呪われの家

小酒井不木





 近ごろ名探偵としてその名を売り出した警視庁警部霧原庄三郎氏は、よく同僚に向ってこんなことを言う。
「……いくら固く口をつぐんでいる犯罪者でも、その犯罪者の、本当の急所をえぐるような言葉を最も適当な時機にたった一言いえば、きっと自白するものだよ。ニューヨーク警察の故バーンス探偵の考案した Thirdサード Degreeデグリー(三等訊問法)は、犯人をだんだん問いつめて行って一種の精神的の拷問を行い、遂にじつを吐かせる方法で、現にアメリカの各警察では、証拠の不十分なときに犯人を恐れ入らせる最良の方法として採用されてるけれども、僕はどうしても、「サード・デグリー」を行う気にはならない。そんな残酷な方法は用いないでも、極めて穏かに訊問して、最後に一言だけ言えば犯人は必ず自白するものだ。けれど、しその一言の見当が外れて居たら、こちらの完全な失敗であるから、更に初めから事件をしらべなおさねばならない……」
 霧原警部のこの特殊な訊問法は、警察界は勿論もちろん、一般法曹界でも極めて有名になった。そればかりでなく、犯罪者仲間でも評判で、霧原警部の手にかかったら所詮自白しないでは済まぬとさえ恐れられて居るのである。かつて都下の第一流の弁護士M氏は、ある会合の席上で、霧原氏のこの訊問法を、前記バーンス探偵の「三等訊問法」に対して、「特等訊問法」と名づけようではないかと、冗談半分に提言したが、それ以来、「特等訊問法」の名が世間に伝わるに至った。しかしながら、まだ世間には、この「特等訊問法」がどんなものであるかを知って居る人が少いようであるから、私はここに、ある殺人事件の取調べに応用された霧原警部の「特等訊問法」を紹介すると共に、その事件の顛末を記して見ようと思うのである。
 からりと晴れた大正十三年六月三日の朝、霧原警部は、昨夜、小石川で行われた殺人事件の報告をきくために、警視庁の同警部の控室で、現場げんじょう捜査に赴いた朝井刑事と対座した。朝井刑事の報告の要点は次のようである。
 昨夜十二時少し過ぎ、小石川区さす町○○番地の坂の上で、「人殺しーい」という悲鳴が、人通りの少ない闇の街の空気にひびき渡った。附近の家々ではまだ起きて居る人たちがあったが、それ等の人々が驚いて出て見ると、相当の身装みなりをした二十歳ばかりの女が、地面の上にうずくまって苦しみあえいで居た。人々が不便に思って女を抱き起そうとすると、女はさも苦しそうに、「あーん、あーん」と唸りながら地面に指で何やら書いたが、やがて、「うーん」と一声口走ったかと思うと、そのまま絶命してしまった。よく見ると、女の傍には血にまみれた短刀が、夜目にも光って見え、附近には所々に黒い血のしずくがこぼれて居たので、人々は女に触れることを恐れて、直ちに坂下にある交番に訴え出ると、交番の巡査はこれを警視庁に急報し、それから現場におもむいて見張番をしたのである。
 警視庁からは朝井刑事が、警察医、写真班その他の必要な人々を連れて時を移さず駈けつけた。医師の検査によると、女は束髪に結った面長の美人で、身体はうつぶしになり、顔を横向けてたおれて居たが、右側の背部の肩胛骨の下の所を衣服の上から刺されて、出血のために絶命したものらしかった。その間、朝井刑事は、懐中電灯を以て附近を捜索し、取りあえず、短刀を注意して拾い上げて鞄の中へ入れ、それから地面を見ると、明かに右の手の附近に片仮名で、「ツノダ」の三字が書かれてあったので、死体の右の手を持ち上げて調べて見ると食指ひとさしゆび尖端さきに泥がついて居た。即ち女が絶命する間際にそれを書いたものであるとわかったが、その三字が何を意味するのか、もとよりわかろう筈がなく、朝井刑事は、その手蹟を保存するために、その文字を写真に撮影させた。
 十数日来雨が降らなかったので、地面には土埃りがたまって居て、足跡もかなり沢山ついては居たが、多くの人々に踏みにじられた後であるから、足跡検査は、もとより満足な結果をもたらさなかった。その他に、現場げんじょうにはこれという発見もなかったので、死体は直ちに大学へ運ばれ、今日十時から法医学教室で解剖が行われることになって居るのである。
 さてここに、今一つこの事件と関係のあるらしい事件が昨夜小石川で起ったのである。原町の交番の巡査が十二時過ぎに、受持の区域を巡廻して居ると、先方むこうからばたばた駈けて来る者があった。そこで巡査は物蔭にかくれて様子を覗って居ると、その者は何思ったか「人殺しーい」と一声叫んだ。そこで巡査は躍り出て、その者を捕えにかかると、はげしく抵抗したのでじ伏せたが、別に誰も追いかけて来る様子はなかった。交番へ連れて来て見ると、女のように色の白いやさ男であるけれど、左の袖に血痕が五つ六つ附いて居たので、様子をたずねると、今、恐しい男に追かけられて来たというばかり、血痕に関しては、知らぬ存ぜぬと口を噤んで云わないから、ひと先ず警察署へ連れて来た。ところが警察署では美人殺しのことが知れて居て、殺人の時刻と、この男の走って来た時刻とが丁度ちょうど同じであるから、有力な嫌疑者として、今朝早く警視庁へ護送して来たのである。…………と、朝井刑事は語り終って、ホッと一息した。
「女の身許はまだわからぬのだね?」と霧原警部はたずねた。
「はあ」
現場げんじょうで、『人殺しーい』といったのは無論女の声だったろうね?」
「附近の人々はみんな、女らしい黄ろい声だったと申しました」
「けれど、その人々が駈け寄ったときには、女は何ともいわなかったのだね?」
「はあ、苦しそうに唸って、地面に文字を書いたそうです」
「短刀は?」
「鑑識課で検査してもらいましたが、指紋は一つも発見されぬそうです。加害者は多分手袋をはめて居ただろうと思われます」
