男子の本懐

A WISH FULFILLED

(「願望成就」)

小泉八雲 Lafcadio Hearn

林田清明訳




汝、その肉体を離れ、自由なる天空に入りし時、不死なる永遠の神とならん ――もはや死といえども、汝を支配すること忽らん
――ギリシア古詩歌


 市街地の通りには白い軍服姿とラッパの響き、それに野戦砲の重々しい軋みがあふれていた。日本の軍隊が朝鮮を征服したのは史上三度目である。清国に対する日本帝国の宣戦布告(a)は、地元新聞紙が赤紙に印刷して公にされた。帝国の全戦力はこの熊本に結集しつつあった。集結しては通過していく軍隊を兵舎や旅館それに寺院だけでは賄いきれなかったから、多くの兵士たちは民間の家にまで宿泊が割り当てられた。それでもなお宿泊施設が足りないので、特別列車をしつらえて兵隊たちを出来るだけ速やかに九州北部に輸送していた。そこの下関には輸送船が待っているのだった。
 このような動きの激しさとは対照的に、市中は驚くほど静寂を保っていた。兵隊たちは、授業中の日本の少年たちのように大人しく、穏やかだった。威張り散らしたり、無鉄砲なことをしたりするようなお祭り騒ぎはなかった。お寺の境内では僧侶たちが兵士の一団に説教をしている。また、軍の練兵場では、大祭礼が、わざわざ京都の本山から招かれた浄土真宗の大僧正によって執り行われた。彼によって、何千人もの兵士たちが阿弥陀の御加護の下に置かれるのであった。若者の一人一人の頭の上に抜き身の剃刀が置かれていった。それはこれからは世俗の煩悩を捨て安らかな世界を究めていくという象徴であり、兵士たちを仏の弟子とする帰敬式ききょうしきであった。仏教よりもっと古い信仰である神道の神社では、神官と人々が、かつて天皇のために戦って死んだ英霊に、またいくさの神々に祈りを捧げていた。藤崎宮では、神符が兵士たちに配られていた。なかでも一番盛大な式が本妙寺で行われていた。そこは日蓮宗の古刹であり、また三〇〇年程前に朝鮮を征伐し、キリスト教を禁制とし、仏教の庇護者であった加藤清正の遺灰を安置しているのである。本妙寺では、参詣者たちが南無妙法連華経と唱える読経の声が、あたかも打ち寄せる波のように響き渡っている。また、本妙寺では、神格化された英雄である清正公の像をあしらった、小さいお寺の形をした小振りの御守を買い求めることができる。本妙寺の大きな本殿とそれに連なる長い参道に沿って並んでいる小さな社では特別な読経が行われていたし、また、神明の加護にすがるべく、清正という英雄の霊魂に格別の祈りが捧げられていた。この三世紀の間、清正公の鎧、兜それに太刀が本堂に安置されていたが、それらはもう見ることができない。ある者によれば、軍隊の士気を高めるためそれらは朝鮮に送られたのだという。また他の者の噂では、天子の軍隊を今一度勝利へと導くために、清正公の勇敢な亡霊が長い眠りの埃りの中から目覚めて立ち上がり、夜ごとに境内では馬蹄の音を響かせて往き来しているのだという。日本国中から召集された勇猛かつ純朴な若者である多くの兵隊たちが、これらの話を疑いもなく信じているであろう――それはちょうどマラトンの戦いで、ギリシアの兵士たちが伝説上の英雄テセウスの存在を信じたように、である。ましてや、新たに召集された新兵たちには、熊本の地そのものがかの偉大なる軍将の伝説によって神格化されており、驚嘆すべき場所と思えただろうし、また、この城そのものも清正が朝鮮で猛攻撃した要塞のプランも取り入れて築城されており、世界の驚異とも見えたであろう。
 こうした慌ただしい軍備にもかかわらず、一般の人たちは普段と変わらず平静のままであった。外から見たくらいでは、外国人であるよそ者には彼らの一般的な感情を推し量ることはできないであろう(1)。大衆が静かなことは日本人の特徴である。個人と同じように、民族としても感情がより深く動き始めると、その外見上はますます自制的となるのである。天皇は朝鮮にいる軍隊に御下賜品を送られ、また、父たる愛情のこもったお言葉を賜われた。市民たちも、この畏れ多い例に習って、酒、食料品や日用品、果物、珍味、煙草などありとあらゆる種類の寄贈品を船で輸送した。高価な物品を購うことのできない者たちは、草鞋を作っている。全国民が戦時基金に寄附をしている。熊本はけっして裕福な街ではないのだが、貧しい者も富める者もみな、その忠誠を示そうとして熊本市にできうるかぎりの協力を惜しまなかった。自発的な自己犠牲という貴い慈善の下に、商人たちの小切手が、職人の一円札や労働者の銀貨が、それに車夫の銅貨が皆ごたまぜに一体となって寄付されている。子どもたちさえもそうしている。愛国精神の発露は微塵も挫かれてはならないという理由から、子どもらの国を思う志も受け入れられているのである。しかし、予備兵役の兵士たちは――突然の召集に応じなければならなかった既婚者たちであるが、生計の手段のない妻や幼子たちと突然に別れなければならなくなったので――その出征留守家族を援護するための特別の募金運動が街頭で行われている。これらは市民たちが自発的にあるいは心から寄附しようと思ったことである。自分たちの背後には、こうした無私の愛情があると知った兵士たちは、期待される本分以上の務めを尽くすだろうと誰もが考えるに違いない。
 そして、事実、彼らはそうしたのであった。

