一
よくはわからなかったが、年はたしか二十三から七までの間、あまり目立たないつくりで、伏目に歩みを運ぶ
「あれかよ、あれかよ」
「あれだ、あれだ」
碁将棋を打つ閑人以上の閑人は、それを見物しているやつであります。
「
「惜しいものだね――」
「全く、あのままこの山の中に埋めておくは惜しいものでございますなあ」
「全く罪ですな、およそ世の中にあのくらい罪なものはございませんな」
ちょっと
「
眼鏡の隠居は慨歎する。
「でもね――女に
藍玉屋の息子のねむそうな声が一座を笑わせる。
ここに問題となった女は、机竜之助が
一人は死に、一人は残る。そうしていま女は
二
助けて慈悲にならぬのは心中の
一方を無事に死なしておいて、一方を助けて生かしておくのは、蛇の
不幸にして、お豊はあれから息を吹き返した、真三郎は永久に帰らない、死んだ真三郎は
これを以て見れば、大津の宿で机竜之助が、
息を吹き返して、伯父に当るこの三輪の町の薬屋源太郎の
お豊は
女というものは、どこへ隠れても人の眼と耳を引き寄せる。お豊が来て二三日たたないうちに、夜な夜な薬屋の裏手の竹垣には大きな穴がいくつもあいた。ここへ来てから、もう七十五日は過ぎたのに、お豊の
かの藍玉屋の金蔵の如きは、
事にかこつけては薬屋へ行って、夫婦の
時は夏五月、日盛りは過ぎたが、
「少々ものを尋ねとうござるが……」
一方は将棋に夢中で、一方は路地口に
「植田
「ナニ、植田様の御陣屋――」
金蔵はやっと、店先に立ってものをたずねている旅の人に眼をうつした。この暑いのにまだ
女を見て総立ちになった閑人どもは、このたびは一人として見向きもしない。
問いかけられた当の金蔵すらも、直ぐに眼をそらして、
「植田様は、これを真直ぐに左」
鼻であしらう。
旅人は、教えられた通りにすっくと歩んで行く。これはこれ、昨夜を
三
長谷から三輪へ来たのでは
関東へ帰るつもりならば、長谷の町の半ばに「けわい坂」というのがあって、それを登ると
これから程遠からぬ三輪の町に植田丹後守という
教えられた通りに来て見ると、これは思ったより
というのは、自分のこの姿が、いまさらに気恥かしくなったからです。このなりで玄関へかかったところで、誰が武術修行者として受取ってくれるものか、きわめて情け深い人で、いくらかの
いったん竜之助は通り過ごして若宮の方へ行き、また引返したが、別に妙案とてあるべきはずがない。
「頼む――」
思いきって、そのまま玄関からおとなう。
「どーれ」
十八九の青年が現われて来て、竜之助を見る、その
「御主人は御在宅か。拙者は
「心得てござる、
青年の
「いざ、お通り下され、ただいま
案ずるより
四
植田丹後守には子というものがない、ことし五十幾つの老夫婦のほかに、
子というものを持たぬ丹後守は、客を愛すること一通りでない、いかなる客であっても、訪ねて来る者に一宿一飯を断わったことがない――それらの客と会って話をするというよりは、その話を聞くことが楽しみなのである。
客の口から、国々の風土人情、一芸一能の話に耳を傾けて、時々
人の言うところには、丹後守は、
武芸に至っては、どうも怪しい。家には先祖から道場があって、これも幼少の頃から、宝蔵院の
ただ一度、どこかの藩の
なにげなき
机竜之助は、この人にはじめて会って見ると、父なる弾正の
「これは
丹後守は、道場へ出て竜之助の試合ぶりを見てこう言うた――この道場にはべつだん誰といって師範者はないけれど、丹後守の邸には、召使のほかに、いつも五人十人の
五
見も知らぬ浮浪人を、快く家に通すさえあるに、その技倆を信じて、
われ一人を子に持って、三年越しの病の床から、勘当を言い渡さねばならなかった父弾正の胸の中はどんなであったろう――
彼は、このしおらしき
竹の垣根があって、かなりに広い庭の植込から、泉水のひびきなども
竜之助は、この田圃道を通って見ると、その垣根のところに黒い人影がある――夏の夕ぐれはよく百姓たちが田の水を切ったり、または漁具を伏せて置いて
竜之助は近寄って、何の
落っこちた男は、
「この野郎」
いきなりに竜之助に武者振りついて来たのを、竜之助は無雑作に取って、田の中へ投げつけた。
投げつけられても、稲の茂った
「覚えてやがれ」
田の中を逃げて行きます。
もとより
泥まみれになって自分の家の井戸側へ
「
「金蔵ではないか、何だ、ざぶざぶと水を
「早く
さんざんに下女を
この藍玉屋は相当の資産家であるから、その一人息子である金蔵が、まさか盗みをするために人の垣根を
痛みと、怒りと、口惜しさで、その夜中から金蔵は
「覚えてやがれ、このごろ来た御陣屋の
金蔵の親爺の金六と女房のお民とは非常な
「ねえ、あなた、今ではこの子も
「そうだ、そうに違いない。それにしても、あの薬屋の奴は情を知らぬ奴だ」
「ほんとにそうでございますよ、あんな心中の片割れ者なんぞ、誰が見向きもするものか、この子が好いたらしいというからこそ、人を頼んだり、
「困ったものだ――」
子に甘い親二人は、わが子には少しも非難の言葉を出さず、なにか、やっぱり人を
これはたあいもないことです。金蔵はお豊を見染めて、それを嫁に貰ってくれねば生きてはいないと、親たちに
まことにばかげた話であるけれど、世に
六
お豊は、月のうち三度は三輪の
三輪の大明神には、鳥居と楼門と拝殿だけあって本社というものがない。古典学者に言わせると、万葉集には「神社」と書いて「モリ」と読ませる。建築術のなかった昔にも神道はあった、樹を植えて神を
「お早うございます」
豆を売る
「お早うございます」
お豊も返事をして、いつもの通り、豆を買って鳩に
お豊の
拝殿の前から三輪の御山を拝む。
御山は
若い女の人で三輪大明神を拝みに来る人は、たいてい帰りに、楼門の右の
三輪の
我が庵 は三輪の山もと恋しくば
ともなひ来ませ杉立てる門
の歌がそれです。ともなひ来ませ杉立てる
お豊は、その門杉には別に願いをかけることもなく、楼門の石段を下りても、その方へは別に足を向けないで、宝永三年、大風のためにその一本を吹き折られた名ばかりの二本杉の方へ参ります。
一人は死に一人は助かる運命が、ちょうどこの二本杉のようだと思われるお豊には、三輪の七つの神杉のうち、この二本杉ばかりを拝みたい。一つには、この杉に願いをかければ、いったん夫婦の
吹き折られた杉の傷のあとは、まだ
七
机竜之助も、ふとこの朝、植田の邸を出て、
二人の面と面とが、まともに向き合わせられた時に、お豊は、
「あの、あなた様は……」
何かに
「あ、関の
竜之助は、お豊の姿からちっとも眼をはなさずに、ずっと近寄って来ます。
「はい、あの節は難儀をお助け下さいまして」
「ああ、そうであったか、実はどこぞでお見かけ申したようじゃと、さいぜんからここで考えておりました」
「存じませぬこと故、甚だ失礼致しました」
「いや、拙者こそ……」
竜之助は、いつもの通り感情の動かない顔で、
「しかし、そなた様をこの世でお見かけ申そうとは思わなかった」
「え……」
「あの若い、おつれの
お豊は
「まことに、お恥かしゅうございます。それではあなた様には、何もかも」
「いや、何もいっこう知りませぬが、そなた様だけはこの世にない人と思っておりました」
「生きて
お豊は、ハラハラと涙をこぼして言葉もつまってしまったのであります。
それを気の毒と見たか、哀れと思ったか竜之助は、
「縁あらば
「はい、この土地の薬屋と申す
「はあ、薬屋……拙者はこの植田丹後守の邸におります」
そのまま竜之助はサッサと楼門の方をさして通り過ぎてしまいました。
お豊は思いがけぬところで、思いがけない人に会い、思いがけない言葉を浴びせられて、しばらくなんだか夢中になってしまいました。
何という
八
関の宿で悪い
関の地蔵に近い宿屋に、真三郎と一夜を泣き明かして、さて亀山の実家へは帰れず、京都へ行くつもりで、鈴鹿峠を越えて、大津の宿屋まで来ると、もう行詰まって二人は死ぬ気になった。
「お豊さん、お豊さん」
二本杉の後ろに声がある。
「はい――」
お豊は驚いて涙をかくすと、
「何か御用でございますか」
「あの、お豊さん、この間わたしが上げた手紙を御覧なすったか」
「いいえ」
「見ない? 御覧なさらない?」
金蔵の様子が、なんともいえず気味が悪いので、
「あの、今日は急ぎますから」
