一
「
「はい、さっきから少しもやまず、ごらんなされ、五寸も積りました」
「うむ……だいぶ大きなのが降り出した」
「大きなのが降ると、ほどなくやむと申します」
「この分ではなかなかやみそうもない、今日一日降りつづくであろう」
「降っているうちは見事でありますが、降ったあとの道が困りますなあ」
「あとが悪い――」
竜之助は横になったまま、
「あとの悪いものは雪ばかりではない――
今日は竜之助の言うことが、いつもと変ってしおらしく聞えます。
「ホホ、
お浜は軽く笑います。
「どうやら酒の
竜之助はまた暫らく眼をつぶって、言葉を休めていましたが、
「浜、甲州は山国なれば、さだめて雪も積ることであろう」
「はい、
こんなことを途切れ途切れに話し合って、雪を外に今日は珍らしくも夫婦の仲に春風が吹き渡るように見えます。
悪縁に結ばれた夫婦の仲は濃い酒を絶えず飲みつづけているようなもので、飲んでいる間はおたがいに
「坊は寝たか」
「はい、すやすやと寝入りました」
「酒はまだあるか」
「まだありましょう」
「こう降りこめられては所在がない、また酒でも飲んで昔話の蒸し返しでもやろうかな」
「それが御無事でござんしょう」
お浜は寝入った郁太郎を、
「ああ尺八……」
竜之助もお浜も、にわかに
「よい音色じゃ、
お浜が
お浜は台所に行っている間、竜之助は寝ころんだままで、その尺八を聞いています。
しおの山
さしでの磯 に
すむ千鳥
君が御代 をば
八千代 とぞ鳴く
さしでの
すむ
君が
しおの山
さしでの磯に
すむ千鳥……
そこへさしでの磯に
すむ千鳥……
君が御代をば八千代とぞ鳴く
と立ちながらつづけて「よく知っている――」
「故郷のことですものを」
「故郷とは?」
「しおの山とは
「ああ
しおの山、さしでの磯に……
竜之助は無意識に歌い返してみました。「ここにいて笛を聞くのは風流でござんすが、この寒空に外を流して歩くお人は、さぞつらいことでしょう」
お浜も、炬燵に、つめたくなった手を差し入れて、
「それも若い者ならばともかくも、今の
「とかく風流は寒いものじゃ――」
竜之助は起き直り、お浜の与うる
「親父も尺八が好きであったがな」
「あの弾正様が?」
「そうじゃ、親父は頑固な人間に似合わず風流であった、詩も作れば歌も
竜之助が父の噂をしんみりとやり出したのは、おそらく今日が初めてでしょう。
「この寒さは、さだめて御病気に
「うむ――」
竜之助には、このごろ初めて父のことが気にかかるようになったらしい。島田虎之助を極力ほめていた父の言葉が、昨夜という昨夜、ようやく
「御無事でおられますことやら。世間さえなくば、お見舞に上ろうものを」
お浜の附け加えたる言葉は竜之助の
「浜――」
「はい」
「二人で一度、故郷へ帰ってみようか」
「あの、お前様が沢井まで……」
「うむ、最初には甲州筋から、そなたの故郷八幡村へ。あれより大菩薩を越えてみようか」
「それは
お浜の
「忍んで行けば大事はあるまい」
「お詫びは
「
「あの沢井のお邸にお住まいになれば、どんなに肩身が広いでしょう」
「あさはかなことを言うな、
「もう土地の人とても、
「いやいや、あのあたりに住む甲源一刀流の人々は、いまだに拙者を
「もとはと申せば試合の
竜之助は答えず、暫らく
「浜、文之丞には弟があったそうな……」
「文之丞の弟……はい、兵馬と申しまする」
「その兵馬――それは今どこにいる」
「わたしが出るまでは番町の親戚におりました」
「歳はいくつになるであろう」
「左様、数え歳の十七ぐらい」
「その兵馬は、さだめて拙者をよくは思うまい」
「まだ子供でござんすものを」
「
「もし兵馬がお前様を
「仇呼ばわりをしたらば討たれてもやろう――次第によっては斬り捨ててもくれよう」
「それは
お浜の本心をいえば、兵馬に憎らしいところは少しもない、兵馬にとっては自分は親切な姉であったし、自分にとっては兵馬は可愛ゆい弟です。その心持はどうしても取り去ることはできないのですから、まんいち兵馬が竜之助を
「拙者を仇と覘うものがありとすれば、それは兵馬一人じゃ。同流の門下などは拙者を憎みこそすれ、拙者に刃向うほどの大胆な奴はあるまいけれど、文之丞には肉親の弟なる兵馬というものがある以上は、子供なりとて枕を高うはされぬ」
仇を持つ身の心配を今更ここに打明けて、
「兵馬さえなくば、父に
兵馬さえなくば……その言葉の下には、兵馬を探し出さば、
お浜はここに言わん
文之丞を亡き者にさせたのは誰の
「吉田氏、御在宅か」
外から呼びかけた声。
「おお、その声は
竜之助はくるりと起き上ります。客は新徴組の隊長芹沢鴨。
二
芹沢鴨と机竜之助とは一室で話を始めています。さほど広い家でもないから、次の間ではお浜が客をもてなす
「時に吉田氏」
芹沢の声が一段低くなって、
「昨夜のざまは、ありゃ何事じゃ」
「なんとも面目がない」
「
「聞きしにまさる島田の手腕」
ここにもまた机竜之助の吉田竜太郎が、しおれきっているので芹沢は安からず、
「このうえ島田を斬るものは貴殿のほかにない。是が非でも島田を斬らねば新徴組の面目丸つぶれじゃ」
「しかし、本来を言えば島田にはなんの
「そうでない、我々同志が敵でもあり、公儀にとっても油断のならぬ島田虎之助、ぜひとも命を取らにゃならぬ」
低く話すつもりでも高くなりがちな芹沢の
次の間で仕度を済ましたお浜は、穏やかならぬ話の様子が心配なので、そっと郁太郎の傍に
お浜はこうして次の間の話を
お浜は近ごろ竜之助が、夜の帰りも遅くなり、時には酒に酔うて帰ることが多いので、それも心配の一つ。ことにいずれも
低い声で竜之助と芹沢とが話し合っているうちに、おりおり近藤とか土方とかいう人の名が聞えます。土方歳三という人は剣術の出来る人で、もとの夫、文之丞とは往来のあった人、このごろどうかすると竜之助の口からその名前を聞く。また近藤勇という人も、八王子の天然理心流の家元へ養子になった有名な荒武者であって、これも竜之助が近ごろ
「吉田氏、貴殿は宇津木兵馬という者を御存じか」
芹沢の口から出た兵馬の名。お浜はハッとしました。
「ナニ、宇津木?」
竜之助の言葉も
「いかにも。その宇津木兵馬という者が、貴殿を仇と
「そのような覚えが無いでもない」
竜之助はさのみ驚かず。
「その宇津木兵馬に、近藤、土方らが
ありありと聞き取ったお浜は、我を忘れて
それから話はまた小声になって、何だか聞き分けられません。暫くあって、
「しからば拙者はこれでお
芹沢はこう言い捨てて帰るらしいから、お浜もそこを起きようとすると、
「その宇津木兵馬とやらはどこにいる」
