一
「おや、まあ、お前は弁信さんじゃありませんか……」
と、
「はい、弁信でございますよ。久助さん、お変りもありませんでしたか、お雪ちゃんはどうでございます」
「お雪ちゃんも、無事でいるにはいますがね……」
「なんにしても結構と申さねばなりません、本来ならばあの子は、この白骨へ骨を埋める人でございましたが、それでも御方便に、助かるだけは助かりましたようでございます。お雪ちゃんは、当然ここで死なねばならぬ運命を
「何を言うのです、弁信さん」
「はい」
弁信は、おとなしく向き直って、
「あの子が、この白骨へ旅立って参りまするその前から、わたくしはあの子の運命を案じておりましたが、その道中か、或いはこの白骨へ着いた後か、いずれの時かに於て、あの子の運命が窮まるということを、わたくしのこの頭が、感得いたしました。ですけれども、それを引止める力がわたくしにございませんでした。世の中には、こうすればこうなるものだと前以てよく分っておりながら、それを
この時、
「北原さん、これがあなたへ宛ててのお雪ちゃんの手紙でございます、口不調法な私には、何からお話を申し上げてよいか分りませんが、これをごらん下さると、すべてがお分り下さるでございましょう」
「お雪ちゃんからのお手紙ですか」
北原はそれを受取って、燈火の方に手をかざして封を切りながら、自分も読み、人も
「おやおや、高山で火事に遭って、お雪ちゃんは身のまわりのものそっくりを焼いてしまいましたね」
「いやもう、飛んだ災難で、あなた方にお暇乞いもせず、逃げるようにここを出て行きましたくせに、今更こんなことを手紙であなた方へ申し上げられる義理ではございませんが、全く旅先で、身一つで焼け出され、九死一生というつらさが身にこたえました」
「君、何だってお雪ちゃんはまた、ここを逃げ出したんだ」
堤一郎が不審がる。なるほど、誰もお雪ちゃんを邪魔にする者はなし、迫害する者はなし、いたずらをする者もなし、のみならず、すべての敬愛の的となり、ほんとうにこの雪の白骨の中に、不断の花の一輪の紅であったのに、いったい何が不足で、ここを夜逃げをしたのだ……ということが、今以て一座の疑問ではあるのです。
二
お雪ちゃんの手紙を
「だから言わぬ事じゃない」
とつぶやきました。だが、慨然として
北原は、忙しく手紙を巻きながらこう言いました、
「今晩というわけにもいくまいから、明早朝、拙者は高山まで行って来るよ。まあ、万事は向うへ行っての相談だが、僕の考えでは、どうしても、もう一ぺんお雪ちゃんとその一行をここへ連れ戻すのだな、そうして予定通り一冬をこの地で越させて、春になってからのことにするさ……とにかく、僕は明早朝、お雪ちゃんを救うべく高山まで出張することにしますから、皆さんよろしく」
北原が手紙の要領を話した後に、進んでこういって提言したものですから、誰あって異議を唱えるものもあろうはずはありません。
「御苦労さまだね、北原君、この雪だからねえ、誰か一緒に行ってもらわねばなるまい」
池田良斎が、ねぎらいながら言うと、誰よりも先に口を切ったのは、黒部平の品右衛門爺さんでありました。
「わしも、平湯から
「品右衛門爺さんが同行してくれれば大丈夫、
と山の案内者が言いました。
「有難い、品右衛門爺さんが行ってくれる、ではなにぶん頼みますよ」
北原も品右衛門の名をよろこびました。事実、山と谷との権威者である、このお爺さんが同行すれば、山神鬼童も三舎を避けるに違いないと思われます。
そうでなくてさえも、品右衛門爺さんに先を越されて、やむなく口を
「北原君……拙者も連れて行ってくれないか、
「冗談じゃない、物見遊山に行くんじゃないぞ、まさにお雪ちゃんの危急存亡の場合なんだ――ところで、品右衛門爺さんを先導且つ監督として、拙者が正使に当り、久助さんだけは当然
「それがよろしいでしょう、御苦労ながら頼みます、頼みます」
北原と良斎とは相顧みてこう言って、もはや緩慢な志願者の介入を許さないことになってしまって、一座もまたこの際、それに黙従の形となって、火は相変らず燃えているのに、一座がなんとなく、しんみりしてきた時、
「え、え、皆様、本来ならばこの際、私が進んで御同行を願わねばならないのですが……」
と、この時膝を進めたのは弁信でありました。
本来、あのお
ところが、この際突然としてまたしゃべり出たものですから、忘れられていた存在がまた浮き出したと同時に、一座がなんとなく水をかけられたような気持になって、神秘とも、幻怪とも、奇妙とも、ちょっと名のつけられない小坊主の、平々洒々としてまくし立てる弁説の程に、なんとなくおそれを抱かせられでもしたもののようです。こんな気配にはいっこう頓着のない弁信は、一膝進ませて、例の柔長舌をひろげはじめた、
「皆様が、こうもお気を揃えて、あのお雪ちゃんという子のために尽して下さる御親切をまたとなく有難いことに存じます。本当ならば、皆様をお
一息にこれだけのことを言いましたから、一座がまた口をあいてしまいました。なんというおしゃべり坊主、なんというませた口上の
「御心配なさるな、弁信さん、誰もお前さんに行ってもらおうとは言わない、お雪ちゃんだって、その姿で弁信さんが来てくれなかったといって恨むようなこともないでしょう――お望み通り三日の間、ここでゆっくり休息なさい、休息しないといったって、我々の方でお前さんを休息させないでは置かれないでしょう」
「そうおっしゃっていただくのが何よりでございます、お雪ちゃんにもよろしくお伝え下さいませ、そうして、もしあの子がここへ戻って来ると言いましたら、お連れ申せるものならば一緒にお連れ下さいませ、また、あの子に戻ることのできない事情がございましたなら、あの子のためにしかるべく取計らってやっていただきたいものでございます。弁信さんはどうしたとお雪ちゃんが尋ねました時には、弁信は白骨に助けられて来ているが、意地にも我慢にも疲れが出て、休みたがっているから置いて来たと、そうお伝え下さいませ。ここまで来ながらどうして一緒に来なかった、一緒にお連れ下さらなかったとお雪ちゃんは
「万事承知承知」
「では、その方はそれと一決して、あらためて日課の輪講に移りましょう、当番は……」
「堤君ではないか」
「時に……久助さんもお疲れでしょう、いつもの部屋でお休み下さい、それと品右衛門爺さんも、我々の輪講がはじまりますからお休みなさい」
弁信のことは、行けとも行くなとも誰も言いませんでした。
三
良斎先生の「万葉」、柳水宗匠の「七部集」宗舟画伯の「四条派に就て」というような輪講が一通り終って後の炉辺の余談が、ついに弁信法師の上に落ちて来ました。
「どうです、あの弁信なるものは」
「驚き入ったものですね、あれはまた何という
「ああなると、手のつけようも、足のつけようもありませんね、さすがの北原君でも
「喋らしたら、しまいまで聞いていなけりゃなりません、そうかといって、喋らせないように警戒しているわけにもいかないし、聞いていても、そう耳ざわりになるわけではないが……」
「かなわない、何しろ
「雪の白骨へ今冬は、かなり変った客人が見えないではないが、あんなのは絶品だね」
「絶品だ、全くよく喋るにも驚かされるが、勘のいいのにも度胆を抜かれるよ」
「久助君が来たのを、その足音もしないうちから感づいているのだから、我々なんぞはもう
「なんだか少し怖いね」
事実、さしものいかもの揃いであるらしいこの座の一行も、弁信のことを考えますと、おぞけを振うらしい。
そうかといって、
そこで、一座が弁信なるものの、正体に全く無気味なもてあましを感じ出した時、中口佐吉が言いました、
「なあに、それほど驚くこともないですね、どうかすると、盲人にはあんなふうに勘の働くものがあるものですよ。仕立師の名人でね、晩年に失明しましたが、どこへ出るにも不自由のくせに、
「そう言われてみると、思い当ったことがあります、西鶴の中にありますよ、皆さんお読みですか、井原西鶴の書いた『
「どんな話ですか」
「ちょうど、よい機会ですから、お話し申しましょう」
と言ったのは俳諧師の柳水宗匠です。
「京の伏見の
「なるほど」
「ある時、問屋町の北国屋の二階座敷で、二十三夜の晩……客の所望によって
「そうしてみると、やっぱり眼あきはめくらに
「事実、目で見るよりも勘で行く方が確かなのかも知れませんな」
「してみると、眼で見る奴の前では隠すことができるが、勘で来る奴には隠しだてはできないのだね、そういう奴が近所へ来た時には、何か
「それから、今のその西鶴の盲人
「さあ――」
それには、柳水宗匠も、ちょっと註釈に困ったようでしたが、
「とにかく、男まさりで、女手で切って廻す米屋の女あるじで、相当の評判者なることは確かだが、戸籍の謄本はここにありません」
「つまり、飛騨の高山の穀屋の、イヤなおばさんといったようなタイプだろう」
「は、は、は、まず、そんなものかね」
ともかく、一座の散会がこの笑いに落ちることになりました。
四
弁信が、その輪講の席を辞したのは、講義半ばの時分であったか、その終りに近づいた頃であったか、但しはのっけに輪講の
この源氏香の間というのが、偶然にも――実は偶然でもなんでもなく、竜之助が
あてがわれた弁信は、一議に及ばずその好意を受けてしまったが、遠くて不自由だろうと思いやりながら、ここへ弁信を導いて来た人が、かえって、弁信の
さきほど、たった一人で、長い廊下を伝って二重の段梯子を上り、間違いなく、この源氏香の間に
夜具の前にちょこんと落着いて、そうしてお祈りをしました。
それは、お祈りというべきものか、念仏というべきものか、或いは、かりそめに無念無想の境を作ろうとしているのか、とにもかくにも暫くの間、黙坐をしていた弁信は、やがて帯を解き、
そうして、彼は今、すやすやと思い入りの快眠に
「弁信さん、よくおいでなさいました、ほんとうに、お待ち申していましたよ、寒くはございませんか、さだめてお退屈だろうと思いまして、お
弁信のためには必要ではないが、部屋の調度の均整のためには、ぜひなくてはならない、例の
「どなたですか」
「はい、わたしですよ、ピグミーでございますよ」
ああ、ピグミーだ、こんな奴は出て来なくてもいいのである。誰しも出て来ない方を希望するのに拘らず、目の見えない人か、目は見えても眠っている人のところへは、必ずなれなれしく出て来る。
「ピグミーさんですか」
「はい、ピグミーでございます、いつぞやは失礼いたしました、今晩はあなたがまた、これへおいでなさることを知っておりましたから、ちょっと先廻りして、ほくち箱の中へと身を忍ばせてお待ち申しておりましたところです、お寒くもあり、おさびしくもあろうと存じまして、お伽にまいりました、今晩は夜っぴてお話をしようじゃありませんか、あなたもお
「いけません、今晩は、わたしは休むのです」
「そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ、ピグミーに恥をかかせるものじゃありません」
「今晩はお相手になれません」
「意地の悪いことをおっしゃる弁信さん。実はねえ、あなたのために、お
それは
「さあ、弁信さん、今晩は寝かしませんよ、人の期待に
ピグミーは、小さい
「いけません、今晩はお前さんの相手にはなれませんよ」
「意地の悪いことをおっしゃるものじゃありませんよ、弁信さんらしくもない」
「いいえ、わたくしは今晩は、何といっても相手になりません、しかし、お前さんが話したいという気持と、わたしを寝かすまいという圧迫に、わたしは干渉をしようとは思いませんから、話したければお前さんひとりで、そこでお話しなさい、わたしはまたひとりで、眠れるだけ眠りますから、そこはおたがいの留保として、では、わたしはこれから眠ります、お前さんは勝手に話しなと何なとなさい――さめるまで、わたしは御返事を致しません」