「まあ、お待ちなさい」
金蔵は、お豊の袖を
「その前の手紙は……」
「存じませぬ」
「その前のは……」
「どうぞ、お放し下さい」
「では、あれほどわたしから上げた
「はい、どうぞ御免下さい」
「わたしは、日蔭者の身でございますから、
お豊は、丁寧に
「お豊さん、お前は、今ここで何をしていた、あの
「まあ――何を」
「そうじゃ、そうじゃ、それに違いない、お前は浪人者と不義をして神杉を
金蔵はわざと大きな声で呼び立てます。お豊は力いっぱい振り切って逃げ出すと、追いかけもしないで金蔵は、
「覚えていろ」
九
「お豊や」
伯父に当る薬屋源太郎は、お豊を自分の前へ呼び寄せて、
「困ったことが出来たで。お前も承知だろう、あの藍玉屋の金蔵という
「はい」
金蔵に弱らせられているのは、お豊ばかりではなく、伯父夫婦も、あの
「このごろは、まるで気狂いの沙汰じゃ、なんでもひどくわしを恨んで、ここの家へ火をつけるとか言うているそうじゃ」
「まあ、火をつける――どうも伯父様、わたしゆえに重ね重ね御心配をかけまして、なんとも申し上げようがござりませぬ」
「ナニ、心配することはない、たかの知れた馬鹿息子の言い草じゃ。しかし、ああいうやつが
「はい」
「それはな、しばらくお前をここの家から離しておくのじゃ。というて
「伯父様、わたしは、もうこのうえ
お豊が死にたいというのは口先ばかりではないのです。死ねば、親にも親戚にも、この上の恥と迷惑をかけねばならぬことを思えばこそ
「いや、お前などは、まだこれからが花じゃ。ナニ、お前の前だが、若いうちの
伯父はひとりで力を入れて嬉しがっているようでしたが、
「その、お前を暫らく預けておこうとわしが考え当てたのは、なんの、手もないこと、ついこの先のお陣屋じゃ。植田丹後守様とて
お豊はこれを聞いて、かの二本杉であった机竜之助が、同じくその植田丹後守の邸にいるということを思い出して、その
十
丹後守の家では二三の人が残ったきりで、あとは皆、昼からの引続いての
その残ったなかの男の一人は、机竜之助で、もう一人は久助という年古く仕えた下男であります。
竜之助は
いつでも寝られるようにと、久助は蚊帳の一端を
「なるほど、この酒は飲める、
と
三輪の酒は
「ミワ」は、もと酒を盛る
うま酒を三輪の祝 のいはふ杉
てふりし罪か君にあひがたき
とある――また古事記の祭神の子がてふりし罪か君にあひがたき
竜之助は、そんな考えで飲んでいるのではない、舌ざわりの、とろりとして、含んでいるうちに
「誰か湯に入っているな、お早どのかな」
湯殿で湯の音がする。廊下をずっと突き当ると、
「ウム、太鼓の音がするな、
笛と太鼓の音は、すぐ前の
「婆さんか」
竜之助は
「いいえ、わたくしでございます」
「ああ、あの、お豊どのか」
「はい」
お豊は、この家に預けられています。竜之助はそのことを知っていた。お互いに同じ家に
「そなた様もお留守居でござったか、まあ、ここへお掛けなされ」
竜之助は、自分の持っていた
「有難う存じます、こんな失礼な
いま湯の音を立てていたのは、この女であった。湯あがりに、ちょっと身じまいをして、
「あなた様も、お留守居でございましたか。先日はどうも……」
「あれから、なんとなく、まだ話し残しがあるような。ほかに御用向がなければ……
「はい、有難う存じます。こちら様へ上りましてから、まだ御挨拶も申し上げませぬ、済みませぬと思いましても、つい人目がありますので……」
お豊は、竜之助に向って何か言ってみたいようでもあるし、言い
「実は拙者も……」
竜之助は取ってつけたように、こう言って、またお豊の横顔を見ながらしばらく黙っていましたが、
「拙者には兄弟はないが、どうやら死んだ家内にでも会うような……そなた様を見てから、そんな気分も致すのじゃ――これはあまり
「何かの御縁でございましょう。あの、あなた様にはそのうち関東の方へお立ちと聞きましたが、それはほんとうでございますか」
「うむ、拙者の身の上も……いろいろに変るので。どうやらこのごろでは、この土地に居つきたい
「さだめし、お国では奥様やお子供様がお待ち兼ねでございましょう」
「いや、拙者に女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
カラカラと
どうかすると、世間には竜之助のような男を死ぬほど好く女があります――好かれる方も気がつかず、好く方もどこがよいかわからないうちに、ふいと離れられないものになってしまう。
「女房はない、もとはあったが今はない、子供は一人ある――父親も一人」
と言って
「それはまあ、おかわいそうに。そのお子さんはさぞ会いたくていらっしゃるでしょうに」
「左様、年のゆかない子供の身の上というものは、どこにいても思いやられるでな」
「左様でございますとも。せめてお母さんでもおありなさることならば、いくらか御心配も薄うございましょうが、お一人だけでは……」
「ナニ、親はなくとも子は育つというから、まあ深くは心配せぬけれども、道を歩いても、その年ぐらいの子供を見かけると、ついどうも思い出される、ハハ」
竜之助は淋しく笑う。
「ほんとに御心配でございましょう。そのお子さんはおいくつ……男のお子さんでございますか」
「数え年で四つ、左様、男の子じゃ」
「お母さんもさだめて、
「病気ではない、自分の
「我儘から……」
お豊は竜之助の
「いや、そんな
竜之助は、団扇をとってその墨絵をじっと見つめている。
大気がにわかに蒸してきた。さっきから飲んでいた三輪のうま酒の酔いがこの時に発したのか、竜之助は、ふいと面を上げると、蒼白い面の眼のふちだけに、ホンノリと桜が浮いている。
「お豊どの、そなたは酒を上らぬか、三輪の酒はよい酒じゃ」
「いいえ、わたしはいけませぬが、お
お豊も自ら怪しむほどに言葉が砕けてきた。
蒸してきた空気のために、太鼓の音も泥をかき廻すようで、竜之助もお豊も何かの力で強く押されているようです。
そうは言ったけれど、竜之助は再び
お豊は、こころもち膝をこちらに向けるようにして、二人は、やはり蒸し暑い空気に
「お豊どの、そなたも遠からず伊勢へ帰られるそうな」
「どうなりますことやら」
「さてさて世間には、身の始末に困った人が多いことじゃ」
竜之助は、このとき少しく笑う。
「生きている間は故郷へは帰るまいと思います、帰られた義理ではありませぬ」
「なるほど……」
「伯父は遠からず連れて帰ると申しますけれど、わたしは帰らぬつもりでございます」
「して、永くこの地に留まるお考えか」
「いいえ」
「では、どこへ」
「あの、私はいっそ、生きているならばお江戸へ行って暮らしたいと思いまする」
「江戸へ――」
「はい、江戸には叔母に当る人もあるのでございますから、それを
「うむ、江戸で暮らす――それもまた思いつきじゃ」
「それにつきまして、あなた様には……関東へお立ちの時に……」
お豊は、ここまで来て言い
「突然にこんなことを申し上げてはさだめし
「…………」
「あの、御一緒にお
「一緒につれて行けと申されるか」
お豊を失望させるほど冷やかに、竜之助は呑込んだともつかず、いやとも言い出さず、やがて、
「それもよかろう、
やっとこう言い出して、少し
「が、そなたが江戸へ行くことは、伯父上は
「それはそうでございますけれど……もし故郷へ送り返されるようなことになりますれば、生きてはおられませぬ」
「ふむ――」
竜之助は
そうして、しばらくつぶっていた眼をパッと開いて、
「よろしい、生命がけの覚悟ならば……」
この時、表の方で人の足音がやかましい。祭りに行っていた家の連中が帰って来たものと思われる。
十一
その翌朝のこと、
「金さん、金蔵さん」
長者屋敷のところで、横合いから、
「どうした、金蔵さん」
「やあ、
「何だい、えらく
「ああ、少し病気だよ」
「大事にしなくちゃいけねえよ」
「だから保養に、ここらを歩いているのだ、どうも頭の具合が面白くないからね」
「それでは金蔵さん、今日は一日、俺と
「そんな元気があるくらいなら、こうしてぶらぶらしてはいないよ、ああつまらない」
「困るな。では俺が近いうち、
「うん」
「まあ、大事にするがいい」
この猟師は惣太といって、岩坂というところに住み、兎、鹿、猿、狐などの獣を捕っては
「金蔵さん、金蔵さん」
「何だえ」
