踊る地平線

黄と白の群像

谷譲次




アイチミュラ・羽左衛門


『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――有名な日本の俳優がここに泊っているはずですが、いまいらっしゃいましょうか?』
 あちこち動きまわっている番頭クラアクたちのなかから、やっとのことでひとりの注意を捉え得た私は、せいの高い帳場オフィスの台ごしに上半身を乗り出して、「有名な」に力を入れてどなるようにこう訊いた。
 相手の番頭というのは、しまずぼんに黒の背広を着た、いかにも英吉利イギリスのホテルのクラアクらしい五十がらみの赤毛の男である。場処は倫敦ロンドンピカデリイのパアク・レイン・ホテル――午前十時。
 六月末の蒸暑い曇った日で、戸外の、世紀的に古いロンドンの雑沓を貫いて、まえのピカデリイを走る自動車の警笛が、しっきりなしに、それでいて妙に遠く聞えている。
 メイフェア――と言えば、「倫敦ロンドンのロンドン」だ。ベイスウォウタア、ベルグレヴィア、サウス・ケンシントン、それにこのメイフェアの四つが、いっぱんに倫敦ロンドン市内で一ばん高級な住宅街となっているが、メイフェアの持つ歴史と香気にくらべれば、ジョウジアン時代以後に出来た他の三つの区域は、厳正な意味で倫敦的であるべくあまりに生々しい。いいかえれば、それほどメイフェアの石と煉瓦は、雄弁に、じつに雄弁に倫敦を語っているのだ。この、十八世紀初期の建築が低い表階段を並べているメイフェアなる地点は、いろいろな装飾で取り巻かれた中心に小さな宝石が象眼してあるように、地理的にいえばごくせまい。南はピカデリイ、北はオックスフォウド街、東はボンド街、西はパアク・レインにかこまれた一廓に過ぎないが、小さな横町が無数に通っているので、生粋の倫敦人でもうっかりすると迷児まいごになるくらいだ。大富豪の邸宅――といったところで驚くほど小さな――にまじって、ばかに内部の暗い本屋や毛織物店が、時代と場処を間違えたように二、三軒かたまっていたりして、ここの街上で見かける紳士はどこまでもふるい英吉利イギリス国の紳士であり、角の太陽酒場サン・インから口を拭きながら出てくる御者と執事と門番は、そのむかしワイルドのむらさきの円外套まるがいとうをわらった御者と執事と門番に完全に――服装以外は――おなじである。しずかに過去を歩こうと思えばこのメイフェアに限る。近代化、もしくは亜米利加アメリカ化しつつあるいまのロンドンに、いぎりすらしく頑固に、そして忠実に倫敦ロンドンを保っているのはメイフェアと霧だけだからだ。十八世紀の中頃までは、毎年五月メイにここにお祭フェアがあって、この名もそこから来ているのだという。なるほどメイフェアの家は一つひとつが古いエッチングのように重くびている。そのなかの半月街に、一つちょっと通りへ出張った窓があるが、シェレイが快活な表情と輝かしい眼とで、本を手に、朝から晩まですわっているのがおもてから見えたというのはここだ。鳥籠と餌入れと水がないだけで、まるで若い貴婦人に飼われている雲雀ひばりが、日光のなかで歌うために出窓へ吊るされているようだと当時近処の人が陰口をきいたほど、この半月街の窓とシェレイとは離れられないものになっている。つぎのクラアジス街三番邸には一時マコウレイが住んでいたことがあり、三二番はよくバイロンが訪問したので有名だし、ボルトン街にはドュ・アブレイ夫人のいた家があり、そこの玄関にしばしばウォルタア・スコットの姿を見かけたそうだし、チャアルス街四二番はボウ・ブラメルの住宅だったし、ボンド街は倫敦のルウ・ドュ・ラ・ペエだし、アルブマアル五十番は、この屋根の下でバイロンとスコットがはじめて会っているし――そうしていま、そのメイフェアの西端パアク・レインに、弁天小僧の、切られ与三よさの、直侍なおざむらいの、とにかく日本KABUKIの「たちばなや」が印度大名マハラジャのごとき国際的意気をもって雄々しくも――フジヤマとサムライとゲイシャの芸術国から――乗り込んで来ているのだ。パアク・レイン・ホテルは新しい建物で、さして大きくはないがまず一流。朝の十時、まだあの有名な耳が枕に押しついている頃おい――枕をはなれたが最後、耳も耳の主人もともに外出して、終日印度大名マハラジャの一行のごとくうろつく危険があるから――を狙って、こうして私は彼女を引具し、職務に興味をもつ――というのはつまり入社後間もない――フリイト街の犬――新聞記者――みたいに奇襲して来た次第である。BANZAI!
 と言うと、いかにも私が、デエリイ何とかの訪問記者にでもなって、この「日本むすめフラッパア寵神アイドル」――じっさいデエリイ何とか紙は羽左衛門の写真を掲げてこういう説明をつけていた。再びBANZAI!――から何段かを埋めるに足る Story を引き出すべく、常鋭鉛筆エヴァ・シャアプを片手に「好意的批評眼」をぽけっとに忍ばせ、いまし編輯長の激励裡に「紙屑の谷」を駈け出して来たように聞えるが、じつはただ、たまたまこの六月の朝、単なる旅行者としての私と彼女が、Doing the London の重要な一つであるかの名だたるメイフェア彷徨を実行しながら、英文学の教授みたいに温厚なそしてクラシックな品位を養いつつある最中、ピカデリイへ足を向けようとしてちょうどパアク・レインへさしかかったとたん――いったい何ごとによらずいつも「思いつく」のは彼女にきまってるんだが、この時も彼女が思いついて、and as an idea came to her 歩道に急止して私を使嗾しそうしたのである。
 この近所のホテルに羽左衛門が来てますよ、と。記憶が私を強打した。倫敦ロンドンの英字日本新聞アサヒ・ブレテンにこう出ていた――。
巴里パリーより来倫したる市村羽左衛門氏夫妻は目下ピカデリイのパアク・レイン・ホテルに宿泊中。ちなみに近日蘇格蘭土スコットランドに遊び、帰来六月下旬まで滞英の由。
 ついでだが、この新聞はなかなか奇抜で、じつによくロンドンにおける「日本紳士ジャパニイス・ジェントルマン」の動勢を調査し、細大らさず報道している。まず役所・銀行・日本関係の公共機関の所在からはじめて、個人の移転到着退国はもちろん、出産結婚死亡にいたるまでなに一つこの紙面から逃れることは不可能だ。それに広告がふるってる。
 日本語で印刷してある部分だけ見本に二、三。
多年日本紳士諸彦しょげんノ御引立ヲこうむリ廉価ニ御調製仕候つかまつりそうろう
 これはフェンチャアチ街一四九番のブリストウ&スタアリング洋服店。御叮嚀ていねいに日本字の書き版である。
日本御料理仕出シ御旅館 日ノ出家
日本食料品製造元特約代理店トシテ特別安価ニ販売仕候
英国製毛布ヒザ掛類
製産地直接取引ノ為メ日本ニ輸出卸値おろしねト同様多少ニかかわラズ勉強つかまつリ御便宜ノ為メ事務所トシテ日ノ出家ニ実物取揃申居とりそろえもうしおりあいだ御買上被下度くだされたく
  創業千九百八年
矢野商会
 これも書いた字。次ぎは活版だ。
支那御料理ならびすき
一、支那御料理特別献立
 昼食壱シリングペンス 夕食弐志六片
  其他そのた御尋ねに従い各位様の御嗜好に相叶あいかない候御料理色々御紹介可申上もうしあぐべく
一、すき焼開始
 牛鍋 弐シリングペンス
 鳥鍋および豚鍋各参志及参志六片
 鴨鍋及鯛ちり各参志
  プライベイト大宴会室の設備も有之これあり
 これこそストランド「中国飯店めしや藤井ふじい米治よねじ氏大奮闘――の紙上披露である。すき焼開始並びに神秘的な豚鍋よ、永久にBANZAI!
 さて、新聞のことはこれでいいとして羽左衛門だが――。
 こういういきさつを経たのち、こつぜんとしてパアク・レイン・ホテルの帳場に出現した私たちである。市俄古シカゴトリビュウンの写真班が亜米利加アメリカ漫遊中のニウジイランド鉱泉王を襲撃に来たように、うっかりしている番頭の顔へ、私は出来るだけ気取った発音を吹っかけてやる。
『ミスタ・ウザエモン・イチムラという日本の俳優の方が――。』
