、遠巻きにして眺めている。
 浪人組の頭深見十左衛門、その子息の十三郎、これが一方の喧嘩頭、従うもの二三十人、いずれも武道鍛練の、度胸の据わった連中である。
 その相手は土岐とき与左衛門と、その一味の浪人組、その数およそ三四十人。
 おりから春、桜花の盛り、所は浅草観世音境内、その頃にあっても江戸一の盛り場、しかも真昼で人出多く、賑わいを極めている時であった。
「あいや土岐氏」と十三郎、ヌッ[#「ヌッ」は底本では「ヌツ」]とばかりに進み出た。
 年この時二十八歳、色白く美男である。その剣道は一刀流、免許の腕を備えている。
「過日我らが組下の一人、諸戸もろと新吾と申す者、貴殿の部下たる矢部藤十殿に、鞘当てのことより意趣となり、双方果し合い致したるところ、卑怯にも矢部殿には数人を語らい、諸戸新吾を打ち挫き、恥辱を、与えなされたため、諸戸は無念を書き残し、数日前に腹切ってござる。以来我ら貴殿に対し、矢部殿お引き渡し下さるよう、再三使いをもって申し入れましたが、今になんのご返事もない。組下の恥辱は頭の恥辱、今日ここで偶然お目にかかった以上、貴殿を相手にこの十三郎単身お掛け合い致しとうござる。土岐氏、即座にお答え下され。さあ矢部殿を渡されるか? それともビッシリお断わりなさるか? 渡されるとあればそれでよい。当方にて十分成敗致す、渡されぬとあっては止むを得ぬ。貴殿と拙者この場において、尋常の勝負、抜き合わせましょう! いかがでござるな、さあ、ご返答!」
 凜とばかりに云い入れた。
「お気の毒ながらお断わりじゃ」
 こう云ったのは与左衛門。年の頃は四十五六、頬髯の濃い赤ら顔、上背があって立派である。
「いかにも我等組下の者矢部藤十儀、貴殿の組下、諸戸殿と果し合いは致しましたが、卑怯の振舞いは決して致さぬ。傍らに引き添った同僚が、仲間の誼み自分勝手に、助太刀の刀を揮った迄、これとて考えれば当然のこと、志合って組をつくり、一緒の行動とる以上、助け助けられるに不思議はござらぬ、矢部を渡さば成敗する。かよう云われる貴殿の言葉を、承知致したその上で、矢部を貴殿に渡したが最後、拙者の面目丸潰れじゃ。お断わりお断わり、決して渡さぬ!」
 これも立派に云い切った。
「なるほど」と云ったは十三郎、
「お言葉を聞けばごもっとも、よもやムザムザ矢部殿を、我々の手へはお渡しあるまい。止むを得ぬ儀、貴殿と拙者、ここで果し合い致しましょう」
「左様さ」と云ったが土岐与左衛門、承知するより仕方なかった。
「よろしゅうござる、お相手致そう」
 それから部下をジロリと見たが、
「これ貴殿方、助太刀無用、我ら二人だけで立ち会い致す。よろしいかな、お心得なされ」
 こうは云ったが眼使いは、その反対を示していた。一同刀を抜き連らね、一斉に引っ包んで打って取れ。よいかよいかと云っているのである。
「いざ」と云うと土岐与左衛門、大刀[#「大刀」はママ]サッと鞘ばしらせた。
 グーッと付けたは大上段、相手を呑んだ構えである。
「いざ」と同時に十三郎、鞘ばしらせたが中段に付けた。
 シ――ンと二人とも動かない。
 春陽を受けて二本の太刀、キラキラキラキラと反射する。
 それへ舞いかかるは落英である。
 ワ――ッと群集は鬨を上げた。だが直ぐに息を呑んだ。と、にわかに反動的に、浅草の境内ひっそりとなり、昔ながらに居る鳩の啼声ばかりが際立って聞こえる。
 土岐与左衛門これも免許、その流儀は無念流しかも年功場数を踏み、心も老獪を極めている。
 相手の構えを睨んだが、
「油断はならぬ。立派な腕だ。しかし若輩、誘ってやろう」
 ユラリと一歩後へ引いた。
 果して付け込んだ深見十三郎、
「むっ」と喉音こうおん潜めた気合。掛けると同時に一躍した。ピカリ剣光、狙いは胸、身をひらめかして片手突き!
