学生と生活

――恋愛――

倉田百三




     一 学窓への愛と恋愛

 学生はひとつの志を立てて、学びの道にいそしんでいるものである。まず青雲あおぐもを望み見るこころと、学窓への愛がその衷になければならぬ。近時ジャーナリストの喧声はややもすれば学園を軽んじるかに見える。しかし今日この国に必要なのはむしろ新しき、健やけきアカデミーの再建である。学生にして学窓への愛とほこりとを持たぬことは自ら軽んじるものである。もとより私といえども今日学生の社会的環境の何たるかを知らぬものではなく、その将来の見通しより来る憂鬱を解せぬものでもない。しかもそれにもかかわらず私は勧める。夢多く持て、若き日の感激を失うな。ものごとを物的に考えすぎるな。それは今の諸君の環境でも可能なことであると。私は学生への同情の形で、その平板と無感激とをジャスチファイせんとする多くの学生論、青年論の唯物的傾向を好まぬものだ。夢見ると夢見ぬとはその環境にあるのでなく、その素質にあるのだ。王子が必ずしも夢見はしない。が大工の息子もまた夢見る。如何なる時代にあっても青年が夢見なくなるということはあるまじきことであり、もしあるなら人類は衰亡に向かったものである。夢見る、理想主義の青年のみが健やかなる青年であり、次代を荷い、つくる青年なのである。
 まして学窓にあるほどの青年が環境をつぶやいたりなどできるものであろうか? これに対してはクロポトキンの『青年への訴え』を読めと勧めるだけでつきている。学生諸君はむしろ好運に選ばれたる青年であり、その故に生命とヒューマニティーと、理想社会について想い、夢見、たたかいに準備する義務があるのである。
 さて私はかように夢と理想とを抱いて学窓にある、健やかなる青年として諸君を表象する。学業に勉励せぬ、イデアリストでない学生に恋愛を説く如きは私には何の興味もないことである。学生の常なる姿勢は一に勉強、二に勉強、三に勉強でなくてはならぬ。なるほど恋愛はこの姿勢を破らせようとするかもしれぬ。だがその姿勢が悩みのために、支えんとしても崩されそうになるところにこそ学窓の恋の美しさがあるのであって、ノートをほうり出して異性の後を追いまわすような学生は、恋の青年として美しくもなく、また恐らく勝利者にもなれないであろう。
 しかし私がかくいうのは勉強と恋愛とをほどほどにやれというのではない。まして勉強の余暇に恋愛をたのしめというような卑俗な意味ではない。恋愛には恋愛のモラルと法則とがある。その意味では「学校を落第してまでは恋愛をせぬ」というモットーは理想主義のものでなくして、散文主義のものである。イデアリストの青年にあっては、学への愛も恋への熱もともに熾烈でなくてはならぬ。この二つの熱情の相剋するところに学窓の恋の愛すべき浪曼性があるのである。
 かようにして私は真摯な熱情をもって、学びの道にある青年の、しかも理想主義の線にそっての恋愛について説きたいのである。すでに女を知ってしまった中年のリアリストの恋愛など学生は軽蔑してあわれんでおればいい。それは多くは醜悪なものであり、最もいい場合でも、すでに青春を失ってしまったところの、エスプリなき情事リーブシャフトにすぎないからだ。

