一
温かい酒、温かい飯、温かい女の情味も
その翌日の晩、
机竜之助は、軒をめぐる
しとしとと降りしきる雨をおかして、十一丁目からいくらかの人が、この谷へ向って下りてくることが確かです。
見上げるところの
ややあって、駕籠だけは蛇滝の上に置かせて、蛇の目の女だけが提灯を持って、参籠堂の前まで下りて来ました。
わざと正面の
「御免下さいまし」
なんとなく、うるおいのある甘い声。机竜之助は枕をそばだてて、その声を聞いていると、
「あの、昨晩申し上げましたように、わたくしはこの夜明けに江戸へ参ります、それは、いつぞやも申し上げました、わたくしの子供の在所が知れました、ふとしたことから兄の家へ
扉の外に立った女は欄干につかまって、扉の中へこれだけのことを小声で申し入れました。中へは入ろうとしないで、外でこれだけの用向をいって、中なる人の返事を待っている間に、
あれから後、夢のような縁に引かされて、この蛇滝に
今、この女は江戸へ行くとのことです。江戸へ行かねばならぬその理由は、よそへ預けておいた
「子供というのは、それほど可愛いものかなあ」
扉の中で竜之助の声。
「可愛ゆうござんすとも、子供ほど可愛ゆいものは……」
提灯の中を見入っていた女が面を上げた時に、その
二
参籠堂の中で、焚火が明るくなった時分に、机竜之助は、いつのまにか着物をきがえて旅の装いをすまし、
それと向い合って、女は
「
「いや、なにかとお世話になるばかりで、御恩報じもできないことを痛み入ります」
と竜之助は、焚火に手をかざして、その
「いいえ、どう致しまして、わたくしこそ、命を助けていただいた御恩が返しきれないのでございます」
「いつ、拙者が人の命を助けたろう」
「お忘れになりましたのですか」
女はその言葉に
「そなたに助けられた覚えはあるが、そなたを助けた覚えはありませぬ」
「まあ、ほんとうにお忘れになりましたのですか、あの、巣鴨の庚申塚のことを」
この時、女は、病気のせいでこの人の記憶が
「覚えていますとも……」
「それごらんなさいませ。あのことがなければ、わたくしはどうなっていたか知れません、いいえ、わたくしはあの時に殺されていたのです、それを、あなた様に助けられましたので」
その時の思い出が、女を堪えがたい
「そのとき助けたのは、拙者ではない、助けようと思ったのも拙者ではござらぬ。もしその時、そなたたちを助けようとした人、助け得た人があったとすれば、それは弁信といって、
「いいえ、もうおっしゃらなくてもよろしうございます、なんとおっしゃってもわたくしは、現在あなた様に助けられているのですから」
女はひとり、それを身にも心にも恩に着ているのであった。人の
「さて」
と刀を取って引き寄せようとしたのは、待たしてある駕籠のことを
「まあ、お待ち下さいませ、まだよろしうございます、かまいませんです、みんな家の者同様の人たちなんですから」
最初には、上へあがることをさえ
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
やや離れた
三
女は
「あなた、この刀には、なかなか
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
箱の中から
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめくらだ」
袋の中から
「それでも、心得のあるお方がお持ちになればちがいます」
といって、今更、燭台を近く引き寄せたことの無意味を恥かしく思います。
「重からず、軽からず、振り心は極めてよい」
「手入れの少ないわりには、さびが少しもついておりませぬ」
「なるほど。そうして
といって竜之助は、鞘を払った刀を、女の声のする方へ突き出して見せました。
「刃紋とおっしゃるのは……」
女はこころもち身を引きかげんにして、この時はじめて、傍近く引き寄せた燭台の存在が無意味でないことを知りました。竜之助の
「刃紋とは、
「ございます、ちょうど、雨だれの
「あ、では
「小さい時から聞いておりました、
「国広……」
「はい」
「ただ、国広とだけか」
「ええ、国広の二字銘だとか、父が申しておりましたそうで」
「ああ、国広か」
竜之助にかなりの深い感動を与えたものらしく、刀を二三度振り返してみて、
「国広にも新刀と古刀とあるが、これはそのいずれに属するか、相州の国広か、堀河の国広か」
とひとり打吟じて、
「多分、堀河の国広だろう、ああ、いい物を手に入れた」
彼の
「堀河の国広というのは、よい刀ですか」
「新刀第一だ」
その真珠色の面が刀の光とうつり合って、どこかに隠れていた
刀を
四
雨のしとしとと降る中を、わざと甲州街道の本街道を通らずに、山駕籠に
十一丁目までの間は、壁にのぼるような
「もし、旦那様、あの花屋のお若さんは、あなたのおかみさんですか」
「違う」
「そうですか、お若さんは江戸で御亭主をお持ちなすったそうですが、本当でしょうか」
「拙者は、それをよく知らないのだ」
「そうですか」
といって、前棒の若い駕籠屋は黙ってしまいました。その言葉つきによって見ると、これは全く土地の人間で、雲助風の悪ずれしたのとは、たちが違うことがよくわかります。暫く無言で、やや坂道になったところを上りきると、今度は後ろのが、
「お若さん、子供があるって本当だろうか」
ぽつりと、思い出したようにいい出したのは、前棒のよりはやや年とったような声です。そうすると、前のが、
「ああ、そりゃ本当なんだ、なんでも今度は、その子供を引取って来るとかいってるものがあったよ」
「子供があれば御亭主があるだろう」
「そうだな、御亭主があっても子供はないのはあるが、子供があって御亭主のねえというのはあるめえ」
「では子供と一緒に御亭主さんも来るんだろう」
「そうかも知れねえ」
あたりまえならば、この会話に何か皮肉が入りそうなのを、極めて平凡な論理と想像で進行させてしまって、道はまた少しく勾配にかかるので黙ってしまいました。
「旦那様」
今度のは、後ろの駕籠屋が思い出したように、駕籠の中に向って言葉をかけました。そこで竜之助は、
「何だ」
「わたしどもは、あんまりお若さんが親切にあなた様の世話をなさるから、それで、お若さんはあなたのおかみさんだろうと、もっぱら
「それは有難いような、迷惑なような話で、拙者は世話にはなったけれども、縁はないのです」
「それでも、お若さんは、大へんあなたに御恩になったように申しておりましたよ」
「別に骨を折って上げた覚えもないけれどな、まあ計らぬ縁でこうして世話になるのだ、あれはなかなか親切でよい人だ」
「そうです、親切で、気前がなかなかようございます。旦那様は、あのお若さんの盛りの時分から御存じですか、それとも、近頃のお知合いなんですか」
「ほんの、つい近頃の知合いだ」
「そうですか、
「ははあ」
机竜之助は思わぬところから、女の身の上話を聞かされようとするのを、あながちいやとは思いませんでした。今までも、自分を
「御存じですかね、お若さんは花屋の本当の娘ではありません、小さい時に貰われて来たんです」
「なるほど」
「貰われて来たんですけれども、その親許がわからないのですね」
「親がわからない?」
「それがね、わかっているのですけれども、わからないことにしてあるんです」
「というのは?」
「それが、なかなか
「それが、どういう縁で、江戸の方へかたづいたのだ」
「そのことは、あんまりよく存じませんが、なんでもお若さんはいやがっていたのを、先方が
後ろの老練なのが、委細を説明していたが、この時、不意に前棒の若いのが口を出して、
「お若さんには、別に好きな男があったっていうじゃないか」
「いろいろの噂があるにはあったがね。何しろ街道一といわれたくらいだから、人がいろいろのことをいいまさあ」
「なかなか固いという者もあれば、思いのほか浮気者だといってる者もあったね」
「いよいよ江戸へ行ってしまうという時に、高尾の若い坊さんが一人、
「そんなことがあったか知ら」
「お前たちがまだ、
「してみると、お若さんは罪つくりだ」
「罪つくりにもなんにも、一体が女というものは、たいてい罪つくりに出来てるものですが、そのうちにも
といって老練なのが、竜之助のところへ言葉尻を持って来たのを、
「そうだ、そうだ」
と聞き流していると、
「罪つくりは女だけに限ったものでもあるめえ、男の方が、女に罪を作らせることも随分ありますねえ、旦那様」
両方から、罪のやり場を持ち込まれて竜之助は、
「そりゃ、どちらともいわれない」
この時、竜之助はふと妙な心持になりました。
五
本坊の前から
「
老杉の間から投げられた光を仰いで、行手を安心する駕籠舁の声を、駕籠の中で竜之助は聞いて、
「ああ、雨がやんだか」
「ええ、雨がやんでお月様が出ましたよ、もう占めたものです」
「この分だと、大見晴らしから小仏の五十丁峠で、月見ができますぜ」
しかしながら、山駕籠は別段に改まって急ぐというわけでもなく、老杉の間の、この辺はもう全く勾配はなくなっている杉の大樹の真暗い中を、小田原提灯の光一つをたよりにして、ずんずん進んで行きます。
駕籠に揺られている竜之助は、天に月あることを聞いたが、身は今、この老大樹の闇の中を進んでいることを知らない。ただ、
ふと、その空気の圧迫と、怪しい鳥の落ちて来る鳴き声に、過ぎにし武州御岳山の
お浜はいずれにある。恨みに生きて恨みに死んだ、かの憎むべき女の遊魂は、いずれにさまよう。
人間の罪、今も心なき駕籠舁の口から出たその人間の罪は、男女いずれに帰すべきやを知らない。その起るところのいつであるか知らないように、その終るところのいずこであるやを知らない。ただ知っているのは、罪は
それは仮りに罪といってみるまでのことで、竜之助自身にあっては、世のいわゆる罪ということが、多くは冷笑の種に過ぎないことです。彼は自分の生涯を恵まれたる生涯だとは思っていないが、また決して罪悪の生涯だとは信じていないのです。彼自身においては、自分が生きるように生きているのみで、未だ
悪いことをしていない、という盲目的信念は、今までこの男をして、世の罪ある者の方へ、罪ある者の方へと縁を結ばしめて来た。愛すべきものは罪である。ことに愛すべきは罪を犯して来た女である。今まで彼を愛し、彼に愛せられた女性は皆、この罪ある女ではなかったか。愛でも恋でもない、それは罪と罪とのからみ合う戯れではないか。ただし戯れにしては、その
道はいつしか、老杉の境を出でて
「すっかり晴れちまったね。いいお月見ですよ、旦那様」
駕籠屋がいい心持で天を仰いで、雨あがりの雲間の
「ここのお月見は格別ですね、何しろ十二カ国が一目で見渡せるんですからね」
駕籠は、すすき尾花の大見晴らしを
「向うのあの松林の中で、変な火の色が見えたぜ」
「え、松林の中で?」
二人の駕籠屋はいい合わせたように、大だるみの方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
と
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の
六
その地蔵辻の上へ駕籠を置いて、駕籠屋は一息入れています。
四方に雲があって、月はさながら、群がる雲と雲との間を避けて行くもののように、
机竜之助は、その中に、堀河の国広を抱いて、うっとりと眠るともなく、
その時、不意に風でも吹き起ったもののように、サーッと
「今晩は」
その人影は早くも、休んでいた駕籠の傍へ来た。先方から挨拶の言葉で、二人の駕籠屋があわてました。
「今晩は」
「いいあんばいに、雨があがりましたね」
「ええ、いいあんばいに雨があがりましたよ」
「どちらへおいでになりますね」
「ええ、上野原の方へ。急病人がありましたのでね」
「それは、それは」
といって、旅人はお辞儀をして、その駕籠のわきの細道を通りぬけようとして、また踏みとどまり、
「済みませんが、火を一つお貸しなすって下さいまし」
「さあ、どうぞ」
この旅人は、棒鼻の小田原提灯の中の火が所望と見えて、懐ろから煙草入を出すと、その
「いや、どうも有難うございました」
吸いつけた煙草をおしいただいて、お礼の真似事をしながら、ジロリと駕籠の方を見ましたが、あいにくに提灯をこっちへ持って来ていたものだから、横目でジロリと見たぐらいでは、思うように見当がつかないらしい。
「どう致しまして」
そこで旅人は、煙草をくゆらして、お別れをしようとしたが、また何か思いついたもののように、
「若い衆さん、お気をつけなさいましよ、やがて霧が捲いて来ますぜ」
「え、霧が……こんな雨上りの月夜にですか?」
「そうですよ、町の真中でさえ霧に捲かれると、方角を間違えますからな、ことに山路で霧に捲かれては、いくら慣れておいでなすっても、困ることがありますからね」
「そうですかねえ」
駕籠屋は、いよいよ
「あッ!」
と驚かされたのは、いま立去った旅人の挙動です。つい、たった今、そこで煙草の火をつけて、霧の起るべき予告をしておいて立去った旅人は、早や眼を上げて見ると、二十八丁の
「今の人が、もうあすこまで行った」
「あッ!」
と若いのが青くなったのは、今も今の話、天狗様の夜歩きを、この男は生涯に二度見たからです。二人の見合わせた面は
「さあ、いけねえ」
気のついた時分には、月の光も隠れておりました。
「さあ大変! 天狗様のお告げ通りになったぞ」
彼等は、いま立去った旅人を人間とは見なかったように、いま捲き起った霧を、単純な天変とは見ることができないで、
「旦那様、旦那、どう致しましょう、いっそ
根が正直な土地の駕籠屋だけに、まじめになって駕籠の中の客に相談をかけると、その理由を知ることのできない竜之助は、
「どうして」
「今晩は、いけない晩でございますよ」
「何がいけない」
「お聞きになりましたか、今、怪しい旅の人が、煙草の火を借りて参りました、それが、その、ただの人ではないのでございます」
「ただ
「ええ、さきほどもお話し致しました通り、この高尾のお山には、昔から天狗様が
「ばかなことをいうな、拙者もここでその旅人のいうことをよく聞いていたが、人間の声だ」
「左様でございます、言葉だけをお聞きになったんでは、ちっとも人間と変りはございません、また姿を見たって人間とちっとも変りはございませんが、旦那様、歩くところをごらんになれば、直ぐわかります」
「何か変った歩きつきをして見せたか」
「変ったどころではございません、今ここで煙草の火をつけて、霧が捲くから用心しろとおっしゃったかと思うと、もう二十八丁目の
「羽が生えて飛んで行ったのか、足で歩いて行ったのか」
「それは、よく見届けませんでしたが、二人がこうして
「心配することはない、ずいぶん世間には足の
「足の早いといったって旦那、たいてい相場がありましょう、今のあの旅人なんぞは……」
「たとい、天狗にしろ、お前たち、なにも天狗に申しわけのないほど悪いことをしているわけではあるまい」
「いいえ、論より証拠でございます、天狗様がお知らせになった通り、晴れた月夜が、このように霧になってしまいました」
「かまわず目的通りの道を行くがよい」
「でも旦那、ほかの者と違って、相手が天狗様じゃかないません」
「お前たち、天狗に借金でもあるのか」
「御冗談をおっしゃってはいけません、
「罰は拙者が引受けるから、かまわずやってくれ」
「行くには行きますがね」
二人の駕籠屋は
駕籠屋が迷いはじめたのはそれからです。本来この連中が、この慣れきった道に迷うはずがないのを、迷い出しました。
「旦那、方角がわからなくなっちまったんですが、どっちへいったもんでしょう!」
正直な二人が、ようやくのことで
「こんなはずではなかったんですが、どっちへ行っても道へ出ないでございます、いっそ千木良か底沢へ下りてしまおうかと思いますが、その道がどうしてもわからないでございますよ」
「それを拙者に言ったって仕方があるまい」
「それはそうでございますけれども、景信から陣馬を通って上野原へ山道をする、その慣れきった山道が、今夜に限ってわからなくなってしまったのは、只事じゃございません」
彼等はもう、おろおろ声です。
竜之助は、もう取合わない。
「もうし」
この時、立てこめた夜霧の中から、不意に響いて来たのは人の声です。それも優しい子供らしい声でしたから、
「おや!」
「失礼でございますが、あなた方は、そこで何をしておいでになりますか」
続いて
「道に迷ったんだよ」
駕籠屋は、不意や、おそれや、
「私もそうだと存じましたから、失礼ながらこちらから言葉をかけてみましたのでございます、さいぜんから、あなた方は同じ所を往きつ戻りつなさっておいでの御様子が、只事とは思えませんのでございますものですから、もしやとお尋ねを致しました。
問われないのにこれだけのことを、一息に
七
これより先、道庵の家の一間で、中に火の入れてない大きな
「茂ちゃん、また困ったことが出来たね」
「どうして」
「お前がこの間、上手に笛を吹いたものだから、たちまち評判になって、あれは清澄の茂太郎だ、清澄の茂太郎が道庵先生の家に隠れていると、こう言って噂をしていたのが広がってしまったようだよ」
「困ったね」
「それが知れるとお前、また小金ヶ原のような騒ぎがはじまって、二人が命を取られるかも知れない、そうでなければ両国へ知れて、またお前が見世物に出されてしまうかも知れない」
「どうしたらいいだろう、弁信さん」
「わたしは、それについて、いろいろ考えてみました、うちの先生に御相談をしてみようと思ったけれども、うちの先生は、そんな相談には乗らない先生だから困っちまう」
「どうして、先生が相談に乗らないの」
「でもね、先生に
「では、どうしたらいいだろう」
「茂ちゃん、先生にはほんとうに済まないけれどもね、二人で今のうちにここを逃げ出すのがいちばんいいと思ってよ、今のうち逃げ出せば、二人も無事に逃げられるし、先生のお家へも御迷惑をかけないで済むから、今のところは御恩を忘れて、後足で砂を蹴るようで、ほんとうに済まないけれども、あとで私たちの心持はわかるのだから、いっそ、そうしてしまった方がよいだろうと思う。茂ちゃん、お前逃げ出す気はないかえ」
「弁信さん、お前が逃げようと言うんなら、あたいも逃げる」
「それじゃあ逃げることにしようよ、それもなるべく早い方がいいから、今晩逃げることにしようよ」
「あたいはいつでもいいけれど、逃げるって、お前どこへ逃げるの」
「逃げる先は、わたしがちゃんと考えてあるから心配をおしでない」
「もう、小金ヶ原じゃあるまいね」
「まさか、二度とあそこへ逃げられるものかね、今度は全く方角を変えて、いいところを考えてあるんだから心配をしなくってもいい。それでね茂ちゃん、もう一つ相談だが、お前、ここでいっそわたしと同じように、坊さんになってしまう気はないかえ」
「頭を丸くするの、なんだかイヤだなあ」
「イヤなものを無理にとは言わないけれど、向うへ行って長くいるようなら、そうしておしまいよ」
「そりゃあ、お前、都合によっちゃあね、坊さんになってもいいけれども、いま直ぐじゃきまりが悪いよ」
「いま直ぐでなくってもいいのよ、その心持でいてくれればいいの」
「そうして、お前、逃げて行く先はどこなの」
「それはねえ、これから甲州街道を上って行くと、甲州境に高尾山薬王院というお寺があるのよ、そこへ逃げて行こう」
「お前、そのお寺と懇意なの」
「そのお寺に、昔わたしに琵琶を教えてくれたお師匠さんが、御隠居をなさっていらっしゃるということを思い出したんだよ」
「それはよかったね」
