手紙

知里幸恵




知里高吉・浪子宛(幌別郡登別村)
大正五年十月頃(旭川区五線南二号発信)


拝啓 しばらく御無沙汰いたしました。お父上の御病気は大分よくなったときいて私等ははじめて安心いたしました。秋も早やたけなはとなりまして四方の山は錦を着飾ってだん/″\涼しうなりましたから、きっと病気もよくなるでせうと私も昼夜祈って居ります。母上様も今年は御健康の由、いかもいゝあんばいに沢山とれておあしもたくさんとれゝばいゝと願って居ります。私も無事にて勉学をして居りますから御安心下さいませ。
新聞でも御存じの聯合共進会は八日から開かれました。教育展覧会も開かれました。区内各学校、上川支庁管内の学芸品が並べてありますからまことにりっぱださうです。私も二三日のうちに行って見ます。私の綴方も出て居ます。
昨日は区内小学校聯合音楽会がひらかれました。私は第五アイヌ学校の卒業生となってオルガン独奏をやりましたが意外 うまく出来ました。他の学校から出た生徒達は上手に唱歌をうたひましたが私等のアイヌ生徒も余程上手でした。幾万の見物人の前でするのでずいぶんほねおれたでせう。私なんか間違はないで弾いてしまってみんなに手をはたいてほめられて、ほっとしましたわ。かういへば、いかにもうまさうにきこへませうが実はハボから見たらほんとに下手なんで御座いませう。いつかお話した東京ママ立体操音楽女学校を卒業して旭川高等女校の唱歌教師をしている鈴木先生の独唱もきゝました。旭川に一人の先生の声をきいたのですから余程光栄だといはなければならないのださうです。それで閉会でした。でも面白うございましたよ。
男先生の尺八だの聞いてゐたら、もうはらわたにしみこむやうな気がしますの。イスレキをぢさんのふゑより少しよかったやうでした。
これで音楽会のはなしはよしませう。
此の間から集めた砂糖一樽、お父上に差上やうと思ってゐましたところ父上様には悪いと聞いて仕方がありませんから、残念ながら高央と真志保におくりますから父様のかはりとなって食べて下さい。キリブもらったからハボにあげやうと思って砂糖と一しょにしまっておいたら、ふち知らずに戸棚をあけておいたので猫がたべかけました。それをまたふちが見つけてキリブをもって来てまた、アクの中へまちがって、おとしてしまったの。それでとう/\だめになってしまったのですもの。また見つけてあげませう。
さらばさらば。父上様お身をお大切に早くなほって下さい。ハボも大事にいかさきして下さい。
さよなら
暮れゆくまどにて
幸恵
  母上さま[#「上さま」は「母」と「父」の二行の中央]
  父
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知里高吉宛
大正六年四月一日付(旭川発信)


拝啓
まへからしばらく御心配下さいました旭川区立職業学校受験の結果は、幸に四等にて合格いたしましたから何卒御安心下さいませ。タイムスで御覧になることでせう。
さよなら
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知里高吉・浪子宛
大正六年四月一日付(旭川発信)


拝啓 この度区立女職校に入学いたします。(タクサンオイワイシテチョウダイナ)戸籍抄本が是非要るのですから、お手数ながら何卒四月の九日までにお送り下さるやうに願上ます。もし抄本がなければ折角四等で合格しても何にもなりません。入学も何も駄目になりますから何卒くれ/″\お願ひ申上げます。三日か四日か二日にはきっとタイムスにも出るでせうから大きい目をうんと開けて御覧下さい。先づ先に『此の中に第四位にて入学せる知里幸恵は旧土人なり』って書てありますからハボなんか目ひっくりかへして腰ぬかすかもしれませんからお気をつけなすって。ふち早く来ればいいな……。
九日に戸籍抄本をもって行くのですからそれにおくれゝば困りますから、どうかかはいさうに思って早く送って下さい。高央、真志保、御べんきょうなさい。お願い申しあげます。
(百十名の中で四番ですからえらいでせう)
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知里高吉・浪子宛
大正七年五月頃(旭川発信)


ひさしぶりでまた長いながい手紙を書きませう。明日は荷物を送るといふのでふちも母様もお土産をたくさん出していそがしさうで御座いますけれども、私には何も土産がありませんので相変らず長い手紙を贈り物にいたします。それは、父上様や母上様が何よりもおよろこびなさると私は信じますから。……
只今学校から帰りますとお端書を拝見いたしました。さうして涙の出るほど嬉しう存じました。何卒早く夏休みが来ますやうにひたすら祈ってゐます。
高央と真志保と一しょに行かれたら……私はこよなき幸福ですもの。
今日はお土産はありませんけれども、今度夏休みに参ります時はどっさりいろ/\なおみやげをもってゆきます……今から暇々に仕度をして居ます。
母上様の御注文の銀貨入は暇々に編んで居ますがまだ/\出来さうもありません。それも夏休まで待って下さいませ。父上様のおみやげは大体そろひました。みさほちゃんのお土産もたくさんもって行きますよ。
みな様はきっと私の日常のようすをきゝたいで御座いませうからこれからおはなしいたしませう。これから八月におあひするまでは手紙を書く機はないでせうから…‥。
朝は四時前後におきて夜は日が暮れたかくれない中にやすみますし。朝おきて窓をあけますとあたりは朝の新鮮な空気が一ぱいに流れて、をちこちの人家からはうすい煙もなく石狩川の流れの音が気持よくそよ風におくられて微かに耳に入って参ります。白い頭巾を被った旭ヶ嶽が春霞を漏れて気高く立ってゐます。青みかけた旭公園の園内につゝじのまあかなのと桜のましろいのとがいろどり美しく咲き揃ったのを後にして、朝の心地よい春風に吹かれながら学校さして私はてっくら/\と急ぐので御座います。
学校では生徒が三百八十人、先生が十四人で何不足なく勉強が出きます。けれどもこの頃非常に悲しいことが出きました。
それは、私等二年甲組の学級(裁縫)主任の玉橋先生と申上げる先生は此の度お生れ故郷の新潟の父上様がおなくなりになったのです。そしてすぐに先生は新潟へおたちになりました。その日は今週の月曜で然も私等がお割烹の時間で御ざいました。
玉橋先生が見えられて『私の父がなくなりまして急にくにへかへることになりました。みなさんのそばをはなれてゆくのは心許ないけれどもやむを得ませんのですから、おとなしく外の先生にめいわくかけないやうにべんきやうをして下さい』とおっしゃってみんなに別れを告げられた時、私共はわーっと声を上げてなきました。玉橋先生も割烹の先生も……。
そして居る中に大事なふきの煮つけがこげついて大騒動をいたしました。これから三週かんばかりはお母様のおるすの子供等のやうに、私共はたのみない悲しい思をして先生をお待ちしなければならないのです。けれども諸先生は非常に御同情下さいまして、万事の世話をして下さいますので何不自由なく学問を修めて居ります。
校長先生は相変らずおやさしく私共を可愛がって下さいます。毎週一回修身を教へて下さいます。
教頭の松丸先生も亦相変らずいゝ先生で、毎週二回の体操を赤いおひげを撫でながら教へて下さいます。それであざなを赤ひげ先生と申上げます。次の石田先生は今学期の始にお出になった先生で理科と数学を教へて下さいます。非常にきびしい先生で、怒るときは教室もつぶれるかと思はれますほどおそろしいけれども、みんながおとなしくべんきやうするときはおやさしくておやさしくて、それは/\慈愛のふかいお父様のやうな気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども……私はかへって石田先生が一番好きだと思ひます。今日は数学の試験があって私は満点でありました。
それから原田先生であります。この先生はつい先程お出でになった先生で国語の受持ちであります。滑稽でこっけいでほんとうに面白い先生で御座います。国語の時間に唱歌を聞かせて下すったり、詩を唄ったりお経を読んだり踊ったりしてみんなを笑はせなさいます。そして国語を面白くいたしますので、決してあきることがなくてよくわかるので国語の成績はみんながいゝのだといふことです。丈のひくい肥った先生。
次は平岩先生、女の先生。もう五十をすぎたおばあさまで大変にいゝ先生です。袋物を教へて下さいます。
それから本間先生は図画、割烹、作法の先生です。中にも図画はお得意でいらっしゃいます。小さくて可愛らしい先生です。
此の間、私の図画は『甲よろし』でありました。級中で一ばんでありましたからおよろこび下さいまし。高等師範優等出身ですって。
次が前にお話しした玉橋先生です。
それから古宇多先生、二部専ママ科の主任です。
それから次が岡本先生、一年甲組の主任で私等は編物を教へていたゞいて居ります。顔形は悪いけれど大変にいゝ先生で御座います。
次は小泉先生、造花の先生で補習科の主任でいらっしゃるけれども、只今御病気で二三日休んで居らっしゃいます。東京の神田女子職業学校出身ですって。美人でおやさしい先生で御座います。
次が別諸先生、二年乙組の主任です。今学期の始めにお出でになった先生です。この先生はよく知りません。が、いゝ先生らしいです。
次が小橋先生、それこそきれいな先生で一年乙組の主任です。きびしくてやさしい先生ださうです。私等はこれから家事を此の先生におならひすることになりました。
次は島崎先生、一年の時の主任の先生でした。今は学校全体の刺繍の先生です。
次が米子先生、こゑの可愛いゝ先生でお年は四十五六と思はれます。
このやうに先生方はいゝ先生ばかりで御座います。宮本永二先生は三月まで国語、音楽の先生をしていらしたのに、三月の末に退職をなさいました。色の黒い先生で、精神家でそれは/\やさしい、いゝ先生でありました。そして熱心な基督教信者でいらっしゃいました。ですから私は一番すきでしたが、おやめになって此の間東京へお上りになりました。八月頃まで東京にいらしてそれから亜米利加へおわたりになるさうです。
さうして音楽を研究なさるのださうです。
それから小使さんは二人、給仕が小娘一人、で私の学校はます/\さかえて参ります。
去る十五日は三周年ママ念式があげられました。その日の祝賀会には私は対話に出ました。
もう夕御飯を食べますから、明日の学校帰りましてから書く事にいたします。
御やすみなさいませ

今日は四時半に帰りました。
日本晴の好天気で、涼しい春風がサッサッと袂を払ふ心地よさは何ともいへないほどです。朝晩一里半近くずつあるいて居ますので身体が至極達者であります。
今日は授業が五時間しかないのですけれども副級長の当番で御座いますので、お掃除の監督をしたり先生の御用をたしたりいたしまして帰りがおそくなりました。四月十八日付で今学期間の副級長の辞令をいたゞきましてから随分いそがしくなりました。金曜と土曜がお当番です。仕事は朝学校へ参りまして今日の時間当番、掃除当番を決めて黒板にかいて掃除のあとをしらべます。昼休、放課後には生徒が先生に製作物を出すものや、その他生徒が先生に言ひたいことなどを職員室へ行って出したり言ったりします。
級長様は伊達といふ方でほんとうにやさしいいゝ人です。此の人は此の度二年になる時に特待生になった方です。大へんに私を可愛がって下さいます。副級長は国本と云ふ方と私と二人で勤めて居るので御座います。私共三人の責任は頗る重大なのですから、よくその責任を自覚して一生懸命働かうと相談しまして、常にその覚悟でつとめてゐます。
生徒は、補習科は本科三年を卒業した人が入るのです。本科は学科も技芸も等分にあります。只今は本科一年甲乙二組、二年も甲乙、三年は一組になってゐます。外に一部専修科二部専修科があります。二部専修科は一部を卒業した人が入るのです。二部を出ると補習科へ入られます。かういふやうに全体で八級あります。
この生徒たちは雨ふりの時は室内運動場で遊んで居ますが、晴天の時は戸外に出で遊びます。戸外運動場には桜が沢山植えられてあります。学校のまわりには落葉松が若葉に包まれて青々として、それに色白い桜がいろどり添へて立派な校舎にふさはしく見えるので御座います。かういふ学校に学ぶ私はまことに幸福で御座います。これも神様の御恵と感謝してゐます。
登別の春はどんなにかきれいでせう。登別の春の海はどんなにのどかでせう。春雨のソボ/\と降るその景色も何んなに美しいでせう。うらゝかな春の日を浴びながら遊んでゐる高央の面影を胸に浮べて、どんなに大きくなったかと思ふてなつかしくてたまらないので御座います。景色のいゝあの小学校の校庭で元気よく飛びまわってゐる真志保のすがたも目に浮びます。おしっこたれのみさほ様もどんなにか可愛らしいでせう。操! 何といふいゝ名でせう。その名が私は大好きで御座います。
夏休みが楽しみです。もう六十七日ありますね。その間私はほんとうに奮励努力しなければなりません。学期末にどんな成績が発表されますやら……。お土産のお伽噺種々様々なおはなし、それから歌って聞かせて上げる唱歌などをどっさりためてゐます。どうして/\二年ぶりですもの。
今年もグスベリを沢山食べられるやうに祈ってゐます。私は海が懐しくてなりません。四方が山ですから何処を見ても木ばかり草ばかり家ばかり、見渡すかぎりはてしもないやうな上川平原は、それは/\いゝ景色ですけど、海がないのが何だか物足りないやうな気がいたします。
明日は日曜で、大掃除をいたします。
それはさうと家の猫の子の可愛いゝ事、お話にもなりません。昨日、お母様のお楽しみの婦人世界が参りましたからお手にとゞくのも近々でせう。
此方のお母様のいそがしいこと/\。五尺五寸四方の天鵞絨にいから/\してゐます。そして亦早いこと早いこと、話にもなりません。縫ひかけてから今日で五日になります。目が覚めるばかりきれいで御座います。
ふちは今猫四匹を相手に大騒ぎをしながら御飯拵へをしてゐます。此方ではよむぎが大変に大きくなりました。此の間ノヤシトをイタリヤ様からいたゞいて食べました。此の間まで二月ばかり砂糖がなくて、毎日々々砂糖ばかり食べたくてお母様におねだりをして買ってもらひましたから、のやのしとを拵へて食べたいと思って居ますが、とるひまがなくてこまります。その中に毎朝々々御飯にお砂糖をかけて食べるので、まだのやをとらぬ中から砂糖がなくなりはせぬかと心配してゐます。
それからまだ話があります。此の間非常な大変が出来ました。お母様から、もうお聞きになったでせうけれども私からも云ひます。
それは、もう少しで学校が焼けたことです。それは今月の四日未明の出来事でした。職業学校の直ぐむかひに※[#「仝」の「工」に代えて「旭」、屋号を示す記号、35-1]といふ味噌醤油醸造会社が燃え上りました。さあ大変、時は午前三時少し過ぎた頃、火の粉が[#「火の粉が」は底本では「火の紛が」]花火のやうに飛び散る。ワア/\とさけぶ人声は天地をゆるがせるやうでした。火消が飛ぶ、ポンプが幾つもいくつもあつまった。おお、此の会社は私の学校隣りにあるし、第四、第二の小学校、中学校、区裁判所、監獄に囲まれた位置にあるし、しかも二階建の大きな建物ですから、火勢はどん/\容赦もなく大きくなってくる。職業の校長先生が重い肥ったからだをてっくら/\かけつけたのは、もうあの会社の大きな建物がすっかり火になった頃です。相変らず火の粉が火になった板切れとまじって雪と降る、その中に職業学校が包まれてしまって……。
校長先生は狂気した人のやうに、ポンプを/\と声の限りポンプを求めました。しかし、ポンプは今働きの真最中ですから一つとして助けにくるものもなく、其の中にわーっと一人がさけびました。「職業の屋根に火がついたッ」と……。「あゝもう駄目だ」といふ人もある。「助けてくれ」「助けてくれ」
ねまきのまゝでかけつけた先生、髪ふり乱したまゝ飛んで来た先生方は声を合せて助けを求めました。しかし二階の高い所、非常な急傾斜をして居る屋根ですから、人々は只「アレヨアレヨ」とわめくばかり、叫ぶばかり……。屋根のへの焔はさながら悪魔の舌の如く南側の屋根を舐め尽さうとする。人々は気が気でない。危険は刻一刻と迫ってくる。職業学校の運はこゝに尽きるのであらうか? おゝ其の時、燃えてゐる屋根の上の棟に黒い人影が現れた。その時人々はアーと息をついた。先生方はあゝ神様と手をあはせた。
屋根のへの人影は段々段々火に近づいて、燃えてゐる傍へ片足を下さうとした。その時先生方の胸には亦一つ心配が出来た。『もしあの人があの急傾斜をなして居る屋根から一足辷ったら、あの人の命は如何なるでありませう』と。しかしその人は始めは少しためらふやうなやうすが見えたが、覚悟を決めたらしく悠々と構へてその燃えたつ焔に近くよって、無事に消してしまはれた。そしてこの勇士が再び棟に這ひ上った時、人々は『万歳』と一せいに叫んだ。先生方はほーっと安心の胸を撫で下しました。しかしそれも一時のこと、『屋根の火は消えたが、火は天井裏についた』と何処からともなくきこえた。『おゝ運動場の屋根に火がついた』と一人がよばふた。先生方はまた/\奈落の底、生きた心地もしなかった……。
その時また一人勇士があらはれた。片方ははだしで片方は白足袋をはいた勇士が……。つづいて四五名の若者があらはれた。運動場の火は消された。
その中にポンプが来た。ドシ/″\/″\屋根に水が注がれた。屋根裏の火も消えてしまった。会社の火も下火になって、もう危険はなくなった……。その時は四時半頃だったといふ。それまでの先生方の御心配はどんなでしたらう。始めは命を懸けて屋根の火を消して下すった勇士は其後誰であるか探しても/\まだ名前もわかりません。片足に白足袋をはいて運動場を消して下さったお方は誰でせう? それこそ以前申上げた宮本先生であります。その外の四五名の若者の中一人は怪我をしましたけれど、極く軽い傷で直ぐになほりました。火事の話は月曜日に先生方が変る/″\はなして下さいました。
かういふ大変が私の学校にあったのです。大事の始めは極くさゝいなことで会社の不寝番をつとめてゐた十八の若者が勤めを怠って眠っていた為だといふことです。火事の話がずい分ながくなりました。
これから夏休みまで手紙を書く事はないでありませう。まだ/\お土産やお土産ばなしを沢山集めて置きますから夏休みを楽しみにおまち(以下、脱落)
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知里浪子宛
大正九年五月十七日付(旭川発信)


