赤げっと 支那あちこち

国枝史郎




船中で(一)


 僕達夫妻が支那見物をするべく秩父丸で神戸を出帆したのは四月の十九日の正午だった。一等船客を、秩父丸は一万七千トンで、米国通いの船の中でも特に優秀なものだそうだが随分よかった。
 同勢は二十三人だった。
 本来僕は、この船で上海などへ行くより先に、大連へ行かなければならなかったのだ。と云うのは大連の満洲日報社との取引関係があったから。
 僕もうしようかと思っていた矢先に、名古屋の綿業家を中心とし、それへいろいろの職業人の加わった上海視察団が出来、そのリーダーのT氏から「どうです一緒に行きませんか」と進められたので、よかろう、この一団と行を共にし、北支を見る前に南支を見て置こうと同行することにしたのさ。
 日本の多島海――日本の地中海とも云うき瀬戸内海へ這入はいった時は、評判に背かず好風景だとは思ったが、しかし大して感動はしなかった。内地の景色を見飽きている者は大方そうだろうと思う。永いヨーロッパからの航海か、米国からの航海を終えて、瀬戸内海へ這入ったものでなければ、そう感動はしないだろうと思う。景が大き過ぎ広過ぎ纏まりが無さ過ぎ同じような島が多過ぎるからだ。
 航海は無事だった。
 さよう、航海は無事だったがお客さんは無事では無かった。
 今度の洋行で(我等の同行者はこの上海旅行を洋行と称していた)初めて洋服を着たという紳士(その実相場師なんだがね)その相場師の紳士が、レデー・メードの洋服を着て、デッキを横行闊歩するのはいいが、バンドをいつも緩めているのでズボンがふんだんにズリ下り、臍の辺を常住に見せているのには降参した。
 某綿糸屋の若旦那は、朝、食堂へ出るのに折目のついたモーニングを着、夜、食堂へ出るのに、よれよれの普段着の日本服に袴を穿かないのだから面白い。
 正に儀礼顛倒という訳だ。
 婦人用厠へ飛び込んでボーイから剣呑を食わされたり、風呂の湯を湯槽の外へドカドカ流すというようなことは一向不思議で無く行われたという次第さ。こういう洋行赤毛布事件は岩倉公一行欧洲旅行以来途絶えていたものと解していたが、案外そうでは無いのだね。
 こういう人達と旅行をしたのだ、さぞ不愉快だったろうと君は思うかも知れないが、その実は正反対で、まことに陽気で愉快だった。これは同業者――同じ文筆稼業人と一緒だったら、そこに商売敵的反目嫉視などが這入って不愉快だったろうと思うよ。
 米国人が沢山乗っていた。
 所謂いわゆるドルの国の住人だ。
 何んと彼等がガツガツとオサケを飲んだことか!
 そうだろう、も角も禁酒国ということになっている国の住人が金箔附きの飲酒国、日本の船へ乗ったんだからね、浴びる程酒を飲むのは当然だろうよ。
 彼等が婦人を尊敬するということは世界の常識となっているがその常識を僕達は遺憾なく見せつけられたよ。たとえば彼等がスモーキングルームへ集まって話しをしているとして、其処そこへ彼等の仲間の婦人がやって来ると彼等は一斉に立ち上がって競うようにしてお愛想を云い大袈裟の身振をし、彼女がソファーへその巨大な腰を落ちつけるまで立っているのだ。それも、幾人婦人がやって来ようとその都度つどやるのだ。友よ、ご免を蒙って或夜そのヤンキー達を前に据えて置いて、僕達夫妻が断然光ったという出来事の通信をすることを許してくれたまえ(と、少しばかり文章が気障きざとなったがこれも許して貰うことにする)航海の最終の夜、即ち二十日の晩に娯楽室でチー・ダンスが行われたと思ってくれたまえ。

船中で(二)


 僕はタキシード、妻は純日本式夜会服を一着して押し出したものだ。そうして我等の同行者二十一人は、僕達二人を声援する可く部屋の一方の側に勢揃いをしたという訳だ。つまり頑張ったということになるのだね。ヤンキー達も反対の側に勢揃いをしたよ。さて、バンドが始まった。ジャズのホックストロットさ。誰も踊り出さないね。ああいう場合にトップを切るということは可成かなりの勇気の要ることさ。ヤンキー達はポーカをやったりトランプをやったりして仲々踊り出さない。で無駄にバンドは数番演奏したというものさ。
 ところが遂々踊り出した一組があったね。それも我等の側からだ。一人の若い美しい中華民国婦人とその良人おっとらしい墨西哥メキシコ人と、その夫妻の友人らしい数人の墨西哥メキシコ人が、僕達の側に陣取ってつつましくお国の言葉で会話していたが、その中華民国婦人夫妻が踊り出したじゃアないか。しかも随分優秀なポーズとステップとで。僕達たる者唖然としたね。いずれ出しゃばりのヤンキーが当然トップを切るものと思っていたところが中華民国婦人によってトップを切られたんだからなあ。我等の同行者二十一人が僕と妻とをキメつけるって無いんだ。何故トップを切らなかったのか! 国辱だ! と云うのだ。僕はすぐ賛成したね、そうだ、こいつは国辱だ、しからんとね。だから是からメチャクチャに踊り廻わってやろうとね。そうして事実、僕はワイフの腰をひっ抱えてすべり出したものだ。かくて一踊り済んで席へ戻ると、我等の一団二十一人が一整に拍手して迎えてくれたものだ。社交的のチーダンスにあんな荒っぽい拍手喝采をするということは前例に於て知らず、習慣に於て相違して居る筈なのだが我等の二十一人組はてんとその辺が構い無しなのだね。僕の方がテレてしまった位さ「これでは全然俺達は芸人あつかいされているようなものだね」と。
 とうとうヤンキー達も出て踊るようになった。彼等は人数に於て多く技巧に於て勝れていたよ。
 やがてワルツがかかった。
 僕達夫妻は踊った。この僕達のワルツが大変なものなのだ。最も古風で正式で、欧米の杜交界に於てホックストロットが猛威を逞しゅうせずワルツが全盛を極めていた頃に、そのワルツ界の王座を占めていたボストンワルツというやつ、そのボストンワルツへタンゴのステップとマズルカのステップとを出鱈目に加味して作り上げた「国枝式ワルツ」なのだ。これを踊ったのだ。だから断然誰もが是に追従して踊ることは出来なかったのだ。このワルツが終わると、我等の一団二十一人は狂人のように拍手を送った。ところがうだろうればかりで無く、中華民国婦人を妻としている墨西哥メキシコ人とその友人達までが拍手を送り、そうして中華民国婦人を妻としている墨西哥メキシコ人はわざわざ立って来て「大変よかった。就いては、パートナーを交換して踊りい、君の妻を僕に貸したまえ、僕の妻を君に貸すから」と僕に提議するのだ。僕は勿論「O、K」と言って承知し、その通りにして踊った。と、何うだろうヤンキー達は、彼等特有の嫉妬心を燃え立たせ、一人去り二人去りして、それから数番踊っているうちに一人残らず立ち去って了ったではないか。そこで僕達夫妻と例の中華民国婦人とその良人おっととの組と、この二組だけでバンドが立ち去る迄、即ちこの夜のチーダンスがその幕を閉じる迄踊り抜いた次第だよ。血は水よりも濃しという西諺がある。ヤンキー連はヤンキー連さ。日本及び中華民国人は東洋人としての血を可なり同じゅうしている。そこでヤンキーなどに対するとおのずと此方の味方となるのではあるまいか。又墨西哥メキシコ人は、不断にヤンキーに圧迫されているという点で、少くもヤンキーと対した時だけは、此方の味方となるのではあるまいか。

