お銀様は今、竜之助のために甲陽軍鑑の一冊を読みはじめました。
「某 は高坂弾正 と申して、信玄公被管 の内にて一の臆病者也、仔細は下々 にて童子 どものざれごとに、保科 弾正鑓 弾正、高坂弾正逃 弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに、父は春日大隅 とて……」
それは巻の二の竜之助がおとなしく聞いているために、品の第六を読み
「有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
柱に
「何の花」
「椿の花」
お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を
「たあいもない」
竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの
「お銀」
竜之助はお銀様の名を呼びました。それは
「はい」
お銀様はこう呼ばれてこう答えることを喜んでいました。自分から願うてそのように呼ばれて、このように答えることを望んでいるらしい。
けれども竜之助は呼び放しで、あとを何の用とも言いませんでした。ただ名を呼んでみて、呼んでしまっては、もうそのことを忘れてしまっているようでしたが、実はそうではありません。
「あなた」
お銀様は椿の花を
「この花をどうしましょう、わたしの一番好きな椿の花」
お銀様はクルクルと、椿の花を指先で
竜之助は返事をしません。けれどもお銀様はそれで満足しました。
「生けておきたいけれども、何もございませんもの」
お銀様は、わざとらしくその花を持ち扱って、机の上や室の隅などを見廻しました。この一間に仏壇があることは、お銀様も前から知っていました。けれども、この花は仏に捧げようと思って摘んで来た花ではありません。ところが、
お銀様はその一花二葉の椿を持って、仏壇の扉をあけた時に、まだそんなに古くはない白木の
「
と読んでお銀様は、手に持っていた椿の花を取落しました。
「悪女大姉」の
不貞の女をもなお且つ貞女にし、不孝の子をもなお孝子として、
何の怨みあってその近親の人が、この位牌を
それがお銀様にとっては、単に文字の示す悪い意味の不快な感じだけでは留まりませんでした。悪女! お銀様はむらむらとして、ここにまで自分を見せつけられる
お銀様がここへ来るずっと前から、たった一つ、こうしてここに置かれてあったのだということも、いかに
お銀様は、悪女の文字から来る不快と
その晩のこと、お銀様は竜之助を慰めるために話の種の一つとして、ふと、このことを言い出す気になって、
「そこにお仏壇がありまする、その中に、妙な戒名を書いたお位牌がたった一つだけ入れてありました、何のつもりで、あんな戒名をつけたのだか、わたしにはどうしてもわかりませぬ」
「何という戒名」
「悪女大姉というのでございます」
「悪女大姉? どういう文字が書いてあります」
「悪というのは善悪の悪でございます、女というのは女という字」
「なるほど、悪女大姉、それは妙な戒名じゃ」
「ほんとにいやな戒名ではござんせぬか」
「戒名には、つとめて有難がりそうな文字をつけるのに」
「それが悪女とはどうでございます、死んだ後まで、悪女と位牌に書かれる女は、よほどの悪いことをしたのでございましょう」
「誰かの
「いいえ、そうではございませぬ、立派な位牌にその通り
「はて」
「もしわが子ならば親が
「どうも
「いいえ」
「その悪女の悪という字が、たとえば慈とか悲とかいう文字が、墨のかげんでそう見えるのではないか」
「そうではございませぬ」
「慈女大姉、悲女大姉、その辺ならばありそうな戒名だが、好んで悪女と附ける者はなかろう、それは御身の読み違えに相違ない」
「いいえ、確かに」
お銀様は、確かに自分の眼の間違いでないことを主張したけれども、そう言われてみると、
「そんならば、もう一度見て参りましょう」
お銀様はそれを
「それごらんあそばせ、悪女」
取り出してよいものか悪いものか懸念をしながら、お銀様は自説の誤らないことを保証するために、行燈の光までその位牌を持ち出しました。
「確かに悪女? そうして裏には……」
竜之助に言われて、お銀様が位牌の裏を返して見ると、そこには「二十一、
その翌朝、竜之助は、お銀様に手を引かれて、小泉家の裏山へ上りました。
お銀様は、その山岳の重畳と風景の展望に、心を躍らせて眺め入りました。
山岳にも河川にも用のない机竜之助は、日当りのよいことが何より結構で、お銀様が風景に
「あなた、そこはお墓でございますよ」
お銀様に言われて、そうかと思ったけれども、
竜之助の腰を卸していたところは墓に違いありません。ほかの墓とは別に、
竜之助が動かないから、お銀様もまた、その近いところへ
あたりの林も静かでありました。丸腰で来た竜之助は、ついにそこへゴロリと横になって
それだから竜之助は、墓を枕にして寝ているもののようです。寝ている竜之助はそれをなんとも思ってはいないらしいが、傍で見たお銀様は、快い形と見ることができません。この人に墓を枕にして眠らせるということが、好ましいことではありません。それとも知らずに竜之助は、
「こんなところで死にたいな」
と言いました。けれどもそれは
「石になっては
お銀様はこう言いながら、ほとんど二人並んで寝るように片手を伸べて、竜之助の頭の石塔の石を
それよりもまた、お銀様の胸を打ったのは、昨夜調べてみた「悪女大姉」の位牌の裏の文字が、これと同じことの「二十一、酉の女」の文字であったことです。
この文字を見た時にお銀様は、蛇を踏んだような心持になりました。寝ていた机竜之助は、何を思ったか、むっくりと頭を上げて起き直り、
「お銀どの」
「はい」
「あの、ここは何村というのであったかな」
「ここは東山梨の
「東山梨の八幡村?」
「八幡村の
「八幡村の江曾原!」
竜之助がいま改めてそれを聞くのはあまりに事が改まり過ぎる。ここへ来てからも相当の日数があるのだから、仮りにも現在の
「して、いま我々が厄介になっている家の主人の名は」
「小泉と申します」
「小泉……それに違いないか」
「いまさら、そのような御念を」
「八幡村の小泉家――そこへ、拙者も、お前も、今まで世話になっていたのか」
「それがどうかなさいましたか」
「小泉の主人というのは、拙者の身の上も、お前の身の上もみんな承知で世話をしているのか」
「いいえ、わたしの身の上は知っておりますけれど、あなたのことは少しも」
「それと知らずにこうして、隠して置いてくれるのか」
「左様でございます」
「お銀どの、そなたの家は甲州でも聞えた大家であるそうじゃ」
「改めて左様なことをお聞きになりますのは?」
「お前はここからその
「まあ、何をおっしゃいます」
「小泉の主人に頼んで、実家へ
「わたしに帰れとおっしゃるのでございますか、わたし一人を有野村へ帰してしまおうとなさるのでございますか」
「
「何のことやらさっぱりわかりませぬ」
「わからないうちに帰るがよい、危ないことじゃ、これから先へ行くと、お前も悪女になる」
「悪女とは?」
「悪女大姉、二十一、
「あなたのお言葉が、いよいよわたしにはわからなくなりました」
「わかるまい、悪女大姉、二十一、酉の女というのは、拙者にも今までわからなかった」
「あれはどうしたわけなのでございます」
「あれはな」
「はい」
「あれは、人に殺された女よ」
「かわいそうに。そうしてどんな悪いことをしましたの」
「お前がしたような悪いことをした」
「
「男の魂を取って、それを自分のものにしようとしたからだ」
「妾はそんなことは致しませぬ」
「いまに思い知る時が来る」
竜之助が石塔の頭へ手をかけて立ち上った時に、どこからともなく一陣の風が吹き上げて来ました。その風が、
「なんだか、わたしは怖ろしうございます」
日はかがやいているのに、お銀様はその
机竜之助はその晩、ふらふらとして小泉の家を出でました。
お銀様は竜之助の出たことを知りませんでした。それは竜之助がお銀様の熟睡を見すまして、
小泉の家の裏手を忍び出でた竜之助は、腰に手柄山正繁の刀を差していました。これは神尾主膳から貰ったものであります。手には竹の杖を持っていました。これも甲府以来、外へ出る時には離さなかったものであります。
その歩き方は、甲府において辻斬を試みた時の歩き方と同じであります。あるところはほとんど杖なしで飛ぶように見えました。あるところは物蔭に隠れて動かないのでありました。自然、甲府でしたことを、ここへ来ても繰返すもののように見えます。
けれどもここは甲府と違って、人家も
「それでは新作さん、行って来ますよ」
それは若い女の声。
「ああ、気をつけておいで」
それは若い男の声。
「ずいぶん暗いこと」
若い女は外の闇へ足を踏み出しました。手拭を
小屋の中で
「
と言って笑うと、
「大丈夫だよ、わたしなんぞを見込む狸はいないから」
女もまた、小屋の中を見込んで笑いながら戸を締めました。
女はこう言い捨ててスタスタと
この水車はある一箇の人の持物ではなくて、この八幡村一郷の物であります。一軒の家が一昼夜ずつの権利を持っている共有物でありました。その当番に当った家では、その機会においてなるべく多くの米を
もし若い娘がその当番の夜に働いていたならば、それと
右の若い女が土手道をスタスタと歩いて行く時に、机竜之助は壁の下から軽く飛んで出でました。いくばくもなくその娘のあとから追いつきました。追いついたというけれど、それはほとんど風のようです。風は微風でも音がするけれど、竜之助の追いついた時までは音がしませんでした。
でも女はその音を聞かないわけにはゆきません。
「おや?」
「物を尋ねたい」
「はい」
女はワナワナと
女はワナワナと慄えて、立っていられないために地面へ
「あれ!」
と叫ぶ口を、竜之助は
「お前は小泉という家を知っているか」
こう言いながら竜之助は、いったん固く押えた女の口を
「はい……」
女は再び叫びを立てるほどの気力がありません。
「それはどこだ」
「小泉の旦那様は……」
「小泉の主人を尋ねるのではない、小泉の家にお浜という女があったはず、それをお前は知っているか」
「小泉のお浜様は……もうあのお家にはおいでがございません」
「どこへ行った」
「お嫁入りをなさいました」
「それから?」
「それからのことは存じませぬ」
「知らぬということはあるまい」
「存じませぬ」
「人の
「人の噂では……」
「気を落つけて、人の噂をしている通りを、わしに聞かしてくれ」
「人の噂では、お浜様はよくない死に方をなされたそうでございます」
「よくない死に方とは?」
「悪い奴に殺されたのだなんぞと、村では噂をしているものもありますけれど、わたしはそんなことは知りませぬ」
「悪い奴に殺されたと? どこで……」
「はい、お江戸とやらで殺されて、骨になったのを、こっそりとこの村へ届けた人があって、それでお浜様の幽霊が出るなんぞと若い衆が言っていますけれど、わたしなんぞは何も存じませんから、どうか御免なすって下さいまし」
「お前はどこの娘だ」
「わたしは……」
「お前の歳は?」
「十八でございます、助けて下さいまし」
「十八……それで名は?」
「名前なんか申し上げるようなものではございません」
「いま水車小屋にいた若い男はありゃ、お前の兄弟か、亭主か」
「あれは新作さんでございます」
「新作というのは?」
「この村の若い者」
「お前はあの男を可愛いと思うか」
「それは、あの人はゆくゆくわたしと一緒になる人……」
「うむ、わしはこの通り眼が見えないけれど、感で見ると、お前は可愛い娘らしい、お前に可愛がられる若い男は仕合せ者じゃ」
「あなた様は、わたしをどうなさるんでございます」
「小泉のお浜を殺したのは
「エ、エ!」
「その
「ああ怖い」
「これから後、拙者の差している刀に血の乾いた時は、拙者の命の絶えた時じゃ」
「わたしを殺すのでございますか、わたしをなぜ殺すんでございます、いま死んでは新作さんに済みませぬ」
「それは拙者の知ったことでない、こうせねばお浜への供養が済まぬ」
「あれ!」
「斬ってしまえば
「苦しい!」
「存分に苦しがれ」
「ああ苦しい!」
夜中過ぎに机竜之助は帰って来ましたけれども、竜之助が帰って来た時までお銀様は、竜之助の出たことを知りませんでした。
そっと帰って来て、
「どこへかおいであそばしたの」
「ついそこまで」
「お一人で?」
「一人で」
「何の御用に」
「眠れないから歩いて来た」
「そんなら、わたしをお起しなさればよいに」
「あまりよく寝ている故、起すも気の毒と思って」
「そんなことはございません」
「ああ、
「お待ちなさい、いま上げますから」
お銀様は、
「まだお火がありますから」
とお銀様は火鉢の灰を
「お銀どの」
竜之助はうまそうに、水を一杯飲んでしまってから、
「紙があったはず、それから筆と墨と」
「何かお書きなさるの」
お銀様は竜之助の請求を怪しみながらも、手近の
「わたしが書いて上げましょう、用向きをおっしゃって下さい」
「ええと、その紙で帳面をこしらえてもらいたい、半紙を横に折って長く
「横に折って長く逆綴に? そうして何にするのでございます」
お銀様は、竜之助に頼まれた通りに帳面をこしらえ始めました。
「逆綴というのは、これはお葬いやなにかの時にするものでございましょう」
「死んだ人へ供養のためにするのじゃ」
「供養のために?」
お銀様は、いよいよ竜之助の挙動と言語とを怪しまずにはおられませんでした。
「今日の日は
「二月の十四日」
「それでは、そこへ
「二月十四日の夜、と書きました」
「その次へ、甲州八幡村にてと……」
「はい、甲州八幡村にて」
「その次へ、少し頭を下げて、名の知れぬ女と書いて」
「名の知れぬ女」
「十八歳と小さく」
お銀様は、竜之助に言われる通りにこれだけのことを書きました。
「これだけでよろしいのでございますか」
「まだ……左の乳の下と」
「左の乳の下、それから?」
「それでよろしい」
「これがどうして供養になるのでございます」
竜之助はそれには答えることがなく、
「今夜、拙者が外出したことは誰にも語らぬように。この後とてもその通り」
「あなたを一人歩きさせたのは、わたしの罪でございますもの」
「寝よう」
その時に何の拍子か、
八幡村を
昨夜、水車小屋から出て行方知れずになったという村の娘が一人、水車場より程遠からぬ流れの