「ホントに済まないがねえ」
「うん」
「二分ばかり貸してもらいてえ。高円山へ追い込んだ猪が明日の朝までには物になるんだ、そうすれば直ぐだ、直ぐ返すから」
「またかい」
「ナニ、今度はたしかだよ。どうも金蔵さん、女房が
「貸して上げてもいいがね」
「そうして下さいよ、拝みまさあ。お前さんなんぞは何不自由のない一人息子だから、二分ぐらいは何でもあるまいが、こちとらの身にとると、その二分が親子五人の
「では、二分」
金蔵は懐ろから
「有難え、ありがてえ」
惣太はおしいただいて、また少し行くと、今度はその後ろ影を見ていた金蔵が何か思い出したように、
「惣太さん――」
「何だい」
「お前、鉄砲を持ってるね」
「猟師に鉄砲を持ってるねと念を押すのもおかしなものだね、この通り持ってるよ」
「その鉄砲というやつは、
「そりゃ、撃てねえという限りはねえが」
「どのくらい稽古したら
何を考えたものか金蔵は、それから毎日のように岩坂の惣太が家へ鉄砲の稽古に出かけます。
惣太の鉄砲を借りては
「駄目駄目」
惣太は傍から、ニヤリニヤリと笑い、
「生き物は、まだ早い」
「それでも鴉ぐらい」
金蔵は
「鴉ぐらいがいけない、鴉ほど打ちにくい鳥はないのだ、鴉が打てたら、鉄砲は
「そうかなあ。いったい、鳥では何が打ちよいのじゃ」
「そうさ、お前さんの打ちよいのはそこにいる」
「ばかにしている、あれは鶏じゃないか、
「
「雉子が打てれば占めたものだ、それから兎、狸、狐、猪、熊――」
「そうなると、こちとらが飯の食い上げだ。しかしこの間、
「猪と間違えて人を撃つのは
「俺も永年、猟師をやっているが、まだ人間を撃ったことはねえ……」
十二
夜も四ツに近い頃、三輪明神の境内には、もはや涼みの人もまれになった時分、「おだまき杉」の下に、一つの黒い人影があります。
手に持っていた小さい
丹後守は、いま「おだまき杉」の近くへ来て、ふと、根方を突っついている忍びの人影を見つけたので歩みを止めて、何者が何をするかと、しばらく闇の中から、立って見ていました。
丹後守の歩き方は、まことに静かで、
しばらく見ていたが、つかつかと丹後守は近寄って、
「金蔵ではないか」
「はい――」
物影は非常なる驚きで、バネのように飛び上ったのでしたが、わなわなと
「何をしている」
丹後守は、押して穏かに問う。
「へえ……へえ」
「それは何じゃ」
人影が藍玉屋の金蔵であることは申すまでもありません。
丹後守に指さされたのは金蔵が、幾度も穴へ入れたり出したりしてみた、かの徳利でありました。
「へえ……これは……」
「これへ出して見せろ」
「へえ、これでございますか……これは」
金蔵はおそるおそる徳利を取って、丹後守の前へ捧げます。丹後守は、手に取り上げて見ると徳利のように見えても徳利ではありません。長さおよそ一尺ぐらい、酒ならば一升五合も入るべき黒塗り革製の弾薬入れであります。
「金蔵、これはお前のか」
「はい……」
「お前は、鉄砲を持っているか」
「いえ……人から借りました」
「借りた――飛び道具は危ないものだぞ、これはわしが預かる」
「へえ……」
「もう、あるまいな、まだこんな物が家にあるか」
「もう、ありませぬ」
「よし」
丹後守は弾薬入れを取り上げて、
この附近では丹後守に会っては、「左様でございます」というか、「左様ではございませぬ」というか、二つの返事のほかは、あまり物を言えないことになっています。丹後守が少しも強圧を用いるわけではないが、自然そんな具合になっていました。
ああ、悪い人に悪い物を見つかった。
さすがの金蔵も、
金蔵は猟師の惣太の手から、旧式の
証拠物件は
「ああ、首を斬られる! 今夜にも俺は縛られて打首になるのだ!」
金蔵は恐怖
いつぞや、あの
無知な者は、罪を
「どうしよう、どうしよう」
そこで一人で踊り廻っているのでしたが、こういう人間は、いいかげん怖れてしまうと、あとは
「どうなるものか、お豊を隠したのは、あの丹後守だ、おれの鉄砲を知っているのも、あの丹後守だ、みんなやっつけちまえ、どのみち、おれの命はないものだ」
金蔵は横飛びに飛んで自分の家へ
翌朝になって、金六夫婦の驚きは
丹後守はかの弾薬のことについては、何も言わず。ホッと胸を
金蔵がいなくなってみれば、お豊が植田の邸に預けられる必要はなくなった。
お豊が再び薬屋へ帰った時には、暗い心に薄い光がさしていた。
竜之助は、ものの五町とは離れぬところへお豊が帰ったその晩は、どうも寝られない淋しさを感じた。
さて、お豊は薬屋へ帰っていくらもたたないうちに、伯父の源太郎に向って、亀山へ帰りたいからと言い出しました。
今まで死んでも帰らぬと言い張った故郷へ、今日は我から帰りたいと言い出したことを、伯父は思いがけなく驚いたくらいでしたけれど、当人にその心の起ったことは非常な喜びで、
「それでは、わしが送って行って
大急ぎで旅立ちの用意をはじめました。これとほとんど時を同じゅうして机竜之助は、植田丹後守にいろいろと高恩の礼を述べて、これも関東へ発足の日取りをきめました。
出立の前の日、薬屋源太郎が丹後守へ挨拶に出て、
「あれも、お蔭をもちまして、明日、故郷へ送り返すことに致しましたから……」
一通りの暇乞いの話を聞いた植田丹後守が、
「わしがところにおる吉田竜太郎と申される
十三
式上郡から宇陀郡へ越ゆるところを西峠という。西峠の北は赤瀬の
西峠は一名を「墨坂」という、「墨坂」の名は古代史に
日中は暑さを
仰いで見ると四方に山が重なって、遠くして高きは真白な雲をかぶり、近くして
峠の上には
竜之助は、またも
三輪で暮らした一月半は、再びは得らるまじき平和なものでありました。竜之助の生涯に、人の情けをしみじみと感じたのは、おそらく前にも後にもこの時ばかりでありましょう。
大和の国には
竜之助は、西峠の上に立った時は遥かに三輪の里を顧みて、
「さらばよ」
と声を呑んだのでありましたが、今、さきに行くお豊の馬上の姿を見ると、そこに
ちょうど西峠と榛原の間まで来た時に、向うからただ一人、旅の者がこちらを向いて足早に歩いて来ます。
細い道でしたから、並木の方へ寄って、源太郎とお豊の馬をも避けたように、竜之助の馬をも避けて、通りすがりに旅の人は、ふと笠の中から竜之助を見て、棒のように立ってしまいました。
この時、林の茂みと小土手の間に二人の猟師が身を隠して、何か
人相の悪い方は、
「金蔵、
「ナニ、大丈夫だ」
大丈夫だと言ってみたが争われぬ、金蔵は五体がブルブル慄えて物を言うと歯の根が合いません。
「
人相の悪いのが、ふと木の葉の繁みから街道の遠くを見ると、ただ一人、この小野の
「ドレドレ」
「それ、
「うむ」
金蔵は鉄砲を取り直して構えてみたが、支え切れないと見えて、小土手へ銃身を置いて、
「やあ、速い、速い、恐ろしく足の早い奴だよ」
なるほど、向うから来る旅人の足の速力は驚くべきものです。土手へ鉄砲を置いた時に弥次郎兵衛ほどに小さかった姿が、巣口を向けた時は五月人形ほどになり、速い、速いと驚いた時は、もう眼の前へ人間並みの姿で現われています。
「まるで、飛んで来るようだ、こりゃ
さすがの二人が
「驚いたなあ! 足の早い奴もあればあるものだ」
人相の悪いのが
しばらく無言で、二人は旅人が過ぎ去った方の路を、やはり木の葉の繁みから一心に見つめていたが、
「それ、来たぞ!」
「やあ、やあ」
金蔵は声と共に
「いいかい、金蔵、よく度胸を落着けろ、それ、前の奴が
申すまでもなく、二人が
机竜之助は、どうしたか、まだ姿を見せない。そうだ、さっき通りかかった、あの足の早い旅人と行違いになって、何か間違いでも出来はしないか。
まるきり
金蔵の執念は、とうとうここまで来てしまった。慄えながら鉄砲の覘いをつけているところを見ればおかしくもあるが、
「モット落着いて……馬の腹を覘え、馬の腹と人の
傍で力をつけている人相の悪い猟師は、最初に金蔵に鉄砲を教えた惣太とは違います。惣太は飲んだくれであったけれど、これほどの悪い度胸はない。
これは
金蔵が、この鍛冶倉の
「お豊、いいあんばいに、お天気じゃ、今夜は
薬屋源太郎は、あとをふり返って
「どうなさいましたでしょう」
「馬の
馬を静かに歩かせて、
「あのお武家は、えらく武芸がお出来なさるとお陣屋の先生が
「そうでございます、お陣屋へ修行者が参りましても、手に立つ者はなかったと、皆のお方も申しておりました」