「これは御挨拶ですね、そう言われてみれば仕方がない、先方がこっちの自由と勝手とを尊重して下さることに対して、こちらも先方の安眠と甘睡を妨害すべき理由を見出すことができませんからね。では弁信さん、わたしはここに失礼さしていただいたままで、喋れるだけ喋らしてもらいますからね。お江戸の辻芸人には
「…………」
ここに至って、もはや弁信の返事はありません。つまり相手にならないのです。ピグミーを相手にせず、さりとて、これに退却を命ずるのでもなく、彼は彼の
五
それから暫くの間、この座敷がひっそりしてしまいました。
なるほど、森閑としたこの源氏香の間には、すやすやとした弁信の軽い寝息のほかに何物もありません。やくざが居催促の形で、
さりながら、ピグミーの長所はしつっこいというところにある。ピグミーに向って勇断と果決と、威厳と雅量を望むことは注文が無理だけれども、小細工と、しつっこいことと、こうるさいことにかけては、けだしピグミーの
果して、あれだけで引揚げるようなピグミーでは決してない。音も立てずに例の
ははあ、さては今ちょっと外出と見えたのは、部屋部屋を通ってこの蝋燭を
「とかく、
と言ってピグミーは、一本の蝋燭をカリカリと噛みはじめ、そうして一方には、油壺の油を注口からガブガブと飲み、
「ピグミーだって、あなた、時々は油っこいものを食べないと、身体がバサバサになって骨ばなれがしてしまいます。ああ、結構結構、こうして養いをしておきさえすれば、矢でも鉄砲でも――松倉郷の名刀でも、
酔っぱらいが管を巻くように、このピグミーは油に酔っぱらったらしい。
こうして
「よろしい――弁信さんは弁信さんとして、存分にお眠りなさい、わっしはわっしとして、勝手に熱を吹いてよろしいというお約束でしたな。では、第一伺いますがね、弁信さん、お前さんはあのお雪ちゃんという子をどう
「…………」
「お雪ちゃんという子は、ありゃあれで存外の食わせものですぜ」
「…………」
「それから、あの竜之助って奴、あれはまあ、一口にいえば色魔なんだね」
「…………」
「わっしの見るところでは、お雪ちゃんの妊娠は事実だと思うんですよ、あの子はまさに
「…………」
「それがお前さん、いつ孕ませられたか、どうして身持になったか、御当人がわからないって騒いでいるところが乙じゃありませんか。小娘というものは、そういうものなんですね、介抱していると思っているうちに介抱されちまうんですから、変なものです。そこへ行くってえと……功を経た奴にゃかないません。早い話が……」
一方が絶対に無反抗の沈黙だから、一方も
「おい、ピグミー、ピグミー」
と、隣り座敷から不意に呼びかけたものがあったには、ピグミーもびっくり仰天して、思わず手に持てる
「な、な、なんですか、そちらで拙者をお呼びになるのは、どなたでございますか」
「そこへ行くてえと……功を経た奴にゃかなわないと、お前いま言ったね、その功を経た奴というのはいったい、誰のことなんだえ、さあ、それを言ってごらん」
隣り座敷から聞えたその声は、やや年を食った女の声で、最初からピグミーを呼びかけたのが高圧的であり、二度目に言いかけたのは、まさに手づめの詰問で、その調子はもう一言いってごらん、返答によっては只は置かないよという、強い威嚇を含んで響いて来たものですから、おぞましくもピグミーが
「いいえ、決してあなたのことを言ったのではございません、いや、ただ世間にはそうした奴もあるという例えを引こうと思っただけで、イヤなおばさん、あなたの
「知らないよ、お前は、あたしのことを言おうとしたにきまっている、ピグミーのくせに生意気な、はじめての人様に、わたしの棚卸しなんぞをすると承知しないよ」
「はいはい、決してあなた様の棚卸しなんぞを、どういたしまして」
「そんなら、いいからこっちへおいで」
「はい」
「こっちへおいでなさい、何も慾得を忘れて眠っている人の傍にいて、イヤがらせを言わなくてもいいじゃないか、相手が欲しければ、わたしがいくらでも相手になってあげるから、こっちへおいで」
「はい、有難うございますがね、イヤなおばさん……」
「何だい」
「あの……」
「何があの――だい。お前、いま、赤い舌を出したね、わたしに見えないと思って。そうして、イヤなおばさんじゃあ、いくら傍へ寄れと言っても、うんざりする――と口の中で言ったね、覚えておいで」
「ト、ト、とんでもない……」
「じゃ、こっちへおいで、わたしこそ、人が欲しくって弱り切っているところなんだから、ピグミーだろうが、折助だろうが、誰でも相手になってあげるよ、さあ、おいで」
「弱りましたね」
「弱ることはないよ、ひもじい時のまずいものなしだから、いくらでもお前を可愛がってあげるから、こっちへおいで」
「イヤなおばさん、お言葉ではございますがね、そっちへあがると、わっしはおばさんに食われてしまいそうな気がして、怖くってたまりませんから……なんならこっちへおいで下さいましな、食物もございます、明りもついておりますよ、こっちで、ゆっくりお話を伺おうじゃありませんか」
「弱虫だねえ。だが、わたしゃそっちへ行けないから、お前、こっちへおいで」
「どうしてでございます、イヤなおばさん」
「だって、そっちには見ず知らずのお客様が寝ている」
「見ず知らずとおっしゃったって、ちっぽけな坊さんです、その坊さんも、死んだように寝ているんですから、差支えはございません」
「さしつかえはなかろうが、わたしは坊主は嫌いなんだよ」
「これは恐れ入りました、坊主と申しましたところで、三つ目のある入道ではなし、あなたほどの豪の者が、坊さんを怖がるとは不思議ですね」
「何だか知らないが、わたしは坊主とさつま芋は虫が好かないのさ、そればかりじゃない、いま動けないわけがあるから、ちょっとこっちへおいで……」
六
「お前がどうしても出向いてこなければ、こっちから出向いて行くよ」
「わあっ!」
ピグミーが大声あげて泣き出したに拘らず、次の間、つまり、先頃まではお雪ちゃんの部屋であったところの柳の間の隔ての
「泣くことはないじゃないか、取って食おうともなんとも言やしないよ、お前と一緒に遊んであげたいから来たんじゃないの」
しかも、乗込んで来たその
戸板へ畳を載せて、その上へ
この釣台の乗込みによって、極度の恐怖におびえきったピグミーは、
「わあっ! おばさん、来たね、おばさん、裸じゃないの、この寒いのに、どうして裸で来たの、驚いたね」
泣きわめきながらピグミーは釣台の上を見ると、まさにその通り、釣台の上にのせられたイヤなおばさんは、一糸もつけぬ素裸です。あのデブデブ肥った肉体が、いまだに生ける時のようにブヨブヨしている。その色が以前よりは白くなったように見えるだけで、ブヨブヨした肉体はちっとも変りがないらしい。
「裸じゃ悪かったかい」
「だって、おばさん、裸で人前へ出るなんて……第一、寒いじゃありませんか」
「寒かろうと、寒かるまいと、わたしゃ着物が無いから、裸でいるんだよ」
「着物が無い――そりゃ嘘でしょう、おばさんはあの通り衣裳持ちじゃありませんか」
「でも、無いから、こうしているのさ」
「どうしたんです、そら、あの、若くて気がさすのなんのとおっしゃっておいでだったが、まんざらでもなかりそうな、あの小紋の重ねなんぞは、どうなさいましたね」
「あれかね、あれは人に取られちまったよ」
「人に取られた? おばさんほどにもない。いったい、誰に取られたんです」
「きいておくれよ、憎らしいじゃないか、あのお雪ちゃんという子、あの子に取られてしまったんだよ」
「お雪ちゃんに……これは驚きましたね、あの子は人様のものなんぞに手をかける子じゃなかったはずですがね」
「あの子が取ったんじゃないけれど、取ってあの子に着せた奴があるんだから憎いじゃないか」
「憎い、憎い、そんな奴は憎い、拙者が行って取戻して上げましょうか」
「遠いよ」
「遠いったって、どこです」
「
「飛騨の高山……そいつぁ、ちっと困りましたね、行って行けないことはないが、行って来る間に、おばさんが凍え死んじゃつまりませんからね」
「誰も行っておくれと頼みゃしない、その親切があるなら、もっと近いところにあるじゃないか」
「近いところって、ドコです、近いところにゃ古着屋はありませんぜ、おばさんの着る着物を都合するような店は、当今の白骨にはございませんよ」
「ないことがあるものか」
「ありませんよ」
「あるよ、あるからそこへ行って
「弱りましたねえ、どこを探したら、おばさんに着せる着物があるんですか」
「お浜さんのところへ行って借りておいでよ、あの人は、ほら、幾枚も幾枚も、畳みきれないほど持っていたじゃないか」
「えッ!」
泣きじゃくりながら応対していたピグミーは、この時、しゃくりの止まるほどの声で、
「あれはいけません」
「どうして」
「何枚あっても、ありゃみんな血がついていますから、一枚だって着られるのはありませんよ」
七
仰向けに釣台の上に裸で寝かされているイヤなおばさんは、別段に寒いとも言わないのに、ピグミーがしきりに
「それじゃ、どうしても飛騨の高山へ行って、あの小紋を取戻して来るよりほかはありません、僕が行って来ます」
「よけいなことをおしでない、あの着物はあの子に着せておいてやります、そうして、わたしのあとつぎにするつもりだよ」
「え、お雪ちゃんをおばさんの
「そうだとも、いまに見ていてごらん、あの子を立派な男たらしにしてみせてやるから」
「えっ、あのお雪ちゃんを、おばさんのような助平にしようというのですか」
ピグミーが飛び上るのを、
「気をつけて口をお
「
「いけない、いけない、そんな坊主の
「これもいけませんか――じゃあ、全く着るものが無い」
「無くたっていいじゃないか、誰がお前に着物を着せてくれと頼んだ」
「そりゃ、頼まれずとも、人様の裸になっているのを見るに見兼ねるのがピグミーの気性でしてね、やっぱり一走り行って来ますよ、それに越したことはござんせんから」
「どこへ行くの」
「飛騨の高山まで行って、お雪ちゃんの取ったあの小紋を取返して来て上げます」
と言ったが早いか、クルリと身を翻したピグミーは、天井の節穴へ向って飛びついたかと見ると、
あとに残されたイヤなおばさん――というけれども、先程からさんざんピグミーを相手に話をしているものの、釣台の上へ裸で仰向けになったところの
弁信の安眠を続けていることも、最初と少しも変りがありませんが、この時、うつつの境にもの悲しい泣き声を耳にしました。
それは、若い詩人などがよく言う、魂のうめきとか、すすり泣きとでもいったものか、世にも悲しい、細い、それで魂の中から
おかしいことには、それがよそから来るのでなく、釣台の上に横臥安置せしめられているイヤなおばさんの身体から起るのであります。たとえ裸にされたからといって、イヤなおばさんともあるべきものが、若い詩人のするような
してみれば、おばさんの寝かされている下の釣台の中か、或いはその下の畳のあたりで、この魂のうめきが起るとしか思われないのです。この魂のうめきとても、事実、弁信の耳に入ったか入らないかそれさえ疑問で、弁信の安眠に落ちていることも以前と少しも変らないのに、よし、たった今この魂のうめきを聞いたからとて、その起る源を確めようとして起き直って来る形勢は少しもないからであります。
また、かりに弁信が、それを聞きとがめたとしてみれば、起き上って、その源を確めに来る前に、あのお
弁信がそれを聞いているといないとに拘らず、魂のうめきはいよいよ盛んであって、それはどうしてもイヤなおばさんの身体か、その真下から起らねばならないことになりました。
おや! ごらんなさい、じっと安置されていたおばさんの身体が少し動きましたぜ、
驚くことはないよ、あれが八億四千の
まあ、八億四千!
そうだよ、女というものの五体の中には、すべてみんな、あの陰虫が巣を喰っている!