 だが鏘然と音がした。
 すなわち与左衛門太刀を下ろし、巻き落とすイキで三寸の辺り、瞬間に払ったのである。
 十三郎、刀を落としたか?
 落とさばそこへ付け込んで、無念流での岩石落とし、肩をはねよう一刀にカッ! と与左衛門は[#「与左衛門は」は底本では「与左衛門を」]見張ったが、期待外れて十三郎、飛び退って依然同じ構え、中段に付けて揺がない。
 と、思ったも一刹那、年若だけに精悍の気象、十三郎スルスルと進み出た。


 据わった腰、見詰めた眼、溢れようとする満腹の覇気スルスルと進み出た十三郎に押され、土岐与左衛門圧迫を感じ、タッタッと三足ほど退いたが、やや嗄声かれごえで、
「さあ方々!」
 声に応じて三四十人、与左衛門の部下一斉に、刀を抜いたがグルグルグル、深見十三郎を引っ包んだ。
卑怯ひきょう!」と叫んだは十三郎の部下、これも一斉にすっぱ抜くと、与左衛門の部下を押しへだて、ジ――ッと、一列に構え込んだ。
 まさに太刀数六七十本向かい合わせてぴたりと据わり、真剣の勝負、無駄声もかけずただ、位取った刀身が、春陽をはねて白々と光り、殺気漂うばかりである。
 旗本奴はたもとやっこ町奴まちやっこ、それと並び称された浪人組、衣裳も美々びびしく派手を極め、骨柄いずれも立派である。その数合わして六七十人、真昼間の春の盛り場で、華やかに切り合おうというのである。
 凄くもあれば美しくもある。
 遠巻きにした群集達。一時に鬨作って逃げ出したが、さらに一層遠くへ離れ、勝敗はどうかと眺めている。
 気の毒なのは店屋である。バタバタと雨戸を引いてしまった。側杖を恐れたからである。役人も幾人かいたけれど、うかと手を出したら怪我しよう! で茫然と見守っている。
 仲裁する者はないのだろうか? なければ血の雨が降るだろう、死人も怪我人も出るだろう。
 群集のどよめき治まると、深刻な静寂が寺域を領し、その中に立っている観音堂、宏大な図体を頑張らせてはいるが、恐怖に顫えているようにも見える。
 と、この時仁王門の方から、修羅場にも似合わぬ陽気な掛け声が、歌念仏の声をまじえ、ここの場所まで聞こえてきた。
 次第々々に近寄って来る。
 見れば飾り立てただしであった。巨大な釣鐘が乗っている。
 吉原十二街から寄進をした。釣鐘を運んで来たのである。
 にわかにだしが止まってしまった。浪人組が構え込んでいる。白刃がタラタラと並んでいる。そこを押し通って行くことは出来ない。
 賑やかな囃も急に止み、それを見物の人々も息を呑んだ。
 この間も二手の浪人組、太刀を構えてせり詰めて行く、やがて白刃が合わされるだろう、境内は血潮で染められるだろう、負けた方は逃げるに相違ない。勝った方はきっと追っかけるだろう。乱闘となったら見物にも、善男善女にも怪我人が出来よう。奉納の釣鐘にも穢れがつき、大勢の寄進者も、傷付くかもしれない。
「逃げろ逃げろ」と云う者もある。
「一まずだしを引っ返せ」と喚き立てる者もある。
 あぶないあぶない折柄であった。
「どいた、どいた、ご免下せえ」
 ドスの利く声を掛けながら、群集を左右に掻き分け、だしに近寄った人物がある。
 三十がらみで撥髪ばちびん頭、桜花を散らせた寛活かんかつ衣裳、鮫鞘さめざやの一腰落し差し、一つ印籠、駒下駄穿き、眉迫って鼻高く、デップリと肥えた人物である。
 丁寧ではあるが隙のない態度、ジロリと一同を見廻したが、