「そんなに遠いところじゃないのよ、ここから十五六里ぐらいのものでしょう。茂ちゃん、お前は足が達者だし、わたしは眼が見えないけれども、旅をすることは平気だから、十里や二十里はなんともありゃしないね」
「十里や二十里、なんともないさ」
「それじゃお前、今夜、人が寝静まってから逃げ出すことにしようよ。先生はお帰りになるかならないか知れないけれど、どちらにしてもあの通り酔っぱらっておいでなさるから、夜中に眼をおさましなさるようなことはないけれど、国公さんに
「ああ」
「そのつもりで、あたしは
「有難う」
「お
「有難う」
「裏のくぐりから出ることとしましょう。夜中に、あたしが時分を見計らってお前を起すから、それまではゆっくり休んでおいで」
「ああ、あたいはそれまで休んでいるけれど、弁信さん、お前寝過ごしちゃいけないよ」
「大丈夫」
「弁信さん、お前の前だけれどね、あたいはお寺はあんまり好きじゃないのよ、清澄にいる時だって、ずいぶん
「ああ、そうそう、頑入はずいぶんお前を
「高尾の山には、頑入みたような坊さんはいないだろうなあ」
「そりゃいないだろうけれど、お前、おとなしくしなくちゃいけないよ」
「山へ行きたいなあ」
「山はお前、房州よりもあっちの方が本場だから、ずいぶんいい山がたくさんあるだろう、峰つづきを歩くと、甲斐の国や信濃の国の山へまでいけるんだからね、それを楽しみにしてお前、早くお寝よ」
二人はここで相談をととのえて、おのおの眠りに就きました。果してその翌日になると、道庵の屋敷にこの者共の影が見えません。そこで、さすが
「べらぼうめ、逃げるなら逃げるでいいけれど、道庵の家は食物が悪いから
と言ってプンプン怒ってみたけれども、別にあとを追っかけろとも言いませんでした。ともかくも相談の通りに道庵屋敷を落ちのびた二人の者は、真夜中の江戸の市中をくぐり抜け、弁信は例の琵琶を
上高井戸あたりで夜が明けました。それから甲州街道の宿々を、弁信法師は平家をうたって
茂太郎はその手引のつもりで先に立っていたが、弁信の語る平家なるものが、なにぶん
ある時は、
「弁信さん、お前の平家は、根っから受けないねえ」
府中の六所明神に近い大きな
ところが、弁信法師はそれほどにはしょげておりません。
「ねえ、茂ちゃん、平家というものは、本来流して歩くように出来ていないのだからね。お江戸の真中だってお前、平家を語って歩いて、それを聞いてくれる人は千人に一人もありゃしないよ。だからなるべくよけいの人に聞いてもらいたいと思うには、これじゃ駄目なんだよ。それで、あたしは琵琶をやめて三味線にし、平家の代りに
「だからお前、琵琶をやめて、急いで歩いた方がいいだろう」
「それでもねえ、黙って道を歩くよりは、何かの縁になるものだから、やっぱり、あたしは知っていることは人様に伝えた方がよかろうと思ってよ。人様があたしをお
欅の根に腰をかけた弁信が、こんなことを言い出したから茂太郎も、さすがにその悠長に
「弁信さん、お前がその気なら、あたいだっていやとは言わないよ」
この二人は、
陰暦十六日の月があがった時分に、この二人は相携えて、武蔵の国の総社、六所明神の社の庭へわけいりました。
八
六所明神の前にむしろを敷いて弁信法師は、ちょこなんと
こっそりと入って来たから、誰も知る者はありません。
あらかじめ二人の間に約束があったと見えて、琵琶はただちに曲に入りました。その弾奏は自慢だけに、堂に

果して、弁信法師が、琵琶を弾かせて名人上手といえるかどうかは疑問だけれども、ごまかしを弾かないことだけは確かのようで、曲に第五の巻の月見を選んだことは、如才ないと見なければなりません。
「旧 き都は荒れゆけど、今の都は繁昌す、あさましかりつる夏も暮れて、秋にも既になりにけり、秋もやうやう半ばになりゆけば、福原の新都にましましける人々、名所の月を見むとて、或ひは源氏の大将の昔の路を忍びつつ、須磨 より明石 の浦づたひ、淡路 の迫門 を押しわたり、絵島が磯の月を見る、或ひは白浦 、吹上 、和歌の浦、住吉 、難波 、高砂 、尾上 の月の曙 を眺めて帰る人もあり、旧都に残る人々は、伏見、広沢の月を見る……」
弁信は得意になって旧都の月見を語りました。前にいうようにこの盲法師が、琵琶にかけて名人上手であるかどうかは疑問ですけれども、月夜の晩に、月見の曲を選んで、古今の名文をわがもの
「中にも徳大寺の左大将実定の卿は、旧き都の月を恋ひつつ、八月十日あまりに福原よりぞ上り給ふ、何事も皆変りはてて、稀に残る家は門前草深くして庭上露茂 し、蓬 が杣 、浅茅 が原 、鳥のふしどと荒れはてて、虫の声々うらみつつ、黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける、いま、故郷の名残りとては、近衛河原の大宮ばかりぞましましける」
弁信法師は得意になって、この不思議なもので、こうなって来ると、
ただ、琵琶を抱えている弁信法師だけが、どう見直しても徳大寺の左大将とは見えないとは言え、あまり喋り過ぎた時は小憎らしいほどな小坊主が、この時は、いかにもしおらしい月下の風流者であります。風流者というより
茂太郎もまた、しんみりとして、両手をちゃんと膝に置いたままに、神妙に聞き惚れているのに。どうでしょう、心なき
「おい、誰だい、そこでピンピンやってるのは誰だい、誰にことわってそんなことを始めた、誰の許しを得て歌なんぞをうたうんだい」
闇の中からがなり出したので、せっかく浮き出した情景が、すっかり壊されました。
「へえ、どなたでございますか、まことに申しわけがございません」
せっかく、曲も終りに入ろうとする時に、正直な弁信法師は、
「申しわけがございませんじゃない、断わりなしに
「まことに申しわけがございません……」
弁信法師は琵琶を
「申しわけがないと悟ったら、早く出て行かっしゃい」
長い竿で、弁信の頭をつつこうとします。
「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭を
一息にこれだけの弁解をしてしまったから、さすがの
「いけねえ、いけねえ、貴様たちは
またしても長い竿で、弁信の頭をつつきました。
「弁信さん、出ようよ」
茂太郎は、見兼ねて
「出ろ、出ろ。貴様たち、それほど琵琶が弾きたいなら、河原へ行って、思う存分弾くとも
社人は、一刻の猶予も与えずに追い立てるから、弁信も
九
弁信の
その竹竿につつき出された二人は、これから宿中を流して歩こうとも思いません。また宿を求めて泊ろうとも致しません。わからずやの社人に差図をされた通り、正直に程遠からぬ分倍河原へ出てしまいました。ここで奉納の曲の残りを語ってしまい、なお夜もすがら喋りつづけ、或いは語りつづけるつもりと見えます。
分倍河原へ来て見ると、多摩川の流れが月を砕いて流れています。広い河原には、ほとんどいっぱいに月見草の花が咲いています。遠く
「ここが分倍河原というんだろう」
「ああ、ここが分倍河原で、古戦場のあとなんだよ」
弁信法師はこう言いましたけれども、その古戦場の来歴を説明するまでには至りません。いかに耳学問の早い物識りのお喋り坊主でも、行く先、行く先の名所古蹟を、いちいち明細に説明して聞かせるほどの知識は持っていないのがあたりまえです。
しかし、二人の立っているところは、いわゆる、分倍河原の古戦場の真中に違いないので、そこは昔、
「義貞追ひすがうて、十万余騎を三手に分けて三方より同じく鬨 を作る、入道恵性 驚きて周章 て騒ぐ処へ、三浦兵六力を得て、江戸、豊島 、葛西 、川越、坂東 の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手 、輪違 、十文字に攻めたりける、四郎左近太夫大勢 なりと雖も、一時に破られて散々 に、鎌倉をさして引退 く」
茂太郎は程よきところへ蓆を敷きました。弁信はその上へ乗って、「茂ちゃん」
「何だエ」
「淋しいねえ」
「ああ」
「何か、音が聞えるよ」
「何の音が」
「
茂太郎は何の音も聞くことがないのに、弁信は聞き耳を立てて、
「轡の音が聞えるよ」
「どっちの方から聞えるの」
「東の方から」
「嘘だろう、東の方からじゃない、土の下から聞えるんだろう」
「いいえ、東の方から、
「弁信さん、そりゃお前の気のせいだろう、ここは昔の古戦場だというから、昔、
「なるほど、そう言われてみると……この川の下流にあたって、
弁信はこう言いました。自分の耳を疑ったことのない弁信が、かえって
「そうだろう、でも、お前に聞えるものなら、あたいにも聞えそうなものだねえ」
「お待ちよ……何か、わたしは気になってならない」
弁信は見えぬ眼に
「弁信さん、あたいが悪かった、たしかに聞えるよ、たしかに、あたいの耳にも馬の足音が聞えて来たよ」
その時坐っていた茂太郎が、席を立ち上りました。
子供とはいえ……、立ってみれば月見草よりも背が高い。立って、そうして茂太郎が前後と左右と、遠近と高低とを見廻したけれど、月の夜の河原に
「ええと……一つ……二つ……三つ……四つ……」
弁信は坐ったままで、小声で物の数を読みはじめました。
「何を言っているの、弁信さん」
「五つ……六つ……七つ……八つ……」
弁信はしきりに数を読んでいる。茂太郎はそれを不審がっているうちに、
「十……十一……十二……十三……十四……十五……!」
で終りました。
「ああ、これですっかり
ところがこの十五騎の蹄の音がやむと暫くたって、府中の町がひっくり返るような騒ぎになりました。
一年一度行われる関東名物の提灯祭りの夜以外には、絶えてないほどの騒ぎが持ち上ったのは、まさしくいま乗込んだ十五騎が持ち込んだものに違いありますまい。事の
騒ぎ、驚き、怖れ、憂えている人々の罵る声を聞いてみるとこうです。世にはだいそれた奴があればあるもので、江戸のあるお大名の奥方を盗み出して、たしかにこの町あたりまで入り込んだ形跡があるようで、江戸の市中の取締が轡を並べて追いかけて来たということです。いや、それは奥方ではない、お部屋様だという者もありました。ともかくも諸侯の秘蔵の
その探索の手にかかった町民の迷惑というものもまた容易なものではありません。泊り合せた旅人どもの迷惑というものも容易なものではありません。まして婦人の
「茂ちゃん」
「何だい」
「府中の町は今、上を下への大騒ぎをやっているね」
「そうか知ら」
「何か大変が出来たのに違いない」
「何だろう」
二人もまた安き心がなく、自分たちの追われた府中の町をながめて、茂太郎は立ったまま、弁信は坐ったままで、伸び上っているけれど、その騒ぎの要領を得るには少し離れ過ぎています。
「いけない、お月様まで隠れてしまった、さっきまで
「琵琶は止めにしよう、ね、茂ちゃん、こんな日に無理をすると悪いから」
さすがの弁信法師も、再三の故障に気を腐らして、琵琶を弾くのを断念したようです。茂太郎もまたそれが穏かだと思いました。弁信はせっかく琵琶を弾くことを断念して、静かにそれを袋に納めました。
十
府中の宿のこの大騒ぎの避難者の一人に、がんりきの百蔵があります。こういう場合において、この男は避難ぶりにおいても、抜け駆けにおいても、決して人後に落つるものではない。手が入ったと聞いて、自分が泊っていた中屋の二階から、屋根づたいに姿をくらましたのは、例によって
そうして、まもなくすました
「お
「はい、はい」
道中師で通っているがんりきの百蔵は、ここの渡し守のおやじとも
渡し守の小屋の中へ身を納めて、土間に燃えた焚火の前へ腰をかけ、おもむろに腰の煙草入を抜き取った時分に、程遠からぬ街道の騒動が、渡し守のおやじの耳に入って来たものです。
「何だい、ありゃ、えらく騒がしいじゃねえかな」
寝ていたおやじが起き直ると、がんりきは、さあらぬ
「お
「え、府中の宿が上を下への大騒ぎだってな? なるほど、馬で人が駆けるわな、夜中に馬で飛ばす騒ぎは只事ではござるめえ」
おやじは、むっくりと起きて心配そうです。
「只事じゃねえ、府中の町をひっくるめて、一軒別に家さがしが始まってるんだぜ」
「へえ、一軒別に家さがし……なんです、泥棒ですか、
「さあ……」
がんりきは尋ねられて、はじめて当惑しました。実は、脱出ぶりの
「それじゃ親分済みませんが、今夜はひとつここに泊っていておくんなさいまし、わしはこれから
おやじはがんりきに留守の小屋を託して、渡し守の小屋を出て行ってしまいました。
日野の渡しの渡し守の小屋は、江戸名所
その弁慶には焼いて串にさした
酒はおやじの蓄えを知っている。自在につるした鉄瓶も
「南条先生も、ずいぶん人が悪いや」
とつぶやいてニヤリと笑う。
それから
何かしら、昨夜、この男、相当のいい夢でも見たものか、寝起きの機嫌がそれほど悪くはなく、
「南条先生も人が悪いが、がんりきをがんりきと見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりきの百蔵がこういって
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
その時がんりきは、もう起き上って火を焚きつけていました。
そこでがんりきはなにげなく、
「お
「乱暴な奴もあればあるもので、あるお大名の殿様のお
「え……」
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないと
「ナニ、何だって」
「それをお前さん、あとから追いかけてきたもんでがす、何しろ、殿様の御威勢ですからね、二十人ばかりのお侍が馬を飛ばせて江戸から、これへ追いかけて来たんだそうで……」
「ま、待ってくれ。してみると昨晩の
「どういたして、殿様のお妾なんです、お大名のお部屋様を連れ出した奴があったんだそうでがすから」
「そいつはなかなか
「大事にもなんにも、浄瑠璃や
「やれやれ」
ここまで聞いてみると、どうやら、がんりきの胸が穏かでなくなりました。大名のお部屋様を
「そうして、お
「ところが、つかまらねえんでがす、たしかにこの府中の町へ入ったはずなのが、どこをどうして逃げたか、いっこう
「おやおや」
がんりきとしては、首尾よく逃げ
「それで何かえ、そのお妾を盗まれたという殿様はいったい、どこの何という殿様だか、それを聞いて来なすったか」
「それが、その酒井様の……」
「ナニ、酒井様?」
「ええ、出羽の庄内の酒井様」
「何だって」
がんりきが飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
がんりきは眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、
こういって、がんりきの百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分の
十一
やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の
多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるしを挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじりを取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、
八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のちの切れたのを舌打ちして
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へやって来て、自分の草鞋を脱ぎ捨て、奉納の草鞋を抜き取り、それに紐を通して、例の片手で器用に
「いつ見ても、この欅並木はたいしたものだ、八幡太郎が奥州征伐の時に植えたということだが、八幡太郎は今から何年ぐらい前の人だか知らねえが、まあ、ざっと千年も経つかな、見たところ、千年は経つまいがな、何しろ、欅としては珍しい方だ。
がんりきの百は、この時したり
「ちぇっ」
合羽の裾が何かにひっかかって、それで足をすくわれたものと、いまいましがって外しにかかると、
「おや?」
といって百の面の色が変ったのは、単に出そこなった釘の頭や、材木のそそくれにひっかかったのではない、刀の
「誰だい、こりゃあ」
さすがのやくざ者も、これには少しばかり
「誰だい、こんな
抜き取った小柄を手にして、堂の後ろを見込んで呼びかけてみたが、がんりきの心持では、こういう悪戯をする奴はほかにはない、七兵衛の奴が後ろに隠れていてやったのにきまっている、一杯食わされたなという心持で呼んでみたのですが、
「がんりき」
といって、物騒がずに堂の後ろから姿を現わしたのは、意外にも七兵衛ではありません。形こそ七兵衛に似たような旅人の風はしているが、第一、七兵衛よりは物々しい声であって、全く七兵衛とは別人に相違ないから、ここでもがんりきの百が見当外れで、
「え……」
「どうだ、がんりき、おれを知ってるか」
といって、笠の紐へ手をかけて、そろそろと出て来ました。
「やあ、あなた様は……そうだ、水戸の山崎先生でございましたな」
「うむ、驚いたろう」
「全く驚きましたね、わっしはまた、てっきり七兵衛の奴とばかり思っていたものですからな。先生、なかなかお人が悪い、時節柄ですから、ずいぶん驚いてしまいましたよ、どうかお手柔らかにお願い致したいものでございます」
「別段、貴様をおどかしてみるつもりもなかったのだが、張っておいた網に貴様の方からひっかかったようなものだから、ふしょうしろ。実は、もう少し大物を引っかけるつもりで張った網だが、いやなみそさざいがひっかかったので、おれも少しうんざりしているのだ」
「みそさざいは恐れ入りました」
「ところで、がんりき、おれがこうして網を張っているわけも、また貴様がこうして、あぶないところへ近寄りたがるわけも、大概はわかっているはずだが、ここで計らず、二人がめぐりあったのは、六所明神のお引合わせかも知れないぞ」
「どう致しまして」
がんりきは額へ手を当てて苦笑いしました。今まで自分は南条、五十嵐の方の手先をつとめて、この山崎――この人はもと新撰組の一人で水戸の浪士、香取流の棒をよくつかう人――に
「がんりき、昨夜のあのいたずらは誰の仕事だ、貴様はよく知っているだろうな、知らないとは言わせんぞ。あれは南条力と五十嵐
山崎譲はグッと近く寄って来て、小柄を持っているがんりきの小手を、しっかりとつかまえてしまいました。
「その事、その事なんでございます、実はがんりきもその事で、出し抜かれたんでございますからなあ」
何をか言いわけをしようとするのを、山崎は許すまじき色で手首を持って引き寄せました。
がんりきの百蔵も、この人にとっつかまっては弱りきっているのを、山崎はグングンと引張って、
「がんりき、貴様はこの間、南条なにがしの案内をして相模野街道を南へ歩いていたそうだが、あれはどこへ行ったのだ」
「白状してしまいますから、どうか、そう強く手を引張らないようにしていただきたいものです、片一方しかないがんりきの手がもげてしまうと、かけがえがねえんでございます」
がんりきの痛そうな
「うむ、
「素直に申し上げるまでもございません、あれは、たあいのねえことなんです、ほんの道連れになっただけのものでございます」
「まだトボけているな」
「お待ち下さい、私の方ではたあいのないことなんですが、先方様の
「その案内の道筋というのは、どっちの方角だった」