 と言いかけた私は、じつはここらで、その赤毛の番頭が大いに感激の色を呈し、思わず、AH! とか、OH! とか多分の肯定と「!」を含んだ声を発することであろうと内心期待して、事実、そのためにちょっと言葉を切って先方に機会をあたえたくらいだけれど、鈍感に洋服を着せたごとき感あるかの番頭は、依然ぽかんとして、
『ミスタアフウ?』
『ミスタ・ウザエモン・イチムラ――。』
 羽左うざもミスタア・ウザエモンじゃあどうもめりはりが合わなくて申訳ないが、これもこの場合まことに致し方ないというものは、橘家たちばなやさんや大師匠ではこの赤毛の「おとこしゅ」に一そう通じっこないんだから――。
 現にまだとんと合点がゆかないとみえて、かれ番頭クラアクは、灰いろの眼をぱちくりさせて謎に面したように黙っている。仮りにも羽左衛門たちばなやを知らないなんて、何たる――なんかといくらむかついてみたところで、ここは英吉利イギリスロンドンの、しかもさっきもいうとおりのメイフェアである。英詩のごとく飽くまで上品に、そして、何よりも怒ってはいけない。
 ここで、機をみるに敏な私は、とっさに羽左衛門こと市村録太郎いちむらろくたろう氏を英語ふうにもじったのである。
『The party I want is Mr. ラックテロ・アイチミュウラ。
Now, don't say you don't know him !』
『MR・R・アイチミュウラ、え?』
 とサンスクリットの呪文を唱えるように口中に繰りかえしながら、「羽左衛門」を知らないほど間の抜けた彼の顔にも、漸時に了解の情がそれこそ倫敦ロンドンしののめのように拡がってきて、
乞う待てプリイズ・ウエイト。』
 なんかと仔細らしく指を上げてみせたのち、宿帳のところへ行って暫らく頁をめくっていたが、やがてのことに発見の喜悦とともに、
『おお! ミスタ・アイチミュラ、いええす、居ます、たしかにそういう名の人が泊っています――が、今は? と。さあ、お部屋にいますかどうか――。』
 というわけで、ようよう電話で羽左衛門の在室を突きとめ、それっ! とばかりにこうして昇降機上の人となってきた六階の六三七号室である。
 ノック。開扉かいひ。侵入。来意。
『どうぞちょっとお待ち下さい。いまちょうどひげを剃っておりますから。』
 という東道とうどう役のことばに、そのまま穏便に別室へ通れば、眼の下にはピカデリイ・サアカスからハイド・パアクへと、およびその反対の交通――車輪と靴による――のざわめき、鉄柵のむこうにグリイン公園の芝生、メイフェアの家々の煙突の林、車道を横ぎる女、手を上げてタキシを呼びとめる老紳士、郵便箱をあけて袋いっぱいにさらえ込んでいる配達夫、それを見物している使小僧メッセンジャア、スワン&エドガアの赤塗り荷物自動車、If It's Trueman, It Is a Beer の看板――それらが静粛に扁平に鳥瞰されて、朝のおそいここらにも、さすがにもう昼の事務の開始されているのを知る。が、一たび眼を転じて室内を見わたすや、かたわらの卓子テーブルに、主人公羽左衛門が愛読するらしく「面白くてためになる」日本の娯楽雑誌――幕末剣客・妖婦列伝・成功秘訣・名士訓話等々満載――が二、三投げ出してあるきり、ここばかりはなつかしき故国の勇敢な延長だ。
 いかさま「日本娘の寵神フラッパア・アイドル――カブキの偶像」がまさしくひげをそっているとみえて、水の音が長閑のどかにきこえてくる。そこで、その雑誌の頁をぱらぱらと繰っていた私は、間もなく、すぐ眼のまえの戸口に、黒と銀の派手なドレッシング・ガウンをまとった半白はんぱくの一人物が、タオルで頬を撫でながらぽつんと直立しているのに気がついた。市村羽左衛門の登場――はいいが、なるほど今まで「あた」っていたらしく、しきりにあごのあたりを気にして拭いている。縞フランネルのパジャマのずぼんをだぶだぶに折返して――西洋のは脚が長いから――その上から洒落た部屋着ガウンなんか引っかけてはいるものの、だんまりのうちによく見ると、やっぱり弁天小僧の、切られ与三の、直侍の、そうしてKABUKIの「大たちばな」だ。いくら西洋のドン・ジュアンに扮したって争われないことには耳が裏切っている。と同時に私は、この倫敦ロンドンピカデリイとメイフェアのあいだにあって、たしかにちょうんと木のかしらを聞き、のしのついた引幕の揺れを見、あの雑色的な「おしばや」の空気を感じ、ぷうんと濃厚な日本のにおいを嗅ぎ、弁松のぜん――幕あいの食堂で――にむかって衛生御割箸おんわりばしをとった気になった。のは、私だけが勝手にそんな錯覚におち入ったにすぎなく、一日本紳士市村録太郎氏としての羽左衛門は、アブドュラの二十八番、薔薇ばらの花びらで吸口を巻いたシガレットをくゆらしながら、いかにも外遊中の日本紳士らしくぽうっとしてそこに腰かけている。
 以下、面談インタヴュウ――といいたいところだが、羽左衛門によれば、ただ――。
 倫敦は、地味でおちついていて。
 巴里パリーは、騒々しいが暢気のんきで面白く。
 亜米利加アメリカは、便利でおそろしくにぎやかだが、ロンドンが一番好き――おちついた気分だから――というだけのことで、
『何しろあめりかは大したものです。早いはなしが、食い物屋へ出かける。あちらでいうカフェテリヤ、つまりレストランでさね。あなた方もまあ一度は亜米利加へも行ってごらんなさい。這入るてえとこう、ずらりと機械みたいな物が並んでて、穴へ金を入れると自働でもってパンが出る、ね、肉が出る、はははは、コップにコウヒイが出て一ぱいになると止まりまさあ――って調子で、万事が簡便主義です。そのかわり人間も簡便だ。あははは、エロウストン・パアクですかね。それからナイヤガラ――芝居は駄目です。活動に押されましてね、活動のほうが簡便だから――そりゃ勿論そうでしょう。活動はさかんなものです。』
『こっちへいらしって、たべ物はどうです? べつにお困りじゃありませんか。』
『いえ。日本にいても私は洋食が好きでしてね。巴里パリーのトウダルジャン、あそこはうまいですな。倫敦ロンドンじゃあスコットのステイキ――ええ、芝居はずいぶん見ましたし、その方面の人にもいろいろ会いましたが、日本の芝居はどうも時間が長すぎる。あれあぜひ一つ改良しなくちゃあ――それにこっちは背景や舞台装置を取りかえるのが非常に早くてなだらかだから、幕あいが短い。これもいいことです。服装ですか? 男は洋服に限りますね。が、女は? さあ――こっちの女は綺麗な脚をしている。だからああ脚を出すんでしょうが――ネクタイ? 亜米利加アメリカ派出はでです。で、私もはでなやつをして来たんだが、ある人に注意されましてね。じっさい英吉利イギリスは、みんなくすんだネクタイをしますね。あめりかみたいなのをしてると人が見ます。私もこちらで買って掛けかえました――何かあつめてる物? そう、行ったところでさじをあつめています。』
 ここで羽左うざがかえり見ると、東道役がいままで集めた記念匙スヴェニア・スプンを列挙する。
『ホノルル・桑港サンフランシスコ・ニウメキシコ・市伽古シカゴ・ナイヤガラ・紐育ニューヨーク・巴里・倫敦・エデンバラ・ストラットフォウドオンアヴォン。』
『それから、帰って楽屋へ飾ろうと思って方々で写真を買っています。』
 羽左衛門がつけ足した。
 何しろ、あのせっかく大きな耳が何の役にも立たないんだから、どうやら眼で見たことと、ほうぼうの日本人に言われたことしか這入っていないわけだ、などと誰やらわるくちをいった人もあったようだが、ただ一つ、たしかに実感と思えたのは、
『西洋じゃあ何でも自分でするからいい。ことにこうして旅をしていると、まあ自分のこたあじぶんでするほうが多がさあ。それが自然運動になります。それに食い物の時間がきまっていて、ほかの時に勝手に食うわけにいかない。日本じゃあんた、よる夜中に帰って来ても、ちゃあんと女中が起きて待ってて、茶を出す。すると意地がきたないから、おい、何か食うものあねえのか、なんてね――日本でこっちふうにやってごらんなさい。何だ、旦那が帰って来たのに茶も出さねえ――。』
 ここらで私たちも座を立った。
 帰ろうとすると、羽左衛門が東道役に時間をきいていた。
『タイム?』
 と英語で! じつに流暢な英語で!

