赤い手

国枝史郎




 まだ真夜中にはなっていなかった。
 が、豪奢なウッドワードのアパートにみなぎる深々たる夜の静寂は、泥棒猫のようにこっそり忍び込んだスパイダー・マッコイの亢奮した神経を針のように尖らせた。ゴム底の靴は歩くたびに高価な絨氈の中に深々と沈み、彼の熟練した眼には夜目にも素晴しい調度品が感じられた。室から室を忍び歩く足の感じと時折照す懐中電燈の光だけで、スパイダーはうちの中の様子をあらまし頭のなかにたたみ込んだ。
 べては彼が想像した通りだった。いや、サディが彼に知らせた通りだと云った方がいいかも知れない。サディはウッドワード夫人がフロリダ地方へ出立する以前、一ヶ月ばかり女中として住み込んでいた。そして彼女は室々の詳細の様子をスパイダーに知らせてよこしたのだ。今その正確だったことが分ると、彼は舌を巻いて驚いた。
「サディは利口な奴さ」と彼はつぶやいた。「その上、気が利いていやがる。あれでスラッグ・ドルガンに気がなければなあ」
 彼はそう思うとスラッグが無上むしょうに憎くなって来た。奴はの数ヶ月と云うもの幾度いくたび仕事の邪魔をしたか知れやしない。だがうして仕事を予め感付いたろう。誰か密告してる奴がいるんだ――事情を詳しく知ってる奴が。スパイダーは今までついぞサディを疑った事はなかった――が、あの女にも用心しないと不可いけないな、と彼は思った。
 その時、かすかな物音がしたので、彼は蜂に神経を刺された様に、はっと我に返った。彼は全身の神経を緊張させて油断なくやみの中に佇んだ。が、やがて、気のせいだったかも知れない、と独りでめてしまった。
 うちの中にはねむりいている二人の召使の外には誰もいない筈だった。夫人はフロリダ地方へ行っているし、主人は土曜日の夜はいつも日曜版が刷上るまで新聞社にいるならわしだった。スパイダーは前々から念を入れて今日の準備を怠らなかった。そして宵のうちから家に眼をつけておいて、ウッドワードが自動車で事務所へ出掛けた後も、召使達が燈火あかりを消して室へ退くのを待っていたのだった。
 懐中電燈の光は床から壁を這い廻った。
 時間はたっぷりあったから、決して急ぐ必要はなかった。彼は安心して仕事に取掛ることが出来た。窓には日除が下され、その上都合のよい事にはどっしりした窓掛けさえ下されてあった。彼は電燈のスイッチをひねった。すると眼の前に突然華麗な室が現われたので思わず眼をつむった。が、今はそんな事に暇をつぶしている時ではなかった。やがて今宵の目的物が眼に映った。それはサディが云った通り室のはずれに――グロテスクなチーク材の彫像が立っていた。
 その彫像をかねてから欲しがっていた胡買者けいすがいのシモン・スヌッドはスパイダーに話を持ち掛けた。
「手に入ったら、お前には五千ドル出すぜ」とスヌッドは約束した。
 スパイダーに取ってはそれだけでも充分だった。しかし巧くゆけばもう少し位出させることは出来るかも知れないし、スヌッドにしてもいよいよ現実に手に入るとなれば分前の高を増してれるかも知れない。だが、そんな事は後で何うにでもなる、それより今は代物を手に入れることが肝心だ、とスパイダーは考えた。
 彫像が楽に持運びが出来る程の大きさなのを見てとると、彼は安心してにやりと微笑した。それは床から五フィートばかりの壁に設えたずしの中に納められてあった。淡い間接照明の光は、奥深い洞穴の様な感じを与えていた。所が龕のぐ前には長楕円形の金魚鉢があったので、スパイダーはずこの鉢を除けてからでなければ彫像に手を触れることは出来なかった。
