一
もう十時は
どこをどう歩いたって、この年の暮に迫って、不義理の限りをしている彼に、一銭の金だって貸して
彼は可憐な妻が、あっちで跳ねつけられ、こっちでは断わられ、とぼとぼと町をさまよい歩いている姿を思い浮べたが、それはいつとはなしに、狐のように
この春、彼と妻とは続いて重い流行性感冒に
妻の帰りを待ち侘びながら、友木の心の中は玉島を呪う念で一杯だった。
ジ、ジ、と異様な音を立てて、最後の
玉島を呪い続けていた友木の胸にふと或る事が浮んだ。彼はぎょっとして
「うむ」
彼は苦しそうに

「うむ。
彼はとうとう最後の言葉を
彼は玉島と引替えにするような、彼の安い生命を
こう決心すると、彼は妻の帰って来ないうちに、家を逃れ出る必要があった。妻の顔を見ると、決心が鈍るかも知れないし、妻に余計な苦痛を与えるような結果になるかも知れない。
「私はお前に永らく苦労をかけた。私はもう生きて行く道を知らない。私はあの吸血鬼のような玉島を殺して自殺する。お前一人なら、どうにかして生きる道を見出す事が出来るだろう。意気地のない亭主の事などは、永久にお前の記憶から抹殺して、生甲斐 のある生き方をして呉れ」
こんな遺書を書き残して置こうかと思ったが、何だか余り月並な夫のする事と思ったし、それに見つかり方が早くて、玉島を殺す所を留められるような事になっても困るし、友木は妻には何にも知らさない事にした。
玉島の家は無人ではあったが、戸締りは中々厳重らしい。噂によると、夜の警戒は一層激しいと云う事であるから、どうして忍び込むかと云う事が問題だった。殺す方法は更に問題だった。友木には短刀は愚か、
蝋燭は最後の燃えんとする努力をするように、パッと一瞬間明るくなると共に、見る見る焔が小さくなって、
友木はのっそりと真暗な部屋を出た。
二
通りは歳晩の売出しで、明るく
友木はこう云う人々の間に交って、
彼自身は然し、始終何者かに追かけられる気持だった。鳥打帽子を眉まで
玉島の家は薄暗い横丁にあったが、夜用のない商売とて、年の暮と云うのに、もうすっかり門を閉じて寝静まっていた。
友木は玉島の家に近づくと、四肢が妙にブルブル顫え出して、唇が異様に渇いて来た。彼はうろうろと門の前を二三回往復した。
戸を叩く勇気はなかった。何かの口実で彼に会う事は出来るとしても、素手ではどうする事も出来ない。旨い隙を見て飛かかったとしても、老人ではあるが、頑丈そうな玉島には、友木は
友木は
友木は云い現わす事の出来ない焦燥と不安とを感じながら、玉島の家の前を往きつ戻りつした。時々通りかかる人影に追われては、通りの方に出た。通りを一廻りしては又家の前に来た。
夜は次第に更けて、寒さはいよいよ増して来た。が、忍び入るべき機会は少しも彼に与えられなかった。けれども彼の勇気は容易にひるまなかった。彼は執拗に目的の家の廻りを離れなかった。
何回目かに、通りの方から玉島の家のある薄暗い横丁に
もしや、と思って友木はドキンとした。彼はよく金を拾う場面を空想したものだった。金を拾うより他に方法はないと思った事は再々あった。金を拾えばどんなに嬉しかろうと思った事も度々あった。奇蹟的に金を拾って窮境を脱する事の出来る事を幾度か熱望した。が、空想は遂に空想に終って、そんを奇蹟はかつて実現した事がなかった。
然し、今日と云う今日こそ、正にその奇蹟が起ったのではあるまいか。こう思いながら、そうして一種異様な不安に襲われながら、友木は風呂敷包を開いた。中から紙包が現われた。そうして、
何たる奇蹟!
