幕末維新懐古談

西町時代の弟子のこと

高村光雲




 その当時、私の友達で京橋桶町おけちょうに萩原吉兵衛という人がありました。家職は道具商ですが、その頃は横浜貿易の盛んになった時ですから、「焼しめ」という浜行きの一種の焼き物をこしらえて商売としていました(これは綺麗きれいな彩色画を焼き附けた日用品の陶磁器です)。この人には子供がないので、伊豆いず熱海あたみ温泉場の挽物師ひきものしで山本由兵衛という人の次男の国吉というのを養子にしたのですが、この子供が器用であって、養父の吉兵衛さんも職業柄彫刻のことなどに心がある処から、国吉を私の弟子としたいと頼んで来たのであります。これは西町時代の初めの頃で、国吉は十四歳の時に私の宅へ参って弟子となりました。この子供が後の山本瑞雲氏であります。
 国吉の父の由兵衛という人は、土地では名の売れた人で、熱海の繁栄策にはいろいろ力を尽くし、また義侠的に人のためにも尽くした人で、したがってそのため資産を滅ぼしたが、それでも三井の物産の方に関係し、楠の大広蓋おおひろぶたなどを納めて相当立派にやっていたのでした。一方、萩原吉兵衛氏は、身体からだが弱かったので熱海の温泉に行った処、この人も変り者で、任侠的な気風の人であったので、何かの事で逢ったのが縁で、同気相求め、君の次男を貰おう。ろう。ということになったのでした。国吉は故郷熱海をあとにして東京に来り、養父のもとに暫時いたのであったが、養父は家に置いて家職のことを覚えさせるより、後々にはきっと世の中に認められて来るであろうと思われる木彫りの修業をさせた方が行く行くこの児のためであろうと考え、私に弟子入りを頼んで来たのでありました。しかし、私は困難の最中のことでありますから、食いぶちだけはとにかく、その他の一切のことはそちらにてやってもらいたいというと、吉兵衛さんは相当立派にやっていることですから、無論それは承知で、国吉は私の内弟子として私宅へ参ったのであった。これが私の最初の弟子で、弟子中では最も古参であります。国吉は後に仔細しさいあって旧姓山本に復し山本瑞雲と号したのです。
 瑞雲氏は実父、養父の気性を受けてなかなか人の世話をよく致します。また信仰者で仏典にもくわしい。
 さて、その次に来た弟子は日本橋馬喰町の裏町に玉村という餅菓子屋がありましたが、その直ぐ隣りの煎餅屋せんべいやせがれ長次郎という若者でした。この人の来た時分は、前に話しました三河屋の隠居と私が懇意になり、三河屋の仕事をして多少生計くらしが楽になった時でありましたから、大変家の貧乏だった煎餅屋の悴を弟子に取るだけのことも出来ました訳……長次郎は至って気質きだておとなしい男で、今この席にいる光太郎を抱いたり背負おぶったりしてく佐竹ッ原へ見物に行ったものです(光太郎は打毬だきゅうが好きで長次郎が仕事をしていても、原へ行こう行こうといってくせがんだものです)。父は島田という人で、茶人ちゃじんでした。大変生計くらしに困っているらしいので、気の毒に思い、石川光明さんその他三、四の友達を誘い、お茶の稽古を初めることを思いつき、石川さんの宅や、私の宅とかわがわる四、五人会合し、この島田氏を宗匠にして稽古をしました。その頃のことで月謝はわずか四、五十銭でしたが、四、五人寄れば多少纏まりますので、島田氏はよろこんでおりました(流義は千家せんけでした)。しかし、長次郎は一身上の都合で、長く弟子にして置くわけに行かず、途中で暇をやりました。

