性格としての空間

――理論の輪郭――

戸坂潤




 問題を知識――認識――の範囲に限ろうと思う。尤も始めから知識の世界と知識でない世界とを区別しておいて、その上で知識の世界の外へ一歩も出ないように注意しようというのではない。そのためには恐らく吾々は完成した体系を予め持っていなければならないであろう。云うまでもなく吾々はそのような結論から出発することは出来ない。凡ての出来上っている諸問題をば同じ資格を有つ隣人として公平に待遇しようとするならば、却って何かの問題に立ち入る手懸りを失って了うであろう。こういう危険を避けるために問題を知識の世界に限ることが今の場合私にとって必要なのである。
 知識という概念がまず疑問であるだろう。けれどもそれを何程か決定することこそ私の目的なのであるから、次の私の言葉を承認出来る程度の常識概念として、この概念が人々に通用するならばそれで事は足りる。そこで私はこの概念に就いて次のように云いたい――知識には二つの徴表がある、第一は吾々が知識によって通達するものと考えられる実在、第二はかかる実在が通達されると思われる通路。そしてこの第二の通路が又特に知識の名を以て呼ばれるということ。ここに人々は古典の内から二つの言葉を選んでこの二つを云い現わすことに思い付くであろう。それは「存在としての存在」と「真理としての存在」との区別である。尤もこの場合真理という言葉が二重に用いられる代りに存在という言葉が二度使われている。けれども二つの区別を与えるのに之は何の差閊えもない。一方に於て存在としてあるもの、他方に於て真理としてあるもの、実在とそれへの通路。人々は兎も角もこの関連を許さないわけには行かないであろう。

 今、実在に就いて先ず一般的に語ることが私の目的ではない。そして恒に、そのような種類のことは必ずしも必要ではない。近世の形而上学は実体に於て乃至実体に就いて――このような形而上学にとって実在は即ち実体であった――少くとも二つのものを区別した。mens と corpus 乃至 cogitatio と extensio。私は今実在に就いて更に物体乃至延長の世界にまで範囲を限ろうと思う。処が他方に於て、このように制限された実在を云い表わす概念は、今日吾々が常識的に――そして勿論知識の範囲に於て――用いている自然という概念でなければならないであろう。哲学者達は自然という言葉を夫々独特の意味に用いたではあろう、併し私の云うのは術語ではなくして通俗語である。実在とは今の場合このような意味での自然である。そこで自然をどう取り扱おうとするか。
 私は今自然の意味を限定した、そして或る自然概念を獲得した。この限定に於てこの獲得において、すでにこの概念は行くべき方向を与えられている、この概念は、あらゆる概念が実はそうなければならないように、その成立の動機**担って始めて成り立っている。吾々は単に或る概念を構成して見るだけではなく、却ってその概念を構成することによって、更に之によって次のものを惹き出そうとする目的を持っていたのである外はない。そして概念のこの目的がとりも直さず始めに帰って――何となればテロスはアルケーであるから――この概念の動機をなしているのである。今の自然概念も亦ある一定の(まだ確定されてはいないが)動機によって動機づけられたある一定の方向を持っていなければ、吾々にとって無用であろう。それ故この方向を辿ることによって明らかとなって来るものは実はこの概念の真面目に外ならない筈である。之によって自然概念はそれが如何にして要求され又如何にして構成されたかが明らかにされ、かくしてそれ自身の性格が露に出される。自然の性格は何か。併し性格とは何か。
* 概念が根本的に二つに区別されることを後に明らかにしよう。今はその内の一つを使っている。
** 動機と茲で云うのは、心理的原因でもなく論理的基礎でもない。それは正に概念的動機と云う外はない――茲に人々は少くとも概念が無条件に論理的と呼ばれてはならないことを想像しなければならない。――最後を見よ。

 樹は一つの性格を有っている、吾々はこの性格を知ることによってそれを、物体としてでなく、生物としてでなく、植物としてでなく、正に樹としてそしてこの樹として知ることが出来る。吾々は人を記憶するのに必ずその顔を記憶する、而も多分横顔ではなくして正面を記憶するであろう。それは正面がその人を最も著しく代表するからである。かかる正面が吾々にその人の性格を現わす。無論その人は正面から成り立っているのではない――という意味は、彼の正面が彼の存在の論理的予想(コーエンの場合のように)であるわけはない、又彼の正面が彼の存在という意識の統一を齎す主観的制約(ヴィンデルバントの場合のように)である筈もない、又彼の正面が彼の存在を成り立たせる客観的な形式(ラスクの場合のように)であるのでもない。凡そこのように対立的な主観概念を借りて始めて動機づけられる処の認識論的範疇という概念、によって吾々に性格を云い表わすことは出来ない。性格とは吾々がそれを追求することによって、即ちそれを明らかにすることによって、同時にそれのぞくするものが明らかとなるような理解の焦点を意味する。併し性格の代りに例えば本質という言葉を用いるならば恐らくそれは吾々から独立にあるであろう。このような本質は吾々の彼岸に考えられる。少くとも吾々にそれが明らかとなる過程をそれが含むことは保証されていない。それ故かかる本質は性格の正反対でなければならぬ(後を見よ)。性格とは一つの概念に就いてその成立の動機とその発達の方向とを含んだ一つの過程として吾々に与えられた一定の課題でなければならない。自然の性格は何であるか。

