「これは何者の首で、いかなる罪があって
通りかかった人に尋ねると、
「これは悪い奴でございます、甲府の
「して、その望月というのはいずれの家」
「あの森蔭から大きな
こんなことを話してくれましたから、兵馬は教えられた通りその望月家の門前へ
兵馬は望月家の門前へ立って案内を乞うと、なるほど広庭でもって若い者が大勢、剣術の稽古をして
胴ばかり着けて
「何の御用でござりまする」
「あの宮の辻と申すところに出ている
「あ、あの梟首のことに就いて……そうでございますか、まあどうかこれへお掛けなすって」
若い者の頭分は、そのことに就いて語ることを得意とするらしく、喜んで兵馬を
「今からちょうど五日ほど前のことでございました。当家の望月様へ甲府の御勤番と言って立派な
「ナニ、目が潰れていた?」
前口上はどうでもよろしいが、これだけは聞き洩らすまじきことです。この男の口から語られた机竜之助の挙動はこうでありました――
役人に附いて来た
「飛んでもないことが出来た、仮りにもお役人をこんなことにして、さあこれからの難儀の程が怖ろしい」
蒼くなって口を利く者もなく、手を出す者もなかったのを竜之助が察して、
「心配することはない、これはほんものの甲府勤番の神尾主膳ではない、
と言って竜之助は、二人の
若い者の頭分は、それをいろいろな
「なにしろ強い人でございます、
「その
兵馬は一礼して、この家の門を出て行きました。
望月の家を
「その馬はこれからどちらへ行きます」
「これから三里村を通って
「はて、それでは少し方角が違うけれど、拙者はちと急ぎの用があって甲府まで帰らねばならぬ者、お見受け申すに、馬は
兵馬はその女の人に頼んでみました。
「お急ぎの御用とあらば……わたくしどもには少し廻りでござんすけれど、お貸し申してもよろしうございます、お乗りなさいませ」
兵馬は、この婦人が快く承知をしてくれたのを嬉しく思いました。
しかし、馬に乗りながら見るとこの婦人が、眼に涙を持っているのが不思議であります。
こうして宇津木兵馬は、またも甲府まで戻って来てみましたところが、机竜之助の乗物が神尾主膳の邸内へ入り込んだことは確かに突き止めたけれども、それから先どこへ行ったか、それともこの邸内に留まっているものだか、そこの見当が一向つきませんから、ぜひなく非常手段に出でて、夜分ひそかに神尾の邸内へ忍び込んでみようと思いました。
三日目の晩は雨が降って風も少し吹いていたから、兵馬はそれを幸いに、城内の神尾が屋敷あたりまで
まもなく
そこには二重の怪しみがある。これはてっきり
兵馬は実に不審に堪えませんでした。だいそれた甲府城内の御金蔵破り、いま
これを二人の方にしてからが
兵馬はそのことから、七兵衛なる者に対する疑点が深くなりました。もしも彼は表面あんなことにしていて、内実はこんな悪事を働いている人間ではなかったか知ら。そうだと知れば、少なくともその世話になったことのある自分にとっては一大事だ。人は見かけによらぬもの、
その時に、
「櫓下の御金蔵破り! 出合え、出合え」
兵馬は気がつけば、危ないこと、自分も疑われるには充分な立場にいる。さてどちらへ避けたものと思って見廻したが、どちらにも提灯。はて迷惑なことが出来たわいと思いました。
兵馬はぜひなく覆面を
「待て!」
バラバラと兵馬を取捲いて来た警固の者。
「神妙に致せ」
そこで兵馬は調べられてしまいました。
「今時分、何しにここへ来られた」
「ちと用事あって」
「何用があって」
「神尾主膳殿まで
「神尾主膳殿方へ? して貴殿は何者」
「拙者は江戸麹町番町、旗本片柳伴次郎家中、宇津木兵馬と申す者」
「神尾殿とは
「まだ御面会は致しませぬ」
「面識もないものが、この真夜中に人を訪ねるとは心得難し」
「大切の用向あるにより」
「大切の用向とは?」
「それは、御城内勤番衆二三の方にも知合いがあるにより、事情を述べれば委細明白のこと」
「その言いわけは暗い。他国の者、
「縄に?」
「
「縄にかかるような覚えはない」
「手向いさっしゃるか」
「なかなか。縄をいただくべき覚えなきにより、手向い致す心もござらぬ」
「言い逃れを致さんとするか、不敵者」
「これは
兵馬の言いわけは聞き入れられませんでした。それで兵馬に縄をかけようと
「お見受け申すところ、お年若のようでもあるし、両刀の身分、
こう
兵馬は勘定奉行の役宅へ預けられて、ほとんど牢屋同様のところでその夜を明かしました。夜は明けたけれども、兵馬の身の
盗賊の
さるほどに道庵先生がまた飛び出して来ました。どこへ飛び出したかと言えば、
この貧窮組というものが、前に申すように、山崎町の
長者町の先生の家へ、町内の遊び人がやって来て、
「今日はわっしどもの町内でも、いよいよ貧窮組をこしらえますから、こちら様でもお仲間入りをして下さるか、そうでなければ、いくらか奉納を致してもらいてえんでございます。それができなければ、こっちにも覚悟があるんでございます」
と出ました。
それを聞いたから道庵先生が、飛び上って喜びました。
「しめた」
草履を逆さにして、遊び人をそっちのけにして駈け出してしまったわけです。
「ばかにしてやがら、貧窮組ならこっちが
ちょうど米友が柳原河岸へ行ってしまった時分に、道庵先生は昌平橋で大勢の貧窮組が粥を食っているところへ駈けつけました。
「さあ道庵が来たぞ、十八文の道庵は俺だ、見渡したところ、貧窮組の先達で俺の右へ出る奴はあるめえ」
自分から名乗りを上げてしまいました。元より道庵先生はこの近所で人気があるのです。人気がある上に、ちょうどこういう舞台へ乗り出すにはうってつけの役者でしたから、一同がその名乗りを聞くと、やんやと言って
「さあ、皆の衆、俺は御存じの通り長者町の十八文だ、今度、皆の衆が貧窮[#「貧窮」は底本では「貧弱」]組をこしらえたというのは近頃よい心がけで俺も感心した、俺に沙汰無しで拵えたことがちっとばかり不足といえば不足だが、それは感心と差引いて埋合せておく。いったい物持というやつが癪にさわる、
「やんや」
「やんや」
四方から喝采が起る。道庵先生、いかめしい
「これから俺が先達になってやるから安心しろ。しかし俺は大塩平八郎ではねえから、危なくなれば逃げるよ。俺に逃げられたくねえと思ったら乱暴をするな、人の物を取るな、女をいじめるな、役人が来たら俺も逃げるからみんなも逃げろ」
「やんや」
「やんや」
「
この不得要領な貧窮組は、その夜は昌平橋際へ夜営をしてしまいました。このくらいの騒ぎだから役人の方へも聞えないはずはありません。けれども幕末の悲しさ、これを押えんために
江戸市中、至るところにこの貧窮組が出来てしまいました。道庵先生の如きは興味を以てこの貧窮組に賛成をしたけれども、貧窮組に馳せ参ずるもののすべてが、道庵先生の如き無邪気な
困ったのは道庵先生で、本業の医者をそっちのけにして貧窮組の太鼓を叩いて歩いています。因果なことに先生には、こんなことが飯よりも好きなので、ただ嬉しくてたまらないのです。嬉しまぎれに、一種の煽動者となってしまったけれど、時々穏健な説を唱えて、たいした乱暴を働かせまいと苦心しているのは感心なものです。
この貧窮組が昌平橋に夜営している時分に、これより程遠からぬところに
「悪いことが
お絹はそれに対して、
「そんなことをして
「いけません、癖になるからいけません、あんな
忠作は子供のくせに、このごろではもう前髪を落して、
「でも、大勢に
お絹は気のない
「貧乏な奴は日頃の心がけが悪いんだ、有る時は有るに任せて使ってしまい、無くなると有る奴を
「そんな
「たとえ打壊しに逢ったからと言って、あんな筋の違ったやつらに物を出してやることはできません。あんなのが出来たために
こんなことを言っている時に、表の戸がガラリとあいて、
「へえ、御免下さいまし、町内でもいよいよ貧窮組をこしらえますから、お宅様でもどうか応分の御助力を願いたいもので」
ドヤドヤ入って来たものがあります。
「それ、やって来た」
忠作は苦い
「へえ、御存じの通り町内でも貧窮組をこしらえましたから、こちら様でも、どなたかおいで下さるように。もしお手少なでございましたら、幾分か費用の寄進についていただきたいものでございます」
それを聞いた忠作は、
「せっかくでございますが、私共は
「それではどうか、思召しの寄進をお願い申します、この通り町内様でみんな賛成をしていただいたんでございますから」
帳面を繰りひろげて、
「
「それでは、誰か貧窮組へ出ておくんなさるか」
「宅は女と子供ばかりで」
「やい、ふざけやがるな、貧窮組を何だと思ってるんだ、ぐずぐず
「皆さんの方に了簡がおあんなさるなら、了簡通りになさいまし、宅では貧窮組なんぞへ入る人間は一人もございませんし、そんなところへ出すお金なんぞ鐚一文もございません」
「何だと、この若造! やい、みんな聞いたか、今のこの野郎の
威勢のいい
「貧窮組なんぞへ入る人間は一人もねえんだとよ、そんなところへ出す銭は
「ここの
「貧乏人がどうしたと言うんだい、そりゃ
大勢の貧窮組が口々に
「何とおっしゃっても私共は、皆さんが貸せとおっしゃるから貸して上げるだけの商売でございます、なにも皆さんに筋の立たない金を差上げる由がございませんから」
こう言い切って、玄関の戸をバタリと締めてしまって、中へ引込んだから納まらない。
「それ、打壊してしまえ」
ついに貧窮組がこの家の打壊しをはじめました。
貧窮組の一手は、ついに忠作の家をこわし始めました。火をつけると近所が危ないから火はつけないで、門、塀、家財道具を滅茶滅茶に叩き壊します。忠作は素早く奥の間に駈け込んで、証文や
この大の男は、貧窮組とは非常に趣を異にして、その骨格の
「どろぼう!」
忠作が
貧窮組は表から盛んに叩きこわしていたが、いいかげん叩きこわしてしまうと、
