ジェンナー伝

小酒井不木





 いまからおよそ百五十年前のことです。英国南部のバスというまちで、ある夜盛大せいだい晩餐会ばんさんかいが開かれました。
 集まったものは、政治家、実業家、医師、軍人など数十人、いわゆるそのまちおよびその付近で、名をあげている人ばかりでありました。当時まだ電燈は発明されておりませんでしたから、いく本かの美しい装飾そうしょくをほどこした銀色の燭台しょくだいが、テーブルの上に立て並べられ、皎々こうこうたる光のもとにいとも静粛せいしゅくに、食事がすまされました。
 食後人々はテーブルをかこんだまま、紅茶こうちゃをすすりながら、いろいろの話にふけりました。と、いつのまにか、すみの方で議論ぎろんめいた口調で話すものがありましたので、一同は、言いあわせたように、口をつぐんで、その議論ぎろんに耳をかたむけました。
無論むろんわたくしほのおの中の方が熱いと思います」とひとりの紳士しんしがいいました。
「そうじゃありませんよ。やっぱり炎を少しはなれたところの方がかえって熱いですよ」と、他の紳士が反対しました。
 紳士たちは、燭台しょくだいに波うって燃えている蝋燭ろうそくの炎をながめながら、その炎の内部が熱いか、あるいは炎をはなれた少し上のところが熱いかをろんじあっているのでありました。
 人々は、興に乗じて口々に賛否両説さんぴりょうせつきました。炎の中が熱いというもの、炎の少し上のところが熱いというもの、いずれもほとんど同数の賛成者を得て、なかなか解決がつきません。それぞれいろいろの理屈りくつを考えだして自説を主張しましたが、だれも、いずれが正しいか、審判しんぱんをあたえるものはありませんでした。
 先刻せんこくから、賛否さんぴいずれともいわなかった、年のころ二十五、六さい小柄こがらな紳士は、そのとき突然とつぜん立ちあがって、
「みなさん」とさけびました。
 人々は、ぱったり議論をやめて、一せいにその紳士を見つめました。
 すると、かれは、だまって、前にある一本の燭台しょくだいをひきよせ、右手の指を、いきなり、蝋燭ろうそくの炎の中につきさしました。
 一秒、二秒。紳士はおもむろに指を引きました。
 一同はあっけにとられて、ふしぎな芸に見いりました。
 紳士はそれから、ふたたびその指を、炎の少し上に近づけましたが、近づけるやいなや、
「熱ッ」
 と、小声でいって手を引きました。
「みなさん」と、青年紳士せいねんしんしは、にっこりわらいました。「これで、どちらが熱いかおわかりになりましたでしょう」
 こういって、やおら席につくと、われるような拍手はくしゅが起こって、人々は口々に、その紳士の機知きち賞讃しょうさんしました。
 そのあくる日のことです。
 バスのまちから少しへだたったバークレーという町に住んでいるこの青年紳士のところへ、ひとりの中年の紳士がたずねてきました。
 この青年紳士は、客を見て、
「おや、昨夜はいろいろ失礼いたしました。どこか、お悪いのですか」とたずねました。
 この青年紳士は医師だったからです。
「いえ」と、客は答えました。「私はご承知のとおり、インドの植民地と関係のあるものですが、昨夜のあなたのお知恵ちえ決断力けつだんりょくとに感心して、ぜひ、植民地へいって、かの地の同胞どうほうたちを助けてやっていただきたいと思い、おうかがいしたのでございます。俸給ほうきゅうはいくらでもおのぞみどおりだしますから、どうか二、三年、あちらでご開業ねがえますまいか。植民地では、よい医師がないので、みんなが本当にこまっております」
 青年医師は客の語るのを、つつましやかにきいておりましたが、このとき、きっぱりいいました。
「そのご親切はありがとうございますが、私はこれから一生涯しょうがい故郷こきょうをはなれない決心をいたしました。私はこの土地で生まれ、早く両親を失って、にいさんのおかげでそだち、ロンドンへまで学問にやってもらって、どうやら、一人前の医者になって帰ってきました。そうしていまは兄さんに同居させてもらっているのですから、兄さんの生きておられるあいだは、ここを動きません。たとえまた、兄さんの百年の後においても、この美しい景色けしきをもった故郷こきょうをどうして見すてることができましょう。翠緑すいりょくにつつまれた山、紺碧こんぺきの水をたたえた谷。春がくればにしきをかざる牧原、秋がくればたわわにみのる果樹園かじゅえん。このようにめぐまれた土地は、世界のどこにもないと思います。せっかくのおぼしめしですけれど、インドゆきはおことわりしたいと思います」