緑蔭


 芝生に日光がそそいで、近くはかげろうに燃え、遠くは煙霧にかすみ、人はみどりに酔い、靴は炎熱に汗ばみ、花は蒼穹そうきゅうを呼吸し、自動車は薫風をつんざいて走り、自動車に犬が吠え、犬は白衣びゃくえの佳人がパラソルを傾けて叱り、そのぱらそるに――やっぱり日光がそそぐ。
 まるで印象派の点描のように晴明な効果を享楽するのが、初夏のハイド・パアクだ。
 草に男女。遠足籠ピクニク・バスケット。サンドウィッチ。
 水にはボウトと白鳥と、それらの影。
 そうしていたるところに陽線と斑点と t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te-※(グレーブアクセント付きA小文字)-t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te 笑声。
 群集の会話。
 男と女・男と女・男と女。
 そのなかに私たちふたり。
 椅子にかけて、遠くの野外音楽が送ってよこすかすかな音の波紋に耳をあたえていると――。
 草を踏む跫音あしおとが私たちをふり向かせた。制服の老人が革のふくろをさげて立っている。
 青い眼の愛蘭アイルランド人の微笑だった。
『二ペンスずつどうぞ。』
 私も、わけもなく好感にほほえんでしまう。
『――お構いなくノウ・サンキュウ。』
 老人がしずかにくり返した。
『二片ずつどうぞ。』
 私は重ねて辞退する。
『いいえ、有難う。ここで結構です。充分きこえますから。』
 すると、老人の顔に困惑がうかんだ。言いにくそうにもじもじしたのち、彼は手に提げた袋の小銭をがちゃがちゃさせて、
『椅子にかける方には二ペンスずついただくことになっています。そのかわりこの切符を上げますから、これさえお持ちになれば、きょう一日ハイド・パアクとグリイン公園のなかならどこにかけても構いません。もしまた私の仲間が切符を売りにきたら、これを見せればよろしい。ひとり二片です。』
 倫敦ロンドンへ着いて二、三日してから、私たちふたりきりでハイド・パアクへ来ているのだから、お金をはらって椅子にかけることなど知らなかったが、道理で気がついてみると、制服の切符売りがあちこち椅子から椅子へと歩きまわっている。そこへ来る前にどこかの椅子で買った人はその切符を見せているし、はじめて掛けた人はそこで椅子代を払っている。もっとも無料で長腰掛ベンチもあるが、たいがいふさがっていてなかなかかけられないけれど、二片の椅子は数が多いから、すこし歩いて草臥くたびれたところで随所に腰がおろせる。この、公園に椅子を供給するのは一つの会社にでも請負わしてあるらしく、ロンドンじゅうどこの公園へ行っても、車掌のような帽子に裾の長い軽外套ダスタアを羽織った椅子代あつめの多くは老人が、緑いろの展開のあいだをゆっくり大胯おおまたにあるいているのを見かける。公園の入口に机でも据えてそこで売ったらさそうなものだが、何人あるいは何十人かの老人が一日いっぱい公園中を歩きまわって二ペンスの椅子料を集めるほうもあつめるほうなら、勝手に腰かけていて取りにくれば黙々として金を出すほうも、いかにもいぎりす人らしく、莫迦々々ばかばかしく野呂間のろまで、神経のふといところがうかがわれる。はるかむこうの芝生を豆のような人かげがこっちをさして旅行――それは全く旅行という感じだ――してくる。近づくにつれてそれが椅子の切符売りということを自証する。かれは、こっちの端に椅子を占めている人を望遠鏡ででもみとめて、すでに二片の金を払って切符を所持しているかどうか、もしまだなら、その金員を徴集すべく、こうしてはるばると、そして急がずあわてず、同じ歩幅をつづけて旅してくるのである。掛けているほうもまた、切符の有無にかかわらず、豆から針、針から燐寸マッチの軸といったようにだんだん大きくなってくる切符売りの姿を、見るでもなく見ないでもなく、悠然と腰をおちつけている。やっとのことでそばまで来ても、もし客が黙って既買の切符を示せば、制服の老人はちょっと帽子をとって汗を拭き、そのまま直ぐ、またもや遠くに霞む椅子をめざして新しい長途の歩行に発足するだけだ。じつに冷静にそれを繰り返している。このロンドンの公園の椅子売りは、よく英吉利イギリス人の「やり方」を象徴化していて、私には印象ふかく感じられた。何十人何百人の人間を使おうが、決まったが最後、なんらの感情なしに規定どおりに「実行」するのである。その愚鈍にまで大まかな着実さがいささか私の敬意を強いて、倫敦ロンドンというと、私は反射的に、小さな鞄を胸へ下げて公園じゅう半マイル一哩を遠しとせず、自信と事務に満ちて重々しく芝生を踏んでくる制服の「老いぎりす紳士」を脳裡にえがくのだ。もしこれが亜米利加アメリカなら、広いところを一々二ペンスあつめて廻るかわりに、さしずめ白銅ニクル一個入れなければ腰かけられないように全部の椅子を改造することだろうし、そしてまたその椅子が、白銅ニクル一個入れるごとにちりんとかがちゃんとか、なんと恐ろしく証拠的な大音響を四隣へむかって発散することであろう。これにくらべれば、英吉利イギリスのは遥かに、そこにおのずから古典的な一つの趣きがあるような気がする。
 ――などと考えたのはあとのことで、そのときは二片出してもっとよく音楽の聞えるところまで這入りこむのだと思ったから、私は、いや、ここでたくさんだ、ノウ・サンキュウと挨拶したわけだったが、そのおじいさんの説明でこころよく四片を投じ、ところどころで切符うりが来るたびにそれを呈示しながら、休みやすみ半日公園をうろついたのだったが――。
 草に日光がそそいで音楽が沸き、KOBAKが活躍し、演説が人をあつめて兵隊は恋人と腕を組み、夫婦は寝そべり、子供はいつの間にか柵につかまって独り歩きし、そこにもここにもカクネイの発音が漂って――一くちに言えば英吉利イギリス人の好きそうなハイド・パアクの油絵だ。いくぶんでもこの国の人の興味をひくためには、それは何よりも先に出来るだけ平凡であることを必要とする。
 公園を出ようとして石の道へ来たときだった。またすこしやすもうということになって見廻すと、ちょうどそこにいた椅子がふたつ私たちを招いていた。で、腰を下ろしながら気がついたのだが、何だか眼のまえの芝生にまばらながら人だかりがしている。
 大きなにれの木のかげである。
 白ずくめの若い保姆ほぼが乳母車を停めてやすんでいるのだ。
 黒塗りの小さな乗物、そのなかのふっくらした白布リネン、それらのうえにまんべんなく小枝の交錯を洩れる陽が降って、濃い点が無数に揺れている。乳母車のぬしの赤ん坊は、白いかぶり物の下から赤い頬をふくらせて、太短い直線的な手の運動で、非常に熱心に、自分の靴下の爪さきを引っ張っている。保姆のほかに女中がひとり、それに、すこし離れて私服の役人らしい紳士がぶらりと立っていた。
 みんなが赤んぼうを見て往く。なかには帽子をとっている人もある。
 保姆は片手を乳母車にかけて、うしろ向きに女中と話しこみ、赤んぼはひとりでいつまでも自分の足と遊んでいる。一生懸命に靴下をつまんで、ながいことかかって或る程度まで脚をくうに上げる事業に成功するんだが、そのうちにぽつんと切るように手が離れると、身体からだぜんたいがころっり返って驚いて両腕りょうてをひろげる。そしてまたしばらく自分の足さきを凝視し、その誘惑に負けたように手を出すのだ。いつまでも同じことを反覆している。
 赤んぼがぴいんと足をはじいて車が動揺する時だけ、保姆はちょっとかえりみるが、小さな主人が飽きずに幸福にしているのを確かめると、安心してふたたび女中のおしゃべりに熱中し出す。役人らしい男は、みおわった紙巻をぽうんと遠くの道へ捨てて欠伸あくびをした。
 来る人も往く人も足をとめて、ほほえみと軽い礼を赤んぼへ送っている。
 草を踏んで近づいてくる跫音あしおとが私たちをふり向かせた。さっきの切符売りの老人である。眼の蒼い、愛蘭アイルランド人の微笑とともに、そっと彼の低声こごえが私たちの耳のそばを流れた。
『あれ――知ってますか誰だか。プリンセス・エリザベスですよ。』
 エリザベス内親王殿下は、現陛下の第二皇子ドュウク&ダッチェス・オヴ・ヨウクの第一王女である。
 椅子を立って歩き出すとき人の肩ごしに覗くと、内親王殿下には御機嫌いと麗しく、まだおみあしへ絶大な御注意を集中されて、あんまりつづけさまに引っぱるものだからすっかり伸び切ってしまった御靴下のさきを、不思議そうに御研究なされている最中だった。
 ずらりと行人こうじんが垣をつくって、あらゆる角度からカメラがならび、瞬間シャッタアの音が草を濡らす小雨のようだ。無意識らしく話しこみながら、保姆がちらと手を上げて髪を直した。