 霧原警部は懐中時計を出して見た。
「まだ、大学の解剖までには間があるね。僕も一応死体を見に出かけるつもりだが、その前に、嫌疑者として送られた男を一寸訊問して置こう。袖の血痕は鑑識課へまわしてあるだろうね?」
「はあ、一部分切り取って今検査してもらってあります」
 やがて霧原警部の前に連れられて来た男は、黒い長い髪を分けた色白の美男で、昨夜ゆうべ眠らなかったためか、眼の縁が黒ずんで居た。見ると、左の袖には血のとばっちりが点々ついて居た。
「君は何という名だね?」と警部はやさしく訊ねた。
「平岡貞蔵と申します」
年齢としは?」
「二十五になります」
住所すまいは?」
「巣鴨宮仲○○番地です」
「よろしい、その袖の血はどうしてついたかね?」
「どうしてついたか存じません」
「昨夜君は夜遅く何処どこへ行ったのかね?」
「散歩に出たのです」
「君は『人殺しーい』と言って走ったそうだが、誰に追いかけられたのかね?」
「誰だか存じません」
「君は指ヶ谷町に昨夜人殺しのあったことを知って居るかね?」
「存じません」
 霧原警部は、うつむき勝の男の胸をじっと見て居たようだが、その眼は異様に輝いた。傍に居た朝井刑事は、警部が早くも何か重要なことを見つけたなと感じたが、意外にも警部は、
「今はこれだけにして置こう」と言った。
 すると男は、
「どうか早く帰らせて下さい」と歎願した。
「まだいけない。…………」と警部はきっぱり言い切った。
 男が去ると、警部は朝井刑事に向って小声で命令を伝えて居たが、やがて立ち上って云った。
「それでは僕はこれから大学へ行ってくるから、今言った方面をよろしく頼むよ」


 死体解剖の結果、致命傷は、背部の刺創さしきずで、右肺が深く傷つけられて居たために、内出血を起して死んだものとわかった。また、女は妊娠三ヶ月であるとわかり、胃の中は空虚で、女の身許を知るに足る手がかりは、衣服にも死体にも何も発見されなかった。それ故、その死顔を新聞に発表して知人の申し出を待つことになり、死体は少くとも今明日だけ、教室の冷蔵室に保管されることになった。
 霧原警部が午後、大学から警視庁に帰って一休みして居ると、朝井刑事は興奮した面持ではいって来て次のような報告をした。
 朝井刑事が、警部の命令によって、部下の一員と共に、平岡貞蔵の住所である巣鴨宮仲○○番地へ行って見ると、それは附近からずっと離れた一軒家であったが、刑事が、その家にはいるかはいらぬかに、その中に居た一人の男が、裏口から飛び出して畑の方へ逃げて行こうとしたので、早くもそれを見つけた二人は、追いかけて行って難なく取り押えた。家の中はがらんとして居てその外には誰も住って居る様子はなく、刑事が、その男に向って、平岡貞蔵が、ある殺人事件の嫌疑者として捕えられた旨を告げると、その男は非常に驚いて、むしろ警視庁へ連れて行ってくれろと嘆願するような態度を取ったので、その男を部下のものにゆだね、あとで朝井刑事はその家の中をしらべて見たが、まるで空き屋同然であって、女の住って居る様子は少しもなく、附近の家の人にきいて見ても誰一人知るものはなく、その家の家主をたずねると、四日前に鬼頭清吾という人に貸したが女連れであるかどうかは知らぬというのであった。
「その男の名が鬼頭というのだね?」と警部は朝井刑事の報告をきき終ってたずねた。
「はあ、鬼頭清吾と自分で申しました」
「君たちの姿を見て逃げ出したのだね?」
「はあ」
「君はその点で、その男を何だと思う?」
「前科者ではないかと思います」
「その通りだ。早速その男の指紋を取って、記録を調べてくれたまえ。ついでに、念のために、平岡の身許も調べてくれたまえ」
「平岡のは調べさせましたけれど、記録にはないそうです」
「よろしい。それでは平岡を一寸呼び出してくれたまえ」
 やがて警部は再び平岡の訊問を始めた。
「君は鬼頭清吾という男と同居して居たそうだが、鬼頭君とはどういう関係があるかね?」
「鬼頭さんは大地震のとき私を隅田川で救って下さいました」
「君の家族は?」
「家族のものは多分皆な死んだだろうと思います」
「君の生家は何処かね?」
「本所○○町の○番地です」
「家族は幾人暮しだったね?」
「両親と召使と合せて七人でした」
「兄弟は?」
「妹が一人ありました」
「君と鬼頭君とはそれからどうしたね?」
「二人で方々に住って、家族のものを捜しました」
「いつから巣鴨へ移ったね?」
「四日前です」
「また何処かへ移るつもりだったかね?」
「…………」
「君たちは二人ぎりだったか?」
「二人ぎりです」
「女づれが一人あっただろう」
「ありません」
「よろしい」こういって警部は平岡を退しりぞかせ、鬼頭の訊問をするために朝井刑事を招いた。朝井刑事はうれしそうな顔をしてはいって来た。
「ありましたありました。鬼頭は園田仙吉といって、窃盗のために二年市ヶ谷刑務所で服役し、昨年八月出ました」
「何? 園田?」
「はあ」
「殺された女が死に際に書いた文字は?」
「ツノダです」
「ふむ。ツノダにソノダ。地面の文字の写真を持って来てくれたまえ」
 写真には、はっきり「ツ」の字があらわれて居て、「ソ」の字とは間違うべくもなかった。
「よろしい、園田をつれて来てくれたまえ」
 連れられて来た男は、三十ばかりの筋骨のたくましい、色の浅黒い、どちらかというと美男子であった。
「園田君……いや、鬼頭君、君は平岡君と、どういう訳で、一しょに住うようになったか?」
「地震の時、私が救ったのがもとで、兄弟の約束を結びました」
「君は昨晩何処へ行ったか?」
「何処へも行きはしません」
「平岡君は何をしに出かけたね?」
「散歩してくるといって十一時頃出かけました」
