一
伊勢から帰った後の道庵先生は別に変ったこともなく、道庵流に暮らしておりました。
医術にかけてはそれを施すことも親切であるが、それを研究することも
「
ナイフの刃を
「それからまた、こうすれば
たあいないことを言って、ナイフをおもちゃにして解剖図を研究しているところへ、
「先生」
「何だ」
「お客でございます」
「お客? いま勉強しているところだから、
「与八さんが来ました」
「与八が?」
「与八さんが馬を
「与八が馬を曳いて来た? そいつは面白い、こっちへ通せ」
与八が沢井から久しぶりで道庵先生を訪れて来ました。
「与八、お前が来たから今日は、おれも久しぶりで江戸見物をやる、どうだ、両国へでも行ってみようか」
「お
その翌日、道庵は与八をつれて両国へ出かけました。与八の背には
道庵先生は両国へ行く途中も、例の道庵流を発揮して通りがかりの人を笑わせました。
「あそこが両国だ、大きな川があるだろう、
こうして二人は両国の
「先生、こりゃ何だい」
与八はいちいち見世物の絵看板の前で立ち止まる。
「こりゃその
「駱駝というのは何だろう、馬みたような変てこなものだな」
「そりゃ
「背中に
「あれが
「おおきな瘤だな」
「はははは」
「先生、こりゃ何だ」
「これは
「
「その次は竹細工、糸細工、
「綺麗だなあ」
「それから
「やあ、駒から水が出ている」
「今度は
「やあ、機関まである」
「女盗賊三島のお仙ときたな、こりゃ三座太夫だ、次がおででこ芝居」
「芝居で歯磨を売るのはおかしい」
「はははは」
「それでも先生、『おあいきやう手踊り御歯磨調合人、岩井
「いや、こいつらは、もと歯磨売りとしてその筋へ願ってあるのだ、芝居をすると言って始めたのではない、それだから今でも歯磨の看板を出しているのだ」
「ああ、
「与八、あんなものを見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」
「みんな中で笑っている」
「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」
「そうですか」
「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば
「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」
「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」
「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な
与八は余念なくこの立看板を
「大評判、印度人槍使い」
ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。
「先生、この槍使いの
「はははは」
「面も身体も真黒で、眼を光らかして、
「こりゃ印度人だよ、印度といって
「へえ」
「印度から来た槍使いと書いてある」
「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」
「そうだ」
「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」
「黒ん坊とさえ言うからな」
「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」
「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」
「へえ」
「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」
「ずいぶん黒いなあ」
「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました
「ははあ、これがこのごろ評判の槍使いだな」
「先生、本当だんべえかね、本当に印度からこんなエライ槍使いが来ているのかね」
「口上言いの言うことは
「そうかなあ」
与八はしきりにその印度人槍使いの大看板をながめていますから道庵が、
「与八、これがそんなに気に入ったか。それでは、こいつをひとつ見せてやろう」
「そうしておくんなさい」
「俺もこいつをひとつ見たいと思っていたのだ」
二十四文ずつの木戸銭を払って、道庵と与八はこの小屋の中へ入りました。
小屋の中は
道庵と与八とは土間の程よいところに陣取って、与八は郁太郎を
「たいへん人が入っている」
この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。
紋附を着て袴を
道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、
「今度は、例の印度人の槍使いだな」
問題の印度人、
「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」
前のに
「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に
見物はその異様な
「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」
その
「イヨー、舶来の加藤清正!」
「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」
見物は
「先生」
「与八」
「看板の通りだね」
「看板の通りだよ」
やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから
「キーキーキー」
白い歯を
「あれが向うの
「それに違えねえ」
印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を
道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。
「はて、おかしいぞ」
道庵先生もまたこの時首を
「何だね、先生」
「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」
「先生は印度人にも友達があるのかね」
「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、
道庵先生は、
「あはははは」
突然、大きな声で笑い出しました。
時々変なことを言い出すお医者さんと思って、あたりの見物も気に留めなかったが、この時は笑い方があまり
「先生、何を笑ってるのだ」
与八も驚かされました。
「あはははは」
道庵はやはり大口をあいて笑います。
「何がおかしいだか」
与八は受取れぬ
「まず前芸と致しまして槍投げの一曲、
口上言いが言う。
印度人が槍を取り直して、ヒューと上へ投げる。
「うまいぞ! あははは」
道庵先生が
「黒さん、しっかり頼むよ」
道庵先生に言葉をかけられるたびに、印度人がドギマギして、ほかの人が見てもおかしいと思うくらいに、槍の扱いがしどろになってしまうから見物が、
「なんだか危なっかしい手つきだ」
幸いに面の色は真黒だから、表情が更にわからないけれど、どうも黒さんの調子が甚だ変なのであります。それでもやっと数番の槍投げを
「次は槍飛び!」
口上がかかると、
「しっかりやれ、道庵がついてるぞ!」
道庵がまた大きな声。
槍飛びの芸当にかかるはずの印度人が、この時ふいと舞台から逃げ出しました。
「おい黒さん」
口上言いが驚いて呼び止める。それを耳にも入れないで、印度人は、槍を突いて
「おや、黒さん、どうしたんだい」
口上言いや
いよいよ本芸にかかろうとする前に、
「どうしたんだ」
「
「急病でも出たのかな」
「ひょいと出て、ひょいと引込んでしまやがった」
「おかしな奴だよ」
「出方が追っかけて行かあ」
「あれ、楽屋へ逃げ込んでしまったぞ」
「どうしたわけなんだ」
「やあい、黒、どうしたんだ」
「黒!」
「黒ん坊!」
「早く出ろ! 黒やあい」
見物は、ようやく沸き立ってきました。
「東西」
口上言いが、沸き立つ見物の前へ出て来て、
「ただいま、印度人が急病さし起りまして、暫らく楽屋に休憩とございます、なにぶん熱国より気候の違った日本の土地に初めて参りましたこと故……」
「あはははは」
口上の申しわけ半ばに道庵が笑う。口上は腰を折られて変な目をして道庵を見たが、また申しわけをつづけて、
「食当り水当りのために
「その病気なら俺が癒してやる」
またしても道庵の
「当人病気休息の間、代って手品水芸の一席を御覧に入れまあする」
「馬鹿野郎」
見物が承知しませんでした。
「手品なんぞは見たくねえ、早く黒を出せやい、黒ん坊を出せ」
「新宿の八丁目から、わざわざ黒ん坊を見に来たんだい」
自分の楽屋へ逃げて来た印度人、楽屋にはお玉のお君が
「どうしたの、友さん」
「駄目だ、駄目だ」
ここへ来ると印度人は楽な日本語です。
「まだお前、引込む時間ではないのだろう」
「いけねえ」
印度人は、お君の傍へ倒れるように坐って首を振りました。
「どうしたんですよ」
お君は胡弓をさしおいて心配そう。
「ばれちゃった、ばれちゃった」
「まあ」
お君も安からぬ色。
「誰か、お前が印度人でないと言う人があったの」
「うん」
「じゃあ何かい、お前が、宇治山田の友さんのお
「そうは言わねえけれど、知っている人に見つかっちゃった」
「知ってる人? それは誰」
「それは、
「お医者さん?