立つ芹沢に問いかけたのは竜之助です。
「それは明かされぬ、それを明かしてはあったら少年が返り討ちになる。しかし、御用心御用心」
「うむ――」
竜之助は押返して問うことをしなかったと見えます。
三
「与八さん、わたしはこのお邸で死ぬか、そうでなければこのお邸を逃げ出すよりほかに道がなくなりました」
とうとう我慢がしきれずに、お松は
「逃げ出すがよかんべえ」
「
「それでは与八さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」
「お前様が逃げ出すなら
「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」
これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。
与八と、みどりとは、その晩、
「与八さん、どこへ行きましょう」
「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば
伝馬町を
「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」
お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、
「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」
昌平橋と
「いらっしゃいまし、ずいぶんお寒うございます、この分ではまだ雪も降りそうで……」
お
「みどりさん、天ぷらを食わねえか」
「与八さん、お前がよければ何でも」
「それでは天ぷらを
暫くして、
「お待ち遠さま」
「おお、あなたは
みどりのお松は我を忘れて呼びかけました。
「まあ、お前はお松ではないか」
屋台店の主婦も
「伯母さん、どうしてこんな所に……」
「お前にこんなところを見られて、わたしは恥かしい」
きまりの悪そうなのも道理、この屋台店の主婦というのが、本郷の山岡屋の
「伯母さん、ほんとに
「変りのないどころじゃない。それにしても、お前もまあよく無事でいてくれたねえ」
「わたしも伯母さんのところからお
「あの時はお前、わたしが
お滝も、あの時の無情な
「まあ、なんにしても珍しいところで会いました、お前、お急ぎでなければ、わたしの家へ来てくれないか、ついそこの佐久間町にいるんだから」
こう言われてみると、是非善悪にかかわらず、この場合お松にとっては渡りに船です。
「わたしも伯母さんに御相談していただきたいことがありますから、お
「そうでしたかえ、今晩は」
さきほどから二人の有様をながめて
この伯母さんに引張られて、二人は佐久間町の裏へ来て見ると、八軒長屋の、こっちから三つ目の家。伯母は
「心配をおしでない、これからお前の身の上はわたしが引受けるから」
と伯母が言ったが、これはあまり押しの
幸い、一軒置いた隣が明いていたから、与八とお松とはそれを借りて隠れるということに、その夜のうちに相談がきまりました。
その翌朝になると、お松の頭が重くて熱がある。つとめて起きてみたけれども、ついに堪えられないで、どっと寝込んでしまいました。
お滝もやって来て心配そうな
「それでは
与八はお松に夜具を厚く被せてやって、風邪薬を買いに出かけると、それと行違いのようにやって来たのが伯母のお滝です。
「お松、気分はいいかい、さっき持たしてよこした
「はい、どうも有難うございました」
「与八さんはどこへ行ったの」
「買物に行きました」
「そうかい――」
お滝は
「おお、なかなか熱がありますね、大切にしなくては……それからねお松」
お滝は言いにくそうに、
「お前、なにかね、お
「はい」
「お持ちならばね、ほんとに申しにくいけれどね、商売の
「エエようござんすとも」
お松は快く承知して、
「済みませんけれども伯母さん、その手文庫を……その中に包みがありますから封を切って、お
「そうかい、わたしが手をつけていいかい、済まないねえ、それでは調べてみますよ」
お松が神尾の邸を逃げるとき持って出た自分の手文庫、お滝はその
「まあ、大へん綺麗なものがあるね、これは短刀かえ、
お滝がお世辞たらたらで出て行くと、まもなく与八が帰って来ました。
お松の病気はその翌日になっても
「どうだいお松、ちっとはいいかい。医者に
お滝は手ぶり口ぶり忙がしく与八に説いて聞かせる。
「その秘訣というのはね、貧乏人から参りましたが急病で
「そんなに貧乏が好きなのかい」
「貧乏が好きというわけじゃないだろうけれど、そこが変人なんだよ。それから、いつでも酔っぱらっている先生だからそのつもりで」
お滝は
「お前ほんとに済みませんがね、今月の
お松の持っていた金は、もうこの気味の悪い伯母に見込まれてしまったのです。
四
どこへ行くのか知らん、机竜之助は七ツさがりの
「わーっ」
いきなり横合いから飛び出して竜之助の前にガバと倒れたものがあります。竜之助も驚いて見ると、
「やあ失礼失礼」
起きようとするが腰に力が入らないおかしさ。やっとのことで起きて
「お起きなさい」
竜之助は
「失礼失礼」
骨なしのようにグデングデンで、面をかぶったままでお辞儀をするのが、いかにもおかしい。それと見た近所の子供連中がワヤワヤと寄って来て、
「やあ、道庵先生がひょっとこ面をかぶってらあ、おかしいなあ」
「先生、その面をあたいにおくれよう」
「おじさん、あたいにおくれよう」
医者の
「
「それではおじさん、じゃんけんをして勝ったものにおくれよう」
「じゃんけんでも何でもやれやれ、わーっ」
また竜之助の前へ倒れかかろうとする、竜之助はまた支える。
「やあ、失礼失礼」
往来の人は歩みを止めて集まって来る。竜之助は
「これ子供たちや、このおじさんはどこの人じゃ」
「これは道庵先生というて、長者町のお医者さんじゃ」
「このように酔うては難儀じゃ、誰か邸まで
「ナニおじさん、大丈夫だよ、この先生はいつでも
「やーい子供、踊れ踊れ、踊りの上手な奴にこの面こをやるぞ、そら、こんなふうに踊れ」
面をかぶったまま
竜之助が新黒門を広小路の方へ廻ろうとする時分に、すれちがった人があります。竜之助の方では気がつかなかったが、先方ではふいと歩みをとどめて、二三間行き過ぎた竜之助の姿を見送っている。それは宇津木兵馬でした。
兵馬は竜之助に会って、「ハテ見たような人」と思います。しかし急に思い出せなかったので、
「あ、それそれ、いつぞや島田先生の道場で試合をした人」
とようやく考えついて、
「たしか江川太郎左衛門配下というたが……妙な剣術ぶりであった」