大層長い事御無沙汰いたしました。どうぞ御ゆるし下さいまし。其の後は如何なったか、種馬の事もきゝたい/\と思ふてばかり居りましても悲しいかなや、身体が自由になりませぬのでつひ/\今日までになったので御座います。
御父様のおからだの工合は如何でいらっしゃいますか? 今日のお便りで承りますれば、御母様は頭痛で御苦の由、どうぞ/\御大切に遊して下さいませ。後の皆様は相不変御達者でなによりも嬉しう存じます。
先達参上の時分はずい分御厄介になりまして、おまけに咽喉をからして種々御心配をかけました事を幾重にも御詫申上げます。ほんとうに何時になったらば本当の健康体になって御両親様をはじめ皆様に安心をして戴かれるかと、情けなくなりますが、今は大層気分がよろしく自分で鏡を見ても顔色もよろしう御座いますから、遠からずすっかり安心して戴ける時期が参りませうから、決して御心配下さらないやうに願ひます。
谷口博士にみてもらひましたら、慢性の気管支加答児とかいふ病気で御座いますって……。肋膜炎はないので御座いますか? といふたら、ああ、ろくまくも跡はあるが、今は、ちっともその気はありません、との事でした。心臓病は決して心配はない、先天的のものであるから、根本的になほす事は出来ない、大変質の悪い方だが無理さへしなければ大丈夫だと、くはしく話をして下さいました。此の間は大分熱が出ましたけれども今では何ともありません。少しばかり衰弱したので、お医者様が滋養をとって、入浴をひかへるやうにと仰ったので、此の間から、卵を二十程もふちと二人で食べました。食パンを買ふやらジャムを買ふやら種々なものをたく山買ふて戴いて、それこそ自分でも気を注けて養生をしてゐます。御母様が思ふていらっしゃるやうな気弱ではありませんから、決して御心配なく御願ひ致します。
ふちも非常な重態でしたけれども、神様のみ恵で昨日今日は大層機嫌よく猫の子を相手に大さはぎをして居られますから御安心下さいませ。
なつかしい登別! その故里の地を発ったのは先月二十八日でありましたが、はや一月近くの日子がたったので御座いますね。さうでせうとも、私が来てからすもゝの花も咲きましたし、あやめの花も咲きましたもの……。
あの日我家をあとに立出でた時、ほんとうに何とも云へない感じに打たれました。常とは違ふ種々な事情のこぐらかったあの我家、それを思ふと、胸がつまってしまふたやうに思ふたのですもの……。ニッコリして立ってゐる真志保のかはゆい笑顔が見えなくなり、動き出す汽車と共に二三間も走りながら、姉さんさよなら、といとしくもよぶ高央の声も吹く風に消えてしまふて、いつしかはや登別の街もあの暗いトンネルをくゞると山の影になってしまふたので御座いました。
一しょに乗ったメリーさんが、これをかたみにとのべたピンを押戴いて敷生の駅で御別れすると、あゝもう今度こそは一人旅だと思ふと、無常に故里の空が懐かしく、遣瀬なさに睫の湿ってゐたのにあとから気がつきました。後の方にもたれかかって見るともなしに外を眺めてゐると、苫小牧の停車場でニシパの白いおひげが、銀色に風になびくのがチラと目にはいりました。それから乗り込んだのは日高の貝沢久之助をぢさん。
話をしても声が出ないので、丁度ニシパが二等車にお出でだからお祈りをして貰ったらよからうと、そのをぢさんの御親切で、ニシパに御目にかゝりました。
汽車の中では都合が悪いから今夜は私の家へ、と、ニシパが仰って下さいました。かくて私は夢にも思はなかった札幌の駅で下車いたしました。其の日は手紙を読んだり書いて投函しに走ったりして暮れました。丁寧に診て戴き、御祈りして戴いて、懇な御もてなしを受け、其の夜は丸山コリミセと云ふコックのばあさんのお部屋でお宿を借りる事になりました。砂糖湯を飲んでねると直ぐからそのおばあさんは心地よげにすや/\/\と眠りました。ところが、敷いて貰ったお床の上に疲れたからだを横たへた私は、自分の呼吸をかぞえたり心臓の鼓動を数えたりしても、どうしても眠れないのです。時計のチクタクばかり耳について眼はいよいよさえるばかり、時々おばあさんがゴホゴホとせき入る時は、起してお話でもしやうか、と思ふたりいたしました。外には月が出てゐるのでせうが、おへやの中は真っ暗闇、それでもそこにぶら下ってゐる電燈の白い笠を見つめてゐる中、いつかうと/\とまどろむだのでありました。ところが私の後の方で、幸恵さん幸恵さん、ときれいな声がきこえますので、そちらをむき直って見たところが、七つか八つの男の子が、あらい絣の着物をきて、かはゆい顔に笑くぼをつくってニッコリしてゐるので、私はびっくり、誰方? 彼は答へました。あのね、あたしはワルデンガーラの子ですよ、と。おやさうですか、とは申しましたが、ハーテな、ワルデンならば、今朝、私が来る時にうまやへよってさよならをした馬なのに、それに種馬の資格もないと云ふ話なのに、どうしてこんなきれいな子を持ってゐるのか、と、首をひねって考えました。これはをかしい、と今一度その子を見なほすと、コハ如何に。彼の小童は身体はもとのわらべながら頭はいかにもワルデンの如く、しかも大きな其の眼光は爛々と輝いて私の全身を射るが如く、額の星は大きな穴のやうにくぼんで、真赤な口をあいて今にも私を飲まんずありさま、ヒヤア、これは大変、逃げんとすれば、両足は棒のやうになって一歩も動かず、助けを求めんには声が出ない。さうかうする中にかのばけものは一歩一歩近寄るかと思へば、反対に後退りをして、後の柱にドンとつきあたった其の音でハッと気がついたら、あたりはまっくら、これは不思議とよく見れば、私は相不変コックさんのそばでねてゐたのでした。試に足を動かして見ましたら幸に足は自由でした。耳をすますと何処からとも知れず、犬の悲しげな遠ぼえがきこえてゐました。枕もとの手拭で汗をふいてもう一度ねむらうと思ひましたが、どうしてもねつかれず、其の中に時計はゴーン/\と二時を報じました。何事も考えるまいと思ふても、種々な想は水のやうに昔にわき今に流れて其のつくるところを知りませんでした。かくてとう/\夜は明けて、四時半になるとコックさんと一しょに床をはなれました。ほんとうにこんなつまらぬ夢の為に一夜をねむらずにすごしてしまったのが馬鹿らしくてなりませんでした。ふしぎに声はスラ/\と出ますので、神様の大いなる御力と、深く/\感謝して再びニシパに祈りをして戴き、ニシパにもカッケマッにも深く御恩を謝して御宅を立出でたのは六時頃でしたでせう。六時三十五分の汽車に乗って、近文へは十二時過ぎに到着いたしました。珍らしく車中も客がすくなくゆったりと腰をかけて瞑想をつゞけながら無事に参りましたので御座います。御土産のシクトツは非常にふちも母様も喜ばれました。ふちは病床にふしていらっしゃいましたので、暫し私は身をやすませてから再び出直してその荷物をとって参りました。
御かげ様であちらこちらへおわけして皆に喜ばれました。其の次の日に直ぐ手紙を書かうと存じましたけれど、疲れたのか医者へさへ行く事が出来なかったのです。さうかうする中にいつしか四もの緑の色が眼に鮮かにうつるやうになりました。先日此の部落で、十八になる娘さんがなくなりました。小学校にゐた時分は同級で、ほんとうに温順な人でありましたが、嫁いで間もない時にもう死んでしまはれたのです。十八といへばまだ蕾の花の開きかけたばかりですのに、まだ春浅い中に散ってしまったかね様のお母様方の御悲嘆は何んなでありませう。シズクの雨がそぼ降る日、なきがらを納めた白木の棺はしづ/\と緑ふかい高台の墓地へと運ばれました。何も知らないらしい妹さんが白い着物を着たのが嬉しいのか、晴やかな顔して棺のそばを足どりいそがしくゆく姿を見た時、思はず涙を流しました。あはれ、やさしかりし友のミタマは今よみの国に安らかな眠りを続けて居られる事でせう。
其の後、谷先生は如何遊したで御座いませう。どうかして御平癒なさるやうに常に私等は御祈りしてゐます。
登別でも此の頃は雨がつゞいて嘸鬱陶しい事で御座いませう。それでも登別は雨の日の景色はまた格別美しいでせう。やはり故里は懐かしう御座います。夜もすがら枕もとにきこえる波の音、それは此の地では夢にもきく事が出来ないのですもの……。
広い此の原野の春もまた趣が多う御座います。御天気のよい日、部屋の中央マンナカへ机を持出して、それにもたれてだまったまゝ種々な事を思ふ時、あけてある窓から訪れる春風は羽織の裾をハタ/\とうごかして、机の上の書物の頁をハラ/\と繰っては何処へか去ってしまいます。群青に晴れた空を仰ぎながら操子の愛らしい面影を偲び、あのかはゆい声をきゝたいと耳をすますと、空に浮ぶ真白い雲のふところで雲雀がほがらかに歌ふ声がきこえます。
昨日は一日雨が降って、午後は風さへ加はって暗い冷い日で御座いました。母様が、三時頃から床をしいてねてしまった後で、やはり此の机にもたれて外を眺めると、樹々の翠が滴るばかり、降りそそぐ雨は緑の露かと見えました。あまり家の中にばかりゐてはと思って先日其処らの田圃をあるいて、あぜに咲いてゐた白いすみれを片手に余るだけ摘んで参りました。小さい愛らしい此の花は、今も私の机の上でゆかしい香をはなって居ります。出来得るならば私がとった此の花の香をたく山びんに入れて、御父様や御母様の御許へ送って上げたい心地がします。
来年の今頃此の白いすみれが、あのあぜに一ぱい咲く時は私もまた丈夫なからだになってピン/\飛廻る程、快活な人になりませうと、私は此の小さい花にかたく/\ちかったので御座います。
畑の方もさだめしお忙しくいらっしゃいませう。あの私がまだ居た時分に蒔いた豌豆がもう出かゝったのですか? 外のものはまだまかなかったら時期がおくれるぢゃないですか? 此方では大概皆すんだやうです。
うちの畑はまだ誰も耕して呉れません。
種馬は来てゐるのですか。名前をすっかり忘れてしまいました。ヘボコニデルでしたか? 先日道雄さんからの御葉書で種馬の事につき伯父様が札幌へいらしった事をききましたが、如何なったのかと心配してゐます。心配したからって、その為に身体を害するやうな弱むしぢゃありませんから御気にかけないやうに……。
あゝそれから、此の間少し気分のよい時に温泉の奥様に礼状を丁寧に書いて出しましたから御安心下さいませ。
私の学校では先に松丸乙近と云ふ教頭の先生が函館の師範へ転任なすったさうでしたが、先日また、本間重と云ふ高等師範出の女教師中の上位の方が退職なすって小樽のお宅から私に宛て長い御見舞状を下さいました。それに驚いて、温泉の奥様のと一しょに御返事を差上げたところが其の次の日にまた私に葉書が来て、見るとそれは、御存知でせう、二年生の時から卒業するまで私等の主任であった玉橋先生、本間先生の次位の先生がおやめになって、郷里なる新潟県へお帰りになる途中、汽車の中で書いて下すったものなのです。
ほんとうにいゝ先生ばっかり母校を去ってしまはれて、母校はどんなに淋しくなったかと思ってゐましたが、此の前に病院へ行った時、職業の生徒、二年か三年の名前も知らない人に出会って、其の人からきゝましたが、三人の先生がおやめになって、代りにまたりっぱな何とかかんとか仰るえらい先生が五人もおはいりになったといふ事です。本間先生からの御手紙には、人間は、神様にあたへられた才能のすべてを発揮する事が最も大事な事である。いかに自分の能力が、人よりも劣ったものであっても笑はれてもけなされても、自分のもってゐる全部を表す、それがほんとうに大事な事で、それをするのは、金銭を得る為でもなく名誉を得る為でもない、人間の使命を果す為に努力するのであります。ところが病気をすると、自分の為すべき事が思ふやうに出来ないから、それは神の聖旨にかなはない、自分の使命を果されない罪になりますから、知里さんも早く達者におなりなさい、と、長々と書いてありました。
玉橋先生のおはがきには、病気の時は落ついて養生しなければならない、知里さんは気をしっかりもって外の事をくよ/\心配せずに養生すればきっと早くなほるからだです、などと書いてありました。
何の先生も旭川を去るにのぞんで数ならぬ私を、御忘れもなく御便りを下さいます事を、私はほんとうに涙とともに感謝いたしました。
此の間鎌田先生と仰る男の先生がいらしって、病気はどうだね、などときいて下すって、十五日は記念日だからぜひ来たまへな、と仰って下さいましたが、一昨日は行く事が出来ませんでした。十七日に清潔検査があるといふのでその日は少しうちの前の草をむしりながらはるか学校の方の空を仰ぎ、万歳々々といふ記念日の唱歌を歌って芽出度い母校の誕生日を心から祝し、将来千代八千代に栄ゆくやうにお祈りをしたので御座いました。
鎌田先生は国語の先生で、文章体や候文の大嫌ひな方です。誰も道で出会って、「毎度御厚情万謝奉候」などとかたっ苦しい事をいふ人はないだらう、だからこれからは、すべての文章が口語体になるのだ。この忙しい世の中だから、毛筆は早晩すたれて、何でもペン書になるのだ。さうでなくちゃ日本の文明は進んだとは云はれないと仰る先生です。
御存知でせうが、本間先生は図画のお上手な理想の高いやさしい上品な方で、私はいつも図画や編物の外に作法をおならひした先生です。玉橋先生は二年の間、母子の間柄で、私はよくかはいがっていたゞきました。
ほんとうにおやさしい方でしたから、私の組は学校中でも、一ばん内気なおとなしいやさしい人が多いといはれてゐました。やはり高師出身で、本間先生の次位です。
御別れの時、本間先生は、しんみりとした調子で、種々御話下さいましたし、玉橋先生は卒業する私等を送って、さらばさらばの唱歌をうたふて下さいました。
もうふたゝび、あのおやさしい御言葉をきく事も出来なければ、あの御美しい御声をきく事も出来ないのです。私はあれから歌ふにも声が蚊の鳴くやうな声なので、ほんとうにいま/\しくてたまりません。
今は殆んど旧に復しましたが、いつも首をほうたいして咳嗽薬を常住つかって居ります。気管を大分わるくしたのでせう。姉さんから其の後御便りがありまして? 津屋さんは如何なすったでせう。
浜のふち、伊悦さんのお母様、お隣の伯父様、伯母様、初枝ちゃん等、皆々様にたく山/\よろしく。来る時には伯母さんがまだ寝ていらしったから何も申上げないで参りました。
みっちゃんと二人でタマピルを取りにあるいた事を思ひ出すと一人でほゝえまれます。高央、真志保にもうんとよろしく。うちの小梅は嘸きれいに咲いた事で御座いませう。姉さんがゐる中にきっと咲くから見て行きなさいと高央がいつも申してくれましたが、とう/\見ないでしまいましたね。今年も御母様、梅をつけておいて下さいな。病気の時は梅干がいちばんよろしう御座いますよ。
高央、真志保とはっくりやうどを取りにあるいた当時の楽しかった事がそゞろ思ひ出されます。
今日は雲が低くたれて風は冷く、時々雨がサーッと降ってはやんでゐます。射的場の方へはひっきりなしに射撃の音がド……ときこえます。時々大砲がドーンと大きな音をさせては、いとゞ大きな私の眼を皿のやうにいたします。ではこれでペンをおきます。また此の後沢山申上げませう。
末筆失礼ながら広瀬様によろしく御伝え下さいませ。御父様も御母様も皆々様御自愛専一に祈り上げます。
机上のすみれはかはゆくうなだれて、たえずかすかにゆれて居ります。
   五月十七日
さやうなら
幸恵より
  御父上様
  御母上様
     御両所へ
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金田一京助宛(東京市本郷区森川町一)
大正九年六月二十四日付(旭川発信)