慄え上って噂をするのを聞いていると、それは大方、恋の恨みだろうということです。
その娘は村でも指折りの愛嬌者に数えられて、新作と約束が出来るまでに、思いをかけた若い者も少なくはなかったということ、それらの恋の恨みであろうということに一致すると、青年たちはいずれも痛くない腹を探られる思いをして、恐怖と無気味と復讐心とに駈られて、村の中は不安の雲が
小泉の家は
主人の妻はお銀様に向って、
「まあ、当分は夜分など、外へおいでなさることではありませぬ」
と言いました。
その出来事の物語を聞いたお銀様は胸を打たれました。
その時に机竜之助は、眠っているのかどうか知らないが横になっていました。
お銀様は行燈の下の机によって、
「もし、あなた」
お銀様は机竜之助の
「もし、あなた」
二度まで竜之助を呼びました。
「何だ」
竜之助は
「あなたは
「水車小屋の方へ行った」
「そうしてそこで何をなさいました」
「そこで何もしない」
「何かごらんになりはしませんでしたか」
「別に何も……見ようと思っても見えはせぬわい」
「あの十八になる村の娘さんと、道で行きあうようなことはありませんでしたろうね」
「はははは」
竜之助は笑いました。何の意味ある笑い方であったか、お銀様には少しもわかりませんでした。
「ああ怖ろしい」
お銀様は
竜之助はクルリと背を向けて返事をしませんでした。
お銀様は怖ろしい
「左の乳の下……かわいそうに、罪もない村の娘さんの左の乳の下を
「それは今に始まったことではない」
と竜之助は言いました。そう言いながら起き上りました。
「甲府にいたとき噂にも聞いたろうが、夜な夜な辻斬をして市中を騒がせたのは、みんな拙者の
「エエ! あなたがあの辻斬の本人?」
「それをいま知って驚いたからとて遅い、昨夜はまたむらむらとその病が起って、居ても立ってもおられぬから、ついあんなことをしでかした」
「ああ、なんという怖ろしいこと、人を殺したいが病とは」
「病ではない、それが拙者の仕事じゃ、今までの仕事もそれ、これからの仕事もそれ、人を斬ってみるよりほかにおれの仕事はない、人を殺すよりほかに楽しみもない、生甲斐もないのだ」
「わたしはなんと言ってよいかわかりませぬ、あなたは人間ではありませぬ」
「もとより人間の心ではない、人間というやつがこうしてウヨウヨ生きてはいるけれど、何一つしでかす奴等ではない」
「あなたはそれほど人間が憎いのですか」
「ばかなこと、憎いというのは、いくらか見どころがあるからじゃ、憎むにも足らぬ奴、何人斬ったからとて、殺したからとて、
「本気でそういうことをおっしゃるのでございますか」
「もちろん本気、世間には位を欲しがって生きている奴がある、金を貯めたいから生きている奴がある、おれは人が斬りたいから生きているのだ」
「ああ、神も仏もない世の中、それで生きて行かれるならば……」
「神や仏、そんなものが有るか無いか、拙者は知らん、ちょっと水が出たからとて百人千人はブン流されるほどの人の命じゃ、
「おお怖ろしい」
「真実、それが怖ろしければ、いまのうちにここを去るがよい」
「それでも、こうなった上は……」
「こうなった上はぜひがないと知ったならば、お前は、拙者のすることを黙って見ているがよい」
「ああ、わたしはいっそ、あなたにここで殺されてしまいたい」
「いつかそういう時もあろう、その帳面のいちばん
「ああ、わたしは地獄へ引き落されて行くのでございます」
「地獄の道づれがいやか」
「
「なんと言っても甲州の天地は狭いから、ともかくもこれから江戸へ行くのじゃ、おそらくお前は生涯、拙者の面倒を見なければなるまい」
「わたしは怖ろしくてたまりません、けれどもどうしてよいかわかりません、それでもわたしはあなたと離れようとは思いません」
「黙って拙者のすることを見ていてくれ」
「黙って見てはいられません、わたしもあなたと一緒に生きている間は、あなたのような悪人にならなければ、生きてはおられませぬ」
恵林寺が
宇津木兵馬は駒井能登守から
慢心和尚というけれども、和尚自身が慢心しているわけではありません。和尚は人から話を聞いていて、それが終ると、非常に丁寧なお辞儀をする人でありました。非常に丁寧なお辞儀をしてしまってから後に、
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
王城の地へ上って行列を拝した時にも、和尚は
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
と言って帰りました。
領主や大名へ招かれた時でも、そうでありました。御馳走になったあとでは、非常に丁寧なお辞儀をして、帰る時に、
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
諸仏菩薩を拝んだあとでも、また同じようなことを言いました。
「お前さんより、まだ大きなものがあるから、慢心してはいけません」
慢心和尚の名は、おそらくその辺から出て呼びならわしになったものと思われます。慢心してはいけませんというのは、人に向って言うのではなく、自分に向って言うのらしいから、それで誰も慢心和尚の不敬を
慢心和尚の
ほんのりと霞がかかったように、細い眉が漂うている。その代りでもあるまいけれど、口は特に大きいのです。和尚の
隠れたる徳行にも、隠れざる徳行にも、和尚の人を驚かす仕事は、ただ自分の拳を自分の口の中へ入れて見せるくらいのものであります。これだけは尋常の人にはできないことでありました。けれども和尚は決して、そんなことを自慢にしてはいません。自分の拳が、自分の口の中へ入るというようなことを

宇津木兵馬もこの和尚に
「わしはその
兵馬は和尚のその言葉に、平らかなることを得ませんでした。
「しからば悪人を、いつまでもそのままに置いてよろしいか」
「よろしい」
「それがために善人が苦しめられ、罪なき者が
「苦しうござらぬ」
「これは意外な仰せを承る」
「この世に敵討ということほどばかばかしいことはない、それを忠臣の孝子のと
「和尚、
と兵馬は、慢心和尚の言うことを本気には受取ることができません。今まで自分を励まして、力をつけてくれる人はあったけれども、こんなことを言って聞かせた人は一人もありません。
「冗談どころではない、わしは敵討という話を聞くと
「和尚は、世間のことにあずからず、こうしてかけ離れて暮しておらるる故、そのような出まかせを申されるけれど、現在、恥辱を受け、恨みを呑む人の身になって見給え」
兵馬として、和尚の出まかせを忍容することができないのは当然のことであります。それにもかかわらず和尚は、兵馬の苦心や覚悟に少しの同情の色をも表わすことをしませんで、
「誰の身になっても同じことよ、わしは敵討をするひまがあれば昼寝をする」
「しからば和尚には、親を討たれ、兄弟を討たれても、無念とも残念とも
「そんなことは討たれてみなけりゃわからぬわい、その時の場合によって、無念とも思い、残念とも思い、どうもこれ仕方がないとも思うだろう」
「
兵馬はこの坊主を相手にしても仕方がないと思いました。仕方がないとは思ったけれども、多年の
和尚の言葉は、敵討そのものを
そう思ってみると、嘲らるるのも
ともかくも和尚の前を辞して、定められたる書院の一室に落着いた後までも、兵馬はこの泣きたい心持から離れることができません。
ついには、こうして、永久に自分は兄の
それだけの意味ならば、
宇津木兵馬はその晩、泣いてしまいました。それは自分の腑甲斐ないことばかりではなく、過ぎにしいろいろのことが思い出されると、涙をハラハラとこぼしはじめて、やがて
兵馬自身にも、その悲しいことがわかりませんでした。慢心和尚に言われたことの腹立ちは忘れて、ただただ無限に悲しくなるのでありました。それだから経机の上へ
いっそのこと、刀も投げ出し、お松を連れてどこへか行ってしまおうかしら。そうして
兵馬の心は、今日まで張りつめた敵討の心に疲れが出て来たのかしら。人を
張りつめていたから、今までお松と、ほとんど同じところに
すでに
もし、ここの和尚が言ったように、敵を討つことがばかばかしいことであるとするならば、この方法を取って、なるべく長く生きるのが賢い方法であって、その方法はいくらでもあることを、兵馬は無意味に考えさせられました。
お松の心はすでに、そうなっているとさえ、兵馬には想像されるのであります。「いっそ、命を的の敵討などはやめにして……お前と一緒に末長く暮そうか」「それは、本当でございますか」そう言ってお松の
すこしも早く本望を遂げた上は、兵馬に然るべき主取りをさせて、自分もその落着きを楽しみたい心が
もしまた本望を遂げないで刀を捨てる時は、たとえ八百屋、小間物屋をはじめたからとて、お松はそれをいやという女でないことも思わせられてくる。
この時、兵馬は、竜之助を追い求むる心よりも、お松を思いやる心が痛切になりました。明日の晩は甲府へ入って、お松を訪ねてやろうという心が、むらむらと起りました。
慢心和尚という坊主が、よけいなことを言ったおかげで、せっかくの兵馬の若い心持をこんな方へ向けてしまったとすれば、不届きな坊主であります。けれども、その不届きな坊主の無礼な言葉をも忘れてしまったほど、兵馬はお松のことが思われてなりませんでした。
果して兵馬はその翌日、またも甲府へ向って忍んで行きました。
それは雲水の姿をして行きました。
机竜之助を探るのは二の次で、お松のいるところまでというのが、この時の兵馬の第一の心持であります。
甲府の市中へ入ったのは夜で、甲府へ入ると兵馬は、駒井能登守を訪ねようとはしないで、神尾主膳の邸の方へ、心覚えの経文を
神尾の門前を二度三度通ってみました。またその邸の周囲を、さりげなく廻ってみました。しかしながら、それだけではお松の姿を見ることもできず、それに合図をする便りもありませんでした。
前にも一度、兵馬はこの家を
それをするのに最も便宜な方法は、駒井能登守の屋敷を訪ねることであります。能登守の邸を訪ねてみれば、万事を心得ているお君が、言わずともよく計らってくれないはずがない。兵馬はそれを知りつつも、どうも能登守の屋敷へは行けないのであります。行って行けないことはないけれども、今は行くべき必要が無いはずなのであります。
それで兵馬は
やや歩いて行って振返った時に、駒井の屋敷の長屋塀のある門前から左の方に、高く二階家の
それから右の方へ廻って後ろになって能登守の居間があり、お君の
能登守は無論お君の
兵馬はその時分に、能登守のために
けれどもその機会を得ずに邸を去りました。思い切ってその諫言をしないで邸を去った腑甲斐なさを、ここでも悔む心になりました。
あれほどの人でも女に溺れると、目がなくなるものかと情けなくもなります。溺れる心はないが、今の自分もやはりお松という女に、
恰もよし、とは言うけれども、実際それは善かったか悪かったかは疑問であります。
兵馬の足許に現われた黒い物は、ムク犬であります。
「ムク」
兵馬は低い声でその名を呼んで頭を
兵馬とムク犬との間柄の、よく熟していることは、久しい前からのことでありました。お君を理解し、お松を理解し、また米友を理解するムク犬が、いつまでも兵馬に対して敵意を持っていようはずがありません。兵馬はこの犬を見て、このさい最もよき使者の役目をつとめるのは、この犬のほかにないと喜びました。
「ムク、こっちへ来い」
兵馬は素早く歩き出しました。その
憐れむべきムク犬は、いま不遇の地位にいるのであります。
代ってこの犬を養うべき女たちは、元の主人ほどに親身を以て世話をすることはできないのであります。時としては叱り罵ることさえあり、時としては自分たちのした
さしもに黒い毛を、以前はお君が絶えず精出して洗ってやったから、
お米倉の
「ムク、お前は賢い犬だ、神尾の屋敷から、お松の便りをしてくれたのはお前だそうだ、今日は、わしからお松の
兵馬は、紙と矢立を取り出してサラサラと一筆
ムクは確かに神尾の屋敷の中へ入って行ったけれども、容易にその返事を
待つ身になってみると、来る人が一層恋しくなるものか知ら。兵馬は早くお松に会いたい会いたいという心が、今までになかったほど胸に響きます。
お松から愛せらるることの多かった兵馬。今はお松を慕う心が、我ながら怪しいほどに
お松の身になってみると、この頃は立場に迷う姿であります。立場に迷うというだけならば迷ったなりで、ともかく、その日を過ごして行けるけれども、居ても立ってもいられないようなことばかり、その周囲に降って湧きました。
第一は兵馬に去られたことであります。駒井家を立退くということは早晩そうあらねばならぬことだけれども、あまりに急なことでありました。ことにその行先の知れないということが、お松にとっては、どのくらい残念であり心細くあるか知れません。それと同時に、降って湧いたような気の毒な風聞が、今のいちばん親しい友達であるお君の身の上にかかって来たことであります。
その風聞というのは、このごろ士人一般の間に取沙汰せられている、お松の親愛なお君の方が、ほいとの娘だという噂であります。あれは
それと共に、能登守ともあろう者が、ほいとの娘を寵愛して鼻毛を読まれているとは、さてさて思いがけない馬鹿殿様という噂も、折助どもやなにかの間に立っていることです。
これは単に噂だけとしても容易な噂ではありません。お君と併せて能登守の生涯を葬るに足る噂です。
この場合に、自分としてはどういう処置を取っていいのだか、ほとほと思案に余りました。それと忠告しなければこの後の御災難が思いやられるし、そうかと言って
けれども、その噂はいよいよ密々に拡がるばかりで、ことに神尾家の折助などはこのことを、いちばん
早くも眼にとまったのは、ムク犬の首に
お松は心得てその紙片を取って見ると、それに「
それだからお松はハッとしました。兵馬さんが訪ねて来ていると思うと、気がソワソワとして落着かなくなりました。これから駒井家を訪れようということなども忘れてしまいました。
急いでこのムク犬の導いて行くところへ行かなければならない。お松はソコソコに身仕度をして、
「お松」
と言って奥の方から出て来たのは、お絹でありました。
「はい」
「お前はどこへ行きます」
「ちょっと、あのお長屋まで……」
お松は、悪いところへお師匠様が出て来てくれたと思わないわけにはゆきません。