「いいや、いつかもお前に話したろう、俺らが
「それでは、あの下谷の長者町にいらっしゃるという先生かい」
「そうだ、その道庵先生が見物に来ているのだよ」
「まあ、そりゃ驚いたね。それだってお前、なにも心配することはありゃしないよ、お前の方では道庵先生だとわかっても、先生の方ではお前が友さんだとわかる
「ところが駄目なんだ」
「わかっちまったのかい」
「なんしろ、俺の身体は頭の上に毛が幾本あって、足の
「そりゃ困ったね。でもね、先生は悪い方じゃないんだろう、だからここでお前を
「そんなことはしねえ、素破抜きなんぞはやりゃあしねえが、あはははと大きな声で笑う」
「そりゃ、知った人が見りゃおかしいだろうよ」
「そうして、『黒、しっかりやれ、俺が附いてる』なんと言うのだ、あの先生、酔っぱらっているからね」
「何と言ったってかまやしないじゃないか、
「だってお前、
「困ったねえ」
「俺らはもう印度人は廃業だ、親方にうまく持ちかけられて、お前までがやってみろと言うものだからこんなに黒くなってしまったが、今日という今日は、とてもやりきれねえ」
「困ったねえ」
「印度人は俺らの
「困ったねえ」
この時、見物席の方で
「あれ、あんなにお客が騒いでいるじゃないか、お前が中途で引込んだからなのだろう、お客様はみんなお前を見たがって来るのだからね」
「俺らはここへ寝てしまう」
この印度人の正体が
「黒さん」
楽屋へ来たのは洗い髪の
「どうしたんだい」
「親方、済まねえが……」
米友はこの年増を親方という。そうして済まねえと言って
「済まないといったってお前、あの通り、お客がわいてるじゃないか」
「ばれちゃったんだ、親方」
「ばれたって? 誰もそんなことを言やしないよ、あの通り騒いでいるのはみんな、お前を見たがって騒いでるのじゃないか、お前がイカサマだっていうことを、一人も言ってるものはないじゃないか」
「けれども親方、たった一人、知ってる奴があるんだから、何とかしておくんなさい」
「なんと言ったって駄目なんだよ、お前が出て挨拶しなけりゃ、お客は
「では親方、病気だと言って休ましておくんなさい、今日一日、休ましておくんなさい、今晩よく考えておきますから」
「困るよ、そんなことを言ったって。あれあの通り、大騒ぎが始まっているじゃないか。それではお前、ちょっと出て挨拶しておくれ、病気で芸ができませんからって、お前の
「俺らは出るのはいやだ」
「いやだとお言いかえ」
お君はそれと心配して、
「友さん、そんなことを言わずに出ておくれよう、出て、なんとか言っておくれよう」
「うむ」
「さあ、早く出て行っておくれよう」
「うむ」
米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな
親方の
「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行って黒を引き出して見せる」
「それじゃ先生、あの黒ん坊とお前さんは知合いなんだね」
「なんでもいいから見ていろ」
「先生、印度の言葉がわかるのかね」
「わかるとも、印度の言葉であれ、
「豪いもんだな」
「いよいよ楽屋の方へ押しかけて行ったな、うまく黒を引っぱって来ればいいがな。さあ、黒が来てなんと言うか、よく聞いていろ。このなかに印度の言葉がわかる奴は
「先生、あんまり大きなことを言うと見物の人に
「なあに、大丈夫、おれは印度の言葉を心得ている、その上に印度人の病気を見出すことが上手だ」
「先生、出て来ましたぜ」
「やあ来た来た。黒、またやって来たな、しっかりやれ」
「東西――」
口上言いと出方とが黒を引っぱって、場の真中へ出て来ました。黒は元気のない歩きつきをして道庵の方を見るのが、鼠が猫を見るような態度であります。
黒が出て来たので見物は、やっと納まりました。
「いよう黒ん坊!」
「御見物の皆々様へ申し上げます、ごらんの通り色が黒うございますから、喜怒哀楽の心持が現われませぬ、どうぞこの足どりの
口上言いがぺらぺら
「明日は間違いがございません……」
また手を引く。
「槍投げ、槍飛び、馬上の槍、水中の槍、綱渡りの槍、飛越えの槍、
「
「おや!」
見物は驚く。
「嘘だ!」
米友が
「おや、あの印度人が日本の言葉を使ったぜ、そうして口上をひっくり返した」
見物はまた沸く。
「あはははは」
道庵先生が、また大笑いをする。
その晩に、お君と米友はこの見世物小屋を追ん出されてしまいました。
「友さん」
お君は泣き出しそうな
「お前は、あんまり気が短いからいけないのだよ」
「だって仕方がねえ」
米友は、この時はもう黒ではない。黒いところはすっかり洗い落されて、昔に変るのは
「口上さんが申しわけをしている時に、あんなことを言い出さなければよかったに、あれですっかり
「あの時は、ついあんなわけで、口上の
「あたりまえなら、
「うん、
「だけれどあの親方は、そんなに悪い人じゃないよ。なにしろ女の身でもって、あれだけのことを踏まえて行こうというんだから、なかなかしっかりしたところがあるねえ」
「そうだ、あの親方は、あれでなかなかいいところがあるよ」
「第一、
「そうだ、それからとうとう、おれを印度人に化けさせやがった。はじめの考えでは、
「これからどうしようね」
「どうしようと言ったって、まあ今夜はどこか
「あの親方が言うのにはね、君ちゃん、お前は一旦ここを出ても、気があったらまた戻っておいで、どんなにも相談に乗って上げるからと、出る時に親切に言ってくれたのよ」
「俺らにはそんなことを言わなかったが、お前にだけそんなことを言ったのかい」
「そうだよ、わたしにだけ
「はは、それでは親方は俺らには
「そうですねえ、あの親方さんが親切に言ってくれるものだから」
「そうか……」
二人は両国橋を渡ります。夜風が吹いて川を渡るのに、見世物場では賑やかな
二
「君ちゃん、俺らもようやく奉公口がきまったよ」
米友が言って来たのは、それからいくらもたたない後のことでありました。
「そうかい、それはよかったねえ、どんなところなの」
着物を畳んでいたお君が
「金貸しの家だよ、このごろ金貸しを始めた家なんだよ」
「金貸し? お金を貸して利息を取る商売なの」
「そうだよ」
「金貸しは貧乏人泣かせで、罪な商売だというじゃないか」
「罪な商売かも知れねえが、俺らがそれをやるわけじゃない、俺らはただ奉公人なんだから」
「そりゃそうさ。まあ、何でもよく勤めさえすりゃいいんだろう」
「家の留守番をして、庭でも掃いていりゃいいんだとさ。俺らは片足が不自由だけれども力があるから、泥棒の用心にいいからって、それで雇われることになったんだ」
「そうだろうねえ、金貸しの家なんぞは泥棒に
「大丈夫だ」
「それで家の人数は多いのかい、雇人はお前のほかにたくさんいるだろうねえ」
「うんにゃ、俺らのほかには
「大へんにこぢんまりした金貸しさんだねえ、それでは家の者が多いのでしょう、息子さんだとか、娘さんだとか」
「それもずいぶん少ないのだよ、よく考えてみると、おかしな家だよ」
「おかしな家とは?」
「でも、主人というのは子供なんだからね、子供といっても十四か五ぐらいだ、それが主人で、そのお母さんともつかず姉さんともつかない女が一人、その子は、おばさんおばさんと言っているが、その二人きりなんだ」
「その女の人と子供と二人で金貸しをしているの」
「うむ、そうだよ、代々やっているのかと思えばそうでもなく、ほんの近頃はじめたらしいんだから」
「では、そのおばさんというのが、
「そんなことだろうと思うよ。その子供がまた、ばかにマセた子供でね、主人気取りで、俺らを使い廻す気になっていて、うっかり坊ちゃんなんと言おうものなら、怖い眼をして睨むんだからおかしいや」
「その子供さんが番頭をするんだろうから、お前は番頭さんといえばいいじゃないか」
「番頭さんでも気に入らないんだ、旦那様と言わないと納まらないんだからおかしいやな」
「旦那様というのは少しおかしいね、十四や十五の子供をつかまえて」
「けれども旦那様と言うことになったんだ。そうしてみると、俺らはあの、おばさんという人の方をなんと言っていいか、それをいま考えているんだ」
「その子供が旦那様では、まさか奥様とも言えないしね」