あの時の試合、例の竜之助が音無しの構えの不思議であったことを兵馬は思い返して、
「先の勝ちで
兵馬は胸にこう考えながら、
「あのくらいに出来る人なれば相当に名ある者に相違あるまい。はて、あの時は何と名乗った……おおそれ、吉田なにがしというたが……吉田なにがしと申す剣客はあまり聞かぬ……
兵馬はうつらうつらと歩みつつ、
「見受けるところ、浪人のようにもあるし……」
こう考えてきて、何やら穏やかならぬ雲行きが兵馬の胸の中に起り出し、
「待て――机竜之助が得意の手に音無しの構えというのがあると――あの吉田なにがしの手は――あれは音無しの構えではあるまいかしら。音無し、むむ、そう思えばいよいよ思い当る。あの年頃は三十三四、竜之助、竜之助……あれが兄のかたき机竜之助ではあるまいか」
兵馬の心を
「わーッ」
また横合いから飛び出して兵馬の前に倒れたのは、かの道庵先生です。
「やあ失礼失礼」
そのあとをつづいた子供らが、
「おじさん、
いい年をした男が、ひょっとこの面をかぶって来たから兵馬も笑い出して、それを避ける
「やあ、先生が倒れやがった、起せ起せ」
子供らは寄ってたかって道庵を起し、
「お家へ
この騒ぎで宇津木兵馬は机竜之助の姿を見失って、その日はそれで帰りました。
五
お松の病気も大分よくなりました。よくなったとは言うものの、半月あまりも寝たことですから、その間の与八の骨折りというものは大したものでありました。
伯母のお滝は例の如く
お松は
「お前、ようやく癒ってよかったねえ」
「はい、おかげさまで」
「これというのも、わたしが湯島の天神様へ
「はい」
「それから今日はお前、天神様の
「はい」
「近い所だけれども、まだ無理をするといけないから
「いいえ駕籠には及びません、歩いて参りませぬと信心になりますまいから」
「そんなことがあるものかね、歩いて行こうと駕籠で行こうと信心ごころさえ
お滝の言葉が改まる時は、そのあとに来るのはいつも金のことですからお松はヒヤリとすると、
「道庵先生への
「伯母さま、実を申し上げれば、今のところ……」
「もうお金は無いのかい」
「ええ……」
「わたしの方でも、お前にだいぶ借金がありますが、今々というわけにもいかず、困ったねえ」
困った面をして、
「道庵先生はああいう変人だから、少しぐらい延びたって何とも思いなさりゃしますまいが、それならそのように、なおさら早くお礼をしないと。それにお前だって、これから身を定めるには
「
「あのね、あんまり立入ったことだけれども、お前なにか
「それは、どうも」
「あれは何だね、お前あの手文庫の中にあったもの、錦の袋に包んだ短刀のようなもの、あれはお金になりそうだね」
お滝が早くも眼をつけたのは、ずっと昔、お松が
お松は返事に困って、この伯母という人の
お滝がその品を道具屋に見せてごらんとすすめて帰ったあとで、お松は思い出したように、手文庫を調べて錦の袋に入れた短刀を取り出して
暫らく手入れをしなかったが名刀の光は曇らず、それを見ていると過ぎにし年の大菩薩峠の悲劇がありありと思い出されるのです。こうして短刀を眺めながら、ひとりつくづく思案に
「これお
後ろから飛びついてお松の両手を抱きすくめたのは、薬取りから帰った与八です。
「飛んでもねえこんだ、
「与八さん、勘違いをしてはいけません、ただこうしてながめていたばかりよ」
お松は、与八の驚き方があまりに
「危ねえ、こりゃ
与八は鞘を拾って納めて包み直すと、お松は微笑して、
「ああ、それではお前さんに預けておきましょう……それよりは、いっそのこと」
お松はこの時ふと、売ってしまおうかという気になって、
「そんなものを持っていると危ないから、いっそ売り払ってしまいましょう、与八さん、御苦労ですが刀屋さんに見せて来てちょうだい」
「お前様これをお売りなさるのか」
「売ってしまいましょう」
「それでも大切の品だんべえ」
「大切といえば大切だけれど、与八さん、さしあたりそれを売って、お医者様のお礼やら、これからの
「そうか」
与八はお松から頼まれて、御成街道の小田原屋という武具刀剣商の店へ行ってその短刀を見せると、物言わず三十両に
与八はその金を
「みどりさん、いま帰った」
「おお与八さん、御苦労でした」
見れば、みどりは、いつのまにか髪を島田に取り上げて、
「思いのほかいい
「まあ、あの短刀がそんなに」
「あんな短けえもので三十両もするだから、よっぽどいい品に違えねえ」
「それでは与八さん、御苦労ついでに道庵先生まで行ってお礼をして来て下さいな」
「ああいいとも」
「
「そうかい、お前様が仕度をして下すったかい」
二人は
「さあ与八さん、お出しなさい」
「どうも済みましねえ」
ここで旅費も出来たから、二人はかねての望み通り沢井へ行って、与八はもとの水車番、お松はその傍で
「そんならお医者様へお礼に行って来るだ」
六
「何だって、薬礼を持って来たって。薬礼を持って来たらそこへ置いて行きな」
与八が訪ねて行った時、道庵先生は八畳の間に酔い倒れて、
「先生、いくら上げたらいいだ」
「いくら? 十八
「十八文?」
与八も変な
「半月もお世話になって十八文じゃ、あんまり安い」
「生意気なことを言うな、安かろうと高かろうとこっちの
「先生、そんなことを言わねえで、本当の値段を言っておくんなさいまし」
「だから十八文でいいのだ」
「先生酔っぱらっていなさるからいけねえ」
「酔っぱらったって商売に
「それじゃ済まねえ」
「てめえは馬鹿だな、本人の俺が十八文でいいというのだから、十八文おいて帰ったらいいじゃねえか」
「それは先生が馬鹿だ、半月も
「馬鹿野郎、手前は十八文おいて帰ればいいのだ」
「でもね先生、そんなに怒らずにお聞きなすって下さいよ、わしが家へ帰って、道庵先生に薬礼をいくら差上げて来たと聞かれた時にね、十八文おいて来ましたとは言えなかんべえ」
「うるさい野郎だな、十八文おいてさっさと帰れ!」
「それじゃ先生、一両おいて行くべえ」
「何だ一両だ? てめえ一両なんという金をどこから盗んで来た!」
「盗んで来たあと? この野郎、先生野郎」
与八はムキになって怒り出しました。
「
「盗んだに違えねえ」
道庵先生が首を振ると、与八はいよいよ怒り出し、
「ほかのこととは違うだんべえ、物を盗んだと言われちゃあ
「ナニ、盗んだに違えねえ」
「なんだと、道庵先生の野郎」
与八は飛びついて道庵の
「この馬鹿野郎、わしに
道庵先生も与八の頭へ
与八は一時の怒りに道庵先生へ
与八はどうも仕方がないから、一両の金を紙に包んで道庵先生の頭のところに置いて、佐久間町の裏長屋へ帰って来ました。