「少しお待ち、お前に頼みたいことがあるから」
「はい……」
お松にとっては、いよいよ悪い機会でありましたから、その返事もいつものように歯切れよくはゆきませんでした。それでもと言って、出かけて行く口実にも窮してしまいました。
「まあ、こっちへおいで、わたしのところへおいでなさい」
お絹はわざと、お松に
「あの、御用向きは何でございましょう」
お松は
「お前、あのお長屋へ行くというのは嘘だろう」
と微笑しながら、お松の
「いいえ」
お松は見られて煙たいような心持です。
「お長屋へあの
「左様なことはござりませぬ」
この時もお松は、しどろもどろな打消しを試みましたけれど、その打消しは自分ながら、まずいものだと思わないわけにはゆきません。
「あってはなりませぬ、あのお邸へ遊びに行くことは、お前のためになりませぬ故、これからさしとめまする」
お絹の口から、キッパリとさしとめの言葉が出ました。温順なお松も、こんなにキッパリと言われてみると、はい、と言いきることはできませんでした。
「あのお邸には、わたしのお友達がおりまするものでございますから……」
「そのお友達がいけませぬ、そのお友達とお前が附合っていると、お前の身の上ばかりではない、わたしの身の上も、こちらの殿様のお身の上までも
その言いつけに対しても申し分はあるけれども、お松はそれをかれこれと気に留めていられないほど、外のことが気になるのであります。
それにも拘らず、お師匠様なる人は相変らず悠長に構えて、別に差当っての用事を頼むのでなく、意見を加えがてら、話し相手のお
「お前は、まだ知るまいが、あの駒井様という殿様のお家は、近いうちに
と言っているお絹は、何か
「男も女も身分の低い者を相手にしてはなりませぬ。駒井の殿様などは、あの通り男ぶりはお立派であるし、学問はおありなさるし、人品はお高いし、これから若年寄、御老中とどこまで御出世なさるやら知れないお方でいらっしゃるのに、あろうことか身分違いの女を御寵愛になったために、あたら一生を
ようやくここへ来て、お松を呼び寄せた相談の
お松は針の
「また出た、また出た」
と
お松はその人出のなかを、あれかこれかと尋ね廻りましたけれど、とうとう兵馬の姿を発見することが出来ないので、失望し、ムクを先に立てて、今も行ってならぬと差止められた駒井能登守の邸の方へ、知らず知らず足が向いて行きました。
その間も例の人出は、
「それ出た、また出た」
とお城の方をながめながら
「それ出た、それ出た」
というのであります。
何が出たのかと言えば、
なるほど、御本丸の天守台の上で、紅い提灯がクルクルと廻っています。お松もやはり、その提灯が何者であるかということを、不思議に思わないわけにゆきません。
人中を歩いて行くうちに人の噂を聞けば、天狗様の卵だというものもあるし、近いうち大火事があるのを、稲荷様が知らせて下さるのだと言う者もあり、また勤番のお侍のうちに、いたずら者があって、長い竿へ提灯をぶらさげて、町民を驚かして面白がるのだろうと言うものもありました。
けれどもこの提灯をこうして噪いで見ているうちに、市中の到るところを盗賊が荒していたことを知ったのは、その後のことでありました。
そのうちにお松は、ムク犬を先にして駒井家の邸前まで来て考えているうちに、ムク犬にひかされて裏門から邸の中へ入ってしまいました。
ここでもまた、お城の屋根の上の提灯を問題にして、
「うちの殿様は、天狗だとか稲荷様だとかいうことをお信じにならぬ、では何でございましょうとお尋ねすると、ただ笑っておいでなさる」
「殿様は鉄砲の名人でいらっしゃるから、殿様の
こんなことを話し合っていました。
その中へ入って行ったけれども、ムク犬の附いていることと、常に奥へ出入りすることに慣れているお松のことでしたから、誰も
僧体をした宇津木兵馬は、神尾の邸の裏に待っていたけれども、お松に会えない先に、
「それ
と言う声と共に人が集まる様子だから、うかとそこにおられません。心を残して町の方へ向って行くと、そこでもここでも人が出て、
「それ提灯が出た」
だから兵馬もその人々の見ている方向を見ると、お城の天守台あたりの屋根の上に赤く一点の火があって、それがクルクルと廻るのであります。
確かに提灯であろうとは認められるけれども、その提灯ならば何者がどうして、あんなところへ上ったかということが疑問であります。
いったん町へ出た兵馬は、どうしたものか再び駒井能登守の邸の後ろへ来てしまって気がつきました。見上げると、三階になったところの戸が開かれ、そこから火の
あれは能登守が物見のために建てたところで、あの三階へは、能登守自身のほかは登れないことにしてあるのだから、そこで火の光のすることは、まさしく能登守がそこにいて、何事かを調べているのだということがわかります。
それ故、兵馬は懐しく思って三階の上を暫らく見上げていると、その開かれた戸から人の半身が見えました。それは一見して能登守の姿であることがわかりました。
今、能登守は、そこから
兵馬は三階の上なる能登守と、天守台の上なる疑問の提灯とを興味を以て見比べていました。いったい能登守という人は、
窓から半身を出した能登守は、ややしばらくの間、その疑問の提灯を見定めている様子でありましたが、やがて取り直したと見えるのがまさしく
「さてこそ」
あれだ、能登守の疑問の提灯に対する解釈はあれだと、兵馬は少なからぬ好奇心を加えました。
能登守は聞ゆる射撃の名人。あの
鉄砲を取り直して構えた能登守の姿勢は
兵馬は天守台の
しかも直下する途中で提灯の体へ火がついたから、一団の火の玉が
その翌日、城中の御番所で勤番の
月に少なくも一度はある
御老中が見えるということもあるし、また御老中の
ここに
「どこが悪いのじゃ」
と
「どこがお悪いのでございますか、急に……」
と言って、訊ねられた女中も、お君の方の病気の程度を知らないもののようであります。
能登守はそれを物足らず思い、また事実、お君の病気が甚だ軽いものでなかろうということを心配しながら、出仕の時間に迫られて邸を出ました。
この日の詰合には、当番も非番もみな集まるのでしたから、
能登守はこの御番所の表門から入って、お長屋へお供を待たせて、刀を提げて玄関へかかりました。出迎えの者は、いつもするように上役に対する礼儀を尽して能登守を迎えました。これは今日に始まったことではないけれど、なぜか能登守はこの時に胸騒ぎがしました。一種の不安な気持がヒヤリと能登守の胸を刺して、玄関の大障子に何か暗い色が漂うているように見えたから、それで能登守はなんとなく胸騒ぎがしたのであります。
思い返してみるとその不安は、今朝に限ってお君の姿を見せなかったことから起る心配の変形であると弁解ができないではありません。ああ、出がけに一度、お君の病状を見舞ってやればよかった、今日はここへ医者も詰めているはずだから、それを急に見舞に
これより先、この席の一隅で問題になっていたものがあります。それは一つの
その提灯は壊れた上に、大半は焼けてしまっていました。それを手から手に渡して、しきりに話し合っていましたところへ能登守が見えたので、その話も止みました。その時分にどういうつもりか、右の焼けて壊れた提灯は、この席でも上の方にいる神尾主膳の手に渡って、留保されるもののように膝の上に載せられます。
やがて太田筑前守も出席するし、それと並んで駒井能登守、そのほか組頭や奉行の面々以下、勤番の人までが、それぞれ順序によってその大広間に居流れて、やがて会議が始まりました。
筑前守が席の長者で一通りの挨拶があり、駒井能登守もまた、それに次いで両支配の訓示様のことから会議が開かれ、各組頭や奉行の報告様のことで無事に進行し、その間はいつもする会議の通り極めて月並なもので、末席の連中はしびれを切らせ、あくびを噛み殺していました。
訓示と報告とが一通り済んだ時分、もうこれで散会になるだろうと、しびれを切らしたり、あくびを噛み殺していた連中がホッと息を
「御支配並びに列座のおのおの方」
と
「神尾殿」
と言って議長ぶりの太田筑前守が主膳の名を呼び、その言わんとするところを言わせようと催促しました。
「ちとお聞きづらいことのようではござるが、言わんとして言わでやむは武士の本意でない、その上に、このことは甲府城を預かる我々一統の面目にもかかることと存ずる故、この席で両支配並びに列座のおのおの方の御所存を承りたい」
神尾の意気込みは烈しいのに、太田筑前守はそれをさのみ気には留めないようであります。駒井能登守は神尾の
「我々一同の面目にかかるというのは一大事、何事かは存ぜねど、神尾殿の御腹蔵なき御意見が承りたい」
と言いました。
能登守からこう言われて主膳は、さもこそという
「近頃、この甲府城の内外は甚だ物騒なことでござる、城下の町々で辻斬がほしいままに行われるかと思えば、破牢の大罪人があって人心を騒がす、その辻斬の
神尾主膳は、焼けた提灯を
神尾主膳のこの発言は無遠慮に聞えました。列座の誰をも不愉快に感じさせましたけれど、その言うことには筋道がありました。神尾がいま並べたようなことは、その一つがあっても、役人の重き
太田筑前守がそれを

そうすると神尾主膳は、先程はやや
「まさしく何者かがあって、この提灯を夜な夜な天守の上へ掲げて我々を愚弄したものと相見える、奇怪千万のことと申さねばならぬ、この用捨し難き悪戯は、何者の手によって為されたかきっと
と言って神尾主膳は、駒井能登守を尻目にかけるようにしました。これは、いよいよ無遠慮な言い分に相違ないことであります。
上流の士風というようなことを、別人ならぬ神尾主膳の口から聞くことは、淫婦の口から貞操が説かれ、折助の口から仁義が論ぜらるるようなものであるけれど、それにしても、この席で神尾の上流としては、太田筑前守と駒井能登守があるくらいのものであります。これらの上席をそこへ置いて、こんなことを言うのは、この上もなき礼を失した言語挙動であります。神尾とても、そのくらいの礼儀を
神尾の言い分も
筑前守のこの煮え切らない座長ぶりは、自然に神尾の無作法を
「神尾殿、貴殿の御意見は一応
駒井能登守からこういわれたのを機会に、神尾主膳は、能登守の方へ向いて正面を切りました。
「これは御支配の駒井殿、お言葉ながら拙者は元来、礼に
「それは聞捨てになり難い」
神尾主膳からこう挑戦的に出られてみると、駒井能登守も意気込まないわけにはゆきません。
こうして引き出されて神尾の手に載せられることは、能登守にとっては極めて不利益なのはわかっているが、私の場合においては避けて避けられることも、こうなっては避けられないのであります。
「いかにも聞捨てになり難いことでござる」
神尾主膳は膝を進ませました。
列席の人々は、意外の光景になって行くのを見ました。駒井能登守対神尾主膳の取組みのような形になって行くのを見ました。神尾が、能登守の上席に対して不平であって、事毎にそれに楯を突こうとするの形勢は、大抵の勤番は知っていました。能登守がまたそれに相手にならず、
筑前守が調停しないものを、それ以下の者が口を出すわけにはゆきません。それを神尾はいよいよ得意になって、
「列席のおのおの方にもさだめてお聞きづらいことでござろうけれど、さいぜんも申す通り、これを聞捨てに致し見捨てに致す時は、我々旗本の名誉が地に落つる、それ故、言い難きを忍んで申し上げる、おのおのにもお聞きづらきを忍んでお聞き下されたい。さて、御支配、駒井殿、ここでそれを申しても苦しうござりますまいか」
「
「しからば申し上げる、近頃、この城中の重き役人にて、身分違いの女を愛する者があるやに
「なんと申さるる」
「身分違いの女子を
「ははは、何事かと思えば家庭の一小事、そのようなことはこの席に持ち出すべきものでござるまい」
と言って駒井能登守は、笑ってその言いがかりを打消そうとしましたが、神尾主膳は冷笑を以てそれに
「その人にとっては家庭の一小事か知らねど、武士の体面よりすれば、なかなか一小事ではござらぬ。いかにおのおの方に承りたい、たとえば旗本の身分の者が、仮りにほいと賤人の女を取って妻妾となし、それにうつつを抜かして世の人に後ろ指ささるるようなことがあらば、それが家庭の一小事で済まされようや、また左様な人物が上に立つ時に、いかで
神尾主膳は、駒井能登守の
列席の者は、神尾の言い分の道理あるやなきやの問題ではなく、その言うことに不快を感じて座に堪えられないようなものもありました。駒井能登守は神尾にこう言われて、
確かにこれは駒井能登守が窮地に陥ったなと、
この場合、能登守を救うのは、誰よりも先に太田筑前守の義務でなければならぬ。今まで神尾にこういうことを言わせて置いたことでさえが緩慢の至りであるのに、ここでなお黙っていて能登守の急を救わなければ、それは武士の情けを知らないのみならず、
一座は白け渡ってしまいました。その中には、眼の色を変えて能登守のために、神尾に飛びかかろうという権幕のものも見えました。また神尾の言うことを小気味よしとして、能登守が窮したのを内心快くながめている者もあるようです。
一時沈黙して眼を閉じていた駒井能登守は、やがて眼を開きました。
「神尾殿、近ごろ苦々しき噂をお聞き申す、しかしともかくそれは一大事。して左様な噂を立てられた人物というのは何者にや、してまたその人物が寵愛するという身分違いの
能登守の声は、少しばかり
「それは申し上げぬが花と存じ申す。しかしながら、言い出した拙者の面目、軽々しく世上の
主膳は今日を晴れとこんなことを絶叫しました。能登守は
今ごろになって調停がましい口を利き出すなぞは、かなりばかばかしいことであります。
気の毒なことに駒井能登守は、すっかり彼等が企みの
太田筑前守は程よくこの会議を切上げる挨拶を述べ、神尾主膳は勝ち誇った態度で揚々と座を立ち、そのほか集まる人々がおおかた席を退いたけれども、駒井能登守は柱に
すべての人が席を退いたあとで、能登守はそこを立ち上りました。その時に
こんなわけで、能登守の乗物は無事に邸へ帰るのは帰ったけれど、その時になって大きな騒ぎが起りました。主人が御番所において受けた容易ならぬ恥辱を、お供の者が知らない先に、邸へ知らせたものがありました。そこで家老とお
「腰抜け! たわけ者! ナゼその場で神尾主膳を討って取らぬ、その場で討つことが
家老のお叱りにあって、お供の者は一言もないのであります。家老のお叱りそのものが何を意味するのだかを合点することができませんでした。
