戸隠の月夜は九月に
昔、寺侍が住んでゐた長屋、そして一棟の長細い渡り廊下のやうな納屋の壁にそつて、鶏頭の花が咲いて、もう気の早い冬支度か、うづ高く薪が積まれてゐた。
古いイメージのやうな破風の藁屋根の影を踏んで屋敷の周りを一巡すると、私は前庭に出て、そのまま、廊下から庭に面した書院造りの一間に通つた。
本坊の庭は、今の
その夜の私の夢のなかでは――
前庭は、昼間のやうに月の光りが鮮かであつた。軽い空気草履のやうな足音がして、枝折戸の蔭から、一人の少女が現はれた。円顔の、耳環の似合ひさうな顔立であつた。少女は、二三歩あるくと、くるりと振り返つて、私の方は背にして、あらぬ方を向いて、おいでおいでをしてゐた。それから、つと、萩の一株にちかづくと、無心に花を摘み初めた。私は知つてゐるぞ、自分が見てゐるぞと心の中で思つた。すると、突然、萩盗人の少女は、私の方に向き直つた。折からの
私の夢は、もうそれとは何の脈絡もなく、他のものに移つてゐた。
私は、引手の金具に紫の総のついた、重さうな書院の襖をあけた。中は真暗であつた。私はその部屋を急いで横ぎると、又一枚、総のついた襖の金具をひいた。暗闇がやつぱり大きな口をあけてゐた。私はさうやつて、幾つの部屋を過ぎて行つたのだらう。そして、それは果して幾つ目の部屋での事であつたか、私は確かに、欄間に描かれた美しい朱色の牡丹を認めた。それが暗闇のなかで、私の足をとどめたのだ。
「――はおきらひ?」
そんな優しい声は、何処からもきこえてこなかつた。それだのに、
とがくしの朝は、樹木の多いせゐか、容易に私の部屋まで陽が射してこなかつた。畳廊下の上を踏んで行くと、私の足音で一つびとつの物が目ざめて行くやうだつた。
洗面所で、私は、むかう向きになつて立つてゐる坊の娘を見かけた。
娘は「お早うございます」と挨拶して、「こちらをお使ひ下さいませ」と云つて一つの洗面器をよこした。他の一つには、娘は水をかへて、
「竜胆ですね」と私が云ふと、
「今朝早く裏山で採つてきたのですが、色がすこし悪くつて」
さう云つてから「お部屋にお活けなさるのでしたら、もつといいのを、越水の原か、牧場まで行く道には、もうたんと咲いて居りますわ」とつけ加へた。
「これだつて、すこしも悪くはない」私はさう云つて、その一枝を手にした。とがくしの空色が散つたやうな、深い秋の匂ひがした。
「いい花ですね」私はもう一度云つた。一つの夢を見、もう一つの夢を見た。しかし、これは夢ではない、私はさう思ひながら竜胆の花をしばらく手離しかねてゐた。