SAKURA


 一七一二年に発行された、ABCのいろは歌留多かるたみたいな“Trivia”のなかに、
 A――小路アレイはぶらぶら歩きに持ってこいだし、
 B――本屋ブック・セラアの主人は天気の予言が上手だし、
 C――群集クラウドは馬車がくると左右にわかれ、
 D――塵埃屋ダストマンには閉口だ。
 などとE・F・G・Hと trivial なことを詩の形式であげてある。
 月並トリヴィアルには相違ない。が、よくこのABCの詩をにらんでしばらく眼をつぶり、それから眼をあけて、こんどは行と行のあいだをじっと凝視していると、私はそこから昔の倫敦ロンドンが青白い姿でよろばい出てくるのを見るのだ。
 私は空想する――一、二世紀まえの倫敦の街上を。
 織るような人通りだ。
 黒子ほくろを貼った貴婦人と相乗りの軽馬車を駆っていく伊達だて者。その車輪にぶら下がるようにして一しょに走りながら、大声に哀れみを乞う傴僂の乞食。何というそれは colourful な世であったろう!
 古本屋のおやじは一日いっぱい往来へ出て両手をうしろへ廻し、空を見上げて天気の予言に夢中だ。通りすがりの御者のむちが一ばんあぶない。びゅうっと唸っておやじの丸帽子を叩きおとし、掛声を残して行ってしまうと、鵞鳥がちょうのように追っかけてようよう拾った帽子を袖で払いながら、あとからおやじが真赤になって呶鳴っているが、町の人の笑い声でそれはおやじ自身にさえ聞えない。
 単純シンプルで、そして楽しく華やかな過去のろんどん街上図だ。これらすべての「振り返って見る浪漫さ」は、あの、善くうつくしい時流というものの働きかける魔法かも知れないが、いま私たちが、その単純さ、そのさわがしい華やかさ、そのロンドンらしい「遵奉されたる蕪雑ぶざつさ」において、この「巷の詩」のもつ調子ニュアンスとすこしも変らないものを見出し得る町が、こんにちの倫敦ロンドンにたったひとつ存在しているとしたら、それは、「すでにロンドンの失ったものをロンドンに求める」無理な旅人にとって、たしかに一つの福音であると言わなければなるまい。
 チアリング・クロスだ。
 AH! ちありんぐ・くろす!
 いったい亜米利加アメリカ人や英吉利イギリス人は倫敦を征服――完全に見物――しようとする場合、この掴まえどころのない漠たる大都会に立って、そもそもどこからその事業に着手するかというと、それはハイド・パアクの一角からはじめることに、ほとんど因襲のようにきまっている。そこに、公園に面して東側に、ちょっと人眼につかない灰色の石造建築物が立っている――これこそロンドン一番地とでもいうべきアプスレイハウスである。このロンドン市一番地という概念は、よくここを起点にして倫敦の「足による研究スタディ」が開始されるからで、もちろん番地それじしんは何ら公式の権威を持たない。現にアプスレイハウスのほんとの所在アドレスはピカデリイ街一四九番だ。が、それほどあめりか人なんかが「ロンドン一番地」を重要視して、かならずこの家のまえから倫敦ロンドン見物の足を踏み出すことにしているに反し、仏蘭西フランス人はふらんす人らしく芸術的不整頓を愛する好みから、このおなじろんどんに独特の出発点をもっている。それがここにいうチャアリング・クロスなのだ。
 そのむかし、いぎりす島の王様が皇后の棺をウェストミンスタア村の寺院へ埋葬するため、とむらいの行列を仕立ててテムズ河畔を進んだとき、途中いくつかの休み場所をしつらえたのだったが、当時チャアリング・クロスは、ウェストミンスタアへ這入る手前の、最後の葬列休憩所だった。あの、倫敦の歴史とは切ってもきれないドクタア・ジョンスンは、その時の淋しいチャアリング・クロス村が後日人間のタイドが浪をなして寄せては返す浜べになるであろうといっている。その予言のとおりに、いまのチャアリング・クロス街は大ろんどんの中心となって、市の劇的生活の主役のひとつを演じているのだが、ABCの詩にあらわれている田舎町スモウル・タウンめいた人混みと、音律と、あの色彩、それはその舞台面にふさわしい、狭く暗い、曲りくねったチャアリング・クロスにだけ、いまもそのままに、生きて動いているのだ。
 時間と煤煙と霧に黒ずんで、昔のとおりの軽い心臓の群集を両側の歩道に持っている英吉利イギリスでの羅典区カルテ・ラタン――私は、皮肉で、粋で智的なフリイト街の雰囲気とともに、この細い一本道の提供する古めかしい楽天さケア・フリイを愛する。チャアリング・クロス――あまりに多くの不可思議ミステリイを見てきた町。
 新々あらびや夜話が鉱脈のように地底を走っている往来である。
 何とたくさんの物語の主人公と女主人公がこのまち筋を歩かせられ、またこれからも、どれだけその人道をむことだろうか――OH! そして小説のなかの彼らめいめいの用意と目的と感情、それらのすべてを、過去のものも来るべき作家のペンに宿る性格も、書物を読むようにすっかり心得ているのがチャアリング・クロスだ。なぜなら、人はそっくりろまんす中の人物となって魅縛みばく的なここの敷石に立つ――と言われているほど、それほど、じっさいチャアリング・クロスを昼夜上下に押しかえす通行人は、ロンドンの他のどの町をとおる人ともちがって、いぎりす人らしくない一種ぼへみあんな理解に溶けあっているように思われる。
 チャアリング・クロスは古本の港。
 トテナム・コウトは家具の山。
 この、古本と古本屋のおやじと、おやじの自慢する天候観測能力とごみだらけの小さな飾り窓とのチャアリング・クロスをトテナム・コウトの地下鉄チュウブ停車場から新オックスフォウド街を越して二、三歩左へ切れたところに、すこしでも注意ぶかい人なら、そこに、一風変った人種の出入によって、しっきりなしに不気味に揺れている一つの戸口ドアを発見してぎょっと――その最も不用意な瞬間に――することであろう。
 デンマアク街X番――上に、SAKURAと金文字が読める。
 日本御料理「さくら」のまえに、私たちはいま立っているのだ。
 想像をも許さない「東洋神秘の扉」――それが現実にこうして倫敦ロンドンの一横町へむかって、冒険心に富む全市民のまえにひらいているのである。
 さくら――Ah, Yes ! Just off Charing Cross !
 日本の「口」のオアシス。
 日本旅人のらんで※(濁点付き平仮名う、1-4-84)だ。
 何という民族的に礼讃すべき存在であろう!――なんかと、いくら私ひとりでさわいでも、日本にいる日本の人には何だか一こう訳がわからないかも知れない。が、解らなくても構わない。とにかく、ロンドンへ着いた日本人のほとんど全部が、この戸へ面したとき、やっとのことで一つの望みへ辿たどりつき得た大きな喜悦を、その涙ぐんだ溜息によって表現するのだとだけ言っておこう。
「ああ――!」と。
 そして、もう一つ、もし幸いにして諸君がいささかの同情と理解をもって聞いてくれるならば、私はここへこうつけ足したい――つぎの刹那、私たち――と言うのは倫敦ロンドンへ着いた日本人――は、勇躍してドアを蹴り、完全に万事を忘却して「頭からヘッドロング」にそのさくらの内部へ dive する。おみおつけの海に抜手ぬきてを切るべく、お米の御飯の山を跋渉ばっしょうすべく、はたまたお醤油の滝にゆあみすべく――。
 というと、ばかに大げさにひびくが、食物は民族の血と骨と肉を作っているばかりでなく、事実、歴史的にそのこころをも形成しているものだと私は信ずる。いや、信ずるというよりも、じつは今度の旅行によってそれを発見し、痛感しているのだ。だから私がここに、海外旅行中の全日本人を代表して――はなはだおこがましい次第だが単に便宜上――日本の食物に対するむにやまれぬ正直な告白――そして他人ひとの正直な告白をわらう権利は神様にも悪魔にもないはずだ――をはるかに故国なる諸君に寄せたからといって、それは何も私だけが人なみはずれて食いしんぼうな証拠でもなければ、第一、なるほど問題は食物に相違ないが、その奥底に、飲食物なる最も端的な本能的なかたちを採って「遠い祖国」への恋ごころが――可哀そうにも!――動いていることを考えていただきたい。いやに辞を弄して自分の意地きたないところを弁解これ努めているようだが、とまれ、この「日本食へのあこがれ」―― only too often 私と彼女はこの異郷の発作におそわれる――ばかりは、日本に居ることによってあまりにその境遇にれしたしみ、恵まれた運命に感謝することさえ忘れている大それた諸君みなさんには、とうてい察しが届くまいと私は逸早くあきらめている。しかし、私は確信する。私がこの紙とペンに託して私の最善をつくしたなら――何と大変なことになったものよ!――すくなくとも幾らかの実感がにじみ出て、それが諸君を打たずにはおかないであろうと。
 こと食べ物に関して来たらついむきになって申訳ないが、ま、一さいの議論はあと廻しにして早速SAKURAの戸をあけるとしよう。
 戸を開けると、倫敦ロンドンチャアリング・クロスのそばに、この日本御料理さくらである。
 うす暗い帳場のわきを通って階下したの食堂へ出る。高い窓から採光してあるだけなので、くもった日には昼でも電灯がともっている。壁によって白布の食卓、中央の机には「なつかしい故国の新聞」が二、三種綴ってあって、久方ぶりに相見あいまみえる餅菓子、どら焼・ようかん・金つばの類が硝子ガラス器のうえにほとんど宗教的尊崇をもってうやうやしく安置してある。このろんどんの真ん中に、ここだけは切り離されたように見るもの聞く物すべてが「日本」だ。いつ行っても大概どの卓子テーブルもふさがっていて、AHA! なんと多勢のにっぽん人! みんな嬉しいことには私たちとおなじ黒い髪、黄色の皮膚、眼のつり上った真面目な顔、高い頬骨と短い四肢――地位と職業もほとんど一定している。正金しょうきんのAさん・住友のB氏・三井のCさん・郵船のD君・文部省留学生E教授・大使館のFさん――夫妻・子供・それに日本かられてきている女中――新聞社特派員のG君・「商業視察」のHさん・海外研究員のI君・寄港中の機関長J氏――これらは、すこし大きな欧羅巴ヨーロッパの町ならどこでもかならず見参する「在外同胞」の典型である――が、めいめい日本へ帰ったような at home さをもって自由にはしをうごかし、そしてより以上の、非常に驚くべき自由――おお! 感謝すべき自国語の特権よ!――をもって談じかつ笑っているのだ。
 テエブルにつくと、HON給仕人――日本人の――がHON献立表メニュウ――日本語の――を持って“No”のように無言に接近してくる。昼食三シリング・夕食三シリングペンスとあって、ア・ラ・カアトのほうを見ると、こうだ。
 そのいかに本格に日本的であるかを立証するため、左に出来るだけ忠実に写し取ることにする。
   舌代ぜつだい
お吸物      一シリング
刺身       十一ペンス
酢の物      十一片
天ぷら      一志五片
そば いろいろ  十一片より一志六片まで
うどん いろいろ 同
ざるそば     十片
蒲鉾かまぼこ       十一片
大根おろし    六片
味噌汁      九片
うに しおから  四片
御飯       九片
御漬物      三片

