ある自殺者の手記

小酒井不木




 加藤君、
 僕はいよいよ自殺することにした。この場合自殺が僕にとって唯一の道であるからである。
 断って置くが、僕は決して、最近死んだ某文士を模倣するのではない。世間の人は二つの自殺が相前後して発生すると、後の例を前の例の模倣であると見做みなそうとする。しかし、これほど馬鹿げた話はない。そんな風にいうならば、世の中のすべての出来事は模倣でなくて何であろう。
 が、僕はいま、このような理窟をいっている場合ではない。けれども、僕の自殺の動機だけは、僕の最も親しい君に告げて置きたいと思う。物事を深く考えたがる連中は、さもさも自殺者の心理が他人の推測をゆるさぬような複雑なものであるようにいうけれど、少くとも僕の場合は、決して複雑なものではない。複雑などころか、簡単過ぎる程簡単なものである。
 又、自殺者は、多くは何のために自殺するものであるかを知らないというものもある。しかし、僕は僕が何のために死ぬかということを、はっきり知って居るつもりだ。
 それのみか、僕が何のために死ぬかということを、君も恐らく、僕と同じようにはっきり知っているであろうと思う。して見れば、何もわざわざこの手記をしたためる必要はない訳であるが、いざ自殺するとなったら、僕も旧友へ手記を送りたくなったのだ。この点は、某文士を模倣したといわれても僕は決して不服ではない。
 加藤君、
 いうまでもなく、僕の自殺の動機は失恋だ。失恋が僕の自殺の動機の全部だ。決して動機に至る道程を示しているだけではない。失恋しなければ僕は自殺しない。失恋したから僕は自殺するのだ。誰がどんなに解釈しようが僕の自殺の動機を失恋以外のものにもって行くことは出来ないのだ。
 このことは、僕に対して得恋者とくれんしゃたる君にもはっきりわかることであろうと思う。ただ得恋者は、何ゆえに失恋者が自殺する気になるかという、その心持ちをはっきり理解し得ないと思う。失恋したら自分も自殺するかも知れぬとは誰でも考えることだが、一方において、なにも自殺するにはおよばぬとも考えるであろう。して見ると自殺を決心したものの心持ちは、自殺を決心しないものには到底理解しあたわぬものだといえる。まったく自殺を決心したものの心持ちは、自殺者のみの知るところであって、世の自殺者はこの点におおいに誇りを感じてしかるべきであろう。
 いよいよ自殺を決心した以上、今更、未練がましい言葉をつらねるのも気恥かしいが、思えば、君と僕とは何というしき運命のもとに置かれたのであろう。
 すでにその姓が同じ「加藤」であるということ、又同じ年に生れたということからして、不思議といえば不思議だが、しかも、同じ環境に育てられ、同じく医学を修め、その上、同じく恒子つねこさんに恋をするというのは、むしろ呪われた運命であるといってよい。
 二人の男が一人の女を恋する。それはもう、劫初ごうしょ以来、人類の世界に、無数に繰返された悲劇である。そうして恋の敗北者が底知れぬ苦悩の淵につき落され、そのために死を選ぶに至ることも、同じく無数に繰返された喜劇である。君よ、僕はあえて喜劇という文字を使った。何となれば恋の勝利者から見れば、それは喜劇というより外にいいあらわし難い状態であるからだ。
 いずれにしても僕は、この喜劇を演じようと決心したのだ。そうして、僕が自殺を決心するまでには、決して二年も一年も半年も半ヶ月も要しなかったのだ。
 君と恒子さんとが接吻したのを僕が見たのは実に昨日の晩である。僕は昨日の昼まで恒子さんは自分のものと信じていたのだ。だから、僕は君たちの抱擁を見た瞬間に自殺を決心したのだ。それはもはやいかなる反省も妥協も許さないのだ。もし、いささかの反省と妥協とを許したならば必ずそこに不安が生ずる。それこそ名状し難い不安が生ずる。それはいわゆるぼんやりした不安だ。そうしてその不安のために、自殺を行うに至るまで、いたずらに月日が経過する筈だ。
 然し僕の場合には、反省の余地も妥協の余地もないのだ。だから、僕はまっしぐらに自殺決行につき進もうとしたのだ。
 然らば君は問うであろう。何故に僕が、昨日の晩、すぐさま自殺を決行しなかったかと。いかにも、この質問に対しては、僕も明瞭な返答をなし得ないのを悲しむ。けれども、僕が自殺を決心した次ぎの瞬間、自殺方法について、考えをめぐらせるだけの余裕をもったことは事実である。いや、余裕をもったというよりも考えることを余儀なくされたといった方が適当であろう。
 僕は昨日の晩まで、自殺すべき事情が発生するとは夢にも思わなかったのだ。だから、君たちの接吻を見た瞬間に自殺を決心しても、そのとき、ナイフを以って居るでなし、毒薬を携えているでなし、すぐさま自殺を決行するだけの条件がととのって居なかったのだ。だから、当然、いかなる方法をもって死ぬべきかに考え及んだのである。
