獄中通信

戸坂潤




 戸坂嵐子殿(十九年十二月十二日朝)
 八日に手紙六通(老人3嵐子2イク子1)入手、進学の件など明らかとなり安心。――昭和の高等学院が第二次なら第三次を何でもよいから一つ選べ、もし第三次なら第二次に然るべきものがあったら出すこと。日本女大必ずしも毛ぎらいすべからず。
 明大の女専には文科はないか(庸之君にでも聞くこと)。東女大の平野智治夫人其他の諸夫人、日女大の菅支那子夫人などをキオクすべし。――明星で東女大に競争がないと赤井さんの云ったというのは本当か?――海へ、仮名を読本にある通り正確に、又漢字は間違わぬよう、自分で読み直す習慣を厳重に申し送るべし。――面会は警報等の関係もあり、あまり月末におしつまるとチャンスを失う恐れあり。――次のアドレス一目瞭然たるように知らせてほしい。大阪、松井、函館、伊藤長夫自宅。なお大阪、川崎、松井、函館には僕の現住所を知らせておくこと必要。寒さ加わるが大分身体はなれて来た。正月には早めに葉書を出そう。海達を見て来たら手紙でイサイ報告のこと。

 戸坂嵐子殿外御一同(昭和二十年一月八日朝)
 このハガキ、ホゾンのこと。今年は去年よりも良い年であるように。松の内もすぎたが、年頭に際し、お父さんの九月来の勉強の報告をしておこう。専ら仏教の勉強だ。仏教関係の書物二十五冊以上、内、国訳一切経十四冊(阿含経10、四分律4)、諦観の「天台四教儀」(織田の「和解」による。なお蒙潤の「集註」あり)などもあり渡辺楳雄「小乗仏教」、ピ・ラクシュミ・ナラス「仏教の要諦ザ・エッセンス・オブ・ブディズム」(立花訳)、ポール・ケーラス「仏陀の福音」(八幡訳)などは好著。旧新約聖書(明治二十五年版)などを通読。総計一万二千頁以上になろう。――さてここでは餅にミカン、黒豆、数の子(一片)、生揚げ、昆布、鱈、白米、煮豆、人参、大根、葱、年越ソバ(十数本)などで大晦日から三ヵ日をすごした。まず無事に歳を取ったというもの。家のお正月は如何。嵐子及び月子の誕生祝は如何。――口頭試問の用意に、お父さんの職業は判っていても業態の説明が出来ぬと閉るから、おバアチャンやお母さんによく聴いておくこと。一月の面会、引越し後に無駄足をしてもいいだけの時間の余裕を見た方がよかろう。――東亜文化協会から通信あり成功をよろこんでいる。

 戸坂嵐子殿(二月九日朝)
 吉報(嵐子及び母さん)見た。お父さんは本当に嬉しい。一陽来福の感だ。之も僥倖と人々のおかげであること、幸ちゃんと同断である。お祝いの格好をした御馳走(ムシパンのクリスマスケーキ、同じく鯛ヤキなど如何?)してお貰いなさい。――今後は一人前の大人としての待遇を受けることになるから、対家庭対社会上の責任を自覚して、健康と性格とに自分で向上を心がけること。処で勉強の方、三月一日から毎日一時間前後(長いのは無効)ラムのシェクスピアを自分で工夫憶測しながら文脈を理解して読む努力を続けること。之に半年苦心すれば英語の読書力と理解力は著るしく進歩する。之は絶対励行のこと。――海と月子あてに入学の知らせを嵐子からおやりなさい。学校の説明を加えて。之は子供達の刺※[#「卓+戈」、U+39B8、308-下-9]になるから。勿論諒氏夫妻先生にも知らせたろうな。――おばあちゃんの新しい筆で若やいだ手紙及び嵐子の和歌の手紙も受け取った(今日のニュース非常に要を得ている。おばあちゃんの日誌はどうなったか)。ウタは出来合いの言葉を便宜故に用いるのをなるべく避けること。併し仲々の進境だ。又ニュースをたのむ。
――万象ものみなのものの生命いのちはさやけくも伸びて行くらし青き空見る。
 春も近いね。
 *嵐子氏東京女子大入学のこと。

 戸坂嵐子殿(三月二日午前)
 三月だと云うに雪どけで寒いことだ。あと三週間もして、彼岸のお萩でも食べれば、春めいて来よう。お父さんは相変らず仏教の勉強に余念がない。正月以来十一冊ほど好書を読むことが出来た。――四月にでもなったら原田のおばさんの処で、嵐子やお父さんの近況を報告しておやり(但し家のことは心配無用と断って)。――海の二学期の成績をまだ聞いていない。知らせて欲しい。――お父さんの格子の冬合服木島あたりで裏がえしをするか、するならさせること。靴各種(長靴を含む)修繕出来たらしてほしい。――先月のお父さんの葉書勿論見たことと思う。
 嵐子の二月三日の手紙以来まだ通信を受け取らないが、空襲などで遅れているのだろう。併しかまわず続々と手紙が欲しい。――思いついたのだが、おばあちゃんは、もし酒の配給が家に来るようだったら一日に一遍ぐらい少しずつ飲むのが消化を助けると思うが。