もとより宿意あっての貧窮組ではないから二度まで盛り返して来ず、昌平橋へ行ってお
この勢いで貧窮組は江戸の市中へ
その
不得要領でどこまでも拡がってゆく貧窮組。それと脈絡があってこの強盗武士に要領を得さするものとすれば、貧窮組も決して不得要領ではないけれど、貧窮組にそんなアクドい根のないことは、その成立の動機が煙みたようなのでわかるし、そのなりゆきがお粥以上に出でないのでわかります。しからばその貧窮組を表にして、それとは全く
徳川幕府の影が薄くなって、そのお
貧窮組がこうして不得要領の騒ぎを続け、浪士と
人形町の
「
さても本所の
「本所相生町二丁目箱屋惣兵衛、右の者商人の身ながら元来賄金 を請ひ、府下の模様を内通致し、剰 へ婦人を貪り候段、不届至極につき、一夜天誅を加へ両国橋上に梟 し候所、何者の仕業に候哉 、取片附け候段、不届且 不心得につき、必ず吟味を遂げ同罪に行ふべき者也。
月 日有之 ば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也」
米友はその文句を読んでしまったが、月 日
報国有志
此高札三日の内、取片附け候者「この札はこりゃ誰が立てたんだ」
米友は
「この高札三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきもの也てえのは穏かでねえ」
米友が
米友にとっては笑われる自分よりも、笑うやつらの方がおかしい。単純な米友は、理由なきに冷笑されたことを不本意として、ムッとしてきました。
「何がおかしいんだい、
「若い衆、そう怒るもんじゃねえよ」
米友がムキになったのをなだめたのは老人。
「こりゃ天誅組というやつなんだから、お役人でも始末にいかねえんだ」
「天誅組というのは何でございます、お爺さん」
米友は老人の
「天誅組というのは、このごろ
「そんな剣呑な流行神を平気で眺めている奴の気が知れねえ」
見物はまたドッと笑い出して、
「うむ、全く気が知れねえ、若い衆、お前なんとかひとつ、その流行神を始末してみねえな、人助けになるぜ」
「ばかにするない」
米友が眼をクルクルして群集を見廻した、その
「
拍手喝采してこの奇妙な小男の、本気になって憤慨するのを
「おやおや」
弥次連の
「おい、若い衆、小せえの、何をするんだい」
「
「ナニ、かまわねえ」
「三日の内、取片附け候者あらば、役人たりとも探索の上、必ず天誅すべきものなり――この字がお前にも読めたんだろう、天誅というのは首が飛ぶことなんだ、いいかい、この高札を動かそうものなら、お前の首がなくなるんだ、お前が遠からず首を斬られてしまうんだぜ」
「誰が俺らの首を斬りに来るんだ」
「天誅だよ、天誅だよ」
「天誅が首を斬りに来るのか。天誅というのは何だ、俺らはまだ天誅に首を斬られるような悪いことをした覚えはねえ」
米友は留めてくれる老人の手を振り払って苦もなく高札の縄を解いてしまい、その高札を振り上げて橋の上から川の中へポンと投げ込んでしまいました。
「無茶なことをする奴だ」
さすがの
これが不思議な縁で米友は、その翌日から本所の
この縁は昨日の高札の一件からであります。米友が高札を川へ
米友もまた押つけられたことをかえって幸いにして
米友が留守番を押つけられた箱惣の家は大きな家でした。けれども誰も一人も住んではいないのです、ガラあきです。ただの
何者が来るか知らないが、仕返しに来たらこの槍で挨拶をしてやる。もとの主人には何か恨むところがあるかも知れないが、自分は
「今晩は――今晩は」
二声目で初めて気がついた米友は、外で呼ぶのが女の声で、表の大戸を軽く叩いているようでしたから、
「今晩は」
返事をして次の文句を待っていましたが、不思議なことにそれッきり。
「おかしいな、人を呼びっ放しにして引込むなんて」
「今晩は」
「返事をしているじゃねえか、何か用があるのかい」
「あの、仕出し屋でございますが……」
ナンダ、いつも弁当を運んでくれる仕出し屋か、弁当ならば、もう食べてしまったから
「弁当箱を取りに来たのかい」
「そうではございません、若い衆さんに一口上げてくれと町内から頼まれまして」
「ナニ、
「どうかここをおあけなすって下さいまし」
「どうもおかしいな」
米友はおかしいと思いながら戸をあけると、いつも来る仕出し屋の女が、丸に山を書いた
「俺らに御馳走してくれるというのは誰だろう」
「町内の衆でございます」
「町内の誰だろう」
「ただ町内から届けたと、そういえばわかると申しました」
「俺らの方ではよくわからねえ」
米友は一合の酒と
一合の酒と鰻の丼を睨めている米友。
「飲んでしまおうか、それとも飲まずにいた方がいいか、この鰻の丼も食ってしまえばそれまでだが、食わずに置いてみたところでそれまでだ」
米友はいろいろに考えてみたが結局、この無名の贈り主から贈られた酒は一滴も飲まず、丼は
「こうして俺らに酒を飲ましておいて、酔ったところを見計らって計略にかけるつもりだとすると、そんな計略にひっかかっても詰らねえ」
誰も米友を毒殺しようというほどの物好きもなかろうけれど、米友の方でとうとう一合の酒と鰻の丼を敬遠してしまって、それからまた本を見だしていると、
「今晩は」
またも表で人の声、前と同じように女の声。
「誰だ」
「仕出し屋でございます」
「ちェッ、また仕出し屋か」
「まことに相済みませんが、先程のお丼と
「ナニ、間違えたって?」
「御近所へ持って上るのを、つい間違えまして申しわけがございません」
「そんなことだろうと思った、俺らに御馳走してくれる奴はないはずなんだから」
米友は
「気をつけなくっちゃいけねえ、俺らだから手を附けなかったが、ほかの者なら食ってしまうんだ、俺らも実は食ってしまおうかどうしようかといろいろ考えたんだ」
「どうも相済みません」
仕出し屋の女はきまりの悪い
「あれ――」
ガチャン、ピシーンという音。それによって見ると、女中はその辺で転んで倒れて
「だから言わねえことじゃあねえや、そそっかしい女だなあ」
「静かにしろ」
その潜り戸から
「さあ来やがった」
覚悟の上。米友は不自由な足ながら
「待ってたんだ、両国橋の立札を川ん中へ抛り込んだのは俺らの
米友の槍は、これを
「
内へ転げないで外へ転げた覆面の浪士は、米友の一槍で
せっかく金貸しを始めた忠作、あの夜の一騒ぎから滅茶滅茶になってしまって、お絹はどこへ行ったか行き方が知れないし、金目の物はことごとく奪われてしまいました。
「
忠作は歯噛みをしながら、このごろでは毎夜、
「駕籠屋」
闇の中から人の声。それに呼ばれて
「へえ」
と言って振返った。とある家の用水桶の蔭に真黒な二人、両方とも長い刀を差しています。そこで駕籠屋を不意に呼びかけたから駕籠屋も驚いたようであったし、通りかかった忠作も少し驚きました。
「駕籠をこれへ持って参れ」
「どうもお気の毒さま、これから
「黙れ! 黙って駕籠を持って来い」
用水桶の蔭に隠れていた浪人
「旦那、どこまで行くんでございます」
「黙って拙者の行くところまで行けばよい」
駕籠
それを見ていた忠作は、何と思ったか蕎麦屋の荷物を抛り出して、
神田へ出て、日本橋を通って、丸の内へ入って、芝へ出て、
そう思っているうちに、大きな土塀つづきで、右の五重の塔と向き合ったところに堂々たる黒塗の大門がある。その堂々たる大門のなかへ駕籠はスッスッと入って行きました。
何者の邸であろうか知らないが、入って行った者も武士の姿こそしているが、その
あの駕籠が通れるくらいなら自分も通れるだろうと忠作も、続いて入り込もうとすると、
「コラ、誰かッ」
「今のあのお乗物の……お乗物の」
「乗物がどうした」
「あれは当家の御家中のお侍でございますか」
「馬鹿!」
頭から一喝した仁王のような門番が取って食いそうな
この門をよく見直すと、左右に門番があって、屋根は
土塀を一周り廻った忠作が通りの町家で聞いてみると、これは薩州鹿児島の島津家の門だと知れました。
鹿児島の島津家といえば九州第一の大大名。その門と邸の結構の堂々たることはさもあるべきことだが、わからないのはそこから強盗が出て町家を荒して歩くということです。あの二人の者はたしかに自分の家へ入った浪人
それを無事に門内へ入れたところを見ると、これは疑うべくもなきこの邸内の人、そうしてみれば薩州の家来には、強盗を内職にしている者があるはずである。いかに乱世とは言いながら、大名の家来が強盗を内職にしているというのは、あるべきことではありません。
その晩はそれで帰って翌日、忠作は神田佐久間町の裏長屋を引払って、この薩州の屋敷の傍へうつることにしました。幸い、三田の越後屋という
「おや、お前さんは……」
「お前さんは……」
これは甲州の、
七兵衛は奥座敷を一つ借り切って、そこで一人で飲んでいると、暫らくして忠作がやって来て一別以来の話になりました。
お絹のことや、がんりきのことが出て、七兵衛はかなり忠作をからかっていたが、
「私の
七兵衛がここで姪と言うたのはお松のことであります。お松はこの時分、徳島藩の中屋敷へ奉公をしておりました。徳島藩の中屋敷は薩州の邸とは塀一つを隔てたところにあって、お松はそこに奉公してから日もまだ浅いけれども、目上にも
この際お松は、今までにない一つの縁談をほのめかされました。この話は
断わるならば何と言って断わろうか知ら、それが一つの難題で、せっかくああ言ってくれる親切を
無事に暮らしていたけれども、兵馬のことを考えないわけにはゆきません。兵馬のことは忘れたことはないのに、幾度もそれを考え直さねばならなくなりました。
深いようで浅い二人の縁、浅いようで深い二人の間、お松にはそれをどうしてよいのかわからない。兄妹のようにして永らく一緒にいたけれど、どうも物足りない。兵馬その人に不足はないけれど、自分よりは仇討の方をだいじがる兵馬が、お松にはどうしても物足りないのでした。