これは無理のないことで、たとえば毒を飲まされた時に、飲まされた当人が黙って
駒井家の邸内は沸騰しました。これから神尾主膳の邸へ斬り込まんとする殺気が立ちました。それを厳しく押えた能登守は、追って自分の
その附近の家々では家財道具を押片附けて、今にも戦争が始まるかのように
「駒井能登守が自殺した」
という噂が立つと、神尾家の者共は、それ見たことかと得意満面でありました。まもなく自殺は嘘で、心中だ! という噂も立ちました。そうだろう、心中だろう、相手がよいからそんなことだろうと言って、また笑ったり
ところが、それらの噂はみんな嘘で、能登守は相変らず研究室へ
邸の中はひっそりしていましたけれど、邸の外は
能登守に幾分か同情を持っている者は、お君という女が、人交りのならぬ分際の者でありながら、
つまりその宏量というのは世間を知らないということで、どのみち素性を隠してお妾になろうというほどの女だから、
こんな
能登守の邸はその当座閉門同様です。なんでもあの席から帰ったあとへ、若年寄からの伝達があって、不日、能登守は江戸へ呼びつけられるのだということです。
それでいま
神尾主膳は、あれだけでは飽き足らないで、あらゆる流言を放ってこの機会に、駒井能登守というものを士民の間の
この策略が図に当って、駒井能登守は逆賊の片割れであり、屠者賤民の保護者であるように思われてきました。
能登守の邸の中へ、外から石が降りはじめたのは、いくらも経たないうちのことであります。その石の雨が一晩毎に
夜はようやく人が出て面白半分に石や瓦を投げ込むのであります。そうして聞くに堪えない
しかし、遠巻きにしてこんな乱暴を加えるだけで、誰も近づいては来ませんでした。それはこの邸には大砲というものがあるし、また主人の能登守は無双の鉄砲上手であるということが、怖れの
そうしているうちにある日、駒井家の門が八文字に開きました。そこから威勢よく馬を乗り出したのは、例の通り筒袖の羽織に陣笠をいただいた駒井能登守でありました。
それに従うた家来が十人ばかり、いずれも
それと気のついた者は早くも立ち出でて、
「御支配が江戸へお引上げになる」
といって騒ぎました。騒いだけれども、一行の威風に呑まれて、
一行の姿が見えなくなってから、また噂は
ああしてこの甲府から引上げた能登守は、問題のあの身分ちがいのお部屋様というのを、どう処分なされたのだろうということが評判の種とならずにはいません。
そのうちに恐ろしい噂が立ちました。
それはお部屋様のお君が自害してしまったという噂と、殿様のお手討に
駒井能登守はその立退きに当って、寵愛のお君の方を斬って二つにし、井戸へ投げ込んで立去られたと、見て来たように言う者もありました。そうではない、家臣の者がお君の方を刺し殺して、井戸へ投げ込んで引上げたのだという者もありました。
ともかく、すべての者にお暇が出て、そのうちの一部の者は殿様がつれてお引上げになるうちに、ついにお君という女がどうなったかは、誰もその
総て知りたがっていることがわからないのだから、それでさまざまの
そこで駒井能登守の屋敷は実際上の
「お化けが出る」
という噂が、またパッと立ちはじめました。そのお化けを見たものがあるのだそうです。一人や二人でなく、幾人もそのお化けをみたという人が出て来ました。
その説明によると、お化けは若い美しい凄いお化けで、手に三味線を持っているということです。
それが肩先を斬られて血みどろになって、井戸の中から出て来て、屋敷をさがし歩いては泣くということであります。
人の
その当座は、またまたその噂で持切りで、能登守の屋敷あとは、金箔付の化物屋敷にされてしまい、そのお君の方を斬り込んだと伝えられる井戸は固く封ぜられ、ついにはその屋敷の前を通る者さえ少なくなりました。
宇治山田の米友がこの噂を聞いたらどうだろう――そう言えば、袖切坂下で下駄を持ちあつかったあの男は、今どうしている。
わが親愛なる宇治山田の米友は、袖切坂で拾ったお角の下駄を持ちあつかって、一里の間も二里の間も持ち歩いていました。
いつまでもその下駄を持って歩いたところで仕方がないから、ついに笛吹川の上流にあたって、とある淵の中へ思い切ってその下駄を投げ込んでしまいました。
それから米友は大菩薩峠を登りにかかりました。
例の
頂上には妙見の
「やれやれ」
作事小屋には、誰か仕事をしかけて置いてあるらしく、切石がいくつも転がって、
握飯は大きなのが五つ
その大きなのを一つ食べてしまってから、米友は峠の下から汲んで来た竹筒の水を取って飲みました。それからまた握飯を一つ取って頬張りました。それを食べてしまうと、また竹筒の水を取って飲みました。三つ目の握飯を米友が食べてしまった時に、惜しいことには竹筒の中の水を飲みつくしてしまいました。これは握飯の塩が利き過ぎていたせいか、或いは米友の咽喉が乾き過ぎていたせいか知らないが、ともかく、米友としては少し飲み過ぎた傾きがないではありません。
胡麻のついた握飯は、まだあとに二個残っているのであります。それだのに水は早や尽きてしまいました。それは米友でなくても、山路を旅して腹の減った時分に、握飯を
「ちょッ、水がなくなってしまやがった」
しばらく思案していた米友は、さいぜん登って来る路のつい近いところで、水の流れる音を聞いたことを思い出しました。それを思い出すと竹筒を取り上げて、杖なしで、さっさと峠道を少しばかり下りて行きました。それは竹筒へ水を汲まんがためであることは察するまでもありません。
この小説の、いちばん最初の時に、巡礼の姿であったお松という少女が、これと同じようなことを、これと同じところで繰返していたのであります。その時の少女は、老人の巡礼につれられていましたけれど、今の米友はたった一人であることと、その時のお松は
それらの出来事は、いっこう米友の知ったことではありません。米友もまた、期せずして前にお松が汲んだろうと思われるあたりの沢の清水を竹筒に満たして、欣々として、もとのところへ帰って来たけれど、そこにはなんらの意外な変事も起っていた模様も見えません。
「おや」
なんらの変事もないと思ったのは、米友がこの峠を初めての旅人であったからであります。竹筒を持って作事小屋の中へ入った時までは気がつかなかったけれど、そこへ来て見ると、今の米友にとってはかなり重大な変事が起っていることを知りました。
「
しかし、米友の
「太え奴だ、誰が
米友は眼をクルクルして堂の中や、堂の後ろを見廻したけれども、人の気配は無いのであります。それで米友も、怒ってはみたけれど、拍子抜けのようでもあり、自分ながら
米友はじっと腕組みをして思案に暮れている時に、頭の上の栗の大樹の梢で、
「キャッキャッ」
という声。米友が頭を上げるとその大樹の幹に、一群の動物がいることを知りました。
「畜生、こいつら、
米友はそれを見るより勃然として怒りました。見上げる栗の大樹の梢にたかっている一群の動物は猿であります。その猿どもが、大切の胡麻のついた握り飯を持って、それを一口食っては米友に見せ、二口食っては米友に見せているのであります。それからほかの猿はまた尻を米友の方へ向けてバタバタ叩いたり、木の枝を
「畜生!」
米友は
「よし、こん畜生!」
米友は杖を捨てて石を拾いました。拾った時、石はすでに
その
「キャッ」
と叫ぶ声が樹の上でして、

「こん畜生」
その時、米友は一匹の大猿の首筋を後ろからギュウと抑えて、膝の下へ組み敷きました。抑えられた猿は苦しさに絶叫したけれど、浅ましいことに、胡麻のついた
「手前たちは憎らしい畜生だ」
と言って米友は、猿の頭を二つ三つぶんなぐりました。猿は殺されることかと思って、苦叫絶叫して
そうすると樹の上に見ていた猿どもが、バラバラと樹から飛んで下り、一様にキャッキャッと物凄い叫びを立てました。
その物凄い叫びを聞くと、どこにいたか知れない無数の猿が、谷から谷、樹から樹を
米友は猿を怖れるのではありませんでしたけれど、その数の多いのを見ては驚かないわけにはゆきません。そうして彼等の
「この奴ら、
正直な米友はまた、この猿どもの不遜な挙動を憎まないわけにはゆかないのであります。人の物を盗んでおきながら、その
それで米友は、抑えつけていた大猿の頭を、一つガンと
「
米友はその大猿を片手で掴んで群猿の中へ投げ込んで、例の手慣れた杖槍を
「こいつら!」
その杖槍を縦横に打振ると、猿どもはバタバタとひっくり返ったり飛び散ったりするが、直ぐにまたその後から後から
「こうなりゃ、一匹残らず突殺してやるから覚えていやがれ」
米友はとうとうその杖槍に、しかと穂先を
多勢を
満山の猿は、米友一人を遠巻きに
米友が少しでも隙を見せれば、彼等は一度にドッと押包んで、取って食おうというような形勢であります。
単身を以てすれば猿に劣らぬ俊敏な米友も、こう多数を相手にしては、ドレを目当に
かわいそうに米友も、畜類を相手にして
この時、どこからともなく、
「ホーイホイ」
という声。猿どもがキャッキャッと言っている中で、その声は、はじめは米友の耳へ入りませんでした。つづいて、
「ホーイホイ」
という声。それが耳に入ったのは米友より先に、米友を取囲んだ猿どもであります。
「ホーイホイ」
その時に、米友も風の声かと思いました。
「ホーイホイ」
人間の声であることは紛れもないのであります。人ならば二三十人の声でありましょう。それが
「ホーイホイ」
という声がようやく聞え出して来た時に猿どもが、
米友の気象としては、
「ホーイホイ」
その声は相変らず、遠くもなく近くもなく、
そのうちにどうしたものか、猿どもの陣形が忽ち崩れ出しました。ひとたび陣形が崩れ出すと共に、畜生の浅ましさであろう、今までの擬勢が一時に
「ホーイホイ」
その声が敢て近寄ったというわけでもありませんのに。だから米友も少しく拍子抜けの
「こんちは、ずいぶんいい天気でございますねえ」
その大きなものは、米友とかなり隔たったところにいながら、こう言って米友に挨拶しました。
「いい天気だよ」
米友もまた
なおその上に間抜けなことは、背中に大きな石地蔵を一つ
「こんちは」
その大きな物体は、今、背中の石地蔵を作事小屋の中へ運び入れて、台の上へ寝かしておいてから、額の汗を拭き拭きまた米友の前へ来て、二度目に、こんちは、と言いました。
「こんちは」
米友もまた妙な
「お前さんは、この峠をお通りなさるのは初めてでござんすべえ」
と間抜けた男がニコニコしながら、米友にこう言いました。
「ああ、初めてだよ」
「だからお前さん、猿におどかされなすったのだ」
「ほんに憎い畜生よ」
米友の余憤は容易に去らないのであります。
「何か猿が
「
「それをお前さんが
「人をばかにしてやがる」
「ナーニ、猿だってそんなに悪い者じゃありましねえよ」
この男は、なにげなき
「猿を追っ払うには、力ずくではいけねえのでございますよ。初めての人は、この
「なるほど」
この説明を聞いて米友は、なるほどと
「こりゃなにかえ、お前が、この地蔵様をなにかえ、下から背負い上げたのかえ」
「エエ、左様でございますよ」
「一人で背負い上げたのかえ」
「エヘヘ」
「うーん」
米友は
米友も、自分の力においては自負しているところがあるつもりだけれど、この地蔵様を背負って、この六里の嶮道を越えるということは、残念ながら
「うーん」
と唸って、大男の
「お前はなかなか力がある。それでなにかい、槍も使えるのかい」
「槍?」
大男は妙なことを言うと思って、米友の
「そうさ、力はあっても、槍を自由に使いこなすことはできないだろう」
「そんなことはできねえでございます、槍だの、剣術だのというものは、俺にはできねえでございます」
「そうだろう、こりゃなかなか生れつきなんだからな、力ばかりあったって、上手に使えるというわけのものでねえんだ」
力の分量においてこの大男に及ばないことを自覚しかけた米友は、
「お前さんはこれからどっちへおいでなさるんだね」
大男は力や槍や剣術のことには取合わないで、米友のこれから行くべき方向をたずねるのでありました。
「
「江戸へ。そうしてどっちからおいでなすったのだね」
「甲州から来たんだ」
「そうでございますか、それでは俺も、これから武州路を帰るのでございますから、一緒にお
「そりゃ有難え」
「ホーイホイ」
「何だい、先からあの声は」
「
この大男が、沢井の水車番の与八であることは申すまでもありませんです。
与八が背負って来たお地蔵様は、いつぞや東妙和尚が手ずから刻んだお地蔵様であることも、推察するに難くないことであります。
肥大なる与八と、短小なる米友が打連れて歩くところは、当人たちは至極無事のつもりだけれど、
「お前、江戸に親類があるって?」
悟空がたずねました。
「俺の親類は下谷にあるんでございます」
八戒が答える。
「下谷? 俺らもその下谷へ訪ねて行こうと思うんだが、下谷はどこだい」
悟空が再びたずねました。
「下谷は長者町というところなんでございますよ」
八戒は念入りに再び答える。
「おや、下谷の長者町。俺らのこれから尋ねて行こうというところもやっぱりその下谷の長者町なんだが」
「そうでございますか、お前さんもその長者町に親類がおありなさるんでございますか」
「親類というわけじゃねえんだけれども、ちっとばかり世話になった人があるんだ」
「そうでございますか。そうしてお前さんの訪ねておいでなさるお家の商売は何でございますね」
「商売は医者だ」
「おやおや、俺の親類もお医者さんでございますよ」
「何だって。お前も同じ町内の同じお医者さん、それで名は何というお医者さんだい」
「道庵先生」
「道庵先生だって」
「そうでございますよ」
「俺らの尋ねて行くのもその道庵先生の
与八と米友とは偶然、その訪ねようとする目的の家を一つにしました。与八と米友はここで初対面のようでありましたけれど、実は初対面ではないのであります。
前に一度、対面は済んでいるのでありました。しかしその対面は与八もそれを知らず、米友もまたそれを知らないのであります。与八はその時に米友を日本人として見てはいませんでした。米友もまたその時の見物にこの人があったことは覚えているはずがありません。それを知るものは道庵先生ばかりであります。この両人は途中の
それから山路を歩く間、二人の会話を聞いていると、かなり人間離れのした受け渡しがあるのであります。
