九州の学生とともに

WITH KYUSHU STUDENTS

小泉八雲 Lafcadio Hearn

林田清明訳





 官立の高等中学校(a)の学生たちは、かろうじて少年と呼べるくらいであろう。彼らの年齢が低学年では平均一八歳から、高学年の平均が二五歳までというように広い幅があるからである。修業年限がおそらく長すぎるのである。最も優秀な学生ですら二三歳にならないと帝国大学に進学することは期待できない。また、大学に進学するには、漢文の修得に加えて、英語もしくは独語から一科目、英語もしくは仏語から一科目について優れた実践的知識の修得が要件となっている(1)。このように、学生は日本語という優雅な国語の他に、三つもの言語を学習しなくてはならない。漢文の修得だけでも、ヨーロッパの言語を六つも習得するほどの労力に匹敵するのだから、学業の負担がいかに過重であるかを理解してもらえるだろうか。
 熊本の学生たちから私が受ける印象は、出雲の中学校の生徒たちから受けた第一印象とはまったく違っている。これは九州の学生たちがすでに日本人の少年時代のとても素直な期間を経験しており、また誠実で無口な大人へと成長しているからばかりではなく、九州気質とでも呼ばれるものをかなりの程度表しているからである。九州は、古くから日本の最も保守的な地方であり、その中心である熊本市は保守的な気分の横溢したところである。とはいっても、この保守主義は理性的かつ実用的なものである。現に九州地方は、鉄道を敷設するのは早かったし、農業改良技術を取り入れたり、またいくつかの産業では科学技術を採用もしている。ただ国内の他の地域と異なって西洋の風俗習慣は模倣しようとせず、古来のサムライ精神がなお生きている。また九州魂というのは何世紀にも渡って、生活習慣のかなりの単純さから抽出されたものである。豪華な服装はじめそのほかの贅沢を禁じる奢侈禁止令は厳格に実行されている。このような決まり自体は時代を経て古くなってきているが、それらの影響は人びとのとても質素な服装やありのままの直截なマナーに現われている。熊本人は他のところでは大方は忘れられた行為の伝統に固執しており、また話し方や行動の、ある独特の開放感――外国人には定義が難しいのだが、教養ある日本人にはすでに自明のものである――によって特徴づけられているとも言われている。ここ熊本はまた、加藤清正公の堅固な城――現在駐屯するおびただしい第六師団兵――の威光の下に国を思う意識、つまり国への忠誠心や愛国の精神は首都東京よりもはるかに強いとさえ言われている。熊本はこれらを自負し、その伝統を誇りともしている。事実、他に自慢するものはないのだが。熊本の町はだだっ広く点在しており、また単調で雑然としている。つまり、古風で趣のある綺麗な通りや大きな寺院がある訳でもないし、また素晴らしい庭園がある訳でもない。この町は明治一〇年の西南戦争で焼失してしまったので、戦役の硝煙弾雨が消える間もなくにわかに普請された小屋の建ち並ぶ焼け野原といった印象である。取り分けて訪れる場所とてなく(すくなくとも市の区域では)、見るべきものや娯楽となるものもない。まさしくこのゆえに、この学校はうまく設置されたともいえる。つまり、学生たちにとっては誘惑となるものや気をそらすものがないという次第である。しかし、別の理由から、遠く離れた首都東京に住む富裕な人びとは、自分たちの子弟をこの熊本に送り込もうとしている。青年がいわゆる“九州魂”を吹き込まれ、また九州の“気質”と呼ばれるものを備えているのが望ましいと考えてのことである。熊本の学生たちはこの“気質”のために、この帝国の中では最も特徴的な学生たちといえる。私は、この“気質”と呼ばれるものをどのように定義したらよいか十分に理解している訳ではないが、それは敢えて言うと、九州の古武士(サムライ)の品行にかなり近いものであるようだ。東京や京都から送り出されて来た学生たちは、明らかにかなり異なった環境に自分たちを適合させなければならない。とくに熊本や鹿児島の若者たちは――学生は、教練の時間や他の特別な場合を除き、制服の着用を義務づけられているのだが――昔の武士の衣装に似た服装に今なお執着している。つまり、膝下まである袴と高下駄を履き、羽織を着て――剣舞歌けんばいかで陽気に浮かれ騒いでいる。服の素材は安く粗末なものであり、色も地味なものである。足袋という足の指が切れ込んだ靴下をめったに履くこともない。極寒の折とか長い行軍の時に草履の緒が足に食い込むのを防ぐために履くくらいである。乱暴とまではいえないけれど、品行は優しくはない。青年たちは特徴のある外面的な剛健さをあえて養っているようなところがある。彼らはまったく異常な状況下にあっても沈着冷静という外観を装うことができる。しかし、この自制心の下には力についての強靭な自意識があって、それは、ごく稀な場合には脅威的な形で現れることがある。彼らはその東洋的な流儀では一種の猛者、蛮カラな人物と呼べよう。私が知っている学生たちは、比較的裕福な家の生まれであるが、自分たちが身体的苦痛にどれくらい堪えうるかを鍛錬することに熱心で、遊びには皆目関心がない。かなりの者たちが自分たちの高い理想のためには、躊躇なく自らの命を捨てる覚悟である。それはひとたび国難の噂あれば、全学四〇〇名(b)の集団を直ちに鉄の軍隊に変えてしまうほどである。しかし、彼らの外面的態度は理解に苦しむ程だが、通常は平然としている。
 私は、彼らが笑顔も見せず、その落ち着き払った表情の下にどんな感情、感覚や観念が隠されているのだろうかと長い間不思議に思ってきた。日本人の教師たちは実際政府の官吏であるが、学生たちの誰とも親しく言葉を交わす間柄ではないように見えた。というのは、私が出雲で見たような親愛の情のある親しい間柄といったものはここでは見かけなかったからだ。教える側と教えられる側の関係は授業の始業や終業の合図であるラッパの音で始まりまた終わるといった類いのものだった。これについては後になって私が少し誤解していたことが分かった。というのは、このような関係はなお実際に存在しているが、大半は自然なというより形式的・儀礼的なものだった。そして、私が「神々の国」を離れて以来思い出として残っている、あの懐かしい師弟愛とはまるっきり異なっているのである。
 しかし、その後になって、この内面生活について、表面に見えるものよりもっと魅力的なもの――つまり感情を持った個性についての示唆――にたびたび思い至った。日常の会話から得られたものは少ないが、作文の課題からたくさん得られた。英作文の課題が時として思索と感情のいくつかのまったく思いがけない開花を促したといえる。とりわけ興味深い事実は、装われた羞恥心あるいはある種の恥じらいがまったくなかったことである。つまり、若者たちは自分たちが感じたことや願ったことを恥じることなく有るがままに書いてくれた。自分たちの家庭のことや両親への敬愛の情、子どもの頃の幸福な経験や友情、それに休暇中の出来事について書いた。そして、これは、作為的にならずにまったく率直に書かれているので、私は素晴らしいと思った。私は何度も驚かされた後、提出された優秀な作文についてどうしてはじめからメモを取って置かなかったのかと後悔している。私は、週に一回提出された作文のうちで出来の良い作品を幾篇か選び出して、教室で読み上げて訂正し、残りは家に持ち帰って添削した。秀逸な作品を私が必ず朗読した訳ではないし、また学級全体の観点から逐一批評しなかったものもある。それは、つぎに取り上げるいつかの例が示しているように、方法として批評を加えるにはあまりにも内面にかかわる畏れ多い事柄を扱っていたからである。
 英作文の時間につぎのような問題を課題として出した。「人がもっとも永く記憶しているものは何か?」ある学生はつぎのように書いている。私たちはもっとも幸福だった瞬間ときのことを他に経験した事柄よりも覚えています。それは、私たちが理性的な存在であり、不愉快なことや苦痛なことはできるかぎり早く忘れてしまおうという性質があるためです、と。私は発想豊かな答案もたくさん受け取ったが、それらのうちにはこの問いについてたいへん鋭い心理的考察を施したものもあった。しかし、苦痛な事柄が最も永く記憶されると考えるとした学生の純真な答えを私は気に入った。その学生はつぎのように書いた。一字も変える必要はなかろうと思った。