と言って兵馬さんは、わたしを可愛がらないのではない、わたしをいちばん可愛がっているし、わたしもまた兵馬さんがいちばん可愛ゆいけれども、それだけでは頼りがない。わたしがここでほかへお嫁に行ってしまっても、兵馬さんは口惜しいとも悲しいとも思いはしないで、かえって祝って下さるでしょう、それでは詰らない。お嫁に行ってしまったのを、喜んでくれるような可愛がり方ではそれでは詰らない、とお松はそれを物足りなく思いました。
その度毎に手紙を書いて置いて、それを兵馬の
お松は自分の今の生活が
それを枕元に置いてお松は床に就きましたが、兵馬のことを夢に見ました。夢に見た兵馬は嬉しい人であったが、やっぱり物足りない人でありました。
翌朝起きて見ると、昨夜書いて机の上に載せて置いた自分の手紙の上に、それとは全く別の人の書いた一封の手紙が載せてあります。
「誰が置いて行ったのでしょう」
お松はその手紙を取り上げて見ると、七兵衛の
封を切って読むと、
「兵馬様の身の上に変事が出来たから急に相談したい、少しばかり暇を願って、越後屋まで来るように」
とのことであります。
お松は胸が
「突然にああ言ってやったから驚いたろう。困ったことが出来たというのは、兵馬さんが縛られて、甲府の牢へ入れられてしまったことだ」
「ええ、あの方が縛られて牢へ? それはいったい、どうしたわけでございます」
「そのわけにはなかなか入り組んだ
「どうしてそんな悪いところへ通りかかったのでございます」
「
「盗賊! そんなことはありますまい、なんと間違って兵馬さんが盗賊なんぞと……そんな間違いのあるはずがございませんもの。伯父さん、早く心配して、兵馬さんの身の明りが立つようにして上げてください」
「それについて、俺も実に困ったのだ、とてもあたりまえのてだてで兵馬さんの明りを立てることはできないから、仕方がないからお前に相談に来たのよ」
「だって伯父さん、盗賊をしない者が盗賊の罪を
「いや、役人も兵馬さんが盗賊するような人でないことはよく御存じなのだが、どうもちょうど、御金蔵へ盗賊が入った晩、兵馬さんがちゃんと身拵えをしていたのだから、どうしても、ほんものの盗賊が出て来るまでは、兵馬さんは
「そんなら早く、そのほんものの盗賊が捉まるように骨を折って上げてくださいまし」
「それはずいぶん骨を折るけれども、なにしろ悪いことをするような奴だから、どこにいて、いつ捉まるかわからねえ。それについてお松、お前に相談だが、俺がひとつ兵馬さんを牢内から盗み出して来るから、お前どこかへ兵馬さんを当分かくしてくれないか」
「ええ? 兵馬さんを御牢内から盗み出して来るって、伯父さんが?」
お松は眼を

「伯父さん、そんなことをしないで、お役人によく
「それだ、なにしろ今の時勢はこんな時勢だから、真直ぐなことばかりは通らねえのだ、あたりまえのことをしていた日にはトテモ、急に兵馬さんを助け出すことはできねえのだ」
「困ったことでございますねえ、御牢内のおかかりよりも、もっと上のお役人を頼んでお願いをしてみたらどうでございましょう」
「そこに一つの当りがねえわけではねえのだ、実はあの方の係りが、お前の知っている神尾主膳様よ」
「神尾主膳様? あの伝馬町の、わたしの元の御主人様が……」
「いかにも。その神尾様がこちらを
「そんなら伯父さん、その神尾様が御牢内の方のお係りでありましたら、わたしがこれからあちらへ行ってお願い申してみましょう、兵馬さんは決してそんな悪いことをなさる人ではないということを、わたしから神尾の殿様によく申し上げて、お願い申してみましょう」
「それなんだ、お前も一旦の御主人であってみれば、お前から願ってみれば聞いて下さるかも知れぬ。と言って、あの殿様はなかなか
「神尾の殿様だって、まるっきり物のおわかりにならないお方ではございませぬ、わたしが一生懸命になってお願いをしてみたら、きっとお聞入れ下さることと思います。もしそれでいけませんでしたら、伯父さんのおっしゃる通り、兵馬さんを盗み出すなりどうなりしたがようございましょう、そうなればわたしも覚悟をしますから、どんなにしても兵馬さんをお隠し申します」
「なるほど……しかし、お前も今は主人持ち、ここで甲府まで出かけるというわけにはゆくまいからな」
「行きますとも、甲府まででもどこまででも参りますとも、ほかのこととは違いますから、わたしはどんなにしても、こちらのお暇をいただいて甲府へ参ります」
「もし暇が出なかったらお前はどうする」
「お暇が出なければ……わたしはお邸を逃げ出してもよろしうございます」
「なるほど……」
七兵衛が暫く考えていましたが、
「お前がそこまで
そこで七兵衛はお松から、邸の内部の模様をややくわしく聞き取って、二人はこの店を別れました。
お松は七兵衛と別れて、越後屋の奥座敷を出て、薩州邸の長い土塀をグルリと廻って徳島藩の裏門を入りました。
その晩、お松はいろいろの思いで手近のものを用意して、日が暮れるのを待ち兼ね、日が暮れると、夜の
屋敷の庭には大きな池があって、池の向うには高い火の見櫓が立っています。お松が夜更けて七兵衛の合図を待つ時分に、この火の見櫓の上に二つの黒い影法師がありました。共に夜番や火の番の
お松はそこに人のあることは知らないで、一心に七兵衛の合図ばかりを待っていると、池の中へトボーンと
その音を聞いて、お松は立ち上りました。戸を細目にあけると、闇の中ながら、今どこからともなく落ちて来た礫が、池の水を動かして波紋がゆらゆらと
この時、火の見櫓の上で見取図を作っていた丈の高い方が、
「今の音は?」
聞きとがめると、
「池の中で魚が
背の低い方が答える。
「魚の跳ねる音ではなかったようだ」
「と言うてこの夜中に――」
「ともかく、あの音は礫の音。ことによると、薩州の方で誰かここを認めた奴があるかも知れぬ」
「油断はなり申さぬ」
薩州邸内の見取図を作っていた二人の武士は、
「怪しい奴」
二人の武士は高いところにいたから、怪しい者の影を龕燈の光に照しては見たけれど、大きな声を揚げて屋敷の中を騒がすべく遠慮するところがあったものらしい。それで、
「怪しい奴」
「取逃がしたか」
と火の見櫓の上で面を見合せて、空しく下の闇を立って見ていると、池のほとりで、
「何者だ!」
「
ざんぶと水の中へ落ち込んだような物の音。
「出合え、出合え、いま女中部屋へ
ちょうどこの時、邸外を通り合せたのが
「御同役、何かこの邸内で変事がござったようじゃ」
「左様、何か物騒がしい」
市中取締りが、この時分には町奉行の手だけでおさまりのつかなかったことは前に言う通りであったから、幕府は譜代の大名と五千石以上の旗本を
この荘内の巡邏隊は今、徳島藩邸内の騒ぎを聞いて、足を留めて中の様子を
「さてこそ!」
巡邏隊は短槍と小銃とを二人につきつける。
「これは巡邏隊の諸君か、お役目御苦労」
中から出て来たふたりは、かえって心安げに言葉をかけたが、こっちは油断をしないで、
「名乗らっしゃい、我々は荘内藩の巡邏隊でござる」
「拙者は
大きいのが答えると、低い方のが、
「拙者は堤作右衛門」
上の山の金子六左衛門は六左衛門で通る人でありました。六左衛門というよりも、その一名与三郎の方が通りがよかったこともあります。さきに新徴組が清川八郎を
「これはこれは、上の山の金子殿でござったか、それとは知らず失礼を致しました。我々は白金屯所の荘内藩巡邏隊、拙者は伍長の斎藤角助と申す者」
と名乗りました。
そこで斎藤角助は隊士に、槍と鉄砲を引かせ、
「この邸内が物騒がしいようでござるが……」
「いかにも。ただいま怪しい奴が忍び込んで、女を一人奪って逃げたと申すこと」
「女を奪って逃げた? それは聞捨てならぬこと」
「あの土塀を乗り越えて逃げたとやらだが、まだ遠くへは行くまいと思われる」
「諸君、
それはやり過ごしてしまって金子六左衛門は、先に立って歩きながら堤作右衛門を顧みて、
「
という。堤はそれに答えて、
「いかにも。思いのほか念が
「不届きなやつらじゃ、誰か大きな頭があって指図をしているのに違いない、中の様子はまるで要塞だ。いざと言えば幕府の兵を引受けて防戦する覚悟でいるから、まず
「お膝元を怖れぬ
六左衛門と作右衛門の話は徳島藩邸内で女が
この頃、また上野の山下へ一軒の変った床屋が出来ました。
変ったといっても店の
どうしたわけかこの床の主人には右の片腕がありません。滅多には店へ出て来ないけれども、職人小僧の使いぶりは上手であるらしい。
この床屋の店先で、
「どうです、皆さん、大きな声では読めねえがこんなものが出ましたぜ」
「何でございます」
「まあ、読むからお聞きなさいまし」
「聞きやしょう」
懐ろから番附様のものを取り出して、お客の一人が、
「ようございますか、恐れながら
「なるほど」
「
「ははアなるほど、御養君の一件だね、誰がこしらえたかたいそうなものを
「ナニ、御威勢の盛んな時分ならこんなものを拵える奴もなかろう、拵えたって世間へ持って出せるものではねえが、何しろ今のような時勢だから、
「それだってお前、
「大丈夫だよ、何しろ公方様の御威勢はもう地に落ちたんだから、とてもおさまりはつかねえのだ、ああやって貧窮組が出来たり、浪人強盗が
「悪い悪い、公方様の悪口なんぞを言っては悪いぞ」
「かまうものか、公方様も今時の公方様は、よっぽどエライ公方様が出なくちゃあ納まりがつかねえ、このお江戸の町の中で、お旗本よりもお国侍の方が鼻息が荒いんだから、もう公方様の天下も末だ」
「なんだと、この野郎」
「なんでもねえ、実地のところを言ってるんだ」
「野郎、ふざけたことを
雑談が口論となり、口論が喧嘩になろうとするところへ、
「まあまあ、皆さん、お静かになさいまし」
現われたのは、問題の片手のない