 よく見ると鉢の中の金魚は拵え物だった。
「ちぇッ」彼は忌々しそうに舌打した「だが器用に出来てるなあ。俺は真物ほんものとばかり思っていた」そして彼は鉢を調べた。「随分と厚い硝子だ。これなら少し位の事ではこわれっこない。けれど、こんなに水が一ぱい入ってるんじゃ、こぼさずに動かすのは一寸六ヶ敷むずかしいな」さて、問題は鉢を動かすことだった。鉢の縁を持てば何うしても手袋を濡らしてしまう。かと云って、手袋なしでやれば指紋がついてしまう。そこでついに片方だけ手袋をとり、指紋がつくのを防ぐめにはハンカチを用うることにした。そしてハンカチを巻きつけた手で金魚鉢の縁を掴み、一方の手で底を支えながら邪魔にならない所で置き換えた。それから水のついた指先を拭うと、その濡れたハンカチを衣嚢かくしに収めた。
 仕事は余りに楽過ぎて彼の器用な小手先を使う機会のないのは如何いかにも残念だった、でも宵から今に至るまで手筈てはずは万事好都合に運んでいた。彼は割合に目方のある彫像をカンバス製の袋に入れると、それを紐でしっかりと結え付けた。
「これで五千弗とはすまねえな」彼の顔には満足そうな微笑が漂った。
 彼はドアの方に向直って電燈のスイッチを捻ろうとした。と、その時、みしッと云う幽かな音がしたので彼は思わずぎょっとなった。彼は全身を緊張させて、その音を確かめようと耳をそばだてた。再び忍び足のような音がぼんやりと聞えて来た。彼の醜悪な容貌は恐しい事を予想しているらしく妙に強張こわばった。そして音を立てない様に袋を床に置くと突然電燈を消してしまった。室が真暗になるとスパイダーは元気付いて来た。此の際誰か扉口から入って来るとすれば場所は彼の方が遥かに有利だったから。
 足音は又聞えた。彼の※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみは動悸を打ち出した。彼は混乱した頭を敏捷に働かして、何処で失策をやったか夕方からの行動をじっくり考えて見た。それにしてもウッドワードはだ帰らない筈だ。しかし何者かドアに近づいてくる。
 彼は何とかしなければならなかった。けれど足音は彼が今来た道筋を辿って来る以上、後退はほとんど不可能に等しかった。かも出口としては、そのドア以外にない。残る手段は――彼は衣嚢から棍棒を取出した。
 そしてっと待っていた。時間の経過は実にのろく彼には何時間か経った様な気がした――と、その時ドアがそっと開かれた。スパイダーは棍棒を握りしめ、ドアの近くに身を寄せて息を凝らしていた。やがてせいの低い、ずんぐりした人影が室の中へこっそり這入はいって来た。彼は最早躊躇しなかった。満身に漲る衝動は彼を一気に活躍させた。そして、ありっけの力をこめて相手の頭上に恐しい一撃を加えた。鈍い骨の砕ける様な音と共に闖入者はよろめくと、そのまま床に倒れてしまった。
 スパイダーは電燈のスイッチを捻った。彼の心臓は早鐘のように動悸を打ち、息ははげしく喘いでいた。そして瞳をこらして被害者の顔を覗き込むと、思わず驚愕の叫びをあげて、死体の上に蔽いかぶさる様にうずくまった。
「ドルガン! スラッグ・ドルガンだ!」
 だが、ドルガンは何のために此処へ来たのだろう? し彼がスパイダーの後をつけて来たとすれば、一体誰が彼に知らせたのだろう? 今日の仕事を知っている者はサディの外には一人もない。ではサディか?