     二 倫理的憧憬と恋愛

 性の目ざめと同時に善への憧憬が呼びさまされるということは何という不思議な、そしてたのもしいことであろう。これが青年の健康性の標徴だ。ヒューマニティーの根源だ。この二つのものは同時に起こるだけでなく、まじり合い、とけ合って起こるのだ。この二つがまじり合って起こらないなら、それは病的徴候であり、人間性の邪道に傾きを持ってるものとして注意しなければならぬ。
 青年にとって性の目ざめは肉体的な、そして霊的な出来ごとである。この湧き上ってくる衝動と、興奮と、美しく誘うが如きものは何であろう。人生には今や霞がかかり、その奥にあるらしい美と善との世界を、さらに魅力的にしたようである。若き春!
 地上には花さえ美しいのにさらに娘というものがある。彼女たちは一体何ものだ。自然から美しく創りなされて、自分たちを誘うような、少なくとも待ってるように見えるこの人間群は。
 彼女たちは自分たちよりつつましく、優美に造られているようである。粗暴と邪悪とを知らぬかのようだ。自分たちより脆くできてはいるが、しなが高そうだ。そして何という美しい声を持ってることだろう。
 彼の女たちはいうように見える。
「立派な男子におなんなさい。私たちに相応しいもののために私たちの美はあるのです」
 彼女たちはたしかに美しき、善き何ものかである。少なくともそれにつながったものである。美と徳との理念をはなれて、彼女たちを考えることはできぬ。したがって彼女たちが何であるかを探り、彼女たちを手に入れるためには美と徳との鍵を忘れることはできない。――
 青年たちはこういうふうに娘たちを、美と善とのもやのなかにつつんで心に描くことは少しもあまいことではなく、むしろ健やかなことである。のみならず賢いことでさえある。古来幾多のすぐれたる賢者たちがその青春において、そうした見方をしたであろうか。ダンテも、ゲーテも、ミケランジェロも、トルストイもそうであった。ストリンドベルヒのような女性嫌悪を装った人にもなおつつみ切れぬものは、女性へのこの種の徳の要請である。かようなものとして女性を求める心は、おしなべて第一流の人間の常則である。とりわけダンテにとってベアトリーチェは善の君、徳の華であった。
 青春の黄金の日において、わるズレのした、リアリスチックな女性侮蔑者であるほど悲しむべきことはない。ましてそれは早期の童貞喪失を伴いやすく、女性を弄ぶ習癖となり、人生一般を順直に見ることのできない、不幸な偏執となる恐れがあるのである。
 学生時代に女性侮蔑のリアリズムをてらうが如きは、鋭敏に似て実は上すべりであり、決して大成する所以ではないのである。すべてを順直にということが青年のモットーでなければならぬ。ませた青年になろうとするな。大きく、稚なく、純熱であれ。それがやがてはまことの知性の母なのだ。
 天地の大道に則した善き人間となりたいという願い、『教養と倫理学』――(「学生と教養」中の一章)の中に私が書いたような青春のなくてならぬもひとつの要請と、やむにやまれぬこの恋のあくがれとを一つに燃えさしめよ。
 善によって女性の美を求め、女性の美によって善を豊かに、生彩あらしめよ。美しい娘を思うことによって、高貴なたましいになりたいと願うこころがますます刺激されるような恋愛をせよ。
 音楽会に行って、美しい令嬢のピアノを弾いた知性と魅力のある姿を見た。あるいは席にこぼれ、廊下を歩く娘たちの活々とした、しかし礼儀ある物ごし――寄宿舎に帰っても、美の幻にまだつつまれてるようだ。それは学べよ、磨けよというようだ。
 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうななざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでなければならぬ。
 学生時代の恋愛はその大半は恋の思いと憧憬で埋められるべきものだ。この部分が豊かであるだけ、それは青春らしいのだ。それが青春の幸福をつくるのだ。青春は浪曼性とともにある。未知と被覆とを無作法にかなぐり捨てて、わざと人生の醜悪を暴露しようとする者には、青春も恋愛も顔をそむけ去るのは当然なことである。

     三 恋愛の本質は何か

 恋愛とは何かという問題は昔から種々なる立場からの種々な解釈があって、もとより定説はない。プラトンのように寓話的なもの、ショウペンハウエルのように形而上学的なもの、エレン・ケイのような人格主義的なもの、フロイドのように生理・心理学的なもの、スタンダールのように情緒的直観的のもの、コロンタイのように階級的社会主義的のもの、その他幾らでもあって枚挙にいとまない。これらの諸説はみな恋愛の種々相のある一側面を捕え得たものには相異ない。この後とても世代の移るにつけいろいろな説がつみたされていくであろう。
 が恋愛とは何であるかということを概念的にきめてかかることはさまで大事なことではない。むしろ自分自身の異性への要求と、恋愛の体験とによって自らこの問いをさぐっていき、自説を持とうとするがよいのだ。
 実際人間はその素質なみの恋愛をし、その程度の恋愛論を持つのだ。そして恋愛論はその人の宇宙ならびに人生への要求一般と切り離せるものではないのだ。フロイドがどんな分析をして見せても、宗教意識の強いものは恋愛を宗教にまで持ち上げずには満足するものではない。現実主義者が恋愛は性慾と生殖作用の上部構造にすぎないといっても、精神的憧憬の深いイデアリストは恋愛が性慾をこえた側面を持ち、むしろそのこえんとする悩みにこそ、恋愛の秘義があると主張してやまないであろう。
 青年学生はいずれ関心事たる恋愛につき、いろいろな説を参考するもよかろう。また文芸や、映画でその種々相に触れずにもいないわけである。だが結局は自分の胸にわいてくるイメージと要請とをもって、自分たちの恋の世界を要求し、つくり出すべきだ。
 今日の文芸や、映画に出てくる恋愛が不満ならば恐れずその不満を持て。それはむしろたのもしいことだ。
 一般にいって自分の恋愛の要求を引き下げる必要はない。自分の夢多き空想だとして、現実主義の恋愛作者に追従したりする必要はない。
 観念的映像が多いだけむしろよく、それが青春の標徴である。恋愛を単に生物学的に考えたがることほど粗野なことはない。知性の進歩はその方角にあるのではない。恋愛を性慾的に考えるのに何の骨が折れるか。それは誰でも、いつでもできる平凡事にすぎない。今日の文化の段階にまで達したる人間性の精神的要素と、ならびに人間性に禀具するらしい可能的神秘の側面で、われわれの恋愛の要請とは一体どんなものであるかを探求するのこそ進歩的恋愛論の本質的任務でなくてはならぬ。これに比べれば恋愛の社会的基礎の討究さえも第二義的というべきだ。ましてすでに結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない情事的、享楽的漁色的材料から帰納されたものが多いのであって、青年学生の恋愛観にとっては眉に唾すべきものである。
 結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。たとえば恋愛は未知の女性への好奇的欲望であるというような見方も、明らかに壮年の心理であって、結婚前の青年の恋愛心理ではない。実はそれは美的狩猟の心理なのだ。
 恋愛には必ず相手への敬の意識がある。思慕と憧憬との精神的側面があり、誇張していえば、跪きたくなる感情がある。そして対象は単一的であって並列的ではない。美的狩猟はならべ描くことによって情緒をますのだ。
 結婚前の青年、特に学窓にある青年にとって、恋愛とはまず精神的思慕であり、生命的憧憬でなければならぬ。美しい娘の中に自分の衷なる精神の花を皆投げこんで咲かせたものでなければならぬ。