「大変な騒動になりましたな。さぞ皆様もお困りでしょう、ケチな野郎ではございますが、わっちがちょっと仲裁役、一肌脱ぐことに致しましょう、と云いたいんだがどう致しまして、すっぱだかになって踊ってみせます。ついては釣鐘を借りますよ。傷は付くかもしれませんが、まずまず血では穢されますまい。まっぴらご免」と云ったかと思うと、白の博多の帯をとき、クルクルと衣裳を脱ぎ捨たが下帯一つの全裸体、何と堂々たる体格だ、腕には隆々たる力瘤、胴締まって腰ガッシリ、黒々と胸毛が生えている。そのくせ肌色皓々と白い。
 腕をのばすと釣鐘の龍頭、グッと掴んで引き下ろした。見る間に双手を鐘の縁、そいつへ掛けると大力無双、頭上へ差し上げたものである。
 と、投げ込んだは浪人組の中、地響と共にゴ――ンと鳴り、音が容易に消えて行かない。
 仰天した二派の浪人組、サ――ッと左右へ引いたが付け目、ヒラリと飛び込んだ裸体の男、鐘を引き起こすとカッパと伏した。龍頭を踏まえて突っ立ったが、左右を見比べると両手を拡げ、さてそれから云いだした。
「お見受けすれば浪人組、今世上に名も高い、土岐与左衛門様に深見様、どんな意趣かは存じませぬが、賑わう浅草の境内で時は桜の真っ盛り、喧嘩沙汰とは気の知れぬ話、其角宗匠が生きていたら、花見る人の長刀、何事だろうと申しましょう。喧嘩貰った、お預け下せえ。そういう私は人入れ家業、芝浜松町に住居すまいする富田家清六の意気地のない養子、弥左衛門といってほんの三下だが、親分は藩隨院長兵衛兄弟分には唐犬とうけん権兵衛、放駒四郎兵衛、夢の市郎兵衛、そんな手合もございます。お預け下せえお預け下せえ。それとも」と云うと腕を組んだ。
「仲裁役には貫禄が不足、預けられぬと仰言おっしゃるなら、裸体はだかで飛び込んだが何より証拠、とうに体は張って居りやす。切り刻んでなますとし、血祭りの犠に上げてから、喧嘩勝手におやり下せえ。息ある限りは一歩ものかねえ、そこは男だ、一歩ものかねえ。さあさあ預けて下さるか、それとも、膾に切り刻むか、ご返事ご返事、聞かせて下せえ!」
 男を磨く町奴。ドギつく白刃の数十本の中で、小気味よく大音を響かせた。
 ワ――ッと群集のどよめいたのは、その颯爽たる男振りに、思わず溜飲を下げたのであろう。


 気を奪われた浪人組、互いに顔を見合わせたが、そこは老功の与左衛門である。けっく幸いと考えた。
「こいつはいっそ任せてしまえ」
 そこで抜身をダラリと下げ、ツト進み出ると、云ったものである。
「これはこれは弥左衛門殿か、お名前はとうから存じて居ります。争いの仲裁まずお礼、いや何原因も知れたことで、折れ合おうとすれば折り合います。またお顔を立てようとなら、無理にも折り合わなければなりますまい。それにしても実に大力無双、殊には裸体で突っ立たれたご様子、まことに洵に立派なもので、そういうお方にお任せし、事を穏便に治めるは、我々にとっても光栄というもの、但し果して深見氏の方で」
 すると十三郎もズット出た。
「いや拙者とて同じでござる。弥左衛門殿のお扱いなら、なんの不足がございましょう。白柄組とか吉弥組とか、旗本奴の扱いなら、とかく何かと言っても見たいが、長兵衛殿のお身内なら、我々にとってはむしろ味方、弥左衛門殿のご高名も、かねがね承知致して居ります。土岐氏においてそのおつもりなら、スッパリ何事もあなた任かせ!」
「ま、任せて下さるか……」
 弥左衛門喜んで辞儀をした。