黄浦河上で


 翌日の午前に揚子江口へ船が這入った。広大無辺の大河揚子江は僕等の船を呑んでもその両岸を我等に示さなかった。ただ水の色が世にも不気味な壁土色をなしているのでれと知ることが出来るばかりだった。江上を航行すること数時間、いつか船は揚子江の支流黄浦河の中へ這入っていた。河幅が狭まるに連れて両岸の風景が僕等の前に展開されて来た。緑青を塗ったような楊柳、楊柳の間に隠見して見える支那家屋――その支那家屋の美しさは、翼をはねて宙へ舞い上がるような形をなしている黝色の屋根と、それを支えている白亜の壁との調和にあるね。ただしそういう美しさを備えている家主はブルジョアの家屋か、旗亭であることを知らなければならない。
 戎克ジャンクの美しさを知ったのも此時だよ。蓆のように見えるその帆も船首ばかりが変に盛上って見えるその船体も、何んと此処で見れば調和的で美しくあることか。そういう戎克ジャンクが我等の船の左右を往来しつつあり、その戎克ジャンクに混じって帆無き普通の小舟が、支那舟夫によってノタリノタリと漕がれてと蠢き廻り居り、その周囲を千鳥に似た水鳥が飛び巡りつつあった。岸は極めて低く、いまにも水に浸されようとする如くに見え、その岸の彼方はひたすらに青く広漠たる平原と云うのが僕の眼に映じた風景だった。
 これらの風景は、しかし少くとも僕に執っては、決して珍しい風景でも又初めて見る風景でも無く既に以前に於て幾回となく見た風景だった。即ち、竹内栖鳳、橋本関雪等の日本第一流の画伯の、渡支帰朝土産の絵画に於てさ!
 それらの画伯のそれらの絵画が何と僕達が今眼前に見つつあるこれらの風景にそっくりであることか!
 友よ、僕は此処でオスカー・ワイルドがその初期に於て主張した「自然は芸術を模倣する」というあの途方も無く阿呆らしい唯美主義論を不図ふと信じなければならないような気持になったことを告白する。と云うのは、今も云った通り眼前に見えつつある実風景が、あまりにも栖凰や関雪の絵画に似ているので「オヤ、支那の自然め、日本の画家、栖鳳、関雪の芸術の真似をしているな」と思ったからだよ。
 が、こんなことはうでもいいとして、此処で行われた悲喜劇に就いて書くことにする。
 我等の船の傍を普通の小舟がノタリノタリと通っていたと思ってくれたまえ。そこに一人の客があって、折柄おりから細雨が降っていたところから雨傘をさしていたが、僕等の船の水脈のあおりを食らってその小舟がヒックリ返ったのだ。当然お客は河中へ転落したさ。が、誰もが立騒ごうともせず助けようともしないのだ。その時岸辺では支那のプロレタリヤ婦人が暢気そうに洗濯をして居り、支那のプロレタリヤ子供は(むしろ古風に唐子と云った方がいいね)その唐子は群をなして竹棹らしいもので喧嘩ゴッコをして居り、支那のプロレタリヤ牧夫は、二十匹ほどの豚を引率して、岸に添った道を行進して居り、そうして河の上には、家を作り、畑を作り、豚小屋、鶏小屋を設け、そこで子を産ませ子を育てるとさへ云われている揚子江名代の水上生活者の筏船さえ通っていて、十数人の家族人らしい人間が乗り込んでいたが、誰もが河中に転落した人間をかえり見ようとはしないのだ。僕は義憤を感じて叫び出そうとしたよ。が、そういう僕も思わず吹き出して了った。と云うのは河中に転落したお客が船舟べりにつかまりながら生命の危険なんかそっちのけにして、流れて行く一本の雨傘をとらえようとして手を延ばし焦心あせ煩悶うめいていたからさ。
 支那の人間性の一断片がこの時僕の心をチクリと刺したと云っていいねえ。

上海で(一)


 上海に於ける僕達の宿は西華徳路の万歳館というのだった。所謂日本人町にある日本人ホテルで随分立派な建物でもありサービスもよかった。
 此処の番頭さん野村徳太郎氏に案内され私達はその夜ざっと上海の繁華な方面を見た。大馬路、四馬路等を見たのさ。
 それらの町々へ行く迄の通を黄浦灘と云うが、その通には随分沢山の日本の会社銀行その他がある。日本郵船、正金銀行、台湾、三菱、朝鮮、三井、住友等々の銀行や、日清、大阪、三菱等の汽船会社があるのさ。
 が、こんな堅苦い資本王国の建築物の紹介をしたってつまらないと思うから止めよう。
 東洋一の貿易港、世界稀有の魔都「道徳無し」と云われている享楽と罪悪と、政治犯人の絶好の隠れ場所たる上海の夜景! おお友よ! どんなに僕は永年この都会の夜景に面会することに憧憬したことか! そうしてこの日ようやく夫れに面会することが出来たのさ。その結果は何うであったか? まず東京のネオンサインよりも光度に於て強く色彩に於て複雑なこの都会のネオンサインの美観を礼讃しなければならなかった。そうして何の町へ行っても、即ち、メンスツリート以外の町へ行っても、鼻をくばかりに沢山の人が出歩いて居るのに驚いた。しかも上海に於ては、夜間は大方の店舗は戸を閉じて商売をしないことになっているのに。
「昼間の上海の大馬路や四馬路をご覧なさいまし、そりゃアとても今夜のようなチッポケの人出じゃありません」
 と野村氏は云った。
 それは事実であった。杭州、蘇州、南京等を巡遊して再び上海へ帰り、昼の上海を比較的ゆっくり見物した時、その野村氏の言葉の偽りで無いことを知った。
 一つは上海の町の道幅が、人口二百万と称されている大都会としては少し狭いことがそのように人出の猛烈さを誇張的に見せたのかもしれないが。これも昼間見た時の印象だが、何と上海という都会は、旗指物、看板とによって満艦飾されて居ることか! たとえてみれば浅草の活動館街と新宿の盛り場とをウントコサ広く拡張したような有様なのだ。そうして夫等の旗指物や看板が支那式に濃厚に原始色的にあくどく(それでいて調和よく)彩色されてあるのだから正に気の弱いニッポンコクのお上りさんなどは幻惑されて了うと云っていいね。そうして何うだろう町の人々の――店主から番頭から丁稚から物を買う人から通行人から車夫から自動車の運転手から巡警から交通巡査から――男も女も老弱ひっくるめて、その喋り声がとてつもなく大きく高いことは!
 などと概括的に「上海印象」を書いたところで面白くあるまい。
 よろしい、僕が体験した上海での出来事を以下具体的に書くことにしよう。
 あ、待ってくれたまえ、その前に女のことを書こう、上海の女のことをね! と、こう云うと君は「素敵だ!」と叫んで眼を据るだろうね。そうとも、男に執って女ほど魅力的なものはないのだからね。そうして旅行記なども、ほんとうのところ、旅行先の女の話ばかりを書いて、その他の建物だの食物だの風景だのというようなものの事は可い加減に端折って書いて了う方が賢明なのさ。
 そこで上海の女のことを書こう。
 上海の女はほとんど一人残らず断髪だよ。それも完全と云ってもいい程同じ型に断髪しているのさ。その型というのは髪の先が肩とすれすれになるように断ち切っているのだ。

上海で(二)