七
与八が佐久間町の裏長屋へ帰って来て見ますと、お滝の家も自分たちのいる方も、どちらも戸が締まっていました。
「お松さん、お松さん」
呼んでみたけれど更に返事がありません。お滝の家の方へ来て、
「伯母さん、伯母さん」
これも中ではことりとも音がしません。
「もう寝てしまったんべえか、伯母さん、伯母さん」
さっぱり返事がない。
「もし、お隣のおかみさん」
「どなた」
「隣の与八でござんす」
「おお与八さんかえ、何か忘れ物でもおありかえ」
「おかみさん、わしらが家の方はからっぽだが、どこへか出かけると言いましたかい」
「まあ与八さん、お前、知らないの」
「何だね」
「何だねじゃないよ、さっき伯母さんが、ちゃんと近所へ御挨拶をして
「移転を?」
「そうさ、その前にそら、お前さんと一緒に来たお松さんという可愛らしい
「ちっとも知らねえ、
与八は
「まあそうなの、わたしはまたお前さんが先に取片づけに行っておいでのことと思ったよ」
「そしておかみさん、どこへ引越すと言ってました」
「あのね、四谷の方とか言ってましたよ、また近いうちに御挨拶に出ますって」
「俺に黙って引越すなんて……」
与八は
「四谷のどこへ引越したんべえ」
声を揚げて泣き出さんばかりに見えましたが、何を思い出したか
与八が御成街道を真直ぐに走り出して行くと、
「そこへ行くのは与八ではないか、与八どの」
「誰だえ」
これは今、土方歳三を、柳原の金子という、過ぐる日新徴組が高橋と清川とを
「ああ兵馬さん」
せわしい中で立ち止まった与八。
八
竜之助は夜中になると、きっと
お浜はいま夫の魘される声に夢を破られて、夫の
それでもあまりにその音が
「しっ!」
それで鼠の音はハタと止まるには止まったが、やがてバタバタと飛び出した大鼠、お浜の直ぐ
「あれ!」
お浜は
「あれあれ」
お浜は寝床からはね起きます。その
「おお、坊や、坊や」
お浜は急いで郁太郎を抱き起す。鼠はその間に
「おお、よいよい、鼠は行ってしまった」
お浜は抱きすかして乳房を含めようとすると、その乳房の背に
「あなた、お起きあそばせ、大変でございます」
お浜は片手には泣き叫ぶ郁太郎を
「何事だ」
眼をさました竜之助。郁太郎の泣き声にも驚かされたが、自分の
「よく見て下さいまし、坊やが鼠に
「ナニ、鼠に?」
「はい、大きな鼠があの仏壇から出て、この中に
「どれどれ」
竜之助は起き上って、燈心を掻き立てて、郁太郎の身体を調べて見ると
「咽喉を噛まれました」
お浜は狂気のように叫びます。
「大事はない、早く血を拭いて創をよく巻いてやれ」
竜之助はあり合せた
「針箱の
「
「まあ
「これか」
「水でよく
お浜は何もかも夢中で騒いでいます。ようやく水で拭き取った創のあとを洗ってやる、その間も郁太郎は苦しがって身をもがいて泣く。
「いいよ、いいよ、坊や、痛くはないよ、さあもう少し」
やっとのことで創を洗って、膏薬を
「もう泣くのではありません、坊やは強いからね」
泣き止まぬ郁太郎を膝の上に、お浜自身も半ばは泣き声です。竜之助も、さすがに心配そうに郁太郎の
「お医者様へつれて参りましょう」
「もう遅い、
「いけません、
お浜はこの真夜中に、郁太郎をつれて医者へ往こうと主張する。
「よし、そんならわしが一走り、医者を迎えに行って来る」
竜之助が医者を迎えに行ったあとでお浜は、
「にくい
鼠というやつの憎さが骨身に
郁太郎の苦しむことさえなくば、室の中も戸の外も、静まり切った
お浜は天井をまでも
「坊や、大切におし、
お浜はこう言ってホロホロしながら、じっと我が子の
「お前が
実際、郁太郎は今までよく育ったもので、肉附きはよし、
「ほんとに、思い出しても憎い畜生だ」
可愛さ余っての憎さはまた鼠の方へ廻る。
お浜は医者を待つ用意で寝衣を
「坊や、まだ痛いかえ。まあお前、そんな
お浜は力も折れて泣きました。郁太郎は身をふるわせて母にしがみつくように、その眼は
「まあ、お前はナゼそんなにお母さんを
お浜は泣きながら我が子の面を見ていたが、
「ああ
投げ出すように郁太郎を
お浜がいまさら天罰を叫ぶは遅かった。しかし、遅かれ早かれ、一度は天罰を悟ってみるのも順序であります。
我が子なればこそ、これほどのささやかな
「ああ怖い」
と言って
お浜とても、今まで
室の内、どこを見てもここを見てもみんな
夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと
ちょうど
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その
九
昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
竜之助、何心なく受取って見ると意外にも
「これは――」
やや驚いて、表を読んでみると「机竜之助殿」、裏を返せば「宇津木兵馬」。
竜之助は
「貴殿に対して遺恨あり、武道の習 にて果合 致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻 まで御越 あり度」
「うむ、竜之助は手紙をポンと投げ出して、夜具を蹴って起き直りました。
「坊やはどうじゃ」
「よく寝ておりまする」
竜之助はお浜の抱いている郁太郎の
「医者の申すには、
起きて面を洗い食事を済ましてから、
「浜、坊やをこれへお貸し」
「それでもよく眠っておりますものを」
「眠っていてもよいわ、抱いてみたい」
「今日に限ってそんなことを」
「いいからお貸し」
「せっかく寝たものを、起すとまたむずかりまする」
「いいから、これへ出せというに」
竜之助の言葉が強くなりますので、お浜は
「まあ、無事に育つがよい」
「無事に育たなくてどうするものかねえ、坊や」
「親はなくても子は育つというからな」
「両親とも立派にあるものを、
お浜はやや不足顔。竜之助は思い出したように、
「浜、わしも近々京都の方へ行こうと思う」
「京都の方へ?」
お浜は意外な
「京都へは諸国の浪人者が集まり乱暴を致す故、その警護のためにとて
「まあ、それはいつのこと」
「近いうち、或いは足もとから鳥の立つように」
「そうして、坊やとわたしは?」
「やはり、こっちに
「いいえ、それはいけませぬ」
竜之助が不意に京都へ行くと言い出したので、お浜は驚いて、力を
「それでは、もう一度考えてみよう」
こう言って竜之助は、やっとお浜を安心させて、自分は次の間へ引込んでしまいました。
大した
「あの人は、どうしてああも気が強いのかしら」