「人は何をもっとも永く記憶するか? 私は困難な状況で見たり聞いたりしたものをもっとも長らく覚えているものだと考える。
 私がほんの四歳の頃に大切な、愛しい母が亡くなりました。それは冬のある日のことでした。風が強く吹いて樹木を揺らしており、わが家の屋根を吹き廻しておりました。木の枝には葉はあまりありません。うずらが遠くで――悲しげな鳴き声で――鳴いていました。私は自分がしたことを思い出しました。母が寝床に寝ているとき――死ぬ少し前です――私は母にみかんをあげたのです。母は微笑んで受け取って食べました。それが母が微笑んだ最後の瞬間でした。‥‥母が息を引き取ってから今日まで十六年が経ちました。けれど、私にとっては現在いまのようです。しかも、今は冬ですが、外では母が死んだときに吹いていたと同じ風が吹いています。鶉もまた同じように鳴いています。すべては同じで変わりません。けれど、母は逝ってしまってもう帰ってきません。」

 つぎのも同じテーマで書かれたものである。

「これまでのうちでとても悲しかったのは父の死です。私が七歳の折でした。父は一日中病床に臥し、私の玩具は片付けられていたことを思い出しました。また、とてもひっそりとしていたことを覚えています。その日の朝父を見かけませんでした。その日はとても長く感じられました。ついに、父の部屋に入り込むと、父の頭に口を近づけて、「お父さん、お父さん!」とささやきました。――その頭はとても冷たかったです。父は何も答えませんでした。叔父さんが来て私を部屋から連れ出しましたが、何も言いません。それで、私は父が死ぬのではないかと思いました。というのは、ちょうど妹が死んだときと同じように、父の頬がとても冷たく感じたからです。その夕方、近所の人たちや他の人たちもたくさんわが家にやって来て、私の機嫌を取ってくれましたので、しばらくは幸福な気分でした。けれど、その夜父が運び出されるともう父の姿を見ることはありませんでした。」


 これまで述べたことから、日本の高等学校における英作文がとても単純なものであると思われるかも知れない。けれど、逆もまた真なりで、ごく些細な事柄を大げさに言うという一般的傾向もあり、また平易な短文よりも複雑な長文を好む傾向もある。これに関してはいくつかの理由があるが、それにはチェンバレン教授による言語学の論文を必要としよう。しかし、この傾向そのものは――現在採用されている出来の良くない教科書によって繰り返し強化されているものであり――英語表現のきわめてシンプルな形式は日本人にとっては非常に曖昧に映るという事実からもある程度は理解されるものである――つまりそれらがいかにも英語らしい慣用表現であるからだ。学生たちにはそれらは不可解なものに映る――というのは、英語の慣用表現の背後にある根本の考えが彼らのとは大いに異なっているからである。これらの考え方を説明するには、まず日本人の心理について少し知る必要がある。そして、簡明な熟語表現を避けるときには、日本人は本能的にもっとも抵抗の少ない方向に向かうのである。
 私は反対の傾向も育てようといろいろ試みた。時々は、私はよく知られた話をクラスのために、すべてシンプルな文章でまた一音節の易しい単語で書いた。また、自然と簡明に書くように仕向けるような作文課題を出した。もちろん、私の目的がすべて大変うまく行ったわけではないが、それに関してなかでも――「私の学校での最初の日」――という課題を出したときには、かなり多くの作文の提出を啓発したが、他方でそれは感情と性格の誠実さを発露するものとして私のまったく別の興味を惹いたのである。つぎに私が少し手を入れて簡略した二―三のものを披露しよう。彼らの純真さは魅力があるものであった。――とくにそれらが子どもの回想ではないことを思うならばである。つぎに掲げる作文などはその優れたものの一つと思われるものである。

 私が八歳になるまでは学校には行っていませんでした。友だちはもう学校に行っていたので、父に何度も行かせてくれるように頼みましたが、父は私の体がまだ十分に頑丈ではないと考えて行かせてくれませんでした。それで私は家で弟たちと遊んでいました。
 私が初めて学校に行く日に兄が付き添ってくれました。兄は先生と話をして、私をそのまま置いて行きました。先生は私を教室に呼び入れて、席に着くように言うと、私はまた一人残されました。その間、私は静まりかえった場所に座ったままでしたので、悲しくなりました。もう遊んでくれる弟もいません。――周りにはただ見知らぬ子どもたちがいるばかりです。鐘が二度鳴ると、先生が教室に来られました。そして、石板を出すように言われました。黒板に漢字を書くと私たちにそれを書き留めなさいといいました。その日は、二つの日本語の書き方を習って、また良い子について話をして下さいました。家に帰ると走って母の所へ行きました。母の傍らに座って、今日先生教わったことを話しました。私の喜びはそのときどんなにか大きかったでしょう! 私の担任の先生が、父よりも、あるいは私が知っているどんな人物よりももっと学のある人である、――世界中で最も畏敬を覚え、かつまたもっとも親切な人であると、その時は思いました。

 つぎの文も教師の非常に面白い面を示している。

 私が入学するはじめての日に兄と姉が学校へ連れて行ってくれました。学校でも――ちょうど家でそうであるように――自分の席は兄と姉の隣にあるのだろうと思っていました。先生は教室へ行くようにと言われましたが、そこは兄や姉の教室から遠く離れたところでした。私は兄と姉の傍の席に居たいと言い張りました。先生がそれはできませんよと言ったので、私は泣き出しダダをこねて大騒ぎしました。それで、仕方なく先生方は兄が自分の組を離れて私の教室の私の隣の席にいることを許してくれました。そしてしばらくすると、自分の組にも遊び仲間がいることに気がつきました。それからは兄が側にいなくても怖くはありませんでした。