 それが空間であると私は思う。私は自然の面目を空間として性格づける私の動機を説明することによって、とりも直さず同時に空間の性格を明らかに出来るであろう。人々が実際に生活している時、彼等はコンヴェンションに従って――学問的考察に従ってでなく――最も信頼するに足る当体として自然を見出す。それが先験的自我によって構成された世界であるにしてもないにしても、又それが絶対的な何物かの発展の段階であるにしてもないにしても、それに拘わることなく人々は自然を実在として信頼する。現実にかくあった、又現実にかくあると信じる。もし仮にこの信頼が彼等を欺くならば、彼等の信頼が欺いたのであって現実が欺いたのではない。それ故彼等は依然として現実を信頼している。人々にとって自然という概念は現実に対する彼等の信頼の外の何ものでもないであろう。これが自然という常識概念成立の動機であり従ってこれがこの概念の性格の第一歩である。物質という概念は往々にしてそして又正当にもかかる自然の性格として云わば自然主義的に理解されているであろう。精神の原因と考えられるという言葉も、精神物理的立場に立つ一つの形而上学を意味する前に、先ず凡ての日常生活の信頼がそれに帰着し行く処の地盤としての物質を、それは云い表わすべきである。常識概念にとっては物質は精神の原因であるよりも寧ろ第一に眼に見手に触れることの出来る当体でなければならない。自然の性格はこのような意味での物質としてその第一歩を現わす。自然は物質的である。処が物質は substantia であることは出来ないであろう。何となれば、形而上学によればスブスタンチアは das Daseiende でなくてはならなかった、そして又それはその Daseinsweise であってはならない。形而上学によればまず実在者がありこの原因から恐らく実在という在り方が結果するのであって、決して、まず実在という在り方が動機して実在者という概念が成立するのではない。かかる原因として――動機づけられたる過程としてではなく――の実在者、それがスブスタンチアであるであろう。吾々の物質概念は、然るに、一つの性格を、動機づけられた過程を、意味した筈であった。故にこの物質は実体ではない。であるから物質は正に一つの在り方、物質としてあること、でなければならないのである。自然概念を物質概念にまで発展せしめた動機は「在り方としての性格」―― Dacharakter ――の方向を追求したことであった。溯って云えば自然が元来かかる在り方以外の何物でもなかった。人々の信頼を集めた実在・現実は実は、かかる在り方、実在性・現実性であったのである。それ故、今や明らかであるように、自然の性格は・即ち物質は・そして即ち物質の性格は――何となれば性格は過程であるから――一つの Dacharakter なのである。自然の性格を求めて物質概念に至らしめたこの動機、Dacharakter を追求しようとするこの方向、この過程が直ちに次に物質の性格を決定することを要求する。そして物質が物質として在る在り方を性格づけるもの、それが空間に外ならない。空間は自然の(又物質の)性格であり即ち自然の(又物質の)Dacharakter としての性格を云い表わすものであり、即ち又それ自身一つの Dacharakter である。空間は何にもまして空間という「存在の性格」でなくてはならない。そして之が又空間の性格である。かのアリストテレスの「存在としての存在」は恰も「存在の性格」を云い表わす言葉でなくして何であるか。
 空間に就いてのどのような理論も、或る意味に於て、空間の性格を明らかにするものでないものはない。もしそうでなければそれは始めから少くとも空間の理論ではないであろうから。併しその理論が自分自身空間の性格を求めているということそのことをば自らの理論的内容とする場合と、そうでない場合とで、実に根本からの相違がある筈である。云うまでもなく後の場合に較べて前の場合の方が理論として周到であることを人々は当然始めから認めるであろう。私の今まで述べて来た仕方も亦少くともこの前者の場合であることを欲していたものである。けれども私はこの仕方の優越性をより具体的に示すために、之と反対な仕方――後の場合――の困難を指摘して見ることにしよう。多岐に渡るのを避けるために歴史的内容に富む形而上学的乃至神学的――多くの空間理論をかく名づけることが出来るであろう――な見方を省く。又心理学的研究をも除外しなければならない**。思うに両者の問題は吾々の今の問題と多少食い違った所を有つであろう。
* 茲では例えば実体と空間との関係とか、空間の演繹とか、が問題となる。
** 茲で最も重大な関心を持たされるものは空間の形態説であろう。其の他の問題は恐らく之程哲学の関心を惹かないと思う。