 どうしてああも揃いに揃って同型に断髪しているのかと不思議に思って訊いてみたら、男の断髪令(これは相当以前に出た筈だが)その男の断髪令が出た後に女の断髪令が出て、強制的に髪を切らせた結果だそうだ。髪の先が肩に触れることを許さずとか何んとか厳しい命令を下し、幾日迄に断髪せざる時は厳罰に処すとか何んとか云って否応なしに切らせたらしい。芸者などはその断髪へアイロンをかけてモシャモシャに縮らせているが普通の女はそんなことはせずただ油で艶々と光らせているばかりだ。
 この断髪だが若い支那婦人などにはとてもよく似合うのだ。その若い支那婦人だが、短い上着に短い袴、細く長い脚をスッと伸ばしてハツラツと歩き廻っているよ。まるでヨーロッパの婦人のようなのさ。もっとも花柳界の女は踵迄届くような長い上着を着ている。その上着の形の現在の流行は、脇胴の辺で少しく締め、更に膝の辺で少しく締め、細い腰部と太い臀部とを上着を通して鮮やかに示し、見る人の眼を(勿論主として男性の眼を)引くようにしたものだそうだ。纏足をしている女などは絶対に見られなかった。これはもう男の断髪令が出た以前に纏足禁止令が出たからだそうだ。上海にだってお婆さんなどの中には昔の名残の纏足をした者が今日残っている筈だがそういう婦人達は町へ出ないものと見える。兎に角僕は一人の纏足婦人をも見なかった。
 上海に婦人秘密倶楽部があると云ったら君はいよいよ眼を据え膝を進ませ「話せ話せ」と迫ることだろうね。
 よろしい話そう。
 そのレディース・ナイトクラブはブルジョア有閑婦人によって作られているものだそうだ。こういう婦人の唯一の望みとするところはミメヨキ男を享楽することにあるのは常識的に考えられるだろう。
 そのレディース・ナイトクラブの貴婦人の希望も其処にあるのだそうだ。
 で、彼女等は、これと目差したミメヨキ男の家の扉へ、厠で使用する紙へ、矢に突刺された心臓の絵を描いたものを貼りつけ、幾日幾時に某所へ来たれと記すのだそうだ。ところでそれを貰った男は絶対にその招聘から逃れることは出来ないのだそうだ。もしそのお召に応じなかろうものなら、その男ばかりで無く、その男の一族までが迫害されて生命財産を失うのだそうだ。で、その男は指定の場所へ行かなければならず、行くと、数人、乃至ないしは十数人の婦人によって性的に享楽され、すっかり痩せて細くなり、ノサレたようにクタクタにされて了うのだそうだ。だが命には別状無く、こっそりと家へ送り返されるのだそうだ。
 嘘のような話だが、支那の歴史上の英雄女性、則天武后だの呂后だののことを思えば、今日の支那婦人だったら――殊に上海の婦人だったらそれくらいのことはやりかねないと思ったよ。
 この話を僕にしてくれたのは支那の青年で李さんという人だったが、その李さんはなお詳しくレディース・ナイトクラブの部屋の構造を話してくれたので夫れを書くことにしよう。
 一つの階段があると思ってくれたまえ。その階段を昇り切った所に一つの部屋があり、その部屋から十筋ほどの廊下で十方に分かれて通じていると思ってくれたまえ。その廊下のはずれには各一つずつの部屋があるのだそうだ。ナイト・ルームであることはいう迄も無い。又、階段を降り切った所にも一つの部屋があり、その部屋から一筋の廊下が一方へ通じて居り、そこを通って少し行くと土耳古トルコ風呂に出ることが出来、その土耳古トルコ風呂の一方の扉を押すと……

上海で(三)


 そうだその土耳古トルコ風呂の一方の扉を押すと長い廊下となるのだそうだが、この廊下はそのトルコ風呂と並行した位置に出来ていて可成り長く、そうしてその廊下の片側、土耳古トルコ風呂の出来ている側とは反対の側に幾個かの部屋が出来てい、それが寝室になっているのだそうだ。召し出されたミメヨキ男はまず風呂へ入れられて綺麗に洗濯され、それから寝室の一つへ入れられるのだそうだ。そこへ二階の各部屋に陣取っていたブルジョア有閑婦人達の一人が――籤引の結果一番に当選した一人が土耳古トルコ風呂へ這入って悉々ことごとく綺麗にお化粧をし、それから男の寝ている部屋へ行くのだそうだ。それからのことは書く必要はあるまい。要するにすっかり陶酔するけのことなんだから。その陶酔に満足するご婦人は又土耳古風呂へ這入って名残無く汗を洗い落し二階の自分の部屋へ引上げるのだそうだ。つづいてミメヨキ男も風呂へ入れられ、それから別の寝室へ寝かされる。と、二番目の籤を引きあてた婦人が同じ順序で同じことをし、同じ陶酔をして引き上げる。と男は又風呂へ入れられて別の寝室へ寝かされる。と、三番目の籤を引きあてた婦人が……と云うことになるのだそうだ。
 友よ、何と迚も可い話ではないか。
 僕はどんなにかそのミメヨキ男の役廻りになりいと思って、例の心臓へ矢を突き刺した厠の紙というやつを待ったか知れなかったが、東海の君子国からやって来たおノボリさんは、中華民国のブルジョア有閑婦人の好みに合わなかったと見え、待ちぼけを食う運命ばかりに遭遇して了ったよ。
 と、此の辺で話題を変えよう。
 さて僕達は野村氏に率いられて第七世路の角にある大世界という所へ這入った。此処はって見れば東京に於ける浅草の花屋敷というような所なのだ、いろいろの芝居だの活動写真だの奇術だのが、各自の小舞台を持っていて其処で演じているという処なのだ。で、おおよそエトランゼたるものは――平ったく云えばおノボリさんたる者は、大概一度は見て置かなければならないところらしい。そこで僕達は此処へ這入ったのではあるが、しかし如何いかにおノボリさんであろうと、余程の田舎者で無い限り、花屋敷の大衆芸術に亢奮感激しないごとく僕達も此処の中華民国の新派劇や旧派劇や万歳芝居や(事実、日本に於ける万歳芝居そっくりのものがあったのだよ)幼稚な奇術には亢奮も感激もしなかった。
 その代り僕達は此処へ蝟集して来ている娼婦達には感激もし亢奮もし興味も感じ愛らしくも思い、不心得ながら食指を少しばかり動かしてもよいなと考えたことを告白しなければならない。
 そこに集っている私娼達が、いずれも揃いも揃ってタオルを持っていることに留意していただこう。そうして彼女達が競争して、金切声を上げて叫んで愛嬌を云ったり呼びかけたりして、そのタオルを通行の僕達に渡そうとしたことに留意していただこう。僕はそれを客を遇する接待のタオルと紳士的に考え(その実は虫のいい利己的考えなのだが)受け取ろうとしたものだ。が、そうは問屋で卸してくれなかったよ。案内役の野村氏があわてて僕に云うではないか「それを取っては不可いけません。それを取ると、その女を買う可く承知したという意味になるのですから」と。

上海で(四)