「そうかと言って、まだお婆さんという年でもないんだ、やっぱり奥様と言っているより仕方があるめえ」
「なんでもよいからその時の都合のいいようにお言い。それからお前、短気を出さないでよく奉公をしなくてはいけないよ」
「うまく勤まるかどうだか。それにしても君ちゃん、お前の方はどうなるのだい、お前はあの
「ああ、少しの間だから行ってみようと思うの、いつまでこうしていたって仕方がないから、わたしもあの人たちのお
「もう返事をしてしまったのかい」
「ええ」
「旅に出るのは危ないぜ」
「でも永いことじゃないから」
「どっちの方へ行くんだい」
「甲州とやらへ」
「甲州へ?」
「すぐ帰って来ますよ」
お君は畳みかけていた着物を、また畳みはじめます。
「君ちゃん」
米友は、燈下に着物を畳むお君の姿を横の方から暫く眺めていて、思い出したように名を呼びました。
「何だえ」
お君は着物を畳みながら返事。
「お前は旅へ行く、俺らは奉公に行く、そうすると、また暫く会えないね」
「何だい友さん、そんなに心細いようなことを言ってさ」
「でも、暫く会えないじゃないか」
「暫く会えないには違いないけれど、お前の言うのはなんだか一生会えないような心細い言い方をするから」
「一生会えないかも知れないからさ」
「
「それでも、なんだかそんな気持がする、これっきり一生会えないような気持がする」
「またそんなことを」
「お前、その畳んでいる着物は、そりゃあの親方さんから貰ったんだね」
「そうだよ、ちょうどわたしの身体に合っているから持っておいでと言って、あの親方さんがくれたの、まだ一度ぐらいしきゃ手を通したことがないんだよ」
「綺麗な着物だね」
「それからお前、
「お前、そんなにたくさん貰って嬉しいかい、有難いと思ってるのかい」
「そりゃ誰だって、こんなに結構なものを貰えば嬉しいと思いますわ、嬉しいと思えばお礼の言葉も出るじゃありませんか」
「そうだろうなあ」
「ほんとうに、あの親方さんは親切な人ですよ、自分の妹のように、わたしの面倒を見てくれますから」
「けれどもね、君ちゃん」
「ええ」
「あれは本当の親切ですると、お前は思っているのかね」
「本当の親切?……本当も嘘もありゃしない、このせちからい世の中に、こんなにして下さる人が二人とありましょうか」
「君ちゃん、お前は正直だから、なんでも人のすることを、する通りに受けてしまうんだが、伊勢の拝田村にいた時はそれでいいけれど、江戸というところはそれでは通らないことがあるんだから」
「ホホホ、お前はおかしなことをいう、どこの国へ行ったって、人情に変りというものがあるはずはないじゃないか」
「ところがなかなか、そんなわけにばかりはいかないのだよ、俺らの身にしたって、あんな約束ではなかったのだけれど、江戸へ来てみると、直ぐに真黒く塗られたのは、この通り洗えば落ちるけれども、君ちゃん、お前がもし真黒く塗られると、洗ったってどうしたって落ちやしないよ」
米友はいまさらのように自分の腕を撫でてみて、それから
「ホホホ、友さん、お前は今日はどうかしているね」
お君は無邪気に笑います。
「まさかわたしを真黒にして、印度人に仕立てるようなこともないでしょう、そんなことをしたって、わたしでは見物が納まりませんからね」
「真黒にするというのは、そのことじゃねえんだ、お前の身体を真黒にしようと言うんじゃねえのだ」
「どこが黒くなるの」
「はは、まだお前はそれが気が附かねえんだ、心が黒くなるといけねえんだ」
「心が黒くなる? ばかなことをお言いでない、心なんていうものには色はありゃしない」
「それはないさ、今のところお前の心には色がないんだから、それで大事にしなくちゃいけねえ」
「友さん、お前は学者だから、心がどうだなんて言うんだろうけれど、わたしは学問がないからそんなことは知らないよ、黒くなったら洗えばいいじゃないか」
「洗っても落ちねえ」
「なんだか、お前の言うことはわからない」
「わからねえから、それで俺らは心配なんだ、黒くなると二度と洗い落すことはできないんだから」
「まだあんなことを言っている」
それで暫らく二人の無邪気な会話は
「君ちゃん、どうだい、旅へ出ることをよしにしてしまったら」
「ええ? わたしに旅へ出るのを止めにしろって?」
お君は畳みかけた手を休めて、米友の方を向いて眼を円くする。
「そうしてくれると、いつまでも一緒にいられるんだ」
「そんなことを言ったってお前、もう二三日でここに泊っている宿賃もなくなってしまうのに、お前は奉公に行くんだろう、とても二人一緒に過ごして行けることはできないじゃないか。それにお前、今になって急に行けないなんて、あれほど恩になった親方さんの前へ、そんなことが言えるものかね」
「それはそうだろう。それじゃあどうも仕方がねえから、行っておいで」
「情けない言い方をするねえ、もっと威勢よく力を附けて言ってくれなくちゃ」
お君はどこまでも、米友の言うことを気にしないで、いつもの通り軽くあしらって、着物を畳んでいるが、米友はやっぱり浮かない
「ああ、忘れていた、ムクにまだ夕飯をやらなかった」
米友は、あわて気味に頭を上げると、
「ああ、そうそう、かわいそうに、ムクにまだ夕飯をやらなかったのね」
お君も
「ムクや」
米友は直ぐに台所から食物を持って来て、ムクに食べさせました。
「ムクや」
尾を軽く振って夕飯を食っているムク。それを見ながら米友が、
「ムク、
こう言って米友の面が急に明るくなって、
「君ちゃん、君ちゃん」
「なに」
「旅へ出るにもムクはつれて行くんだろうな、ムクをつれて行っても親方は
お君は
「ああ、それはいいんだよ、ムクにはこれから芸を仕込むなんて、親方も大へん可愛がってるから」
「それで安心した、行っておいで、行っておいで」
米友はホッと息をつきました。
三
米友が庭を掃いていると、木戸口をガラリとあけて入って来たのは十四五の少年であります。子供のくせに気取った
「友造、誰も来なかったか」
「へえ、誰も参りませんよ」
「ああ、そうか」
「ばかにしてやがら」
相変らず
「友造、友造」
奥の方で呼ぶ声がします。
「ばかにしてやがら、友造、友造と噛んで吐き出すように言やがる」
「友造、友造」
「
「友造、友造」
「はははのはだ、友造がどうしたんだ、友造で悪けりゃ勝手にしろ」
「友造、友造」
「やあ、こっちへやって来るな、怒ってやがる、
「友造、友造」
キンキンした声で怒鳴りながら奥から飛んで来る様子。
「隠れろ、隠れろ」
友造の米友は縁の下へそっと隠れました。
「おや、ここにもいない、友造、どこへ行ったんだ、友造」
「はははのはだ」
米友が縁の下で舌を出すと、忠作はその上で
「友造、友造」
「はーい」
縁の下から返事。
「縁の下にいやがる。何をしているんだ、さっきからあれほど呼んだのが聞えないのか」
「聞えませんでした」
「嘘をつくな」
「嘘じゃありませんよ」
「嘘でなけりゃ貴様は
「何だと」
「ナニ! 主人に向って貴様は口答えをするか、主人に向って」
いつもの米友ならばなかなか黙ってはいないのだが、今日は奉公人の友造、短気をしてはいけないということが、お君からのくれぐれもの
「どうも仕方がねえ、なるほどお前さんは主人だ」
米友――ここへ来てからは友造という名に改められたが、
「馬鹿、
「へい」
「さっさと掃いてしまってこっちへ廻れ、よく呑込めるようにしてやるから」
忠作は障子を荒々しく締め切って奥へ行ってしまいました。
「ちぇッ」
友造は舌打ちをして、
「いやになっちまうな、また日済集めにやられるんだ。日済集めは俺らは
友造は口小言を言って庭を廻りました。
米友の友造が貸金を集めに行ったあとでも、忠作はなお一生懸命に
「七軒町の小間物屋さんが申しわけに来たから、そんならそれでよいと言って帰してしまいましたよ」
「帰してしまったって?」
忠作は
「帰してしまっては困るじゃありませんか、あの口は十五両一分で貸してあるんですよ、
「でも、あの人は気前のいい人だから、ありさえすりゃあ返すんだろうけれども、無いから返せないのだろう、
「これは驚いた、そんな
「いいじゃあないかね、二日や三日は」
「いけません、そんな了簡では金貸しはできません」
「金貸しという商売も思ったより
「忙しくって結構、忙しくないようでは上ったりですよ。おかげさまで、これごらんなさい、