「それでは何より真っ先に、抜いた白刃を元の鞘へ」
「よろしゅうござる」と土岐与左衛門、部下の一同を見廻したが、
「な、方々聞かれるような次第、さあさあ刀をお納め下され」と自身パッチリ鞘に納める。
「貴殿方にも」と十三郎「刀をお納めなさるがよろしい」――で、パッチリと鞘に納める。
 血の雨の降るべき大修羅場は、こうして平和に治まったのである。
「こうなったのもこの釣鐘が私に役立たせてくれたからで、目出度い釣鐘、有難い釣鐘、さあさあそれでは元の座へ」
 龍頭を掴むとグ――ッと引き上げ、肩へ[#「肩へ」は底本では「肩え」]担ぐと弥左衛門、だしの上へそっと置いた。
「さあさあ皆さん景気よく、奉納寄進しておくんなせえ」
 声を掛けると美しい女や男達、ドッと喜びの声を上げ、すぐに続けて賑やかな囃、それからだしを引き出した。無事に寄進が出来たのである。
 見ていた群集も賞讃し、
「釣鐘様! 弥左衛門様!」
「釣鐘の親分! 釣鐘弥左衛門!」
 ――爾来人々弥左衛門を、釣鐘弥左衛門と称したが、それ程の釣鐘弥左衛門も、兄分と立てなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」]ならなかった[#「ならなかった」は底本では「ならなっかた」]のは、緋鯉ひごいの藤兵衛という町奴であった。


 ある日と云ってもずっと後だ――寛文年間のことである。
「兄貴おいでか」と云いながら、訪ねて来たのは釣鐘弥左衛門。
「これは釣鐘、珍らしいの」
 こう言ったのは緋鯉の藤兵衛、長火鉢の前に坐っている。
 向かいあって坐った釣鐘弥左衛門、今日は一向元気がない。
 そういえば緋鯉の藤兵衛にも、さっぱり元気がないのである。二人、しばらく物も云わない。
「近頃浮世が面白くないよ」
 やがて云ったのは弥左衛門である。
「うん、そうだろうな俺もそうだ」
 緋鯉の藤兵衛もものうそうである。
「長兵衛親分がああなって以来、俺ア眼の前が真っ暗になった」
「相手の水野一統は、ピンシャンあの通り生きていて、なんのお咎めもないんだからなあ」
 これが弥左衛門には心外らしい。
「それにさ唐犬とうけんの兄貴達が、水野を討とうと切り込んで、手筈狂って遣り損なってからは、いよいよお上の遣り口が、片手落偏頗へんぱに見えてならねえ」
 これにも弥左衛門は不平らしい。
「うん、そいつだよ、偏頗だなあ」
 緋鯉の藤兵衛も不平らしく、
「爾来お上では俺達を、眼の敵にして抑えるんだからなあ」
「兄弟分の大半は、遠島の仕置にされてしまった」
「町奴の勢力も地に落ちたよ」
「そいつも水野をはじめとし白柄組の連中のお蔭だ」
「その連中がよ、どうかというに、近来益々のさばり居る」
「夜ふけて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐かがづめかいか泥棒か、さては坂部の三十か……江戸の人達は唄にまで作り、恐れおびえているのになあ」
「お上の片手落ちも甚しいものさ」
 緋鯉の兄貴と、釣鐘弥左衛門、にわかに調子を強めたが、
「それにしても俺たちには不思議でならねえ、唐犬の兄貴一統が水野の屋敷へ切り込んだ時、俺らは旅へ出ていたから、加わることも出来なかったが、兄貴はその時江戸にいたはずだ、それだのに一味に加わらずに、一人仲間から外れたのは、一体どういう訳だろうね? 他ならぬ兄貴のことだから、卑怯の結果とは思われねえが、俺らには訳がわからねえ」