「君は昨晩小石川に人殺しのあったことを知って居るか?」
「存じません」
「平岡君は丁度人殺しのあった時分に、その附近でつかまったが、着物に血がついて居たので犯人嫌疑者になったのだよ。君には何か心当りでもないか?」
「殺されたのはどんな女です?」と、いささか興奮した口調で鬼頭はたずねかえした。
 この時警部のまなこは急に輝いたが、黙って朝井刑事に命じて、被害者の死顔の写真を取寄せ、鬼頭に示した。
「この顔に見覚えはないかね?」と警部は相手の顔をチラと見て訊ねた。
「ありません」
「よろしい。暫くの間あちらに控えて居てくれたまえ」
「平岡君が居たら逢わせて下さい」
「今はいけない」
 鬼頭が退くと鑑識課の男がはいって来て、平岡の袖について居た血は人間の血である旨を告げた。
「朝井君どう思う?」
「血のことですか?」と刑事は突然の質問に面喰ってたずね返した。
「いや、この二人がこの事件に関係があるかないかということさ」
「それは先ず女の身許を知らねばなりません。そして二人がその女を連れて居たかどうかをつきとめねばなりません」
「君が家宅捜索を行っても女の居た形跡は少しもなかったのだね?」
「ありませんでした」
「ではもう一ぺん捜して来てくれたまえ」こういってから警部は小声になって何事をか命ずると、朝井刑事の顔は急にあかるくなった。朝井刑事が出かけようとすると、
「ああ一寸」と警部は呼びとめて言った。「君たちは鬼頭をつれてくるときに、誰が殺されたかということを話さなかっただろうね?」
「その点は部下のものにも、よく注意して置きました」


 霧原庄三郎氏は朝井刑事が去ってから、椅子にもたれて、眼をつぶりながら、深く考えこんだ。
 氏はその主義として、機の熟しない先の訊問の際には、出来るだけ、相手の急所に触れぬように注意した。犯人を訊問するのは、ちょうど、医学上の免疫現象と同じようなものだと氏は考えて居るのである。例えば実験動物に致死量の毒素を注射すれば、動物はたおれるけれど、若しその致死量を二分して、時日を隔てて二回に注射するときは、動物は死なないばかりか、三度目に致死量を一時に注射してももはや動物は死なないのである。それと同じように、犯人の訊問の際にも、はじめに犯人を自白せしむるに足るだけの言葉を発すればよいものの、さもなくて、チョイチョイ犯人の急所に触れるような言葉を発するときは、犯人はただ警戒するだけであって、最後に急所をえぐるような言葉を発しても、もはや用をなさぬのである。だから霧原警部は、訊問の当初に於ては、なるべく訊問に深入りしないようにあっさり切りあげることにして居た。そしてこういうやり方によって、警部は今までその「特等訊問法」に成功して来たのである。
 今度の事件において、霧原警部は非常な難問題に出会しゅっかいした。第一に、被害者が死に際に書いた、「ツノダ」の三字は何を意味するであろうか。平岡は取調べの結果前科者でないから、その本名が、「角田」であるかどうかを知る事が出来ない。戸籍といっても本所の役場は震災で焼けてしまったから調べることは出来かねる。また、鬼頭の本名が園田だとわかったけれども、被害者がたとい死に際とはいえ、間違えて書いたとは断言出来ない。なお又、ツノダは女自身の姓かも知れず、或いはツノダは全く人名ではないかもしれない。それはかく、被害者は文字を書く位の力があるのになぜ殺した犯人の名を口で告げなかったか。現に、殺されるとき、「人殺しーい」と叫んだではないか。
 第二に平岡が、なぜ人血を袖につけて居るか? 先刻、訊問の際注意して見ると平岡は男に似合わず乳房ちちが大きい。男が女のような乳房をして居ることを術語では「ギネコマスチー」といって、先天性犯罪者に屡々しばしば見られる現象であるから、或は今回の犯罪に関係して居ると思われぬでもないけれど、然らば何故なにゆえかれはばたばた走って、殊更に大きな声を出して「人殺しーい」と叫んだか。若し女を殺して逃げたのであったならば、叫ぶ筈はないのである。して見ると誰かと喧嘩でもして追かけられたのであろうか。然し彼を捕えた警官は、誰も追いかけて来る者はなかったと言った。なおまた喧嘩をした傷も平岡の身体には認められない。更にまた鼻血を出したともいわない。こういう場合優れた血液鑑別法があって、平岡の袖の血が殺された女の血であると言いるだけの科学的方法があるとよいけれど、残念ながらまだ法医学は其処まで進んで居ない。輓近ばんきん自家凝集素の研究が進んで、ある程度まではそういうことも出来そうに考えられるけれどそれはもっともっと将来に属することである。しかも平岡は口を噤んで血痕の説明をしない。霧原警部は、経験によって、若し訊問の当初に「知らぬ」といったら、何度たずねたとて、言うものでないと知って居たから、その血液の秘密は、どうしてもこちらであばかなければならない。
 同様に鬼頭が、女の写真を見て、一度「知らぬ」といったら、あくまで「知らぬ」でとおすにちがいない。ミュンスターベルヒは実験心理学上の理論から割り出して、呼吸計、脈搏計を応用して犯人の呼吸、脈搏の模様をはかり、若し女の写真を見て、その女を本当に知って居るならば、たとい口では知らぬといっても脈搏には変化があらわれるものだと言って居るけれども、それは畢竟ひっきょう理論上のことだけであって、実際の場合には却って間違った判断をきたし易い。又、今日の夕刊新聞には殺人事件が始めて報告され、女の死顔の写真が出て居るけれど、それによって、その女を知って居ると申し出る人は恐く少いであろう。日本では一般の人々がまだ、こういうことには無関心であるばかりでなく、うっかり申し出るとかかり合いになるからと恐れて居るものさえあるからである。よし申し出るものがあっても、死顔は間違い易いから、この方面から女の身許がわかろうとは思われず、従って女が二人の男にどんな関係を持って居るかはこちらでたずね出さねばならないのである。