お浜は竜之助が、我が子の大病をよそに、何をしているだろうと、怨めしそうに
見れば刀を
「どこへおいでなさる」
「ちょっと
「急の御用でなければ、坊やもこんな
「急の用事じゃ、直ぐ帰る」
「早く帰って下さい、そうでないと心細いのですから」
「うむ」
出て行く竜之助の後ろ影を見送りながら、
「あの人は、情愛というものを知ってかしら」
何とはなしに、竜之助と添うてからのことが胸に浮んで来ました。
こんなふうに、お浜は人を
「ほんとうにどうしたことでしょう、あの人はあんまり情けない」
お浜は繰返し繰返し竜之助の帰りの遅いことを恨んで、
「どうして現在自分の子にまで、こんなに情愛がないのでしょう」
いったん悪縁に引かされて、お互いに切っても切れぬようになったればこそ、二人はともかくも無事にここまで暮したけれど、お浜にとっては竜之助の愛情がいつも不足に
「郁太郎はおれの子ではない」
竜之助はいつぞや
「あの人は、ほんとにこの子を、自分の子とは思うていないのかしら」
そこへ
「いま帰った」
竜之助の面の色はいつもよりも一層
「あなた、この子は誰の子でござんしょう」
その声は泣き声でありましたから、竜之助はその切れの長い目でジロリと、
「誰が子とは?」
「坊やは誰の子でしょう」
「何をいまさら」
「郁太郎はお前様の子ではありませぬ」
「何を言うのだ」
「この子は死んでしまいますのに」
「なに?」
竜之助は、お浜の例の
「
「まあ……」
お浜は
竜之助はそのまま次の室へ入って、机に向って暫らく
まもなくお浜はここへ入って来ました。
「あなた、竜之助様」
「何だ」
「お願いがござりまする」
「言ってみろ」
竜之助は書きかけた筆を置きもせず、お浜の方を見返りもせず冷やかな返事です。お浜の方も何か深い決心があるらしくて、別にくどいことも言わず、これも眼の中はやっぱり冷やかな光で満ちて、
「離縁をして下さい」
「離縁?」
竜之助はこの時、ちょっと筆を休めてお浜を見返り、
「離縁、それも面白かろう」
「ええ、面白うござんす、ずいぶんあなたとは永く面白い芝居を見ましたから」
「ここらで幕を下ろそうというのかな」
「離縁状を書いて下さい」
「誰に
「そんなら今から出て行きます」
「それもよかろう」
竜之助は、いよいよ冷淡な
「しかしここを出てどこへ行く」
「どこへ行きましょうとお
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の
「郁太郎はわたしの子ですもの」
お浜はついと立って出て行きます。
お浜は
この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、
されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに
ここに世帯を持ってから、
お浜はそれを思うと自分の
「甲州へ帰りましょう」
一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え
袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた
お浜はこの懐剣を見ると、
「死!」
この世で最も怖ろしい感情。
「生きて
これがこの瞬間に起った考えでありました。
お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに
生きる
お浜は手早く懐剣を拾い取って、盗み物を隠すように懐中へ入れてみると、胸は山のくずれるような音をして
「浜、浜はまだいるか」
これは竜之助が呼ぶ声。
「浜はおらぬか」
二度目に呼んだ時にお浜の耳に入りました。そのとき三度目の声。
「浜、浜」
竜之助の呼び声がこの時お浜にとって無茶苦茶にいやな感じを与えるのでありました。
お浜の返事がないので、竜之助は立ってこちらへ来るようでしたが、
「旅立ちのお仕度かな」
「浜、お前はどこへ行くつもりだ」
「存じません」
「まあよいわ、先刻お前から離縁の申し出があってみれば赤の他人……いや、まだ
竜之助は立ったなりで、
「おれは近いうちに宇津木兵馬を殺すぞよ」
「兵馬を殺す?」
お浜は膝を向け直す。
「うむ、兵馬を斬るか、兵馬に斬られるか……」
「それは――」
「まさか兵馬が小腕に斬られようとも思わぬ、毒を食わば皿までということがある、宇津木兄弟を同じ
竜之助の蒼白い面に凄い微笑が
お浜は
「お殺しなさい――」
十
竜之助は自分で酒を飲んで早く寝込んでしまいました。
お浜は、また暫らくの間はぼんやりと坐っているばかり、郁太郎は幸いにすやすやと眠っています。
「兵馬を殺す」
と言った竜之助の一言、それがお浜の胸を刺す。
竜之助も眠りに就いたようで、例の
お浜は思い出したように立ち上って次の間へ行ってみました。
竜之助の机の上には、さきほど書いていたらしい手紙が三本。お浜はそっとその一つを手に取って見ると、それは宇津木兵馬からの
「武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで……」
お浜は読み去って宇津木兵馬と記された署名のところに来て、はじめて万事の「うーん」
またしても
「兵馬どのが
お浜の手がまたも懐剣へさわる。
お浜は自分が死ぬ前に――竜之助を殺す――罪の二人が
果し合いを明朝に控えて、ともかくも眠っていられるだけの
衰えたりといえども剣を取っては人を眼中に置かぬ竜之助、僅かの間に一寝入りして気力を養っておこうと横になったけれども、この竜之助の気は疲れています。
夜な夜な
それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が

「やッ何者! 誰だ!」
夢を破られた竜之助、パッと
「やあ、浜ではないか」
竜之助の上から乗りかかって、彼の首に短刀を当てたのは、現在の自分の妻の
「何をする、気ちがいめ」
竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと
蹴倒されたお浜は、むっくりと起き直るや、前に用意して明けておいたと見える表の戸から外の闇へ
「憎い女!」
お浜の倒した行燈の火はみるみる障子に移ります。これを踏み消しておいて竜之助、刀を取って同じく表の闇へ飛び下りる。
家の中も真の闇。その中では郁太郎が
お浜はどこへ行った。
闇とは言いながら、もう夜明けに間もない時ですから東の空は
増上寺三門の松林の前まで追いかけて、
「待て!」
お浜の
「放して下さい」
「浜、おのれは兵馬に裏切りをしたな」