君が面輪おもわの美しき見れば
花はみな君にぞある……

 これは中世イタリーの詩人の句片だ。

づらしとふきみは秋山の初もみぢ葉に似てこそありつれ

 これは万葉の一歌人の歌だ。汝らの美しき娘たちを花にたとえ、紅葉に比べていつくしめ。好奇と性慾とが生物学的人間としての青年たちにひそんでいることを誰が知らぬ者があろう。だがそれらは青春のわくが如き浪曼性と、さかんなる精神的憧憬の煙幕の下に押しかくされ、眠らされているのだ。
 結婚前の青年にとって、恋愛とは未来の「よりよき半分」を求めんとする無意識模索である。それは正統派の恋愛論の核心をなすところの、あの「二つのもの一つとならんとする」願望のあらわれである。ペーガン的恋愛論者がいかに嘲っても、これが恋愛の公道であり、誓いも、誠も、涙も皆ここから出てくるのだ。二人の運命を――その性慾や情緒をだけでなく――ひとつに融合しようとするものでなくては恋愛ではない。この愛らしの娘は未来のわが妻であると心にきめその責任を負う決意がなければならぬ。互いの運命に責任を持ち合わない性関係は情事と呼ぶべきで、恋愛の名に価しない。
 恋愛は相互に孤立しては不具である男・女性が、その人間型を完うせんために融合する作用であり、「を味う」という法則でなく、「と成る」という法則にしたがうものであり、その結果として両者融合せる新しき「いのち」が生誕するのだ。
 子どもの生まれることを恐れる性関係は恋愛ではない。
「汝は彼女と彼女の子とを養わざるべからず」
 学生時代私はノートの表紙に、こう書きつけて勉強のはげましにした。

     四 青春の長さと童貞

 恋愛は倫理的なあこがれであるだけでなく、肉体的、感覚的な要請であることはいうまでもない。それは、露わにいえば、手を、唇を、肌を相触れんとするところの衝動でもある。したがっていかなる倫理的な、たましいの憧憬を伴う恋愛も終局はその肉体的接融をまって完成すべきものではある。しかしたましいの要請が強ければ強いだけ、その肉体的接融はその用意を要する。すなわち肉体だけがたましいの要請をはなれて結びつかぬように、そうした部分がないように隙間なく要求されてくるのは当然なことである。これは一方が打算から身を守るというようなことでなく、相互にそうしなければ恋愛の自覚上気がすまない。これが本当の慎しみというものだ。
 学生は大体に見て二十五歳以下の青年である。二十五歳までに青年がその童貞を保持するに耐えないという理拠があるであろうか。また本人の一生の幸福から見て、そうすることが損失であろうか。私は経験から考えてそうは思われない。女をることは青春の毒薬である。童貞が去るとともに青春は去るというも過言ではない。一度女をった青年は娘に対して、至醇なる憧憬を発し得ない。その青春の夢はもはや浄らかであり得ない。肉体的快楽をたましいから独立に心に表象するという実に悲しむべき習癖をつけられるのだ。性交を伴わぬ異性との恋愛は、如何にたましいの高揚があっても、酒なくして佳肴に向かう飲酒家の如くに、もはや喜びを感じられなくなる。いかに高貴な、楚々たる女性に対してもまじりなき憧憬が感じられなくなる。そしてさらに不幸なことには、このことは人生一般の事象を見る目の純真性を曇らすのだ。快楽の独立性は必ず物的福利を、そして世間的権力を連想せしめずにはおかぬ。人間がそうした見方を持つにいたればもはや壮年であって、青春ではないのである。
 事実として青春の幸福はそこから去ってしまうのだ。如何に多くのイデアリストの憧憬に満ちたる青年が、このことからたちまち壮年の世俗的リアリズムに転落したことであろうか。
 かりに既婚者の男子が一人の美しき娘を見るのと、未婚者の男子がそうするのとでは、後者の方がはるかに憧憬に満ちたものであることは容易に想像されるであろう。それが未婚者の世界の洋々たる、未知のよろこびなのだ。その如くに童貞者にあるまじりなき憧憬は青春の幸福の本質をなすものであってひとたび女をるならば、もはや青春はひび割れたるものとなり、その立てる響きは雑音を混じえずにはおかなくなる。そしてそれは性の問題だけでなく、人生一般の見方に及ぶのである。いかなるイデアリストの詩人、思想家も、彼が童貞を失った後にそれ以前のような至醇なる恋愛賛美が書けるはずはない。自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。
 私はかようなことに好んでこだわるのではない。青春にとってこれは重要なことであって触れずにおれないのだ。誰しも青春の長いことを望まぬものはあるまい。その長さは人生の幸福をはかる重要な尺度である。これは青春のすぎ去った者のしみじみ思うところである。そして青春の幸福を長く保とうとねがうならば、童貞を長く保たねばならぬ。学生時代を童貞ですごすことは一生から見て、少しも損失ではない。これは冷淡な教父の如き心でいうのでなく、現実的な考慮を経ていうのである。つまり女をるの機会は、もし欲するなら、壮年期に幾らでもあるからである。
 もっとも二十五歳まで女をらなければ、りたいための悩みを持つであろう。しかしその悩みは青春そのものの本質なのだ。それが青春の独特な歓楽をつくり出すところの種箱なのだ。それが青年を美しくし、弾力を与え、ものの考え方を純真ならしめる動機力なのだ。
 私は青春をすごして、青春を惜しむ。そして青春が如何に人生の黄金期であったかを思うときにその幸福を惜しめとすすめたくなるのだ。そしてそれには童貞をなるだけ長く保つべきだ。
 しかし何かの運命でそれをすでに失ってしまったものはやむを得ない。そのひびの薄れるように、そのまわりに結締組織のできるように修養すべきだ。傷をいやすレーテの川、忘却というものも自然のたまものだ。絶対的にのみ考えなくてもいい。童貞の青年といえども、すでに自慰を知らぬものはなく、肉体的想像力を持たぬものもあり得ない。全然とり返しがつかぬという考え方はこれは天国的なものでなく、悪魔の考え方である。
 しかし童貞を尊び、志向を純潔にし、その精神に夢と憧憬とを富ましめるということは、青年の恋愛にとって欠くべからざる心がけである。