 仮りに女が平岡か鬼頭かの知った者であるとしたら、その動機は果して何であろうか。女が妊娠三ヶ月であるところを見ると、その方面に動機を求め得られないでもない。然しながら、腹の子の処置に窮して女を殺すということは考えにくいことであり、又、二人の男が女を張り合って、一方が嫉妬のために殺したとしても、当の女を殺すとは考えられぬことである。して見ると、殺された女は二人に無関係であるかもしれない。
 それにもかかわらず霧原警部はこの二人が今回の事件に関係して居るように思えてならなかった。まず第一に平岡の袖の血である。人血というものは自分が傷をしない限り、めったにあのように袖につくものではない。医師か解剖学者ならばつき易いけれども、そういう人は多く洋服を着て仕事をする。また喧嘩ならば、こちらにも何かの傷がある訳である。しかも昨夜小石川に血腥ちなまぐさい喧嘩があったという報告はなく、血腥い事件といえばこの殺人事件ばかりである。して見ると平岡はこの殺人に無関係だとは言われない。が、さて殺された女と平岡とを結びつける鎖の鐶となるものは何一つもない。……こう考えたとき、霧原警部は殺された女の横顔と平岡の横顔とを考え合せてにこりとした。
 警部は更に考えを続けた。第二に二人がこの事件と関係ありそうに思わせることは、朝井刑事が家宅捜索に赴いた際、鬼頭の逃げ出したことである。一度刑務所へはいった経験のあるものは、警官を本能的に恐怖するものであるから別に不思議はないというものの、この場合にはそうばかり説明し捨てることが出来ない。というのは、先刻訊問の際、鬼頭は平岡の袖に血がついて居たことを聞いてどぎまぎしながら、うっかり「殺されたのはどんな女ですか?」と言ってしまった。殺人事件の記事は朝刊には差止めてあって、今日の夕刊にはじめてあらわれたのであるから、朝井刑事に訊かない限り知って居る筈はない。しかも警部は平素この点について部下を厳重に戒めてあるから朝井刑事のいったように、鬼頭には何も話さなかった筈である。して見ると鬼頭は殺されたのが女であると知って居たことになる。従って、鬼頭もこの事件に無関係だとは断言することが出来ない。
 短刀の出所に関して取り調べはさせてあるけれども、その方面からは何の報告もない。それ故、霧原警部は朝井刑事に行わせた再度の家宅捜索の結果を、唯一のたよりとして、心待ちに待ち続けた。
 午後六時ごろ、朝井刑事は帰って来た。その顔にはうれしさが溢れて居たので、警部は早くもよい手がかりの得られたことを見て取った。
おおせの通り掃除口の検査をしましたら、意外にも重大な手がかりを得ました。先ず第一に糞壺の中に、いた物が沢山ありました」
「君はそれをどう思う?」
「妊娠した女の悪阻つわりと考えます」
「いかにも立派な推定だ。被害者は妊娠三ヶ月だというから悪阻に悩んで然るべきだ。けれどそれだけでは決定的の証拠とはいえぬ」
「然しそれ以上に重要な第二の手がかりが得られました」
「それは何か?」
「便所の中の紙を取り出して、よく洗って見ましたところ、その中からたった一枚ですけれど、その上に墨で文字の書いてある桜紙が出ました」
「その文字は?」
「ツノダと、三字、片仮名で書いてありました」


 霧原警部は平素沈着を以て聞えて居るが、この時ばかりは椅子から飛び上らんばかりに喜んだ。
「そりゃ非常な発見だ」と警部は叫んだ。「その紙を見せてくれたまえ」
「今、鑑識課にまわして乾かしてもらってありますから、もうじきもって来てくれる筈です」
 そのとき給仕がはいって来て一枚の紙片を渡した。その上には一すん四方位の大きさの字で、中央に「ツノダ」と墨ではっきり書かれてあった。それを受取った警部は、はや、もとの冷静な態度になって居た。
「君はこれで、どういうことを考える?」と、その文字と、地上に書かれた文字の写真とをくらべて居た警部がたずねた。
「殺された女が二人と同居して居たと思いたいです」
「いかにもプロバブルだ。写真の文字と紙の文字とに、手蹟の似通ったところがある。して見ると地上に書かれたのは『ソ』の字の誤りでなく『ツノダ』にちがいない。すると『ツノダ』は一たい何を意味するだろうか?」
 朝井刑事は暫く考えて居たが、やがて当惑したような顔をあげて答えた。「ツノダというのはやはり女に関係のある者の名前だろうと思います。犯人の名が角田ではありますまいか。平岡の本名が或は角田かもしれません」
「すると、一口にいえば角田は女の情夫だというのだね? それにしても情夫の名をこのようにふとい文字で、しかもはっきりした書体で桜紙に書くというのはどういう訳だろうか?」
「女は迷信深いものですから、何かの呪禁まじないにしたのかもしれません」
 霧原警部はさも我が意を得たという様な顔をして言った。
「よい所へ気がついた。迷信とは面白い、ことに妊娠したものは迷信深くなり易いからね。然し、仮りに平岡を情夫とすると、殺害の動機は何だろう」
「…………」
「いや君の当惑するのも無理はない。この事件はもっともっと研究して見なければならぬ」
「いっそ、ツノダという言葉を平岡にきかせて、その反応を見たらどうでしょうか」
「それはまだ早過ぎるよ。それよりもこれから、平岡と鬼頭とを逢わせて見ようと思う」
「然しそうすれば、愈々二人は口をつぐむように、しめし合いはせないでしょうか」
「さあ、其処そこだて。二人は逢ってどんな会話をするかをきいて見たいのだ」