 本心を聞きたいというようにグッと弥左衛門眼を据えた。
「うむ、それか」と云ったものの藤兵衛はしばらくは物を云わない。
「やり損なうに相違ないと、俺らハッキリ睨んだからさ」
 それから少し間を置いたが、
「相手がああいう相手だけに、一度で片づくと思っては早すぎる。一番手が失敗した場合、二番手の備えをしておかないとの」
「なるほど」と釣鐘弥左衛門、こいつを聞くと頷いた。
「それじゃア兄貴は二番手をもって任じ、長兵衛どんや唐犬の兄貴の、敵を討とうとするのだね?」
「とにかく憎いは旗本奴、わけても水野十郎左衛門、白柄組の一党だよ。この儘のさばらせちゃア置かれねえ」
「ところで兄貴、その手段は?」
「ここにあるよ」と胸を打った。
「胸三寸、誰にも言わねえ」
「俺らにも明かせてくれねえのか」
 気色ばむ弥左衛門を慰めるように、
「俺一人で出来る仕事なのさ、無駄なたくさんな殺生は俺らにとっちゃア好ましくない。だがな」と藤兵衛しんみりとなった、「もしものことが俺にあったら、それ、お前とは縁の深い、あの浅草の鐘でもついて、回向というやつをやってくれ。そうしてなんだ俺が死んだら、いよいよ町奴は衰微するだろう、そこでお前だけは生きながらえて、町奴の意気をあげてくれ、こいつが何より肝心だ、それはそうと、しめっぽくなった。さあさあこれから一杯飲もう」


 藤兵衛は谷中に住んでいた。そこで谷中の藤兵衛とも云う。彼は金魚組の頭領であった。そこで緋鯉の藤兵衛とも云う。躯幹長大色白く、凜々たる雄風しかも美男、水色縮緬の緋鯉の刺繍ぬいとり、寛活伊達の衣裳を着、髪は撥髪ばちびん、金魚額、蝋鞘の長物落し差しまことに立派な風采であった。
 そうして彼は名門でもあった。その実姉に至っては、春日局かすがのつぼねに引き立てられ、四代将軍綱吉の乳母めのと、それになった矢島局であり、そういう縁故があるところから、町奉行以下の役人達も二目も三目も置いていた。但しそのためにそれを利用し、藤兵衛決して威張りはしない。覇気の中にも謙遜を保ち、大胆の中にも細心であった。
 だが親分藩隨院長兵衛、水野十郎左衛門のために騙り討たれた。そればかりか唐犬権兵衛、夢の市郎兵衛、出尻でっちり清兵衛、小仏小兵衛、長兵衛部下の錚々たる子分が、復讐の一念懲りかたまり、水野屋敷へ切り込んだが、不幸にも失敗をした揚句、一同遠島に処せられても、徳川直参という所から、水野一派にはお咎めもなく、依然暴威を揮っているのが、勘にさわってならなかった。
「どうともして、水野に腹切らせ、白柄組を瓦解させ、一つには親分の恨みを晴らし、二つには兄弟分の怒りを宥め、三つには市民の不安を除き、旗本奴と町奴との長い争いを止めたいものだ」
 これは日頃の念願であった。
 ところがとうとうその念願が遂げられる機会がやって来た。
「旗本に楯つく町奴というもの、是非とも一度見たいものだ」
 将軍綱吉が云い出したのである。
「それでは」と云ったのは松平伊豆守、かの有名な智慧伊豆であった。
「矢島局様実弟にあたる、谷中住居の藤兵衛という者、今江戸一の町奴とのこと。大奥に召すことに致しましょう」
「おおそうか、それはよかろう」
 そこで藤兵衛召されることになった。
 雀躍こおどりしたのは藤兵衛である。
「ああ有難え、日頃の念願、それではいよいよ遂げられるか、将軍様を眼の前に据え、思うまんまを振舞ってやろう」