「使う方ならいくらでも引受けるが、
「そうではありませんよ、その道へ入ってみるとこんな面白いことはない、なにしろ二十五両一分というのが利息の通り相場で、二十五両貸して月に一分の利息を上げる、それより上を取ってはならないことにお
忠作は帳面と算盤を見比べながら、ひとり
「わたしの知ってる人が証人に立つから、百両融通してもらいたいと言って来たがどうだろう、借主は両国で景気のいい見世物師だという話だが、証人が確かだから……」
「見世物師?」
「ええ、両国に出ていたのが今度、旅を打って廻ろうというのに、仕込みや何かで金がかかるから、少しばかり借りておきたいと言うんですよ」
「なるほど、見世物師なんというものは、あれで当るとなかなか
「今晩、また相談に来ると言っていたよ、よくその時に聞いてみたらいいでしょう」
「向うの話ばかり聞いていても駄目、実地に行って様子を見て、それから
「そんなら行ってごらん」
「ほかにも廻るところがあるから、夕飯が済んだら出かけましょう。両国はなんと言いましたかね」
「何と言ったか、わたしもよく知らない、
お絹は気のないように、これだけのことを言いぱなしにして、自分の居間へ帰ってしまいました。居間へ帰ってからお絹は、机に
「ほんとに
お絹は続いてこんなことを考えていました。
「今晩はどこへか出かけてやろう。それにしても困ったのはお金、いちいちあの子が勘定して封印をして、ほかの人には手もつけさせないようにしてあるんだが、ひとつ探してみてやろうか。あとで文句を言うだろう。なるほどこうして置けば、お金はズンズン利に利を産んで
お絹は忠作をうまく使って、番頭も小僧も兼ねた仕事をさせ、自分は蔭で好きなことをして面白おかしく暮そうという目算であったのが、その事業はどうやら思うようにゆくが、お絹の目算は
四
貸金を集めに一廻りして来た米友。
神田の
「ちょいと、旦那」
呼ばれて足をとどめた米友の友造が、
「誰だ」
「様子のよい旦那」
「
「こっちへいらっしゃいよ」
「お前はそこで何をしてるんだ」
「そんなことを言わずに、こっちへいらっしゃいよ、ほんとうに様子のいいお方」
「ばかにしてやがら」
「小作りで
「ばかにしてやがら、小作りだろうと大作りだろうとお前の世話にゃならねえ」
「ねえ旦那」
「用があるなら早く言いねえな」
「何を言ってるんですよ、用があるから呼んだんじゃないか」
「そんなら早く言ってしまいねえ、俺らはこれでも主人のお使先だ」
「まあ、ゆっくりしておいでなさいよ」
「大事の金を懐中に持ってるんだ、主人の金だから大事だ」
「お金? 頼もしいわ、そんなに大事なお金なら暫らく預かって上げようじゃありませんか」
「お前は俺らを
「あははだ、お前さんこの柳原の土手を初めて通るんだね」
「初めてなもんかい、これで三度目だい」
「三度目? それでも夜になって通るのは初めてだろう」
「そりゃそうよ」
「そうだろうと思った、この柳原は昼間通るのと、夜通るのとは規則が違うんですからね。夜になってからこの通りを通るに、税金がかかることを知らないんだろう」
「税金がかかる?」
「税金をわたしに納めてからでなければ、通れない規則なんですからね」
「馬鹿野郎」
女がからみついて来るから、友造は面倒がって逃げ出しました。逃げ出すといっても足の不自由な友造だから、早速には逃げられないで
「ホホホ、
友造の逃げっぷりを立って見て笑っていました。息せききって逃げて来た友造、
「ばかにしやがら、女でなければ、打ちのめしてくれるんだが」
ようやくにして長者町の奉公先へ帰った友造は、御主人の居間へ行って見ましたが、どこへか出て行ったらしく、暫らく待ってみても帰る様子がないから、自分の部屋へ帰って一息ついている間に、疲れが出て、ついうとうとと寝込んでしまいました。翌朝になって、忠作の前へ呼び出された友造が、
「困ったなア」
「馬鹿」
忠作のために頭ごなしに叱られました。
「だから
「エエと、柳原の土手だ、たしかにあの時に落したに違えねえ」
「柳原の土手でどうしたんだ」
「あの土手で女の
「馬鹿、女の追剥というやつがあるか」
忠作は
「ありゃ
「なるほど」
「何がなるほどだ、その夜鷹に捲き上げられたんだろう」
「どうも仕方がねえ、もう一ぺん行って探して来る」
「うむ、探して来い、出なけりゃ道庵さんに話して、せっかくだがお前に暇を出すから、そのつもりでしっかり探して来い」
昨晩、十両余りの金をいつどこへ落したとも知らずに落してしまったが、その晩は疲れて寝込んだから、今朝まで気がつきませんでした。いざ御主人忠作の前へ並べようとしてみるとその金が無いので、米友も色を変えてしまった、というわけで、思い当るのは昨晩の柳原へ出た奇怪な女の
「弱ったな」
跛足を引き引き柳原の方を差して行く。柳原へ行ってみたところで、あの女が取ったものならば、出て来るはずはないし、落したものならもはや拾われてしまっているはず、こうと知ったらあの女の
「小作りで華奢で、
米友は昨晩の女の
「向うでは知ってるだろう、向うでは、
米友は
十両と少しの金を尋ね出さなければ、米友は御主人の家へ帰ることができないのです。
神田と浅草の方面をあてもなく歩き廻っていたが、
「詰らねえ」
この時、後ろの方から
「ちょいと旦那」
呼びかけられて米友は、眼をパチパチしました。
「もし、小柄で華奢なお方」
「ナニ」
米友は、たしかに聞いた声だと思いました。
「何をそこで考えているんですよ」
「少し探し物があるんだ」
「おや、探し物?」
と言った女は、ズカズカと米友の傍に寄って来ました。
「そこに突立っていたって、探し物は出て来やしませんよ、歩いてごらんなさい、小柄で華奢で
「おや、お前は……」
「探し物というのはお金でしょう、
「それ、それだ」
「そんなら御心配なさいますな、ちゃあんとわたしが預かってありますから」
「あ、そうか、それはよかった」
米友はホッと安心の胸を撫で下ろすのを、女は笑って、
「意気地のない人だねえ、女を見て、あんなに逃げなくってもいいじゃないか」
「うむ」
「お前さんの逃げっぷりがあんまりおかしいから、あとを暫く見送っていましたのよ、そうすると、
「有難う、あれは俺らの金じゃないんだ、主人の金なんだから」
「念のために、わたしは中をよく調べておきました、そうしてすぐにお係りへ届けようと思ったけれど、そうすると面倒になるし、仲間の者に見せれば、すぐに使われてしまいますから、見てごらんなさい、こんな
女は御幣のような白い紙の
「お前さん、この白い紙を取って頂戴、お前さんに取らせようと思って、わたしがワザワザこんなことをしたんだから。わたしがこんなことをしておいたのは、もしやお前さんが、お金を失くして探しに来やしないかと思って、その時の目印なんですよ。暗いところだからお互いに
「ああ、そうか、俺らはさっきから、何のためにお前がそんな紙きれを頭へ
「こちらへおいでなさい。今いう通り、人に知れると面倒になるから誰にも知れないように、わたしがよいところへそっと隠しておいて上げたのだから」
女は米友を土蔵の裏へ引っぱって行って、河岸の
「その石を
「あ、これだ、これだ」
石を転がすとその下にあったのは、まさに自分の持っていた財布。
「早く持っておかえりなさい、それがために御主人を
「お前さんの家はどこで、名前はなんというんだ、改めてお礼に上らなくちゃならねえ」
「わたしの家? そんなことはどうでもようござんすよ、お礼なんぞはいけません――名前だけは言いましょう、お蝶というんですよ。ここへ来て、今時分、お蝶お蝶といえば、大概お目にかかれますわ」
五
落した金をお蝶という
不思議に思いながら長者町へ帰って来て、主人忠作の家へ来るには来たが、
「金は持って来たぞ、そうら、たしかにお返し申すぞ!」
米友は大音を揚げて財布ぐるみそっくりと
またも忠作の家を追ん出てしまった米友は、どこをどうブラブラ歩いて来たか、やがて下谷の山崎町の
「
米友が社前をのぞいて見ると、
「有難え、貧窮組が出来た」
その大釜からお粥を貰って食べている人を見ると、貧乏人ばかりではないようです。乞食非人の
「
と言ってる
「さあ食いねえ、貧窮組」
米友は
「貧窮組が出来たそうで、どうかお仲間にしていただきとうございます」