「憎い野郎だ、公方様の悪口なんぞを言やがって」
一人は
「少し酔っぱらってるようでございますね」
「
「ナニ、
親方がしきりになだめているところへ、
「これ神妙にしろ、いま公儀へ対して無礼の言を吐いたものは誰だ」
ズカズカと
茶袋というのは、幕府がこのごろ募集しかけた歩兵のことで、
「公方様へ対して悪口を申し上げるなんて、そんなことは決してあるものじゃございません」
腕のない親方が
「黙れ黙れ、ここにいる客人のうちで、公方様の悪口を申し上げた奴がある、恐れ多くも今の公方様では納まりがつかぬ、浪人者の方が旗本よりもズット鼻息が荒いなどと、
どうも相手が悪い、と店の者は震え上りました。
「そんなわけではございません……実は」
最後の口論の相手になった男、しかもそれは公方様を悪く言ったのではなく、公方様を悪く言ったのを憤慨した方が何か申しわけをしようとすると、
「貴様だろう、無礼者め!」
茶袋は飛んで行ってその男の
「ア、これは、これは、
「いや、貴様に違いない、お膝元に
「いえいえ、私がなんでそのようなことを申しましょう、実は……私の方でそれをとめましたので、そんなことを言っては恐れ多いとそれをとめましたのでございますから……飛んでもない、私がそんなことを」
「こいつが、こいつが、自分の罪を人になすりつけようと致すか、いよいよ以て図々しい奴」
茶袋はその口を
「これは歩兵様、まあお聞きなすって下さいまし、このお方は決して左様なことを申し上げたのではございません、実はこういうわけなんでございます」
「貴様は何だ」
「私はこの店の亭主でございまして、銀と申します、私が細かいことを存じておりますから、どうかお手をおゆるめなすって、一通りお聞きなすって下さいまし」
「貴様、知っているならナゼ最初から知ってると申さん、正直に言ってみろ」
「公方様の悪口を申し上げるほどのことではございません、ただ話の調子でございまして、ツイ威勢のいいことを申しましたのが、少しばかり声が高くなりましたので。それもこのお方ではございません、そんなことを申しましたお客様はたった今お帰りになってしまいましたので。このお客様なんぞは
「ナニ、この男が悪口を申し上げたのではない、ほかの客が言ったのをこの男が留めたのだと? しからばその客というのは誰だ」
「それはただいまお帰りになりました」
「帰った? 帰ったところで貴様の店の得意だろうから所番地は知ってるだろう、何の町の何というものだ、さあそれを言え」
「それがちょうどお通りがかりのお客でございまして、ツイお名前もところもお聞き申しておきませんでございました」
「
「飛んでもないことで。どうかそのお方はお許しなすって下さいまし、そのお方が悪いことを申し上げたのでないことは、どこまでも私共が証人でございます」
「
「それは御無理と申すもので。まるっきり証拠も何もないことでお
「ナニ、証拠がないから無理だと? 証拠呼ばわりをして言い抜けをしようなどとは、いよいよ以て図々しい。証拠が有ろうとも無かろうとも、我々歩兵隊の耳に入った以上は
突き出したのは、この店へ入りがけに茶袋が拾った一枚の紙。それはいま読んだ「恐れ
「この証拠を見た上は文句はあるまい。文句のない上に、亭主、貴様の罪が重くなったぞ。さあ、拙者と同道して、両人共に我々の兵営まで
この危急存亡の
「親方、これはどうしたというものだ」
道庵先生はぬからぬ
「おや、これは長者町の先生、おいでなさいまし。実はこういうわけなんで……」
片腕のない
「ははあなるほど、それは歩兵さんのお聞き違いだろう。時に歩兵さん、わたしはこの長者町に住んでいる道庵といって、長者町ではかなり面の古い男でございますから、どうか私にお任せなすって下さいまし」
「相成らん、引込んでいろ」
「そんなことをおっしゃらずに、私にお任せなすって下さいまし、男に不足もございましょうが、どうか道庵の面を立ててお任せなすって下さいまし」
「くどい、ほかのこととは違って
「そんなことをおっしゃらずに、まあお任せなすって下さいましよ」
道庵先生は幽霊のような変てこな手つきをして、突然茶袋の首根っ子へかじりつくようにしましたから、茶袋は腹が立つやらおかしいやら、
「無礼な奴、
「歩兵さん、そんなことをおっしゃってはいけませんよ、第一、私にしたところで、ここにいるお客にしたところで、みんなこのお江戸で育った人たちですよ、江戸に生れた人で権現様のおかげを蒙らぬ人はござんすまい、その権現様以来の上様の悪口なんぞを申し上げる者が、江戸っ子の中にあるわけのものではございませんよ、ですからそれは
道庵先生だって、責任のあるところへ出て口を利かせれば、そう無茶ばかり言うものではありません。相当の条理を立てて詫びていると、茶袋はいよいよつけあがり、
「貴様は、今ここへ来たばかりで何も事情を知らん、その事情を知らん者が、でしゃばって仲裁ぶりをするとは
歩兵はうるさいから、道庵の
「歩兵さん、歩兵さん、まあお待ちなさいまし、どうか穏かに話を致そうではございませんか。いったいあなた様方は、町奉行や酒井様などのような、古手といっては失敬だが、旧式のお役人と違って、こうして開けて来た西洋の新式の調練を受けておいでなさる歩兵さんでございましょう、それですから、モウ少し話がわかりそうなものでございますね」
と言って道庵は、自分の胸倉を取った歩兵の腕を逆に取り返しました。逆に取り返したと言っても、それを
「うむ、そう言われればなるほどだ、我々は町奉行や新徴組のような融通の利かぬ者共とは違って、新式の調練を受けているものだ、高島流の砲術も江川流の測量も一切心得ている」
「左様でございましょうとも。人の胸倉を取るなんということは、みんな旧式の兵隊のすることでございます、歩兵さんに限ってそんなことはございません、やっぱり西洋流に、こうして握手ということをなさるんでございましょうね」
歩兵が存外
「ははあ、貴様はなかなか話せる、医者だけあって
茶袋は急にニコニコしてきました。
今まで威張りくさっていた茶袋が、急に
「貴様は話せる」
と言って道庵と握手をして、
「よしよし、万事貴様に任せてやる、貴様からこの者共をよく
「いや、どうも有難うございます」
道庵は額を丁と
「貴様は少々酔っているようだな」
「へえ、いつでも酔っぱらっているのでございます、町内では酔っぱらいで御厄介になっているのでございます」
何かわからないことを言ってまたお辞儀をする。茶袋はその形をおかしがって
「以来、気をつけろ」
と言って出て行ってしまいました。道庵先生の出る幕は、大抵のことが茶番になってしまいます。夫婦喧嘩でもなんでも、道庵ひとたび出づれば大抵は茶にして納まりをつける。それが時としては道庵の一徳であり、時としては道庵先生の人格を軽くする
「どうでげす、あの道庵さんは大したものじゃあございませんか、お前さんごらんなすったか、ああしていったん胸倉を取られたところを道庵さんが逆に取り返した、あすこが
「さよですかな、あの先生がそんな柔術取りの名人とは今まで知らなかった、酔っぱらってひっくり返ってばかりいるから腰抜けかと思ったら、やっぱりそれじゃあ、なんでござんすかな、道庵先生は柔術の方もちゃあんと心得ているのでございますかな」
「そこがそれ、能ある
「なるほど。それにしてもおかしいのは、あの茶袋が道庵先生に手を取られると、痛いとも
「いやそうではない、あの茶袋もあれで柔術にかけてはなかなかの取り手だが、何しろ道庵先生に会ってはその敵でないと、つまり自分に心得があるだけに、彼を知り
そのあとで床屋の親方は、道庵先生を座敷へ招いて一口差上げ、
「先生、おかげさまで助かりました。いったいどうしたわけでござります」
「あははは」
道庵先生は笑って、
「あれは二両取りという新手だ、あれで首尾よくとっちめてしまった」
「いや町内では、もう大変な評判で、さっきから入り代り立ち代りお礼にやって来ますが、なんでも先生が柔術の達人で、茶袋を手玉に取って投げたと言って騒いでいますが、その二両取りというのは、やはり柔術の手なんでございますかね」
「あはははは」
道庵はいちだんと大口をあけて笑い、
「
「その型をひとつ、伝授を受けたいものでございますね」
「あはははは、いいとも、二両取りの型をひとつ話してやろう。まず最初に茶袋が、わしの胸倉を取った時、その手先を逆に取り返したわたしの働きを見たかい。あの時それ、そっと一両握らしてやった」
「なるほど」
「そうして
「なるほど、そんなことだろうと思って、私もあの時にお手の中を見ていました。私の方でその手を先に用いさえすれば何のことはなかったのでございますが、あの茶袋の言い分があんまり
「それはそうと親方、お前さんは何かこの道庵に
「そりゃ先生、ほんとうに内密なんでございますがね、本人も先生ならばというし、私共も先生をお見かけ申してお願いの筋があるんでございますがね」
「たいへん改まったね、この呑んだくれをまたいやに買い被ったね」
「全く先生をお見かけ申してお
「気味が悪いな、そうお見かけ申して、見かけ倒しにされてしまってはたまらねえ、あんまりお縋り申されて引き倒されてもやりきれねえが、男と見込んで頼まれりゃ、おれも道庵だ、ずいぶん頼まれてみねえ限りもねえのさ」
「実は先生、人を一人預かっていただきたいんでございますがね。ただ預かっていただくんならどこでもよろしうございますが、暫らく隠して置いていただきたいんでございます。先生ならば預ける方も安心、預けられる方も安心なんでございますから」
「俺に人を
「先生、謀叛人とか兇状持ちとか、そんな物騒な人じゃございません、女の子でございます、女の子を一人、預かっていただきたいんでございますが」
ここで片腕のない床屋の親方というのが、がんりきの百蔵の変形であること申すまでもありません。道庵先生は、百蔵の口から何事か頼まれると、