紙包の中味は正に
友木の手はブルブル顫えた。彼はあわてて紙幣束を懐中に
友木は夢中で走り出した。兎に角、その場にいる事が恐ろしかったので。
数町離れた所へ来て、彼はホッと息をついた。
どうしよう。
届けようか。落主が知れれば一割位
五百円あればもう死ななくて好い。玉島を殺すにも及ばぬ。これを一転機として、運が開けて来るかも知れぬ。五百円落すような
借りよう。友木はとうとうそう決めて終った。
彼は四辺が急に明るくなったように感じた。希望が、
彼はふと妻の事を思い出した。
真暗な家に帰りついて、彼のいないのを発見した彼女は、どうしているだろうか。それとも彼女は未だ町をうろつき廻っているのだろうか。
早く、早く、吉報を知らしてやらなくてはならない。
友木は胸をわくわくさせながら家の方に駆け出した。
三
家は真暗だった。
友木は手探りで室の中に這入って、声を掛けて見たが、妻は帰っていなかった。
彼は家を出て、近所の荒物やで蝋燭を二本買った。ビクビクしながら、懐中から拾った金のうちの十円紙幣を一枚抜き出して渡したが、店の者は別に怪しみもせず
太い真白な西洋蝋燭は久し振りで快よい照明を与えた。彼は夢中になって食パンに食いついた。それから林檎に
腹が十分になって少し余裕が出ると、彼は久しく吸わなかった、煙草が無性に欲しくなった。彼は再び外に出て煙草を買った。
妻はどうしたのか中々帰って来なかった。
彼は悠然と構えてはいたが、実は一刻も早く妻の顔が見たいのだった。早く彼女と喜びを分ちたかった。が、妻は容易に姿を見せないのだった。
彼は少し不安になって来た。彼女の身に何か異変が起ったのではないか。もしや自動車にでも
もしや彼を見限って逃げたのではなかろうか。万々そんな事はないと思いながら、友木は悪い方へと考えが向くばかりだった。
いや、矢張り
この時、ふと彼は部屋の中に変ったものを見つけた。
部屋の中ほどの床板の上に、燃えさしの短い蝋燭が立っているではないか。彼が先刻この部屋を出かけた時には、最後の蝋燭が燃え切ったので、現にその
では、妻は一度帰って来たのだ。そうして、彼の姿が早えないので、又どこかへ出かけたものと見える。一体どこへ出かけたのだろうか。出かけたにしても、行く
彼は外に出て妻を探そうかと思った。然し、当がないのであるから行違いになる恐れがある。彼はどうする事も出来ない不安に、気をいら立たせながら、四辺を見廻した。
と、部屋の隅に手紙らしいものが置かれてあるのが、初めて眼についた。彼はドキンとしながら、飛びつくようにしてそれを手に取った。
それは確かに伸子の置手紙だった。
友木はあわてて読み下したが、彼の顔色は忽ちサッと蒼くなった。手紙には次のような事が書かれていたのだった。
「少しでも望みのありそうな所は、残らず訪ねて見ました。然し、あなたが初め仰有 ったように、全部駄目でした。私は悄然 として家に帰りました。あなたはどこにお出になったのか、お留守でした。私は袂 の中にあった一かけの蝋燭を出して、火をつけ、じっとあなたの帰られるのを待っていました。何と云う佗しい気持だったでしょう。私達は明日はこの物置のような家さえ、出なければならないのです。一銭の貯えもなく、一銭の金を得る途さえ与えられないのです。私はじっと考えました。いろいろの事が考え浮びました。もう涙も出ませんでした。
結局、私達は生きて行けないのです。私は決心しました。私と云う足手纏 がなければ、男ですもの、あなたはきっと何か生きる道を、見出されるに違いないのです。私は決心しました。私はあなたから離れます。
あなたから離れると云っても、私はあなたなしに生きて行けない事は能く知っています。ですから私は死にます。私はあの憎い玉島を殺して死のうと思います。玉島は用心深いそうですが、女ですから油断しましょう。私は金を返えしに来たような風をして彼に会い、隙を見て刺殺します。
長い間愛して頂いた事を深く感謝します。稀 には憐 れな私の事を思い出して下さい。どうぞ、生甲斐のある人生をお送りになりますように。
結局、私達は生きて行けないのです。私は決心しました。私と云う
あなたから離れると云っても、私はあなたなしに生きて行けない事は能く知っています。ですから私は死にます。私はあの憎い玉島を殺して死のうと思います。玉島は用心深いそうですが、女ですから油断しましょう。私は金を返えしに来たような風をして彼に会い、隙を見て刺殺します。
長い間愛して頂いた事を深く感謝します。
伸子」
友木は皆まで読まずに夢中になって外へ飛び出した。足は
妻は彼と同じ事を考えたのだ。手紙の文句さえが、彼が妻に書き残そうと考えていた事と、同じではないか。彼女は彼と入れ違いに玉島の家に向ったのだ。
もう間に合わないかも知れない。彼女は玉島を殺して終ったかも知れない。恐ろしい事だ!