お粥を貰っては食べ、食べてしまうと給仕方に廻る。誰も少しも遠慮をするでもなければ、お礼を申し述べるでもないから、米友も調子に乗ってそのお粥を食べてしまいました。腹のすいている時だから、うまい。ペロリと一杯を平らげた時、またお代りを世話人が鼻先へ持って来てくれたから、それもペロリと平らげてしまいました。とうとう四杯まで、米友がそのお粥を平らげてしまって沢庵をかじっていると、
「さあ、これから広小路へ押し出すんだ」
この連中が
「貧窮組」というのもおかしなもので、誰がもくろんで、誰が
この連中が、昌平橋のところへ来て、町角へ大釜を据えました。誰がどこから持って来たか荷車が二三台、米とお菜がたくさんに積んであります。そうすると川の向うとこちらから、貧窮人が真黒くなって押し出して来ました。
しかしながら昌平橋で貧窮組と別れた米友は、ひとり柳原河岸へやって来ました。
「お蝶さん」
「だあれ」
米友に呼ばれた夜鷹のお蝶は、土蔵の裏から出て来ました。
「あら、お前さんはお金を落した人」
「お蝶さん、
「お礼なんぞ……」
「お礼といったところで、何も
「まあ、追い出されたの」
「追ん出されたんじゃない、追ん出たんだ」
「どうして追ん出たの」
「自分から出ちまったんだ、あんまり
「まあ、お前さんはなかなか感心な人ね、その心持だけでたくさんよ。けれども、旦那の家をムカッ腹で飛び出すなんて、それはお前さんが若いからよ、思い直して、お
「いやなことだ、いやなことだ」
「
「どこへ行くといって
「どうもお前さんは、口の利きっぷりやなにかがおかしな人だよ、心持に毒のなかりそうな人だよ。ほんとに行くところがなければ、わたしの家へおいでなさいな、親方に話して上げるから。わたしの親方の家は本所の
六
福士川から
「兄い、気をしっかり持たなくちゃいけねえ」
「あッ、抜いちゃいけません、先生、お抜きなすっちゃいけません、抜いてしまっちゃ納まりがつきません」
がんりきは引続いて
この山入りでは、僅かにがんりきを得ただけで、山道をもとの通りに下って、一行はまた富士川の岸に出ました。
富士川をのぼる舟は
机竜之助のいるところはかの
甲府の南の郊外にある
おりからそこの
「江戸名物、
「
そのあたりは押し返されないほどの人混みの中へ、一人の
「ははあ、江戸名物女軽業大一座」
神尾主膳もまたこの絵看板を打仰ぐと、
「評判でござりまする、女というので評判なのでござりまする、太夫から
「なるほど、ともかく江戸から出て来たものに違いはなかろう、見物して参ろう、
木戸口に立つと、
「どうやら御重役のお
木戸番が
この軽業の一行は両国に出ていた一行。米友を黒ん坊に仕立てた一座。女の
「君ちゃん、
楽屋ではお
「着物を着替えて
「お伺いしなくては悪いでしょうか、誰か代りに行ってもらいとうござんすねえ」
「そんなことはできません、お前をお名指しなんだから」
「それでも親方さん、お酒を飲めの、泊って行けのと御冗談をおっしゃると、わたしにはお取持ちができませんからね」
「いい時分にはこっちから迎えにやりますから、安心して行っておいでなさい」
「お鶴さんか、お富さんが一緒に行って下さるといいけれど」
「あの人たちは、まだこれから芸にかかるんだから身体があいてないよ」
「このまんまでは失礼でございますね」
「男衆の手もすいていないし、わたしが、ちょっと島田に
「済みません」
「どうせ
鏡台の前でお角は、お君の真黒な髪を
「君ちゃん、お前の毛はよい毛だねえ、こうして
こんなことを言いながら親方の女は、見ているまにお君の島田を
「それでは行って参ります」
「ああ、行っておいで」
親方の女は、また煙草を吹かしながら、自分が結んでやった島田髷の
「なんだか一人ではきまりが悪い、親方さん、あのムクを連れて行ってもようござんしょう、わたしはムクを連れて行きたい」
「ムクを連れて行く? ムクはこれから
「それでも、ムクを連れて行きとうございますわ」
「子供のようなことをお言いでないよ、ムクの梯子登りと火の輪くぐりは呼び物になっていて、あれで一枚看板の役者なんだから、抜くことはできませんね」
「それでは、ムクの芸が済みましたらば、ムクをわたしの迎えに柳屋までよこして下さいな、ほかの方が来て下さるのもよいけれど、ムクをよこして下されば、なおわたしは有難いと思いますわ」
「それは芸が済みさえすればムクを迎えに出してやりますよ。それから、三味線を忘れずに持っておいで、お客様にお好みがなければそれまでだけれど、持って行っても
そう言われてお君は、手慣れた三味を抱えて小屋の裏を出ました。ちょうど、空が澄んで月が出ていました。
時は秋の末でも、小屋の中の蒸暑い空気から外へ出てみると、ひやりと身に
七
「
金助といって
「そうよな、たびたび呼出しを受けてるんだから行ってみてもいい」
役割の市五郎は、金助から誘われて一蓮寺へ出かけてみようという気になったのは、一蓮寺の祭の夜は大きな
「お
二人は相携えて城内から一蓮寺をさして出かけました。
「神尾の殿様にも困りものでございますな、ああなると手が附けられませんからな」
金助がいう。
「むむ、まったく困りものだ、甲府勝手へ廻されたのを
「へえ、承知でございます、お頼まれ申した通り、神尾の殿様のなさることは一から十まで、わっしが方へ筒抜けになっていますから、今日なんぞも一蓮寺の
「そうか、大将もう一蓮寺へ出かけているのか。では向うへ行って、変なところでぶつかるかも知れねえ。金公、ここいらで一杯飲んで行こう、中へ入ると落着かねえから」
市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに
金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」
それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし
馴染と言われてお君は思わず
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている。珍らしいところで会ったからそれで昔馴染のような気がしてツイ、そちをここへ呼んでみる気になったのじゃわい」
「まあ左様でございましたか、伊勢の古市で……」
そこでお君も思い当る。思い当ったけれども、古市で呼ばれた客の数は多数であります、このお侍がそのうちのドノお客であったかということは、お君の記憶に残っていませんでしたけれども、あの時分に贔屓を受けたことのあるお客とすれば、やっぱりそれでも昔馴染。
「それとは存じませず失礼を致しました、お忘れなく御贔屓下されまして、かさねがさね有難う存じまする」
「それでよろしい、ここへ来て
「恐れ多うございますからこちらで」
「なぜそのように遠慮をする」
敷居より内へは入らないお君、それをもどかしがって神尾主膳は畳を叩く。
「あの、お座敷では恐れ多うございますから、お庭先で御機嫌を伺った方が、手前の勝手にござりまする、あの古市で致しました通り、このお庭で御挨拶を申し上げましょう」
「なるほど、古市では座敷へ上らずに、庭へ
その時に、この庭の石灯籠の蔭で人の
八
金助と離れた役割の市五郎は、ひとりで、例の女軽業の見世物小屋の前までやって来ました。
「なるほど、これが評判の女軽業か、ひとつ見てやろう」
「旦那、お
と言ったから市五郎納まらないで、
「やい、
ウンと木戸番を睨みつけましたが、木戸番とはいえ、多少江戸ッ児の気風を持っていたものと見え、
市五郎にとっては容易ならぬ
「この
木戸番は飛び下りて、市五郎の横面を撲り返しました。
「この野郎、俺を
「役割だか
木戸番と役割とがここで組打ちを始めてしまうと、最初からこの近いところにいた口上言いや
「おい、役割さんだというじゃないか、役割さんを撲ってはいけねえ」
仲裁するふりをしてポカリと撲ります。
「役割さんに失礼をしては済まねえ、八公、
と言ってまたポカリ、ポカリと撲ります。
「薪割ならばいくら撲ってもいいけれど、役割さんを撲るようなことがあっては、後で申しわけがないから早く手を放したり」
と言ってはポカリ、ポカリ、ポカリと撲ります。
「役割を撲るのはよくねえ、役割を十八も撲るなんてそんなことがあるものか、せめて十三ぐらいにしておけ」