     五 相互選択と男性のイニシアチヴ

 青年男女はその性の選択によって相互に刺激し合い、創造と淘汰との作用がおのずと行われる。青年や、娘の美の新しい型が生み出される。これは個人と個人との間だけでなく、ひとつのゼネレーションを通じてもあらわれる。青年たちがみな健康な、朗らかな、感覚的で多少茶目なところのある娘たちを要求すれば、そうした娘たちがあらわれてくる。娘たちが逞しく、しかし渋みがあって、少し憂鬱な青年を好めばそうした青年が本当にあらわれてくる。かようにしてクローデット・コルベールに似た娘や、クラーク・ゲーブル型の青年がちまたに見られるようになるのだ。
 これは恐ろしいことだ。青年たちがどんな娘を好み娘たちがどんな青年を欲するかは実に次のゼネレーションの質と力と色とを動かすのだ。
 そこで青年男女には、人類の健康と進歩性とを私たちが信じることができるような好み方、選び方をしてもらいたいものだ。
 ところで今日娘たちの好みは果していいであろうか。その青年鑑賞の目は信頼するに足るであろうか。反対に青年たちの娘たちへのそれはどうであろうか。ある青年がどんな娘を好むかはその青年の人生への要求をはかる恰好の尺度である。美しくて、常識があって、利口に立ち働けそうな娘を好むならその青年の人物はそういうものなのだ。無造作で、精神的で、ささげる心の濃い娘を好むなら、そうした品性の青年なのだ。知性があって、質素で社会心のある娘を好むなら、そうした志向が青年にあるのだ。
 娘に対して注文がないということは生への冷淡と、遅鈍のしるしでほめた話ではない。むしろさかんな注文を出して、立派な、特色のある娘たちを産み出してもらいたいものだ。
 イギリスの貴族の青年は祖国の難のあるとき、ぐずぐずしていると、令嬢たちに卑怯を軽蔑されるので、勇んで戦線におもむくといわれている。おどらぬ男には嫁に行かぬと「酋長の娘」にいわれては土人の若者はおどらずにはおられまい。
 ところで今日この国の娘たちは充分に自覚しているとはいい難い。次代を背負う青年がただ娘たちの好みに引きずられるだけでは心細い。彼女たちの好みにまかせておれば、スマートな、物わかりのいい、社会的技能のあるような青年がふえても、深みと、あつみのある理想主義の青年などは減っていきそうに見える。貧困とたたかって民族的・社会的革新のためにたたかうような青年などはお目にとまりそうにもない。
 そこで青年たちは断然相互選択にイニシアチヴをとって「愛人教育」をやる気でなくてはならぬ。素質のいい娘を見つけて、如何なる青年を好むべきかを教えこむのだ。偉大にして理想主義のたましい燃ゆる青年は、必ずしも舗道散歩のパートナーとして恰好でなくても、真に将来を託するに足るというようなことを啓蒙するのだ。貧しい大学生などよりは、少し年はふけていても、社会的地歩を占めた紳士のほうがいいなどといった考えは実に、愚劣なものであるというようなことを抗議するのだ。日本の娘たちはあまりに現実主義になるな、浪曼的な恋愛こそ青春の花であるというようなことを鼓吹するのだ。愛と情熱と自信とをもってすればできないことはない。現に私は学生時代に、修身教育しか知らなかった愛人を、ゴッホや、ベルグソンがわかり、ロダンの「接吻」にいやな顔をしないところまで、一年間で教えこんでしまった。およそ青年学生時代に恋を語り合うとき、その歓語の半分くらいは愛人教育にならないような青年はたのもしくなく、その恋は低いものといわなくてはならぬ。幾度もいうように、精神的向上の情熱と織りまじった恋愛こそ青年学生のものでなければならぬのだ。
 かようにして志と気魄きはくとのある青年は、ややもすれば甘いものしか好むことを知らない娘たちに、どんな青年が真に愛するに価するかを啓蒙して、わが心にかなう愛人に育てあげるくらいの指導性を持たねばならぬ。
 娘たちに求愛し、その好みにそわんとするだけでは時代の青年の質は低下し、娘たちの好みもまた向上しないであろう。

