現代日本の思想対立

戸坂潤






 二三年来、問題に触れて書いて来た社会評論の内から、手頃と思われるものを選んで、出版することにした。私はかねてから、批評の任務は努めて客観的公正を守るということにあると信じている。観察者には色眼鏡があってはならない、事実そのものをして語らせなければならないのである。
 尤も又私が信ずる処によると、評論は如何なる場合にも文学的特色を有っていなければならない。その結果、この小著にもまた私自身の特色のようなものが、自然と出ている。だが、思うに私というものは、現代日本に於ける民衆のただの一人であって、別に変った人間ではない。私の言論は多少とも通用する筈だと信ずる所以だ。
 一――六は思想界一般について、七――一一は自由主義反対の動きについて、特に一二――一四は国体明徴問題について、一五――一七は農村対策の問題について、一八――二〇は経済財政の問題について、夫々思想問題の角度から論じたものである。
  一九三六・一二
東京
戸坂潤
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一 三四年度思想界の講評



 昭和九年(一九三四年)一月以降について話をしたいと思う。便宜上、そうするばかりではなく、この年の一月を境にして、二三年来の日本の支配者的思想の動向に多少の変化が来たと世間では考えているからだ。
 この時を機会に政党や資本家や官僚は、軍部の社会的進出に条件をつけることが出来だしたと考えられている。前年あたりは全く手も足も出なかった、ブルジョアジー乃至地主の代表者達は、この年にはいってから、とにかく相当底力のある対抗を外面上軍部に対して感じさせているのが見られる。常時の在満機構改組問題の紛議などが、その著しい一例だろう。
 尤も軍部と政党乃至官僚とがいがみ合っているからといって、その対立をあまり正直に取ってはならない。鷸蚌いつぼうの争いは漁夫の利ということもないではないが、兄弟かきにせめげども外その侮りを受けずという真理も忘れてはならぬ。こういう喧嘩は、ちょうど夫婦喧嘩のように、どこまでが本気で、どこからが狎れ合いかということが、当人達にも仲々わからないものだ。
 で当年初めの議会を境にして軍部とブルジョアジーとの対立によって、日本の支配者思想界に多少の変化が来たといっても、この変化をあまり大げさに考えてはならない。これから見て行く通り、根本的な点では、満州事変以来、軍部とブルジョアジーとの思想内容は大同小異を出ないのだ。ただ行く処まで行ったものと、行きたいが思い切って行けないものとの相違があるだけだ。

 治安維持法の「改正法」案は衆議院を通過したが惜しくも貴族院で握り潰された。この改正法は、つまり転向しない左翼思想犯人を終身拘禁しようとするものなので、貴族院でも不賛成なはずはなかったのだが、右翼思想行動団体をこれで以て一緒に取締ろうと余計な慾を出したので物にならずに終ったのである。
 政府は右翼取締りの方は、やがて不法集団取締り及び扇動取締法案として別個に議会へ提出することにしたから、今度は治安維持法改正法案は無事議会を通過することだろう。即ち、右翼の確固不抜な行動は決して治安を紊る心配はない、という信頼がここに横たわっているのである。だから、その四月思想検事が一七名増加されたのも、無論主として左翼に対しての用意であることは明らかだ。五月の軍刑法改正委員会では、反軍の言動を軍刑法で処罰出来るようにすることに意見が一致したが、これで例の右翼取締法案の埋め合わせがつくというわけである。
 矯激な思想は併し、決して一片の法律の「改正」では弾圧出来ないと云われている。なる程その内に真理がある場合には特に益々そうだろう。
 そこで文部省がこの真理を暴露するために、夙に国民精神文化研究所を設けて国民精神思想幹部と下級幹部との養成につとめていることは広く知られている。それが文部大臣の議会における答弁用に出来上ったものにしろ、或いは〔国民精神文化研究〕所の学生が従来の学校なみにストライキや教官のボイコットをしたにしろ、夫は問題ではない。
 とに角五月になって、いまだ決まらなかった所長もフトした建部問題なるものをキッカケにして決定するし、研究所の建物は出来上るし、監督当局たる文部省学生部も思想局に昇格した。そこで府や市も、文部省には敗けてはいられないので、東京府では「思想対策委員会」を作って赤化教員の撲滅方法の研究をすることになった。これはしかし、東京市の例の教育疑獄事件に狼狽した東京府の学務当局が、相手を取り違えたのでは決してないので、実は国民精神文化研究所の出店(国民精神文化講習所)を作ろうというのである。現在文部省直属のこの思想警察を備えた府県は沢山出来ていると聞いている。
 さらに東京市では思想取締りの専任視学を置くことにした。贈収賄を取締る視学というようなものは、今日では概念上矛盾しているから、その代りにこれを置いたわけで、どっちも「教育浄化」になるのだから、それでいいというわけである。

 臨時議会の開催と岡田内閣の苦境とを見越して政党は急に党の政治意見を相談し合っていたが、ここでもまた思想対策は米穀対策と並ぶ大問題であるらしい。尤も政友会の思想対策というのは実は教育改革案とすり換えられているものだし、民政党のは、帝国憲法の擁護とか言論自由の確立とかいう、本家の文部省の思想対策とはあまり関係のないことに力こぶを入れているのだが、併し人気があって大事なのは、思想対策という言葉そのものにあるのだから、内容は何だって構わない。
 併し文部省は特別に精神文化の研究所を作ったり、文部大臣直属の思想警察官を置いたりしなくても、立派な師範教育というものを持っていたのである。全国の師範学校の制度を改革し、高等師範乃至文理科大学を師範大学に直し、それから師範教育を受けていない無試験検定の中等教員に対しては、高等師範に設置される中等教員訓練所で訓練を施すことにしようとしている。師範教育は有名な人格教育で、知育の代りに徳育を授けるものだから、凡そ師範教育以外に人類教育はあり得ないと思われるほど完全なもののはずだが、ところがそれが、どうやら怪しくなって来たらしいのである。というのは、文部省以外の官私の唱道で、文部省に無関係にもっと斬新(?)な教育制度が布かれはじめたからだ。
 現に農林省では十七八県に農民道場なるものを設置し、農村の中心人物を養成することになった。これはその模範を財団法人金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)学院日本農士学校に見出したもので、一つの新しい封建主義(!)を建設することを理想とする。金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)学院の主は安岡正篤氏で、氏の思想を中心として国維会が出来ており、時の後藤農相(後の内相)自身がこの会員の一人だというのだが、蓑田胸喜氏なる人物が安岡批判をやったために、この国維会は解散になったとかいうのである。だがこの農村道場はそんなことに関係なくドシドシ民間に浸潤して行くらしい。
 又例えば、播磨造船所長が平沼男や荒木大将や加藤寛治大将等と一緒になって二年間の制度の寺子屋を初め、これで文部省式な画一教育と知識教育とを打破しようという。
 司法省関係では皆川治広氏(当時司法次官)の大孝塾が出来上り、これも道場を設けて左翼党士に金をやって忠孝の研究をさせ、以て転向を確保し宣伝しようとしている。之などは最も明らかに文部省の日本精神文化研究所に対する不信を表明するものでなくてはなるまい。

 こうやって教育の大勢は「学校」や「大学」を去って「塾」や「道場」や「寺子屋」に移行し始めた。科学の研究が柔道や坐禅の類と化して来た証拠であるが、文部省もそこで遂に方針を変更せざるを得なくなって、矢張り道場や寺子屋を思想教育の補助としなければならなくなって来た。で文部省は二三の高等農林学校内に寺子屋式の拓殖訓練所を設けることにして見たりしている。
 すでに東京府では少年少女のために「少国民精神殿堂」という精神道場を建てることになったし、また日満両国の青年の精神的融和をはかる私立の清明会の修道場「清明苑」も出来るし、神奈川県には屯田学生制度による「相模殖産学校」が設立されるし、満州のかの駒井徳三氏は、支那語を教えて人格陶冶を行なう私塾「康徳学院」を開いた。
 海外に対しても塾式日本国民精神教育が注目されて来たわけで、在米邦人第二世達のためには「さくら寮」が建てられ、第二世達は、日本へ国民精神の勉強に留学をすることになる。
 処で塾や道場の秘密は、肉体的束縛を利用して一定の作業目的の遂行を強化するにあるのであるが、対象が教育でなくて労働である場合は、すでに日本では著しく発達しているのであって、鉱山、土木事業等の監獄部屋や製糸工場の女工の寄宿制度は非常に優秀な成績をあげているのである。――で今や思想善導教育の慈母のような手は、日本の少青年子女の身辺に迫って来たのである。
 国民の身辺に迫りその肉体にまで食い入るこうした様式の教育が目的とする処は、いうまでもなく国民精神の作興であった。だからなぜ世間で左翼を取締る治安維持法と、右翼を取締る不法集団取締法とを別々にしなければならないか、ということの根拠が、ここにあるのであって、それで以てどんな思わぬ弊害を伴おうとも、またどんなに世間の安穏がそれによってかき乱されようとも、とに角大事にすべきものは国民精神であり即ち国粋観念乃至国民思想なのである。
 全国青年団は「国民精神作興旗」を戴き、神聖な富士山の頂きには大日章旗が翻るという風景が、至るところに点出される。帝展の第四部工芸品部には日本刀が出品されるようになるし(これは某代議士の建議案に基くものだ)、出口王仁三郎氏は皇道にのっとり皇国の大使命を達成する、と称して、「昭和神聖会」を結成して有数の名士を初め三千余名の参会者を集め得た。某々婦人達は、現在の女子教育が徒らに偏知教育に流れて立派に飯がたけて満足に着物が縫える女が少ないことは、国防上実に遺憾であるとして「婦人技能指導協会」を設立し、これを特に農村工場の子女の指導教育の機関としようとしている。日本の女の道場即ち台所だというわけである。――こうして、日本国民精神教育国体教育は、いつの間にか日本国防教育に変質したのを、読者は気がつくだろう。

 陸軍新聞班のパンフレット『国防の本義とその強化の提唱』は時ならぬセンセーションを巻き起こし、或いは軍部の政治干与であるとか国家社会主義を提唱するものであるとか、統制経済の宣言であるとかいわれたが、その内容を見ると殆んど取るに足りないものだといっていいだろう。
 都市の数大学の教授達はこのパンフレットを「検討」して、満場一致でこれの支持を決議したが、それはどうかといわれるかも知れないが、しかしその内の一二の教授を私は直接知っているので、この教授会の決議には別に今さら驚かない。とに角このパンフレットは軍部自身案外で、問題になるのが不思議だと考えている通り、これほど問題になるのが妙なはずのものなのである。
 だが一つ大切な点は、このパンフレットが、現下の日本の社会事情百般を、唯一つ国防という見地をもって貫き、統一的な見解を披瀝しているということだ。
 この点については、今日の日本の官僚であろうが政治家であろうが、資本家であろうが地主であろうが、決して根本的な反対は出来ない義理があって、彼等が口を酸っぱくして提唱している思想善導は、つまる処この国防思想の宣伝以外のものには帰着しないはずなのである。
 実際、非常時というものが案出されたおかげで、天下の思想善導は初めて具体的な方向と内容とを与えられたのだ。国民精神作興などというのはこの国防思想宣伝の、ごく抽象的な文官制的で文学的な形態に過ぎなかったのである。
 この年の九月にはそこで、文部省は陸軍、海軍、外務の各省と提携して、全国の重要都市に非常時国民教育の講演をして歩く講演班を組織した。どうやら国民精神教育も、知育偏重反対とか国体観念の養成とかいう、二階から眼薬式の形態を脱却して、実際的になって来たようである。
 この点に来ると何と云っても専門家は軍部であり、特にイデオロギー的に前進している(?)陸軍であるらしい。
 林陸相は例のパンフレット問題の弁解をして、あれは新聞班として出版したもので、必ずしも陸軍省の意見ではないと云いながら、今後軍部は、経済動員や資金動員などの国民的動員計画について、続々この種のパンフレットを発行するつもりだと云った。ここまで来ると思想善導、国民精神作興、国体観念宣伝は、ついに動員計画にまで落ちつくのである。要するにこれ等のものは精神動員計画だったのである。
 ところでこの精神動員計画は実は単なる計画ではなくて、すでに着々動員に着手されているのを忘れてはならない。一日一銭ずつ積み立てて軍艦建造費にあてようという運動や(大阪の海軍在郷軍人)、一日三銭というのもある(東京)。某中学では一人月十銭ずつの国防献金もあれば、愛国飛行場建設の志望も二十一カ所におよんだ(二月)。帝国飛行協会はこれを三百にまで漕ぎつけようとして奮起した。
 政府の発表によると(二月)こうした愛国美談の結晶である軍事献納金は、昭和六年度が五八、一〇七円、七年度が七六、〇二二円、八年度が七六、二一六円、という具合に累加しているそうだが、三四年も決してこれより少なくはあるまい。

 精神国防動員は青少年(海軍も青年訓練所を通じて海軍思想の普及を企てる)、学生(「愛国学生連盟」の閲兵式、七大学の「国防研究会」の結成)、女性(「大日本国防婦人会」)、小商人、その他各方面の軽頭分子を駆り立てることに現に成功している。慶応大学医学部では海軍将校を招聘して毒ガス講座を設けることにしたが、確かに国防があまりに強調されると、ますます国防が本当に必要になるだろう。――ところが他方、問題が国防である以上、軍縮会議対策が精神作興の最も重大な槓桿の一つにならねばならぬのは当然の理だろう。
 国民精神というものは今や、反比率主義や総トン数主義を指すことになる、民間著名の有志が集って「次期軍縮会議研究会」を設置し、その第一回の研究会がすでに四月に行なわれた。その研究の結果が国民精神に一致したかどうかは判らないが、とに角この対軍縮会議の大方針によって、今まで人もあまり知らなかったような国民精神団体が、一度に顔を揃えて立ち現われたということは、この際意味のないことではない。いわく「愛国労兵隊」、「大同連盟」、「勤王連盟」、「大日本倶楽部」、「白血球連盟」、「愛国社同盟」、「皇道大本」、「碧色同盟」、「青年日本同盟」、「愛国青年同盟」その他の麗わしい名前の諸団体。いずれもワシントン条約の即時廃棄を断行せよということで立ち現われたのである。日本国民精神が如何にワシントン条約廃棄そのものであるかを、読者は注意すべきだ。
 某新聞の報道によると、農民団体の新傾向として、飯米差押え一カ年禁止の運動に軍部の助力を要望しているという。国防予算は削減せずにその代りに飯米差押え禁止の法律を出してくれさえしたらいい、という主張だそうである。これなどは日本国民精神に基く農民運動の模範とするに足りるだろう。

 こうした国民精神の具体化(?)と宣伝の成功にも拘らず、日本の言論は往々にして憲法で約束されてある通り、自由であることがある。というのは、言論家(政治家、学者、ジャーナリスト、興業品製作者および興業者、等々)はこの教化の恩沢の洩れ目から、時々勝手なことを書いたり喋ったり、やったりするのである。
 たとえば元商相中島久万吉氏は、或る大衆雑誌で足利尊氏の人物に傾倒している旨を述べたところ、それが素で遂に商工大臣の椅子を棒に振って了わなければならなかった。尤も後になって某事件で起訴されるに至ったところを見ると、氏の尊氏論が日本国民精神教育の方針に矛盾するところが、それほど重大であったかどうかは疑問だが。これは寧ろお愛嬌の方だが。
 もっと気の毒なのは、自ら折角国家社会主義者をもって任じている(尤もその概念規定などは何でもいいので要するに国家という字が大切なのだが)早大の林癸未夫教授が、私有財産制の否定者であるとして某代議士から議会の問題にされたことだ。私有財産制の否定は共産主義だから、従ってそれは国体に、日本国民精神に悖る[#「悖る」は底本では「惇る」]ものだというのである。幸いこれは滝川問題(乃至京大問題)ほど重大な社会問題にならなくてよかったが、滝川教授を馘にした因をなす蓑田胸喜氏なる人物は、今度は東大の末弘巌太郎教授を持ち出した。しかもこれはある程度まで成功したように見える。
 博士の著書で十年ほど前の『法窓閑話』の内容を種に、教授は出版法違反、治安維持法違反で告発されたのである。共産主義に共通なものがあるというのである。
 そこで検事局は教授を召喚して現在における教授の心境を訊ね、教授は後から弁明と心境報告との手記を提出したが、その結果によって、教授の転向が明らかになって教授は不起訴となった。蓑田氏でさえ気がつくことを末弘教授が気がつかなかったというのは、余ほど不思議な現代の一現象だが、それだけ国民精神の恩沢の浸潤は不公平なものと見える。監視を厳重にしなければならない理由だ。
 尤も大学教授だろうが博士だろうが、決して油断はならないので、同じく東大教授横田喜三郎氏はJOAKの青年講座で、事もあろうに国際連盟脱退問題に関して平和論を放送してしまった。
 前にいったように、「日本国民精神」即「国防」精神なのだから、この国防精神を多少でも堕落させる平和論は、およそ反日本国民精神的な存在でなくてはならぬ。これは海軍側から苦情が出たのが一応無難におさまった。さらに京大医学部の教授会が、太田武夫氏の「人類癌の細胞学的研究」という学位論文を通過させたのを、文部省は学位を認可しようとしないという、新例を開いたという事件がある。理由は、氏が左翼文化団体に関係したことがあるから、その思想、人物の関係上、博士にすることは、出来ぬというのである。
 これで見ると少なくとも医学博士という学位は、その人間の学問よりも人格により以上の関係があるらしい。昔の支那の医者は顔立が尤もらしくて手蹟が優れていれば重んぜられたそうだが、学者や技術家に大事なものは、学問や技術よりも矢張り人格だということが好く判る。これは文部省が早く気がついて、学位を認可しなかったから、不幸中の幸とすべきだろう。全く油断のならぬ世の中だ。医学などにも国民精神に反した医学が出て来る。

 でどうしても言論については特別の「保護」が必要だということになるのである。そうしないと言論は勝手な向う見ずの活動を始めて親の眼から見ると危くて見ていられない。民衆は時々保護検束してやらないといけないと同様に、言論も保護検束が必要なのである――噂によると二月、某大新聞の旧幹部達が軍部と連絡を保って新聞総局なるものの実現を画策したということがある。
 一定国策に対する世論の製造、挙国一致の国論を決めるのに、国家はこうした大新聞言論統制機関を設けようというのである。噂のその後は知らないが、然しすでに内務省警保局ではその春言論の国家的統制の成案をほぼ得たというのは事実である。内閣直属の情報部を置いて、ここから新聞社や通信社にニュースを専売的に提供しようというのである。その一つの現われとして、内務省は陸海外務と同席の上、都下の大新聞の代表者達に向かって帝国の最高機密を暗示するような報道を一切慎しむこと、これが充分に行なわれなければ法令をして制限を加えるぞといい渡した。
 警保局は外国新聞雑誌書籍の輸入に就いても検閲を統一し重加した。税関当局と内務省図書課とが直接に連絡を保って、反日本国民精神的な出版物の入国を防止しようというのである。
 当時又ソヴェート通信社「タス」は逓信省から、今後ニュースの訳文を提出することを要求された。満州国はソヴェートの新聞八種の輸入禁止を発令したそうだ。尤も満州のような外国のことはどうでもいいかも知れないが、しかしこの点では日本の方がズッと先駆をなしているのである。
 反国民精神的出版物に対する発禁、削除、等による弾圧と、国民精神的出版物の奨励とが、言論の国家的統制の中核をなすことはいうまでもない。『東京朝日新聞』(三四年四月十六日付)に載った統計によると、右翼関係単行本納本数は、
  昭和七年―一四五、昭和八年―一七九
 同新聞雑誌在籍数は、
  昭和七年―約五七、昭和八年―約七一
で、それぞれ三四と一四の増加だが、
 左翼関係単行本数は、
  昭和七年―四四六、昭和八年―二五五
 同新聞雑誌在籍数は、
  昭和七年―約一五五、昭和八年―約一二九
で、それぞれ一九一と二六の減少である。此の年二月には戦争挑発の恐れある出版物は発売禁止の方針にきまったが、この大勢からいえばこれは殆んど根本的影響を持つものでないことが判ろう(出版法改正、出版物レコード納付案の問題を除く)。

 言論の次に統制を必要とするものは映画で、内務省では各方面の関係者を集めて、映画統制委員会を開いている。映画検閲の統一とともに、映画協会を設立して教化映画の普及奨励をやらせ、例えば各館必ず一本は教化映画を上演するというようにしようというのである。第二の放送協会が出来上るわけで、放送局の方は教化講演と銘を打たないだけに性が悪く出来ているかも知れない。
 さてこうした広義の言論統制の立案については、いつも警保局長が指導的な役割をもっているということを注意しなければならないが、ところで、多数の大衆作家達が前警保局長松本学氏の後押しで「帝国文芸院」運動をはじめたことは有名だ。後の「文芸懇話会」「国民文化協会」乃至「日本国民協会」という国民精神的文芸挺身隊も出そうになったがそれが多少萎縮して「物故文芸家慰霊祭」となって現われたり何かした。文芸家自らが進んで国民精神に則り国家的統制に服することを希望するところ、その辺の資本家達の大いに見習うべき点ではないかと思う。――だが文芸におけるこの国民精神が、国防精神やワシントン条約廃棄精神にまで具体化(?)するまでには、まだまだ一段の文学的精進を必要とするだろう。
(一九三四・一〇)


二 愛国運動と右翼小児病



 私は従来、AKの放送について、中でもその講演放送について、甚だ不満をもっていたものである。日曜ごとに満州から、まるで中味の空っぽな無意味な放送が雑音と一緒に敢行されたり、何らの理論的根拠もない、子供っぽい言論がもっともらしく電波に載せられたりするのを聴いて、私は国辱というものが本当に何であるか、ということをつくづく考えたものだ。
 ところで、ある必要から三五年中のラジオ講演を一通り調べて見ると、三五年は案外こうしたファッショ的お調子ものが少ないということに気づいたのである。無論、別にこの年の正月を境にして急にどうこうなったとはいえないのだが、ちょうど臨時議会と本議会とがその前後を通じて開かれていたのだから、そのなだらかな変化が、多少はここに角立って現われたものだろう。何か相当決定的な世相の変化がここにはあったのだ。
 広田前外相は議会で、私の在職中は戦争はなかろうと思うと断言している。なる程北鉄交渉は円満に手打ちとなるし、蒋介石氏をして抗日を謹慎させる件も或る程度まで成功であったらしい。少なくとも後者の問題は、蒋氏が浙江財閥の要求に従って或る程度の親日と共産軍討伐とに身を入れることを意味するが、これは日本側の軍部と資本家との両者にとって寸分の食違いもない共通の利益なのである。で、支那軍の熱河省進出事件などは全くこの成功の前祝いのようなものだったのである。
 ハルハ三角地帯事件などというものもあったが、これは何しろ辺塞の出来事なので、中央の大方針などと割合無関係に、出先きの者共がゴタゴタやるのかも知れない。――かくて非常時とかいう観念は、世界に対する民族的大爆発といったようなものから、今ではただの国防というようなものにまで萎縮して来て了っているのである。
 帝人事件が議会の問題になったのは、いわゆる人権蹂躙問題としてであった。勅選議員美濃部博士は、司法官の職権濫用による不法犯罪行為の成立を質問の形で暗示しているのだが、この法律論の背景をなすものは、生粋のブルジョア魂とこの魂から見たいわゆる「司法官ファッショ化」に対する憤慨なのである。このブルジョア魂のためには岩田宙造博士は二度もその議席から立ち上った。右翼的勢力は、議会がブルジョアジー自身の腐敗という問題をば当局側の人権蹂躙問題で以てすりかえ、矛の向きを逆にしてしまったことを憤慨しているが、にも拘らずこの憤慨にはすでにやや受太刀の観がなくはない。
 美濃部博士の『憲法精義』が以前の滝川問題式に議会の問題として提出されたが、これは初めはあまり相手にされずに終ってしまった。
 天皇機関説が国体と相容れないとしても、とに角博士はそういう学説の功績によって懼れ多くも勅選されて貴族院議員になったという点を忘れてはなるまい。――それから〔士官学校(十一月)〕事件というものがあるそうだが、それを質問された林前陸相は、これは〔三月〕事件や〔十月〕事件ほど大きなものではないから安心してくれと答えている。何か陸軍に関係のある一連の事件らしいが、それが、この説明を信ずる処によると、段々規模を縮小して行くらしい。

 五・一五事件の大川周明博士を盟主とする神武会は、大衆団体としては解散することになった。大川氏の保釈を機会として、今後は専ら、以前の行地社並みに思想団体に還元するそうである。――神武会は五・一五事件発生当時、群小愛国ファッショ右翼団体中の白眉であったのだが、それが一歩退却をやったということはこの際決して無意味な事件ではないのだ。その説明はあとにまわすとして、こうした退却現象と並んで、右翼の統一運動が起こりつつあることを、注目しなければならぬ。一九三四年の十二月、黒竜会、愛国社、その他の系統の右翼団体の巨頭数十名が「信統会」を結成し、愛国団体の統一を期することとした。
 一方大本教の出口王仁三郎氏は三四年七月「昭和神聖会」を結成し、自分が統監となり内田良平氏を副統監に任命した。「ひとのみち会」や「皇道日月団」でも結構金が集まるのだから、由緒正しい邪教大本教が中心であって見れば、金と会員の集まりの良かったことは想像に難くない。会員十万におよんだというのも、強ち嘘ばかりではないかも知れぬ。――そこで三五年にはいって、――この「昭和神聖会」と先の「信統会」とが提携して愛国団体の統一を計画しようではないかということになったのである。
 政治団体乃至思想団体の統一運動は、大体からいって一種の退潮期の現象だと見ていい。尤もただの退潮期ならば、支離滅裂的に分裂して消滅するだろうが、内面的な動きとしては必ずしも退潮期でないに拘らず、従来の形態としては行きづまって退潮せざるを得なくなった時に、主としてこの統一運動が発生すると見ていいだろう。でこの右翼団体(即ちまた愛国団体)の統一運動もまた、従来の形態のファッショ団体として行きづまったことをいい表わしているので、神武会の解散もまたこれと同じ現象に属するものなのだ。
 つまり神武会などというイデオロギー壮士のファッショ団体が、このブルジョア社会の中で実際的活動をすることは、もはやすでに許されなくなったのであって、従来のファッショ的空論空語が、何等の組織力を持たぬことを自覚せざるを得なくなって来たのである。そこで今愛国団体の統一運動も必要になって来たわけだ。

 処でここに一つの問題が起きる。「経済国策研究会」なるものが中心となって、神武会、生産党、直心道場、大日本国家社会党など、それから東京交通労働組合の一部までを従えて、国家改造断行上奏請願運動なるものが巻き起こされた。長野県、新潟県には、相当盛んで、憲法の許す範囲に従って、合法的国家改造の断行を、合法的に上奏請願しようというのである。
 議会に請願するのでなく、上奏するのである。偶々該地方に根拠を有っている新日本国民同盟は、特にこの運動に参加する旨を声明した方がいいだろうと思って、声明して見たものだ。――処がこれに対して大日本国家社会党と日本農民組合とが反対し始めたと見ると、皇道会もまた反対し始めた。
 理由は、この運動の背後にあるものが例の出口王仁三郎の昭和神聖会であって、大体そのイデオロギーが大本教のお筆先きによるものだ、というのである。お筆先によると、昭和十年には日本に一大変革が起こるぞよ、ということになるのだそうで、この予言を活かすために昭和神聖会は巨万の浄財を撒き散らして信徒を農民の内に着々と開拓しつつあるらしい、という噂なのである。
 信統会と合併して大日本の愛国統一戦線党を造ろうとまでした昭和神聖会が、つまりお筆先き的存在であったということは、出口氏自身の聖者振りと同程度に日頃ユーモラスな現象であるが、尤も原始キリスト教だってそうだったのだし、それだけでなく民族的伝説や歴史の始まりなど皆そうなので、単にそのお筆先きが新しいか旧いかというだけの違いなのだが、処が皇道会という団体はよほどこの点気になったと見えて、上奏請願運動反対の声明に因んで、大本教イデオロギーを真向から取上げてムキになって非難しているのである。ムキになるだけ変だとも思うのだが、皇道会その他のハッキリしたこの態度を見て、例の新日本国民同盟は急にシッポを巻いて、改めて今度は上奏運動反対の声明をすることにしたのである。
 併し、この新日本国民同盟が反対した理由は、皇道会の理由とは全く反対で、同盟の見解によると、この運動には大本教も昭和神聖会も何等の関係がないのであり、従って莫大な運動費が出ているなどは全くのデマであって、実は寧ろ資金の欠乏で運動があまり思わしくないから、この運動は打ち切った方が悧巧だと思う、というのである。一体この運動の主力は机上の理論家インテリ青年にあるのであって、下からの圧力で幹部を葬ろうというのだから、初めから不純な運動だったというのである。
 なるほど右翼でもインテリは信用がないと見えるな、と思っていると(下からの圧力が不純となるのが左翼と異る点だ)、更にかかるインテリ青年は「右翼小児病」的(!)だというのである。この運動が右翼小児病による運動だという主張においては、皇道会も全く同じ意見のようだ。
 で、こうなって来ると、少なくとも一方において、大本教的愛国団体である昭和神聖会に対する右翼一般からの不信用は相当なもので、とても信統会と昭和神聖会との提携などはすでに望めないのではないかと想像される。愛国団体の統一運動もどうやら行きづまりにブツかったように見える。それだけではない、もっと注目すべき点は、他方において、インテリ的右翼小児病が発生し、これといわば非インテリ的右翼成人病(?)との対立が始まったということである。これは最近見られる愛国運動事情の根本特色をなしている。

 およそ右翼小児病というものが意味のあるものかどうかは後にして、とに角それらしい実物を一つお眼にかけよう。たとえば大日本国家社会党の学生層における外郭団体(!)たる「新興科学建設協会」なるものがあるが、それが左のような宣言文を発表している。いわく「俗悪なる見解が如何に我物顔に横行せるかを見よ……彼等にあっては現段階の事象に対する暴露的批判が小児病的鋭舌をもって試みられてはいる。だが実践からの理論の遊離がここにおいては特に顕著だ。実践のための理論は意識されず、観照的理論として彼等の使命はただ事象の説明に終始せしめられている……」
 まず第一に何という悪文だろう。そして救われないのは、これが他ならぬ右翼小児病そのものに対する反対を主張していることだ。不良少年が聞き覚えた左翼的言辞のようで、なるほど確かにこれならば少なくともインテリ的ではない!
 だが彼等愛国団体が恐れているものは、この種の小児的な右翼小児病(即ちまた反小児病)ではない。彼等が恐れるいわゆる小児病は、大衆の下から圧力であり、大衆的な小児病なのである。
 改造断行上奏請願運動は[#「改造断行上奏請願運動は」は底本では「改造断行上請願運動は」]実践的にいってどれだけの意味があるかは、寧ろいわない方がいいかも知れないが、併し皇道会や新日本国民同盟がこれを右翼小児病といって斥けた理由には、腑に落ちないものが存する。つまりこれは、多少とも本当の大衆からの圧力またはその圧力の変形を感じさせるものを含んでいるから、小児病小児病と強調されたのだとしか見えない。
 合法的な上奏運動に限らず、合法非合法を通じての右翼的直接行動は、その行動らしさに拘らず観念的なイデオロギッシュなものなのだが、大衆の或る部分を仮設として引きつけたファッショ運動は、恰もこうした右翼小児病の資格におけるものにほかならなかった。ここがとりも直さず、ファッショの人気のあるところだった。
 ところが、愛国運動はこのいわゆる右翼小児病を批判することによって従来の苟めの大衆性をさえ清算することになるのだが、しかしそれによって初めて、自分達の統一を期待することも出来るようになり、また自分の元来の本質にまで落ちつくことも出来るようになる、という次第である。
 いわゆるファッショ団体である諸愛国団体は、今や従来のイデオロギー的なプリテンションを捨てて、もっと実質的な足の地についたものとなろうとしている。そういう転換点に立っているのが今の事態なのである。確かにこれはファッショの進歩であろう。とともに確かにそれはファシズムとしての本質の露出であるのだ。なぜというに、ファッショの世界史的本質は、ほかならぬ資本制そのものの最後の藩屏となることにあるからである。
 愛国運動に一種の退潮期が来たというのは、つまりこの運動が従来のそのイデオロギッシュないわゆる右翼小児病を清算して、より実質的な即ちより本質的なその本来のファシズム機能に腰を据えはじめたことを意味する。これからが本当のファシズムになるのだ。だから今後、イデオロギッシュな壮漢めいた、愛国機的ないわゆる「ファッショ」や、いわゆる愛国精神は、単に全く児戯的な意義しか持たなくなって行く。その好い例は建国祭などで、今後は全く鉄兜の小学生や鉄砲を担いだ私立大学の学生や、女給や講談師等によって賑々しく行なわれる程度の年中行事となって行くだろう。
 とに角、愛国運動の指導部は今後、年齢を取ったまた取らない子供達のものから、本当の大人のものにだんだんなって行くのだ。あとの残りは国粋趣味のただの玩具に過ぎない。もっともこの玩具というものが人生にとって実際上相当役に立つものであるが。
(一九三五・二)