続けざまにポカポカと撲りました。木戸の前にいた見物も、どちらかといえば見世物側に同情があって、市五郎の
「お前方は役割を撲るなんて、飛んでもないことをする、まあ俺たちに任してくれ」
と言っては市五郎をポカポカと撲る。気の毒なのは市五郎で、ポカポカと八方から
「覚えていやがれ、役割の市五郎に、よくも恥をかかせやがったな」
役割が撲られたという
折助連中といえども、そう役割ばかりを有難がっているものはない。なかには市五郎がテラを取ったり頭を
こうなると、この女軽業一軒ではなく、すべての見世物小屋がパッタリと商売を止めて、女芸人や年寄は避難させ、丈夫そうなやつだけが合戦の用意をはじめます。長井兵助などは、長い刀をしきりに振り廻しました。
けれども騒動の中心になったのはやはり娘軽業。木戸も看板も
見物の中で血の気の多いのは、頼まれもしないに弥次馬の中へ飛び込んで、喰い合い噛み合います。幸いに見物の中に気の利いたのは、
「まあどうしようねえ、お国さん、おやまさん、あれ、うちの男衆がみんな殺されちまうじゃないか、わたしたちはどうなるんでしょうねえ、親方さん、どうしましょう、助けて下さい、助けて下さい」
「そんなに騒がないで静かにしておいで、そのうちにお役人が来て
「それでも親方さん、危ない、どうしましょうねえ、力持のおせいさん、お前は力持だからわたしを
「あれ、下へ来ましたよ、
美人連は号泣する。折助どもは先を争うて梯子からこの美人国へ乱入しようとして、わーっと
それは力持のおせいさんが、いま必死の場合に、商売物の
立臼の一撃で、折助どもも少し
下では、折助と遊び人と木戸番と口上言いと出方と弥次馬とが、組んずほぐれつ
それと見て親方のお角は
「さあ、みんな、何でもいいから刃物をお持ち、
お角は剃刀一挺を手に持って、しきりと一座の美人連を励まして、自分も城を枕に討死の覚悟。
力持のおせいさんはこれに励まされて、持っていた莚を
「あれ――火がついた」
吊られてあった
「あれ親方さん、火が。この小屋が焼けてしまいますよ」
火を見た美人連は、せっかく励まされた勇気が一時に
「そうれ火事だ」
組んずほぐれつしていた命知らず、さすがに火には驚いて、組打ちをしながら逃げようとして一層の大混乱。美人連を取囲んだ一隊は、早く攻め落して分取りをほしいままにしてから火を避けようと、強襲また強襲。
火の威勢が、いよいよ天井を
「うわーう」
ムクは強いけれど、かわいそうに
「ああムクが繋がれている、ムクは強い犬だ、誰か行って鎖を解いてやらなくては焼け死んでしまう、かわいそうに、誰かムクの鎖を切っておやりよう」
お角は気がついて高いところから叫んだけれども、組み合い押し合いで、誰もそれに応ずるものがありません。
猛犬ムク! お角もよくその猛犬であることは知っています。ムクが吼えると、牛や馬までが
ムクが通ると、街道のいずれの犬も尾を捲いて軒の下へ隠れてしまったことも知っていました。
「ムクを解いてやりさえすれば、ここにいる折助どもなんぞ幾人来たって怖くはない、ナゼ早くそこに気がつかなかったろう、力持のおせいを
お角は自衛の剃刀を
「ええ、仕方がない、ああしておけばムクは焼け死んでしまう、おせいさん、力持のおせいちゃん、お前はわたしに代ってここを守って、みんなの指図をしておくれ、わたしは今ムクを助けて来るから、ムクの鎖を解いて来るから」
「親方さん、危ない」
「ナニ、大丈夫だよ」
お角は剃刀を口にくわえて、着物の裾をキリキリと
今でこそ一座の親方になって自分は舞台へ立たないけれども、お角もこの道で叩き上げた女、高いところから舞台の方を見下ろして、人の頭の薄いところを見定めてヒラリと躍らして飛び下りた身の軽さ。
お角が下へ飛び下りたのを見ると、
「それ、
登りあぐねていた折助が、折重なってお角の方へ抱きついて来る。
「何をしやがるんだい、折助め」
剃刀を振ると、
「この
大勢の折助が、お角ひとりに折重なり折重なってとりつく。
「何をしやがるんだい、お前たちの手に合うような軽業師とは軽業師が違うんだ、ざまあ見やがれ」
お角は血に
「口惜しイッ」
お角は歯噛みをしたがもはや
「あれ親方が
城を守ることの任務を忘れて、お角を折助どもの手から取り戻すべく、やっと声をかけて力持のおせいは、高いところから飛び下りるには飛び下りたが――これは軽業が本芸ではない力持専門であるから、ヒラリと身を
真先に大勢に担がれて行くお角は、歯を食いしばって、
「口惜しイッ、ムクはどうしたろう、なんだってムクに気がつかなかったんだろう、早く気がついてムクの鎖さえ解いてやっておけば、こんなことはなかったんだ、こうと知ったら君ちゃんにムクを附けてやればよかったものを、今となっては仕方がない、誰かムクを助けてやって下さい、ムクの鎖を解いてやって下さい。そうすればこんな折助なんぞ幾人来たって、こんな口惜しい目に会やしないのに。ムクを、ムクを、ムクの鎖を解いてやって下さいよう」
声を限りに叫びました。
九
お君が神尾主膳に柳屋へ呼ばれて、三味線を取り直した時にこの騒ぎが起りました。
お君は三味の糸を捲く手をとめて、
「何でございましょう、あの音は」
廊下をバタバタと駈けて来た女中が、
「喧嘩でございます、あの女軽業の小屋の内へお
「あの女軽業の小屋へ、城内のお方が押しかけてあの騒ぎ? それは大変、こうしてはおられませぬ」
お君は三味線を投げ出して立ちかける。その袖を神尾主膳は押えて、
「あの騒ぎの中へ一人で行っては危ない」
「危なくてもよろしうございます、こうしてはおられませぬ、どうぞお暇を下さいまし」
神尾主膳の袖を振り切ったお君は、三味線も
「ああ、大変なこと、火がついてしまった、こんなことならモット早く来ればよかった」
お君の来て見た時分には、小屋の裏手へ一面に火が廻っています。表へ廻ると、小屋の中から
「あれまあ、親方さんが担がれて。力持のおせいさんまでがああして。まあまあ、みんな娘たちが連れて行かれてしまう、なんという乱暴な人たちでしょう。これはまあどうしたんでしょう、誰も助けて上げる人はいないのかしら。どうしたものでしょうね。あれあれ、どこへ連れて行かれるんでしょう。わたしはまあ、どうしたらいいでしょう」
その時に、猛然として火の中より起るムクの声。
「ああ、そうだ、ムクだ。ムクは何をしているんだろう、みんながあんな目に会っているのに、ムクは何をしているんだろう。おおそうそう、ムクは芸が済むと、いつもあの鉄の棒につながれていたから、ことによると、あのまんまで誰も気がつかないで、ムクを鎖で繋ぎ放しにしておくんじゃないかしら。それだといくらムクだって動けやしない、みんながあんな目に遭っても助けてやりたくても助けられやしない。きっとそうだ、ムクは繋ぎ放しにされてあるに違いない。そんならムクは人を助けるどころではない、自分がこの中で焼き殺されてしまうじゃないか、かわいそうに。ムクがかわいそうだ、ムクや、ムクや」
お君はムクの名を連呼して、
「ああ、ムク、怪我をしないでいておくれかい、鎖につながれているだろうね、今解いて上げるから待っておいで」
袖で
「ああ、早く逃げよう、逃げておくれ」
難なく鎖が
「わたしはいいから、早く親方さんや、娘たちを助けておやり、わたしはもはや大丈夫だから早く、お前、みんなの娘たちを助けて上げておくれ、悪い奴に担がれて向うの方へ連れて行かれたんだから、早く……」
十
女軽業の連中を引っ担いで来た折助どもは、闇に
土手の蔭へ女軽業の連中を
「さあ、大変な騒ぎになってしまった、これから先をどうするのだ、まさか焼いて喰うわけにもいくめえ、そうかと言って、ここまで持って来たものを、ほうりっぱなしにして逃げて行くと、娘たちが蚊に食われてしまう、縄を解いてやれば、さいぜんのように
「なるほど、こうしておいて蚊に食わせてしまうのも残念なわけだ、縄を解いてやれば荒れ出す、そのうちにもこの力持と来た日には、三人や五人では手に負えねえ、また身の軽い方は商売柄だから、ここらの
「いいことがあるわい、一度に縄を解いてやると物騒だから、一人ずつ縄を解いてやろうじゃねえか、ここにいるおれたち仲間と、女の仲間と数を読み合わせておいて、
「そいつはいいところへ気がついた、籤引にしよう。籤引はいいけれど、この力持なんぞを引き当てたら災難だ、下手なことをやればこっちがかえってギュウと