「それは……その、八王子から平塚街道を厚木の方へ出る道をたずねられたものですから、その案内をして上げました」
「いや、そうではあるまい、貴様は南条なにがしの手引をして、
「ええ、それは違います」
「違うはずはない、
「違います、あの方は果して厚木へおいでになったか、それとも荻野山中の大久保様の御城下とやらへおいでになったか、そのことは一向存じませんが、かく申すがんりきは途中からお
「がんりき、貴様は、南条、五十嵐の一味が容易ならぬ陰謀を企てていることを知って彼等に
「どう致しまして、あの先生方が、どういう大望を企てて、どういう陰謀をめぐらしているのだか、私共にはそんなことはわかりません、出たとこ勝負で、頼まれるままにいい気になって、附いたり離れたりしているまででございます」
「そうすると貴様は、あの者共のダシに使われているだけだな」
「そうでございますとも、ダシに使われているだけの罪のねえのでございますから、どうかお手柔らかに願いたいんでございます。いや、あの南条先生ときては、あれでけっこう人が悪いんだからな。さりとて、今度のことはあんまり人をダシに使い過ぎらあ」
「うむ、ダシに使われていると知ったら、それを出し抜いて、裏を
「そういう芸当は、大好きなんですがね、何しろ、あちらとこちらとでは役者が違いますからなあ」
といって、がんりきがポカンと口をあいて見せたのは、かなり人を食った振舞です。山崎はなんと思ったかがんりきの手を放して、
「よし、それではがんりき、もし貴様が南条、五十嵐の方で買収されているなら、こっちでもう一割高く買ってやろうではないか。先方の後立てはたかの知れた大名、こっちは二百五十年来、日本を治めて来た八百万石の将軍家のお味方だ。ともかくもこっちへ来い、人目のないところで、もう一応、貴様を吟味してみたり、また貴様の手を借りてみたいと思うこともあるのだ」
といって山崎譲は、がんりきの手から小柄を取り戻し、百蔵を
十二
吉原の万字楼の
この傷が、妙にピリピリと痛んで眠られないのです。傷が痛むだけではない、良心が痛むのでしょう。
「起きていらっしゃるの」
障子を半ば開いて笑顔を見せた女。
「ああ、眠れないから」
兵馬は正直に答えました。そうすると女は、うちかけを引いて中へ入って来て、
「お怪我をなさったの」
「少しばかり」
「どこですか」
「この小指」
兵馬は巻きかけた右の手の小指を、女の眼の前に突き出すと、
「まあ」
と女は美しい
「痛みますか、どうしてこんな怪我をなさいました」
「この間あるところで」
「お転びになったのですか」
「いいえ」
「それでは戸の間へ、はさまれたのでしょう、あれはあぶないものです」
「そうでもありません」
「巻いて上げましょう」
女――この兵馬の
「宇津木さん」
手際よく繃帯を巻きながら女は、やさしく問いかけますと、
「何です」
「あなたは、隠していらっしゃいますね」
「何を」
「何をとおっしゃって、あなた、このお怪我は、ただのお怪我ではありません」
「ただの怪我でないとは?」
「よく存じておりますよ、あなた様のお連れの方々のお
「なにも、出来はしないよ」
「いいえ、お出来になることはよくわかっています、そのあなた様が、たとい、これだけにしても、手傷をお負いになるのは、よくよくのことでございます」
「そういうわけではないのだ」
「ほほ、そういうわけとおっしゃっても、まだそのわけを言わないじゃありませんか、あたし、最初から、あなた様の御様子のおかしいことを、ちゃんと見ておりました」
「ふむ」
「あなたは斬合いをなすっておいでになったのでしょう、あなたほどの方ですから、きっと先の人を斬っておしまいになって、その時に受けた手傷がこれなんでしょう、わたしはそう思います」
「そうではない、ちょっとした怪我だ」
兵馬は極めて怪しい打消しをすると、女はこの怪我をした指先を、ちょっと握って、
「にくらしい」
「ああ痛ッ」
兵馬はほんとうに痛かったのです。
「弱い人ですね、そんなことでは
東雲はあやなすようにいったのを、兵馬はかえって意味深く聞いて、
「全く……」
東雲はしげしげと兵馬の
「それでは隠さずにいってしまおう、いかにもこの傷は人から受けた傷なのだ、しかし、斬合いをして斬られた傷ではない、人から打たれた傷なのだ……傷は僅かながら、残念でたまらないのは、受けなくともよい傷を、無理に受けたようになる鍛練の未熟が恥かしいのじゃ」
兵馬は心から残念がって、その時のことを眼に見るように思います。
尺八を持って月下にさまようていた人。それを普通の
「今日は暇乞いのつもりで来ました。それについて、そなたへ打明けてのお願いがある、とりあえずここへ僅かながら
といって兵馬は、
「まあ、足もとから鳥の立つように。旅にお出かけなさるのですか……そうしてこのお金を、わたしに預かれとおっしゃるのは?」
「かねがね話してもおきました通り」
兵馬は思い切って語り出でようとする時、廊下に人の歩む音があって、
「東雲さん、東雲さん」
「はい」
その声を聞くと女が、そわそわと立ち上り、
「少しの間、待っていて下さい」
にっこりと愛嬌を見せて行ってしまいました。
その翌日、結束して江戸を離れて、例の甲州街道の真中に立った宇津木兵馬。
今夜こそは、と思い切って出かけてみたが、
それがいかにも残り惜しいのである。とはいえ、もう自分があの女を人手に渡したくないという心は、よく通じているはずである。さればこそ女の手許に預けた一包の金、事情は語り残したけれども、それが何を意味しての金だか、女が充分に推量している、と兵馬は、それを自ら慰めつつ、歩くともなく歩いているのです。
その時、女に預けた金。どうして彼は今の浪々の少年の身でそれを得たか。それはまさしく南条力の手から出でたもの。
南条力は、絶えず自分の仕事の邪魔者である山崎譲を亡きものにしたいと思っている。南条の心持では、あえて山崎一人を敵とするのではないけれど、この男あるがために、ややもすれば大事の裏をかかれようとする。それが苦手で、ついに宇津木兵馬を
兵馬とても、理由なしに唆かされて、それに応ずるほどの愚か者でなし、ことに山崎は京都にいた時分には、同じ
兵馬はこうして、山崎譲を斬りに行く。彼を斬ることは必ずしも難事とは思っていないが、彼を斬るの理由を見出すことに苦しんでいるのです。意義のない仕事には必ず苦悶がある。いかに有利な条件も、その苦悶を救うに足らないことに悩まされている。
頭を挙げて見ると、秋の武蔵野には大気が爽やかに流れて、遥かに秩父の連山。その山々を数えて見ると、武州の
そこで流した兄の血潮はまだ乾いてはいないのに、その恨みは決して消えてはいないのに、それを
宇津木兵馬は、まだ
猿渡氏の家は、兵馬にとっては旧知の関係があって、兵馬の不意の来訪を喜び、それからそれと話が尽きませんでした。
そのうちに、このごろは世の中が物騒で、この
風呂に入り、夕飯も済み、いざ寝ようという場合に、兵馬はちょっと
なるほど、そこには火鉢を囲んで、七八人の人が集まって雑談に
「いや、その前の晩じゃ、拙者が、陣街道を三千人まで来た時分に、河原のまん中に当って異様の物の音がする、はて不思議と耳をすましていると、それが琵琶の
この浪人者は、むしろ新来の兵馬に聞かせるつもりで、兵馬の横顔を見ながら語り出でました。
「へえ、河原で琵琶が聞えましたかね」
とそれにあいづちを打ったのは兵馬ではなく、力自慢で頼まれた若い者。
「たしかに琵琶が聞えたよ、聞ゆべからざるところで琵琶の音がしているから、拙者も不審に思って、立ちどまって耳を傾けている間に、例の人馬の音で、この町が物騒がしくなったから急いで駈けつけたのだが、なんにしても、あの陣街道は
「鬼哭啾々というのは何です」
誰かが抜からず反問したのを、浪人は無雑作に、
「それはお化けの出そうなものすごいところという意味だ。何しろ、
兵馬は、それを聞いてしまってから、この座を立って寝に行くかと思うとそうではなく、まもなく番屋の門を出でた兵馬は、身には
兵馬が誰にも怪しまれなかったのは、
笠と合羽を用意して出たのは、空模様をもしやと気遣ったのみでなく、それが身を隠すに都合がよかったからで、ことに長い刀は見えないようにと苦心して、悠々と府中の宿を西へ一通り歩み抜けて裏へ出ました。
裏へ出るとまもなく、問題の分倍河原です。河原一面に
鬼哭啾々のところ、ここで前の晩、時ならぬ琵琶の音が聞えたと、さいぜんの浪人者がいいました。兵馬は河原道を陣街道の方へ出ようとして、そぞろに進んで行くと、河原の中に一つの大きな塚がある。三千人の塚というのは多分これか知らと、兵馬は塚の下にたちどまって、
その時に兵馬は、自分が今までとはまるで別の世界へ持って来られたように感じて、画中の人という気分にひたってみると、なんだか知らないが、
ここは武蔵の国府の地。東照公入国よりもずっと昔、平安朝、奈良朝を越えて、神代の時に
こういう弱い心を鞭打つには、こういう静かなところへ来てはいけない、と兵馬は、陣街道を真直ぐに、またも府中の宿へ足を向けました。
十三
兵馬はそこを引返して、
もとよりここは、甲州街道の道筋では、一二を争う宿駅の一つ。まだ宵の口、幾多の人馬が往来することに、
「危ない」
棒を持ったのが、それを制止しようとした途端のことです、
「やあ」
これは、どちらが先に言ったのか、
「君は……」
棒を持ったのが踏み留まると、同時に乗物も、これを擁護した物々しい一行も、たじろいでしまいました。
「君は、宇津木兵馬ではないか」
「おお、山崎!」
そこで、おたがいが、やや離れて棒のように突立ったものです。
乗物を守った数名のさむらいたちが、早くも血気を含む。
「宇津木、君は今頃、こんなところに何をしているのだ」
乗物の先を払って来たその人は、まさしく山崎譲でありました。
「山崎氏、君こそどこへ行かれるのだ、そうしてその乗物は?」
兵馬は反問しました。その時は、充分に足場をみはからっていたものらしい。
「どこへ行こうとも君の知ったことではないが、僕の方から、君には充分に聞いておきたいことがあるのだ、いいところで逢った」
といって山崎は、乗物と、それを守る人々を見廻して、
「君たち、拙者はこの少年にぜひ聞いておきたいことがあるのだが……」
それから六所明神の鳥居の中に眼をつけ、
「暫く、あれで待っていてくれ給え」
山崎の差図通りに、乗物は、鳥居から明神の
しかし、山崎は甚だ騒がぬ
「宇津木」
と言葉をかけて、一足近寄って来ました。
「宇津木、君は何か非常に心得違いをしているらしい、ナゼ君は拙者を殺そうとしているのだか、その理由が一向にわからんので、僕は迷っている。考えても見給え、君と拙者とは、壬生の新撰組で同じ釜の飯を食った仲ではないか、それ以来、拙者は何か君に怨まれることをしたのかな」
こういわれてみると、兵馬は返すべき言葉がないので、ぜひなく、
「私の怨みではない……」
といいますと、すかさず山崎は、
「私の怨みでなければ何だ」
兵馬は、この場合、たしかにやや逆上していました。
「ある人に頼まれたのだ」
「人に頼まれた? ばかな!」
山崎は、カラカラと笑うと、いっそう激昂した兵馬は、
「山崎氏、君にはなんらの怨みとてはないが、君が邪魔をするために、国家の大事を誤るといって
「まあ、待て、待て。君を頼んだというその人も、こっちではちゃんと見当がついている、その人たちがほんとうに国家を憂いている人か、あるいは乱を好む一種の野心家に過ぎないか、君にはそれがわかっているのか」
「わかっている」
「わかっている? では、あの連中が本当の憂国者か」
「少なくとも、君等の見ているよりは、広く今の時勢を見ていることだけは確かだ」
「宇津木、君はいやしくもいったん新撰組に籍を置いた人として、この山崎譲の前で本心からそれをいうのか」
「無論のこと」
「そうなると、君は我々同志に縁のあるものを、残らず敵とするのだが、それでいいか。拙者だからいいようなものの、他の同志の中で、その一言を吐けば、君はその場で乱刀の下に、血祭りに上げられることを知っているだろうな」
「拙者は、
「うむ、君が本心からそれを言うならば、我々は今後、君を待つのに裏切者を以てしなければならぬ」
「拙者はあえて裏切りをした覚えはない」
「昨日は我々の組の世話になり、今日はまた西国浪人どもの手先をつとめる卑怯者!」
「卑怯者とは聞捨てがならぬ」
兵馬はムッとして怒りました。その怒りは心頭より発したる怒りではなく、
さいぜんからの事の行きがかりを、彼等は
「まあ、待ち給え、諸君」
「山崎氏、緩慢至極で見ていられぬ」
「待ち給え、これは僕の旧友で、宇津木兵馬……」
そこで改めて兵馬の方へ向き直り、
「宇津木君、まあ、そこへ掛け給え」
山崎譲は自分が先に
「この間、四谷の大木戸で、君は罪のない者を斬ってしまったな、よく考えて見給え、あれは飛脚渡世の者で、家には養わねばならぬ妻も子もあるのだ、ああいう者を斬捨てて、君はいい心持でいるのか。いい心持ではあるまい、間違えられた僕でさえ、気の毒でたまらないから、通りがかりには、キットあの遺された家族の連中へ、見舞に立寄っているのだ。君の人となりもたいていは知っている拙者だ、無意味に人間の命を取って、それを興がる君でないことは、よく知っているつもりだ。それにもかかわらず、ああいうことをしでかした原因を推量してみると、宇津木君、君はこのごろ、女に迷うているのではないか。女に迷うと金に詰まる、これは切ってはめたような浮世の習いだ、君が、
と言って山崎は、棒を兵馬の前へ投げ出して、人数の中へハサまるが早いか、一団になって走せ去りました。
宇津木兵馬は、過ぎ行く乗物の一行を、その提灯の影が見えなくなるまで、茫然として見送っておりました。
「少々物をお尋ね致しとうございますのですが」
呼びさまされて見ると、自分の前に、見慣れない旅人風の男が立っております。
「何事です」
「ただいま、これへ一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、ええと、たしか、源氏車の紋のついた提灯を持っておりましたはずで、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中に一人、さむらい
「ははあ、そのことか」
「その乗物は黒塗りでございました」
「それそれ」
兵馬はまだ、過ぎ去ったそのもののあとをながめているのです。
「いかがでしょう、通りましたでしょうか、通りませんでしたろうか、通りましたとすれば、どのくらい前のことでございましたろう、ぜひひとつ」
「なに、何をいわれた?」
「じょうだんではございません、ただいまこれへ、一挺の乗物が通りは致しませんでしたろうか、たしか源氏車の紋のついた提灯をつけて、お附添のさむらい衆が四五人、もっともその中の一人のお方が、さむらい姿でない棒を持ったお方と、こうお尋ね申しているんでございます」
「うむ、それか、それならば、たった今、ここを通った」
「有難うございます」
喜んで駈け出した旅人風の後ろ影を見送ると、その男の足の迅いこと、右の肩から腕へかけて、急にすべり過ぎている
「はて……」
乗物が怪しい! その瞬間に兵馬の
「兵馬様、兵馬様」
と呼ぶ声。それは七兵衛の声です。
例によって、笠をかぶって合羽を着た旅装の七兵衛は、鳥居の裏から出て来て、
「兵馬様、私はさいぜんから残らずこっちで承っておりました、山崎先生のおっしゃることが、いちいち
といって、兵馬とは向い合った鳥居の台石に腰をかけると、兵馬は、
「ああ、自分で自分の心がわからぬ」
「いったい、お前様は、ほんとうに山崎先生をお斬りになる
「いつもながら、そなたの親切は有難い。そういえば世間のことは、大抵は金で済むようなものじゃ、打明けていえば、拙者の迷うていることもその一つかも知れない、金があれば、ここまで深入りをせずともよかろうものをと思われないではないが……」
と兵馬はいいかけて、また
「それは何よりです、金で思案がきまることでしたら、及ばずながら私が骨を折ってみようではございませんか。いったい差当りお前様は、どのくらいお金がおありになればよろしいのでございますか」
「いいや、それはいうまい、いうたとて
「まあ、おっしゃってみて下さい、七兵衛の手で出来ればよし、出来なければ出来ないと申し上げるまでですから――」
「正直にいってみると、差当り三百両ばかりの金が要ります」
「三百両……」
七兵衛は、そこで、ちょっと黙ってしまったのは、むろん
「よろしうございます、私が、きっとその三百両をあなた様のために、三日のうちに
そこで兵馬が意外の思いをしているのを、
「お願いというのはほかではありません、あのお松のことでございます。あの子は私が大菩薩峠の上で拾って来た、かわいそうな
こういって改まって、お松という女の子の身の上を頼みます。
「それはよく心得てはいますけれども、今の拙者の身では、人の力になってやることができない」
「それは嘘でございます」
七兵衛は少しく膝を進ませて、
「人の力になってやるのやらないのというのは、心持だけのものです、あなたの心を、お松の方に向けてやっていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
「拙者の心持は、いつもあの人に親切であるつもりだが……」
「ところが、あの子の方では、わたしの親切が足りないから、兵馬さんに苦労をさせるのだと、この間も泣いておりました。私はお若い方に立入って、
といって七兵衛は、何か思い出したように台石から立ち上り、
「それでは、兵馬様、私はこれから三日の間に、あなた様のお望みだけのお金を調えて――そうですね、ドコへお届けしましょうか、ええと……浅草の観音の五重の塔の下でお目にかかりましょう、時刻は今時分、あの観音様の前までお越し下さいまし、その時に間違いなくお手渡し致します。今夜は雨が降るかも知れません、私はちょっと
といって七兵衛は、そのまま風のように姿を闇に隠してしまいました。
そこで兵馬は、社の木立の深い中をたどって、社務所の方へ帰りながら、
「わかったようでわからぬのはあの七兵衛という人だ、金を持っているのか、持っていないのか、トント判断がつかぬ。どこにか少なからぬ
と胸に問いつ答えつしていたが、やはり夢のようです。果して
うっとりとして、自分の足も六所明神の社内を、冷たく歩いているのではなく、魂は宙を飛んで、温かい
「あなたの心を、お松の方に向けていただきたいのです、そうしませんと、あの子はいちばんかわいそうなものになってしまいます」
といまいい残して行った七兵衛の
十四
狭山の尽くるところに、狭山の池があります。その中に小さな島があって、ささやかな弁天の
七兵衛は弁天様にちょっと御挨拶をしてから、その縁の下を
七兵衛は池尻の松の大樹の林の中を鍬を提げて歩いて行き、
そこで煙草入を取り出して、
七兵衛はここへ、何物かを掘り出しに来たものに相違ない――この男は改めて説明するまでもなく、極めて足の
甲所で盗んだ金は乙所へ隠して置き、乙所で
兵馬は、今日まで、ずいぶんこの男の世話にはなっていたけれども、ただ、こういった義侠的の人に出来ているのだろうと思うよりほかは、考えようがなかったもので、果してこうと
果して七兵衛は、熱心に芝生の上を掘りはじめました。下は軟らかい
「兄貴、何をしているのだ」
悪い奴が来たもので、これはがんりきの百蔵が風のようにやって来て、いつか後ろに立っているのでした。
「百、何しに来たんだ」
悪いところへ悪い奴と思って、七兵衛が苦りきっていうと、百蔵は
「日光街道の大松原で、ふと兄貴の後ろ姿を見かけたものだから、こうしてあとをつけてやって参りましたよ」
