念仏と生活

倉田百三




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 私の信仰を言いますと、念仏申さるるように生きるという一語に尽きる。法然ほうねん上人も、この世を渡るには念仏申さるるように生きよと仰せられた。念仏者のイデオロギーは念仏がとなえられるように生きて行くということである。そのきめ方は色々あるであろう。倫理的な生き方もあり、国のためになるように生活原理を立てることもあろう。共産主義者ならば労働者のために役立つように生きて行く。恐らく皆さんもそうして生きて行っている訳であろうと思う。
 私はその生活原理を何で決めるかと言えば念仏申さるるように生きるということによってめる。いろいろなことを知っていながら、いろいろな出来事がありながら、それを総括する根本原理は常に念仏申さるるように生きるそれが南無阿弥陀仏の信仰である。念仏申さるるように生きることそのことが真宗信仰の生活である。これはいいか、これは間違いではないか、という生活は不安であり、同時に元気がない。ところが念仏申さるるように生きると元気が出る。

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 では何故念仏申さるるように生活の第一原理をきめるのか。それは私はいろいろやって来たが他のものでは不可能だったからである。私はどうして生れて来たのか知らなかったが、十八九の時、とにかく生きているということに気づいてから何をやって来たかと言えば、どういう風に生きることが最も正しいかということを二十何年も考え通して来た。そして結局念仏申さるるように生きることが最も正しいと分ったのであった。
 ではどうしたら念仏申さるるように生きることが出来るかと言えば、第一正しい人間になろうということを考えねばならぬ。第二は生きて行くためには色々な自分の興味をひくところのもの、立身出世をしたいという欲望、友達との愛、恋愛、美しい自然を鑑賞する、いろんな芸術にふれる。そうした人生の欲望というものを、はじめはいいの悪いのと言わないで、自分の欲しいものは何でも欲しいその大きな執着心を起さねばならぬ。それが生きることの動機であるから、その欲望を起すことが必要である。

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 その上にいい人間になろうと考えねばならない。正しいことには千万人といえども行く。この二つのもののどちらもが生命の中に強くなければならぬ。それが無いことは生命に対して真面目でないことである。その二つの欲望が弱いならば、信仰はいらない。いい加減のところに落ちつくていのものである。この二つの欲望が弱くては信仰に到達し得ない。
 よい人間、欲望をおこさず道徳的な考えばかりを持つ人も信仰に到達しない。この二つのものがあってこそ二つの衝突がある。生命の機構がそういう風に出来ているから必ず衝突する。その時この衝突をどうして切り開いて行くか。この問題にぶっつかった時、どうしても他の方法に依っては解決が出来ない。
 たとえば何よりも大きい問題は犠牲ということである。我々が生きて行くためには犠牲なしには生きられない。生命が存在し成長して行くためには法則がある。そこには犠牲なしには生きて行けない。生存競争にうち勝って犠牲の屍を築いてこそ生きられるのである。

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 悪いことをしなければ生きられない人間、悪を許されない人間、その人間が善でもない悪でもない一つの命を押し切って行かねばならない。そのたった一つの道が南無阿弥陀仏である。親鸞しんらんは「総じてもって存知せざるなり」と言った。それは、悪をも恐れず、善をも願わず、南無阿弥陀仏の一道を生活して行こうと言う所まで到達してこそはじめて発せられる言葉である。
 念仏申さるるように生きると言えば古くさいようであるが、今日の言葉で言えば実相観じっそうかんに生きることである。実相観とは人道主義ではない。実相主義を人道主義に結びつけようとすれば、それはつけ焼刃になってしまう。そうした善悪をとび超えた所、二つのものを一つに還元しようとするのが実相観である。実相とは言葉で言うことは出来ない。事実というものは無縫のもので、これが事実だとつかまえようとすればその事実がはっきり分らなくなって来る。
 そのままを肯定するより外ないものが実相である。生命の機微というのが善でもない悪でもない実相である、その機微にふれることが信仰生活である。そのままうけ入れるということが信仰の極致である。
 たとえば私が道を歩いていたら魚の頭がころがっていて、そこへ蠅がブーンと飛んで来たとする。その魚はかつては海で泳いでいたものを、漁師ぎょしがとって、そして人がそれを買ってお蔬菜そさいにして食って、その頭を捨てた。そこへ青蠅あおはえが飛んで来て食っているのである。その事実を見て、それがいいとか悪いとか考えずに事実を事実として感じたところが実相である。人生もまたこうして出来ているものである。
 私はかくして人生の事実を念仏申さるるように生きている。そこまで到達しないならばまだ信仰に徹してはいないのだと私は考える。





底本:「仏教の名随筆 2」国書刊行会
   2006(平成18)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「仏教生活」
   1933(昭和8)年9月号
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2018年1月27日作成
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