 さて、いよいよ自殺方法を考えるとなると、不思議なもので、おいそれと決定することは出来ぬものだ。もしあの時、身辺に日本刀があったならば、僕は何の躊躇もなくその鞘を払って頸動脈を切ったであろう。もし又、窓の前が千じんの谷になって居たならば、有無をいわず、この身を投げたであろう。
 然るに、一旦、どの方法を選ぶかということになると、もはや、日本刀の鞘を払う気にもなれなければ、千仞の谷に近よることもいやになった。共に苦痛を伴うからである。だから、僕は苦しまずに死ねる方法を考えたのだ。
 苦しまずに死ねる一ばんよい方法といえば、縊死いしに限るということを法医学の講義できいた。縊死の際には、頸動脈が圧迫されるので、脳への血行が遮断され、それがために何の苦痛も感じないということだ。けれども、君も経験したことがあるだろう、息のつまるときの感じを。あの厭な感じが、きっと縊死には伴うだろうと僕は思うのだ。それが僕には何としても堪えられないのだ。僕は別に縊死に対して美的嫌悪を感じない。それは決して美しい姿ではないが、どんな方法で死んだところが、死の姿はさほど美しいものではないのだ。だから、特に縊死を醜いとも思わぬが、縊死する瞬間に起こるであろう苦しい感じ、いわば生き埋めの時に起こるであろうところの恐ろしさ、かの精神分析学者のいわゆる、子宮内にとじこめられて居たときに得た恐怖その恐怖感の起こるのが、如何にも忍び得ないのだ。実際には或はそのような恐怖は起こらないかも知れない。けれども、起こるであろうと想像されるのが厭で厭でならぬのだ。
 だから、僕は縊死はやめた。又、創傷そうしょうを造って死ぬのは痛いから厭だ。で、僕は毒薬死を選ぶことに決したのである。
 しかし同じ毒薬でもはげしい症状を伴うものは好ましくない。又味の悪いのも面白くない。亜砒酸は無味であるけれども、劇烈な胃腸症状の起こるのは何としても不愉快である。又青酸は瞬間的に死を起こすといわれておるが延髄の呼吸中枢を冒して窒息を起こさせるのだから、僕にはやはり縊死と同じように恐ろしいのだ。で、結局は、愉快に眠って、眠ったまま、いつとはなしに死んで行ける催眠剤の種類が僕にとっては一ばん好都合なのである。
 同じ催眠剤のうちでも、味の苦いのは御免だ。また多量に服用しなければならぬものも御断りしたい。が、それについて幸福なことは、こんど発見された――という催眠剤だ。これは君も知っているとおり、味もなければ臭気もなく、又極めて水に溶解し易く、かつ〇・二グラムという少量で二十貫の体重の人を殺すことが出来るのだ。それにこの新薬はその作用が、服用後一時間にあらわれ、しかも服用後五分間には血中に吸収されるのであるから、モルヒネやその他の薬剤とちがって、服用五分後に胃を洗滌しても、最早その人を救うことが出来ないのだ。まったく僕のような感情を持ったものが自殺するには屈竟な毒であるといってよい。
 医者をして居る御かげに、この――を手に入れる苦心はいらない。その点には何等の考慮を費さずに死ねるのだ。然し、僕がこの――で死ぬことに決定するまでには、自殺を決心した午後七時から、およそ五時間かかったよ。では、何故、ゆうべのうちに――をのまなかったかと君は問うであろう。いかにも、今この手記をしたためて居るのは午前五時であるから、約五時間ほどの時間が空費されたのだ。然し、それは決して空費されたのではなく、その間に極めて重大なことが計画されたのだ。
 しからば、僕がどんなことを計画したかというに、これは僕の意志の弱さから起こったことであるから、まことに慚愧ざんきに堪えないが、いざ――をのむ段になると、僕の手は急に硬ばったような気がしたよ。そこで――を一先ず机の上において、何故に、僕の手が服用を躊躇するに至ったかを、静かに分析考慮したのだ。
 すると僕は意外なことを発見した。即ち、たとい一旦死を覚悟しても、いつの間にか生に対する執着が心の中で頭をもたげていることに気づいたのだ。もし僕が、自殺を決心した直後に死んでいたらば、生に対する執着などは起こりそうにないが、自殺の方法を考えて居る五時間のあいだに、自分では他事を考える余地はないと思っていたにかかわらず、入道雲のように生の執着が心の一方にわだかまって居ることに気づいたのだ。
 それから後の一二時間というものは自殺の決心と生に対する執着とが猛烈に僕の頭の中で戦ったよ。僕は一時どうなることかと気が気でなかった。僕は或は発狂するのでないかと思った。しかし幸に発狂することなしに、解決の道を見出したのだ。