「油断も隙もならねえ」
七兵衛が鍬をついてがんりきをながめていると、がんりきは、その鍬と七兵衛の掘り出した油紙包の箱と両方へ眼をくれながら、
「ひとつ折入って兄貴にお聞き申したいことがあって、それ故、おあとを慕って参りました」
「それはいったい、どういうことを聞きたいのだ」
「ほかでもありませんが、この道中筋を横と縦へ向って、今がんりきの百蔵がしきりに捜し物をして飛び廻っているという次第ですが、その捜し物というのは、兄貴の前だが……」
「わかってる、わかってる」
七兵衛は頭を振って、
「
「その御意見は有難えが、時のいきはりで、つい引くに引かれねえ場合なんだから、どうか友達甲斐に、このがんりきの男を立ててやっておくんなさいまし」
「馬鹿野郎!」
「まあ、そうおっしゃらずに……ときに兄貴、いったいこれからがんりきはどっちへ振向いたら目が出るんでございましょう、そこのところをひとつ」
「おれは易者ではないから、そんなことは知らねえ」
「それが兄貴の悪い癖なんだ、
「よし、それじゃ、お情けに一つ言って聞かそう。およそ、甲州の裏表、日光の道中筋で、この間中から、俺は三つの怪しい乗物を見たんだ、その一つは高尾の山の
「
がんりきは額を
「この間の晩、
「三つとも見ようによれば、みんな本物だろうじゃねえか」
「世話が焼けるなあ、がんりきはなにも親の
「俺の知ったことじゃねえ、爪先の向いた方へ勝手に行ってみろ」
七兵衛が取合わないで、再び鍬の柄を取って
「なるほど、こりゃ聞く方が
といって、さっさと松の木の間へ姿を隠してしまったから、七兵衛はその後ろ影を見送って、
「野郎、気味の悪いほど素直に行っちまやがった」
本来なら、掘り出した一品に何か
十五
宇津木兵馬は、七兵衛の約束を半信半疑のうちに、浅草の観音に参詣して見ると、堂内の
「ははあ、あれが
一勇斎国芳の描いた額面を見上げている。今に始まったことではない。「安政二年
「あの鬼婆の憎い
「憎い婆!」
「あの、眼をつぶっているお
といったが、急にそれに返答を与えるものがありません。
つまり、女の腹を割いて、その
「あれは安達ヶ原の鬼婆の絵ではありませんよ」
従来の説明を一挙に
「え、あの憎らしいのが、安達ヶ原の鬼婆ではありませんのですか」
「ええ、安達ヶ原の鬼婆とは違います、よくあれを見て、間違えてお帰んなさる人がありますよ」
「へえ、そうですか、ありゃ鬼婆じゃねえのだとさ」
「そうですか」
十徳の老人は、気の毒に思って、
「あれはねえ、石の枕の故事をうつしたものなんで。昔、この
人だかりは崩れて、どやどやとお
十徳の老人が、額面を、それからそれと見て歩いているから、兵馬とは後になり、先になり、重なり合って立ちどまることもあります。
二人が、また重なり合って立ちどまったのは、以前の柱よりは少し右の方、菊池容斎の描いた武人の大額の下。
「
と兵馬は突然にたずねてみますと、老人は、ちょっと驚かされて振返ったが愛想よく、
「これは、
「ははあ」
「鎮西八郎、鎮西八郎」
そこへ、また押しかけて来た二三の若い者。
「やあ、鎮西八郎、豪勢だな。あの弓でもって、伊豆の大島で、
「何しろ、鎮西八郎ときちゃあ、日本一の弓の名人なんだから」
この連中は、額面の前で、しきりに勇み足を踏んで立去りましたが、その後で、例の十徳の老人は笑いながら兵馬を顧みて、
「あの国芳の額を安達ヶ原と納まって見る人と、これを鎮西八郎に見立てて帰る者が多いのですよ……どうです、この筆力の
ちょうど、延宝年間に納めた
七兵衛が遅い――遅いのではない、自分が早過ぎるのだと思い返してみると、いつのまにか十徳の老人は額面の前を去って在らず。自分は空しくその額面を仰いで見たが、早過ぎたといっても、もう日は廻って、薄暗い堂内の空気は
そこで兵馬は、やはり渦巻く参詣人の中を泳いで、堂の外へ出てみました。それにしてもまだ早い、どこで暇をつぶそうか知らん。本堂を経て三社権現をめぐり、知らず識らず念仏堂の方へ歩みをうつすと、松井源水が黒山のように人を集めて
「宇津木様、お待ち申しておりました」
その声を聞くと兵馬は、飛び出つ思いです。
今日は七兵衛が笠もかぶらず、合羽も着ず、着流しに下駄穿きで、近在の世話人が、
「お約束のお金を、ここへ持って参りました」
といって、懐ろから風呂敷包を取り出す。
「これはありがとう、なんともお礼の申しようがありませぬ」
実際、兵馬は夢のように喜びました。今まで半信半疑とはいうものの、疑いの方が先に立つもどかしさが一時にとれてしまったので、その包を受取ると、もう足が
「御自由にお使い下さいまし。しかし、申し上げておきませんければならないことは、もし、そのお金の
「万事、心得ています」
兵馬は七兵衛の言葉もろくろく耳には入らない。
「それでは、私も急ぎの用事がございますから、これでお暇を致します……」
「
「お待ち下さいまし」
七兵衛はなお念を入れて、
「それから兵馬様、もし何かまた御相談事が出来ましたらば、私は
兵馬は、それも耳へは入らないで、ついにこの場で七兵衛と
「どうも、若い者のすることは、危なくって見ていられねえ、間違いがなければいいが」
と
七兵衛に別れた兵馬は、まことに宙を飛ぶ勢いで、吉原の火の中へ身を投げると、茶屋の
「ナニ、東雲は病気?」
「そうして、どこに休んでいます」
彼は病室まで、とんで行きかねまじき様子を、茶屋ではさりげなくあしらって、
「東雲さんは病気で休んでおいでなさいます、まあ、よろしいではございませんか、
兵馬は、そんなことは聞いておられない。
「東雲の宿というのはどこです」
「いいえ、そのうちにはお帰りになりますから、まあ、ごゆっくりと……」
「その宿というのを教えてもらいたい」
「さあ、それでは
「いいえ、拙者は別な人のところへ行きたくもなければ、行く必要もない、東雲がいなければ、このまま帰ります、帰って、その宿所をたずねて、病気を見舞わねばならぬ、また話しておいた大事な話の残りがある」
「それはずいぶん、御執念なことでございます、では内所へ行ってたずねて参りますから」
暫くしてから、また戻って来た茶屋のおかみさんは、
「あの――主人が留守だものですから、東雲さんのお家がどうしても只今わかりません」
兵馬は熱鉄を呑ませられたように思ったが、このうえ押すと佐野次郎左衛門にされてしまう。
十六
その夜のうちに宇津木兵馬は、ジリジリした心持で、本所の相生町の老女の屋敷へ帰って来ました。この老女の屋敷というのは、一人のけんしきの高い老女を主人として、勤王系の浪人らしい豪傑が出入りする大名の下屋敷のようなところ。
そこで彼は自分の部屋へ来ると、どっかと坐り込んで、懐中から畳の上へ投げ出したのが、宵のうち浅草の五重の塔下で、七兵衝から与えられた金包です。
「兵馬さん、お帰りになりまして?」
とそこへ訪れたのはお松であります。
「いま帰りました」
「お茶を一つお上りなさいまし」
「有難う」
お松は丁寧に兵馬にお茶をすすめたが、兵馬の浮かぬ
「どちらへおいでになりました」
「エエ、あの……」
なにげないことでも、お松にたずねられると針の
「直ぐにお休みになりますか、それとも何か召し上りますか」
「いいえ、何も要りません……あの、お松どの、そこへ坐って下さい。あなたにはこの頃中、絶えず心配をかけていた上に、少なからぬ借金までしておりました。今日はこれを預かっておいて下さい」
といって、兵馬が改めてお松の前に置いたのは、例の金包です。
「ええ? これを、わたしがお預かりするのですか?」
お松は、その金包をながめて合点がゆかない様子。それは、この頃中の兵馬は、ずいぶん金に飢えているように見えるのに、今ここで突然に投げ出した金は、どう見ても今のこの人の手には余りそうな重味があります。
「預かっておいて下さい」
「お預かり申してよろしうございますが……数をお改め下さいまし」
「数をあらためる必要はありません、そのまま、あなたにお預け申します」
「いいえ、どうぞ、わたしの前で数をおあらため下さいまし」
「それには及びません」
「兵馬様」
お松は、あらたまって兵馬の名を呼びました。兵馬は答えないで、火鉢の前にじっと
「夜分、こんなに遅く、これだけのお金をただ預かれとおっしゃられたのでは、わたくしには預かりきれないのでございます、そう申し上げてはお気にさわるかも知れませんが、このごろは何かの
「いや、この金は決して心配すべき性質の金ではありません、ちと
「どなたが、その三百両のお金を、あなたに御融通になりましたのですか」
自分の貯えも、お君の貯えも、一緒にして融通してしまったほどの兵馬の身に、
「誰でもいいではないか、わしを信用して融通してくれた人の金、それを、あなたに預かってもらうのに、誰へも
宇津木兵馬は金包をお松に託しておいて、もうかなり夜も遅いのに、またも外出してしまいました。多分、じっとしてはいられないことがあるのでしょう。あるはずです。
お松やお君の金さえも融通してもらい、自分の
しかし、気の毒なのは出て行った兵馬よりも、残されたお松であります。
大菩薩峠の上で、祖父は殺され、自分は知らぬ旅の人に助けられて、箱根の湯本で
今となって、こういうことにしてしまったのは自分が至らないからだと、お松は残念でたまりません。お松はまたこんなことも、内々
果して誰の力でも、兵馬さんを、もとの人にすることはできないのか知らん。七兵衛のおじさんは旅にばかりいて落着かないし、今、兵馬さんが、先輩として敬服しているのはここの南条先生であるが、あの先生もあんまりたよりない。兵馬さんを指導する恩人として見てよいのか、或いは兵馬さんをダシに使って
ぜひなく、その金包を抱いて、泣く泣く廊下を伝って自分の部屋へ歩いて来ると、途中で後ろからその肩を叩いたものがあります。
「お松どの、宇津木にも困ったものだな」
それは南条力の声であります。
「はい」
お松は返事をしながら、しゃくり上げてしまいました。
「しかし、あれも馬鹿でないから
「有難うございます」
とはいったが、それもお松には、一時の気休め言葉のように思われて、自分の部屋へ転げこむと、金包を抱いて
まもなく庭を隔てた一間の障子にうつる影法師は、今の南条力。
洋々八州をめぐる……
興に乗じて微吟が朗吟に変ってゆく。
この人は、会心の詩を朗吟して、よく深夜人をおどろかす癖があります。
志賀、月明の夜
陽 はに鳳輦 の巡 を為す
芳野の戦ひ酣 なるの日
また帝子 の屯 に代る
或は鎌倉の窟 に投じ
憂憤まさに悁々
或は桜井の駅に伴ひ
遺訓何ぞ慇懃 なる……
歌いゆくと興がいよいよ湧き、芳野の戦ひ
また
或は鎌倉の
憂憤まさに
或は桜井の駅に伴ひ
遺訓何ぞ
昇平二百歳
この気、常に伸ぶることを得
然 してその鬱屈に方 つてや
四十七人を生ず
乃 ち知る、人亡ぶと雖も
この霊未 だ嘗 てほろびず……
我もまた詩中の人となって、声涙共に下るの慨を生じこの気、常に伸ぶることを得
四十七人を生ず
この霊
その吟声がやむと暫くあって、南条の影法師と向い合って、新たに幾頭の影法師。
「南条君、いま戻った」
「やあ諸君」
そこで、おたがいの舌頭から火花が散るように、壮快な話題が湧き上る。
察するところ、南条を
筑波、日光、今市――大平山等の地名が
しかし、ある時は、その話題がとうてい間を隔てては聞き取れないほどの低声になって続くことがある。そうかと思えば忽ちに崩れて、
そうして一通り、重要の復命か、相談かが済んだと思われる時分に、
「日光街道で、変な奴に逢ったよ」
これは余談として、一座の中の五十嵐甲子雄が発言であります。
「誰に?」
南条力が受取ると、
「あの、ならず者のがんりきの百蔵」
「ははあ、あいつに日光街道で……」
「何か知らんが日光街道を、
「ふふむ」
南条力も何を思い出したか、吹き出しそうな気色です。
「しかし、山崎譲にであわなかったのを何よりとする。時に、宇津木兵馬はいるか知らん」
五十嵐がたずねると南条が、
「あれも、血眼になって、たった今、どこかへ出て行った」
「例のだな――困りものだ」
「天下を挙げて血眼になっているのだ、達人の目から見た日には、権勢に飢えて血眼になっている奴等と、たいして
南条力は、
十七
両国の女軽業の親方お角は、
「ああもしようか、こうもしようか」
と次興行の膳立てに、苦心惨憺の
というのは、肝腎の呼び物、清澄の茂太郎に逃げられて、三日間病気休業の張出しをして、その間に連れ戻そうとしたが、とうとう発見することができず、やむを得ず熊の曲芸と、春雨踊りというのでお茶を濁していたが、この次に何を掛けよう。これがためにお角は、火鉢によりかかって、長い
しかし、絶えず行詰まって展開を求めることがこの女の苦心でもあれば、そこにはまた言うにいわれぬ楽しみがあるらしく、目先を変えて同業者をあっといわせ、江戸の人気の幾部分を両国橋の自分の小屋へ吸いとることに、この女の功名心が集まって、それがためこの女は、興行師の味を忘れることができないのであります。
けれども、今度という今度はかなり行詰まって、さすがの女策士も展開の道に窮してしまって、「ああもしようか、こうもしようか」の決着が容易につかない。それというのも、不意に清澄の茂太郎を奪われたからです。はるばる安房の国まで
いったい、この女が最近において当てた二ツのレコードは、印度の黒ん坊の槍使いと、それから山神奇童の清澄の茂太郎に越すものはないのに、二つとも大当りに当りながら、どちらも途中で邪魔の入ったのが
「ちぇッ、どこかで見たっけ、あのちんちくりんの黒ん坊を。もう一ぺん引張って来ようか知ら」
と、お角がいまいましそうに未練を残してみたのは、例の宇治山田の米友のことであります。
「あれならば、まだまだけっこう人気が取れるんだけれど、あいつは、馬鹿正直で、まるっきり商売気というものが無いんだからやりきれない」
お角は、米友に未練を残しながら、
「お祖師様の一代記を菊人形に仕組んでみたら、という者もあるが、あれはいけないねえ、
とつおいつの末が、
「お起きなすったのか知ら」
ここは、両国橋の
お角が、天井を見上げている間に、二階で物音をさせていたのが静かに歩いて来て、やがて梯子段の上がミシリミシリと音を立てはじめる。そこでお角はやや居ずまいを直して、
「お嬢様、お危のうございますよ」
煙管を片手に梯子段を見上げていると、だまって下りて来る人があります。ほどなくお角の前へ姿を現わしたのは、ねまきに羽織を引っかけた女の姿に違いはないけれど、どうしたものか、頭からすっぽりとお
「おかみさん」
「お嬢様、もうおよろしうございますか」
「ええ、もう
お角が、ていねいであるのに、女はなかなか
「まあ、お話し下さいまし、わたしも退屈して困っていますから、どうぞ」
といって、お角は、さながら主筋にでも仕えるように、至ってていねいに座蒲団をすすめると、女は、その上へ坐っても、いっこう頭巾を取ろうとしないし、お角も一向、それを気にしていないのがおかしいほどです。
それからお角が、お茶をすすめたり、
「おかみさん」
「はい」
「わたしは、もうすっかり
「ですけれども」
「いいえ、かまいませんから」
お高祖頭巾の女は、何かを頼みに来たのです。けれども、頼むというよりは圧迫するような態度で、それをお角ほどの女が、あしらい兼ねているあんばいがいよいよ変です。
「ですけれども、お嬢様……」
と、お角がようやく立て直して、
「そう申してはなんですけれども、わたしは、あなたが、もうあの方にお目にかからないのがおためになると存じます」
「それはどうしてですか」
「あなたは、御存じになっておりますか知ら」
「何を」
「あの方の本当のお名前を」
「エエ、あれは机竜之助と申します、吉田竜太郎というのは仮りの名前です」
「そうしてお嬢様、あなたのごらんになったのでは、あの方は善い人ですか、それとも悪い人ですか」
「どちらだか知りませんが、わたしは、あの人が大好きなのです」
「もし、悪い人であっても?」
「ええ、あの人がほんとうに、わたしを可愛がってくれるから、それでわたしはあの人が忘れられません、あの人だけがほんとうに、わたしを可愛がってくれるのです。それは、あの人が眼が見えないからです、眼が見える人は一人でも、わたしを可愛がる人はこの世にありません」
「けれども、お嬢様、あの方は悪人ですよ、あの方の傍にいると、いつか、あなたも殺されてしまうことを、お忘れになってはいけません」
「いいえ、あの方は、決してわたしを殺しはしません……わたしを殺さないだけではなく、わたしが傍にいれば、あの方はほかの人を殺さなくなるのです。わたしとあの人とは、しっくりと合います、わたしの醜いところが全く見えないで、わたしの良いところだけが、この
この女はお銀様――甲州有野村の富豪藤原家の一人娘。花のような
お角はお銀様だけがどうも
「よろしうございます、そういうことを頼むには慣れた人を知っていますから、近いうちに、キッとお嬢様のお望みの叶うようにして上げましょう」
「どうぞ、お頼み申します」
といってお銀様は、お辞儀をして立って行きました。
二階へ上って行く
お銀様が二階へ上ってしまうと、ホッと息をついたお角は、急に何かの重しから取られたような気持になってみると、今の不憫さが、腹立たしいような、
「こんにちは、御免下さいまし」
「おや、誰だい」
「
「按摩さんかえ、さあお上り」
「どうもお待遠さまでございました、毎度
按摩は、こくめいに下駄へ杖を通して上へあがって来ると、お角はクルリと向きをかえて、肩腰を
「なんだか雨もよいでございますね」
「降るといいんだがね」
「左様でございますよ」
按摩は
「按摩さん、お前は幾つだえ」
「え、私の年でございますか、まだ若うございますよ」
「若いのは知れているが、幾つにおなりだえ」
「エエ、十三七ツでございます」
「ちょうど?」
「左様でございます」
「おかみさんはありますか、それともまだ一人ですか」
「へへえ……」
「なんだね、その返事は。あるのですか、ないのですか」
「あるのですよ、一人ありますのですよ」
「一人ありゃたくさんじゃないか」
「おかげさまでどうも……相済みません」
「おかみさんがあったって、済まないことはないじゃないか」
「なかなか親切にしてくれますから、それで私も助かります」
「おやおや。そうして何かえ、そのおかみさんは
「へえ、
「やりきれないね」
「ところが、ごしんさま、容貌がよくて、気立ての親切な申し分のない女が、私共みたような
「前はどうだっていいじゃないか、今さえよければ」
「ところが、今だって本当のところはどうだかわかりゃあしません、わからないけれども、私は最初から眼をつぶっていますからね」
按摩の言葉は、妙にからんで来ました。
按摩を相手に話しているところへ、勝手口から静かに入って来て、
「お母さん、ただいま戻りました」
「梅ちゃんかえ」
そこへ、手をついたのは十四五になる小娘であります。
「帰りに、楽屋の方へ廻って来たものですから、ツイ遅くなりました」
「楽屋では変ったこともなかったかエ」
「あの、力持のお
「勢ちゃんがかい」
「ええ、それでもたいしたことはないのでしょう、寝ながらみんなと笑い話をしていましたから」
「鬼のかくらんだろう」
「あ、そうそう、
「ここを言やあしないだろうね」
「エエ、誰も言いませんでした。多分、晩方までには帰るでしょうと、お勢さんが言いましたら、福兄さんが、それじゃ晩方まで待っていようとお言いでした」
「何だろう」
お角が、ちょっと首を
「どうも御窮屈さまでございました」
「御苦労さま」
そこで按摩にお