 つぎもまた、きわめて微笑ましく、また本当のことである。

 先生(校長先生ではないかと思う)が、私を自分のところへ来るように呼ばれました。それから、私に末は偉い学者にならなければいけないよと言いました。そして、誰かに私を教室まで連れて行くように命じました。私の組には四〇から五〇人くらいの生徒たちがいました。私はそのとき、たくさんの友だちがいると思うと怖い気もし、また嬉しい気もしました。みんなは恥ずかしそうに私を見ていましたし、私も恥ずかしげにみんなを見渡しました。最初、私は彼らにどんな風に話しかけようかと思いました。小さな子どもたちがそうであるように無邪気な気持ちでした。そうこうするうちに、どうにかこうにか一緒に遊び始めました。それからみんなも私が自分たちと遊ぶことを喜んでいるようでした。

 上に掲げた三つの作文は、教師の側に体罰を禁止している現行の教育制度下における、若者たちの最初の登校日の話である。しかし、私には、それ以前の教師はあまり優しくはなかったのだろうと思った。つぎに挙げる三つの作文は年長の学生によるものであるが、まったく違った体験をしているようである。

(1)明治以前のわが国には現在のような公立学校はありませんでした。しかし、あらゆる藩には、武士階級の子弟で構成される一種の学生組織のようなものがありました。おサムライの子弟でないとその組織に入ることはできません。そこは、生徒らを規律する指導者を任命した藩主の統率の下にありました。武士の主な学問は漢文と漢文学でした。現在の政府の政治家の主だった者たちのほとんどはこの士族のための藩校の出身者たちです。一般の市民や田舎の人たちは息子や娘たちを「寺子屋」と呼ばれる初等教育を教えるところ通わせました。そこでは、一人の先生がたいていはいろんな科目を教えています。読み書き、そろばん、それに幾分かの修身教育がその主なものです。私たちは日常の手紙やごく簡単な作文を書くことを学びます。私は士族の子ではなかったので、八歳になると寺子屋に行きました。最初のうちは行きたくはありませんでした。すると毎朝、祖父が行くようにと私を杖で叩きました。寺子屋の規律はとても厳しかったです。もし子どもが従わなかったときは――自分の罰を受け容れるようにと押さえつけられて――青竹で叩かれるのでした。一年ばかり経つと、多くの公立学校が開設されました。私もそこに入りました。

(2)大きな門、荘重な建物それと長椅子が並べてあるとても大きくて陰鬱な部屋――これらを覚えています。先生方はとても厳しそうに見えました。私は彼らの顔が好きではありませんでした。私が教室の長椅子に座ると、なんだか気にくわない感じがしました。先生方は親切そうには見えません。私は周りの子どもたちの誰も知りませんし、誰も私に話しかけもしません。先生が黒板の傍に立つと、氏名を読み上げ始めました。手には笞を持っています。自分の名前が呼ばれたとき、返事することができませんでした。しまいには泣き出してしまいました。私は家に送り返されました。これが学校に行った初日でした。

(3)私は七歳のときに、生まれた村にある学校に入れられました。父が二―三本の筆と紙を何枚かくれました。私はこれらをもらったことがすごく嬉しくて、一生懸命に勉強すると約束しました。けれど、学校に初めて行った日はとても不愉快なものでした! 学校に行くと私の知っている子どもは誰もいませんので、友達は一人もいないと気づいたのでした。教室に入ると、先生は笞を持っていて、とても大きな声で私の名前を呼びました。私はそれを聞いてとてもびっくりして泣き出しました。すると少年たちは大きな笑い声を上げました。先生は彼らを叱り、そのうちの一人を笞で叩きました。けれども先生は私に向かって、「私の声を怖がらなくていい。何という名だ?」といいました。私は泣き声ながらに自分の名前を言いました。そのとき、私は学校とは泣いたり笑ったりもできない性に合わない場所のように思えました。私はすぐにでも家へ帰りたかったです。でも、そうすることはできないとも思いました。授業が終わるまでやっとの思いで留まっていました。家に帰ったとき、父に学校で感じたことを言いました。そして、「もう学校へは行きたくない」と言いました。

 もちろん、つぎの記憶は現在の明治のものである。それは、作文として、私たちが西洋で性格と呼んでいるものを証明するものである。六歳で自立しようという示唆はとても甘美である。幼い弟が、初めて学校に出て行く日に、小さな姉が自分の白足袋を脱いで弟に履かせてやったことの回想である。

 私が六歳のときでした。朝、母が早めに起こしました。姉は自分の履いている足袋を私にくれました――私はとても幸福でした。父は使用人に私を学校まで送るようにと命じました。けれども、私は送ってもらうのを断りました。自分ひとりで行けると思いたいからでした。私は一人で出かけました。学校は家からそんなに遠くはありませんでしたので、やがて正門の前に着きました。私は門の中へ入ってゆくどの子たちも知りませんでした。しばらくそこに突っ立ったままでした。少年少女らは、家族の者や使用人に付き添われて学校の中へと入って行きました。中を覗くと、遊んでいる子どもたちを見て、羨ましかったです。しかし、中で遊んでいる小さな男の子が私に気づくと、微笑みながら駆け寄ってきました。そのとき、私はとても嬉しかったです。私も彼のところに歩み寄り、手と手を繋ぎました。ついに、先生が私たち全員を教室に呼んでお話をされましたが、私には何のことか分かりませんでした。その後は、私たちはその日は自由となりました。それが私の学校での初日でした。友だちと一緒に家へ帰りました。両親は果物と菓子を用意して待っていてくれました。私と友だちは一緒に食べました。

 別の学生はつぎのように書いている。

 初めて学校に行ったのは六歳のときでした。祖父が教科書と石版を私のために運んでくれたことや先生と子どもたちが私にそれはとても親切にまた良くしてくれたことを覚えています。――それで私は学校はこの世の楽園ではないだろうかと思って、家には帰りたくありませんでした。

 つぎの自然な良心の呵責もまた書き留められるべきだと思う。

 八歳になって初めて学校へ行きました。私は悪い子でした。学校帰りに、私より年下の友だちと喧嘩しました。彼が投げた小石が私に当たったのです。私は道ばたに落ちていた木の枝を拾い上げ、これで力一杯顔を殴りました。そして、道の真ん中で泣いている彼を放ったらかしにして、家へ走って帰りました。私は、心の中でなんてことしたんだと後悔しました。帰宅した後も、まだ彼が泣いているのではないかと思ったりしました。この幼なかった遊び友だちはもうこの世にはいません。誰か私の気持を分かってくれるでしょうか?