 さて後に残る考え方――それは何れも自然乃至実在の概念から出発するのであるが――を私は二つに分けることが出来るであろうと思う。第一は空間を自然に於ける本質と見る取り扱い方、第二は之を自然の制約と見る夫。第一は自然に於て事実的に存在し又は生起するものを介して永久的の形相なる本質を発見するに努める仕方であって、この仕方に従えば恰も空間がそのような形相即ち本質として見出されると云うのである。かく云えば恐らく多くの人々は次のように云って反対するであろう。自然の本質は必ずしも空間とは考えられない、物質・時間・運動・力・作用などの或るものこそ自然の本質ではないか、と。併しかく云う人も空間を自然の一種の本質と考えるのを拒む特別な理由を発見することが出来るのではないであろう。のみならず、最初の物質に就いて云うならば、已に述べておいた通り、もし吾々の理解に従うならば、物質こそすでに空間概念に含まれた一つの特徴であるに外ならなかった。自然科学者が物質をその研究の対象である処の自然の本質として理解しているとしても、この物質概念が直ちに哲学上の概念――吾々は之を問題にしている――であるかどうかは問題であるし、又彼等の本質とするものも恐らく吾々が本質と呼ぶ処のものではないに違いない。吾々は云うならばあらゆる自然的立場を括弧に入れ、従って自然科学的立場をも括弧に入れ、その上で吾々が本質と呼ぶ処のものを求めることを今は志しているのである。次の時間にしても、時間一般は決して自然の本質であるのではない。歴史と意識に現われる時間概念は到底自然の本質とは呼ばれない。夫であるためには、時間は或る特殊の時間として、即ち自然に於ける時間として限定されなければならぬ。処で時間一般を之にまで限定するものは正に時間一般ではなくしてそれ以外のものである外はない。そして一つ数学的次元として、云い換えれば、計量出来る一つの量に関係するものとして、事実吾々は物理的時間を理解している。これが自然の時間である。そしてこの自然の本質が何であるかこそ今の問題なのであるから、時間を自然の本質とすることは解答ではなくして問題の変形であるに過ぎない。運動概念にしても(アリストテレスの非常に広く自由な運動概念を考えよ)、力の概念にしても、又作用概念にしても、ある特殊の夫として即ち自然に於ける夫として、まず限定されるのでなければ、自然の本質と呼ぶ動機すら見失われるであろう。それであるからして、自然の本質としては特に空間が挙げられねばならない。というのは一切の本質らしいものは之に帰して了うと共に、吾々は空間が他の本質に帰せられることを想像出来ないからである。かくて吾々は自然の本質が空間であることを承認しよう。――けれどもそれであるからと云って、逆に空間は自然の本質である、という言葉を無条件に承認することは出来ない。と云うのは、空間を特色づけるのに自然の本質という言葉を最も優れた或いは充分な述語として択ぶということは、今の命題からは帰結しないのである。即ち空間の理論はこの命題によって要約することは出来ないであろう。それは何故か。私は之を述べるために今の命題を少し分析しよう。自然の本質と云っても二つの意味が区別されねばならぬ。第一は本質という言葉を常識的に用いて自然が自然として存在し又は理解される理由乃至原因を代表するものを指すであろう。自然科学者がもし物質を又電磁気を自然の本質と呼ぶならば、或いは又自然哲学者が神をそれと見たならば、それは今の意味に於てである。けれども之は吾々の今云う本質ではない。吾々の云うのは第二の他の意味での本質である。即ち――向に示した通り――自然に於て事実的に存在し又は生起するものを介して発見される永久的な形相が自然の本質と呼ばれる約束であった。空間とは、自然と呼ばれるべきものに於て発見される永久不変なる関係である、と云うのが向の最初の命題なのである。さて併し、そうとすればこの命題は何が元来自然と呼ばれるべきであるかということ、即ち自然を自然と呼ばせる処の丁度そのものは何かということ、をすでに決定されたものとして許していることになる。云い換えれば自然という概念はすでに知られたものとして――常識的にばかりではなく又実に学問的にも――与えられていて、その上で空間という本質が引き出されるのである。それ故この仕方に従えば、自然なる概念の成立の動機が理解出来ない――自然概念は与えられているから。従って又空間という概念の成立の動機も理解出来ない――空間概念は自然概念の成立動機を外にして動機づけられることは不可能であった(前を見よ)。であるからして本質という言葉を用いることによっては空間という概念を理解することは出来ない。ただ之によって研究の効果の挙るのは空間と呼ばれる形相的構造――空間概念ではない――に就いてに過ぎないであろう。処がかかる形相的構造を吾々が何故に空間として概念するかということこそ吾々の第一義の課題なのである。吾々の第一義の問題は、樹が何であるかではなくして、常に、この樹を吾々が樹として理解することは何を意味するか、である。故に自然の本質は空間であるという命題はそれ自身少しも誤りではない。けれども逆に、空間は自然の本質であるという時、もし之によって空間なる概念を理解しようと欲するのであるならば、即ち之を以て空間理論のテーゼとしようとするならば、それは云い足りないと共に云い過ぎであるであろう。今の場合の主客の交換は形式論理に関わるよりも更に根柢的な方法に関わる問題である。本質と概念との区別が横たわるのである。動機を有つ過程があるかないかの区別があるのである。性格があるかないかの区別である。空間が本質であるということも空間に就いての一つの云い表わしである以上、ある意味に於て空間の性格を明らかにするものではあるが、併し、本質は自己の性格を云い表わす処のものであるということ自身を内容としている処の概念ではないと云わねばならぬ。
* 空間の問題が、多くは形相的構造としての空間に就いて述べられて来たことは興味のあることである。空間は虚であるか、実であるか、有限であるか無限であるかなど。併し何が空間であるかという空間概念に就いての問題と之とは別である。