三 三五年度思想界の動向



 五・一五事件直後に存在した愛国反動団体の内、資本主義乃至資本家の打倒という政治的綱領を掲げたものが極めて多い。云うまでもなくこれは社会主義ではなくて、社会主義に仮装した支配者的反動の、民間的な勢力を意味する。その限りこれ等の団体は、大体に於て真正ファシズムとしての特色を、その一面に於て、明確に持っていたということが出来る。
 だがそれにも拘らず、この種の団体は元来が愛国的反動団体であり、従っておのずから封建的イデオロギーを中心とするものであったから、全面から見ると、単なるファシズムでもなければ単なるファシズムの萌芽でもなく、日本に於ける独占金融資本のファシズム体制によろうとする支配の必然的な動向が、封建的な著しい残存物を土壌にすることによって、特別な形態を採ったものに他ならなかった。この意味に於て、この動きは、日本型ファシズムと呼ぶことが出来るのであり、そしてこれ等の諸団体は、少なくともこの日本型ファシズムの一つの民間的な現われだったのである。
 だが日本ファシズムに共通するだろうイデオロギーは、決してそう容易には決定されるに至らなかった。ヨーロッパ的な精神主義もあれば日本的農本主義もあり、制度学派もあった。王道主義者もいれば、陽明学派もあるというわけであり、日本主義者もあれば亜細亜主義者も東洋主義者もあった、というわけで彼等相互の間には、大まかな気分の上ではとに角として、実質的なイデオロギー内容から云えば殆んど共通のものを有っていなかったようにさえ見える。その分派的対立と反目とは、やがて軍部の急進派の退場に平行して愛国反動団体相互間にエネルギーの消耗が始まる時期が来た。夫が三五年の初めの著しい現象だ。
 そこで日本ファシズム・イデオロギーはそろそろ自分自身を整理し始めなければならなくなった。一切の愛国的反動イデオロギーは、今や日本主義に集約され、やがて皇道主義に要約されるようになった。――処がそこに所謂機関説排撃が突発したのである。これは思わぬ統一作用を日本ファシズム・イデオロギーに及ぼすこととなり、二回に渡る政府の国体明徴声明によって、遂に夫が国権的な権威を受け取ることになった。ここに日本ファシズム・イデオロギーの心核が形成されるようになったのである。
 日本ファッショ団体の戦線統一とその大衆化運動とが、同時に遽かに促進されることとなった。
 併しファシズムに反対する理論家達の批判は、決して強力でもなかったし甚だしく有効でもなかったといわねばならぬ。一方に於て政府対軍部とか政党ブルジョアジー対軍部とかの外見上の対立に興味を奪われて、重臣ブロックとか自由主義者ブロックとかを持出す結果、日本に於て実は最も根本的なファシズムの準備である処の新官僚と政党、ブルジョアジーとプラス日本ファシストとの協力による「上からのファシズム」に対して盲目になって了ったものもあれば、他方に於ては、日本ファシズムが何であるかに就いての思いつき的な議論ばかりが目に触れるような次第だった。
 尤も山川均、大森義太郎、猪俣津南雄、其の他の諸氏による断片的な議論はあっても、一向日本ファシズムの社会的分析が組織的に行なわれていない。恐らくこれは日本資本主義の分析が、現在の事情を組織的に分析し得る程に充分定着されていないせいだろう。処がこの封建的残存物を充用した日本ファシズムこそ、今日の日本の大衆にとって、何より重大な批判の対象であることは言を俟たぬ。
 日本ファシズムのこの台頭と共に、所謂自由主義の転落が問題にされ始めたことによって、自由主義論は相当盛んであったと見ていい。一種のオッポチュニストは、自由主義の終焉と議会制度の勢力失墜とを歴史的な必然だとして合理化そうとする。他の者は自由主義はまだ亡びるものではないという。否、これから愈々自由主義の意義が有効になるのだと云う者もいる。この最後のものは河合栄治郎教授の説であって、氏の所謂第三期自由主義は、ブルジョアジーによる強制からの自由を欲する処の理想的な社会主義だというのである。イギリスの労働党はその模範とすべきものだという。
 氏は極めて長い二つの論文によって、向坂逸郎、大森義太郎、其の他の諸氏の自由主義批判を反批判しながら、その自由主義体系を解説これ力める。だが河合氏の弱点は、自由主義の最後の根拠を、哲学上の理想主義(人格の成長の願望)に求めようとする哲学的凡愚と、物を考えるのに形式論理的なメカニズムしか使うことを知らない卑俗さにあるのである。唯物論の意義についても弁証法の用途についても、全く間にあわせの常識しか持っていないらしいのが、氏の精細なポレミックを無効に終らせる。
 河合栄治郎氏式の自由主義が気勢を上げるのも、却ってファシズムの例の台頭のおかげであり、マルクス主義の表面上の退潮の潮時を見計らったものであることを考えて見ると、この自由主義のファシズム批判の機能に、どの程度以下の期待を有っていいかが、略々判るだろう。
 自由主義論の一変形として、行動主義論議と、夫に端を発したインテリゲンチャ論とがある(何れも舟橋、大森、向坂、岡、永田、秋沢、私などが関係した)。行動主義はフランスの進歩的な文学者達から影響されたものであるか、或いは少なくとも客観的にはこれに平行するものであろうが、併し日本の行動主義の進歩性の内容は少しもハッキリしたものではなかった。世間では之に勝手なものを投げ入れることが出来た。マルクス主義に反対するからといって、これにファシズムの萌芽を見、ファシズムに反対し得るといって、これに本来の進歩性への約束を見た。
 では行動主義は何であったか。夫はどうもさし当り文学上から見た意欲の積極性を主張することが精々であって、まだ社会的認識や政治的見解への文化的進出にまでは行かなかったらしい。フランスでは文化擁護の世界作家大会が開かれ、代表的文学者が社会主義文化の擁護に就いて獅子吼しているのだが。――行動主義もそこまで行かなければ、本物にはなれまい。序でだが、アンドレ・ジードのコンミュニズムへの転向などを、何かつけ足しのように考えている者は誰か。
 インテリゲンチャ問題に就いては今の処問題は片づいたようだ。インテリゲンチャが現代に処してみずからに課する積極的な方針は、つまり自分に特有な知能を如何に進歩的に役立てるかということである。
 自由主義論が文学という局部に於て脱線したものが偶然論である。或いは寧ろ「偶然文学」主義乃至偶然主義である。この偶然論は必然万能主義(夫がマルクス主義的唯物論だということだ!)に対する、反マルクス主義的な批判を基調としているのだが、併し偶然の客観的な存在を認めないような唯物論は機械論のことで、マルクス主義的唯物論とは正反対なものだ、ということを知らないことが、この偶然文学論者や偶然論者の作戦の誤りだ。同じく因果性といった処で、マルクス主義では機械的な決定論などを考えてはいないのだから、ハイゼンベルクの不確定性の原理も唯物論に対する何等の反証にならぬ。偶然論は偶然論として、唯物論反撃というような他愛もない思い込みとは別に、問題にされるべきだったのだ。専らこの点を衝かずに、中河与一氏や石原純博士に一々お相手を仕った森山啓、三枝博音、其の他の諸氏は、一杯食わされたのである。岡邦雄氏の石原批判などが、比較的ねらいの狂わない処だったろう。
 日本ファシズムの台頭と〔共産〕党の退場とに基いて始まったものは、俗称又自称「労農派」又は之に接近した立場の「講座派」(又「封建派」)に対する批評である。これはなぜだか急に勢よくなって来たのだ。
 人物は大内兵衛(之は労農派には数えないことにしよう)、向坂逸郎、土屋喬雄、岡田宗司、鈴木茂三郎の諸氏で、労農派からは『先駆』という機関誌(?)様のものも創刊された。所謂講座派は山田盛太郎、平野義太郎を始めとして、小林良正、相川春喜の諸氏だ。其の後事情があって続々とは行なわれないことになったが、一等興味のあるのは向坂氏「『日本資本主義分析』に於ける方法論」(『改造』十月号)という山田批判と、主にこれを反撃した相川氏「独占資本主義と半封建的土地所有」(『経済評論』十一月号)との対比である。
 向坂氏は山田氏の『分析』は、まず第一に発展がないという。「半封建的土地所有=半農奴制的零細農耕」という山田氏の日本資本主義の基柢が明治三十年乃至四十年を画して確立されて以来、この型制は永久不変に日本資本主義を運命づける、というのがまず第一に変だというのである。――だが発展するということは型制が変るということとは一つではないように思われる。問題はどういう型制の内容かということになるが、半封建的云々のその「半」というのが一向ハッキリしていない、と第二に向坂氏は主張する。
 というのは、例えば仮に半封建的地主であっても日本資本主義の発達と共に資本家になるのではないか。即ち半封建制も段々資本主義に解消して行く筈ではないか、というのである。
 処が相川氏はいっている。日本資本主義の特色は、この半封建制(そう便宜のために略称しておく)そのものを充用することによってこそ初めて成り立つので、資本制と半封建制との[#「半封建制との」は底本では「半封建性との」]この相互強化の関係こそ、日本資本主義の特色なのだ、と。つまり単純に封建制が段々と資本主義に変って行くのではなくて、却って両者の相互強化に於てこの資本主義は発展するのだ、という。これで「半」の意味が大体素人にも見当がつくが、向坂氏がこの相互強化に対する反駁をもっと判り易く書いて呉れるといいと思う。
 第三の論点は山田氏の日本に於ける「印度以下的」な労働条件というのが怪しいというのであるが、これは相川氏の挙げた(山田、平野、両氏を援用)比較的最近の資料の方が向坂氏のより多少詳しいようだ。相川氏側によると、少なくともソーシャル・ダンピングのことが顕著に理解出来そうだ。
 山田盛太郎氏を神様のように神聖視することは、無論ナンセンスだ。それから山田氏の『分析』が手のつけられない程ムツかしい本だということも、必ずしも当っていない。これは寧ろ明瞭な本の内だ。相川氏の表現は確かにムツかしい、夫は向坂氏の云う通りだ。だが問題はいつも理論内容にある。
 私は論者に要求したいが、なるべく普通の読者にも或る程度まで納得の行くように、余計な言葉は抜きにして、実質的で重みのある有益な議論をして欲しい。
(一九三五・一二)


四 文化統制の種々相



 現代の日本に於ける文化統制の内で、最も典型的なものは所謂国体明徴運動である。憲法学説に就いての一定の学的立場と学的解釈方法とをば、一個の行政府に過ぎない政府が公的に決定して之を施行するのだから、ここではこの問題に関する限り、言論の自由と信教の自由とが全く制限されるのであって、これ以上の公的な文化統制振りは今の処日本には先ず存在し得ないのである(尤も市井の暴力的な無統制な文化統制は別だが)。云うまでもなくこの国体明徴運動は、必ずしも政府そのものの創意に基くものでもなければ、又政府が本当に自発的に意図したものでもなかった。
 国民の一部分の代表者の純粋な、この問題から見て又不純な、動機による運動の圧力が、政府を動かした結果であるのだが、併し統制がこのように一定の露骨な形を取ることが出来たのも、国民の或る意味に於ける「総意」が之を[#「之を」は底本では「之が」]支持するからなのである。というのは、国民が総体から云ってこの統制に対して、何等本当の抵抗を試みようとしないからなのである。というのは又、別な言葉で云うと、実は国民は全体から云って、それ程、この問題に対して無関心だからなのである。
 統制政策はいつも、国民のこうした一種の無関心による支持を見出し得る場合に限って容易に成功するのであり、或いはそういう無関心な支持を期待出来そうな場合だけを選んで最も容易に発動するのである。少なくとも統制政策が円滑に成功するためには当然そうなくてはならぬ。
 だから一方から云えば甚だ強制がましく見えるこの非文化的な文化統制さえが、他の一部の者の眼には却って甚だ文化的な(!)活動に見えるということになる。だから一般に仮に自分自身或る文化政策から強制や抵抗を感じないからと云って、それが文化統制でないという証拠にはならぬ。文化統制と雖も、自然的に最少抵抗線に沿って発動するのだから。
 帝国美術院の改組は、一寸見ると極めて弾圧的な最大抵抗線を辿って行なわれたように見えるかも知れないが、そして実際現在でも主に洋画関係では大いに物議をかもしているのではあるが、併し或る意味に於て、帝国美術院乃至帝展(更に一般の美術展覧会)の意義は殆んど専ら日本画を中心として存在するのである。
 洋画はいずれにしても今日の日本に於ては、商品生産品としては意味の乏しいもので、商品としては日本画に比較すべくもないものだが、その日本画の展覧市場の代表的なものが帝展とその背景の帝国美術院なのである。だから官僚的に之を改組することは決して夫程困難なことではなかった。院展其の他を含んで拡大された新帝展を承認しない限り、日本画家は日本画の有力な展覧市場から閉め出されることになるし、又逆にここで会員や推薦や参与の位いにありつけば、少なくとも「一等画家」乃至「二等画家」として画商の間に通用することになる。
 不平は画家のこの官許検定制度を承認した上での不平でしかあり得ない。――新帝国美術院が官許の単一的美術団体となったことは、それだけ取って見ればただの官僚化に過ぎないとも考えられるかも知れないが、併しそれが丁度汽船の運転士や飛行士のように、一等二等と区別をつけられることによって、云うまでもなくそこに美術そのものの評価と社会的通用とに対する統制が働き出す。この点文芸懇話会も之と少しも変らないのである。
 例えば文芸懇話会が、横光利一や室生犀星の代りに、島木健作にでも文芸賞を与えたとしたらどういうことになるか。仮に島木が今よりも遙かに尤もらしい社会的地位にでも登っていたとしても、そういうことは想像も出来ないことだろう。この文芸懇話会が如何に尤もな穏和な形をもって而も有効な文芸統制機関であるかは、世間の云う通りでもあるし、又ここからも判ることだ。
 著作権審査会に就いては世間でと角の議論が交されているが、本当に作家や出版屋という著作権所有者の利益擁護組織であるかないかは後にして、それよりも先に、この職業的利益擁護組織だという尤もな形を通して、作家や出版屋の自由行動を外見上自発的に、統制する組織であることは云うまでもないので、之によって又著作物そのものの内容に対する統制が最も無抵抗に円滑になることは云うまでもないことだ。例えば当局による検閲なども之によって社会的に合理化されて見えるという結果になるのである。
 一体文化統制の原始的な原型である検閲という問題は、職業組合乃至職業的利益擁護組織の結成と紙一重の関係におかれている。従来内務省を中心として関係各官庁によって構成されていた映画統制委員会は、民間映画業者代表を召集して、映画界の自由競争の対策を諮問したが、之に答申する意味に於て、映画資本家達はみずから日本活動写真連盟なるものを設立することにしたということである。
 自由競争に対する映画営業の統制であるから、製作技術の研究や市場の協定などが、普通の商品生産統制の場合と同じに問題になったわけだが、ただ映画などという文化的企業に特別な問題は、検閲制度なのであって、この連盟もこの「検閲制度の合理化」という課題をみずから提出しているのである。
 処が検閲の合理化と云っても、実は検閲を本当に理性的に合理化することではなく、即ち検閲に対して理性的根拠から批判抵抗を試みるということではなく、つまり当局と映画資本とが検閲に関する事前の協定を取り結ぶことに他ならないのであって、一例としては日活トーキー「のぞかれた花嫁」のように、全篇を通じて歌詞の吹き込み直しをしなければならぬような不経済を合理化することに他ならないのである。
 だから検閲の合理化なるものは、結局映画企業の無政府主義的自由競争の不経済を統制的に整理することと一つづきのことだったのが、ただ問題はこの合理化が同業者同志の間の合理化や何かではなくて、国家権力の当事者と映画企業家との間の云わば一種の政治的対立の間に於ける協定だということである。
 映画の場合に見受けられるように、興行は一般接客業と同様に当局に対して阿諛的であり、支配社会に向かって事大的なものであるのが通り相場であるが、そこからこの種の職業組合がおのずから当局肝煎りの官許組織となり、検閲の合理化のための機関ともなるのである。
 帝国美術院も著作権審査会も文芸懇話会も、併しこの日本活動写真連盟と本質上別なものではない。之等も亦実は官許乃至半官許職業擁護組織であることによって、「検閲を合理化す」ものだったのである。否実は、「検閲を合理化す」ためにこそ、当局自身の発意によって、或いは阿諛的に事大的に当局の意を体して、文化職業界が単一組合化されるのである。組合の結成だから利益の擁護だと思っていると大きな油断で、それはそのまま直ちに「検閲の合理化」となっているのである。
 或る種の自由主義者は、自分では当局に対して云わば儀礼的にしか阿諛的でないと考えるかも知れず、そうした戒心を有ちながらこの夫々の単一的文化職業組合の結成運動に携わるのだと考えているかも知れないが、そういうことはすぐ様当局との「協定」を意味するのだということは忘れているらしい。之は善良な人の好い自由主義者が如何に見事に文化統制運動の下級幹部として利用され得るものか、ということの好い証拠だ。之は労働運動に於ける所謂ダラ幹と一つであって、例えば美術院の会員や著作権審査会員や文芸懇話会のメンバーが、単に支配的であるばかりではなく又支配者的な文化職業人である所以に相当する。これはただの職業組合ではなくて「御用組合」なのだ。
 検閲の「合理化」と職業組合の結成とが一つづきであることは、美術家や文士や映画ファンには少し気の毒ではあるが、万才(漫才)協会というものに一等よく現われている。警視庁では万才の台本を検閲しようと企てているのであるが、当業者は万才の特殊性を挙げて万才が決して画一的に予定のコース通りに行くものではないので、検閲は困難だという意見であった。
 そこで当局は関東方面の万才を打って一丸として、万才協会を造ってはどうかと提案した。無論阿諛的で事大的な万才達は一も二もなく之に賛成せざるを得なかった。凡そ職業組合の結成に反対する理由は、ここでも無論あり得なかったからだ。だが検閲かそうでなければ、職業組合か、という文化統制の一つの秘密は、上調子の万才達には気がつかなかったのである。他の文芸的、芸術的、万才家達にも気がつきにくいのだから、無理もないことだ。――文化的職業組合の結成必ずしも検閲の強化=合理化の伏線とは限らぬ、と反対する人がいるかも知れない。だが当局肝煎りの組合結成には文化統制(検閲がその原型)以外の目的がある筈はない。そして逆に文化統制の必要のない処には、即ち文化圏外の世界では当局は必ずしも組合結成主義を採用しているとは限らないのである。
 例えば美容院―床屋(尤も後に見るように服飾美容も一つの文化であるのだが)組合は最近当局の保護=肝煎りから解放された。既得権を有っている当業者は組合大会を開いて之に反対したが、他の方面の文化統制に忙しい当局は、まだ美容院乃至床屋の文化的作業の検閲にまで必要を感じなかったので、床屋は自由にどこにでも開業出来るということになって了った。
 尤も美容服飾であっても、夫が思想運動に関係する限り、当局から文化の資格を以て遇されることを忘れてはならない。小学校の女教員制服の問題や、モダンガールの断髪禁止問題は、教員(主に校長)側自身から阿諛的に事大的に当局に申し出たものだが、云うまでもなく夫は当局の文化統制の意を体してのことである。之は思想の例だが、社会運動の場合の例では職工女工の制服を制定しようという案が実施されつつあるのを見ることが出来る。
 思想や社会運動の可能性を有っているグループには、制服を着せることによって之を官吏待遇にしようというわけであるが、それはつまり労働者を官吏のような無制限サービスをする義務を課せられたサーヴァントにすることに他ならない。制服は確かにそういう魅力を有っている(自動車運転手や女給に制服を着せようというのは、文化統制というよりも単に使用番号の役目を負わせるためかも知れないが)。
 検閲の強化と職業組合の結成との間の文化統制に於ける秘密を物語るもう一つの例は、演劇統制の場合である。警視庁は俳優を中心とした東京技芸者協会なるものと、興行主を集める東京興行者協会なるものとの創設を目論んだと伝えられている。俳優の技芸者協会の方は後にするとして、東京興行者協会は多聞に洩れず「興行取締規則の徹底」や「検閲方針」のために結成されるのである。
 俳優の労働強化例えば(レヴューガールの場合)が、「工場法」的に防止される必要のある限り、之を興行者自身の自発的な統制に転嫁するのも、亦この興行者協会の機能である。処がこの検閲用の興行者協会は、云うまでもなく興行者の職業組合だということによって興行者に魅力があるのである。興行者達はこの魅力に魅せられて、検閲や之に基く劇場文化統制の加圧などは之を易々として拝承するのである。
 と云うのは、最近大劇場の多量出現以来、従来大劇場を圧倒していた中小劇場は急に営業不振に陥って来たからで、これを「合理化」するために劇場営業者の職業組合が必要であるような感じを、中小営業者までが有つようになったからである。
 だが、凡そ文芸懇話会や、帝国美術院や、著作権審査会と全く同様に、こうした職業組合は決して中小営業者の現実の利益とはならずに、大体に於て既成の少数の組合幹部の利益に奉仕することしか出来ない。
 文化界では経済的なゲゼルシャフトと社交組織とが、まだあまりハッキリと分離していないので、云わばトラストと「協会」とが一つになっている部面が多いから、単一トラストが「協会」と名乗って官許の特権を振りまわすことが許される。
 トラストならばすぐ様中小業者の対抗運動に出会うのだが、文化的な「協会」ならば全体の利害を防衛出来るかのように、幻想され得る余地があるだろう。東京興行者協会はそのいい例であって、之が経済的統制の所産としてでなくて文化的統制の所産と考えられる意味はそこにあるのだ。
 俳優の東京技芸者協会の方は、歌舞伎・新派・喜劇・レヴュー新劇の各部門に分けて、上は歌舞伎の千両役者から、下は群小レヴューガールに至るまで一人残らず網羅して、各人に平等な発言権を与え、俳優の生活向上、中間搾取の打破、相互の親睦を計ろうというのだそうである(『都』三五年七月三十日付)。之も亦文化的社交組織と経済的利益組織との混淆であって、労働組合と「修養会」のようなものとが接合されたものに他ならない。経済的な労働組合が文化的「協会」の面目を持つ処が、文化統制のメカニズムの秘密を物語っている。――文化の向上の名に於て、文化活動や政治運動や経済的職業的利益が、掣肘され制限されることが「文化統制」の意味なのである。
 文化統制は日本のように官僚機構が強権的に発達している社会では、イタリアやドイツのような非文化的な刺激を与えずに、一見甚だ文化的に実行に移されることが出来るから、「文化統制」は益々ゴムの棍棒のように有効無害な日本文化ファシズムの武器となるのである。
 でこの点から見る限り、例の国体明徴の運動などは、それが文化統制の典型的なものであっただけに、やや露骨に過ぎて却って大して有効ではないかも知れない。少なくとも憲法学者協会でも造り、憲法学者の制服でも制定し、憲法省でも設け、一等憲法学者、二等憲法学者という区別でもしない限りは、充分に「日本文化ファシズム」的にはなり得ない。
 文化統制の赴く処無限である。服装は文化の端的な現われで一切のものが制服文化の内に吸収される、ただの文化では文化以外のものは吸収され得ないが、制服という文化の内へは一切のものが、経済的利害も政治運動も文化運動自身も、更に又野蛮そのものまでも易々として吸収される。さてこういう風に一切のものを出来るだけ制服的文化の内に吸収すれば、之を統制する事は極めて容易で、こういう統制的消化液の機能を果すのが「文化統制」だというのである。
(一九三五・一二)


五 三六年度思想界の展望



 実際問題として、この年にどういう形の諸問題が思想界を賑かすか、又この年の思想界の一般的な傾向はどうだろうか、ということに就いては、極めて大雑把な輪郭しか描くことが出来ない。というのは現に機関説問題というようなものであっても、夫が実際に問題にされないうちは、誰もそうとは思いも及ばなかったもので、いわば偶々時宜に適した(?)か当ったか、の結果だといってもいい位いだからである。
 尤もこういう問題が受け容れられたのには、いうまでもなく思想界の既定の一定傾向が予めあってのことであるが、併しこの問題の発展によって、思想界の予定傾向があんな形の特徴をもって展開するとは、誰も考え得なかったことだろう。
 だが実をいうと機関説問題にしても、掛声ほどに思想上の重大性をもっていたものではなかったので、その実質的比重は三五年一杯で大体正体を現わしたといっていいようだ。というのは、今後この問題は段々と実際的な興味をつなぎ得なくなって行くだろう。独り機関説問題に限らず、一般に日本ファシズム思想にぞくするものは段々とその空景気を見失って、少なくとも沈静に帰し落ち付いて行くだろうと思う。
 但し決して弱まるとは考えないが、これに対比して又、自由主義に関する諸問題も著しく落ち付いた形態を見せて来るだろうと思う。
 では三六年は思想界に特色のなさそうな年であるか。思想の動きを世間向きの刺激物として見るなら、恐らくそうではないかと思う。だが、思想界の本当の動きは、そうした外部的な刺激を有たない時にこそ、却ってその内容が充実するものだということを、注目せねばならぬ。思想動向が落ち付けば落ち付く程思想界は問題に富んで来る。
 そして又、思想界が落ち付くに従って、思想上の問題の検討に関する待望なるものが、意味を持って来ることが出来る。というのは、必要と考えられる諸問題が実際上にもとり上げられる、という条件が可能になって来るのである。
 思想動向が荒々しい時期には、根本的な意味のある問題などは、暴力的に押し流されて了うものなのだ。

 さて三六年の思想界に就いて、私はどういう問題が提出されることを待望するか。つまり予期すると共に希望するか。
 第一に問題となるべきものは、いうまでもなく日本ファシズムである。一般にファシズムが何であるかに就いては、相当信頼すべき訳書や著書が日本でも少なくはない。だが日本に於ける固有形態を持ったファシズムになると、殆ど纏った書物が無いばかりでなく、纏った論文や評論さえまだなかったといっていいだろう。
 一頃ファシズムという言葉が、極めて無雑作にあてずっぽうに用いられて、何でも国粋的なものや国家主義的乃至民族主義的なものや、又封建的なものが、そのままファッショ的なものであるかのように、考えられていた。
 いうまでもなく、之はファシズムの本質の誤解に基くのであって、所謂ファシズムなるものと、国家主義的・民族主義的なものとは一応別な系統のものであり、ましてファシズムと封建的勢力とは一つではない。
 処が、そういうことがハッキリ意識され出すと、或る者は日本の右翼的活動は単に封建的勢力の動きであってファシズムではないとか、或いは日本にはファシズムは存在しないとか、いい出したものである。
 無論これは途方もない間違いで、事実は、日本の封建的勢力が必然的にファシズムの形態を取っているのであり、又ファシズムをサブジェクトとして述べれば、日本ファシズムは封建的勢力を素地として初めて展開しつつあるといわねばならぬ。
 この点の分析と議論とが今後前進するだろうと考える。
 処で、之は取りも直さず日本に於ける封建性の問題であって、所謂「講座派」と所謂「労農派」とが、その対立を益々表面化して来た。当の問題に直接結合しているのである。今日の日本ファシズムの根柢的な条件としての日本封建性は、無論今日に始まったわけではなくて、少なくとも、明治初年来の歴史的発展を辿るのでなければ、基本的な規定については何ごともいえないわけで、この点日本資本主義発達史講座の業績は不朽だろうと思う。
 労農派は之が現代に至る歴史的連絡をまだ欠いているという点を、指摘し攻撃する。この攻撃に反撃するものは、今後の講座派(そう呼ぶことにして)の業績でなくてはならぬようだ。
 だがこの論争の要点は、日本における封建性の規定を通じて、日本ファシズムの分析に寄与すべきだという点になくてはならぬので、之を越えて、党派的関心のはけ口とするのなら、論争そのものが反動的な役割を有つことになることは明らかだろう。この点を吾々は怠らず注目しなければならない。

 自由主義問題乃至之につづくインテリゲンチャ論は、もう少し実質的な展開を示すべきである。「自由主義論」や「インテリ論」というレッテルの有無に拘らず、この問題は解決を要求されるだろう。
 自由主義の罪過はもっと正確に指摘されねばならず、と同時に自由主義の功績はもっと積極的に評価されるようになるだろう。というのは、文化的自由主義(政治的自由主義に対す)ともいうべきものの社会的役割が、もっと的確に着目されねばならぬというのである。そこからインテリゲンチャ問題も、その提出動機に忠実な方向に解決を齎すだろう。
 特にこの点、今まで注目が不充分だったが、今後文化団体の現実の動きにつれて、問題の意味が明らかになる機会を有つかも知れぬ。
 之に直接関係あるものは、哲学と文学とである(但しいずれも思想問題として見ての話だ)。進歩的勢力が政治上の形態として弱まった時、夫が文化形態を取って強まるということは、よく云われる通りだ。哲学や文学への関心が高揚しつつある傾向は、今後益々著しくなるだろう。
 少なくとも文学などでは、プロレタリア的な勢力と純文学的勢力との、共同・混淆・妥協さえが現に見られる。哲学も文学に接近している部面においては、そうだ。この傾向は今後益々助長されるだろうと考えられる。
 併しいうまでもないことだが、ここには重大な危険が潜んでいるのである。哲学と文学とは、その党派性を失っては何等の真理へも逢着出来ない。こういう文化の党派性原則がこの傾向の反面に、叫ばれる必要を生じて来るだろうと予想される。
 之に連関して特別の意味をそそるものは、宗教でないかと思う。宗教万能式の風潮は従来以上に盛んになるとは考えられないが、宗教論、宗教批判、が凡ゆる領域に渡って(単に宗教と名のつくものに限らず)、行なわれるようになって行くだろうと思う。
 要するに、三六年の思想界は大して騒がしくないだろうが、それだけに問題が根本的な処から掘り起こされるのではないか、というのが私の予想でもあり又希望でもあるのだ。
 今日のような一定種類の反動期には、之が一等賢明なことでもあると思う。転んでもただは起きない、という現象が見られたら、日本にも「思想」があるといっていいだろう。
(一九三五・一二)
注=この展望は一部分見事に裏切られた。二・二六事件の発生があったからだ。六〔次章〕参照。


六 三六年度思想界の回顧



 三十六年度の思想界の動向を根本的に決定した事件は、云うまでもなく二・二六事件である。だがこの事件についての発表は極めて官僚的な機密主義によって制限されているものであり、又この事件に就いての解説批判は殆んど絶対的に封鎖されている。この言論封鎖は併し独り二・二六事件そのものに就いてばかりではなく、延いて政治的思想的言論全般に就いての箝口令を意味している。文化思想の中枢である帝都は、約半カ年に渡って戒厳令下にあった。この一連の現象が又本年度の思想界の混濁した色調をなしている。
 事件の発生そのものは、誰がなんと云おうと要するに日本的ファシズムとその躁急な行動とを意味していた。従ってこの事件が如何ように始末されたにしても、とに角この事件の指導精神がなにかの形で跡を残すような結果になった以上、この事件の失敗さえが日本的強力政治への進行を示しているのである。
 現に広田内閣の成立は、全くそうしたファシズムの合法的な進行を約束するものだったろう。広田内閣は、所謂「自由主義」の排撃を声明した。帝国の政府が、この種の社会科学的な思想上の一態度を声明したことは、殆んど未だかつてなかった重大事件だったと云わねばならぬ。
 尤も広田首相が排撃を声明した自由主義なるものがなにを意味するのか、理論的には甚だ曖昧であることを免れなかったが、他方美濃部学説其の他の憲法学説に現われた所謂自由主義なるものを見れば自由主義排撃なるものの一応の内容は知ることが出来よう。とにかくこの自由主義は一定の憲法学説、一定の国体観を意味したのだが、それと同時に極めて近代的な政治観念としての言論の自由をも意味したのだ。だから自由主義排撃なるこの日本ファシズムの進行は、遂に可なり極端な言論抑止と言論統制とを結果した。官製のニュース以外に出た社会的刺激になる報道は総て流言・飛語・浮説・と見做された。一例は『朝日新聞』経済記者のスクープによる東株暴落事件である。之によって記者達は流言浮説をなしたという廉で(社内では事実そう見なくても社会上の名分ではそういうことになる)退職を余儀なくされている。この例でも判るような都下及び全国の有力な新聞紙はその報道の自由を著しく奪われた。そればかりでなく各有力紙は自発的に批判的態度を捨てるようにさえなった。三六年に這入って、新聞記者が集団的に無能化したことは特筆すべき現象だ。却って従来の二流新聞が批判的なニュースによって新しい読者を獲得しつつあるようなわけだ(『報知』・『読売』・の如き)。同盟通信成立のおかげでニュースを[#「ニュースを」はママ]単調無味でニュースとしての意義を失ったことは、新聞紙に対する民衆の信頼を甚だしく傷つけた。
 そこで新聞紙のような天下の公器を信用出来ないというところから、パンフレットの発行が急に増大した。今日パンフレットは新聞紙の、又ある程度まで評論雑誌の、不完全な代理物となっている。言論の統制が、雑誌単行本其の他に対しても、より統一的となり組織的となり苛烈となったことは、三六年度の特色である。言論統制は思想取締りばかりでなく風俗取締りにも関係している。かくて映画の検閲が遽かに苛酷になったことは人の知る通りである。ダンスホール、レヴュー、其の他の弾圧も亦、一つの思想統制に帰着することを知らねばならぬ。
 電力民有国営案さえも亦、一つの思想問題として現われた。内閣調査官奥村案は一種のファッショ的イデオロギーと評価された。在郷軍人会が官設団体となることによって、在郷軍人的イデオロギーは国権上の威力を生じるだろう。更に行政改革、議会制度改革、に関する軍部案として報道されたものは、政府機構の官僚独裁化、デモクラシーの否定、を暗示している。陸軍軍需官業労働者の団結権は一片の勧告で吹き飛んで了った。右翼政治思想団体は橋本欣五郎大佐の下に戦線統一を企てている。山田盛太郎、平野義太郎、小林良正、等の有力な左翼理論家は自由を奪われている。風刺詩人さえ御難だ。
 こうした日本ファシズムの進行と並行して反ファッショ的運動も亦、今年度に入って、頓に盛んになったと云ってよい。勿論之は事件後の粛軍運動を契機としたものであって、民政党の斎藤隆夫氏の軍部大臣に対する質問演説は、極めてよく天下の世論を代表したところの、特筆すべき言論だったが、一二の言論は遂に思想の趨く処を掣肘することは出来ない。だが最近の所謂軍部案による議会政治否定説に刺激されて、民政、政友、社大、の諸党が反ファッショの気勢をその言論に現わすだけの多少の余裕を示したことは、日本ファッショ化過程が原始的な抵抗を呼び起こしつつあることを物語る一例にはなる。
 だがこうした運動の組織的な形態は、日本に於ける人民戦線の問題に集中している。フランス人民戦線内閣の成立と、スペイン人民戦線内閣に対する反乱とに刺激されたのは勿論であるが、この刺激が縁となって、この問題は広く社会運動と思想界との課題としてかかげられた。最初之を取り上げたものは、評論家では大森義太郎、清沢冽、馬場恒吾、其の他の諸氏であり、政客としては、労農無産協議会の加藤勘十氏等である。加藤氏等はこれに就いて文化人の協力を求めた。社会大衆党は労協一派の無産戦線分裂的行動を承認せず従って夫に基く人民戦線を承認しようとしない。特に麻生、河野、菊川、の諸氏は外見上人民戦線の否定論者として現われている。だが問題は人民戦線という名目や名称にあるのではなく、現下の日本で必要なのは、無産政党の単一化又は徹底的共同戦線の地盤にあるのだ。苟くも無産政党の分裂を招くような態度は避けねばならぬと見られている。事実上思想的進歩分子は続々として社大党へ入りつつあるように見受けられる。これは三五年度あたりまでは見られなかった左翼思想界の動向である。
 ファッショ哲学式なデマゴギーは、社会的興行としては三六年度で全く影をひそめた。大衆の思想はこの点については極めて批判的にさえなって来た。だがそれにも拘らず日本ファッショ的イデオロギーは国民の身辺にいつとなく薫染しつつあることを見逃してはならぬ。ところが之に対して、マルクス主義も亦著しく日常化して民衆の常識となりつつあることを知らねばならぬ。少なくとも一頃流行った不安や虚無のポーズは、今年の事件によってそのポーズ自身がけし飛ばされて了った。文芸家もこの事件によって社会的関心をかき立てられた。文学の思想性(例、三木清氏、私など)や作家其の他の教養(長谷川如是閑氏、谷川徹三氏、など)の問題が持ち出された所以である。又青年論(室伏、三木、岡、大森、森戸、私など)や恋愛論(岡邦雄、杉山平助、神近市子など)も亦、そこから発生した。
 三六年度に於ける単純な意味での思想界の動きで最も目に立つものはヒューマニズムだろう。ヒューマニズムは三木清氏等がしばらく前から提唱していたものであるが、今年に入って急に普及した。なぜかと云えば、民衆の一部のものがここに何等かの社会的反抗の思想的拠り所を見出し得ると考えたからである。従って現在ヒューマニズムが問題にされるそのされ方自身から云えば、ヒューマニズム問題は大体に於て進歩的な動向の筆頭に数えられねばならぬ。だがそのことと、ヒューマニズムなる思想自身が進歩的な動向の観念上の拠りどころを提供し得るだろう、ということとは別なのである。現下問題になっているヒューマニズムは、勿論マルクス主義の発達の系統から呼び出されたものではなく(又以前の行動主義の新レッテルとも云えない)、夫を含むとも夫に含まれるとも云えぬがしかし之を限定すべからざるものと考えるべきだとする俗見は、要するに之をツルイズムに帰着させるもので、思想運動の原理たるに耐えぬことを告白するものだ。この点から云って田辺元氏のラショナリズムの主張に立つヒューマニズム批判及び時局批判は、注目されるべきものである。モラル論も亦相当行なわれたと見るべきだが(之には私も関係がある)、もし元来唯物論の一環として提唱されるべきこのモラル論をヒューマニズム主義と結びつけるなら、それはモラル論ではなくてモラル主義になって了うだろう。――西田哲学の多少の台頭も見逃してはならぬが、今はこれを割愛せざるを得ない。
 専門的宗教家が思想統制に大して役に立たぬことは今までと変らない。宗教で思想上意味のあるのは、寧ろ多数の邪教が不敬宗教であることが発見されたという事実だ。つまり邪教の主な大きなものは、日本の政治動向に順応して初めて邪教たり得た、ということの発見だ(大本教、島津ハル子、ひとのみち、又或る意味では天理教、其の他)。
 最後に、文化運動の新しい形態の萌芽として、文化人の生活権の拡大を現実的な地盤として初めて大衆的文化運動を遂行し得る、という建前から、「日本文化人協会」が組織されつつあることを注意しよう。之は江口渙氏等と社大党幹部等と賀川豊彦氏等との結合によるもので、今後或いは唯一の実際的な文化人運動団体となるかも知れぬ。
(一九三六・一一)