先生度々綺麗な御はがきを下さいましてほんとうに有難くふかく御礼を申上げます。御はがきは先週の土曜に戴きましたけれど小包は今日着きましたので、つい御無沙汰をいたしました。私の病も此の頃では別に苦しい事もなく暮して居りますから御安心下さいませ。
私はローマ字を学校では教はりませんでしたので読むにはよみますが書く事が出来ませんのです。それで此の間から練習をして居りますがなかなか書けません。今暫くして少し書けるようになりましたらすぐにアイヌ語を書く事にいたします。私は後世の学者へのおきみやげなどいふ大きな事は思ふことも出来ませんけれど、ただ山程もある昔からのいろ/\な伝説、さういふものが、生存競争のはげしさにたえかねてほろびゆく私等アイヌ種族と共になくなってしまふことは私たちにとってはほんとうに悲しい事なので御座います。ですからさういふ事を研究して下さる先生方には、私たちはふかい/\感謝の念をもっているので御座います。私の書きます中のウエペケレの一つでもが先生の御研究の少しの足しにでもなる事が出来ますならば、それより嬉しい事は御座いません。そのつもりで私の知ってゐる事は何でもオイナでもユカラでも何でも書かふと思ふて、それをたのしみに毎日ローマ字を練習して居ります。あのノートブック一ぱいに書きおへるまで幾月かかるかわかりませんけれどきっと書きます。
此方で変った事は、先生も御存知の谷平助さんが先月下旬永眠いたしましたのです。幌別教会に居りましたが、妻やたく山の子供をのこして逝きましたのでほんとうに気の毒で御座います。それから向井山雄さんは四月二十五日に結婚をしたさうで御座います。其後私たちは何も変りもなくフチも頗る元気で毎晩ユーカラをきかせてくれます。卒業の時は美しい絵葉書を戴きまして私たちはみんなで拝見いたして何んなに嬉しかったかわかりませんでした。今年は先生はいらっしゃらないので御座いますか。何卒御体を大切になさいますやう、フチも母も祈って居ます。
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金田一京助宛
大正九年九月八日付(旭川発信)


先生先達は激しい暑さにもかゝはらず御手紙を下さいましてほんとうに有難く深く御礼申上げます。直ぐに御返事申上げよう/\と毎日思ひ乍ら今日まで御無沙汰に打過ぎまして何とも御わびの申上げやうも御座いません。何卒/\御ゆるし下さいますやうに幾重にも御願申上げます。実は私卒業後祖母が病気にかゝったので御座います。フチはもうとしよりで御座いますから一時はどうなる事かと心配いたしました。死んだり生きたりしてやっと今ではよくなりました。ところが今度は母が例のリョウマチスで体の自由を失ひ、ドッと床に就いてしまいました。私も卒業以来引続き医薬を服用いたして居ります。私も祖母の看病の疲れや何かでよくなったり悪くなったりいたしましたが、秋風が吹くやうになりましてから祖母も元気ですし、私も気分がよくなってまいりました。遠からず母も床を払ふ事が出来るだらうと思ってゐます。ローマ字は少しなれました。先生の御手紙によりまして、自分の責任の重大な事を自覚いたしました。今度冬仕度がすみましたならば専心自分の使命を果すべく努力しやうと思って居ります。先ずは取急ぎ御ぶさたの御詫をかねて近況を御報知申上げます。フチからも母からもポロンノ先生によろしくと申しました。
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金田一京助宛
大正十年六月十七日付(旭川発信)


先生引つゞきお美しい御はがきをいたゞきまして本当に嬉しう御座いました。深く御礼申上げます。あのウタリクスを多大の興味と御同情とを以て御読下されましてほんとうに有難う御座います。先生が御読みになります分は、これから私が毎月よろこんでお送り申上げます。昨年の十二月から出たのですが、十二月、一月のはもう売切れまして札幌にもありませんそうで、二月は何かの都合で休刊になりました。三月号と四月号だけございますから、今日お送り申します。これは各地の小学教員や、官吏の方や有珠ではお寺の坊さんまでが読んで下さいますそうです。此処でも隣の先生方と部落の四五のアイヌが読んで居ります。十五冊来るのですが、耶蘇嫌ひの人が多いものですから買ふ人が少くていつも余りが出来るので御座います。片平さんは山雄さんの弟で親戚の家を継いだので姓が違ふのださうです。まだ二十一位の若い人で御座います。これから此の誌上にいろ/\な人が出て来るだらうと思ひます。フチも母も先生によろしく申しまして御座います。
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知里高吉・浪子宛
大正十一年四月九日付(旭川発信)


大そう暖かになりました。御両親様定めし御壮健にて御活動の御事と存じます。高央さん受験成績ハ如何で御座いますか。お案じして居ります。
真志保は運よからず中学へははいられませんでしたが無事高等二年に昇級、孜々として奮励勉学に余念ない様子で御座います。覚悟の事とて不合格も別に失望憂色の程にもならず、相変らずの爽快な笑顔にてキビ/\と日を送ってゐます。昇級の時は一部優等にて英語読方の特別賞状を持って参りました。英語は殊の外お得意にて試問答案は百点以外の点数をとった事は一度もありませんでした。たゞ数学にハあまり興味を持たないのか、さっぱり思はしくないので心配しましたが、此の度の中学入学受験予習のおかげで大分頭が鍛へられて少々難かしい問題もたやすく解かれる程度に進んだ様ですから、此の分ならば本学期末あたりから、もう大丈夫だとよろこんでゐます。体重も昨年の今月よりハ一・六五〇貫増し、身長も一寸何分とか加ったよし、意気揚々たるものであります。あたゝかい春風に吹かれて真志保も私も赤銅色になりました。雪はまだ二尺ほどもありますが、それでも、其処此処に点々と雪の消えたところに黒い土の中から淡い緑色した草の芽がもえてゐます。朝早くから春空の音楽家、雲雀の美しい声がきこえます。ぼんやりとした鰊模様の空から時々ヒラ/\と舞落ちる淡雪も何となく春めいてゐます。登別でハもう何かの花が咲いてゐるのでハありますまいか。春の海の景色の偲バれて故郷なつかしの情にかられます。
御両親様さぞおいそがしう御座いませう。鶏も兎も沢山でにぎやかで御座いますね。操ちゃんのしもやけはなほりましたでせうか? 此方でハ真志保のしもやけは、春がきてもまだ消えやらぬ雪のそれと同じに、まだ足袋をぬぐ時に顔をしかめる事があります。然しそれもだん/\しかめ顔の皺が日一日と少くなってゆきます。フチは、登別へゆくと云ふのでいそがしい/\と気を揉んでゐます。
此の間申上げました私の上京について申上げますが、お父上様は御不賛成だといふ事で、私たいへん心細くなりました。何卒後生のお願ひですからお父様御賛成下さる様におねがひ申上げます。上京と申しましても別に大へんな野心があってでハ無いのです。金田一様のお家へ行って、奥様のお手許で裁縫でも台所の方にでもお手伝ひして、傍ら金田一先生のアイヌ語研究のお話相手をするのです。べつに身体を動かして大して気を労する事でもありません。東京見物でもして、気をかへて見ようと思ひます。今は平和博覧会も開かれてゐますから一生の思出のたねに旅行をして見たいと思ひます。東京の気候が私のからだによくないならバ、一月ででも帰って来ればよいと金田一先生も申されましたから。そして、よかったら、長くゐれバいゝさうですから、先づ見たいので御座います。折角の此の機を逸したくないのです。
たゞ目下は花見時とやら、それに平博見物人の為に未曾有混雑で函館桟橋あたりでは大へんだといふ事ですから旅の途中がひどいから皆様に御心配をかけますが、人がゆきゝする所ですから、私も何うかうんと注意して思切って旅に上りたいと思ってゐます。神様がお守り下さる様に祈りつつ……。
ほんとうに弱むしの私は、何につけても御両親様はじめ皆様の御心配の種になって不孝を重ねます。大変な望みをおこして御両親様に当惑をおさせ申しまして、ほんとに済まない事で御座います。が、ほんとに、此の度だけ何うぞお願ひをお聞入れ下さいまして、不孝な娘の望みを達してやって下さる様にお願ひ申上げます。ちょうどフチが、此の度帰ると云はれますからお送りして、登別へ参ります。少し都合がありまして三十日のを二十八日に決めました。そして、お家から東京へ立ちたいと思ふのです。
何卒御父様右の儀御賛成下さいます様、謹しんでお願ひ申上げます。今、アイヌ語民譚集といふものを書いてゐます。此の原稿が書き上ると、炉辺叢書とかいふののうちの一冊として、金田一先生のお世話で出版して貰へるのださうです。その炉辺叢書の主宰者は柳田国ママとかいふ人で五月の半頃に欧州へ行かれるとかいふ話で、原稿は本月中に書上げる事になってゐますので、私は今、毎日それを書いてゐます。
今日は真志保が町へ行って買物をして来ました。自分の算術教科書と、紙の様なものや味噌や鰊などを買って来ました。そして、北門学校の西分教場が今度独立したお祝ひがあるといふので、余興見物に大よろこびで飛出してゆきました。嘸面白いのを今頃見物してゐるのでせう。浜のフチも皆々様お変りありませんか?
此の間道雄さんが来て大にぎやかでありました。なか/\の上達したヴァイオリニストで随分面白うございました。写真術もうまいもので、札幌へ帰ってから早速私たちの写真を送ってよこしましたがなか/\よく出来てゐました。私の目なんか皿の様で、ママはすりこ木の様で、大笑ひの種にしてゐます。真志保はよく撮れてゐました。今度お目にかけませう。伊悦さん優等ですってね。皆様によろしくお伝へ下さいます様お願ひ申上げます。
操ちゃん嘸大きくおなりでせう。早く逢ひたい事ね。有珠の姉さん其の後何うなすったでせう。さっぱり便りもありません。高央さん何うかして合格である様に祈ってゐます。然し不合格でもそれは運ですから失望だの落胆なんかしない方がよろしう御座いませう。真志保の様な人は一番よう御座います。直ぐに気を取り直して其の後を奮発しますから……。何だか底冷のする様な風が吹いてゐます。それでも太陽が照って遠山はだを白く光らしてゐます。其処にも此処にも道が悪い為に行なやんでゐる馬橇が見えます。雲雀はちっとも休まず歌ひつゞけてゐます。でハ今日ハこれだけ、お父様におねがひ申上げたく書つらねました。何卒御両親様お身をお大切に、高央も操も御健かのほどお祈り申してゐます。
   四月九日
さよなら 幸恵より
 愛する御両親様
        御前に
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伊藤元子宛(北海道・名寄)
大正十一年五月頃(東京発信)


御タヨリヲ下サイマシテ、ホントウニ有難ウゴザイマシタ。マコトニウレシウゴザイマシタ。皆々様オカワリナクテ、ケッコウデスネ。北海道ハ、タイヘン寒イトユフコトヲキイテタマゲマシタ。ソレデハ、ハタケモノハヨクナイデセウ。東京ハ、コンゲツ一パイメッタニ雨モフラズ、カゼモナクテ、マイニチマイニチヤケルホドアツクテ、ワタシハモウスコシデ、クタバッテシマフトコロデシタ。東京ハイツデモアツイソウデスガ、今年ハトクベツニアツクテ、三十五年カラナイホドダサウデス。ホントニ、コノ前アナタノママ家ヘアガッタ時ハ、ヒドイ御病気デ、トウ/\アナタニアフコトガ出来ナクテ、ザンネンデシタ。今年ノウチニワタシハ、コタンヘカヘリマスガ、マタ、コンド、アガリマスカラ、ドウカ、ヨロシクネガヒマス。
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知里高吉・波子宛
大正十一年五月十七日付(東京発信)