 若者が自分が幼かった頃の場面へいとも自然に立ち戻ることができる、このような能力は、まったくもって東洋的と私には思える。西洋では、人は人生の晩年に達しないと、幼年時代の頃を生き生きと思い出すことは滅多にない。しかし、日本人の幼少期は他の国々におけるよりも明らかに幸福である。それだけに、大人となった生活では早くから嘆いたものとなる。つぎに引用するのは学生の休暇の経験を記録したものであるが、そんな後悔の念を表している。

 春休みに両親の居る実家に戻りました。私が高等中学校にまもなく帰ろうとしていた休暇の終わる少し前に、私の町の中学校の生徒らが修学旅行で熊本市に行くという話を聞きました。そこで、私も彼らと一緒に行くことにしました。
 彼らは銃を携行して軍隊式に行進します。私は銃を持っていないので、列の後尾から付いて行くことにしました。皆で一緒に軍歌を歌いながら、一日中行軍しました。夕方、添田(c)に着きました。添田の学校の先生たちや生徒たち、それに村の有力者たちが私たちを迎えてくれました。それから私たちは分隊に分かれて、別々の宿屋に宿営しました。その夜、私は一番最後の分隊とともに宿屋に入りました。
 しかし、長い間寝就けませんでした。五年前、同じ「軍隊式の遠足」で、同じ中学校の生徒の一人として、やはりこの宿屋に泊まったことがありました。疲労と愉快さとを思い出しました。そして、今の自分の気持ちと、当時まだ若かった自分が抱いた気持ちの記憶とを較べざるを得ませんでした。私は、今回同行した後輩たちのように、もう一度若い頃に戻れたらなぁと淡い願いを禁じ得ませんでした。生徒たちは、昼間の長い行軍の疲れでとうに眠り込んでいます。私は起きて彼らの寝顔を見ました。ぐっすりと寝ている顔のなんと無邪気なことでしょうか!


 先に挙げた作文は特定の感情を示すために選ばれたのであるから、学生たちの作文の一般的な特徴を示してはいない。もっと重たいテーマでの思索や感情の例には多様な思考を示したであろうし、かなりの方法上の独創性もあっただろうが、それにはもっとスペースが必要だろう。しかし、私のクラスの記録から書き写した二・三の控えのメモは、好奇心をそそるものとまではいえないが、示唆に富むものであった。
 一八九三年の夏の試験では、私は、卒業予定の学年(五年生)のクラスに、「文学において何が永遠か?」という作文課題を出した。このテーマは私たちがこれまで論じたことはなかったし、学生らにしても、その西洋思想の知識からしてまったく新しいテーマであったので、独創的な答案を期待した。私はつぎの二〇の解答をその例として選んだ。それらのたいていは直後に長い議論を展開していたり、またいくつかは答案の文章の中にあったものである。
(1)真実と永遠とは同一なり。これらは循環する。――漢語でいう「円満」
(2)宇宙の法則に従った生活と行為の一切。
(3)愛国者の人生および世の中に純粋な金言を与えてくれた者の教え
(4)孝およびその教師たちの教え、秦の時代に孔子の書物は焚かれた。だが、その教えは、今日あらゆる言語で文明国で印刷されている。
(5)倫理と科学的真実
(6)中国の聖人は悪と善とは永遠なりと言った。善であるもののみを私たちは読むべきだ。
(7)先祖たちの偉大なる思想と教え
(8)何千世紀の間も真実は真実である。
(9)すべての倫理の学派が同意する正邪の観念
(10)宇宙の現象を正しく説明する書物
(11)良心のみが不変である。したがって良心に基づいた倫理に関する書物は永遠である。
(12)高貴な行為についての理由。これらは時が経過しても不変である。
(13)可能な限り最大多数の人々――つまり人類に最大可能な幸福を与える道徳的手段について書かれた書物。
(14)五経(中国の五つの教典)
(15)中国の聖人の書と仏教の経典
(16)人間の行動の正しさと純粋な生き方を教えるものすべて
(17)楠正成の物語――彼は天皇の敵に対して七回も生まれ変わって戦うと誓った。
(18)道徳的感情。それがなければ世界はたんなる土くれの巨大な塊にすぎないし、あらゆる本は紙くずである。
(19)老子道徳経
(20)老子道徳経。つぎの例外がある。永遠であるものを読む者の「魂は宇宙を永遠に飛翔するであろう」。