 その次に参ったのは、林美雲です(美雲のことは時々前に話しましたが)。この人は旧姓を西巻庄八といいました。これは私の親たちの肝煎きもいりで私の師匠東雲師へ弟子入りをさせたのですから、私のしんからの弟子ではなく、おとと弟子でありますが、不幸なことには、まさに年季が明けようというきわに師匠が歿ぼっしましたので、師匠歿後の高村家におりましたけれども、彼の三枝松政吉(私の兄弟子)が私に代って師匠歿後のことを一切引き受けてやるようになってから、政吉と衝突しまして、正直律義りちぎの人であったから、かえってむか腹を立てて暇を取りました。しかし、まだ一人前になっていないことで、どうするわけにも行かぬので、私が西町にいる所へやって来て、「どうか、世話をして下さい」といいますので、気の毒とは思うけれども、師匠の家を兄弟子と衝突で暇を取ったものを、直ぐに私が自分の家に置くとあっては、何か私が蔭であやつったように思われるのも嫌ですから、双方理解の後ならばということにして、話が分った後に改めて家に置くことにしました。美雲は、もはや、ほとんど一人前となっているので、仕事をさせても間に合いますから、多少小遣いを与え、私が第二の師匠となって仕込みました。徴兵のがれのために西巻を冒し、林が西巻となったのでした(その後元の林に復す)。美雲の父は鎧師よろいしで、明珍みょうちん末孫ばっそんとかいうことで、明珍何宗とか名乗っていて、名家の系統を引いただけに名人肌の人でした。美雲もこうした家の生まれだけあって、仕事は上手で、若さも若し、小刀は能く切れ、仕上げなど綺麗なもので、今日でも、この人位仕上げの美事な腕の人は余り多くはあるまいと思います。作風は、やはり仏師育ちですが、私にいてから、置き物風のものをも研究しましたが、仏様に関した方のものがやはり得意でした。後に私の紹介で美術学校の助教授となりましたが、明治四十五年七月二十九日五十一歳病気で歿したのは惜しいことをしました。遺作としては大きさ二尺位の文殊もんじゅの像がありましたけれども、学校の火事の時焼失しました。

 それから、美雲の弟で竹中重吉(光重と号す)も、兄が来てから間もなく来ました。兄弟の父は今申す鎧師、その頃は鎧師などいう職業はほとんどすたっていましたし、それに世渡りの才はうとい人で、家は至って貧乏でした。それで私も出来得るだけ美雲に対しては心づけていましたが、或る日、美雲の父の家を訪ねて見ますと、暗い室の中に、年頃の青年がひどく弱ってすみの方に坐っております。どうしたのかと聞くと、これは重吉といって、美雲の弟で、花川戸の鼻緒屋はなおやに奉公しているものであるが、病気にて帰っているのだということです。私は気の毒に思い、話し掛けると、ぼんやり坐っていた青年は私に挨拶あいさつをしていうには、
「私は、今、父の申し上げました通り、鼻緒屋に奉公しておりますのですが、どうも皮を扱うことは性に合いませんか、あの臭気においぎますと、身体からだせるように思いますので、とうとう身体を悪くしてしまって、帰って来ております」という話。それは気の毒なこと、人間は、性に合わない職業をするほど損なことはない。何か、身に合う仕事はないものかなど私はいいますと、重吉は、「あの臭気においを嗅がない仕事なら何んでもします。もう二度と花川戸へ帰る気もしません」といっている。その容子ようすはいかにも愍然びんぜんでありました。
「では、私の家へ来てはどうかね」
といいますと、本人は大いによろこび、「どうか、そういうことに願えますなら何よりのことですが、私は兄貴のように年季を入れて彫り物の稽古をしたわけでもありませんから……」と心細がりますが、「何、これからでも、励めば一人前にはなれよう。しかし、花川戸の方をよく片をつけてから、来るようにしたがよかろう」といって帰りました。それで重吉は間もなく私の内弟子となったのでありました。
 重吉は後に光重といって一人前になってから、妻をめとりましたが、この妻女は当時仲御徒町に住まっていた洋画の先生で川上冬崖とうがい氏の孫娘まごでした(川上未亡人の家作に美雲の親が住んでいたので、その知り合いから、娘を美雲の弟の重吉にもらったのです。で、冬崖氏の孫の川上邦世氏とは義理の兄弟になるはずです)。
 以上の四人は私の西町時代の困難盛りの時の弟子で最も古い人でありました。
 この重吉は今は竹中光重といいます。誠に正直一途いちずの人で、或る日、本郷春日町かすがちょう停留場の近所で金を拾い直ぐさま派出所へ届け、落とし主も解りその内より何分いくらか礼金を出した所、本人は何といっても請け取らないので、先方むこうの人もそのこころざしに感心して観音の彫刻を依頼されました。その後も種々頼まれたそうです。





底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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