七 自由排撃三法案



 従来の諸政府の秕政を一新すると称して登場した広田内閣は、組閣第一番に、自由主義を認容しないというような、妙な声明を発表した。この点は特別議会でも問題になったが、首相の答弁を見ても自由主義というのが何であるかは殆んど全く理解出来ない。
 自由主義が社会の矛盾の一切の責任を負わされたように評判を悪くしたのは、いうまでもなく例の一部の革新主義者の口から出たことで、つまるところ「青年」的な片言にすぎなかったのだから、これは真面目な用語として用いることは意味がないことだったのだが、ところが革新熱の伝染ですっかり逆上してしまっていた組閣当時の首相は、大人げなくもこんな片言を、堂々たる一国の政府方針声明の内に、ウッカリ書き込んでしまったわけである。
 今日自由主義の活きた科学的分析は、まだ決して充分に行なわれ得てはいない。まして常識は自由主義が何であるかを少しも理解してはいない。だからこの自由主義が良いとか悪いとかいっても、実は少しも広田内閣の政綱の説明などには、理論上ならないはずだったのである。
 だが、今日の日本の政治家や社会的有力分子の一つ一つの言葉を、理論的に真面目に受け取って頭をひねることほど野暮なことはない。国民はこうした種類の支配者のもっともらしい用語を、揶揄的に高をくくる練習をする必要があるだろう。
 併し言葉や観念は何でもよい。対策を変にいい表わそうと下手にいい表わそうと、それは品格の問題ではあっても、実力の問題ではない。広田内閣のいわゆる「自由主義」という観念が変でも何でもよい。問題はこの内閣が何をいいたがっていたか、である。――自由主義が悪い、というのは、実は自由主義が良いとか悪いとかいうこととは無関係だったのだ。
 実は「自由」そのものが悪いということだった。「自由」を抑圧するぞ、ということだったのである。尤も良し悪しが問題になるところの「自由」なるものは、経済的な自由よりも寧ろ政治的自由のことでなければならぬ。
 政治的自由を〔抑圧〕するには、予め自由が悪いという掛声をかけてからでないと、一寸都合が悪いだろう。
 そこでドサクサ紛れにまず気合いをかけた。これが「自由主義」の排撃の声明に他ならなかった。
 もっとも広田首相が排撃しようとした「自由主義」(即ち政治的自由)は、決して議会政治のことではなかったのである。この点、広田首相につめよった某ブルジョア議員の心配は杞憂に他ならない。議会政治という形式がいけない、などと議会に先立って声明するような愚をなすはずはない。
 広田首相が〔排撃〕しようといい放った政治的自由は、もっと、実質的な自由であって、社会における思想や言論の自由のことだったのだ。この点を国民はウッカリしてはならぬ。
 議会では、広田内閣が組閣当初の革新を一向政策に表わさないといって非難する向きもあるらしい。しかし決してそんなことはない。
 少なくとも自由主義排撃の声明は、三つの法案となって、ハッキリ形を現わしたではないか。曰く「不穏文書等取締法」「総動員秘密保護法」「思想犯保護観察法」がそれだ。どれも〔社会における思想や言論の自由を抑圧する〕ための法律であることは、一目瞭然である。国民はこれほど声明の実行に忠実な政府を見たことはあるまい。
 不穏文書等取締法案の不評判は有名である。民政党の一部の幹部には、根本的な修正を加えた上で通過させようという肚もなかったではないようだが(事実列挙主義ならば承知するという政党? もある)、衆議院の大勢は、審議未了で握り潰す方針をとった。うっかり友人に手紙を書いたり話しをしたりすると、それが「人心を惑乱し軍秩を紊乱しまたは財界を攪乱する目的」で治安を妨害するらしいと判定されるかも知れない。判定には無論当人との相談は無用だ。そう判定されたが最後、三年以下の懲役や禁錮を食わねばならぬ。
 またウッカリ「文書図書を出版または頒布」しても同様だ。さらにこの出版物に発行者の氏名住所がなかったり誤っていたり、出版法や新聞紙法による納本をしなかったりしようものなら、五年以下の懲役か禁錮を食う。
 出版物の発行者の氏名住所がインチキだったり、納本しなかったりすることは取締る必要があるが、そういう取締りをするものが出版法や新聞紙法ではなかったか。して見るとこの法律の要点はここにあるのではなくて、人心を惑乱し軍秩を紊乱しまたは財界を攪乱する「目的」を持つことと、さらにこれが治安を妨害「すべき」性質を有つこととに、あるわけだが、しかし出版物ならば発売禁止や頒布禁止は従来のお手のものなのだから、要点は出版物にあるのではないということになる。すると流言浮説がこの法律の最後のねらいどころだといわねばなるまい。
 政府の提出理由の説明によると、不穏文書(相沢中佐の判決理由公表中に不穏文書の件が明記してある――三六年五月十日付都下各新聞を見よ)の横行が例の不祥事の一原因だというのだが、寺内陸相がいっている通り、この法律がなくても粛軍には大してさしつかえはないそうだ。
 ところが不穏文書は主として軍部に関係があったはずだが、して見ると不穏文書の方はどうでもよいわけで、矢張り大切なのは国民の流言浮説の方だということになる。「不穏文書等取締法」は「流言浮説取締法」と呼び直されねばならぬ。――いずれにしても、これで見ると、例の不祥事件は何か国民の流言浮説からでも起きたかのようである。
 国民が人心を惑乱したり、軍秩を紊乱したり、財界を攪乱したりするために、治安を乱したから、ああなったということにでもなりそうだ。これでは大抵の国民は我慢が出来なくなるのは尤もだろう。
 尤も国民というものはお喋りが好きで、愛国心が乏しくて、自由主義的で現状維持的で、仕方のない代物だから、この憐れむべき存在にお行儀をつけてやろうというなら、まだ国民に対して多少の好意がないともいえないだろう。処が必ずしもそうではないのである。
 国民はウカウカしているとスパイと見なされてしまうのである。
「総動員秘密保護法」によると、行政官庁は必要に応じてどこへでも侵入し何でも検査し何でも質問出来る。そうかと思うと、通信の施設などは総動員機密として指定され得るという。つまり国民の音信はいつでも開封するが、その配達をするしないは機密にぞくするということにもなるだろう。
 スパイ行為を処罰することは当然だが、誰でも彼でもスパイ容疑者に見立てられ得るということが困るのだ。見立てる見立てないは、無論当人と相談なしにやれることだから。
 初め好意をもって迎えていた衆議院が、この法案に対してやがて絶対反対の態度に変って来たことには、よくよくの事情があるのだろう。政府側の答弁はシドロモドロだったといわれているが、それはそのはずで、一体スパイという観念が極めて勝手な活用をもつものなのだ。
 法文によると「国防上の利益を害す目的」をもつことをスパイと見るらしいが、国防にも「広義国防」と狭義国防(?)との区別があると世間ではいっているから、問題はムツかしい。
 たとえば例の事件に際して、事件のニュースを収集したというようなことも、それが日本の現下の国情を世界に知らせるという結果になる以上、広義の国防上の利益を害すること少なくはあるまい。もしこれがスパイ行為だとすると、一切の新聞記者や議会における質問者さえが、スパイと見做されるかも知れない。つまりスパイとは流言浮説をなす者全体のことだ。
 ところで国民は流言浮説的お喋り屋だったというのだから、即ち国民は可能的に皆スパイだ、というような妙なことにならぬとも限らぬ。「総動員秘密保護法」は要するに「不穏文書等取締法」に輪をかけて積極化したものだということになる。議会がこの法案に対して最も反感を有ったのは、中々穿っていはしないかと思う。これを軍部に対する反感からという風にばかり見るのは皮相の見解だ。
 ところが政府が国民に対して懐く不信は、単にこの段階には止まらないのである。不埒なお喋りだとか、スパイの候補者だとかいわれても、まだボンヤリしていると、終いには遂に、永久の犯人と見立てられるのである。「思想犯保護観察法」がそれだ。思想犯人で執行猶予になった者や起訴留保になったもの、また刑を終った者や仮出獄した者、つまり一旦思想犯人となった者は例外なく、保護観察に付され得るのだが、それだけではなく二年ずつ何遍でもこの保護観察を反復出来るというのだから、これは要するに一種の終身刑に他ならない。もっとも当局はこれは刑罰ではなくて、保護観察だというのだが、寺院や病院や保護観察所へ犯人を費用自弁でお預けにするのだから、幼稚園でやる保護観察の類とは大分違うらしい。
 尤もこれは治安維持法違反にだけ限るということになっている。というのは普通の国民と右翼犯人と軍刑法に触れた者には適用しないのだ。ところが六十六議会に於ける加藤勘十代議士の反対演説によると、治安維持法違反者は近年急激に減少しつつあるのである。減少しつつあるのに大周章に周章ててこの法律を強制しようとするからには、目標は従来の水準での思想犯人だけではなくて「広義国防」に対応する「広義思想」の犯人にあるかも知れない。――だから国民は、ボヤボヤしていると、〔思想犯人〕にされないとも限らぬというのである。
 衆議院の一般議員は、この法案には強ち反対ではないらしい。下院は辛うじて通過するのではないかと見られている。下院を通過すれば貴族院はそのまま通るらしい。
 元来これは以前治安維持法改正法案として、衆議院を一旦通過したものと同じ実質のものでもあったのだ(貴族院で審議未了)。――代議士達は例の広田首相の「自由主義」排撃をば彼らの職業意識からして、あくまで議会政治排撃や政党政治否定のことらしく思い込んでいる。それで彼等は、自由主義の否定がこういう最後の形態をとって現われているということに、あまり興味を持っていないのだ。それは彼等が、国民に対してあまり興味を有っていないということにほかならぬ。
(一九三六・五)


八 不穏文書取締



 三六年の特別議会に提出された政府提案の内、或る意味で一等衆議院の反感を買ったものは、不穏文書等取締法案だろう。或る意味でと云うのは、例えば退職積立金法案なども決して評判のよくないものだったが、併しこの法案に対する反対の裏には、何か気のひけるものが潜んでいただろう。と云うのは之に直接反感を感じているのは資本家団であって、資本家の利害を代表しないという処に、神聖な自由を持っているわが国の衆議院は、この法案に大威張りで反対するのは、少し間が悪いわけだ。
 無論資本家団の要望如何とは無関係に、苟も資本に直接不利なものに対しては、社会政策的立法の二階から目薬的な利益は後回しにして、わが議員達は反対しなければならぬ良心を持っている。処が間の悪いことには、資本家自身がこの法案にムヤミに反対を声明しているのだ。
 で積立金法案に反対するのはどうも資本家臭くて困る点があるが、不穏文書取締法案に対する反対の方はもっと大義名分を持っている。之は言論という議員の直接関心と関係があるようにも世間からは連想される法案だ。
 そして又何より大事なのは、之が二・二六事件と関係があるということだ。処でここは粛軍議会である。時は戒厳令下だ。――こう並べて来て見ると、この法案がその良し悪しに拘らず、議会の興奮を挑発するのは尤もだろう。だからそのわずかな反対の気運も亦、極めて反感的なものになるわけだ。
 該法案が反対の対象になっているのは、「人心を惑乱し軍秩を紊乱し又は財界を攪乱する目的を以て治安を妨害すべき事項を掲載したる文書図画」の責任者に対して三年以下の厳罰を以て臨むという点と、「逓信その他何等の方法を以てするを問わず右の目的を以て治安を妨害すべき流言浮説をなしたる者」に対して同じく三年以下の体刑を課するという二つの点にあるのである。
 提案者の内務省に云わせると、本案は所謂怪文書を弾圧しようというのが、目的であって、之は現下の粛軍途上にある軍部に取っては極めて必要なのだから、どうしても通過させてもらわなければならぬということだ。
 処が衆議院の殆んど全院一致の意見によると、人心を惑乱したり、軍秩を紊乱したり、財界を攪乱したりする目的を有っているかいないかは、事実上当局が勝手に解釈出来ることにぞくすることとなるに相違ないし、又雑談や質疑さえが、治安妨害を目的とする流言飛語として勝手に処罰されうることになるだろう。之は危険極まりない結果と云わねばならぬというのである。
 衆議院のこの反対意見には、誰も異論がないのではないかと思う。一体人心を惑乱するということは何か。
 例えばメーデーというような大衆行動は、人心を惑乱するものであるかどうか。戒厳令下ではそういう行動はよくないという。恐らくそれが人心を惑乱すると思われるからなのだろう。普通の年でさえ日本のメーデーで大した問題が起きたとも思えないのに、まして治安の殆んど絶対的に安全な戒厳令下に於て、この大衆行動が人心を惑乱するような心配はあり得ないことだろうと思うのだが、それはとに角として、メーデーのデモンストレーションは、労働者にとっては彼等の意識の統一をこそ呼び起こせ、惑乱などは起こさぬものだ。
 之が人心を惑乱すると考えられるのは、だから労働者が、労働者によって予めその心を惑乱されるべき関係に置かれているような人間の心を惑乱するということでなければなるまい。それ故、人心とはこの場合労働者を除いてのことだ。つまり労働者の心は人心ではない。ということは労働者は人ではない、という結論になる。
 もしメーデーが人心を惑乱するものだというなら、右のような結論になるわけだ。
 政府が人心と考えているものも、吾々が人心と考えているものとは、少し違うらしいし、その惑乱という観念も大分違うのだ。軍秩やその紊乱ということは、極めて実証的な観念で、之を理解するには二・二六事件の記憶を呼び起こせば済むし、財界やその攪乱も、株式市場で実証的に現われることだから、まず好い。判らないのは人心とその惑乱なのだ。
 処で該法案は例えば、この人心の惑乱を目的として治安を妨害する処の文書を出版したり何かするものを、処罰しようとするのであった。それを目的としたかしないかは事実問題として該法の適用者側が決めることになるのであって、決して適用される人間と相談して決めるのではない。ここに議員達が見た通り、法律運用の技術上の勝手が、準備されている。
 それだけではなく、治安を妨害するということの解釈が又ムツかしい。治安維持法を見れば判るというかも知れないが、併し最も治安を妨害したと思われる沢山の右翼青年達は一向治安維持法とは関係がなかったようだ。
 こういう風に、法文解釈的には何とでも辞義を決め得るにしても、社会的には一向明快明朗でないような法文をやたらに発動させて貰っては、吾々大衆は全く見当がつかずに戸迷って了わざるを得まい。之こそ人心の惑乱と云うものかも知れないのだ。
 惑乱、紊乱、攪乱という風に、うまく別々で而も似たような乱し方が並べられているが、そういう対句めいた作文で処罰される人間こそいい迷惑だ。そうなると立法も一種の道楽のようなものかも知れぬ。
 処でこの「人心惑乱」が就中難解なことには理由があるので、之は実は例の「流言浮説」という物と関係があるのである。処が治安を妨害すべき流言浮説というものが又判らないものなのだ。――私は二・二六事件発生の当時から実に様々な流言浮説(流言飛語という術語もあるらしい)を耳にした(但し私は決して口にはしなかったことを断わっておく)。無論根も葉もないのもあるにはあったが、大体の輪郭に於て、後に判った「真相」らしいものと、よく一致していたのに驚いた。
 それ以来私は流言飛語というものに対して、各新聞に画一的に掲載されるニュースとは又別の念を懐くようになったのである。そして而もこの私が耳にした流言浮説はどれも決して治安妨害的でないものではなかった。
 それはまあ好いとして、真相を語る流言浮説と真相を伝えない流言浮説とがあるということを、私はその時、実験的に確め得たわけなのだ。而も真相を伝える流言浮説に極めて治安妨害的なものがあることと、真相を伝えない流言浮説で極めて治安的なものがあることとを知った。
 こうなると流言浮説と真相とは必ずしも別なものではなく、又流言浮説と治安妨害とは無関係なのだ、という結論になるわけだ。
 ではなぜ流言浮説を治安妨害的なものであるかのように、処罰しようとするのかというと、実は怪文書なるものを弾圧しようとするためだと政府はいう。怪文書というものを一遍私も見たいと思っているが、どうも普通の国民の手には渡らないものらしい。併し流言浮説の方は私は盛んに耳にした。
 之で見ても怪文書と流言浮説とが全くの別物だという事が判る。処が該法案は「怪文書」を取締ると称して「流言浮説」の取締りの法文を決めようとする。作文道楽もいいが、こうした書き間違えは影響する処大きい。
 観念が段々怪文書から流言浮説、流言浮説から不穏文書へと、ずれて行く。之は頭が悪いか性が悪いかの証拠だが、物を云うのは立法者の頭ではなくて、書かれた字面なのだから、この作文道楽は傍迷惑なのである。
(一九三六・六)


九 改革熱の流行



 簡単に考えれば、二月二十六日に例の事件が突然(?)勃発し、社会は之に刺激された結果、相当思い切った諸般の改革を企てるようになった、というのが現在の社会事情のようである。軍部の改革、所謂強力内閣の真の強力内閣への改革、内務省官吏の人物の改革、貴衆両院夫々の改革、警視庁の改革、司法部の改革、至るところ改革でないものはない。改革を口にしないものはこの月以来、一人前の人間ではなくなった。
 二・二六事件がこうした改革熱を惹き起こしたという風に云えば、事象の如何にも客観的な依怙ひいきのない冷静な見方のようであるのだが、しかしそれにしても一体二・二六事件を惹き起こした主体が何であったかも、考えて見なければならぬ。と云うのは、或る事件を惹き起こしたその主体なるものは、いつでも何等かの主観的な目的を有っているわけで、この主体の主観的な目的意識を離れて、その事件の結果を考えることは、少し上の空な考え方のような気がして仕方がないからである。
 そこで二・二六事件の主体、この主体は、おかげで「一半の責」を負わされた政府当局や国民でないことは明らかで、云うまでもなく、最初は「蹶起部隊」という勇壮な名によって、次には「行動隊」という頼もしい名によって、そして二十八日頃からやっと「反乱部隊」とか「反軍」とかという「汚名」によって、呼ばれるようになった例の一団の軍人達であったのだが、事件のこの主体がどういう目的意識を有っていたかというと、最初二十六日に所謂蹶起部隊の行動原理を紹介した処によると、〔国体を擁護、開顕せんとす〕るということだったし、又彼等自身の言動から想像しても所謂「革新」運動の心算であったことは疑えないようである。
 でもし、そうだとすると、二・二六事件の結果世間が改革熱に浮かされ始めたという現象は、如何にもそうありそうなことでありながら、併しどうも少し変な現象と云わねばならぬ。とに角反乱部隊であり、反軍であり賊軍なのだ。
 ところがこの人達の目的とする処が恰も伝染でもしたように、この世間に流行し始めたことは、之容易ならぬ現象ではないのか。
 もしああした行動が一定の精神の必然的な所産であったとすれば、そうした行動を必然たらしめるようなその精神そのものと、その行動とを、別々に考えることは元来許されないことだ。
 だから、その精神はよいがその行動はいけない、というような三百代言式分析は、この場合通用しないのである。でその行動が反軍的であったのなら、〔国体の擁護、開顕に反対〕だったのだ。であればこそ、彼等の指導部乃至上層部は遂に事実上反軍の汚名を買って出たというわけである。
 処でこの反軍的目的が、即ち又改革熱が、今や日本の全社会を風靡している! これは何とした世相であろう。
 私は冗談や逆説を弄しているのではない。もし本当に、改革の精神に忠実ならば、例の二・二六事件の主体の行動を無下に〔貶〕しめることは出来ない筈だし、もし又逆に例の主体の行動を本当に〔反軍的〕だと信じるならば、今日の改革熱も亦決して晏如として見ているわけに行かない筈だ。吾々はこのディレンマに立たされている。――尤も実際には吾々はそんなディレンマなどには立ってはいない。吾々は現にその一方に立たされているのだからどっちを選ぼうかなどというディレンマはないのである。ただ、そこにあるのはいつも矛盾だ。
 と云うのはつまり、最近の政治当事者は革新派であると共に革新派でなく、革新派でないと共に革新派である、という矛盾だ。今日の改革振りには、こうした根本的矛盾が一貫していることは、もう少し開眼注目されるべきではないかと、私は思う。少なくとも、二・二六事件の結果、諸般の仕草が改革を企てられ始めた、というような呑気な見解は全く困るのである。
 なる程改革は、夫が改革であって保守でない限り、即ち悪いところを改めることである限り、良いことに相違ない。
 だが問題は、どういう線に沿ったどういう方向へむかっての、改革であるかである。この方向線上に於ける辻褄をまずつけて見もしないで、偶々その上に起こった某々事件の罪悪や効用を論じたり、又その上でしか起き得ないような「改革」や「革新」に力こぶを入れたりしたところで、およそ意味はないのだ。
 処が改革とさえ云えば、世間の連中は嬉しがって了う。世間はどんな改悪でも之を「改正」と呼ぶ妙な弁証法的な習慣を持っている。万事そうした調子なのである。
 それに一方改革という言葉は至って倫理的な響を持っているのが常だ。世間では改革と云えばすぐ様人心の改革に思い及ぶだろう。曾て唱えられた国民精神や農村精神作興、警察精神の高揚、国体観念の明徴、軍紀振粛や吏道振粛、非常時的認識の奨励、こうしたものは皆人心の改革に帰着するかのようだ。
 人心の改革で改革の事が済むとすれば、これ程金のかからないものはないに違いないから、従って自然と改革一般も受けがよくなるわけである。改革熱の流行の心理的な条件の一つはこの観念の受けのよさにも、確かにあるらしい。――そして他方、所謂改革は、その人心改革から延いて人事改革にまで及ぶのを常とするから、大抵改革者の一身上の利害と結びついている。だから大抵の所謂改革は、下層人物から強制されたという形を取る。改革によって、又人心を一新し得る所以があるわけだ。
 で、今は、諸般の根本的改革なるものが、前に云ったような、ああした一貫した矛盾にも拘らず、そういう矛盾にはお構いなしに、世間で何となしに喜ばれているものなのである。凡そこの革新に反対するものは、世界の歴史に逆らうもので、之こそ今日の反動家だ、と云わぬばかりである。保守退嬰・因循姑息は進取積極・勇邁果敢・等々(其の他一ダースのそうしたもの)による気魄の前で、吹き飛ばされて行方が判らなくなりつつある。
 このアジアの外交界を押し渡ろうとする気魄の嵐を何と呼ぶかはとに角として、之によって吹き飛ばされる保守退嬰・因循姑息は、「自由主義」と云うものだそうである。――この自由主義こそ従来の秕政の源であり、之を打倒することこそ所謂改革・革新である、と広田首相は声明した。――之によると、例の事件も本当は自由主義に責任がある、ということになり兼ねない勢だ。
 内閣の諸公が自由主義と考えるものが何を指すかは、全く吾々の理解の外に横たわる。政府筋から自由主義の否定という哲学的テーゼが伝えられることは、容易ならぬ異常な事態だとは思うが、遺憾ながらその自由主義なるものが、何を意味するのか、吾々にさえ判らない。まして年取った内閣の諸公達自身に判る筈はないのだ。
 併しそれはどうでもよいので、とに角改革熱は自由主義打倒の線に沿って行なわれるべきだということが、今や政府筋の言葉として公認されたという点が、要点だ。
 処がこの要点、改革熱進行のこの一般的法則に、うまく合わないらしい改革現象があることを、見落すことは出来ない。林法相は、広田首相の政綱声明を司法省的に敷衍して、検察力の強化や人事刷新や法律の時代化をその改革案とするに至ったが、その要領はつまり「司法権の独立」ということに帰するらしい。
 処で之を見て取った司法官、本来の意味での司法官たる判事団は、之を正直にも、正に「司法権の独立」のための裁判所構成法改正に迄持って行こうとしたようだ。従来の裁判所構成法によれば司法大臣が裁判所に対する行政的監督権を持っていたのを、この監督権の所有者を大審院長にし、かつこの大審院長を天皇直隷とすることによって、司法権を完全に行政権から独立させようというのが、この改革案の重点である。検事局を裁判所から分離する案もこの重点に依存する。
 つまり裁判所と司法権とを、軍の統帥権に於てのように完全に独立独歩のものにしようという改革運動で、時節柄司法権が干犯されないためには当を得たものであるが、併しこの最後の点から云えば、この改革の動機はやや所謂自由主義臭いものだと云わねばなるまい。
 それだけではなく、判事団は、司法権を行政権から完全に独立させることによって、旧来の三権分立の関係を、愈々明らかにしようと云っているのだが、処が自由主義が終って三権分立などは過去の寝言だと喝破しているのがヒトラーの徒なのである。三権分立こそ所謂自由主義の一つの礎石ではないかと思う。して見ると、この司法部改革運動に限って、著しく自由主義的である点が、少なくとも存在すると云わねばならぬ。で之は「改革」の法則に合わない改革であるということになりそうだ。
 だがよく考えて見ると、之も亦矢張り「改革」なのである。三権分立と云っても、実は司法権を行政権や立法権から区別することに興味の中点があるのではないのだ。統帥権のように司法権も絶大な権利(?)か権力(?)かにならねばならぬということなのだ。ここにこの自由主義(?)の「改革」味が存するのである。――この改革が自由主義的であるのではなく、寧ろ関係は逆に考えられねばならぬのであって、この自由主義そのものが「改革」的なのである。
 内閣の諸公は何と考えるか知らないが、日本の自由主義は、評判が悪いにも拘らず、実は初めから多少とも「改革」的なのだ。改革の反対物さえが日本では改革的なのだ。ここにもまた改革の根本的矛盾が現われているのである。
 私はこの矛盾さえなかったら、現代改革熱の風邪の神になって、一つ立身出世でもする処だが。
(一九三六・五)


一〇 吏道振粛



 三六年三月十八日に広田内閣の政綱のお終いの方に、「吏道の振粛」なるものが説かれている。「庶政の匡革は今や単に作用運営のみに於て完きを期し難く大いに吏道を振粛し行政機構の更新を必要とするに至れり」云々、とある。吾々は広田内閣の政綱を今の処この声明自身によって判断する他なく、まだ政綱の実施にあまり注目すべきものを見ない。従って又吾々は、この声明の文章そのものによる他、政綱に対する理解を持つ機会を与えられていないかのような現状にある。
 処でこの文章を何気なく読み下せば、何か判ったようなことを、否実に判り切りすぎたことを、書いてあるに過ぎないように見えるかも知れない。だが少し気をつけて読んで見ると実は判らないことだらけなのだ。と云うのは大いに説明した揚句でなければトクと納得の行かないものが、この部分だけを見ても大いにあるのである。
 匡革というあまり聞いたことのない言葉にも困るが、吏道を振粛し行政機構の更新を必要とするに至れり、という日本語も文法的にわけの判らぬもので、振粛し更新するを必要とする、と書くか、振粛するを必要とする、と書くのかでなくては、日本語にはならぬだろう。だが、こういう熟語や文法の上での揚げ足取りはどうでもいいとして、例えば作用運営(この対句か熟語の合成かも少し変だが)のみではいけないから、大いに吏道を振粛する、と云うことになるらしいのだが、して見ると庶政の(だろうと判読)作用運営以外に吏道なるものがあるように取れるようだ。作用運営という観念が理論的に何を指すかもよく判らないが、之に止まらぬらしい吏道やその振粛なるものも亦、従ってなお一層判らぬのである。
 聞く処によると内務省などでは、この抽象的な声明を具体化すのに甚だしく頭をひねったということだ。潮内相も「まあいろいろ研究をした上で」というので、地方長官会議までにやっと考えを纏めたらしい。だがこの声明が内務省(と限らぬが)にとってムツかしかったのは、必ずしも夫が抽象的であったからではない。寧ろそれが抽象的な論理的合理性をさえ有っていないからなのだ。生硬な造語や文法的な杜撰はその一徴表にすぎなかったので、その根柢にある観念そのものが元来、抽象的に見てもルーズなのである。吏道というものも、この判ったようで実は少しも判っていない極めてルーズな観念の一つに他ならないのだ。
 広田声明全体が、既成乃至急造のルーズな観念の甚だ頭の悪い羅列に過ぎないことは、声明発表当時、すでに世間がそれとなく感得して不満の意を表した処であるが、併し大事な点は、声明内容のこの杜撰振りが広田内閣乃至広田内閣を成立させ操縦する処のものの要求から云って、絶対に必要なのだということである。ただ単に、こんな粗笨な声明をしたのではなくて、そういう粗笨さを必要とする哲学(?)があるからなのだ。
 この哲学はかつてアジア大陸に王道なるものを唱え又実施すると号した。その創業と守成とがどういう現実に終ったかを私は審かにしない。がとに角この哲学は「道」を説くことを最も好む哲学と見える。官吏があれば即ち吏道という観念を創始する。澆季の世に於ては道を聴くことの如何に易いかを思わざるを得ない。今日ではあしたに一つ道を聞いただけでは夕べに死ぬ気には容易になれぬ、と云わねばならぬ。
 潮内相は地方長官に訓示して「一身を君国に捧げ公明なる心事と中正なる態度を以てその職に精進すべきは吏道の第一義たり」と喝破しているが、公明な心事と中正な態度と職務への精進とは、凡そ人間万人の心がけであるべきだし、一身を君国に捧げるのは必ずしも官吏に限ったことではない筈だ。之では吏道の折角の第一義が判らぬ。
 内相は他の機会に云っている、「吏道というのは官吏服務規律を遵守すれば良いわけだ」云々と。つまり変に尤もらしい口吻をかりずに卒直に云えば、官吏服務規律に従うということが、吏道だということになる。それなら庶民にもよく判る。だがそれなら又、吏道などというコケ威し文句は無用の長物だということになるだろう。
 だがどうもそういうものが吏道の本当の意味ではないらしい。潮内相は続けて語るのである、「がこれでは余りに味がない」、つまり官吏服務規律遵守に何か味なものを加味したものが、わが吏道だということになるのである。処でこう話しが落着すれば、所謂吏道という道そのものはどうせ判りっこのない内容のものであるにしても、なぜ吏道という言葉が必要であるかはよく判って来る。というのは、吏道とは単なる官吏服務規律遵守からそれ以上のものとして発散する、否発散せしめようと欲する、何等かのアトモスフェアか臭いか何ぞの類のものを指すのである。
 尤もこのものの内容は今の処、到底合理的に捕捉すべからざるものであるのだから、この吏道という観念は、つまり吏道という語呂のよい言葉以外に内容規定を持っていないのである。
 こう考えて来ると、吏道が「庶政の(だと判読)作用運営」とかいうものから食み出すという、例の声明も初めて説明がつく。作用運営とは官吏の服務内容のことで、これが脱線か増長かしたのが吏道だというわけだ。但しその食み出した残余に相当するらしいもの自身は、少しも説明されたのではないが。だが潮内相は同じく地方長官会議に於て、吏道の実例を一つ示すことを忘れなかった。「今回の事件に際し身を挺して克く防衛の任務を尽し、遂にその職に殉じたる警察官の行績は遺憾なく警察精神を顕現し吏道の精髄を発揚せるもの」だという。この際警察精神の顕現が吏道(多分警察官の)精髄の発揚と同じであるらしいから、吏道とは官吏精神と云ってもいいことらしいが、云うまでもなくこの官吏精神は官吏の精神状態や何かのことではないのだから、官吏の秀才主義とか官学万能主義とか身分保障による安逸癖とかいう、官吏の心構えは、吏道の条件にはなっても吏道自身ではないわけだ。
 かつて後藤内相の当時、官吏道場なるものの提案を聞いたことがある。提案だけではない。どこかの禅宗の寺で、大学出の少壮判任官を集めて坐禅をくませたり精神修養の説法を聞かせたりしたものだ。云うまでもなく之は二・二六事件以前であったから(尤も満州事変や五・一五事件以後ではあったが)、まだ吏道というものの本当の必要が自覚されず、吏道というものの認識がごく不充分な時代だったから、之は吏道を何か官吏の精神修養のことででもあるようにしか考えていなかったわけである。吏道が官吏のただの心構えや何かと誤解されていたため、役所を離れた禅寺などが、官吏道場などに選ばれたわけだ。新しい吏道の道場は、恐らく官衙そのものでなければなるまいに。
 でこのように、吏道なるものを精神的に、子曰く式に、公案式に、説法する限り、吏道は遂に捕捉し得ない。内務官吏は所謂官吏の代表者であるという通念から、吏道振粛を買って出たのが内務省だったが、その内務省的な吏道説は遂にこのような形而上的呪文に終っている。内務省では官吏個人の心掛けから、その「気魄」や「熱意」から、吏道を説明しようとするから、一向埒があかなかったのだ。吏道がそんな道徳的観念ではなくて、実は一つの運動の名であることを、内務省はなぜ卒直に告白出来ないのだろうか。
 非常時に於ける美談などが、決して吏道真髄の発揚ではないのだ。内務省による吏道の発達は例えば警視庁の改組問題(強力警視庁案)の内にこそなかったか。全国特高網の拡大強化要求(百五十万円)の内にこそなかったか。そしてこの種の要求が他でもなく、正に二・二六事件からの反作用(単なる結果ではない)であることを、世間では云うまでもなく見逃さない。で、つまり内務省の新しい吏道、或いは吏道の内務省による新しい観念は、恰も現象という、一つの政治的動向のことなのだ。それが「作用運営」というような事務的、政務的、乃至、行政的な働き「のみに於て完きを期し難い」と声明された、吏道の謂だ。行政という政治一般的な働きが一つの特定特殊の政治的動向を取らねばならぬということが、吏道の吏道たる所以だったのである。
 武官官僚は所謂広義国防の建前を以て所謂官吏を強制した。夫がその後の行政事情だ。この刺激に反発して、所謂官吏はみずからの吏道の必要を認識し出したのだ。――ただ内務省的吏道は、吏道にとってのこの刺激を忘れるか匿すかして、専ら人民をばかり大向にしてみずからの承認を迫っているように見える。この吏道が専ら道徳的で精神的な影響を以て吾々人民へ伝えられねばならぬ理由は、恰もここにあるのであって、人民に向かっては如何なる政治方針も常に道徳として説得されねばならぬものなのだ。
 だがよく考えて見ると、内務省だけが吏道振粛を買って出る理由はない筈だ。軍部の武官も亦一種の官吏と云っていいだろうが、ここでの吏道振粛は粛軍と呼ばれて現に盛んに行なわれている。軍の政治的発言は陸軍大臣を通じて一元化されねばならぬと、寺内陸相は軍部の地方長官会議たる師団長会議で述べている。之は軍部道が政治化すことを戒しめたのではなくて、軍人各個の随意の意見発表を戒めたものに他ならないが、この軍部の一元的な意図は人の知る通りだから、従って又人は、粛軍という吏道振粛が一つの対外的動向であることをよく知っているわけだ。であればこそ軍部道は、社会百般の事物に就いても粛軍的に一定の意見を挿むことに建前を見出すのだ――凡そ吏道とは内を意味するのではなくて外を意味するのだ。というのは之を振粛するとは、内に向かって振粛するのではなく実は外に向かって振粛することなのである。所謂吏道振粛、所謂〔粛軍〕、どれもそうなのである。この外なるものが、単に直接に、人民を相手にすることであるか、それとも他省他部の吏道を通して、初めて人民を相手にすることであるかは、夫々の吏道の時の勢によるというものだ。
 司法官(判事団)もまた司法権の独立のために立ち上った。之は司法部内の内部的吏道振粛の形を持ちながら、すぐ様、夫が司法吏道の外に向かっての振粛となっていることを、注目しなければならぬ。部内の職場に於ける一身上の部内的な要求がすぐ様対外的な要求を意味するという処に、吏道の吏道たる、政治的機能があるのである。吏道の振粛とはかかる政治機能の振粛ということだ。裁判所の書記の結束(機関紙に侮辱的言説があると云って弁護士会にねじ込んだ)も、内務省下級官吏の結束(官学万能主義を撤廃せよと当局にせまった)も、凡そこの種の社会下部からの要求(それは往々下剋上の形を取ることがある)は、凡ゆる意味に於ける官吏に於て、総て吏道という形となって現われねばならないのだ。
 各種の「吏道」は二・二六事件を契機として、或いはこの事件そのもののなしくずし的稀釈作用自身として、最近確立されつつあるものにぞくする。所謂新官僚の問題として世間で前から取り上げていたものは、実はこの萌芽だったので、それが今は、内務省的な形だけから云えば極めて不完全な仕方に於てではあるが、併し一般には極めてハッキリとした形で、姿を現わした。――諸々の吏道はたしかに相互の対抗として、競争拮抗するかのような関係で勃発した。だが固より日本の吏道は一あって二あるものではない。して見れば吏道の、吏道振粛の、即ち吏道の対外部振粛の、相手はただ一つしかない。それは云うまでもなく国民だ。国民大衆の云わば「大衆道」とも云うべきものが確立しないに先んじて、まず吏道よ栄えよ、ということなのだ。之は単に官尊民卑などと云って片づけることの出来ない処の、原則だ。
(一九三六・五)