 スパイダーはサディのアパートの裏手にある自動車庫ガレイジの道具箱に贓品ぞうひんを仕舞い込んだ。うして置けばシモン・スヌッドに渡すまでは先ず安全だった。間もなくサディがドアを開いたので彼は中に這入って行った。
「何うかしたの? スパイダー」
「何あに」と云いながら彼女の方に眼をやると、思いなしかその可愛い顔には不安と疑惑の影が漂っていた。何か胸に心配事を持っている――スラッグ・ドルガンの身を案じているのではあるまいか。いや確かにスラッグの事を懸念しているのだ。果して彼女は彼を裏切ったのだろうか――此の点は是非とも確かめる必要がある、と彼は考えた。
「それで、仕事の方は何うだったの?」
「うん、今夜は止めたよ。チャーリーの所でつい歌留多をやり過ぎちゃったからね――それじゃいけないかい?」
「だって――ウッドワードの仕事は今夜だって事をあなたから聞いていたから」
「そりぁ、計画はそうだったさ。だが来週まで延ばすことにしたんだ」
 彼女は不審な様子でスパイダーの顔を凝っと見詰めた。女と云うものは堅い殼を[#「堅い殼を」はママ]透して皮の下まで見抜く不思議な力を持っているものだ。彼は彼女に凝視されていると何だか気味悪くなって来た。
「ええ、よくってよ」彼女は皮肉に云った。
「そんな嘘なんか、聞きたくないわ。ほんとに仕事は何うだったの? あたしだって、これには関係してるんじゃありませんか」
「しらばっくれなくてもいいだろう」彼は不機嫌な声で云いながら巻煙草に火を点けた。
「お前達は、皆んな知ってるんじゃないか――」
「お前達ですって――あんた今夜何うかしてるわ」
 彼女の冷静な態度はスパイダーを余計苛立たせた。けれどドルガンの事だけは、何うあっても彼女の口から聞き出さなければならなかった。彼は口先では到底彼女の敵でないことを知っていた。が、同時に彼女が彼の疑いに気付いて、スラッグに対する話をしきりに誤魔化そうとしている様子も彼には感付かれていた。
「今夜スラッグに会ったろう」彼は不意に訊ねた。
「何ですって?」
「今夜スラッグに会ったかと聞いているんだ」スパイダーは繰返して云った。
「あなたが真実ほんとの事を云ってれなきゃ、妾だって云わないわ――誰に会おうと妾の勝手じゃありませんか」
 スパイダーは椅子から身を起した。
「おい、冗談に云ってるんじゃないぜ、俺は何うあってもお前から聞き出すよ」
「出来るなら、やって見るがいいわ」彼女は冷かす様に云った。「あなたは少し気が小さ過るわ。そんなこと取越苦労と云うものよ。スパイダーともあろう者が、そんな子供染みた真似をするなんてみっともないわ。一体何うしたと云うの?」
「うん、もういいよ」彼は急に機嫌をとる様に声をやわらげた。「酒でも飲もう。ほんとに今夜は何うかしているよ」
 彼女は隣室に酒壜を取りに行った。スパイダーは椅子に深く腰を下していたが、彼女が不安な面持で戻って来るのを見ると突然立ち上った。
「スパイダー。ちょっと」
 彼は猫の様に敏捷に窓際へ跳んで行った。
「ほら」と彼女は囁いた。「変な人がいるのよ」
 向側の歩道に、せいの低い頑丈な、その癖服装みなりの小綺麗な男が立っていた。彼は薄暗い街燈の光を身に浴びながら時々それとなく此方こっちの窓を見上げて、切りにパイプをくゆらしていた。
「ありゃマシュースだ」スパイダーの顔には在々ありありと恐怖の色が現われた。
 併しサディには何の事か分らなかった。
「マシュースというと――あの、探偵のマシュース? 落付かなけりゃ駄目よ。そして皆んな話して頂戴。あんたは今夜仕事をしたのでしょう」
 だが、スパイダーはサディの言葉には耳を貸さなかった。彼は強い酒を立て続けにあおった。然し酒は彼の憤怒を強めたに過ぎなかった。彼は顎を突出し眼に嫌悪の表情を浮べて平気を装おうとしたが、全身のふるえを打消すことは出来なかった。