     六 恋愛以上の高所

 恋愛が青春にとって如何に重要な、心ひかれるテーマであるからといって、人生において、恋愛が至上ではない。青春時代において恋愛問題が常に頭をいっぱいに占領してはならない。宇宙と自己、社会共同体と自己、自己の使命的仕事、人類愛ならびに正義の問題等は恋愛よりもさらに重き、公なる題目として関心されていなければならない。恋愛よりもより強く、公なるイデーによって、衝き動かされないことは男子の不面目である。恋愛をもって終始し、恋愛に全情熱をささげつくし、よき完き恋人であることでつきることは、なるほど充分にロマンチックであり、美的同情に価し、またそれだけでも人格的誠実の証拠ではあるが、私は男子としてそれをいさぎよしとしない。青年がそれをもって満足することを好まない。
 たとえば前イギリス皇帝の場合にしても皇位を抛ってまでもの、シンプソン夫人への誠実を賞賛するにおいて私は決して人後に落ちるものではないが、もしかりに前英帝にイギリスの政治的使命についての、文明史的自覚が燃えていたとするならば、それでもそうした態度をとり得たであろうか。私は自作『大化改新』において、額田女王との恋と、国家革新の使命とに板ばさみとなった青年中大兄皇子をしてついに恋愛をすてて政治的使命を選ばしめた。アレキサンダーがペルシアの女との恋愛のために遠征を忘れ、スピノーザが性的孤独のために思索を怠り、ダヌンチオがフューメの女を恋するあまり戦いを捨てるようなことがあったとしたら、われわれは彼らのためにそれを惜しまずにはおられないであろう。
 使命ベルーフの自覚は恋愛以上である。宗教的良心的命令も恋愛以上である。人類的正義と国家的義務も恋愛以上である。青年はこれらの恋愛を越えたる高所を持ちつつ、恋愛を追わねばならぬ。
 さきに善への願いと恋愛の求めとをひとつに燃やしめよといったのもここに帰するのだ。恋以上のもののためには恋をも供えものとすることを互いに誓うことは恋をさらに高めることである。
 肉体的耽溺を二人して避けるというようなことも、このより高きものによって慎しみ深くあろうとする努力である。道徳的、霊魂的向上はこうして恋愛のテーマとなってくる。二人が共同の使命を持ち、それを神聖視しつつ、二人の恋愛をこれにあざない合わせていくというようなことであれば、これは最も望ましい場合である。

     七 私の経験と、若干の現実的示唆

 以上は青年学生としての恋愛一般の掟の如きものである。しかし現実の恋愛は実に多様な場合があり、陥りやすき人間の弱点があり、社会的不備から生ずる同情すべき散文的側面があり、必ずしも一概にはいえないさまざまの事情があるものである。
 ことに私の上来のいましめはイデアリストに現実的心得を説くよりも、むしろリアリストに理想的純情を鼓吹することをもって主眼としてきたものだけに、現実生活においてなるべく傷を受けないように損をしないようにという忠告は乏しいのだ。実際イデアリストの道は危険の道であり、私自身恋愛のために学生時代にひどい傷をつくって、学業も半ばに捨て、一生つづく病気を背負ったような始末である。私は青年学生に私の真似をせよと勧める勇気はもとより持っていない。しかしそれだからといって、学業を怠らぬよう、眠られぬ夜がつづかぬよう、社会や、家庭の掟を破らぬよう、万事ほどよく恋愛せよというようなことを忠告する気にはなれない。生命にはその発動の機微があり、恋愛にはそれ自らのいのちがある。異性を恋して少しも心乱れぬような青年は人間らしくもない。「英雄の心緒乱れて糸の如し」という詩句さえある。ことにその恋愛が障害にぶつかるときには勉強が手につかないようなこともある。ことには恋愛に熱中し得る力は、また君につくし、仕事にささげ得る力であることを思えば、生ぬるい恋の仕方をむしろしりぞけたくなる。だからこれは恋する力が強いのが悪いのではなく、知性や意力が弱いのがいけないのだ。奔馬のように狂う恋情を鋭い知性や高い意志で抑えねばならぬ。私の場合ではそれほどでもない女性に、目くもって勝手に幻影を描いて、それまで磨いてきた哲学的知性もどこへやら、一人相撲をとって、独り大負傷けがをしたようなものだ。これは知性上から見て恥である。