「遠くの親類より、近くの他人ということもあるて」
と言って、
道庵がこの床を出て行くと、入れ違いに、
「少々ものを承りとうございます」
「おや百蔵さん」
と言って驚きました。これは女軽業の
それから百蔵がお角を連れて、山下の
「親方、おかげさまで全く助かりました、近いうち両国でまた一旗揚げる都合ですから、どうぞ
「それはまあよかった。甲府へ残して置いた連中もみんな、無事でいなすったかね」
「ええ、みんな無事でおりましたが、ただ一人だけどうしても見つからないんですよ。あれがわたしども一座の花形なんですが、火事場からどこへ行ったか、焼け死んだ様子もないから、どこかへ逃げたんだろうと、よく土地の人に頼んでおきました、広いところではありませんから、そのうちに見つかるだろうと思っていますよ。あれが見つかりさえすれば、一人も欠けずに
「俺も少しばかりのお金が、お前さんのお役に立って嬉しいというものだ」
「それから親方、府中でお目にかかった時は、お前さんはたしか、百蔵さんとおっしゃいましたが、ここで銀造さんとおっしゃるのは、どういうわけでございます」
「百蔵の方は近ごろ通りが悪いから、それで銀造と変えたのだ、銀造というのが
「ようございますとも。それはそうと親方、お前さんは、ほんとうにおかみさんがないのですか。あの時のお話では、おかみさんは三年前
「ナニ、嘘をつくものか、おかみさんなんぞはありゃしねえ」
「それがやっぱり嘘でございますよ」
「それじゃなにか、俺におかみさんがあるというのかね」
「ありますとも、大ありです」
「こいつは聞き物だね。無いものでも有ると言われりゃ悪い気持はしねえが、お前からそう言われると、どうやら痛くねえ腹を探られるようだ」
「申しわけをするだけ弱味があるんですね、隠したって駄目ですよ」
「驚いたね、ああして、男世帯の
「そりゃいけません、ここの家に女っ気が有るか無いかということは、一目見れば直ぐにわかりますよ、女は細かいところへ気がつきますからね」
「それでは、俺の家に女がいるというのかね」
「そうですとも」
こんなことから
その時分、根岸に住んでいたお絹が、今日は
男と女と二人で
しかし向うはちっとも気がつかないで、二人で笑いながら話し合って歩いて行きます。片腕の無い百蔵は前と変らず元気なもので、身なりなども小綺麗にしているのでした。女はと見れば、これは眉を落した
お絹はそれを見ると、むらむらと
「そういうわけなら、あの子をわたしが預かりましょうよ」
それとも知らず、男女の話は甘ったるい。
「そんなことはできねえ」
百蔵はわざとらしく首を振ります。
「そんなに、わたしという者に信用が置けないの」
「お前に預けて売物にでもされた日には、せっかくの
「わたしはまた、お前さんが預かって
「預かり物を食う奴があるものか」
「どうだかわかりゃしない、猫に
「第一、おれに食われるような娘じゃねえ、お邸奉公を勤めていた娘で、堅いことこの上なしだ、友達の義理で
「預けた方も心配でしょう」
「心配というのはそんなことじゃねえが、いつまでも俺のところへ置けねえわけがあるのだから、それで今日、よそへ預け換える約束をしてしまったのだ」
「どこへ預けようと言うの」
「どこでもいいじゃねえか」
「それを言わないと放さない」
人目の薄いのをいいことにして、二人は肩と肩とを突き合せて、こんなことを話しながら行くのを、お絹はみんな聞いてしまって、この男も女も憎らしくなりました。よし、どこへ行くか、行く先を突きとめてやろうという気になりました。
「
「長者町の道庵さん?」
こう言って男女が山下の
根岸の
と言って、自分が男をこしらえて見せつけてやるほどのことではない。なんとかして、いったん自分の方に向いていた男の心を、もう一ぺん向き直させなければ女の面目が立たないように思いました。一緒に歩いていた女は、ありゃ女房だろうか妾だろうかと、よけいな
「ああ、そうだ」
とうとう思い当ってお絹は
忠作と別れる前から、お絹は末の見込みのないことを知って、自分の物は廻しておきました。大切の証文も幾通りか
「有った有った、これに違いない」
と
その晩は寝ながらも、この仕組みのことばかり考えていました。
先刻、耳に入れた話、何か預かり物の一件、
「よしよし、道庵が入るならば芝居が
その翌日、お絹は十二分の好奇心を以て長者町の道庵先生を訪れました。
「先生、今日伺ったのはほかのことではございませんが、先生の身の上にありそうもない
「ははあ、モウあれを聞かれてしまったか、それはそれは」
と言って、道庵はきまりの悪いような
「先生にもお似合いなさらぬことで……」
と、お絹はなんだか意味のありそうに言うと、道庵は恐縮して、
「ツイどうも、あんなことになってしまって甚だ申しわけがない、わしも面白半分で出かけて行って見ると、ワイワイ騒いでお
「先生、そんなことではありません、わたしの聞いた噂というのは別なことですよ」
「はて、そのほかには、別に人に聞かれて
「先生が奥様をお迎え申すようになったと聞いて、お祝いに参りました」
「おやおや、わしが奥様を迎えることになったって? そりゃ初耳だ。そうしてそりゃ、どこから来るんだい」
「先生、
「そりゃ、おれの方からもお聞き申したいところだ、ほかのことと違ってこんなめでたいことはない、どこから、どんなのが来るんだか早く聞かせてもらいたい」
「先生が言わなければ、わたしの方で言ってみましょうか」
「ぜひ、そういうことにしてもらいたい、同じ値ならば若くって
「ところが、若くって綺麗なのだから不思議ですね、その上にお邸奉公までつとめて、遊芸の
「奢る! そうなれば道庵もこうして踏み倒されてばかりはいねえ。そうしてなにかい、
「親許は上野の山下で、もう
「親許は上野の山下だって? そうしてそれは武家か町人か、ただしまた
「山下の銀床という床屋が親許で、近いうちに道庵先生のお邸へ乗組むということを、人の噂でチラリと聞きました」
「ハハア、なるほど」
それと聞いて道庵先生が初めて気がつきました。この女どこから聞き出して来たか、もうあの娘のことを知っている、そうしてワザとこんなふうに
それと共に道庵がフト考えついたのは、この女もずいぶん
「ははあ、あの娘のことか。どこから聞いて来たか知らねえが、お前さんにそう言われると、ははあなるほどというほかはないのだ。実は俺もその用談を持ちかけられて始末に困ったようなわけだが、いかがでございましょう、お前さんの方でなんとかお考えがございましょうか」
道庵はこう言ってお絹に相談を持ちかけてみると、お絹は二つ返事でその娘を預かろうと言い出しました。
道庵はそれでホッと息をついて、お絹を信用して百蔵から頼まれた娘をそっくりその方へ廻すことにしてしまいました。
娘を預けようとする道庵も無論、その娘がお松であるとは知らず、それを預かろうとするお絹ももとより、それはいったん自分の手塩にかけたお松であろうとは思いも及ばず、道庵は頼まれてみたものの小面倒であるから、そのままお絹に引渡そうとし、お絹はただ、がんりきとお角の間に何か仕返しをしてやろうという、いたずら心で進んでそれを引取ろうと言い出したものです。
こう話が
「御免下さいまし」
「山下の銀床から参りました……」
その声は聞覚えのある声、すなわちがんりきの百蔵の声でした。
道庵は自身で玄関へ立ち出でて見ると、そこに駕籠を釣らせて来たのは、銀床の亭主、まごう
「これは先生、かねてお願い申したのをただいま連れて参りました、なにぶんよろしく」
次の間で
「おや!」
と言って驚いたのは、手を取って駕籠から助け出したそれは、自分が手塩にかけたお松の姿であったからであります。
次の間で隙見をしていたお絹が驚いたばかりでなく、迎えに出た道庵もまた驚きました。お松にとっては道庵は再生の恩人であり、伊勢参りをした時に
「お松ではないか」
お松はその声を聞いて、水をかけられたような心持がしました。そこに立っているのは、姿こそ今は
「まあ、お師匠さん」
「珍らしいところで会ったね」
「どうも
「見ればお前はどこぞお邸奉公でもしておいでのようだが、どこに勤めていました」
「はい、三田の蜂須賀様のお邸に」
「どうしてお前、あの神尾様のお邸を出てしまったの」
「つい、よんどころないことが出来まして、それ故まことに……」
「人もあろうに、風呂番の与太郎とやらいう足りない男と逃げたというじゃないか」
「どうも申しわけがありません」
「お前があんな不始末をしてくれたおかげで、わたしは殿様の前へ、どんなに
「何卒おゆるし下さいまし」
「出来てしまったことは仕方がないが、もうその与太郎という風呂番とは手が切れてしまったのかい」
お絹が与太郎与太郎というのは与八のことですけれど、お絹の口ぶりによれば、お松と与八と逃げたのは不義をして逃げたもの、お松がその風呂番に
「あの人が、よく親切にしてくれましたけれど、わたしが
「何が親切なんだろう、色恋にも
「そういうわけではございませぬ」
「それからお前、上方へも行っていたそうな。一度ぐらいわたしのところへ便りをしてくれてもよかりそうなもの」
「そのつもりでおりましても、つい、いろいろの目に遭ったものでございますから」
「こっちへ来てそんなに御奉公するまでに、なぜわたしを訪ねてくれなかったの」
「まだこっちへ参りまして僅かでございますから、ツイ御無沙汰を」
お松は畳みかけて叱られるのを苦しい
「過ぎ去ったことは仕方がないから、これから心を入れかえて下さい。今お前をつれて来た人なんぞも、どうやら
お絹は自分の子を危ないところから助け出したような言葉で言っていますが、これはまるきり
こうして道庵の手からお松は再びお絹の許へうつることになりました。お絹は以前のことを一通り