「福兄さん一人で来たのかエ、誰もお連れはなかったかエ」
「ええ、どなたもお
「あってみようか知ら」
小娘は唄の本を
「そっちはあとにして、二階のお嬢様に
「承知いたしました」
この小娘は、お角が掘り出して貰い受け、今、仕込み最中の、ちょっといい子で、お母さん呼ばわりをして
藍の小弁慶のお召の
「梅ちゃん、わたしは、これから行って来るから、お留守を頼みますよ」
「行っていらっしゃいまし」
「もし留守の間に、誰か尋ねて来ても、わからないと言って帰しておくれ」
「よろしうございます。それでもお母さん、いつかのように、わからなければ旦那のお帰りまで待っていると言って、坐り込むような人が来たらどうしましょう」
「そうね。では、面倒だから鍵をかけておしまい」
「はい」
「そんなに遅くならないうち帰って来るつもりだけれど、福兄さんとの話の都合で、もし遅くなるようだったら、誰かをお相手によこすから」
「承知いたしました」
「それからね、二階のお嬢様がモシどこかへ出たがっても、お出し申さないように。そうそう、勢ちゃんが病気なら、勢ちゃんをお
「お勢さんが来てくれれば、本当の百人力ですけれど、わたし一人でも大丈夫ですよ」
「勢ちゃんをよこしましょう」
と言ってお角は、この家を出て行きました。
十八
両国の女軽業師の楽屋へ来て、お角を待っている
今、楽屋の美人連中(あまり美人でないのもある)を相手に、しきりに無駄口を叩いている。歳はまだ若いが、でっぷり太って、素肌に羽二重の
「そいつぁ乙だ、一番その
「福兄さんが朝比奈をやって下されば、
と、腹が痛いと言って寝込んでいた力持のお勢が乗り出して来ると、はたにいた美人連が、
「お勢さんの巴御前に、福兄さんの朝比奈は動かないところだわ。それでは、わたしは何を買って出ようか知ら」
「わたし、おちゃっぴいになるわよ」
「わたしも、おちゃっぴい」
「では、わたしもおちゃっぴいになりましょう」
「あなたお米屋のおちゃっぴいになりなさい、わたし酒屋のおちゃっぴいになるわ」
「そう、それじゃ、わたしお
「それから、わたしと組ちゃんとは、質屋と古手屋のおちゃっぴいになって、表口から乗込むことにしましょう」
「嬉しいわ、そうして、おちゃっぴいが揃って、万夫不当の朝比奈をぎゅうぎゅう言わせてやれば、ほんとに
「そこへ、裏手から、こっそりと巴御前が現われて、窓口からお金を投げ込んで行くところは
美人連がはしゃぐのに、福兄は多少の不服で、
「そうおちゃっぴいばかり出来たって、
「そうですね、梶原は誰のものでしょう」
「
「いやよ、わたし、梶原なんか大嫌い。同じ梶原でも、梅ヶ枝の源太なら附合ってもいいけれど、
「人魚のお作さんでも、憎みが
「あれじゃ、あんまり
「そうそう、あるわよ、あるわよ」
「誰?」
「怒られると悪いから」
「かまわないからお言いな」
「でも叱られるといやよ」
「誰も叱るものはいやしない、ねえ、福兄さん」
「ああ、どうして、梶原という役は、あれで
「それじゃ言いましょうか」
「お言い、お言い」
「うちの親方」
「なるほど、まあ、その辺だろう」
「そこで錦絵姫が一枚欲しいのだが、おちゃっぴいを
「お姫様なら、わたし代って上げてもいいわ」
「わたしも、おちゃっぴいをやめて、お姫様の方へ廻ろうか知ら」
「わたしは、おちゃっぴいはおちゃっぴいとして、お姫様と二役やってみたい」
「まあ、慾張り……」
「静かにおし、梶原様のお
力持のお勢が
お角が現われると、美人連も急に引締まって、どてらを
「勢ちゃん、あんばいはどうです」
「有難う、格別のこともございません、よくなりました」
「
美人連は、そわそわとして持場持場についたり、
「福兄さん、よく無事でながらえておいでになりましたね」
「恐れ入りやした」
福兄は
「拙者の方でも一別以来、ずいぶんの御無沙汰だが、親方、お前の方でもずいぶん薄情なものだ、化物屋敷が焼けて、
「その恨みなら、こっちに言い分が大有りさ。立退き先をあれほど探して歩いたのに、わからないばかりか、わかりきっている行先をさえ、わたしにまで隠そうとなさるなんぞは、水臭いにも程のあったもの、
「それにはまたそれだけの理窟があって、あの当座は、あんまりいどころを人に知られたくなかったのさ。その点は喧嘩両成敗として、
「上りますとも。上ってよければ今日にでもあがりますけれど、そんなわけだから遠慮をしていました」
「もう遠慮は御無用」
「神尾の御前のお怪我はどうですか」
「
「怖ろしいことでしたね。何しろ、あの時に
「御大も、あの時のことを思い出すと癪にさわると見え、身ぶるいをして、憎いおしゃべり坊主! と
「全く、あの小坊主は変な坊主でした、うちの茂太郎の友達だと言って来たこともありましたが、怖いほど勘のいい――」
「全くあの時分の化物屋敷は、名実共に化物屋敷であったが、御大があの
「どこへ引込んでおいでになっていますか」
「栃木の
「栃木の大中寺、たいへん遠いところへお越しになったものですね」
「なに、遠いといっても日光より近いのさ。一度、日光参詣をついでに、一緒に見舞に行かないか」
「ぜひお供を致しましょう」
「ところで、今日ワザワザやって来たのはほかではない、君にちょっと金儲けの口を授けようとして来たのだ。というのは、ながらく西洋へ売られて行って、あっちで珍しい手品を覚えて来た奴がある、それをうまく売り込みたがっている口を聞き込んだから、頼まれもしないのに持ち込んで来たものさ」
「それは耳よりの話ですねえ」
お角は乗気になってしまいました。
「詳しい話は拙者のところへやって来給え、小石川の
十九
両国橋の女軽業の小屋を出た御家人くずれの福村は、帰りがけに
まず、その小風呂敷に目がつくと、
「さようなら」
代を払って、娘が
「毎度、
大切なお得意先と見えて、番頭は特別に丁寧に、この小娘のお使に頭を下げて送ったから、福村がはじめてこの娘を見直すと、
「お松どのではないか」
娘が振返って見て、
「まあ、福村様」
二人は鶴屋の
娘は申すまでもなく、本所の相生町の老女の邸のお松であって、この男を知っているのは、ずっと以前、神尾主膳の伝馬町の屋敷に仕えていた時分のことで、その時分から、この福村は神尾の屋敷へ出入りしていた道楽友達であります。
あの時分にはなんといっても、神尾は
「いかさま珍しいことじゃ、いったいお松どの、君は今どこにいるのだね」
「本所の方におります」
「本所――本所はどこだね」
「本所は相生町でございます」
「相生町――」
といって福村は、お松の姿と、抱えている風呂敷包とを、事新しくながめます。お松の姿はお屋敷風で、その胸にかかえているのは、今もたしかに見ておいた通り、五七の桐を白抜きにした紫縮緬の風呂敷であります。そこで、ちょっと福村が、胸の中で、相生町へ当りをつけてみました。相生町辺でしかるべきお屋敷――それも格式の軽くない五七の桐を用いているお屋敷。福村は地廻り同様にしていた土地だから、ちょっと当りをつけようとしてみました。
エート、相生町の一丁目から五丁目までの間には、しかるべき大名旗本の屋敷はないはずだが、お台所町へ出ると、土屋相模守と本多内蔵助がある。土屋は
「相生町は、誰のお屋敷?」
とたずねると、お松も、ちょっと返事に困ったらしく、
「御老女様のお屋敷に、お世話になっておりまする」
「御老女様?」
これも福村には
「ともかく珍しい、ぜひ遊びにやって来給え――ええと、拙者のところは小石川の茗荷谷、切支丹屋敷に近いところで、いやに
「え、お師匠様が?」
お松はギョッとしました。
やがて夕方になると福村は、しばしば
帰って見ると、お絹は火鉢にもたれながら、しきりに絵本に読み耽っているところであります。
「やれやれくたびれた」
その前へ無遠慮に
「お帰りなさい」
お絹は絵本を畳の上へ伏せて、乳色をした頬に、火鉢のかげんでぼーっと
「おみやげ」
「なあに?」
福村は懐ろからふくさ包を取り出して、
「通油町の鶴屋で、それ御所望の六歌仙、次に京橋へ廻ってわざわざ求めて来た仙女香」
「まあ嬉しい」
「まだあるよ……黒油の美玄香」
「それがいけない、いつも落ちが悪いから」
「あんまりいまいましいから、ついこんなものを求めて来る気になったのさ」
「何が、そんなにいまいましいの」
「いつになったら浮気がやむのか、気が揉めてたまらないから、せめてこんなものでも見せつけたら、少しは身にこたえるかと思って買って来た」
「かわいそうに」
「ちぇッ、いやになっちまうなあ」
福村は、じれったい様子をして見せる。
こうして見ると二人は、まるっきり夫婦気取りです。先代の神尾主膳に可愛がられて
「どうも有難う、これだけはこっちへいただいておきます、これはそっちへ」
といってお絹は、錦絵と仙女香とを受取って、美玄香だけを、わざと福村の方へ押しつけると、福村は、
「そんなものはいりません、早く
「いま、食べさせて上げるから、おとなしくしておいで」
「あい、さむらいの子というものは、腹が減ってもひもじうない……それよ、今日はまた珍しい人に、二人までぶっつかって来ましたよ」
「珍しい人……誰?」
「一人は両国の女軽業の太夫元のお角さん……」
「いやな奴」
お絹は心からお角を好いていない。お角の方も御同様でしょう。
「そのうち、日光へ参詣を兼ねて、一緒に
「知らない」
お絹が横を向くと、福村は改めて、
「御機嫌を直して下さい、もう一人は、決してあなたの嫌いな人ではありません、あのあなたの娘分のお松どのに逢って来ましたよ」
「お松に、どこで?」
「通油町の鶴屋で」
「あの子はこっちへ来ていたのか知ら。来ていたんなら、わたしのところへ
「お屋敷奉公なんだろうが、そのお屋敷というのが……」
そこで福村が
二人がお取膳で御飯を食べてしまってから、福村は、
「御大もこっちへ、出て来たいには来たいだろうがな」
といいますと、お絹が、
「出て来たって仕方がありませんよ」
「かわいそうに、そんな薄情なことを言うもんじゃない、当人は島流し同様な境遇にいるのだから、あの気象ではたまるまい」
「なあーに、向うで、
「そうはいくまいテ、誰といって
「いいえ、旧領地の人たちが、有難がって大騒ぎしているということです」
「だって、旧領地の人じゃあ仕方がない、誰かこっちから行ってやりたい親切な人はないかなあ」
「そりゃあるでしょう」
「あるならば、遠慮なく行っておやりなさい」
「知らない……」
お絹は横を向いて、絵本を取り上げてしまいました。
「怒ったのかね」
福村は御機嫌をとると、お絹はやっぱり横を向いたまま。
「お気にさわったら御免下さいよ」
それでもお絹はつんとして、絵本に見入っている。そこで福村は、
「お気を直して下さいよ」
それでもお絹は、つんとして口を利こうとはしません。
その時、急に次の間から、はした
「あの――出羽様のお屋敷からお使の衆がお見えになりまして、今晩集まりがございまして、皆さんが大抵お揃いになりましたから、どうぞ御主人様にも、早速おいで下さるようにとのことでございます」
「あ、そうだ、忘れていた、今日は例の集まりの日であった」
福村は、急にそわそわとして、何かと用意をし、
「それじゃ行って参りますから、後のところをよろしく。なに、ちょっと
刀をたばさんで出かけようとするから、お絹もだまってはおれず、
「行っておいでなさい」
無愛想に言った。その言葉に福村は、甘ったるい思いをしながら、ほくほくと出かけて行きました。集まりというのは、何かの
残されたお絹は絵の本を置いて、この時はじめて、福村が買って来てくれた錦絵を一枚ずつ念入りにながめていましたが、それも見てしまうと、暫くぼんやりと物を考えているようでしたが、何か急にイヤな気がさして来た様子で、
「おとうや――」
女中を呼んだけれども返事がありません。
「いないのかえ」
だだっ広い屋敷のうちが、ひときわひっそりして、
「どこへ行ったんだろう」
お絹は、だらしなく立って廊下へ出て行きました。こんな時には早く寝てしまった方がと……
お絹が手水をつかっていると、植込の南天がガサリとして、
「
「おや!」
お絹がびっくりしました。
「誰?」
あわや戸を立てきって、人を呼ぼうという時、
「わたくしでございます、がんりきの百蔵でございます」
「百蔵さん――なんだって今時分、こんなところから」
お絹が
「ようやく尋ね当てて参りました」
外に立っている男は、
「どうしてここがわかったの」
「昼のうち、あるところで、福兄さんの姿を見かけたものだから、あとをつけて
「あんまり
お絹は胸へ手をさし込んでみる。
「……それでも笹子峠の時ほどびっくりはなさるまい」
「あの時は命がけだったよ」
「こっちも命がけでしたよ。どうです、徳間峠の時と比べたら」
「あの時は怖かった、あんな怖い思いをしたことはありません」
「この通り右の片腕を打ち落されて、生れもつかぬ片輪にされちまったのは誰故でしょう」
「誰も頼みはしないのに」
「頼まれちゃやれません。時に
「まあ、ともかくもお上り」
といった時、表でガラリと戸のあく音がします。ハッと離れた二人。がんりきは早くも庭の木立の蔭へかくれると、
お絹は廊下を二足三足、
「福村が帰って来たようです」
「ちぇッ」
がんりきの百蔵は木蔭でいまいましがる。
「奥様、奥様」
「おとうかい」
暗いところを
「はい」
「お前、どこへ行っていたの」
「ちょっと、表までお使に行って参りました」
「だまって行っては困るじゃないか」
「どうも済みませんでした。あの、奥様……さっき、わたしが出かける時に、お家の裏の方にうろうろしている人影がありましたから、気味が悪うございました」
「だから、なおさらのことじゃないか……勝手元の締りをよくしてお置き」
「はい」
「それから、玄関の戸も、しっかり錠をおろしておしまい」
「それでも、まだ旦那様がお帰りになりませんのに」
「多分お泊りだろう」
「左様でございますか」
「そうしてお前、もう休んでもいいよ、旦那様がお帰りになったら起すから」
「有難うございます」
女中が行ってしまってから、小戻りして来たお絹は、
「百蔵さん、お入り」
それとは別に、その晩、江戸の市中の一角を騒がすの事件がありました。
とある幕府の重い役、老中の一人をつとめていたことのあるお屋敷の中の一隅で、かねがね賭博を開いていたものがある。もちろん、集まるほどの者は、邸外のやくざ者であったが、それを張番しているのが邸内の
洗ってみれば、さほどの事件でもなかったろうが、その当座、事が秘密にされていたものだから、それをなかなか重大に考えたものがあって、江戸人の頑固な方面を代表する老人はなげきました。
「権現様が旗本をつれて江戸をお開きになった根元というものは、そういったものではなかったのだ、権現様は大きなお庄屋さん気取り、旗本は三河の
しかし、また一方には、それをせせら笑う若いものもあって申します。
「それじゃ何かえ、せっかくここまで進んで来た江戸の文化を、昔の田舎気分に引き戻せとおっしゃるのかい。権現様だってなにも、人間を窮屈にしようと思って江戸をお開きになったわけじゃあありますまい。そりゃ戦争の時分は玄米飯をかじるもよかろうが、
それとは趣を
「当時、江戸幕下に人物がないとは言えないのだ、
二十
さてまた、長者町の道庵先生の屋敷の門前では、子供たちがしきりに砂いじりをして遊んでいます。
「
「ああ、そうしよう、みんなおいでよ、良ちゃんもおいでよ、広ちゃんも。みんなして高級な芸術をこしらえて遊ぶんだから」
「ああ、あたいも入れておくれ」
「あんまり大勢呼ぶのはおよし」
「高級な芸術ってどんなの」
「今、あたいたちがこしらえるから、こしらえたら
「それが高級な芸術なの?」
「ああ、君たちも少し手伝っておくれよ」
「あたいもね」
子供たちが集まって、しきりに砂を集めて塔をこしらえているところへ、ヒョッコリと首を出したのが主人の道庵先生です。先生は子供たちの挙動をしきりにながめていたが、(無論、先生は酔っぱらっているのです)やがて突然、口を出して、
「みんな、そこで何をこしらえているんだい」
「何でもいいから黙って見ておいでよ」
「教えたっていいじゃないか」
「何をこしらえてるんだよう」
「だまって見ておいでってば」
「わかってらあ、胃袋をこしらえるんだろう」
「ははあだ、胃袋だってやがら。先生はお医者だもんだから、胃袋だなんていってやがら。胃袋なんかこしらえるんじゃねえやい、高級な芸術をこしらえてるんだい」
「高級な芸術?」
「そうだよ」
「それが高級な芸術てのかい」
道庵先生が、やかましくいうもんだから、子供がうるさがって、
「先生、あっちへ行っておいでよ」
「それでも、おれが見ると胃袋にしきゃ見えねえ」
「先生には、芸術がわからねえんだよ」
「ああ、芸術がわからないんだから、あっちへ行っておいでよ」
「だってお前たち、胃袋をこしらえて高級な芸術だったって仕方がないよ、それ胃袋じゃないか、胃袋の形をしているじゃないか」
といいながら、酔っぱらっている道庵先生は、子供たちが一生懸命でこしらえた砂の塔を、ひょいと突っつくと、たちまちその塔がひっくり返ってしまったから、子供がムキになって怒り出しました。これは道庵先生、少々おとなげないことで、子供たちの怒り出したのにも無理のないところがあります。
「あ、先生が高級な芸術をひっくり返してしまった、悪い奴!」
「みんなして、先生を叩いてやろうよ」
子供たちが総立ちになって、道庵先生をとりまいて、
「ペチャ、ペチャ、ペチャ、ペチャ」
盛んに叩き立てましたから、道庵先生は羽織を頭からかぶって、
「こいつはかなわねえ」
人を殺すことにかけては、当時、道庵の右に出でるものはあるめえ、新撰組の近藤勇といえどもおれには
「先生を叩いてやりましょうよ」
「お
そこで、道庵先生をまたペチャ、ペチャと叩きました。
子供に叩かれて、ほうほうの
道庵先生にとっては、今がその小康時代ともいうべきものでしょう。ナゼならば、先生の唯一の好敵手たる隣りの
ところがその鰡八大尽は洋行の留守中であり、江戸の武家は長州征伐というわけで、風雲の気はおのずから西に
そこで先生は、この余った力と機会とを利用して、五十日間の予定で、名古屋から京大阪を遊覧して来ようとの案を立てました。
先生が今度の旅程のうちに、特に名古屋を加えたというのは、先生独得の見識の存するところで、その意見を聞いてみると、先輩の弥次郎兵衛と喜多八が、東海道を旅行中に、名古屋を除外したというのが不平なのだ。
「べらぼうめ、太閤秀吉の生れた国と、金のしゃちほこを見落して、東海道
特に東海道の神様という神様があろうとも思われないが、これが先生の名古屋へ立寄る一つの理由となっているのであります。しかし、弥次郎兵衛と喜多八が名古屋を除外したからといって、故意にやったわけではなく、宮の宿から一番船で、七里の渡しを渡って、伊勢の桑名へ上陸の普通の順路を取ったまでだから、それをいまさらいい立てるのは、少し
それよりもこの際、京、上方の空気というものは、道庵先生などの近寄るべき空気ではないのですが、この先生のことだから、それをいえば、例のおれの匙にかかって、命を落したものが二千人からあるを持ち出して、始末におえないから、まあほうっておいて、気ままにさせるよりほかはないのです。
「道六や」
そこで代診の道六というのを膝近く呼び寄せて、留守中
それがきまると、次の問題は道連れの一件であります。これにはさすがの先生も、ハタと当惑しました。
一人旅はいけない。そうかといって、
「先生、お客様でございます」
「誰だ」
「玄関へ米友さんとおっしゃる方がおいでになりました」
「ナニ、米友が来た! 鎌倉の右大将米友公の御入り!