 第二に空間を自然の制約と見る見方を吟味しよう。制約を分けてまず二つとすることが出来る。認識論的制約と存在論的制約。前者は一般に主観と客観との対立を承認し、その上で或いは主観が客観の、或いは客観が主観の条件となると考えられる場合のその条件である。後者は、一般に主客の対立を承認せずして――従って主客の合一も問題の外である――或る現象を成立せしめている処の条件を発見するとすれば、それが之である(制約は原因と区別されて用いられるのであるから、一般に論理的前件である外はない。併し従って又制約を論理的であると述べて見てもそれだけでは何の説明にもならない)。自然が認識論的に規定されるにしても、存在論的に規定されるにしても――認識論的及存在論的は今の定義に従う――この自然を可能ならしめる条件として空間を挙げることが出来るであろう。之はたしかに空間の優れた解釈であるに相違ない。空間に就いては少くともこの解釈の一半を吾々はライプニツ又はカントの根本思想に負うているのである。併し茲に見逃すことの出来ないのは、制約と云えば直ちに制約されるものが之に対立するということである。無論吾々は何かの区別を、従って又対立を用いなければ何物をも概念出来ないのであるが併しもし制約を特に空間に相当させるならば、制約されるものは空間ならぬ他のもの――恐らくは物質――に相当しなければならなくなる。即ち茲では制約者・被制約者――形式・内容――という概念を利用して空間の問題を解くのではなくして、始めからこの対立を構成しておいて適々空間をその一項として※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入するに止まっている。形式としての空間を利用して、内容としての何物かを付加しつつ、空間以外の或る問題はかくして解かれるであろう。併し空間そのものは使用されただけであって問題とされずに終っている。形式と内容とは実は始めから分つことの出来ないものであると云うかも知れない、即ちどこからが形式であり何処からが内容であるかは決定出来ないと云うかも知れない。併しそれならば空間が形式であるということがすでに云えなくなって了う。形式・内容に於てどこからが制約でありどこからが制約されるものであるかが明らかでないならば、即ちどこからが空間でありどこからが空間でないものであるかが明らかでないならば、空間は捉え難いものとなるであろう。空間が形式であると云うからには、たとえ一般に形式・内容の絶対的区別が不可能であろうとも、少くとも空間に就いては空間ならぬものとの区別が与えられるという[#「与えられるという」は底本では「与られるという」]着想がなければならぬであろう。この時すでに形式・内容の一種の絶対的区別――一つの Atomismus ――が主張されている。それにも拘わらずこの絶対的区別の不可能をば形式・内容なる抽象概念を超えて――抽象概念としては形式・内容の絶対的区別は不可能である――具体的な概念である空間にまで徹底させるとすれば、それは一つの云い抜けに過ぎない。何となれば凡そ抽象的な対立概念で絶対的区別が不可能でないようなものは一つもあり得ない。独り形式・内容、制約・被制約ばかりには限らないのである。併しそれであるからと云ってこの抽象的対立概念を用いた為めに具体的対立までが相対化するので[#「相対化するので」は底本では「相対化すので」]あるならば、そのような対立概念は使用に耐えないほど危険であるであろう。故に今の場合の形式と内容との対立はたとえ抽象概念自身としては絶対的でないにしても、絶対的対立を与えるべく使用されることを求めている。かかる役目を果す形式は云うならば静的であると云わなければならない。認識論的制約も存在論的制約も之の外ではないのである。制約としての空間は静的な形式――カントの意味を拡めて用いたアプリオリ――である。――さてこのような形式(制約、アプリオリ)が常に根本的な困難を伴うことを人々は歴史上好く知っている。それはかかる静的な形式が如何にして同じく静的な内容と結び付くことが出来るかという困難である。この根本的な困難を避ける道は形式・内容を運動概念に於て理解することの外には恐らくないと思う。之によれば matter は form となることによって自らを明らかにする。形式はそのような運動の方向を示すものとなる。方向と云っても哲学の説明に於て屡々用いられる譬喩としての方向ではなく――例えば主観と客観は二つの方向であると説明し慣されているようにではなく――実際に運動するもののもつ方向そのものである。この方向は又例えば相関関係に於ける極というようなものではなくして正に運動の方向である。かかる方向を有つ形式は過程に於て理解された過程の一つの特徴であって静的な対立者を云い表わす概念ではない。之は動的な形式である。故にもし仮に制約という言葉でこの動的な意味での形式を云い表わし得たとしても――併し之はありそうにもないことである――そのような制約と向の静的形式を意味した制約とは全く別のものでなければならない。そして後者は困難を伴い、前者はその困難を始めから避けている。故に前者は後者を優越する。そしてこの優越している後者の内に恰も性格としての空間は含まれているであろう。何となれば、自然概念はその成立の動機を次第に明らかにすることによってその性格を顕わにすべき空間概念へと過程して行く筈であったからである。従って空間を自然の性格として特徴づけることは之を自然の制約として――認識論的にしても存在論的にしても――特徴づけることに優っている。
 私は之までで空間を自然の本質或いは制約として見ることが、之を自然の性格として見ることに及ばない理由を根柢に於て説明した。但し前の両者が誤りであるというのではない、ただ不充分であると云うまでである。又両者が一切の立場を網羅していると云うのでもない、ただ代表的な立場を理念的に一般化して指摘したに過ぎない。空間とは何にも増して先ず第一に自然の性格を云い表わすものでなければならない、空間は一つの存在の性格である。之が私の今までのただ一つの主張である。そして之こそ空間の最勝義の正面的な取り扱い方であると信じられる。