 がんとして動く気色もありませんでしたので、客は失望して帰りました。
 読者諸君どくしゃしょくん! この、機知にみ、故郷を熱愛する青年医師はそもそもだれでありましょう。これこそ、後に種痘法しゅとうほうを発見して、人類の恩人とあおがれるにいたった、わがエドワード・ジェンナーその人であります。


 みなさんは、風呂ふろにはいったとき、きっと、自分の二のうでについている三つ四つの、種痘しゅとうのあとに注意したことがありましょう。むろん、風呂にはいるたびごとに注意する人はありますまいが、この種痘がいったいなんのためにほどこされたものであるか、考えてみたことがありますか。自分で考えたことはなくとも、おとうさんやおかあさんから教えてもらったことはあるでしょう。
 種痘しゅとうはいうまでもなく、おそろしい天然痘てんねんとうという病気を防ぐためにほどこされるのであります。ところが、いまでは、種痘のために天然痘というおそろしい病気にかかるものが非常に少なくなったので、天然痘のおそろしさを知っている人はいたって少ないのであります。もし天然痘のおそろしさを知り、天然痘にかかった患者かんじゃの身体のものすごさを一目でも見たならば、本当に、種痘法を発見した人をおがまずにはいられなくなるのであります。
 ですから、ジェンナーの伝を書くにあたっては、どうしても天然痘てんねんとうのおそろしさをべておかねばなりません。多分みなさんはペストやコレラのおそろしさを知っておられるでしょう。種痘法しゅとうほうの発見されなかった時分には、天然痘は実にペストやコレラよりもおそれられたものであります。いかなる階級の人も、かみはお公卿くげさまから、しもはいやしい民にいたるまで、天然痘の病原体は、なんの容赦ようしゃもなくおそいかかりました。一たび疱瘡ほうそうむかしは天然痘のことを疱瘡といいました)がはやるということが伝わると、人々は愕然がくぜんとして色を失い、ことに子供こどもを持つ親は、ぶるぶるとふるえたものであります。
 それもそのはずです。十人疱瘡にかかれば三人や四人はかならず死んでしまいました。たとえなおっても、あるいは眼がつぶれたり、あるいはあばたが残って、一生涯しょうがい、その人はいやな思いをしなければなりません。ことにそれが女の子であると、成長の後はおよめさんにもらってくれる人が少ないのでしたから、女の子をもった親は、ことさらにおそろしがったものです。
 なかんずく、病中の患者かんじゃのありさまは、目もあてられぬほど、いたいたしいものです。高い熱がでて苦しむうちは、まだよいとして、全身に、すき間もなくふきでものがでて、それがうみをもって黄色に変じますと、まるであの菊人形きくにんぎょうのように……きくならば美しいですけれど、それがうみをもった黄色のできものでおおわれた有様ありさまを想像してごらんなさい。きっとすじに冷たいものが流れるでありましょう。さらにそのふきでものがかわくときは黒赤色に変じますから、全身はあんの中へころがったようになり、顔はおはぎを見るようで、どこに目があるやら鼻があるやらさっぱりわからないのであります。
 このおそろしい病は世界のいずこの国にも流行してときには一ヵ年に何百万という同胞どうほうを失った国もありました。日本でも古くからこの病が流行し、どうしておこるかわからぬので、疱瘡ほうそうをつかさどる神さまがあって、その神様がいかって疱瘡をはやらせになるから、疱瘡にかからぬようにするには、疱瘡神ほうそうがみをおがめばよいといって、ごとに祭ったものであります。通常疱瘡神として住吉大明神すみよしだいみょうじんを祭ったものでしたが、いくら住吉大明神を祭っても、疱瘡は依然いぜんとしてその勢いをたくましゅうしたのであります。
 このおそろしい病気も、いまは、種痘しゅとうによって、完全に防げるようになりました。疱瘡神ほうそうがみを祭らなくなっても、種痘をさえほどこせば、たとえときどき天然痘てんねんとうが流行しても、少しもおそれることなくらせるようになりました。そうして各国で、年々何十万という人の生命が救われることになったのであります。
 しかも、このとうとい種痘法は、たったひとりの力で発見されました。なんとみなさん、風呂ふろへはいって、二のうで種痘しゅとうのあとをみたならば、人類の一員としてわがエドワード・ジェンナーに感謝せざるをないではありませんか。