この際、天来の福音に打たれたように、道庵先生が躍り上りました。
二十一
甲州上野原の報福寺、これを月見寺ととなえるのは、月を見るの趣が変っているからです。
上野原の土地そのものは、盆地ともいえないし、高原ともいいにくい
今宵、寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる
「今晩はまた大へん月がよろしいそうでございますね。月が澄みわたりましても、私共には闇夜と同じことでございます。明月や
弁信法師は、ここに至ってハラハラと泣いてしまいましたが、やがて涙を払って、
「
誰に話しているのだか、誰が聞いているのだか知らないが――また、これから誰に聞かせようというつもりか知らないが、弁信法師は、琵琶をかかえて縁に立ち出でました。
そこで調子を合わせにかかると、
「弁信さん、大変が出来ました」
「エ、お雪さん、大変とは何でございます」
弁信は琵琶の調子を合わせていた手をとどめると、娘は、
「先生はおいでですか……あの、姉が殺されましたそうで」
「エ?」
弁信が琵琶を手放してしまうと、娘は、
「たった今、人が来て、このことを知らせてくれましたから、先生に……」
娘は、倒れるように縁側へつかまって、
「ああ、それ故にこそ私は、さいぜんからなんとなく胸騒ぎが致したのでございます、さあ、落着いて委細のことを先生に話して上げて下さいまし」
「御免下さいまし」
娘は、やっと縁をのぼって座敷へ通ると、そこに病人でもあるように、
「お若どのが殺された? どこで、誰にやられました」
と尋ねるその人は、机竜之助です。
いつになっても
「誰が何の恨みでしたのか、わたくしはすこしも存じませんが、江戸に近い巣鴨の
といって娘は、声を立てて泣きました。
「巣鴨の庚申塚で?」
「多分、
「
弁信法師が傍らから、思わず感歎の声を立てたのは、その出来事の悲惨に悲しむよりは、姉を信ずる妹の心に動かされたようです。
「姉は、人に恨みを受けるような人ではありませんでしたのに……」
娘は重ねて、さめざめと泣きながらいいました。
「いいえ、あなたの姉さんは、人に恨みを受けているのですよ」
弁信法師がいいますと、泣いていた娘は、
「それは違います、わたくしは、あの姉さんとは義理ですけれども、あんな親切な姉さんはありませんでした、皆の人に好かれました、恨みを受けて殺されるような人ではありません」
「親切な人だから恨みを受けたのです、人に好かれるから恨みが集まるのですよ、好かれない人は恨まれません」
「違います、違います」
娘は袖に
「誰が殺したかわからないのですか」
「先生、殺したのはあなたです、あなたのほかにあの方を殺したものはありません」
と弁信がいいました。
「ナニ?」
「嘘と
「弁信さん、何をおっしゃるのです、ここにおいでなさる先生が、どうしてそんなこと。あなたは血まよっておいでなさいます」
と娘がささえると、弁信は澄ましきって、
「私は血まよっておりません、私のいうことが本当でございます」
「弁信さん、そういう無茶なことをおっしゃっては先生に申しわけがありません、あなたは何か勘違いをしておいでになります」
娘は泣きながら弁信をたしなめるのも無理はありません。ここと巣鴨の庚申塚とは、数十里を離れているのに、当人は半ばは病気で、その上に目の光を奪われている身であるのに――
それでも竜之助は、弁信のいったことを、娘が気にかけているほど気にかけないと見えて、
「かわいそうなことをした」
といったきりで、口を結んでしまいました。
「御免下さいまし、また上ります」
といって、娘は泣きながら、
その弁信法師は、この時分、もう再び琵琶をかなでるの元気はなくなったと見え、そうかといって、それを
空の月は、青根から
「弁信殿」
「はい」
竜之助の問いに弁信が、例によって神妙な返事をします。
「お前は心あってああいうことを言われるのか、それともその時の出まかせか」
重ねて竜之助が問うと、弁信は、
「左様でございます」
同じところを向いたままで、同じようにしょんぼりとしたままで、
「私は口が過ぎていけません。そのことは知らないではありませんから、自分ながら
「では、ここにいる拙者が、巣鴨まで人を殺しに行ったのも本当かも知れない」
といって竜之助は、冷たい笑いを例の蒼白い
その時、弁信法師はこれも何と思ったか、ヒラリと縁を飛び下りて、下に揃えてあった
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と唱えて、その小石を一つずつ取っては移し、取っては移ししていました。その時
「あ、先生! あなたは私をお斬りになろうというのですか」
目の見えない弁信の振向いた
何ともいわない竜之助の白衣の全身から、まさしく殺気が
ヒラリと卒塔婆の蔭に身を移した弁信は、恐怖は感じながらも、叫びを立てて人を呼ぼうでもなく、
「先生、あなたが私を斬ろうとなさるのはいけません、今までにないことでございます、今まで私は、あなたの傍におりましても、更にその殺気というものを受けたことがございませんから、少しも怖れというものが起りませんでしたけれども、今は怖れます、あなたは、たしかに私をもお斬りになろうという覚悟で、それへおいでになりました」
弁信の
「若残一人、我不成仏」
の文字がありありと読める。ただ、斬ろうとする人も、斬られようとする人も、共にそれが認められないだけです。「
といったけれども、何の返答もなく、刀を提げてそろそろと縁を下りて、
そこで、弁信は、いよいよ圧迫されて、苦しまぎれの絶叫を振絞って、人を呼ぶかと見ればそうではなく、
「先生、私は、あなたの殺気を怖れます、けれども自分の命を取られることを、さのみ怖れは致しません」
この場合において、お喋り坊主の減らず口は、必ずしも減らず口とは思われないほどの冷静を持っています。それには頓着無しの竜之助は、刀を片手の中段に持ち直して、ジリジリとそれを突きつけて来る呼吸は、絶えて久しく見ない「音無しの構え」です。兎を打つにも全力を用うるという獅子の気位か知らん。この身に寸鉄もない……寸鉄があったからとて、それを用うる
ところで、不思議なるは弁信法師。この凄まじい刃先を
「私は死ぬことを怖れません……染井の屋敷で、神尾主膳のために井戸の底へ投げ込まれた時に、死は怖れではなくして、悦びであることを悟りました、その時まではいわれがなくして死ぬのがいやで、必死で生きることに執着は致してみましたけれど、今となっては、いわれがありましょうとも、なかりましょうとも、死ぬべき時に、死ぬることを怖れは致しませんが、また甘んじて免れ得らるべき命を、殺したいとも思ってはおりませんのでございます」
といいながら、ジリジリと迫って来た刃先を左へ廻って避けました。その時、月の光もまためぐって、卒塔婆にうつる一面の文字には、
「我不愛身命、但惜無上道」
月は冷やかに、道志脈の上をこの頃、月をながめている人の話によると、時あって月が
一本の卒塔婆を中にして、盲法師のお
とはいえ、それは都大路で見る時のように、多くの人が人だかりして指さし騒ぐのではない。この小高原のあたりでは、もうすでに寝静まり、月見寺の庭には、こうしてただ二人だけが相対しているのみで、しかも、その二人ともに眼がつぶれているのですから、月が紅くなろうとも、青くなろうとも、あえて驚く人ではありません。
しかし、月の紅く見えたのはホンの一時、あれと言っている間に、もとの通りの冷々然たる白い光を静かに投げて、地上は水を流したようです。
机竜之助の刀を突きつけてジリジリと詰め寄るのは、非常に悠長なもので、名人の碁客が一石をおろすほどの静粛と、時間とを置いて、弁信法師に迫っては行くが、まだたしかに両者の距離は三間からあります。盲目となって以来、この男の刀の構えぶりが、一層静かになってきました。刀を以て敵を斬るよりは、刀をふせて敵を吸い寄せるの手段かに見えます。思うに、盲目となって以来、幾多の人を斬った手段が皆これでしょう。刀を構えると、全身の殺気が電流の如く、その刀に流れ寄って来るのであります。蛇が樹下にあって口を開くと、鼠がおのずからその口中に落ちて来るように、この流るるが如き
ひとりこのお喋り坊主の弁信に限って、その怖るべき吸引力の外に立っているのが不思議。いや不思議でも例外でもない、御同様の盲目で、多分その殺気は受けても、殺剣が見えないからでしょう。
「身に徳があれば
彼は相変らず殺剣の前に立って減らず口――しかし減らず口も、この際これだけの余裕を持ち得ることは、無辺際なる減らず口といわねばなりません。
清澄の茂太郎は、その時分、寺の東南、宮の台なる三重の塔の
「弁信さあーん」
塔の上から三度、弁信の名を呼んだけれども返事がありません。そこで彼は、
「どうしたんだろう」
九輪を抱きながら、月光さわることなき地上を見下ろしました。いつもならば、呼ばない先に「茂ちゃんかい」――庭へ走り出して、見えない眼をこちらへ振向けて返事をするはず。そうすると茂太郎は、「ああ、わたしだよ、弁信さん、琵琶を持ってこっちへおいでよ」「茂ちゃん、お前どこにいるの」「三重の塔の
「どうしたんだろう」
九輪の上で茂太郎は、しきりに小首を傾けております。
どこへも出かけたはずはない、まだ眠ったとも思われない。打てば響くほどの返事がないのが、なんとなく気がかりで、茂太郎はまもなく、三重の塔を下へ降りて来ました。
下りて来たところも満地の月。月光、水の如くひたひたと流れているものですから、茂太郎の心が浮立って歩む足どりも躍るように、精いっぱいの声を張り上げて、宮原節を歌い出しました。
向うを見ろよ月が出る
おいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう訊 いた
しゃとうには
とう、とう、とう
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文 に靴片方
麝香草 に露の玉
朝っぱらから飲んだくれ
二羽の雀は満腹ぷう
ばっしいには
じい、じい、じい
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
こうまのような狼二匹
かわいそうだが酔っぱらい
穴では虎めが上機嫌
むうどんには
どん、どん、どん
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
一人は悪口 、一人は雑言
おいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう訊いた
ばんたんには
たん、たん、たん
器量いっぱいの声を張り上げて、茂太郎は唄いながら、宮の台からおいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう
しゃとうには
とう、とう、とう
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった
朝っぱらから飲んだくれ
二羽の雀は満腹ぷう
ばっしいには
じい、じい、じい
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
こうまのような狼二匹
かわいそうだが酔っぱらい
穴では虎めが上機嫌
むうどんには
どん、どん、どん
おいらが持つのは一人の神様
一人の王様
たった一文に靴片方
一人は
おいらは森にいつ行くか
しゃるろっとにしゃるろは
こう訊いた
ばんたんには
たん、たん、たん
こないだミラの窓叩き
おいらを呼んだばっかりに
娘たちぁどこへ行く
ロン、ラ
ほんにいとしや女ども
おいらを迷わすその毒は
オルヒラさんをも
酔わすだろ
娘たちぁどこへ行く
ロン、ラ
「弁信さあ――ん」
この時、一方では水を切って落ちて来た一刀。丈余の
「あ!」
と言ったのは清澄の茂太郎で、弁信法師は天に上ったか、地に伏したか、その影をさえ見ることができません。
暫くあって弁信法師が、
「茂ちゃん、危ないよ」
「弁信さん、どうしたの」
二人は抱き合って、卵塔場の中へ
同時に、竜之助の姿もそこには見えません。ただ氷片のような卒都婆の残骸が、いよいよ白く月光を浴びて、夜の更くるに
その翌朝、二つに切られた卒都婆を見て、まず驚きに打たれたのは、寺の娘のお雪ちゃんであります。
「まあ、卒都婆が二つに切れていますこと、
それを拾い上げているところへ、子をつれた鶏が餌をあさりに来て、ククと鳴く。
「
長さ一間に及ぶ、梵字と経文の卒都婆の半分を、お雪は重そうに両手で抱え上げて、庭を廻って見ると、縁側の日当りのよいところに、弁信と茂太郎とが栗を数えて話をしています。
「弁信さん」
お雪が呼ぶと、
「はい」
「茂ちゃんもごらんなさい、こんなに卒都婆が斬れていましたよ」
「ええ」
二人はいい合わせたように栗を数えた手を休めると、お雪は卒都婆を縁の上へ置いて、
「誰が悪戯をしたんでしょう」
といって、茂太郎の面を見ると、
「あたいは知らないや」
茂太郎がいいわけをする。お雪は、深く
「雪ちゃん、御覧なさい、私の
「ええ?」
「その卒都婆と同じように、
「まあ、どうしたのです、わたしが縫って上げましょう」
お雪が改めて見直すと、なるほど、弁信の麻の法衣の左の肩から
「法衣だけじゃないのです、下着まで、これと同じことに切れ目が入っているんです。いいえ、下着ばかりじゃありません、たしかにこの私の身体の中にも、これと同じ筋がついていると思いますが、よく見て下さい」
と言って弁信法師は、肌を押しぬいで見ますと、赤い筋が一線、左の肩から、胸から、下腹までかけて、絹糸ほどの筋を引いているのですから、そこでお雪が驚いて、
「弁信さん、お前、誰かに斬られたんですか」
「いいえ、斬られたんなら生きちゃいませんが、わたしは斬られなかったのです。その代り、つまり、私の身代りにその卒都婆が斬られたんでしょう」
「誰が斬ったのでしょう」
「誰か知りません」
「怖いことね」
お雪は
「ちゅう、ちゅう、たこかいな……、弁信さん、お前にこれだけ上げよう」
茂太郎は頓着なしに、山から拾って来た栗の粒を数えて、一山だけを弁信の前に置き、改めてお雪に向い、
「雪ちゃん、お前にも少しわけて上げようか」
庭の鶏も、縁の上の人も、いずれも平和の気分ではあるが、お雪はなんだか鉛のように重いものが、このうららかな天気を圧して、青天白日の間に鬼火が流れるように、ゾクゾクと
「弁信さん、お前、怖くはないの?」
と言って見た時、平然として坐っていた弁信の
二十二
宇治山田の米友は、道庵先生のために、圧倒的に説き伏せられて、とうとう上方行きの随行を承知することになってしまいました。
米友にとっては、道庵が命の親であるのみならず、たしかに一箇の
気の短い道庵は、お仕着せや、そのほか旅の用意をその場で
ふらふらと浅草広小路へ出て来た米友は、ここだなと思いました。ここで、その昔、
それは一人の
ところが、この絵描きが、
「済みませんが、
町家のおかみさんらしいのが頼みに来ると、
「よろしい」
絵師は、さっさと紙を
「おじさん、
「よしよし」
ひきつづき、二人の子供のために、絵師は筆を揮って、
「こちらへお出しなさい。糸目をつけて上げますから」
絵師が凧の絵を描いてしまうと、その後ろに
「おじさん、お
五六文の銭を
その
感心なことに宇治山田の米友は、何事に限らず、芸の神髄を見ることが好きなのです。
そこで、この絵師の書きなぐる筆勢を、心酔的にながめていると、あたりの人が散ってしまったのには気がつきません。ちょっと絵筆をさしおいた絵師が、
「君、絵がわかるかね」
とたずねたときに我にかえって、
「うむ、絵はわからねえけれど、筆つきが面白いなあ」
「そうか、一枚描いて上げようか」
「いらねえ――」
すげもなくいうと、絵師は、
「君は面白そうな男だ。いったい、拙者の絵を見ているのか、筆を見ているのか」
「うむ――」
米友は
「筆つきがばかに気に入ったなあ」
「ははあ、では、やっぱりこの筆が気に入ったのだな。絵は
といって描きかけた筆を米友の前に提示しました。米友は面喰って、
「
「それじゃ何が欲しいんだ」
絵師は頬かぶりの中から、巨眼を

「いつ、
こういって軽く
「君」
「何だい」
「君にちっとばかり頼みたいことがある」
と改まったいいぶりで、なお米友の面を穴のあくほどながめて、
「ぜひお願いだ!」
絵師はむしろ歎願のような声。それを米友は
「なんだってお前、
絵師はその時、わざわざ頬かむりを取って、
「悪く取ってもらっては困る……拙者は、君の
「ナニ?」
「怒ってはいけないよ、君」
絵師は落着いているけれども、米友はムカムカと来ました。いつぞや金助という男は、この手で米友を
「君、拙者は君を侮辱するつもりでいうんじゃないよ、他人を侮辱するには自分の現在というものが、ごらんの通りあまりに貧弱だ。ただしかし、世間の賞美する人間の
足利の絵師田山白雲と、宇治山田の米友とが会話最中、
「人気者が来た!」
たださえ、物見高い浅草の広小路附近に、潮のような群れが溢れ返って、
「人気者が来た!」
口々に
「みいちゃん、人気者が来たから見に行きましょう」
「はあちゃん、待って下さいよ」
「御同役、人気者が出て参ったそうでござる、一見致そうではござらぬか」
「いかさま」
通行の者も歩みをとどめてながめる。
「人気者とは何です!」
と中から叫び出でたものがあると、群集は怒りを含んだ声で、
「人気者とは何だと問うのは誰だ、人気者であるが故に人気者である、理由の存するところには人気はない!」
「違う、実質があって後に、人気はおのずから生ずるのが原則だ、しからざる者は一時の虚勢に過ぎない。当世はまず人気を
と焚きつけるものもあります。
しかしながら、問う者も答える者も、現在やって来る人気者の何者であるかを突留めている者はない。ただ、遠くから人の頭越しに、おびただしい旗と
「多分
聞えないように
「フランスという国で、かくめいという大戦があった揚句、今までの
この男は、時代の作る悪人気と、悪人気に騒ぎ易い人心をなげいているらしい。
「御心配なさるほどのものじゃございませんよ」
苦労人が口を出して、
「今、江戸中での人気ある、商品の売出し広告を、ああして聯合でやっているだけなんですよ、この旗をごらんなさい」
「なるほど」
足利の絵師田山白雲と、宇治山田の米友とは、人気者の行列とは、没交渉であるから、白雲は語りついで、
「実は君、拙者はこのごろ、三十六童子の姿をうつしてみたいと思って苦心しているところなんだ、不動明王の
米友は、この無作法な物の頼みも、その中に
二十三
宇治山田の米友は、夜になって、その宿所なる小石川の伝通院の学寮へ帰って来ました。現在の米友の仕事は、ここで、
「遅くなって申しわけがねえ」
と米友が
「やあ、友造どのお帰りか」
ここでは友造の名で通っている。
「遅くなって済まねえ」
笠をとり、風呂敷包を解きながら、再び申しわけをしましたけれど、実はそんなに夜が遅いのではありません。ただ予定通りに帰れなかったことを、米友として、しきりに申しわけながっているのだが、誰も別してそれを
「友造どの、
「ナゼ?」
米友が円い眼をクルクルさせると、
「なんと皆の衆、今日はひとつ、友造どんに奢らせなければなるまい」
「そうとも、そうとも、今日はひとつ、友兄に奢ってもらうがものはある」
「それ、どうだ、友造どの、覚悟をきめて返答さっしゃい」
「何だかわからねえ」
米友はようやく首根っ子に結びつけた風呂敷包をほどいて、縁台の上へ置いて、
「さあ、友造君、奢るか奢らないか」
「わからねえ、奢っていい筋があるなら、ずいぶん奢らねえものでもねえが、わけも話さねえで、人を見かけてむりやりに奢れったって、そうはいかねえ」
米友は炉の傍に立ったままで解せない面に、多少の不安を浮ばせていると、
「友造どの、そなたに宛てて
「エ、文書が……」
寺侍の
「どうもこの頃中から様子がおかしいと思っていたら、この始末だ、油断も隙もならねえ」
そうすると寺男がまた口を出して、
「全く人は見かけによらねえもんだ、これを