厳粛な僧堂生活の反動というわけではない。彼等とても強健な
そうして附近の遊廓や茶屋小屋へこっそりと遊びに行ったり、土地の女たちに通ったりする者がないではありません。それをする時に
これらを取締るのは例の慢心和尚の役目であります。けれどもあの和尚は、弟子どもがこんな人間味を味わいはじめたのを、まだ知らない様子であります。或いは知っていてもこの和尚は、それを大目に見ているのかとも思われないではありません。或いはあの通り図々しい和尚のことだから、
この晩、右の若い雲水たちは、またも垣根を越えはじめました。垣根を越える時には、留守の当番に当った者が、垣根の下に立つのであります。外へ迷い出す者は、その留守の当番に当った者の肩を踏台にして、垣根を乗り越えることになっているのであります。もしその踏台の背が低い時には、肩でなく頭へ足を載せて乗り越えるのであります。今宵またその通りにして、五人の若い雲水が垣根を乗り越えました。踏台になった雲水は、明晩は自分の当番だということを楽しみにして帰り、その五人の者の寝床を、さも本物であるように
「このごろ、向岳寺の尼寺へ、素敵な
こんなことをひとりで考え込んで力んでいるとその時、オホンという咳が聞えました。この咳は確かに慢心和尚の咳でありました。それを聞いた若い雲水はハッとして、ひとり言の気焔と
寝込んでしまってはいけないのです。実は迷い出した五人の亡者が戻るまで眠らないでいて、戻った合図を聞いた時には、また踏台として出て行かねばならぬ義務があるのであります。それを忘れて寝込んでしまいました。
かくとも知らず、迷い出でた五人の亡者は、立戻って来て垣根の外へ立ちました。
合図にトントンと垣根を叩くと
外にいた亡者は、仲間の者の肩を踏台にして中へ入ると、中にまた踏台が待ち構えています。
第一に乗り越えたものが、足を
しかし、この頭は踏台としてはあまりに円くありました。坊主の頭に円くないのは無いようなものだけれども、それにしてもあまりにまる過ぎたから、危なくツルツルと
第二の亡者はそれでも幸いに肩を踏んで無事に入りました。第三のはまたツルツルした頭を踏台にして、第一と同じように危なく飛び下りました。そのほか、第四、第五も、肩を踏台にしたり頭を踏台にしたりして、ともかく迷い出でた五人の亡者は、また無事に寺へ舞い戻ったのであります。
そうして彼等は無言のうちに寝室へと急ぎ、踏台もまた、いつか知らない間にどこへか片づいてしまいました。広い寺の境内は森閑として、静かなものになってしまいました。
ここに寝室へ帰って来た五人の亡者が、ハッと
この踏台がここに寝込んでいたのなら、今の踏台は何者であったろうと、彼等は言わず語らず、その踏台を
「おい
と言って揺り起すと、
「うーん」
と言って眼を
「あっ、
と言って
もとより当番であるとは言いながら、踏台となることは歓迎されていないのであります。なるべくならば踏台となる義務だけを
六人は、ここで
その翌日の定刻に、慢心和尚は講義をするといって、例の二三冊の
「
と言い出したから、集まった雲水たちは今更のように慢心和尚の面を見ました。和尚の面も頭も、いつも見慣れている頭や面であるけれど、そう言われて見れば見るほど円いものであります。和尚はその円い頭を撫でながら、細い眼で一座の連中を見廻して、ニヤリニヤリと笑っているのであります。そうすると、
「あっ!」
席の一隅に、思わず、あっ! と叫んで
「オホホ」
と慢心和尚は面白そうに笑いました。この和尚の、オホホという笑い方は、
「あっ!」と言って自分たちの頭を撫で廻している六人というのは、そのうちの五人は昨夜の亡者であって、他の一人はその亡者の踏台となるべき義務を怠った雲水でありました。
「オホホ」
和尚は再び笑いました。六人の顔色はいよいよ土のようでありました。自分たちの円い頭を
そうすると和尚は、妙な手つきをはじめてしまいました。それは両手を幽霊でも出たように上の方からぶらさげて、自分の円い頭の上へ持って来て、そこでツルリと
「オホホ」
と笑うのであります。やりきれないのは五人の亡者と一人の踏台でありました。もうたくさんだと思っているのに、意地のよくない慢心和尚は、五度も六度も繰返すのだから真にたまらないのであります。
こうして六人の人間は、やりきれない
「オホホ」
ようやくのことで、慢心和尚はその妙な手つきをやめてしまいました。五人の亡者と一人の踏台はホッと息を
「さあ、お前たち、これができるようになったら、裏口から忍んで出るには及ばない、大手を振って山門を突き抜けて通るがよいぞ」
と言いながら、和尚はその拳を固めて、あなやと見ているまにその拳を、ポカリと口の中へ入れて見せました。
これには一同、
「あっ!」
と言って驚きました。
昨晩、踏台の身代りになったのは、この慢心和尚であったことを、いま思い出しても遅いのであります。師家の頭を踏台にして迷い帰った亡者こそ、いい
迷い出すことだけは、ピッタリととまったけれども、若い雲水たちの間に、その
その向岳寺の新尼とは何者! それよりも先に、向岳寺の尼寺というものの存在を説くの必要がありましょう。
向岳寺の開山は、
この寺へ訪ねて来て、抜隊禅師に出家の願いを申し出でたところが、その願いを聞いた禅師は、「出家は大丈夫のこと、女なんぞは思いも寄らぬ」と言いました。
けれどもこの姫の決心は強いものでありました。そこで花のように美しい
あまの煙と人はいふらん
今の庵主は五十
老尼の住んでいる
「御庵主様、いずれへおいであそばしまする」
と尋ねました。
「はい、わしはこれから、ちょっと恵林寺まで行って参りまする」
「左様でございますか、お供を致しましょうか」
「それには及びませぬ……しかし、
老尼は若い尼の耳に口をつけて何をか
「
そのあと、この若い尼は池の傍に立って鯉を見ているけれども、心は鯉にあるのではなく、老庵主から頼まれた何者かの見守りに当るらしくありました。
暫らくした時に、池に向いた方の書院の障子がスラスラと開きました。その開いた間から見えるのは、やはり若い尼で、しかもこちらにいる若い尼さんよりも一層美しいものでありました。頭のかざりを下ろした尼さんとは見えません。
その姿を見ると、池のほとりの尼は手を振って何か合図をすると、せっかく開きかけた障子を閉めて、再び姿を現わすことをしませんでした。この美しい尼ならぬ尼は、駒井能登守の
お君は、あの晩に、お松の口から思い切った忠告を聞いて、お松が帰ったあとで
その物狂わしさが静まった時分に、お君は死んでいました。自殺したのではなく、誰かの手で死なされていました。誰かの手、それはおそらく駒井能登守の手でありましょう。能登守は、老女に言いつけて、物狂わしいお君の息の根を止めさせたものと思われます。何かの薬を与えて、それによってお君は殺されていました。
お君が再び我に帰ったのはこの尼寺へ着いた後のことで、自分は寄進物の長持の中へ入れられて、ここに送られたということもその後に庵主から聞かされました。
慢心和尚が、宇津木兵馬を呼んで、
「お前さんに一つ頼みがある」
兵馬は一旦この坊主から腹を立てさせられましたが、今になってみると腹も立たないのがこの坊主です。何の頼みかと思って聞いていると、
「向岳寺の尼寺から、八幡村の
ということです。なおその人というのは何者であるかを兵馬に尋ねられない先に、和尚が語って聞かせるところによると、
「向岳寺の燈外庵へこのごろ泊った若い婦人がある、燈外庵の庵主は、その若い婦人を預かるには預かったけれども始末に困っている――尼寺というところは、罪を犯した女でも、一旦そこへ身を投じた以上は誰も指をさすことはできないのだが、その尼寺でもてあましている女というのは……実は、お前さんだから話すが
ということであります。和尚は真面目でありました。
「それじゃによって、尼寺でも始末に困る、あの寺でお産をさせるわけにはゆかない、よってどこぞへ預けるところはないかと、わしがところへ相談に来た、そこで、わしが思い当ったことは、この八幡村の江曾原に小泉という家がある、そこへその女を連れて行って預けるのだが……」
と言われて兵馬は奇異なる思いをしました。八幡村の小泉は、もとの自分の
「小泉の主人が、いつぞやわしのところへ来て、和尚様、悪い女のために
兵馬は、いよいよ奇異なる思いをして、とかくの返事に迷いましたけれど、思い切って承知をしました。
「よろしうございます、たしかにお引受け致します」
「有難い。では、夜分になって、八幡まではそんなに遠くもないところだから、
と念を押しました。
兵馬が委細を承って、やはり例の
まもなく一挺の
宇津木兵馬はその駕籠を守って、
ここへ来た時分には、月が
差出の磯の
なるほど、耳を澄ますと、どこかで千鳥が鳴くような心持がします。亀甲橋へ渡りかかった時に、
「右や左のお旦那様」
兵馬はその声を聞流しにする。駕籠屋も無論そんな者には取合わないで行くと、
「右や左のお旦那様」
また一人、
「右や左のお旦那様」
橋の両側に菰をかぶったのが幾人もいて、通りかかる兵馬の一行を見てしきりに物哀れな声を出す。
「もうし、たよりの無い者でござりまする、もうし、もうし」
菰を
兵馬は、手に突いていた金剛杖を、ズッと立ち塞がる怪しいお
それが合図となったのか、今まで前後に菰を被っていたのが、一時に
「何をする」
兵馬はその金剛杖を振り上げました。
「その駕籠をこちらへ渡せ」
菰を刎ねのけたのを見れば、それは乞食体の者ではありません。それぞれ用心して来たらしい
委細を知らない兵馬は、和尚が自分を選んで附けたのは、こんな場合のことであるなと思ったから、
「エイ」
と言って金剛杖で、先に進んだ一人を苦もなく打ち倒しました。
「この坊主」
兵馬の手並を知ってか知らないでか、怪しの悪者はバラバラと組みついて来ました。
「エイ、無礼な奴」
兵馬は身をかわして、組みついて来るのを
驚いて逃げ足をした
それから兵馬は、駕籠の先に立って行手の方をうかがうと、その時分に向うから、また橋を渡って来る人影のあることを認めました。
駕籠屋を励まして長蛇のような亀甲橋を渡り切ろうとすると、左は高い岩で、右は松原から差出の磯の河原につづくのであります。月は中空に円く澄んでいました。向うから歩いて来るのは僅かに
「少々……物をお尋ね申したいが」
笠を深く
「はい」
兵馬はたちどまりました。駕籠はこころもち足を緩めただけで進んで行きました。
「あの、七里村の恵林寺と申すのはいずれでござりましょうな」
「恵林寺は、これを真直ぐに進んで行き、塩山駅へ出で、再び尋ねてみられるがよい、大きな寺ゆえ、直ぐに知れ申す」
「それは
若い侍は一礼して通り過ぎました。兵馬はその声が、なんとなく覚えのあるような声だと耳に留まったけれど、自分は近頃、あの年ばえの友達を持った覚えがありません。
「雲水様」
駕籠屋が兵馬を呼びかけました。
「何だ」
「今のあの旅の若いお侍は、ありゃ何だとお思いなさる」
「何でもなかろう、やはり旅の若い侍」
「ところが違いますね」
「何が違う」
「何が違うと言ったって雲水様、こちとらは商売柄でござんすから、その足どりを一目見れば見当がつくんでございます」
「うむ、何と見当をつけた」
「左様でござんすねえ、ありゃ女でござんすぜ、雲水様」
「女だ?」
「左様でございますよ、男の姿をしているけれども、あの足つきはありゃ男じゃあございません、たしかに女が男の姿をして逃げ出したものでございますねえ」
「なるほど」
「当人はすっかり
「なるほど」
兵馬は、さすがに駕籠屋が商売柄で、物を見ることの早いのに感心をし、そう言われてみると言葉の
兵馬はその後ろ姿を見送って、異様な心を起しました。
橋を渡り終って松原へかかると、駕籠屋はまた不意に
松林の中で焚火をしている者があります。焚火の炎が見えないほどに、幾人かの人が焚火の
しかし、宇津木兵馬はそのことあるのを前から感づいて、
「構わず、ズンズン
と駕籠屋を
「おい、その駕籠、待ってくれ」
果して焚火の周囲から声がかかります。
「構わずやれ」
兵馬は小さな声で、またも駕籠屋を促しました。
「おい、待たねえか」
「何用じゃ」
「その駕籠の主は何の誰だか、名乗って通って貰いてえ」
「無礼千万、
「そっちで名乗るがいやならこっちから名乗って聞かせようか、その駕籠の中身は女であろう」
「女であろうと男であろうと、其方どもの知ったことではない。駕籠屋、早くやれ」
「おっと、おっと、ただは通さねえ、ほかでもねえが、その女をこっちへ
「
兵馬は金剛杖を握り締めると、彼等はバラバラと焚火の傍から走り出して、兵馬を取囲みました。兵馬は金剛杖を
この悪者どもは、たしかこのあたりに住む博徒の群れか、或いは渡り
兵馬は、やはりそれらを相手にすることに、さして苦しみはありませんでした。片手に打振る金剛杖で思うままに彼等を打ち倒し、突き倒すことは寧ろ面白いほどでありました。
けれども、本文通り……敵は大勢であって、これをいつまでも相手に争うていることは、兵馬の本意ではありません。兵馬は彼等を相手にしているうちに、駕籠だけは前へ進ませようとします。
悪者どもは、兵馬よりは駕籠をめざしているものと見えました。駕籠を守る兵馬は一人、それをやらじとする悪者は、松林の中から続々と湧いて来るようであります。
しかし、多勢もまた兵馬の敵ではなく、その神変不思議な一本の金剛杖で支えられて、近寄ることができないで、離れてしきりに
兵馬とても、彼等を近寄らせないことはなんの雑作もないけれども、さりとて、遠巻きのようになっているところを、どこへどう斬り抜けてよいのだか、その見当はついていないのであります。駕籠屋は駕籠を
「やい、しっかりやれ、敵はたった一人の
親方らしいのが、棒を
兵馬はよく見澄まして例の金剛杖で、バタバタと左右へ打ち倒す時に、不意に松葉の中から風を切って一筋の矢が、兵馬へ向いて飛んで来ました。
危ないこと。しかし兵馬の金剛杖は、その思いがけない一筋の矢を、
「この坊主は拙者が引受けるから、早く駕籠を片づけろ」
同じく松林の中から、覆面した
「それ
兵馬がハッとする時に、左の覆面が切り込みました。
兵馬は金剛杖でそれを横に払いました。その瞬間に、右の覆面が斬り込んで来ました。兵馬は後ろに飛び退いて小手を払いました。
兵馬に小手を打たれてその覆面は
兵馬は金剛杖を打ち振り打ち振り後ろの敵に備えながら、