 五月十七日
愛する御父様とお母様に……。五月十七日午前八時半
幸恵より
大層御無沙汰致しました。フチたちや御両親様は何んなに御心配下すってお待かねでいらっしゃいませう。
来てから直ぐに書けバ、いくらでも書けるんでしたけれども、よくばりでもう二三日も暮して見たら此方の様子がよくわかって細々とお知らせが出来るかと思ひまして、つひのび/\になりました。が、その二三日になってもまだスッカリはかたまった気持をあらはす事が難かしい様です。其の後はお変りは御座いませんか? あの日、お母様は六時の汽車にお乗りになりましたか? かはいさうにフチたちは何んなにか私のために、夢見などを気にかけて心配してゐる事でせう。
東京! 大日本帝国の首府である此の東京の地を一歩ふみしめた時の気持は? ときかれても、私は何にもかはった答はまだ出来ません。だってなんにも北海道の家と違った家がある様でもないし、違った人が通るといふわけでもない様なんですもの……。もう少したったら何かまとまった感想を書く事が出来ませう。
先づ旅中の事どもを書きつらねませう。京城丸の後甲板に立って、次第々々にはなれてゆく小舟の中のお母様と、白いきれをふって別れたその時の心持ハ、何と云ったらいゝでせうか、今思っても涙がこぼれます。
カラカラといかりをまきあげて船が黒い煙をのこして出帆した時、堪らないほど心細くなったんでした。打見やる岸辺の何処かでお母様が見送ってゐて下さるかしら、と思っていくら目をみはっても、なんにも見えないし、だん/\遠くなって室蘭の町が船の直後になったり右手に見えたり、左手になったり、グルーッとまはって大黒島とか云ふ燈台のある島のそばを通った頃は、船客が私のそばでたのしさうに話をしてゐるのに気をつられて、スッカリもとの人になりました。話相手が無いものですから船縁につかまって遠い景色をながめたり、緑の色にゆら/\する波を見たりしてスッカリ船と仲よくなってしまったのです。京城丸と一足違ひに幸丸とか云ふ汽船が出たでせう。あれがだん/\おくれて、ズーッと後からついて来た様ですが、それもいつか見えなくなって、赤い夕陽に照されて、紅波、緑波を漂はす美しい海原を、船は白い波紋の足跡をのこして、太い波のうねりを道伴れにだん/\と進んで来ました。めがまはるなどゝ云って船室にはいってゆく美しいおくさんもあり、風が寒いとマントを引かけた紳士もありましたが、私は寒くもなし、めまひも幸ひと致しませんでした。それでも二時間ほどたって薄暗くなると人はみな何処かへはいってしまって、私一人になった。それに白い作業服を着けた船員が来て、何処へいらっしゃいますか、だの、何処からいらっしゃいました、だの、淋しいでせうだのって云ひ出したので、御親切が怖しくなったので船室へ飛込み、みんなの真似して羽織をぬぎ、仰向に寝そべってしまひました。ゆで卵子を二つで腹を拵へたんですから疲れも何もなく、何時の間にかグッスリ寝こんでしまひました。フト目を覚ますと、狭い船室の中を電燈が青白く照して同室の大学生や、あのメンコイ子供を連れた紳士などが手足をのばしてグーグーと嚊をかいて寝てゐました。
寝床をはひ出して便所へ行き窓から見ると、相変らず船は油を流した様な海の上をすべる様に進んでゐました。しばらく見とれてゐたら、人の気はひがするのでビックリして出て見たら、白鬚のお爺さんが先刻から私を待ってゐたのでした。それから食堂の方へ出て見ると時計はちょうど十二時になってゐました。其処にある大観だの中央公論だのの頁を繰って拾い読みして、そこいらの弁当代の掲示などを見てから再び毛布を被って寝に入りました。フト物音に驚いてさめて見ると、これは大変、同室の人たちがみんな起きて靴をはいたり、外套をつけたりしてゐるのでした。私も起きて身仕度をして外へ出て見ると、青森の港へはいったとおぼしく、京城丸は大きな声で、おはやう! と叫びました。有明の室に十六夜ほどのまるい月が銀色の淡い光を波上に投げ、海上たひらかに爽快な暁の微風をのせて遠く明滅する青森港の美しい灯色をうつしてゐました。薄暗にしろく横たはる大きな汽船の黒い影が三つ五つ。京城丸は悠々といかりをおろしました。
見てゐるうちにあたりはだん/\あかるくなって来ました。左右に見える青黒い三角やまるの山々を見つけると私はまた今更ながら郷なつかしの情にかられました。私がねむってる間にもう我北海道をはなれてしまって、海をへだてた別な島へ来てゐるのだと意識して……。
いつのまにか月の影も消えはてゝスッカリ明るくなってしまふと、むかふから面白い形をした舟が小さい煙筒から白い煙をはいてプーと細いかすれた声を出して私たちの方へ来ました。ははあ、歓迎(ウエルカム)と云ふのだな、と思って私は思はず笑をうかべました。そしてその舟の尾にまた二艘の舟が長い綱でつながってゐました。そしてグルーッと京城丸の船首が船尾をまはって私たちの前へ来た時は、何処でおいて来たのか尻尾につながってゐた小供舟がなくて、たった一そうで来たのです。それからまたあの降昇場から幅二尺ぐらゐの階梯をおろして、赤いお鬚をぴんとたてた赤いすじのはいった服を着た人に、昨夜乗船券(あとで買った二等の)と引換へて貰らった上陸券を渡して傘を杖に降りました。下には水夫(?)がゐて、少しふらふらして足下があぶなさうになると抱く様にして支へてくれるのです。御婦人は中へ何卒、と云はれたのでなかをのぞいて見たら、薄暗い船底の小さい所に青白い顔した婦人船客が、ギッシリと膝をぶっつける様に腰かけてゐました。それを見ると嫌になったので子供をおぶったもう一人の女と一しょに外に立って柱につかまってゐました。あんな暗い何か臭ひでもしさうな所にゐるよりは外で風に吹かれた方がよっぽど気持がよろしう御座います。それから田村丸とかいふ大きな汽船の横を通って波をわけて白く砕きながら参りますと、舟は海の中へ突き出た板橋にぶっつかる程に横づけになりました。あの室蘭ではしけに乗る時の様なあぶない事はありませんで、舟から直ぐに梯も上らず平らな所をあるいて上陸しました。
私をこゝまで送ってくれた京城丸、またこんどは、今日は出かけて明朝は室蘭へ着くのであらう此の船に心しあらば故里の愛する人たちに私の無事に上陸したといふ事を言伝てやうものを……。無限の思ひを胸に抱いて京城丸をふたゝび顧みて、無言のうちに別れを告げて波止場をあとに歩をはこびました。上陸したら何だか足がふら/\して胸の中がかゆい様な感じがしました。道の両側、彼方にも此方にも赤い大林檎を山と積んで、光った眼に商売人の色をたゝへた男たちが、「姐さん、ねえさん、林ごをおかひなさい、東京へのお土産に」なんて、何処へ行くとも云ひやしないのに、人の顔に書いてあるのを読む様な目をして、「おいしいんですよ、東京の人もよろこびますよ」だのって、口々に人を呼かけるのです。一人の紳士など顔先へ林檎の袋を突きつけられてビックリしてゐました。それから上陸した時に俥屋さんが沢山ゐて、乗らないか/\って上る人上る人におじぎをしてゐました。嫌なのでズーッとよけて通ったり、そのよけた方の道側に法被を着た人がゐて、何方へと云ふから黙って行きすぎようとしたら、上野へですか。ハイと云ったら何時でいらっしゃいます? 一番で。一番よりも急行の方が便利でございますよ。急行は何時? 「一時で御座います。彼方へ着くのは明日朝七時で、一番で行くのと二時間しか違ひませんが、急行の方が楽で気持よくゆかれます。急行になさいませ」「だって一時までこれから待ってゐたら大へんですよ」「いゝえ、お退屈なさらない様に致します。御案内致しませう」「おや/\大へんだ、誘惑……。ありがたう、いゝんですよ」と言ってクルリと後むき、さっさとまゐりました。青森駅の構内で少し休んでブラ/\と外をあるきました。直ぐわきに小さい郵便局があったので、其処で金田一先生の所へ打電しました。あんまり林檎が美味しさうなのにのどがかわき出したので、六十八銭出して大きな林檎の十五はいってゐるのを買ってブラ下げて来ました。スルトまた法被を着た宿引だか何だかにつかまったので、「いゝえ今一番で行くんです」と言ってプイとそらして参りました。やがて六時十五分発、東北本線上野行に乗りこんで汽車が動き出した時は、私は、あの小さいフォークで林檎の皮をむいて頬ばってゐたのでした。
人先に乗っていゝあんばいな座席を撰んで恬と構へて動かなかったので、発車までにハよっぽど沢山の人があとから/\とはいりこんでウフトフトした様でしたが、知らん顔して林檎のうまさに舌鼓を打ってゐたのでした。
あそこらの地名はずいぶん面白いのが沢山ありました。スッカリ忘れましたが、アイヌ語そっくりのがありました様です。あさむしなども。海が凪ぎて美しい景色でした。絵に見る様な海浜の松などもめづらしいと思ひました。山の形、岩の形、すべてが内地へ来たのだといふ感じを起させました。あそこらの駅から乗りこんだ女の人たちの物の云ひ方も面白いと思ひました。あまったるい様な声で……。
桜の満開になってゐるのも見ました。緑の草原に点々と燃える様な赤い色した花はつゝじでせう。雪の様に白いのはすももでせうか。だん/\此方へ来ると、林檎の花や桃の花が見えました。乗客が、あれは桜、これは桃と話しあってゐるので私にもわかったのです。桃が沢山咲揃ってゐる所は随分見事な物でした。残りの三つの卵を一度に食べてしまひました。もう一つぐらひ戴けばよかったと思った程美味しくいたゞきました。来るに従って乗客が減って、大そうらくになりました。足をのばしたり身を横たへたり好きな風にして参りました。が、時々は無やみとこむ事もありました。はじめのうちは外の風景をながめるのもようございましたが、だん/\それも嫌になって寝てばかりゐました。眠ったりさめたり落付きはありませんでしたが随分楽な旅であったと思ひます。寿しと弁当を買って寿しの方は其の日に食べて、弁当は夜半頃にと、四時頃(翌朝)にと二度に食べました。盛岡あたりからだと思ひましたが、二人の男が私の前と傍とへ来てゐましたが、馬喰ふでもやってるらしく、馬に関した話ばっかりしてゐました。馬を三頭連れて来たら、何とか云ふ所を夜さしかかった時に馬が何かに驚いて何処でも構はずはねまはるので、自分の手を木の枝に引かけてけがしたのだって、繃帯をしてゐました。二才が何所だかへはまって足を打ってしまったんですって。鹿毛の二本白で何とか星で、やっと売口を見つけたので連れて行って見て貰はうと思ったらそんなになったので六百円の損をしたなんてこぼしてゐました。随分運の悪い人もあるものです。家の馬ちゃんたちをお大事に。
だん/\此方へ来ると、もう麦の穂が出揃ってゐます。水田も苗床の苗がだいぶのびてゐました。暗くなって何にも見えなくなる頃は客もメッキリ減って、スッカリ汽車の旅にはあき/\して目を開いて見るのさえ億劫になりました。便所や洗面所に近く座を占めてゐるのでその方もちっとも不便が無いので、気持が悪くなると顔を洗ひました。四時頃に起きて身じまひをして夜明を待つ時の待遠しさ。そしてやっとあかるくなっても、なか/\上野へは来ないので汽車のあゆみがもどかしい程でした。それでもやっと、日暮里、此の次は上野ですからお忘れ物のない様に……といふ車掌の言葉を待つまでもなく、傘と風呂敷包とを持って今やおそしと待ちかまへて、とう/\上野へ着きました。みんなが出てからあとをのこ/\出かけると、此の列車は途中で二台もついだんですから、長い事/\、そして出るわ/\、大したものです。私はもちまへの遅足行進で石畳をこつ/\と踏んで来ると改札口へ出ました。ふところから切符を出すまでは、私は、足下ばかり見つめてゐました。目が疲れてゐるのに、あまりキョロ/\すれば体裁がよくないし、小さい眼が大きくなるといけないからです。そして、湯の滝さんの絵図面を思出してヒョイと顔をあげると、そこには、ニコ/\した金田一先生が立っていらっしゃいました。優しく、お疲れでせうと云はれた時は涙が出る程嬉しう御座いました。手荷物の札を渡すと、取扱所へ行って受取って来て下さいました。そして、人力車の切符を二枚買って、私は大威張りで先生と俥に乗って、先生よりも先になってしまったので恐縮しました。着いたのは五時ですから人通りがよけいなくて、道路がシットリ濡れてゐるのは、気持よい感じがしました。旭川や室蘭の建物よりもよほど大きい家が一ぱいならんでゐました。道を通ってゐる人たちは東京の人ではなく多分田舎から来たのでせう。さういふ様な顔した人ばかりでした。それから右へ曲ったり左へ曲ったりして、せまい道へはいりました。大概の家では戸をしめてゐるのです。東京は夜がおそいから朝もおそいのですって。それからまた電車通りへ出て何う来たものかわかりませんが、大学の前を通ってせまい横町へはいって、さうして此処へ来たのです。其処で先生にも改めて御挨拶し、はじめてお目にかゝるおくさまにも御挨拶を申上げました。それから盛岡から平博見物に来てゐるのだと云ふ金田一先生の弟さんの次郎さんといふ方にも紹介されました。金田一先生は、四五年前に北海道へいらしった時と少しも違はないお優しさですし、奥様もりっぱなせいの高い方で、非常に親切な方な様です。此の頃二人になるといろ/\な事を話してきかせて下さいます。そのお話は後便に譲りませう。三年生の春彦さんと云ふ坊ちゃんもいらっしゃいます。
此の方が此の間の日曜に、私に大学へ行かうって誘ふので一しょに出かけましたが、電車通りが直ぐ前にあるのでそれを横切るのにだいぶかゝりました。坊ちゃんが先に行って、おいで/\をしてゐるから、行かうとすれば電車が来る、行ってしまったかと思へばまた来る、またあとから来る、自動車が三台も四台も両方から来る、俥が通る、自転車が通る、いやはや成程東京はおそろしい所ぢゃと思ったのでした。大学へ行って坊ちゃんと一しょにいろ/\な花をとりながら、きれいな池のそばでやすんだり、運動場の大学生のテニスも見ました。初夏の樹々の鮮かな若葉にいろどられた、赤い煉瓦の大建物がいくつあるのか知りませんが、ある事/\、驚くよりほかありません。工科大学、文科大学、医科大学なんて、別々に立札してありました。
やはらかい芝生の上をあるくのもいゝ気持でした。池に鯉が一ぱいゐて、時々はね上るのも面白う御座いました。そうして遊んで帰りました。
二つになる赤ちゃん(若葉さん)がゐて、此の頃病気なのです。此の冬奥様が御病気で乳がなくなったんですって。それで牛乳でばかり育てたら量が多すぎて消化不良になって、其の上に風をひいたので、今二十何日もたつのになほらないのですって。東京で一ばん出来る小児科の字都野と云ふお医者にかゝってゐるのですって。一日おきにおくさんが、女中さんと一しょに医者へ行かれる様です。その為に奥さんも夜ねむらないので、頭が痛くて困るさうです。前に三人の女の子をなくしたんですって。それで体が弱くて三年前から神経衰弱にかゝってゐるのださうです。此の間中は、平博見物で国から客が沢山にあったさうです。日高のウナラベは、孫と姪だか二人のむすめを連れて来て二十日ばかりゐましたが、私が来る二三日前に帰ってしまったさうです。その婆さんは今度で七回目の上京ですって。
家は平家建の広くない家です。お座敷が一つ、先生の書斎が六畳間、茶の間が六畳間、お勝手が一間半に一間半ぐらゐで、庭は二間半幅ぐらゐで、こんな広い庭はめったにないのだと云ふ話です。夜は、私はきくやと云ふ十七八の盛岡から来た、人のいゝ女中さんと茶の間に寝るのです。お母様の角巻と、大きな夜被とを着てゐます。今度、先生の書斎に大きな机があって誰も使はないから、これをあなたの机ときめませうと、先生に云はれて、此の手紙も其の机の上で書いてるのです。先生は学校が八時ですから、七時すぎにはお出かけで、四時頃お帰りになります。何でも大学の方ばかりでなく、女学校も二つか三つ持っていらっしゃるさうです。まあ書物のある事ある事、驚入りました。奥様が笑って、家では何も御座いませんが、本だけは財産なんで御座いますよ、と仰いました。考古学、歴史、地理其の他の文学書類が、沢山ある大きな書棚に一ぱいつめてあるのです。何でも好きなのをお読みなさいって奥さんが仰いました。来ると早々先生が、アイヌの辞典の古いのや新しいのや其の他アイヌの研究に関する本を一ぱい出して、私の机の上がそれで一ぱいになってゐます。
来てから三冊ばかり、本を読みました。それから、夜などちょいちょいアイヌ語の事を質問されます。金田一先生がきくのは、スッカリ覚えてゐて、学問的に質問するんですから、おかげで私も今まで考えた事もない事を考えて見たり、難かしい文法などを知る事が出来ます。アオカイのアだの、コマクナタラのコだのといふ様な、普通私たちが使ってゐる言葉を学問的に分析して説明しなければだめなのだといふ話です。昨夜は、学校で習はなかった文典(動詞だの名詞だの第一人称だの二人称だの属格だの主格だのといふ事)を教はりました。これからまたアイヌ語を懸命に書かねばなりません。女中さんがゐるので家の事は何も手伝ふ事は無いので、ただアイヌ語の話相手、相談相手と云った様な形です。体の方も、もう一月もゐてみなければあふかあはぬかわかりません。もう一月もゐれば此の辺の様子もわかりませうし、心持も落付いてくるでせう。
一昨日電車通りへ出て買物をしました。やっぱり要るもので、だいぶ使ひました。今道雄さんからの預り金を別にすると三円いくらしか残ってゐません。お母様からいたゞいたお銭は、いたゞいてほんとうによかったのでした。深く深く御両親様にお礼を申上げます。フチからも沢山いたゞいてありがたう御座いました。私はフチの言った事は一つも忘れないで守りますから決して御心配下さいませぬ様にと、フチにも浜のフチにもお伝へのほど、おねがひ申上げます。(カムイシクトツも箱の中にはいってゐます)
今に赤さんがよくなったら何処だかへ連れて行って下さるのですって……奥様が……。気候は登別と大した違ひはありません。今日はむやみと寒い日で、みんなで羽織を着てゐます。主婦の友と家庭雑誌も読みました。
御父様も御母様も嘸相変らず御いそがしい事でせう。ヒヨッコも大きくなったでせう。みっちゃんの忙しさうな、かひ/″\しい様子も目に見える様です。有珠の姉さんは無事に着いたでせうか知ら。
何卒みな/\様によろしくお伝へ下さいませ。くはしくはまたあとで申上げます。今日はこれでも出来るだけお知らせ申上げたつもりです。随分おしゃべり致しました。では何卒、御両親様はじめ御一同様おからだをお大切におはたらき下さいます様に祈り申上げます。
   五月十七日午後一時半
さよなら
  御両親様
      御許に
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知里高吉宛
大正十一年六月九日付(東京発信)