 この女達は私娼の中でも下等に属している女で拉的野鶏と称するものらしい。即ち、大馬路の同羽春茶楼だの、四馬路の青蓮閣だのその他、劇場だの遊び場だのへ現われて客を引く手合なのだ。この娼婦達が何んと子供っぽい迄に若く、子供さながらに元気でお喋舌しゃべりで悪戯いたずら的であることか。それは全く吃驚びっくりする程なのだ。一見どのもどの妓も十六七にしか見えないのだ。もっと若く、十四五にしか見えないような妓もある。そうして二十歳以上だろうと思われるような妓は殆ど見あたらないのだ。が、実際の年はそうでは無く、二十歳以上、二十五六、二十七八というような大年増もあるのだそうだ。主として前髪を額へパッと垂らしたような髪の結方が彼女達を若く見せるようだった。身体をぶっつけ、腕をひっ捉え、僕達を捕虜にしようとして挑みかかって来る時の彼女達の溌剌さは何うだ。そうして僕達が結局彼女等を相手にせず素通りするものと観察した瞬間に彼女等が揃って、オーケストラの如く僕達へ浴びせかけた悪口の八釜やかましさは何うだ。その悪口のオーケストラが僕の耳にはしかまことに快適に響いたものだ。そうしてその語音が僕の耳には只「ピオピオ!」とばかり聞こえたものだ。が案内役の野村氏は併し説明してくれた「あいつら、あらゆる悪口を私達に投げつけているのですよ、ケチンボだの、好色漢だの、文無しだの、豚に食われて了えだの、死んだって極楽へは行けないだろうなどとそんな悪口をね」と。
 よろしい、愛す可き娼婦、野鶏諸嬢よ、何んとでも僕達極東の漫遊者を悪く云いたまえ、君達としては悪く云う理由は充分あるのだからね。何にしろ、そう迄熱心に君達は君達の可愛らしい肉体をお買いなさいよと推薦をしているのに、僕達が素っ気なく遠慮するのだからね。が、ピヨピヨの野鶏諸嬢よ、実は僕達は――少くも僕は君達の可愛らしい肉体を鑑賞することは大好きなんだが、その可愛らしい肉体の内部に物凄く潜んでいる病毒を頂戴することをこの上も無く怖がっている臆病者なのだよ。だからサヨウナラさ! で、僕は一散に彼女等の包囲を突破して前進して了った。
 大世界の建物の頂上に立って上海の夜景全部を見下ろした時の美にして盛んなりし光景を描くには紙数を制限されているこの旅行記には書き切れそうもないから止めよう。
 やがて僕等は大世界を立ちいでて南京路の「新々舞踏場」へ案内されて行った。ダンスホールなのだ。ダンサーは全部支那娘だった。
 このダンスホールは会員組織の形式を備えていたがフリの客をも吸収して勿論踊らせるのさ。僕達の同行者はそこで又僕をコヅキ廻して、さあ踊れ、踊らないと国辱だぞと威嚇するのだ。踊るよ踊るよと僕は祭壇に供えられた小羊の心――犠牲的悲壮心をもって飛び出して行き、それでも一番美しい支那娘を引っ張り出して辷り出たものだ。
 彼女は実によく踊ったよ。
 軽くてスマートだった。
 最初に踊ったのはトロットで次にタンゴを踊った。
 ところがこのタンゴで僕は俄然戦慄させられて了った。
 友よ、それに就いて語ろう。

上海で(五)


 それ前に云って置き度いことは僕はこの「新々舞踏場」の他にもう一軒、日本人が経営していて、日本娘がダンサーをしている「清美」というダンスホールへも行ったが、その結果知ったことは、上海のダンス界は、そのバンドに於ても、そのダンス振に於ても、日本の東京や阪神沿線の夫と比較して進んでもいず劣ってもいず、似たようなものだということだ。但しダンサーそのもの達の性質や言語や動作が、日本内地のダンサーの夫らと比べて、自暴自棄的であり、荒んで居り、人も無げであることは争われなかった。ホールの容積も小さく設備も大して完備してはいず光線の使い方などにも是と云って特長は無かった。但上海には是以外に「ブリュー・バード」などというダンスホールがあり、雄大そのものと噂に高い「カルトン」ダンスホール、等々々、沢山あるので、そういうものを全部見なければ、上海のダンス界を論じることは不可能であるとは云えようがね。……
 が、それは夫れとして「新々舞踏場」に於て支那ダンサーとタンゴを踊り戦慄したという事件の記述に入ることにしよう。
 タンゴに、パートナーが抱えてロッキングをするフィギュアのあることは先刻御承知だと思う。そのロッキングをした時僕は戦慄して了ったのさ。
 何故と云ってその瞬間に彼女――パートナーの上半身が胴から完全に彎曲して了い、後方へグンニャリと垂れ、断髪の彼女の髪の毛がホールの床の上へ着いて了ったからさ。
 骨無しだ! 蒟蒻だ!
 さよう、骨無しで無ければこんな芸当は出来ない。
 勿論ステージ・ダンスなら、こんな滑稽など朝飯前ではあるけれど、少くもダンスホールのソシアル・ダンスに於てこんな飛び離れたフィギュアをするものがあろうか?
 そこで僕は戦慄したのさ。
 で僕は周章あわてて、指の先を火にでも焼かれたように周章あわててそのダンサーをほうり出し自分の席へ飛び帰った次第であった。
 友よ、この時は僕たるもの全く参って了ったよ。
 上海のダンスホールでは勿論酒を呑ませる。
 日本のそれのようにアルコール禁止などという野暮なことはしない。――と云うことを附記して置こう。
 さて上海に於けるダンスホールの紹介はこんな程度にとどめて於いて他の方面の紹介に努めたいと思うが、書く可きことが余りに多いので何処から書いて行ってよいか鳥渡ちょっと当惑するのだよ。
 ざっと書いても是だけのことは紹介しなければならないのだからね。
 僕達一行がこの都会へ着く少し前に、この都会の某という富豪がこの都会特産の悪漢団に白昼さらわれ、幾万円かの身料金を小切手で書かせられたということや、今度は、そういうことをされることによって有名になるので、いずれ他の売名的富豪が自分から悪漢団に頼み込んで攫って貰い、身料金を奪って貰うであろうということや、午前一時過ぎあたりに、土地不案内の者がうかうかくるまに乗ろうものなら、五十パーセント迄暗い露路へ引き込まれて俥夫に金を強請ゆすられるであろうということや。……

上海で(六)