 朝井刑事は早くも霧原警部の意中を覚った。警部の室と、その隣りの応接室の境の壁は特別の構造になって居て、壁の前にある一点に立つと応接室で行われる会話はすべてこちらの耳にはいるばかりでなく、応接室にかけてある総監の油絵の肖像は、その眼の瞳が切り抜かれてあって、こちらの室からその瞳に眼をあてると、応接室の人の挙動がことごとくわかるようになって居るので、霧原警部は平岡と鬼頭を対面させて、その挙動、会話から二人の秘密を知ろうとするにちがいなかった。
 夕暮が迫って来て、そうした観察をするにはすこぶる好都合の時期となった。朝井刑事は警部の命によって、先ず鬼頭を応接室に導かしめた。それから合図によって平岡を連れ入れさせることにし、朝井刑事が肖像画の後ろから覗き、警部が会話をきく役になった。そして若し中の二人がぼそぼそ話を始めたならば、朝井刑事が手を以て知らせると、部下のものが、応接室へ這入はいって行って二人を引き離す手筈にきめたのである。
 いよいよ平岡は応接室の中へ入れられた。警部は耳をすまして緊張して居たが、意外にも会話の声はして来なかった。そこでぼそぼそ話が始まったのかと朝井刑事の方を見ると、刑事は一生懸命に見つめて居たが、その口は驚きのためにだんだん大きく開かれて行った。暫くしてから、朝井刑事が猛烈に手を振ったので部下の警官は応接室へ闖入ちんにゅうして二人を引き離した。
 二分の後、霧原警部と朝井刑事とは対座したが、朝井刑事は眼をぱちくりさせて、暫くは物が言えぬらしかった。
「どうした朝井君?」と警部は不審顔をして訊ねた。
「大変なことをしてしまいました」
「え?」
「二人は手真似で話をしました」
「まあ、落ついて話したまえ」
「はじめ平岡がはいって行くと二人は、顔を見合せましたが、鬼頭はあたりを一応ながめまわしてから、突然手真似をつかいました。すると平岡も手真似で答え、暫くの間話しあって居ましたが、急に平岡が泣き出しますと、鬼頭は傍へよってなだめながら、耳に口をあててささやきかけました。そこで私は驚いて合図をしたのですが、あまりに意外だったので、とうとう二人に手真似で話をされた機会を与えてしまったのです。私は盗賊たちのつかう符牒ふちょうを多少研究したことがありますが、今の二人の手真似はさっぱりわかりません。けれどこれで二人が盗賊仲間だということを知りました」
「ふむ」といったきり警部はうつむいて考え込んだ。「だが、犯罪者仲間だとすると、平岡の泣いたのが少しおかしいね」
「平岡は気が弱いからでしょう」
「そうかしら、僕はこれまで種々いろいろな犯罪者に接したが、男で泣くのはめずらしいね」
「でも、手真似で話すところはそうとしか思われません」
「手真似! そうだ。二人に手真似で話されたのは失敗だったが……待ちたまえ、其処に秘密の鍵があるようにも思われる……」こういったかと思うと、霧原警部は急に晴やかな顔をした。が、
「こりゃ君、も一度死体解剖をやり直さなくちゃならん」と叫ぶように言った。
 この意外の言葉に、朝井刑事はすっかり面喰って、ただ警部の顔を見つめるばかりであった。
「今の法医学というものは犯罪に直接関係した秘密を解決するばかりで、死体そのものの包む秘密は、とかく見のがしてしまい易いのだ。今度の事件でも、被害者は妊娠して居るということの外にもっと大きな秘密を包んでいるらしい。その秘密をあばかぬ限りは、この事件の解決はむずかしいだろうと思う。もし僕の推定が誤らなければ、犯人たちの口を噤んで居る理由もわかるし、そこに鬼頭否園田の前科者としての謀計たくみが働いて居るようにも思われる……」
「では園田を犯人とお認めになるのですか」
「それはまだ何とも言われない。死体の秘密をあばいたら、それによってどちらか一人の口をあかせることが出来ると思う。だが、二度目の解剖は極秘のうちに行わなければならぬ。君自身にさえ立ち合っては貰えない。僕と大学の村山教授と二人でこの解決をしたいと思うのだ。……」


 あくる日の午前、大学で死体の再解剖が行われたが、それは霧原警部と村山教授だけの外、誰も知る人がなかった。霧原警部の察した如く死体の身許を申し出るものは一人もなく、また短刀の出所の取調べもすべて徒労に帰し、拘留こうりゅうされた二人を犯人と判断しべき直接証拠は何も出ないばかりか、二人が巣鴨へ来る以前の行動も少しもわからなかった。
 然しながら、午後警視庁へ帰って来た霧原警部の顔には緊張の色がみなぎって居た。朝井刑事はその顔を見て、いよいよ今日は「特等訊問法」が行われるのだと推察した。死体再解剖の結果どんなことが明かにされたか、又それによって二人の口を果して開くことが出来るであろうか。
 霧原警部は、いつも飲用して居るフランス葡萄ぶどう酒を取り寄せた。特等訊問法が行われるときには必ずこの葡萄酒が出る。警視庁内では、特等訊問の一言はこの葡萄酒が言わせるのだとさえ噂されて居るのである。
 午後四時、命によって先ず鬼頭が呼び寄せられた。朝井刑事は二人の男が同一事件に訊問されるとき、後に訊問される方に特等訊問法が行われることを知って居たので、鬼頭の呼び寄せられたのをいささか不審に思ったのである。というのは、霧原警部は鬼頭即ち園田を犯人とにらんで居るらしいからである。然し警部の真意はわからない。刑事はしずかに秘密の暴露される時機を待つことに決定した。やがて園田即ち鬼頭は着席した。
「ゆっくりしたまえ」と警部はやさしい態度で言った。「君は殺された女をどこまでも知らぬというのか?」
「存じません」
「然し、女が君の家に同居して居たという証拠が出たよ」
「どういう証拠か知りませんが、女は存じません」
「どこまでも知らぬ存ぜぬを言い通すつもりか?」
「証拠が上ったらそれでよいではないですか?」