注(1)
 これは一八九四(明治二七)年の秋に書かれたものである。この国民の熱気は集中しており、また、静かだった。しかし、表面上の静けさの下には古い封建時代のあらゆる残酷さがくすぶっていた。政府は、たくさんの志願兵たち――主に剣客たちの志願を辞退しなければならなかったほどだった。このような志願を募ったとしたら、おそらく一週間の内に十万人もの男たちが志願したのではないかと思われる。しかし、戦争の精神は、異常というよりも悲惨な、別の面から現われてきた。兵役の機会を拒否されたというので、自死する者がたくさん出てきたのである。地方新聞から不思議な事実をいくつか拾ってみよう。ソウル駐在の憲兵は、大鳥圭介大使が帰国するのを警護するように命じられたため、戦線に出られないことを口惜しく思って自死した。石山という将校は、朝鮮へ向けての出発の日に、病気のために隊に戻ることが出来なかったので、病床から起き上がり、天皇の御真影を拝んだ後に、自らの剣で自殺した。大阪では、池田という兵士が軍紀に反したという理由で、戦線に赴く許可が出されなかったためにやはり刀で自死した。混成旅団の可児大尉は、自分の隊が忠州近くの要塞を攻撃中に病気になってしまい、意識不明で病院へ収容された。一週間後に恢復すると、自分が倒れた場所に(十一月二八日)出かけ、自死した――残された遺言は、デイリー・メイル社の翻訳によるとつぎのようである。「私は病気のためにここに止まり、為に隊長たる自分なくして部下に攻撃をなさしめた。私は人生におけるかくの如き恥辱をぬぐい去ることはできない。ゆえに、自分の名誉のために死を以て償う。この遺書を以て、自分の意を述べる次第なり。」
 東京のさる中尉は、自分が出征すれば母のいない、まだ幼い我が娘を世話することができないので、娘を殺害した上で、この事実が明らかになる前に隊に戻った。中尉は、その後、戦地で死に場所を求めて死んだ。これは我が子を冥土へ旅出させるつもりだったのである。このことは、私たちに封建時代の凄まじい精神を思い起こさせるものである。サムライは、勝ち目のないいくさに出陣するときには、時として自分の妻子を殺害した。これは戦場で武士が忘れ去るべき三つの事柄が存在するためである――すなわち、家、愛する者たち、そして自分の命である。残忍凄惨ともいえる壮烈な所業の後に、サムライは死にものぐるいとなる――つまり微塵の躊躇や猶予も与えず――「死をも恐れぬ」決意の――心構えができるのである。