「ものやわらかに道行という寸法に行けばそれに越したことはねえが、おたがいに
「籤を引く前にこういう趣向はどうだ、手荒いことをしなくても、女を逃さねえようにする法がある、それは
「なるほど、おれたちの仲間には智恵者が多い、裸にしておけば女は暗いところにいたがって、明るい方へ出るのをいやがる、それはいいところへ気がついた、それはいい心がけだ」
折助はとうとう、こういう決議をしてしまいました。
「そうきまったら、ゆっくりするがいい、誰か火種を持っていねえか、一ぷくやってから仕事にかかりてえ」
この時、一蓮寺の境内で盛んに燃えている見世物小屋の火の手を
「あっ、何だ、どうしたんだ、えっ、どうしたと言うんだ、痛い!」
「やっ、狼だ、狼だ、狼が出て来やがったぞ、ソレ大変だ」
山国にいると狼の怖るべきことを誇張して聞かされます。その狼の来襲と聞いて、さしもの折助どもが総崩れに崩れ立ったのは無理もないことです。鳥の羽音でさえ大軍を走らすのだから、狼の一声が折助を走らすのはまことに無理もないことでした。
事実また、この真暗な中へたしかに真黒な怪物が音も立てずに飛び込んで来て、ヒラリヒラリと飛び違えながら、当るを幸いに折助を
それ狼! と言って総崩れに崩れて逃げ出したから、まだ幸いでした。もしぐずぐずしていて、それは狼ではない、犬だ、なんぞと正体を見届けたつもりで踏み止まろうものならば、挙げて一人も残さず折助が噛み伏せられてしまったに違いない。それでも一人か二人の死人を残し、多数の怪我人を出して、
しかし、かわいそうに軽業の女たち、折助は逃げ去ったが今度はいっそう怖ろしい骨までしゃぶる獣、それの襲撃と聞いて歯の根が合わなくなりました。けれどもその怖ろしい獣は、存外、女たちにはおとなしくありました。
縛られて歯の根の合わない女たちの傍へ寄って、クフンクフンと鼻を鳴らして
「おや、ムクだよ、ムクが来てくれたんだよ、ムクが助けに来てくれたのだよ」
親方のお角がまずこう言って叫び出した時に、女たち一同の恐怖の念が歓喜の声と変りました。
真先にお角の身にかけられた縄に
「まあ、ムク、よく助けに来てくれたねえ、ほんとにお前はわたしたちの命の親だよ」
お角はムクの首を抱えてしまって、さすが気丈な女が声を揚げて泣きました。一人の身が自由になれば、あとはみんな楽に解放されてしまいます。
こうして美人連は、ムクに助けられて再び一蓮寺の境内へ帰って来た時に火事は鎮まったけれども、余炎はまだ盛んなものでした。火消も来たり役人も来たりして騒動はスッカリ納まってしまいましたが、お君の姿をどこへ行ったか見出すことができません。
十一
「それじゃ何かい、どうしても江戸へ出かけるのかい」
宿で七兵衛とがんりきの会話。
「兄貴、いろいろとお世話になったが、江戸へ出て
「なるほど、お前も腕一本取られたのがあきらめ時だ、江戸へ落着いたら、そんなことで畳の上の往生を専一に心がけてくんねえ。もしまた、自分はそのつもりでも、世間が承知しねえ時はまたその時の
「俺もその了簡で、これから生れ変るつもりだ」
「
「せっかくだが、そいつはよそう、
「悪銭というのもおかしなものだが、それじゃお前は
「一文なしだ、江戸へ出る
「腕もなし、資本もなし、それで
「なんとかなるだろうよ、運だめしだから、一文なしで出かけて行ってみよう、途中でのたれ死をしたらそれまでよ」
「その了簡ならそれでいい、自分はそれでいいけれど、もし人のかかわり合いで金がなければ男が立たねえというような時節があったら、遠慮なく俺の土蔵から出して使ってくんねえ」
「兄貴、大層なことを言うが、お前の土蔵というのはどこにあるんだ」
「それはいま言う裏街道では大菩薩峠の上、
「なるほど、兄貴の仕事はなかなか手堅いや、こうして娘をあっちこっちへかたづけておけば、いざという時どこへ飛んでも居候が利く。だが、この絵図面は見ねえ方がよかったな、これを見たために、せっかくの
「俺はそんなつもりじゃねえんだ、手前にこの金を器用に使ってもらえば金の
「それじゃ、どのみちこの絵図面は貰っておこう。しかし、これに手をつけるようじゃあ、がんりきもやっぱり畳の上では死ねねえ。それじゃ兄貴、これから出かけるから、
「そうか、そうきまったら引留めもしねえが、途中ずいぶん気をつけて、猪や狼に食われねえように」
「裏街道を行くつもりでいたが、夜道は表の方が無事だから、やっぱり表を突っ切ってやろう、今から出りゃ夜明けまでに江戸へ入るのは楽なものだ。そのつもりで、さっき、
「江戸へ行って居所が知れたら、神田の明神様へ額を納めておいてくれ、めの字を書いた
「
「おや、表がなんだか騒々しいな」
二人は言い合せたように耳を傾けて、
「
「火事だ火事だと言ってるよ。姉さん、火事はどこだい」
「一蓮寺でございますよ」
「一蓮寺? おや、喧嘩だ喧嘩だと言ってるぜ」
「なるほど、喧嘩らしい、火事と喧嘩とお
がんりきは片一方の手で
二人が外へ首を出してみると、火の子はこの家の上を
それとはまた違ったところでその翌日、最初にあの騒ぎの口火を切った役割の市五郎が寝ているところへ見舞に来た金助、
「役割、どうでござんす、痛みますかね」
「うん」
「飛んだ御災難で」
「いまいましいやつらだ」
「役割を見損なって木戸を突くなんて、
「狼が出て、ひどい目に
「狼には弱りましたね、怪我あしたやつらは大部屋でいちいち手当をしていますが、
「まあ俺の方は俺の方でいいが、金公、手前こそ命拾いをした上に、俺の命を拾ってくれたんだから、
「役割から言いつけられて、神尾の殿様の様子を見ようと石灯籠の蔭で
十二
宇津木兵馬が単身で、白根の山ふところを指して甲府の宿を出かけたのは、一蓮寺のあの騒ぎの翌日のことでありました。
秋もすでに
兵馬はこの頃になってようやく、七兵衛の挙動に不審の点を発見してきました。片腕を落されたがんりきという男との話しぶり、その調子が自分らと話をするのとはだいぶ違ったところがある。七兵衛の挙動に
そこで、このたびの山入りも七兵衛には置手紙をしただけで出かけてしまって、白根の山めぐりをしてから後は、また次第によっては東海道筋へ廻るのだなと思いつつ歩いて行きました。
一蓮寺の境内を通りかかって見ると、どうでしょう、昨日あれほど
兵馬は、それがまさしく人間の血であるらしいから少しく驚かされました。人間の血であってみると、
これは昨夜の
その土手のところも通り過ぎ、竜王村というところへ出ようとする広い畑の中道で、
「頼むよう、助けてくれ!」
白昼とはいえ、人通りのあまりないところで助けを叫ぶ人の声、
「頼む! 頼む! 助けてくれ」
足を留めて見ると、およそ二町ばかりを
これはおかしい、木の上で、ひとりで呼んでいる。
なるほど、犬に
「どうか助けて下さい、その犬を追い払って下さい、
木の上にいた男は半狂乱で叫んでいます。
「
兵馬が犬を
その時、
「見たような犬だ」
兵馬は一見してその非常なる猛犬であることを知り、同時にまたどこかで見たことのあるような犬だとも思いましたけれど、
「叱!」
兵馬は小石を拾って
「叱!」
兵馬は石を振り上げて追う。犬は少しずつ後退り。
「どうかその犬をお斬りなすって下さい、お腰の物で二つにぶった斬ってやっておくんなさいまし、とてもとても、石なんぞで驚く犬じゃございません、斬ってしまわなけりゃ駄目でございます、どうかお斬りなすっておくんなさいまし」
木の上では男が
「エイ」
兵馬が打った
「石なんぞで驚く犬じゃございません、ぶった切っておくんなさいまし」
木の上でガムシャラに叫んでいるにかかわらず、兵馬はこの石で犬を逐い、犬はついに兵馬に逐われてどこへか行ってしまいました。
「どこの畜生だか知らねえが、人を
木の上から下りて来た男を何者かと見れば、これはさきほど、役割の市五郎を見舞った折助の金公でありました。さすがきまりの悪い
「なんだって旦那、わっしがこの村へちっとばかり用事があって甲府から出かけて来ると、そこの森の中から、のそりと飛び出して来やがったのがあの犬でございます。なんだか気味の悪い眼つきをして、わっしの
金助は兵馬に礼を言うことを忘れて、犬の悪口ばかり言います。
「いったい、この村のやつらが悪い、あんな
今度は村の人へ
この男はしきりに狂犬呼ばわりをするけれど、兵馬は決してあの犬を狂犬とは思っておりません。