 いくつかの東洋的な感情がときどき議論を通して引き出されている。この議論は私があらかじめクラスの者に口頭で話して聞かせたものに基づいて、それについて学生の作文や口頭のコメントが寄せられたものである。この議論の結果については、後に述べることにする。議論のときまでに、私は上級のクラスの学生にはかなりの数の物語を話して聞かせていた。多くのギリシア神話を話したが、なかでもエディプスとスフィンクスの話(d)は、その隠されたモラルゆえにとくに彼らを喜ばせた。オルペウスの話(e)は、西洋音楽の伝統がそうであるように、彼らはまったく興味を示さなかった。私はまた現代の話も幅広く話して聞かせた。ホーソーン作『ラッパチーニの娘』という驚くべき物語は彼らが非常に好んだ。ホーソーンの霊は、学生なりの解釈をさぞかし大いに喜んだに違いなかろう。『モノスとダイモノス』も気に入ったようだ。ポーの素晴らしい小品の『沈黙』は、私を驚かすような形で評価された。他方で、『フランケンシュタイン』(f)はあまり感動を与えなかった。誰も本当とは受け取らなかった。しかし、西洋人にとってはこの物語はいつも格別な恐怖心を引き起こすものである。それは生命の起源に関するヘブライ的観念の下に発展してきた感情へのショック、また神による禁止の恐るべき性質、さらに自然の秘密のベールを裂こうとする者たちや、無意識にせよ嫉妬深い創造主の仕事をあざける者たちに下される恐ろしい罰があるためである。しかし、東洋人は、このような暗鬱な信念によって曇らされていない――神と人間との間に距離を感じない感情は――あらゆる行ないの結果を報いか罰かにまとめあげる統一的法則によって支配される多様な集合として人生を理解するので、この物語の幽霊に関するものは共感をそそらなかった。感想を書いた者のほとんどは滑稽なあるいは半ば喜劇的な寓話としてしか見ていなかった。これらの事があった後に、ある朝、学生たちに「西洋の最も強く道徳的な話」を所望されたときはどうしたものかとても困った。
 私はいきなりアーサー王伝説の話をしてその効果を試してみようと思った――危険な領域へあえて入り込むことだとは重々承知の上であるが。また、その話はきっと誰かがきっぱりと批判するであろうとも思っていた。この物語は道徳という点では「とても強い」どころではない。このため、私はその結果を聞きたくて仕方がなかったのである。
 そこで、トマス・マロリーの『アーサー王の死』一六巻にあるボールス卿(アーサーの庶子)の物語を彼らに話した。「ボールス卿は、自分の弟であるライオネル卿が茨を巻き付けた木で殴られており、――また他方では乙女が襲われているのを――目撃した。そして、ボールス卿は自分の弟はそのままに残して、乙女を救うことにした――その後、弟のライオネル卿は死んだと告げられた。」しかし、私はこの素晴らしい伝説にイメージされている騎士道の精神については彼らにはとくに説明しなかった。それは、物語のありのままの事実を聞いて彼らがどんな感想を述べるかを聞きたかったからだ。
 それはつぎのようなやりとりになった。岩井という学生(g)が言うには、「キリスト教はすべての同胞は兄弟であると言っていますが、それが正しいとすれば、マロリーの騎士の行動はキリスト教の原則に反しています。彼の行為は世界に社会がなかったならば正しいでしょう。しかし、社会は家族から形成されて存在するのだから、家族の愛は社会の中で最も強いものであるはずです。そして、騎士の行いは家族愛に反しました。そして、また社会に対してもです。彼が従った主義はあらゆる社会に反するばかりではなく、あらゆる宗教やあらゆる国の道徳に反したものです。」
 折戸はつぎのように言った。「この物語は確かに道徳的ではありません。それが語っているものは、愛と忠義についての私たちの観念に反するものですし、天道にも反しているように思えます。忠義というのはたんなる義務ではありません。それは生まれながらの感情です。そしてそれは、すべての日本人の性質の中に存在します。」
「恐ろしい話です」安東が言った。「博愛それ自体は兄弟愛の発展したものに過ぎません。見知らぬ女性を救おうとして、自分の弟を見殺しにした男は邪悪な人間です。おそらく彼は恋情にかられたのです。」
「いいや、違うんだよ」と私が説明する。「彼の行為には利己的なものはない――つまりそれは英雄的な行為と解釈されなければならない、と私が言ったことを君は忘れているよ。」
 安河内が発言した。「私はこの物語の説明は宗教的なものに違いないと思います。私たちにはそれは不思議に思えます。しかし、それは私たちが西洋の観念をよく理解していないからかも知れません。むろん、見知らぬ女性を救うために自分の弟を見捨てることは私たちの正義の理解に反します。しかし、その騎士が純粋な心を持っていたとすれば、ある約束か義務のためにそうしなければならないと考えたのでしょう。その場合でもそうすることはとても苦痛であるか、恥ずべきことであるように思います。そして、彼は、内心で人としての道理に背いて行動しているという気持なしにはそんなことをすることはできなかったでしょう。」
「その点では君は正しいよ」と私は答えた。「しかし、ボールス卿が従った感情というのは西洋社会の勇敢かつ高貴な人たち――その語の常識的な意味において、宗教的とまったく呼べない人びとにおいてすら――の行動になお影響を与えているものなのだよ。」
「でも、私たちはそれはとても悪い感情だと思います」と岩井が言った。「私たちは別の社会の集団についての他の話も聞いてみたいです。」
 そこで、アルケスティスの不朽の物語(h)を学生らに話すことを思いついた。私はその時、その神聖なドラマにおけるヘラクレスの性格は学生たちにとってとても魅力的であろうと考えていた。しかし、学生たちの意見から私が勘違いをしていたことが明らかになった。誰もヘラクレスには言及しなかったのだ。実際ヒロイズムについての私たちの考え方、意思の強固さや死をも厭わぬことは日本の若者には容易にはアピールしないということを思い出すべきであった。というのも、これは日本の紳士の誰もそのような資質は当然のことで例外的であるとは考えていないという理由からである。日本人の男子はヒロイズムを当然のことと考えているのである――人間性に属するものおよび、それと切り離せないものである。彼は、女子は恥もなく恐れるかもしれないが、男子はけっして恐れないと言うだろう。それゆえ、腕力の単なる理想としてのヘラクレスには東洋人はほとんど興味を示さないのだろう。日本の神話には力強さを人格化した話がたくさんある。また、その上で、真の日本人の間では、力強さよりも手際よさや機智、敏捷さの方が賞讃されるのである。日本の少年の誰も大男の弁慶のようになりたいとは思っていない。義経は細身であり、弁慶を柔軟に手玉に取って仕舞には家来としたのであるが、あらゆる若い日本人の心には親しみの持てる、完璧なサムライの理想であり続けている。
 亀川が意見を述べた。「アルケスティスの物語あるいはすくなくともアドメートスの話は、卑劣で不忠義かつ不道徳な物語です。アドメートスの行為はまったく非道いものです。それに反して彼の妻は実に高潔かつ貞淑です――恥知らずな男には出来すぎた妻です。アドメートスの父も、もし自分の息子が優れた人物ならば、彼のために喜んで死んだだろうと考えます。アドメートスの卑劣さに愛想尽かしていなければ、父はそんな息子のために喜んで死ぬだろうと思います。それにしてもアドメートスの家来たちは、何と不忠義なんでしょうか! 彼らは王の危難を聞くや否や宮殿に駆けつけ、謙虚に王の身代わりになって死ぬことを乞うべきです。王が卑怯で残酷であったとしても、そうするのが彼らの義務でした。彼らは王の家来です。彼らは王の恩顧を受けることで生きているのです。けれど、なんと彼らは不忠義なのでしょうか! こんな恥知らずな連中がいる国は早晩滅び去るに違いありません。もちろん、この話が言っているように、生きることは楽しいことでしょう。誰が命を惜しまないでしょうか?死を厭わない者がいますか? けれども、勇敢な男子――忠義なる男子――は、義務がそれを与えよと求めるとき、自分の命をあれこれ考えるべきではありません」
「けれど」と水口が言ったが、彼は遅れてきたので話の初めの方は聞いていなかった。「おそらくアドメートスは、孝行に突き動かされたのでしょう。私がアドメートスだったら、家来の誰も自分のために死なないことが分かったならば、妻につぎのように言ったでしょう。『妻よ、父上のみを残して行くことはできない。父上には他に息子がいないからだ。また、彼の孫たちはまだ若すぎて父上にとっては役に立たない。だから、私を愛しているなら、私の身代わりに死んでおくれ』と。」
 安河内が「君はこの物語を理解していないんだよ」と言った。「孝行心などアドメートスには存在しない。彼は父が自分の身代わりになって死ぬことを望んだんだ。」
「ああ、そうか!」本当に驚いた声で、水口は謝った。「それは良い話ではなかったんですね、先生!」
 川淵は「アドメートスは極悪非道の輩です」ときっぱりと言った。「彼は憎むべき卑劣漢です。なぜと言うに、死ぬのを恐れているんですよ。彼は家来が自分のために死ねと欲した暴君です。彼はまた、老いた父親が自分の身代わりとなって死ぬことを望んだ親不孝者です。彼は、自分の妻――幼い子どもたちがある、か弱い女性――に自分が男としてできないことを代わりにさせた冷酷な夫です。アドメートスほど下劣な奴がおりましょうか?」
「けれど、アルケスティスは」と、今度は岩井が言った。「妻のアルケスティスはあくまでも善人です。なぜなら彼女は子どもたちやその他のすべてを諦めました――ちょうどブッダのように。しかし、彼女はとても若い。なんと真実に溢れ、勇敢なんでしょう! 彼女の顔の美しさは春の開花のように輝いていたでしょう。しかし、彼女の行いの美しさは、何千何万年も記憶されるべきでしょう。彼女の魂は永遠に宇宙を飛翔するでしょう。彼女は今は形がありません。もっとも親切な生きている教師たちよりも私たちにもっと親切に教えてくれるのは姿・形のないものです――つまり純粋で勇敢なまた賢明な行いをした人たちの魂です。」
「アドメートスの妻は」と隈本が言った。彼の判断は厳格になりがちであった。「まったく従順です。けれど彼女はまったく非難することが出来ない訳ではありません。というのは、死を前にして夫の愚かさを徹底して叱るのが、彼女の最高の義務でした。彼女はこれを行いませんでした――先生がこの話をされた限りにおいてですが。」
 財津という学生は「なぜ西洋人はこの話を美談と考えるのでしょうか? 私たちには理解できません。それには私たちを憤慨させるものがたくさんあります。というのは、この話を聞くと、自分たちの両親のことを思わないではいられないからです。明治維新以来、しばらく多くの困難がありました。しばしば両親たちは飢えていました。けれども、子どもたちにはいつも十分な食べ物がありました。時として彼らは生活するためのお金にも事欠きました。なのに、私たちは教育を受けています。要するに、私たちが教育を受けることは両親に費用を掛けることです。私たちを育てるのに大変な苦労と困難とがあったにもかかわらず、親たちはあらんかぎりの愛情を注いで育ててくれました。愚かだった子ども時分には両親に至らぬ心配をかけたこともあります。このため、私たちは両親らに決して十分に報いてはいないと思っています。このような訳で私たちはアドメートスのような話は好きになれません。」