       飢えと焦り

 青年はあまり恋に飢え、恋の理想が強いとこうした間違いをする。相手をよく評価せずに偶像崇拝に陥る。相手の分不相応な大きな注文を盛りあげて、自分でひとり幻滅する。相手の異性をよく見わけることは何より肝要なことだ。恋してからは目が狂いがちだから、恋するまでに自分の発情を慎しんで知性を働らかせなければならぬ。よほどのロマンチストでない限り、一と目で恋には落ちぬ。二た目でそれほどでないと思えば憧憬は冷却する。自分で、自分を溺らすのが一番いけない。それほどでもない異性を恋して、大きな傷を受けるほど愚かしいことはない。
 ときとして、性格によっては、恋人が欲しくてたえられないときがあるものだ。それは愛と美との要求が高まって相手が欲しくてたまらなくなるのだが、そんなとき気違いじみたことを考えるものだ。私は上野公園で音楽学校の女生徒をいちいち後をつけて、「僕を愛してくれますか」ときこうかと真面目に思ったことがある。そんなときは一番危ない。これはそんなにあせらずとも、待っていれば運命は必ずチャンスを与えるのだ。自分がまだごく若く、青春がまだまだ永いことが自分に考えられないのだ。二十五歳まで学生時代全然チャンスがなくっても心配することはない。ましてそんなことはあり得ないことだ。恋愛のチャンス、女をる機会にこと欠くようなことは絶対にない。ヴィナスが自分の番をかえりみてくれる摂理を待つべきだ。学生の場合早すぎるのは危険な場合が多いが、遅いのは心配することはない。

       恋をあさる害毒

 その青春時代を早期から、多くの恋愛を経験したいというような考えは捨て去らねばならぬ。何故なら、自分たちはいま結婚前であり、その準備時期にあることを忘れてはならないからだ。美しい恋愛から結婚に入らねばならぬ。それは人生の大儀だ。結婚後に性の問題に多少心ゆるむことはまだしも許される。結婚前には心を張り、体を清くして、美しい恋愛に用意していなければならぬ。自分の妻を、子どもの母をきめんための恋愛だからだ。結婚前に遊戯恋愛や、情事をつみ重ねようとすることは実に不潔な、神聖感の欠けた心理といわねばならぬ。不潔なもの、散文的なもの、いかがわしいものはすべて壮年期に押しやって、その青春の庭をできるだけ浄く保たねばならぬ。そしてともかくその庭で神聖な結婚式を挙げねばならぬ。
 嫌悪すべき壮年期が如何に人生のがらくたを一杯引っくり返してあらわれてこようとも、せめて美しく、清らかな青春時代を持たねばならぬ。ましてその青春を学窓にあってすごし得ることは、五百人に一人しか恵まれない幸福である。それは学生諸君が自分で気のつかない実に大きな幸福であって、学びつつある姿勢の下で、かつ想いかつ恋し得ることは、この人生における天国ともいうべきものなのである。清らかな、熱き恋をしなければならぬのは当然な義務である。汚れた快楽など思うべきものではない。
 学生時代に汚れた快楽に習慣づけられた青年の行く先きは必ず有望なものでない。それは私の周囲に幾多の例証がある。社会的にも、人間的にも凡俗にちて行っている。その原因は肉体的快楽を知ることによって、あまりに大人おとなとなり、学窓の勉強などが子どもじみて見え、努力をつみ重ねて行く根気を失うところにあるのだ。努力をあまりつまずして具体的効果を得たいという、最もいとうべき考え方の傾向が必ずそれについで起こるものだ。そしていうまでもなく、社会はそうした傾向に対して最も冷淡に報いるものだ。彼らが社会的に輝やかしい地位をかち得ないのは当然である。
 汚れた快楽を追うことの今ひとつの害毒は浪費である。このことは卒業後の生活の物質的計画をきわめて困難な、不可能に近いものに考えさせるようになる。物質的清貧の中で精神的仕事に従うというようなことは夢にも考えられなくなる。一口にいえば、学生時代の汚れた快楽の習慣は必ず精神的薄弱を結果するものだ。そして将来社会的に劣弱者となって、自らが求めた快楽さえも得られないという、あわれむべき状態に堕ちる恰好の原因となるものだ。

       遊戯恋愛の習慣

 肉慾にまで至らない軽い遊戯恋愛の習慣はこれとは別の害毒を持つものである。すなわちそれは「軽薄」という有為な青年に最も忌むべき傾向である。うち明けていえば、私はこの種の「薄っぺら」よりは、まだしも獲得の本能にもとづく肉慾追求の青年をとるものだ。「銀ぶら」「喫茶店めぐり」、背広で行くダンス・ホール、ピクニック、――そうした場所で女友を拾い、女性の香気を僅かにすすって、深入りしようとも、結婚しようともせず、春の日を浮き浮きとスマートに過ごそうとするような青年学生、これは最もたのもしからぬ風景である。彼らが浮き浮きとでなく、憂鬱にそうしているならなおさらつまらない。彼らの若い胸には偉大にして、深刻なる思想は訪ずれないのであろうか。時代が憂鬱ならば時代を転換せんとの意欲は起こらないのか。社会革新の情熱や、民族的使命の自覚はどこにおき忘れたのであろう。反逆の意志さえなきにまさるのである。永遠の恋、死に打ちかつ抱擁、そうしたイデーはもう「この春の流行」ではないとでも思っているのであろうか。
 ヤンガー・ゼネレーションのこうした気風は私を嘆かしめる。私は彼らに時代の熱風が吹かんことを望まずにはおられぬ。

