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私の信仰を言いますと、念仏申さるるように生きるという一語に尽きる。
私はその生活原理を何で決めるかと言えば念仏申さるるように生きるということによって
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では何故念仏申さるるように生活の第一原理をきめるのか。それは私はいろいろやって来たが他のものでは不可能だったからである。私はどうして生れて来たのか知らなかったが、十八九の時、とにかく生きているということに気づいてから何をやって来たかと言えば、どういう風に生きることが最も正しいかということを二十何年も考え通して来た。そして結局念仏申さるるように生きることが最も正しいと分ったのであった。
ではどうしたら念仏申さるるように生きることが出来るかと言えば、第一正しい人間になろうということを考えねばならぬ。第二は生きて行くためには色々な自分の興味をひくところのもの、立身出世をしたいという欲望、友達との愛、恋愛、美しい自然を鑑賞する、いろんな芸術にふれる。そうした人生の欲望というものを、はじめはいいの悪いのと言わないで、自分の欲しいものは何でも欲しいその大きな執着心を起さねばならぬ。それが生きることの動機であるから、その欲望を起すことが必要である。
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その上にいい人間になろうと考えねばならない。正しいことには千万人と
よい人間、欲望をおこさず道徳的な考えばかりを持つ人も信仰に到達しない。この二つのものがあってこそ二つの衝突がある。生命の機構がそういう風に出来ているから必ず衝突する。その時この衝突をどうして切り開いて行くか。この問題にぶっつかった時、どうしても他の方法に依っては解決が出来ない。
たとえば何よりも大きい問題は犠牲ということである。我々が生きて行くためには犠牲なしには生きられない。生命が存在し成長して行くためには法則がある。そこには犠牲なしには生きて行けない。生存競争にうち勝って犠牲の屍を築いてこそ生きられるのである。
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悪いことをしなければ生きられない人間、悪を許されない人間、その人間が善でもない悪でもない一つの命を押し切って行かねばならない。そのたった一つの道が南無阿弥陀仏である。
念仏申さるるように生きると言えば古くさいようであるが、今日の言葉で言えば
そのままを肯定するより外ないものが実相である。生命の機微というのが善でもない悪でもない実相である、その機微にふれることが信仰生活である。そのままうけ入れるということが信仰の極致である。
たとえば私が道を歩いていたら魚の頭がころがっていて、そこへ蠅がブーンと飛んで来たとする。その魚はかつては海で泳いでいたものを、
私はかくして人生の事実を念仏申さるるように生きている。そこまで到達しないならばまだ信仰に徹してはいないのだと私は考える。