「うーん」
と米友が眼を

「友造さん、最初はその手紙を使の者が持って来たんですが、待ち切れないと見えて、御当人が、わざわざおいでになりましたよ」
「うん」
といって米友は、周囲の雲行きに頓着なく、その場で封を切って読んでみると、
「米友さん、あなたのいらっしゃる所を、今日道庵先生からお聞き申しましたから、大急ぎでこの手紙を差上げます。手紙をごらんになりましたら、すぐにおいで下さいまし、お君さんが危ないのです。ぜひ、生きている間にもう一ぺん米友さんに会いたいといっていますから、今までのことは忘れて来て上げてください。これを聞いて下さらなければ、私が一生恨みますよ」
読んでしまうと米友が、暗い心になりました。伊勢の再び伝通院の学寮を立ち出でた宇治山田の米友。以前と違って笠をかぶらないで、「伝通院学寮」の
米友としては、たとい、お君の行動に
今日は、なかなか多事の日である。あれから足利の絵師田山白雲に引っぱられて人気者の中を横ぎり、
やがて、柳原河岸近くまで来た時分、ここは
あの女はどうしている。まだ
けれども、お蝶らしい女を発見することはできないで、腐れた肉を
あれだけの容貌を持ち、あれだけの心立てを持ちながら、あの境遇に甘んじて、それを抜け出そうともしない女の心が悲しい。
そこを過ぎ去って、杉の森稲荷から郡代屋敷、以前女が殺された所、
あの身体で、あの目で、夜な夜な人を斬らねば眠れなかったその人もどこへか行ってしまった。その翌日病み疲れた
辻斬の本場ともいうべきこのあたり。深夜にこの辺をうろつく者は、斬りに行くか、斬られに行くか二つの中。ここで米友は、改めて自分ながら危ない夜道だと思いました。
幸いにして「伝通院学寮」の文字が、辻番の目にも
で、以前、女の殺されたあたりの柳の生えた
米友はギョッとして、何かまた、いたずら者の名残り、逃ぐるに急で振落して行ったものだろう、見ぬふりして過ぎるのも卑怯なような気がしたから、ともかくもと腰を
刀がひとりでに動き出して
「武士たるものの魂を
「ナニ?」
そこで、米友は一間ばかり飛びしさりました。
「武士たるものの魂を足蹴にするとは何事だ」
ははあ、例によって辻斬だな、但し、こいつは少々
で、一間ばかり飛びしさった米友は、
こちらがながめるより先に、先方は敵の提灯で、敵の
「こいつは少し
やがてカラカラと大きな声で笑い出したのは、何か相当の
「いいから通れ、通れ」
武士たるものは米友に向って、
「お前に許しを受けなくったって通らあな、天下様の往来だ……」
天下様の往来とはいいながら、この場合において、この男は大手を振って通るわけにはゆきません。提灯を左に持って、杖槍を右にかい込んで、その円い目を、武士たるものの身のまわりへピタリとつけて、やや遠くから廻り込むようにして過ぎようとするのを、武士たるものはじっと立ってながめている。
「待たっしゃい」
米友が、ようやく半円形に通り過ぎた時分に、立っていた武士たるものが、また言葉をかけました。
「何だい」
米友は怒気を含んで答えます。
「見受くるところ、貴様は取るに足らぬ下郎ゆえ、助けて
「取るに足らぬ下郎でまことに済まなかった、それがどうした」
「推参な、下郎の分際で武士たるものの魂を
「ばかにしてやがら」
ここで米友は冷笑を発し、
「武士たるものの魂がどうしたんだ、自分の魂を足蹴にされるようなところへほうっておくおびんずるも無かろうじゃねえか」
「何と申す、無礼な奴」
ここで武士たるものが
「武士たるものの魂がそれほど大事ならば、
「よくも拙者をおびんずるにたとえたな」
武士たるものも容赦のならぬ顔色です。
武士たるものは、今にも斬らんず構えをして、槍を構えた米友の形を
「ははあ、こいつは奇妙だ」
といいました。
さて、米友にもまたわからなくなりました。宇治山田の米友は、槍を使うことにおいては天成の自信を持っているはず、天成の自信に、淡路流の極意を加えて、格法を無視して、おのずから格法の堂に
わからなくなったのは、大道へ武士の魂を
その呼吸を見て取った武士たるものは、
「待ち給え」
刀を抜かないで、
「君のその槍は、拙者の小手を突くつもりだろう」
といいました。これには米友がピリリと来て、
「エ?」
といって眼を円くしますと、
「君の槍は奇妙千万で何とも形容ができない。いったい、君はどこでその槍を習った。槍先はたしかに宝蔵院の挙一になっているが、槍そのものの構え方は木下流に似ている、といって気合精神はそれらの流儀のいずれでもない、トンと奇妙千万。まあ、仲直りをしよう、仲直りをして一話し致そうではないか」
先方から講和を申込んで来ましたが、その時、米友は、
「うーん」
と
「君、まあ、この辺へ坐り給え。実は君をオドかして済まなかったが、こんないたずらをしてみたのは、この辺が辻斬の本場になって、世人が迷惑を致すから、ひとつ見せしめを試みて、今後を戒しめようとして、こうして網を張ってみたのだが、求めてみるとなかなか
聞いてみるとなるほどと頷かれる。してみればこの武士たるものは、極々上の達人でなければならない。こういう芸当は、覚え以上の腕がなければできない芸当である。さればこそ米友に講和を申込んで、その手腕を閑却することができなかったのも道理がある。しかし米友は、前途の急を説いてせっかくの好意を辞退したが、
二十四
浅草御門を両国広小路、両国橋を渡り終って、ほどなく相生町の老女の屋敷に着いた宇治山田の米友。ホッと息をついて裏門の
「おお、ムクか、久しぶりだ、久しぶりだ」
「友さん、よく来てくれましたね」
そこへ走り出でたお松。米友を案内して一間へ通すお松の眼には涙がいっぱいです。この気丈な娘にしてこの悲しみ、米友もなんとなしに情けない心に打たれて
「友さん、お君さんがもういけないのですよ」
「ど、どうして?」
米友は胸を圧迫されるような苦しさで、お松の
「赤ちゃんが生れました、赤ちゃんの方は丈夫ですけれども、お君さんがいけないのです、で、自分にそれがわかっているんでしょう、ぜひ、友さんに会わせて下さいって、そのことばかり言いつづけなんですよ、ほんとによく来て下さいました」
「うむ」
「けれども、友さん、そういうわけですからね、いつものようにポンポンいっちゃいけませんよ、たとい友さんの気象で、面白くないことがあるとしても、友さんみたように、あんなに強くいわれるとね、気の弱い人はのぼせてしまいますから、やさしく口を利いてやって下さいね」
「
「そうでしょうけれども、なるべくやさしくいってくださいよ」
「ムクがかわいそうだな」
といって米友は、障子を開いて縁の外を見ますと、お松が、
「ええ、ムクもこのごろは、しおれきっています、御飯をやっても食べやしません」
米友は立って縁の上に出で、そこで口笛を吹きますと、
「友さん、夜になって口笛を吹くものではありませんよ、悪魔がその音を聞いて尋ねて来るそうです」
しかしこの時は、悪魔は来ないで、ムク犬がやって来ました。
お松が立って行ったあとで、米友は、
「ムク」
うるみきった大きな眼と、真黒い中で、真黒い尾を振る姿を見て、
「ムク、手前は強い犬だったなあ、昔もそうだったから今もそうだろうが、強い犬になるにゃあ、飯をうんと食わなくちゃ駄目だぞ」
「…………」
「飯を食わなけりゃあ
身を屈めた米友は、手を伸べてムク犬の首から
「宇治山田にいる時はなあ、手前がほんとうに怒って吠えると、街道を通る牛や馬まで
「…………」
「
米友の声がうるんできた時、お松が戻って来て、
「友さん、それでは、どうかこっちへ来て下さい」
見事なその一間、
米友が来たと聞いて、その美しい、衰えた、
「お君さん、友さんが来ましたよ」
「どうも有難う」
力のない
「友さん、よく来てくれましたね」
「うむ」
「わたしはね、頭の方は
「…………」
その時に、お松が米友に代っていいました、
「そんなことはありませんよ、産後ですもの誰だって……」
「いいえ……」
お松も信じては力をつけられない。お君も気休めの言葉を、気休めとして聞くほどに自分を知っている。
「ですから友さん、わたしはお前によく話をしたり、頼んだりしておきたいと思っているの……」
「うむ」
「友さん、お前はわたしを憎んでいるばかりでなく、駒井の殿様をもいつまでも憎んでおいでなのが、わたしは残念でたまらない」
「それは昔のことだ、今じゃあそんなことまで考えちゃあいねえよ」
「嘘です、友さんは憎みはじめたら、良い人でも、悪い人でも、終いまで憎んでしまうのですから、わたしは悲しい。ですけれども今はそんな話はよしましょう、
お君は、やっとこれだけのことをいうと、すっかり疲れてしまって、
「お君さん、お薬を上げましょうか」
「どうも済みません」
お松の手で咽喉をしめしてもらったお君は、再び言葉をつぐ元気がないと見えて、目をつぶったままで微かに
二人も、その安静を妨げない方がよいと思って、黙って、お君の寝顔をながめているだけです。
「友さん……」
暫くして呼んだお君の声は、夢の中から出たようで、その眼は開いているのではありません。
「お君さん……」
と米友の代りにお松が返事をしたけれど、お君の呼んだのは
二人は、なおその寝顔をじっと見ていると、お君の額にありありと、苦痛の色が現われて、
「あ!」
「お君さん」
お松がその背中へ手を当てると、
「皆さん、ムクを
「何をいっていらっしゃるの、お君さん、しっかりしなくてはいけません」
「友さん……それでは、わたしを間の山へ連れて行って下さい……駒井の殿様へよろしく申し上げて、さあいっしょに帰りましょう……鳥は古巣へ帰れども、往きて還らぬ死出の旅……」
この時、お君の
「誰か来て下さい……」
お松が叫んだ時、抱えていたお君の頭が、重くお松の胸に落ちかかります。
「死、死んだのかい!」
宇治山田の米友が、
かわいそうに、お君は死んでしまいました。
まもなく、この邸の裏門から
「これこれ、どこへ行く」
橋際の辻番の六尺棒で行手を支えられた時、
「間の山へ行くんだ」
「何だ……」
「間の山……じゃなかった、小石川へ帰るんだ」
「小石川のどこへ」
「この
突き出してみたけれども、あいにくのことに、その提灯に火が入っていません。
「ちぇッ」
杖槍と、提灯とを、ひっかかえて来たけれども、この提灯へ火を入れることを忘れていた。
「どこから来た」
辻番は穏かならぬ
「相生町の御老女の屋敷から来て、小石川の伝通院の学寮へ帰るんだ、火を貸しておくんなさい」
米友は火の入っていない提灯を、辻番所まで持ち込むと、
「それ」
ちょっと
「カチカチ」
「ちぇッ」
「カチカチ」
「ちぇッ」
「それでは
「ええいッ」
やっとのことで火は提灯へ入ったが、手先が、やはりわなわなとふるえている。
「なるほど」
辻番は提灯に現われた「伝通院学寮」の文字をありありと読んで、やや得心が行ったように、
「何を
米友の挙動には、不審が晴れない。
「何でもねえんだ、どうも有難う」
そうして走り出すと、
「おい、待たっしゃい」
呼び留めた辻番、振返った米友。
「何か包を落したぞ」
「うむ、そうだ」
辻番が拾ってくれた
「気をつけて歩かっしゃい」
辻番も、米友の挙動を
「往きて還らぬ死出の旅」
そこで、ピッタリと足をとどめて、
「さあ、わからなくなった、前と後ろがわからなくなっちまった、右と左もわからなくなっちまった」
宇治山田の米友は、両国橋の真ン中の
「何が何だか、おいらの頭じゃわかりきれなくなった。
宇治山田の米友は、狂気の如く同じところを飛び上っています。
二十五
栃木の大中寺に
謹慎でなければならぬように、すべての都合が運んでいるところへ自分もまた、つくづくと半生の非を悟った。これからの生涯を
この男は、悪友と
しかし、これとても、本心から左様に
今宵は月が
この隠居も大中寺へ見えて、主膳とは
「これは講中の者から贈ってよこしました
「折角ながら、拙者は酒を飲まないことに致しておる」
「それはそれは、何か御心願の筋でもあらせられまして」
「いや、別に心願というわけでもないが、酒では幾度も失敗をしでかした故に」
「それは残念でございます。しかし、少々ぐらいはお差支えがございますまい」
といって、隠居は手ずから神尾の前の盃に酒を注ぎました。
「せっかくながら……では、早速一戦を願おうか」
「今日こそは、先日の
二人共、酒盃は
局面が進んで行くと、二人はいよいよ熱中する。隠居は石を卸しながら、ちょいちょい酒盃を手にするが、最初から手を触れないでいた神尾、
「ここはぜひとも切らなければ」
と言って一石、その手が思わず盃にさわる。
我知らず唇のところまで盃を持って来て、はじめて気がつき、
「あっ」
と苦い物でも噛んだように、下へさしおいて、
「ともかく、切った以上は
隠居は考え込んで、
「弱りましたな」
「これで局面が一変」
神尾は喜んで、再びその手が無意識に盃の上へ下りる。
「さあ」
と隠居が、いたく考え込んでいる。得意になった神尾が、知らず識らず盃を唇のところへ持って来て、
「あっ」
また熱い物でも触れたように、
「そうなりますと、絶体絶命、
隠居は
「いや、これは違った」
苦々しい
「これはこれは、
忙がしい中で手を打って女中を呼んで、
「では、これだけいただきましょう」
「それは相成らん」
「拙者はこっちの方を少しばかり」
「どう致しまして」
「ここなら頂けますか」
「なかなか以て」
「左様ならば、ホンの少々だけ」
「御免を蒙ります」
「これはこれは。あれも下さらない、これも下さらない。しからばホンの三目だけ」
「その三目をやっては全体が
「ごようしゃを願います。左様ならばこれだけ」
「以てのほか……しかしながら、これで拙者の方の
「そのくらいは負けていただかないと碁になりませぬ」
「さあ、これでまた局面が逆転した、悪かったな」
神尾は当惑して暫く考えていると、またしてもその手が盃に触れる。
「これでホッと一息致しました」
隠居はホッと息をついて盃を取り、飲みぶり面白く
「さあ、
といって神尾もうっかり唇まで持って行った酒を、チビリと一口飲んでしまって、
「あ」
取返しのつかないというような面。
「こりゃ、のんでおくか」
「え、どうぞ」
神尾は一石伸ばすと共に、無心で一口つけた盃を、今度は
「さあ、どうぞお引き下さいませ」
隠居は碁石とお銚子とを、ちゃんぽんに扱う。
「どうなるものか」
神尾が荒っぽく一石を打ち卸して、その手がまた
「どうぞ、お重ねあそばして、さあ」
隠居はお銚子を打って、碁石をすすめるようなもてなし。
「いよいよ悪かったか」
神尾はついに三たび、盃を飲み乾した時、陣形ことごとく崩れてしまって、もはや収拾の余地がない。勝ち誇った隠居は、その傍らいい気になって神尾に酒を
「投げだ」
碁石を投げ出して、
「ハハハハハ、怪我でございます、大きな拾い物を致しました」
幸いにして神尾主膳は、この時まだ全く自制を失ったというのではありません。謹慎の癖がついてみると、破戒の
改めて一石――そこで主膳は
別に女中が追いかけるように
主膳が、酔眼にもしかと認めたその人影は女。それも江戸の町家、或いは大名の奥などで見るような娘ぶり。
この家に娘はないと聞いていた。してみれば今のは?
主膳はその疑問を解き終らずに席へ戻って、改めて盤に向う。
数番の勝負終って後、主膳もしかるべきところで切り上げて帰ろうとする。
そこで隠居は、秘蔵の刀剣や書画骨董を取り出して見せる。
やがて主膳は隠居に辞儀をのべ、思わず
「お口に叶いましたならば、別に
隠居は別に美酒一樽を仕込んで
断わっても聞かれず、月はありながら提灯を持った僕に、別酒一樽を持たせて大平山神社の
ちょうど、向うから無提灯で来た旅の者――月夜ですから無提灯が当り前ですけれども、それにしても旅慣れた姿、この間道をよく登って来る近在の百姓とも思われません。
すれ違った時に先方の
「モシ、失礼でございますが、神尾の殿様ではいらっしゃいませんか」
「なに、そちは誰じゃ」
そこで神尾が踏みとどまると、旅の者は傍へよってきて、小腰をかがめ、
「百蔵でございます」
「がんりきか」
神尾主膳が
「これはよいところでお目にかかりました、実は、殿様がこちらにおいでなさることを承って参りましたのですが、ともかく、大平山へ参詣致しましてから、改めてお伺い致そうとこう考えていたところなんでございます、ここでお目にかかったのは何より。そうして殿様は、これからどちらへお越しになろうというんでございますか」
「いや戻り道だ、大平神社の隠居殿を訪ねて、これから大中寺へ戻ろうとするところじゃ」
「左様でございますか」
「百蔵、お前はまた何しに、こんなところへ来たのだ」
「少々ばかり信心の筋がございましてね。それともう一つは、ぜひお久しぶりで殿様の御機嫌を伺いたいと、こう思って参りましたんでございます」
「それは有難いような、迷惑なような次第だ」
「いかがでしょう、これから殿様のお
「左様……」
主膳は、ちょっと考えていたが、隠居の
「これこれ若い衆、そちは、もうよいから帰らっしゃい、ここから帰って、隠居殿によろしく申してくれ」
「いやナニ、せっかくでございますから、あちらまでおともをさせていただきましょう」
「若い衆さん……」
がんりきが、隠居のしもべを見ていいました。
「お帰んなすって下さい、私が殿様のおともを致して、無事にお送り申し上げて参りますから、御安心なさるように……おっと、それはおみやげでございますか、がんりきが頂戴して持って参りましょう」
といって、
隠居の僕はぜひなくお暇をいただいたわけで、がんりきの百蔵が代っておみやげの美酒一樽をぶらさげ、提灯は断わってしまって、二人が相携えて、大平山を大中寺の方へ、
「がんりき、そちはどこで拙者の隠れ家を聞いて来た」
「ええ、福村様から承って参りました」
「福村から? 福村はどうしている」
「相変らず……お盛んな御様子でございました」
「そうか」
「時に神尾の殿様、あなた様はいったい、もうこの土地で、一生を
「そうさなあ、住めば都の風といって、このごろのように行い澄ました心持になってみると、こういった生涯にもまた相当の味があるものでな」
「ははあ、では、その大中寺とやらで、御修行をなすっていらっしゃるんでございますね、御修行が積んだら、ゆくゆくは一カ寺の御住職にでもおなりなさるつもりで……いや、頼もしいことでございます」
がんりきは、わざとらしく一樽の美酒をブラブラさせる。
「何をいっているのだ」
神尾も久しぶりで相当の
「そりやずいぶんと結構でございますなあ、殿様がそういう結構なお心になったとは露知らず、世間にはずいぶんふざけた奴が多いので、いやになっちゃいますなあ」
「がんりき、そちは妙ないい廻しを致すではないか」
「全く腹が立っちまいますねえ、せっかく、
「何がどうしたのだ、誰か修行の妨げでもしたというのか」
「まあ、早い話が……この酒樽なんぞも、そのロクでなしの一人、ではない
といってがんりきは、その提げていた酒樽を、
「その酒樽が……何か悪事でも働いたというのか」
「悪事どころじゃございません、第一、御修行中の殿様を、今、お見かけ申せば、どうやらいい心持にして上げたのも、こいつの
がんりきはこういって、またも酒樽を烈しくブラブラさせる。
「これ、酒樽に罪はない、そう手荒いことをするな」
「手荒いことをするなとおっしゃったって、これが憎まずにいられましょうか、さんざん、殿様をほろ酔い機嫌のいい心持にして上げたうえに、また宿へお帰りになれば、寝酒というやつで、
がんりきは、今度は、ブン廻すように酒樽を烈しく
「いいかげんにして許してやってくれ。実は近頃、全く禁酒をしているのだ、ところが
「さればこそでございます、それほど殿様が一生懸命に行い澄ましていらっしゃるのを、外から甘えてこっちのものにしようと
がんりきは、いよいよ樽を虐待してみたが、それでも踏みこわすほどのことはなく、やがて、おとなしくなって、わざとらしく猫撫で声、
「神尾の殿様、憎いのはこいつばかりじゃございません」
「まだ憎み足りないか」
「憎み足りない段ではござりませぬ、ほんに骨身を食いさいてやりたいというのは、
「がんりき」
「はい」
「その酒をここへブチまけてしまえ」
神尾主膳はなんとなく