 そういう物騒な上海の夜の町を縫って各国のスツリート・ガールが客をあさって居り、僕達の一行の若き愛慾の騎士T君などは一夜それらのガールを平げ、翌日僕にニヤニヤ笑い乍ら「昨夜は最初にフランスを、次にロシアを、次に支那を」と話してくれて僕を浦山うらやましがらせ、その抱擁力の偉大さとその健啖ぶりの猛々しさに僕を驚かせたことや「フランスが八十ドルで支那が四十ドルでロシアが三十ドルでしたよ」と女達の相場を詳細に教えてくれたのでよき参考となり為めに僕は「サンキュー」とお礼を云ったことや、永安公司コンスというデパートが日本の国東京市に於ける最大のデパート三越ぐらいも大きいであろうということや、租界のまつりごとが複雑なので、一つの租界で犯罪した罪人が、道一筋越した他の租界へ飛び込みヘラヘラ笑っていても、こっちの租界の警官は捕えることもどうすることも出来ず地団駄を踏まなければならないということや、だから各国から凶悪の犯人や、堂々たる国事犯人などが上海へ流れ込んで来てい、その中の国事犯人は主として仏蘭西フランス租界に悠々生活しているということや、上海全市を警備している警官は、日本と英国と仏国と中華民国――この四ヶ国警官であってその中一番信頼出来るのが日本、つづいて英国(英国の警官――巡査は印度インド人である)つづいて仏蘭西フランスつづいて中華民国――こういう順序になっているそうなということや、銀相場が毎日変化するので、邦貨を民国貨幣に換算する場合、邦貨の一円が今日は民国貨幣の二円二十銭となり、明日は二円十五銭となり、明後日は二円二十五銭となり、複雑を極めるばかりで無く、中華民国貨幣同志でも、大洋タイヤン小洋ショウヤンと銅貨との計算法がとてもヤヤコシクて、これを上手に活用すると、お銭を細かくこわすごとにお銭の数と量と価値とを増すし、下手にやるとその反対になるから何うしたって上海で生活しようと思ったらソロバンだけはたっしゃでなければ不可ないということや、いや、上海では贋金が凄い勢いで流通していて、それを鑑別するには、銀貨と銀貨とをぶっつけ合わせ、本物なればジーンという微妙な音がし、贋物なれば音がしない。だから上海で生活しようと思ったら、そのジーンという音を聞き分けるだけの繊細なる音楽的耳、音楽的聴覚を持っていなければ不可ないということや、そういうことを聞いたので僕達一行はソレとばかりに銀貨と銀貨とをぶっつけ合わせ、ぶっつけ合わせた銀貨を急いで耳へ持って行ってその音色を調べるという活劇を演じたが、その結果大概の連中が大概三円五円ぐらいの程度にちゃアんと贋金を掴まされていたことを知ったということや、いや本当に銀貨の真贋を知るには銀貨へ強く息を吹きかけすぐ耳へ持って行き、ジーンと可い音色を立てるか何うかを知り、立てたものが本物、立てなかったものが贋物というようにして見分けなければいけないと云われ、ソレとばかりに又も僕達の一行は、あの孫悟空が、自分の体の毛を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしって、それを口で吹いて、その毛を自分の姿にしたという、あの時その孫悟空のように口を尖らしてフーフー銀貨を吹き耳の辺へ持って行った結果、ちゃアんと芽出度めでたく、矢張やはり三円五円と贋金が掴まされていたということや……。

上海で(七)


 上海は物価が非常に安く、わけても煙草が安く、日本で七十五銭するウエストミンスターが上海では十七銭だということや、自動車のことを気車チーチョといい、汽車のことを火車ホウチョというので兎もするとまごつくということや、巡警や巡捕や憲兵が、拳銃だの、銃剣づきの鉄砲を持って市中を見廻っているので、何となくいつも全市が戒厳令下にあるような気がするということや「ジェスフィールド」という公園と「新公園」と称する二つの公園があり、新公園の方は殆ど日本人の勢力下にあって、此処へ行くと日本婦人のキモノの美しさが見られるということや、しかし「ジェスフィールド」の方へ行くと欧米人の天下で、ここでは遺憾ながら日本婦人のキモノより欧米婦人のコートの方が引っ立って見えるということや、東亜同文書院を僕達一行が訪問し、その帰途、海防路迄来ると、そこで支那労働者達が道端へ集り、坐り込み、何かやっているので覗いて見ると、白昼おおぴらに賭博をしているので評判に背かず上海は自由の都会だが一体警察権はどうなっているのだと、少しばかり不安になったということや、到る処の建物や壁や柱などに「打倒帝国主義」だの「掌固革命的民衆基礎」だの「廃除一切不平等条約」だのというスローガンがベタベタ書かれてあって少くも蒋介石氏勢力範囲の南方支那だけは大分国民的自覚を持って来たらしいと感ぜられたことや、そんなことに一切お構い無く各国では軍艦を上海港内へ碇泊させて居り、支那側では又そんな威嚇に一向お構い無く、租借地を返せ! 特殊権益を返せ! とえているということや、等、々、々……書かなければならないのだよ。
 が、とうていそんなことを細かく書いてはいられない。
 そこで一切をはぶき順序を変え――と云うのは、僕達は上海から杭州、それから南京、それから蘇州と見て廻ったのだから、そういう順序に書かなければならないのだが、そんな順序も顛倒し、その後僕達夫妻だけが一行と別れて大連へ行ったので、その大連に就いての見聞を書くことにしよう。
      ×     ×      ×
 さて此処は大連である。
 僕達夫妻はヤマトホテルに陣取っている。昨夜は僕の二十年来の親友であり、目下は満洲日報社主筆である竹内克己氏の私宅で、支那服のよく似合う同氏の奥さん富子夫人や、僕の叔父の今井行平などと共に晩餐をご馳走になった。
疲労つかれているだろう、今日一日は国枝をして休養させるがよかろう」という竹内氏の意見で、僕達夫妻はホテルへ好意あるおいてけぼりを食わされることになっていた。
 が、この間も僕は大連に対する観察を怠ろうとはしなかった。僕達のへやの窓からよく見える大連名代の大広場に、大島大将の銅像が此方こちらへ背中を向けて突立っていることや、その大広場を往来する人の姿の大多分が僕達の同胞、即ち日本人なので、日本人の少かった上海と比べて少からず心強いということや、俥も多いが、上海などでは見られなかった一頭立(時には二頭立)の、四人乗り古風の馬車が次から次と通っていることなどを観察した。

大連で(一)


 友よ、大連は殆ど日本の内地と異わりが無い程内地化されていると思ってくれたまえ。
 だから此処で異国情調を味わおうと心掛けたらやや失望しなければなるまい。
 その代わり此処は上海などと異って生命、財産等に対する危惧不安は絶対にない。
 そうして此処では日本人というものが如何にも威張れる! 欧米人に対しても中華民国人に対しても! で、迚も愉快だ。
 人間の顔、起居動作、物云い、それらのものが何んとおおまかおおらかで、悠々としていることか! 東京あたりの人間が、眼をパチクリさせ、足を肩まで刎上げ、セカセカキョロキョロして立ち働いているのと比較して見て、大連の人達は幸福だなあと思ったよ。
 建物の構造が、ムダが有り過ぎはしないかと思われる程ノンビリしているのもよい意味の植民地風景だった。満鉄本社のノビノビとした廊下、ノビノビとした事務室。正にあの廊下は廊下であると共に散歩道であり、あの事務室は事務室であると共にスモーキング、ルームだね。勿論よき意味に於てさ。
 新築の満洲日報社の編集室などと来た日には、記者の数、従って記者の使う机や椅子の数と比較してあまりに室が広いので、僕はマゴマゴッとしたくらいだった。
 と、こんなことばかりを書いていたって面白くあるまい。そこでもっと面白い具体的のことを書くことにする。
 この日一日静養出来るものと思っていたらアテが外れて了ったよ。今井叔父がやって来て「さあ史郎出動だ」と号令を下すのだ「一通り大連を見せてやろう」と云うのだ。そこで僕達夫妻はホテルを飛び出し自動車の客になった「大連を俯瞰しよう」というので遊覧道路を※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)うねることにした。道々いろいろのものを見た。中央公園を見た。一名虎公園というそうだ。日露戦争の際惨酷なる露国官憲がわが忠勇なる女性の軍事探偵を虎の檻へ入れて夫の餌食にしたことがあり、その場所が此処なので、虎公園の名があるのだそうだ。義憤の念を禁じ得ないではないか。公会堂をも見た。この公会堂に於て故伊藤博文公が、ハルビン駅頭で鮮人に暗殺される三日前、盛大極まる歓迎宴が開かれたことがあるそうだ。人生朝露、感慨深いものを感じた。その公会堂は、中華民国の建築様式を多分に取り入れたもので、租借地に存在する建物としてはまことに好感の持てるものであった。
 僕は南支を巡遊した時に――そうだ僕はこの大連へ来る前に杭州蘇州、南京を見たのだよ――で、その時、わけても杭州の西湖に於て楊柳の花が、雪か綿か羽毛かの如くに白く飛んで散乱し、行人の衣にかかり、路傍に薄く積もり、菜館、飯店の卓に迄舞いかかる何んとも云われない詩的にして清麗の趣きを見て、涙さしぐむていの愛着と詩情とを得、唐代の諸詩人いやいや支那一切の諸詩人がその詩の中に、はなはだしい迄に楊花を詠った理由を知ったが、北支へ来て青島(大連へ来る前に僕は青島へも立ち寄ったのだよ)その青島や大連の、この中央公園に咲き盛っている梨花を見た時、楊花に負けない程の美しさを感じたよ。