親愛なる御父様御母様、ほんとうに久しぶりで手紙を書く事が出来て嬉しう御座います。この間はおいそがしい中を御手紙を下さいまして誠にありがたう御座いました。お父様の御病気も早く御全快のよし、何よりも嬉しう御座いました。種々と承りましてまったく面白うございました。お母様は六月二日に、まだ畑を蒔かないとの事ですが、それは大へん遅れましたのね。その原因は私にも大いにある事で御座いませう。毎年々々おくれてばかりでほんとに困りますね。運動会に操ちゃんのお宝がとられて大へんでしたのね。フチも皆々様御壮健で何より結構で御座います。私は相変らず元気で御座います。御安心下さいませ。私もだいぶ忙しい様な気がする様になりました。だって毎晩英語を五課づゝ(ナショナル一)ならふのですが、私にはとても一度で覚えきれないので復習しなければならないのです。それに此の間、あのアチャボがやったユカラをまだ書いてゐるもんですから……。
赤ちゃんは此の頃大へん丈夫になりました。今日女中さんがおぶって奥様がついて医者へ連れて行きましたが、もうたいていはよくなったとの事ださうです。赤ちゃんがよいと、従って先生も奥様も夜はよくねむってお顔が活々してる様に見えます。
三十日の火曜には先生がお風引でおやすみであったので、赤ちゃんと先生と坊ちゃんをおるすゐにして、奥様とおきくさんと私と三人で遊びに出かけました。先生は大学と中学校と女学校とみんなで六つの学校へ言語学の講義に出かけるので声がなければ出来ないのですって。此の間風を引いて声が出なかったからお休みなすったのでした。さて其の日は朝から好いお天気で仕度をしましたが、生憎お客様でスッカリお流れになりさうでしたが、お客様がお昼がすんでから帰ったので、三時頃から出かけたのです。大学の赤門をくぐって大学病院の側を通ったのはわかりましたが、あとは何処をどうあるいたのかわかりませんでした。赤門は正門から少しはなれた赤い門で、奥様のお話では五百年程前に出来たものだそうです。それから上野の池の端へ出ました。春から夏へ移る時はネルを着るものだそうですが、私は生憎ネルを持合せませんでしたので袷を着ようかと思ひましたが、思ひきって単衣にしました。奥さんはネルで女中さんは袷で三段になって出かけましたら、東京の人は大がい単衣を着てゐたので、奥様は私が一ばん進歩してるなどゝ笑いながら行ったのですが、池の端といふ所は非常に涼しくて単衣では涼しすぎるほどでした。池はまるで海の様で、水上飛行機がブー/\/\滑走してゐました。池をへだてたむかふは名にしおふ博覧会会場で右手に所謂平和塔が青空高く聳えてゐました。絵葉書にあるのとおんなじに赤だの青だのの色を塗った会場の建物は実に絵に書いた様でした。そよ風渡る池の面、よせる小波は何かしら、室蘭から青森へ渡った時の海上の状景を思出させました。まんなかの休息所の細い青竹に清水を今かけたばかりの様にハラ/\と露が滴ってゐるそばを通って中へはいると、赤い毛布をかけた腰かけがズラリとならんで正面は青い池、対岸は北海道館の面白い建物、後や横は各地物産陳列売店と料理屋で、中々にいゝ景色で御座いました。そこでおなじベンチに奥様とおきくさんと三人で腰をおろしてしばらくやすみ、奥様は一円二十銭出して三人分の炭酸水と蜜豆をとって下さいました。炭酸水は苺ので、真赤な色の水がこっぷ一ぱいになってゐて箸の様な「かや」の棒がついてゐるのです。ハテナ飲むものに箸がつくなんて面白いものだと思って奥様に言ったら、笑ってそのかやは一度にガブ/\のんでもあまり見っともよくないから、かやで少しづゝ吸ふのです、と教へて下さいました。成る程かやで吸って見たらいゝぐあいに咽喉へスー/\と流れこんで如何にもしとやかな令嬢になった様な気がして成るべくつゝましやかに、口をすぼめてのみました。下においては取上げてのんでる中に、ひょっと忘れて持前の大口でコップから直きに口へ当てやうとしたところで気がついて心の中で頭をかいたりしました。蜜豆は、ところてんの様なものにあまいお菓子だの、赤や白の「ふ」の様なのだのはいった涼しさうな物で、東京の名物だとの事でした。あまいのあまいのと云ったら、おはなしになりませんでした。連のおきくさんは、むしばで蜜豆はよくたべられないし、炭酸水はむねが悪くなってのまれないといふのにひきかへ、私の方は御馳走になるものは何でもよろこんでいたゞく。奥様は「ほんとうに好い人だ」と私をほめて下さいました。うまいものを沢山食べて、それでいゝ人になるので私は非常に得だと思ひました。それから売店をズラリと一廻り見てあるきましたが、北海道と別に変った事はありませんでした。私の単衣地の柄を奥様に見たてゝいたゞいて、一反二円五十銭のを買ひました(先月旭川のおっかさんに五円送って貰ひました。今、一円四十一銭あります)。その時、おなじ値段のものを奥様も女中さんも買ひました。女中さんは私のとおんなじ柄でした。奥様はちょうど私に似合ふ地味好きな人らしう御座います。着てゐる着物なんかまるで地味なんです。先生とおはなししていらっしゃるのをきくと「此の頃は嫁に来た時よりもズッとずっと若づくりになったなあ」との事でした。この間買ったのはなるほど、私が着てもいい様な柄でした。それからきれいなとき色の絹しぼりの帯締を私は買っていたゞきました。女中さんは真赤なのでした。それから平和塔の下を通って石畳の坂を上って、多分あれは上野公園でせう、青草が気持よく生へてゐる山見た様な所の下の道を通って、何処だか廻って上野の電車通りへ出ました。博覧会は五時半までですから見られませんでした。
奥様にたのんで、道雄さんに頼まれたものを探しましたが、何うしてもありませんでした。一円を送り返さうと思ひましたが、今度三越へ出かける時にまた探しませうとの事で、まだその金をあづかってゐます。
それから、松坂屋といふ店にはいって、四階まで上っていろ/\な物を見て来ましたが、私にはたゞ/\驚嘆するばかりで言ふ事もなくなった様でした。エレベーターに乗ると上る時は気持がよいけれども、止る時にひょっと下へさがるので思はずハッとして、びっくりして言ふと、奥様はニコ/\していらっしゃいました。着物だか帯だか反物だかシャツだか、見て/\しまひに目がまはる様でした。欲しくなるよりも恐くなる様でした。おはなしする事も何も出来ません。三越はまだあの松坂屋の三倍もあるのださうです。それからまた大学病院のそばを通って赤門から出て参りました。私はもうあれで沢山、何も見物しなくともいゝと思ひました。それよりも英語がたのしみです。電車通りを横切る時なんか、小さな眼も思はず知らず大きくなってしまふ様ですもの。
東京の家には柾葺の家がありません。みんな瓦葺で御座います。道を通る東京の人は何れだけ私たちと変ってゐるか、と見ると、先づやはりおんなじ人間でちっとも変りないと思ひます。たゞ私の様にノラクラしたものはめったになくて、みんなキビ/\と動作が機敏で目がキョロ/\と忙しさうな所が都会人の特長らしう御座います。余裕がないから、都会人は神経過敏なんですって。あんなにぎやかな所へはいるのは私にはほんとうに不適当、ノラクラ婆さんですから……。
東京へ来た甲斐に、えらい人の演説にでも連れて行ってきかせてあげようと先生が仰いました。然し家にゐても随分来甲斐があったと思ひます。だって御主人が学者ですから、話される事を聞いてゐればまったく学問をしてるとおんなじですもの。何かの話のついでには種々な事を学ぶ事が出来ます。奥様はまた、いろいろな事を旦那様に質問なさるので私も一しょに先生の説明をきく事が出来るのです。二三日前には政治談をきかされました。細々と政治の説明をされるのを奥様は生徒の様に熱心に真面目に敬虔な態度できいていらっしゃいました。昨夜は書斎で先生と奥様と三人で十一時すぎまで思はず話に時をうつしてしまひました。それは宗教談でした。学問を修めた人の宗教心理とでも云ふのでせうか、あゝいふえらい人の宗教談などをきくのは実際いゝ事だと思って熱心に傾聴しました。奥様は重なる不幸にすっかり心がひねくれて、その為神経衰弱だのといふ病気を得たのですが、宗教にはいればきっとなほるだらうと思って自分も進み、先生も勧めて、それに沢山今までに宗教家と交際する機会があったのだが、まだしっくりと得られないのですって……。先生の宗教談には何だか私もスッカリ共鳴する事が出来ました。さうふうな事で、昨夜はそれからそれへと為になる話ばっかりをきゝました。ふだんでも無駄な話など一つもありません。みんな私には学問の種です。直ぐ近くに本郷基督教会があると云ふので四日の晩、行って見ましたら、会衆が十二人で、しかも二三人をのぞくほかみんなゐねむりをしてるには驚き入りました。牧師さんのおはなしもまるでねむったい様なおはなしで、東京にもあゝ云ふ教会があるのかと驚かされました。沢山教会があるから、此れから、片端から出かけて見ようと思ってゐます。
これから東京は梅雨にはいるので、みんないやだ/\と云ってゐます。私は梅雨はさう恐くないけれども、梅雨のあとがおそろしう御座います。二十日程も降りみ降らずみが続いて今度は大へんなんですって、暑くて/\、毎日の炎天つゞきになるのださうです。東京の暑さに幸恵さんが持こたへるか何うか心配だなあ、と先生が心配していらっしゃいました。暑さは心臓を極度に衰弱させますから心配ですが、まだ当って見ずに危惧してもつまらないから、成行にまかせます。神様の聖旨のまゝに……。ほんとうに世にも不幸なのは身体の不健康で御座います。何をするにも健康は資本になるのですから……。そこに不安が伴ひ不快が伴ふてあたりの人の為にも何れだけ影響を及ぼすかわからないけれども、病もまた神様が何か聖旨あって与へ給ふものでありませう。自分ばかりをたのむ慢心、不謙遜な人の心を挫くためにあたへ給ふた神様の鞭でありませう。そして神の愛にすがらせる神様のお導きでせう。だからせめては、かくなった弱い身も魂も神に任せて、そしてこれから私は安心をして喜びと感謝をもって人に接し、愛を持って人と交って、そして世渡りをしやうと思ひます。自分の幸福ばかりを考えるから、悲観もあり、なやみもありますが、身をよそにして人のために最善をつくさうと思へば、何も悲しみもなくなる、と思ひます。此処へ来ていろ/\な本をよんだり、先生のお話をきいたりして、私は何だか心が軽くなった様な気がするのです。今の私の心持をみんな書表して御両親様によろこんでいたゞきたいけれども、何うしても出来ませんから、たゞ私の心が今まで少し変ったと云ふ事をよろこんで下さいませ。だから、これからはきっと悲観したりひねくれたり、不快な顔をしてお父様やお母様のみならず誰にでも不快な感情をあたへる様な事は致しませんつもりで御座います。
大へん長々とおしゃべりを致しました。また今度、何か変った事があったら沢山書きます。羽織は夏が越せるか何うかを見てから申上げます。
何卒お父様もお母様もおからだをお大切になすって下さいませ。真志保から手紙を貰って一等賞をとった事をきいてよろこんでゐますが、高央からは何のはなしもありません。達者でさへゐれば手紙をよこさずともよろしう御座います。忙しいのに、面倒臭いのに手紙を書かせるのはかはいさうですから……。敷生のおばさんには、前にたしかに絵葉書を出したのでしたが、何うしてとゞかなかったでせう。今度は登別へ出しましたから、お渡し下さいませ。伯母さんに手紙たよりを出す事を私が何で忘れる事が出来ませう。有珠の姉さんにはまだ出さないでゐます。郵便銭がなかなかですのに切手を下さいまして何もありがたう御座いました。
フチたちにも操ちゃんにもよろしく。その他のみなさんによろしく。この間、みなうならぺと浅江の夢を見ました。もう英語の時間ですから、これで筆をおきます。
さよなら
   九日
幸恵より
 愛する
  御父上様
  御母上様
      御両所へ
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知里高吉・波子宛
大正十一年七月四日付(東京発信)