おばさんのは、それが外へ頭を出しただけなんだ。
その時、天井の節穴から、あわただしく
「おばさん、おばさん」
「何だえ」
「飛騨の高山へ行ってまいりましたがね、着物は持ってこられませんでしたよ」
「そうかい」
「わざわざ行って、手ぶらで帰るなんぞは子供の使のようで面目もございませんが、あの着物は、ちゃんとお雪ちゃんが着込んでしまってますから、手をつけるわけにいきませんでした」
「だから、そうしてお置きと言ったんだ。そうしてなにかい、お雪ちゃんは無事かえ」
「無事にゃ、無事ですけれどね……」
「あの眼の悪いお客さんはどうだい」
「元気で、夜遊びまでしていますぜ。何しろ、壺の底のような白骨とちがって、高山へ出ると、ずっと天地が広いですからね」
「そうかい、二人は仲がいいかい」
「いいか、悪いか、そんなことは知りませんがね、お雪ちゃんの身の上に一大事が起りそうなのを、ちゃんと見届けて来ましたぜ」
「何だね、いまさら一大事とは」
「ほかじゃございませんが、お雪ちゃんに悪い虫が附きました」
「悪い虫、悪いにもいいにも、離れられない人だから世話はないさ、遠い上野原というところから介抱して、この白骨まで、心中立てを見せに来た人だから、言うがものはないさ、あれでいいんだろうさ」
「そのことじゃございません、そんなことなら、
「へえ、高山に、お雪ちゃんを食おうなんていう悪い虫がいたかえ」
「そりゃ、高山の土地っ子じゃありませんがね、よそからの風来者なんですがね」
「若い人かい、年寄かい」
「そうですね、まあ、若いといった分でしょうよ」
「それじゃ、あの宇津木兵馬という前髪だろう」
「違いますよ」
「仏頂寺弥助かい」
「違いますよ」
「じゃ、このごろ来た新お代官の
「それも違います」
「高山に、あの子を
「がんりきの百ですよ」
「がんりきの百?」
「そうですよ、あのやくざ野郎ですよ」
「そんな人をわたしは知らないが、なにかい、この夏、白骨にいたのかい」
「いや、そいつはまだ、白骨なんぞへ来たことはございませんが、何かの拍子で、名古屋方面から高山へ舞い込んだんですね」
「いい男かい」
「イヤに
「お雪ちゃんだって、なかなかしっかり者だよ、やくざ野郎のおっちょこちょいなんぞに、そう手もなくものにされてたまるものかね」
「ところがね、その百の野郎ときた日にゃ、しつっこいことこの上なし、いったん目をつけると、腕の一本や二本なくなすことは平気でかかる奴なんだからね、ずいぶんあぶないものなんですぜ」
「ちぇッ、いやな奴だねえ」
「おばさんなら、あんな奴を手もなくこなしちゃうでしょうが、お雪ちゃんが、あんなのにひっかかっちゃたまらない」
「お前、何とかして追払ってやるわけにはいかないかえ」
「そりゃ、わたしが天井裏かなんかに
「どうして」
「だって、それ、相州伝の長いやつを持った人が、お雪ちゃんの傍には附いていますからね、へたに間違うと、またいつかのように二つになって、やもりのようにあの壁へヘバリつかなけりゃなりません」
「そんな人がいるんだから、がんりきとやらが覘ったところで、お雪ちゃんの身の上も心配なしじゃないか」
「そう言えばそうですがね、がんりきという奴はそれを覚悟で、お雪ちゃんをねらっているらしいです、つまり、相州伝で二つにされるか、但しはお雪ちゃんをものにするか、二つに一つの度胸を据えてかかっているらしいから、それで心配なんです」
「困ったねえ」
「おばさんも、お雪ちゃんという子は嫌いじゃないんでしょう、ずいぶん可愛がっておやりのようでしたし、お雪ちゃんの方でもまた、イヤなおばさん、必ずしもイヤなおばさんでなく、そのうちに愛すべき人間性のあることを認めていたようですから、おばさんにとっても
「生意気なことをお言いでないよ。だが、そう聞いてみれば、わたしもみすみす、そんなやくざ野郎の手にあの子を渡したくない」
「では、高山へ参りますか」
「行きましょうよ、お前も一緒に行っておくれだろうね」
「行きますともさ、僕だって意地でさあ、がんりきのやくざ野郎に、お雪ちゃんなんぞを取られてたまるものか。あの野郎のことだから、手に入れるとさんざん見せびらかした上、
「そうしようよ」
釣台が、その時、以前の通り、
口をあいてそれを見送っていたピグミーは、存外あせらず、例の
「どうです、弁信さん、これでもまだ起きられませんか。あのイヤなおばさんさえ、お雪ちゃんのためにじっとしていられないと言って、飛騨の高山へ向けて先発しましたぜ、それに何ぞや、弁信さんともあろうものが、まだ悠々とお休みですか。それも御無理ではございません、弁信さんは疲れていらっしゃる――まあ、ごゆっくりとお休みなさい、僕はこれから、イヤなおばさんのあとを慕って、お雪ちゃんのいる、飛騨の高山まで急ぎます……」
八
その翌日のお
「外は雪で埋もれた山また山の中も、こうして湯気の中に天井から明るい日の光を受けていますと、極楽世界ですな、それにつけても、北原さん――の一行はこの雪の中を御苦労さまです」
柳水が言うと、良斎は、
「なあに、外へ出れば出たでまた気がかわりますからね、血気壮んな者にはかえって愉快でしょう、まあ、天気がよくって仕合せですね」
「でも、飛騨の高山はかなりの道ですから、途中御無事でありますように」
「平湯まで出る途中、多少難所があるけれど、
「それにしても、ところがところですから、雪見に転ぶところまでというわけにも参りません、この深山険路の山で転んでしまったらおしまいですね」
「風流も程度問題ですよ。だが、こうして、どこを雪が降るといった気分で、温泉につかっていると天上天下の太平楽です、一句浮びませんか」
「さよう――」
「古人の句で、こういった気分を詠んだ、面白いのはありませんか」
「さよう――」
俳諧師柳水は、仔細らしく頭をひねって、
「あらたのし冬まつ窓の釜の音――というのはどうです、
「なるほど、温泉ということは言ってないが、冬日の温か味は出ていますね」
「我がために
「やはり、あらたのしというのが、この場の気分には合っているようです」
「和歌の方ではどうでしょう、こういったような気分と情味を現わしたものがございましょうか」
「これは和歌のものじゃありませんね、やっぱり、山の宿の温泉というようなものは俳諧のものですよ」
「一茶の句に、我が家はまるめた雪のうしろかな――というのが一茶らしくって、いかにも面白いが、拙者はこのうしろかなを、後ろ側としたら、いっそう実感的で面白いと思うんでがすよ」
「そうか知らんな」
「蕪村のは一句一句がみんな絵になっていますが――宿かせと刀投げ出す吹雪かな――なぞは実景ですね、ことにこの白骨の
「なるほど――どうも気紛れなものでしてな、こんな山奥の冬籠りへ、まさかと思っていると、入りかわり立ちかわり相応の客が来るのが不思議ですよ。これが平常通り十一月で釘を打ってしまえば、狐狸もおかすまいが、人が籠っていると、また期せずして人が集まって来るものです。知ると知らざるとに拘らず、人間の住むところには人気が立てこめて、おのずから人の心を
「面白いです。それが、あなた方をはじめ、みんな相当に一風流のある人だけが集まって来るような気配も面白いではありませんか。
こんなことを良斎と柳水とが語り合っている時に、浴室の戸がガタリとあいて、
「お早うございます」
「いや、これは宗舟画伯」
と、二人が新来の
「両先生お揃いで……」
「いや、いい心持で今、歌と俳諧とを論じていたところです」
「どこを雪が降ると温泉にぬくもりながら、詩歌を論ずるなんぞは風流の至りです」
「それを今も言っていたところですよ」
「どうです、宗舟先生、この温泉気分は絵になりませんかな」
「ならないどころですか――絶好の画材ですよ」
「南画ですか」
「いや、南画とも違いますね」
「では、呉春張りの四条風にでも写しますかね」
「あれより、もう一層、軽いところがいいですね」
「では近代の鳥羽絵」
「ああなっても少しふざけ過ぎます、まあ、夜半亭と大雅堂の
「おやおや、もう制作におかかりですか」
「もう最初からとりかかっておりますよ、白骨絵巻といったようなものを
「それはそれは、お手廻しの早いことで……さだめて結構な土産物が出来ましょう」
「只今、暇を見ては下図調べにかかっておりますが、いよいよ本図にかかりましたら、良斎先生にひとつ序文を願って、柳水宗匠に
「ははあ、それは至極好記念でございますが、また一方から申しますと、宗舟画伯きわめてお人が悪い、さだめて我々が
「いや、どういたしまして、あなた方の超凡なお動静に、朝夕
「妙、妙、白骨絵巻一巻、
「ええ、その以前は知らず、やつがれがここへ加入させていただいてから以来の
「
「もとよりです、あの子の立ち姿から、坐ったところ、
「なるほど――では、あの仏頂寺なにがし、丸山なにがしといったほどの浪人も」
「ええええ、傍若無人に炉辺にわだかまったところを描いてあります」
「その最後に姿を見せた、前髪立ちの若いさむらいも……」
「あの方のは、上り
「素早いもんでございますな。では、あの、何て言いましたか、昨今見えたあの、そうそう弁信さん、あのお
「それですよ、それだけがまだ描いてないんです、あんまり不思議な人物ですから、描きたいところが多くて、横になっているところを描こうか、縦になっているところにしようか、それともあの通り、のべつに喋っているところがいいか、黙って控えて沈みきって
「まだ、当分こっちにいるでしょうから、機会はこのさきいくらもありましょう」
「それともう一つ、お雪ちゃんという子に連れの兄さんが一人いるとか聞きましたが、病気でちっとも顔を見せないものですから、これもとうとううつし損ねてしまいました。弁信さんの方はまた機会がありましょうが、あのお雪ちゃんのお連れの人は、もう永久に写生の機会を逸してしまったかと思うと残念に堪えられません」
「北原君が会っているはずですから、あの人に聞いて写してみてごらんなさい」
「そうでもしようかと思っているところです」
三人がこんな問答をしている時に、一方の明り取りの窓に張った紙の破れのところが、急にすさまじい音を立てて、バタバタしたものですから、三人は驚いて、その明り取りの高い窓を仰ぐ途端に、パッと眼前に飛び下りて浴槽の隅に羽ばたきをしたものがあります。それは雪に食を奪われた野鳥山禽の
「鳩だ、北原君愛育の伝書鳩だ」
と気がつきました。
「だが、少しおかしい」
特に念入りに、その見知り越しの鳩に注意の眼を注いだのは池田良斎でした。
「宗舟さん、済みませんが、その鳩をちょっと見て下さい」
「どうしましたか」
「あなたは御職業柄、観察が細かいに相違ない、北原君愛育の鳩についても、特別に見覚えがなければならない」
「よく見ておりますよ」
「たしか、五羽いましたね」
「ええ、五羽でした」
「その五羽のうちを、今朝出立にあたり、北原君が二羽だけ懐中して行ったはずです」
「その通りです、高山に着いたなら、早速に手紙をつけて放ち返すからとおっしゃいました」
「そうしてあとの三羽は、村田君が北原君に代って監督していたはずです」
「それに違いありません、一号と二号だけを北原さんが持って行きましたから、三、四、五がこちらに残っているはずです」
「仕方がないな、村田君、頼まれものだから一層用意周到に監督すればいいのに、こんなところに舞い込ませるようでは、あとを猫か、いたちに御馳走してしまわねばいいが」
「それもそうですね」
こう言いながら宗舟は、手拭片手で流しの隅っこへ行って、
「おかしいですよ」
「どうして」
「良斎先生、これはたしかに、北原さんが今朝持って出た第一号の鳩ですぜ」
「え」
「どうしてそれが分ります」
良斎と柳水とが声を合わせてこちらを向く。
「どうしてといって、あなた、この鳩には、北原さんから頼まれて私がいちいち足のところへ銘を打ちました、銘を打たなくとも、羽と毛の特徴と、気分で、私にはよくわかります。これはたしかに今朝、北原さんが持って出た第一号に相違ありません」