「そうすると君たち二人のうち誰かが加害者と認められる」
「その証拠はありますか?」
「証拠は平岡君の袖の血だ」
「それだけでは平岡君が殺したとはいえますまい」
「けれどもみだりに人間の血は袖につかぬよ」
「すると殺された女の身許はわかりましたか」
「身許は君たちがよく知って居る筈だ」
「身許がわからなくちゃ、加害者と認められますまい」
「ふむ。君はこういう所に馴れて居るだけ、中々理窟をよく知って居るね?」
「…………」
「すると君は女も知らず、殺した覚えはさらないというのだね?」
「そうです」
「どこまでもそれで通すのか」
「知らないものは知らぬのです。あなた方は勝手に証拠をお上げになったらよいでしょう」
「もうよろしい」
 それから警部は鬼頭を隣室に退かせ、ドアのすぐ向う側に腰かけしめて警官に番をさせ、次いで別の入口から平岡をよび入れた。こうして平岡の訊問が、鬼頭によく聞えるように仕掛けたのである。
「平岡君、袖の血はどうしてついたか、君はいわぬつもりだね?」
「どうしてついたか少しも存じません」
「殺された女が君たちと同居して居たことははっきりわかったよ。それでも君はこの事件に関係がないというのか?」
「でも、少しも存じません」
「君の兄弟分の鬼頭君が園田という前科者だということを君は知って居るだろうね?」
「…………」
「何故、答えないのだ」
 平岡は唇を噛んで居たが、暫くして、
「知って居ます」と答えた。
「君はツノダという名を知って居るか?」
「え?」といってあげた平岡の顔は見る見るうちに蒼ざめた。
ツノダというのだ」
「存じません」
「まさか君の本名じゃなかろうな?」
「ちがいます」
「殺された女の名でもなかろうな?」
「ちがいます」
「君、ちがいますなどと答えてはいかん、知りませんといわなければ」
 平岡はますます蒼ざめた。
「君はどこまでも知らぬ存ぜぬで通そうとするのか?」
「存じません……知りません」
「まあ、そうあわてなくてもよい。心を落ちつけたまえ。今に君にきかせる言葉があるから」
 平岡の呼吸は愈よはげしくなって来た。彼は警部がどんなことを言い出すかと、警部の口許をさぐるように見あげたが、その両手は全身と共にぶるぶる顫えた。
「君、よくききたまえ。いいか」
 まるで猫に睨まれた鼠のように平岡は身をすくめた。
「殺されたのは君の妹のおしだよ!」
「ああッ」といったかと思うと平岡は急に立ち上って、
「言います、言います。妹を殺したのは……鬼頭さんです」と叫んだ。
 警部はしばらく黙って平岡の顔を見つめた。
 この時、隣の室がにわかに騒がしくなって、警官の一人が飛び込んで来た。
「大へんです。鬼頭が自殺しました」
「えッ!」といって警部は立ち上ったが、それと同時に平岡は椅子の上に尻もちをついて、そのまま気絶してしまった。


 霧原庄三郎様……失礼を顧みずこう呼ばせて頂きます。
 この告白書があなたのお手許に届く頃には、私は次の世で、恋しい鬼頭さんの腕に抱かれて居ることと思います。あなたは私までが自殺するとは思いにならないので、私が告白を書いて差出しますと申し上げたとき、快くゆるして下さったので御座いましょう。
 殺された女は私の妹でしかも唖であることを、どうしてあなたは発見なさいましたか知りませんが、あなたのその御炯眼けいがんを以てしても、恐らく私が女であるということは御承知にならないだろうと思います。私はこれまで男として育って来ました。両親さえも私が女であるということを知らずに死んで行ってしまいました。私は申し上げるも恥しいことですが、俗にいう「半男女ふたなり」に生れたので御座います。そして男と見做されて育てられて来ましたが、私自身も、自分で女であるということを知ったのは大地震の後だったので御座います。
 今回の悲劇の起りをよく了解して頂くためには私の生家にまつわって居る恐しい呪いの陰影かげから申し上げねばなりません。私の家は本所××町の旧家で御座いまして、代々富裕な生活をして来ましたが今から六代前の当主が、ある深い事情があって私の家に宿って居た角田碩円という旅僧を殺したのだそうで御座います。その旅僧は今わの際に、この家の潰れるまで祟ってやると言って死んで行きましたそうですが、爾来じらい私の家には代々唖が一人ずつ生れるようになったそうで御座います。私の父と母とは従兄妹いとこの間柄でしたから、私たちのような不具者の生れるのは医学上当然のことでありましょうけれど、やはり旅僧の祟りと思われる事情があったので御座います。それは私の唖の妹が、まだ子供の時分に、いつの間にか、その旅僧の姓である「ツノダ」という文字だけを書くようになったので御座います。何処どこで誰に教わったかはわかりませんが、妹はツノダという文字だけを書いて、あとの文字は何一つ書かないので御座います。手真似で話をすれば何事もよく通じますし又、その外の文字も知っては居たでしょうけれど、暇さえあれば紙にツノダと書くだけで御座いました。
 両親はそれ故、妹を奥の離れ座敷に生活せしめて、少しも世間へ出しませんでした。というのはやはり家代々の言い伝えで、もし唖だということが世間へ知れたならば、その時には一家が全滅するという迷信があったからであります。私たちは二人ぎりの兄妹でして、私は自分が不具であるためかひとしお妹に対して不便を感じ、妹を可愛がりました。そして、妹のことは兎にも角にも世間へ知れずに済んで来ました。