大連で(二)


 僕達の自動車はやがて遊覧道路の終点に近い箇所まで来た。そこで僕達は自動車をすてて少し歩き大連市を俯瞰した。
 かつて内地から大連へやって来、この遊覧道路から大連市を見下ろした探偵小説家の甲賀三郎くんが、(僕の友人だ)大連市のことを「アラビアンナイトに出て来る幻の都会のように美しい」と讃嘆したということを伝聞したが、僕も同じ讃嘆を捧げようと思う。実際そんなにも美しいのだよ。色彩が豊富で建築の様式が複雑多様で、しかも調和がとれているのだ。それは旧露西亜ロシア町があり、昔ながらの支那町があり、そうして日本町があって、それが各々の独自の様式と色彩とを発揮して居り、それが春靄と薄煙とにほのかにぼかされているからさ。しかし市街鳥瞰の細描写や月並的感慨などは旅行記には禁物で少くも面白くも何とも無いと思うから止める。
 翌日昼頃T主筆の訪問を受けた。「旨いグリルを食わせてやろうかな」と云うのだ。そうして僕達夫妻をホテルの地下のグリル・ルームへ引っ張って行って旨いグリルをご馳走してくれた。氏は僕より三歳年下だのに三歳年上のような所があるのだ。その心持に於て、物の見方に於て。そうして僕のマネージャーを以て任じているようなところもあるのだ。で、僕が酒に悪く酔いでもすると、首っ玉をつかまえて、猫の如くに酒席から抛り出すようなこともあるのだ。どういうものか僕はそれだのに、それに易々として順応しなければならないように習慣づけられているのだよ。僕を大連へおびき寄せた張本人も実は氏なのさ。
 グリルは旨くグリル・ルームは素晴らしく立派で広く、おおまかに作られていた。
「今夜、社の若い記者をしてお前を面白い所へ案内させよう。……そうして明日また来て旨いグリルを食わせてやろう」こう云ってT氏は帰って行った。
 晩餐を終った頃、満日紙の若き記者S氏と、満日紙に小説を連載しているO氏と、満日社の営業部に勤務しているという中華民国青年の張さんという人とが連立って来訪した。そこで僕は一緒に出た。「張さんの知り合いの阿片アヘン窟へ行って見ましょう」とS記者が云う。
 どんなに大衆作家としての僕の猟奇的精神がこの言葉を耳にした時フクレ上がったか、友よ、想像してくれたまえ。
 僕達の行った阿片窟は奥町(ここは支那町なのだ)の、龕華楼という家で、官許の阿片窟なのだ。即ち、阿片を吸飲しないことには命があぶないという迄になっている中華民国人のために、その阿片常習者のために、日本政府が許可している阿片窟なのだ。但し、日本人は絶対に客にしないということだった。
 僕達は門の扉を排して進んだ。と、狭い中庭に出た。その中庭は暗く、暗きが中に、石の階段が夜空に向って斜めに延びていた。
 僕達はその石段を少し登った。
 と、狭い廊下へ出、その廊下に添って幾個かの部屋があった。
 その一つへ這入った時、張青年は僕達をこの家の主人らしい人に紹介した。
 その人に案内されて僕達は次の部屋へ這入った。
 友よ、その部屋がもう阿片を吸う部屋だったのだよ。

大連で(三)


 煙! 臭気! 幽暗なる灯火!
 友よ、僕が空想を働かせてうでもあろうと思い込んでいた阿片窟と、実際その時見た阿片窟と、何と同じであったことか!
 友よ、で僕は自分の空想力に対してこの時感謝し、自分の空想力を信ずることが出来たよ。
 煙! 臭気! 幽暗なる灯火!
 これが先ず僕の感覚をそそったものだ。
 そうしてこれらのものに包まれて其処に存在していたのは、前面に穢れた白布のカーテンを下げた小さな幾個かの部屋だったのだ。部屋は二列に相対して並んでいた。
 その部屋の内部の構造は?
 床から数尺高く造られてある寝台、その寝台には二枚のこれも穢れた毛布が敷いてあることに留意しなければならない。二人ずつ相対して阿片を吸飲するように出来ている証拠だ。中央に、一寸ほど低く窪んでいる長方形の箇所があり、そこには赤い布片などが敷いてあり、その上に陶器の長方形の盆が置いてあり、その上に、金属製の煙灯と、一回分の阿片液を入れた棗形の小壺が置いてあり、二本の煙斗(即ち阿片の煙管きせるなのだ)が置いてあることに留意しなければならない。
 これだけなのだ。
 十数個の部屋はその夜殆ど満員だった。若い男あり、中年の女あり、老人あり、娘あり、いずれもが二人ずつ相対して、毛布の上に寝そべって、煙斗をひっ抱えて阿片を喫しているではないか。
 此処へ来る者は、多くは中流か中流以下の者達であると説明されていたが、僕の眼から見れば労働者に過ぎなかった。
 眠っているもの、眠ろうとしかけているもの、眠りから今眼覚めつつあるもの、等々々によって各部屋は充たされていたよ。
 何処からともなく胡弓の音が聞えて来たりしていた。
 他の部屋に倶楽部があって、そこで引いている胡弓なのだそうだ。
 友よ、阿片の喫し方を教えようか? 大変技巧的なのだ。先ず針のようなもので――と云うよりも、原稿などをとじる時に使用する千枚とじと称するものがあるが、あれに似たようなもの(煙千子と称するものだそうだが)その先へ小壺に這入っている阿片をつけて煙灯の火であぶり、又、小壺の中の阿片をつけて煙灯の火であぶる。こういうことを十数回やる中に、小壺の中の液体の阿片が煙千子の先で飴のように固まって了うのだ。併し、これには技巧を要するので僕も、この次に行った娼家で、阿片を喫しようと思って、そういうことをやって見たが見事に失敗し阿片液は飴のように固まらずにパサパサの苔のようなものとなって了った。
 さて、飴のように固まった阿片を今度は煙斗(煙管きせるなのだ)の小さい穴へ詰込み、その穴を煙灯の火にかけてあぶり、阿片が燃えて煙を出すのを待って喫うのだがこの喫い方が又むずかしいと云うのは煙を口や鼻から出さずその全部を腹の中へ納めるように喫わなければならないからさ。だから煙草を喫かすようにあんなに悠々喫かしては不可けず、煙斗の先を口一杯に含み、煙斗を両手で握り、むさぼるような勢いで吸込まなければ不可ないのさ。息も吐かずにね。

大連で(四)