 休み時間を知らせるラッパが鳴った。私は一服しようと隣の運動場に出た。数名の学生が私とともに連れ立った。彼らは銃や銃剣を持っていた――つぎの時間の軍事教練のための準備であった。うちの一人が言った。「先生、作文の別のテーマを出して下さい――易しすぎないやつです。」(i)
 私は聞いた。「もっとも理解できないものは何か? こんなテーマでいいのかい?」
 川淵という学生が言った。「それは解答するのに難しくないです――英語の前置詞を正しく使うことですよ。」「日本人の学生が英語を勉強する場合は確かにそうだね。」と私が答えた。「けれど、私が言っているのは、その種の困難さのことではないんだよ。すべての人が一番理解できないようなものについて君たちの考えを書いて貰おうと思っているのだよ。」
 安河内が「宇宙ですか? それはテーマとして大きすぎます。」と言った。
「私が六歳の時です」と折戸が言った。「ある晴れた日に海辺を歩いていました。その時に、世界の広大さを思いました。わが家は海辺の近くにあります。その後、私は宇宙の問題は煙のようについに消えて行くものだと教えられました。」
 宮川はつぎのように話した。「一番理解できないのは、なぜ人が世界に生きているかということです。食べ、飲み、幸福を感じたり、悲しくなったり。学校へ行き、成人しまた結婚する。そして子どもを持つ。夜には眠り、朝には起きる。そして老けていき、髪は初めのうちは灰色から次第に白くなって行く。彼らはそのうち次第に衰弱していき――やがて死を迎える。
 彼らは一体人生において何をするのでしょう? 彼がこの世で行ったことと言えば、飲食し睡眠し、また起きることです。市民としての職業が何であれ、長い時間骨折って働くのはたんにこれらをし続けることができるということです。こんな目的のために、人はこの世に居るのでしょうか。食べ、飲み、眠ること? 毎日同じ事の繰り返しにすぎませんが、決して倦み疲れることを知りません! 不思議な気がします。」
「誉められると喜び、罰を受ければ悲しくなる。金持ちになれば自分で幸福だと思います。貧しくなればとても不幸に思うでしょう。幸福とか悲しみは一時的なことにすぎません。なぜ一生懸命に勉強しなければならないのでしょうか? いかに著名な学者になったとしても、死ぬとき何が残されているというのでしょうか。ただ骨だけです。」
 宮川はクラスでも一番陽気で、ウイットにも富んでいる。彼の愉快な性格と彼の今の言葉の対称的なことが私をぎょっとさせた。このような憂鬱な思考は浮かんでは消える類いのものだが――とくに明治以降の――若い東洋人の精神にしばしば見受けられるものである。それらは夏の雲の影のように通り過ぎてゆく。また、それらは西洋の青年期に見られるものより深い意味はない。日本人は思想で生きているのではない、ましてや感情ででもない。義務で生きているのである。だからといって、それらに付きまとわれるのは推奨されるべきでもない。
「思うに、君たちにとってよりふさわしいテーマとは空だね。」と私は言った。「今日みたいな日に空を眺めるとき、空が私たちの中に醸し出す感じだよ。見てご覧、なんと素晴らしいんだ!」
 見渡す限りの紺碧の空であった。地平線には水蒸気もない。常日頃ははるか遠くの山の頂は見えないが、今日は明るい陽光の中に、くっきりと透けて見え、聳え立っている。
 その時、神代が天空を見上げながら漢文を朗々と吟じた。
「かくも高邁なる思想のあらんや? かくも広大なる精神のあらんか?」
「今日は夏の日と同じように美しい――木の葉は散りかけて、蝉も行ってしまったがね。」と私が言った。「先生は蝉はお好きですか?」と森が尋ねた。
「蝉の声を聞くのはとても愉しいことだね。」と私は答えた。「西洋にはあんな蝉はいないよ。」
 折戸が「人生は蝉のそれに比較されていますね――空蝉の世とか。人の喜びも若さも蝉の鳴き声のように短くはかない。蝉のように、人もある季節に現れてはやがて去ってゆきます。」と言った。
 安河内が言う。「もう今時分蝉はいないよ。たぶん先生は淋しく思われているのだ。」
「僕はちっとも淋しいとは思わんぞ」と野口が反論する。「蝉たちは僕らが勉強するのを邪魔するよ。鳴き声はすこぶるうるさくて堪らん。夏にその声を聞くと疲れてしまう。蝉の声は疲れの上にさらに疲れを倍加させるから僕らはつい眠ってしまうんだ。読み書きしたり、考えたりするとき、蝉の鳴き声を聞くともう何をする気力もありゃせん。それで、僕らはこの昆虫が死んでしまえと願っているんだよ!」
「たぶん君はトンボが好きだろう」と私が示唆した。「彼らは私たちの回りを飛び回っている。けれど音は立てないしね。」
 神代が言う。「日本人はみんなトンボが好きなんですよ。ご存じのように、日本は秋津洲あきつしまと呼ばれていますが、それはトンボの国(蜻蛉島あきつしま)という意味ですからね。」
 私たちはトンボのいろんな種類について話した。彼らは私が今まで一度も見たことのない種類について話してくれた――精霊トンボあるいはユウレイ・トンボというもので、死人と不思議な関係があるという。また、彼らはヤンマ――というとても大きな種類――について話したが、古い歌にはサムライがヤンマと呼ばれたと話してくれた。若い武士の長い髪がトンボの形をした結び方で結ばれていたからであるという。
 再びラッパが鳴った。将校教師の「アツマレー!」という大声が響き渡った。
 けれども、若者たちはちょっとぐずぐずしている。つぎのように訊いた。「では理解するのがもっとも難しいものというのは何でしょうか? 先生。」
「いいや、もうよそう」「空だよ。」と私が答えた。その日一日、漢文の言葉の美しさが私の脳裏を去らず、高揚した気分で満たされていた。
「かくも高邁なる思想のあらんや?かくも広大なる精神のあらんか?」