「早く殺して下さい――」
殺したところで
「竜之助様、わたしを殺して、どうぞお前も殺されて下さい」
「わたしもお前様におとなしく殺されて上げますから、お前様もどうぞ
「人殺し――」
竜之助はついにお浜を殺してしまいました。
十一
「あの声は――」
今の絶叫を
「人殺しと聞えた」
「たしかにあの松原の中」
兵馬は松原の
「見届けて来ますべえか」
「あ
「はて……」
提灯を差しつけると、そこの松の木の根に人がある。
「えッ、人が――」
それは女、胸のあたりからベットリと土にまで流れた血。
「皆さん、女が殺されている」
大事の前、それでも人の一命と聞いて見過ごすわけにはいかない。
「ああ、
「それ、血が
「傷はどうじゃ」
「胸を一突き」
「もっと提灯を近く」
「ああかわいそうに。乳の下を突かれたのかね」
提灯を突きつけてオドオドしていた与八は、
「おや、なんだか見たことのあるような女衆だ」
与八は死人の
「もし……この女衆は……お浜さま……」
不安の色で兵馬を見上げて、
「兵馬様……お前様もよくこの女衆の面を見て下さいまし、気のせいか、文之丞様の奥様に似てござる」
「ナニ、姉上に?」
兵馬は附添の片柳と水島とを押し分けて、
「姿は変れどよう似てござる、念のため与八どの、この女の持物はないか、調べてくりゃれ」
「ここに短い刀が……書付が……あれ、こっちにも」
与八が拾って兵馬に手渡したのは、意外にも自分の手から机竜之助に送った果し状でありました。
次に受取った一通、
「なに、宇津木兵馬殿へ、はまより?」
これはお浜の手ずから書いたもので、そして兵馬に宛てた手紙。
机竜之助は果し合いの場へ出て来ませんでした。
果し状をつけられながら逃げるというはこの上もなき恥辱。ことに人を殺せば血を見るはずの竜之助がこの場合に、逃げ去るとは甚だ
しかしながら
「兵馬を斬つて後、拙者は予 ての手筈 の通り京都へ立退き申すべく……」
というこの手紙を見れば、竜之助が今日の果し合いに立合う覚悟は
十二
「どうも永らく御無沙汰を致しました」
妻恋坂のお絹の宅へやって来たのは珍らしくも裏宿七兵衛。
「これは珍らしい七兵衛さん、どうしたかと心配していました」
「つい百姓の方が忙がしいもんでございますから。それに、骨休めを兼ねてお伊勢参りをして来たものでございますから。これはわざっとお
「それはお気の毒な。お前さん方は、ほんとに
「へえ、どう致しまして」
「
お絹にこう言われて七兵衛は
「ちっとばかり内職をやっているものでございますから」
「内職を? 何か
「へえ、まあそんな事で」
「そう、そんなら今度ついでの時に、
「よろしゅうございます、持って参りましょう。時にお師匠様」
七兵衛は話向きを改めて、
「お松の方はどうでございましょう」
「ああ、その事、その事。それはわたしの方からお前さんに尋ねたい。
「へえ、お松がどうぞ致しましたか」
「あの子はお前、
「駈落を?」
「それも御主人の若様と逃げたとか、
「いったい、誰と逃げました」
「誰といってお前、山出しの馬鹿と逃げたんだもの、話にも何もなりやしない」
「馬鹿と……」
「お前さんには最初から話さないとわからないが、
「四谷の神尾様というのは、あの伝馬町の神尾主膳様のことでございますか」
「そうです。その神尾様、三千石のお旗本なんだから、首尾よく御奉公して殿様のお気に入ればどんなに出世するかわからないのに、人もあろうに風呂番をしていた与太郎という馬鹿と
「それほど馬鹿な女とは思いませんでしたが、いったい、どっちの方へ逃げましたか、手がかりはございませんか」
「いっこう知れません、いろいろ
「そういうわけならば、ひとつ私も探してみましょう。あのお松とても
十三
七兵衛が最初この家へ入った時から見え隠れについて来て、今まで
七兵衛は妻恋坂から本郷元町の山岡屋の前まで来る。山岡屋は戸が締まって売家の札が斜めに貼られてある。
暫らく立って見ていると、
「もし旦那」
後ろから呼びかけたのは紙屑買い。
「私ですかえ」
「へえ、左様で」
「何ぞ御用かえ」
「へえ、別に用というわけでもございませんが、旦那様はさいぜんからこの店の模様をごらんになっておりまするが……」
紙屑買いは手拭を畳んで
「山岡屋のことで何かお聞きになりたいならば、私がよく知っておりますから」
妙な
「それは幸い。山岡屋さんは今どこへお引越しになりました」
「それには長いお話があります。旦那様どちらへおいででございますか、なんなら歩きながらお話を致しましょう」
「私は新宿の方へ行きますが」
「それなら私も四谷の方へ参りますから、御一緒にお
七兵衛は気味の悪い紙屑買いと思いながらも、まあ何を言い出すか聞くだけ聞いてやろうと、道づれになって歩き出すと、
「今から四年ほど前の夏の盛りのことでございました。或る晩のこと、あの山岡屋へ泥棒が入りましてな」
「ふーむ」
「ちょうど旦那は留守でございました。ところがお
「なるほど」
「その泥棒というのが、ただの
「なるほど」
「とても
「ふむ」
「それでお前さん、朝になってからの騒ぎというものは
「なるほど」
「それが
「なるほど」
「そこへ御主人が帰って来た」
「ふむ」
「さあ、家は
「離縁になったのかな」
「ところが騒ぎの
「はあ――て」
「それからお内儀さんというものが
「ふむ」
「そのまた買った人がどうしても
「それはまあ、なんにしてもお気の毒……そのお内儀さんというのは今どうしていますな」
「さあ、そいつが聞きもので……しかし私ばかりこうベラベラ
「お前さんはまた何だえ」
二人は
「実は旦那」
紙屑買いの言葉が妙に改まって、
「私共の面にはお見覚えがござんすまいが、私共の方には旦那のお面にようく見覚えがござります」
「何だ、私の面に見覚えとは」
「へへ、何を隠しましょう、と大きく出るほどの者ではございませんが、実はあのころ山岡屋に
「はあ、山岡屋の番頭さんか、それはお
「ちょうど、旦那があのお松という子をつれて
「なるほど」
「なるほどだけでは張合いがございません。私もあのドサクサまぎれに店の金を少々持逃げ致しまして、ちっとばかり悪いことをやり、今ではこんな姿に落ちぶれました。旦那をお見かけ申したのは、ほかじゃあございません……」
「何だい」
「もとはと申せば、みんなお前様の
「お前さんも相当の
七兵衛はジロリと紙屑買いの面を見ると、紙屑買いは
「その代り旦那、お前様がつれておいでなすったあのお松という女の子、あの子の
「うむ、そうか、ともかくお前さんにこれを上げるから喋れるだけ喋ってごらん」
七兵衛は懐中から取り出した