 自然の存在の性格として空間が求められたが、これを求めることが直ちに又空間の性格を決定することになる理由は、性格という概念から出て来ることであった。そこで空間の性格をもう少し立ち入って考えて見る。自然の存在の仕方を云い表わす筈であった空間は第一に当然実在にぞくさねばならぬ(実在という言葉は最初のことによって通路に対する)。人々が自然を実在として信頼する理由を私はすでに述べた。無論この実在は物自体ではない、却って、物自体という概念が不成立に終ると云われながらも、事実ともかくも一応考えられ得るということの動機をなしているものが今のこの実在であるであろう。自然は実在にぞくす。そこで第二に之に通達する通路は何であるかが問題とならねばならぬ。尤も人々は次のように云ってこの問題を打ち切って了うかも知れない。空間はかくして実在にぞくすならば――実在はそれに如何にして通達するかに関係なく依然としてそのまま実在である以上――通路は空間理論の根柢に関わる問題とはならない、と。併し吾々は実在に通達するのでなければ実在が何であるかは判りようがないであろう。なる程実在という言葉――抽象概念――は通路を離れても口にすることは出来るであろう。けれども問題は実在という言葉ではなくして正に実在そのものに関するのでなければならぬ。従って通達の仕方によって実在の内容規定が変化しなければならない筈である。通路によって実在にぞくする概念の成立が異らなければならない。空間概念は通路から説くのでなければ単なる言葉の規定に終って了うであろう。何が通路か。空間が本質としてあり吾々が如何にしてこの本質を認識内容とすることが出来るかという問題が今成り立っているのではない。何となれば空間を本質と考えることが何故不充分かということを私は殊に指摘しておいたのであるから。また空間は客観そのもの(物自体)にぞくすのではなくして却って認識成立の制約・条件であるという考えを以て、通路は何かという今の問題を回避することも許されない。空間が自然概念構成の条件であるという主張は決して空間の最勝義な解釈ではなかったからである。私が今の二つの主張を捨てた時、その標語となっていたものは常に空間概念であった。人々は之を理由にして次のように想像するであろう、空間が実在であり、之に通達する通路は正に概念に外ならない、と。空間は空間としてあり吾々は之に対して空間そのものではなくして空間という概念――空間概念とは区別する――を有つのである、と
* 概念に二つの意味があることを再び注意しよう。今の場合人々は私の意味する処とは別なものを之によって意味しているのである。

 この種類の考え方は最も屡々行なわれるのであるが、まずかかる考えの根本的な困難は空間と空間という概念とを対立させていることにある。一つは空間であり他は空間ではなくして一つの概念に外ならないかのようにである。もし空間を認識する通路が空間ではなくして空間という概念であるのならば、かかる空間はカントの物自体に似たものとならなければならぬであろう。この種類の困難は多くの人々が已に之を指摘している。併しそればかりではない。もし空間であるものと空間でないものとの対立が、今人々が想像しているように、実在と通路との対立に当て嵌まるとすれば、かかる実在・通路の対立は――恰も形式・内容の対立に於て見たように――対立概念使用上の誤謬を犯していると云わねばならぬであろう。というのは、対立概念はもとその対立を用いて或る問題を解くべく動機づけられたものに外ならぬのであって、もし問題の解決が何程か不成功に終ったならば、もはや従前通りの意味の対立に執着する理由を吾々は有たなくなるからである。それ故実在と通路とをこのような意味に於て――静的に――対立させることが空間の問題――空間という概念の問題ではない――を解くのに不充分であるならば、かかる対立から出発することは始めから許されない筈である。そして事実実在と通路とのこの静的な対立によって、空間の問題は解かれるのではなくして、ただ空間がこの対立の一項として※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入されるに過ぎない。故に最初吾々が出発した実在・通路の対立が――形式・内容の対立に於てもそうあったように――静的であったのではその対立は無益である。従ってこれに応じて空間と空間という概念とを対立させることも無用でなければならない。故に空間が実在にぞくすと云っても通路にぞくさないことにはならない。併し又私が空間概念――空間という概念とは区別する――と呼んだものは実在と静的に対立する通路としての概念でもない。或る意味に於てそれ自身同時に実在であり且つそれへの通路であるのが――之が動的対立の特長である――正に私の空間概念でなければならない。さて空間の性格を一応このようにして実在―通路に於て理解した上で、更に之を具体的に明らかにするために、私は之を一つの代表的な考え方と照し合わせて見よう。

 実在と通路との否定すべきこの静的対立、従って今の場合では空間そのものと空間という概念との対立、を止揚するために人々は往々判断を導き入れる。判断は人々に従えば実在と通路との関連を適切に理解せしめ、従って空間と空間なる概念との関連をも充分に理解せしめるからである。何となれば判断は第一に一切の認識内容を自己に還元せしめる能力を有っている、というのは一切の認識内容は判断されたものとして特徴づけられ得るのである。之を判断の還元性と呼ぼう。処でこの性質によれば実在は実在と判断されたものとしてしかあり得ない。その意味に於て判断が却って実在性を有つ。そして実在と判断するその判断――それが判断作用であるかそれとも何か他のものであるかは後にして――に於て判断の通路性が見出される。かくて判断はその還元性に於て実在と通路とを媒介する
* 意識も丁度この点に於て判断と似た性質を有つであろう。意識に就いては他の機会に触れよう。