 教師と学生たちとの関係が少しも形式的ではないことを示す一つの例がある――旧藩校時代の師弟の親愛さを表している貴重な名残の例である。本校の老齢の漢文の先生は生徒の誰からも尊敬されている。若者に対する影響力はすこぶる大きい。彼の一言で怒りの爆発を鎮めることが出来る。また微笑めば気高いものへと気持ちを向けさせることができる。というのは、彼は、青年たちが理想としている、かつての剛毅、誠実、高潔といったすべてのもの――「古き良き日本の魂」――を体現しているからである。
 彼の名は「秋の月」を意味する秋月(胤永かずひさ・悌次郎)というが、その郷土では有名な人物である。彼についての小さな冊子が写真入りで出版された。かつて彼は旧会津藩の身分の高い武士であった。公用方として早くから信任と権力のある要職に就いた。彼は軍の指揮官であり、諸大名間の交渉役であり、政治家でもあり、また地方の支配者など――封建時代の武士のやる役職にはすべて就いた。しかし、軍務や政務の合間にはずっと教師であったようだ。今日ではそのような教師は少ない。そんな学者たちも少ない。しかし、現在の老教授を見ると、彼の人がかつてその配下の血気盛んなサムライたちからいかに恐れられて――畏敬されて――いたかをにわかに信ずることはできない。おそらく若い頃峻厳さで注目された武士の温厚さほど魅力に満ちあふれたものはあるまい。
 封建制度がその存亡を掛けて最後の戦いを挑んだとき、彼は藩主の命を受け、恐るべき戦に参戦したが、この戦には藩士たちの夫人や小さい子どもすら加わっていた。しかし旧来の勇気と刀のみをもってしては戦争の新しい戦法には太刀打ちできなかった。会津藩の兵は破れた。彼は戦争を指揮した一人だったので国事犯として終身禁固の囚われ人となった。
 しかし、勝者である官軍・新政府は秋月氏を評価した。彼が名誉を賭けて戦った当の相手である政府は、新しい世代の若者たちを教育してくれるように彼に要請した。老先生は若手の先生たちから西洋の科学や言語を習った。しかし、彼は、中国の賢人たちの永遠の英知――忠義、名誉それに人間を形成するすべてのもの――を教えている。
 老先生の子どもたちの何人かは死んでしまった。しかし、彼は自分を孤独とは思わなかった。というのは、自分の教え子たちは皆息子も同然だったし、彼らもまたそのように敬意を表していたからだ。秋月先生は老いて歳を重ねるにつれて、神のように――神様のように見えてきた。
 美術に描かれた神様は仏様とは似ていない。神たちは、仏陀よりも古いものであるが、うつむきな視線をしておらず、また思索的な無表情さもない。彼らは自然を愛する。汚れなき孤独さがたえず付きまとっている。そして、木々の生命の中に宿っており、水のせせらぎの中で語り、また風の中を舞っている。かつて大地にあって彼らは人として過ごした。そして、土地の人びとは彼らの子孫である。神の霊として彼らは人間のままであり、多くの気質を持っている。神というのは人間の感情でもあり、また人間の知覚でもある。しかし、伝説中の人物として、また伝統から生まれた美術に現れたところでは、彼らはたいへんに愉しい者である。私が言っているのは、今日のような懐疑的な時代において無関心に彼らを扱った安い美術品のことを言っているのではなく、神々についての聖なる文献を説明している古美術のことである。むろん、神を表現したものは大きく変わるものである。しかし、あなたがた読者が神のごくありふれた伝統的なかたちとはどんなものかと尋ねるならば、私はつぎのように答える。「驚くほど優しい表情をした、微笑んでいる古い人である、と。彼は長く白い髭を生やしており、白い帯をした白い衣服を纏っている。」
 この高齢の教師の帯は、先日私の家を来訪された折りも丁度神道のそれのような黒い絹地のものだった。
 老先生と学校で会ったとき、つぎのように言われた。「慶事がおあり(j)のことは存じておりました。私がお伺いに参りませんでしたのは、私の老齢のためでもなく、お宅が遠方であったからでもありません。ただ、このところしばらく病に伏せっておりましたからです。いずれお伺い致しましょう。」
 そこで、ある明るい午後、秋月先生は祝いの品をご持参された――その贈物は簡素ながら古式の流儀に則ったもので王侯にもふさわしい品々であった。盆栽の梅の木は小さいながら、あらゆる枝や小枝に雪のような白い花をいっぱいに咲かせていた。また、珍しい竹の容器には酒が入っていた。それに美しい漢詩を書いた二服の巻物――漢詩は優れた書家であり詩人でもある人の作品として貴重なものである。そうでなくとも、老先生の直筆であるので私には格別に大切なものであった。この人が話したことすべてを私が十分に分かったのではない。なかでも私の職務についての愛情の籠もった激励――賢明にして鋭い助言――と彼の若い頃の不思議な話を記憶している。けれどもすべては心地よい夢のようであった。というのは、老先生がおわしただけで慈愛の情のように思われて、贈物の梅花の香りは高天原からの心地よい風のように感じた。そして、神様が来て去っていくように、彼も微笑んでまた帰って行かれた――神聖なるものすべてを残して。今は小さな梅の木には花はもうない。また冬が来れば再び咲く。しかし、人気のない応接間にはとても甘美なものがまだ残っている気配がする。おそらく聖なる老人の思い出だけが残っているようである。たぶんに、先祖の霊、「過去の女神」が、あの日、そっと密かに老先生の足跡を付けてきてわが家の玄関に入って、私のところにしばらく彷徨っていたからかもしれない。それはむろん老先生が私に好意を持って下さったからなのだ。

原注
(1)この文章は一八九四(明治二七)年の初めに書かれた。その後、仏語と独語は必修科目ではなく選択科目とされた。また、高等教育の修業年限はかなり短縮された。これらは故井上毅文部大臣の賢明な決断によるものである。英語も選択科目とすることができるような措置が採られることを期待する。現行の下では、英語は必修科目であるが、学習を強制することから何ら得ることはない。

訳注
(a)一八八六(明治一九)年の中学校令に基づいて、他の高等中学校をはじめ、第五高等中学校は一八八七年五月に設立された。一八九四年九月の高等学校令により、高等学校へ改組・改称された。

(b)丸山学・小泉八雲新考(講談社学術文庫一二二五、一九九六)七一頁は「本科三年、予科二年で、生徒は三〇〇人、教師は二八人」としている。ちなみに、明治二五年九月三〇日調という「第五高等中学校一覧 自明治二五年至明治二六年」(国立国会図書館デジタルライブラリー;http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812889)に名前が記載された学生数を数えると三八三名であった(ただし定員とは限らない)。約四〇〇名としてよいであろう。なお同「一覧」四〇頁には「ラフカヂオ・ヘルン」の名前も見える。