一一 挙国一致の擬装



 三六年一月二十一日、衆議院が解散されたが、政府の解散理由はこうだ。「政府は現下の重大なる時局に処するの道は一に挙国一致の協力によるの外なきを信じこの方針の下に組閣以来当初声明せる政綱の実現に向かって最善の努力をなし来ったのである。然るに前二議会における審議の経過に徴し、また最近の政情に察するに、衆議院における実情は到底円滑なる国政の運用を期し難きものありと認め、政府は厳粛公正なる選挙を行い、明朗なる政情の下に所信を実現せむことを期し、ここに衆議院の解散を奏請した次第である」と。ほぼ絶対多数を擁する政友会が当時の岡田内閣を承認しないことは、挙国一致を欲しないことであるから、これでは政情の明朗を欠くので、解散にして厳粛公正な粛正選挙をやらねばならぬというのである。
 いうまでもなく選挙粛正は、前年の府県会議員選挙を小手調べに、すでに宣伝至らざるなき有様であるから、都合がいい。
 挙国一致を紊るものは政友会だというわけであるが、処が当の政友会は、その前日、内閣不信任案の内容を決定しているのである。それによると、現内閣が国体明徴に誠意がないとか、国防と産業との調和を欠くとか、農村中小工業に対する対策を有たぬとか、という三つばかりの理由をあげた後、内閣不信任の第四の理由として、「現内閣は挙国一致を標榜してかえって政党内部に魔手を伸ばして陰にこれを攪乱」する処のもので、「擬装的挙国一致」に憂身をやつしているものだ、というのである。
 立憲治下における挙国一致の実は、「国民を基礎とする政党に立脚」しなければ無意味だというのである。だから国民を基礎とする多数政党たる政友会を切りくずしたり何かすることによって、挙国一致をもたらし得るはずがない、というのだ。これによると、挙国一致を紊るものは却って正に岡田内閣そのものでなければならぬ。
 一方政府側が、「北支の明朗」という軍隊用語から思いついて、政情の明朗という声明を出すと、他方政友会側は「南京政府の擬装」という兵語から借りて来て、擬装挙国一致と来る。今のところ軍部は天才的な言語学者であるが、同時に言葉というものが如何に無内容で重宝で、従ってまた如何に馬鹿げたものであるかということを身を以て説明しつつあるものだ。
 処でそれがこの挙国一致問答になると、殆んど漫才(万歳)的性質を帯びて来るのである。軍縮全権は、軍縮条約締結という大命の方は明白にこれを失したが、その代りに比率軍縮の打倒による現軍縮条約一般の打倒には完全に成功した。全権はその時国民に号令して挙国一致の覚悟を要求したものだ。両党はそこで全権への感謝を決議したところが、その肝腎の挙国一致なるものが、一向お互いに一致しないもので、お互いに相手が挙国一致の破壊者だと主張しているのだから、お話しにならない。
 国民を基礎とする政党に立脚しない挙国一致は擬装的な挙国一致だというが、一体政党が国民を基礎としているなどと思っている人間が今日、日本のどこにいるだろうか。今日の既成未成の市民的政党そのものが、元来擬装的政党なのである。で政友会的挙国一致そのものこそが偽装的挙国一致だということを、知らない人間はどこにもあるまい。――では岡田内閣の方は本当の挙国一致か、というのは、つまり「国民を基礎としている」内閣か。これは簡単には決定出来ない関係で、一体政党政派を超越した内閣が「国民に基礎をおく」ということはどういうことか、よほどよく考えて見なければ実証的には理解しにくいことだ。
 挙国一致という言葉は言葉としては非常に美しいから、これを掛声とすることもまた美しい行為に違いはないが、しかし問題は掛声や心がけではなくて、実証的な現実だ。ところでこの実証的現実として見る時、岡田内閣はどこに国民の基礎の上に立ったという関係の証拠があるか。
 成程国民の信望を裏切った所謂既成政党からは、比較的独立な内閣ではある。だが政府によれば選挙は依然として国民の最大の義務であり、議会政治は憲法の大精神である。して見ると是は是までの普通の内閣とどれほども相違はない訳だ。
 では一体どこに特に是こそが挙国一致内閣だとか、国民自身の内閣だとかいう実証的根拠があるだろうか。是は一個の全く形而上学的仮説の他ではないのであって、政友会から擬装挙国一致と呼ばれるのも尤もだといわねばならぬ。――しかるにも拘らず、この形而上学的な挙国一致主義には実は一つの現実的な秘密が横たわっている。
 仮に国民が皆んな揃って大体同じ方向へ向かった意志をもつ結果、国家の方針が一元的に決定される、というような場合でなくても、即ち国民が銘々バラバラに勝手な方向の意志をもっている時でも、また国民が大小二つの群に割れていて、お互いに全く相反した方向の意志を持っている時でも、挙国一致は作業仮説としては、形而上学的方針としては、大いに可能だということを忘れてはならぬ。
 なぜかというと、こういうお互に食い違った国民の意見を、統制的に強制して一元的たらしめることは、権力さえあればいつでもある程度まで出来ることなので、政府がそういう権力をどこか背後に持っているということによって、正に挙国一致内閣という名称を受けとるに充分だからである。
 だがこの名称は無論単なる名称であって、一向実体を有っているわけではない。統制的に強制された挙国一致などは、現実的にはなんら挙国一致ではないからだ。
 第一この挙国一致が基くべき国民なるものが、一向実際の国民でも何でもないので、正に都合のいいように仮設された擬装国民なのである。丁度そうした擬装民衆や擬装農民は支那の北の方へ行くと沢山いたようである。で岡田内閣(には限らぬが)は挙国一致という名称には立派に値いする理由を有っているのであるが、その名称そのものが抑々擬名であるのは全く遺憾だ。
 当時準与党として解散によって気を好くしていた民政党は、比較的正直に本音を吹くことの出来る位置におかれていたようだ。民政党川崎幹事長はこういっている。
「もし挙国主義に反対する政党が存して、これがために政策の遂行が出来ない場合には、国民に訴え、その支持によって挙国主義に反対する政党を克服すべく努力するのが当然である。即ち総選挙に際しては、政府は進んでその国策経綸を高唱し国民の賛成を求め、政府を支持するものが多数選出せらるるよう努力すべき、政治的義務を持つものである。このことは決して選挙粛正に反するのでない」と。
 これは手前味噌だが、挙国一致=挙国主義の本質の一部を暴露している点では傾聴に値いする。挙国主義は挙国主義者、挙国一致主義者だけの挙国一致であり、そしてこれは社会の支配者が強制的に統制する所の、上からの挙国一致だ、という点を正直に告白した形である。ただ民政党にとっては、社会の支配者とは、社会的支配層の勢力のことではなくて、内閣のことでしかないらしいし、従って粛正選挙にしても、これは国民大衆の眼をくらますためのものではなくて、専ら政友会の眼をくらますためのものだと民政党は思っているらしいのであるが。
 挙国一致という言葉は、いうまでもなく国体明徴という言葉と深い関係がある。政府は専ら後者の代りにこの言葉を守り立てていたように見える。岡田政府ではこの言葉は結局同じ内容(それが何だかはよく判っていない)のものを指すものとなっている。但し言葉さえ適当ならばもっと他のもの何でも構わないわけだが。
 処が無知な政友会は、国体明徴と挙国一致とは何か別のものであるかのようにいわざるを得ない羽目に陥ってしまったのである。国体明徴は日本そのものの関係だ、挙国一致はこれに反して日本の政党の関係だといわぬばかりである。政友会の国体明徴の主張がなぜあんなに空疎であるかは、この無知な区別からも説明できよう。同じ国体明徴でも、たとえば当時の海軍の青少年将校達のものを取って見よ。それは軍縮撤廃の覚悟としての国防的挙国一致と、全くよく一致しているのだ。政友会はその政治指導者たるこれらの将校達から、この点をもう少し忠実に学ぶべきではなかったか。
 それはさておき、この種の国内統一運動が切札になるのを見ると、さすがに国家的非常時であることを思わせるとともに、それほど不一致不統一が気にならねばならぬような根本的事情が国家内部に横たわっていることをも、また思わせずにはおかない。一般に矛盾を頭から遮二無二揉み消そうという企てが、この挙国一致主義なのだ。無論この種の矛盾を本当に揉み消してしまうことは出来ないから、勢いこの主義は掛声と合言葉に過ぎぬものとならざるを得なかったのだ。――だが掛声によって矛盾を揉み消すやり方は、単純に挙国主義の一致主義=一元論だけには限らない。民政党は国防、産業、財政の一致、三全主義を掛声にしている。これは、国防を充分に産業も充分にそしてそれにも拘らず財政は健全に、という虫のいい三位一体なのである。
 国民同盟は国民同盟で軍部、外交、国論の一元化という三位一体を説いている。尤も、民政党の三全主義も、形而上学的で神秘的な例の挙国主義(挙国一致主義)にでもよらなければ到底実現の見込みのないものだから、要するに、これは挙国一致主義の片割れにほかならないし、国同の軍部、外交、国論の一元化なるものも、軍部、政府、国民の挙国一致に帰着するらしい。して見れば、この際の政党のデマゴギーはすべてこの挙国一致というものから演繹されるわけだ。
 ここに挙国一致なるものの現代政治原則としての重大さがあるのであって、国体明徴といえどもこれに結びつかなければ、何等の政治的実質を受け取ることは出来まい。国体明徴の声はあらゆる意味における挙国一致の手段だったとさえいうことが出来る。あらゆる国民の一致協力、従ってまた労働者と資本家との、農民と地主との、無産者勤労者と所有者との、一致協力、それが挙国一致の不可避な内容であり、これにして初めて国体明徴たらしめることも出来るというわけだ。――処がこの何より尊敬すべき挙国一致なる最後的政治原則が、政府においても政友会においても、夫々擬装的挙国一致に過ぎなかったということは、何としたことだろうか。政治原則は、それがデマゴギーでないためには、形而上学的仮説や神秘的な合言葉であってはならないはずだ。だがそれでは一体どこに実証的な挙国一致が見出されるのか。「粛正選挙」にでもおいてであるか。だが毎度の「粛正選挙」こそ、最も精巧に擬装した挙国一致の行動なのである。
 擬装した挙国一致と、真装の挙国一致とがあるのではない、「挙国一致」そのものが何物かの擬装なのである。
(一九三六・一)


一二 国体明徴運動と内閣審議会



「一方において皇室中心主義または愛国運動等の美名に藉口して、他人の言論の自由を不法に抑圧し行動を束縛し暴戻専恣の行動をたくましくし、一般国民をしていいたいこともいえぬような社会情勢を馴致し、社会を陰鬱ならしめていることは、社会不安の重大原因をなすもので、かくては帝国の健全なる発展を所期することは出来ぬ。よってかかる不正不法なる矯激なる運動に対しては断固毅然たる態度をもってこれを抑圧し、明朗濶達なる国民の気風を涵養し、大いに国運の進展するようされたい」云々。
 これは或る日の地方長官会議における、岡田内閣小原法相の訓示の一節である。人によってはこれを見て、暴力団狩りの根本方針を示したものだと考える人もあるかも知れないが、しかし多分そうではあるまい。いわゆる暴力団は、かりに「皇室中心主義または愛国運動等の美名に藉口」するものでも、決して他人の言論の自由や行動を抑圧束縛することには興味を有たぬ。そういうことに興味を有つのはいわゆる「暴力団」以上のものであって、しかも皇室中心主義または愛国運動等の美名に「藉口する」もののことだ。
 つまりこれは口々に皇室中心主義や愛国主義をとなえて、好い気な真似をしてあるく例のあの連中自身を指しているに他ならない。尤もその方が本当の暴力団だというなら、それも一理あるが、併しそれならば、少なくとも警視庁で手入れをやるような、いわゆる暴力団とは別の、もっと国家的見地から見て本質的な、暴力団だといわねばならぬ。
 それはさておき、天皇機関説を不法と認めたような口吻をもらしている政府当局者の一人の口から、そして検事局をして美濃部博士を召喚取調べを行なわせた司法大臣の口から、こういう言葉を聞くことは、やや意外であるかも知れない。
 法相は美濃部説を不法と認定しながら、他方において反美濃部運動の妄動に掣肘を加えようと欲する。だが無論これは司法権の公正の名にかけて、当然すぎるほど当然なことだ。ところがこの当然なことが不思議に思われたほど、最近の日本の風潮は変態で複雑なのである。だから美濃部説が、政府当局によって不法と認定されたということも、どこまで本気にとっていいのだか簡単には判じ兼ねる点を多々残していた。少なくとも政府は、そんなことよりももっと大切な実際問題を有っているのだ。第一に皇室中心主義的愛国主義的な広義の暴力団の抑圧が却ってそれよりも急務だったし、それから内閣審議会という大問題もあったのである。
 しかし反美濃部主義がお座なりであったらしいことは、単に内閣当事者においてばかりではない。反美濃部主義の黒幕の一人と見做される平沼男は、反美濃部主義の「政治的」(!)目標の一つであった一木枢相攻撃が多少実効を奏しかけたのを見て、どうやらその反美濃部主義を緩和することに「政治的」(!)興味を覚えて来たのではないか、と伝えられた。
 というのは一木男が枢府議長をやめれば、次の枢相の椅子はウマク行けば自分に来るし、やがてはそれを機会にして平沼内閣さえ不可能ではないかも知れぬ、ということになるのだが、それには一方では国家の最奥深所における一定の意向と、他方では世間大衆の意向とに順応して行くことが、軍部や何かを頼りにするよりも賢明な近道なのだ。処がこの最奥深所における意向も世間大衆の意向も、あまり反美濃部主義に興味がなかったのである。そこで男においては反美濃部のレッテルは政治的価値がずっと小さくならざるを得なくなって来たのだ、というのである。
 とに角反美濃部主義が一時著しく人気を失い初めたことは注目に値いする。その原因は今ここで論じるまでもないことで、つまり世間の大衆はその表面から見て見えるほどには、トコトンまで無知ではないということにあるのであって、反美濃部運動の足下が大分見透されて来たことが結局の原因だといっていいだろう。
 こうなると方々で、初めから感じていたことをポツポツ正直に本音を吹き初める。京都帝大法学部では憲法講座を受けもっていた渡辺教授が他講座に移され、その代りに東北帝大の佐藤丑次郎教授を講師に迎えることを決めたが、東北帝大の文法学部教授会の方ではこれを認めないということになった。佐藤教授は京大事件以来と角の評判のある老人だが、東北教授会は該教授の京大行きは教授の学者的良心に悖るという意向であるらしい。
「世論」の尻馬に乗って国体明徴の提案を党是として朗読演説をやったのは政友会総裁鈴木喜三郎氏であった。
 聞くところによると当時の氏は言語甚だしく不鮮明で、昔日の生彩は地を払ってどこかへ行ってしまったそうだが、それはとに角、総裁はこれによって一方において「世論」と軍部につながる一派とに秋波を送り、他方において例の爆弾動議に代わる極めて観念的な武器を政府に擬した積りであったらしい。
 政友会の国体明徴実行委員代議士達が会合して、機関説に対する政府の措置の不徹底を責め、「わが党は卒先して国体明徴目的貫徹のため邁進し速かに問題の解決を期す」という申し合わせをしている。誰に頼まれたのでもなく自分で出した「衆議院の院議」を自分で祭り上げるということは、あまり張合いのないことだろうと思う。
 しかし問題は思わぬ方角から、おのずから「解決」されて行くらしい。政友会が機関説撲滅に不熱心な政府に対して、所在なさに駄目を押している時、政府はそんな観念的な徒花には目もくれずに、もっと生彩のある実質的で景気の良い内閣審議会の編成を、着々と進めて行きつつあった。
 今日は青木子が今日は安達氏が、今日は水野氏が今日は秋田氏が、今日は三菱代表が今日は三井代表が、審議会委員になったといった景気のいい話である。こうやって鈴木系政友会は一日一日と天下の大勢から取り残されて行きつつあったのである。その結果天下の形勢はどうやら、国体明徴派と内閣審議会派とに分裂して行くらしく見えた。
 現に政友会幹事会の席上、島田総務は国体明徴派の立場から「議会における決議の趣旨は機関説排撃にありたること勿論にして、首相は第一に誠忠をもって機関説排撃の決意を示すに拘らず、本回の地方長官会議の各省大臣の訓示は期待に反し不徹底である」といって、例の所在なさから例の駄目を押し、堀切氏はこれを受けて内閣審議会反対の一くさりを語っている。
 いわく「産業組合の農村に対する最近の動きが政党排撃の傾向を帯びていることは、その中央機関および政府部内に計画的にこれをなさしめつつあるは顕著の事実である。新設の審議会の如きも、この一貫せる新官僚の策謀によって動かされんとする恐れがある。即ち軍部、農民、学者、政友会、を除外して挙国一致を僣称する審議会は新官僚の企図にほかならぬ」云々。
 折角軍部や農民(?)や学者(?)に挙国一致的にモテようと思って国体明徴をかつぎ出した政友会が、挙国一致どころではなく、審議会にも産業組合にさえも、対立しなければならなくなったのは、策戦の誤りだったとでもいわねばなるまい。それだけ政友会にとっては国体明徴・美濃部排撃・はますます頼みの綱になるわけなのだ。
 ところが折角のこの頼みの綱が徒花ばかりのヘチマの蔓だとなると、政党はどこへ行くことになるか。
 政党の行く方などは今のところどうでもよいが、機関説排撃運動の行く方は、さしずめ田舎まわりというところにでもなるだろう。中央は内閣審議会で忙しいのだから。で、この栄枯盛衰の有様は政友会的国体明徴一派に対してよい見せしめであっただろう。日本ファシズムにとっても、花より団子という諺は変らない。徒花よりも実が大切なのだ。
 日本ファッショのむだ花、国体明徴運動についてわれわれはもはやあまり興味を有たないが、面白いのはやはり日本ファッショの果実である審議会だろう。審議会の性質については世間ではいろいろと評価を下した。
 第一の点は、これが単に当時の現内閣の補強工事に過ぎないかどうかというところにある。政府の肚によると少なくとも審議会の方は半ば臨時のもので恒久性のないものと考えているらしい。そうなればこれは当時の現政府用の諮問機関の程度を出ないことになるから、この点から尋常な意味における内閣補強工作と見られたとしても仕方あるまい。
 さらに貴族院各派の代表や各政党の或る種の代表を選んだところを見ると、対議会政策としての内閣補強策だということも嘘ではあるまい。しかし一般世間では内閣がいつまで続こうが続くまいが、日常生活にはあまり変化はあり得ないということを心得ているから、審議会が内閣の補強工事であるかないかは、大した問題ではなかった。
 問題なのはこれがいわゆる新官僚の策謀によるものであるかどうかだ。審議会の方はとに角として、内閣調査局の方になると、相当の恒久性が認められるから、審議会の中心は却ってこの調査局にあることは明らかだが、処がさらにそれの中心をなす調査官十五名はいうまでもなく大部分が官僚から選抜される。委員百名、参与三十名は対外部的なまたは単に「政治的」な儀礼に過ぎない。して見ると内閣審議会の中心は官僚に、そして無論新官僚の手に、あるということになる。
 成立の経緯は別としても、出来上った編成からいってそういうことになる。政友会あたりがこれを指して新官僚の策謀だというのも無理ではない。内閣打倒の建前からいっても、終局において政党否定乃至議会政治虚脱化の意味をもつこのセミ・ブレン・トラスト組織に反対せねばならぬ建前からいっても、不埒な新官僚の「策謀」だといいたくなるのは尤もだ。
 処が、この策謀する新官僚が一向国体明徴に熱心でないのはどうしたことだろうか。いうまでもなく日本の国体は決して資本主義ではないのだが、新官僚がこの際この点を一向強調していないのはどういうわけだろうか。それだけではなく、この国体に即してこの重大な国策を審議すべき超「政治的」な内閣審議会委員に、こともあろうに三井合名の協議を経て池田成彬氏をつれて来たり、三菱財閥から各務鎌吉氏をつれて来たりしたのはどういうわけだろうか。しかもこの二財閥代表を委員に出廬願うことの出来たのが、岡田首相の何より大きな成功だというのはどういうことだろうか。
 審議会乃至新官僚の策謀に対するそういう根本的な疑問になると、さすがの政友会も一言の批評を加えるのではない。さすがの軍部もこれに対してまだお手のもののパンフレット一つ出さなかった。こうなると、政友会が何といおうと、この内閣審議会は、その根本において「挙国一致」の実を備えているといわねばならぬ。国体明徴はこの時すでに挙国一致というわけに行かなくなった。その代りが審議会である。――こうやって日本ファシズムは段々と実質的になって行く。即ちその本然の本質に立ち還って行く、即ちその資本制のための大機能が段々円滑になって行くのである。
(一九三五・五)


一三 重臣ブロックと機関説



 犬養総裁が首相官邸の椅子の上で非業の死を遂げて以来、政友会はほぼ半永久的に政権から見放されたように見える。斎藤内閣が辞職した時、せめて連立内閣でもと思っていた処、思いも及ばなかった岡田海軍大将が内閣の首班として[#「首班として」は底本では「主班として」]乗り出して来て、政友会には平大臣として入閣を交渉するような始末になった。独り政友会に限りはしないが、何と云っても一等ガッカリしたのは第一党の政友会だったから、この辺から所謂国維会の陰謀云々ということが喧伝されたものだ。
 当時農相から内相に進んだ後藤内相や、荒木陸軍大将等を中心とする国維会なるものがあって、之がファッショ的官僚の背後に控えていて、新官僚内閣の成立のために陰謀をめぐらしたのに相違ない、と政党人は推測したのである。政権の一再ならぬ素通りに気を曲げて了った政友会だから、丁度ヒステリー患者のようなもので、誰が悪いのだとか誰のせいだとか云うのは、必ずしも信用出来ない妄想に過ぎなかったかも知れないが、それでも所謂新官僚や国維会がファシズムの新しい形態である限り(尤もこのファシズムがどういうものかは仲々面倒な研究を必要とするが)、政友会などがそう云って騒ぐのを、世間では一応筋の通った話しだとも考えたのである。
 なぜかと云うと、この新手のファッショと雖も、旧犬養総裁を一撃の下に有無も云わせず倒して了った例の有名な問答無用派の国粋主義者達と、決して別な側面に立っているものではないのだから、この問答無用派が手口を代えて、国維会的新官僚となって政友会を苦しめるべく陰謀をめぐらしたと考えるなら、それは政友会としては、一応同情すべき被害妄想だろうからである。
 そうこうしている内に、官僚の花形の一人であった藤井蔵相が死ぬと、こともあろうに政友会の高橋長老までが、鈴木総裁にお構いなく内閣入りをする。政府が政友会を恐れるの余り、何とか政友と渡りをつけようとする内閣審議会を、徹底的にブッタタいてやろうと思っていた処、水野錬太郎や秋田清の諸氏が、党是を無視して審議会委員となって了う。
 そこで政友会は断固として、この連中を脱退させて了ったのである。内閣審議会は六十七議会で大体政友会自身も承認を与えたものだったのだが、それが愈々出来上るに際して、党員を一人もメンバーとして送ることを許さないというのは、可なり辻褄の合わないことかも知れないが、併し政友会に云わせれば、軍部、民間学者、そして政友会、を除外した審議会は、現内閣そのものと同じに、到底挙国一致ではあり得ないということになる。だから、政友会の採ったこの断固たる処置は、寧ろ大政党らしい見上げた態度だとも云えなくはない。――独り内閣審議会に限らず、産業組合主義であろうと何であろうと、とも角新官僚というファッショの考え出したものには、政友会は、断然反対だという鼻息なのである。
 処が内閣審議会の話しが出たその同じ六十七議会に、政友会総裁鈴木喜三郎氏は、何と思ったか、国体明徴という凡そ政党とは関係のありそうにもない問題に就いて、退屈な朗読演説を試みたことは有名である。
 貴族院で某議員が美濃部達吉博士の天皇機関説が、国体の本義と相容れない所以を述べた処、それが意外に世間の反響を呼び起して、ここにもあすこにも美濃部学説打倒、自由主義憲法学説禁止の声が起こり、果ては学匪美濃部一派の撲滅をさえ唱えだす騒ぎとなった。今まであれこれとヒッかかりを造って苦しい主張を大声で怒鳴らねばならなかった右翼、反動、国粋、其の他の諸団体は、これを暗示として、卒然として機関説排撃運動へと戦線統一を企てることが出来るようになった。――之はファッショ団体のことなのだが、処が何と思ったか政友会総裁までがその驥尾に付して、美濃部説排撃、即ち又国体の本義を明徴にしなければならぬ、と急に演説をやったのである。
 云うまでもなくわが国体の本義は、古来炳固として明らかであり今更国体明徴の論をまつまでもない。一国の第一党政党の総裁が、天下の視聴を集めた衆議院壇上で、その国体を明徴にしなければならぬなどと、突然云い出すことは、外国に聞かれても余り人聞きのいいものではない。貴族院でもこれに類した決議案が出たが、流石にここでは嬌羞はにかみながら話は進んだ。処が政友会総裁の国体明徴決議案の方は、その退屈な朗読演説にも拘らず、スッカリ衆議院の人気を博して、満場一致で可決されて了ったのである。内閣審議会を手頼りにしている内閣は、遂に挙国一致を得るに至り得なかったが、国体明徴を手頼りにした政友会は、こうして立派に挙国一致を獲得したのである。政友会総裁の得意は推して知るべしだ。
 だが実はこの時から政友会の救うべからざる混迷が始まったのである。聞く処によると当時の鈴木総裁はこの時往年の頭脳の切れ味が、スッカリ無くなって了っているそうだが、この明徴演説などもそういう処から来た疎漏の一つだったかも知れぬ。
 犬養総裁を射殺したものが、問答無用派のファッショだったことは、前に云った通りだが、ファッショもその後短日月に長足の進歩を遂げて、この時までには問答無用派は国体明徴派にまで集結して了っている。そういうことに気のつかなかったのは、この短日月の間に少しも進歩をしなかった政友会総裁の頭脳だけだったようだ。尤も故犬養総裁に就いての恩讐などはもう卒業して、今ではファシズムに乗り換えたというなら、それも又一つの考え方で、その限り政友会も進歩したのだと思ってもいいが、併し夫は決して国体明徴の亀鑑たる赤穂義士などの採った道ではない。――新官僚の機関としての内閣審議会には反対で、而も右翼団体の明徴運動の驥尾に付するということは、一体どうした手違いなのか。併し挙国一致の好きな政友会は、この挙国一致の国体明徴運動にスッカリ身も魂も打ち込んで了っていたらしい。当時の内閣が内審を唯一の頼みにしていると同じに、政友会は今や国体明徴運動を唯一の頼みの綱にし始めた。例えば三五年六月の初めには政友会代表の総務二人と幹事長とが首相を訪問して云っている。
「第六十七議会に於ける国体明徴の決議の本旨は機関説の排撃にあり、爾来二カ月政府は個々の処置をとれるも、本問題の根本要点に触れず、これを以て国民その道に迷う。……我党はこの際政府が機関説排撃の方針を宣明し以て院議に副ふべきを要する」と。
「国民その道に迷」っているかも知れぬが、政友会も亦その道に迷っている。だが道に迷ったものの一つの歩き方は、何でもかんでもその道を一図に歩いて行くことだ。政友会にとっては今やこの道が唯一の頼みの綱なのである。国体明徴さえ百万遍のように唱えていれば、気がおさまる。そこで又同年六月の下旬には、政友会は国体明徴貫徹のための実行委員というものを挙げることにした。この委員連中は月の終りに首相と会見して、政府は機関説否定の声明をする気はないかとか、金森法制局長官を罷免する考えはないかとか、一木枢府議長に対して何等か手続きを取る心算はないかとか、駄目を押して見たが、政府は何か政友会の腹の底でも見すかしたように、甚だ素気ない挨拶なので、一同は、「かくて我党の要求を容れざるものとしてお別れする、従って今後政府は重大なる責任の生ずる恐れあるを遺憾とする」と見得を切って帰って来た。同年七月の初には同じ調子で法相に会ったがやはり同じ調子であしらわれた。すぐ後で内相にも会ったが、やはり同様な素気なさであったようだ。
 併し政友会が頼まれもしないのに御苦労にもこんなことを言って回らなくても、もっと尤もな方面から、機関説の解決促進方が政府に向かって進言されている。林陸相は同年七月五日岡田首相と会見して云っている。
「機関説排撃は軍人の常識だ、このままに放置して置くことは出来んが、さりとて一挙に解決のつくことでもない。目標を定めて四五年がかりで粛正をはからねばならぬ性質のもので、今日の会見も、何も膝詰談判して決闘を申込むようなゆとりのないものではない」云々(『東朝』三五年七月六日付)。
 慎重な陸軍軍部は併し、「我党は要求を容れざるものとしてお別れする」などと無責任なことは云わない。寧ろ「一挙に解決のつくことはない」と云っているのだ。
 更に慎重な大角海相は又、同年七月八日同じく岡田首相との会見に於て、機関説問題に就いての海軍部内の所信を重ねて披瀝する処があった。「政府としては速かに適正な処置を取って民心の正しい帰趨を明示すべきこと当然であるが、既に三十年の長年月を経過していることとて、これが取扱いを一朝一夕に簡単に片付けることは困難であり、軽卒な解決策は却って禍根を将来に残す恐れがあるから、政府が誠意ある善処方を言明し之に向かって進んでいる以上は、今のところ火急に督促するが如きことをなさず、慎重に恒久的解決策を図るべきことを要望する」というのだ(『東朝』同年七月八日付)。政友会以て如何となす。――本元の方がこんなに落ちついているのに、驥尾に付した方が大騒ぎをするのは、どういう計算からなのだろう。
 当時伝えられた処によると、海軍主脳部の見解としては、本問題のような厳粛な問題が「不純なる倒閣運動」の具に供せられるが如きは、最も排撃すべきだというのであったらしい。而も困ったことには、この見地からして、政友会の国体明徴委員会が海相に申込んだ会見などに対しても、充分慎重な態度を取る意向だったということだ。――だから云わないことではないのである。如何に国体明徴運動が唯一の頼りだからと云って、故犬養総裁の五・一五事件のかたきの名前を忘れるから、バチが当るのである。
 処がこれはまだ良いとして、もっと困ったことには、元老の後身である所謂重臣が、あまり政友会式の機関説排撃乃至国体明徴運動に、乗り気ではないらしく見えたことだ。重臣の内には曾て機関説の本家と目された人さえいるというわけである。そこで例の鈴木総裁の疎漏演説がたたって、政友会に対する重臣の感情が可なり悪化したのではないかと観測される。今まで新官僚のせいだと思っていた政友会のメンバー達は、今度は鈴木総裁のせいで貧乏くじを引くのだと気がつき始めた。そこで総裁更迭問題までが起きそうになって来たのである。
 政友会に鈴木系と久原系とがあるとすれば、久原系の動き出すのはこの時だ。併し久原房之助は決して総裁更迭運動に乗り出すのではない。氏こそは政友精神たる積極政策の権化であるらしい。と云うのは、六月初旬に鈴木総裁を訪問した氏は、重臣に見放されたからと云って総裁を更迭するのは本末を転倒したもので、寧ろ退嬰消極悉く政友会の党是に反するこの重臣ブロックこそ排撃されるべきだ、という進言をしたのである。更生する必要のあるのは政友会ではなくて重臣ブロックだというのである。――つまり久原氏の新見解によると、政友会に不利な不埒な存在は、今や国維会新官僚から、鈴木総裁の頭上を飛び越えて重臣ブロックへ移行したわけである。ファッショからいじめられていた政友会はいつの間にか自由主義者(?)からいじめられるものにまで進展した、というのが久原氏の発見になるわけである。
 政友会の岡崎長老などは「久原君の云うように簡単に行くかどうか」と云って信用していなかったらしいが、処が、機関説排撃を唯一の頼みの綱と思い込んでいる鈴木総裁は、この重臣ブロック排撃論に甚だ重大な意義を認めたらしい。六月二十日の総務会に於て、「自分は、いわゆる重臣ブロックの持つ萎微退嬰の消極的指導方針は国運の進展を阻害しわが党の積極的方針とは背馳するものがあるから、かくの如き指導精神は打破しなければならぬものと、かねがね信じている」と言明したのである。
 かねがねとは政権が眼の前を素通りし始めて以来のことだろうか、流石に総務会では之に対して「慎重考究しよう」の程度を以て臨むことにしたらしい。――鈴木総裁が重臣ブロック排撃に重大意義を認めたのは、云うまでもなく重臣が大体機関説の大反対者ではなくて、大体リベラリストであることを、偶々思い出したからである。之で見ると鈴木総裁も案外耄碌してはいなかったらしい。
 尤も重臣と云っても、元老とは別だから、自然と、西園寺公は除外される。そして重臣とは斎藤、高橋の諸重臣等(?)をも含むのだそうである。で、ウッカリ政友会を止めたりなどすると忽ち重臣にされて了うかも知れない。「不健全」財政を唱えなかったり、兵農両全主義を唱えなかったりする老人達は、忽ち重臣ブロックに追い込まれて、機関説擁護者にされて了うのである。――だから国体明徴の政友会に対するために、重臣達は一つのブロックを造ったというわけである。重臣はアンチ政友会とでもいうような政党でも結成したらしく見える。
 政友会によると、所謂重臣ブロックなるものは全く政党的な対立物であるらしい。この重臣党(?)は、機関説・無責任政治・追随外交・兵農不両全主義、に立脚する敵政党だと云わぬばかりである。元来、この重臣党的な幻影は、云うまでもなく政権の去来という表象の副心理現象なのであるが、併し大事な点は、この重臣ブロック排撃論が、例の機関説排撃・国体明徴論・の何よりの実行案に他ならなかったということだ。国体明徴論は国体明徴論でただ一向きに押して行けばいいのに、云うまでもなくそういうものでは云わば伝道のようなものではあっても政治にはならぬので、之に政治的な形態を与えようとすれば、勢い重臣排撃とならざるを得ない。鈴木の国体明徴のテーゼを、実践的なスローガンにまで具体化したものが、久原の重臣ブロック排撃論だったのである。
 処がこう実践的な形に直して見ると、やがて本当の国体明徴論の意義が却って初めて明らかになって来る。お題目はごまかしが利くが、実際的な方策はもうごまかしが利かない。でつまり、政友会の国体明徴論とは、政友会が政権を握らねばならぬという国体を、明徴にすることだったのだ。
 国体明徴が政友会のためを思ってのことであることは、無論非常に結構なことだ。併しそれは重臣ブロック排撃にまで具体化されると、決して政友会というお家代々の為めにはならないのである。世が世なら、犬養総裁は今ごろ押しも押されもしない重臣だろう。重臣の中堅は故犬養のような人でなければなるまい。それであればこそ例の〔陸海軍将校が、襲撃の目標として〕、その犬養総裁を選んだのだった。して見れば死屍に鞭打たれるものは旧主犬養なのである。だからこういうお家は決して永続きする筈がない。今に政友会にどういうバチが当るか、私は見届けたいものだと思っている。
(一九三五)