「けれども、口を利きなさるのが、なんだかサッパリし過ぎて、そのくせ、いつでも沈んで、なんだか気味の悪いような、
「それも、お家にお子供さんがいらっしゃるし、奥様もおなくなりなすったそうですから、それやこれやの御心配からでござりましょう」
「そんなことかも知れぬ。しかしまあ道中も、あのお方がおいでなさるので安心じゃ。時にあの馬鹿者の金蔵……ああいう
お豊はなんとも言わないで、また後ろをふり返ったが、竜之助の姿はまだ見えない。
「
林の茂みに
この日の朝、三輪の里なる植田丹後守は、しきりに
丹後守という人は妙な人で、時々前以て物を言い当てることがあります。
「お前の家へ昨夜、子供が産まれはせぬか」
ある時、或る家の前へ立ってこう言うた時、その家の主人が眼を円くして、
「大先生、まあ、どうして御存じでございます、まだどこへも沙汰をしませんに」
「そうか、それは男の子であろうな」
「左様でございます、どうして、それがおわかりになりました」
「そんな夢を見た、なんにせよ、めでたいことだ」
といって立去ってしまったことがある。
また或る時、借金のために財産をなくしかけて、首を
「
「へえ……」
「お前の後ろには
「ええ?」
男は
「もう少し前へ出ると
丹後守はこの男のために借金と死神を払ってやったことがあります。こんなことは丹後守にあっては珍らしいことではなく、雨が降ること、風の吹くこと、火事のあることなども前以て、よく言い当てたものです。
竜之助一行を送り出しておいて、しきりに胸さわぎがしたので、読みかけた本をふせて、丹後守は座右の
「内山殿、内山殿」
二声ばかり呼んでみました。
「はい」
いつぞや、竜之助を玄関に迎えたところの青年でありました。
「あのな、甚だ御苦労だが、貴所と、それからモ一人、高江氏を
「承知致しました。いずれへ」
「初瀬の町から西峠の方へ急いでもらいたい、馬で飛ばしてみてもらいたいのだが」
「心得ました。して御用向は?」
「どうも、さいぜん送り出した、あの吉田氏と薬屋の者、あれがどうも気がかりじゃ、たしかまだ西峠へかかるまい、せめて、あの原を越えるまで、御両所でお送りが願いたい」
「心得ました」
「いや、まだ、お待ち下さい」
丹後守は、急いで立とうとする青年を再び呼びとめて、
「少々お待ちなさい、貴殿は鉄砲が打てましたな」
「はい、少しは」
「どうか、これを持参して下さい」
丹後守は戸棚の中から桐の箱を取り出して、
この時分、拳銃はあまり見たことがないのであります。しかも今、丹後守が取り上げた拳銃は、全く類の見えなかった洋式のものであります。内山は、先生が妙なものを持っていると
今、丹後守が取り出したのは、まさにそれと同じ型のものであります。
どうして丹後守が、そんなものをいつのまに手に入れたか、それさえ不思議でありましたが、丹後守という人は、
それで、右の拳銃を右手に取り上げて眼先へ伸ばし、
「内山殿、その
「心得ました」
簾を上げると庭である。
「あの植木鉢をひとつ、打ってみましょう」
花壇の隅に伏せられた
「いざ、これを持っておいで下さい」
内山は、
「その一発はいま撃ってしまいました、あとの五発、続けざまに撃てるようになっている」
「はあ」
内山は、それを調べて二三度、構えてみましたが、
「しからば――」
と言って立つと、
「あの、まだ奥に文四郎流の
「心得ました」
なんにしても
かの足の早い旅人は、西峠を越えて来る机竜之助の馬を避けて通す
竜之助も、ふいと笠越しに見下ろすと、
「や!」
旅の人は、覚えず足を踏みしめたようでしたが、竜之助は別になんとも思わず、そのまま馬を進めようとすると、
「モシ、お武家様」
旅の人は、引き戻すように手をあげて呼び止めます。
「何御用か」
「あなた様は、もしや――武州沢井の若先生ではござりませぬか」
「ナニ、沢井の――」
竜之助はこの時、馬をとどめさせて、この旅の人を見据えて見ると、年の頃は五十に近かろう、百姓
右の男は、
「間違いましたら御免下さいまし、あなた様は沢井の机弾正様の若先生、あの竜之助様ではございませぬかな」
不思議な旅の男の言い分を、じっと聞いて、
「いかにも――拙者はその机竜之助」
これを聞いて旅の男は、
「左様でございましたか、それで安心致しました。私共、あの青梅在、裏宿の七兵衛と申す百姓でございます」
「青梅の――七兵衛?」
万年橋の上で、抜打ちにその腰を斬って逃げられたことがある。その盗賊がこの七兵衛であることは、斬られた七兵衛はよく知っているが、斬った竜之助はそれを知らない。
「どこへ行くのだ」
「いや、どこへでもございませぬ、あなた様をたずねて、これへ参りました」
「ナニ、拙者をたずねて?」
「はい」
「拙者に何の用」
「その御用と申しますのは、あなた様のお
「生命を……」
ここに至って竜之助は冷笑した。
「お驚きでもございましょうが、あなた様のお生命が欲しいばかりにこの年月、苦労を致している者があるのでござりまする。四年以前に御岳の山で、あなた様のために
「文之丞の恨み……」
「その恨みを晴らさんがため、文之丞様の弟御の兵馬様、あなたを覘うて、この大和の国におりまする。ここで私共があなた様をお見かけ申したが運のつき、どうか、兵馬様と尋常の勝負をなすって上げてくださいまし、お願いでございます」
「尋常の勝負?」
竜之助は
「その兵馬とやらはいくつになる」
「ことし十七でございます」
「勝負はいつでも辞退はせぬ故、まず当分は腕を磨くがよかろうとそう申してくれ」
十七の
「いやいや、勝負は時の運と申します。兵馬様とて、まんざらの腕に覚えがなければ、
七兵衛は笠をとりながら、
「兵馬様は、ただいま八木の
七兵衛はジリジリと押しつめるように竜之助に返答を
「勝手にせよ」
「お逃げなさるは
七兵衛がやや冷笑を含んで言い放つと、竜之助は、
「机竜之助は逃げも隠れもせぬ、これより伊勢路へ出て、東海道を下る。宇津木兵馬とやらにそう申せ、
七兵衛がなお何をか言わんとする時、林の中のどこからともなく
竜之助は七兵衛を捨てて無二無三に馬を前へ走らせた。
薬屋源太郎だけ、ただ一人、道の真中に打倒れている。
その乗った馬は向うの樹の根に身震いして立っているが、馬子の姿は見えない。
お豊に至っては、馬も馬子ももろともに、どこへ行ったか見えないのである。
竜之助は馬から飛び下りて、源太郎を抱き上げた。
「源太郎どの、源太郎どの」
呼び生かすと、
「むむ」
「気を確かに、傷は浅い」
「ああ……吉田様、早く、お豊を早く……」
源太郎は気がつくと直ぐに、手を上げて
そればかりではない、お豊は奪われてならない人である――物に冷やかな竜之助も歯を
「源太郎どの、賊は幾人ほどじゃ、何か見覚えはないか」
「たしか二人――わたしを撃っておいて、お豊を
源太郎の
少し北へ寄った原中に、一つの小高い塚、その上には大きな松が
すすきの茂る小野の
「ああ……」
竜之助には、
十四
奈良の春日神社の前。
宇津木兵馬は茶屋へ腰をかけ笠の紐をとく。
「ええ、毎年五月には子を産みまする、これはついこのあいだ生れたばかりでございます。エエ、もう人間と同じこと、この鹿は一頭で一つしか子は産みませぬ、生れると、煙草一ぷくの間に、もうひょこひょこと歩き出しますでございます。紅葉ふみわけ
茶店の主人は鹿の話からはじめて、
「左様でございましたか。春日様は藤原家の
案内をかねて、よく故事を教えてくれる。
兵馬は、ここでちょっと聞いてみたくなったことは、この奈良の土地から起った宝蔵院流の槍の道場の跡が、まだこの地に残っているとのことであるが、それが今どうなっているかということでした。
「ええええ、
言われた通りに来て見ると、なるほど鎌宝蔵院の槍の
「御承知でもござろうが、この宝蔵院流槍の開祖は、当院の
「かく覚禅房は出家として、武芸を後に残すことを好まれなかったが、門下には
案内の僧は慣れていると見えて、息をもつがず
「このあたりにて、宝蔵院流の槍をよくする
と尋ねてみると、
「さればさ……」
案内の坊さんは少しく首をひねり、
「当今、伊賀の
坊さんは
「三輪大明神の
「何と申されました、三輪大明神の社家で、植田丹後守殿?」
「左様、植田丹後守。なかなか学問もある。武芸修行ならば、ひとたびは訪ねてみて
十五