 判断は一般に実在と通路とを媒介するから、従って之は空間と空間なる概念とを結び付けることが出来るように見える。というのは空間は、即ち空間的なものとしてそこに実在するものは、夫と判断されてあるのであって、判断の実在性がとりも直さずこの空間であり、之に反して判断の通路性は判断それ自らであるかのように見える。そのようにすれば、空間は判断に還元されなければならなくなる。そして判断の還元性を承認すればこのことは当然でなければならないようである。そうすれば空間の理論は判断論の特論として形づけられるかも知れない。併し判断の還元性にはどれ程の権限があるのか。
 判断という言葉がすでに多義である。私は今茲で用いようと思う意味をとり出すために之を区別して見る必要がある。直ちに人々の気付くのは判断と判断作用(Urteil u. Urteilen)との区別である。判断するという現実的な作為と、そうではなくして判断された内容(或いは寧ろ対象)――それは非現実的である――との区別である。前者は一つの働きを、後者は一つの事柄を意味する。たとえ両者が離れることの出来ない関係にあると云うにしても、この二つの概念内容の区別を否定することにはならない、そして吾々は実に概念内容に従って事を考える外はないのである。今私はこの前者を判断とは呼ばない。
* リッケルトが内容(Gehalt)と呼ぶのは寧ろフッセルルの対象に対応する、――尤も概念成立の動機を異にするこの二つの概念が互いに等しいとか等しくないとか云うのではない。

 心理的判断作用――前者――とも区別され、又論理的判断内容――後者――とも区別された或る意味での判断が考えられる。判断する働きでもなく判断される事柄でもなくして、その何れにも含まれるが併し独立な一つの概念規定として、判断することの又は判断されてあるものの有様をば、吾々は特に判断と呼んで好い理由がある。判断という有様――状態――関係、之が私の求める意味の判断である。判断とは或る現象の一つの在り方でまずなければならない。
* 判断作用と判断意識との区別は注目に値いする。西田幾多郎博士、「取り残されたる意識の問題」参照。併し今一般に、意識の問題に触れることは出来ない。

 判断は一つの在り方である。論理的なるもの、思惟、の在り方である。判断は多くの人々の云っている通り論理現象の最も優れた徴表でなければならない。尤もラスクなどはその判断論に於て判断が論理現象の第一義ではないことを主張しているが、元来吾々は認識の問題を、即ち云うならば対象の認識の問題を取り扱っているのであって(認識は実在と通路との関連に於て成り立つなどということから出発した通り)、決して認識の対象のみを論じようとするのではない。処がラスクは恰もこの認識の対象を規定しようとする動機に従って始めて判断を第二義とする。寧ろラスクが攻撃しようとする立場が従来何故に行なわれて来たかは、却って判断が論理現象の最も優れた在り方であることから説明出来るであろう。判断は論理の性格をなすものである。処で前に立ち帰って人々の考えに従うならば、一切の認識内容は判断に還元される。之を今述べた言葉に依って云い換えるならば、一切の認識内容は判断という性格を帯びなければならない、その意味に於て論理的でなければならなくなる。之が判断の還元性であった。併しこの判断の還元性はどのような権限を有つか。
* この考え方を最も明らかに述べているものを多くの内から例にとれば、例えば Schuppe がそれである(Grundriss d. Erkenntnis-theorie u. Logik, S. 38 参照)。

 今還元性と呼ばれているものはまず第一に優越性と区別されなければならぬ。というのは例えば凡ての人間が市民である点に於て市民という概念は普遍的な還元性を有っている。けれどもそれであるからと云って凡ての人が市民であることを第一の特徴としていることにはならない。彼は市民であるよりもまず詩人であり旅人であるであろう。特殊の立場に立つのでなければ彼に於て市民は他の徴表に対して優越性を有つことは出来ない。然るに市民は依然として還元性を有っている、彼は矢張り一個の市民である。認識は凡て判断に還元されるかも知れない。併しそれであるからと云って判断が認識の優越せる性格でなければならないと云うことは出来ない。空間の認識は認識である以上、人々の云う通り判断に還元されるかも知れない。そこに存在するものとして、又は何かの長さを持ったものとして、又は此処彼処として、又は内に外に上に下にとして判断されることが空間と呼ばれていることは誤りではない。併しそれであるからと云って判断が空間に代ることが出来るのではない。或いは空間ではないが空間に就いての判断であるというかも知れない。けれども元来空間が何か客体として――カントの物自体――あるとは考えられない。空間は云わば或る一つの認識体系――自然という――に於て始めて行なわれる関係であって、この関係としての認識を更に判断によって認識することは必ずしも必要のない重複である。空間は単に実在にぞくすばかりではなく之に通達する通路でもなければならない筈であった。空間はそれ自身一つの性格であった。もしそれが判断――之も一つの性格であった――に還元され、そして還元性が同時に優越性を伴うのであるならば、空間は消滅して判断となって了うであろう。何となれば一つの性格が他の性格に還元され之によって優越されるならば、前者の性格は消えて後者の性格だけが残る筈である。之は性格という概念から直ちに引き出される性質に外ならない。故にたとえ空間が判断に還元されると云っても、判断が空間に代って好いことにはならない。空間の空間らしい処が実は判断である――思考がそうであるように――という言葉は許されない。次に還元性は構成性と区別されねばならぬ。というのは一切の認識が判断に還元されるにしても、それであるからと云って一切の認識が判断から成り立つということは出来ない。その意味に於て論理的であるとは云えない。空間が判断に還元されるからと云って、空間は論理的である――構成性に於て――ということは、特殊の予定された思想体系を襲踏しない限り、理由のない主張であろう。空間は判断から構成することは出来ない、或いは一般的に云うならば空間が論理的なものから構成される理由はないであろう。
* 略々この体系に当るものはナトルプの Die Grundlagen d. exakten Wissenschaften であろう。