「それは
「いいからブチまけてしまえ」
「勿体ないことでございますな、おいやならば私が頂戴致しましょう、お
二十六
ほどなく大中寺の門前までやって来た時分に、がんりきの百蔵は、急に主膳にお暇乞いをして、明日にも改めてお伺い致しますと言って別れてしまいました。
いかにも泊り込みそうな気合で来て、ふいに
そこで主膳がもてあましたのは、隠居からおみやげに贈られた美酒一樽。
これは山門の中へは持ち込めない。そうかといって、ここへ
「どなたでございます」
というのは門番又六の女房お吉の声です。
「神尾じゃ、又六はおらぬか」
「まあ、殿様でございましたか」
お吉が驚いて戸をあけて迎える。主膳は中へ入って、
「又六はおらぬか」
「皆川の方へ参りまして、まだ戻りませんでございます」
「左様か。お吉、迷惑だが、これを預かってもらいたい。いや預かるのではない、門前の誰かに欲しいものがあったら
「何でございますか。おや、これは結構な御酒ではございませんか」
「うむ、大平山の隠居から貰って来たのじゃ。又六は
「こんな結構なお酒を、ここいらの者に飲ませては
「そうはいかない」
「それではこちらでお預かり申しておきましょう。ああ、ちょうどよろしうございます、鉄瓶があんなに沸いておりますから、少々ばかりここでお
「それには及ばぬ」
「どうぞ、殿様、せっかく、隠居様のお心持でございますから、そうあそばして一口お召上りなさいませ」
お吉は甲斐甲斐しく、この酒を受取ってお燗の仕度にかかろうとします。
主膳は、さきほどがんりきに焚きつけられて、もだもだといやな気がさしたのが、お吉のこの愛想で、また前のようにいい気持になりかけました。
又六の女房お吉は、さして好い女というではないが、愛嬌があって、親切者で、日頃よく主膳の面倒を見てくれるから、主膳も好意をもっていたところへ、こうして下へも置かぬようにされると、つい、「それでは」という気になりました。
「まあ、こんなむさくるしいところへ、どうぞ殿様、これへお上りくださいませ」
お吉は
「隠居のところで、御馳走になって、久しぶりで
「ええ、どうぞ、何もございませんが」
お吉はいそいそとして、酒の燗、有合わせの
お吉の方では、こうして旧主に当る人をもてなすのを光栄とし、取急いで膳立てをして、
「さあ、失礼でございますが」
温かい酒の
今日に限って、すべての環境が、主膳を温かい方へ、温かい方へ、とそそって行くようです。お吉のもてなしを受けてその温かい酒の盃が唇に触れた時の心持は、隠居の時の
みこしを据えて飲む気になってみると、酒の味が一層うまい。そろそろと酔いが廻ってゆくと、半ば忠義気取りでもてなすお吉の親切が、あだ者に見える。
そこで、さいぜんのがんりきのいい廻しを思い返してみると、たまらない気になる。先代の愛妾お絹と福村とは夫婦気取りで暮しているそうな。女も女なら、福村の奴も福村の奴だ。おれがこうして殊勝に引込んでいる気も知らないで、人もあろうに度し難い畜生共だ。江戸へ押しかけて、福村の奴を取って押えて泥を吐かしてやろうか。
しかし、仕方があるまい。どのみち、おれも今までの
「殿様には、よくまあ御不自由の中に御辛抱をなさいます。世が世ならば、私共なんぞは、お傍へも寄ることはできませんのに、こんなところへお越し下さいまして、ほんとうに
「いや、お吉、お前には何から何まで世話になるばかりで本当に済まぬ、主膳もこのまま朽ち果てるとも限るまいから、何かまた世に出づる時があらば、この恩報じは致すつもりだからな、又六にも悪くなくいっておいてくれよ」
「殿様、恐れ多いことでございます。
「又六もなかなか心がけのよい者だ、主膳が世に出れば、このままでは置かないつもりだ」
神尾主膳は、どうしたものか今夜に限って、しきりに世に出れば、世に出れば、が口の
「どう致しまして、殿様、私共はいつまでも殿様がこうしてこちらにおいであそばす方が、忠義ができて有難いと申しておりますのでございます。殿様が、以前の御身分にお戻りなされば、とてもお傍へも寄ることはできません、殿様のおためには、御出世がようございますか存じませんが、私たちのためには、こうしてお身軽くしておいでなさるのが何より有難いのでございます」
「いや、お吉、お前方の親切はほんとうに嬉しいぞ。それが本当だ、今まで拙者が交際していたやつらは、
といって神尾主膳は差していた脇差を抜き取って、お吉の前に置きましたから、お吉がびっくりして、
「まあ、こんな結構なお
「取って置きやれ。ああ、いい心持になった。もう夜もかなり遅いことだろう、又六は今夜は帰るまいかな。あまり夜ふかしをしてもならん、ドレ、拙者もお
こういって主膳は立ち上ると、腰がよろよろとしました。
「お危のうございます」
「帰る、帰る、どうしても帰る」
主膳は外を見ると、月がもう落ちてしまって闇です。お吉は
千鳥足で外へ出た神尾主膳を、提灯をつけて送り出したお吉。山門を入ると両側は巨大なる杉の木。宏大なる本堂の建物を左にして、書院の方へ進んで行くと、神尾はむらむらと何かに刺戟されました。
この男には、烈しい酒乱の癖がある。ひとたびそれが
「殿様、どちらへおいでになりますか」
「お前の知ったことではない」
ずんずん横へ
「お危のうございます」
「お前の知ったことではない」
どこへ行くかと思うと、神尾は勝手を知った庭を通って、大中寺
「殿様、何をなさいます」
「お前の知ったことではない」
「殿様、それをおあけになってはいけませんでございます」
お吉は神尾主膳の前に立ち塞がって、その手を抑えようとしました。
ここにいう大中寺七不思議の一つ「
「殿様、御存じでもございましょうが、これは開かずの雪隠と申しまして、これへお入りになると祟りがございますから、幾百年の間も、こうして錠を卸しておくのでございます、あちらへ御案内致しますから」
お吉が立ち塞がって、主膳の手をとって外に案内をしようとすると、それをふりきった主膳が、
「知っている、知っている、祟りを怖れる人には開かずの雪隠、祟りを怖れぬ人にはあけっぱなし……」
知って無理を通そうとするから、お吉はこれこそ酒のせいと初めて気がつきました。
「殿様、そういうことをあそばすものではございませぬ、佐竹様の奥方がお恨みになりますよ」
「うむ、佐竹の奥方が恨む、その奥方の怨霊とやらが残っているなら、こんなところに閉じ籠めておいてはなお悪い、明け開いて
神尾は、力を極めてお吉を押しのけようとする。お吉は一生懸命でその禁制を護ろうとする。そこで、ほとんど二人が組打ちの有様です。こうなるとまさしく神尾の怖るべき酒乱が
「誰か来て下さい」
お吉が叫びを立てたその口を、神尾はしっかりと押えてしまいました。
二十七
神尾主膳はその翌日、頭痛で頭が上りませんでした。終日小坊主の介抱を受けていたが、こういう時に、早速見舞に出てくるはずの門番の又六の女房のお吉が出て来ません。
酔いはもうさめてしまっているが、従来、酔いに次ぐに酔いを以てして、酔いからさめた時の悔恨を医する例になっていたのが、この時にかぎってそれをする
夕方になると、お吉が見舞に来ないで、又六がやって来ました。
「殿様、お加減がお悪いそうですが、どんなでございます」
「ああ、又六か」
「
「お吉も頭が痛い?」
「どうもお天気具合が悪いせいでございましょうよ」
主膳はこの時気の毒だという感じがしました。せっかく、十分の好意を以てもてなしてくれたお吉の好意を
「お吉も
「なあーに、たいしたことはございませんよ、根ががんじょうな奴ですから」
又六は、昨夜、主膳が酒を飲んだことを知らないらしい。お吉が、それを又六には話していないらしい。してみれば無論、
「時候のせいかも知れない、大事にしてやってくれ」
「有難うございます……それからあの、殿様、ただいま、お客様が、わたしン
「ナニ、客が?」
「エエ、殿様にお目にかかりたいんだが、こちらへ伺っては少々都合が悪いから、わたしン
「うむ、それは誰だ」
「見慣れない旅のお方でございます、あの、お名前は百蔵さんとかおっしゃいました」
「うむ、がんりきか」
主膳は寝ながら、向き直って天井をながめ、ホッと息をつきました。
憎い奴、がんりきの百蔵。あのロクでなしが来なければ、こんなことはなかったのだ。ただ隠居のところから
「会えない、当分会えないから帰れといってくれ」
主膳は、又六に向って、
「はい」
といって、腰を浮かすだけです。
又六が帰ると、
「あのな、お前、用が済んだら門番のところまで頼まれてくれ。お吉が病気になったそうだが、加減はどうか、悪くなければ、お吉にちょっと来てくれるようにいってくれ」
「
小坊主はおびえながら、承知して行ってしまいます。
しかし、暫く待ってもお吉はやって参りません。主膳はその時
その時分、庭で、けたたましい人の声。
「え、油坂で転んだ? それは誰だエ。気をつけなくちゃいけねえ。エ、誰が転んだのだエ?」
「又六さんが転んだんですよ」
「エ、又六がかい。何たらそそっかしいことだ、慣れているくせに」
主膳は、そこでまたカッとしました。油坂は転んではならないところ。そこは、やはり大中寺七不思議の一つ。
本堂から学寮への通路に当る油坂。昔は、そこを廊下で
それだけで、又六からも、お吉からも、小坊主からも、なんとも
まよなかとおぼしい時分に、障子と廊下をへだてた雨戸がホトホトと鳴る。
「神尾の殿様」
呼ぶ声で、主膳がハッと驚かされる。
「誰じゃ」
「殿様、百蔵でございます。ちょっとここをおあけなすって」
図々しい奴、しつこい奴、会いたくもない奴。しかし、こうして寝込みを襲われてみれば、主膳もだまってはおられない。
「何しに来た」
「殿様、お迎えに上りました。といいましても今晩のことではございません、どのみち、殿様に再び世に出ていただかなければならない時節になりましたから、そのお知らせかたがた……ちょっと、ここをおあけなすっていただけますまいか」
二十八
房州の
終日、工事の監督に身を
八畳と六畳の二間。六畳の方の一間が南に向いて、窓を
駒井甚三郎は、いつもするように研究に頭が熱してくると、手をさしのべて、窓を
番所の目の下は海で、この洲崎の鼻から見ると、内海と
そのころの最新知識者であり、科学者である駒井甚三郎が、今宵はその亡霊に悩まされているというのは不思議なことです。駒井は今日このごろ頭が重く、何かの憂いに堪ゆることができない。憂いが悲しみとなって、心がしきりに沈んで行くのに堪えることができない。窓を推して見ると、亡霊の海波が悲愁の色を含んで、層々として来り迫るもののようです。潮流は地の理に従って流るべき方向へ流れているに過ぎないし、詩人でない駒井は、「そぞろに覚ゆ
「おれは今、何を憂えているのだろう、何が今のわが身にとって、この憂いの心をもたらす
人間と交渉を断って、科学と建造に
ただ一つ、ここへ来て以来、時あってか駒井の心を憂えしむるものは、最初につれて来た船大工の清吉の死があるばかりだ。無口で
その事が、時あって駒井甚三郎の心を、いたく曇らすのだが、今宵の淋しさはそれとはまた違う。
人間のたまらない淋しい心は、その
駒井甚三郎は、自覚しないうちに、そういうふうに感情を軽蔑したがる癖がないとは言えない。今、自分の心のうちに起っている骨髄に
心の屈托を医するためには、駒井はいつも遠く深く海をながめるのを例とする。海をながめているうちに、この人の頭に湧き起る感情は、未来と前途というところから与えられる爽快な気分です。それと共に、現在の「船を造る」という仕事が、勢いづけられて、すべての過去と現在とを圧倒してしまうのを常とする。わが手で、わが船を造り出して、この
そこでこの人は、物の力の絶大なることに驚喜する。物の力を極度まで利用することを知っている西洋人の脳の力に驚嘆する。西洋文明の粋を知ること漸く深くなって、好学の念がいよいよ強くなる。学べば学ぶほどに、
しかし、今宵だけは、どうしてもその前途と未来の空想に浸りきって、我を忘れることができない。
「
駒井は何と思ったか、珍しい人の名を呼んでみましたが、返事がないので気がついた様子で、「そうか」と苦笑いをしながら立って、廊下伝いに足を運んで行きました。
事務室とも、小使室ともいうべき板張りの床、同じように机、腰掛で
「
後ろから肩を叩いて名を呼んだので、はじめて少年はびっくりして、駒井の
駒井は、相変らずやっているな、という表情で少年に向い、有合わせのペンを取って紙片に「紅茶」と
その時に、駒井は同じ紙の一端にペンを走らせて、「ソノ本ヲ少シ貸シナサイ」――ポケットの中に納めかけた一巻の書を、少年はぜひなく引き出して駒井の前に提出すると、それを受取った駒井は、
「有難う」
これは言葉で挨拶する。少年はそのまま勝手元へ行ってしまい、同時に駒井もその部屋を立って自分の部屋へ帰って、少年の手から借りて来た書物を二三頁読み返していると、以前の少年が温かい紅茶を捧げてやって来ました。
「君もそこへ坐り給え」
これも同じく口でいって、椅子の一つを少年に指さし示すと、
「君も一つ」
紅茶の一杯を少年に与えて、自分はその一杯を
「
と書き記すと少年は眼をすまして、
「ユダヤいう国、ベツレヘムいうところでお生れになりました」
これは
「生レタノハ何年ホド昔」
「千八百――年、西洋の国では、その年が年号の初めです」
「ソレデハ基督ハ西洋ノ王様カ」
「いいえ」
「ソレデハ
「いいえ」
「ソレデハ基督ハ何者ノ子ダ」
「大工さんの子であります」
「大工ノ子。ソレデハ西洋デハ、大工ノ子ノ生レタ年ヲ、年号ノ初メニスルノカ」
「左様でございます」
「基督トイウ人ハ、ソンナニ
「大工さんの子としてお生れになりましたけれども、基督様は救世主でございました、神様の一人子でございました」
「神様ノ一人子トハ?」
「神様が人間の罪をお
駒井が鉛筆で問うことを、少年は口で明瞭に答えるところを見ると、この少年の耳は用を為さず、口だけが自由を有する少年、つまり
駒井は次に何を問わんかとして、鉛筆を控えて、その問い方に窮したのです。そのころ第一流の新知識としての駒井が、西洋諸国がことごとく
駒井甚三郎が
大六というのは、房州鴨川の町の出身で、最初日本橋富沢町の大又という質屋へ奉公し、後、日本橋新泉町に一本立ちの質屋を出して大黒屋六兵衛と名乗り、ようやく発展して西洋織物生糸貿易にまで手を延ばし、ついに三井、三野村、井善、大六と並び称せらるるほどの豪商となり、文久三年、伊藤俊輔、井上聞多、井上勝、山尾庸三らの洋行には、この人の力
大六は、当時失意の境遇にあるこの人材、駒井能登守を自分の顧問に引きつけたならば、大した手柄だと思いましたけれど、別に志すところのある駒井はその話には乗らずに、同じ船の一隅でマドロスの服を着けて、帆柱の蔭で
駒井と同居することになって後のこの少年の挙動は、船の時と同じことで、命ぜられた仕事の合間には、手ずれきった一巻の福音書を離すことなく、繰り返し繰り返ししている。日本の武士が刀剣に愛着すると同じように、この一巻の福音書に打込んでいる少年の挙動を、駒井は笑いながら見ていました。
「私が耶蘇になったといって、私を憎んで殺そうとしましたから、私、海を泳いで日本の船へ逃げ込んで、ようやく助かりました、その時、海の水で本がこの通りいたんでしまいました」
手ずれきった革表紙を繙いて、頁のしみだらけになったところを駒井に見せて金椎が説明する。
明けても暮れても一巻の福音書にうちこんでいる
別に、駒井自身は、科学者としての立派な見識を持っている。その見識によって迷信屋を憐れむだけの雅量をも備えているつもりである。あらゆる信心は、みな迷信の一種に過ぎないものとの観察を持っている。法華経を読めといわれて読んでみたこともあるし、耶蘇の聖書も、その以前、一通りは頁を
物と力を極度に利用する西洋の学問に触れてから、一層その念が強くなって、神仏の信仰は文明と共に消滅すべきもの、消滅すべからざるまでも識者の問題にはならないはずのものと信じていたところ、その西洋諸国が一斉に、耶蘇というエタイの知れぬ神様の生誕を紀元とするという矛盾に、なんとなく、足許から鳥が立った思いです。
駒井甚三郎が、耶蘇の教えを、もう少しまじめに研究してみようとの心を起したのは、この時からはじまります。
翌朝、例によって金椎の給仕で――この少年は支那料理のほかに、多少西洋料理の心得もあります――
今日は早朝から珍客、箸を取りながら窓の外をながめると、激しく吠えていた犬の声が、急に弱音を立てて逃避するもののように聞えます。最初には珍客に向っての警戒と威嚇の調子で吠えていたのが、急に恐怖の調子に変ってきましたから、駒井は「敵が来たな」と思いました。敵というのは自分に対する敵ではない、犬共にとっての強敵が現われたのだということを、駒井は経験の上から
食事中、駒井はこの窓外の物々しい風景を興味を以てながめました。見慣れない一頭の犬は、ほとんど小牛を見るほどに大きく、
「ははあ、大きな犬がやって来たな」
「ムク」
おお、これはムクだ。甲府勤番支配であった時、わすれもせぬお君の愛犬。その人にも、この犬にも、無限の思い出がなければならない。それと知るや、駒井は箸を捨てて立ち上りました。
「ムク」
犬は駒井の姿を見、その声を聞くと共に、勇みをなして飛んで来る。駒井は縁先へ出てそれを迎える。
「ムク、お前はどうしてここへ来た」
あやしみ、喜びながらもまず気になるのは、その首に巻きつけられた、五寸ほどに切った竹筒を、麻の縄で両方からムクの首に
「駒井能登守様。
殿様は今、どちらにおいでなさるか存じませんが、私はお君様に代って、殿様に悲しいお便りを申し上げなければなりません。
この十三日に、お君様は亡くなりました。お君様は亡くなりましたけれども、若様はお丈夫でございます。お君様のくれぐれの遺言もございますから、このことをどうぞして殿様に一言 お知らせを致したいと苦心致しましたが、私共の手ではどうしてもわかりません。ふと思いつきましたのはこのムクのことでございます。ムクは強い犬で、りこうな犬ですから、ムクを放してやれば、殿様にこのことをお伝えすることができるかと思いまして、このように取計らいましたのは、本所相生町の御老女様の屋敷にいる松でございます。
若様のお名は能登守の一字を戴いて『登』様と仮りに私が申し上げていることをお許し下さいませ――」
その手紙を持ったままで駒井甚三郎は、自分の部屋へ入ってしまいました。そうして、寝台の上に身を横たえて、頭から毛布をかぶって枕を上げません。程経て殿様は今、どちらにおいでなさるか存じませんが、私はお君様に代って、殿様に悲しいお便りを申し上げなければなりません。
この十三日に、お君様は亡くなりました。お君様は亡くなりましたけれども、若様はお丈夫でございます。お君様のくれぐれの遺言もございますから、このことをどうぞして殿様に
若様のお名は能登守の一字を戴いて『登』様と仮りに私が申し上げていることをお許し下さいませ――」
常に、ことわられていることは、研究に熱心の際は外物のさわりがある。扉に
引返して見ると、使命を帯びて来た
その日一日、ついに駒井甚三郎はその部屋を出でませんでした。こういうことは必ずしも例のないことではない。不眠不休で働いた揚句、二日二晩も寝通したことさえ以前にあるのだから、金椎はそれを妨げに行こうともしなかったが、夜に入っては、さすがに不安でした。
以前の巨犬は、何か返事の使命を待つものの如く、また使命の重きに悩むものの如く、
「ワンワン、こちらへおいで」
金椎は犬を導いて、自分の室の一隅に入れ、犬と食事を共にし、祈りを共にして、その夜の眠りに就きました。
翌朝、例刻にめざめて、例の通りまず主人の部屋を訪れて見ると、昨日は固く
「お早うございます」
室内に入って見ると、机にも、腰掛にも主人の姿を見ず、寝台の上はもぬけの
「金椎ヨ、余ハ急ニ感ズルコトアリ、今朝ヨリ暫時ノ旅行ヲ試ミントス。行先ハ江戸、滞留及ビ往復ノ日数ヲ加ヘテ多分十日以内ナルベシ。留守中ノ事ヨロシク頼ム。昨日、使ニ来リシ犬ハ、最モ愛スベキ忠犬ナレバ、ヨクイタハリ、カヘルトモ、留マルトモ、犬ノ意志ニ任セテサシツカヘナシ。
二十一日午前一時
二十一日午前一時
駒井」