 さてその藤兵衛だがその日の扮装いでたち、黒の紋付に麻上下、おとなしやかに作ったが、懐中ふところに呑んだは九寸五分、それとなく妻子に別れを告げ、柳営大奥へ伺候した。
 町人と云っても矢島局の実弟、立派な士分の扱いをもって丁寧に席を与えられたが、見れば正面には御簾があり、そこに将軍家が居るらしい。諸臣タラタラと居流れている。言上役は松平伊豆、面目身にあまる光栄である。
 と、伊豆守声をかけた。
「まず聞きたいは町奴の意気、即座に簡単に答えるがよい」
「はっ」と云ったが緋鯉の藤兵衛、
「強きを挫き弱きを助ける! 町奴の意気にございます」
 その言い方や涼しいものである。
「が、噂による時は、放蕩無頼の町奴あって、強きを挫かず弱きを虐げ、市民を苦しめるということだの」
「末流の者でございます」
 藤兵衛少しも驚かない。
「言葉をかえて申しますれば、真の町奴にあらざる者が、ただ町奴の面を冠り悪行をするものと存ぜられます」
 返答いよいよ涼しいものである。
「町奴風という異風あって、風俗を乱すということであるが、この儀はなんと返答するな?」
 伊豆守グット突っ込んだ。
「これは我々町奴が、自制のためにございます。と申すは他でもなく、異風して悪事をしますれば、直ちに人の目に付きます。自然異風を致しますれば、しようと致しましても悪事など、差し控えるようになりましょうか」
「なるほど」と伊豆守頷いたが、
「その方達町奴の家業はな?」
「お大名様や、金持衆へ、奉公人を入れますのが、おおよその商売にございます」
「では大名や金持共の、よくない頼み事も引き受けて、旗本ないし、貧民どもに、刃向かうようになろうではないか」
「とんでもない儀にございます」
 藤兵衛ピンと胸を反らせた。
「ご贔屓さまはご贔屓さま、なにかとご用には立ちますが、儀に外れたお頼みは、引き受けることではござりませぬ」
 立派に言い切ったものである。
「さようか」と伊豆守打ち案じたが、
「では町奴と申すもの、世上の花! 仁侠児だの」
「御意の通りにございます」
「で近世名に高い、町奴といえば何者かの?」
 声に応じて緋鯉の藤兵衛、ここぞとばかり大音に言った。
「近世最大の町奴、藩隨院長兵衛にございます」
「ふふん、さようか、藩隨院長兵衛?」
 伊豆守、首を傾げた。
「その藩隨院長兵衛[#「藩隨院長兵衛」は底本では「藩隨長兵衛」]というもの、町人の身分でありながら旗本水野十郎左衛門に、無礼の振舞い致した由にて、水野十郎左衛門無礼討にしたはず、さような人間が偉いのか」
「申し上げます」と緋鯉の藤兵衛、この時ズイと膝を進めた。
 それから云い出したものである。
「藩隨院長兵衛事一代の侠骨、町奴の頭領にございました。江戸に住居する数百数千、ありとあらゆる町奴、みな長兵衛を頭と頼み、命を奉ずる手足の如く、たがう者とてはございませんでした。さてところでその長兵衛、どのような人物かと申しますに、素性[#「素性」は底本では「素情」]は武士、武術の達人、心は豪放濶達ながら、一面温厚篤実の長者、しかも侠気は満腹に允ち生死はつとに天に任せ悠々自適の所もあり、子分を愛する人情は、母の如くに優しくもあれば、父の如くに厳しくもあり、洵に緩急よろしきを得、財を惜しまずよく散じ、極めて清廉でございました。然るに」と言うと緋鯉の藤兵衛、またも一膝進めたが、