「してみると、北原君がまだ高山へ着いているはずはないのだから、途中から放して返したのだな」
「そうかも知れません」
「そうだとすれば、何か便りが書いてあるだろう」
「私も、そう思って見ましたが、
「してみると、北原君が承知で放したのではなく、鳩が勝手に放れて戻って来たのですな」
「そうとしか思われませんが、そうだとすればいよいよ変です、無意味に鳩を逃す北原君ではなし、鳩もまた、勝手に馴れた人の手から逃げたがるはずはないのですから……」
その時に、三人の
池田良斎は浴槽から飛び上って、そうして、あわただしく
良斎も、柳水も、宗舟も、相次いで浴槽を出て、それから急に炉辺閑話の席に非常召集が行われてみると、案の如く、残された三羽は村田の手で安全に籠の中に保護されていて、浴室へ紛れ込んだそれは、まさに北原が今朝持参して出て、おおよそ三日の後に手紙をつけて送りかえすといったそれに相違ない、五羽のうちの第一号です。
当然、良斎が
まもなく、山の案内の茂八を先導に、堤、町田の三人のうち、町田は残ることにして、猟師の十太が加わるの一行が早くも結束して、この宿を発足しました。
この場合に、やはり、普通ならば、弁信も閑却されてはならないのです。北原一行の安否こころもとなしということの知らせは、弁信へも一応、報告がなければならないはずでしたが、どういうものか、この人たちのために全く忘れられていました。忘れられているほどによく眠っていたのです。あれからずっと眠り続け、最初の報告通り、三日間は恩暇で寝通すということが、誰に向っても諒解を得ているのですから、それは差支えないが、とにもかくにも、この場合の不安と憂慮とを、弁信に向っても
九
熱田の明神の参宮表道路の方面は、あんなように大混乱でしたけれども、その裏の方、南の海へ向った方面は、打って変って静かなものです。
それというのは、海が見とおせるからのことで、見渡す限りの海のいずれにも黒船を想わせる黒点は無く、夜も眠られないという蒸気船の影なんぞは更に見えないで、寝覚の里も、七里の渡しも、
この時しも、お銀様は
それは、お銀様の立ち姿がすぐれて美しかったからでしょう。ことにその後ろ影は、すらりとして
年増の女房たちも、若い娘たちも、ひとたびは振返ってお銀様の立ち姿を見ないものはありません。見て、そうして
女の美しさを知るのはやっぱり女であるように、女が心から
お銀様の歩み行く後ろ姿を見て振返る女たちの視線には、みんな多少ともに、羨望と嫉妬とを含まないのはありません。それよりもなお憎いのは、この人が、さほどの羨望と嫉妬を浴せられながら、なお冷々然として、むしろ、そういった同性たちを冷笑しつくすかのように、澄まして取合わない高慢な態度でありました。
他より
お銀様の態度がそれです。おそらくお銀様といえども、人の羨望と嫉視の的になる地位と空気とを、自分が感づかないはずはないのですが、それを
寝覚の里は、すなわち七里の渡しの渡頭であります。七里の渡しというのは、この尾張の国の熱田から伊勢の桑名の浜まで着くところ、
近世には、弥次氏と同行喜多君が、ここに火吹竹の失態を演じたという
数日以前には、宇治山田の米友が、ここで足ずりをして、俊寛の故事を学んだこともあるのであります。
今し、お銀様は鳥居前の
お銀様としては、最初からここへ来るつもりではなかったのです――熱田の明神へ参詣して、ずんとお角を出し抜いて、ひとり境内を
だが、どちらにしても、このいきさつはもう先が見えているので、熱田へ来れば、名古屋へ来たも同様であり、名古屋へ来れば落着く宿はちゃんと打合せも準備も出来ているのだから、お角さんが癇癪を起してみたところで、ただ一足お先へというだけのもの、お銀様が迷子になってみたところで、迷子札の文字を読みきっていることはお角さん以上であり、ことに、お角さんは癇癪こそ起したけれども、お銀様に対しては一目も二目も置いてかからなければ、どうにも
足の向いた方、土の調子が、この向いた足の歩み加減に叶う方向へと、そぞろ歩きをして来るうちに、この寝覚の里、すなわち七里の渡しの渡頭へ出てしまったのです。
土地を踏む前に、その予備知識の吸収に
表面は目的の変更から、そぞろ歩きのまぐれ当りにこの七里の渡頭へ来てしまったもののようですが、事実これは予定の行動で、問題の物語の尼寺をひやかした後は、当然ここをとぶらい来るべき段取りであったかも知れません。
来て見れば、名所絵の示す通りの七里の渡し、寝覚の里――
この大鳥居は、熱田神宮へ海からする一の鳥居であるか、或いはまた特に海を祭る神への供えか、それはお銀様にもちょっとわからないが、あの高燈籠こそは、寛永の昔
この大鳥居と、あの高燈籠、海岸線を引いてこの二つを描きさえすれば、誰が見ても七里の渡船場――寝覚の里になってしまう。
お銀様は故人の軒下にでもたたずむような、何かしら懐かしい心でその高燈籠の下に立って、渡頭と、そうして海を眺める――
海の
十
東海道を上るほどの人で、「伊勢の国」に有終の関係を持たぬ者は極めて少数である。
道中は、委細道中気分で我を忘れてふざけきっていた旅人が、七里の渡しに来て、はじめて本来のエルサレム「伊勢の国」を感得する。但しこのエルサレムは、巡礼者の心をして厳粛清冷なる神気を感ぜしむる先に、華やかにして豊かなる伊勢情調が、人を魅殺心酔せしめることを常とする。そうして七里の渡しの岸頭から、伊勢の国をながむる人の心は、
神を尊敬する日本人には、神を楽しむという裏面がある。清麗にして快活を好む日本人は、大神の存するところを、厳粛にして深刻なる修道の根原地としたがらないで、その祭りの庭を賑やかにし、その風情に遊興の色を加えることを忘れない。伊勢へ行くということは、日本人にとっては罪の懺悔に行くのでもない、道の修練に行くのでもない、一種の包容ゆたかなる遊楽の気分を持って行くのである。そこに日本人が神を慕う特殊の心情と行動とがある。伊勢参りの憧れは、すべての日本人にとって明るい。
けれどもお銀様は、その日本人の普通の人が持つような、軽快な気性を以て育てられてはいませんでした。今し、その憧れの伊勢の国をながめている、というよりは
数日前、宇治山田の米友という
機会があるごとに、海を見たがりました。さればこそ古鳴海の海をもとめて、もとめあぐみ、
幸いにして海はいくら見てもいやだとは言わない、見たければまだまだ奥があります、際限なくごらん下さい、とお銀様をさえ軽くあしらっている。山はそうではない、我が故郷の国をめぐる山々、富士を除いた山々は、みんな、こんなとぼけた面をしてわたしを見ることはない。奥白根でも、蔵王、鳳凰、地蔵岳、金峯山の山々でも、時により、ところによって、おのおの
こうして、お銀様の頭が故郷の山川に向った折柄、不意に、天来の響がその頭上に下るの思いをしました。
「お嬢様、お嬢様」
朗かな声で二声まで続いて聞えたのは、わが名を呼ぶもの。
それは、海のあなたの伊勢の山河から来る声でもなく、後ろから我を追手の呼びかける声でもない、そうかといって西の出崎の松、東、
その声はまさに、うららかとも言ってよい、わが頭の青天の上から、
「なあに」
と、天を仰いでそれを受けとめなければならないほどの現実性をもって、鼓膜にこたえたものです。
「お嬢様、いったいあなたはどちらへいらっしゃる目的なんでございますか」
その声がまた言いました。
「わたしは知らない」
お銀様は、またしても、ついついこうあしらわねばならなくされました。
「おわかりでございますか、わたしは弁信でございますよ、わたくしの声はよくお分りになりましょうと存じますが、今、わたくしがどこにいるかということは、到底、あなたにもおわかりになりますまい」
「わたしは知らない」
この瞬間、確かにお銀様は弁信の呼びかけた声を聞いたのです。だが、それが東西南北のいずれから呼びかけたかということは問題ではありません。お銀様は青天碧落の上を、やや昂奮の気持で眺めておりました。
その時に、お銀様の眼の中にありありと浮び出でたのは、トボトボと有野村を立ち出でて行くところの、弁信の憐れな姿でなければなりません。
かの如くして、我と行を共にし、縁を同じうし、ついには家を同じうし、ついには心も行動も投げ出して見せるほどの間柄になりながら、最後の対面の後、あの弁信を送り出す我が眼の中に一滴の涙もなかったことを、いまさら不思議に感じ出したものでもありますまい。
甲州一番の自分の家を焼き亡ぼしても悔いないお銀様です。肉身を
それがこの時、弁信の姿を思い起した。誰も見送る人もなく、どこを当てということもなく、災後の有野の家を、ひとりトボトボと出た弁信の姿だけを、まざまざとお銀様は天の一方で見出したものです。
ああ弁信! この時はじめてお銀様は、弁信というものの存在が、自分の生涯の上に不思議の存在であるということを感じたようです。なぜならば、今日まで自分の眼に触れ、耳に聞いているところの人間という人間は、二つの種類しかなかったのです。それは、愛する者と、憎む者の二つしか、お銀様は人間を見ることができませんでした。愛せんとして愛し得ざること故に、すべての人間がみんな憎しみに変ってしまったようなものでありました。
ところが、弁信はどうです。お銀様自身は、弁信を愛しているとは思わない。弁信がいることによって、特に愛着と
自分ながらそれが今になってわからなくなっているのです。
なぜ自分は、あんなに無雑作にあの小法師を逃がしてしまったのか、あのお喋り坊主は真そこ、わたしというものに愛想を尽かして出て行ったものか、但しは、自分の仕打ちが誰にもする例によって、自然、出て行けがしになって、ついに居たたまれずに、あの可憐な小坊主をさえ追い立ててしまったのか。
なぜに弁信は出て行ってしまったのか、また、どうして自分がああも無雑作に弁信を出してしまったのか、その差別が今のお銀様にはわからなくなってしまいました。
思い去り、思い
それが、実は、今のお銀様のゆゆしき不思議な存在でたまらなくなりました。
嫉妬、
強かろうとも、弱かろうとも、相手は相手である。勝とうとも、負けようとも、
今やお銀様は、弁信という存在が愛すべきものであるや、憎むべきものであるや、自分はまた彼を愛しつつ来たのであろうか、憎んで来たのであろうか、という差別もわからなくなってくると同様に、彼の存在が、徹頭徹尾、自分の相手でなかったということを感ぜずにはおられませんでした。彼が無辺際に大きくして、自分が相手にされなかったとすれば業腹である。そうではない、彼があんまり小さくして弱いものだから、自分の感情の中へ繰込むに足らなかったのだ。
可憐なる存在物! その名は弁信。暴君としてのお銀様は、こうも評価して弁信を軽く見ようとしたけれど、召使の女の返答ぶりにさえ動揺する自分として、弁信をのみ左様に小さくして、自分が左様に大器であることに見るのは、常識が許しません。
彼が無制限に
彼のお喋りの中に、こんなことの覚えがある――すべて感激に価することは、さほど大いなることではありません。我々生きとし生けるものの一刻も無かるべからざる太陽の光、出で入る息のこの大気、無限に流るるこの水――こういうものに対して、その恩恵を誰も感謝するものはないのに、一紙半銭の値には涙を流してよろこぶ。
偉大なる徳は忘れられるところに存する――というようなことを、あのお喋りが喋って聞かせたことがある。
十日飢えて一椀の飯の有難さを感ずる心を以て、この大千世界の恩恵に泣けるようになって、はじめて人間の魂が生き返る!
というようなことをあのお喋りが言っていた。忘れなければいけない、忘れられなければいけない、忘れるところに総ての徳が育ち、忘れられるところにすべての徳が実るのだ――
こんなことを、あのお喋りがよく言い言いしたものだ。
もし、そうだとすれば、今までわたしに、一別来の安否をも存亡をも忘れさせていたあのお喋り坊主の存在は、わたしの触れて来た人間のうちの、最も偉大なるものではなかったか?
