芸術とは何ぞや
大衆という文字はいつ頃はじまった、いつ頃誰によって称え出されたものか知れないが、少くもここ十年以前には大衆文学なんぞというが如き文字は文学史にも新聞紙上にも見えなかったものである。
そこで、この十年以内に多分誰れかによって称え出されたものと思うが、それは誰れが
ところで、この大衆文学とか大衆文芸とかいう大衆の文字は一体何を意味するのであろうか、それがさっぱりわかっていない、大衆といえば仏教の方では古来一つの熟字になっていて一つの寺院の中の坊さん全体という意味に使われているが、しかし昔の漢籍の中にも大衆という文字が使われていないこともないが、今日いう処の大衆という意味はそういう意味ではなく、多分大多数という意味に使われているらしい、そこでその下へ文学という文字をくっつけて見ると、
曖昧千万なのはそれのみではない、一体大衆文芸という、つまり大多数文芸というものがありとすれば、一方に何か少数文芸というようなものもなければなるまい、そうでなければ特に大衆などと銘をうつ必要はあるまい、そこで彼等に云わせると大衆文芸に対して少数文芸とは云わないが、別に純文芸とか、純文学とかいうものがあるのらしい、一方に純文芸なるものがあるから、それと対立差別する為に大衆文芸なる名称が与えられたのだということに彼等の分類と建前が出来上っているようである、同じ芸術のうちでも、美術の方では特に声を大にして大衆美術だの純正美術だのという事を決して云わないが、日本の文芸だけがムキになってそれを強調している。
さて、そうなって見ると純文芸というのは一体何ものなのだ、大衆文芸とは何だ、これの定義から聞かなければなるまいが、分類はし強調はしているけれども定義としてはほとんど何物も無いのだ、ある一派の文士連が、そういう名と分類を都合上こしらえて、それを圧迫的に世間に受取らせようとする、人のいい世間は面食らいながら、それを押しいただいているという現状なのである。
しかし、折々はどうも、それだけでは済まされないという弱味が湧くと見え、その色分けや命名を試みて世間を煙に巻いたつもりでいる文士連の中から問わず語りに申訳のような言葉が
この点に於て、今日のジャーナリ文学というものが一般を毒し、智識階級の観念を乱していることは非常なもので、手も無く彼等の
更に、斯ういう文学を綜合した「芸術」という文字に就いても、世間一般は特に「芸術とは何ぞや」という根本に指をさして見ることをしないで、芸術そのものが、何か相当の知られざる尊厳を以て我々風情にはちょっと味いきれない内容を持ったものででもあるかの如くに丸呑みにしているものが多々ある、あれは「芸術」を解しない、これは「通俗」とは違って「芸術品」だからとか、芸術になっているとかいないとかそういうことに相当の有識者までがおそれをなしているのであるが、どうしてもこれは一つ「芸術とは何ぞや」に触れて見て、芸術そのものの正体を掴んで見るようにしなければ、