宇津木兵馬が植田丹後守をたずねた時、植田の邸は何か非常に取込んでいるようでしたが、それでも丹後守は兵馬の訪問を
「お若いに近ごろ
「幼少の頃、甲源一刀流を少しばかり。数年以前より
「ナニ、甲源一刀流?」
「兄なる人につきまして、その手ほどきを受け、それより江戸に
「直心陰は
「下谷の
「ほう、島田虎之助――」
丹後守は何か思う
「その島田虎之助殿は、もと
「いかにも、仰せの通り」
「号を
「左様にござりまする」
「そのお人ならば、拙者も近づきがある」
「それは意外に存じまする、いずれにてお近づきでござりましたか」
「ずっと以前、もはや二十年も昔のこと、拙者のこの道場に暫く足を留めておられたことがある」
「それは、不思議の因縁にござりまする」
「拙者が、今までに拝見致した剣術では、江戸で
師匠のよい評判を聞くことは、兵馬にとって自分のことを聞くように嬉しい。どこへ行っても島田虎之助の剣術を
「島田殿は珍らしい人じゃ、こちらから話しかければ、いくらでも聞く、聞いたばかりで自分は何も語らぬ」
丹後守は自分で自分のことを言っているようです。丹後守としてこんなに話がはずんでゆくのは、これまた珍らしいくらいでした。
「あの時分、島田は鉄砲玉じゃという
「ただいまも、その通りでござります。それ故に島田は奥行が知れぬと申す者もござります、剣術ばかりで、頭は
「そうでござろう。拙者の邸に足をとどめておられる頃も、
「しかし、めざましい立合いも一度や二度は、あったことでござりましょう」
「いや、およそ一カ月の間に、一度も左様なことはない、ただ一度、拙者と槍を合せたことがござる」
「あ、槍の御高名を承わりました。それ故、一手の御教授を下し置かれたく
「槍の高名――
丹後守は
「宝蔵院流の槍は、三輪大明神の社家植田丹後守殿に伝わると承わりました」
「以てのほか。当今、宝蔵院の槍は伊賀の名張に
丹後守は、再び槍の話はさせないよう、しないように言葉を避けるから兵馬も、このうえ押すことはできなくなって
「さいぜんおっしゃった甲源一刀流のこと、ついこの間も、その流儀から出でたものらしい、これも珍らしいお人が見えた」
「甲源一刀流の?」
兵馬は、そう聞いて少し
「そのお人と申すのは、
「その構えが無類じゃ、じっと
「さては――」
兵馬は我知らず膝を進めて、
「年の頃は?」
「三十三四でもあろうか」
「顔色青白く、眼は長く切れて、白い光を帯びた人ではありませぬか」
「その通り」
丹後守の
十六
「ああ、惜しいことをした、貴殿のおいでが三日早ければ……」
丹後守は、兵馬から机竜之助の身の上と、兄が
「どうも、あの
兵馬は、ひとたびは力を得、ひとたびは失望し、さてこの上は自分も吉野郡の山中へ踏み込んでどこまでも行方を探すばかりだと覚悟を決めました。
こう覚悟をきめてみると、ここに悠々としている必要はない、例の宝蔵院の槍のことも、この場合、
「よき手がかりを得て、かたじけのう存じまする。早速に拙者は
「それもよろしゅうござる、お留めは致さぬが、しかし兵馬どの、拙者の見受け申すところでは、その机竜之助とやらは
「そのことは心得ておりまする、憎むべき
「もとより貴殿とても、島田虎之助殿取立てのことなれば、抜かりもござるまいが、何を申すもまだお年若」
「左様にござりまする」
「ことに、あの太刀先が難剣じゃ。じっと青眼に構えて、ちっとも動かず、相手の出る
「いかにも左様でござります、あれは関東の剣客が、名づけて『音無しの構え』と申し、かの竜之助が一流の遣い方でござりまする」
「そうでありましょう。さて、兵馬殿、失礼ながら、御身にはその音無しの構えとやらをどのようにあしらわれる、その
「工夫とては更にござりませぬ、ただこの太刀先に
丹後守はその一言を限りなく喜んで、
「それでなくてはいかぬ、それならば必ず討てましょう。よし相討ちになるまでも、我の受ける傷より、敵に
「ありがたき仕合せ」
丹後守は兵馬をつれて邸内の道場へ来ると、今まで話が
十七
話がまた少し戻って来ます。
この二人の武士もまた時ならぬ鉄砲の音に驚いて、
「さては」
と丹後守の言ったことを思い合せたところへ、ぶつかったのが七兵衛でした。どうもこういう場合に七兵衛の足どりが穏かでない。
「待て」
すれ違いの時に、内山という若い方の武士が鋭く七兵衛を呼び留めました。
「へえ……私共でございますか」
「お前は、いま向うから来たようだが、あの鉄砲の音は何事だ」
「いっこう存じませぬ、大方、猟師さんが
もとより七兵衛は何も知らない。もし間違いであって、
「待て待て」
「いや、急ぎますから、私共は急用の者でございますから」
「待てというに待たぬか」
七兵衛は足が早い、それを弱味があって逃げ出すものと認めたらしく、内山は丹後守から預かって来た「引落し式」の拳銃を七兵衛のうしろから差向けて、
「何をなさいます」
これには七兵衛も驚いた、いくら七兵衛が足が早いとても、鉄砲の玉にはかなわない。足をとどめて振返る
馬上の両人は弾丸に驚いた七兵衛が、
「おのれ、
二発、三発、例の拳銃を林の中へ打ち込んで、馬から飛び下りて探してみたが、もう七兵衛の姿は見えない。
十八
ここは
無論、ここまで来てみれば、小舎も流れも、どこからも見えはしない、ここまで来るのでさえ道というものはついていない。
今、その中で人の話し声がする。いかに大きな声をしたからとて山の上まで響くはずがない。よし山の上へ響いたとて、そこには誰も聞く人はない。
「金蔵、うまくいったな」
ゾッとするほど気味の悪い
「親方、うまくいきました」
金蔵はまだ落着かない様子。
「まあ、暫くはここで
鍛冶倉は、この辺の山の中へところどころこんな小舎をこしらえておく。そこへはいつでも十日分ほどの食料を用意しておく。
「親方、こうなってみると、俺は一刻も早くお豊をつれて里へ出たい」
「ばかなことを言うな、いま連れ出せば
「七日は永いなあ」
「ナニ、永いことがあるものか、手鍋さげても奥山ずまいという本文通りよ、
鍛冶倉の笑いぶりは人間並みの笑いぶりではない、
「親方、お豊は俺の女房だな」
「ふーん」
鍛冶倉は鼻のさきで笑った。金蔵は眼の色を少し変えた。
「親方、俺はお豊をつれて国越えをしてみたい、これからすぐに」
金蔵は、今、鍛冶倉の笑い方を見てはじめて、お豊をここへ置くことが怖ろしくなったらしい。
「何だい、何を言うのだい金蔵」
どうも
「親方、お前さんはここに隠れておいでなさい、わしはこれからお豊をつれて逃げます。ナニ、命がけで逃げますよ」
「やい、金蔵、物を言うには、よく考えて言えよ」
「何だ、親方」
「この野郎、いま俺のすることをよく見ていろ」
何をするかと思えば鍛冶倉は、
「これやい、お豊、お豊坊」
鍛冶倉の
馬上の武士に鉄砲で
人家のないことは何でもない、山道を通ることも七兵衛には何の苦もない、山でも林でも、ずんずん横切って北へ通してみたら奈良街道へ出るだろう、それを南へ直下すれば八木へ着く。
そうして七兵衛は針ヶ別所に近い或る山の上に立って、木の下蔭から
別に疲れも怖れもしないが、いくら山の中の木の葉の繁みを歩いたからとて、夏のことだから汗も出れば
「水が飲みたいな」
滝の音が聞えない、渓流の響きが耳に入るでもないけれども、山と山との
七兵衛は、路のないこの山を一つ下りてみようとして、
「はて、誰かこの道を通ったものがあるらしいぞ」
七兵衛が下りて行った時分、この谷底では、ちょうどこの時、前のような有様でありました。
鍛冶倉がお豊の帯際に手をかけた時だけは、金蔵は
「親方、どうしようというのだ」
前後の思慮もなく鍛冶倉に
鍛冶倉はお豊を
「親方、な、なにをするんだい」
金蔵とてもこのごろはかなりの悪党になっている。上から押えられながら、下から
「この野郎」
鍛冶倉は縄を口でしごいて、
「な、何だい親方、そ、そう無茶に人を縛るなんて」
「野郎、手向いをしやがるな」
鍛冶倉は上から押しつぶそうとのしかかる、金蔵は跳ね起きようともがく途端に、手に触れたのは鍛冶倉の腰にさしていた
「アッ!」
どこを突いたか、突かれたか、鍛冶倉は縄を持ったなり二三尺
「野郎、突いたな!」
「突いたがどうした」
けれども、鍛冶倉の引っぱった縄は金蔵の首に捲きついている。
「アッ、苦しい!」
縄をグッと引くとグッとくびれる。
「アッ苦しい! お豊……お豊さあーん」