愛する御父様御母様、此の間はお手紙を誠にありがたうございました。御両親様はじめフチ達も、皆々様お障りもなくいらせられます事は何よりも結構な事で御座います。私もおかげ様にて神様の御守護の許に無事暮してゐますから、御安心下さいませ。お手紙は一日にいたゞいたのですが、大変な出来事の為に、つひ/\今日まで御無沙汰致しました。大へんな出来事と云ふのは二日の日曜日の大変事の事です。何でも朝十時頃でございました。お書斎で先生の御質問に応じてゐた時、春彦様はお友達と戸外で遊んでいらっしゃいました。ところが御門の方からあはたゞしく飛こんだそのお友達の子は、書斎の障子のかげで、「をぢさん! 春彦さんが井戸へ落っこちた!」と申しました。其の時先生は、ハアと云ふ声もろともに、まるで弾きかへされた様に玄関から飛出しました。お座敷で赤ちゃんをあやしていらした奥様も大きな声を出したので赤ちゃんがワーッと泣き出しました。外は人声で耳もない様、私は何だか馬鹿になった様な気がしました。外へ飛出すと家の前は人の黒山。先生が一目散に交番の方へ走っていらっしゃった後姿が見えました。その中、井戸の方では「スッカリつかまっていらっしゃい」といふ声が耳にはいったので、先づそれでは生きていらっしゃるかと少しほっとしました。巡査が来る、梯子が来る、もぢゃ/\人が井戸のわきで大さはぎ。人の中に三人かたまってゐる奥さんと女中さんと私の方へふりむいて「梯子でなければ駄目だ! 金鎚を持って!」と仰った先生のお顔の色はまるで草の葉の色其のまゝでした。奥様は青ざめたお顔でたゞ、きっと唇をかみしめていらっしゃいました。かたづをのんで見てゐた時、人をわけて出て来た屈強の若者の背には土色した顔に黒い瞳をみひらいた坊っちゃんの顔が見えました。着物は泥と血にまみれてゐました。男はそのまゝ病院へとかけ出しました。奥さんは赤ちゃんを女中さんに渡して後を追はれました。先生も……。女中さんは着物をとりに帯をとりにと行ったり来たり、私は赤ちゃんを抱いたまゝ、とめどなく流れる涙を何うする事も出来ませんでした。近所の奥さんやおかみさんが飛こんだり、小僧どもがかけこんだりしました。その中、にこ/\してはいっていらしったのは此の前いらしった事の一度ある春彦様の伯父様(先生の弟様。博覧会見物にいらしった方です)でした。ていねいにおじぎをしてさっさとはいってくるので春彦様がかく/\と話すると「おやっ! 僕はまた井戸の掘かへかと思った。春ちゃんの写真をとらうと思って来たのに……」と青くなってかけ出す……まるで夢の様でした。やがてお帰りになった坊ちゃんは割に元気でいらっしゃいました。一日、先生はつきっきりでお相手をなすっていらっしゃいました。あとできくと、頭にも数ヶ所の小さい傷がついて、がらすのかけらや何かが一ぱいはいってゐたのですって。足には長さ二寸、深さ五分くらゐの傷がついて、六針とか七針縫ったのださうです。昨夜医者へ先生と奥様がいらしった時、私もイセレマクシする為に赤ちゃんと一しょにお供致しました。そしてその傷を見てほんとうに驚いたのでございました。
日曜の夜おそく、先生はふだん坊ちゃんの欲しい欲しいと言っていらしったハーモニカを買っていらしったので、昨日も今日もそれで退屈なしに楽しく暮していらっしゃいます。先生が学校へいらしったおるすには、私がお相手をしてゐます。奥様はその当座はしっかりしていらっしゃいましたが、もとより御病身の事故、お気疲れが一度に出て今日はお床にやすんでいらっしゃいます。夜になると坊ちゃんはうなされて/\、十二時頃までは、先生と奥様が両側から慰めたりさすったり撫でたりしていらっしゃるのです。その井戸は向ひの家の脇にある古井戸で、ちょっとのぞいても気味の悪い井戸です。二間あまりの底の方に泥や水があり、ごみと硝子や罎の破片が一ぱいはいってゐるのです。坊ちゃんが彼処へはいって助かったのはまったくの天祐で、大人でもあそこへはまったらたすかる事は九分九厘までも望みのない事だと衆人が驚きあってゐます。
先生が飛んで行ってのぞいたら、何だかに両手でつかまって上を見て「父さん!」と言ったのですって……。お友達と一しょに蝶々を追っかけて下を見なかったので、腐れかけた井戸の蓋が何うかなって落っこちたのです。天才と云ってもいいほどの頭脳の所有者で、学校でも一番ばかり、級長をつとめてゐる悧巧そうな黒い大きな目の持主です。きゃしゃなからだでおとなしいのですから、今までちっともかうした出来事が無かったのですって。それこそ一粒種の坊ちゃんですから、親御さんたちはそれこそサンベアットム ヘセアットム コテしてゐる方です。あの時の光景を思ひ出すとぞっとします。先生や奥様のお顔の色を見たゞけでもサンベヱンする様です。
先ずこれだけにして、其の後土地の一件は如何になりましてございますか。大丈夫と仰ったので安心してゐますが、一日も早く解決がつく様に祈ります。くはしく、おいそがしいのにお知らせ下さいましてありがたうございました。先生にもスッカリおはなし申上げたら、先生もたまげたりおこったり安心したりなさいました。ほんとうに同情深いお方でいらっしゃいます。北海道からのお土産は、まったく来て見れば何もめづらしいものはありません。豆類が一番いゝのです。私が持って来た小豆はずいぶん喜ばれました。が、先生は日高のアイヌ等と御懇意ですから、豆のある事ったら驚くほどです。それでもいゝあんばいにそのなかでも私のもって来た豆と小豆が一ばんよかったのです。それにいれもの(袋)がきれいなのでなほさら……。
それから日高の婆さんが椎茸を送ってよこすので、椎茸は年中絶やすことが無いのですって。東京では非常に高いものですって。豆や小豆などは、東京のは粒が小さくて皮がかたくでちっとも美味しくないのですって……。だから秋になったら小豆でも少しでようございますから、きれいな美味しいのがありましたらお送り下さってもようございます。面倒でしたら送らなくともよろしうございますの。それからアイヌ細工はさっぱり見当りませんので、先生は欲しくないのかも知れないと思っていたら、それはかういう訳なんですって。外の人はたゞ細工物を買ってそれで昔の生活状態を調べるのだが、先生は言語を調べる為なので細工物を買ふよりも、難かしくてそれにのみ熱中して細工物や宝物の方を顧る余裕が無かったのださうです。お金の都合も悪くて……。そして気がついた時はもうおそくて、昔のまゝのものは無くなって今はたゞ和人のこのみのために手拭掛だの下駄の様なものばかりになったので、何うする事も出来ないのですって。ただ記念にと言ってアイヌウタラに貰ったイクパシュイが十何本と、イナウルが一つとを持っていらっしゃるさうです。学問の材料にはならなくても、アイヌカラペだといふものはうれしくなつかしいから、よろこんで手拭掛などを一つ貰ったけれども、勿体なくて使はずにしまってあるのださうです。アイヌの惜しい彫刻の手際を、手拭かけなどに力を費すのは勿体ない事だ、と仰っていらっしゃいました。何だか、ニマだのといふアイヌの実用品の様なものが欲しい様な御様子でした。
お父様がおひまでしたら、何かさういふ様な物を一つつくって下さいませ。おひまはないのですから御ゆっくりでようございませう。手拭かけでも箸でもぺらでもかしゅっぷでもチポンニマでもマキリの鞘でもきっとおよろこびなさいます。フチにもおねがひがあります。ニペシの様なもので、タラでもムリ丶でもウトキアツでも拵へて送って下さいませ。それもゆっくりでようございます。カナウンタラでもアラシヌカタラでもようございます。フチのサラニプを大へん喜んでいらっしゃいます。
私は何不自由なく幸福に暮して居りますから、何卒私の事は御心配なく。充分御両親様、おからだをおたいせつにお働き下さる様に祈ります。操ちゃんによろしく。山のふち、浜のふちに沢山よろしく。
道雄さんの楽譜は何うしても無いので然う言ってやったら、それでは仕方ないから別な物を買って下さいと言ってよこしたので、発行所や売捌店がわかってゐるなら自分で御注文なさいと言ってやったら、返事にそれでは注文するから其の銭は姉さん使って下さいと云ふので、気の毒な、折角たのんでよこしたのに……と思ったけれど、お金を送りかへしてやりました。まさかお得意の「何うもありがたうございます」も、とても言はれませんもの。北海道は大へん気候が悪いさうでございますね。作物は如何ですか? たけのさんがおたづね下さるとの事、それはおなつかしうございます。何卒おついでの時、よろしくお伝へ下さいませ。お待してゐますと。たけのさんさへ博覧会を見ないんですもの、私などまだ見ないのもあたりまへの事、此の分ならもう見られないかも知れません。私、外へ出る事は大きらひです。あんまり人がごちゃ/\で息苦しい様なんですもの。赤ちゃんと一しょに朝か晩、散歩に出るのがたのしみです。ずっと後は駒込とかいふ所でした。木が沢山茂ってゐるので何だかおそろしい。高い所から眺めるのが好きで御座います。いろ/\なりっぱな家の垣根越しに種々な花が見られます。あぢさゐが、それは/\きれいです。ざくろの花は火の様に真赤なんです。此のお家にもざくろが咲いてゐます。梨の木だの楓だの、椰子でしたか棕梠でしたか、名は忘れましたが、おそろしく葉の棒の様に長いのがついた木があります。私が来た時に一尺ほどしかなかったダリヤが今では七尺ほど高くなって、もう直きにお縁の軒より高くなるのださうです。真赤な花が一輪咲いて大分大きくなってゐたのが、春彦さんのおけがの日の強い風で折れてしまひました。先生は、かはいさうに、坊やの身代りだ、なんて奥様と二人で愁然としていらっしゃいました。残りのが太い棒に結付けられてまだ花が咲きません。道雄さんの事を書いてゐた時、先生がいらしってしきりに何だか書いていらっしゃいましたが、それはまた服部内務部長へのお手紙なんです。此の間出した手紙の返事もないので、また書いてやるんですって。然ういふ事は、私事でないから是非あゝいふ人の耳に入れておかねばならぬのださうです。ただ今七時頃でございます。御飯がすんでから書き出したのです。何だか種々書かうと思ひましたが、立ったりすはったりして落付が無かったので一向纏のつかない手紙ですが、御両親様よろこんで読んで下さるだらうと信じてニこ/\して筆をとめます。ではこれで、さよなら。
皆々様の御健康を祈り上げます。
幸恵より
 愛する
  御父上様
  御母上様
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(以下二信)
高央にまた出しましたが返事がないから、達者でゐるのだらうと思って、返事が無くても喜んでゐます。もう試験で随分いそがしいのでせう。かはいさうに夏休みも十日ぐらゐしかないなんて。鶏さんふえておめでたうございます。畑もすんでおめでたうございます。三本白や囗の赤ちゃんは如何ですか。今も畑の中を馬車を通されたりするのですか。何時土地の事は解決がつくのでせう? 随分腹立しい事でございますね。
伏根さんの息子、ほんとうに惜しい事です。それをきいた時、何だかいろ/\な事が思ひあはされて悲しくなって泣きました。これからは健康体が一ばん必要になりますのね。私は幸に何も苦しい事は無いのです。暑いと言ったって然う大さはぎする程の事もありませんから、決して御心配下さいますな。梅雨のうちですから無やみと蒸暑い事もありますが、何でもありません。梅雨がはれてほんとの暑さが来て、うんと暑かったら訴へ出ますから……。夕方になったら奥様も起きて、大分お気分がおよろしい様です。私が朝晩赤ちゃんの守をするのを何んぼありがたがるんだか、昨日なんか涙をうかべていらっしゃるので、私恐縮してしまひました。「少し悪い顔でもすればいゝけれども、幸恵さんいつもおんなじ顔していらっしゃる」と仰るので、その悪い顔をしようと思ったら、スッカリ忘れて今日また赤ちゃんと大笑ひして遊びました。一人遠くはなれると、我まゝが無くなるから、かはゆい子はたびに出せとは実に理であります。
高央も真志保もきっとえらくなります。私、此の間夢を見たら、何だかおそろしい、えらい人が二人来たので、此の家の玄関へ私が両手をついておじぎをしてから見たら、高央が八髯をはやしてあごにも髯をはやして紺かすりの着物を着て、真志保はあのまゝの顔して運動シャツばかり着て扇子を持って大いばり。おや! といって立上ったら目をさまして、ざんねんでした。今度こそ左様なら。
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知里高吉・波子宛
大正十一年七月十七日付(東京発信)


愛する御父様と御母様、お手紙を誠にありがたく頂戴致しました。御両親様御壮健のよし、何より嬉しうございます。浜のフチや山のフチの御不快、其の後如何でございますか。浜のフチは道雄さんの帰省でスッカリ癒ってしまったと昨日道雄さんから便りがありましたが、山のフチは何うかとお案じ致して居ります。あんまり根づめて仕事をするから、また肩が痛くなったでせう。
幸に坊ちゃんのおけがは大した事もなく、もう追々と快方に向ひました。一昨日あたりから草履をはいて外をあるく事を許されて大よろこび、暇さへあれば戸外へ出て虫とりをしていらっしゃいます。此の程傷口を縫った糸も抜きました。坊ちゃんは傷まけをしないのでまったくよかったのです。私も相変らず白くない顔してイヱウタンネして坊ちゃんのお相手してお伽噺の本を読んだり、絵本のページを繰ったりして楽しく暮していますから御安心下さいませ。大分暑くなって風呂は家でわかす様になり、毎日沐浴する事が出来る様になりましたので、毎晩好い気持で寝られます。
昨日、先生の弟さんが突然見えて、昨夜は大賑やか、今しがたお帰りになりました。これで先生の弟さんは三人にお目にかゝったのです。御兄弟は十二人で先生が御長男ですって。先生の姉さんが養子を迎へて家を相続していらっしゃるんですって。
弟さんたちは何の方も/\やっぱり先生に似て感情の温い方の様に見受けました。昨夜は其のお客様でお座敷がせまくなり、奥様が私の蚊帳の中へおはいりになりました。蚊帳を吊る様になってから、私はお書斎に寝てゐます。電気を消して寝るので気楽に眠る事が出来ます。
伏根さんの息子さんは、とうとうなくなったさうでございますね。ほんとうに惜しい事でした。伏根さんの悲も思やられます。まさか息子を殺さうと思って勉強させた訳でもなかったんですから。栗山さんも心臓病になったさうですが、気の毒な事です。
まったく病気ほど困る事はありませんね。皇太子殿下行啓で北海道は随分賑かなさうですが、お父様やお母様も拝奉りましたでせう? 温泉へ行啓あそバされましたでせうか。
東京はこれと云って変った事もございませんので、手紙の種がありません。たゞ毎日お天気が続くばかりです。
此の間(おはなしゝたかも知れませんが)岡村千秋さんと云ふ方にお目にかゝりました。写真屋同道、私の写真を撮って行きましたが、少々面喰ひました。
嘸かし立派に撮れた事と思ってゐます。
私の炉辺叢書はまだ出来ません。肝腎の渋沢法学士が御結婚の為に少々延びたのださうです。主宰者柳田国ママさんは只今洋行中なのださうです。
此の頃は暑いので、家の奥様、頭が大へんお悪いのでお気の毒でなりません。
先生が、お父様から手紙を貰ったと仰って喜んでいらっしゃいました。
高央さんは相変らず、音沙汰はありません。真志保の漫画はかゝさず訪れます。
此の頃、夜飛行機が飛ぶので随分賑かです。奥様と坊ちゃんと夕涼に出ては見物してゐます。高いお空を赤や青のあかりをつけて飛ぶのです。昨夜などは飛行機で花火をあげた、いゝえ花火を下げたのかも知れません。隈なく晴れた夕空に二つ三つ星がまたゝいてゐる時、ズドンと微かな音とともに、星ともまがふ金色の玉がパッとあらはれて、アッと思ふ暇も無くそれがパーッと砕けて赤く青く太陽のやうに天空を照したかと思ふと、一時にスッと消えてしまふ美しさは何とも云はれません。
飛行機でなくても此の頃はよく花火があがります。上野の方であがるのださうです。昼は暑いかはりに、夜はかうしたたのしみがあるのです。此処は場所のいゝ割に静かで、近所に工場もありませんから煤煙で空気がよごれる事はありません。
それに大学には樹木が沢山ありますから、鳥の影さへ見られます。夕方赤ちゃんを抱っこして大学の銀杏の木の下のベンチに腰をかけてゐると、何だかペナイサキペナイかヲカチペにいた時の事が思出されます。
今はもう十一時頃で、手紙を書いてゐると汗がダク/\流れて来ます。まだ八十四五度で、大した暑さでもありません。
今日は失礼してこれだけに致します。何うぞよろしく、浜のフチにもみなさんにお伝へ下さいませ。山のフチ、成るべく肩をやすめる様におはなし下さいませ。みっちゃんは大へん可愛らしい、おとなしいいゝ子になったさうで姉さん大よろこびです。何卒よろしく。
さよなら
  御父上様
  御母上様
      御もとに
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知里高吉・波子宛
大正十一年八月一日付(東京発信)