飛んで来て見ると、橋の袂のところで、今、一場の大格闘が開かれているところであります。月が明るいから、こっちから、絵のようにその光景を見て取ることができます。それはいま奪って行った駕籠を真中にして、それを奪って行った悪者どもが、入り乱れて組み合っているのでありました。しかもこの悪者どもが相手にしているのは、たった一人の人間に過ぎないようであります。一人の人間を相手にして、寄って
その一人の豪傑は、遠目で見たところではなんらの武器を持っていないらしい。徒手空拳で、つまり
一つ撲られたその痛さがよほど
兵馬はその勇力にも驚きましたけれども、同時に、それが自分と同じことに
「老和尚」
と言って兵馬は近づいて呼びました。
「宇津木どん」
慢心和尚はその時、悪者どもを片っぱしから撲りつけてしまって、駕籠の前に立って、抜からぬ
「どうしてここへ」
「お前さんに頼みは頼んだが、あぶないと思うから、あとを
「すんでのことに、この駕籠を奪われるところでした」
「危ないところ、オホホ」
和尚は例の愛嬌のある笑い方をしました。この和尚の面の円いことと口の大きいことと、その口の中へ拳が出入りするということはかなり驚かされていたけれど、その拳の力がこれほど強かろうとは、今まで知らなかったことであり、聞きもしなかったことであります。なんとも見当のつかない使者の役目を
「それ、また危ない」
この時、
「オホホ」
実に要領を得ない坊主であります。兵馬は舌を捲くばかりでありました。慢心和尚は、
「さあ、兵馬さん、これからだ。八幡村へ持って行けと言ったのは、大方こんなことが起るだろうと思ったから、奴等を出し抜いたのだがね、こうして毒を抜いておけば、あとの心配がない、これからほかの方へ持って行くのだ、さあいいかえ、兵馬さん、わしの後ろへ
何をするかと思って見ている間に、慢心和尚は、駕籠の棒へ手をかけて、それをグーッと一方を詰めて一方を長くしました。
「これ
と言って慢心和尚は、その棒の長くした方へ肩を入れて、ウンと担いでしまいました。
いくら女一人の身ではあるといえ、それを片棒で、一人で担いでしまうにはかなりの力がなければできないことであります。兵馬は、やはり
しかもその歩き出す方向が、今まで来た八幡村へ行く方向とはまるっきり違って、東の方――またしても亀甲橋を渡り直して、もと来た方へ帰って行くのであります。初めは常の足どりで歩いていたのが、ようやく早足になりはじめます。
兵馬は
しかしながら和尚は、恵林寺へ帰るのでもなし、また尼寺へ立戻ろうとするのでもないらしく、甲州街道をどうやら勝沼の方まで出かけようとするらしいから、兵馬は
「老和尚、いったいどこへおいでなさるつもり」
と尋ねました。
「甲斐の国
「石和川というのは?」
「この川が石和川じゃ」
「その石和川へ何しに」
兵馬は、いよいよ
「この背中にある女をそこへつれて行って、沈めにかけるのじゃ」
「沈めにかけるとは?」
「水の中へブクブクと沈めて、殺してしまうのだ、オホホ」
「エッ」
なんと下らないことを言う坊主ではありませんか。兵馬が驚くのも無理はありません。それを坊主は平気でオホホと笑い、
「何も驚くことはない、昔から例のあることじゃ、この石和川で禁断の
「老和尚、またしても
「冗談ではないよ」
冗談にしても兵馬は、いい気持がしませんでした。ましてや駕籠に乗っている女の人が、それを聞いて、いい気持はしますまい。
けれどもこの和尚が、この駕籠に乗っている女を沈めにかける目的でないということは、川の方向は
兵馬は、いよいよ
ああ、この和尚こそ、まさにその人ではないかと思いました。その人に違いないと思いました。
その頃、知られた大力の坊主に
この拳骨和尚がまだ若い時分に、越前の永平寺に
「僅か一つの鐘を、そんなに大勢して騒いでも仕方がないではないか」
と言って、からからと笑いました。
「僅か一つと言うけれど、その一つが釣鐘だ、笑っていないで何とか知恵があったら知恵を貸せ」
「それはお安い御用よ、おれに茶飯を振舞いさえすれば、一人で片づけてやる」
この和尚の力のあることは坊さんたちがみんな聞いていたから、ともかく、茶飯を食わせてみようではないかということになって、充分に茶飯を振舞うと、和尚は軽々とその鐘を差し上げて、元の通り鐘楼の上へ持って来てかけてしまった。
その後、たびたびこの釣鐘が山門の外まで動き出すので、
「さては、あの
一山の者が大笑いをしました。
この拳骨和尚が京都へ出た時分に、
或る時、壬生の新撰組の
出家とは言いながら、あまり無遠慮な覗き方であったから、
「我々の剣術を覗いて見るくらいでは、さだめてその心得があるのであろう、とにかく、道場の中へ入って一太刀合せてみろ」
もとより
この時、上座にいたのが、隊長の近藤勇でありました。この
「これはこれは、驚き入った和尚の腕前。拙者は近藤勇、いざお相手を
というわけで、二間柄の槍を執って近藤勇が、道場の真中に立ち出でるということになりました。
それを聞くと、拳骨和尚は平伏して、
「これはこれは、先生が名に負う近藤勇殿でござったか、鬼神と鳴りひびく近藤先生のお名前、
と殊勝な御辞退ぶりです。
しかし、近藤勇ともあるべきものが、それで承知すべきはずがなく、今は辞するに
「およそ武術の勝負には、それぞれの
と言われて、和尚は首を振り、
「我は僧侶の身であるから、あながちに武器を取りたいとも思い申さぬ、やはりこれでお相手を
鉄如意を離さなかったけれど、近藤勇は
「しからば」
と言って鉄如意を下へ置いて、改めて
「如意でお悪ければ、この品でお相手を致すでござろう」
あまりと言えば人をばかにした
「いざいざ、いずれよりなりとも突きたまえ」
といって椀をかざしている
「まことに万人に優れたお腕前、感服の至りでござる。そもそも貴僧はいずれのお方に候や、名乗らせ給え」
「お尋ねを
と聞いて、近藤はじめ、さては聞き及ぶ拳骨和尚とはこの人かと、
嘘か、まことか、この話は今に至るまでかなりに有名な話でありました。
宇津木兵馬は、その和尚のことを思い出したから、もしや右の拳骨和尚が、慢心和尚と変名して、この地に逗留しているのではないかとさえ思いました。そうでなければ、こんな勇力ある坊主が、二人とあるべきはずのものではなかろうと思いました。
それで兵馬は慢心和尚に向って、
「老和尚はもしや、備後尾道の物外和尚ではござりませぬか」
と尋ねました。
「そんな者ではない、そんな者は知らん」
と言いながら慢心和尚は、駕籠を担いでサッサと行くのであります。それですから、一度はそれと尋ねてみたけれど、二の句は継げません。こうして金剛杖を突いて、やっぱりあとを追っかけて行くうちに勝沼の町へ入りました。
その時分、もう夜は
「宇津木さん、これから先は、この中の人をお前さんに引渡しますよ、どうかして江戸へつれて行って上げるのがいちばんよかろうと思いますよ。この中の人には向岳寺の方から手形が出ているし、お前さんは、わしの寺からということにしてあるから、道中も無事に江戸へ行けるだろうが、出家姿で女を連れて歩くというのも
こう言いましたから、兵馬は、やっぱり
「さあ、そういうことにして、これから富永屋を叩き起そう、宿屋が商売だから、いつなんどきでも叩き起して、いやな
とにかく、こうして
慢心和尚はその宿屋の前へ立って、拳を上げてトントンと戸を叩きましたけれど起きませんでした。大抵の場合には、時刻を過ぎては狸寝入りをして、知っていても起きないことがあるのでしたから、慢心和尚は、やや荒く戸を叩いて、
「富永屋、富永屋……庄右衛門、庄右衛門、恵林寺の慢心だよ、慢心が出て来たのだよ、起きさっしゃい」
こういうと慢心の
慢心和尚はここの家へ二人を送り込んでから、スーッと帰ってしまいます。
駕籠の中の主が、お君であったということを、兵馬はこの宿屋の一室へ来て、はじめて知りました。お君はその前から感づいていたけれど、口に出して言うことはできませんでした。兵馬にとっては意外千万のことです。ことに神尾主膳のために駒井能登守が
またその後のお松の身の上を聞いてみると、やはり危険が刻々と迫っていて、今日は逃げ出そうか、明日は忍び出そうかと、そのことのみ考えているということを聞いて、それも心配に堪えられませんでした。
けれども、さし当っての問題は、預けられたこの女をどうするかということであります。執念深い神尾主膳の一味はこの女を
甚だ迷惑千万ながら、兵馬としては、やはりこの駕籠を江戸まで送り届けることを、ともかくもしなければならないなりゆきになってしまいました。お君は、もう弱り切っていました。兵馬はお君を先に休ませて、明日の駕籠や乗物の事を心配しました。明朝と言っても、もう間もないことだから、今からどうしようという
そこで兵馬は、明日一日はここに
駕籠の中には兵馬の衣服大小の類も、路用の金も入れてありましたから、兵馬はそれを取り出して調べました。
江戸へ送り届けて後のこの女の処分も、考えればまるで雲を
そうしてこの女を江戸へ届けて、ともかくも落着けてみてからの兵馬自身の行動は、直ちにまたこの甲州へ舞い戻って来ることであります。最も怪しむべきは神尾主膳である。駒井能登守を陥れた手段の如きは、聞いてさえその陰険卑劣なことに腹が立つ。わが
疲れ切ったお君は、
その翌日は、あまり大降りではないけれども、とにかく雨が降りました。宇津木兵馬にとってはこの雨がかえって仕合せなくらいでありました。兵馬はお君をここで、できるだけ休養させようとしました。お君は病人のようで、兵馬はその看護をしているもののようにして、旅の用意を調えつつ、その日一日を暮らしました。
ちょうどこの時に、この富永屋という宿屋に、一人の
この間、絹商人だという亭主らしい人と一緒に来て、その亭主らしい人はどこかへ出て行って、まだ帰って来ない間を、その年増の女がたった一人で幾日も待っているのであります。
けれども、その亭主らしいのが幾日も帰っては来ないうちに、帳場へ懇意になり、主人の庄右衛門とも心安くなりました。
そうしているうちに番頭が病気になると、この女が帳場へ坐り込みました。帳場へ坐り込んだと言ったところで、主人を
ところがこの女は、人を
その雨の降る日に、お角は帳場に坐っていました。
「お千代さん、それでは三番のお客様も、今日は御逗留なのだね」
と言って、お千代という女中に尋ねました。
「はい、今朝は早くとおっしゃっておいででございましたが、お足が痛いからとおっしゃって、もう一日お泊りなさるそうでございます」
「そりゃそうでしょう、あのお
「ほんとに女のようなお若い、お美しいお
「お見舞に上ってみましょう」
お角はこう言って、その足を痛めた美しい侍の、三番の室というのを見舞に行こうとしました。
ここで話題に上った三番の室というのは、それは兵馬とお君との部屋をいうのではありません。二人のいるのは一番の室であります。今の話の三番の室には
「御免下さりませ」
と言ってお角がそこへ訪ねて来ました。
「これはどなた」
という声は、少年にしてはあまりに優しい声であります。
「
「これは御内儀でござったか。生憎の雨のこと故、もう一日、出立を見合せまする」
「どうぞ
「明朝は駕籠を頼み申しまする」
「はい
「左様……雨が降っては」
「雨が続きましたら、もう一日御逗留なさいませ、ごらんの通りの
「しかし……ちと急ぐこともある故、もし明朝は雨が降っても峠を越したいと思いまする」
「左様でござりまするか。左様ならばそのように駕籠を申しつけておきましょう」
「よろしく頼みまする」
「それではそのおつもりで……どうぞ
お角はお辞儀をして出て行こうとすると、
「あの、御内儀……」
美少年は何か頼みたいことがあるもののように、立ちかけたお角を呼び留めました。
「はい」
「ちとお尋ね致したいが、あの峠へかかるまでにお関所がありましたな」
「はい、
「あの、その関所は、手形が無くては通してくれまいか」
「それはあなた様、お関所にはどちらにもお関所の御規則がありまして」
「それをどうぞして、抜けて通る路はあるまいか」
「あの、お関所の前をお通りなされずに?」
「
美少年は一生懸命でこれだけのことを言いました。よほどの勇気をもってこの宿の主婦と見たお角にこのことを打明けて、相談をしてみる気になったものであります。
しかし、これだけの相談として見れば、それだけの相談だけれど、表向きに言えば、お関所破りの相談であります。どうしたらお関所破りができるか教えてくれというようなものであります。お角はこの少年の
「それはそれはお困りのことでござりましょう、ほかのことと違いまして」
お角も、さすがに即答がなり兼ねるらしくあります。少年はきまりが悪いのか、窮したせいか、下を向いていると、
「お関所の抜け路をお通りなさることや……また殿方が女の
お角にこう言われて、少年の
その痛々しい若い侍の室を出たお角は、しきりに小首を
お角がそこへ行こうと思って廊下を渡ると、表の方で大声が聞えました。それも図抜けて大きな声で、
「さあさあ、大変大変、峠へ狼が出て二人半食い殺されてしまった、いやもう道中は大騒ぎ、大騒ぎ」
と言うのであります。あまりに無遠慮に大きな声でありましたから、お角の耳にも入ったし、その他の人にもみんな聞えたでありましょう。一番の室へ行こうとしたお角はこの声で直ぐに引返して、兵馬やお君を見舞わずに帳場へ帰って来ました。
その今の大きな声の持主は、この街道を往来する馬方であります。それが地声の大きいのを一層大きくして、この店へ怒鳴り込んだのであります。
宇津木兵馬の耳にもその大きな声が聞えたから
「宇津木様、何でございます、あの騒ぎは」
「峠へ狼が出たそうな」
「怖いこと、狼が?」
「そうして人を二人半食い殺したと聞えたけれど、二人はよいが、半というがちとおかしい」
兵馬とお君とはこう言って話をしている間に、例の地声の大きな馬方は店の方で、お角やその他の者を相手に、盛んに大声をあげてその講釈をしているらしくありました。それが洩れて聞えるところによれば、狼に食い殺されたのは笹子峠の
兵馬は、その前路を控えた身で、こんな話を聞くことは、さすがに快しとはしませんでした。狼というものの存在はかねて聞いてはいるし、またこのあたりの山々にはそれが住んでいて、時あっては人里までも出て来るという話も聞きました。けれども、そんな話をお君に聞かせることはよくないと思って、それで不快の感じがしたのであります。
「夜道などをするから悪いのじゃ、