そんなことでありようはずがない、そうだとすれば、最も忘れ得られない存在は、最も下等なものとなるのではないか。
わたしにはそれがあるのよ――
淡きことは水の如く、薄きことは煙の如き存在に比べて、熱いことは湯のように、重いことは鉛のように、濃いことは血のように、
あの人の身は冷たいけれども、骨は赤い焼け
どこへ行こうとわたしの勝手じゃないか。わたしの方でもまた、弁信、お前なんぞが出ようとも、留まろうとも問題にはしていないが、あの人には逢いたいよ、あの人ばっかりは放せない、目の見えない人が好きなのだよ、わたしは……
お銀様の眼は、やはり天の一方を睨めながら、冷然として、こういって言い返してやったつもりだが、昂奮がおのずから形に現われて、お高祖頭巾がわなわなと
その時に、お銀様の頭脳いっぱいに燃えたったのは、
それが忘れられない。
弁信さん、せっかくだけれども、わたしはお前さんのことを考えているのではない、あの人のことを忘れられないでいるのよ。お前さんはどこへ行って、これからまた何をお喋りして歩こうとも、わたしは妨げない、わたしはわたしとして、好きな道を行くんだから、いいのよ。
だが、それにしては、いったい、今度の旅は何だろう。あのお角という
あの鉄火者が、果してどこへわたしを連れて行こうというのだ。あの女に導かれていい気になっているつもりはないが、やっぱり行く先の目的――名所古蹟が何です、それをたずねて生字引になるはずでもないでしょう。山や水がちょっとばかり取りすまして見せたところで、それが何です。英雄だとか、豪傑だとかいう片輪者が、
わたしは、極暑のうん気の中に、巣鴨の伝中の化物屋敷の古土蔵の中を閉めきって、針で指を刺したあのどろどろの生活がいいのだが、ああ、その相手がいない、その人は今どこへ行っている、その
わたしは今、引返して、その人をたずねて、あの苦しみを取戻さねばならない、それにしては出立が違っていた、もう一足も、こんな旅は続けられない。
お銀様の悩乱と昂奮は、ついにここまで到着しましたけれど、お銀様は米友ではありません。米友ならば、昂奮した時がすなわち行動に移るの時であるけれども、さすがにお銀様にはその余地があります――
ただ、旅行というものを極度に
十一
そうしているお銀様の足許へ、その腰のあたりまでしかない一つの小さい物体が現われました。
「モシ、桑名からの二番船はまだ着きませんですか」
「え」
思いを天上にのみ
この小尼は、こんどは海の方を眺めながら、再びお銀様に問いかけました、
「桑名からの二番船がまだ着きませんですか」
「まだ着かないでしょう、ほら、あの
「そうでございますか、では、程なくこれへ着きますなあ」
「風が追手だから、まもなく着きますよ」
「左様でございますか」
小尼はおとなしく、入船の白帆をまともに眺めて待っている。
お銀様はそこでちょっと頭脳を転換させられたけれども、ただなんとなく、急に立去り難いものがある。せめて、あの船の着くのを見ていてやりたいような気分から、
「お前さん、あの船で来る人を待っているの?」
「はい、お
「そう……」
お銀様はなにげなく受けたけれども、この小尼が言ったお父さんという言葉が、異様な感じをもって聞えました。
いとけないのに尼さんにされるほどの運命を持った人の子というものには、どうせ温かい親というものの観念からは遠かろうと思われるのに、父を待ちこがれるらしいこの子のそぶりを異様に感じながら、お銀様は桑名戻りの船を見ている。小尼もまた同じようにして、お銀様の傍を離れようとはしない。船はようやく近づいて来る。船が着くと、河岸一帯がどよめいてくる。お銀様は、乗込みの先を争うわけではなく、到着の人を待ち受けるわけではないけれども、それでもその動揺の空気につれて、なんとなくわが心もどよめいてくる心地がする。
その時、
「モシ、わたしのお父さんが通りましたら、お知らせ下さいましな、ツイ、わたしが見はぐれるといけませんから、どうぞあなた様にもお願いいたします」
「でも、わたしはお前のお父様を知りませんよ」
と、お銀様が正面を切りながら答えたのは当然でした。
「わたしのお父さんは、色が黒い方で、背は低い方で、身体も
「では、お前さんの方で気がつかないうちに、お父さんがお前さんを見つけるでしょう」
「いいえ、お父さんは、わたしが迎えに来ているということを知らないでしょう」
「それでは、大きな声で呼んでごらんなさい」
「でも……」
小さな尼は
「でも、お父さんを呼びかけることが、あの人の為めにならないかも知れません……どうぞ
お銀様は、小さな尼の頼みと、その口から父の人相の説明を聞いて、なんとなく刺されるようなものを感ぜずにはおられませんでした。
ことに、顔面に大きな創を持った小柄の色の黒い男――小柄の色の黒い男だけではたずね人の目安にならないが、額から頬にかけて大きな創を持ったという男は、そうザラにあるものではない、それは見違えようとしても見違えられない特徴。
人に顔を見られることを
船は確実に到着して、甲板の拍子木、やがておもちゃ箱をひっくり返したような人出、波止場を上る東海道中諸国往来風俗図絵――
二枚肩の長持。
両がけの
箱屋を連れた芸妓が築地の楼へ
一文字笠に二本差した
槍持に槍を持たせて従者あまた引連れたしかるべき身分の老士。
鉄鉢の坊さんが二人づれ。
油屋の小僧が火と共に一散に走る。
杖に笠の伊勢詣りたくさん。
気の抜けたぬけ参りの戻り。
角兵衛獅子の一隊テレンテンツク。
盤台を
犬が盛んに走る。
十二
お銀様もそぞろに人を見ることの興味にかられていたが、その前後に、どちら附かずの妙な旅人が二人三人ずつ、この
「この高燈籠は、犬山の成瀬様がお建てになったのだが、昔はこの燈籠のおかげで出船入船が助かりましたが、今は功徳のしるしだけで、実際に用いません」
「ははあ、これが
「二代の
「なんにしても結構な
「その通り、燈明料としては須賀の浦の太子堂へ田地を御寄附になったが、今はそれが
こんな会話を交わしながら、古碑でも探る気持で、燈台の石垣を撫でまわしているのが、この際、お銀様の
桑名戻りの船が着いたとあってみれば、今も言う通り、乗込みを争うわけでもなく、到着を待ちわびる人でなくても、下船して来る旅人の上陸ぶりに好奇の目を向けて見るのが通常の人情であるのに、このやからは一向その方に頓着なしに、燈籠のある部分を撫でてみては
「あ、お
と小さい尼が叫びました。狂喜の声のうちにも高い叫びを
何とならば、唯一の目標とするのは、その顔面の大きな
「お父さん――」
ついに一人の男の人をこの子がとらえてしまいました。見れば、なるほど、小柄で、そうして背が低いには違いないが、その
しかし、この幼尼からとらえられた時に、笠と合羽の主は、ハッと物に打たれたように向き直って見た瞬間、お銀様も、確かに、その人相を見てとりました。厳しい顔であると思いました。厳しいというのは、その尋常な
その瞬間――お銀様は、この創は決して、若い時に木を
こう、直覚的にお銀様の眼に映った時に、一方、その機会に、ふっつりと、今まで自分の背後にペチャクチャと燈籠の故事来歴を
さいぜんの悠長さでは、この燈籠の台石の分析から、石工の
この二つの十手は、お銀様の目の前をかすめて
「あっ!」
その時、左の方から飛びかかった十手が、あばらのあたりを抑えてうしろへのけぞってしまいました。
けれども、右の方の十手によって、被った笠が叩き落されて、その
が、その利腕をひっぱずすと共に、十手を突き倒しておいて一目散に逃げ出しました。
この、ほんの一瞬間の出来事の顛末を最もよく見たものはお銀様でありましたが、
その群衆の間を、隼のようにくぐり抜けて走る笠無しの
ここで全く右の小柄の男を袋の鼠にして、この築地海岸一帯を場面としての大捕物がはじまることとなる。
群衆の沸騰と興味は思いやるばかりです。相当の距離に立ちのいて、
「ありゃ、
「ああ、子鉄もいよいよ年貫の納め時か」
「こう囲まれちゃ、もう仕方がおまへんな――こうなると子鉄も、哀れなもんやなあ」
「だが、子鉄は腕が利いとりますからな、お手先の旦那方も、只じゃあ、あの鼠は捕れませんや」
「ごらん、はじめに子鉄を抑えた旦那が、ああして苦しんでおいでなさる、はっと飛びかかった時に、子鉄の右の
「子鉄も子鉄だが、あんなのにかかっちゃ旦那方もつらい」
子鉄、子鉄と呼ぶ、あの男が子鉄というものであることは、土地ッ子の証明によって、もう間違いのないところだが、子鉄の何ものであるかを説明している場合でないと見え、その性質は旅の人には分らない。
無論、お銀様にもわからない。
十三
これを知らないもののために、一応その
生れは城外、
名古屋城外で
牢内では牢名主をつとめて、幅を
それが、今日まで厳密なる探索の手にかからず、全く消息を絶っていた。ある時は遠州秋葉山の下で見た者があると言い、ある時は駿河の
というわけですから、盗賊も尋常一様の盗賊とは違い、土地の人気を
笠の台だけを残して、それをまだ解き捨てる余裕のない創男の兇賊子鉄の頭は、常ならばいい笑い物ですけれども、笑うものなどは一人もない、捕方も、見る者も、眼が釣上り、
お銀様は、囲まれた子鉄の面を、真正面からまざまざと見ることができました。
不思議なことには、この時、群衆の中に起った一種の同情が、捕方の上よりは、むしろ囲みを受けた
直接、間接に、名古屋城下がこの一兇賊のために、どのくらいの恐怖と迷惑とを蒙らせられたかわからないのに、こうなってみると、子鉄も憐れなものだ! と、一種の同情心のようなものが湧くのを
その間に、ジリジリと押す捕方のすべては、いよいよ真蒼になって、髪の
手に汗を握り、
「恐れ入りました、味鋺の子鉄の年貢の納め時でございます、お手向いは致しませぬ、神妙にお縄を頂戴いたします」
早くも笠の台を引っぱずして、後ろに投げ捨てると共に、バッタリと大地にかしこまって、丁寧に両手をついて頭を下げたものです。
この光景が、すべての緊張しきった空気を一時に抜いてしまいました。前面に向った捕方のうち、卒倒したものがあります――観衆は暫くしてみんな一時に声をあげ、なかには声を放って泣く者さえありました。
けれども捕方は、まだ軽々しく近づくことをしませんでした。子鉄ほどの者だから、息の根を止めてかかっても油断はならない――
大地へ両手を突いて、頭を下げた子鉄は、その時に懐中へ手を入れて取り出して、二三間ばかり向うへ投げ出したのが
「因果は争われないものでございます、尼にされた我が子の
そうして両手を突いた中へ
立往生をしてしまった弁慶でさえ怖くてちかよれないのだから、恐れ入ったとは言いながら、生きて手足も動かせるようになっているこの男の傍へ、誰も暫くの間は近づけなかったのも無理はないが、やがて圧倒的に抑えてみると、この兇賊は、ほんとうにたあいなく縄にかかってしまいました。
この場合、たあいなく縄にかかったということが、見ている人の総てをまた圧倒的にしてしまいました。
こうして兇賊が引き立てられ、場面が整理され、群集が
そうしている時に、ハッハッと息を切った声で、
「お嬢様じゃございませんか、いやはや、お探し申しましたぜ、表通りはあの騒ぎでござんしょう、裏へ来て見るとまた捕物騒ぎ、気が気じゃございません」
ハッハッと息をついて、しきりに腰をかがめているのは、お角がおともにつれて来た庄公です。