 阿片窟を退散した僕達は小崗子へ行き、夜の露天市場(泥棒市場と云った方が通りがよいそうだ)を見た。純然たる支那市場であって、昼は大道芸人などが出ていろいろの芸当をやり、むせ返る程に人出がし、雑沓するということであったが、夜の此処は、恰度東京に於ける玉ノ井のような最下等の支那娼婦の張店街を現出していた。
 軒を連らねて並んでいる燐寸マッチ箱のように小さい、そうして燐寸箱のレッテルのように俗悪に、でも大変綺麗に彩色された娼家が、極彩色満艦飾をした支那娼婦を収容しているのは可成り面白い風景だったよ。
 此処にいる娼婦のことを人々は賤称して泥棒娼婦ショートルピーと呼ぶそうであるが、僕はどんなにそのショートル・ピーの中に可愛らしい別嬪さんを発見したか知れなかったのさ。彼女等の風俗は、上海の大世界でぶつかった拉的野鶏と大差無いように思われた。往来からまる見えに見えている部屋の正面の一所にカーテンがかかっていたが、その背後にもう寝台があるのだということだった。
 この一画は右折し左折し、細い露路が幾筋かに織られていて、迂闊に一人で入り込んだら迷児になりそうだった。そういう露路に添ってそういう娼家が並んで居るのであり、そういう娼家の娼婦をひやかし乍ら、苦力クリーに近いような下等の労働者などが右往左往していた。
 それだのにうしたものか全体の空気アトモスフィヤーがそれほど陰惨で無く朗かの処さえあった。
 僕達はやがてその一画を出て、大連第一の花柳界の、その第一の娼家と云われる「第一号」と称する妓楼へ乗りつけた。
 そうしてその家の美形蘭亭という遊女の部屋へ通った。
「この蘭亭さん、日本語が出来ますので、この人にすることにしました」
 と中華民国青年、僕達の案内役の張さんが説明してくれた。
 その張さんはこういう方面の通人らしく、美貌の青年であった。
 部屋の広さは十畳敷くらいでもあったろうか、一所に寝台があった。それはホテルなどで見る寝台と大差無かったが、その寝台が即阿片喫煙台となっているのが珍しかった。即ち、龕華楼で見たあの阿片吸飲の設備がそこにそっくり出来ているのさ。その他の部屋の装飾といえば、数個の卓、それに準じた椅子、等々があり、壁や柱に、名文句を書いた長方形の色紙が貼附してあり、額に入れられた美人画や風景画が掛けてある。――と云うくらいのものだった。
 慣例によってカボチャの実や、ハスの実を出され、習慣通り僕達がそいつを不器用に、その癖通人めかしく、前歯でパチンパチンと外皮を破って食べたことは云う迄もない。

大連で(五)


 蘭亭さんは皮肉なオイランさんであったよ。
 彼女が日本語が解るというので僕が極めて簡単の日本語で、
「ランテイさん、アナタワ、ベッピンサンデスネ、ボクヲ、アイシテクレマスカ」
 と話しかけると、彼女は日本語で返事をせずに、中華民国語で返事をするのさ。
「張さん、何て云ったんです?」
 と、案内役の――だから通弁でもある張青年に質問すると、張青年は、中華民国流不得要領の笑い方をしながら
「コノ、ニッポンコクノ紳士ハ、アタクシ、アマリ好キデワアリマセン、ナゼトイウニ、眼ガスルドスギマスカラ――と、このように蘭亭さん申して居ります。……まことに相済みません」
 という通訳なのさ。
 僕たるもの、ダーとならざるを得ないね。
 そこで僕はヤケになって、まるで電報用箋に書く文句のような、解りよい日本語で、
「ボクノ眼ノスルドイノハ、ボクノ責任デハナク、ボクヲ産ンダ、両親ノセキニンデスカラ、ボクヲ咎メナイデクダサイ、ボク、眼ハ鋭イケド、ココロハ、スルドクナク、沢山ノ女達ガ、コレマデ、ズイブン、ボクヲ愛シテクレマシタヨ」
 と話しかけると蘭亭さんは、又中華民国語でそれに答えるのさ。
「張さん、何て云ったんだね?」
「はい」と張さんは困ったような顔をしながら「大変お気の毒ですけれど、蘭亭さんはこのように申して居ります。『コノ、ニッポンノ紳士ハ、スコシ、アタマガ変デワナイノデショウカ、変ナコトバカリ云イマス』と。このように申して居ります」
 とこう云うのだ。
 僕はたちどころに腐って了ったね。
 もう帰ろうかと思ったくらいさ。
 と、蘭亭さんが張さんに何か云うのだ。
 それを張さんが僕に伝えてくれた。
「蘭亭さんが、ニッポンの紳士に阿片を喫わせてやりたいと申して居ります。」と
 そこで僕は一も二も無く応じたものだ。
「喫みましょう」と。
 蘭亭さんは夫から寝台へ寝て、僕をも寝台へ寝かせて、外見には羨ましいであろう程仲宜さそうに向い合い、さて、蘭亭さんは、大変技巧的に、上手に、阿片を調じて僕へ進め、はじめて日本語で、流暢に、
「お飲みなさいまし」と云った。
「ありがとうござんす」
 と僕は云って煙斗を取ろうとした。
 が、どうしたものか蘭亭さんは不意に、煙斗をカラリと盆の上へ置き、
「お止しなさい」と云った。
 どうにも僕には彼女の心理が解らなかった。
 でもそんなことをして二時間ほどこの部屋にいた。
 その間に、男衆のような、若い男が幾度か這入はいって来て茶を置いて行ったり、しぼったタオルを取りかえたりした。
 帰る時蘭亭さんは門口まで送ってくれ、僕の手を握り、
「またいらっしゃい、明日の晩いらっしゃい」と云った。
 僕達は自動車でそれから山県通のボンベイ・ダンスホールへ進撃した。

大連で(六)


 ボンベイダンスホールで僕を喜ばせたのは一切の経営が白系ロシヤ人によって行われていることさ。バンドもダンサーも、マネージャーも、帽子やステッキを預ってくれる者もみんなロシヤ人なのだ。そのダンサー達だが比較的美しくて? 上品だった。バンドに近い椅子にいつも腰かけていたとても身長の高いやせた女などは、全く貴婦人のように見えた。噂によるとその女は、ロシヤ帝政時代の陸軍大将の令嬢なのだそうだ。あてにはならないがね。
 いやそのダンサーばかりで無くそこにいる程のすべてのダンサーが、各自傲語しているそうだ「わたしは帝政時代の司令官の娘です」「わたしは帝政時代の侍従長の娘です」「わたしは帝政時代の某大公の姪です」「わたし露西亜ロシヤ皇女タチアナ姫のお友達でした」などと。
 宛にはならないがね。
 バンドの中にも品のいい男がいた。ピアノを奏していた男は、オスカーワイルドに似ているし、ドラムをひっぱたいていた男は中年のハープトマンに似ていた。
 此処では余興としてステージ・ダンスのようなものをやるのだよ。
 ステージが作ってあるのでは無い。
 グロテスクな扮装とお化粧をした男や女が、ホールの真ん中でステージ・ダンスめいたものをやって見せるのだ。
 お客はそういうものを見たり、ダンサー相手に踊ったり、連れて来たパートナーと踊ったりしながら、ホールの左右に並べてある卓でビールを飲んだりウイスキーを飲んだりすることが出来るのだ。
 で、酔っ払って踊ることが出来るのさ。
 日本のホールでは場内で酒を飲むことが出来ず、外で飲んで、酔って来て踊っても不可ないというほど厳重さで野暮なのだが、此処ではそんなことはないのだ。
 これが僕には嬉しかったよ。
 僕はメチャメチャに踊った。
 だが彼女等のダンスは上手とは云えなかった。
 重くて、不器用で、単調なのだ。
 ソシアル・ダンスの天才は日本人だよ。
 一人面白いダンサーがいた。
 売れざるダンサーなのだ。
 よく肥えた、ノッソリとした、大して美しくなく、猶太ユダヤ娘めいたところのある女だった。
 これが少しも売れないのだ。いや、殆ど絶対に売れないのだ。ところが、一向困ったような様子もせず、ノンビリと両腕を卓の上へ這わせて、場内を睥睨するのだ。その様子が迚も僕には面白かったのでその女と踊ることとし、踊った。
 ところが売れない筈なのだ。まるで錨なのだ。千貫目もありそうな錨なのだ。重いったらない。重いばかりなら可いが沈むんだ。僕に食い付いて、縋って下へ沈むんだ。踊れたものじゃアなかった。
 あやうく僕は引っ張り込まれて海の中へ、ナーニ、ホールの床下へ沈没しそうになったものさ。
 ホールが閉じられる迄踊って僕達は引きあげた。
 そうして大連名物の馬車に乗って帰路に就いたが、この馬車が面白かった。と云うよりもその馬車の馭者が面白かったのだ。
 僕達を誘惑しようとしたんだからね。