兵馬はそう思いました。一体深山に
こうは言うものの、明日、この女をつれて峠を越える時に、不意にそれらの悪獣に襲われたとしたら……それに対する用意をしておかなければならないのだと思いました。
いったん帳場へ帰って、狼が人を食った話を馬方の口から詳細に聞いたあとで、お角はまた再び第一番の室、すなわち兵馬とお君のいるところへ見舞に行こうとして廊下を渡って行くと、
「ちょッ、ちょっと、お角」
裏の垣根越しに呼び留めたものがあります。
「どなた」
お角がその垣根越しを振返って見ると、雨の中を笠をかぶって
「おや、お前は百さんじゃないか」
「
「誰も見ていないから、早くその土蔵の蔭から七番の方へお廻り」
「大丈夫かえ」
「大丈夫だよ、あの裏木戸から入って」
「
その垣根越しの笠と合羽は、がんりきの百蔵であることに
二度まで見舞に行こうとして
お角がそこへ戻って来た時分に、がんりきの百蔵は、もう
「おっそろしい目に逢ったよ」
「何がどうしたの」
「昨日の夕方はお前、笹子峠の七曲りで狼に
「そうかね、お前さんかえ。今、馬方が来ての話に二人半食い殺されたというから、その半というのはどういうわけだと聞いたら、それは食われ損なって逃げた人があるんだと言っていた、それがお前さんとは気がつかなかった。何しろ命拾いをしてよかったね」
「まあよかったというものだ。大丈夫かえ、誰にも
「大丈夫。まあその合羽をお出し」
お角はがんりきの手から、雨に濡れた合羽を受取って、そっと裏の方から竿にかけました。
「やれやれ」
旅装を取ったがんりきは火鉢の前へ坐りました。お角もまた火鉢によりかかりました。それから、ひそひそ話で、時々
「それじゃ、今夜は泊り込むとしよう、だが明日の朝は、また鳥沢まで行かなくちゃあならねえのだ」
「ほんとうに落着かない人だ、いくら足が自慢だからと言って、そうして飛び廻ってばかりしているのも因果な話」
「どうも仕方がねえや、こうしてせわしなく出来ている身体だ」
「あ、そりゃそうとお前さん[#「お前さん」は底本では「前さん」]、鳥沢へ行くのなら、お客様を一人、案内して上げてくれないか、まだお若いお侍だけれど、手形を失くしてしまって困っておいでなさる様子、抜け道を聞かしてもらいたいとわたしに頼むくらいだから、ほんとうに旅慣れない
「なるほど、そりゃ案内してやっても悪くはねえが、こちとらと違って、あとで出世の妨げになってもよくあるめえからな、それを承知で、よくよくの事情なら、ずいぶん抜け道を案内してやらねえものでもねえ」
「そりゃお前さん、よくよくの事情があるらしいね、手形を失くしたというのは
その翌朝になっても雨はしとしとと降っていましたが、それにも拘らず宇津木兵馬は、駕籠を雇ってこの宿を立ち出でました。
兵馬は合羽を着て徒歩でこの宿を出て、尋常に甲州街道を下って行くのでありましたが、兵馬とお君の駕籠がこの宿を尋常に出かけた前に、まだ暗いうちに同じくこの宿を出でて、東へ向って下った二人の旅人がありました。
前のは旅慣れた片手の無い男で、あとに従ったのは前髪の女にも見まほしい美少年。前のはがんりきの百蔵で、後のは昨日三番の室で関所の抜け道を問うた少年であります。
兵馬お君の一行が、本街道の関所のあるところを大手を振って通るのに、がんりきと美少年は裏へ廻って、関所のない抜け道を通ることが違っているのであります。
本道を通ることは例外で、抜け道を通ることのみがその本職であった百蔵は、こんなことには心得たものです。
女にも見まほしき美少年は、足を痛めたとはいうけれど、やはり旅には慣れているもののようです。しかし、両刀の重味がどうにも身にこたえるようで、それを抱えるようにして、がんりきのあとをついて行くと、
「これでもこれ、お関所のあるべきところを無いことにして通るんでございますから、表向きにむずかしく言えばお関所破りになるのでございますね、お関所破りの罪を表向きにやかましく
がんりきの言うことは少年をして、薄気味の悪い心持を起させないわけにはゆきません。がんりきはそれをこともなげに言って、少年が気にかける様子を尻目にかけて、
「しかし、お役人とても、そんなに
こんなことを言っている間に、いつか関所の裏道を抜けてしまって、本道へ出て笹子峠を上りにかかっていました。
なお、がんりきは途中、いろいろの話をしてこの少年に聞かせました。丁度、そんなような雨のことですから、旅人も少ないもので、山また山が重なる笹子の峠道は、昼とは思われないほどに暗いものでありました。峠を登って行くと坊主沢のあたりへ出ました。この辺は橋が幾つもあって、下には渓流が左右から流れ下っているところもあります。
やがて、もう峠の頂上へも近づこうとする時分に、
「こいつはいけねえ」
とがんりきが言いました。
いま峠の上から、一隊の人が下りてくるらしくあります。この一隊の人というのは、尋常の人ではなく何か役目を帯びた人らしくあります。がんりきはそれを振仰いで、
「あれは八州様の組だ、うっかりこうしてはいられません、少しばかり姿を忍ばせましょう」
こう言って坊主沢を左に切れて、
なるほど、それは八州の役人らしい。幸いにしてこの役人たちは、いま横へ切れた二人の姿を
「どうも危ねえ」
がんりきはその横道を先に立って行きました。これは多分、天目山の方へ行かるべき路であろうと思われます。
八州の
その杉の木立の中に、山神の
「あれで暫らく休んで参りましょう、どのみち本道へかからなくてはなりません、そのうち雨も
がんりきが先に立ってその祠の縁へ腰をかけ、
「ずいぶんお疲れなすったことでございましょうねえ」
「いいえ、それほどに疲れはしませぬ」
と言ったけれども少年は、かなりに疲れているらしくありました。
「なにしろ、お若いに一人旅ということはなさるものではございません、あなた様が男でいらっしゃるからいいようなものの、もし女でもあって
がんりきにこう言われた時に、少年はギクッとしたようでした。そう言ったがんりき自身もまた、妙に気がひけたらしく、
「狼、狼といえば、この山にはほんものの狼がいるんでございます、そう思うと何だか急に気味が悪くなって来た」
がんりきは、わざとらしい身ぶるいをして前後を見廻しました。前後は杉の木立で、足下では沢の水が
少年は、なんとなし
「ともかく、本道へ戻ろうではござりませぬか」
「まあようござんす、まあ休んでおいでなさいまし、どんなことをしたからと言ったって、日のあるうちに越せねえ峠じゃあございませんや、八州のお方が立戻ってでも来ようものなら、今度はちょっと抜け道がねえのでございます、もう少し休んでいらっしゃいまし」
と言いながら、がんりきは少年の手首をとりました。
「あれ――」
少年は思わずこう言って叫びを立てました。
「そんなに
「左様なものではない」
「いけません、わっしは道中師でございます、旅をなさるお方の一から十まで、ちゃあんと
「隠すことはない」
「それ、それがお隠しなさるんでございます、あなた様は女でないとおっしゃっても、これが……」
がんりきはその片手を伸べて、乳のあたりを探るようにしましたから、
「無礼をするとようしゃはせぬ」
少年はツト立ち退いて刀の
「ははは、たとえあなた様が男でござりましょうとも、女でいらっしゃいましょうとも、それをどうしようというわっしどもではございませぬ、御安心下さいまし。しかし、こうしてお
「もう、雨も
「まあ、もう少しお休みなさいませ。いったい、あなた様は女の身で……どうしてまた、わざわざ一人旅をなさるんでございます、それをお聞き申したいんでございますがね。次第によっては、これでも男の端くれ、ずいぶんお力になって上げない限りもございません」
「さあ、早くあちらへ参ろう」
「まあ、よろしいじゃあございませんか、私がこうしてお聞き申すのは、実は、あなた様をどこぞでお見受け申したことがあるからでございます」
「えッ」
「たしか、あなた様を甲府の神尾主膳様のお邸のうちで、お見かけ申したことがあるように存じておりまする」
「知らぬ、知らぬ」
「あなた様は知らぬとおっしゃいますけれど、私の方では、あなた様の御主人の神尾様にも御懇意に願っておりまするし、それから、あなた様の伯母さんだかお師匠さんだか存じませんが、あのお絹さんというのは、かくべつ御懇意なんでございます、間違ったら御免下さいまし、そのお内で、たしかお松様とおっしゃるのが、あなた様にそのままのお方でございましたよ」
「どうしてそれを」
「がんりきの百蔵と言ってお聞きになれば、あなた様のお近づきの人はみんな、なるほどと御承知をなさるでございましょう」
「ああ、それではぜひもない」
少年はホッと息をついて、がんりきの
「いかにも、わたしが神尾の邸におりました松でござりまする、こうして姿をかえて邸を
「それそれ、それで私も安心を致しましたよ、神尾様のお身内なら、なんの、失礼ながら御親類も同様、これから、お力になってどこへなりと、あなた様のお望みのところへ落着きあそばすまで、このがんりきが及ばずながら御案内を致しまする」
「なにぶん、お頼み致しまする」
なにぶん、頼んでいいのだか悪いのだか知らないが、この場合、お松はこう言ってがんりきに頼みました。
「ようございますとも。さあ、そう事がわかったら、こんな窮屈なところに長居をするではございません、本道をサッサと参りましょう」
それから後は存外無事でありました。無事ではあったけれども、こんなに
しかし、こうなってみると、急にこの気味の悪い道づれと離れることもできないで、お松は笹子峠を越してしまいました。
何事か起るべくして、何事も起らずに峠を越してしまいました。人にも
そうして黒野田の
ここへ着いての思い出は、お松にとって少なからぬものがあります。ここの本陣へ駒井能登守と共に泊り合せた一夜の出来事は、
お師匠様のお絹がここで何者にか
ところが、この宿へ着いて旅装を解くと、まもなくがんりきの姿が見えなくなってしまいました。お松は心には充分の警戒をして、万一の時は身を殺してもと思っているのですけれども、その警戒の相手が不意になくなってみると、なんとなく拍子抜けのようでもありました。いく時たっても、がんりきは帰って来ませんでした。ついに夕飯の時になって見ると、その食膳は一人前であります。
これを以て見れば宿でもまた、自分に連れのあることは認めていないものと見なければなりません。またお連れ様はとも尋ねてみないことを以て見れば、この宿では全然、自分に連れのあったことをさえ想像していないらしくあります。
お松は
日が暮れても、風呂が済んでも、いよいよ寝る時刻になっても、とうとうがんりきは姿を見せないのであります。
お松はそれを合点がゆかないことに思ったけれども、また多少安心をする気にもなりました。なぜならば、あんな気味の悪い男に導かれて行くことの不安心は、慣れぬ一人旅をして歩く不安心よりも、一層不安心であるからです。
前途はとにかく、あの男と離れたことが、かえって幸いであったと、寝床に就いた時分にホッと息をつきました。
お松がこんな
兵馬が恵林寺に留まっていることがわかりさえすれば何のことはなかったろうけれど、それをお松は知ることができませんでした。ただこうして行くうちに、兵馬の
その翌日、早朝に宿を出立すると、どうでしょう、
お松も、はじめはそれとは気がつきませんでした。近寄って見た時に、それと知ってギョッとしました。
「お早うございます」
がんりきは挨拶をしました。
「これは、まあ」
と言ってお松は
「お待ち申しておりました」
この分では、この男に見込まれたようなものだ。
「昨夜はどこへお泊りなさいました」
とお松は尋ねました。
「ツイこの近いところに知合いがあるんでございます」
がんりきはそれだけしか答えません。お松もその上は問うことをしませんでしたが、どうしてもこの男の道づれを断わるわけにはゆきません。
「ここは橋詰というところでございます、この次がよしヶ久保と申しまして、あすこにあるのが
こんなことを言って、がんりきは細かな道案内をしながら歩いて行きます。
そのうち大月の手前まで来ると不意に、
「どうか一足先においでなさいまし、私は少しばかり廻り道をして参りますから」
と言うかと思えば、がんりきはツイと横道へ切れてしまいました。お松と一緒に歩いている時は、そんなでもなかったけれど、一人で横道へ切れる時の足の早いこと、あ、と言う間もなくいずれへか姿を消してしまいました。
それから、お松はまた一人で歩いて行きました。この男は、確かに道中の
笹子の山中で、右の男は道すがら、自分はこう見えても女に餓えているような男でないから、一人旅をなさるお前様を、取って喰おうの煮て喰おうのという
しかし、気味の悪い男は気味の悪い男である、どうしてもあの男と道づれの縁を切ってしまわねばならぬと思いました。それをするにはいかなる手段を取ったらばよいだろうかと、そのことをそれからそれと考えて、大月から駒橋、横尾、
お松は
「許せよ」
お松がこの店に休みながら考えたのは、やはりこの後いかにして、がんりきという気味の悪い道づれを
ここで
暫くした時に、その前をズッシズッシと通ったのは、昨日、笹子峠の坊主沢のあたりで
いかに同行の人を求めたいからと言って、あの一行の中へ駆け込むわけにもゆかないから、お松はそれの通り過ぐる間は隠れるようにして、それが遠く離れたと思われる時分まで、わざとこの店に
「御免なさいよ」
と言って頬冠りを取った馬子の
この店の親方とは、心安い間柄と見えて、話しぶりも打解けたものです。その話を聞くと、笹子まで客を送って行って、これから鳥沢へ帰るところであるということです。
この馬子は隅っこへ腰をかけて、お松の方を遠慮深く見ていたようでしたが、
「もし、お武家様」
と言って言葉をかけました。
「はい」
お松は馬子から言葉をかけられたので、少しうろたえて返事をしました。
「失礼でございますが、あなた様は、これからどちらへお越しでございます」
「江戸へ下ります」
「左様でございますか、お一人で……」
「はい」
「いかがでございましょう、どのみち帰りでございますから、お馬にお乗りなすっておくんなさいますまいか」
と言われて、お松は馬子の
今、ここでこの馬子から馬に乗れと言われてみると、もうこれが
お松は心をきめて、とうとうその馬に乗ることに約束しました。