 空間はかくして一つの性格であり、そして例えば普通最も普遍的で根柢的であると考えられている判断からさえ独立な存在の性格である。この結論が多くの不信に出会うであろうことを私は知っている。空間は果して判断――認識の問題の君主であったかの判断――と並べられるだけの資格があるか、と人々は尋ねるに違いない。併し仮に判断の空間に対する優越性を承認したとしよう。そうすると判断自身の内に一つの解き難い問題が現われて来るのに人々は気付くであろう。存在判断がそれである(空間に就いての判断の根本的なものは存在判断にぞくし、そして空間判断こそ又存在判断を代表する)。無論ヴィンデルバントのように一切の判断の本質を妥当性に帰して了うならば存在判断の問題も消えて了うように見えるが、妥当性――判断の本質――はとりも直さず判断の還元性を云い表わす筈であるから、一切の判断が妥当性に還元されるのは少しも珍らしいことではない。そして之は妥当が空間に対して持つと思い做される優越性とは関係がないことであった。ラスクは「存在」を一つの範疇と見做して、「単に論理的な妥当する或るもの」と云っているが**、もし「論理的」又は「妥当する」にアクセントを置くならば、この言葉は論理の還元性を知らず知らずの内に優越性に変える役目を果すであろう。故にアクセントを寧ろ「或るもの」に置くことを吾々の問題の成立は要求している。そしてこの既知であるかの如き或るものが吾々にとって疑問の或るものなのである。之に反してブレンターノは凡ての判断を存在判断に直すことが出来ると主張する。併し出来るということとそうすることが本来であるということとは別である。そして今吾々は還元性を頼りにすることは出来ないのであって、常に優越性を目当にしなければならない。それ故存在判断の問題――存在判断が他の判断(属性判断)から区別されねばならぬということに基く問題――は避けることが出来ない。存在判断には独特の徴表がなければならない、存在を措定する或るものが、たとえ判断が単なる措定ではなくして措定に判定を加えたものであるにしても、その判断の内に現われて来なければならない。この徴表をπと呼ぼう***。さてこのπはもとより判断そのものから出て来ることは出来ない、論理そのものによって構成されることは出来ない。又徴表πは判断に於て始めて徴表となるのであるから――何となれば徴表という言葉は判断であればこそ用いられたのであるから――判断に於て成り立つのではあるが、πが云い表わす措定は判断(ヴィンデルバントに従えば判定)ではない。判断は措定されたものに加えられた判断である(私は今 J. Bergmann の言葉に従っている)。措定は判断に還元されても依然として措定であり続ける、措定が判断に還元されたものがπであった。故に措定は判断によって優越されない。かくして存在判断にあっては、判断は措定に対して構成性も優越性も有つことは出来ない。空間はかかる存在判断として判断に還元される外はない。再び繰り返そう、空間=措定は判断ではない、判断は空間の判定であって措定ではない、そしてこの判定を特に存在判断として数えるのである。
* Windelband, Beitr※(ダイエレシス付きA小文字)ge zur Lehre vom negativen Urteil.
** Lask, Gesammelte Schriften, 2ter Bd. S. 347 u. a. O.
*** J. Bergmann, Grundz※(ダイエレシス付きU小文字)ge der Lehre vom Urteil 参照。

 空間は判断にぞくすことは出来ない。両者は全く独立な二つの現象――自然と思惟、存在と論理――の存在の仕方である。性格であると呼ぶ所以が茲にある。私は「存在としての存在」と「真理としての存在」との区別を此処にも見出すことが出来ると云えるであろう。認識が常に真理と結び付いていて存在と結び付きにくかった時、認識は判断を君主として空間を放逐した理由を吾々は今知ることが出来る。