「さて、お前さんはこれからどこへ行かれるな」
「ついそこの竜王村というところまで参りますんで」
「帰りに、また犬が出たらなんとなさる」
「
「しかし帰りには必ず出て来る」
「
「そんなことをするとかえってよろしくない。察するのにお前は、何かあの犬に
「驚きましたね、いくら人間が下等に出来上っていたからと申しまして、まだ犬に恨みを受けるようなことをした覚えはございません」
「犬というものは、三日養わるれば生涯その恩を忘れぬ代り、ひとたび受けた恨みもまた死ぬまで覚えているということだ。どうかするとお前は、あの犬に対して意地の悪いことをした、その
「そんなことは決してございませんよ、第一、あんな大きな黒犬を見るのは今日が初めてなんでございますから。初めて見たものに恨みを受けるはずがないじゃございませんか、
「とにかく、わしもあちらへ行く者、竜王村まで一緒に行きましょう」
兵馬は金助を連れて竜王村へ入ります。この時分から
「降らなけりゃようございますね」
宇津木兵馬は一緒に竜王村の方へ入る
竜王村へ入って村を横切ると
金助は、兵馬の先に走って、同じ堤防の並木の中の、とある神社の庭へ走り込んで、
「こんにちは、こんにちは」
戸を叩いたのは三社明神の
「金公かい」
破れ障子から面を出したのは
「
ここは神社であるはずなのに、この堂守は怪しげな僧体をしているから、兵馬は変に思っていると金公が、
「さあ、どうかお入りなすっておくんなさいまし、これはわっしどもが大の仲よしで木莵入と申しまする、見たところは気味の悪い入道でございますが、附合ってみると気の置けないおひとよしの坊主でございます」
金公は金公で、この坊主を
雨はなかなかやみそうもないから、兵馬もつい勧められるままに
そうしているうちに、坊主と金公が碁を打ちはじめました。見ていると金公もかなりに打てる、坊主はなかなか強い、金公に三目置かして打っているがまだ坊主の方がずっと強い。金助はしきりにキザな
「どうだ金公、こいつが負けたら四つ置くか、それとも一升買うか。キュウキュウ言ったところで碁になっておらんわ、投げた方がよかろうぜ」
実際、金公は弱らせられているらしく、キュウキュウ言って盤面を見つめていたが、やがて窮余の一石をパチリと置く。
「おやおや、
「なるほど、うーん」
金公が
「御出家、一石お願い致しましょうか」
「おやおや、お前様も碁をお打ちなさるか。それはそれは、お若いに頼もしいことじゃ。金公では
「しからばこの人と同じこと、三目でお相手を致してみよう」
「よろしい、三目、さあいらっしゃい」
「パチリ」
「パチリ」
「これは感心、
引合いに出された金公が
「パチリ」
「パチリ」
「ええ、これはうまい手を打ったな、これはやられたわい、なかなか油断のならぬ手筋じゃ、金公を相手にする
一口上げに金公金公と、よい方へは引合いに出さないから、金助はいよいよ不平な面をします。
「いや、なかなかやるやる、お前様はよい師匠に就いて稽古をなされたな、ことに
「入道、少し困ったな」
「うーん」
「なるほど、定石から打ち込んだものには違ったところがあるな」
「うーん」
「入道、投げた方がおためになりそうだぜ、碁になっておらん、投げて一升買うか、そうでなければ白をお渡し申して出直すんだ」
「うーん」
やっとのことで入道が一石、千貫の石を置くような
兵馬は番町の伯父の家にいる時、伯父から手ほどきの定石を習い始め、余技とは言いながら相当に心得たものでありました。この坊主なかなか弱くはないけれど、自分に対して白を持つほどの腕ではないと見て取ったのに、三目置いているから、兵馬にとっては楽なもの、入道はなかば頃からさんざんに苦しんで、とうとう降参してしまって
兵馬はその晩、勧められるままに、この堂守の家へ泊り込んでしまいました。
兵馬を一室に寝かしておいて、かの木莵入と金公とは、酒を飲み出します。金公が薄っぺらな口先でしきりにキザを言っては入道に愚弄されるのが、兵馬の寝間へよく聞える。愚弄されても金公は一向お感じがなくベラベラ喋る。さきに柿の木の上で助けてくれ助けてくれと泣き声を出したことなどは

この二人はベチャクチャと喋った
その夜中に
兵馬はその犬の声で夢を破られると同時に、外で、
「痛ッ」
と絶叫する人の声。ガバと
「もし、あなたは宇津木様ではございませんか」
「エエ?」
外から呼ばれたわが名。それは女の姿であり女の声であることだけはたしかです。
「もし、わたしは君でございます、伊勢の
「ああ、お君どのか」
「そんなら宇津木様でございましたか、よいところでお目にかかりました」
「不思議なところでお目にかかる、ともかくもこれへお入りなさい」
「御免下さいませ。ムクや、このお方はわたしの御恩になったお方ですから吠えてはいけません」
「ああ、その犬は、お前さんの犬であったか、昼のうちにこの先の原の道で見かけた犬。そこに
「これには長いお話がござりまする。この人たちは、わたしに向ってよくないことをしましたから、それでムクが怒ってこんな目に会わせたのでございます、お気の毒でございますけれど、こうしなければわたしが助からないのでございますから、どうかムクの罪を許して下さいまし、ムクが悪いのでございませんから」
「なんにしてもこのままにはすて置けぬ」
兵馬とお君とは、力を合せて木莵入と金公とを家の中へ
十三
兵馬とお君とは思いがけない対面でありました。お君の語るところによれば、一蓮寺の火事の時、
堂守はこの明神の
お君はまた、兵馬と別れて舟から上って以来のことを落ちもなく語ると、兵馬は飽かずに聞いていて、お君の身の上に波瀾の多いこと、そのたびごとにムクの手柄の大きなことに感嘆せずにはおられませんでした。
「ああ、それで思い当った。この犬がどうも尋常の犬でないと思ったら、いつぞや伊勢の古市の町で、槍をよく使う小さな人、あまりに不思議の働き故、頼まれもせぬに槍を合せてみたところ、その傍にいた一匹の黒い犬、その
二人の話はそれからそれと続きました。その時、不意にけたたましい
警板はこの堂のすぐ
「あの音は?」
兵馬もお君も驚きました。
二人がその音に驚くと、ムクも首を上げて尾を振ります。
そうすると、わーという人声。早くもそれと
「お君どの、こりゃ大事
「何でございましょう、あの音は」
「ここの堂守が抜け出してあれを打った、それで村の人を集めている」
「わたしたちは何も悪いことは致しませぬ」
「もとより悪いことはしないけれども、何をいうにもこっちは旅の身、向うは土地馴染のある人、悪い名を着せられても急には
戸の外では人の声が
「泥棒が入ったぞ、俺もこの通り傷を負ったが、甲府から来た金助は殺された、お堂の本尊様も明神の御宝蔵も荒された、賊はまだ若い、若い前髪の侍と、女が一人に犬が一疋、その犬が強いから
警板の木の上で入道がおおいに叫ぶ。
兵馬はお君を
大並木をくぐり抜けて、堤を駈け下りると釜無河原。
兵馬はついに
「それ河原へ下りたぞ、向うの岸へ合図をしろ」
ようやく川の流れへ来て宇津木兵馬、浅瀬を計り兼ねて暫らく思案に暮れていたが、そのうちに乗り捨てられた川船の一隻を、ムク犬が見つけて飛び込むと、兵馬はこれ幸いと同じくその舟へ飛び乗って、お君を下ろすとともに、竹の竿を取って岸を突きました。
舟は難なく釜無川の闇を下って行きます。
ほど経て舟を着けたのは高田村というところ、そこで
高田村で舟を捨てた時分には、もう夜が明けていました。
それから兵馬は、甲府へ沙汰してお君をもとの軽業の一座へ送り返そうとしているうちに、困ったことにはお君が病気になってしまいました。
行手に心の急ぐ兵馬も
幸いにお君の病気は大したことはなく、四日ばかりするうちにすっかりなおってしまい、お君はやっと
お君が入って来た軽業の一座は、あれから
お君は、仕方がないから、わたしはムクを連れて江戸へ帰ってみようと言い出しましたけれど、それはずいぶん危険なことと言わねばならぬ。けっきょく兵馬はお君を当分の間この宿へよく頼んで預けておいて、自分だけが山入りをすることにきめ、お君は兵馬に気の毒でたまらないけれども、その好意に従って、暫らく鰍沢の町に逗留することになりました。
今朝、お君を残して山入りをした兵馬。
ムクを連れて兵馬を送って行って別れた最勝寺前、お君には兵馬の