大連で(七)


 友よ、馬車のことが出たから馬車に就いてちょっと書こう。
 真っ先に云い度いことは、大連へ来たら自動車よりも馬車に乗りたまえということだ。
 その馬車は、この大連をロシアが占領していた頃の名残では無いかと思われるような、あの古風な四人乗り一頭立ち――時々、二頭の馬にかせているのも見かけたが――の馬車なのだ。形が素晴らしく貴族的で、自動車が今日のように発達し猛威をふるわなかった頃に、日本に於ても故大隈公だの伊藤公だのが乗り廻していたようなああいう形の馬車なのだ。その馬車が実に豊富に大連では使用されてい、そうして安価なのだ。安価というよりも出鱈目なのだ。その賃金仕払いぶりがさ。と云うのは十銭でも二十銭でも乃至ないしは五銭でもいい、それだけやれば大連市中何処へでも運んでくれるのだよ。馭者は全部支那人だ。車夫が全部支那人である如くにね。
 カパ、カパ、カパ! 蹄の音だ! まことに軽快なのだ。
 ヒューッ、ヒューッ!
 馭者の揮う鞭の音を!
 実に威勢がいいのだ。
 この馬車に乗っていると、何んだか自分が大公殿下にでもなったような気がするよ。
 さて、その馬車にボンベイの帰りに乗ったと思いたまえ。
 僕達をこの馬車へ乗せる可く、馭者は最初、
「自動車より速く駛って行く馬車! お乗りなさい」と宣言したものだ。
 そこで僕達は乗ったんだが、乗って見るとうだろう、自動車より速いどころの騒ぎではなく、他の何の馬車よりも遅く、後からやって来る馬車にドンドン追抜かれるのだ。そこで僕達は怒って了って「おい、どうしたんだ! 先刻の宣言とは大分懸値があるじゃアないか!」とくらわせたものさ。
 と、その馭者の云うことがいい。「まあさ日本のお若い紳士、そうガミガミ云うものではない。それよりホテルへ帰ったら、着物を着換え私と一緒に行こうではないか。別嬪がいて、夜っぴて踊れる好い処へ案内するから」と云うのだ。そうして鞭ばかりを頭上で勇ましく揮って馬をひっ叩いて吼えるのだ「自動車より速い! 自動車より速い!」と。
 翌日は僕の中学時代の旧友で、同級生だった、そうして今は満鉄の嘱託をしている東京美術学校出身の日本画画家I氏の案内で僕達夫妻は旅順へ行き、東鶏冠山その他の日露戦争の戦跡を巡覧したり、満日旅順支社長の海旋風氏は探偵小説家として曾て有名な人であり将来一層有名になる人なのであるが――この人と会談したりした。東鶏冠山の永久砲塁、完備した設備を見た時、いかに日露戦争の際、我軍が苦戦したか想像することが出来たよ。まるで地下に堅牢無比のビルディングが出来ているようなものなのだ。そうして砲塁の中へ敵が這入ると、自分達は姿を隠したままで、機関銃で、三方から射つことが出来るようになっているのだ。
 そんなこととは最初には知らなかった我忠勇なる将士が如何に沢山ここで戦死したか。

大連で(八)


「万歳!」と叫んで突貫して来ては、我忠勇なる将士がこの砲塁の中へ飛び込む。すると三方からバラバラと機関銃の弾が注いで来てその将士達を一人残らずほんの一瞬間に殺して了ったんだねえ。そんなこととは知らない他の一組が、また「万歳」と叫んで砲塁へ飛び込む。バラバラと三方から機関銃の弾が注いで来てみんなを殺して了う。また一組が「万歳!」するとバラバラ! また一組が「万歳!」するとバラバラ!
 バンザーイ! とバラバラとでどれほど沢山の人間が此処で命を失ったことか。
 感慨に耽らざるを得なかったよ。
 旅順では戦利品記念館をも見た。籠城していた露国の将卒が恐怖や不安の為めに発狂し、その狂人に着せたという狂病衣を見た時にはゾッとしたよ。彼等もくるしんだんだねえ。
 関東庁博物館をも見た。
 日本内地の博物館ではとうてい見られないような珍奇貴重のいろいろのものを見たよ。
 帰路、大連までドライブし、満洲の赤い土――赤い丘や耕地や平原や山に、夕陽が射して、日露戦争当時よく歌われた「赤い夕陽に照らされて」の趣きをつぶさに知ることが出来た。
 友よ、大連へ帰って来た僕達夫妻は、それから更に詳細に大連市のさまざまの物を見たが、そんなことを一々通信したところで君は面白く思ってくれないだろうと思うから止める。
 それにこの旅行記も少し長く書き過ぎた感があるからね。
 ただ、星ヶ浦の絶景を見た時、とうてい鎌倉や逗子など及ぶものではないとつくづくその景の大きさと複雑さと設備のよさに感嘆し、又、老虎灘ろうこたんを見た時、これは如何にも「日本風景の粋」であると感じたことだけはお知らせしなければならないと思ったよ。それから又満蒙資源館を見た時、成程ナー満洲の資源は無限だ、米国などが垂涎三尺、この満洲に勢力を延ばそうとして事毎に不愉快なる小刀細工を我国に行ったり、中華民国に行ったりする訳だと思ったよ。
 大連の電気遊園という美しい遊園地の登※閣とうきゅうかく[#「さんずい+翕」、472-下-10]という料亭で、満日社長松山忠二郎先生ご夫妻に招待され、T主筆夫妻やS社長秘書夫妻と共に僕達夫妻は北京料理を味わい、大連における中華民国美妓の斡旋を受けその歌を聞いたことは快いことであった。
 例の「第一号」楼で逢った蘭亭さんも来ていたよ。
 胡弓を弾く男が、一向感興が無さそうに、ウソウソと外見をしながら高調子に胡弓を弾くと、美妓達が一人一人その前へ行って突立ち、これは迚も熱心に、力一杯、咽喉のど一杯の声を張り上げて――恰度ちょうど、小学校の生徒が唱歌の試験でも受けているような具合に――歌う様子が僕達には珍しかった。
 その後僕達は奉天へも行った。湯崗子温泉で一泊もした。
 満鉄本社の試写室で、満鉄写真班が撮影したという蒙古甘珠爾カンジュルに於ける交換市の実写を見せて貰ったりした。等、々、書くことは山ほどある。しかし長くなった。これで擱筆することにしよう。





底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
   2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「満州日報 夕刊」
   1931(昭和6)年5月18日〜6月5日
初出:「満州日報 夕刊」
   1931(昭和6)年5月18日〜6月5日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「栖鳳」と「栖凰」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「さんずい+翕」    472-下-10


●図書カード