「奴はあそこで何をしてやがんだろう?」彼は壜を棚に置こうとして危く落す所だった。
「マシュースは何も知ってやしない。あんな奴に捕ってたまるもんか。おい、サディ。お前、まさか俺を売りやしないだろうな」
莫迦ばかなことを云っちゃ嫌だわ。そんな事誰がするもんですか。妾には何のめか分らないけれど、あんた今夜は嘘をついてるわね。だけど若しマシュースが来ると困るから、打合せだけはして置きましょうよ。妾は何と云ったらいいの? さあ元気を出して――もうきに此処へ来ることよ」
「まあ、いいさ。俺には考えがある――」と彼は云った「マシュースは俺が巧くやるよ。かくもう一杯ついでくれ。奴が変にからんで来たって、俺にぁ――」
 その時ドアを叩く音がしたのでスパイダーは言葉を途切らせた。彼は坐勢いずまいを正し昂奮たかぶった神経を静めようとした。そしてようやくのことで平静に返った時、サディの開いた扉からマシュース探偵が這入って来た。
「よう、スパイダー。丁度前を通り掛ったから、少しお喋りしようと思って寄ったよ」
 マシュースは自分で椅子を引寄せると悠々とパイプに煙草をつめ眼尻に皺をよせてにっと笑って見せた。
 スパイダーは濛々たる紫煙の間から探偵を見詰めて神経質に巻煙草を吹かしていた。そして苦虫を噛みつぶした様な顔をして黙り込んでいた。
「マッチはないかね。このパイプはほんとにマッチ喰いだ」マシュースは然う云いながらも周囲ぐるりの物に鋭く眼を働かせていた。そしてスパイダーが渋々差出したマッチを受取ると、
「今夜は莫迦に御機嫌が悪いじゃないか。え、スパイダー」探偵はスパイダーの黙っているのには無頓着に、にやりとした「サディと喧嘩でもしたのかね。そんな事は早く仲直りした方がいいよ。こじらすと始末が悪いからね」
 彼はくつくつと笑った。
「時に近頃はサディとドルガンのお揃いの所をよく見掛けるね」
 スパイダーは探偵の冷やかすのを耳に入れまいとした。そしてつとめて平静を装って、
「何か変ったことでもあったんですか。マシュースさん」
「別に大した事もないがね」う云って探偵は鼻から煙草の煙を出しサディの方に不審いぶかしげな顔を向けた。
「スパイダーは今夜君とずっと一緒だったかい?」
 サディは血の気の失せた顔を強張らせた。彼女は去就に迷った。スパイダーは何と答えるか知らないが、彼女の返事は彼の言葉と一致させなければならなかったから。探偵が彼女に先ず訪ねたのも恐らくこれを見抜いていたからかも知れない。と思うと、彼女は途方に暮れてしまった。
「そんな事は私からお話しますよ」
 スパイダーは横合から口を出した。マシュースは穏かに笑って、
「それは何方どっちでもいいがね。ただサディに聞いて見たかったからさ。何あにサディが、君が今夜此処にずっといたことを証明して呉れればいいんだ。そうすれば僕はなり助かるからな」
「一体何を調べてるんです。マシュースさん、そんな謎みたいな事をきいても、私には訳が分りませんが」
「そりゃ然うだろう。では一つ今夜の事を話そうかね。だが、その前に――その衣嚢から食出はみだしてる手袋を見せてくれないか」
 スパイダーは微笑を漏らした。矢張やっぱりこれだったのか? マシュースは彼の手袋が濡れているか何うかにって、彼がウッドワード家の金魚鉢に触れたか否かを調べようとしているのだ。考えて見る、あの折一寸ちょっと頭をひねって手袋を濡らさずに置いたことは確かに運がよかった。マシュースは頭がいいかも知れない、然し俺の方が遥かに上手うわてさ、とスパイダーは得意になった。
「さあ、何卒どうぞ御覧下さい」と云いながら彼は手袋を探偵に渡した。
「それにしても一体何を調べるんです」