 兵隊さんがお会いしたいと言っておられますが、と万右衛門が取り次いだ。
「おお、万右衛門よ、もしや我が家に兵隊さんが割り当てられたのではなかろうね! ――この家は狭すぎる! 用件は何か聞いておくれ。」
「そうしたのですが、先様は旦那さんを存じ上げているとおっしゃいますんで」
 私が玄関に出て行くと、軍服姿の立派な若者が立っていた。私が出てくるや帽子を取って、微笑んだ。私はすぐには誰だか分からなかったが、その微笑みにはどこか懐かしいものがあった。以前どこかで会ったことがあるのだろうか?
「先生、もうお忘れですか?」
 またも不思議に思って彼を見つめた。そうしたら、静かに笑いながら名前を名乗った。
小須賀麻吉こすがあさきちであります」
 心臓も飛び出さんばかりにとてもびっくりしたが、両手を差し伸べて「おお。さあ、お入り、お上がり」と私は叫んだ。「大きくなって、立派になったねぇ! 君と分からなくても無理からぬはずだよ」
 彼は少女のようにはにかんだ。軍靴を脱ぎ、帯剣を解いた。私は小須賀が、クラスで同じようにはにかんでいたことを思い出した。答えを間違えたときや誉められたときだ。彼は、松江の中学校で恥ずかしがりの十六歳の少年であったときと同じように、明らかにまだ若い心をしていた。青年はお別れの挨拶をするために私を訪う許可を軍隊からもらっていた。彼の所属する隊は、明朝には朝鮮に向けて出発する予定だった。
 夕食を共にして、出雲や杵築きづきの――懐かしい頃や多くの愉快だった事柄について語り合った。はじめにワインを少し飲まないかと勧めてみたが、彼は辞退した。私は知らなかったが、軍隊にいる間は決して酒を飲まないと母親と約束しているのだそうだ。代わりにコーヒーを勧めて、彼自身のことを話すように仕向けた。彼は中学校を卒業すると、裕福な農家である実家に戻って、手伝いをしていた。学校で農業について勉強したことがとても役に立ったと言った。一年ほど経った頃、小須賀青年も含め十九歳に達した村の若者たちは、村の寺に集められて身体検査および学科試験の兵役検査を受けた。軍医の検査官と少佐の評議の結果、彼は一番で合格した。翌年に入営するように召集されたのであった。十三ヶ月におよぶ訓練の後に、伍長に昇進した。軍隊を気に入っていた。名古屋に駐屯したのち、東京に行った。けれども、自分の隊が朝鮮に送られないことが分かって、熊本の師団に転属を願い出ると、これはうまく認められた。その顔は兵士としての喜びに満たされた顔をしていて、「今、自分は大変喜んでおります」と言った。
「自分は、明朝出発致します」そう言ったとき、彼は再び顔を赤らめた。それは、あたかも自分の素直なうれしさを述べてしまったことを恥じるかのようであった。このとき、私はトーマス・カーライルの含蓄ある言葉を思い浮かべた。それは、本当の心を引き出すのは、快楽ではなく艱難辛苦と死であるというものだった。また私は思った――今までどの日本人にも言えなかったのであるが――この青年の眼の中にある愉悦は、婚礼の日に花婿の眼の中にある慈愛の他には、以前にも見たことがなかったものである、ということである。
「覚えているかい? いつか教室で君が天皇陛下のために死にたいと言ったときのことを」
「はい、覚えております」彼は照れ笑いしながら答えた。「そして、ついにその機会が到来しました――自分ばかりではなく、自分の学級の何人かの級友にとっても、であります」
「みんなはどこいる? 君と一緒かい?」と私は尋ねた。
「いいえ、連中はみな広島の師団におりましたが、今はもう朝鮮におります。今岡(先生は覚えておられますか、とても背の高い奴です)、そして長崎と石原の――三名とも成歓の戦い(b)で一緒でした。それに自分たちの教練の教官だった中尉殿を――覚えておられますか?」
「藤井中尉だね、覚えているよ。彼は退役軍人だった。」
「中尉殿は予備役だったので、この度朝鮮に出征されました。先生が出雲を去られた後に、息子さんがまた生まれたんです。」
「私が松江にいたときには、たしか娘二人に息子一人がいたね」と私は答えた。
「はあ、今では息子さんが二人です」
「それじゃ、きっと残された家族は中尉のことをとても心配しているに違いないね?」
「それが中尉殿は露ほども心配されておりません」青年は答えた。
「戦争で死ぬことはとても名誉なことであります。お国が遺族の面倒を見てくれるでしょう。それで、自分たちの上官殿たちは恐れてはいません。ですが――息子がいなくて死ぬことはとても悲しいことです」
「私にはわからんな」
「西欧でも、そうではないのですか?」
「むしろ、子どものある男が死ぬのはとても悲しいことだと思うがね」
「しかし、どうしてでありますか?」