「どうもこりゃ恐れ入りやした。それでは旦那、これから私がその娘さんのいるところへ御案内をしてしまいましょう」
それで二人が
「おい大将」
横の方から
「やあ――」
「何がやあだ」
「旦那は足が早い」
「お前さんも早い」
「
「足の痛いのは
「また痛み出してきました」
「そんなら今のように駈け出してごらん」
「もう
「いったい、わしをどこへつれて行きなさる」
「山岡屋のお内儀さんのところへ」
「山岡屋のおかみさんはどこにおいでなさる」
「新宿に」
「それじゃあ方角が違わあ」
「また出直しましょう」
「今度は屑屋さん先へおいで」
二人はまた歩み出すと、西の空がポーッと赤くなります。
「あれ、あんなに赤く」
「火事だ」
「新宿の方だね」
「でも、風がないから大したことはありますまい」
言っているうちに火の赤るみはようやく大きくなる。
「たしかに新宿の方角だ、早く行こう」
「足が痛うございます」
七兵衛は紙屑買いの手を取って
「旦那、そう引張っちゃいけません、お前様の足は早過ぎる」
「グズグズ言わずに早く歩きなさい」
「まあ待って下さい。それじゃあ旦那、私は白状しちまいます。お前様のお尋ねなさるお松さんという娘は、
「ナニ、女郎に? どこへ」
「それがお前様……」
「早く言え」
七兵衛は紙屑買いの手を
「それが遠くで」
「どこだ」
「京都へ売られて行ってます。痛い!」
紙屑買いの自白するところによると、お滝はあの晩、与八を出し抜いてお松を
「さあ、お前の家まで行こう」
「旦那、もうどうか御免なすって」
「お滝という女はお前の家にいるんだろう」
「いいえ、どう致しまして」
「お滝とお前と
「ナニ、そんなことはございません」
「ともかく急げ」
ちょうどこの時、町の角に自身番があったのを紙屑買いが見かけて、突然に大きな声、
「泥棒!」
「ナニ!」
七兵衛が
「旦那方、こいつは泥棒でござります、泥棒、泥棒」
自身番に詰めていたもの、今の火事騒ぎで通りかかったもの、こちらへ飛んで来るから七兵衛は、紙屑買いを突き放して
お松がはたして京都へ売られたものならば、七兵衛の足は直ぐに京都へ飛ぶであろう、七兵衛がその気で歩き出した時は、朝江戸を出て、その夜は京都の土を踏むことであろう。
それとは関係なく、机竜之助が落ち行く先もまた京都であるとすれば、宇津木兵馬の追って行くところもまた京都でなければならぬ。
ことに芹沢、近藤、土方ら、新徴組が数を尽して向うところも京都警護の役目である。
十四
背には
与八の身になっても意外のことばかりで、お松をつれてこの街道を帰るつもりであったのが、一夜のうちにこんなことに変ってしまったのです。
「おお、与八じゃねえか」
「ああ
畑の中で仕事をしている知合いの百姓。
「江戸から帰ったのかい」
「うん」
「
「儲からねえ」
「そりゃどこの子だい、お前の子じゃあるめえ」
「俺の子じゃあねえよ」
「拾いっ子かい」
「拾いっ子だよ」
「ああお
与八は情けない面をして包みに眼を落しながら、
「こりゃお土産じゃねえよ」
この包みにはお浜の遺髪が入っているのです。
「太郎作さん、
「ああ大丈夫だよ」
「水で
「うん、そんなことはねえ」
「さよなら」
与八はスタスタと出かけます。
「
与八はその昔、自分が拾われたというところへ来て一休み。
―――――――――――――
ちちははの めくみもふかき こかはてら
ほとけのちかひ たのもしきかな
―――――――――――――ほとけのちかひ たのもしきかな
十五
東海道、関
江戸へ百六里二丁
京へ十九里半
伊勢の国江戸へ百六里二丁
京へ十九里半
「許せ」
上りの客はこの
「おいでなさいまし」
「
「はい」
「汲みたての水を一杯
「はいはい、汲みたての水、よろしゅうございます、うちの井戸は自慢ものの
老爺が水を汲みに裏へ廻る時、
机竜之助はともかくも、京都をめざしてここまで落ちて来たものです。
老爺が
「お茶をいかがでございますな」
老爺が念を押してみると竜之助は首を左右に振る、火鉢をすすめても煙草をふかす様子もないし、
「
「はいはい」
「峠を三度上り下りしても大丈夫、
老人の
「それはそうとお武家様、今から草鞋を
竜之助の穿き換える
竜之助はその不審に答えなかったから、老爺は
「降らねばいいに」
なるほど、今日は朝から陰気臭い
「今夜はこの宿でお泊りが
老爺は忠告とも独言ともつかないようなことを言って、また坐り込んで火縄にかかる。
草鞋を穿き終った竜之助は、笠越しに空を見上げているところへ、
「さあ
威勢よく
「お浜!」
竜之助は僅かにその名を歯の外には
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
竜之助は眼をつぶってその姿を見まいとした、耳を抑えてその声を聞くまいとした。あれもこれも生き写し。
女は駕籠から出て、
「駕籠屋さん、どうも御苦労さま」
と言いながら帯の間を探ってみて、ハッと面の色を変え、
「まあどうしましょう、ちょっと駕籠の中を」
「駕籠屋さん、済みませんけれど」
二人の駕籠屋は突立ったなり、左右から女の様子をながめていたが、
「何だえ御新造」
「連れの人がほどなくこれへ見えますから、少しのあいだ待っていて下さいな」
「待っていろとおっしゃるのは?」
「たしかに持っていたはずの
「何だ、紙入がねえと?」
女の面をジロジロと見て、
「そいつは大変だ、
「うん、そうだ」
「それじゃあ、もういちばん駕籠に乗っておもれえ申して、お前様に頼まれたところからここへ来るまでの道を、もう一ぺんようく見きわめた上、
「
「ああもし、それほどのものではありませぬ、ホンの僅かばかりですから……どうも困りましたねえ」
「お前さんも困るだろうが、こっちも商売の
手を取って無理にも駕籠へ押し込もうとするから、女は
「それでは
「これを取っておいて下さい」
「そんな物は
黒坂は平打の簪をグッとひったくって、
「さあ、もう一ぺん駕籠に乗り直しておくんなさいまし」
「駕丁さん、駕丁さん」
火縄の老爺は見兼ねて膝を
「まあまあ」
割って出たけれども、さしあたり仲裁の言葉に
「いいかげんにするがいいやな」
「何がいいかげんだい、
「
「爺さん、言いがかりというのはどっちのことだ、引込んでいな」
「あれ、どうしましょう」
「よ、もう一ぺん乗り直しておくんなさいまし」
女の腕を押えて、片手は帯のところへかけて押せば、よろよろと駕籠の
「あれ、
こうなると机竜之助、たとえ血も涙も
「
黒坂が振返って見ると、今まで気がつかなかった旅の
「何ぞ御用ですか」
「駕籠賃は拙者が立換えるによってこれへ出ろ」