       失恋の場合

 こちらで思う人が自分を思ってくれない場合、いわゆる片恋かたこいの場合にもいろいろある。胸の思いはいや増してもどうしてもうまくいかないことがある。原則としては恋愛というものは先方に気がなければ引き退るべきはずのものだ。しかし相手の娘の愛がまだ眠っていて目ざめないことがあるものだ。こちらの熱情がそれを呼びさまし、相手の注意がこちらに向いて、ついに熱烈な相思の仲になることもあるものだ。先方が稚い娘であるときにそうしたことがある。が、それにはよほどの熱誠と忍耐とがいるものだ。
 が、それにもかかわらずどうしてもうまくいかぬことがある。これが失恋のひとつの場合である。その淋しさはいうまでもない。この寂寥を経験した人は実に多い。
 それから誓いあった相手に裏切られた場合がある。今ひとつは相手に死なれた場合だ。このいずれの場合にも、その悲傷は実に深い。しかし人間はこの寂寥と悲傷とを真直ぐに耐えて打ち克つときに必ず成長する。たましいは深みと輝きをます。そのとき自暴になったり、女性呪詛者になったり、悲しみにくず折れてしまってはならぬ。思いが深かっただけ傷は深く、軽い慰めの語はむしろ心なき業であるが、しかも忍び通さねばならないのだ。これを正しく忍び通した者は一生動かない精神的態度の純潤性と深みとを得る。死なれた場合が最も悲しみが永い。しかしこれとても時と摂理のいやしの力が必ず働くものだ。いやされるということさえもかえって淋しいことなのだが、しかし一生ただ一回の失った恋の思い出だけに生きるということは、人間の浪曼性くらいではまずないことだ。
 摂理は別の恋愛を恵むものだ。そして今度は幸福にいく場合が多い。恋を失っても絶望することはない。必ず強く生きねばならぬ。
 しかし今日の青年学生にそんな深い失恋の苦しみなどするものがあるものかという声が、どこからか聞こえてくるのはどうしたものだろう。
 恋する力の浅くなることは青年の恥である。それはやがて、祖国にささげ、仕事にささげる力の弱さである。

       誘惑

 悪い方面をあげれば、肉慾狩猟や、「軽薄」のほかに「女たらし」と呼ばれる詐偽的情事がある。すなわち将来学士となるという優越条件を利用して、結婚を好餌として女性を誘惑することだ。これは人間として最も卑怯な、恥ずべき行為である。どんなことがあっても、これだけはやってはならない。これはもう品性の死である。こうした行為をする者が将来社会に出て何を企てるであろうか。そうした品性のものは社会で必ず破滅するものだ。末路は必ずよくない。社会はあまいものではないのである。
 反対にその優越条件に目をつけて、青年学生を誘惑しようとするたちのよくない女性があるに相異ない。純良な、世間知らずの学生がこの種の女に引っかかって、あたら青春の記憶を汚す例は少なくない。そのくらいではすまず、かなり大きな傷と負担を背負わされることがある。ことに妊娠というようなことにでもなれば、抜き差しならぬ破目はめに陥ることがある。これは充分警戒しなければならぬことだ。ダンサー、女給、仲居、芸者等いわゆる玄人くろうとの女性は気をつけねばならぬ。ことに自分より年増としまの女は注意を要する。

       男女交際と素人、玄人

 日本では青年男女の交際の機会が非常に限られていることは不便なことだ。そのためにレディとの交際が出来難く、触れ合う女性は喫茶ガールや、ダンサーや、すべて水稼業しょうばいに近い雰囲気のものになるということは嘆くべきことだ。もっと男女選択のチャンスの広くなるような、美しい賢明な男女交際の機関をこしらえてやることは社会的義務であると思う。
 しかし如何に機会乏しくとも青年学生はその恋愛の相手をレディに求めよ。水稼業の女性はいかに美しく、磨きあげられていても、尋常なレディに及ぶものではない。比較的に見るとき、レディにはそのナイーヴさ、素純さ、処女性の新鮮さにおいて、玄人くろうとにはとうてい見出されない肌ざわりがあるのだ。「良家の娘」という語は平凡なひびきしか持たぬが、そこにいうにいわれぬ相異があるのだ。一度媚びを売ることを余儀なくされた女性は、たとい同情に価はしても、青年学生の恋愛の相手として恰好なものではない。
 もとより「良家の娘」にもそのマンネリズムと、安易さと退屈とはあろう。しかしそれは熱烈なる「愛人教育」によって打破し、指導し得られぬことはない。だがひとたび不幸にしてその女性としての、本質を汚した女性、媚を売る習慣の中に生きた女性を、まだ二十五歳以下の青年学生の清き青春のパートナーとして、私は薦めることのできないものである。
 彼女たちにはまた相応しき相手があるであろう。
 いわゆる玄人でない職業婦人は別問題である。今日の状勢において、これはレディの延長と見なければならぬ。卒業後の結婚の物質的基礎を考えるとき、夫婦の「共稼ぎ」はますます普通のこととなり行く形勢にある。のみならず職業婦人には溌剌とした知性と、感覚的新鮮さとを持った女性がふえつつある。古き型の常套的レディは次第に取り残され、新しき機能的なレディの型が見出されつつある。青年学生の青春のパートナーとして、私が避けたいのは媚を売る女性のみである。
 私の経験から生じる一般的助言としては、「恋愛にあせるな」「結婚を急ぐな」と私はいいたい。二十五歳までの青年学生が何をあわてることがあろう。美しき娘たちは後から星の数ほどむらがり、チャンスはみちみちている。あまり早期に同じ年ごろの女性と恋愛し、結婚の約束をしてしまうことは、後にいたってあまり好結果でないことが少なくない。ことに不幸な娘に同情してそうするのが一番よくない。年齢の差が少なくとも五つ、六つ――十くらいはありたいが、二十二、三歳で相手を求めればどうしても齢が近すぎる。といって、十四、五の少女では相手になれまい。