「良き父親というのは自分の子どもたちの将来を心配しているものだからね。突然に逝ってしまったら、子どもたちは大きな悲しみを背負うことになるよ」
「自分たちの上官殿の家族においてはそのようなことはありません。その親類が遺児の面倒をよく見てくれるでしょうし、またお国からは軍人恩給として遺族には扶助料が給付されます。ですから、父親には後顧の憂いなどありません。ただ、子どものいない者にとっては死は気の毒なことになります」
「君が言っているのは、妻と残された遺族にとって気の毒なことということだね」
「いいえ、違います。私が言っているのは、男子自身つまり夫にとって、という意味です」
「それはまた、どうしてかね? 息子は死んだ男にとって何の役に立つのかね」
「男の子は家を継承します。男の子は家名を継ぎますし、また供養もします」
「死者への供養かね?」
「はい、そうです。納得していただけましたでしょうか?」
「私は事実は理解するが、気持ちは分からない。軍人という者は、このようなものを信じているのかね」
「もちろんです。西欧にはかような信念はないのですか?」
「現在ではないね。大昔のギリシア人やローマ人ならそのような信念を持っていたことがあった。彼らは、自分たちの先祖の霊魂が家の中に宿り、供養を受け、家族を見守るものであると考えていた。なぜ彼らがそう考えたのか、私たちは、その一部なら分かる。けれども、彼らがどのように感じたかまでは、今日の我々が詳しく知ることはできない。なぜなら、私たちが経験しなかった、あるいは私たちが引き継がなかった感情を理解することはできないからだ。同じ理由から、死んだ人に関する日本人の本当の感情といったものを私は知ることはできない」
「それでは先生は死はあらゆるものの終焉を意味するとお考えなのですか?」
「それは、私が不可解であると考えていることの説明にはならないね。ある感情は受け継がれる――おそらく、ある観念も。君たちの、死者に対する感情や考えは西洋のものとはまるで違っている。私たちにとって、死の観念というものは、まったくの別離つまり生きている者からだけではなく、現世からの分離なんだよ。仏教にも死者が辿らなくてはならない長く暗い旅についての教えがあるでしょう?」
「冥土への旅のことですか――そうです。誰でもこの旅をしなければなりません。けれども私たちは死を完全な別離だとは考えておりません。死んだ者は私たちと共にいると思っているのです。現に、私どもは毎日彼らに話しかけています」
「それは分かっている。私が分からないのは、事実の背後にある観念だ。もし死者が冥土に行くなら、なぜ供養が仏壇の先祖たちになされなければならないかということだよ、また、お祈りは先祖たちが本当に存在しているかのように唱えられているかい? 一般の人たちは仏教の教えと神道の信仰とをこんな風に混同しているのではないのかね?」
「たぶん、多くの人たちはそうかもしれません。けれども、仏教だけを信じている者においてさえも、死者への供養とお祈りは同じ時に異なった場所でなされています――檀家のお寺で、そして、また自分の家の仏壇の前で」
「しかしだね、どのように霊魂が冥土にいると考えられ、また、同時に他の種々な場所にもいると信じられるだろうか? かりに霊魂が多数存在すると考えられたとしても、このことは矛盾を説明したことにはならない。仏教の教えによれば、死者は裁かれるからだ」
「私たちは、死者の魂は一つでもまた複数でも存在すると信じています。一人の人間のものだと思っています。私たちは空気の流れのように、一時に多くの場所に存在しうるようなものと考えているのです」
「あるいは、電気のようにだね?」私が示唆した。
「そうであります」
 私の若い友人にとっては、冥土の観念と家でする死者への祈りの観念とは明らかに矛盾するものではないと思われている。そして、おそらく仏教哲学の信奉者にとっても、何の重大な矛盾も含んでいないのであろう。法華経には、仏教世界は「無量無辺にして……虚空に遍満す」とある。涅槃に入った仏陀について、「如来の滅後に於て、十方世界に周旋往返し(此方彼方を行き巡っ)て」と言っている。また、同経典は、「無量千万億の菩薩・摩訶薩ありて、同時に湧出ゆじゅつせり」としている。仏陀は「我が分身の無量諸仏、恒沙等(ガンジス河の砂)の如く、……法をして久しく住せしめん(妙法を将来にわたって広く伝えていく)が故に、ここに来至したまえり」と宣言している。しかし、私には、庶民のごく素朴な想像力においては、神道の原始的な概念と、仏教の教えである魂の裁きというはるかに明白な教義との間には、真に合致するものは明らかにないように思えるのである。