(c)この地名を現・福岡県田川郡添田町とすると、その距離からして熊本市まで二〜三日の歩行遠足では無理かと思われる。

(d)オイディプース(エディプスあるいはオイディプスとも表記)はギリシア神話の登場人物。
 テーバイの王ラーイオスは、アポローンからもし子どもを作ればその子は父殺しとなるという神託を受けた。しかしラーイオスは妻イオカステーとの間に男子をもうけたが、神託を恐れた彼は、殺すには忍びなく、男子を山中に棄てるように従者に命じた。従者もまた山中にいた羊飼いに遠くへ連れ去るように頼んだところ、羊飼いは、子どもがなかったコリントス王とその妃にこの男子を渡した。
 成長したこの男子はオイディプースであるが、自分の両親を探す旅に出る。戦車に乗って旅していたとき、その途中でやはり戦車に乗ったテーバイの王ラーイオスに出会うも、道を譲るよう命令されたが、従わなかった。このため彼の馬が殺されたので、怒ったオイディプースはラーイオスらを殺した。彼は自分が殺した相手が誰かを知らなかった。
 オイディプースはテーバイへと向かったが、テーバイではスピンクス(スフィンクス)という怪物に悩まされていた。スピンクスは女性の面、胸と脚と尾は獅子で、鷲の翼を持っていた。また、ピキオン山上に座して、そこを通る者に謎掛けをして、謎が解けぬ者を喰っていた。オイディプースは、その謎を解いたため、スピンクスは自ら城山より身を投じて死んだ。
 スピンクスを倒したオイディプースは、テーバイの王となり、実の母であるイオカステーをそうとは知らずに妻とし、二人の男児と二人の女児をもうけた。その頃、テーバイは疫病に見舞われていたので神託を求めたところ、ラーイオスの殺害者を除かなければならないとのお告げを受けた。その探索をしているうちに、オイディプースは自分の素性を知ることになり、妻たる母は自殺し、彼は絶望してわが目をえぐり追放された。
 後に、「エディプスコンプレックス」の語源になった。
(高津春繁・ギリシア・ローマ辞典(一九六〇、岩波書店)参照)

(e)オルペウス(オルフェウス)はギリシア神話に登場する竪琴の名手。亡くなった妻を取り戻すために冥府に行き、得意の竪琴でうまくことを運ぶ。しかし、「冥府を抜け出すまで後ろを振り返ってはならぬ」と言われたが、オルペウスは出る直前になって妻が付いてきているかどうか振り向いてしまう。

(f)『フランケンシュタイン』はイギリスの小説家メアリー・シェリーの怪奇小説(一八一八)。科学者を目指す大学生のフランケンシュタインは、神をも恐れぬ行為となるにも関わらず生命の謎を解き明そうと研究し、ついに人造人間を作り出した。しかし、この存在は人間の心や知性を有しているが、容貌はきわめて醜い怪物のようなものとなったので、創造主は絶望して逃亡する。怪物は見捨てられ、また人間社会から嫌われたため、自分を造り出したフランケンシュタインの親類や友人を殺害するなど復讐をしていく。

 なお、青空文庫に邦訳がある(http://www.aozora.gr.jp/cards/001176/card44904.html)。

(g)登場する学生の姓については、『小泉八雲全集第四巻』(第一書房、一九二七)には訳者田辺隆次の解説があり、作中人物名の比定は安河内麻吉氏(五高第三回卒業生)の示唆によるとあって信憑性が高いように思われるも、曖昧な点もある。また、他の先行訳にも第一書房版の注に習って、訳文に姓名を入れたものがある。しかし、ここでは、姓名もあくまでもフィクションと考えて原文・底本のままとした。
 なお、丸山学・小泉八雲新考(前注b)も実名につき考証・言及があるので、第一書房版の注との相違を参考までに以下に挙げる(ただし、第一書房版にある出身・経歴などの部分は省略した)。
 念のため、当時の学生名簿は、ハーンの名前もある、前記「第五高等中学校一覧 自明治二五年至明治二六年」でも参照できる。同姓名が複数ある場合もある。

 登場順。最初が第一書房版の注記(?も注のママ)、/以後が丸山・小泉八雲新考によるもの。
岩井  →巌井敬太郎(第一書房版の注記)  /岩井敬太郎(丸山)
折戸  →不明(?)  /不明
安東  →安東俊明  /安東俊明
安河内 →安河内麻吉  /安河内麻吉
亀川  →亀川徳太郎  /亀川徳太郎
水口  →不明。或は溝口三始(訳注・原文のMizuguchi をMizoguchiと見て) /不明
川淵  →川淵楠茂  /川淵楠茂
隈本  →隈本茂吉  /隈本茂吉
財津  →不明(?)  /不明
宮川  →宮川和一郎  /宮川清 (訳注・丸山では第一書房注の「宮川和一郎」は誤りとし、卒業生名簿にも存在しないとする。しかし、前記「一覧」の名簿には存在する)
神代  →いずれにも言及なし
森   →森賢吾(?)  /森賢吾
野口  →野口弥三  /(言及なし)

(h)『アルケスティス』は、エウリピデスの作になるギリシア悲劇の一つ。
 ペライの王アドメートスは死期が迫っていたが、アポローンはかつてアドメートスに親切にされたことがあることから、身代わりを差し出せば命が助かると助言した。
 アドメートス王は老いて先き行く命が少ない身であるから自分の身代わりとなるよう実父母に要請するが、父母は感謝こそされ、息子のために命を差し出すような恩義はなく暴慢だと反論する。アドメートスは父母に対して命を惜しんだと責めた。
 このため、妻で妃のアルケスティスは、幼子のある身でありながらも、夫のために身代わりとなることを決心して死ぬ。アドメートスの友人であるヘラクレス(ハーキュリーズ)は、アルケスティスを冥府から救い出す。
(『アルケスティス』(呉茂一訳)ギリシア悲劇全集三巻(人文書院、一九六〇)参照)

(i)ハーン自身、学生は一般に英会話ができないとしており、また学生から教師に話しかけるということも、とくに安河内氏以外を除けばなかったことなどから、「この場面は恐ろしく想像的なものであり、かくあってほしいというヘルンの願望を表わしたものにすぎない」(丸山・前掲書八二頁)という見方もある。

(j)長男・一雄(一八九三年一一月一七日生)の誕生(熊本第二の家・外坪井)のことを指すと思われる。





翻訳の底本: "WITH KYUSHU STUDENTS", in OUT OF THE EAST AND KOKORO, by Lafcadio Hearn (The Writings of Lafcadio Hearn, Large-paper ed., in sixteen volumes vol. 7), Rinsen Book, 1973. Reprint. Originally published. Boston: Houghton Mifflin, 1922.
   上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
翻訳者:林田清明
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2016年7月31日作成
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