 これほどとうとい種痘法しゅとうほうのことですから、それが決して、容易なことで発見されたものとは、みなさんも思わないでしょう。いかにもそのとおりです。ジェンナーが、種痘法を発見するまでには何十年という長いあいだの苦心がついやされたのであります。
 ジェンナーは、一七四九年五月十七日に、前記のバークレーといういなか町の、ある牧師の三男として生まれました。八、九さいの時分から、いまでいえば、理科が非常にすきでした。その地方は化石がたくさんでますので、かれはそれを拾ってきては、部屋へやのたなにならべて分類しました。また、りすのを集めたり、めずらしい植物を採集さいしゅうしてきては、兄さんたちにその名をきいて、たくわえておきました。
 小学校を卒業すると、かれはサドベリーという町のある医師のところへ書生として住みこみ、医学を勉強して、後には代診だいしんをつとめました。かれは非常に勉強家でしたが、音楽や詩文をこのみ、ひまさえあればバイオリンをひいたり、ふえをふいたり、また、詩を作りました。非常に想像力が強くて、いわゆる一をきいて十をさとるという風でしたから、先生も非常に喜んでかれを教育したのであります。
 かれが代診をやっている時分のことです。ある日、いなかからひとりの女患者おんなかんじゃが診察を受けにきました。職業しょくぎょうをたずねると、
「わしは、うしちちをしぼってらしていますだ」と、いなか言葉で答えました。
 その地方は牧畜ぼくちくがさかんで、住民は多く牛をい、したがって女たちは搾乳さくにゅう従事じゅうじしていたのであります。
 ジェンナーはそのときまだ二十さいにならぬ青年でしたが、ていねいに診察しんさつしてから、
「おまえさんは熱がある。多分風邪かぜだと思うが、いま世間では疱瘡ほうそうがはやっているから、気をつけねばいけないですよ」といいました。
「疱瘡なら、わしは心配しなくてもよろしいだ」と、女は言下に答えました。
「え? なぜ?」
「わしは、このあいだ、牛の疱瘡が、これこのとおり手にうつりましただ。ですから、もう疱瘡にはかかりませんて」
 こういって女は、手のこうの、牛の疱瘡にかかったあとを見せました。
 ジェンナーは不審ふしんに思いました。ちちをしぼる女が牛の疱瘡ほうそうにかかって、手にできものをつくることは、よく知っていましたけれど、牛の疱瘡にかかったものが、人間の疱瘡にかからないということを聞いたのははじめてだったからです。
「でも、牛の疱瘡ほうそうと人間の疱瘡とは性質たちがちがうではないかね」とジェンナーはたずねかえしました。
性質たちがちがうか、どうだか、わしは知りませんだが、わしひとりでなく、みんながそういっていますだ」
 このとき、ジェンナーの頭に、ある考えがひらめきました。そうだ、ちちをしぼる女がみんなそういうことをいっているとすれば、まんざらうそではないであろう。もしそれが真実だとすれば、牛の疱瘡ほうそうを人間にうつせば、もはやあのおそろしい疱瘡にかからないようにすることができるではないか。……みなさん、後にわが人類を救った種痘法しゅとうほうなるものは、実にこの瞬間しゅんかんに考えだされたものであります。
 このことがあってから、ジェンナーは、たびたびその地方の搾乳婦さくにゅうふにあって、いよいよ先日の女患者おんなかんじゃの言葉が真実であることをたしかめました。牛の疱瘡ほうそうは非常に軽いもので、人間にうつったときも、うみのついた部分に、一つ二つのできものができるだけでしたら、軽い牛痘ぎゅうとうのうみをうえて、あのおそろしい疱瘡を防ぎるようになったら、どんなに人類のためになるか知れない。なんとかして自分一代には、この予防法を実行したいものだと、ひそかに決心を定めたのであります。
 かれはある日、先生にむかって自分の考えを述べました。すると、先生は、
「いなかの女のいうことなどあてになるものか」といって相手になってくれませんでした。
 そこでかれはその地方で開業している他の医師に自分の考えをうちあけました。すると、その医師は、
「きみ、牛と人間とを同日に談じてはいかぬよ」と、あざけるようにいいました。
 その後、だれに告げても、みんなこのように、本気になって相談にのってくれませんので、ジェンナーはもう、だれにも話さぬことに決心しました。