十四
道庵先生も、人間は引揚げ時が肝腎だ、ぐらいのことはよく知っておりました。
名古屋に於ける自分というものは、時間に於ても、行動に於ても、もう、かなりの分量になっていることを知り、待遇に於ても、名声に於ても、むしろ過ぎたりとも及ばざるのおそれなきことをたんのうしたから、もうこの辺で
そこで、米友に向っても出立の宣告をしておいて、今日明日ということになって、計らずも一大事件が突発して、道庵をして引くに引かれぬ羽目に置き、更に若干、出発のことを延期させねばならないことに立至りました。
というのは、医学館の書生で津田というのが、このごろ、飛行機の発明に
この津田生は、どうしたものか、医学館の講演以来、ほとんど崇拝的に道庵先生に傾倒して来たものですから、道庵も可愛ゆくなり、ことにその熱心な科学的研究心に対して、どうしても、道庵先生の気象として、その希望を
この当時に於て、飛行機の研究及び製作ということは、いかにも突飛のようでありますけれども、突飛でも、空想でもなく、実際に道庵先生を首肯せしむるだけの科学及び技術上の根拠を持っているのでした。
津田生は、どこからこの発明の技術を伝習したか、とにかく、製作に於ては、或る先人の設計を土台としそれに幾多の創意を加え、工夫を
そもそも、津田生が飛行機の発明を企てるに至った最初の動機というものは、例の柿の木金助が
そうして、医学館に通って解剖を研究するうちに、どうしても飛行機の標準は、鳥類の骨格を研究することから始めなければならぬと覚りました。そうして、船はいかに進歩しても魚の形を出づることはできないように、鳥の形を無視しては飛行機の実現は覚束ないものだという原則を
そのうちに、ふと
「備前岡山表具師幸吉といふもの、一鳩をとらへて其身の軽重、羽翼の長短を計り、我身の重さをかけくらべ、自ら羽翼を製し、機を設けて胸の前にて繰り搏 つて飛行す、地より直ぐに
ることあたはず、屋上よりはうちて出づ。ある夜、郊外をかけ廻りて、一所野宴 するを下に視 て、もし知れる人にやと近より見んとするに、地に近づけば風力よわくなりて思はず落ちたりければ、その男女驚き叫びてにげはしりける。あとには酒肴さはに残りたるを、幸吉飽くまで飲食ひしてまた飛ばんとするに、地よりはたち
りがたき故、羽翼ををさめ歩して帰りける。後にこの事あらはれ、市尹 の庁によび出され、人のせぬことをするはなぐさみといへども一罪なりとて、両翼をとりあげその住巷を追放せられて、他の巷 にうつしかへられける。一時の笑柄 のみなりしかど、珍しきことなればしるす、寛政の前のことなり」
とある。これを仮りに寛政のはじめ(西暦一七八九年)と見れば、道庵現在の時より約八十年の昔のことで、西洋ではじめてグライダーを作った

岡山の幸吉の事績によって、津田生は、金助や、弓張月や、夢想兵衛のロマンスと違った、科学的技術者が日本に厳存していたことを知ると共に、苦心惨憺して、すでに没収され、
幸いなことには、津田生は父祖伝来の家産を豊かに持っていたから、研究費には差支えることは免れたが、不幸なことには、この熱心な発明慾が周囲の誰にも
しかし、それらの誤解と、冷笑と、詬罵の間に、津田生が超然として発明製作の実行に精進していたことは、少なくとも古今東西の発明家の持つ態度と同じものでありました。
しかし、こういう意味の孤立も、孤立はやっぱり孤立だから、知己のないということを津田生も相当に淋しく感じていたことに相違ない。ところが、このたび江戸から流入して来た先生、賢愚不肖とも名状すべからざる狂想を演じつつある先生だが、ドコかに津田生が惚れ込み、ある席上でこの話を持ち出してみると、皆まで聞かず道庵が双手を挙げて賛成してしまいました。
えらい! 日本にもそういう若いのが出なけりゃあならねえと承和の昔から、道庵が待ち望んでいたのがそれだ、万物の霊長たる人間が、鳥類のやることが出来ねえということがあるものか、異国を見ねえ、第一あの黒船を見ねえ、鉄砲を見ねえ、
だから、お前、その伝で理詰めに機械さえ出来りゃ空が飛べねえという話があるものか、海の上だってああして黒船が突っ走るじゃねえか、陸の上だって、山のドテッ腹を蹴破って陸蒸気が通らあな、水も山もねえ空の上を走るなんぞは朝飯前の仕事でなけりゃあならねえのを、人間というやつ、何か落ちてやあしねえかと下ばっかり見て歩くもんだから、今もって鳥獣の
こういうような趣意で激励するのみならず、道庵が津田生の私設工場へ飛んで来て、実際を検分し、その器械の要所要所の説明を聞きながら、同時に忠告を加える要点に、侮り
十五
津田生の満足は、たとうるに物もない有様だが、いい
せっかく意気込んだ出鼻をこれに
しかし、また一方には、この米友の不運を緩和するに足る一つの有力なる事情もありました。
それというのは、例の親の毛皮を慕う小熊を、首尾よく自分の所有とすることができたので、これに就いてはお角さんが
「ちぇッ、やんなっちゃあな」
と舌打ちをしながらも、熊を入れた鉄の檻の前にどっかと坐りこんで、熊に餌をやりながら、御機嫌斜めならぬものがあります。
「それ、何でも好きなものを食いな、遠慮は要らねえよ、お前は今日からおいらの子分なんだ――いいかい、おいらはお前をムクしゅうの身代りだと思って大切にしてやるから、お前もムクだけのエラ
と、米友は檻の前へ、勝栗だの、
「ムクを見な!」
事実、米友は心からこの子熊をムク犬のように仕立てたいのでありましょう。そうしてお君もいないし、ムクも
ところが――熊は熊であっても、猛獣としては日本第一であり、犬よりも段違いであるところの熊でこそあっても、その素質としては、どうも米友の期待するようにばかりはゆかぬと見え、せっかく米友が訓戒を加えている時に、そっぽを向いて取合わなかったり、どうかすると、しゃあしゃあとして放尿をやらかしたりするかと見れば、食物をあてがうと遠慮なく手を延ばして来る。
「やいやい、ムクはそんなじゃなかったぜ、ガツガツするなよ、お行儀よくしてろ、お前にやるといって持って来たものだから、誰にもやりゃしねえ。やい、手前、ほんとうに行儀を知らねえ奴だな、ムクはそうじゃなかったぜ、てめえ食えと言わなけりゃ、お日待の御馳走を眼の前に置いたって手をつけるんじゃねえや、
米友はこう言って
「まあ、仕方がねえや、ムクなんて犬は広い世間に二つとある犬じゃなし、それにもう年を食ってるからな、物事を心得ていらあな。手前はまだ若いから無理もねえといえば無理もねえのさ」
米友としては、つとめて気を練らして、食物を与えることから、おしめの世話までして育ててやることにしている。
米友のこの
米友としては、檻を出して、座敷へも、庭へも、連れ出して遊ばせてやりたくもあるし、また足柄山の金太郎は、絶えず熊と
すべてに於てムクなんぞとは比較にならない、訓練の欠けた
その点だけが、ただ米友を、眼を円くして
一通り熊の世話を焼いてしまってみると、さあ
発明製作に没頭しているといえば、感心なようだが、弁当をわざわざ遠方から運ばせてまでも、没頭しなければならないほどの多忙がどこにあるか、その理由はわからないながら、とにかく、毎日、この時間に、このくらいの弁当を持って来な、と言いつけられている通りを、米友の責任観念がなおざりにせしめてはおかないのです。
しかるべき重箱の中に詰めた弁当が、例によって
「じゃあ熊公、行って来るぜ、おとなしくしてな」
こう言って縁側へ出て用意の杖槍をとると、
十六
かくして米友は、富士見原までやって来ました。
津田生の発明室は、ここから遠からぬ大井町にあるのです。
富士見原へ来て見ると、今や大きな小屋がけの足場を組んでいるところでした。
何か町が立つのだな、芝居か、軽業か、そうだそうだ、この間、鳴海の方から相撲連がたくさん繰込んで来たから、多分この小屋がけで晴天何日かの大相撲が興行されるんだな。
米友もそう
例の通り、弁当を投げ出して、弁当ガラを受取り、それをまた前の風呂敷に包み直して、首根っ子へ結びつけて、さっさと帰る。
帰り道には、
お角さんの宿へ来て見ると、いやもう、雑多な客で
米友は、ちょっと縁側から挨拶をして行こうとすると、お角さんが、
「友さん、御飯でも食べていっちゃどうだい、蒲焼でもおごってあげようか、お前の好きな団子もあるよ」
芝居の太夫元ででもあるらしいお客を相手にしながら、こちらを向いて米友を呼びかける。
「おいらは腹がくちいから……」
「先生にも困ったものだね、何か
「うん」
「で、お前、いつ立つの」
「いつだかわからなくなっちゃった」
「いい酔興だねえ――そうして友さん、熊はどんなだえ」
「おかげでピンピンしていますよ」
「それはまあ、よかったね」
「さよなら」
「もう帰るの?」
「うん」
「じゃ、またおいで――誰か友兄いに
「はい、友さん」
「いや、どうも有難う」
「名物だから、持って行って食べてごらん」
「こんなには要らねえ」
「お前、食べきれなけりゃ熊におやり、ちょうどいいから、首根っ子に背負っているのが先生のお弁当がらだろう、それへ入れて持っておいでよ」
こうして
「当地初お目見得
日本武芸総本家
安直先生
金茶金十郎」
日本武芸総本家
安直先生
金茶金十郎」
その翌日もまた、米友は例によって弁当背負い。町を通ってみると、辻々に人だかりがある。
次の人だかりも、うっかり誘われて覗き込むとやっぱり同じもの――ずいぶん思い切って豊富にビラをまきやがったな、ビラでおどかそうというのだろう、ビラなんぞにこっちゃ驚かねえが、日本武芸総本家の文字が目ざわりだ。
と見ると、「当所初お目見得」の文字の横に「当る三日より富士見原広場に於て晴天十日興行」と記してある。
「ははあ、なんだ、あれだよ、昨日見た大きな小屋がけか、あれが、その武芸総本家の見世物なんだよ」
笑わしやがらあ……
米友がこう言ってあざ笑っているうちに、早くもその富士見原に着いてしまったのです。
着いて見ると、工事の早いこと、
違う――お角さんは今度は、小屋を打ちに来たんじゃねえ、それに、やるんなら同じ山かんでも、もっと貫禄のあるところをやらあな。小屋だってお前、こんな安直普請をしなくたって、お角さんの
米友は前へ廻って木戸口を見ると、入口には大須観音の
それを読んでみると、米友の眼がまるくなる。
[#ここから罫囲み]
日本武芸十八般総本家
囲碁将棋南京バクチ元締
安直先生
大日本剣聖国侍無双
金茶金十郎
右晴天十日興行
飛入勝手次第
景品沢山 福引品々
飛入勝手次第
景品沢山 福引品々
勧進元 みその浦なめ六
後見 壺口小羊軒入道砂翁
木口勘兵衛源丁馬
[#ここで罫囲み終わり]それを読み
「笑わしやがらあ!」
いくら名古屋がオキャアセにしたところで、こんないかさまにひっかかるタワケもあるまいと思われるが、あの辻ビラのおどかしと言い、今日のこの小屋の前景気と言い、万一こんなヨタ者にも相当に名を成させて帰すかも知れねえ――
米友が例によって、持前の義憤をそろそろと起しはじめました。
このごろでは米友も大分、人間が出来て、そうむやみに腹を立てないようにもなり、また腹を立てさせようと企んで来ても、笑い飛ばしてしまうほど腹の修行も多少は出来たものの、こう露骨になってみると、自分が侮辱されたというよりは、金の鯱城下の面目のために、義憤を湧かせ
ばかにしてやがら!