「そうさねえ」探偵はまだるい返事をした。
「仕事の手口を調べたいと思ってね。先刻さっきサディに訊ねたのも実はその事なんだ」
「サディなんかに聞いたって駄目ですよ。此奴こいつに何が分るもんですか」
「そうかも知れないね――所で話と云うのは、ウッドワード家に起った事件なんだが、殺人と盗難があったんだ。或る高価な彫像が今夜盗まれたのだが――ウッドワード氏は日曜版を印刷に廻わしてから可なり遅くなって帰宅した。夫人は留守だった。で、帰って見ると二階に電燈が点いているので早速調べて見たのだ。すると驚いた事には、今云った高価な彫像が無くなっていた。勿論保険はつけてあった。が、犯人は同時に人殺しをやって行ったのだ。死体は床にあったので氏はもう少しでつまずく所だった。警察本部へはただちに電話が掛った、そこで僕は部長の命令でウッドワード家へ馳付かけつけ事件を調査したという訳なのだ」そしてさらに附加えて「で目下犯人捜索中なんだけど、いずれ捕まれば死刑だろうな」
 死刑と聞くとスパイダーの顔色は変った。
「また貴方のお手柄になるのでしょう」
「然うなればいいがねえ。併し今度のは巧くゆきそうなんだよ。此の事件には特殊な事情があった。と云うのはウッドワード氏が道楽に化学を研究していた事なのだ。氏は地下室に研究室を設けて絶えず新しい化合の現象を研究していた。その結果或る液体を発見したのだが、それは一見した所水の様で然かも金属を腐蝕させぬ性質を持っている。氏は試験的にその液体を金魚鉢に入れ、中に金属製の金魚を入れて置いた。以来一年余りになるが、その金魚は少しも錆びないのだ」
「それが犯罪と何んな関係があるのです」スパイダーは一寸気になったが然気さりげない風を装っていた。
「まあ、待ち給え――その金魚鉢は彫像の前に置いてあった。だから彫像を盗ろうとすれば、邪魔になる鉢は何うしても他の場所へ移さなければならないのだ。所で、その鉢というのが、相当目方のある上に滑々すべすべしていて扱い悪い代物と来ている。手をかける所は縁以外にはない。おまけに、縁に手をかければ指先は濡れるにきまっている――僕が手袋を見せて呉れと云ったのはつまう云う訳だったのさ」
「そうですか」スパイダーは皮肉に云った。
「じゃ、よく見て下さい。だが、私のは濡れてはいないでしょう」
「うん、乾いている。僕もこれで安心したよ。けれど先刻さっきも云った通り、いい加減に機嫌を直し給えよ。だが、スラッグ・ドルガンは――」
「其奴の事はもう止めて下さい」スパイダーは真赤になって云った。「何故スラッグ・ドルガンの事ばかり云うのです?」
「でもねえ、今夜殺された男と云うのは実はドルガンだったのだ。所で、これは僕の感違いかも知れないが、君はドルガンを嫌っているらしいね――まるで毒の様に」
「そんな事は何うでもいいじゃありませんか。マシュースさん。あんた方は兎角とかくつまらない事を穿ほじくり出しては人を嫌がらせる癖がありますね。ええ、私はドルガンは虫が好かなかったのです。何う云う訳か気が合わないでね。そこへ持って来て、しょっ中サディの跡を追い廻わしていたので実は癪でたまらなかったんです。けれど、貴方はそんな事に口を出す必要はありませんぜ」
「そうとも君の云う通りだよ」マシュースは帰ろうとして立上った。「では、手袋は返えすよ。ほんとに濡れていなくてさいわいだった。けれど今話した金魚鉢の液体についてはだ面白い事があるんだよ。ウッドワード氏の云うには、それが若し水と混じる様な事があると、直ぐに赤くなるのだそうだ。丁度リトマス試験紙みたいな物だね。だから賊の奴が鉢を動かす拍子に手を濡らしでもすれば、奴は後で手を洗った時、赤くなったのを見てさぞ驚くことだろう。そして一旦赤くなったが最後少し位洗ったのでは容易におちないそうだ。一寸面白いじゃないか。つまり我々は赤い手の男を探せばいいと云う事になるからね」彼は大声で笑いながら帽子を取上げた。