一四 その後の国体明徴運動



 政府が国体明徴の声明を出したのは一九三五年八月三日であるが、この運動はそれ以後新しい段階に這入ったと見ていい。
 で、その四日には早速、生産党の本部が声明書を出している。曰く、天皇機関説は単に学説として取り扱われるべきではなく、三十年来学界言論界政界はこの機関説の実現に向かって全力を傾けて来たものであるから、之は厳然たる事実問題にぞくする、それ故吾々は政府の機関説排斥声明のみを以て満足すべきでなく、進んで之が撃滅実行の運動へ猛進せねばならぬ、というような主旨である。
 之を聞くと、かくまで大騒ぎをしなければならぬような不逞な思想を、今日まで平然として三十年間も支持していた日本国民は、何という心細い民族だろうか、という気がして来るかも知れない。之も亦日本民族の国民性か国柄で説明されることだろうと思うが、併しとに角、気づいたのなら今からでも遅くはあるまいというわけだろう。――又同日昭和神聖会の北多摩支部は、立川で千名以上の聴衆を得て機関説批判の時局講演会をやったという。三日にはすでに明倫会が、政府の声明書の微温的なのをあきたらぬものとして、一木枢府議長の引退を希望するという態度を明らかにした。無論美濃部博士の方は司法処分を受けるものと想定しての上だ。
 政府が例の声明書を出すと一緒に、岡田首相は暗に一木枢相と金森法制局長官とを擁護したというので、夫が却って機関説排斥派の一味を刺激する結果になったのである。例えば維新会なる団体は「一木喜徳郎を自決せしめよ」というスローガンを掲げるし、八月十三日には前述の大日本生産党は、岡田総理や小原法相や、後藤内相松田文相両軍部大臣、それから一木枢相金森長官あて、夫々勧告書や進言書を手交している。
 要するに一木と金森とは公職を辞したらいいだろうというのである。――其の他右翼愛国諸団体の活動は外見上中々活発だ。それだけではなく、貴族院の菊地武夫男が結成した憲法学説検討会とかいう会が、金森局長を出版法違反で告発したなど、最も出色のある活動に数えることが出来るだろう。
 私は曾て述べたことがあるが、機関説排撃・国体明徴・というスローガンは、右翼愛国反動団体にとっては、全くその大同団結戦線統一の願ってもない口実だったのである。これ等の諸団体は、そのイデオロギーの支離滅裂と、空疎なフラーゼオロギーによって、世間一般からは云うまでもなく、実は自分自身でも流石に手頼りなく思われ始めていたのであって、神武会とか国維会とかいう退行解体する団体も出つつあったのだが、そこに機関説排撃・国体明徴運動が起こることになって、これ等の団体は初めてそのイデオロギーと一応のフラーゼとを持つことが出来るようになったわけだ。
 今までの調子のマチマチの国粋論の代りに、機関説排撃という消極的なスローガンや、国体明徴という極めて一般的抽象的なスローガンが発見されたのだから、之ほど都合の良いことはあるまい。そこで、ホッとした右翼団体はここぞとばかり之にしがみついて来たのである。だから之が盛んにならなければどうかしているのである。
 云うまでもなく、右翼国粋反動団体と並んでこの問題に熱心なのは軍部であり、或いは少なくとも軍部の市井的延長の一つとしての在郷軍人団である。すでに八月三日には新潟県下の某在郷軍人分会長は、機関説排撃の決議文を、首相と軍部両大臣とに提出し、更に又之を全国連合会長あてに発送した。
 熊本の郷軍同志会は、東京に於ける全国在郷軍人大会を数日後に控えて、決議書と建白書とを両軍部大臣に提出した。その建白書に曰く、
「国体明徴に対する政府今回の声明が何等の価値なきものなるのみならず、却って過去半年の軍部並に国民の努力を無視し、美濃部博士の主張を擁護するが如き結果に陥りたるは皇国のため頗る遺憾とし、憤懣に堪えざる処なりとす。今回の声明には軍部も明に之に関与されたる関係上、表面上共同の責任は免れざるが如きも、元来軍の字句末節に拘泥し不純の動機を以て、斯かる声明文を起草する一部の専門家と大いに其の立場を異にすること明白なり。閣下は国体擁護の軍の重責と時局の重大性に鑑みられて、体面問題の如き小節の義に捉わることなく、大義に立脚して我が国民と共に奸譎なる詐謀の犠牲たりし真相を明にし、断々固として其の責任を糾弾し、真に国体を明徴ならしむることに御努力あらんことを懇請す」というのである(『社会運動通信』一九三五年八月二十六日付)。
 少し長いが特色があるので引用するのである。というのは、軍と国民とを「奸譎なる詐謀の犠牲」にしたというのは、前後の文章から辛うじて察するに、岡田内閣のことであるらしいが、そうだとすると、信任を辱うした内閣諸公がそういう奸悪な存在を形成しているとでもいうようなこの言辞は、あまり穏かだと思えないが、それは論外としても、この建白書はその主旨から云って、寧ろ政府攻撃に帰着するらしいのである。政府攻撃が、政治に干与すべからざる軍人の一延長としての在郷軍人の立場から云って、どれだけ意味があるのか判らないのだが(もし軍人でなくて在郷軍人だから政治に干与すべきだというなら、それ位いなら一国民として物を云うべきであって在郷軍人として発言すべきではあるまい)、併しそれから十日程経った八月二十七日の帝国在郷軍人会では、もう少し理性的な決意宣明が行なわれているから、末節に拘泥せずに敢えて之は問わないことにしよう。
 之より先、十一日には在郷軍人の東京市連合会の「国体明徴臨時大会」なるものが開かれ、全市郷軍代表一五〇〇名来賓三〇〇名からの出席があった。尤も最初からこの東京に於ける大会を開催しようと準備中の処、三日の国体明徴の声明に接したので、一部には大会開催の必要はないという軟論が台頭したそうだが、併し結局、政府の声明に依って飽くまで国体明徴の実現を計らねばならぬ、ということに議論が落ちつき、名称も「機関説排撃臨時大会」というのを止めて「国体明徴臨時大会」というのに改めたのだそうだ。――熊本では政府攻撃を宣明したが、東京では政府の声明に依ってやって行こうという。熊本では「憤懣に堪えない」処を、東京では大会を止めようという軟論さえ出る。多分田舎と東京との違いだろう。
 さて二十七日の帝国在郷軍人会の大会では、機関説という妄説が軍人の信念と相容れないことを明らかにしたばかりではなく、同時に国防観念を強調することを忘れなかった。そればかりではなく、選挙に関する会員の自覚まで促すことにしたのである。
 云うまでもなく、機関説排撃と国防と選挙との三つの問題の間には、原則上大きい距離があるのであるが、それがどういう根拠からか知らないが同時に決意の宣明となって現われているのである。機関説運動は東京の在郷軍人の手にかかると、どうもそれ以外の要素と混淆され稀釈されて了うようである。
 処が在郷軍人が、「軍人の立場」からこうして国体明徴や機関説排撃の運動に奔命している間に、現職の軍人そのものの間では、もっと国体明徴問題に引っかかるような未曾有の大問題が起きてきていたのである。軍務局長永田中将が有名な命を落した事件である。実は軍部としてはこれ以上重大な危機を孕んだ問題はないのであって、国防観念のアジテーションや選挙問題どころではないのである。特に、林陸相の粛軍活動そのものの一反作用が、この露骨な軍規破壊となって現われたのだから、意義は特別甚大なのである。
 八月十三日、愛国政治同盟なる団体は早速声明書を発表した。曰く、「この事件が自由主義者を喜ばしめ、既成政党の台頭を促す等々の不快なる諸影響は、抑々末稍なり、皇軍の皇軍たる所以は軍人勅諭の大精神を身を以て尊奉する処にあり、……上に対しては皇軍の忠誠、下に対しては皇軍の威信、正に是処に潰えんとす。その影響の重大なる、機関説の如きに比すべくもなし、軍部諸将以て如何とするか」云々。
 主旨は軍主脳部に対する不信にあるのであるが、注目すべき点は、この問題の重大さが「機関説の如きに比すべくもない」という点だ。――林陸相は、所謂軍統制・粛軍の武歩を一歩踏み出すに当って、云わば対軍内部への代償として、政府の例の声明書に、特に機関説を不当とする旨の明文を挿入することを強請した程、対外的に国体明徴を強調したのだったが、処がそれどころではなく、この機関説どころでない重大危険が内部的に発生して了ったのだから、その心境は察するに余りあるではないか。
 次に政府であるが、国体明徴を声明した政府当局が、該問題に力を入れないということは凡そ不可能なことだ。政府は各省並びに各外地当局へ、この声明の主旨を伝達し、各省をして従来行って来たこの種の運動を報告させた。その報告によると、文部省は各大学・学校長に訓令を発し、学校長会議の席上訓示を怠らず、パンフレットを作成して頒布したそうである。憲法講習会・公民教育講習会・視学講習・実業学校教員夏期講習会・六大都市時局講習会・等を利用して国体明徴教育を行った。
 金子堅太郎伯は文部省のこの憲法講習会に於て「帝国憲法制定の精神・欧米各国学者政治家の評論」という講演を学者達(?)の前で行っている。それによると日本の憲法は欽定憲法であるということと国体に基いた憲法だという点とで、世界無比な出来具合だというのである。だからその後の憲法学者が、之を勝手に解釈するのは元来間違っているという。之は文部省から例のパンフレットとなって出たそうだが、尤も制定の精神必ずしもその後の解釈の精神でない、かどうかが述べてないのが手落ちである。――其の他各省とも講習会その他の機会に国体明徴の精神を鼓吹したものである。
 処がそれにも拘らず政府は、右翼団体や軍部や在郷軍人から、手ひどく攻撃されているのである。政府にしても誠意があるなら、こんなに方々で大騒ぎをしているのだから、なぜもっとハッキリとした態度を採って彼等を満足させてやるという道に出ないのだろうか。――そのなぜかという点が、国民が大いに思慮をめぐらさなければならぬ処だろう。
 六十七議会の鈴木総裁の明徴演説以来、機関説排撃の驥尾に付しているのは云うまでもなく政友会である。国体明徴運動は政友会の手によって、一木、金森、両氏に対する排撃を口実として、一時重臣ブロック排撃という形にまで脱線しかけた(之に就いては私はすでに「重臣ブロックと機関説」で述べた)。だがその後は流石に重臣ブロック論はあまり人気がないと見て引き込めたらしいが、併し問題は依然として、一木・金森・両氏へ集中されたのである。而もこの点では、当の相手が岡田内閣だという処から、政友会の反一木・金森・運動は、他の右翼反動団体の運動に較べてさえ、多少立ち勝っているようにも見えたのである。と云うのは、山本悌二郎委員長以下からなる政友会の国体明徴委員会は、次のような質問書を首相あて発送したのである。
 首相は、一木氏は日本帝国の天皇の御位置のことに就いては、云々していないと聞いていると云うが、それは如何なる根拠に即するか。一木氏の著書『日本法令予算論』(明治二十五年五月の三日初版・三十二年十一月十五日再版)を見ると、夫は純然たる天皇機関説ではないか。特に又同氏が東大に於て行なった国法学講義のプリントは詳かにこの点を裏書きするものである。
 首相は一木氏に就いて、「其の後学者たる立場を棄てて永年宮中に奉仕せられ学界とは縁を絶っている」云々というが、現に氏は帝国学士院会員で一代の碩学たる学界公認の人物ではないか。而も氏は、恰も憲法の解釈を司る枢密院議長ではないか、というのである。――それから金森法制局長官に就いても、岡田首相は「機関説でないと聞いている」と云っているが、氏の『帝国憲法要綱』の一節には、「天皇は統治者にして国家機関に非ず」という説は不完全だとして之を排斥し、「統治権の主体は国家なり」、「天皇は之を総纜する自然人なり」と云い、「天皇を国家機関と云いて誤る所なし」と云っているが、この点どう返事をするか、という質問である(『東朝』一九三五年八月二十五日付)。
 なる程政友会の論鋒は相当鋭いようだ。この処政友会は甚だ得意のように見える。美濃部博士もどうやら司法処分になるらしく見えて来た(但し起訴説に対する反作用が有力になって来て起訴猶予)、一木枢相も年内には辞職しそうな気配が見え始めた。政友会の党是が着々として効を奏しつつあったわけだ。わが党の兵農両全主義、いや国防産業両全主義は、軍部の国防主義・反軍反対主義・と同じ武歩を進めるものだ。一時心配したファッショ的な議会政治否定の動きもどうやらおさまったらしく、軍部や在郷軍人が議会政治尊重の方針を明らかにし出した。そのためには選挙粛正というスローガンも我慢すべきだ。官製政党の造出や何かでなく、又既成政党の打倒でない限り、粛正選挙は大いにわが党の力を借りねばなるまい。一そ、この粛正によって地盤の協定が出来れば、選挙が安上りというものだ。――それにわが党の国体明徴だ。之ほど恵まれた条件におかれた政友会はこの頃珍しいではないか。――とそう政友会は自己満足の態である。現に大阪の大会に臨んだ鈴木総裁は相当の気焔をあげたものである。
 だが政友会は、政友会がなくても国体明徴運動に何の損失もあり得ない、という点には目はつぶっていたのである。バチ当りな政友会ではあるが、ファッショに党首を奪われておきながら、精一杯に、国体明徴・機関説排撃・美濃部・金森・一木排撃・と、そう頼まれもしないのに叫んでいるのは、いじらしくもあるのである。――処が実は、誰もこのいじらしい態度を買っては呉れなかったのだ。政党のみじめさ之に増したものを吾々は見ない。
 そう思って見たせいか、政友会の国体明徴騒ぎは、政友自身その頃どうも少し気がひけていたのではないかと思う。そんなことより例の選挙粛正の方が実はズット気にかかっていた筈である。恰も軍部が粛軍統軍そのものの方にもっと真剣な利害を感じているのが正直な処であったように。右翼国粋団体に於ける国体明徴はどうかというと、之が結局、これ等諸団体の統一と整理のための国体明徴〔・機関説排撃〕であり、而も唯一の尤もらしい口実だったのである。
 美濃部・金森・一木・の諸氏の問題が片づくに従って、この運動は当面の目標を失わざるを得なかっただろう。夫は部内抗争や、倒閣やの武器にさえもならなくなった。だから明徴一派は代案を探索しておく必要があったろうと共に、明徴一派の驥尾に付して正直に走りまわっている者がいたとすれば、彼等も亦、やがておいてけぼりを食わされないように、用心すべきだったろう。
(一九三五・九)


一五 農村匡救の種々相



 東北凶作義金の応募額は可なりの嵩に及んでいるらしい。『東京朝日』や『東京日日』の手を通じてだけでも夫々五十万円程度になっている。庶民のものは一頃約五百万円と計算されていたが、後にはもっと多くなったことだろう。
 畏き辺りの御下賜や富豪の義捐金を加えたならば、恐らく一千万円に近くはないかと推定される。無論この金は、官庁や自治体其の他の手に渡って匡救費として使われている筈であり、或いは少なくとも使われることになっている筈であるが、併しその実際の用途は必ずしも明らかではない。
 某右翼団体は、その頃五百万円に上っていた義金の用途を明らかにしろと云って迫っていたが、案外世間では、義金の行方を問題にしていないらしい。例えば各自治体は農民の未納税金を取り立てねばならない場合が甚だ多いだろうが、そうした自治体が受け取った匡救義金は、農民を匡救する代りに、農村自治体の財政を匡救する方向に使われないとも限らない。市町村議員は何のかんのと云って、之を匡救運動費(?)に使うことも出来るだろう。
 又官庁の手に渡ったものは匡救事業其の他の形で使われるとすれば、それは結局この現在の社会機構下に於ける生産機構に従って使われるのだから、果して農民の、即ち実は農民の、匡救となるかどうかは、よほどつき止めないと判らない。義金の用途はだから決して全部的に明らかにならないし、又なれもしない理由があるのだ。誰が一体、農民の個人々々の手に、自分達の義金が金や食料やの物品の形で渡ったかどうかを、見届けることが出来よう。
 併し義金の意味から云うと問題の目標はもっと他の処に横たわるように見える。義金とは道義上の醵出金のことだ。個人は個人としてなりに、団体は団体としてなりに、夫々道義上の動機から金を喜捨するということと、或いはそう見えるように身振りすることに、意味があるのであって、その金額の多寡は必ずしも問題ではなく、又社会全体に於ける義金の総額がどの位いかも問題ではない。況してその金がどう使われようと、一向構わないのであって、要するに道義上の金を醵出したということで気が済むのであり、そうした道義上の気休めにさえなれば、凶作義金の意義は充足されるのである。
 之は何も東北凶作の義金の場合に限らず、関西の風災害の場合もそうだったし又遠く関東震火災の時にもそうであった。現に国防義金もそうした意義をしか持っていない。十一年度の国防予算は実は十億二千万円に及んでいるのだから、全予算の二十二億に比較して決して不足な予算ではないのであり、之に較べればどんなに民間からの国防義金が集っても、金額としては殆んど問題にされない程度の端した金だが、併しこうした膨大な国防予算が実現の可能性を持つのも、つまりは国防義金が集まる精神そのものに支持されてのことである。国防予算に加えられるものは国防義金の金額ではなくて、その精神なのである。
 国防義金の場合は併し、国防精神というものの宣伝・教化・という明白な精神上の目標があるが、凶作義金の場合はどういう宣伝、教化を目指しているのか。仮に一千万円集った処で、全予算の振り当てを少し変えれば机上に浮いて出る程度の差金にしか相当しないので、そうしたものの実際的な意義は、この義金でもあまり重大ではなく、大事なのはその義金の義金たる道義的意義にあったわけだが、その道義的意義が、どういう宣伝的教化的目標を持っているかが問題だ。
 一体道義的感触に訴えるという仕方は、認識の一等幼稚な或いは一等懶惰な場合に他ならない。だから未開人や教養と知能の低い人間にあっては、事物は何でも善いことと悪いこととに分れる。教化は恰もここに入口を発見するのを普通とするのである。
 現に思想検察当局は、云うまでもなく社会的認識の科学上の真偽を判定する権威を持たないので、権威は専ら善いと思うか悪いと思うかという詰問としてしか発動し得ない。現に転向手記なるものが夫なのである。ここでもすでに明らかなように、道義的感触は感情としては場合によって劇的な真摯性を持つことが出来るにも拘らず、それが認識の代理をし、或いは代理をさせられる場合には、認識を浅薄にし皮相にし、乃至は歪曲、隠蔽するという効果を、自然と持つのである。教化のイデオロギー的用途がここに発見される。例えば思想善導は、認識の代りに道義的感触に訴え、又は道義的感触を強要するものなのである。
 義金は無論この道義的感触に訴えた醵金のことであり、或いは又、街頭や紙上でおのずから道義的感触を強要された結果の醵金のことである。だが重ねて云うが目的は醵金の価額にあるのではなくて、醵金行為の原因であり又結果である処の道義的感触の挑発にあるのである。この道義感は併し、挑発されることによって社会問題に向かっての関心を道義的に深めるかというと、実はその正反対が実際上の結果であって、道義的感触が挑発されればされる程、社会的認識は歪曲され、ベールをかけられるという効果を持っている。今日社会の、又農民の、又東北農民の、貧困が、日本又は世界の一つの根本的な矛盾につらなる一現象に他ならないということを、知らなかったり想像しなかったりする人間は殆んど一人もいないだろう。だが一般に認識はややともすれば懶惰で苟安こうあんに走る性質を持つから、そうした懶惰な認識に仮睡を与えることが道義的感触の役目となる。
 悪い、気の毒、悲惨、それから夫に対する対策としては、善いことをする、同情する、そうして社会人の認識は社会人のごく外面的な感覚である道義、道徳によって、すりかえられる。こうして凶作義金は当るべからざる道徳的自信と幸福感とにうながされて、続々として集まる。
 凶作義金が婦人団体や学生団やによって集められ、小市民的サラリーマンのポケットからも少なからず吸収されるらしいという現象は、婦人や学生やサラリーマンの認識が未発達で被教化性に富んでいることを告げているに他ならない。サラリーマンなどをインテリゲンチャ(インテリゲンツ所有者の層)の代表者だなどと考える者は一体誰だ。

 凶作匡救を、義金という凶作匡救の身振りで置きかえるには、道徳というものが欠くことの出来ない触媒をなすのだが、併し道徳はもっと立ち入った役割を果すことが出来ることを注意しなければならぬ。前のは凶作の匡救を道徳で以て置きかえたのだが、今度のは凶作そのものを道徳で以て置きかえようというのである。
 例の義金の一例として三井と岩崎とで二百万円ずつを義捐した。その資本家的な特に又軍需資本家的な意図に就いては別に考えなければならない問題があるが、とに角この四百万円は内務省に寄託されてその内二百五十万円が、「青年道場」の建設費として東北六県の農村にバラ撒かれることとなった。
「農村共同施設の中心となるものは部落中心青年協同施設であって、東北青年の決起を促し、勤労精神の訓練を基調とし、その実習として共同作業及び授産を加え、道徳経済を把握した青年の道場たらしむることを期している」ということだ(『東朝』一九三四年二月二十七日付)。云うまでもなく之は凶作匡救のための一つの根本対策の心算なのである。
 だが凶作の原因は無論青年が決起しなかったことや、勤労精神の欠乏や道徳経済の不足などではなかった。では気象学的現象が原因かと云えばそうでもない。なる程凶作は主として気象学的現象の結果かも知れないが、東北の農村凶作匡救というのは、凶作の匡救ではなくて凶作による貧窮の匡救なのだ。その証拠には、在る処には米があり余っているではないか。問題は凶作よりも寧ろ凶作飢饉(豊作飢饉はそう旧いことではなかった)にあるのだ。
 処で凶作飢饉の原因は又、云うまでもなく農村青年の不決起や勤労精神の欠乏や道徳経済の不足などにあるのではない。処がこの青年道場の理想は、青年の決起と勤労精神の訓練と道徳経済の教育とによって、凶作飢饉を切り抜けようというのである。
 青年道場は、山形県の自治講習会に始まり、茨城県の農民道場に於て官営化されたものの延長に他ならないのであって、新官僚・国粋〔右翼団体の〕教育計画にぞくするものだが、その原則は、農民の貧窮を農村精神の作興によって置きかえようということに存する。無論農村が自力更生出来ない限り農村精神も作興される筈はないが、併し之は農民以外の当局から農村精神を作興してやって之を以て農村の自力更生に見立てようというのである。貧窮は農民自身のものだから、之は農民自身が解決すべきであって、ただその解決の鍵になるだろう農村精神だけを、支配者当局が振興してやるという方針なのである。
 この流儀で行くと、凶作による貧困そのものは、全く農民道徳(勤労精神其の他?)で以て置きかえられて了うわけだ。
 之が本当に置きかえられ得ると信じているならば、それは支配当局が、農村に於ける生産関係や所有関係の根本矛盾を、生産関係として、即ち経済的に、解決出来ない所以を遂に告白するものだし、又仮に、例えば国粋思想や日本精神の宣伝教化の目的から、匡救に名を借りて之を行なうものならば、その意図は正しく匡救の反対物でしかないのであって、爆発の境界線を突破しない限度以上は匡救の実を挙げることは、却って本来の目的に反することになるだろう。
 農村、実は農民の貧窮は、それ自身として見れば、忠良なる国家の成員の動揺を意味し、内政上又国防上の危険を孕むものではあるが、之を道徳問題に転化することによって、禍は転じて福となるのであり、却って国粋的な軍義的・国防的・な国民道徳の宣伝教化の絶好のチャンスを提供するものとなる。貧乏な医者は、患者があまり早く全快することを決して喜ばないものだ。彼は町医者としての信用を墜さない限度に於て、患者の病気を永久化したいとさえ願っているかも知れない。
 農村の瀕死の疾患を好ましい地盤とするものは併し青年道場流の道徳運動に限らない。身売防止運動も亦その類にぞくする。ここでも亦問題は道徳から出発するように見える。
 農村が貧窮の余り、主に女の子であるが、子女を前金で売ることが流行り出したと云って、矯風会や仏教女子青年会其の他が問題にし出したのであるが、予め考えておかねばならぬ沢山の問題がここには雑然と雑居しているのである。一体人身売買制度が、自由契約として習慣上又法規上発達しているのは、維新以来の日本の一つの特色であるように見える。
 之は封建的な奉公制度と一定の連がりがあるのだと思うが、とに角各種の身柄拘禁制度を伴った労働力売買の自由契約、又はペテン契約は、わが国の労働条件の特色をなしている。年期奉公、監獄部屋、などもあるが、一等著しいのは主体の幼弱な或いは不熟練な労働力に於てであり、従って代表的にこの条件によって制約されているのは、娼妓・酌婦・芸妓・女工・女中・等の婦人労働者なのだ。廓・寄宿舎・店内・家庭・等が拘禁制度の物的形態で、この内娼妓や酌婦は人間の生理的性情に深く食い入った労働力である結果、最も人道上陰惨な印象を与えるのだが、無論人身売買は之に限ったわけではなく又農村の子女に限るのでもなければ、まして今日の、そして特に東北地方の、農民の子女に限ったわけではない。問題は一般的に、プロレタリアと農民とによる労働と生産との問題にあるのだ。
 科学的認識から云えばそうなのだが、併し例の道義的感触から云うと、人道上のセンチメントから云うと、主に婦人の身柄売買が、特に又婦人の貞操売買が(実は誰かも云っていた通り婦人の貞操の所有者は、意外にも男子自身なのだが)、一等問題になるのは自然なことだろう。
 こうした一般的廃娼運動の意識が、東北凶作地方の貧窮農民の問題と結び付いたのが、所謂「身売防止」運動の精神なのである。
 尤も世間で漫然と考えている廃娼運動は、云わば全く法規上の形式的な面目論に立つので、公娼制度を法律によって保護するなどは国辱だという見解を出ないようだが、併し私娼であっても多くは矢張り公娼同様人身の奴隷的売買の(より経済的な)形態を採りつつあるし(だから楼主自らが廃娼を希望するという逆現象も生じることが出来る)、そうでなくて完全な自由契約によるものでも、人身売買としての貞操の取引きであらざるを得ないから、依然として社会人の道義的感触に牴触する。こうしたものを一まとめにして、それが東北凶作飢饉の現象と結び付いたものが、身売防止運動の、道徳的全貌なのである。
 処で之は身売防止運動の道徳的全貌であって、まだ夫の社会的な、科学的な、全貌ではない。身売防止運動の実際活動を見ていると、つまり一種の離村阻止運動となっていることに注目される。ここではもう女郎に売られるとか、女の子が売られて行くとかいう問題だけが大事なのではなく、一般に誰でも農村を離れて都会なり小都会なりへ出稼ぎするという一般的風潮や思潮を食い止めることが仕事になっているように見える。このためには云うまでもなく、農民に於ける農民の経済的な終末観に対抗して、農村生活に希望をつながせるお説教を用いる他に道はない。
 農村こそ国家の基だ、今後農村は都会に先んじて国家的施設の恩沢に浴させてやろう。農村こそ健全な社会なのだ、それに都会に出ても職などはない(尤も満州は別だが)、というのがその説教の形式である。
 離村防止のこの一般的な道徳的説教は併し、元来が身売防止の運動と混線していたのであり、そしてお説教はいつも実際上の必要の前には殆んど全く無力なのだから、この離村防止運動が実際的な効果を持つのは、再び元に還って身売防止運動であり、道徳的説教も亦自然とここに集中されて来る。農民は無知で教養がない、わずかの一時金に眼がくれて婦人の最も尊重すべき貞操を売ろうなどとする、彼女等と彼女等の親達との蒙を道徳的に啓くと同時に、彼女等をその誤った道から経済的に救ってやらなければならない、と貴婦人方やプチブルマダム達は考えるのである。
 さてここから活動は道徳圏内を抜け出て実際的になるので、身売金の代りになる金銭の貸与、職業の周旋、等が身売防止運動の活動となる。無論こうなれば、前の離村防止などは署長や有志の寝言のような一片の訓誡に過ぎなかったことは充分承認されている。
 この運動は併し決してそんなに無力だと考えられてはならない。身売をしたい農村の若い女達にとっても、又この好機を逸せず安く玉を手に入れようとする周旋業者や抱主達にとっても、事実上この身売防止は様々の妨害になっている。この人身売買の自由契約を一方に於てこうして拘束すれば、他の形態の人身売買契約に於て、買い手の方が著しく有利になるということは常識的に明らかだ。都会の有識婦人達は、身売を防止した農村の婦人達を、安価な女中として大量的に都市へ輸入する計画を立て始める。女中養成所を開いて教調する計画を立て始める。繊維工業資本家は、従来にない劣悪な労賃によって、女工の大量募集に着手することが出来る。職業紹介所は、こうした周旋に動員される。之が皆「身売防止」の賜であり、そして実は根本に遡れば、農村貧窮の賜だったのである。――彼等に云わせれば、安価な女工や女中の大量的な女奴隷狩りは、身売とは無関係だというのである。で、道徳的であるべき身売防止運動のこの不道徳性と、経済上の解決としてのナンセンスとは、農民の子女自身が一等よく科学的に認識しているのである。農民が無知だなどという奥様方や老嬢達こそ無知だったのだ。
 資本家の事業上又家庭上の経済的要求が、身売防止運動の道徳的活動によって、如何に立派に充されつつあるかをここに見て取るべきだ。そして農村の貧窮がなくては、事柄はこう調子良く行かないのだということも。

 三十四年度の臨時議会で、政友会は内閣に向かって突如、一億八千万円の災害追加予算の公約を逼った。その結果は、折角連携の気運にあった政民の関係を再び対立に陥れたばかりではなく、政友会自身の内部的崩壊をさえ招きそうになり、徒らに内閣と、新官僚と、新党樹立派とに有利な機会を提供したに過ぎなかったが、尤も次の第六十七議会には可なりの波瀾を巻き起こすだろう。
 それはとに角、政友会が災害予算の追加を招牌に掲げたのは、云うまでもなく政党としての人気取りの政策なのだが、それも単に一般世間や特には市民達の国防予算過大に対する反対意向に投じるためよりも、その選挙地盤であり、従ってその利害を代表する処の地方地主の歓心を頼りにしたものだということは、誰考えぬ者もない事実だろう。
 即ち災害費(之は実は主として農村匡救費を意味する)は農村の地主を潤おわすものだということは世間の常識になっていると見ていい。処が世間の一部の常識に従うと、地主が利益を受ければおのずから農民も亦利益を受けるものだと考えられているようだ。そこで地主を救済(?)する農村匡救費は、農民と地主とを一緒にした「農村」そのものを匡救する費用ということになり、従って別に「農民」を匡救する費用を見積らなくてもいいように世間の一部は考えている。
 なる程、どんなに普通選挙になっても、元来が選挙は農民自身の日常的な利害と殆んど関係のない場合の方が多いのだから、つまり町村の有志の命ずる通りの(投票の買収による)投票をするわけで、従って、政治家にとっては事実上、地主も農民も同じ実体であり一丸にして「農村」という存在物に見えるのだが、それは政治家の便宜上の認識で、之で以て国家の施設を決めて貰っては、農民の不便宜はこの上もないだろう。
 軍部は好んで農山漁村というようなことを云い、地方的農村と中央的都会とを対立させるが、社会認識のこうした根本的出発点から云うと、ブルジョアや政党を蛇蝎のように悪んで見せている軍部さえが、全くブルジョアジーや地主と同じ範疇で物を云っていることが容易に見て取れるだろう。
 一体都会と云っても堂々たる官衙や富豪の邸宅もあれば、沼地につかった工場街の不良住宅(?)や穴居同様のルンペン住家もある。農村に大地主と水呑百姓との区別があるのと之は少しも変らない。そして労働条件を全く欠いてさえいる都会のプロレタリアと、貧窮民とどっちが楽かというようなことは、どっちもドン底の生活なのだから比較は無意味だろう。丁度大地主と大ブルジョアとどちらが富んでいるかという問題が無意味であるのと変らない。こう云った事実も亦、誰知らぬ者もない常識なのである。処がこの常識と関係なく、農村と都会とは、根本的な対立物だ、というのも亦、一部の人士の常識になっている。
 常識の無意味さは、まるで相反発する矛盾した二つの常識を、平気で並べていることが出来るという点にある。地主と農民とは決して同じ利害になるものではない、にも拘らず「農村」を匡救すればそれがおのずから「農民」の匡救になるだろう、というのが、このルーズな非科学的な常識のやり口である。処が事匡救に関する限り、農村に於ける地主と貧農民との利害上の対立は極めて鮮かなのである。例えば農村匡救のためと称して低利資金を政府のあと推しで農村に融通するとする。仮に例外として、無担保で貸しつけると云った処で、土地も家もない、貧農が地方銀行の窓口へ行ったとして相手にされるだろうか。低利資金を一等容易に借り出せるものは、銀行当局に顔がきき、すでに取り引きもあり、又充分に担保物件を所有している地方有志だろう。それは主として大中小の地主を措いて他にあるまい。低利で金を借りた地主はその一部分を小作や貧農に融資する、或いは初めから又貸しが目的でこの低利資金を借り出す。この際もはや決して銀行から借りた時のような低利ではない。六分で借りたものを年一割か一割五分で回すとすれば、この地主達は匡救費のおかげで思わぬ高利貸し稼業が出来るというわけだ。農民へ貸しつけた金が取れないような場合には、地主自身も亦銀行に返さなくていいことになるに決っているから心配はないし、もし農民が多少でも担保を入れているとすれば、強制的な示談で安く踏み倒して自分名義の財産に加えることも出来る。「農村匡救」ほどいいものは地主にとって又とないのである。
 農村匡救のための土木事業などは、明らかに農民の利益になるではないかと云うかも知れないが、それは農民の子女の女工身売と同じで、匡救事業は最低賃金をしか支給しないことを原則としている。最も喜ぶものは農民ではなくて、土木請負業者やセメント会社の重役などだろう。軍部では二千五百万円を支出して凶作地に軍需工業製品の授産をし、その製品を買い上げて救済の形を与えようとしているそうだが(一九三四年十一月十九日『読売』)之も亦、軍需工業資本家の農村工業化の提唱と同様に、農民の貧窮から低賃金を僥倖しようというものであって、匡救の目標は、道徳的に又常識的に云えば農村(農民とは呼ばないことを注意!)であっても、資本の要求から云えば、日本の経済的、従って軍事的、世界進出こそが、匡救(?)の対象に他ならない。そうした「日本」の礎となるものが所謂「農村」なのであって、農村匡救の淵源は実にここに存すると云わねばならぬ。
 私は、農村の貧窮を見て、雀躍して「匡救」に乗り出す者の側を見たのだが、同じく匡救に乗り出すにも、本当に悲歎に咽びながら乗り出す側に就いては述べることを避けた。
(一九三五・二)


一六 「農村対策」のからくり



 社会を都市と農村(山漁村を含む)とに分けることは現代の日本における最も有名なお伽噺しである。なるほど東京といえば銀座や浅草を見物し、田舎といえば田圃や芋畑を見物するとすれば、この区別は疑うべからざる真理を有っている。これは確かに社会的な区別としては本当なのだ。或いはもっとやかましくいうと、社会学的カテゴリーとしては二つの区別は非常に尤もなのだ。
 ところで一体、このカテゴリーは経済的な範疇にぞくするのかそれとも政治的な範疇にぞくするのか、と問われると、大抵の「都市対農村」論者は一寸返事が出来なかろうと思う。
「都市対農村」論者によれば、都市も農村も、社会的と経済的と政治的とのカテゴリーがチャンポンになったもののことであるらしい。都市といえばブルジョアジーのことのようにも思えるし、中央集権の中心地のような気もするし、また花やかなカフェーやデパートのことだとも考えられるらしい。
 農村とはこれに反して、貧乏人のことでもあったり、村役場のことでもあったり、野良着を着た風景でもあったりするらしい。こういう曖昧糢糊とした点がお伽噺しというものの魅力なのだが、処がこのお伽噺しが、日本の現実を動かしているのが事実なのである。
 ある評論家は最近の社会問題が、労働問題から農村問題に転向した(?)という発見をしている。農村問題が一種の労働問題でないのかどうかということは今はどうでもいいとして、これなどが「都市対農村」論の立派な見本になるだろう。つまり「都市対農村」のお伽噺しによって、日本の社会問題なるものは農村問題なるものにまで転向し、それにまで変質されたというわけなのである。
 今日の「農村問題」なるものが、こういう特殊な因縁を有って担ぎ出されたものだということを、吾々は忘れてはならぬ。
 こうなると農村というものは丁度「唄わしてよ嬢」のようなもので、不幸の上にその不幸を利用されるのを見ると、吾々の同情は二倍になるのか、それとも相殺されて了うのか、一寸わからない。
 社会問題は今や挙げて農村対策に集中され、またそこに限定される。その第一の方面はいわゆる農村工業化運動なのである。これは理化学研究所所長大河内正敏氏などが夙くから唱道して来たところであるが、呉海軍工廠が試験的に部分品や、材料などの下請を高知県下の中小工業者に注文したところが、それが意外の好成績で、同県は有数な工業地方になりそうだ、という実例がある。
 そこで商工省は軍部の許可を請うて、これを全国的におよぼし、工業を地方的に分散させ、大資本家による軍需景気の独占という従来の弊を矯めようということになった。読者はここでも容易に、大資本家対地方というような妙な区別に出会うだろう。だがウッカリしていればこれは甚だ尤もなものとして通用するのだ。
 ところでこの農村工業化のための前提条件の一つは、農村電化策の問題でなくてはならぬ。動力用電力の配給区域独占の緩和、自家用発電の認可申請の簡易化、などの電力統制の問題がここにあるのであるが、注目すべきは自家用発電工作による方が営利電気会社の電気料金よりも遙かに安いということである。
 動力用としては定額制で、一馬力昼間用は自家用六円に対して会社六円七十銭、昼夜間用は自家用八円四十銭に対して会社十四円六十銭、メートル制の一キロワット昼間用は自家用五銭に対して会社五銭八厘、昼夜間用は自家用四銭に対して会社五銭、というような著しい差である。電燈についても同様であることが報じられている。
 だが電気会社当業者にいわせると、農村の自家用発電は、設備費の割合に電力消費量が少なくまた季節的なムラが甚だしく、それに水力の不平均や技術家の薄遇等々の理由によって、いずれも経営困難に陥っているというのである。
 それだけではない、仮に電気料金が安くついても、全体の生産費や運賃が嵩み勝ちな農村工業生産においては、電力料金の安いことやその引き下げなどは、大した意味を有たぬと電気業者はいうのである。
 折角の農村工業化策も、電気会社の資本家当事者からケチをつけられた形であるが、しかしもっと厄介なのは、農村における産業組合の問題なのである。いうまでもなく、農村対策の第二の方向は産業組合主義にあるのであるが、今いった農村電化問題もまた、産業組合の問題に直接に結びついていたのである。
 というのは、農村における例の自家用発電設備の殆んどその大部分は、産業組合の所有だったからである。だから電気会社の資本家達は、つまり産業組合にケチをつけたということにもなるのである。
 ところで、日本商工会議所会頭郷誠之助氏は、或る日府県の経済部長達を招待して、産業組合助長をやめるようにという訓示(?)を与えた。「今日の産業組合の実際は動もすればその領域を越えて、純然たる商工業の範囲に進出致し、生産者より直接消費者へ、をモットーとして中間配給機関の排除を図っているのであります。今日の産業組合の中枢指導者の中には、産業組合主義による新経済組織の完成、相互共同組織による新経済制度の確立ということを、その真の目的としている者すらあるのであります」、と郷男は警告を発している。全く、日本がサンディカリズムのようなものになっては少なくとも郷男達の立つ瀬がない。
 然し男が本当に心配しているのはそこではない。正に例の都市と農村との関係が心配の種であるのだ、「ために元々協調すべき農村と都市、農業と商工業とが互いに対立抗争するに至りますることは、寔に遺憾に堪えないのであります。」
 日本商工会議所はいうまでもなく、日本の大商工業者の会議所なのだから、郷男の心配したのは農村と大商工業との矛盾なのだが、ところで商工省の配慮するところは少しこれとは違って、農業と中小商工業との矛盾なのである。いわゆる反産運動は、商工省の後押しがあると世間から判定されているが、この反産運動は元来運動主体の主観からいうと、中小商工業者のものである。[#「ものである。」は底本では「ものである。」」]
 米屋や炭屋はサラリーマンのスィート・ホームの勝手口や台所から見たら一等目立つ存在だから、そこにこの中小商工業者なるものの社会的に有利な点があるのだが、ところで郷男達は、この反産運動に加担して、産業組合にケチをつけようとするのである。だからここでは、明らかに、大商工業と中小商工業との区別よりも先に、商工業一般と農業との区別対立が問題なのである。「都市対農村」主義から行くと、郷男と炭屋の手代とは同じ階級になるのである。
 尤も産業組合主義はすでにこれより前、山崎農相自身の口から、丁度郷会頭の注文と同じような結果になるような制限を加えることを、約束されていたものである。配給機関を侵食しないようにするという約束が出来ているのである。――それだけではなく、産業組合の事業は官庁の監督権に束縛されて、それほど自由には羽を延ばせないのが事実でもあるらしい。たとえば生産過剰のぶどうをぶどう酒にしようとすれば、組合としては醸造の許可を得ることが出来ず(山梨県)、またぶどう汁にすれば大蔵省から課税され(富山県)、馬鈴薯からのアルコール製造が許されなかったり(群馬県)、富士絹の販売は織物消費税に基く検査を要し(広島県)、麹の製造は醸酒の危険ありとして不許可となり(秋田県)、牛乳を販売するために産業組合が滑稽にも同業組合に加入し(福岡県)、豚の屠殺も警察令で許されず、輸出物には輸出組合による統制が利き、ガス自給もガス事業法に牴触する等、その例は無限なのである。――こうして、産業組合主義も農村工業化乃至電化政策以上にあちこちからの矛盾と撞着とになやまされる。
 だがこうした困難にも拘らず、農村対策は遂行されねばならぬ。なぜなら農村問題を少しでも軽んじるならば、それだけ社会問題即ち労働問題が、発生する特殊な因縁だったからだ。
 そこで農林省内には「農村対策調査特別委員会」なるものが出来て、農村経済困難の原因などに関して研究をすることになるし、農林省の農村対策の予算も、いよいよ応急策から恒久策に転化されることになったらしい。つまり労働問題から農村問題への転化を恒久化そうというわけである。民政党では全国を六区に分けて党員を派して農村実情調査をやろうとしたという。
 ところで政友会は「政府のいわゆる健全財政、公債漸減主義を排し、わが党の積極産業政策、経済の建直しにより財源を涵養し、以て国防の充実を計る兵農両全主義を普及徹底せしむべし」、と決議しているのである。だが大蔵省は三五年六月十四日に、昭和九年十二月末現在の国債所有別調の結果を発表しているが、それによると国債の消化力は殆んど飽和点に達していると解釈される。だがそれはそれとして、ここに兵農両全主義という第三の農村対策(?)が出て来たことに注目しなければならぬ。
『東京朝日新聞』の論説欄(十六日)によると、近年中央の純行政費は軍事費激増に逆比例して目立って減少した。昭和七年度には七億一千万円だったものが、昭和九年には六億一千万円、十年には遂に五億二千万円に減らされている。この中央行政費の無理が地方財政に響いて、行政費の地方財政への転嫁となり、今日の地方財政の悪化を暴露するに至った、というのである。昭和九年度地方歳入見積り額につき、十一府県で総額七百五十五万円、二十市で総額一千二百六十七万円、の欠損額を生じるに至った。この傾向は町村に行けば一層著しいだろうと見られている。
 そこで政府は当分地方債を抑止する方針を取ることに決し、地方内務省首脳部は内相を初めとしてお得意の「地方行脚」を行なうことに決めた。尤も原因が地方自身にあるのではなくて中央にあるのだとしたら、わざわざ地方へ出向くことは見当違いかも知れないのだが。――ところでこういった事情の眼の前に、政友会の兵農両全主義なる農村対策が飛び出して来たのである。なるほど農村が都市に対立する限りにおいて、兵と農とは両全なわけだろう。ところがそれが予算の上ではなかなかそうは行かないというので問題だったのだが。
 こうなると農村問題は軍備問題との対立になって来るのであるが、しかし世間では農村問題を必ずしもそういう風には持って行かない。問題はむしろ、地方財政と中央財政との、即ち地方中央との、対立ででもあるかのように考える。農村と都市という社会的カテゴリーは今や地方と中央といったような政治的行政的なカテゴリーと混同される。後藤内相の地方行脚主義(これが第四の農村対策である?)は、多分にこうしたカテゴリーの混淆に基いていはしなかったかと思う。そして更に、農村――都市とか、地方――中央とかいう社会的乃至行政的なカテゴリーと、経済的なカテゴリーとを混同して、農村――都市の対立が何か経済的な根本対立ででもあるかのように考えはじめると、それはもはや救うべからざる混淆となるのである。
「農村問題」と「農村対策」とがこの種の混同を利用するメカニズムでなければ幸いである。都市対農村説は、資本主義が一夜々々を過ごすために物語るアラビヤンナイトだったのだから。
(一九三五・六)