 その他いろいろとあるとおりに、ぬた、したし物、湯豆腐、ひや豆腐、でんがく、にゅうめん、ひやしそうめん、茶碗蒸し、小田巻むし、うなぎ蒲焼、海老鬼殻おにがら焼、天丼、親子丼、海苔佃煮のりのつくだに、寄せ鍋、鯛ちり、牛鍋、かきどふ鍋、鳥鍋、鴨鍋、御寿司、御弁当――およそ普通の日本料理のすべてを網羅していて、余白にいわく。
多人数様の御宴会には特別勉強致します。
なお仕出し御料理その他御弁当御寿司などの御註文は多少にかかわりませず迅速に御届け申上ます。
   月  日
さくら 敬白
 ちなみに英貨一片は日本の約四銭、一志がざっと五十銭に相当するこというまでもない。
 さて。
 そこで私たちも「日本へ帰ったような気」になって片隅に腰をおろし、耳へ飛びこんでくる雑然たる「日本」の物音を心しずかに味わっていると――。
 給仕人と女給――ともに日本人――が二階の台所へ向って註文を通す声がはっきり聞える。
『定食ツウ!』
 けだし「ツウ」は two にして二つの意味であろう。
『ナンバ・フォア、味噌汁スリイ願います。』
 四番さんおみおつけ三つというところ。
『ワン新香しんこう、おうらい!』
『海苔まきフォア・六人シックス!』
『ナンバ・セヴンのお椀まだですか。』
『十一番さん、御飯ライスおかわり!』
 皿の音、沢庵たくあんにおい、お醤油のこげるにおい、おつゆをすする盛大なひびき、「いらっしゃいまし」「お待ち遠さま」「有難う存じます」の声々――それに混じって食堂じゅうに色んな日本語が縦横に走りかわしている。
『おい君、巴里パリーで行ったかい? え? ほら、あそこさ。例のところさ。はは。』
 と大声を発しているのは、若い会社員の一団――恐らくは一つ橋出らしい郵船の人たち――の食卓である。
『いや、そのことさ。じつはこうなんだ――。』
 ひとりが答えかけて低声こごえになると、みんなの首がまえへ出て話し手のほうへ集まる。
 隣りに静粛にお刺身をつついている二人の老人組は、その端正さ、その謹厳な態度から押して、ともに大学教授何なに博士に相違ない。口をもごもごさせて何か言っているようだが、ときどきウインというのが聞えるところから見ると、近くウインから来倫らいロンしたものらしい。泰然と落着いて二本の箸をあやつっている容子ようすに、どことなく中華大人の風格があって、なかなか頼母たのもしい眺めである。
 こっちの卓子テーブルには、頭をきれいに分けて派出はでな両前の服を着た日本青年――N男爵嗣子オックスフォウドの学生――が、とうに食べおわったお膳をまえに、一月前の東京の新聞に読みふけっている。そばの家族づれは領事館の人らしい。七、八つの男の子が上手に日本言葉と英語を使いわけている。
『わっはっは!』
 という猛烈な笑い声が若い会社員のてえぶるに爆発して、一時満堂の注意をあつめる。かれらは「若い会社員」らしい、いわゆる「わいだん」を一しきり済ましたのち、こんどはゴルフの話題だ。
『そりゃあ畑中君にゃあかなわないさ。何といったっていいドライヴだからなあ――。』
『しかし、はじめのうちから早く廻ろうとするのはうそだね。』
『畑中なんか君、玄人プロに言わせるとゴルフじゃないっていうぜ。』
 畑中君はその場に居あわせないとみえて、君と君のゴルフがあらゆる批評を受けている。
『三味線はうがすな。』
 いずくからともなく渋い声がする。あちこち見廻して声の出どころを探すと、いつの間にか、商用の重役らしい三人づれが一卓を占めて、牛鍋のアルコホル焜炉こんろをかこんでいるのだった。
『婆さんは残してきても何とも思わんが、三味線だけは手離せんでな。わざわざ持って来ましたが、洋行に三味線でもあるまい言うて、慶応へ行っとるせがれなんか大笑いしとりました。なあに、国民音楽だから構わん、こう頑張って一挺トランクへ入れてきたんだが、さて、いざとなるとどうもホテルじゃ鳴らせませんわい。気分になれん。出していじってみるのが関の山で、いまでは荷厄介にやっかいです。』
 こう言って、非常に荷厄介らしい顔で食堂じゅうを見わたしている。
 べつの方角からべつの声がする。
『佐々木さんの奥さん思いったら君、一週間奥さんから手紙がこないと、君、あいつどうしたんだろうねえってとても真面目な顔で俺んとこへ相談に来るんだからなあ――やりきれねえよ俺も。』
『相手になるな相手に。佐々木のやつ、この頃どうかしてるんだよ。』
 ひとりがごく簡単に佐々木さんを退治してしまう。そのほか、日本人は声が高いから、聞くまいとしても色んな話が自然と私の鼓膜を訪れる。この二、三秒間に聞えて来るはなし声を構成派的に並べてみてもこうなる。
『いや、それではかえって恐れ入りまするから、ええ、伯林ベルリンのほうは伯林のほうと致しまして、ええこちらはわたくしが――。』
『電報でさ――と言って来たろう。困ったね僕も――何しろ切符は買ったあとだし――。』
『は。名古屋でございます。いえ工場は大阪でございますが、どうも事業の中心が。』
『君、酒、るかい? ビイル?』
伊太利イタリーはどうも人気が悪くて、ムッソリニなんて大山師ですよ。』
『娘は、ことし県立を出まして、女のくせに洋画のほうへ進みたい――。』
『僕は思うんだが、日米戦争は、だね――。』
『おい、君、君、ボウイさん! ここはどうしたんだい。え、ああ。玉子焼きさ、一人前。』
 そうしてむこうではのべつ幕なしに、
『うな丼ワン!』
 であり、
白和しらあえ出来ますか。イエス! ツウ・プリイズ!』
 なのだ。
 このこんとんたる模型日本の環境のなかから、外部に拡がるろんどんの世界をうかがっていると、そのあまりに浮き立っている独自性が頭から私をとらえて、一種異様な気もちが雲のように覆いかぶさってくるのを意識する。
 日本! 日本! 東の海のはてに何から何まですっかり他と異った社会と生活を保持している日本! 変っていることは何かを意味しなければならない。この、変りすぎるくらい変っている日本こそは、その、こんなにかわっているところから見ても、たしかに世界の人類にひとつの使命をもたらそうとしている種子たね――種子たねだから形は小さい。が、それだけ包蔵する力は大きい――に相違ない、と。
 これは決して単なる安価な愛国的感傷でもなければ、珍しくしこたま日本料理をつめこんだために急に気が強くなっての言でもない。じっさい、こうやってあちこち動いて国と山と人を見ればみるほど、日本人ほど深い感情、高いこころもちに生きている人間は、どこの野、どこの谷にも棲息していないことを私は一そう確めるばかりだ。
 旅は驚異を求めて絶えず前進をうながす。が、その旅の提供し得るあらゆる驚異に慣れてしまうと、私は、いまさらのように自分の残してきた孤島を振りかえって、そこに大きな大きな無数の驚異を発見している。
 日本! 早い話が、この眼前の食物一つでもわかるように、何というユニイクな国土!
 と、私が、自分の食べあらした皿を眺めて他人ひとごとのように感心していると、むこうの卓子テーブルから見識みしらぬ日本紳士が立ってきて慇懃いんぎんに礼をした。
『ええ、ちょっと伺いますが――。』
『はあ。』
『わたくしは今朝けさチェッコスロバキヤから着きましたもので。』
『は。』
『ここははじめてですが――あのう、ボウイのチップはどうなっておりましょう? 一割勘定書について参りますか。それとも別に――。』
『べつに置くようです。私はいつも一割やりますが――。』
『あ、そうですか。どうも有難うございました。』
『いえ。どう致しまして。』
 そうかと思うと、あっちの隅では二同胞のあいだに先刻さっきから大論判がはじまっている。
諾威ノールウエー瑞典スエーデンも旅券の査証は要らないんだ。』
『そうかなあ。どっちだったか確か要る国があったと思うがなあ。』
『いいや、要らない。』
『いや、たしかに要るよ!』
 要る、いらないで際限がない。見兼みかねたとみえて、けさチェッコから来た人が仲裁に這入って何かくどくど言っている。やがてその説明に満足したらしく、両方とも間がわるそうに黙りこんで、妙ににやにやしながらふたたび箸をとり出した。
 このとき私たちは、彼女の発議で取ってみた缶詰の羊羹ようかんに「日本和歌山市名産」という紙が貼ってあるその愉快さにおどろいている。和歌山名物缶詰の羊羹には、多分に「明治」の味が缶詰してあった。
 部屋いっぱいにはち切れそうに濃厚な「日本」の発音と臭気。そしてそとは、チャアリング・クロスの史的に気軽な人浪ひとなみとABCの詩だ。
 饒舌しゃべるのと食べるのと、ここばかりはともに日本の「口」の緑園オワシスである。
 日本旅人のらんで※(濁点付き平仮名う、1-4-84)
 玄妙きわまりなき東洋日本の縮図―― It is SAKURA; yes sir, just off Charing Cross !
『ナンバ・エイト、定食スリイ!』