「一方水野十郎左衛門、天下のお旗本でありながら、大小神祇組、俗に申せば、白柄組なる組を作られ、事々に我々町奴を、目の敵にして横車を押され、町中においても、芝居小屋においても、故なきに喧嘩口論をされ、難儀致しましてござります。自然私共におきましても、自衛の道を講ぜねばならず、それがせり合っていつも闘争、案じましたのが長兵衛で、なんとか和解致したいものと、心を苦しめて居りました折柄、水野様より参れとの仰せ、これ必ず長兵衛をなきものにしよう魂胆と、子分一同諫止しましたところ、この長兵衛一身を捨て、それで和解が成り立つなら、これに上越す喜びはないと、進んで参上致しました結果が、案の定とでも申しましょうか。水野十郎左衛門様をはじめとし、白柄組の十数人、一人の長兵衛を切り刻み、その上死骸を荒菰に包み、むごたらしくも川に流し、ご自身方は今に繁昌、なんのお咎もなきご様子、殿!」と云うと今度は藤兵衛スルスルスルスルと下ったが、額を畳へ押し付けてしまった。


 畳へ押し付けた額を上げると、藤兵衛云い出したものである。
「長兵衛は男にございます。それに反して、水野様は、卑怯なお侍にござります」
 グッとばかりに唾を呑んだが、
「天下のお政治と申すものは、公平をもって第一とする、かよううけたまわって居りましたところ男の長兵衛が犬死をし、卑怯者の水野殿は、お咎なし! 伊豆守様!」
 凄まじい眼、臆せず伊豆守を睨みつけた。
「御身ご老中でおわしながら、それでよろしゅうござりましょうか! さあご返答! お聞かせ下され!」
 なんと云う大胆、なんという覇気、将軍の面前老中を前にこれだけのことを云ったのである。
「うむ」とは云ったが伊豆守、なんと返答したものか当惑したように黙ってしまった。
 と、その時一人の近習、伊豆守の側へ進み寄ったが何やら伊豆守へ囁いたらしい。
「は」と言うと伊豆守、一つ頷くと微笑した。
「藤兵衛」と呼んだが愛嬌がよい。
「町奴の勇ましい心意気、上様にも悉くお喜びであるぞ。ついては」と云うと居住居を正し、
「上様御諚、町奴としての、何か放れ業を致すよう」
 こいつを聞くと緋鯉の藤兵衛、さも嬉しそうに言上した。
「お庭拝借致しまして、町奴に似つかわしい放れ業、致しますでござります」
「おうそうか、隨意に致せ」
 そこで藤兵衛庭へ下り、素晴らしい一つの放れ業をした。そうして、それをしたために、公平な政治が行なわれ、水野は切腹、家は断絶、白柄組一統の者、減地減禄されることになった。
 その放れ業とはなんだろう。
 藤兵衛、腹切って死んだのである。
「町奴の肝玉ごらん下され!」
 叫ぶと一緒に臓腑を掴み出し、地上へ置くと、
「藩隨院長兵衛と黄泉において、水野の滅亡、白柄組の瓦解、お待ち受け致すでございましょう!」
 そのまま立派に死んだのである。

 緋鯉の藤兵衛の葬式が、非常に盛大に行なわれた日、浅草寺で鳴らす鐘の音が一種異様の音を立てた。
 手慣れた寺男のつく鐘とは、どうにも思われない音であった。
 それは当然と云ってよい、ついたのは釣鐘弥左衛門なのだから。





底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「少年倶楽部」
   1927(昭和2)年4月
※「藩隨院長兵衛」は、底本どおりとしました。
※「ズット」「グット」は底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について