「君たち日本人は、死というものを生と同じように、また光と同じように、本当に考えることができるのかね」と私は問うた。
「ええ、そうです」と微笑みながら答えた。「私たちは、死後も自分の家族とともにあるのだと考えています。自分の両親に、また友人たちに会えるのです――今ちょうど光を見ているようにです」
(このとき、不意に新しい意味が私にわき上がってきた。「彼の魂は永遠に宇宙を飛翔する」それは正義の人の将来についてという、ある生徒の作文の中にあった言葉である。)
 麻吉は続けて言うに、「それだから、男の子を持つ人は、何のためらいもない晴れ晴れとした気持ちで死ぬることができるのです。」
「その息子が、魂の憂いがないように供物と飲み物を供養してくれるからかね」と私はまた尋ねた。
「それだけではありません。供養の外にももっと大切な務めがあるんです。それは人というものは誰でも死後にも自分を愛してくれる者を必要としているからですよ。これでもうお分かりいただけたでしょう」
「君の言葉だけはね。つまり、君たちがそう信じているという事実だけは分かった。でもどうしても分からんのは気持ちだよ。生きている者の愛情が、私の死後も私を幸福にできるなんて考えられないねぇ。自分の死後も何らかの愛情を私自身が意識できるなんてとても想像できない。で、君はこれから戦地に赴こうとしているのだが――だったら、君は自分に息子がいないことを不幸だと思っているの?」
「自分がですか? とんでもないです。自分自身は息子なんです――次男であります。両親ともまだ存命ですし、健康であります。自分の兄が両親の面倒を見ております。ですから、たとえ自分が死んだとしても私を愛する誰かが家におります――兄弟や姉妹、それに幼い者たちもおります。自分ら兵隊は別ですよ。自分たちはほとんどが次男坊ばかりですから」
「何年間くらい死者を供養するのかい?」と私は聞いた。
「百年間です」
「たったの百年間かい?」
「そうです。お寺でさえ念仏や供養は百年間だけしかしません。」
「それでは死者は百年経てば思い出してもらえなくなるんだね? あるいは、彼らはついには消えてくなるのだろうか? 霊魂の消滅というのがあるのかい?」
「いいえ、百年後には彼らはもはや私たちと共にはいません。何時の日か、彼らは再び生まれ変わるのです。他の人によると、彼らは神になり、神として敬われるといいます。そして、ある定められた日には床の間で彼らを供養をするのです」