いったい、ここをどこだと心得てるんだよ、
おいらも、この隣りの伊勢の国に生れたから、尾州城下の威勢なんぞは子供のうちから聞いて知ってらあ――
第一、ここには柳生様がいらあ――
尾州の柳生様は、江戸の本家の柳生様より術の方では上で、本家の柳生様にねえところの秘法が、この尾州の柳生様に伝わっているということだ、だから剣法にかけちゃあ日本一と言ったところで、まあ文句はつかねえわけだが、その柳生様がおいでなさる尾張名古屋のお城の下で、どこの馬の骨だかわからねえ安直野郎が日本総本家たあ、どうしたもんだ。
それからお前、宮本武蔵がここへ来て、柳生兵庫と相並んで円明流をひろめているんだぜ――
それからまたお前、知ってるだろう、弓にかけちゃ、この名古屋が竹林派の本場で、天下第一だろうじゃねえか。知らなけりゃ、言って聞かせてやろうか。
三家三勇士の講釈でも聞いてるだろう、星野勘左衛門が京都の三十三間堂で、寛文の二年に一万二十五本の
江戸の三十三間堂にも九千百五十本のうち、五千三百六十本の通し矢を取って江戸一の名を挙げたのは、やっぱり名古屋の杉立正俊という先生なんだ。
馬術にかけては細野一雲という名人があり、槍にかけちゃ近藤元高は、やっぱりその時代の天下一を呼ばわれたもんだ。
鉄砲では御流儀というと、稲富流があるし、軍学には信玄流、謙信流、長沼流――このほかにまだ大した名人が古今にうようよしている。棒にかけても尾張が独得で、近頃では高葉流の近藤さんなんぞも、そうあちらにもこちらにも転がっている
よし、よそならとにかく、この尾張名古屋へ来て、いくら大道折助で、識者は相手にしねえとはいえ、この看板は、フザケ過ぎてらあ――ここに米友の素質が爆発して、肩にしていた杖槍の手がワナワナと震え出しました。
よし! 明日はここへねじ込んで、安直と、金茶金十郎なるものの
「なあんだ、らっきょうか」
十七
その翌日、米友は例によって弁当を背負い込み、富士見原は目をつぶって素通りして、津田の別荘へ馳け込んで、
それはすなわち、今日はひとつあの武芸大会の小屋へねじ込んで、安直と、金十郎らに目に物見せてくれようとの決心があるからです。
その物音を聞きつけて、今までは、発明の補導に熱中していた道庵が、今日は珍しく
「おいおい、友兄いや」
「うむ」
「うむ――はいけねえよ、あいとかはいとか言いな。それから友様、今日はゆっくりしておいで、いいものを見せてあげるからな」
「あっ!」
と米友が舌を捲きました。毎日こうして弁当を運ぶのに御苦労さま一つ言いもしないくせに、今日に限ってよけいのことを言うのは
「今日はな、友様、気晴らしに面白いものを見せて進ぜるから、ゆっくりしな」
「あっ!」
「何だい、そりゃ、めだかが
道庵が、米友の迷惑がる表情の
「先生、今日は……」
「今日は、どうしたんだい、いつもお前に弁当を運ばせてばっかりいて気の毒だから、今日はわしがオゴるんだよ」
「先生、オゴってもらうのは有難えが、明日にしてもらうわけにはいかねえかね」
「おや、せっかく人がオゴるというのに、一日延期を申し入れるというのはどうしたもんだ」
「先生、今日はおいらの方にも少し都合があるんでね」
「お前の都合なんざあ、どうでもいいよ、こっちにはちゃんとお約束があるんだから」
「だって……」
「グズグズ言うなッ……」
道庵先生が
「まあ驚くな、実は友様、こういうわけなんだ、ついこの隣地の富士見原というところへ、こんど天下無双の武芸者が乗込んだのだよ――そいつをひとつお前をつれて、見物に行こうと、津田君と二人で、もうちゃんと打合せをして、桟敷が取ってあるんだから、いやのおうのは言わせねえ」
「有難え、そこだ、先生」
米友が急にハズンだので、道庵が我が意を得たりと喜びました。
「どうだ、武芸と聞いちゃ、こてえられめえ」
「本当のことは、先生、おいらも一人で、これから見に行こうと思ったのだ」
「そうだろう……は、は、は」
道庵が得意になってヤニさがっているが、米友としては偶然、この人たちと一緒に席を取って見物させてもらうのはいいが、それにしても少々気がかりなのは、この先生が武芸見物中、どう気が立って脱線しないものでもない、感激性の強いわが道庵先生は、軽井沢で当りを取って以来、いい気になって武芸者になりすまし、その後松本では百姓に限るといって頭髪を下ろして百姓になってしまい、今は後悔しきっているではないか、今度また、あんなイカモノを見せた日には、何をされるか知れたものではない、という心配が湧いて来たからです。
しかしまた、この先生は、脱線もするにはするけれども、物を見破るには妙を得ているところの先生である。もとより、人の病気を見破る商売をしているのだから不思議はないが、それにしても見破ることは名人だ。早い話が、自分が両国橋で黒ん坊にされて、江戸中の人気を集めていた時分、誰ひとりそれを怪しむものはなかったのに、この先生だけには立派に見破られてしまった。
脱線はこわいが、イカモノ退治には、こういう見破りの上手な先生と一緒に行ってもらった方が、たしかに利益に相違ないということを、この際、米友が気がついたものですから、
「まあ、いいや」
と言いました。
そこで、道庵と米友と、新しく別に研究生の津田生が加わって三人、程遠からぬところの富士見原の評判の武芸大会なるものを見物に出かけました。
ほどなくその場に着いて見ると、人は多く集まっているが、なんだかその空気が変です。
あの前景気で行くと、今日の初日は、もっと緊張した人気がなければならないと思われるにも拘らず、あたりの空気がなんとなくだらしがないので、変に思いながら表へ廻って見ると、幾多の人があんぐりと口をあいて見上げている大きな貼札――
「お差止により興行中止仕候」
さすがの道庵も、米友も、津田生も、あいた口がふさがらない。「ヨタ者は承知で来てみたが、お差止めには口あんぐりだ」
と言いながら、道庵はワザと大きな口をあんぐりとあいて、看板の上を見つめていたが、犬にでも喰いつかれたように、
「あっ! らっきょうだ、らっきょ、らっきょ、らっきょの味噌漬!」
と、目の色を変えて叫びました。
十八
神尾主膳が書道に
今日しも、珍しくその当日でありましたせいか、右の通りにして字を書いて、ひとり楽しむことに余念がありませんでした。
お絹という女は、今日はいないのです。
この頃中、あの女はほとんど家を外にして楽しんでいるのだから、それはもうなれっこになって、特に気がかりにもならないのでしょう。それに、世話の焼きだてをした日には際限ないものと、ほぼ見切りをつけているのでしょう。
それでも、時あってか、あの女のことに就いて何か
お絹という女は、先代の神尾の愛妾でありました。今の神尾なんぞは、事実、子供扱いにして来たのですから、苦もなくまるめてしまうのでしょう。また主膳の方でも、まるめられるのを知りながら、それなりで納まってしまうのは、あながち役者がちがうせいではないのです。
主膳としては今朝はそんなことの一切を忘れて、書道を楽しむことができていると、庭に、がやがやと子供の声です。
子供を愛するということも、このごろは主膳の閑居のうちの一つの仕事でありましたけれども、これは書道を楽しむほど純なものではなく、子供を愛するというよりは、子供を
子供らの方では、最初見た、目の三つある
主膳は書道を楽しみながら、子供たちのガヤガヤを聞くと、またやって来たなと思いながらも、慣れていることだから、彼等が相当に騒ごうとも、こっちの書道
そこで主膳は、子供たちには取合わないで、相変らず書道に
こうして暫くの間、子供らの遊ぶがままに任せ、自分は自分の好むところに
断わってあるのに、こっちへ来てはいけない、子供たちの遊ぶべき場所は、遊ぶべき場所として仕切ってあるのを、よく納得させてあるのに、それを破って来た奴があるな、こいつはひとつ叱ってやらなければなるまい――と、主膳が筆をさし置いていると、廊下を踏んだ足音が、一層近くに迫って来たのみならず、日当りのいい障子を挨拶もなく引きあけて、中へ飛び込んで来たのがあるから主膳も面喰わざるを得なくなりました。
「いけない、いけない」
と言ったけれども、その飛び込んで来た奴は、無神経か、一生懸命か、主人の制止なんぞは耳にも入れず、案内もなく居間へ飛び込んだ上に、主人の坐っているそのそばまで転がって来て、そうして主人、すなわち主膳の左の
しかもこれは女の子です。その女の子を見ると、主膳は直ちに、これは少し低能な奴だなと知りました。
いつも遊びに来る
「おい、お前、こんなところへ来てはいけないのだ」
と、主膳が
ほかの子供なら、いくらわからずやでも、いくぶん心得があって、こっちへ来てはならないことを知っている。知らなくても、主人の居間を隠れんぼのグラウンドにするなんていうことの見境はあるのだが、そこに頓着のないところにこの低能さ加減がある。
主膳はそれを知って呆れ返ってしまったから、ツマミ出すわけにもゆかず、沈黙していると、いい気になって低能娘は、主膳の膝と机との間を潜伏天地と心得て、息をこらして
全く呆れて、その為すままに任せているよりほかはないが、主膳は自分の傍らにうずくまった低能娘の、
そう思って見ると、上の方から三つの眼で
厄介千万な低能め――と
「あら、いやだ」
その時、低能娘が、ちょっと首をあげて主膳の面を仰ぎ、ながし目に見て
主膳は、今、ほとんど自分のしたことを忘れたように無言でしたが、実はその指先でこの低能娘の腋の下を、ちょっと突いてみたのです。それは本能的でありました。いたずらをするつもりでも、からかってやるつもりでもなく、主膳としては、そのハミ出した肉の一片が、硬いか、やわらかいかを試みてみなければ、この食指が承知しないような慾求に駆られたものですから、全く本能的に、指先がそこへ触れたか、触れないか、自分でさえもわからなかった時に、低能娘がその点は存外鋭敏で、「あら、いやだ」と言われて、はじめて主膳としても、何だ大人げない、という気になったのですが、自分を見上げてながし目に睨んだ低能娘の眼を見て驚きました。何といういやな色っぽい目をしやがる、馬鹿のくせに!
主膳は、こいつ憎い奴だと思い、よし、その儀ならば、もう少しこっぴどく退治してやろうと怒った時に、
「あっ!」
今度は主膳が全く圧倒されてしまったので、仕置を仕直してやろうと思っている当の小娘から先手を打たれてしまったのは、返す返すも意外な事でした。
「あっ!」と言ったのは低能娘ではなく、三ツ目入道の神尾主膳で、その時、主膳は屈んでいた低能娘のために、自分の
といったところで、女の子のする力だから、主膳ほどの者が悲鳴を揚げるほどのことはないはずだが、実は
主膳がこの時に舌を捲いたと共に、この無意識な挑戦に対しては、その教育上の
「よしんべえがいねえよ」
「よっちゃんが迷子になってしまったわ」
「神隠しに会ったのかも知れないわ」
「隠れんぼして、ばかされると、神隠しにされたっきり出てこないんですとさ」
「よしんべえは少しお馬鹿だから、天狗様にさらわれたかも知れない」
「よしんべえ」
「よっちゃんよう」
「早く出ておいでよう」
「もう代りよ、たんこよ」
「早く出ておいで」
「のがしておしまいよう」
「来ないとおいてけぼりにして、みんなで帰ってしまうよ」
こんな声が庭の方で、子供の口々に叫ばれるのが、よくここまで聞える。それは、主膳の傍らに隠れがを求めている低能娘ひとりを当てに叫ばるる声に相違ないけれども、さすがに、この奥まで入り込んでいるとは、子供たちも考えていないと見えて、その持場の許された場面だけに
子供たちは、呼び疲れ、探しあぐんで、やがて忘れたもののように静かになってしまったのは、そのへんで
十九
それから後、この低能娘も、よく遊びに来ることはあっても、主膳の居間へ
子供たちとはいうけれども、これは、育ちがいいといった者のみではないから、気を廻すことにかけては、へたな大人よりませたものがいくらもいる。
「おかしいなあ、殿様とよしんべえとおかしいよ」
という評判が立ってしまったのは是非もないことで、「まあ、いやなよっちゃん、殿様のおかみさんになるの?」といったようないやみはまだ罪がない分として、なかには、思い切った露骨な、
しかし、それもその当座だけのことで、主膳が低能娘を始終引きつけているというわけではなし、低能娘もまた殿様だけにじゃれついているというわけでもなし、やっぱり以前のように子供たち共有のおもちゃになって、おいらんになれと言えばおいらんになり、
しかし、この二三日、どうもあの馬鹿娘の姿が見えないようだ。子供たちの家に来ることは以前と変らないから、主膳がそれとなく行って見ても、どの組にも低能娘がいない。こうなってみると、主膳がなんだか手のうちのものを取られたような淋しさを感じないでもない。
低能ではあるけれども、あの色っぽい眼つきがどうも忘れられない。低能とはいうけれども、
あいつは必ずしも低能じゃないだろう、そうしているうちに、普通の女として発達するのだろう。発達する、俗に色気が出るという時分になれば、かえってあんなことはしなくなるものだ。
だが、この二三日、姿を見せないのは、なんとなく淋しいな、ほんとうに物足りない。お絹という奴にも、ずいぶん淋しい思いをさせられたが、このごろは慣れっこになってしまったのか、今日このごろは、あの低能の来ないことが、いっそう自分の心を空虚にしている、心というものは変なものだ、神尾はこういったような不満を感じて、