セルロイドの玩具


 ヴィクトリヤ停車場のまえは文字どおりに人の顔の海洋だった。
 それがみんな、ちょうど三角浪のように一せいに同じ方向をむいて伸び上っている。
 午後三時二十七分、カレイ・ドウヴァ間の汽船に聯絡する汽車が、巴里パリーで結婚したアドルフ・マンジュウを乗せていま到着しようとしている。今朝の新聞にそう出ていた。だからこの人だかりである。
 いっぱんに男よりもものずきなせいか、この自発的出迎人には女が多い。それともかれアドルフは全女性の「甘い心臓」とでもいうのだろうか。とにかく、あらゆる類型と年齢の女人がこの広場を埋めつくして、ロンドン交通の一部に大きな支障をきたすほど、巡査が解散を命じようが軍隊が出動しようが、いっかな動きそうもない。おそらくは消防夫が喞筒ポンプで硫酸を撒いても、すでにアドルフ・マンジュウを瞥見するためには死を賭して来ている彼女らは、びくともしないで立ちつくすことであろう。
 が、これほど群集の過半を占めている女も、こうしてよくみると、タイプと階級はじつに決定的に極限されていて、いかにもアドルフ・マンジュウを崇拝おくあたわざるらしい、そして、一眼でいいからその巴里の花嫁なる人を「見てやり」たいと言いたげな、そこらの店の売子、タイピスト、女事務員、女給、老嬢、女房たちである。これらの低い、それだけまた妙に真剣な人たちのうえに、ひとつの変に競争的な空気が漂って、青い空の下、黒い建物に挟まれて数えきれない女の顔が凝然といならび、製本中の本の頁のようにいやにきちんと揃っているのだ。ちょっと不思議な圧迫を感ずる。
 思うにアドルフ・マンジュウの映像は、この人々の胸において、それぞれひとつの絶対な存在であるに相違ない。この近代商業芸術の創造したせるろいど英雄に対するファンなるもののこころもちは、ひどく個人的――恋がひどく個人的であるように――で、そうして恐ろしいまでにひたむき――ふたたび恋がそうであるように――なものに考えられる。すくなくとも、女たちの眼が、みんな一ようにこう意気込んでいるように見えるのだ。
 つまり、アドルフ・マンジュウを見るということは、この女群の一人ひとりにとって、聖なる概念の現象化――早くいえば、そのままに奇蹟を意味するのだろう。
 奇蹟を待つ人々はしいんとしている。
 ただ、まえへ割って出ようとする女を、ほかの女がひじで争っているくらいのものだ。それも、いぎりす人のことである。すべてが可笑おかしいほど、厳粛な沈黙と、静寂のうちに――。
 私たちも朝飯の食卓で新聞の記事を見て、折から事あれかしと待ちかまえていたところだったので、こうしてぶらりとアドルフ・マンジュウを見物に出てきたのだ。べつに見てどうしようという意志もないから、このとおりおとなしくうしろのほうに引っこんでいる。
 三々伍々あるいている人たちが参加して、群集はふえる一ぽうだ。なかには、何だか知らずに立ちどまっている人も多いらしい。あちこちでおたがいに訊きあっている。きっと、皇太子殿下プリンス・オヴ・ウェイルスがいま亜弗利加アフリカ旅行へ出発するところだ、ことのいや、皇太子殿下がいま亜弗利加旅行からおかえりになるところだとのこと、いろいろ取り沙汰がたいへんだとみえて、何かさかんに言いふらしている物識顔ものしりがおと、それに応じてしきりにうなずいている頭とがそこここに揺れている。
 時計はとうに三時二十七分を過ぎて、カレイ・ドウヴァの汽船に聯絡する汽車から吐きだされた乗客のむれが、ぞろぞろ停車場を出て来た。アドルフ・マンジュウの出迎人は瞬間石のように緊張しながら、一列につづく自動車のために細いみちを開ける。そこを群集に驚いた乗客たちが、思いおもいにタキシを走らせて通りすぎてゆく。それがすっかり通り過ぎてしまっても、奇蹟はまだ出現しない。一同は散ろうともせずに待っている。いぎりす人らしく自治的に、そして可笑おかしいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
 私たちは飽きてしまった。で、いささかばかばかしくなって歩き出そうとしたときだった。
 ざわざわと停車場の出口エキジトにあたって少数の人がうごいたように思った。と、誰もかれもが一そう首を伸ばして、同時にアドルフ、アドルフというじつにものしずかな――英吉利イギリス人らしい自制的な――声がつたわってきて、女は手ぶくろを振っている。
 灰いろの大型な幌無自動車オウプン・カアが人のなかの通路をすべってゆく。車のまえは一本の隙間が長くひらけ、車のうしろには女の信者たち――女給、女事務員、町娘等のムウビイ・ゴウアス――がぎっしりつづいて。
 ただそれだけの野次モッブである。
 ほかの人々は、自動車のうえを見るよりも、そのまわりの群集をみている。それも、いかにもイギリス人らしく可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
 はじめからアドルフ・マンジュウを目的にしていたのは、集まった人々の十分の一だったのだ。他は、ただ群集のために一時歩行を中止していたのである。しずかに、そして自制的に、いかにも英吉利人らしく無言のまま。
 アドルフ・マンジュウのあの浅黒い光った顔と、中年女の好きそうなひげと、有閑好色紳士めいた鼻のわきの小皺こじわとが、イギリス人らしいあっけない群集のなかを、映画用微笑とともにゆるくドライヴして行った。そばに、巴里パリーの新夫人――新夫人めかしてうつむいた――の肩に、ストウン・マアテンの毛皮が自動車の震動でこまかくふるえていた。
 アドルフは灰色に縞の眼立めだつ背広、夫人は黒のテイラメイド・コスチュウムだった。
 信じられないかも知れないが、いくら「アドルフ・マンジュウ」だって、「法律による自分の妻」とともにこうして自動車を駆ることも、たまにはあるのである。
 空は高く青く、建物は低く黒く、満足したらしい群集は自治的に解散し出す。最後に、イギリス人らしい可笑しいほど厳粛な沈黙と静寂のうちに。
 待っていたようにバスが唸り出し、いちご売りが人を呼び、町かどの巡査は人間性を理解しつくしたもののごとく長閑のどかにほほえみ、ふたたびいつものヴィクトリヤ停車場まえの妙にひなびたすなっぷだ。
『思ったより年をとってるのね、アドルフ・マンジュウって。』
 救われたように彼女が言っていた。まず、これはこれでおしまい――そういった、きょうの見物順序プログラムのひとつをすました旅行者のよろこびで。