だが、彼女だって、そう
早まるな、伸子。もう玉島なんかどうでも好いのだ。殺す必要があったら、お前より先に俺がやっつけているのだ。ああ、俺が逃したばかりに、お前は殺人の罪を犯したかも知れない。ああ、恐ろしい、どうぞ、未だ殺していませぬように。間に合いますように。
友木は
四
ああ、駄目だ!
玉島の家の二階から燈火が
ああ、伸子は中に這入ったのだ。
友木は潜り戸を押し開けて、中庭を走りながら、もしやその辺に血に
玄関にも血の垂れたような痕はなかった。
未だ惨劇は起らなかったのか。伸子は無事か。玉島に組み留められたのか。ああ、それでも好い。どうか無事でいて呉れ。
友木は勝手を知った家なので、階段を駆け上って、玉島の応接室になっている部屋を目がけて突進した。
と、突如として、人の争う物音が響いた。
友木は
見ると、伸子がどこで手に入れたのか、ギラギラ光る短刀を
「伸子、
友木は怒鳴った。しかし、伸子の耳には這入らないのか、
友木は伸子に飛ついた。右の手で、しっかり彼女の短刀を持った手を握った。
伸子は激しく身を
「あッ! あなた?」
と叫んで、短刀をガラリと落すと、張りつめた力を急に失なったように、ガックリと友木の胸に
「無茶じゃ。無茶じゃ」
危く生命を落す危険から逃れてホッとしながら、恐怖に蒼ざめた顔をしかめて、玉島は叫んだ。
「何が無茶だ」
友木は憎悪に充ちた眼で蒼くなっている玉島を見ながら怒鳴った。
「何が無茶じゃて? こんな無茶な事が世の中にあるもんかいな。貸した金を返えしもせず、人を殺そうとするなんて、阿呆らしくてものが云えんがな」
「ものが云えなければ黙ってろ。貴様のような奴は殺しても好いのだ」
「無茶苦茶じゃ。謝りもせんと、云いたい事を
「ふん、告訴でも何でもして見ろ。俺はもうお前なんか恐くないぞ」
「わしは恐うのうても、お上は恐いぞ」
「恐くない」
「阿呆云うな。牢へ這入らんならんぞ」
「構わない」
「無茶じゃ。無茶じゃ。そんな事云わんと、金を返えして呉れ」
「ふふん。そんなに金が欲しいか。金を返えせば文句はないんだな」
「金を返えして、大人しゅう引取って呉れたら、何にも云わん」
「よし、では金を返してやるから、証文を寄越せ」
「証文はお前の女房が破って終ったがな」
玉島は情けなさそうな顔をして云った。
「よう、破った、ふん」
友木は伸子を静かに抱き起して訊いた。
「お前破ったのか」
「ええ」
死人のように蒼ざめた顔ではあったが、彼女は割にしっかり答えた。
「証文は破っても金高は覚えているだろう」
友木は玉島に云った。
「うん、そら覚えとるとも」
「それじゃ云って見ろ。証文がなくなれば返えさなくても好いのだが、俺はお前見たいな
「えっ、払って呉れる? 夢じゃないかいな。金高は元利合計で、二百二十八円と四十六銭じゃ」
「よし」
友木は懐中から紙幣束を引摺り出して、
「さあ、ここに二百三十円ある」
「夢じゃないかいな。生命を取られるかと思うたら、金を返えして貰えるなんて、こんな有難い事はないて。油断さして置いて、又、短刀でブスリとやる積りじゃないか」
「黙れ。愚図々々云わないで早く受取れ」
「何や、気味が悪いな」
玉島は
「確かにあります。待って下さい。今おつりを出すさかいにな」
「
「えッ、それはほんまかいな」玉島は仰天しながら、「友木はん、あんたは貧乏してても、どことなく他の人と違うと思ったが、やっぱり
「黙れ」友木は一喝した。「それでもう云う事はないか」
「何にも云う事はおまへん。お礼しますがな」
玉島はペコンと頭を下げた。
「よしッ。それではこっちに云い分があるぞ。おのれ、よくも永い間俺を苦しめたなッ!」
友木は拳を固めて、玉島がペコンと下げた横顔を張り飛ばした。
玉島はよろよろとして、情けなさそうに顔をしかめながら、
「あ痛! ああ、これがおつりの分かいな」
「何をッ!」
「伸子、さあ帰ろう」
友木は伸子を促がして、悠々と凱旋将軍のように、玉島邸を引上げた。
五
家に帰りついた友木は、簡単に伸子に金が手に這入った訳を話した。彼は然し拾った金をそのまま着服したのだとは云わなかった。思いがけなく大金を拾って、落主から礼金を貰ったのだと云った。伸子は無論それを信じた。