血の
「野郎、また斬ったな」
「アッ、苦しい、お豊……お豊さあーん」
向うが苦しがれば苦しがるほど、こっちが苦しい。
「ア痛ッ」
鍛冶倉は眼へ血が入ったので、夢中になって、金蔵の首へかけた縄は放さずに
「ああ苦しい!」
もう息の根が止まりそうである。
「あッ、また斬りやがった」
鍛冶倉は外へのり出して、谷水の傍の岩角へ打倒れたが、起き直ってめくら探しに金蔵の傍へよる。
「野郎、飛んでもねえ、呑んでかかったのがこっちの
細引をもう一捲き、金蔵の首に捲いた時は、乳のあたりをまた深く一つ。
「あッ痛っ!」
今度のはいちばん痛そうであったが、
「アッ苦しい!」
金蔵の方も、これがいちばん苦しそうであった。この一言で双方の力がグッタリ尽きた。
お豊はこの騒ぎで、もう前から気絶している、つづいて二人はこんなことをして息が絶えてしまった。それで小屋の中が
十九
伊賀の上野の
その鍵屋の辻に近い吉田屋という
「拙者は、田中新兵衛の
「いや、拙者はそう思わぬ、田中はそんな男でない」
田中新兵衛という名。京都へ上るときに大津を出て、
「田中でなくば、あれだけのことはやれぬ、第一、証拠がある」
「いやいや、田中なら、あんなことはやらぬ。刀を捨てて逃げるような
「というて、その刀は田中のほかに持つべき品でない」
「さあ、それが拙者にも
「申し開きをせず腹を切ったことだから、言わずと当人
「そうとも言い切れぬ、何かその
「それにしても先方に位がある、威に
「そんなことはない、侍従や少将の位が
「役人も、薩州方も、新兵衛の
「拙者は、やはりそう思わぬ、新兵衛ではない」
これだけ聞いたのでは何だかサッパリわからない。人を斬ったのは田中新兵衛である、いやそうでない、斬って刀を捨てて来た、当人は黙って切腹した、斬られたのは位のある人――これだけの話の筋を
「やあ、
「これは、諸君」
刀の
今の次の間の話――田中新兵衛が何者を斬ったかというのはこうである。
これより先、五月の二十一日に、京都
少将がその日の夕方、吉村右京、金輪勇という二人の家来をつれ、
御所へ水を入れるところの
「すわ!」
吉村右京は血気盛んの
兇漢のうちの一人、すぐれて長い刀を持ったのが、吉村をほかの二人に任せて、姉小路少将をめがけて一文字に斬りかかる。
抜き合わすべき刀は金輪が持って逃げてしまった。
「
姉小路少将は、持っていた
「
兇漢の手元を押えて、その刀を奪い取ってしまった。その勢いの烈しさにさすがの
吉村に向った二人も、つづいて逃げ去ってしまった。
姉小路少将は
「無念!」
と一声言ったきりで倒れて息が絶えた。生年僅か二十八歳(或いは三十歳)であったという。
この姉小路という人は、体質は弱い人であったけれども、十九ぐらいの時に
またその頃の
これほどの人が何故に殺されたか、その
その刀は
「田中新兵衛――」
薩摩の田中新兵衛とは何者とたずぬるまでもなく、その時分、評判者の斬り手である、人を斬りたくって斬りたくってたまらない男である。島田左近を斬ったのもこの男だと言われているのである。そうして、当時有名な志士の間にも交際がある、現に四五日前も、姉小路少将の家へ来て何か意見を述べて行ったことがあるという。
「田中を
田中は平気で薩州の邸内に寝ていた。呼び出してみると、
「左様なことは存ぜぬ」
頑として、首を横に振る。
「存ぜぬとは
役人は
「卑怯とは何だ、知らぬ者は知らぬ、存ぜぬことは存ぜぬ」
新兵衛は役人をハネ返した。
「証拠が物を言うぞ、隠し立てをするな」
役人は突っ込む。新兵衛は
「田中新兵衛は人を斬って、刀を捨てて逃げるような男ではござらん」
あくまで
「新兵衛、この刀に覚えがあるか」
役人は、それ見たかと言わぬばかり。
「拝見」
新兵衛は、その刀をとって見た。自分の刀である。
「さあ、どうじゃ、その刀は誰の刀であるか」
新兵衛はじっと見ていたが、
「これは拙者の
「そうであろう」
役人は勝利である。
ここに至って、
「や!」
並み居る役人も番卒も、一同に
あまりのことに一同のあいた口がふさがらなかった。
新兵衛は刀はたしかに自分の物と承認したけれど、姉小路を殺したのは俺だと白状はしなかった。これがために、疑問はいつまでも残された。
竜之助の次の間でも問題になったが、一説には、その前日、新兵衛は三本木あたりの料理屋で飲んでいるうちに、何物にか刀を
とにかく、姉小路を殺したものは何者であるかは今日でもわからない、おそらく新兵衛ではあるまいということ。
竜之助のいる次の間へ多くの人が入って来たので、田中新兵衛の噂は立消えになったが、
「女中、あの
彼等の集まったのは、竜之助の隣りの十畳の間を二つ打抜いたので、竜之助のはそれにつづいた六畳一間であったが、いま向うでその襖をはずせと言ったのは、集まった浪人の中の
「あの、お隣りにはお客様がおいででござりまする」
「ナニ、隣りに客がいる?その客というのは何者だ」
「はい、やはりお武家様でございます」
「ふむ、武士か。幾人いる」
「お一人でございます」
「一人――しからばなんとか
「はい……」
「我々共が、この三間を通して借受ける、隣りのお客に
「お話を致してみましょう」
女中は心なくお受けをして引き下った様子。浪人連は、
「暑かったな」
「なかなか暑い」
「風呂に入れ」
「今、酒井と那須が入っている」
「そうか、氷を食え」
氷を
「いま聞けば、このつい先が鍵屋の辻といって、荒木又右衛門が武勇を現わしたところじゃそうな」
「うむうむ、それをいま知ったか」
「面白い、荒木の三十六番斬りなんというのは、よく
「山陽の作った詩に、こんなのがある、ひとつ歌って聞かそうか」
「謹聴」
詩を吟ずることを得意にする者が、興に乗じて歌おうという、一同はそれを謹聴するものらしい。
伊賀城頭西閭門 、
復讐 跡あり恍 として血痕 、
仇人 、馬に騎 り魚貫 して過ぐ、
挺刀一呼 、渠 が魂を奪ふ、
姉夫慷慨 にして兼ねて義に従ふ、
脊令原 寒うして同じく冤 を雪 ぐ、
一水 西に渡ればこれ
原 、
当時投宿の館 はなほ存す、
吾れ来 つて燈 を挑 げて往昔を思ふ、
想 ひ見る淬刃暁暾 を候 ふ、
嗟哉 、士風なほ薄夫 をして敦 ならしむ、
寛永の俗、いま誰と論ぜん。
詩は吟じ終って暫らくのあいだ静かである。それにしても、もう立退き命令が来そうなものじゃと、
当時投宿の
吾れ
寛永の俗、いま誰と論ぜん。
ちょっと、隔ての襖を細目にあけた者があったようだが、あけて直ぐに立て切り、
「まだいるわ、隣りに男が一人いる」
あけた男は、やや小声であったけれど竜之助にはよく聞える。
「まだいるか、女中め、なんとも言わん」
ハタハタと手が鳴る。
「お召しになりましたか」
「これこれ女、ナゼさいぜん申しつけた通り、隣室へ申し入れん」
「はい、どうも相済みませぬ、つい忙しいものでございましたから」
「早速、申し入れろ」
「はい、ただいま……」
女中は、すぐに来るかと思うと、すぐには来ないでいったん下の座敷へ行ってしまったらしい。竜之助は袴でも取ろうかと思っているところへ、
「御免あそばせ」
例の女中が入って来て、
「旦那様、風呂をお召しになりましては」
「まだ入りたくない」
「あの、旦那様、お
「ここでよろしい」
この室でよろしいとキッパリ言われたから女中は二の句が継げなかったが、やっと、
「それでも、ここは、あのお隣室のお客様が夜更けまでお話しになるとお困りでしょうから」
「いいや、
「それでは、どうも……」
切出しが
しばらくたつと、また隔ての襖が二寸ほど開いて、じっとこっちを見たのは眼の大きい
「まだいるぞ」
「まだいる?」
また手がハタハタと烈しく鳴る。
「お召しになりましたのは、こちら様で……」
恐る恐るやって来たのは、以前の女中でなくて番頭。
「貴様は何だ」
「へえ、番頭でございます」
「さいぜんから、この隣室を明けておもらい申すように再三申しつけたところ、なんでそのように取計らわぬ」
「恐れ入りましてございます、では手前からもう一応」
番頭は非常に恐縮して、すぐその足で竜之助のところへやって来ました。
「御免を願いまする――」
「何用じゃ」
「どうも、混雑致しまして、行届き兼ねまする。時にお客様――甚だ申し兼ねた儀でござりまするが、このお部屋は、ちと
「いや、ここでよろしい、かえって賑かでよい」