小野さん


 小野さんはロンドンにいる日本人である。
 小野さんはいつも下宿を探している。
 この下宿さがし――小野さんと私たちが相識しりあいになったのは、その「下宿探し」という楽しい企業に関する一つの妙ないきさつからだった。
 当時私たちは、西南の郊外に近いパレス街に、そこらによくある賄付下宿ボウデング・ハウスの一つ、ベントレイ夫人方に居をぼくしていたのだったが、はじめのうちは珍しかったとみえて、何やかやとベントレイお婆さんがよく気をつけてくれたけれど、しばらくいると直ぐ慣れっこになって、だんだん万事粗末にし出した。下宿というものはへんなもので、ひとついやになると不思議に何からなにまでしゃくにさわってくる。べつに何がどうしたというわけでもないが、ただ朝夕そのり方のすべてが気に食わないのだ。こうなると先方もこの気分を感じて、気のせいか一そう虐待しはじめる。そうするとこっちもつい好戦的になって、事につけ物にふれ角が立ち、何となく大事件が突発しそうでしじゅう胸のばたばたするような日がつづいていた。なにもそんなところに我慢していなくても、ぽんぽん威勢のいい言葉を残して速刻引っ越したらよさそうなものだが、事実また、憤然と荷物をまとめにかかったことも一再にとどまらないのだが、ところが、じっさいに当ってみると、夫婦で荷物を足もとに茫然街上に立つわけにもゆかないしするから、一日延ばしに漫然と腰を据えていたので、そのまえにほかを探したらいいだろうというかも知れないけれど、それは、もちろんあちこちさがしてはいるんだが、条件がむずかしいからなかなかないのだ。そこへもって来て、いっそベントレイお婆さんが出てけがしにしてくれると、日本人の性質として、たとえ当てがなくても即座に飛び出すんだけれど、出られてはまた困るものだから、お婆さんも決して積極的な態度をとらない。そこで、あと脚で砂を蹴るにしたところでそのきっかけがなくて弱っていた形だった。
 何よりもうるさくて閉口なのは、同宿の人々がどっちかと言えば無教育な連中なので、恐ろしくしつけが悪いとみえ、その子供たちが私たちに対してじつに公々然と興味と好奇の眼を光らせ過ぎることだった。
 たとえば、私と彼女が外出しようとして廊下へあらわれたとする。すると、必ずそこに早くも一小隊の少年少女が待っていて、気味がわるいものだから常に相当の間隔をおき、いざとあらば直ちに逃げのびられるたいがまえで、世にもしつこく凝視し、観察し、研究し、批評しているのを発見するのだ。
『そらっ! また日本人が出てきたぞ!』
『女がこっちを見てるぞ。』
『何か言ってらあ!』
『おい! 笑ったぞ、笑ったぞ!』
『なに? 笑った? ほんとか。』
『やあ、時計を出した。』
『ほら、来るぞ、くるぞ!』
 というようなことなんだろう。私たちが近づくと、左右の壁にぴったり背中をつけて立ち並んで、恐そうに口々に挨拶する。
『お早う!』
『お早う!』
『お早う!』
 そして、通りすぎたあとですぐ、
『おい! 聞いたか。男がお早うって言ったぜ。』
 なのだ。
 これをあんまりつづけられると、どんなに気のいい異国者エトランゼでも、相手は子供と思いつつついうんざりさせられる。どうもここらのは普通よりたちがわるいようだが、その国の子供は最もよくその国をあらわす。例のアングロサクソン・スウペリオリティ――不幸にも――の観念からか、一体イギリス人は外来者を受け入れない。英吉利イギリスでは、外国人はどこまでっても外国人である。自分たちより一段も二段も下の動物と、万人が万人そう思っているらしい。ただ大人おとなは、動物にさえ――動物であるがゆえに一そう――悪感情を持たせまいとする紳士淑女らしいデリカシイから、電車内や往来などでも、ちらりちらりと見ないようにして見る。そこを、子供は子供だけにおおびらにやるだけなのだ。
 なんかと、下宿の不平からはじまって私たちが全英国のあらゆる事物に反感を抱き、ことあらば今日にも爆発してやろうと手ぐすね引いている最中――小野さんなる人物はここへはじめて出てくる。
 ある日の朝、ベントレイ婆さんがいつになくにこにこして私たちの部屋へ来た。手に新聞を持っている。読んでみろというから読んでみる。と――。
「下宿を求むる一日本紳士」
 というのが標題で、広告欄につぎのような文章が掲載してある。その近処にだけ出る小さな区域新聞デストリクト・ペイパアだった。
「ここに一人の年若き日本紳士あり。ロンドンの西南に当り、家族的好感の下宿をもとむ。紳士は独立の事業家にして良き地位を占め、かつ寝室居間食事に対して週二ポンド半を最も快く支払うべく、その準備全くととのいおるものなり。うんぬん。」
『ふうむ。』
 私が感心したのを見すまして、ベントレイお婆さんははじめる。
『ああ! わたしの愛するヴァレイ氏夫妻よ!――註に曰く。私たちをヴァレイと呼んでくれ。そのほうがお前に覚えよくていいから。このうちへ来たとき、私たちはむこうの便宜をはかって、つとにお婆さんにこう言い渡してあるのだ。だからお婆さんにとって私はヴァレイ氏であり、したがって彼女はヴァレイ夫人である――そこで、もう一度ヴァレイ氏夫妻よ! わたし――というのはつまりお婆さんじしんだが――は、つねにヴァレイ夫人に忠告して来ました。いかに資本金が出来ようとも、人間、下宿屋だけは始めなさんな、と。おお! その世話のやけること、その気をつかうこと!――しかし、ものにはすべて例外があります。まかないつき下宿も、すっかり日本人だけで充満させることが出来れば、ああ! かえってヴァレイ夫人にもすすめたいくらい――日本人! 何てまあお金払いのいい、思いやりの深い、あちこち届く国民でしょう? 五十年まえまでは野蛮国だったんですって? 信じられません! いいえ、信じられません! ほんとにうちじゅうに日本人がいたらわたしはどんなに幸福でしょう! じっさい日本の方は理想的な下宿人で――。』
 と、これを要するに、この広告の主の日本紳士を何とかして下宿人として捕獲しなければならないから、早速私に推薦状レコメンデイションを一本書けというのである。これには私も困り入ってしまった。じぶんがいやで今にも出ようとしているところを、人に、しかも同胞のひとりに、紹介推薦するということは、論理にも合わなければ、気も咎める。しかし、部屋があいて閉口しているベントレイ夫人は、この下宿人払底ふっていの世の中に日本人だろうが何だろうがそんなことを言ってはいられないし、それに事実、日本人は文句はいわず――じつは言いたくても、一つはその引っこみ思案と、多くは不充分な発表能力とで大がいのことにはただにやにや笑って黙っているのだが――と、なにしろお金の受授がきちんとしているのとで、ここは何とあってもその「若き日本紳士」を生けどりにしたくてたまらない。出来るだけの愛嬌笑いを顔に、そのくせ命令的に両手を腰に厳然と私のまえに直立していて動かないのだ。おまけに言いぐさがいい。
『あなた方は満足しているからこそ私のうちに居るんでしょう? してみれば、じぶんが満足なら当然人に、ことに必要に迫られている同国人に、その満足をしらせて幾分でも分けてやりたいとは思いませんか。』
 どうも呆れたものだ――むこう側からヴァレイ夫人が早口にいう。
『書いてやったらいいじゃありませんか。何でもいいから。』
 私はベントレイ老夫人に直面して、
『しかし、僕は日本人だから英語じゃ書けない。日本語でいいなら大いにこの家をめて書こう。』
 するとお婆さんが微笑した。日本語でさしつかえないというのだ。
 これで助かった私は、そこで、ペンを執ってすらすらとこういう一文を草したのである。
「宿の主婦があなたの広告を見て、推薦状を書けといってききません。仕方がないのでこうして書き出しましたが、これは決して推薦状ではありません。私も近日移ろうと思っているくらいですから――どっかにいい家はないでしょうか。」
 そして、こんな手紙に名前は書けないから、と言ってこのままでは署名がないじゃないかとお婆さんが承知しないにきまっているから、おしまいの下のほうへ「早々敬具」とくっつけて、これが私の日本名だと指したら、お婆さんはますますにこにこして、おなじ国の人からこんな立派な推薦状が行くんだから、その日本人はきっと来るにきまっている、と、もう一部屋ふさがったようにほくほくもので引き取って行った。
 すこし罪だね――私たちはそう言って笑い合っただけで、このことはそのまますぐ忘れてしまった。もっとも時どきは話題にのぼって、
『どうでしょう、あの日本人の人、お部屋を見にくるでしょうか。』
『なあに、ああ言ってやったんですもの、来るもんか。』
 などと、そのたびに、お婆さんに対しては意地がわるすぎるが、一つの復讐をした気になって、私たちはすくなからず溜飲を下げていた。が、お婆さんは、広告に出ていた「日本青年紳士」のアドレスへ私の推薦状を同封した一書を即日正確に飛ばしたものに相違ない。
 それから二、三日した夕方だった。ベントレイ婆さんが顔色を変えて私たちの部屋の戸をあけて、広告主の日本人が来たから、出てきてこんどはひとつ大いに口で推薦してくれという。何しにまたやって来たんだろう?――といささかいきどおしく感じながら、ヴァレイ夫人を先に立てて、私が別室へ行ってみると、這入った拍子に、ひとりの色の黒い小さな青年が、ぴょこりと椅子を立っておじぎをした。それが小野さんだった。
『やあ! どうですな、このうちの待遇は? お手紙で見るとあんまり感心しないようですが――。』
 ちょっと挨拶がすむと、小野さんはもうじろじろそこらを見まわしている。ベントレイ婆さんは心配そうに小野さんの視線を追いながら、しきりに表情で私に推薦をうながす。が、その哀願を完全に無視して、こうなれば私も日本語だ。
『失礼な手紙をさし上げましたが、どうもこのお婆さんが書け書けといってきかないもんですから――駄目ですよ、こんなうち。なっちゃあいないんです。』
『そうですか。この婆さんはまた無理なことを言いそうなやつですね。白紙やるから文と読め、ですか。はははは、が、白紙じゃあまた承知しますまいしね。それでもこいつ喜んでたでしょう? てんで何が書いてあるか解らないんだから。』
 ここに到ってか、てんで何を言い合ってるんだかわからないもんだから、お婆さんは一そういらいらしてくる。それでも、社交性のために表面は上品にかまえてにこにこしていなければならないのが、私にとってはなお面白い。
 さんざん日本語でベントレイお婆さんとお婆さんのいわゆる「わたしの家」とをこき下ろしたのち、いずれどこかこの近くに移るつもりだから、また会うこともあるだろうと言って小野さんはさっさと帰っていった。帰りがけに小野さんがベントレイ夫人に言っていた。
『この方――つまりかくいうヴァレイ氏――はお前が「今まで聞いていたとおり」言葉をつくしてお前のところをすすめてくれるけれど、残念でたまらないのは、お前の家に電話のない一事だ。私は、仕事のうえから電話のない家に住むわけにはいかない、私のビジネスがそれを必要とするから。この点、よく諒解あらんことを望む。では、さよなら。』
 ベントレイお婆さんは一言もなかった。
『おおいえす・ぐっどばい!』
 なんかと小野さんのうしろ姿にひどく口惜くやしそうだった。
 私たちのあいだに当分小野さんの噂がつづいた。小野さんは、若いながらも神戸の一輸出会社の倫敦ロンドン支店の支配人だった。そう名刺にも書いてあるし、あの短時間の会話に、小野さんはこんなことを話して行った。
『私が日本を出て来るとき、重役のひとりがこういう言葉をはなむけしてくれました。日本人たることを光栄とすべし――というんです。簡単ですが、海外ではこれ以上のモットウはありませんね。私はそのときただぼんやり聞いていましたが、今から思うと、その重役はなかなかどうしてえらいですよ。日本人に生れたことを心から光栄とし感謝する。私はすべてこの意気でやっています。』
 そういう時の小野さんにはいかにも若い日本人らしい「色の黒いたくましさ」が見られた。私たちは何となく頼母たのもしい気がして、この「毛唐ずれ」のした小野さんと、彼の、機智に富んだベントレイ夫人への断り文句などを毎日のように話しあっていた。
 そうして間もなく、根気よく散歩に出てさがしているうちに、とうとう私たちもこれならという家を見つけて、さっそく引っこして行った。パレス街の近辺で、ベントレイお婆さんのところからみると一段高級なプライヴェイト・ホテルだった。
 移った日、私たちが夕食に階下したの食堂におりていくと、はじめてなので案内してくれた主婦のチャンバアス夫人が、食堂の入口で私たちをふりかえった。
『このなかに一つの驚きがあなた方を待っていますよ。日本の紳士が一人泊っておいでなのです。』
 戸があくと、いぎりす人ばかりの、広くもない食堂の隅に、いかさま日本人たることを光栄としているらしいひとつの黄いろい顔が、若いくせにおちつき払って、今やその口へ大きな肉片にくきれを押し込み終ったところだった。
『やっ! こりゃどうも――。』
 とナプキンを使いながら立ち上るのを見る、とそれが小野さんだった。
『とうとう脱出なさいましたね。いや、結構々々。え? 私ですか? 二、三日まえにここへ来ました。』
『待遇はどうです?』
『駄目です、こんな家。なっちゃいません。近いうちにまたどこかへ移るつもりです。何しろ、ここの婆さんと来たら慾張りで気が利かなくて――。』
 そうして、そばにつつましやかにほほえんでいるチャンバアス夫人をかえりみて、小野さんはひどく紳士的口調の英語に取りかえた。
『ヴァレイ氏夫妻よ! あなた方はいま、英吉利イギリスにおけるあなた方じしんのお宅へ帰ってきていることをはっきりと意識していいのです。それほど高くあなた方がここを評価アプリシエイトしても、それはしごくあたり前というべきです。なぜならば、このチャンバアス夫人は驚くほど親切な、おお! 何とまあ感嘆にあたいする婦人であるでしょう!』
 すわりながら小野さんは日本語でつけたした。
『ひでえばばあでさあ、因業な――いやはや、どっかいい家はないでしょうかえ。』
 五日ばかりして、小野さんのところへ小野さんが自分で打った電報が配達された。これはこうしちゃいられない――小野さんはチャンバアス夫人へそう言って、ひどくあわてて荷物といっしょに出て行った。どうも手ぎわのいいことである。
 小野さんは自動車をっている。だからそれへ蓄音機とタイプライタアと鞄五個と尺八と、小野さん自身とを積載して、小野さんは絶えずロンドンじゅうを泊りあるいているのだ。
 このとおり、小野さんはしじゅう下宿をさがしている。
 いまもどこかで新しい下宿を物色していることだろうが、小野さんの場合、それは単なる下宿探しというべく、あまりに多分の内的要求がうかがわれる気がする。無意識のうちに、小野さんはホウムをもとめているのだ。その衝動がつねに小野さんをうごかすに相違ない。
 ひろいロンドンに一人ぽっちの、小野さんは若々しい日本青年だ。
 小野さんは下宿を探している。
 自分では気がつかないながら、小野さんはどこかにて「待遇のいい永久の下宿」をもとめているのだ。