(書き出し数行分欠落)
真志保も帰省のよし、当人は勿論の事、ふちたちや御両親様の御喜悦如何ばかりかと、遙々推察致し、独りほゝえみを禁じ得ません。高央、真志保、操と揃ふときは、何んなに面白くたのしい日を御両親様がお持ちなさるかと、私もまた我家にあるが如き思ひで日を送ってゐます。
寺内さんはまあ何て不幸が続くんでせう。あんなに楽しんでゐた息子さんが死んだんですって。チマビルさんもかはい想に。旭川でも、あの丈夫さうなちっとも死にさうな顔もしてゐなかった子供が死んだと聞いて、人生の無常をつく/″\感じさせられました。弱い何も出来ない様な私が生残って、ピン/\とした人々がさっさと召されてゆく所を見ると、人は強いから長生するとハ限らないものだと思ひました。弱い何もならない様に見えるものも必ず何か使命を持ってゐて、此の世に為すべき事があるからこそ、神が生かしておきなさるのでありませう。
当地には奥様のお姉様が一人いらっしゃいます。もう一人姉さんが門司にいらっしゃると聞いてゐます。東京にいらっしゃる姉様に娘が三人あって、上の人たちは嫁いで、末の娘が家を継いで、今年の春お婿さんを取ったんださうです。その娘さんが先月十三日にいらして、私もお目にかゝりました。それは/\お人形さんの様な美しいところへ、そのやさしいことと来たら話にもならないほどで、奥様などと呼ぶにはあまりに痛ましい様な、今年二十歳だと云ひますが十六七にしか見えないお嬢様でありました。先生がお不在でしたから、奥様と坊ちゃんと私と四人でお昼を食べてしばらく遊んで帰られました。
ところが二十六日の朝、私はお書斎に一人で寝て朝はいつも早く起きて一人で勉強するのが常ですから、其の日も朝四時半頃本を読んでゐたら、御門の方であはたゞしい足音がしたかと思ふと、錠のかゝってゐる門をトン/\と叩いて、金田一さん/\と呼ぶのは女の声、誰も起きてゐないので私がハーイと答へて飛出して門を開けると、みいちゃん(前の娘さん)の姉さんの大きい方でした。息をはづませながら先生をよんでくれと仰るので御座敷へ飛んで行ったら、先生も奥様も寝衣のまゝ飛出したので、奥様のお尻へくっついて私も行ってきいたら、その姉さん息がつまって物も云へないので、奥様が水を上げるとやっと息づいて、『実はみつが昨夜とんだ事になりまして……あの汽車で自殺をしてしまひました』といふのです。みんなでびっくり、奥様が泣くので私もつひ泣いてしまひました。其の日は一日、赤ちゃんをあづけられて先生も奥様もお出かけなさいました。坊ちゃんの全快祝ひのおこはを食べながらおるすゐしてつく/″\思ひました。人の命ほど果敢ないものはない、と。
みいちゃんは日頃、神経衰弱にかゝってゐられたのださうです。お父様がいらした時分は大そう楽に暮してゐたのですが、なくなられてからお母様とたった二人で、お父様の残した六千円だかのお金の利子で暮してゐたのださうです。月に二十五円ほどなのださうです。折柄の物価騰貴の為、随分苦労して人の仕事などしながら今日に及んだのですが、お婿さんをとれば少し楽になるかも知れないといふのでこんどのおむこさんが来たのですって。そのお婿さんはまた非常にいゝ人で、みいちゃんとは大変仲がよかったんですが、非常な交際家でお客が沢山来るので、お金が費って/\お母様はいそがしくて/\目がまはりさうなんださうです。
それでその母様が愚痴ばかりならべるし、財政上にもいつも不足を来すので、非常に困難になってゐたのですって。そしたら旦那様が此の程、富士の裾野の方へ出張を命ぜられて出かけたるすに、今度旦那様が帰ってから海水浴に行く約束だから其の時の着物にと買っていたゞいた着物を明日縫ひませうなどと母と語って、一寸涼みに出かけようと出て行ったらそれっきり帰らないのですって。お隣りの人と話をしてゐたお母様は、心配になったので探しに行ったら、人がわや/\通るので何かあったのですかときいたら、汽車にひかれた人があるのだといふのでびっくりして何んな人かときいたら、十七八のお嬢さんで、着物は斯々、帯は斯様と教へてくれたのが娘の服装とちっとも変らないので腰を抜かしてしまったのださうです。
みいちゃんの屍体は其のまゝ拾はれて棺桶に入れられましたが、明けて見た人は一人もなく、宅の金田一先生お一人ださうです。あの美しかったみいちゃんが、すっかりめちゃくちゃになってゐたさうです。神経衰弱にかゝってゐたので、ちょっと気がふれたのだといふ話でした。そんな事があったので奥様はまた頭が悪くおなりでしたが、此の二三日また元気におなりです。二十五日の昼食後、直ちに私は坊ちゃんと一緒に先生に連れられて博覧会見物に出かけました。電車に乗って何処をまはってか、第一会場へ行って見たのですが、たゞもうごちゃ/\目のまはる様にならべられて、札幌の開道博覧会と別に変りはありませんでした。
二度も三度も氷を飲んだりいろ/\な物を御馳走になりました。南洋人の歌劇は面白うございました。黒い人がやるのですから面黒いのかも知れません。南洋人の子供はほんとうにかはいらしいのです。アイヌによく似てゐます。
つひでに第二会場も見ませうと言って出かけて行ったら、九時までだからもう七分しかないと云ふので見ずに帰りましたが、第二会場の夜景は実に見事なものでした。今度帰ったらいろ/\おはなし致しませう。帰りには奥様のお好きなドーナツを土産に、坊ちゃんと私は絵葉書を二組づつ買って戴きました。
博覧会見物で私の心に残ってる印象は、南洋人と其の言葉の面白かった事、噴水の傍の涼しかった事、赤、青、紫黄の電気の色で噴水の美しかった事、熱帯植物だの、一本参百円なんて札のついた二尺五寸位の松の植木だの、美術館の二等だったかの囗賞付の豚の絵、それから大道で田舎の婆さんらしいのが自ママ車が疾走して来るのにわきへよけずに、自働車が婆さんを避けようとするのに其の行手へ走りよるので、みんなでわい/\騒いだ時の婆さんのあはてた顔、休息した時のサイダーといちご氷とハムライスとかいふ西洋料理の美味しかった事、しのばず池の夜の景、会場の種々な色の電燈とお空の星がうつって、それが小波にゆら/\とくだけるさま、底暗い青空にぬっくと聳える平和塔の雄大さ、人がまるで黒山が動く様にうぢゃ/\ゐた事、暑かった事、文化村の家の小じんまりして気持のよかった事。思出すままに書けばまだ/\ありますが、先づこれだけぐらゐにしておいて、今度おはなし致しませう。
日常生活は相変らずで、先生は暑中休暇中に聖典集を書上るとかで忙しく勉強していらっしゃいます。その御相談相手で毎日アイヌ語の講釈見たいなことをしてゐます。
奥様からたのまれて綿入れを縫ってゐますが、昼二時頃になると奥様とむかひあったまゝ仕事枕にぐっすり寝て、大概一時間半ぐらゐは昼寝をします。夜になるとマッサージの先生が来て、奥様がその療治をうけていらっしゃいます。信者の人です。夜寝るのは大概九時半から十時頃までで、お書斎で蚊帳の中で一人で寝るので、起きるも寝るも自由で大そう気楽でございます。眼をさますと直ぐに起きてそっと雨戸をあけると、清々しい朝の涼気が熱い頬をそっと撫でゝゆき、おいらん草だの朝顔だの日まはりだの鳳仙花だのが美しく咲揃って、中にも月見草がやさしくほゝえんでゐるのを見る事が一ばんうれしうございます。今夜も輪のかゝった朧月夜で暗い晩でございますが、月見草が闇のうちからほの白う咲出でて、故里のさまを思起させます。
時々夕立の来ることがありますが、それは/\気持のいゝもので、一日の暑さがすっかり拭ひ去られてすっかり生きかへった様な気持になります。毎夕家で風呂がたちますので、一日の汗をすっかり洗ひ流すことが出来ていゝ気持です。
ダリヤはもう八尺以上のびました。真赤な大輪が二つほど咲いてゐます。風に折れなかったらもうちと背丈せいがのびて、花も沢山咲くでせうに……と奥様が仰っていらっしゃいました。お庭が広いので春彦さんは毎朝虫とりをなさいます。びんの中へ水を入れて蝿だの玉むしだのへんな昆虫を一ぱいあつめては私のところへ持って来るので、相手になって大さはぎして遊んでゐます。ハーモニカを吹いたり本を読んだりしてよくお相手をするので、幸恵が好きだと云ってゐます。
英語は毎晩かゝさず教はってゐます。ねむくなるので此の頃は一課づゝです。此の程小さいのと大きいのと英語の辞引を二冊先生に戴きました。
かうしていつもわだかまりのない心で誠心を持つゞけて、おだやかにつゝしんでゐる様に修養してゐますから、先生も奥様も大そうよくかはいがって下さいます。赤ちゃんは若葉さんといふ名前で、此の頃メッキリ大きくなってコロ/\肥ってゐます。まんまる坊主になって戸外へばかり出たがるので、家中の人が交る/″\抱っこして出るので真黒くなって、外で会ふ人は誰も女の子だといふ人はありません。
御両親様は皇太子殿下を拝し奉ったとの御事、おめでたう存じます。私ハ東京にゐても皇族様もまだ拝しません。まだ/\書けば明日までゞも書けますけれども、郵便切手ばかり沢山要りますからこれだけに致します。あゝそれから五六日前に先生から五円お小費をいたゞきましたのでお銭に苦労する事はありませんから、いかさきだの其の他の収入は何卒弟たちの学費に充てゝ下さいませ。私の事は決して御心配下さいますな。
夜の事でもありますし、思出すまゝに書つらねますのでずいぶん文字が存在ママになりまして申訳がございません。どうぞ我慢して読んで下さいませ。またおひまの節は我まゝながらお手紙をおねがひ申上げます。登別もずいぶんお暑いよし、皆様お自愛専一に。高央は二日か三日に帰って何日ぐらゐおやすみですか? 高央、真志保、操、お腹を冷したり悪くしたり川へ落っこちたりしない様に祈ります。山のふちもあまり稼いでまた骨だのあちこち痛くしない様に。浜のふちにもよろしく。ふちたちが仲よく遊ぶ様に祈ってゐます。
その他の皆々様に宜敷。ではこれで失礼致します。また此の次に沢山書きませう。東京に独り居りましてもちっとも淋しくはありません。身を神に任せて我家のため、人の為祈るほど幸福な気持はありません。さよなら、おやすみなさいませ。
フチたち、高央、真志保、操によろしく。
有珠の姉さん何うしたでせう。
  愛する御父様
  愛する御母様
   八月一日夜十一時十五分書終る
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知里高吉・波子宛
大正十一年九月四日付(東京発信)