「お前がそういう気になってくれれば、わたしだって昔のことなんぞを繰返すのではありません」
「お師匠様、それについては一つのお願いがございますが、どうかお聞入れなすっていただきとうございます」
「改まってお願いというのは、どんなことでしょう、言ってごらん」
「お
「なるほど」
お絹は本気になってなるほどと言いました。それはお松の心があんまり正直だから、多少動かされたのであります。
「けれどもね」
ややしばらく感心していたお絹は、けれどもという言葉を
「お前はまだ知るまいが、神尾様も昔の神尾様ではないのだよ、今はお江戸にはおいでにならないのですよ」
「あの、甲府の方へお役替えになったそうでございますね」
「まあ、よく知っている……」
お絹の眼には驚きの色がありました。
「甲府のような山の中へおいでになりましては、何かにつけて御不自由でございましょうから、できますならば、お
前にはいやがって逃げ出した神尾の殿様のところへ、今度は進んで行こうと言い出したのは、それだけ苦労をして来たききめだろうと思いました。
「ほんとにお前は感心なところへ気がつきました。それは甲府詰といえばお旗本の運の尽きで、ああして
お絹は喜びました。お松はなにも元の殿様に忠義を尽す心から言ったのではなかったけれど、お絹はお松の
「わたしはもうこれまでの体だから、これからお前を養女にして、町人でいいから堅そうな養子を見立てて、
なんぞと、心細いことをも言い出すのでありました。今夜もまた二人は床を並べて
「お師匠様、まだお手形は出ませんのでございましょうか」
お絹は思い出したように、
「ああ、もう
「もし、お手形が下りませんでしたらば、わたしはお手形なしで、裏道を通っても、早く甲府へ参りたいと存じます」
「わたしの方はそうはゆかないから、まあもう少し待っておいで」
お絹とお松との手形というのは、疑いもなく、甲府へ行こうとするその道筋のお関所へ見せる
その翌朝になると女中が、
「旦那様、お客様でございます、山下の床屋からと申しました」
と聞いて、お絹はそれと気がつきました。
「まあ、お待ち、どんな人が来たか見てやりましょう」
お絹はワザワザ自身に立って玄関の
「何の御用ですか聞いてごらん、お
それで女中が出て行きましたが、暫くたってまた引返し、
「旦那様へ、このお手紙をお目にかけさえすればわかるからと申しました、お客様は女の方でございます」
一封の手紙を取次いだからお絹はそれを取って見ると、長者町の道庵先生からであります。
封を切って読んでみると、その文面は、かねてお預け申してあった娘を、この手紙を持った人が迎えに行くから渡してやってくれ、お礼には後で拙者が出るからということでありました。まさしく道庵先生の筆に違いないけれど、お絹はわざとらしく
「どうも、お手紙の筋は手前共の主人にはよくわかり兼ねますから、お返事の致し様がございませんとそう言って、この手紙を返してやってごらん」
「
女中はまた出て行きました。なんと言って来るか知らんとお絹は、煙草の煙を吹いておりました。
「旦那様」
またまた取次の女中がやって来ました。
「帰ったかい」
「いいえ、お客様は、そんなはずがないと申しておりまして、とにかく御主人様にお目にかかった上で、お
「そうだろうと思った。それではお通し申して置き。それから、
女中はまず、命ぜられた通りに用箪笥の抽斗をそっくり引抜いて、お絹の前へ持って来てからまた取次に出かけました。
お絹はその抽斗の中を
「お松や」
お絹は証文の
「はい」
「わたしが今お客様と話をしていますから、もしお茶をと言った時分に、お前はお茶を入れて持って来て下さい。お客様は、お前の
こう言ってお絹はとりすまして客間へ立って行きました。
「お
お絹とお角と
「さきほどお目にかけましたお手紙、どうやらお門違いとも思われませんのに、御様子がおわかりにならないそうでございましたから、押してお目通りをお願い申しました」
「道庵さんは
「あの道庵先生から、当家様へ二三日お預かりを願いました娘さんのことでございますが、その
「それは変なことでございますね、私共では、先生から娘さんとやらを預かったような覚えは一向にありませんのですが」
「おやおや、それでは道庵先生が何か勘違いをなすったのではございますまいか」
「あの先生のことだから、何かいたずらをしてお前さんたちをかついだのかも知れません」
「ほかのことと違いまして人一人のことでございますから、そんな罪ないたずらをなさる先生でもございますまいし」
「なにしろ、わたくしどもでは、道庵先生から小猫一匹でもお預かり申した覚えはございませんから」
「それは困ったことになりました、あの先生に限って、酔っぱらっておいでになっても、信用の置けることには置ける先生だとばかり思って安心して上りましたのに」
「どうもお気の毒に存じます、もう一度先生の方を確めてごらんなさいませ」
「そういうことに致しましょう。これはどうも飛んだ失礼を致しました、そそっかしいことでお恥かしうございます、
お角は当惑してしまったから、お絹に向って自分のそそうを詫びました。
「まあよろしうございます、お茶を一つ召上れ」
お絹がお茶を一つと言った時に、何も知らないお松はお茶を立ててこの場へ持って出ました。お角は今お詫びをして帰ろうとするところへお松が入って来たものだから、思わずその
「おや、このお娘さんは……」
お角が驚いて膝を立て直すのを見て、お絹は
お松は何のことだかわかりませんで、ただこの女のお客が自分を見て
「おいであそばせ」
一礼をして出て行こうとする時、お角の言葉つきがガラリと変って、
「奥様、おからかいなすってはいけませんよ、女のことでございますから
膝を立て直したお角の挙動を、ますます怪しいことに思いながらお松はお茶を出して、次の間へ立去ってしまいました。それを流し目でお角は見送りながら、
「奥様、お前様は、女の子はおろか、猫一匹も道庵先生からお預かり申した覚えはないとおっしゃいましたね。そんなことだろうと思いました。危ないこと、子供の使いで追い返されて、こっちからは赤い舌を出され、向うでは笑い物にされるところでしたよ」
お角は坐り込んで、ことわりもなしにお絹の
「お前さんには、あの女の子より先にお預かり申した品があるから、それをお返し申してからの話にしようと思いました」
お絹はその証文をお角の前に置くと、お角は不審な
「おやおや、こんな品物が奥様の方に廻っていようとは存じませんでした。エエよろしうございますとも、お借り申したものは決してお借り申さないとは申しません。甲府へ行く前にこの証文通りお借り申しました。甲府から帰って参りますと、佐久間町の方へお返しに上ったんですけれど、お家が
「ええ、いつでもようございますよ、このお預かりの方はいつでもかえして上げますが、あの娘の方は何べん取りにおいでなすっても無駄道でございますから、その方はお断わり申しておきますよ」
「おや、それはどういうわけでございましょう。なるほどこの証文は口を利きますけれど、あの娘さんはありゃ山下の床屋から、道庵先生のお手を通して当家様へお預け申した人、いくら高利貸が御商売でも、
「気をつけて口をおききなさい、誘拐とはそりゃ何のことです」
「誘拐が悪うございましたか、人の娘を預かりながら、それを親許から受取りに来れば、預からないの返せないのと、しらを切るのはそりゃ誘拐じゃありませんか」
「いくら淋しい根岸でも近所がありますから、あたりまえの声で話をして下さいよ。お前さんは何も知らずに山下の床屋から尋ねておいでなすったようだが、あの床屋というのはいったい、この娘の何に当るのですね。親許から迎えに迎えにとおっしゃるが、その親許というのはどんな人なんだか、それがお聞き申したいね」
「その親許というのは銀床の亭主の友達なんですよ、その人がいま銀床に来ているんだから、それより確かなことはございますまいよ」
「銀床の御亭主というのは、どんな人だかお前さんは御承知ですか」
「そりゃ銀さんといって、片腕がないけれど、腕がいいのであの辺で評判ですね」
「その銀さんとやらが、どうして片腕が無いんだか知っていますか」
「大きにお世話さまですね、片腕があろうとあるまいと、好い人は好い人なんですからね」
「ところが、あんまり好くない人なんですよ。なるほどお前さんには片腕のないところがいいかも知れないが、あんな物騒な人に娘盛りの子を預けてはおけません」
「何が物騒なんでしょう、人には親切で、
「おやおや、首の無い殿御を抱いて寝るというお姫様もあるんだから、片腕のないところもまた
「そんなことを聞きに上ったんじゃありません、あの人の片腕がどうしようと、そんなことは大きなお世話じゃありませんか」
お角は非常に腹を立てました。自分に恥をかかせようと
「何を言ってやがるんだい、
こう言って
「いいえ、かえすことはできません。何ですお前さん、人の家へ来て失礼な、そのなりは。さあ早く帰って下さい、お帰りなさい」
お絹も負けてはいませんでした。
「失礼は
「勝手になさい。わたしの体に指でも差してごらん、わたしもただは置かないが、この近所には、わたしの知合いで、
「面白いね、御家人がいたら出てもらおうじゃありませんか、公方様の兵隊を指図なさるお役人がおいでなすったら、その兵隊を繰出してもらおうじゃありませんか、筋道を立ててお嬢さんを受取りに来る人と、
「お前さんのような下品な人とは口を利くのもいや、勝手にひとりで
お絹は座を立って次の間へ行ってしまおうとする。お角は
「下品で悪かったね、どうせわたしなんぞは、下品で失礼で
お絹の後ろから飛びついて引き戻そうとしました。
「何をするんです」
お絹はそれを突き返しました。
「さあ娘を返せ、お嬢さんをこれへお出しなさい」
お角は突き放されてまた
「まあ、何をなさるんでございます、