G・B・S


 ジョウジ・バアナアド・ショウは、樹間このまの白い小砂利道を踏んで私たちのまえまでくると、そこで立ちどまって、ポケットからはんけちを掴み出してちんと鼻をかんだ。
 碁盤縞ごばんじまのノウフォウク・ドレスに、無帽。長い赤い顔の上下に髪とひげが際立って白い。互いちがいに脚を絡ませるような歩き方、笑っている眼、太い含み声だ。
『仕事がありますので、ながくはお話し出来ません。ほんの五分、いや三分――さかんに時計を見るかも知れませんが、どうか気をわるくなさらないように。決してもうお帰り下さいというつもりで時計を出すのではありません。帰るのは私のほうです。時間が切れれば、勝手に廻れ右をして家のなかへ這入るばかりですから――さあ、何からお話しましょう――。』
 こう言ってショウは、ちょっと首をかしげて考えこむふうをした。
 観衆――それとも聴衆といおうか、とにかくみんな固唾かたずを呑んでいる。さきに言うのを忘れたが、俄雨にわかあめに降られて私たちの逃げこんだ常設館ニュウ・ギャラリイのスクリインに、ショウの「物を云う映画テレヴィジョン」がうつっているのだ。
 私たちは知らずに飛び込んだのだが、このショウの「話す実写」はじつにライフ・ライクで、倫敦ロンドンじゅう大評判だった。そのためこのとおりの満員である。
 翌日。
 これに刺激されて、私と彼女はホワイト・ホオル四番にタキシを駆った。ホワイト・ホウル四番館は、倫敦市におけるショウの文筆事務所のある、最高級の宏壮なアパアトメントだ。
 ところが、G・B・Sはすでに、遠く南フランスに最近新築した別荘へ避暑に去ったあとだった。





底本:「踊る地平線(上)」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年10月15日第1刷発行
底本の親本:「一人三人全集 第十五巻」新潮社
   1934(昭和9)年発行
※底本には、「新潮社刊の一人三人全集第十五巻『踊る地平線』を用いた。初出誌および他の版本も参照した。」とある。
入力:tatsuki
校正:米田進
2002年12月9日作成
2012年4月7日修正
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