「へえ」
連れというのはこの武士のことであろうかと、黒坂はそう思って竜之助の
「ナニ、この
敷居の上へ腰を
「いくらになる」
「へえ、亀山から一里半の
「よろしい」
竜之助は
「有難うございます」
その小銭はまだ手にだも触れないで、女の方を流し目に見て、
「御新造、
女もまたこの時、竜之助のあることを初めて知って、いかにも気の毒そうに、
「そんな無理なことを言うものではありませぬ」
「無理とはどっちの言うことだ御新造、いったいお前様は亀山のどこからおいでなされた、お前様の駕籠に乗り方があんまりあわただしいから、ずいぶん酒手を貰う筋があると
「まあ、どうしましょう」
女はわーっと泣き出すと、竜之助はすっくと立って物も言わずに黒坂の
「あ痛ッ」
黒坂は何としたか一度ひっくり返って、その次に居直るかと思えばそうでもなく、雲を霞と逃げて行きます。
黒坂の逃げたのは、竜之助を巡廻の役人とでも思ったのか、それとも
「なんともお礼の申上げ様がござりませぬ」
女は乱れた
「お
「いいえ、別段に怪我は致しませねど……あなた様がおいで下さらねば、どのようになりますることやら」
「悪い
竜之助は再び縁台に腰を下ろす。礼を言う女の
「おおお
こう言いながらこの場へ駈け込むようにしたのは、旅の姿はしているがつやつやしい
「
女は男の姿を見かけるとオロオロと泣きかけたので、
「お前は泣いている、まあ、どうしたものじゃいな」
男は近寄って女の背を
「悪い駕籠屋に難題をかけられて危ない目に遭うところを、これにおいでのお武家様に助けていただきました」
「おお悪い駕籠屋に……わしもそれを心配していた……これはまあ、いずれのお方様やら、御親切に」
若い男は竜之助の方に向き直り、
この若い男の語るところによれば、男は京都の者で女は亀山、二人は親戚の間柄で、一緒に伊勢参宮をするとて、この宿で待ち合わせる約束であったとのこと。
竜之助は、二人がこもごも申し述べるお礼の言葉を聞き流して、
「おのおの方は早くここをお引取りなさい、また悪者が立帰ると事が
「左様ならば」
男は女を
「おお、
十六
坂の下へ着いた時分には、坂も曇れば
この雨が峠へかかれば雪になる。雨になり雪にならずとも夜になるにはきまっている。鬼の
「雨か」
竜之助が立ち止まって天を仰いだ時は、鈴鹿の山も
身はいつか鈴鹿明神の鳥居の前から遠からぬところに立っていたのであります。
「ああ雨か」
この雨は、竜之助が坂の下の宿に入る時分から降り出した雨です。いま見れば
「あの客人はどこへ行かんすやら」
大竹小竹の

「雨では山越しも困る」
鈴鹿明神の森の中を見込むと、鳥居の右へ向っては峠の山道、鈴鹿御前の社と
身に火のついたものは井戸の中へも飛び込む。竜之助は心頭に燃えさかる火を消さんがために、わざと
荷物を枕にしてみたが眠れない。
お浜によう似た女のことが、どうも眼先にちらついてならぬ。若い夫婦が二見ヶ浦のあたりを行く、それがお浜と自分のようだ、おお、郁太郎もおるわい。
とにもかくにも、お浜は情のある女であった。不足を
今となって
外では雨にまじる風の音、
「はて、人の鼾がするようじゃ」
竜之助は小提灯の光を揚げて見ると、四隅のいずれにも鼾の
鈴鹿山、浮世 をよそに振りすてて
いかになり行く我身 なるらん
これはこれいかになり行く
十七
「お前にそう言われると、わしはどのようにしてよいやら」
床の柱に
「どうと言うて
「それが成るくらいなら……わしはこうしてここまで来はせぬわいな」
「そんなら、どうしようと言うの」
「それはお前の心を聞いての上」
「わたしの心はいま言うた通り」
「では、わしに京都へ帰れと言うの」
「それがおたがいの
「やと言うて、わしはもう京都へは帰られぬ」
「そんな
「いやいやお前は何も知らぬ、わしが今日の身の上を知らぬ」
「今日の身の上というて、お前はやはり亀岡屋の跡を取る安楽な身分ではないか」
「それが違います、今の亀岡屋はお前の思うているような亀岡屋ではありやせぬ、わしの家は先月の十六日の夜に盗賊が入って……」
「あの、盗賊が?」
「軍用金じゃというて家の金銀は申すに及ばず、公儀よりお預かりの大切な品までもみんな奪って行きました」
「それは、ついぞ初めて聞きました」
「それに、わしが前からの身持ち、多分の使い込みが一時に現われて、ほんにもう立つ瀬がない」
「そんなこととは少しも知りませんでした」
「亀岡屋は丸つぶれ……父母へなんともお気の毒、それに
「お雪さんが……」
「あ、島原へ身を売ってしまったわい」
男はホロホロと涙をこぼします。
「まあ、お雪さんが島原へ……」
女は驚いて、
「も一度くわしく話して下さい、お雪さまはもう勤めにお出なされたか、島原は何という家で、それはお母様も御承知のことか」
「このうえ尋ねてもらうまい……ともかくそれで、わしが京へ帰れぬわけを察してたも」
男は腕を深く組んで、しゃくり上げているようです。
竜之助とは火縄の茶屋で別れて、この若い男女は参宮に行くでもないし、地蔵堂に近い宿屋の離れ座敷に、こうして
「どうしましょうねえ」
今までなだめ気味であった女の方が、事情を聞いてから、いっそう力を落したようです。
「せめて妹の身を救うてやりたいが」
暫くたって男の声。外では雨がじめじめ降って、夕べを告げ渡る宝蔵寺の鐘の音に、たったいま女中の
「日が暮れました、今晩は帰らねば」
「帰る?」
男は
「わしを一人置いてお前は帰るのか」
「悪く取ってはいけませぬ、わたしはもう前のような身では……」
「はあ、それではかねて
「そんなことはないが、
「もう日も暮れたに、一里半の道を……またさいぜんのような悪者が出たら」
「と言うて、帰らねばわたしの身が立たず。駕籠は宿に頼んで
「それでは
「どうぞ、そうして下さい、その代り明朝は」
男は返事をしない、女は済まないような気分で立ち上りました。
女の亀山へ帰るというのを、男は涙を隠して廊下まで見送り、引返して、がったりと倒れるように、
「ああ、豊さんまでが……」
と言って、またハラハラ。
亀山へ帰ると言うて出たお豊は、しばらくするとなぜか戻って来ました。廊下を忍び足に、もとの室のところまで来ると、障子の外に立って中の
「これまあ、真さん、お前は――」
障子押しあけ、飛びついた男の手には
「こんなこともあろうかと、胸が騒いでならぬ故、立戻って来ましたわいな、さあ放して」
「豊さん……どうでもわしは死なねば……」
「そんな気の弱いことがありますものか、
女は男の手から脇差をもぎ取って、
「いまお前が死んだら、
お豊は真三郎と一夜を語り明かし、どう相談が