次の間にいたお松は、見兼ねてそこへ仲裁に入りました。
「おお、お嬢さん、わたしは銀床から頼まれてお前さんを迎えに来たんですよ、お前さんの伯父さんがいま甲州の方から帰って、お前さんを連れて帰りたいというから、わたしが道庵さんまで迎えに行くと、こっちへ上っているというから、わざわざここまで来てみるとこの人が妙な真似をするから、わたしは腕ずくでもお前さんをお連れ申すつもりなんでございます、さあ、こんないやなところにおいでなさらずに、わたしと一緒にお帰りなさいまし」
お角は仲裁に出たお松の手を引張りました。お絹はその間へ割って入り、
「お前さん方のような悪者の仲間へ、この子を渡すことはなりません」
「おや、悪者の仲間とはよく言った」
お角はいよいよ
「まあ、まあ、まあ」
かねて様子を見ていたもののように飛び込んで来たのは七兵衛でありました。
七兵衛のこの場へ飛び込んだことは、すべてにおいて都合がよくなりました。
二人の女をうまく仲裁して、話をそっくりわかるようにしてお角をなだめて帰し、そのあとでお絹と万事話し合って事情がわかり、話を
「百、いま帰った」
「兄貴、帰ったのか、俺がいま出かけようと思っていたところだ」
「どこへ」
「根岸の
「それなら、もう話が
「兄貴の方は話が纏まったか知れねえが、俺の腹にはちっとばかり居ねえことがあるんだ」
「あれはあの女の癖だから、別に気にかけなさんな」
「癖にしてはあんまり
「ははは、恨みは大ありだ、当ってみれば
「いったい、その女というのは何者だい」
「お前がその女に
「そう聞いてみると、なおさら
「出かけて行ってどうするつもりだ、その女に指でも差してもらうと俺が困ることになるんだから、打捨っておいてくれ」
「兄貴の迷惑になるようじゃあ済まねえが、なんだか様子がわからねえから、まあ一通りの話を話してみてくれ」
「根岸にいる女というのはそりゃあそれ、
「ナニ、徳間峠の? まさかあの切髪の
「それだそれだ、お前が腕を一本とられた因縁物だ」
「なるほど、そいつは
「ところが向うから因縁をつけて来たというのは百、お前が気が多いからだ、あの女軽業の親方とお前と出来て、嬉しそうに歩いているところを見せつけられたから
「うむ、そう言われるとなんだか
「ははは」
七兵衛は笑っているが、がんりきはまだ心の底に何か残っているらしい。
「兄貴の前だが、おれは一旦ものにしかけた女を、そのままにしておくのはいやだ」
「おやおや、お前はまだそんなことを言ってるのか、男らしくもねえ、まだ未練が残っていたのかい」
「未練というわけじゃあねえが、おれもあの女ゆえにこの腕を一本なくして、生れもつかねえ
「済まされなけりゃあどうするつもりだ、腕一本で済んだのが見つけもので、すんでに命のねえところを助かったんだ、よけいなチョッカイを出したおつりと思えば腕一本は安いもんだと
「兄貴、あきらめというのは見ず聞かずの上のことだ、ツイ目と鼻の先にいて、こんな悪戯をされた日にゃあ、どうもがんりきも眼がつぶり切れねえ」
「存外、
「そこが兄貴と俺との
「それじゃなにか、執念深くどこまでもあの女を附け廻そうと言うんだな」
「そうだ、みんごと、俺はこの片腕であの女をこっちのものにして見せる、兄貴の方に何か
「百、お前がそういう心がけならそれでいいから思うようにやってみろ、その代り、あまり出過ぎると、ちいーっと危ねえことがあるから、そう思え」
「
「うむそうか。それじゃあ、あの女は近いうちに娘をつれて甲州街道を上って甲府へ行くはずだから、手前も一緒に行ってみたらよかろう、その途中には手前が望む危ねえ橋がいくつもあるんだから、渡れるものなら渡ってみねえ」
「兄貴、お前もついて行くんだろう」
「俺が頼んで行ってもらうような仕事だから、道中は眼がはなされねえ」
「そうなると兄貴と俺と
「まあ、いいようにしてみろ」
七兵衛とがんりきとはこんな問答をして、少しばかりおたがいに気まずい色を見せて、七兵衛はこの銀床を立ち出でました。
「困った野郎だ、何をしようとたかの知れたようなものだが、詰らねえことにしたくもねえ、なんとかしてあいつを追っ払ってしまうような工夫はねえものか」
七兵衛は考えながら歩きましたが、
「そうだそうだ、女から持ち上ったことは女に限る、一番あの女軽業のお角という女を
宇治山田の米友はこの頃、お君の身の上を心配しています。両国の
ああいうわけで米友は、両国の見世物小屋を追い出されてから、両国の近辺へは立廻れないわけなのですが、こっそりと出入りをして、もしお君らしい人が通りはしないかと思ってキョロキョロ見ていましたが、一向それらしい女の子は見えないから、いつでも失望して帰ります。米友の
「お前も一緒に遊ばないか」
と言いましたが、
「やあ、この人は子供じゃあねえんだ、大人だよ、おじさんだよ」
それで近所の子供らは、米友をおじさんと言うようになりました。
「おじさんは槍が上手なんだね」
と言って槍をいじくる。
「そりゃ上手さ、この間は侍の泥棒が十人も来たんだけれど、おじさんがこの槍一本で追払ったんだ、ねえおじさん」
「おじさんは
「そりゃお前、生れつきだから仕方がないじゃないか。背が低くったってお前、おじさんの
「それにおじさんは
子供は正直だから、寄ってたかって米友の
「
「見なかったよ」
「話せねえな、印度で虎を退治して来た黒ん坊なんだよ、
米友は、いよいよ苦い
「それがお前、途中でふいといなくなっちまったから、もう一ぺん見に行くつもりだったけれど詰らねえや。でもこのごろ、また朝鮮から象使いが来るんだとさ」
「どこへかかるんだい」
「前に印度人の槍使いが出たあの軽業の小屋さ、娘軽業というのがあったろう、あれが朝鮮まで行って帰って来たんだとさ、それで朝鮮から象使いをつれて来て、来月からあすこへかかるんだって。だから俺らはまたお父さんにつれて行ってもらうんだ」
「俺らもつれて行ってもらおうや」
子供たちのこんな話を米友が
「子供衆」
「何だ、おじさん」
「朝鮮から象使いが来るというのは、あの、なにかい、もと女軽業や力持がいたあの見世物小屋かい」
「そうだよ、もうビラが方々へ廻っているよ」
「それで、もとあの小屋にいた軽業や力持も帰って来たのかい」
「みんな帰って来たよ、
「そうか」
米友は腕を組んで考え込みました。甲府へ旅興行に出かけたにしてはかなり日数がかかっていたが、ついでに処々の旅興行をして帰って来たものだろう。帰って来たとすれば、何よりも先にお君からの便りがなければならぬ。友さんいま帰ったよ、と言ってお君が真先にこの米友を尋ねなければならないのだ。つづいてムク犬も尾を振って
しかしながら米友には、あの小屋へ行けないわけがある。見世物小屋の
「おじさん、どこへ行くの」
「うむ、
と言って米友は、急に
「こんにちは」
もう開場三日前、小屋の内外の装飾で忙しいところへ米友はやって来ました。
木戸番は
「軽業の娘たちはみんな甲州から帰ったのかね、一人残らず帰って来たのかね」
「はい、みんな帰りましたよ」
「では君ちゃんも帰ったんだろう。君ちゃんが帰ったなら、ちょっとここまで面を出してもらいてえ」
「お前さんはどなたでございます」
「君ちゃんに会えばわかるんだ」
「…………」
「こんな人が尋ねて来たって、君ちゃんにそう言っておくれ」
木戸番は米友の面をよく見ました。
「今こっちの方は忙しいんですから手が放されません、裏から廻って楽屋の方へ行ってごらんなさいまし、楽屋でお聞きなすってみてごらんなさいまし」
「そうですか、それじゃ楽屋の方へ廻ってみるかな」
米友は久しぶりでこの小屋の内部へ入ってみました。
大勢の人は気がつかないで立働いているが、米友はなんだか気が
「こんにちは」
楽屋では一座の美人連が出揃って、新興行にかかる小手調べをしているところでした。
「こんにちは」
米友は女軽業の美人連の
「どなた」
「おやおや、米友さんじゃないか」
「まあ、米友さんが来たよ、可愛らしい米友さんだよ」
美人連は稽古をしたりお化粧をしたりしている手を休めて、米友の方を見ました。米友は怖る怖る、
「皆さん、暫らく」
「米友さん、ほんとに暫らくだったね、どこにどうしていたの」
「あっちの方にいたんだ。皆さんはいつ帰ったんだい」
「わたしたちはこのあいだ帰ったのよ、まあお上り」
「上っちゃ悪かろう、親方はいねえのかい」
米友は楽屋の中を見廻しましたけれど、不幸にして、お君の姿は見えませんでした。土間を見たけれども、ムクの姿をさえ見ることができませんでした。
「親方は、ちょっとそこまで用たしに行ったから、もう直ぐに帰るだろう」
「あの……あの、君ちゃんはいねえのか」
「君ちゃん……」
と言って、美人連は
「君ちゃんも旅から一緒に帰ったんだろう、どこにいるんだい」
米友は、美人連が見合せた面をキョロキョロと見ていました。
「君ちゃんはねえ……君ちゃんは帰らないんだよ」
「おや、君ちゃんは帰らないんだって? みんながこうして面を揃えているのに、君ちゃんだけが帰らないのかい」
「ええ、君ちゃんだけが帰らないんだよ」
「そりゃどうしたわけなんだい、君ちゃん一人を置いてけぼりにして来たのかい、そんなわけじゃあるめえ」
米友がお君の安否を
「米友さん、君ちゃんは旅先で、いい旦那が出来たから、それで帰るのがいやになったのだよ」
「いい旦那が出来たって?」
「わたしたちなんぞはいずれもこんな
「そんなはずはあるめえ、そりゃ
米友は、いよいよ一心になりました。一心になればなるほどその態度が滑稽になりますから、人の悪い美人連は、そんなに悪い気分ではないけれど、ついついからかいがあくどくなってゆきます。
「第一、ここに君ちゃんのいないのが何よりの証拠じゃないか。ほんとにあの人は仕合せ者だよ、甲府の御城内でお歴々のお方を
口から出まかせにこんなことを言いましたのを米友は、そんなことはないと思いながらツイツイ釣り込まれて、