「好かったねえ」
彼女は喜びに
不安のうちに一夜を明かした友木は、翌朝早々伸子を促がして旅に出る事にした。彼は東京にじっとしているのが何となく恐ろしかったのだった。家主に滞っていた家賃を払い、身の廻りのものを整えると、二人は汽車に投じて湘南地方に向った。
然し、友木は未だ解放されなかった。
その夜、宿で夕刊を手に取った友木はあっと声を上げた。
「なあに」
伸子は驚いて夫の顔を見上げた。
「た、大変だ。玉島が殺された」
「えッ」
二人は夕刊を引張りこしながら、段抜きの記事を読んだ。
夕刊の報ずる所によると、高利貸の玉島は今朝二階の一室に冷くなって横たわっているのを、
「まあ、驚いた。じゃ、私達の帰って直ぐ後で殺されたのね」伸子は
「うん。潜戸は開いていたし、玄関は締りはなかったし、強盗が這入ったんだね」
「初めはあなたが殺そうとし、次に私が殺そうとしたのを、
「うん、全く運のない奴だ」
「天罰ね。でも、私達が殺さないで好かったわ」
「しかし、俺達は疑われるかも知れない」
「本当ね。急にお金が這入って、急に旅行に出たりして、それに私達は玉島の所へ行っているんですものね。疑われるには道具立が揃い過ぎているわ。もし、警察へ呼ばれたらどうしましょう」
「仕方がない。その時の事さ」
友木は妻を安心させるように事もなげに云ったが、心のうちの不安は一通りのものではなかった。いや、不安は既に通り越していた。彼は恐怖に顫えていた。よし、玉島を殺した疑いは晴せるとしても、拾った金を横領したと云う事は隠すべくもなかった。もし、それを隠せば、玉島を殺したと云う嫌疑は高まるばかりである。事によると、玉島を殺した嫌疑も云い解けないかも知れない。
「あなた、どうかなすったの」
伸子は友木が急に黙り込んだのを心配そうに訊いた。
「何でもないさ。疲れたんだよ。もう寝ようじゃないか」
女中に床を取らせて友木は横になった。然し、不安に次ぐ恐怖は高まるばかりで、寝つく事は出来なかった。
夜が明けてから、廊下を通る足音がする度に、もしや刑事がと胸をひしがれていた友木は、寝不足の眼を脹らしながら起き出て、急いで朝刊に眼を通した。
そこには思いがけない幸運が待っていた。新聞には玉島を殺した犯人が早くも捕縛された事を報じていた。
「まあ、好かった」
伸子は胸を撫で下しながら嬉しそうに云った。
然し、友木は未だ十分に解放されていなかった。
新聞の報ずる所によると、玉島を殺した男は
彼の主家は引続く不景気に破産しかかっていたので、その金がなければ
ここの家なら五百や千の金はいつでも転っているだろう。彼は玉島の標札を見上げながら、ふと、こんな事を考えた。そうして、何心なく潜戸を見ると、どうしたのか細目に開いていた。彼は眼に見えない何物かに引摺られるように、潜戸を押した。潜戸は訳なく開いた。彼はフラフラと中に這入った。玄関もどうした事か開け放しになっていた。彼は二階から洩れて来る燈火を頼りに、階段を上った。彼はフラフラと燈火のついている部屋に這入った。すると、玉島が起きていて、彼を怒鳴りつけた。彼は夢中でそこに落ちていた短刀を拾い上げた。そうして、玉島を刺し殺した。
机の上に紙幣があるのが眼についた。彼はそれを懐中に捻じ込んだ。彼は金庫に眼をつけて開けようとしたが、それは駄目だった。そのうちに恐ろしくなって、家を飛び出し、当もなくうろついているうちに、巡回の警官に怪まれて、最寄の警察署の留置場に入れられていたのが、今日昼頃初めて玉島を殺した事を自白したのだった。
「まあ、気の毒な人ね」
読み終った伸子は、顔を蒼くして溜息をつきながら云った。彼女は然し未だ夫の嘘には気づいていないらしかった。
友木は死人のように蒼ざめた顔を上げて、一つ所を見詰めながら、吃り吃り云った。
「運命だよ。運命と云う奴はいつでも罠を掛けて待っているんだよ。それが人生なんだ」
「それで」伸子は多少夫の様子を
友木は然し、それに答えようとしなかった。そうして、深い溜息をついた。
(「探偵」一九三一年五月)