 かれこれするうち、ジェンナーは二十一さいの春をむかえました。いなかでは思う存分ぞんぶんの修行ができぬので、かれはロンドンへでて、当時外科医として、第一人者に数えられていたジョン・ハンター博士はかせのもとに弟子入りをしました。このハンター博士は気の短い人ではあるが、非常にすぐれた学者で、当時四十二さいでありましたが、ジェンナーの温順な性質がすっかり気にいって、弟子でしというよりもむしろ友達ともだちあつかいにしてかわいがりました。
 ハンター先生の教えを受けるにしたがって、ジェンナーは先生が尋常じんじょうの医学者でないことを知り、先生ならば、自分が年来いだいている考えに賛成してくださるにちがいないと思ったので、ある日、ジェンナーは、
「実は先生、これまで、だれに話しても、せせらわらって相手にしてくれませんが、先生ならばきっと、わたくしの考えにご同意くださるだろうと思います。私の地方では牛の疱瘡ほうそうにかかったものは天然痘てんねんとうにかからぬといういいつたえがございます。その後、私は注意して、ちちをしぼる人たちにききましたが、どうやらそれは本当のようであります。そこで私は、牛の疱瘡を人工的に人間にうえたならば、おそろしい天然痘を予防して、人類を救うことができると思いますが、先生はこの私の考えを、どうお思いになりますか」と、返答いかにと、おそるおそるつげました。すると、
「おお、そうか?」と、ハンターは、言下に答えました。「それは本当か、そういう事実があるのか。それは実にすばらしいことを考えたね。大いに研究するのだね。考えまよっては何事もらちがあかぬから、機会があったら、実際にやってみることだね。だが、人間の生命にかかわることだから疎漏そろうのないようにやりたまえよ。何事も辛抱しんぼう肝腎かんじんだ。根気よく目的にむかって進みたまえ」
 これをきいたジェンナーは、目になみだをためて喜びました。ハンター先生のこの一言は、どんなにかジェンナーをはげましたことでしょう。世に「知己ちき」という言葉がありますが、ハンターこそはジェンナーのよき知己であったといわねばなりません。
 その後ハンター先生はジェンナーのこの考えを他人にも吹聴ふいちょうしてきかせました。そうして、おりあるごとに、ジェンナーに向かって、
「まよわないでやってみたまえ、辛抱しんぼうして疎漏そろうのないように」と、例の激励げきれいの言葉をくりかえしました。
 かくて三ヵ年、ジェンナーはハンターの薫陶くんとうを受け、いよいよ郷里きょうりへ帰って開業することになりましたが、わかれるときにも、ハンター先生は、例の激励げきれいの言葉をあたえました。


 さてジェンナーは郷里へ帰るなり、すぐに材料を集めにかかろうとしましたが、いざ開業してみると、ロンドン帰りのお医者様だというので、患者かんじゃが門前に殺到さっとうし、寸暇すんかもない有様ありさまとなってしまいました。かれは患者に対して、非常に親切でして、重病患者などは、その家にとまりして診療しんりょう従事じゅうじするという風でしたから、またたくまに四、五年の月日を送ってしまいました。けれども、そのせわしいあいだにも、種痘しゅとうのことは決してわすれず、また博物学の研究をもおこたりませんでした。かの、ほととぎすが、他の鳥のたまごを生んで、その鳥にひなを育てさせるということを観察して、学界に報告したのは、ロンドンから帰ってまもないことでした。それほど、ジェンナーは自然を観察する非凡ひぼんな力をもっていました。それであればこそ、搾乳婦さくにゅうふの言葉をきいて、ただちに種痘法しゅとうほうに思いついたのです。ニュートンが[#「ニュートンが」は底本では「ニユートンが」]りんごの落ちるのを見て、これはりんごが落ちるのではなく、地球がひっぱるのだろうと考えて、万有引力の法則を発見したように、偉人いじんというものは、なんでもない現象から、おどろく事実を発見するものであります。ですから、おたがいに、この観察力を養成することが、なによりも必要なことであります。
 さて、ジェンナーは、いつまでもぐずぐずしていては、恩師ハンター先生に対してももうしわけないと思い、二十九さいのときいよいよ種痘しゅとうの研究にとりかかりました。研究にとりかかるといっても動物実験などをするのではありません。まず牛痘ぎゅうとうにかかった人をたずねだして、その人がはたして、天然痘てんねんとうの流行時に、罹病りびょうをまぬかれたかどうかを正確にとりしらべるよりほかはないのでした。