「ナニ、君ちゃんが
ウカウカと米友がこう言ったのが、美人連の笑いを買いました。
「ホホホホ、そうでしたねえ、君ちゃんには米友さんが附いているんでしたねえ、こんな色男を捨てて君ちゃんも罪なことをしたものさ」
彼等は
女軽業の美人連は興に乗って米友に毒口を利きました。こんな毒口は楽屋うちで言い古されている毒口でしたけれども、単純な米友は
「ばかにするない、そんな
「米友さん、怒っちゃあいけないねえ、君ちゃんに捨てられたと思って、そんなに
「馬鹿」
米友は眼をクルクルと
「君ちゃんは
「手が着けられないね。米友さん、お前が君ちゃんと、どんな約束をしたか知らないが、現に君ちゃんはここにいないで、江戸へ帰るより甲府がいいと言って残っているから、文句がないじゃないか」
「お前たちが残して来たんだ」
「ばかにおしでないよ、こうして座を組んで、一つ鍋の御飯をいただいて歩いていれば
美人連はこんなことを言って米友を
「本当のことを言ってくれよう、本当のことを」
米友は
「本当のことはね……本当のことは、やっぱり君ちゃんだけは旅から帰っていないんだよ」
「ほんとうに帰らないんだね」
「それはほんとうだよ」
「よし、それじゃ俺らがその甲府というところへ行く、そうして君ちゃんに会って話をしてみりゃわかることなんだ。甲府は何というところで、何という人の家にいるんだ、それを教えてくれ」
米友はこう言ってせきこんだけれど、女軽業の美人連はそれほどに行詰ってはいないから、
「まあ、ゆっくりと旅の話をしてあげるから上って休んでおいでよ、お茶を入れるから」
これらの美人連も一蓮寺では、お君とムクのおかげで危ないところを救われているのだから、それを思えば、お君のためにも米友のためにも、もっと親切に身を入れて応対をしてやらなければならないのですけれど、米友をあんまり軽く見ているから、ツイ身が入らないのでした。
「ちぇッ」
米友は、もどかしさに舌を鳴らして、気がいよいよ
「だから旅へ出るのをよせと言ったんだ、それをきかないで出たから悪いんだ。ムクだってそうだ、なんとか役に立ちそうなものじゃねえか、ちぇッ」
米友が舌を鳴らして立っているところへ、お
「親方のお帰り」
と言って、美人連の迎えを受けて楽屋へ入って来たお角が米友を見ると、眼に
「おや、見慣れない人が来ているよ。誰かいないの、ナゼあんな人をここへ通したんだろう、ここへ通して都合のいい人だか悪い人だかわかりそうなものじゃないか、あんな人が小屋の廻りにウロウロしていて人気に触らないと思うのがお目出度いね、ほんとに気の利かないやつらだ」
お角の機嫌が大へんに悪い。美人連のうちの一人が米友の傍に寄って来て、
「お前さん、早くお帰り、親方に怒られると大変だから」
いつもの米友ならば我慢しきれないところでしたけれども、感心に深く争わずしてこの小屋を出たのは、日の暮れる時分でありました。
さすがの米友もこの時は、実に
いくら自分が
「腹が立ってたまらねえ」
米友は歯噛みをして、両国広小路見世物小屋の方を
「覚えてやがれ」
米友の
「覚えてやがれ」
橋の真中から
「もし、
と肩を叩いたものがあります。
「誰だ」
米友が振返って見ると七兵衛でありました。もとより米友は七兵衛を知らないが、七兵衛は米友に見覚えがあります。
「兄さん、お前さんはこれからどこへおいでなさるのだ」
「どこへ行ったっていいじゃねえか」
「さっきからここで見ていると、お前さんは何か心配がおありなさるようだ」
「大きにお世話だ」
米友は七兵衛の
「私は通りかかりの者だが、どうやらお前さんの姿に見覚えがあるから、失礼なことだが暫らく立って見ていました、そうするとお前さんがしきりに何か言って腹を立っておいでなさるようだから、もしも変な気を起してざんぶりとおやりなさるのかと思って、こうして両手を出して見ていましたよ」
「大きにお世話じゃねえか、川へ飛ぼうと首を
米友は悲憤の思いでいっぱいですから、何を言っても耳へは入りません。
「兄さん、もしお金にでも困るようなことがあったら、ずいぶん力になって上げようじゃないか」
「大きにお世話だと言うに。いつお前に
「そうガミガミ出られちゃあ、せっかく親切に話をして上げても何にもならない」
「俺らはお前に親切をしてくれろと言った覚えはねえ」
「でも、こうして身投げでもしようというには、よくよくのことがあるんでしょう、御主人のお金を
「いつ、俺らが身投げをすると言ったい、お
「兄さん、そんなことを言って強がりを言ってみたところで、様子でわかりますよ、様子で。ほかから見るとお前さんの様子というものがよっぽど変で、口惜しまぎれに身投げをするか、人殺しをするか、その思案に暮れているようなあんばいに見えますから、それで私は見すごしができないわけなんでございます」
「嘘を言うない」
「嘘なもんですか。第一お前さんは伊勢の国からはるばる出ておいでなすって、今晩泊るところもないから、それで死ぬ気におなんなすったのだろう」
「何だ、お前は俺らが伊勢の国から出て来たことを知ってるのかい」
「知っていますとも、伊勢の国で宇治山田の米友さんというのはお前さんだろう」
「おやおや、俺らのところから名前まで知ってやがる、俺らの方ではお前を知らねえ」
「それで兄さん、お前は盗賊の罪を
「おや、お前はそんなことまで知ってるのか」
米友は不安と
「心配しなくってもようございます、お前さんの罪のないことは、私がよく知っているのでございますからね」
「うむ、俺らには全く罪がねえんだ、
「そうでしょうとも、お前さんは盗人なんぞをなさるような方ではない」
七兵衛の信用を得て、米友はやや
「俺らもあれから、ずいぶん運が悪くなり通しでね、なかなか苦労をしたよ」
「そりゃお気の毒でしたねえ」
「あっちへ行ってもこっちへ行ってもばかにされるんで、やりきれねえ」
今までの
「私もお前さんの噂を聞いて、ほんとにお気の毒でたまらないから、どこかで逢ったら、いろいろお話をして上げようと思っていたところでした、今日はまあ、いいところで会いました」
七兵衛と米友とは、どっちが先ということなしに両国橋を、本所の方へ向いて渡りながら身の上話。
七兵衛に
「あんな女にこの上ばかにされてたまるものか」
お角は小屋へ帰って、その
七兵衛はその有様を見て、手を拍って自分の策略が当ったことを喜び、その間に手形が下りて、お絹とお松とはがんりきを出し抜いて甲州街道への旅路に出かけました。七兵衛は自分が見え隠れにこの
「兄さん、道中は
「うむ、いいとも」
「そうかと言って、まるっきり
「うむ、一本腕の胡麻の蠅が来たら用心するんだな。何と言ったけな、その胡麻の蠅の名前は」
「がんりきという
「うむ、いいとも」
「おれは道中師だから、街道筋にどんな悪い奴がいるかということはチャンと心得ているんだが、おそらくそのがんりきという奴ぐらい悪い奴はねえ、またあのぐらいスバシッコイ奴もねえ、わけて女連と見た日には執念深く附いて廻って仕事をする奴なんだから、そのつもりでしっかり頼むよ」
七兵衛は米友に向って、なおくわしくがんりきの人相や悪事の
お絹とお松とには正式の手形、米友はその従者として正当に関所を越えることのできるように手続が出来ました。
それより三日目に両国の女軽業の見世物が
「
急いで取って返して旅の仕度をしているところへ、
「お前さん、何をしているの」
「ナニ、その、ちっとばかり」
「足ごしらえをしてどこかへおいでなさるの」
「ナニ、近所まで」
「近所のどこへおいでなさるの」
「ナニ、そんなに遠いところではない」
「そんなに遠いところでなければ、足ごしらえなどをしなくてもいいじゃないか」
「でも、久しく旅をしないから」
「おや、久しく旅をしないから、どこかへ旅をしてみたくなったというんですか。知ってますよ、その旅先はちゃあんと呑込んでいますからね」
「ナニ、少しばかり足慣らしをやってみるんだ」
「出かけるなら出かけてごらんなさい、わたしという者をさしおいて行けるものだか行けないものだか、さあ、出るなら出てごらんなさい」
お角はそこにあった荷物と、がんりきが結びかけた
「何をするんだ、やい、ふざけたことをするない」
がんりきはその脚絆を取って、また片手で足へ巻きつけようとすると、
「いけませんよ、わたしの見る前でそんなものを足へ巻きつけると罰が当りますよ」
「やい、何、何をするんだ」
「何をするんだもなにもありゃしない、わたしがこの間から見張っているのは何のためだと思ってるの、こんなことがあるだろうと思うから、それで忙がしい小屋の方をさしおいて、こっちへ来ているんじゃないか。それにちょっとの隙があれば、もうこの始末だから
「な、なにをするんだ」
「突き倒すよ、
「お前は何か勘違いをしているようだ、おれは今日、組合の方の寄合で千住まで出かけなくちゃならねえのだ、それで
「冗談をお言いでないよ、火事場へ行くんじゃあるまいし、千住まで行くに草鞋を穿いて行くやつがあるものかね、組合の寄合に足ごしらえをして行くなんて、そんなばかばかしいことがあるものかね、千住がよっぽど遠くってお気の毒さま」
「どうも手が着けられねえ、お前がなんと言おうとも友達が待っているんだ、約束がしてあるんだからやめるわけにはいかねえ」
「おや、友達がよかったねえ。そりゃそうでしょうとも、いいお友達がおありなさるんだから、一刻も早く行ってお上げなさる方がいいでしょう。向う様もさぞ待っておいでなさるでしょうけれども、わたしというものがあってみれば、そうも参りませんでお気の毒さま、ほんとにお気の毒さま」
と言ってお角は、口惜しがりながらがんりきを横の方から突き倒す。
「この
突き倒されたがんりきは起き上って眼の色を変えると、
「さあ、わたしに恥を
お角はまた口惜しがって武者振りつきました。