一七 「社会政策」株式会社



 或る評論家によると、東北の一昨年の凶作は、結局は全く太陽の黒点の責任だというのである。凶作の原因は冷害であって、その他の何ものではないというのだから、なるほどそうには違いないだろう。肺結核は結核菌の責任であって、他の何物の責任でもないと同じに。
 それはそうとして、東北地方のいわゆる冷害に対する対策の最も代表的なものの一つとして、政府は東北振興調査会なるものを大分前に設置した。凶作による飢饉は何も、昨年のしかも東北の六県に限らないのであるが、政府とジャーナリズムとは社会政策的に、凶作代表としてこの東北地方を選んだのである。そしてこの凶作が自然必然性のなす業ならば、これは何といって騒いでも仕方がないので、ユックリ善後策でも講じるほかはないだろう。
 この善後策を講じる代表的施設が、即ち東北振興調査会であって、どうせ善後策なのだからそんなに急いだって仕方がないのである。所謂冷害から満一年ほどたった三五年八月二十二日、調査会は、東北振興の最初の、そして恐らく最後の方針として、東北における興業および電力会社の設立に関する小委員会なるものを開いて、原案を作成可決した。越えて九月十三日、さらに同調査会の、産業振興特別委員会においても、この原案を可決した。越えて九月十八日、逓相官邸における電気委員会が、これをもう一遍可決した。
 だがそれだけではない。翌十九日にはいよいよ東北振興調査会の総会で、この原案が四たび可決されたのである。だが早まってはいけない。これは単に政府に対する答申の原案を可決しただけであって、政府はこれを基礎として、来年のお正月にでもなったら、東北振興電力会社設立法案、東北興業会社設立法案、およびこれに要する配当保証のための追加予算案といったようなものを議会へ提出するのだそうである。万一これが、この議会で可決されれば、正に少なくとも五度以上の可決を経た名案となるわけだ。
 東北を救済し、否何か知らないが東北の何かを「振興」するのは、如何に面倒臭いものかということがこれでもってよくわかるが、しかし今日まで少なくとも四たび可決されたこの東北救済振興の名案の内容を見ると、意外にも、決してそれほど面倒な困難な仕事をしなければならないわけではない。仕事はこの社会では極めて容易で、かつ大いに楽しみになるような種類のものなのである。これがその名案たるゆえんでもある。
 東北振興のためのこの答申案は三大計画を挙げている。第一は東北興業株式会社設立の件であり、第二は東北振興電力株式会社設立の件であり、第三は金融施設整備改善に関する件である。
 この第三のものは極めて抽象的な内容で、「資金の円滑なる流通および金利の低下を計り産業の振興に資すること最も緊要なりと認む」という至極尤もなものだから、これだけでは問題にならぬ。もっと積極的で進取の気象を作興するに適したものは、二つの「特殊の株式会社」を設立して、一儲けしながら同時に東北の人民どもを救済してやろうというところの、前の二件である。
 興業会社の方は、肥料工業、その他電気化学工業、水産業、鉱業の資源、水面埋立事業、農村工業、その他東北振興に関する諸事業の経営・投資・助成・をなすを事業の目的とするのだそうである。――だが実は事業の目的は必ずしも東北振興にあるのではない。というのは、この特別な株式会社は、如何に特別でも矢張り配当年六分は間違いのないところだということになっているからである。万一、年六分の配当が出来なかったら、政府はわれわれから取った所得税其の他の内から金を出して、少なくとも払込金額の六分に届くだけの配当保証を十五年間でも二十五年間でも引き受ける、というのである。
 さて東北を救済振興して年六分の配当を受けるという、そういった道徳的にも物質的にも幸福な連中は誰かというと、その半分は預金部の低利資金や簡易生命保険積立金の融通を受ける東北六県の有志達で、あと半分はなるべく「東北住民」(?)の方がいいが、しかし必要とあればどこの小金持ちでも金持ちでも悪くないというのである。
 では電力会社の方はどうかというと、東北地方における水力を開発して低廉な電気を供給することを、その事業目的としている。しかし勿論、ソヴェートのように冷害のときに電気で稲を温めるのではない。ただせめて電燈料や動力を安くしてやろうというのである。しかしあまり安くしすぎては事業目的に副わなくなるので、ここでも矢張り年六分の配当が必要なのだが、万一それが不足を来すようなことがあったら、充分料金を値上げすべきで、それでもまだ足りなかったら、株式払込金額の四分以内の配当を、政府が保証しようというのである。
 しかしこれは前の興業会社を独占的な株主にする内規で、うまく該事業に割り込んだ紳士達は別として、一般の株主は造らない方針だから、この親会社を二十五年間も配当保証する以上、この子会社の方の配当保証は十年間ぐらいで御免蒙るという仕組みである。
 両会社とも資本金は偶然にも同額の三千万円だが、興業会社の方は恐らくこの電力会社の株主になることをその唯一の事業とするのだろうから、二つは結局一つの株式会社と見なして大誤ないかも知れない。
 でそうすれば問題はつまり、専ら電力会社の方にあるわけである。――ところで、この会社の何よりの特権は水利の特許であって、政府の低利資金を借りた上に事業施設上のこうした特恵条件があり、従って発電所の建設費も安上りで、料金安によるお得意も普通より多くなるわけだ。
 そこで狼狽したのは、東北地方関係の既成の電気業者達である。これは、政府が東北振興に名をかりて、電力の国家統制、独占的資本のファッショ化、に赴く第一歩であるといって、彼等は怒り始めたのである。事実逓信省当局は、この電力会社案の建前からいっても、また改正電気事業法の建前からいっても、地方電力会社の合併を奨励しているのであって、例えば現に、福島電燈と塩那電気、中央電気と魚沼電力との合併が、政府の好意の下に実行されようとしたような次第だ。
 新案のこの電力会社が出来れば、多分大抵の小電力会社は潰れて、該会社に合併されることになるだろう。東北地方電力業者達は、曾て電気協会東北支部の名で、半官半民の東北振興発電会社の設立の件(資本金四千万円)を政府に建議した手前もあるので、今度の調査委員会案は既設会社の死活問題だというわけで、この案の実現を阻止しようと寄りより協議中であった。
 尤も吾々大衆から見れば、電力会社であろうと発電会社であろうと、資本金が三千万円であろうと四千万円であろうと、同じ半官半民の株式の社会慈善営利会社である点において、少しの区別もないのだが、資本家の陣地占領の関係からいうと、そうは行かぬらしい。――だが、この案を見ていると、東北を振興するというのは、東北における営利事業を助長することに他ならないようだが、それなら、現に折角相当にやっている既設会社のこの事業家達を、わざわざ没落させるようでは、東北救済のこの名案も、可なり心細いといわざるを得ない。
 東北救済振興の唯一の方法は、東北振興調査会の極めて慎重な専門的な研究の結果、電気事業で一儲けすることと、電力料の値下げとに如くはないということになったわけだったが、処が東北の農民自身は無論電気を食って生きているわけではなく、東北の電力需要量は全国三〇〇万キロに対する一三万キロに過ぎず、人口百に対する電燈数は、全国平均五七程度に対して、東北六県では二九乃至三八程度に過ぎない。そうすれば、電力会社によって救済乃至振興されるのは、東北の農民自身ではなくて、東北にだってゴロゴロ転がっている電気事業資本の方でなくてはならぬということになる。
 東北救済といわずに東北振興と呼ぶのは、だから大いに理由があったわけだ。ところがこの振興されるべき電気事業の既成資本家自身が、死活問題だといって反対するようでは東北振興電力株式会社の資本的営利事業は、余ほど不当で不正(?)な利潤追及をやろうとしているに相違ない。新案電力会社の社長を政府が任命したり、一般の取締役が政府の認可を必要とするのも、この資本主義的に不当不正な利潤追及方法が、脛の傷であるからかも知れない。
 だがわれわれは勿論東北振興電力株式会社の株主になろうとも思わないし、またなれるものでもないから、この会社自身が株式会社資本の機構において「不当」であろうと「不正」であろうと、また如何に心細いものであろうと、一向構わないのである。
 元々の問題は、電力会社の株式と配当の問題ではなくて、東北地方の貧窮の振興、否、貧窮の救済だったのだ。この点は、少し飲み込みにくくても、東北振興調査会の委員諸氏に充分理解してもらわなければならぬ。尤もこの調査会は東北の貧窮を振興する会で、東北の貧窮を救済するというようなケチな会ではないというなら、それまでだが。――某紙の調査を借りるならば、道府県の地租付加税は全国平均国税一円に対して一円三十三銭六厘に当っているそうだが、処が東北六県ではそれが一円四十銭から一円六十銭に当っているということだ。東京地方や大阪地方では三十七銭から四十八銭という低率であるのに。
 農村高利貸しのために低金利の融通を円滑にしてやるのもいいだろう。安い電力を供給してやりながら一儲けするのもいいだろう。だが東北振興調査会は、たとえば東北地方の租税問題などには一向触れようとしないのである。ただし大いに振興して、租税を大いに上げようとでもいう腹なら、話しはわかるのであるが。
 しかし仮に租税問題について、東北農村の利益を充分考慮したにしても、それで以て東北の農民そのものの貧窮は、決して根本的に救済されるのではない。納税を免れたからといって、貧農や小農や農村労働者が、地主や農村資本家に浮び上れるわけではない。――しかしだからといって「東北振興」の問題を、太陽の黒点と気象との研究に任せろというのではない。問題は資本制の内部で編成されたわが国における土地所有の関係に、集中せざるを得ない。
 そんなわかり切ったことをしかし、今さらいい出して何にするのか、と人はいうかも知れない。だが資本制社会の必然的な矛盾の代表的な一つを救済(振興?)するために、振興株式会社という資本制そのもののメカニズムを考え出した、例の調査会の天才的なオリジナリティーに、私は世間の耳目を集めたいからだ。
 資本主義の矛盾は資本主義の機構自身によって克服される!こういう永久運動の可能性を決論し、それを四たび然りといった調査会なのである。
 ところがこの永久運動説は、実は、必ずしも東北振興調査会委員諸氏の独創ではなかった。すでに先月の初め、拓殖委員会は「満州移民会社」案なるものを立案し、満州帝国へ日本人を輸出して、一つには内地における穀つぶしを減らし、一つには満州帝国の農業を開発してやろうと考案したのである。ここでもまた政府は年六分の配当を保証しなければならぬというのである(私は今、アフリカ人を北米へ輸出した会社が、株式であったかどうか、何割の配当をやったか不幸にして思い出せない)。――もっとも一般に社会事業(社会政策から慈善・教化・までも含めて)が立派に株式営利会社であることは、このごろ珍しい現象ではないのである。
(一九三五・九)


一八 義金と予算



 私はかねがね、年の暮れを一種悲愴なものと感じている。商人達はちょうど深夜の娼婦のように、あらん限りの媚態でもって、必死になって客を漁ろうとしている。ウカウカと伊達に買物などするのが恐ろしくなる程に、商売は真剣なのだ。
 しかし悲愴と感じる理由は、こうした一種の観客的な反省によるばかりではない。ジンタバンドの喇叭の音や鉢巻きをした店員の絶叫や下駄の音から来る効果だけではない。なにより耳につくのは、救世軍の士官達の甲高く弱々しいうめき声なのである。私はこれを聞くと、本当にウカウカと伊達に買物などするのが、神様の前に、空恐ろしくなるのである。
 しかし三四年の十一月の街頭は、年の暮れ以上に悲愴なものがあるではないか。都下の方々の私立大学生や女学生達が、凶作地方の農民のために「不幸」な人達のために、下げたことのない頭をペコペコ下げて、甲高い弱々しいうめき声を吐き出している。私は銀座にあった古本の陳列を見に行ったのだが、このうめき声に脅迫されてスッカリ書籍購入の元気を失ってしまった。そうかといって余分の小遣いのないわれわれは、一つ一つのうめき声に一つ一つの銭を入れて行くことも出来ないので、思いがけないところで、良心の呵責と遭遇する羽目に陥ってしまったようなわけだ。
 一体これほど多数の学生や生徒やその他の人達の、時間と、声量と、市民の呵責された良心の分量とによって、どのくらいの義金が集まるものだろうか。それを相当正確に知ることが出来るとしたら非常に参考になることと思う。こういう仕事に当っている人達はあまり内容を吹聴したがらないようだが、いずれ都合のつき次第、査べて見たいと思っている。
 ところで、新聞社の方は、殆んど毎日、自分の社に集まった義金の決算報告を出している。これによると、たとえば、『東京朝日』と『東京日日』とは、十一月末に、どれも二十四、五万の見当であるらしい。この二社だけ合わせても五十万円になるから、他の各社の分を通算し、街頭の分をこれに加えれば、まず少なくとも百万円には間違いなくなるだろう。仮に百万円として(否五百万円でもいい)、百万円(或いは五百万円)といえば実に大した金額だが、しかしこの際、考えようによっては全くの小さなはした金だともいえないではない。
 吾々無産者は、とかく貧寒なわが一身に引き当ててものを考えるから、この金額も大したものに見えるかも知れないが、しかし東北の凶作問題は決して、そんな風に個人を中心として考えるべき個人的問題ではない。無論国家的な問題なのだ。だからこの種の金額も国家的なスケールにおいて評価されなければならない。
 もし是非とも、個人のスケールで考えて見たければ、少なくとも三井や岩崎といったような大個人を尺度にしなければ、この国家的スケールにそぐわないのである。そこで一体この金額は、国家財政からいって、どの程度の意義を持っているか。
 予算閣議で決定したところによると、九年度の「災害費」は約七千万円、十年度のは約六千四百五十万円、十一年度以降は約七千四百八十五万円見当である。総額二億九百六十余万円だが、さし当り問題になるのは九年度分と十年度分とである。例の庶民の零細なポケット・マネーから成り立つ金額に較べたら、多分これは桁が一つ違うに相違ない。つまり予算閣議における各相の駆け引きや政治的手腕一つによって、どうにでもなる程度のはした金に過ぎないのだ。
 ところが十年度の国家の全予算そのものは約二十二億に上るのだから、それに較べたらこのポケット・マネーの総額は、一千分の一のダイメンションにしか過ぎない。青森、下関間を約一千マイルと見れば、これに対して日比谷公園と芝公園との間を数回往復する程度のスケールなのだ。この災害費そのものが、十年度の分だけを取って見ると、全予算の三十分の一以下(三分以下)なのである。
 われわれは別に、大蔵大臣の「健全財政」に誠意がないといって非難するのではない。なぜなら財政のことだって、決して全部が大蔵大臣の方針で決まるものではないからである。国家は陸海軍合わせて十億二千万円余の予算を必要としているが、これは全予算の四割六分五厘に相当する。あまりの五割三分五厘だけが大蔵大臣の自由になるのである。だからつまり蔵相に対しては、問題はこの五割三分五厘のうち、なぜ三分足らずのものしか十年度の「災害予算」に計上しなかったか、という点に横たわるに過ぎないようなわけである。
 この要点を無視して、藤井蔵相の予算の膨大化などを非難するものがあるとしたら、それは結局客観的にいって、単に軍事費の全予算に対するパーセンテージを引き上げることを要求するものに他ならないだろう。この程度の軍事予算は無論絶対に必要である、それにしてもかくの如き膨大なる予算は何事ぞ、というのが現下の多くのリベラリスト予算批評家のロジックなのだが、それは今いったような要求以外のものになるものではない。こうした批評に関わりなく、災害予算は依然として六千万円程度であり、軍事費はその十五倍あまりなのである。――だが災害費と軍事費とのこの対比については一つの解釈がありそうなので、これは後に回そう。
 国民同盟ではこの予算案を次のように批判している。「陸海軍が国防上の責任を尽す必要上それだけの要求をなすことは当然であろうが、その得たる軍事費は国費総額の約四割六分強に当る、国防のみを如何に充実し得たとしても非常に困窮している国民の現状を救済し能わずして果して国防に欠陥なしといい得るや否や」云々。では大いに総予算を拡大しろというのかと思うと「藤井蔵相の主張する一億円逓減の健全財政主義は破綻を生ずるに至った、従って増税の意義は非常に滅却されたことになる」というのである。
 軍事費はあれだけ必要で、農村救済ももっとやるべきであり、しかも全予算はもっと縮小すべきだといったような口吻である。もしそうでないというなら、これはただの増税反対説にしか過ぎないだろう。農村救済に興味を持っているのかと思ったら、軍需工業家の救済(?)に興味を有っているような口裏だ。
 政友会(大口喜六氏)の批評はしかしモット判然としている。「国防は軍備許りではない、軍備の充実と同時に国内産業の発展が必要であるが、この予算ではその間において偏形偏重の事実を現わすのみならず、寧ろ産業の発達を阻害し地方経済界を圧迫するの結果となること明瞭である」と。これによると政友会では、農村救済の代りに「国内産業の発展」が問題だと見える。そしてここで「地方経済界」というのは地主的産業(?)の発展のことである。だが政友会は本当に軍事予算を削れと要求する気なのか、それともまた予算総額をもっと膨大にしろという気なのか。予算総額を大きくするためには公債の増発か増税によるほかないのは当然だが、その点はどうなのか、この点になると一向ハッキリしなくなるのである。
 この点民政党(小川郷太郎氏)も大差がない。「一方風水害、旱害、冷害、水害等の災害によって国民はもがいているのであって、国家はこれを救済せねばならぬ立場にあり、この災害救済費と軍事費とを対比して、その配分が妥当であるか否かということも予算批判に際して考えねばならぬ」というので、軍事費災害費とを正直に対比させてはいるのだが、一体この総予算額の範囲内で配分を変更しろというのか、それとも総予算額そのものをもっと膨大にして按分を公平にしろというのか、わからない。
 とにかく一方において総予算額に限度があり、他方において軍事費は絶対的(?)なのだ。「産業費」はまだしもとして、「災害費」などは単にこの二つの極の間の板ばさみにしかならぬ。――しかし軍事費はいうまでもなく侵略用のものではなくて国防上のものだが、少なくとも国民の生命の保証を外にしては国防の意義はあるまい。そう考えて見れば、「災害費」こそ最も即効のある国防費ではないのか。
 矯風会の久布白女史は、岩手県の「壮丁」の体格が三十三年度に全国で五番から三十四位に転落したのは、大正二年の凶作の影響であるとして、今年(三十四年)の凶作の結果が二十年後の「壮丁」の身体に悪影響を現わすだろうことを、軍国のために悲しんでいるが、なにもそう無理に軍事的にコジつけなくても、国民の肉体が食って生きて行けないこと自身が、国防の目的の正反対現象なのである。
 いずれにしても、膨大な軍事予算はブルジョア政党辺から非常に評判が悪いらしい。蔵相無能というところへ大抵持って行くらしいが、無論これは面あてで、女中が猫をしかるような意味だ。――ところが軍部にいわせると軍事予算の膨大に対する非難は、単に軍事予算というものの楯の一面をしか見ないところから結果するもので、決してそんなに財政上のただのマイナスではないというのである。
 今日の軍事費の大部分は、実は国内工業発達と物資開発とに向けられているもので、一つの「循環経済」を現出しているから、結局国民生活に還元均霑されているものであって、十年度の海軍予算五億三千十九万円(九年度分より四千万円多い)は、なるほど八八艦隊計画が行なわれた大正十五年のレコード五億二百十二万円よりも三千万円ほど多いが、当時に較べて今日は、国民所得と国富の増加、国民生活の向上、等によって国民負担はズット減っているし、それに当時に較べて国産による軍需品の自給自足の部分が遙かに多くなっているから、これは必ずしも財政上の実質的消耗の増大を意味するものではない、というのである。
 それどころではなく、これは例の農山漁村に労働の機会を与えるものなのだから、何より有力な失業凶作救済になるし、重工業・化学工業・の発展の原動力ともなるのだから、極めて生産的な予算部面ではないか、というのである。つまり軍事予算はそのまま災害予算の意義を持つというのだ。そうなると、災害費と軍事費とを対立させるなどは殆んど無意味に等しかったわけだ。でこれによってまた折角前に述べた国同や政友会や民政党の軍事予算非難は、一挙にして覆ってしまうわけである。例の「国防」パンフレットが経済政策の指導に乗り出したゆえんである。
 で今や軍部は、最も卓越した国家的実業家として、国営企業家として、群小私設実業家達を圧倒し統御することをもって、自ら任じているわけである。「事業」は、国家財政的規模を通じて、この最大の国営企業家の手によって独占される。軍事予算膨大の秘密は単にこれに過ぎない。例のパンフレットにおいて、比較的下手にいい表わされた軍部の意図の真理は、正にこれに他ならなかったのであって、世人これを称して国家統制経済ともファシズムとも国家社会主義(即ち国家資本主義)とも云ったのである。
 ここまで見透しのつかない資本家達は、軍需インフレは凸凹景気だとか何とかいって、無益にも天に向かって唾しているのだが、およそ「凸凹でない景気」(?)を産むような「事業」は未だかつて資本主義社会にはなかったはずではないか。こうした国営的大企業の、戦車の響きのような資本流通過程を目の前にして見ると、小市民のポケットをねらう街頭義金の悲愴な叫びも、何故甲高く弱々しいものであるかが腑に落ちるだろう。
(一九三四)


一九 統制主義の名目と実質



 全体主義の哲学は各国で流行のように見える。生物学関係の思想家がこれを支持しているのは方々で目立つ現象であるが、社会科学ではドイツのO・シュパンの『全体の範疇』などがまず代表的なものだろう。
 わが国でも日本主義や皇道主義の多少とも理論的な根拠は大概ここに帰着する。理論的な哲学の内で無理にこれに相当するものを求めれば、東北帝大の高橋里美教授の『全体の立場』というものもある。もっともこれは日本的ファシズムと直接には関係していないのであるが。
 だが全体主義の全体主義たるゆえんは、単にそれが部分主義とでもいうべきものの、反対の立場だということではない。もしそうならば誰が一体全体主義者にならないものがあるだろうか。全体主義が今日意味を持っているのは社会における各種の(個人同志のまた階級層間の)対立をそのまま払拭することが、都合の好いことで、従ってまた善いことだという通念が、そういう常識が、一般に行なわれているという事実に基いてである。
 今日わが国では各種の統制主義が世間的に評判がいいようだ。統制主義に反対するものは一種の利己的な反動家だとさえ考えられているようだ。こういう統制主義の評判の良さの裏には、全体主義なる常識通念が控えているのである。だから統制主義はもはや決して一経済政策上の問題ではなくて、一種の社会倫理の問題となっているのである。そこには統制なるものの実体と統制なる観念との、社会的有効さがあるのだ。それを説明しよう。
 六十七議会の政府提出による農業関係の統制法案は、米穀自治管理法案、米穀統制法案中改正法律案、籾貯蔵助成法案、産繭処理統制法案、蚕糸業法中改正法律案、肥料業統制法案、その他であったが、いずれも審議未了に終ったことは人々が注目する通りである。
 たとえば米穀自治管理法案については、米販売業者の猛烈な反対運動があったので、それが議会に反映したのだともいっていえないことはあるまいが、併し他方においてはこの法案には全国農村産業組合の熱烈な支持があったことも同様に事実だ。産繭処理統制法案についても、産業組合乃至全国養蚕連合会の促進運動が行なわれたことを見落してはならぬ。にも拘らずいずれの法案も握りつぶされてしまったのである。
 ところでこの種の農業関係統制法案が、農林省の産業組合助長の方針と直接関係あることはいうまでもない。そこで時の山崎農相は、後藤前農相以来の産組第一主義をすてて、産業組合は中小商業の配給機能をまで蚕食すべきでなく、商業組合乃至同業組合と折り合うべきだ、と声明するに至った。これに対して、農業統制諸法案の失敗は同時に産業組合の危機なのであるからこの諸法案をめぐって産組側の自己主張が高められたのも当然だ。
 最近中央会から発表されたところによると、産業組合の階級構成で、地主と自作農とが圧倒的な優勢を占めていることが具体的に証明されたのであって、これを百分比で示せば、
       地主  自作  自小作  小作  其の他
組合員数    五  二四   三八  二一   一二
所有田畑   三一  三八   二六   二    三
耕作田畑    八  二八   四二  二一    一
出資総額   一五  三三   三一  一二    九
貯金     一六  三五   二八   八   一三
貸付金    一二  三三   三五  一一    九
販売額    一八  三三   三四  一二    三
購買額     六  三二   三九  一七    六
利用数     八  三一   三七  一七    七
組合員数ママ   三六  四八   一一   〇    五

ということになるという。後藤前農相のいわゆる新官僚が産組第一主義と農業統制諸法案とでもって手に入れようとした階級が何であるかがわかるが、実際農村の「自力更生」もこの地盤に立って初めて一応観念上の意味を持つことが出来よう。現に東北地方農村工業振興費によって農村共同工場が五六十カ所設置されるそうだが、その経営主体は矢張りこの産業組合ということになっている。
 ところがこの新官僚的中農主義が議会によって、所謂中小商業者の利益の保護の側へ、多少移行したという現象を呈したと見做される。政友会の議会政治上の駆け引きなどは大した社会的意義のある動因とはなり得ないから、結局において中農主義的統制主義の修正が起きたのだということになるのである。
 だが所謂中小商業者ということが実は眉唾ものなのであって、例えば蚕糸関係統制法案で一等損害を蒙ると考えたのは他ならぬ製糸業資本家だったのだし、それに米商人だって果して中小商業者につきるかどうか疑問なのだ。
 統制法案の通過しなかったことによって利益を受けるものが、いわゆる農村商人だという結論は大部分割引きされねばなるまい。でつまり、農業統制法の不通過と産組主義の放擲とによって移行した利益の終局の落ちつく先は、大体農業産業資本家、乃至農業金融資本家の手の中ではないかと考える。
 一体ファシズム政策の一種としての統制主義は、大衆の利益の保護ということをその社会倫理的な名目としたのであったに拘らず、実は農村の貧農大衆の利益とは何等の実質的な関係があったのではなく、殆んど全く自作小地主以上の「農村」を保護するものに過ぎなかったが、それが今度はも一つ上の農村による産業乃至金融資本家、の利害に落着するためには、例の統制主義はかの倫理的名目などはかなぐり捨てて、統制主義の本質であり実質的な目的であったところの資本独占のために、その身を犠牲にしなければならなかったのである。
 ここにおいては統制主義は、名目と実質とに分裂する。それは新官僚乃至軍部とブルジョアジー政治家との外見上の対立と、前者の多少の譲歩とになって現われる。ところがこういう外見上の対立を通して一目散にその実質上の目的を追求することが、真の統制主義の真理なのである。
 同じ関係は、工業関係の統制案(主に重要産業統制法)について、もっとハッキリと見て取れる。この法案が、一方において、資本主義の独占化を促進するものであることはいうまでもないので、資本家は過去数年間を通じて自分自身または政府を介して、この目的を可なりの程度に実現したのであるが、しかし他方においては、この法律は大衆の利益に独占資本を奉仕させねばならぬという社会倫理上の名目を持っていた。つまり資本家の自由競争による損失を防いでやる代りに、生産品の価格を下げろというのである。
 ところがこの法律の実質を、これまでにすでに充分利用しつくした産業資本家は、もはや独占の鞏固さに自信をもった以上、この法律の倫理的名目がその営業に実質的な影響を与えるというナンセンスに我慢出来なくなって来た。で、三六年五月で期限の切れる産業統制法は、頓に経済連盟あたりで評判が悪くなって来たのである。統制というものの持つ名目上の倫理的な評判の良さは、いつでも統制の実質的な目的の前で、涙を振るって犠牲にされるのだ。
 ほぼ、同じ矛盾、統制の良い名目とあまり良からぬ実質との行き違いは、通商統制にも現われる(通商審議会)。対蘭印綿布輸出割当の件をめぐって、輸出業当事者と産業組合乃至紡績業者との抗争などが動機となって、商工省や外務省の統制主義は、反省を促されようとしているのである。
 以上は経済上の統制についてであるが、次に政治上の統制になると、事情は多少異って来る。というのは一つには政治プロパーについては、統制という言葉は現在用いられていないし、二つには政治的統制と見做されそうな議会政治掣肘主義に限って、経済の場合でとは異って、それほど無条件に良いものとは通念されていないからだ。
 つまり議会政治については、自由主義者は、経済面においてよりも、容易に自分に有利な大義名分を見出し得るのである。議会政治も一つの上部構造としてのイデオロギーであるということから、これだけの相違は当然出て来る。
 だが事実ここでも統制は今現に行なわれようとしている。経済面における(主に農村経済を中心としてであるが)統制主義の立場を従来通り厳守出来なくなった後藤内相は、その新官僚の地盤である農村工作の代りに、今度は新官僚そのものの政治工作に眼を転じた。それが内閣審議会あるいは少なくとも調査局の計画なのである。
 調査局自身は内閣の更迭とは関係のない恒常機関であるから、広義における行政専門家をここに集めることが出来るし、かつ代議士は官制上これに這入ることは出来ないから、結局なんといってもこれは官僚の溜りとなり、しかも恐らく各省官僚の総合的な溜りとなるだろう(だから内閣資源局と合併しろという説も出た)。しかもここで調査審議された政府案は、エッキスパートの研究報告として、素人の集りである議会に単に諮問され賛成を押しつけるに過ぎないような形になるから、これは議会政治の実質的な虚脱機関に他ならず、従ってここに新官僚の参謀本部が出来るわけだ。
 ところが政党政治家乃至ブルジョアジーが、口に立憲主義と政党政治との神聖を唱えながら、この議会政治の実質上の虚脱の企てに対して、少しも本質的な反対をしなかったことは、注目に値いするのである。なるほど政友会などは、これを政府が弱体をつくろうために挙国一致の外見を与える口実に過ぎぬと見て、絶対反対したりまた少し反対して見たり、または内々審議会入りをしたがったりしたらしいが、それは決してこの審議会制度という点に対する反対からではない。
 ではなぜ彼等政党人がこの議会統制に対して、農業統制諸法案に対したように、消極的にさえ抵抗しなかったかというと、それは全く、幸いにしてそれが統制という名をもって呼ばれていないからなのである。ここで彼等が危惧するただ一つのことは議会統制という名目なのである。統制なるものが一般に如何に評判がよくても、政党屋である彼等にとっては議会統制という言葉に限って味方にしては都合が悪いのだ。
 産業資本家は経済面において、統制というかの社会倫理に食ってかかることによって、初めて統制主義の実果を収めることが出来た、政治家は政治面において、幸にしてこの社会倫理に食ってかかる必要なしに、一種のファシズムに参画することが出来る。
 最後にいわゆる文化統制であるが、ここでは統制主義の名目と実質とが、甚だ都合よく一致するのである。正しい国語のための国語統制(「国語審議会」)や邪教取締りのための宗教統制(統一的な「宗教法」)に苦情のあろうはずがないように、国民精神と人格の製造のための青年学校による教育統制(文政審議会で決った)や、忠良なる思想のための言論統制と学術統制(改正出版法・治安維持法改正計画等)、国家に有益な文芸製造のための文芸統制(日本文化院の計画其の他)などに、ブルジョアジー・軍部・新官僚・の誰が一体反対するだろうか。
 政治統制においてはいわば観念的にいがみ合い、さらに経済統制には実質的にいがみ合わねばならぬように見えたこの一連の為政者達は、文化統制のこととなると、急に互いの肩をたたいて相和するのだ。経済面や政治面における自由主義者はここまで来ると忽然として反自由主義者に、つまりファシストに、なるのである。だから私は、ファシズムの争い難い領野はイデオロギーの世界だというのであり、ファシズムの特質はイデオロギー的な点にあると、かねがねいっているのである。イデオロギーほど自由に見えて、イデオロギーほど統制しやすいものはまたとないのだ。
 ところが統制の圧力を専ら身に受けなければならぬ社会層からいうと、統制主義の名目と実質とが一等足並みを揃えてひた押しに押して来るのは、他ならぬイデオロギーの世界においてなのである。経済面や政治面において、統制の名目と実質との拮抗が少しくらいどう押し合おうとも、つまりは統制の圧力を一身に受けねばならぬ者にとっては、それは大した問題でないのだ。統制主義は、社会を実質的に救済するためではなくて、これを名目上において救済するために、社会で善しとされ、社会で重宝がられているものなのだから。
(一九三五・四)