先達は御手紙をありがたう存じました。皆々様お変りも無く御消光のよし、嬉しく/\感謝致してゐます。
長い夏休みも夢の間にすぎて、愛する児等がまた散々に学びの庭へ帰って行ったあとは嘸お淋しくいらっしゃいませう。真志保は鉄道故障の為帰りが遅れたとの事ですが、今はもう無事に旭川で勉強してゐるのでせうね。
直ぐに御返事も差上げず、定めし御心配下さいました事でせう。またお怒りになったかも知れません。ちょうど一週間ほど御無沙汰致しました。何時も病気々々で腑甲斐ないことでございますが、この前の御手紙は二十八日、病床の中で拝見致しました。ちょうど其の日の明方から苦しみはじめて、御飯も食べずに寝てゐましたので。まったくひどい目にあひました。胃が悪くなったのです。八月はじめの病気がなほって少し涼しくなると、大層御飯がおいしくて何時も沢山食べてゐました。沢山といった所で二膳づゝなんです。山盛の事もありましたからまあ二膳三分の一位なものでした。そして、悪くなる三四日前から少し通じがなくて、お腹が張ってゐましたが、二十七日の晩奥様が馬鈴薯を煮たので珍しくて一皿食べたらそれが胃袋のなかであばれたのでせう、よあけ頃から胃部が痛くて、其の為か左右の胸から背骨のあたりから背中一ぱい錐で揉まれる様な痛みを感じて、縦になっても横になっても仰向けになっても腹這ひになっても立ってもすはってもゐられないで息もつけない様な苦しみをしました。が、奥様はよくねむっていらっしゃるので成るべく音をたてない様にしてゐたら、二時頃からはじまったのが四時頃になってだん/\よくなって、四時半には起きてお書斎へ来てすはってゐた時はよほど落ついた様でした。先生は二十五日の夜十一時発で盛岡へいらして、二十八日の朝七時頃お帰りになりました。其の日一日は床の上でねたりすはったり、息つくたびに胸を刺される思ひをつづけましたが、翌日は大層よくなりました。先生が大学病院の坂口博士の所へわざ/\お出かけ下さいましたが、お不在だったさうです。
そしたら三十日だったでせう、朝五時頃今度は心臓があばれて息が出来なくなり、奥さんは医者よびに、女中さんは氷買ひに、先生は水で冷したり水をのませて下すったり、坊ちゃんはさすって下すったり家中で手当して下さいました。おかげで五分位で動悸が静まりました。岡村とか岡崎とかいふ医者が来て診察して下さいました。あの頃は随分暑かったのでたいへん胃の弱る時で、丈夫な人でも平常と同じ程食をとると胃が悪くなるんださうです。それだのに心臓が悪いんですから、少し胃がふくれると直ぐに影響するのださうです。私もすっかり参ってしまって三日ばかり絶食同様、一日牛乳を半茶碗ぐらゐづゝ飲んで消化薬をお医者さんから貰って飲んでゐましたが、もう一昨日あたりからすっかりよくなって起きてゐてもいゝんですが用心して昨日まで寝てゐました。今日はもう起きてゐます。三十日に悪くなったのは前の日にたいへんよかったのでお粥を茶碗に八分目ぐらゐと卵を食べたら、それが悪かったのでした。あの時に用心して何も食べなければよかったのです。かはいそうに胃吉さんが暑さに弱ってる所へ毎日々々つめこまれるし、腸吉さんも倉に一ぱい物がたまって毒瓦斯が発生するし、しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがってもがいてゐたのが、やりきれなくて、死物狂ひにあばれ出したものと見えます。まあ/\それでもこんなによくなって感謝の至りでございます。自分の病気の事ばかり長々と書連ねまして誠に相すみません。私も折角の機会ですから、これを逸せずもう暫く止まって一年か二年何か習得して帰りたいことは山程で、今頃病気だなどとおめ/\帰るは、涙する程かなしうございます。然し御両親様、神様は私に何を為させやうとして此の病を与へ給ふたのでせう。私はつく/″\思ひます。私の罪深い故か、すべての哀楽喜怒愛慾を超脱し得る死! それさへ思出るんですが、神様は此の罪の負傷いたで深い病弱の私にも何事か為させやうとして居給ふのであらうと思へば感謝して日を送ってゐます。
今一度幼い子にかへって、御両親様のお膝元へ帰りたうございます。そして、しんみりと私が何を為すべきかを思ひ、御両親様の御示教を仰ぎたく存じます。半年か一年ほど……。旭川のおっかさんは許してくれる筈です。
今月の二十五日に立つことに先生や奥様と決めました。あまり早過ぎるでせうか。やはり室蘭廻りがよからうと先生のおはなしでございました。それまでに一度大学病院へ先生が連れて行って下さることになってゐます。そして坂口博士に診て戴いて、今後の養生法など仔細に承ることになってゐます。坊ちゃんは一日から学校、先生も今日は実践女学校の方へお出かけになるさうです。赤ちゃんも今日はいゝかと思へばまたうんこがやはらかくなったと奥様の心配の種になってゐます。それでも此の頃は大変丈夫になった様です。奥さんは、先生が御帰省中私が先生の代りやくで夜赤ちゃんの世話をしましたので、安心してよくねむれ、頭も少しよくなったのですが、此の頃またあまりよくない様です。何でも赤ちゃんの泣声をきくとかっとなって死にたくなるさうです。頭の痛い原因には私もはいってゐることと恐縮してゐます。少しいゝ時は非常に御きげんがよくて、何うしてかんしゃくもちなんだらうってくやしがるし、いろ/\な、修養に関する意見も立派なものですが、さあ悪い時は、たゞ死にたくなってかんしゃくが起きておこりたくて堪らないんださうです。神経衰弱って随分おそろしい病気だと思って見てゐます。先生はまた気の長いったらたまげる程です。それでも先生も奥様も今まで同居した人で私ほど気の長い人はなかったと言っていらっしゃいます。私は何も腹の立つ事などありませんが、病気で寝てゐる時はたゞ気の毒で/\堪らないんです。赤ちゃんが泣いても抱く事も出来ないし、奥さんは一人で気を揉んで泣きさうになってゐるし、女中さんは洗濯、先生は勉強にいそがしいし、私一人寝てゐてお粥を煮て貰ふんですもの。でももうよくなりましたから大丈夫です。
今日は何を書いたかわかりませんが、ずいぶんぞんざいで誠に相すみませんでございました。では二十五日に帰りますから、よろしくおねがひ致します。そして汽車賃は旭川のおっかさんが送ってくれるはずですから、何卒柳行李と弁当料だけ御都合の時に御恵与の程おねがひ申上げます。これからも度々こんな風にからだが悪くなっちゃ、とても気兼々々で、私の弱むしは困りますから成るべく御迷惑かけないうちに帰りたいと思ふのです。旅の途中などは大丈夫です。船にも汽車にも酔ひませんから……。
随分秋らしい気分になりました。夜はよすがら虫の音が哀れにももれて参ります。先生は、夏休みの中に書上げる筈のオイナがまだ半分しか出来ないので、こんどは学校と其方で転てこ舞です。坊ちゃんは私が帰るといふので、毎日の様にお書斎へ来て、花の種だの南京玉だのかたみに上げるって大さはぎ、奥さんは、先生が盛岡から持っていらしたまんぢゅうだのようかんだの私と一しょに食べやうと思って毎日待ってゐるんですって。今度私がなほったらお汁粉の御馳走が出来るさうです。来年またいらっしゃいって、此の前奥さんと二人で、別れる話をして、奥さんも泣いて下さいました。
私の心臓さへよくて、奥様の頭さへよければ、毎日たのしく/\暮せるんだなんて、同病相あはれむのたとへ、私たちも、しみ/″\話をしたのでした。そして、「ほんとにごめんなさい、私さへ頭がよければ貴女に何も心配させたり、気兼させたりすることはないのに、何の面白いこともなくお帰しするのはほんとに苦しい」と仰いました。先生や奥様のおはなしでは、大学の方からアイヌ研究の補助金が出るんださうです。今年出るはずのが、出なかったから来年とかは必ず出るんださうで、さうなれば、私を呼んで、生花でも何か好きなものを習はせるとの事です。本当は今年出来ると思ってゐたのが出来なかったのだと残念がっていらっしゃいました。まあ/\種々なことはあとで帰ってからゆる/\お話致しませう。とにかく二十五日に帰ります。
旭川からは、十五日に金を送るとの事ですが、私柳行李が一つ欲しいから、我儘勝手で相すみませんが、何卒出来たらばその前に柳行李代だけ御送り下さいます様おねがひ申上げます。先生からお餞別をもしいたゞいたら書物でも買って帰ります。涼しくなって、食が進む時はとかく胃腸を悪くしやすい時ださうですから、皆々様おたいせつに。操ちゃんによろしく。フチたちにも沢山よろしく。道雄さんかはいさうに、私の所へも私が病気の最中手紙が来て入院してると云って来ました。まったく困ったものですね。病気になるんなら、ほかの若いピン/\した人たちの病気がみんな私のところへ集って来て、その代り誰も病気しないんなら何んなに嬉しいでせう。彼の人にもまだ見舞状を出しませんが嘸うらんでゐるでせう。では、これで失礼致します。
さよなら
幸恵より
 愛する
  御父上様
  御母上様
[#改ページ]
知里高吉・波子宛
大正十一年九月十四日付(東京発信)


愛する御両親様、おいそがしいなかをお手紙を下さいまして誠にありがとう存じました。また沢山のお銭をお送り下さいまして何ともお礼の申上げやうも御座いません。ほんとうに御都合の悪い所をおねがひ申上げましてほんとうにありがたうございました。二十五日に帰る予定でしたが、お医者さんがもう少しと仰ったので十月の十日に立つことに致しました。めづらしくよほどやせましたので、すっかり恢復してから帰ります。でも此の頃は大方もとのとほりのふとっちょになりました。まだあとざっと一月もあります。坊ちゃんが大よろこびしてゐます。私のカムイカラの本も直きに出来るようです。昨日渋沢子爵のお孫さんがわざ/\その原稿を持って来て下さいまして、誤りをなほしてもうこんど岡村さんといふ所へまはって、それから印刷所へまはるさうです。渋沢さんは、先生と私をお邸へ招待して下さる筈になってゐたのが、今度急にロンドンへ在勤を命じられたとかで暇がなくなったんださうです。りっぱな方でした。
坊ちゃんは毒むしにさされて、チン/\の先がピセみたいになって医者へ行ったりして、二日休学。今日はすっかりなほって学校へ元気で行っていらっしゃいました。赤ちゃんはお丈夫、奥さんは、相変らずよくなったり悪くなったり、ごきげんになったりごきげん不良になったり。先生は忙しく学校通ひ。私は奥さんのお裁縫を手伝ったり、先生のアイヌ語のお相手になったり、ユカラを書いたり、気まゝな事をしてゐます。
一番坊ちゃんのお相手と赤ちゃんのおもりが多いやうです。赤ちゃんは此の頃ふとってたいへん重くなりました。
兼松さん御死去のよし、お気の毒ですね。とう/\なくなられたんですね。さぞ、みなさんおかなしみでせう。御同情に堪えません。
去る七日、私は名医の診断を受けました。その前の日先生が、何処かで何とかの同窓会へ御出席でしたが、その時、たのんで下すったのです。先生と同郷の方で中学時代の同級生、今は九州帝国大学教授医学博士で九州大学病院を一人で背負って立ってゐるといふえらい力もちだといふだけに、大そうふとって岩根さんみたいな、はだのすべ/\した小野寺といふ博士が七日の日にいらっしゃいました。お座敷で叮嚀に診て下すって。先生にすっかり何かをおはなしになり、診断書をママていらっしゃいました。奥様もみてお貰ひになりました。奥様は何処もお悪くない、たゞ気持でなほるさうです。私の方は、やっぱり心臓の僧帽弁狭さく症といふ病気で、其の他には病気はありません。呼吸器もいいさうです。そして前の坂口博士が仰った様に、無理を少しすれば生命にかゝはるし、静かにさへしてゐれば長もちしますって。診断書には、結婚不可といふことが書いてありました。何卒安心下さいませ。
私は自分のからだの弱いことは誰よりも一番よく知ってゐました。また此のからだで結婚する資格のないこともよく知ってゐました。それでも、やはり私は人間でした。人のからだをめぐる血潮と同じ血汐が、いたんだ、不完全な心臓を流れ出づるまゝに、やはり、人の子が持つであらう、いろ/\な空想や理想を胸にえがき、家庭生活に対する憧憬に似たものを持ってゐました。本当に、肉の弱いやうに私の心も弱いのでした。自分には不可能と信じつゝ、それでもさうなんですから……。充分にそれを覚悟してゐながら、それでも最後の宣告を受けた時は苦しうございました。いくら修養しよう、心ぢゃならない、とふだんひきしめてゐた心。ずっと前から予期してゐた事ながらつぶれる様な苦涙の湧くのを何うする事も出来なかった私をお笑ひ下さいますな。ほんとうに馬鹿なのです、私は……。
然しそれは心の底の底での暗闘で、つひには、征服されなければならないものでした。はっきりと行手に輝く希望の光明を私はみとめました。過去の罪ママ深い私は、やはり此の苦悩を当然味はなければならないものでしたらうから、私はほんとうに懺悔します。そして、其の涙のうちから神の大きな愛をみとめました。そして、私にしか出来ないある大きな使命をあたへられてる事を痛切に感じました。それは、愛する同胞が過去幾千年の間に残しつたへた、文芸を書残すことです。この仕事は私にとってもっともふさはしい尊い事業であるのですから。過去二十年間の病苦、罪業に対する悔悟の苦悩、それらのすべての物は、神が私にあたへ給ふた愛の鞭であったのでせう。それらのすべての経験が、私をして、きたへられ、洗練されたものにし、また、自己の使命はまったく一つしかないと云ふことを自覚せしめたのですから……。もだえ/\苦しみ苦しんだ揚句私は、すべての目前の愛慾、小さいものをすべてなげうって、新生活に入り、懺悔と感謝と愛の清い暮しをしやうと深く決心しました。神の前に、御両親様にそむき、すべての人にそむいた罪の深いむすめ幸恵は、かくして、うまれかはらうと存じます。何卒お父様もお母様も過去の幸恵をお許し下さいませ。何卒おゆるし下さいませ。そして此の後の幸恵を育み導いてやって下さいまし。おひざもとへかへります。
一生を登別でくらしたいと存じます。たゞ一本のペンを資本に新事業をはじめようとしているのです。明日をも知らぬ人の生、たゞあたへられた其の日/\を、清く美しく、忠実に送って何時召しを受けてもいゝ様に日を送れば、それでいゝんですから。私は小さな愛から大きな愛を持って生活しやうと思ってるのです。
私の今の心持は、非常に涙ぐましい程平和で御座います。にくみもうらみもなく、たゞ感謝にみちてゐます。
私のすべての気持を書きあらはすことはとても出来ません。たゞ、此の事で、名寄の村井が何んな事を感ずるかと云ふことが、私の胸を打ちます。しかし、何卒彼が本当に私をよりよくより高く愛する為に、お互ひの幸をかんがへ、理解ある判決を此の事にあたへる様に、と念じてゐます。
本当に罪深い私でした。何卒おゆるし下さいませ。親にむかって図々しくも斯様な事を書ならべて、嘸や御不快でもいらっしゃいませう。私は、此の後、一生沈黙をつゞけます。ほんとうに無言で暮しませう。たゞその生活に入る前に、私が此の世に於て人間としてあたへられた、此の苦しみ、此のなげきと、さうして最後にあたへられた、大きな愛、使命の自覚などと云ふ心の変りかたを御両親様に申上げます。お察し下さいませ。
昨日、名寄の方へ知らせてやりました。何んな返事が来るか知りません。何卒お情に、もしをりがありましたら、彼に何とか言ってやって下すったら私の幸福は此の上ありません。フチたちや皆々様によろしくお伝へ下さいませ。十月の十二日頃はお目にかゝれます。室蘭までのお出迎へは、おそれいります。ありがたうございます。南瓜や芋を少し残しておいて下さいませ。油のはいったキナオハウだのエンドサヨだのが欲しくなりました。帰る前にまた奥さまと何処かへ出かけるんださうです。旭川からの手紙で、何だか有珠の姉さんのごた/\がある様にきゝましたが、何うしたのですか? 北海道はずいぶんあちこちの水害で不景気なさうですが、米は高いでせうね。
道雄さんからまだ入院してると手紙が来ましたが、でも大分よろしいらしいので安心してゐます。かはいさうに真志保、たいへんなんぎして旭川へ行ったんですね。高央には相変らず出してもサッパリって一枚も返事は貰ひません。達者でゐるんでせうね。操ちゃんによろしく。
農繁期でみなさんおいそがしくいらっしゃいませう。東京は此の頃また、暑くなりました。でもやはり秋らしい感じが澄んだ青空にも木の葉を揺りうごかす風にも豊かに満ちてゐます。北海道は涼しくなりましたでございませう。トンケシのウナラペに着くか何うかと思ひながら先頃はがきを出したら、昨日返事が来て一人で笑ひました。
先生の弟さん、直江と云ふ方の子供さんが此の程脳膜炎でなくなられて、其の御法事のお菓子が送って来ておいしいお菓子を食べてゐます。今夜はくだらぬ事ばかりならべました。何卒おゆるし下さいませ。
先達はほんとうに御心配かけました。今度は帰るまで大丈夫でございます。今私は平和な平和な感謝の気分にみたされて、誰でもすべての人を愛したい様な気が致します。
何卒御両親様おからだをおたいせつにあそばして下さいませ。
さよなら
幸恵より
  愛するお父様
  愛するお母様





底本:「銀のしずく 知里幸恵遺稿」草風館
   1996(平成8)年10月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の凡例には、「読み易くするため、拗音と促音のみ現代用法に則った」と記載されています。
入力:川山隆
校正:松永正敏
2007年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について