馬子は喜びました。どのみち帰り馬のことだから、賃銭も安くするようなことを言いました。お松はどこまでというきまりをここではつけませんでした。けれど、実は上野原まで一気に行ってしまおうという心で、この馬に乗ることにしました。
この馬子の面はどこやら、先に甲府の牢を破った南条という奇異なる武士の
ほどなく例の猿橋まで来ました。こちらへ入る時にお松は、この有名な橋の傍へ駕籠をとどめて見て過ぎました。今、馬上からそれを見るとまた趣が変ったものであります。馬子は、この橋が水際まで三十三
百蔵もまたズカズカと馬の傍へ寄って、お松に向って
それがために、せっかくお松に寄ろうとして来たがんりきが、一言も物を言う
「あははは、足の早い野郎だ」
と笑っていました。
なるほど、足の早い野郎で、
「お武家様、お前様は、あの男に見込まれなさいましたね、お気をつけなさらなくちゃあいけませんぜ、あいつは
「馬子どの、お前は、あの人を知っておいでなのか」
「知っておりますよ、いやに悪党がって喜んでいる、たあいもない奴でございます」
「実は、あの者に取りつかれて困っています、なんとか遠ざける工夫はなかろうか」
お松は、ついこのことを馬子に向って口走りました。
「左様でございますねえ、こんど出て来たら取捉まえて、なんとかしてみましょう」
と馬子は言いました。なんとかしてみるというのは、どうしてみるつもりなのだろう。けれどもこの馬子ががんりきを怖れないと反対に、がんりきがこの馬子を怖れて逃げたことは今の挙動でわかるのですから、お松はなんとなくこの馬子を心強いものに思います。
この馬に乗ったお松は、犬目新田も過ぎ、
ここは、その前の時分に宇治山田の米友が坊主にされたところであります。ここまで来る間に、どうしたのかがんりきの百蔵はまるきり音沙汰がありません。
前の時には、大勢の川越し人足がいたけれども、今は水の出も少ないし、人足でなしに、橋を
「これ待て」
お松を乗せた馬がこの前を通った時に呼びかけました。南条に似た馬子は、その声を聞いて聞かないようなふりして行こうとするのを、
「その馬待て」
二度呼び留めましたけれども、馬子はやはり聞かないふりをして行ってしまいます。役人はあとを追っかけて来るかと思うと、それっきりなんの音沙汰もありませんでした。だからお松の乗った馬は、無事に渡し場を越えて上野原の宿へ入りました。
ここで若松屋という宿屋へ、この馬子によって案内されました。これから江戸へ行くまで、放したくない馬子だと思いました。けれども、そういうわけにはゆかないから、お松はこの馬子に定めの賃銀と若干の
さてこうしてみると、がんりきのことが思い出されます。あの馬子の
「お客様、まことに恐れ入りまする、八州様の御用が参りました」
「八州様の御用とは?」
「この辺をお見廻りのお手先でございます」
「役人に調べられるような筋はないが」
「さあ、どういうわけでございますか、先刻お馬でお着きになった若いお武家の方にお目にかかりたいと申して、店へお出向きになりましてございます」
「はて、先刻馬で着いたといえば、どうやらわし一人のような……」
「左様でござりまする、ほかにお馬でお着きになったお方もござりますれど、若いお武家様とおっしゃられると、あなた様のほかにはござりませぬ」
「わしに何の用向きか知らんが、会いたくないものじゃ」
「それでも、ちゃんと、おあとを見届けておいでになったものでございますから、
「そんならぜひもない、会いましょう、これへお通し下されたい」
とお松は言って番頭を帰しました。
けれどもこれは安からぬ思いであります。この際に役人から取調べを受けるということは一大事であります。しかしこうなってみては逃れることができません。断わることもできません。断われば職権を以て踏み込むに相違ない、逃るれば手分けをして引捕えるに相違ない、会ってみるよりほかはどうにも仕方がないのであります。このくらいなら、いっそ、がんりきと連れになっていた方が、まだ知恵もあったろうにと思われる。そうして胸を痛めているところへ案内につれて、八州の役人と手先がズカズカと入って来ました。
お松は胸が
「ちと、お尋ね致したいが、
入って来た八州の役人というのは、わりあいに丁寧な物の尋ね様です。
「拙者は甲府より参りました」
お松も一生懸命で、度胸をきめて返事をしはじめました。
「甲府はいずれのお身分」
「勤番支配駒井能登守の家中の者にござりまする」
「駒井能登守殿の御家中とな、失礼ながら御姓名は?」
「和田静馬と申しまする」
「和田静馬殿……」
と言って役人は小首を傾けましたが、
「して、これよりいずれへお越し」
「主人能登守のあとを慕うて、江戸まで出まする途中」
「ただお一人にて?」
「左様。それには少々事情ありて、主人の一行に
「ともかく、少々
「それは迷惑な」
「
「不審と仰せらるるのは?」
「よろしい、しからば後刻また改めてお伺い致そう、御迷惑ながらそれまでは、このお宿をお立ち出でなさらぬように願いたい」
「心得ました」
「これは御無礼の段、御用捨」
と言って役人と手先とは、ゾロゾロと帰ってしまいました。
ともかくも帰ってしまったから、お松はホッと息をつきました。ホッと息はついたけれどこれは、いよいよ安心がならないのであります。存外、立入って調べることはしなかったけれども、実はここへ検束されてしまったのと同じことであります。後刻というのはいつ頃のことか知らないが、その時に来て委細を調べられてしまえば、何もかも
けれども、待ち構えている役人も手先も、容易にやって来る模様は見えませんでした。かなり身体も心も疲れているから、もう寝てしまいたい時刻であったけれど、いつ役人が押しかけて来るか知れないのだから、寝てしまうわけにもゆきませんでした。
甲府から江戸までは僅かに三十余里の旅、前に長い旅をしていた経験から、それをあまりにたかを
「もし、役人に引き立てられて、本陣とやらへ行かねばならぬ場合には自害する、いっそ、こうなっては、その前にここで死んでしまった方がよいかも知れぬ」
お松は、調べられて一切が曝露した暁に恥辱を取るよりは、それより前に死んでしまった方がと、さしもに気が張っているお松も、とても逃れぬ運命と死を覚悟してみると、一時に心弱くなってきて涙を落しました。
その時に、役人の来るべき表口でなく、障子を隔てた廊下の方で人の気配がするようであります。
お松がこうして宿に着いた時よりは少し遅れて、同じような客がこの上野原の本陣へ、同じような方向から来て宿を取りました。それはお松のように忍びやかに来たのではなく、大手を振らないまでも、旅路には心置きのない人のようであります。
その客は、お松と同じような若い侍の姿をしていましたけれど、お松のように単独の旅ではなく、ほかに一挺の
本陣へ着いてまもなく、守って来たほかの一挺の駕籠の人を隠すように別間へ置き、自分はその次の一室を占めました。申すまでもなく、その隠すように守護されて来た人というのはお君で、それに附いて来た人は宇津木兵馬であります。兵馬がその一室に控えている時に、これもお松が受けたと同じように、例の八州の役人の見舞を受けました。
「はて、八州の役人が何用あって、我々を
と兵馬は
役人は、またお松にしたように、そのいずれより来りいずれへ行くやを尋ねました。また兵馬に向って身分と姓名とを尋ねました。その時、兵馬は答えました。
「甲府勤番支配駒井能登守の家中、和田静馬と申す者」
「ナニ、貴殿が和田静馬殿と申される?」
役人は眼を丸くしました。その上に念を押して、
「お間違いではござるまいな、しかと貴殿が和田静馬殿か」
「御念には及び申さぬ、元、駒井能登守の家中にて和田静馬と申すは、拙者のほかにはござらぬ」
「ところが、その和田静馬殿が二人ござるから、物の不思議でござる」
「なんと言われる」
「しかも、同じくこの上野原の宿屋へ今日泊り合せた客人に、同じく駒井能登守殿の家中にて、和田静馬と名乗る
「これは不思議千万、その者はいずれの宿にいて、何を苦しんで拙者の名を
「それはただいま、我々が確かに会うてその名乗りを承って参った、当所の若松屋というのに、今も尋常に控えておらるる」
「はて怪しい、してその者の年頃は」
「貴殿よりは一つ二つお若うござるかな」
「それほどの年にしては大胆な。ともかく、それは心あってすることか、或いはまた旅路のいたずら心から、わざと拙者の名を用いるものか、これへ同道して突き合わせて御覧あればすぐにわかること」
「いかにも、貴殿がまことの和田静馬殿であることは、恵林寺の
「引捕えてこれへおつれあらば、拙者から
「しからばその者を引捕えて、これへ連れて参ろう」
役人や手先が立ち上った時に、兵馬はふと、何事か胸に浮んだらしく、
「お待ち下さい、なんにせよ、承れば年若の者、無下に恥辱を与えるも
「それは御随意」
兵馬は身仕度をして、わが変名の変名を名乗る若者の、何者であるかを見定めようとしました。
若松屋の一室に和田静馬と名乗ったお松は、非常の覚悟をしています。
和田静馬の名は、或る時において兵馬が仮りに名乗る名前でありました。お松はその名をこの場合に利用したことが、こんな風に喰い違ったことを知ろうはずがありません。
再び役人の来るべき時を予想して待っていると役人は来ないで、障子の外に人の気配がしたかと思うと、
「御免なさいまし」
小さい声で言いながら
「…………」
お松は
「また参りました」
来なくてもよい男であります。お松は
「また参りましたのは、大変が出来たからなんでございます。大変というのは、わたしどもの方の大変ではございません、あなた様の方の大変なのでございます、そのあなた様がこうして落着いておいでになる気が知れません、一刻も早くこの場をお逃げ出しになりませんと、命までが危のうございますよ。それで、わたしどもがまた迎えに上ったんでございます。早くお逃げなさいまし、わたしと一緒にこの宿屋をお逃げなさいまし、取る物も取り敢えずお逃げなさらなくてはいけません。第一お関所破りだけで、命と
がんりきは執念深くお松を連れ出しに来たものとも思えるし、また一種の親切で逃がしに来たものとも思われるのであります。けれどもお松は、さすがにこの男の言いなりにそれではと言って、逃げ出す気にはなれないでいると、
「何を考えておいでなさるんでございます。実はこういうわけなんでございます、あなた様が、この宿屋へ駒井能登守様の御家来だといってお泊りなさっていると、丁度本陣の方へ、その本物の能登守様の御家来が、ちゃあんと着いておいでなさるんだ、役人から、あなた様のお話を聞いて、能登守の家中に左様な者があるとは
がんりきにこう言われてせき立てられてみると、お松の心が動かないわけにはゆきません。どのみち危ない道を踏んだ以上は、手を
「先刻、お尋ねした和田静馬殿にお目にかかりたい」
それは紛れもなき役人たちの声であります。お松はこの声を聞くと、さすがに
「逃げなくちゃいけません、お逃げにならなくちゃ損でございます、馬鹿正直も時によりけりでございます」
早や表の方では、役人たちが案内されてこっちへ来る足音が聞えます。お松は我を忘れて大小を抱えると、がんりきは早くもお松の荷物を取って肩にかけていて、再びその手を取って、引きずるように廊下へ飛び出しました。
事の急なるがためにお松は、心ならずも、がんりきに引摺られるようにして、この家を外に飛び出しました。
外に出て見ると外は真暗です。その真暗な中を、がんりきは案内を知っていると見えて、お松の手を引きながらズンズンと進んで行ったが、
「誰だッ」
途中で不意に異様な声を立てて、お松の手を放してしまいました。
「ア痛ッ」
最初、誰だッと言った時に、がんりきは何者にか一撃を加えられたようでありましたが、二度目にア痛ッと言った時には、たしかに大地へ打ち倒されていたものであります。
「うーん」
と言って、がんりきが地上で唸っているのを聞けば、打ち倒された上に、手強く締めつけられているもののようでありました。さては役人の手が、もうここまで廻っていたかとお松は驚いて、木蔭に身を忍ばせました。それにしても不思議なのは、もし役人であるならば、御用だとか、神妙にとか言葉をかけて打ってかかるべきはずであり、なにも、がんりき一人だけを
「覚えてやがれ」
ややあって、こう言ったそれは、がんりきの声でありました。それは少しばかり遠いところへ離れて聞えました。大地へ打ち倒されたのがどうかして起き上って、命からがら逃げ出した
「もしもし、若いお武家」
それは聞いたような声であります。聞いたような声で、たしかに自分を呼ぶのだとは思いましたけれども、お松はこの場合に
お松はそれで身構えをしました。がんりきをさえ取って押えるくらいの者に、自分が身構えをしたところで甲斐のないこととは思ったけれど、それでも身構えをしていると、その者はすぐに近寄っては来ないで、そこへ
提灯をつけられてはたまらない、もう絶体絶命と思って、お松はその提灯の光を
「どうなさいました、怖い者ではござらぬよ」
馬子は提灯をさしつけて、お松の隠れている
この時に、がんりきはどこへ行ってしまったか、姿も形も見えません。
「これから私が案内をして上げます、御安心なさいまし」
馬子はお松の先に立って、
しばらくしてこの馬子は、桂川の岸にある船小屋のところまで来ました。そこで振返ってお松の面を見て
小屋の中には誰も住んではいません。炉の中には火もなければ、燃えさしもありません。
馬子は提灯を
馬子は自分の衣裳を脱ぎ捨てて、空俵に包んであった衣類を着替えてしまいました。それもまた見苦しからぬ武士の着る衣裳であります。衣裳を着替えて、帯を締めて、それから足をこしらえにかかる手順が慣れたものであります。
身仕度をしてしまってから、腰をかけて
「これをお
お松にあてがって、自分もまたその一足を穿く。
お松はただこの奇異なる人の為すところを夢見るような心持で見て、その為せというままに従うよりほかはありませんでした。
「これから御身と共に、拙者も江戸立ちじゃ」
と言って、サッサと先に立って、例の提灯を持ってこの舟小屋を立ち出でました。お松も無論そのあとに従いました。小屋を出て河原の町の方を見上げると、提灯の影がいくつも飛んで、人の
それを見ていた奇異なる武士は、なんと思ってか自分の小田原提灯をフッと吹き消しました。
「拙者の背中をお貸し申そう、遠慮なさるには及ばぬ、それがたがいに楽でよろしい」
奇異なる武士はお松を背負うて、桂川の岸の大石小石の歩きづらい中を飛び越えて、流れと共に下って行くのであります。