学界の純粋支持者として

戸坂潤




 学界というものをごく狭く理解して、研究室や研究所に直接関係がある世界のことだとすると、私は今日では全く学界の外の人である。私は研究所の嘱託でも研究員でもなければ、大学の教室の助手でも助教授でもない。私は所長や教授会の御気嫌をうかがったり、主任教授の命じた結果を出すような研究をやったり、論文を捏ね上げて学位を取ったり、する必要はない。従って誰が自分より先に教授になろうと又博士になろうと一向心配ではない。そういう点から、私は少くとも学界に対する不平などはないのである。ただあまりにクダラない男が尤もらしい顔をして大学の教師などにおさまっているのを見ると、一寸悪戯がしてやって見たくなる位いの関心なのである。
 之は研究室をめぐる人間界という意味での学界のことであるが、併し研究所や大学にはこの人的な学界と関係して、沢山の良い又珍しい本や資料があるのは勿論だ。この書物や資料の貯蔵を中心として学界というものを考えて見ると、今度は相手が人間ではなくて書類なので、別に不平の起きる余地はない代りに、甚だ食指の動くものがあるのである。従って之を占有し又は自由に利用し得るアカデミシャンに対しては、正直に云って、羨しい気持を抑えることが出来ない。そこでもしこのアカデミシャンが、判だの鍵だの紹介状だの其他一切の権威の象徴を用いて、私を社会的にこの宝庫に近づけない結果を招くとなると、この羨しさは忽ち抑えがたい不平に転化せざるを得ない。
 大学は如何に顛落しても、まだ本が豊富であることにはあまり影響が及んでいないらしい。この人的学界や書類の学界から疎縁になっている人は、人一倍大学の本の偉大さを知っているだろう。そういう在野の学者は大学を見るとただ本だけしか見えない。良い本を系統的に買うことの出来る人物が良い大学教授だという風にさえ考えられる。事実自分で問題を豊富に有たず、又あまり勉強しない教授は、大学の豫算は充分であっても、ロクな本は買えないものだ。御承知の通り、日本には一般的に利用し得る学術図書館は、大学や研究所の夫を除いて、ただの一つもないのである。日本の図書館は学校の生徒が受験勉強をする所なのだから。処がその大学や研究所の書庫が原則として公開されていないとなれば、独り在野の学者に限らず、世間の大衆の不平が積るのが当然と云わねばならぬ。社会科学方面で公開している大学書庫は慶応大学のものが好き例であるが、自然科学方面の学術図書が公開されていないのは遺憾だ。日本は世界の一般大衆が邪魔になる程科学者の図書利用が激しいのだろうか。
 併し第三の意味の学界がある。日本何々学会という種類のものが夫で、主に例の研究室夫々の家の子郎党達の緩衝的外交地帯をなすものだが、同時に又研究室人の学界を一般社会に推し出すメカニズムともなっている。之には直接研究室生活をしていない在野学者や素人学者も儀礼的に動員されるのを常とする。私はそういう学界ならば関係を有っているものもあるが、併し之は学術上の研究のための世界ではなくて、アカデミシャンの社交界なのだから、理事になったり会長になったりしたがらない限り、不平などのあろう筈はない。
 その他にごく少数の私設(?)の学会乃至学界がないではないが、今まで云って来た点から見る限り、あまり問題にはならぬ。でそこで学界の種類はもう尽きたように考えられるかも知れないが、処が最後に本当の学界が残っているのだ。というのは、この現実の社会で学術が支配的影響力を有つ限りの世界が、広義の所謂「学界」――学壇――であることは今更述べるまでもないからである。併しそうなると、前に云った研究室に於ける学者の一種の家庭生活や、書物の貯蔵や学者のメーデーのようなものとは異って、社会的に云って非常に真剣な意味を有って来るのであり学問の本当の根本精神に触れて来るのである。こうなると、もはや本が羨しいとか何とか云ってはいられないので、本があろうとなかろうと、研究すべきものは研究しなければならぬという、社会的必要が支配的になって来るのである。従ってここではこの学界に対する不平とか不満とかいうことは問題でなくなって来るのであって、元来不平や不満は相手に多少とも期待をもち依頼心をもち一種の同類感をもつことから来るのだが、そういう期待依頼心同類感を絶した処には、不平も不満も成り立ち得ない。ブルジョア社会の学界は元来ブルジョア学界なのであって、そして学問は不平や不満で動されるのではなくて云わば真理への情愛と虚偽に対する悪しみによって動かされるのである。唯物論者は誰しも、学界に対して不平は持たぬ、憎悪をもつだけだ。
 併し学問は凡ゆる場合に公正でなければならぬし、又そうあらざるを得ない。フェヤプレーが最も確実な勝利の道だということが事実だからである。ブルジョア科学の部分的真実は、部分的に真実であることを失うためではない。この点を介して初めて、学問の公共性が党派性を通じての客観性が横たわるのである。この最終の意味に於ては、私は「学界」に対して不平であるどころではなく、限りなく之を支持したいと思っている。
(一九三五・五)





底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1935(昭和10)年5月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
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