「では又近い中に来るよ。お休み。サディ」

「何しろマシュースの奴は頭がいいからな」スパイダーは独りで呟いた。「だが、まさか俺がしたとは思っていないだろう」
 サディは突然彼の腕を掴んだ。
矢張やっぱりあんたはウッドワードの所へ行ったのね」彼女は自信あり気に云った「そして妾にその事が云えなかった訳は――あんたはスラッグを殺したのでしょう」
 スパイダーは彼女の眼を見ると何か責められる様な気がしてすくんでしまった。彼は壜からもう一杯酒をいだ。彼はサディに卑怯者と云われるのが辛かった。彼女はひょっとすると真相を知っているのらしい。いっその事彼女に打明けてしまおうか――。
「如何にも俺はドルガンを殴り付けた。それが少し力が入り過ぎたらしいんだ。けれどそんな所へ出しゃばるのは奴の方が悪いじゃないか。俺には奴が誰から俺の仕事のことを聞込んだか、それが不思議でならないのだ」
「矢張りそうだったの?」サディは眼を異様に輝かせた。「誰がドルガンに教えたかって――あんたは妾だと思ってるんでしょう。だけど、あんたには妾にそれを聞く資格はないわ。卑怯者! 人殺し! 全く笑えるわ。それで今夜ドルガンの事を執拗しつこく聞いた訳が分った。ええ、妾は今夜ドルガンと会ったわ。けれど、あんたがもう少し利口だったら、妾がドルガンに何んな事をしたか想像がつく筈よ。あんたは嫉妬やきもちのために眼がくらんでいるのね」
 スパイダーは顔を痙攣させた。
「ドルガンも矢張りあそこで探す物があったのよ」サディは語り続けた「妾はそれが何だか知りたかったの。だから妾は色々とあの人に鎌を掛けて見たんだわ。そんな事も察しないで、ほんとにお馬鹿さんねえ。だけど直きに探偵達はあんたに眼をつけるわ。そうすれば何うなると思うの」
「うるさいな」スパイダーは恐しい光景を眼前から消そうとして眼を閉じた。
「俺は巧くやったつもりだ」彼は床を歩きながら喋り続けた「誰が俺を捕えることが出来るもんか。奴等は何んな風にして俺に嫌疑を掛けようてんだ。俺はマシュースの眼だって巧く誤魔化したじゃないか」
「マシュースはあれだけで諦めやしなくってよ。彼奴あいつは一旦眼をつけたものは、それを捕えるまでは猟犬の様に執念深くつけ廻わすそうじゃないの。その上、あの液体の話も何だか真実ほんとらしいわ。あんたは鉢で手を濡らしたのでしょう?」
「あんな事は出鱈目だよ」スパイダーは彼女の心配を嘲弄し去った。「マシュースは俺達をからかっているんだ。実を云やぁ、俺は指とハンカチを濡らしたが」
「何だか真実ほんとらしいわ」サディは尚も剛情を張った「何故もっと用心しなかったの」
「用心たって! あんな重い水の一ぱい入った、然も滑り容い金魚鉢を運ぶんだぜ。そんな時に、内容なかみが水でないなんて、誰が気がつくものか。俺はマシュースの言葉は信用しないよ。奴は冗談に云っただけだよ」
「然うじゃないわ。抜目のないマシュースの事ですもの。唯隙を狙っているだけよ。あの人は一度狙いをつけたら藁一本だって外さないと云う噂じゃありませんか。それに、あの液体の事が真実ほんととすると犯人を見分けるのも一層楽になるし――」
「だけど、ありゃ嘘だよ。そんな莫迦なことがあってたまるもんか。何しろ此処に濡れたハンカチがあるから、一つ試めして見ようじゃないか」
 スパイダーは台所へ行くと、ハンカチを水道の承口うけぐちにかざした。
「若し話の通りだとすれば、結果は直ぐに表われる筈だよ。けれど、ほら何うもならないじゃないか。ね、一体――」
 彼はおどろいて話をめた。そして両がんを大きくみひらいた。手に持っているハンカチは次第に桃色から赤に変り、それをかざしていた手も同じ様に赤く染って行った。