 即ち、この生の執着に打勝って自殺するには、そこにスプリングボールドとなるものがあればよいということに気がついたのだ。君は恐らく、生の執着が頭をもたげたら、それに従って自殺を思いとどまったらよいではないかというであろうが、それは反省と妥協の余地のある自殺に限るので、僕のような場合にはただ生の執着に打勝つ方法が問題となるだけだ。
 スプリングボールドはいうまでもなく死の道づれだ。死の道づれといえば、普通は、こちらの心に同情して死んでくれる者をいうのだ。けれども、不幸にして、僕にはそのような人を見つけることが出来ぬのだ。といって、スプリングボールドがなくては、とても死ねなくなって来たのだ。
 そこで僕はおおいに考えたよ。大に焦燥あせったよ。その結果、スプリングボールドとするには、あながち先方の同意を得なくっても、換言すれば、先方の意志にさからってでも、なしるものだということがわかったのだ。そうして、先方の意志にさからって道づれとする際には、一人自殺するよりも二人自殺する方が、二人自殺するよりも三人自殺する方が、遥に容易であることを知ったよ。この場合、「容易」というのは、手段の容易というよりも、心の「容易」を意味して居るのだ。
 さて然らばいかなる人を、先方の意志にさからって道づれとするか。それについて僕は色々考えた結果、加藤君、君を道づれにしようと思ったのだ。
 加藤君、
 さぞ君は驚くだろう。然し、恋の勝利者を恋の敗北者が死の道づれにしようとするのだといえば、それは、別に不思議な現象でないことを君はよく知って居るであろう。君、しまいまで、読んでくれよ。君が今、顔色をかえ、手を顫わせて読んで居ることを、僕はよく知って居る。然し、折角僕が、この世の最後にしたためる手記だ。どうか、終りまで読んでくれ。
 僕は今二人自殺するよりも三人自殺する方が容易だといった。そうだ。僕は君を道づれとすると同時に、恒子さんをも道づれとすることにしたのだ。
 こういうと、定めし、君は、いかなる方法で、僕が、君たち二人を僕の道づれにするかを怪しむであろう。ところが、それは極めて、わけのないことだ。
 今日の正午に、僕たち三人は、いつもの如く平和に食事をする。今日は一日で休業日だからほかの使用人は一人も居ない。君たちはまさか、僕が、君たちの抱擁をひそかに見たとは思わないであろうから、僕がこのような心をいだいて居ることに少しも気づかぬであろう。そこで僕は、君と恒子さんとのたべものの中へ、――の致死量をまぜようと思う。――は前に書いたごとく、自殺に都合のよいと同じく他殺にも都合がよいのだ。
 もとより、君たちが食事を終った後に、僕は――をのむ。そうして、君が食事をしてしまってから約三十分ほど過ぎて、この手記を渡すのだ。すると君と恒子さんは、――をのまされたことを知って定めし狼狽するであろうが、も早どうすることも出来ないのだ。
 君たちが昏睡におちいると、僕は君と恒子さんとをならばせ、それから、僕は恒子さんのわきに横になろうと思う。そうすれば僕と君とは恒子さんをはさんで死ぬことになるのだ。
 加藤君、
 このあたりの文句は、ことによると、君の眼には触れぬと思う。――何となれば君たちはきっと、中毒から逃れようと、もがくであろうから――けれども、手記を完成して置かないことは気がかりになるから、僕は書き続けるのだ。
 思えば、君と僕とは、同じ病院を経営してこれまで、何の波瀾もなく暮して来た。だから、僕たちが三人一しょに死んだら、さだめし世間の人たちは驚くであろう。
 もとより、この手記を見れば、何のために、僕たちが死んだかはすぐわかる。けれども、ここに、たった一つだけ、永久にわからぬ事情が残るであろう。
 というのは、この手記を書いたのが、外科の加藤か、内科の加藤かということである。それほど僕たち二人の筆跡はよく似ている、というよりも全く同じだといってよいからだ。もし恒子さん――主任看護婦の恒子さんが生きてれば、失恋者がどちらであるかはたちどころにわかるが、その唯一の判断者たる恒子さんも共に死ぬのだから、もはや生きている誰にもわかりようがない。これが、せめてもの、失恋者たる僕の慰めだ。
 思うに、君と僕とは、全く運命を共にすべくこの世に生れて来たといってよい。何となれば、僕たちは、世にもよく似た双生児だから。





底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「サンデー毎日特別号」
   1927(昭和2)年9月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年3月9日作成
2011年11月30日修正
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