 ところが昨年、大地震大火災が起って、一家離散する運命に逢いました。私は妹を背負って逃げ出し、隅田川に二日二晩浮んでりましたが、そのとき鬼頭さんに助けられたので御座います。父母や召使いたちは皆な死んでしまったものと見えます。今から思えば私たちもいっそ死んで居た方がよかったのです。深窓に育った妹も遂に恐しい世間にほうり出されてしまいまして、私の家の言い伝えのとおり、妹の唖であることが世間へ知れる日が一家の全滅だという迷信がいよいよ実現されたように思われました。ああした恐しい目に逢った人の誰もが迷信家になり易いと同じように私もその時から深い深い迷信家になったので御座います。そして、私が生きて平岡の一家を再興するためにはどうしても妹の唖であることを世間へ知らすまいと決心したので御座います。そして鬼頭さんにだけは一家の秘密を打明けて私の希望を述べ、鬼頭さんもその身が前科者であることを打あけられて、私たちは兄弟の約を結んで一しょに暮すことになりました。幸いに私は沢山の金を持ち出して居ましたから、三人は一と先ず渋谷へ避難し、妹の秘密が知れそうになる度毎に転居して、一方、両親や召使いたちの行方をたずねましたが、どうしても知れませんでした。
 かれこれするうち、ここに意外なことが始まったので御座います。一口に申し上げるならば妹は鬼頭さんに熱烈な恋をしたので御座います。そしてとうとう二人は割りなき仲になりました。
 ところが、震災後間もなく私の身体にも大変化が起りました。それが震災当時に受けた心身の打撃のためであるか、どうかわかりませんけれど、男性であると信じて居た私に、突然月経が始まったので御座います。私が女だと知ったときの驚きは到底筆には尽せません。私ははじめは鬼頭さんにも妹にもかくしてりましたけれど、私が女であると自覚すると同時に生来も小さくはなかった乳房が、にわかに目立って大きくなって来たので御座います。
 霧原庄三郎様。あなたは昨日私の訊問をなさったときに、私の胸のあたりを見て異様な表情をなさいました。私はその時若しやあなたに私の秘密を見抜かれたのではないかと思ってハッと致しました。
 さて、生理的の変化が起ると同時に心理的の変化が起って参りました。ああ思っても恐しいことです。これが今回の悲劇のもととなったので御座いますもの。つまり、私は妹と鬼頭さんの仲を見るにつけ、日一日はげしくなりまさる嫉妬を感ずるようになったので御座います。震災後四五ヶ月ばかりの間の心の苦しみは思ってもぞっと致します。とうとう私は堪えられなくなって、鬼頭さんに私の秘密の恋を打ちあけたので御座います。あああのとき鬼頭さんが私を殺して下さったならば、よかったものを、なまじ私の恋を容れて下さったために私の心は悪魔になってしまいました。妹に対する今までの感情はそのままそっくり憎悪の念に変ってしまいました。
 とかくするうち妹の妊娠したことがわかりました。妊娠が進むにつれて悪阻つわりを起して来ました。そればかりでなく段々気が荒くなってまいりました。そして敏感になったその心はいつの間にか私と鬼頭さんとの間を感付いてしまいました。それからというものは、無暗に「ツノダ」という文字を紙という紙に書き散らしてまるで、私たちを呪うかのように駄々をこねました。私はその紙をことごとく焼き捨ててりましたが、こうなると、いつ何時妹の秘密が世間へ知れてしまうかもしれませんから、私たちは彼処かしこに五日此処ここに四日と転宅ばかりして歩いたので御座います。
 鬼頭さんも妹の行動には、殆ど持て余してりました。そして私との間が段々濃くなって行くにつれ、いつの間にか私と鬼頭さんの間に恐しい考えがかもされて居たので御座います。妹を亡きものにすれば、すべての秘密は葬られてしまい、私たちは夫婦になれるという考えを抱いたので御座います。鬼頭さんは身許の知れぬ唖娘を殺したとて決して知れるものではない、身許が知れなければ犯人は罰せられる筈はないというので、私たちは妹を殺す計画を致しました。四五日前巣鴨に移って其処そこで機の熟するのを待ち、愈よ当日になって鬼頭さんは荷物を纏めて飯田町の停車場に持って行き、妹にはその夜引越しするのだといって連れ出し、いつも引越しには人目につかぬ夜分を選んで居ました。妹を殺してから二人は別々の道をとおって飯田町に落合い都落ちをするつもりだったので御座います。
 愈よ三人は小石川指ヶ谷町のあの坂の上に来ました。鬼頭さんは妹を殺す際に、私に、「人殺しーい」と叫べと申しました。そうすれば警察では物言うことの出来る女として身許を捜すにちがいないから、決して知れないだろうというのでした。今から思えばそうした小細工が私たちの身の破滅を来したので御座います。私たちは妹を一歩ひとあし先に歩ませ、私がその後ろから右側を歩き、鬼頭さんは私の左側になって、手袋をはめて、かねて鬼頭さんが持って居た短刀を以て妹をつきました。
 つき刺すと同時に鬼頭さんは短刀を抜きましたが、その時私の左の袖に血がかかったものと見えます。刺された妹は私の方を振り向いてうらめしそうに睨みましたが、ああその恐しい顔! 闇の中にもはっきりとその鬼のような形相がうかび上りました。私は「人殺しーい」と一声叫び、鬼頭さんは前方に、私は今来た方へ引き返して走りましたが、どこをどう走ったか全く夢中で御座いました。妹の顔が眼の前から離れず、はしりながら更に「人殺しーい」といったらしいのです。私はそれを云った覚えはありませんが、それがために警官にとらえられて、左の袖に血のついて居るのを怪しまれ、犯人嫌疑者としてこちらへ連れられて来たので御座います。
 私が約束通り、停車場へ行かなかったので翌朝鬼頭さんは私たちの巣鴨の家へ私を捜しに戻って行かれ、其処で警官につかまったのだそうで御座います。私たちが応接室で面会したとき、二人はかねて妹のつかって居る手真似で話しあい、私は其の際、涙ながらに、もうとても助からぬから死んで下さいと申しました。かねて、二人は若し今回の秘密が発覚したら、情死をする約束をしたので御座います。然し、鬼頭さんは私の耳に口を当てて、生きられるだけは生きようと申しました。そのとき警官がはいって来られて、私たちは引離されてしまいました。