二〇 国民生活の安定とは何か



 一九三六年九月税制改革案が公表されて大きなセンセーションを巻き起こした。併しセンセーションと云ってもそれを起こす人によって、夫々別な感動なのだ。農民は農民、労働者は労働者、小商人、サラリーマン、文化人、夫々別な角度を以てこの案を迎える。官吏、軍人、政治家、資本家などは又之とは愈々以て別な視角を用意している。例えば当面の責任者である馬場※(「金+英」、第3水準1-93-25)一蔵相は、「国民負担の不均衡を是正致し直接間接に国民生活の安定に資する」ことになると云っているが、国民の方は、この増税によって直接間接にその生活の安定を得るだろうとは到底考えられないのである。国民が平年度約三億円の増税を課せられることによって却て自分の生活が安定するということは、国民にとってはどうしても納得が行かないのである。
 すでに国家の蔵相の見解と、人民の見解とがこれ程お互いに食い違っているのだ。併しこんなことを考える人民共は、偶々都市の住民の視角に立つ者でしかない、と云われるかも知れぬ。なる程一応、農民の場合には必ずしもそうは考えないでいいようだ。従来市町村税として、と云うのは要するに農村に於てということだが、一億三千万円に上る戸数割が課せられていたが、今回夫が思い切って廃税になった。之によってすべての地方財政の「弾力性」とかいうものが著しく限定されて了うわけだが、この弾力性の喪失が潮内相の云うように地方財政の合理化であるのか、それとも改悪であるのかは、農民自身にとってどうでもよい閑問題だ。そういう興味とは関係なく、戸数割のなくなったことは、農民の「生活安定」から云って、全く大いに喜ぶべきことなのである。少なくとも之によって、「農山漁村」住民大衆の負担は著しく軽減される筈だ。
 尤もこの戸数割なるものは、恐らく最近では極めて納入不良な市町村税であったろうから、実際上は大して農民生活の安定や負担軽減にはならぬかも知らぬが、役場の吏員が執達吏代りに喚いて歩く必要の類は、之によって軽減されるだろう。
 戸数割全廃ばかりでなく、家屋税に就いても地方の税率は都会のに較べて著しく引き下げられるということもあり、其の他其の他を合わせて約三億円足らずの地方住民の負担が軽減されるのだから、他の点は別として、この限りでは農民にとって悪くはない。農村の小学校の先生達も俸給全額を道府県から貰うことになるから、まず今迄のような不払いの心配はなくなる。
 こう云っても、農民の一等困っている点は税金よりも他にあるのだから(小作料・農業生産上の前借乃至借金・土地や建物担保の流れなど)、税金の軽減は決して生活の積極的な安定などにはならぬのだし、それに三億円に近い地方財源の失われたものを国庫が交付金として負担するからと云っても、その全額分が農民プロパーに対して軽減されるわけでもない。一口に農山漁村の住民と云っても、地主や山持ちや網持ちの有力な分け前が這入っているのだから。
 なる程国民と云えば貧農も地主もルンペンも資本家も一緒くたに数えられるわけだが、併し国民という以上国家という機構のことではなくて、一人々々の人間のことなのだから、どうしても数で行かなければいけない。すると国民という大多数の大衆に就いては、地主や資本家などを標準にすることは出来ない筈だ。で、農山漁村に住む国民の生活安定というのも、負担軽減というのも、その額が正札通りには通用しないわけだ。処がこの際、どうも財政家などは、農民の負担と農村の負担とを、同じに考えているような気がしてならぬ。
 それはとに角、農民をも含めた農村にとって、今度の税制改革は先に挙げた件に限っては良いことに相違ない(但し産業組合などは他の件から見て大いに不満がっている)。処が農山漁村に対立するとかいう都市に於てはどうか。第三種所得税の免税点一千円への引下げを初めとして、織物、砂糖、酒、ガソリン、印紙、煙草、等々の消費税其の他の実質的増税、之は一般大衆への増税加重ではあるが、事実上主に都市住民への負担加重を意味している。インフレーションによって物価と収入との間の落差が生じる処へ、直接の増税と増税負担の消費者への転嫁とが来る。商工業者にとっては別にもっと大きな損失があるが、夫は別として、この一般的大衆課税の圧力を最も代表的に受けねばならぬ者は、云うまでもなく都市を中心とした労働者階級である。
 軍需工業の好況によって労働賃金が騰貴したなどと思うならば、それは大きな間違いである。今年三六年七月の実質賃金指数は大正三年以来の最低記録を示している。昨年一年の実質賃金総指数は一四一・七で、それが今年の一月には一三九・二に低下し、この七月には更に一三七・〇に降っている。恰も大衆課税は、労働者層(之はやがて一般勤労者にも及ぼされるべきものだ)のこの生活不安定化の上に、墜下されるわけだ。処が之が馬場蔵相の所謂「負担不均衡の是正」であり、そして「国民生活の安定に資する」所以のものなのだ、というのである。
 かつてこういうおとぎ噺しが行なわれた、農山漁村は都市に富を吸収されるので窮乏するのだ。だから都市と農山漁村との利害を平均さえすれば、社会は良くなるだろう、と。之は社会の経済機構の本質に根本的に無知な或る一部のセンチメンタリストの世迷言だとばかり私は思っていた。事実最近ではこの一部の人間達も都市対農村などという社会対立政策論は捨てて了って、専ら挙国一致、国防至上、の論に没頭している。処が、今回の税制改革案によって、計らずもこの農村対都会の社会政策理論が財政技術的な権威の面をつけて、再び現われて来たのを見るのである。
 農村対都会は、財政学的には地方対中央と呼び直される。課税負担の上に於ける地方と中央との間の不均衡是正は確かに財政技術的に尊敬すべきことなのだろう。だがこの均衡の結果(?)として生ずる全体で三億円の負担激増が、なぜ現代社会相の根本である国民生活不安定の、是正になるのだろうか。
 尤も国民生活の安定ということが、国民の軍事的な安全感という一般感情みたいなものを指すもので、国防の安定とそのための財政強化自身をこそ意味するのだ、とでもいうならば、又何をか云わんやだ。
(一九三六・九)

〔付〕日本思想界の展望
     ――一九三六年の哲学科学について――



一 概観


 一九三六年(昭和十一年)に於ける日本の学術界を概観するに先立って、この概観が立脚する観点をまず明らかにしておかなくてはならぬ。吾々は今科学という言葉をその最も正当な意味に於て、広く学術として理解しようと思う。必ずしも自然科学に限定せず、哲学、社会科学乃至歴史科学、又芸術理論をも之に含めると共に、特に自然科学其の他に就いては、生産技術との関係も亦無視することの出来ない建前にある。
 だがそれと共に、吾々の概観の目的は、各専門分科の学術領域に於て夫々意味を有った労作に触れることには必ずしも存しない。それはこの年報が企て及ぶ処ではない。吾々が目標とする処は、広く学術界にぞくするテーマの内、特に夫が思想的な意義に富むものと認められる側面を記録するに止めることにある。之は「概観」の場合特にそうあらざるを得ない。従って一九三六年の「科学」の概観は、一九三六年の「文化」の概観とあまり別なものではなくなる。蓋し科学乃至学術は、云うまでもなく文化の中軸であり、現代思想の推進中枢の位置を占めている。科学乃至学術の記録を抜きにして今日の文化を記録することは不可能であるが、逆に又、文化を記録するためでないならば、学術乃至科学に就いての年次的記録はその意義の大半を失うだろう。
 地理的制限の上から云えば、この概観は主として日本乃至日本文化圏に限られている。尤もそれの参照として、出来れば世界乃至外国の、学術文化情勢を引き合いに出す。勿論日本は世界の一環であり、世界という連鎖を脱しては遂に何物も理解出来ないだろう。日本の文化情勢は、日本の社会情勢がそうあると同様に、否それ以上に、外国乃至世界の文化事情と密接な関係を有っている。外国乃至世界の文化事情と対比するのでなければ、その際立った意義を理解出来ないような問題は、数限りなくあるわけだ。
 時間的制限から云えば、一九三六年の始めから終りに至るまでの問題を取り扱うのがこの年報の本来であるが、併し概観に於ては厳密にそうばかり限定することは、色々の意味で出来ないし、又すべきでもないだろう。最近数年来の日本の文化事情がまず解説されねばならぬ。
 さて最近数年来の日本の文化事情の特色は、社会事情の日本特有な型に於けるファシズム化に基く文化の日本型ファシズム化にあることは云うまでもない。日本に於ては、ファシズムという国際的カテゴリーが日本固有の条件と形態とを持っており、それが右翼乃至国粋反動的な各種の日本主義となって現われる。それが如何なる名称と内容との変遷によって今日落ちつく処に落ち付くに至ったかは、今は説かないとしよう。哲学に於ける日本主義は国学的・農本的・東洋主義的・精神主義的・又ナチス的・等々の試作品を産んだが、この一年間の傾向は、そうした露骨な体系を特に表面に出さぬようになったと共に極めて間接な表現をさえ取るに至ったが(風土論の如き)、文化理論其の他に次第にその傾向が浸潤し始めている。蓋し一九三六年の二・二六事件に於ける右翼分子の行動形態そのものが、露骨な暴力性発現の絶頂であって、その後日本の右翼乃至反動的活動はより平和的な形を取るようになり、同時に夫が官憲的乃至社会官憲的な転向政策と精神を一つにし得るようになって来たので、もはや日本主義は従来の露骨な相貌を必要としなくなった。それと共に、日本主義は一歩原則的領域に踏み込んで、各種の民族主義説の形を取るに至った。之が一九三六年度の日本文化情勢の根本特色である。
 民族主義は、文化の何等かの積極性という口実の下に、民衆に対する説得力を確保しようと企てている。日本精神文化研究所は最近殆んどその対社会的活動を停止しているが、その代りに、半官憲的な勢力としてのこの日本民族主義理論が台頭して来た。之は哲学や社会科学に於てよりも寧ろ、文芸理論や文化理論に著しい。自然科学も亦、日本的テーマを尊重するという仕方に於て、日本民族的条件を考慮すべしとするものも少なくないが、単にそれだけなら之は初めから当然なことで、強いて民族主義に数えることは出来まい。
 之と平行して文化弾圧と文化統制とは愈々着実に進行しつつある。左翼理論家の代表者達と目された山田盛太郎・平野義太郎・其の他はこの年度内にその自由を奪われ、社会科学・歴史科学・の科学的研究は陰に陽に益々抑制されて来た。知育偏重がいけないという当局の文化政策も強調されるようにさえなって来た。之に対して田辺元は「科学政策の矛盾」(『改造』)によって有力な反駁を試みた。知育を拒むことと学術の奨励との明白な矛盾をついたものだ。十一月の文部省思想局に於ける日本文化教官研究講習会に於ては、自然科学教育の本義としての日本精神を検討したが流石に結論は見出されず、単に自然科学と日本精神とが矛盾しないということに落着したにすぎない。多少とも科学的精神を守っていた評論雑誌・新聞・は種々の口実の下に廃刊を余儀なくされた(『社会評論』・『文学評論』・『歴史科学』・『サラリーマン』・『大衆政治経済』・『労働雑誌』・『時局新聞』・等)。そして他のものには検閲を恐れてみずから言論の自由を抛ったかに見えるものが多い。その時小倉金之助は自然科学者の批判的任務について、影響に富んだ論文を発表した。自然科学者乃至科学者の結合団結の必要を説いたものである。
 非科学的・非理論的・な文化が之に反して、各種の形態の下に極力奨励されているのは勿論であるが、それと平行して、国家は、主に軍備上の要求に基いて、科学的研究(主として自然科学=技術学である)の国家的統制・総合・の意図を持っているように見える。電力民有国営案の一半の意義もそこにあったが、内閣調査局は総合科学研究所の創設を企図する意志をもらしたこともあるのである。実際を云うと、「知育偏重」反対論や科学精神否定論や祭政一致論に至るまでの、科学的精神に対する弾圧は、広義の軍需科学にとっては、一般の他の科学と較べて全く反対の効果を有っている。と云うのは軍需技術に関する自然科学は多少ともこの文化抑制に平行して却って奨励されているからだ。兵機関係の工場・研究所・教室・の活動は著しく気負い立っている。日本の文化自身が今や、特に一九三六年度、云わば跋行景気に[#「跋行景気に」はママ]這入ったのであり、そして一九三七年度はこの傾向を益々強めるに相違ない。

二 日本のアカデミーに於ける自然科学の近況


 自然科学の目的は云うまでもなく国防の手段などにあるのではない。本来の意味に於ける社会的生産、従って又本来の意味に於ける生活上の消費、に利用されるべき目的を持っている。だから之を特に軍需的尺度の下に奨励したり保護したりすることは、その限り自然科学の発達自身を不具にするものに他ならない。だがこうした内部的矛盾にも拘らず、外見上日本の自然科学の現状は、却って之によって相当盛大に向かいつつあるというのが事実だろう。尤も外国の情勢に較べて可なり見劣りするのは何と云っても軍需主義的偏向が、決定的な患いをなしているのだが。
 今日本の最近の自然科学界の事情を示すために便宜上左の文章を略々全文引用しよう(「日本科学界の現状」――会田軍太夫『セルパン』一九三七年二月号――但し多少字句の変更を加える)。
 去る(一九三七年)一月二十一日、日本学術振興会第五回総会で長岡半太郎博士はこの国の学術研究が振わない原因を述べて、科学者に猛省を促しているが、資本主義先進国の急速な発展にやっと追いついたこの国の科学界に、科学研究の不振が叫ばれるのは致し方ないが、しかし、最近、非常に多くの各専門分科の研究業績がなされつつあるに拘らず、尚且つその不振がいわれる所以のものは、なんと云っても財界が学術研究を重要視してくれぬためだ、と博士はいうのだ。多少でも寄付された金があって、それで世界の大勢を支配するような研究でもしていたら、財界はどんどん寄付もするだったろうにというのらしい。だから日本の科学者は、僅少の寄付からでも、先ず切磋琢磨して世界民衆の大勢を支配する業績を挙げようじゃないか、というのだ。
 しかし、この国にも、かなり研究機関が備わってきている。各帝大の研究室ばかりでなく、それらに付設している研究所が、多くなった。伝染病研究所、航空研究所、金属材料研究所、地震研究所、化学研究所、温泉治療学研究所、癌研究所、地球物理研究所、火山研究所、その他が次々に設けられ、拡張されて行く。なかでも東北帝大付設の金属材料研究所は、本多光太郎博士の指導のもとにあって、強磁性(K・S磁石鋼)の研究では世界的だ。強磁性と云えば、東大の三島徳七博士のM・K磁石鋼の研究も有名なものの一つだ。尚、天文台、中央気象台、海洋気象台、木村博士のZ項発見で有名な緯度観測所などがあり、財団法人では科学と生産と技術との関連のもとに活発な業績を挙げつつ発展している理化学研究所が最もすぐれている。その他、塩見理化学研究所、徳川義親侯の指導下にある生物学研究所、最近、倉敷から東京に移って一飛躍を試みようとしている暉峻義等博士を所長とする労働科学研究所、新城新蔵博士を所長とする上海自然科学研究所など、更に帝国学士院をはじめとして、学術研究会、日本学術振興会、啓明会、その他の団体から学術研究奨励のための寄付があったり、価値高い業績には恩賜賞、学士院賞、メンデンホール賞、東宮記念賞、朝日賞などがあるので、なにはともあれ、この国の科学研究は多少なりとも活気を呈している。
 たとえば近時、異常な注目をひいて研究されだした宇宙線や元素の人工転換、人工放射能などに関する研究には大規模の装置が要るので、理研には三百万ボルト、阪大には六百万ボルトのイオン加速度装置が設けられているが、欧米諸国では既に、千万ボルトのものが設置されているのだから、少なくとも業績を先進国と同じレベルにあげるには、この国でも千万ボルト以上のものが必要な筈だ。だからその対策として、長岡博士を委員長として、「学振」の補助のもとに、理研内に欧米諸国と同等なイオン加速度装置を設けようとしている。それなどは確かに「学振」のおかげだ。かようなことからみても、長岡博士じゃないが、先進国と並んで行くには、どうしたって金が要る。だが、しかし学界は財界からの寄付だけを待っていてもいいものだろうか。もっと徹底的な科学的対策を講じなければ、いつになっても世界の大勢を支配するような研究がなされないだろう。理研や大資本ブロックの会社などにある研究所は、生産がともなうから、かなり楽だろうが、資本の豊かでない研究所や学校の研究室などでは大研究など夢だ。いくらこの国が英国や米国の富には比較にならないにしても、もっと科学的対策なり、科学政策をやったなら、なんとかなろうじゃないか。果していま、国の予算なり、財界の資本が正しい科学的国策で活用されているかどうか、そこに問題がある。もし、この国の科学界が金が少ないのでどうにも動きがとれないのなら、勿論、科学者の切磋琢磨や一意専心の努力も必要には違いない。科学者の猛省もいい。だが当局者の猛省も亦、要請されるべきだろう。だから科学者は、小倉博士が云う「自然科学者の任務」には、勿論反省するがいいが、一方当局者は、田辺博士の「科学政策の矛盾」に反省すべきだ。
 なにはともあれ、先進諸国がすでにファッショの嵐にまきこまれ、科学の国際性さえ否定されようとするのだ。だから近時、この国で科学的精神の高揚が叫ばれているのもうなずけるし、田辺、小倉の両氏の正論が問題になるのも、いまの現実であってみれば当然なことだ。そして、「科学者が科学の厳粛性について強い自覚があればある程、科学的精神への悟入も強く、客観的真実を探究することに人間活動の最高の悦びを感ずるのである。……この場合、科学者の眼は単に科学の一小分野のみを覗く専門家の眼としては存在しない。その心眼は自己を取巻く周囲の全体性ガンツハイトを遺憾なく見究める能力を発現する。換言すれば狭隘な専門家の眼から全世界の法則や機構が、その専門を通して生々と見据えられるのである」(「田辺元氏を語る」―『科学ペン』)。こういったイデオロギーが最近の個別科学者に要請されているといってもいい。この頃、石原純氏(「自然現象と社会現象」―『改造』)や、鈴木清太郎氏(「科学と社会認識」―『科学ペン』)、その他の人によって、個別科学理論(物理学理論)から社会現象への類推がなされているのも結構なことだが、類推は一応は譬喩として面白いに違いない。だがこういった機械的類推で、有機的「場」の全体性を「遺憾なく見究める」ことが出来れば幸だ。
 とまれ近時の科学界はあまりにこんとんとして多岐にわたっている。で、限られた面で見透すことは僭越だ。が、自然科学の、それも一小部分だけでも概観してみる。
 最近著しい勢で画期的な理論が次ぎ次ぎに出されたのは、なんと云っても物理学の世界だろう。一九〇〇年プランクによって量子説が唱えられ、一九〇五年にアインシュタインが相対論を発表してからというものは、実にめざましい変革がなされた。そして一九二四、五年頃からド・ブロイやシュレーディンガーによって、波動力学や、電子の活動性の提唱がなされ、また、ハイゼンベルクなどによって、量子力学や、不確定性原理が発表されたことは、この国の科学理論研究の高揚に影響を与えている。かつては、アインシュタインや、原子構造論で有名なゾンメルフェルトが来朝しており、また最近、ハイゼンベルクやディラック、ベック、ラングミュアなど、理論の権威がやってきて、生々しい学説を講演するのだから、この国の科学者たるもの、刺激されないではいられない。だから、理研に陣どって原子核や宇宙線、微粒子に関する尖端的研究をやっている仁科芳雄博士や、杉浦義勝博士、嵯峨根遼吉氏其の他の諸氏が躍気とならないではいられない筈だ。仁科博士は超ガムマ線吸収に関して、クライン‐仁科の式をつくった人だ。いまは阪大にいる菊地正士博士は、理研の西川研究室にいたとき、電子の波動性を実験的に立証したことはあまりにも有名だ。西川博士は、原子構造研究法に先鞭をつけた人で、「スピネルの原子配置並に歪を受けたる物体のレントシェン線検査に関する研究」で学士院賞をもらっている。その後、絶えず線によって生ずるラウエ斑点によって物質構造を研究していたが、その研究室で菊地博士が世界的な実験に成功したと云うのだから、うなずけるわけだ。菊地氏は、電子の集合である陰極線を、薄い雲母板を通過させて、回折像を写真にとったのだが、これはラウエ斑点が丁度X線の波動性を立証したと同じに、陰極線の回折が、電子の波動性を決めたのは面白い。デーヴィソン=ガーマー、G・P・トムソンによっても亦、電子の波動性立証の実験がなされた。最初のメンデンホール記念賞が、菊地氏の「電子の回折に関する研究」に与えられたのもあまりにも当然だ。
 尚最近、ジョリオ・キュリ夫妻の人工放射能物質の発見やその後の研究、中性子、陽電子の発見、ビータ放射能問題などに関連して、益々、核研究が尖端的な研究となってきた。また、アメリカのコロムビア大学のユーリ博士によって、普通の水素と同位元素である、原子量2なる、いわゆる重水素が発見され、カリフォルニア大学ルーイス博士によって、重水素を含む水即ち重水が作られてから、この国でも重水の研究が各所でなされている。とりわけ、北大の堀義路教授その他の諸氏が力を入れて研究しているし、昭和肥料会社の電解工場で作る重水は、ノルウェーの電解工場で出来るものより安価であると云うことだ。
 近時、化学は物理学とはその限界を定めるに困難な位い、物理学的研究方法を摂取していることは注目すべきだ。ド・ブロイによって発見された電子の波動性を利用してそれを物質にあてて生ずる干渉縞で、物質構造を調べたり、また合金の表面の状態や、接触作用なども研究している。X線だと物質の内部に深く入るが、電子線は深く入らないように出来るから、浅いところからの反射像によって、浅い場所の状態を験べると云う便利があるのだ。或いは分子に振動を与えて固有振動を起こし、それらのスペクトルを写真にして、それで物質の量や、その成分を見出す方法がフランスあたりで行なわれている。九大の西久光博士は、分子に光量子を衝突させると、その波長が変化する現象――ラマン効果――を利用して種々なる分子の構造を定めている。こういった分子構造の実験的研究に、東大の水島三一郎氏や、阪大の仁田勇氏その他の諸氏の研究もあって、注目されているし、分子スペクトルの研究では理研の高嶺俊夫、京大の木村正路、東北大の高橋胖、北大の堀健夫、東京文理大の藤岡由夫の諸博士などによって着々と研究が進められている。稀土類元素の研究では木村健二郎氏、稀有元素では和田猪三郎氏の研究、放射性元素の研究では吉村恂氏などが目立つ。放射能の研究に関しては、いまは亡き東大の木下秀吉博士によって開拓されたことを忘れてはならない。博士は両眼を病む程に、放射研究に一生を捧げた人なのだ。
 光スペクトルの研究では長岡博士は権威だ。幾多の業績がある。光の応用としては理研の辻二郎博士によって開拓された、光弾性の研究が有名だ。材料強弱学の問題だが、材料にストレスが加えられたとき、そのストレスの伝播の模様を写真にしたり、映画にしたりして研究するのだが、辻博士は、特殊な材料(フェノライト)によって、ポーラロイド偏光板により生ずる偏光を用いて光弾性縞や、等傾曲線などもしらべた。昭和八年「光弾性の研究」で恩賜賞をうけた。
 写真といえば、テレヴィジョンも最近発達の段階に入った。この国では浜松高工の高柳健次郎教授が、この方面の権威だ。氏は、昭和三年頃からテレヴィジョンの研究に従事しているが、昨年、英国の青年発明家ベアド氏が公開実験をしてから、この国でも一般の関心をひくようになった。早大、逓信省電気試験所、東京電気株式会社や、日本放送協会などでもその実現化に努力している。そして各国でも(米国のR・C・Aビクター会社、英国のマルコーニE・M・I会社、独逸のテレフンケン会社、その他ソヴェートの研究所など)、最近発明された電気的送像器(アイコノスコープ)の研究に競争的だ。その完成はテレヴィジョンの一般実現を容易にするからだ。電磁波の研究で、いわゆる超短波の研究も最近活発だ。宇田新太郎博士は昭和七年「超短波長電波の研究」で東宮記念賞をうけている。小幡重一博士の実験音響学の研究も有名なものの一つ。
 地震国であるこの国では、さすが、地震学に関する業績はめざましいものがある。震災予防調査会の後身ともいうべき地震研究所が設けられ、尚、東大の地震学教室、中央気象台、その他の人々によって、殊に関東大震災以来、その後各地に頻発した大地震毎に研究は益々深化し、発展していって、いまやこの国の地球物理学の権威は世界的になりつつある。ここ数年間の地球物理学に関して、恩賜賞、学士院賞、東宮記念賞などをうけた業績は十位いはある。故志田順、堀口由己、小倉伸吉、妹沢克惟、和達清夫、松山基範、坪井誠太郎、石本己四雄(地震研究所所長)、日高孝次(海洋気象台長)の諸博士の業績がそれだ。尚、長岡博士や故寺田寅彦博士の地球物理学方面の独創的な卓見は興味あるものだし、東大の今村明恒、東北の中村左衛門太郎、九大の伊藤徳之助の諸博士や、地震研究所の高橋竜太郎氏など、またこの方面の権威だ。気象学の方面でも亦、中央気象台長の岡田武松博士をはじめとし、藤原咲平博士、九大の鈴木清太郎博士、其の他の諸氏によって相当な業績がなされている。天文学に於ても、天文台の早乙女博士をはじめとし関口鯉吉博士、その他天文台の諸氏、並びに東北大の松隅健彦博士や、京大の山本一清博士、神田茂氏など、斯界の権威が相当に多い。
 理論物理学に於ては、あまり受賞的業績がない。古くは故日下部四郎太博士の『力学研究』や、石原純博士の『相対性原理、万有引力論及量子論の研究』などがあった。近時、量子論、相対論の研究が相当活発になったから、その方面で相当な業績が現われるだろう。広島文理大の三村剛昂氏などによって、「波動幾何学」が提唱され、量子論と相対論との結合を試みようとしているが、注目すべきことだ。
 自然科学認識論的方面では、近時、自然弁証法が注目され、田辺元、岡邦雄、石原純、その他の諸氏によって、特に物理学方面の領域との関連で研究が台頭している。かつての存在論的立場から唯物弁証法的立場をとってきた最近の戸坂潤氏の『科学論』も注目されていい。徳川時代の科学の考証乃至研究では、九大の桑木※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)雄博士、『日本哲学全書』編纂の三枝博音氏など、目立った存在だ。
 生物学方面でもまた、相当の業績が挙げられている。起こりは古いが(一九二四年頃)末梢神経生理学の問題に、慶大の加藤元一博士の神経不滅衰伝導説があるのはあまりに有名だ。昭和十年、世界生理学大会が「条件反射」で有名なパーヴロフを議長としてレニングラードで開かれたとき、「日本の学者のこの素晴らしい実験」が、世界の権威の前でなされ、「すべてか、無か」の標語を生んだとまで云われている。遺伝学方面に、京大の駒井卓教授の『双生児の研究』、木原均教授の『ゲーム分析』、『性の問題』、『ゲンの研究』があり、菊の細胞学的遺伝学の研究に下斗米氏がいる。広島文理大の平岩馨邦氏の無脊椎動物の性に関する研究も亦有名だ。東大の田中茂穂博士の日本産魚類の分類や牧野富太郎博士の日本産植物の分類――本年度朝日賞受領者の一人――も亦有名だ。九大の江崎悌三博士の『九州地方特にその離島の昆虫相の調査』には数年来、帝国学士院の補助をうけている。東北大の畑井教授のナマズと地電流の研究や、柘植秀臣氏の[#「柘植秀臣氏の」は底本では「拓植秀臣氏の」]の『神経液体説』に関する研究なども亦注目すべきだ。八木誠成氏の『超音波に依る家蠶寄生※(「郷/虫」の「即のへん」に代えて「皀」、第4水準2-87-90)阻の駆除法』に関する研究は、電磁波の生物に及ぼす影響に関するもので面白い。その他、北大の伊藤誠哉教授の『水稲主要病害第一次発生とその総合防除法』の研究は、生活に即した重要な研究だ。その他重要な研究が数多くあるが割愛する。
 医学方面の業績もまた甚だしく多い。矢追透武博士(伝研)の皮下種痘法の研究など有名なものの一つだ。新精製痘苗を皮下注射するもので、発熱期間少なく、痘根が残らずに、免疫効果が勝れており、従来の法規を改正することになったという。また、癌研究も画期的な業績を挙げている。近時は、タール中の癌発生物質の発見を目標として化学的方面の発展がなされている。人工癌生成に化学的構造の明らかな物質で成功した最初の業績は、佐々木隆興、吉田富三両博士のものだ。その他ヴィタミンの研究(理研の鈴木梅太郎博士その他)や、性ホルモンの研究(東大の緒方章氏その他)が、漸次盛んになっている。また、人工放射能物質の医療的方面の研究も台頭しようとしている。

三 現代日本に於ける自然科学の思想化的傾向


 右の引用は主に広義のアカデミーに於ける自然科学研究に就いてである。自然科学の研究が広義のアカデミーに根幹をおくことは当然な事情ではあるが、日本ではそのアカデミーの有力なものの大部分が官立乃至準官立のものであり、而もその大部分が軍需産業乃至国防と直接間接に関係の深いものであることを特色とする。前出の理化学研究所、塩見研究所、金属材料研究所、低温研究所、電気通信研究所、各帝大教室、其の他飛行機・電機・造船・の工場に付随している各民間私設研究所、の類がそれである。この日本の自然科学=技術学の軍事的(又官僚的)特色が、一方に於て他の諸科学に比較して自然科学=技術学の相対的な発達を招いているのであるが、他方に於て又その科学発達の内部的均衡を不具にすると共に、基本的な理論的実験的研究の広範な前進には必ずしも幸いしていない。その一つの現われは、少なくとも従来、自然科学に於ける諸分科の間の連関・諸科学の総合・に関する真に理論的な意識が、アカデミーの自然科学者に非常に稀薄であったということだ。
 処が最近、と云うよりも寧ろ世界大戦終了後の日本産業の好況と、無産運動の発育整頓と、ソヴェート・ロシアに於ける唯物論的新文化のイデーのすばらしい発達の直接影響とによって、マルクス主義乃至唯物弁証法の観念が、従来のアカデミーの自然科学者達の、社会意識ばかりではなく又科学意識そのものを震駭した。そこから自然科学の新しい意味での批判の必要を感ぜざるを得なくなった。科学諸分科の連関総合、科学の社会階級性、科学史の再検討、自然弁証法の反省、科学政策の問題、其の他其の他の関心がアカデミーの内部と、その周囲とに発生した。勿論このことは、決して日本だけの事情ではなくて一九三五年六月にはフランスのソルボンヌ大学に於て科学総合に関する国際会議第一回が開かれ、一九三六年六月にはコペンハーゲンで第二回総会が開かれた(ここでは、因果律を回って物理学と生物学乃至心理学との関係が討論された)事情は世界的である。この動向の動因の主人は、主に唯物論乃至自然弁証法の提唱者側にあるのだが、その反応としてのこの動向に棹さす[#「棹さす」は底本では「掉さす」]者は、科学者の社会意識から見て左翼から中間自由主義者を経て右翼分子にまで及んでいる。右翼的反響としての現象の一つは、自然科学(特に理論物理学)から各種の神学・神秘思想・非合理主義・を導き出そうとする自然科学者の出現であり、その例は日本でも決して珍しくはない。
 だが、とに角日本のアカデミー自然科学は啓蒙・通俗化・大衆性・の問題については全く無反省であったのだから、最近のこの動向は日本の自然科学界にとって、大きな動揺であると共に、又大きな変化であると云わねばならぬ。もし従来の日本の高踏派的なポーズに基く自然科学研究の実践の仕方をアカデミシャニズムと呼ぶならば、最近の動向は自然科学のジャーナリズム化の現象と呼んでも、理解出来ないことはあるまい。尤も従来の自然科学ジャーナリズムなるものは極めて低級な観念に基くものでしかなかった。之を真に科学の大衆性・社会性・又その歴史的役割の評価・其の他への省察という形に高めたのは、自然科学をして一つの生きた統一ある世界観・哲学・思想・の原理を求めさせた、例の最近の動向なのである。この一二年この動向は特に高まりつつあると云っていいだろう。最近の日本の自然科学のジャーナリズム的活動(そして之は自然科学の活動として重大欠くことの出来ぬ側面だったのだ)に就いては、次の引用が略々意を尽しているように思われる(永野繁二「科学とジャーナリズム」―『セルパン』一九三七年・三月号――略々全文)。
 最近、科学がジャーナルの上でとり上げられ、問題にされてきたのは、自然科学の専門的知識が、より深く正しく通俗化されてきたからと云うのではない。いわゆる科学の通俗化は、知識の啓蒙上、乃至教育上のことであって、科学ジャーナリズムが、殊に進歩的大衆によって、異常な関心を持たれてきたのは、実は、それが科学の科学批判であり、科学論であり、世界観の問題であり、思想であるからだ。思想は、実践を反映する意識であるから、やがて大衆の社会的実践、ひいては政治的問題にまで関連付けられる。この国の客観的情勢は、だから科学を正しいジャーナリズムに切迫させないでは措かないのだ。そして、科学知識の見世物的卑俗化ではなく、科学的精神の高揚ということで、科学認識論的問題、並に世界観の把握のために、良心的な科学者、乃至哲学者が動員されてきたとみられよう。かくて、科学の科学批判が、アカデミーでなく、むしろそれに対立しているジャーナリズムの側にたって、尖鋭化してきたことは注目すべきだ。尚、一流新聞が競って「科学欄」を設けているのは結構なことだが、それが単に科学知識の通俗化であるのは致し方ないとしても、ジャーナリストとしては、科学的精神の把握につとめるべきではなかろうか。
 かつて、アインシュタインが来朝した当時は、科学、殊に自然科学は、卑俗な物識り的な、断片的知識、さもなければ間違ったことを教えるだけにしか、ジャーナルの役割はなかったといっていい。正しいジャーナリズムの自覚など少しもなされていなかった。自然科学が一つのイデオロギーとして把握されない社会だった。欧米先進国にたちおくれて勃興した、この国の資本主義機構のもとで、殊に欧州大戦を契機として、発展を来した化学工業などの影響をうけた当時の自然科学者は、科学のよるべき世界観などに眼をむける余裕などありえなかった。――この間、社会科学は根強くジャーナリズムへ躍って行った――しかし、昭和四年頃から、ひとたび科学の階級性の問題が論議され(小倉金之助「算術の社会性」、「階級社会の数学」及びその他の諸氏)、ようやく自然科学が批判的にとり上げられるようになって、科学はジャーナリズムとして台頭したとみられよう。この国で唯物史観が自然科学の方法としてはっきり関心をもたれてきたのもこの頃だろう。
 戸坂潤が云うように、「科学は元来エンサイクロペディックな、世界観的な、要するに哲学的な、総合を仮定して初めて成り立つ」ので、科学は、「科学の批判にまで、そしてそれを通して一般の事物の理論的(哲学的とも云う)批判――評論――にまで根を下ろすことによって、初めて発生出来たものだし、又生長することも出来る」のだから、科学のジャーナリズムはあくまで科学の科学批判を通してこそ正しい発展がある筈だ。だから、近時とりあげられてる個別科学者の批判にしても、科学として発展するためには、あくまで科学的批判でなければいけないのだ。実際、大衆が科学者に待望していることは、科学者が科学批判をふりかざしてジャーナリズムに躍動することだ。でなければ相変らずジャーナリズムは、卑俗化に堕してしまう。幸い、数年前「岩波」から『科学』が月刊されるようになり、その「巻頭言」で、多少なりとも科学批判がとり上げられるようになり、殊に最近は科学のジャーナリズム、国際性の問題を論議しているのは注目すべきだ。また岡邦雄や、戸坂潤らが中心になっている「唯物論研究会」のグループの人々が、『唯物論研究』や、その他一般ジャーナルを通して、科学論、乃至科学の批判が溌剌となされ、自然科学を唯物史観、乃至は自然弁証法を以て把握しようとしている。ここにも亦、科学ジャーナリズムの文化闘争の歩みをみることが出来る。科学認識論として、自然弁証法が、形式論理に対して強調されることは、いわゆる弁証法的唯物論の自然科学への滲透であって、これは将来の研究問題なのであるが、あまりに分化的領域にたてこもっていたがために、より高い立場から、自己の領域をみようとしなかった個別科学者に対しては、この自然弁証法の台頭は、異常な反省を促した。石原純が、その近著『現代物理学』(『唯物論全書』の内)に於て、従来の物理学とは面目を変えて、認識論上に、とりわけ自然弁証法的理解の方法をもって、基礎的諸原理――仮想変位や最小作用の原理など――を把握しようとしているのは一進歩だ。科学史がまた、一つのイデオロギー、乃至は科学として、小倉金之助、岡邦雄、伊豆公夫、その他諸氏によって編まれつつあることは、この国で少しでも科学が人類の実践を通して、即ち、生産と社会歴史法則との関連をもととして、思惟されていることを立証するもので、科学思想発達の上に、いわゆる科学のジャーナリズムと、その大衆化のためによろこばしいことだ。
 最近、良心的な科学者によって、科学的精神の高揚が叫ばれているのも、滔々と迫るファシズムの嵐のなかにおいては緊要な現実だ。科学の民族性や、知識偏重論が横行する世間だから、科学の国際性を主張し、科学的精神の高揚を叫ぶ一部進歩的科学者が、益々ジャーナリズムへ傾いて行く情勢は、たしかに文化闘争が要請される客観的現実ではないか。田辺元の「科学政策の矛盾」や、小倉金之助の「自然科学者の任務」と云うような正論がヒットする自然科学思想の行詰りか、またはその貧困が、原因している結果なのだ。極言すれば、科学者の道が何者かの圧迫をうけているともみられる。「一方に於て文化科学社会科学に関する知識を制限して、知識の代りに情操と信仰とを鼓吹することを務めながら、他方に於ては主として国防充実の目的を以て自然科学の奨励に極力、力を致し」、「社会的現実の認識と批判とに導く理論の研究は極力これを抑止し、その理論的知識を出来る限り制限しようというのが」(田辺元)今日の政策の基調だとすればあきれる。こうした跛行性が今日の現実であれば、また科学ジャーナリズムも跛行的でしかありえないのだ。若し跛行性をジャーナリズムに於ても強要されるとすれば、ジャーナリズムは、最早文化的形態ではありえないだろう。科学のジャーナリズムが文化的である所以のものは、それが進歩的であり、科学的であり、随って指導的、啓蒙的役割を保有しているからだ。かく、科学的精神に滲透しているとすれば、跛行的になってはならないし、馥郁たるこの科学的エスプリは、「非礼的」権力や、圧迫と闘う情熱に燃えているのだ。ここにこそ文化的批判の重要な役割がある。
 最近目立って台頭してきた科学者のグループに、こういった文化的批評の把握に精進する傾向が著しいのは結構なことだ。「総合科学協会」、「科学ペンクラブ」、「科学文化協会」などのグループがもつイデオロギーには、と角の論議はあるにしても、しかしいずれも科学的精神の高揚、文化批判(科学)をモットーとしての活躍なのだ。その他、医学方面に於て、『性科学研究』がある。式場隆三郎、太田武夫その他の諸氏が活躍している。医学の社会政策では、「唯研」の宮本忍の活躍も目立つ。同じく「唯研」には哲学、自然科学、文化科学方面の科学批判に、岡、戸坂をはじめとし、永田広志、秋沢修二、篠原道夫、森宏一、今野武雄、伊藤至郎、石原辰郎、石井友幸、新島繁、早川二郎、伊豆公夫、その他新進気鋭の諸氏が、唯物弁証法の立場から、夫々科学批判に活躍しているのは刮目していい。その他、『思想』『理想』『科学』『綜合科学』『科学ペン』『科学評論』『東大新聞』その他の諸雑誌、著書で、科学の批判(科学的若しくは観念論的に)をやる人に、下村寅太郎、矢島祐利、桑木※(「或」の「丿」に代えて「彡」、第3水準1-84-30)雄、菅井準一、富山小太郎、西岡曳一、篠原雄、永野為武、吉田洋一、佐久間鼎、吉岡修一郎、佐藤信衛、早川庚弌、の諸氏がいる。
 篠原雄は「総合科学的立場」から、一般科学を総合統一して、総合化された科学を指導原理としつつ、「世界の科学者と科学的技術者とが悉くこの新しい科学的精神に燃えて団結し、再び強大なる自主的労働性を獲得し、更に人類大衆を正しい科学性に於て活性化し、その内部に蔵せられた巨大なるエネルギーを計画され統制されたるこの正しき科学行動へ」動員しようとしているが、科学のジャーナリズムへの展開とみられよう。科学精神の発揚であって結構なことだが、その指導原理は漸次、深化し発達させてほしい。一九三七年二月号の『唯物論研究』では石原辰郎が、『科学評論』では西田周作が、いずれも巻頭評論で、夫々の独自の立場から、篠原の論を批判しているのは、科学ジャーナリズムの進歩のため、お互い、慎重に、あくまで科学的に論議を闘わすべきだろう。およそ科学的精神とは乖離的な「知識偏重論」が、跋扈する折から、こうした科学論が、溌剌と進められて行くことは、科学が、はっきりと、ジャーナリズムに肉迫してきたともみられよう。
 武器は、良心的に、科学的に正しく用いれば、何事も静かに、啓蒙され、指導される。はげしい感情や、「宗教的」情熱? 乃至は非科学的行動が跋扈すれば、あらあらしい破壊があるだけだ。ペンは武器だ。良心的インテリゲンチャの持つ武器だ。真理をあくまで擁護する武器だ。しかしペンも使い方で、破壊もやるし、建設もする。改革もするし、退歩にも導く。今日のジャーナリズムは、だから、科学を建設的、改革的に動員すべき契機をはらんでいなければならない。実に、今日、科学が正しいジャーナリズムの上に台頭してきたということは、当然そうなければならなかったので、科学が少しでも進歩的意欲を持つものだったら、科学のジャーナリズムは決定的なことだ。ここに於て科学は、ジャーナリズムを通して大衆と接触するのであろう。
 なお自然科学・技術学に関する単純な意味に於ける知識の普及から云えば、『岩波全書』の役割は可なりに大きい。権威ある自然科学書の出版・翻訳・も岩波書店のものに多いことをつけ加えねばならぬだろう。