「あら、真実ほんとだわ」サディは思わず叫んだ。
「マシュースの云った通りだわ」と云いながら彼女は振向くと何を見たのか息塞いきづまる様な声を発した。彼等の背後うしろ口の所にたたずんでいる人があった。それはマシュースだった。彼は相変らずにやにやしながら、その眼は決定的な証拠品を凝っと見詰めていた。
「うふ、ふ」と彼は愉快そうに含笑ふくみわらいした「好奇心が猫を殺した、と云う奴だね。君は屹度きっと水で洗うだろうと思ったよ。だからこそ又戻って来たと云う訳さ。可なり大胆な推量だったが案外功を奏したね。これじゃ何うしても死刑もんだな」と云いながら彼は衣嚢から手錠を取出した。
「何だって?」スパイダーは怒鳴った「こんな事ぁ証拠になるもんか」
「まあ、いいさ」探偵はスパイダーの言葉に動ずる気色もなく快活に云うのだった「それは判事の前で云って貰おうよ」
 手錠はかちッと音がして彼の腕に掛けられた。スパイダーは此の音にはっとなってマシュースの方へ恐しい見幕で突進しようとした。が、それは無駄だった。探偵はひらりと体をかわし、扉口に拳銃ビストル[#ルビの「ビストル」はママ]を擬して立っていた部下を差招いた。
「まあ、落ち付きたまえ。スパイダー。此のシンプソン君のお蔭で、自動車庫ガレイジから贓品と棍棒を発見したよ。証拠はすっかりあがっている。では、ぼつぼつ出掛けよう」
 サディの方に振向いたスパイダーの顔は自暴自棄そのものだった。彼は舌がもつれて何も云えないらしく黙って彼女の顔を見ていた。やがて頸をうなだれ、重い足を引摺りながら、探偵の後から外に待たしてある自動車の方へ下りて行った。
 スパイダーの頭は錯乱して、わずか数時間内に起った出来事を回想することすら出来なかった。彼はぼんやりと探偵の傍に腰掛けていた。
 自動車は警察本部を指して滑らかに走っていた。マシュースはすっかり上機嫌になって快活に喋り出した。
「全くたわいないものさ」と彼は出し抜けに云った「僕等は先ず第一にあの様な彫像に眼をつける奴を考えて見た。そしてスヌッドが何うもそれらしいと云うので、今度は奴の所へ出はいりする連中の名前を並べて見た。色々調べて行く中にスラッグ・ドルガンと君と、それから二、三の奴の名前に行き当ったが、更にふるいに掛けて遂に君とスラッグが残った。所がスラッグはあの通り殺されているし、最後に到頭君だけが残ったと云う訳だ。
 探偵の言葉は更に続いた。
「けれど僕が迷った事はスラッグが何うして君と同じ晩に然かも同じ仕事に手を出したかと云うことだ。そこで僕は、こりゃスヌッドが然うさせたのではないかと考えて見た。恐らく奴はあの品の買手がいたので、何うしても手に入れる必要があったのだろう。その結果君等二人にやらせれば一層確実だと思ったんだ。で、スラッグも今夜君と同じ仕事をしに忍び込んだ。だが、君の方が一と足早かった、と云うのさ――あ、丁度警察へついたよ」





底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
   2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「探偵」
   1931(昭和6)年8月
初出:「探偵」
   1931(昭和6)年8月
※「残ったと云う訳だ。」の最後に閉じ括弧がないのは底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:湖山ルル
2014年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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