(これは普通に受け入れられている説明であるが、これと違う、不思議な信心について聞いたことがある。格別に優れた徳を備えた家には先祖の霊が物の形を取って、何百年経ってもときどき見ることができるという言い伝えがあった。昔のある千ヶ寺まいり(2)が、国内のある遠く離れた所で二つの魂を見たという話が伝えられている。それらは、「古い銅像のように薄黒」くて小さくて、おぼろげな形をしていた。それらは喋ることはできなかったが、それらの前に置かれた日常の食物の暖かい湯気を吸っているだけであった。それらの子孫たちが言うには、それらの魂はしだいに小さくまたおぼろげになっているそうだ。)

「私たちが死んだ者を愛すべきだというのは、とても奇妙なことだと、先生はお考えですか」麻吉が尋ねた。
「いいや」と私は答えた。「とてもすばらしいことだと思うね。西洋の異邦人の一人として私にとってみれば、そのような習慣は、現代のものではなくて、もっと古い時代の世界のもののように思われる。死者に関する古代ギリシア人の考えが現代日本人の観念により近いと考えられるよ。ペリクレス時代のアテネの兵士の感情が、おそらくこの現代の明治時代の君たちのそれと同じだろう。君は、学校でギリシア人が死者に生け贄を捧げたとか、彼らが勇敢な男たちや愛国者たちの魂に敬意を払ったとかを読んだことがあるだろう」
「そうですね。彼らの習慣の幾つかは自分たちのと似ています。中国との戦で死ぬ我が同胞もまた、敬意を払われるでしょう。彼らは神として讃えられるのです」
「けど、異国の地にあって、父の墓から遠く離れて死ぬことは、ヨーロッパ人にとってすらも、とても悲しいことであるのだよ」と私は言った。
「いや、違います。彼らの出身の村や町には、戦死者を名誉に思って祈念碑が建立されるでしょう。また、戦死した者の遺体は火葬されて、その遺灰が日本の家に送られます。そうすることが可能である場合には、そうされるでしょう。ただ大きな戦の後では、それは無理かもしれませんが」
(この時、ホメロスのイーリアスの一節がふっと浮かんだ。「軍兵の死屍 山となし、死屍焼く紅蓮ぐれんの火焔 収まるを知らず」という古戦場の情景がありありと浮かんできた。)

「今般の戦争で戦死した兵士たちの霊魂は今後の国難に際し救国のためにいつも祈念されるとは限らないんだろうね?」
「まさか。そんなことはありません。つねにおがまれます。自分たちはすべての人から敬愛され、あがめられるのです」
 彼はすでに運命づけられた者のように、ひとりでに「自分たち」と言った。しばらくして、また語りはじめた。「まだ学校におりました昨年、自分たちは行軍に行ったことがありました。意宇おうという地区の神社まで行軍したのですが、そこには英霊が祀ってありました。そこは、丘の合間のところにあって、美しくまた静かな所でした。神社の社にはとても高い樹々の蔭が差していました。そこは薄暗くて、ひんやりとした静寂な場所でした。神社の前で軍隊式に整列しました。誰も一言も喋りません。そのとき、ラッパの音が、戦闘の合図のように、神聖な森に響き渡りました。自分たちはみな、捧げつつをしました。自分の眼には涙が込み上げてきました――なぜだかは分かりません。仲間を見ますと、彼らも私と同じように感じているようでした。おそらく先生は外国人であられるので、お分かりいただけないだろうと思います。けれど、日本人なら誰もが知っていますが、そのときの心情を大変よく表している短い詩があります。それは西行法師がかなり昔に書いたものです。彼は出家する前は武士でしたが――名を佐藤義清のりきよといいます。

何ごとのおはしますかは 知らねども
     有り難さにぞ 涙こぼるる(3)

 こんな告白を聞くのは初めてではなかった。教え子の多くが聖者を祀ることによって喚起される感情や古い神社の薄暗い静寂さについてよく語っていたのである。麻吉のこの経験も、事実大海原の一個の波ほどにも格別というほどのものではなくして、ごく普通のものだった。彼が語ったのは、ある一つの先祖伝来の感情――神道という漠然とした、しかし測り知ることのできない感情といったものである。
 私たちは柔らかい夏の宵のとばりが降りはじめる頃まで話し続けた。天の星とお城の電光とが互いに煌めいていた。ラッパが鳴った。加藤清正の居城から、一万の兵たちの唄う歌が雷鳴のように深くくぐもった音で、夜の闇の中に響き渡った――。

西も東も、皆敵ぞ
南も北も、皆敵ぞ
寄せ来る敵は
不知火の
筑紫の果ての
薩摩潟(4)