四 最近日本に於ける哲学界


 かくて最近の日本の自然科学の状態は、一方に於て当然なことながら高度の専門分化の方向を取りつつあると共に、他方に於てそれが著しく思想的な光にあてられ始めたということである。自然科学は日本に於ても次第に思想上の財物としての意義を専門家によっても認められるようになって来たと云ってよい。自然科学は哲学的根柢を求めることによって、正当にも一個の最も根本的な社会的文化的財物となりつつある。少数ではあるが科学的精神を理解する自然科学の専門家は哲学に接近し、そして又同じく少数ではあるが科学的精神を維持する哲学者の若干が、自然科学に就いての関心を原則的に高めつつあるのは事実だ。そしてその仕方の巧拙・純不純・はあるとしても、ここに問題になっているのが実は常に唯物論哲学であるということは、注目すべき点である。
 数年来、又特に過去一年来の日本の文化情勢は、著しく文化ファッショ化し、精神主義化し、観念化したというのが事実だが、併しそれは凡そ初めから何等の科学的信用を有たない種類の歴史学や社会論や、その尻馬に乗る文芸放談や、之を結局に於て上品に支持する各種観念論的哲学やの場合にそうだというまでだ。こうしたものは単に日本現下の文化の衣裳を支配するだけで、文化の真に科学的な核心をそう容易に犯し得るものではない。日本の権威ある科学者の心事に於ては、まだナチス風の「ドイツ物理学」や「ドイツ数学」に類する「日本自然科学」などは目論まれるには至っていない。この依然として健全な科学的良識に由来して、若干の新鋭な自然科学者は唯物論(唯物弁証法)に意識的に近づこうとしているのであり、そして多少意識の制限された自然科学者は、何等かの唯物論代用物に近づこうとしているのである。いずれにしても広義及び狭義に於ける科学の生命、科学的精神、を保持発展させるものとして、期待を有たれている思想的根柢は、今日の処唯物論以外には見当らぬ、と云っても決して誇張ではない。この事実を承認しない者がいるとしたら、恐らくそれは何等かの卑俗な常識に叩頭しているからであろう。
 だがいずれにしても、今注目すべきは自然科学の哲学への連絡という一事である。すでに社会科学及び芸術理論乃至文化理論は、良いにつけ悪いにつけ、哲学との交渉を著しく保って来ている。丁度生産技術学に於て自然科学者が持っていると同じ実際性を有った社会科学者は、アカデミーに於ても民間ジャーナリストに於ても普通の存在である。社会科学関係のアカデミシャンは自然科学のアカデミシャンとは多少異って、必ずしも大勢に於て純粋のアカデミシャンではなく、アカデミー外の社会現象の内に出入し、且つ又ジャーナリズムの上に活動する者が、多いのは当然だ。戯画に類する没世間的な社会科学アカデミシャンもなくはないし、又そういうもののよい対蹠人である「実際家」的社会科学者も少なくはないが、そういう「アカデミシャン」や実際家の無理論振りは、逸早く世間が見抜く処であって、今日、哲学的分析力を有たない社会科学者は、アカデミーに於てさえ決して優れた専門家とは見做されていない。
 処で社会科学と哲学との関係がすでにこうであり、更に又、今一々詳しく説明するまでもなく、芸術理論文化理論が実は寧ろ一種の哲学内容でさえあるという関係を参考するとすれば、日本の現下の自然科学・社会科学・文化芸術理論・の一切は、哲学によって思想的に媒介され連関づけられることになって来たのである。今日の日本の哲学は、そうした使命を期待されているのが、世間の事実だ。そしてこの期待を理論的に実現しようとすると、その期待された哲学が、主として現代唯物論を中心として回っているものであることを発見するだろう。日本に於ては所謂唯物論というレッテルを貼って純粋に存在するものは大して圧倒的ではない。政治的動向としてのマルクス主義が社会的にも評論ジャーナリズムの上でも力を失いつつあるという印象(之も実は必ずしもそうではないことは評論総合雑誌の内容を見ても判ることだが)に影響されて、唯物論的文化イデーの指導性が失われたかに見ることは、社会の表面現象としての所謂「マルクス主義」なるものと、理論的党派性に立つ唯物論とを安易に混同しているものだが、それにしても唯物論の純粋型はあまり有力ではない。だがそれにも拘らず、広義狭義に於ける科学が時代的な中心テーマとして期待しているものが、即ち又科学的精神として強調しようと欲しているものが、大体に於て唯物論的な哲学なのである。
 処で日本のブルジョア・アカデミーの支配的な哲学は、云うまでもなく観念論の各種の工夫されたタイプである。それは今日の所謂反動期に於ても(と云うのは反動であることが即ち進歩的だという神話が発生する時期ということだが)、依然として展望的な期待の対象ではなくて、弁疏的な口実の拠り処でしかない。処がアカデミー外的なブルジョア(乃至日本ファッショ)的与太思想は今数ならぬものとすれば、このブルジョア・アカデミーの観念論哲学は、最近殆んど社会的意義を自覚した思想的な労作をしていない。殆んど唯一の功績は、仰いでは哲学文献学についてのアカデミー水準の向上であり、伏しては哲学研究生のための無難な解説・手引・研究・の書物の出版である。『西哲叢書』・『大思想文庫』・『現代哲学全集』・『教育学辞典』・其の他はとにかく尊重すべき教材となるものだが、思想上の労作力を持っているものではない。尤も凡ゆる観念は思想の名に値いするが、今ここで思想と呼ぶのは社会的意義を自覚した観念の労作力を有つものを云うのである。
 西田哲学の最近の展開とその人気は特筆に値いするが、この現象は他でもなく、正に右に述べたブルジョア・アカデミー観念論哲学の特徴を最もよく物語っているものである。この哲学の領域からヘーゲルに関する著書と翻訳が多数出ているが、丁度ヘーゲルが今日盛んに研究されていると同じ意味に於て、それ以上の意味に於てではなく、西田哲学が最もよく愛好されているというに他ならない。田辺元の存在論的哲学の前進は、思想的観点から云っても意義の深いものがあり、彼のジャーナリスティックな論筆を俟つまでもなく注目に値いするものであるが、国家論乃至民族論に及んで、元来の欠陥が拡大鏡の下に齎されたかの観があるだろう。なお他に注目すべき流れとしては、和辻哲郎や三木清をつらねる人間学の諸形態があり、或る一部分の反動化の可能性を有つインテリ・リベラーレンの嗜好に投じている。――其の他に至っては、文献学的な机上の研究の進度を他にして、取り立てて論じる必要はないようだ。大体に於て哲学専門の大学機関誌は極度に不振であり、『思想』(之はともかくも優れた文章をのせる)や『理想』は殆んど全く思想上の魅力を有っていない。
 アカデミーに於けるブルジョア(乃至ファシズム的)哲学である各種の観念論に対立して、日本の唯物論(弁証法的唯物論)が殆んど完全に在野の哲学であることは、注意すべきだ。この点英仏と多少異り、ましてソヴェートの場合とは全く別だ。在野の哲学と云っても町の通俗哲学という意味ではなくて、学術的な水準の高さを追求する哲学であるのは云うまでもないが、研究に伴う各種の不利と、支配者社会による道徳的・行政的・乃至は肉体的な抑制とによって、伸びるべき処を抑えられているという意味で、在野的なものである。雑誌としては唯物論研究会の機関誌たる『唯物論研究』を他にして、わずかに『世界文化』の類を数え得るに過ぎない。『唯物論全書』(すでに三十六巻を出す―その後続刊)の出版は唯一の纏った唯物論の高級通俗書の系列であるが、他に著しいものとして主としては白揚社を出版者とする哲学書の著書(永田広志・秋沢修二・岡邦雄・石井友幸・戸坂潤・等)又はソヴェートのテキストの翻訳、ナウカ社版の価値ある相当数の訳書、叢文閣出版の比較的少数の哲学翻訳書等が挙げられる。――科学界から根本に於いては不可欠なものとして待望されている唯物論の研究が、こうした不利な条件の下におかれていることは、特に注意する必要があるだろう。
 例えば永田広志は「唯物弁証法最近の展開」(『中央公論』―一九三七・二月号)に於て次のように述べている。
 吾が国における唯物論哲学界について一言すれば、ここでは、時局の然らしむる所によって、実践からの哲学の遊離が根本特徴であって、こうした条件の下で避け難い理論的停滞の現象も蔽うべくもない。ミーチン等の労作が理論上の甚だしい逸脱や観念論化のブレーキとなっているとはいい乍ら、このブレーキも段々制動力が無くなりそうである。川内唯彦氏や船山信一氏を初め、有能な学徒が理論活動から去り、加うるに理論活動を指導するような組織もないので、各人はその個人関心に従って色々の分野へ、しかも多くは実際生活からかけ離れた研究分野へ離散している。でなければ自由主義的扮装をもってジャーナリズム活動をやっている間に、この扮装がいつの間にか骨肉に迄食い込みかねない有様である。出版物の上では唯物論者の活動は衰退していないように見えるけれども、理論的前進の点になると大いに懐疑的にならざるを得ない。例えば『唯物論研究』の誌上では、「ミーチン一派」の認識論を否定する加藤正氏が依然として旧い論争を続け、岡邦雄氏はエンゲルスの自然弁証法の批判者として現われているし(古くは弁証法の「例証」の問題、近くはエネルギー概念)、優れた芸術理論家(甘粕石介氏)が哲学的問題で(例えば芸術と科学の認識論的差別)案外な誤謬を犯している、等々。科学史の方面では小倉博士の『数学史の研究』の如き立派な労作があるとしても、理論の方面では質が量に伴っていないということが出来る。しかし、自然弁証法の具体的研究がぼつぼつ少壮学徒によって企てられていることや、三枝博音氏や秋沢修二氏によって着手された思想史的研究には相当の期待がかけられるだろう(こういう領域は比較的風当りが少ないので理論の純粋性を或る程度まで維持できる。実は筆者も思想史の「世界」へ転向している)。
 永田の解明はやや懐疑的に過ぎるようであるが、とに角日本に於ける唯物論哲学への期待と不満とが、そしてこの哲学研究に横たわる一種異様な苦心のある処とが、之で判るだろう。

五 日本の唯物論の国際的環境


 日本に於けるブルジョア観念論哲学は今日と雖も、諸外国特にドイツ・フランス・アメリカの現代の哲学に影響されているものが多い。だがその外国の哲学自身が大して前進的でないために、日本の哲学が之によって影響されて昔日のように溌剌たる動きを見せる、ということがない。諸外国の哲学の影響は、科学的に大して問題とするに足りない(高々ハイデッガー系統のエキジステンツ哲学位いなものであろう)。そして日本の哲学として最も有力な西田哲学と田辺哲学とは、外国哲学の「影響」を以て理解するにはすでにあまりに固有な特色が出来上りすぎている。寧ろ西田哲学の如きは外国への影響さえ見ることが出来るようになるかも知れない。だが之はこの哲学が科学的な国際性、乃至科学上の世界的性質を持っていることを意味するのではないのだ。
 科学上の国際性を有つものは勿論唯物論哲学である。だから日本に於ける唯物論哲学も諸外国の唯物論研究との対比と切り離して理解されてはならぬ。まずソヴェート連邦に於ける最近の哲学(唯物弁証法)の事情を見よう。永田広志前掲論文の一節を引用すればこうである。
 デボーリン派批判の論争は、一口にいえば哲学におけるレーニン主義のための闘争である。だからこの論争において初めてレーニンの哲学的遺産やプレハーノフ(レーニンを除けば、第二インター時代の最大の唯物論哲学者。デボーリン主義者や機械論者の多くは、哲学上ではレーニンはプレハーノフの門下だとさえ考えた)の哲学的誤謬に対するレーニンの批判は正当に評価されるようになったし、またスターリンの『レーニン主義の基礎』(一九二四年)が論争において有力な武器の一つとなったことは偶然でない。それに『プラウダ』や『ボリシェヴィク』がミーチン、ユディン、フルシチクその他の理論家を後援し、ヤロスラフスキーの如き重要な党人が直接に論争に参加したことは、論争が非常に政治的性質を帯びていたことを想わせる。
 だがこの論争が単に政治的なものでなく、単に実践からの理論の遊離の克服に限られたものでなく、同時に深刻な理論内容を持っていることは、改組後の『マルクス主義の旗の下に』諸論文や、ラリツェヴィチの『二つの戦線において』や、ミーチンの『哲学論争の総決算と反宗教宣伝』や、論争の成果に基いて書かれたウォルフソン、ガツク共著『史的唯物論の概要』、メドヴェージェフ編『史的唯物論』、ラリツェヴィチ編『史的唯物論』、ミーチン、ラズモフスキー編『史的唯物論』、シロコフ、ヤンコフスキー編『唯物弁証法』、ミーチン編『弁証法的唯物論』[#「『弁証法的唯物論』」は底本では「『弁証法的唯物論」]等を一読すればよく分る。この哲学論争は実にソヴェート哲学史上の最重要な画期的な事件であった。やがてデボーリンを初め、殆んど全部のデボーリン主義者がともかく自己の誤謬を認め、また多くの機械論者も自己批判するに至ったことは、明らかにソヴェート哲学がレーニン的軌道の上を強力に前進し始めたことを意味している。
 もちろん、ミーチンやラズモフスキーの編集した弁証法=および史的唯物論に関する最良の教科書にも種々の欠陥が指摘されているように、ソヴェートの哲学活動にも未だ部分的欠陥はあるに違いない。特に未だ真実に具体的なものに結びついていないという点は、三四年頃にも盛んに自己批判されていた。就中、自然科学との結合の不充分さは、最大の弱点の一つとされている。だが三四年に『唯物論と経験批判論』の二十五周年記念に、ヨッフェやヴァヴィロフのような著名な物理学者が哲学者と共同で講演をやり、自然科学の方法論としてのレーニン哲学の意義を認め、哲学者の側でも自然科学的テーマを取り上げたことは、この方面における一歩前進を意味するものである。この、自然弁証法の方面では、コールマン、ワシリエフ、エゴルシン、マクシーモフ、ヤノフスカヤなどの活動が顕著である。
 昨年二月における連邦アカデミーへのコム・アカデミーの合流は、哲学者と自然科学者との同盟による唯物論哲学の一層の展開の槓杆となるものである。
 デボーリン派批判以後の、弁証法の理論、哲学史、自然弁証法、唯物史観、ファッショ哲学批判等の領域における幾多の研究成果はここに一々挙げ切れない。また昨年のトロツキー、ジノヴィエフ、カメネフの陰謀事件や、新憲法が哲学戦線に如何に反映しているかは、ソヴェート書籍の入手困難な現在では筆者には殆んど全く不明である。しかし根本方針はすでに三一年以来確定したものと見て差支えなかろう。但し「プロレタリア・ヒューマニズム」やコンミュニズム家族などの問題が哲学界で取扱われていることは、新憲法の制定を促したと同じ社会状態の反映として、特徴的なものであろう。
 日本に於ける唯物論哲学の発展は、最近に至っても依然としてこのソヴェート連邦の理論的前進と相伴って行っていることは当然である。だが之と相伴うものは勿論日本だけではない。フランスもイギリスに於てさえも唯物論研究は今日台頭しつつあるのである。
 ソヴェート版ルッポルの『ディドロー』が一九三六年フランスの「唯物論研究会」(Groupe d'Etudes Materialistes)によって翻訳されたのを手始めとして、J・フリードマン編集になる『社会主義と文化』叢書が発行され、ディドロー選集やエルヴェシウス研究が出版される予定である。フランスではマルクス主義哲学の古典的文献の紹介はまだあまり発達はしていないが、大学に籍を持つ有名な自然科学者達の間で、マルクス主義を表明しつつ研究を進めている専門家が相当多い。この点、前にも云ったように、日本とは相当異った事情にあることを知らねばならぬ。『マルクス主義の光の下に』と題する新ロシア・サークル科学委員会に基く講演論文集は、ソルボンヌ大学心理学教授アンリ・ワロンの序文を有つもので、コレジ・ド・フランスの教授ランジュヴァン其の他のこうした科学各方面の専門家の筆になるものである。第二集として『マルクスと近代思想』が近く発行されるという。又「問題」叢書なるものの発行が行なわれ、諸科学部門内に於ける唯物論的研究の発表が行なわれつつある(新村猛「フランスに於ける唯物論研究の現状」―『思想』、一九三七年二月号、参照。――なおフランスに於けるマルクス・レーニン哲学の研究に就いては、谷一夫「自然科学の唯物弁証法的研究」―『世界文化』、一九三六年十月号参照)。
 イギリスに於ける唯物論哲学の真の台頭はこの数年来のことである。だがそれにも拘らず有名な自然科学者の内に唯物論的研究に邁進する人物が多いのである(H・レヴィ教授やJ・D・バナール教授)。『岐路に立つ自然科学』は有名な論文集であり、ロンドンに於ける国際科学史大会に於ける講演集である(邦訳あり)。『マルクス主義と現代思想』(ソヴェート科学アカデミー記念論文集の訳)(その一部分邦訳あり)や『唯物弁証法の諸相』(イギリスの自然科学者を含む一群の専門家の論文集で「文化協会」の講座や、議論の所産である――一部分邦訳あり)などが出版されて、注目されている。
 ローヤル・ソサエティー会員の多数を含む「自然科学者協会」は、自然科学者の利益を増進するための職業組合であり、『科学的労働者』という季刊誌を発行し、新興科学の旗幟を鮮明にし、之と平行して「知的自由のために」というA・ハックスリを会長とするインテリゲンチャの学術擁護協会が組織されて、科学者・理論家・作家の、唯物論的動向を伝えるに充分である(『世界文化』一九三六年七月号参照)。――アメリカにも「批評家グループ」なる団体があり、『批評家団叢書』が発行されている。
 フランス・イギリス・の唯物論的研究は必ずしも日本のものよりも水準が高いとは云えない(アメリカは無論のこと)。だが大切な相違は、アカデミーに於ける専門の科学者達が意識的にその専門研究の道をここに発見する者が、外国では極めて多いに拘らず、日本では夫が極めて少ないという点なのである。――最後に中華民国を加えることを忘れてはならぬ。ここでも亦数種の唯物論系統の評論学術雑誌が発行されている(主に上海と南京と北京)。日本で出版された唯物論関係の主な叢書は、可なり多数に支那語に翻訳されている。中華民国の進歩的哲学は、今の処、日本のそれをそのまま追いかけていると云っても過言ではないかも知れない。――要するに日本に於ける唯物論的研究は、世界的・国際的・研究の一環であることを注目すべきである。

六 一九三六年度日本の社会・芸術・文化・の理論


 以上吾々は、日本の自然科学と哲学とに就いて、その近況を述べた。之は必ずしも一九三六年度に厳密に限定されたものではなかった。蓋し自然科学はその対象が比較的に社会の時間的推移からは独立なものであるから(技術的経済的推移とはより直接な関係もあるが)、例えば三六年六月十九日の北海道に於ける皆既食観測というようなそれ自身一つの社会的事件ででもある場合を除けば、特に一九三六年としての特色を持つことは少ない。又哲学は社会的時事に直接関係があるにも拘らず、その変化のテンポは暦のテンポよりも遙かに遅い。そういうわけで、厳密に一年間の動向に限定することが出来なかった。
 吾々はまだ後に、社会科学と芸術文化理論との概観を残している。実は両者は極めて密接な連関と、打てば響くような関係とに立っている点が多く、それというのも両者とも社会的時事そのものから常に刻々の刺激を受けるからなので、吾々は次に第一には社会科学と芸術文化理論とを思想上の一連としつつ、第二には話題を一九三六年度に限定して、特に時事的な連関から見て行こう。――(以下戸坂潤著『現代日本の思想的対立』六九頁―七六頁援用加筆〔前掲〕)。
 さて三六年度の思想界の動向を根本的に決定した事件は、云うまでもなく二・二六事件である。だがこの事件に就ての発表は極めて官僚的な機密主義によって制限されているものであり、又この事件に就いての解説批判は殆んど絶対的に封鎖されている。この言論封鎖は併し独り二・二六事件そのものに就いてばかりではなく、延いて政治的思想的言論全般に就いての箝口令を意味している。文化思想の中枢である帝都は、約半カ年に渡って戒厳令下にあった。この一連の現象が又本年度の思想界の混濁した色調をなしている。
 事件発生そのものは、誰がなんと云おうと要するに日本型ファシズムとその躁急な行動とを意味していた。従ってこの事件が如何ように始末されたにしても、とに角この事件の指導精神がなにかの形で跡を残すような結果になった以上、この事件の失敗さえが日本型強力政治への進行を示しているのである。
 現に広田内閣の成立は、全くそうしたファシズムの合法的な進行を約束するものだったろう。広田内閣は所謂「自由主義」の排撃を声明した。帝国の政府が、この種の社会科学的な思想上の一態度を声明したことは、殆んど未だかつてなかった重大事件だったと云わねばならぬ。
 尤も広田首相が排撃を声明した自由主義なるものがなにを意味するのか、理論的には甚だ曖昧であることを免れなかったが、他方美濃部学説其の他の憲法学説に現われた所謂自由主義なるものを見れば、自由主義排撃なるものの一応の内容は知ることが出来よう。とにかくこの自由主義は一定の憲法学説、一定の国体観を意味したのだが、それと同時に極めて近代的な政治観念としての言論の自由をも意味したのだ。だから自由主義排撃なるこの日本型ファシズムの進行は、単に議会権能の抑制だけではなく遂に可なり極端な言論抑止と言論統制とを結果した。官製のニュース以外に出た社会的刺激になる報道は総て流言・飛語・浮説・と看做された。
 一例は『朝日新聞』経済記者のスクープによる東株暴落事件である。之によって記者達は流言浮説をなしたという廉で(社内では事実そう見なくても社会上の名分ではそういうことになる)、退職を余儀なくされている。この例でも判るように都下及び全国の有力な新聞紙はその報道の自由を著しく奪われた。そればかりではなく各有力紙は自発的に批判的態度を捨てるようにさえなった。三六年に這入って、新聞記者が集団的に無能化したことは特筆すべき文化上の現象だ。却って従来の二流新聞が批判的なニュースによって新しい読者を獲得しつつあるようなわけだ(『報知』『読売』・の如き)。同盟通信成立のおかげでニュースが単調無味で、ニュースとしての意義を失ったことは、新聞紙に対する民衆の信頼を甚だしく傷けた。
 そこで新聞紙のような天下の公器を信用出来ないというところから、パンフレットの発行が急に増大した。今日パンフレットは、新聞紙の、又ある程度まで評論雑誌の、不完全な代理物となっている。言論の統制が、雑誌単行本其の他に対しても、より統一的となり組織的となり苛烈となったことは、三六年度の特色である(戸坂潤「出版現象に現われた時代相」―『文芸春秋』一九三六年一一月号〔前掲〕)参照。言論統制は思想取締りばかりでなく風俗取締りにも関係している。かくて映画の検閲が遽かに苛酷になったことは人の知る通りである。ダンスホール、レヴュー、其の他の弾圧も亦、一つの思想統制に帰着することを知らねばならぬ。
 電力民有国営案さえも亦、一つの思想的問題として取り扱われた。内閣調査官奥村案は一種の「ファッショ的」イデオロギーと評価された。在郷軍人会が官設団体となることによって、在郷軍人的イデオロギーは国権上の威力を生じるだろう。更に行政改革、議会制度改革、に関する軍部案として坊間報道されたものは、政府機構の官僚独裁化、デモクラシーの否定、を暗示している。陸軍軍需官業労働者の団結権は一片の勧告で吹き飛んで了った。右翼政治思想団体は橋本欣五郎大佐の下で戦線統一を企てた。山田盛太郎、平野義太郎、小林良正、等の有力な左翼理論家は自由を奪われた。風刺詩人さえ御難を蒙った。
 日本型ファシズムのこうした進行と並行して反ファッショ的運動も亦、三六年度に入って、頓に盛んになったと云ってよい。勿論之は事件後の粛軍運動を契機としたものであって、民政党の斎藤隆夫の軍部大臣に対する質問演説は、極めてよく天下の世論を代表したところの、特筆すべき言論だったが、一二の言論は遂に思想の趨く処を掣肘することは出来ない。だが所謂軍部案による議会政治否定説に刺激されて、民政、政友、社大、の諸党が反ファッショの気勢をその言論に現わすだけの多少の余裕を示したことは、日本ファッショ化過程が原則的な抵抗を呼び起こしつつでなければ行なわれない型のものであることを物語る一例になる。
 だがこうした運動の組織的な形態は、日本に於ける人民戦線の問題に集中している。フランス人民戦線内閣の成立とスペイン人民戦線内閣に対する反乱とに刺激されたのは勿論であるが、この刺激が縁となって、この問題は広く社会運動と思想界との課題としてかかげられた。最初之を取り上げたものは、評論家では大森義太郎、清沢冽、馬場恒吾、其の他であり、政客としては、労農無産協議会の加藤勘十等である。加藤等はこれに就いて文化人の協力を求めた。社会大衆党は労協一派の無産戦線分裂的行動を承認しないという口実の下に、夫の提案になる形の人民戦線を承認しようとしない。特に麻生、河野、菊川は外見上所謂「人民戦線理論」の否定論者として現われている。だが問題は人民戦線という名目や名称にあるのではなく、現下の日本で必要なのは、無産政党の単一化又は徹底的共同戦線の地盤にあるのだ。で一方苟くも無産政党の分裂を招くような態度は避けねばならぬと見られている。事実上思想的進歩分子が続々として社大党へ入りつつある現象も見受けられる。これは三五年度あたりまでは見られなかった左翼思想界の動向である。
 仮に日本型ファシズムと名づけるとして、この反動的動向がこのように著しいにも拘らず、之に就いての基本的な分析は行なわれたと見ることは出来ない。現象論的なファシズム論は評論雑誌の上では決して珍しくはなかったが、日本資本主義の分析に基かねば根本的な解決を見ることのできぬこの問題は、理論家の多くが自由を奪われたことを直接原因として、遂に原則上の展開を見ずに終ったようである。前年度来の封建論争も三六年度には一時休憩の観があった。進歩的な経済社会雑誌で最後まで残ったのは『経済評論』であるが、この問題にはあまり寄与しなかった。年内に休刊となった『歴史科学』も『社会評論』もそうである。ただ『エコノミスト』にこの論争のジャーナリスティックな詳細な紹介がのった。――社会科学・歴史科学に関係する理論的なものは経済学関係では叢文閣出版のものや『岩波全書』に相当多く、史学関係のものでは白揚社や『唯物論全書』の内に少なくない。翻訳では叢文閣からファシズム理論を初めとして、社会科学に関する多くの価値ある解説書・研究書・が出版されているし、白揚社からは歴史教程の類が出版されている。
 ファッショ哲学式なデマゴギーは、社会的興行としては三六年度で全く影をひそめた。大衆の思想はこの点については極めて批判的にさえなって来た。だがそれにも拘らず日本型ファッショ的イデオロギーは国民の身辺にいつとなく薫染しつつあることを見逃してはならぬ。これに就いては後に見よう。ところが之に対して、マルクス主義も亦著しく日常化して民衆の常識となりつつあることを知らねばならぬ。少なくとも一頃流行った不安や虚無のポーズは、二月の事件によってそのポーズ自身がけし飛ばされて了った。文芸家もこの事件によって社会的関心をかきたてられた。文学の思想性(例、三木清、戸坂潤など)や作家其の他の教養(長谷川如是閑、谷川徹三)などの問題が持ち出された所以である。又青年論(室伏、三木、岡、大森、森戸、戸坂など)や恋愛論(岡邦雄、杉山平助、神近市子など)も亦、そこから発生した。だが特に後者は、まだ社会科学的分析にまで及んでいなかった。
 三六年度に於ける単純な意味での思想界の動きで最も目に立つものは第一に、ヒューマニズムだろう。ヒューマニズムは三木清等がしばらく前から提唱していたものであるが、三六年に入って急に普及した。なぜかと云えば、民衆の一部のものがここに何等かの社会的反抗の思想的拠り所を見出し得ると考えたからである。従ってヒューマニズムが問題にされたそのされ方自身から云えば、ヒューマニズム問題は大体に於て進歩的な動向の筆頭に数えられねばならぬ。だがそのことと、ヒューマニズムなる思想自身が進歩的な動向の観念上の拠りどころを提供し得るだろう、ということとは別なのである。問題になっているヒューマニズムは、勿論マルクス主義の発達の系統から呼び出されたものではなく(又以前の行動主義の新レッテルとも云えない)、夫を含むとも夫に含まれるとも云えぬが、しかし之を限定すべからざるものと考えるべきだとする俗見は、要するに之をツルイズムに帰着させるもの、思想運動の原理たるに耐えぬことを告白するもののようである。この点から云って田辺元のラショナリズムの主張に立つヒューマニズム批判及び時局批判は、注目されるべきものである。――ヒューマニズムに関係あるものとしてモラル論も亦相当行なわれたと見るべきだが(これは戸坂潤と深い関係がある)、もし元来唯物論の一環として提唱されるべきこのモラル論をヒューマニズム主義と結びつけるなら、それはモラル論ではなくてモラル主義になって了うだろう。だが注目すべきはモラルの問題が文芸学の課題にまで上せられたことである。文芸学研究の提唱と、文芸学の日本主義化に対する批判とが台頭した。
 第二に注目すべきものは、民族論議の台頭である。之は理論としては大体三つのオリジンに発している。一つは唯物論者の側からであり、二つには「国民思想」の理論家達の転向イデオロギーに基くものであり、三つには『文学界』や『日本浪曼派』を中心とする文士達の民衆論議乃至日本伝統論に基くものだ。民族論議は「日本的」なるものや「日本の民衆」の問題として次第に激しく論議されるに至った。その可なりの場合、反動的日本主義乃至民族至上主義に帰着するものが多いが、とに角之が今後の切実な問題となることは疑われない。ヒューマニズム論議も亦、ここに結び付いてのみ、展開の可能性を有って来るだろう。
 専門的宗教家が思想統制に大して役に立たぬことは今までと変らない。宗教で思想上意味のあるのは、寧ろ多数の邪教が不敬宗教であることが発見されたという事実だ。つまり邪教の主な大きなものは、日本の政治動向に順応して初めて邪教たり得た、ということの発見だ。単なる「迷信」ではないということが意識されるに至ったのである(大本教、島津ハル子、ひとのみち、又或る意味では天理教、其の他)。
 最後に、文化運動の新しい形態の萌芽として、文化人の生活権の拡大を現実的な地盤として初めて大衆的文化運動を遂行し得る、という建前から、「日本文化人協会」の組織が準備された。之は江口渙等の社大党幹部等と賀川豊彦等との結合によるもので、或いは唯一の実際的な文化人運動団体となるかも知れぬと見られている。
(特に社会科学・歴史科学の情勢について必要な程度にさえ触れる遑がなかったことは遺憾である。――それぞれの部門の報告に俟つことにする。)





底本:「戸坂潤全集 第五巻」勁草書房
   1967(昭和42)年2月25日第1刷発行
   1968(昭和43)年12月10日第3刷発行
初出:「現代日本の思想対立」今日の問題社
   1936(昭和11)年12月
※〔〕内は、底本編集時におぎなわれたものです。
入力:矢野正人
校正:青空文庫(校正支援)
2011年10月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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