 だんだんとりしらべるにつれ、いよいよ年来の考えをたしかめるだけでありました。もうこのうえは、実際に人間に牛痘をうえて、実験してみるよりほかはないと思いましたが、さてそれは容易のことではありません。人間一人ひとりの生命にかかることですから粗忽そこつにはできません。かような実験は小児しょうにでなくてはできませんが、さて自分には子供がなし、むやみに他人の子をかりてくることもできません。
 それに、その地方のお医者さんたちは、あいかわらずジェンナーの考えをあざわらっておりましたので、うっかり、他人の子に実験しようものなら、どんなおそろしい非難ひなんを受けるかもしれません。
 とかくするうちに十年の歳月さいげつがすぎました。みなさん十年といえば実にながい年月です。そのあいだのジェンナーの気持ちを考えてみてください。自分の信念はいよいよたしかになるが、いざ実験するとなると大きな困難こんなんに面しなければならぬとは、なんというじれったいことでしょう。が、時節はきました。その年、すなわち、三十九さいのとき、ジェンナーは、あるやさしい婦人と結婚けっこんしたのであります。
 翌年よくねんの春、ジェンナー夫婦ふうふは男の子をもうけ、エドワードと命名しました。そのときジェンナーはこの子が一定の年齢ねんれいに達したら、実験を試みようと決心しました。そうして、その子が一年六ヵ月になったとき、ジェンナーは、ぶたの疱瘡ほうそうのうみを、その腕にうえたのであります。
挿絵
 なぜ、かれがぶたの疱瘡ほうそうをうえたかと申しますと、かれは人間の疱瘡も、牛の疱瘡も、ぶたの疱瘡も、病原はにかよったものだと考えたからであります。おそらく、そのとき、牛の疱瘡のうみを得ることができなかったのでしょう。そうして一日も早く自分の信念をたしかめたかったのでしょう。わが子の生命に関する重大な実験をもあえてしたかれの悲壮ひそうな気持ちは察するにあまりあります。まかりまちがえば最愛のわが子を殺すことになります。それにもかかわらずわが子で実験しようとしたのは、かれの信念が岩のごとくかたかったことがわかります。一日も早く人類が救いたいという心は、ついにわが子の実験となったのであります。
 エドワードにぶたの疱瘡ほうそうのうみをうえると八日目にできものが生じました。そこでかれは天然痘てんねんとうのうみをうえましたが、エドワードは天然痘にかかりませんでした。
 その二年の後、ジェンナーはエドワードにまたまた人間の疱瘡ほうそうのうみをうえました。すると十日間にふくれあがってきましたからジェンナーは大いにおどろきましたが、幸いにひろがらずにすみました。それからその翌年よくねん、いま一度人間の疱瘡ほうそうをうえました。が、少し水ぶくれのようなものができただけで、エドワードは天然痘にはかかりませんでした。
 これによって、ジェンナーはとにもかくにも自分の信念をたしかめましたが、もとよりまだ十分とはいえません。牛痘ぎゅうとうにかかった人のうみを他の人間にうつして実験しなければ、確実に自分の考えを証拠立しょうこだてたとはいえませんから、なんとかしてその実験をする機会はないかと、辛抱しんぼうに辛抱をかさねて待ちました。その間、医師たちの反対意見などが発表されて、ジェンナーは少なからず、気をもみましたが、かれの信念はますます堅くなるだけでありました。
 ついに時節は到来とうらいしました。かれが四十七さいのときすなわち西暦せいれき一七九六年のことです、数えてみれば研究にとりかかって二十年近くの歳月さいげつを経ましたが、その年の春ごろから天然痘てんねんとうが流行しましたので、いよいよ最後の実験にとりかかろうと決心し、最初にだれにうえるべきか、適当な小児しょうにを物色しました。わが子のエドワードはもはや実験には役にたちませんので、付近の少年のうちからさがしだそうとすると、幸いにもジェームス・フィップスという八さいの少年を得たのであります。ちょうどそのとき、サラ・ネルムスという搾乳婦さくにゅうふが、牛痘ぎゅうとう感染かんせんしておりましたので、その女のうみをジェームス少年にうえることにしました。
 五月十四日! この日は人類の永遠に記念すべきとうとい日です。この日にジェンナーは実験をこころみることにしました。その日ジェンナーは朝早く起きて、神様にいのりました。牧師の家に生まれましたから、小さい時分から祈りにはなれておりましたが、その朝ほど心の奥底おくそこから祈ったことはいままでにありませんでした。最初考えたときから約三十年、とちゅうでわが最愛の子に実験して、いよいよ確信をたというものの、もしまちがえば他人ひとさまの子を犠牲ぎせいにしなければなりませんから、そのときのジェンナーの祈りこそは純粋じゅんすいなものであったにちがいありません。