     八 最後の立場――運命的恋愛

 しかしこうした希望はすべて運命という不可知な、厳かなものを抜きにして、人間的規準をもって、きわめて一般的な常識的な、立言をしているにすぎないのである。
 最も厳かな世界では一切の規準というものはない。そこでは恋愛もまた運命である。選択は第二義にすぎぬ。童貞の学生が年増の女給と愛し合おうと、盲目の娘と将来を誓おうと、ただそれだけで是非をいうことはできない。恋愛の最高原理を運命におかずして、選択におくことは決して私の本意ではない。それは結婚の神聖と夫婦の結合の非功利性とを説明し得ない。私は「運命的な恋愛をせよ」と青年学生に最後にいわなければならないのだ。私自身は恋愛が選択を越えたものであることを認め、またそうした恋をせずには満足できなかったものだ。青年学生がそれに耐え得るほど強く、人生の猛者であり、損害と不幸とを顧みずして運命を愛する真の生活者でありたいならば、私はこの保身と幸福にはまるで不便な、「恋愛運命論」によって、その恋愛を指導することを勧めたい。
 われわれはちょうどわれわれの幸福と成功とに恰好な女性と、恰好な時機に、そうである故に、恋に陥るとはかぎらない。何の内助の才能もなく、一生の負荷となるような女性と、きわめて不相応な時機に、ただ運命的な恋愛のみの故で、はなれ難く結びつくことはあり得るものだ。そして恋愛と結婚との真実の根拠はこの運命的な恋愛のみの上にあるのであって、その他は善悪とも付加条件にすぎないのである。この相手の女性は美しいから、善いから、好都合だから私の妻なのではない。二人の恋愛の中に運命を見たから、二人は夫婦なのだ。
 もとより夫婦を結ぶ運命は恋愛を通してあらわれ、恋愛の心理は無意識選択のはたらきを媒介とする。しかし二人の結合を不可離的に感ぜしめる契機はこの選択になくして、かの運命にあるのだ。
 私のこのような信念からは、青年学生への、実際的に有益な、恋愛についての心得を導き出すことは困難である。実際的とか、有益とかいう観念からして、もはや厳しい真理かられたものだからだ。
 恋愛を一種の熱病と見て、解熱剤を用意して臨むことを教え、もしくは造化の神のいたずらと見てユーモラスに取り扱うという態度も、私の素質には不釣り合いのことであろう。
 かようにして浪曼的理想主義者としての私の、恋愛運命論を腹の底に持っての、多少生真面目な、青年学生諸君への助言のようなものができあがったのである。
(一九三七・四・二〇)

     参考書のたぐい

Platon : Symposion, Phaidros.
Dante : Vita nuova.
Goethe : Die Leiden des jungen Werthers.(茅野訳)
Schopenhauer : Die Welt als Wille und Vorstellung.(姉崎訳)
Stendhal : De l'amour.(前川訳)
Russell : Marriage and morals.
Ellen Key : Love and marriage.(原田訳)
Freud : Vorlesungen zur Einfahrung in die Psychoanalyse.(安田訳)
Kollontai : A great love.(中島訳)
Tolstoi : Anna Karenina.(中村訳)
Shakespeare : Romeo and Juliet.(坪内訳)
Maeterlinck : Pell※(アキュートアクセント付きE小文字)as et M※(アキュートアクセント付きE小文字)lisande.
D'anunzio : Il trionfo della morte.
Rousseau : Confessions.(石川訳)
Turgenev : Die erste Liebe.(米川訳)
Pushkin : Onegin.(米川訳)
Heine : Buch der Lieder.
Novalis : Hymnen an die Nacht.
Romain Rolland : Le jou de l'amour et de la mort.(片山訳)
D. H. Lawrence : Sons and lovers.(三宅訳)
Andr※(アキュートアクセント付きE小文字) Gide : La porte ※(アキュートアクセント付きE小文字)troite.(山内訳)
万葉集、竹取物語、近松心中物、朝顔日記、壺坂霊験記。
樋口一葉 にごりえ、たけくらべ
有島武郎 宣言
島崎藤村 春、藤村詩集
野上弥生子 真知子
谷崎潤一郎 春琴抄
倉田百三 愛と認識との出発、父の心配





底本:「青春をいかに生きるか」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年9月30日初版発行
   1967(昭和42)年6月30日43版発行
   1981(昭和56)年7月30日改版25版発行
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2005年9月10日作成
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