 戸坂嵐子殿(四月十二日午後)
 愈々春だが、ここではまだ底寒い。二月の末から三月の中旬頃まで、寒波との闘争につかれて(抹消)衰弱し、胃を害していたが、この頃は眼に見えて恢復して来た。(抹消)――嵐子の学校の様子色々知らせて欲しい。明星の卒業生は大体何人どこへ這入ったか。及女大の方はどんな模様か。工場で現場にまわったそうだがどういう仕事か、等。――おばあちゃんの神経痛は良くなったか知ら。もしハリバが買えるなら皆で呑むと好い。存外よい薬だ。――海の手紙、三月に這入ってからのは大変しっかりして来た。勉強する気持ちになって来たらしい。ほめてやって呉れ。

 戸坂嵐子殿(五月六日(日)午後三時)(長野)
 その後変ったことはないか。お父さんは一日の夜行で発ち翌早朝長野市へ着いた。課長、部長等三名が送って呉れて当地に疎開したわけ。久し振りに東京の街の有様を見、荷物にゴッタ返した闇い車内、スッカリ変った服飾など見てウタタ感慨が深かったが、夜があけると世界は一変して、妙なる枝振りの林檎、桃、水蜜、杏、牡丹桜八重桜(欝金もあり)、散り残りの山桜、木蓮、海棠さては菜の花、桐の若葉、紅葉など、春をこの一瞬に集めている。お父さんはスッカリうれしく、久し振りの運動傍々殆ど特権的な(上野では先に乗り込む)楽なたのしい旅行をした。ここは寒いのと旅行や小包の一般的制限のため面会や将来のさし入れとの他に不利な点があるが、空襲に対する安全率と東京より栄養の可なりよいのと地方であるためにノンビリと山など運動場から眺めて暮すことが出来るなど有利な点である。身体は好調で、これをチャンスに根本的につくり上げようと思う。従来よりも筆まめに(葉書でもよい)たのむ。母さんにも、おばあちゃんにも少しも少しも心配しないように呉々も。お父さんはここに来たのをよろこんでいるから。では。

 戸坂嵐子殿(六月二日午後)(長野)
 その後変ったことはないか。手紙おばあちゃん二通(外に四月二十五日出のは東京で見た)、お母さん一、嵐子二受け取った。お父さんは大変元気、身体も大いに好調、ここはミソが豊富で甘いので大分太ったようだ。食事の分量も運動も風呂も仕事も東京よりよいので喜んでいる。本は東京より少し不自由だが、国訳一切経は続けてよむことにしている。梨、藤は素より、牡丹、かきつばたもすぎて今は桐にひな菊が見られる。二三日中に芍薬が吹くだろう。猫岳(スガ平)の雪もやっと消え、周囲の山は新緑がまだ浅いが駘蕩たる霞につつまれている。面会は所の執務時間に、東京よりも長く会えるらしい。もし来られたら金三―五〇〇円、合服三揃、スキー帽、手袋、襟巻、シャツ、ズボン下、カトリック辞典一二、英語のギリシャ語文典(机上)、机上の国訳漢文大成を、出来る限度に於いて領置しておいて欲しい。金は時局柄、又将来の物価騰貴を参考(出来たら価格表記で送って貰おう)――読んだ本、一切経三(般若二、華厳一)稲葉円成「聖徳太子」、佐々木月樵「親鸞上人伝」前田慧雲「大乗仏教史論」、インブリー「拉太書註解」、論語、孫子等――嵐子は英語の勉強はお父さんの云った通りしているか。それから「ブランデスの近世ヨーロッパ文学史」(八畳のタタミの上の書架に七冊揃い)の一読をすすめる。お父さんは徹夜して耽読した本だ。ここではニュースを割合聞ける。手紙時々たのむ。

 戸坂嵐子殿(七月二日午後)(長野)
 おばあちゃんの手紙、かあさんの葉書4、嵐子の手紙1受け取った。当方変ったことなし、目方も大分増したらしい。ニュースをよく聞く。芙蓉と名を知らぬ花の花盛り。この頃は金板みがきをやめて足袋職人。毎日薬を食う。毎日ヒゼンの薬湯に入る。書架は南側中央及び北が大切。いざという場合には井戸に投げ込むのも可。おばあちゃんには若い者の意見をよく聞いてやるように。出来たら葉書五六枚送って欲しい。面会に来られたら来るように。嵐子も一緒で結構、長野近くでは昨年など林檎七八円で一人一貫か二貫まで売ってよいことになっていたそうだ。本間から通信あり。(抹消)嵐子の学校の様子を細かく知らせること。なるべくは間を造って英語と読書とをやるように。その後「華厳経」一、鈴木大拙「東洋的一」、孟子、ブラウン「キリスト教要義」など読む。海達の手紙を少し送ってよこすこと。送金の方はどうなったか。家の方今更生半可の処に引き越しても効果は少ないと思うから、今のままでいるのもよかろう。かあさんの仕事の方はどうなったか。いずれ又。七月二日午後。
 *空襲の際の処理案である。

〔付注〕
 戸坂嵐子氏は長女。
 おばあちゃんは御母堂(故人)。
 海君は長男。
 月子君は次女。





底本:「戸坂潤全集 別巻」勁草書房
   1979(昭和54)年11月20日第1刷発行
初出:「人民評論」
   1945(昭和20)年12月号
入力:矢野正人
校正:Juki
2012年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「卓+戈」、U+39B8    308-下-9


●図書カード