「へえ……」
番頭は思わず頭に手を置いた。
「それに致しましても、隣室の衆が、お気の荒いお方のように見えますから、もし間違いでもありましては……」
「いや、心配することはない」
「でも、もしやお間違いが出来ますると、あなた様のみならず手前共まで迷惑致しますから、どうぞお引移りを」
「こちらが黙って控えておれば間違いの起る
「でもござりましょうが……」
「ここでよろしいと申すに」
番頭は
「御免」
案内もなく入り込んで来たのは、
「番頭どけ――」
竜之助の前へ

「初めて
「何か用事でござるか」
「さきほどから再三、宿の人を以て申し入れる通り、我々はごらんの通りの多勢じゃ、お見受け申せば貴殿はお一人、どうかこの席を多勢の我々に譲っていただきたい」
「その儀ならばお断わり申す」
「ナニ、断わる?」
印籠鞘の武士は眼に
「女中や番頭どものかけ合いとは事変り、武士が頼みの一言じゃ、気をつけて挨拶を致せ」
竜之助は武士の方には取合わないで、番頭の方を見て、
「番頭殿、この気狂いを、あっちへ連れて行ってくれ」
印籠鞘は
「気狂いとは何だ……気狂いとは聞捨てならん」
「まあまあ、そこのところをひとつ――どうかそういうわけでございますから旦那様、
番頭はてんてこまいをはじめる。
「
印籠鞘の浪士は竜之助に詰め寄せる。
「やれやれ! やっつけろ!」
いま開け放しておいた
どこへ行っても、今頃は、こんな
白い眼で、じっと見て、左手で植田丹後守から
竜之助は、この刀を持ってから、まだ人を斬ったことはないのである。さりとはあまり物好きな、この連中を相手に
浪士らは、一喝の下に
「
印籠鞘の浪士は
「生命なんぞは惜しくない――」
彼は月山の新刀を手にとると、この時むらむらとして
「いけません、いけません、どうかまあ、あなた様もお
番頭は必死になって支えてみたけれども、もとよりその力には及ばない。
「宿を騒がしても気の毒じゃ、どうだ諸君、これより程遠からぬところに
かの
「結構、事の血祭りに幕府の
彼等は竜之助を、その鍵屋の辻へ引張り出して斬ってしまおうと考えたらしい。まことに無意味な行きがかりに過ぎないけれども、竜之助はそれを
この時、向うの室の床柱を背負って、さっきから少しも動かずに
「おのおの方、
小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた右の浪士は、膝の上に絵図をひろげて眺めていながら、さいぜんからの騒ぎは、よそを吹く風のようにしていたが、この時はじめて頭を振向けてこう言った。
「あまりといえば無礼な奴」
「無礼は、こちらのこと」
「先生、これは
「なんにしても、おのおの方よりは少し強いようじゃ」
「宿を騒がすも気の毒ゆえ、鍵屋の辻へ引っぱり出して斬ってしまおうと存じます」
「あべこべに斬られてしまうぞ」
「何を! たかの知れたる間諜」
「フム、こっちで模様を見ていると、先方の方がよほど強い」
「左様なことはござりません、先生にも似合わんことをおっしゃる」
「強い、強い、先方が強い。この分で、鍵屋の辻へ行こうものなら
「これは先生のお言葉とも覚えん、さほどに我々を
「とにかく引上げ給え、こちらの出様が悪い、かけ合いが礼儀でない」
小兵にして精悍な、左の眼のつぶれた浪士と、他の浪士どもとの問答はこんなふうであります。味方をたしなめて敵の者を
「さて、明日は大和へ入って
左の眼のつぶれた浪士は、また地図を拡げて、
「萩原から松山まで二里一町――松山から上市までが四里と十三町――これを初瀬の方へ廻ると
里数を、あれからこれと数え立てられて一座の浪士は
「さあ、おのおの方、ここへ来て、地図をごらんなされ、那須氏には、ようこの道を御存じのはずじゃ、
「左様、十津川入りには……」
いちばん先へ喧嘩に出たのが、畳の上に拡げた絵図面の方へ首を持って来て、
「初瀬から八木へかかるが道はようござるが、近頃は……」
「松山へ出た方が近うござるか」
「左様――」
どうやら、この絵図一枚で喧嘩が納まりそうである。
この左の眼のつぶれた人は、
二十
お豊は、我を忘れて
「ああ、あの方はたしかに……」
笠を深く
お豊は
「お光さん、今こちらへ、お客様がお見えになりましたでしょう」
「いいえ」
「それでは、ここを十人ばかりのお武家様がお通りになったでしょう」
「あ、お通りになりました」
「そして……どちらへお越しになりました」
「鳥居のわきを南の方へおいでになりました」
「まあ、そうでしたか。それでは違ったか知ら」
お豊はそれから、もしやと植田丹後守の邸の前まで行ってみました。
しかし、邸はいつもの通り穏かなもので、下男の久助が打ち水をしている。
「久助さん、久助さん」
「おや、お豊さんか」
「あの、ただいまお邸へお客様がありましたか」
「いや、さっき
「ああ、そうでございましたか。あの、たったいま十人ほどのお武家が、こちらへお通りになりましたから、もしやお邸のお客様ではないかと思いまして」
「いや、そんなお客様はおいでがない、十人はさて
「そうでございましたか」
お豊はここにも言わん方なき失望でありました。
川上へ雨が降ったので、初瀬川の
お豊は仮橋から向うを見渡したけれど、桜井の町の
「ああ、わたしとしたことが、なんでこんなところまで来たのでしょう」
ここへ来ると気が抜けて、お豊は行くのもいや、帰るのもいやになりました。
地蔵堂の傍の
「お豊さん」
地蔵堂のうしろから不意に人が出て来たので、我に返ります。
「お豊さん、わしは金蔵じゃ、驚きなさるな」
「まあ、金蔵さん――」
迷うて来た――金蔵は、とうとう幽霊になって自分に取附いて来た。驚くなと言ってもこれは驚かずにはいられない、お豊は身の毛がよだって、体がすくんでしまいました。
「お豊さん、驚いちゃいけません、金蔵です、金蔵がこうして生き返って来たのですよ」
「さあ、そんなに驚いちゃいけませんというに。お
ああ、生き返って来たのに違いない、幽霊でもお化けでもなんでもなく、
「金蔵さん、お前は助かりましたか」
お豊は逃げることもできないので、やっとこう言ってみますと、
「ああ、助かりました。あの時、針ヶ別所の山の中で、
金蔵は
「見れば鍛冶倉の奴は傍で死んでいるし、それではお豊さん、お前が逃げる時に、わしの首から細引をといて行ってくれたのかと思った時は、わしは嬉しかったよ」
「あの、それは……」
「それだけでも、わしはお前さんの親切が嬉しくって、嬉しくって。あれからわしは谷を這い廻ってやっと里へ出て、
「まあ……」
「お前さんが、旅の人に助けられたことも、薬屋へ送り届けられたことも、薬屋で養生をしてもとの身体になったことも、直ぐわかりましたよ。だからわしはお前さんの家へ忍び込んで、お前さんを奪い出そうとこう思ったがね、荒っぽいことをする前に、一応お前さんに
ああ、どこまで
「金蔵さん、お前のお心は有難いけれども、どうぞ
「お豊さん、心配しなくてもいいよ。わしはここでは、手荒いことはしませんよ、ただ今晩は、お前さんに、わしの心の
「金蔵さん、おたがいに、もうそんなことをよしましょう、わたしは帰ります」
「帰しません、一通り、わしのいうことを聞いてくれなければ、ここは動かせないのですよ、お豊さん……お前さんのために、わしがどれほど苦労したか、お前さんは知るまいねえ」
金蔵はオロオロ声です。金蔵は
「わしばかりではなく、わしの親たちまで、お前さんのために飛んだ苦労をしているのだよ、あの時にお豊さんが、私のところへ来てくれれば、わしも人殺しなんぞをしなくてもよかったのだよ、ねえ、お豊さん」
「…………」
「いいかえ、わしは、お豊さん、
「ほんとに済みません、わたしが来なければ、よかったのでございます……」
「あ、お豊さん、よく言ってくれた、わしはお前さんに済みませんと言われたのが嬉しい……」
金蔵は、どうしたのか、面を伏せて沈んで涙を拭いているらしいのです。お豊は、どうにもかわいそうになって、
「金蔵さん、わたしが三輪へ来たのが悪いのですから、
「あ……ありがたい……お豊さん……」
金蔵は泣いている。
「お前さんにそういわれると、わしは思い切りたいが……お豊さん、そんなに言われれば言われるほど、思い切れなくなってしまう」
「ああ、どうしましょう」
「お豊さん、お前を思い切るくらいなら、わしは死んでしまった方がよい」