 人々は空間と判断との並立のこの主張をまだ信じないかも知れない。空間の性格をもう一歩立ち入って決定することによって同時にこの主張をも明らかにしよう。思惟が判断するという言葉が許されるならば、之に並立して、自然は空間するのである。普通「空間の内に」とか「場処に」とか云われることは今やかく云い直すことが出来る。吾々が判断するという言葉は許されるが吾々が空間するという言葉は許されないと云うかも知れない。併し吾々は現に行為し実践するではないか。行為と行為を判断することはあくまで区別がなければならぬ。空間に於ける運動――静止もその一部である――となって現われるものでなければ行為とは云わない。単なる観念と実践とを峻別するものは正に空間するか否かである。自然が空間すると云い又吾々が空間すると云うのは不思議であると云うならば、判断の場合にも、思惟と吾々とは同一であるか。自然を「吾々」から独立に理解することはこの文章の出発点を誤解しているものに外ならないであろう。自然は存在に対する吾々の信頼として成立した概念であった。物が空間するのと吾々が空間するのとは別であると云うかも知れないが、元来、吾々が手に触れ又は動かして見るか、或いは少くとも夫と想像されないようなものは、物という常識概念として成り立つことは出来ない。物は吾々の日常生活の相手の外のものではない。かかる物が空間するとは実は吾々が――但し私は茲に先験的自我というようなものを考えているのではない、自我ではなくして「吾々」である――空間することと一つである。吾々の空間することが物の空間することの根柢である――併し観念論的自我概念と関係のないことを再び断っておく。かくて空間は判断と同様に直接に吾々と接している。併しカントのように空間を何かの意味の主観にぞくせしめることを私の吾々は少しも意味しない。吾々は現象の存在の仕方の――空間とか判断とか――一つの契機であると云ってよいであろう。空間とは空間することである。
 空間が吾々に直ちに接していることを認めるならば、今や空間への通路の問題に自ら触れて来る。空間は存在にぞくすと共に通路性をも持っていなければならない、と既に一般的に決められてあった。吾々が空間へ通達する道、それによって空間が吾々に触れて来る処のもの、之が空間への通路である。そしてこの通路はまず第一に、吾々が空間するという言葉によって最も明らかに指摘されているのである。空間は吾々と独立に成り立ち吾々が後から之を取り扱う種類のものではなくして、実に吾々に於て始めて成り立つものであるからである。判断は恰もこれに似た通路性に依って認識の代表者と考えられて来たのである。今や空間もその資格に与らなければならない。空間はそれ自身独立な進路を有つ、判断を煩わすことなくして吾々に直接に触れることが出来る。空間という性格はそれ自身通路性を有つ。処が通路の問題は之に尽きないことを忘れてはならない。吾々が行為実践することと之を理解することとの間には重要な関係がある。無論行為と行為に対する判断――行為しようとする意志、行為しているという自覚、行為したという追憶――と区別されねばならぬことはすでに明らかにされたが、併し今の場合はこの区別とは別な関係である。何となれば実践に対する判断はもはや空間という性格を失って判断という性格を担って了っている。両者の区別は二つの性格の夫である。処が実践の理解は実践という性格を消滅させて了うものではない。もし理解が理解されたものの性格を破壊して了うものならば、吾々は到底物事をありのままに、その性格通りに、理解することは出来ない筈である。私は空間を理解し従って空間を理論することは出来ない筈である。理解は判断ではない。後者は一つの性格の名である、之に反して前者には性格が無い。さて行為・実践――空間――は単に空間するばかりではなく、空間しながら空間という性格を保ちながら、そのまま空間として理解されねばならぬ。逆に云うならば空間として理解されない処に空間という性格は成り立ちようがないのである。理解そのものには性格はないが他のものの性格は理解を離れてあり得ないことを茲に述べる必要はないであろう。性格空間を私が、単に空間と呼ぶよりも寧ろ空間概念と呼ぶことを選んだのは何故かが之である。かかる理解は第二の通路である。かくて空間は――判断も亦そうであるが――二重の通路性を有つ。吾々が空間する処のものとして、及び理解されるべきものとして。

 私は最後に空間概念――空間は実は空間概念でなければならなかった――の概念という言葉の意味を説明してこの文章に結末をつけよう。概念は普通、判断(乃至推論)と結び付けられて語られる。判断は概念の敷衍であるとか、概念は判断の圧縮であるとか。判断は論理学に於て――特に判断論理学と呼ぶのを適当とするような論理学に於て――殆んど常に、このように見做されているであろう。併し私が用いることを望んでいる概念は之とは全く性質を異にしているのである。何となれば人々の概念は結局、判断と同一性格であるからして、判断の性格を失うことは出来ない。それは判断として他に対する優越性を有ち――実名論はその一つの現われである――、又他に対する構成性を有つ――汎論理主義はその一つの現われである。であるからこの意味に於てこのような概念は正に論理的でなければならない。論理的とは特に論理の優越性乃至構成性を云い表わす形容詞である。論理的な概念が形成する体系を考えて見れば、それは人々の思う処とは異って、思想の体系――哲学――ではなくして、数学――思惟の体系――のようなものであるであろう。思想思惟によって特徴づけられることは出来ないと思う。向に空間に対して、私が空間ならぬ「空間という概念」と呼んだ概念が正に之である。かかる意味での概念を用いては問題が解けないことをその場合明らかにしておいた。之に反して私の概念は理解の形を云い表わすものであるから、そして理解は自分の性格を以て他のものの性格を蔽うのでは理解にならないからして、それは無性格でなければならない。青銅のように自分の形を固持する形式ではなくして封蝋のように空しい質料が夫である。それはもとより判断としての優越性も有たない。それ自身の性格すら持たないからである。故にかかる概念は今云う意味に於ては論理的ではないのである。概念は或る意味に於ては必ずしも論理的でないことを已に注しておいたであろう。故に空間概念は空間が空間として持つ性格を没却する概念ではなくして、空間をそのまま受け入れて理解せしめる概念である。空間が空間概念という他者となって理解される――通達される――のではない、空間概念は始めから空間そのものでなければならないのである。それであればこそ空間が空間概念として取り扱われる優れた理由があったのである。
 この意味の概念であればこそ空間は一つの性格であることが出来る。何となれば或るものの性格とはその或るものを最も代表的に優れて理解せしめ、云い表わし、解釈せしめる処の徴表であるから。そして概念とは性格が自らを明らかにする過程のとる道の外ではない。自然概念が自らを明らかにする過程に於て、その概念を成立せしめ従ってこの過程を発生せしめる動機に従いながら、自らの性格を現わしたものが空間である。空間は再び空間概念である。故にこれは再びその性格を明らかにする動機を含んでいなければならない。
 空間は述べて来た意味に於て自然という存在の仕方の性格でなければならないであろう。そして同時にこのことが空間の根柢的な性格である。
(一九二七・八・三〇)





底本:「戸坂潤全集 第一巻」勁草書房
   1966(昭和41)年5月25日第1刷発行
   1967(昭和42)年5月15日第3刷発行
初出:「思想 第七二号」
入力:矢野正人
校正:狩野宏樹
2012年2月8日作成
2013年10月28日修正
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