「君もあの歌を習ったんだね」私は聞いた。
「はい、そうであります。兵はみなあの歌を知っております」
 それは熊本籠城という式歌であった。耳を澄まして聞いていると、雄々しく響く大音声だいおんじょうの中に歌詞の幾つかを聞き取ることができた。

天地も崩るるばかりなり
天地は崩れ山河は
裂かる例のあらばとて
動かぬものは君が御代

 しばらく麻吉は軍歌の力強い拍子に合わせて肩を揺すりながら聴いていた。そして、急に目覚めたかのように、笑いながら言った。
「先生、もうお暇致します! なんとお礼を申し上げてよいか。自分にとっては、この上ない愉快な日を過ごさせていただきました。」――胸のポケットから小さな封筒を取り出すと、「どうぞこれをお受け取り下さい。かつて先生は自分の写真が欲しいと仰いましたので、記念にと持って参りました。」
 立ち上がると、短剣を帯びた。玄関で握手を交わした。
「先生、朝鮮から何かお送りしましょうか?」と言った。
「手紙だけでいいよ」と私は答えた。「次の大勝利の後にね。」
「かしこまりました。自分がペンを執ることができたらですが……」と彼は答えた。
 銅像のように直立したまま、私に軍隊式の敬礼をした。そして、闇の中へと歩き出した。

 客の去った人気ひとけのない客間に戻ると、私はしばらく物思いにふけっていた。まだ兵士たちの歌声が雷鳴の轟きのように聞こえている。私は列車の軋む響きを聴いたが、それは数多あまたの若い心や、たくさんの死をも厭わぬ忠誠心それに賞賛に値する信念や、愛と勇気とを溢れんばかりに乗せて、中国大陸の田園にある熱病へと、また幾多のサイクロンのような死の渦巻へと運び去っていくのであった。


注(2)
 千ヶ寺まいりというのは、日蓮宗の有名なお寺の千カ所を廻って歩く巡礼のことである。この巡礼をするには何年もかかるという。
注(3)
「何事がそこに(起こった)あるかは、私には分からないけれど、〔社頭に立つといつも〕有り難くも涙がこぼれる。」
注(4)
 つぎは、同じ様な拍子で訳出してみたものである。
ああ、この土地の南も北も、皆敵で埋め尽くされている
そして、西も東も皆敵ばかりだ。
誰も寄せ来る敵の数は知らない。
薩摩の海岸から、筑紫の海から




 地元の新聞紙に載った戦死者名簿は長いものだったが、その中に「小須賀麻吉」の名前を見つけた。その日の夕べ、万右衛門がお弔いをするのと同じように、客間の床の間を飾って灯明を点した。花瓶には花が生けられて、いくつかの小さなランプには灯りを入れ、銅の小さな香炉には線香が焚いてある。やがて準備がすっかり整うと、私を呼びに来た。祭壇に近づくと、小さな台の上には若者の写真が立ててあった。その前には、御仏飯おぶっぱんや果物それに菓子の小さな盛りが並べて御供えしてある――この老人の心ばかりの御供え物である。
「あのう」と万右衛門がかしこまって言う。「あの人は旦那さんの英語をお分かりなさったですから、話しかけておやんなさるなら、さぞかしあの方の魂も喜びますことでしょう。」
 私が彼に語りかけると、線香の煙の中から写真の麻吉が微笑んだように思われた。けれど、私が言ったことは、彼だけと神々のためであった。


訳注
(a)「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」一八九四・明治二七年八月一日を指す。
(b)成歓せいかんの戦い
 一八九四・明治二七年七月二八日から二九日にかけて朝鮮半島忠清道成歓付近で行われた、日清戦争の最初の主要な戦い。





翻訳の底本: "A WISH FULFILLED", in OUT OF THE EAST AND KOKORO, by Lafcadio Hearn (The Writings of Lafcadio Hearn, Large-paper ed., in sixteen volumes vol. 7), Rinsen Book, 1973.Reprint. Originally published. Boston: Houghton Mifflin, 1922.
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:林田清明
2015年5月13日作成
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