 高まる心臓しんぞう鼓動こどうをおさえつけながら、ジェンナーはついに、搾乳婦さくにゅうふから取ってきたうみを、ジェームス少年にうえたのであります。
 少年はあくる日からかゆみをおぼえ、二、三日の後その部が化膿かのうしました。そうして日を経るにしたがってかわいてゆきました。これは勿論もちろんジェンナーの予期したとおりでしたが、さてこれからが大問題です。すなわちこの少年に天然痘患者てんねんとうかんじゃのうみをうえても、もはや天然痘にはかからぬことをたしかめねばなりません。
 とかくするうち、少年のうでのできものはすっかりかわきましたが、ジェンナーは、おいそれと第二の実験にはかかり得ませんでした。が、ぐずぐずしていてはならぬので、ついに七月一日に天然痘患者のうみを取ってうえたのであります。
 その当座とうざのジェンナーの心配はみなさんに察することができましょう。いまにもジェームスがおそろしい熱をだしはしないかと気が気でありませんでしたが、二日をすぎ三日をすぎ、一週間を経てもなんともなく、ついにジェームスは天然痘てんねんとうにかからなかったのであります。
 読者諸君どくしゃしょくん! かくてジェンナーの考えは完全に証明しょうめいされたのであります。そのときのジェンナーの喜びはどんなだったでしょう。ここに、人類が永遠に救われる基礎きそができたのであります。かれの郷里きょうりでは、いま年々五月十四日に種痘祭がおこなわれるのであります。


 この実験に力を得て、その後二年間に二十三回同じような実験をくりかえし、いよいよ牛痘ぎゅうとうをうえれば、天然痘にかからぬということがわかったので、これを書物に書いて学界に報告したのであります。その中には次男のロバートにほどこした実験も書かれてありました。
 ところがこの報告を読んだ人たちは、感心すると思いのほか、かえってあざわらいました。「牛痘をうえるのは人間を牛あつかいにすることだ、けしからぬ」「牛痘をうえると、その子は牛のような顔になって、モーモーとなく」というようなことをいいふらすものもありました。そうしてわざわざ手紙を送って、ジェンナーにくってかかる者もありました。
 けれどもジェンナーは、じっと辛抱しんぼうして、なおも実験をかさね、そのうちには、世人がみとめてくれるであろうと確信しました。ただかれのかなしかったことは、かれを激励げきれいしてくれた恩師ハンターがその五年前に死んだことです。恩師が生きておられたらまっ先に賛成してくださったろうにとさびしい思いをしたのであります。
 けれども、正しいものはついに勝ちます。かれの種痘法しゅとうほうは、欧州諸国おうしゅうしょこくおよびアメリカで採用さいようされて、その説の正しいことがたしかめられました。さあ、そうなると、本国では、じっとしてはおられません。議会は、一八〇二年と[#「一八〇二年と」は底本では「一六〇二年と」]一八〇七年の二回に、約二十万円の金を提供ていきょうして、ジェンナーに実験費としてあたえることになりました。そうして一八二三年かれが死ぬまでには、かれの説は不朽ふきゅうのものとしてみとめられ、かれは大満足のうちに、瞑目めいもくしたのであります。
 種痘法が日本へ輸入されたのは一八四九年すなわち嘉永かえい二年のことでありまして、それ以後日本国民もジェンナーの恩恵おんけいに浴することになったのであります。げに偉大いだいなるものは人の力ではありませんか。
(昭和三年五月号)





底本:「少年倶楽部名作選3 少年詩・童謡ほか」講談社
   1966(昭和41)年12月17日発行
底本の親本:「少年倶楽部」講談社
   1928(昭和3)年5月号
初出:「少年倶楽部」講談社
   1928(昭和3)年5月号
※渡部審也(1875(明治8)年〜1950(昭和25)年)の挿絵を同梱しました。
入力:sogo
校正:noriko saito
2017年3月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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