 霧原庄三郎様。私はあなたがどうしてツノダのことを知られたかを存じませんが、あなたの口からあの言葉を言われたときに、私の心はすっかり顛倒してしまいました。あなたが最後の言葉を発せられる迄のあの二三分間の私の心は何と形容してよいでしょう。死ぬよりも苦しいとはあの事だろうと思います。鬼頭さんは私の自白をきいてられたと見えてたちまち青酸を以て自殺されました。その青酸はかねて義歯いればの中へ入れてあったものです。
 私はもうこれで言わねばならぬ大方のことを申し上げたつもりです。こうして書いて居る間にも私は死を急ぎつつあります。私は鬼頭さんと同様の方法を以て死にます。かくて私の一家はここに断絶することになりますが、それは当然の運命かも知れません。
 終りにのぞんで私はあなたの健康を心から祈ります。
平岡貞蔵


「可哀そうな身の上もあったものだね」と平岡の死体の傍に発見された遺書を、翌朝、朝井刑事が読み上げたとき、それをじっと聞いて居た霧原警部が吐き出すように言った。
「平岡だけでも警戒して生かして置くとよかったですのに……」
「いやいや、それ位のことには気がついて居たけれど、僕はわざと平岡にもその機会を与えてやったのさ」
「では、平岡が女であることを知ってられましたか」
「いや、それは知らなかった。ただ然し、男としては珍しい体格だと思ったよ」
「それにしても殺された女が平岡の妹で唖だということをどうして知られたのですか」
 霧原警部はにこり笑って言った。
「二人がきょうだいということは別に確実な証拠があった訳でなく、全く推定に過ぎなかったのだ。君も知ってる通り、きょうだいというものはその顔の何処かに似たところがあるものだ。多くの場合にその眼を比較するとわかるものだが、死んだ顔と生きた顔との比較する際には、死んだ人の眼が変化するから、わからない。そういう時僕はいつもその人の鼻の尖端さきから唇へかけての横顔の曲線を比較するのだよ。すべて人の顔は正面から見て特徴のない場合、側面から見るとはっきりした特徴の見えるものだ。殺された女の解剖の際僕はその横顔の曲線をよく観察し、それから平岡の横顔を見て非常に似て居ることを発見したのだ。それに平岡が、はじめに、妹が一人あるといったからね」
 ここで警部は一と息ついて傍の茶を啜り、更に言葉を続けた。
「次に、唖であるという考えは、第一、平岡と鬼頭が手真似で話したことから起ったよ。二人を犯罪者と見るよりも、第三者を唖と考えてはどうかと思ったのだ。第二は殺された女が死に際に文字を地面に書いたことだ。文字を書く元気があるのに、口で言えぬのはおかしいからね。なお又、君は唖の書いた文字を見たことがあるかどうかはしらぬが、唖は字劃を正しくはっきりと書くものだよ。これは一度教わったとおりに書こうとするからだ。平岡は誰に教わったかわからぬと其処に書いて居るが、たしかに教えたものがあるにちがいない。だからああした文字を僕は唖の文字だと判断したのだ。そこで僕は早速大学へ行って村山教授に再解剖を願ったのだ。その結果、聴覚器に、ある故障が見出され発声筋の発育が悪かった。それだけでは生前唖だとは言い兼ねるけれど、凡ての事情を総括すると唖だったということがはっきり浮び上って来たのだ。
 さて、殺された女が唖だとして見ると、其処に今回の犯罪の秘密の鍵があるように思われるのだ。というのは、唖であるならば物言う筈がないから、「人殺しーい」と叫んだのは犯人か又は第三者でなければならぬ。そこで僕はそれを警察を迷わすために仕組んだものと睨み、前科者の鬼頭を其処へ結びつけたのだ。西洋では唖に物言うことを教えて居るから、唖だとて物言わぬことはないが、それまで考えて居ては際限がない。また物が言えれば地面へ文字を書かぬ。よく被害者が臨終の際血で犯人の名を書くなどということが探偵小説などに書かれてあるが、それは附近に誰も人が居ない場合だ。もっとも苦しくて物の言えぬ場合がないではなく、僕も初めはそう解釈したが、唖だとして見れば、説明がいかにもはっきりつくのだ。
 ただ然しツノダが何を意味するかはわからなかったよ。それで平岡にたずねたのだが、ツノダの言葉をきくと平岡はすっかり平静を失ったので、平岡の本名どころか、もっと重い秘密に関係したことだと考え、あの時機を選んだ、最後の一言を言い渡したのだよ……」
「いや実に、あなたが、『妹の唖だよ』といわれたときには、僕自身が驚いてしまいました。まして平岡には強くひびいたにちがいありません」
「だが、何といってもこの事件での最も大切な証拠は、便所の捜索の結果得られたよ。ツノダと書いた紙片が出なければ、この事件は迷宮に入ったかもしれぬ。西洋の都市では糞壺の捜索などということは通常行い得ないが、この点は日本が遅れて居るだけ、却って、犯罪探偵の際には好都合だ。先年川原井ぼうが薬屋の手代を殺したときも、便所の中のビール壜が有力な証拠となってね。して見ると臭い所も馬鹿にはならぬ。『くさい物に蓋をしろ』などという諺は或いは撤廃した方がいいかもしれぬ。ははははは」





底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「女性」
   1925(大正14)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年5月20日作成
2011年2月23日修正
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