「そんなことを言うものではありません」
「お前さんが、わたしの言うことを聞いてくれなければ、わしは死にます、自分で死ぬか、役人につかまるか、どのみち、わしは死んでしまうのですよ」
「それですから、早く逃げて下さい、お金が
「お金はあるよ、家を逃げ出す時に持っていたのが、まだこの箱の中にソックリあるから、逃げようと思えば
「そんなら、金蔵さん、ずっと遠く江戸の方へでもお逃げなさい、そうしているうちに、縁があれば、またお眼にかかりましょうから――わたしも実は江戸の方へ参ろうかと思っているところでございますよ」
「ナニ、お豊さん、お前が江戸へ行く? それはほんとかい、ほんとならば一緒に行こう、ぜひ一緒に逃げましょう」
金蔵は涙の
「けれども、わたしのは、いつのことだか知れません、お前さんのは
「そんなことを言っても駄目、わしに一人で江戸へ行けなんと言ってもそれは駄目だよ」
「そんなことを言わずに、お逃げなさい、あの
「駄目だ駄目だ、公方様のお膝下がいくら賑かでも、お豊さんという人は二人といやしないからねえ」
「どうも困りました」
お豊は、もうなんと言い
「お豊さん、わしはこう思っているのだよ、まあ聞いて下さい。わたしのためにわたしの親たちまでが、この土地にいられなくなって立退いたことは、お前さんも知っているでしょう」
「はい……」
「その、わしの親たちはね、母親の里なのですよ、紀州の山奥に
「はい……」
「こちらの
「紀州へ?」
「エエ、わたしもね、お前さんの伯父さんを鉄砲で撃ったけれども、それはちっとも
金蔵は、ねんごろに、
「けれどもねえ、金蔵さん、お前のお心はほんとうに有難いと思うけれども……」
「ウム、やっぱりいけないのかいお豊さん、どうしても、お前はわしの言うことを
「お前さんの心は、よくわかっているけれども……」
「心だけでは駄目だよ、お豊さんが、わしの言う通りになってくれなければ、わしはどのみち無い命だからね……」
「金蔵さん、どうか短気なことをしないで
「そのうちにはといって、お前、そのうちにわしが役人につかまったらどうします。どうか、お前さん、わしと一緒に逃げて下さいよう」
「そんなことをおっしゃっては困ります」
「そんなら、お豊さん、どのみち捨てる命だから、わしは死ぬ、死ぬけれども、一人では死なないよ、ああ、一人では死ねないのだよ、お豊さん」
「どうも困りました」
「困ることはありやしない、お前さんが、わしの心を汲みわけてさえくれたなら、わしの命も助かる――お豊さん、わしは、お前のからだに指一本だって指しやしないよ、ねえ、お豊さん、いいかえ」
「金蔵さん、そんなことはできません」
「できない?」
「エエ、少し都合があって、お前さんと一緒に逃げることはできません」
「ほんとにできない? できない? そんなら」
ここに至って金蔵は懐中から短刀を一本取り出します。
「お豊さん、では、お前を殺して死ぬよ、無理心中だよ」
金蔵は悪党に返った。
「金蔵さん、殺して下さい」
意外にもお豊は驚かなかった。
「ここでお前に殺されたとて、誰もわたしが、金蔵さんと心中したと思うものはありますまい、どうせ、わたしも罪の尽きない
「ナニ、殺せ? よし殺すとも」
金蔵は短刀の
「お豊さん、殺される命なら、ナゼ生きた身体をわしにくれないのだい……同じことじゃないか、生きていた方が割がいいじゃないか」
「金蔵さん、もうそんなことを言わないで、早く殺して下さい」
「殺す、殺すには殺すが……お豊さん、もう一ぺん考えてみておくれ」
「わたしは死んだほうがようござんす」
「死んだ方がいい? ああ、なぜお前はそんなにわからねえのだ。よし殺す……そうしてお豊さん、わしは、ここでお前を殺しておいてね、薬屋の家へ火をつけるよ、それから、陣屋の植田へも火をつけるよ、その上に三輪の神杉へも鉄砲の
「まあ、金蔵さん――待って下さい、待って下さい、金蔵さん」
お豊は今となっては、金蔵の手を
「金蔵さん、お前は、わたしの命を取っただけでは
「するとも――あの薬屋の源太郎めは、わしの親から、お前さんを貰いたいと頼んだのに、てんから
「ああ、どうしましょう、金蔵さん、それだけはよして下さい、わたしをここで存分に斬るとも突くともして、それでほかの怨みは帳消しにして下さい」
「そうはいきませんよ、わしの親たちが、先祖からのこの三輪の土地にいられなくなったのは誰のおかげだい――わしはもう、あの三輪というところを焼き亡ぼしてしまって、そうしてその火の中で焼け死ぬのだよ」
「金蔵さん、なぜ、お前はそんな怖ろしいことをします」
「そんな怖ろしい心にしたのは、誰だい、お豊さん」
「金蔵さん、そんな無理なことを言わないで……」
「何が無理だい、お前が人のおかみさんならば、わしの言うことが無理かも知れないが、お前は定まる夫のない身ではないか、それにわしが思いつめたのが無理かい」
「ああ、わたしは、どうしてよいかわからない――」
「わからないことはないのだよ、わたしと一緒に、お前が逃げてくれさえすれば、わしは全く心を入れかえて、お前が商売をしろと言えば商売もする、江戸へ行きたいといえば江戸へ行く、どうしてお前のからだに、こんな怖ろしい刃物なんぞを当ててよいものか……お前を
金蔵はお豊の
「金蔵さん、わたしには、わからない、どうしてよいのかわかりません」
「お豊さん、そこで静かに考えて下さい、わしも考えるから」
お豊の見た眼に誤りはなく、机竜之助はかの伊賀の上野から、松本
薬屋の二階からその姿を認めて、お豊がここまで足を引かされたことも、まるきり夢ではありませんでした。
しからば、竜之助は今どこにいるか――なんでもないこと、川を隔てた直ぐ向うの桜井の町へ、一行の浪士と共に宿をとっているのでした。
これら浪士の一行が、この後、中山
「天誅組」は天忠組である、
では、机竜之助こそ、松本奎堂あたりに説かれて、改めて天朝へ忠義の心を起したか、徳川へ尽す志を変じたか。
そんなはずはない、竜之助が新徴組に腕を貸したのとても、なにも徳川に恩顧があるわけでもなければ、幕府を倒してはならないという義憤があるわけではないので、ただ行きがかり上そうなったまでであります。
されば、「天誅組」の仲間になったとても、事改めてギリギリ歯を
「どうじゃ、吉野の方へ遊びに行かんか」
「行ってもよい」
これで相談が
けれども、竜之助の大和の国へ逆戻りをして来た縁故がただこれだけであると思うのもあまりに
宿に着いて、風呂を上り夕飯も済んで例の浪士どもは、
彼は深い編笠の紐を結びながら、桜井の宿を出て初瀬河原の方へ行く。天はうすら曇って月は
竜之助は三輪へ行くつもりで初瀬川の橋を渡って、ちょうどかの地蔵堂の
竜之助は、今、河原の地蔵堂のところまで来た。そうして、月影のさすところの行手に二つの人影を認めた。
男と女、どちらも若い。
そして、どちらも泣いているようだ。日の光のさすところでは会えない連中が、月影に忍んで泣き明かすのである、
「金蔵さん……」
泣き伏していたような女が面を上げる。ああ、その声は……竜之助は、立ってしまった。幸い、そこに地蔵堂の蔭がある。
「お豊さん」
若い男の声、これも聞いたことのあるような声。
「金蔵さん……わたしは覚悟をしました」
女は覚悟をしましたと言う。覚悟とは何をいう。
竜之助は、この女あるが故に、大和に舞い戻ったのではないか。
若い男は、
「お豊さん、覚悟とは何だい」
「金蔵さん、わたしは、もう
「ナニ、わしに任せる……それは
「よく言ってくれた、それは
「とても、こうした
「そうきまれば……お前さんさえその気なら、なんで人を怨もう。ああ嬉しい、わしの願いが
竜之助のここへ来かかることは遅かった。
さいぜんからの始末をようく聞いていたならば、お豊の覚悟をしたというわけも、金蔵の嬉しがるわけも、すっかりわかるのであるが、これだけ聞いたのでは聞かない方がよかった。
何だ!軽薄な女。
もう自分のことは、すっかり忘れてしまって、ここでは別の若い男と出会って、身を任せる――
昔は、この女がまた別の男と心中の相談をして
「お豊さん、お前はいったん死んだ体、わしもいったん地獄を見て来た体、
金蔵はお豊の手をとった。お豊は金蔵のする通りにさせて、争わない。
竜之助は、地蔵堂の蔭に立ったなりで、何と手出しもしませんでした。