幕末維新懐古談

門人を置いたことについて

高村光雲




 今日こんにちまでの話にはまだ門人の事について話が及んでおりませんから、今日はそれを話しましょう。実は、私が弟子を置いたということは偶然のことではないのです。これには少し理由のあることで……といって何もむずかしいことでも何んでもありませんが、……前にも度々話した通り、私が弟子を置き初めた時分……ちょうど西町時代の初期頃は木彫りが非常にすたれ、ひとえに象牙ばかりが流行はやった時代。木彫りといってはほとんど全く顧みる人もなかったのであります。しかし木彫りをする人は多少はありました。多少はあるにはあっても、その中に腕のすぐれた人はなおさら牙彫りの方へ職を変えてしまいましたから、一層木彫りの方は頽れて行ったような次第であって、わずかに自分ら一、二のものが取り残されたようなわけで木彫りのふるわないことは夥多おびただしいのでありました。したがって生計上に困ることは自然の理で、ようやくその日をのりする位のもので、さらに他を顧みるひまもなかったことでありました。
 木彫りの世界はこういうあわれむべき有様でありましたので、私は、どうかしてこの衰頽すいたいの状態を輓回ばんかいしたいものだと思い立ちました。ついては、何事によらず、一つの衰えたものをさかんにするにはまず戦わねばならぬ。戦争をするとすると兵隊が入ります。で、その兵隊を作らねばならないとまず差し当ってこう考えました。すなわち木彫界の人を作らなければならない。人の数が多くなればしたがって勢力が着いて来る。そうすれば世に行われると、まあ、こういう見当をつけたのであります。そこで、どういう手段でその人をやす方法を取るべきであるか……ということになるのですが、どうといって、弟子でも置いて段々と丹精して、まず自分から手塩てしおに掛けて作るよりほかはない。……と気の長い話でありますが、こう考えるよりほかに道もありませんでした。
 ところが、木彫りは今も申す如く、衰えていて、私自身がその当時現に困窮の中に立ち、終日孜々汲々ししきゅうきゅうとしていてようやく一家をささえて行く位の有様であるから、誰も進んで木彫りをやろうというものがありません。私自身が弟子を取りたいと考えても、弟子になりてがないという有様である。それは無理ならぬ事で、木彫りをやって見た処で、世間に通用しない仕事と見做みなされていることだから、そういう迂遠うえんな道へわざわざ師匠取りをして這入はいって来ようという人のないのは、その当時としてはまことに当然のことであったのでした。

 それはそうとして、とにかく私は弟子を取って一人でも木彫りの方の人を殖やす必要を感じている。でその弟子取りを実行しようと思うのですが、それがまた容易には実行出来ないのであります。……というのは、弟子を置けば雑用が掛かります。自分の生計くらし向きは困難の最中……まず何より経済の方を考えなければならない。弟子を置いても弟子に食べさせるものもなく、また自分たちも食べて行けないとあっては、何んとも話が初まらぬわけでありますから――が、まあ、食べさせる位のことはどうやら出来る。自分たちが三杯のものを二杯にして、一杯ひかえたとしても、弟子一人位の食べることは出来る。しかし、暑さ寒さの衣物きものとか、小遣こづかいとかというものを給するわけには行かない。たとえば私の師匠東雲師がさかんにやっておられた時代に、私たちのような弟子を置いたようなわけとは全く訳が違います。で、なるべくならば、衣食というようなことに余り窮していない方の子弟があって、そういう人が弟子になりたいというのならば、はなはだ都合がいのでありました。しかし、困ってはおっても身の皮をいでも、弟子を取り立てたいという希望は充分にあったことで、これが私の木彫り輓回策実行の第一歩というようなわけでありました。





底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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