「よし坊は、どうしたのだ、今日は来ないのか」
こう言って子供たちに鎌をかけてみると、
「ああ、殿様、よしんベエはお女郎に売られたんだよ」
「えッ」
神尾がここでもまた、子供たちに
「よしんベエはねえ、吉原へお女郎に売られたんだから、殿様、買いに行っておやりよ」
神尾が第二発の爆弾を子供からぶっつけられて、ヘトヘトになりました。それでも足りない子供たちは、
「あたいも、いまに
彼等は、自分の家の製造物が問屋へ仕切られたような気持で、友達の売られたことを語り、お
さすがの神尾も、子供たちから続けざまの巨弾を三発まで浴せられて、のけ
おんどら、どら、どら
どら猫さん、きじ猫さん
お前とわたしと駈落 しよ
吉原田圃 の真中で
小間物店でも出しましょか
一い、二う、三い、四う
五つ、六う、七、八あ
九の、十
唐 から渡った唐 の芋
お芋は一升いくらだね
三十二文でござります
もうちとまかろか
ちゃからかぽん
おまえのことなら
負けてやろ
笊 をお出し
升 をお出し
庖丁 、俎板 出しかけて
頭を切るのが唐の芋
尻尾を切るのが八つ頭
向うのおばさん
ちょっとおいで
お芋の煮ころばし
お茶上れ……
どら猫さん、きじ猫さん
お前とわたしと
吉原
小間物店でも出しましょか
一い、二う、三い、四う
五つ、六う、七、八あ
九の、十
お芋は一升いくらだね
三十二文でござります
もうちとまかろか
ちゃからかぽん
おまえのことなら
負けてやろ
頭を切るのが唐の芋
尻尾を切るのが八つ頭
向うのおばさん
ちょっとおいで
お芋の煮ころばし
お茶上れ……
二十
その翌日、主膳が外出した後の居間へ、お絹が入って来ました。
今日は在宅のはずだが、おとなしいのは、書に
わざわざ使を花屋まで走らすまでのことはなし、庭を探して何か有合せのもので、趣向を凝らそうと思いました。
主膳の書と違って、お絹の花は
そこで庭へ下りて、残菊にしようか、柳にしようか、それとも冬至梅か、
最初のうちは、豆腐屋か、御用聞が、近所の台所を叩いているのだろうと気にもとめなかったが、そうでもなく、その声はこの屋敷の廻りだけをうろつきながら、当てもなく呼びかけているような声でありました。
「四谷の大番町様のお屋敷は、この辺でございましょうか」
根岸くんだりへ来て、四谷とか、番町様とか言ってたずねている。お絹は
「もし、ちょっと承りとうございますが、この辺に四谷の大番町様のお下屋敷がございますまいか」
やっぱりぐれている、ここは
「もし、あの、この辺に四谷の大番町様のお控え屋敷がございましょうか」
外から、自分のいる気配を見て取って問いかけたらしいから、お絹は無愛想に、
「存じませんよ、よそをたずねてごらんなさい」
「その声は、もしや
「おや?」
同時にお絹も、聞いたような声だと思いました。
それにしても、やっぱりまだあんな黄いろい声で、御用聞程度のほかのものではないと思っているから、聞いたような声ではあるが、誰がどうとも見当がつかないでいると、
「神尾様の御新様、お絹さまではございませんか、わたくしは忠作でございますが」
「あっ」
お絹は、なぜ、今まで、それならそうと気がつかなかったかと思いました。
忠作、忠作! 最初からちっとも違っていなかったのだ。
「まあ、忠どんかい」
「どうも御無沙汰を致しました」
裏木戸は苦もなく開放されて、
「どうして、ここがわかったの」
「築地の異人館で聞いてまいりました」
「異人館で……」
さすがのお絹も、忠作のたずねて来たことが、あまりに意外であったものだから、全く
「まあ、ともかく、こっちへお入り」
「御免下さいまし」
郡内の太織かなんぞに紺博多の帯、紺の前垂、
お絹は、この少年とも、少しの間、生活を共にしたことはあるのです。
この抜け目のない金掘少年を徳間峠の下からそそのかして連れ出した。そうして二人が神田のある所で寄合世帯を持ったのも、そんな遠い昔のことではないのだが、それはおたがいに利用し合うという
その後はおたがいに何のわだかまりもなく、消息も無かったのが、今日になって、わざわざ先方から探し当てて来たのも思いがけないものだが、本来、浮気そのもののお絹は、年下の若いのにわざわざ訪ねて来られてみると、金と
「よく、ここがわかったねえ」
「実は御新様、あなたが、築地の異人館においでなさることをね、お見かけ申しましてね、あなたが異人さんたちと深く懇意にしていらっしゃる御様子ですから、それで一つ、お頼みがあってあがったようなわけなんですが」
と忠作は、一別来の挨拶の後にこう言って、用件の前置をしました。
無論、この少年のことだから、単に昔の人を懐かしがって、御無沙汰お
「何ですか、言ってごらんなさい」
「異人館の番頭さんに、わたしをひとつ、御紹介していただきたいんです」
「へえ、そうして、どうしようと言うんです」
「実はね……御新様、これからの商売は異人相手でなければ駄目です」
そら来た、この若造、どのみち商売に利用の意味でなければ、得の立たないところへ御無沙汰廻りなぞする男ではない。
そこを忠作は
自分も、いろいろ商売に目をつけているが、どうしてもこれからは異人相手でなければ、大きな仕事はできないということをつくづく悟りました。
今、日本の国の諸大名が、大きいのは大きいように、小さいのは小さいように、みんな鉄砲を買いたがっているが、その鉄砲も異人から買わなければならない、私も一つその取引をやっているが、なにぶん仲買のようなもので、自分が直接に異人と取組めないのが残念でたまらない。
ところで、日本の国が今、西になるか、東になるか、外国に取られるか、取られないかの境だというが、異人さんの方の説では、なあに異人だって、日本の国を取ろうというつもりはないそうで、日本の国と商売ができさえすればいいんだから、異人も相談して、なるべく日本の国を乱さないように骨を折っているということだ。
そこで、日本の国の政治がどっちへどうなろうとも、やがて落着けば、一切、異人相手の仕事ということになるはきまっている。だから、もう自分は将来、
その商売のうちにも、鉄砲や軍艦ばかり、売ったり買ったりしているのが商売ではない、ゆくゆくは、向うに無い品物と、こっちに有り余る品物との交易が、盛んになるにきまっている、そこが目のつけどころなんです。
現に異人はシルク、シルクと言って、日本の絹をばかに好くんですね、そこでわたしは、日本中の絹と生糸を買い占めて、異人に売り込んだら、ずいぶん大仕事ができると見込みましたよ。幸い、わたしの生れた甲州や、その隣りの信州なんぞでは、田舎家で一軒として蚕を飼って糸をとらないところはありませんからね、島田糸なんぞにして
これは確かに
しかも、あなたの異人さんとの交際ぶりが、ずいぶん親密な御様子ですから、こいつ占めた! と思いました。
御新様の前ですけれど、異人は、女にのろいものですね、男は滅多に信用しませんけれど、女だというと直ぐ参っちまいます。それもそうです、男には例の尊王攘夷で異人さんの首を
というような減らず口から進んで、どうかお絹の手で、自分をしっかりと大資本の異人さんに紹介してもらいたい、いったん異人さんに紹介してもらいさえすれば、それから以後はこっちにも自信がある、腕を見せての上で、信用を博してみせることは請合い、ぜひひとつ、この紹介を頼みたいという要領を、かなり能弁で説き立てました。
聞いていたお絹は、相変らず一分の隙もない慾得一点張りの註文だが、これはこの若造として壺を行っている註文であって、自分としても、叶えてやっても損にならない性質のものだと思いました。
単に手引をしてやりさえすれば、事実それから先は、どれほどのことをするかわからないと思わせられます。もう一ぺんこの若造と組んで、これを手代として仕事をやらせれば、こんどは以前のような
そこでお絹は、一も二もなく、この
二十一
与八と
その道程は、江戸までは普通の道、江戸橋から
駒井もこの一行の来てくれたことを、無上の悦びとも、満足とも、思い設けぬ自分の
お松という子の珍しい殊勝な性格が、駒井を感服せしめたのも、久しい後のことではありません。
こうなってみると、一日も早くこの一行を収容して、別な天地に向って乗出してみたくもあるし、また周囲の事情がそれを急がせもする――というのは、例の誤解やら、圧迫やらが、一旦は退いたりとも、その後、いよいよ
醸そうして船そのものも、動かす分にはもうすべてに差支えが無くなっている。動かして近海を航海する能力にも自信を持ち得るようになっているし、問題はただ大砲だけのものだが、あれは有ってもよし、無くてもよい。むしろ自分たちの理想のためには無い方がいいようなものだが、それでも万一の備えと工夫していたあれも、九分通りは出来上っているが、試射と、据附けとが残されている、もう一週間もしたら、万事解決するだろう。
乗組人員としては、さし当り自分のほかには、
画家、田山白雲
七兵衛
お松
登
清澄の茂太郎
兵部の娘
支那少年金椎
マドロス
乳母
このほか、機関方、船大工として造船所の方に、七兵衛
お松
登
清澄の茂太郎
兵部の娘
支那少年
マドロス
乳母
松吉
九一
十蔵
の三人が残してある。なお漁師の太造という老人とその孫が一人、行きたがっているから、それも予定のうちに加えてある。九一
十蔵
これで都合十五名の乗組になるが、ゆくゆく、都合次第ではこの倍数を収容する設備は充分に整っている。
そこで、この以前から、船内の設備や、食料品の積込みはすっかり手を廻して、いずれも出帆のできるようになっているが、人事方面でただ一つの心がかりなのは田山白雲の消息です。
香取、鹿島だけで帰るということだから、もう帰っていなければならないのに、
とにかく、自分としては、このまま船を
そう思い立つと、駒井は一日も早く出帆するに越したことはないという気分に迫られ、乗組一同もまた、喜んで出帆の一日も早からんことをせがんでいるくらいです。それと一方、毎日毎日、番所や造船所を三々五々としてうろつくならず者や、土地の住民らの目つき、風つきの険しくなるのとに迫られ、天候も見定めたし、そこで駒井も、いよいよ明早朝に出帆のことを一同に申し渡し、そうして今晩はこの番所で、立退きの記念の意味での晩餐会を開くことになりました。
そこで、今晩の晩餐の席は
お松ともゆる女とは、それぞれたしなみの身じまいをして席の斡旋役に廻るし、乳母は登を椅子に安定させて置いて、自分は給仕に奔走する。
清澄の茂太郎は、登に対して兄さん気取りで子守役に当り、やたらに得意の
こうして、すべてが泰平の和楽に我を忘れて興じ合っているのを見て、当然これに捲き込まれた七兵衛が、急になんだか物悲しくなってたまらなくなりました。この老幼男女が打群れて、興がようやく乗ってきた時に、七兵衛の頭の中にポカリと穴があいて、そこからなんともたまらない悲しみの風が
七兵衛自身でも何が今、自分をこんなに悲しいものにしたのか、ちっとも分りませんが、ひとりでに悲しくなって、悲しくなって、もうとめどなく涙がこぼれ返って来て、隠そうにも隠すことができなくなったから、ぜひなくことにかこつけてこの席を
どの室も早やよく取片づいていて、すべての
さいぜんまでは守護不入になっていたこの研究室も、明日立つことになってみれば、すっかり開放されている。その中に走り込んだ七兵衛は、いつも駒井が研究に疲れた眼を放つところの窓に来て、そこにしがみつきました。
何だか知れないが、涙だ、涙だ。こんなめでたい鹿島立ちの席に、みんなが無邪気に興が乗ればのるほど悲しくなって、どうしても意地が張りきれないのは、自分ながらどうしたものだ。
ああ、たまらない。
二十二
だが、七兵衛は泣いているわけではないのです。ただ、無限に悲しい思いがするだけで、それが、何の理由に出でるか、よくわからないのみですから、すべてに於て取乱すというようなことはありません。
「ああ、忘れられた奴がまだ一つあるわい」
今、七兵衛はムクの
「ムク!」
この犬が、この頃に至って、自分というものに対する敵意をすっかり取払ってくれたことは、七兵衛にとって驚異でなければならない。
今晩、この犬は忘れられていたのだな。本来ならば、この犬にも今晩の食卓の一席を与えてしかるべきものであった。誰もムクをと言うものもなかったのは、ムクを忘れたのではない、忘れねばこそというわけなんだろう。七兵衛は、今まであけなかった窓を開いて見ると、果して巨大なるムク犬が前面を過ぎて行くのを見ます。窓をあけられた途端にちょっとこっちを振返って挨拶をしたままで、また、のそりのそりと暗いところをあちらへ向けて歩んで行く、その
七兵衛はそれを見ると、
こうしてムクの歩み行く方向を見ると、暗い中でも物を見るに慣らされた眼が、ハッキリと、自分のこしらえた
今までこみ上げて来た感情のために、それがうつらなかった。人がいる、人がいる。先日来、大挙して騒々しく示威運動を海辺で試みていたのが、この二三日、ぱったり止まったのもおかしいと思った。見れば、自分が引いたその逆茂木の下を、幾多の人間が
おお、おお、一人や二人の人じゃない、ほとんど物蔭という物蔭には、みんな人がへばりついて忍んでいる。ああ、今晩、合図を待って、一度に攻め寄せる手筈になっているのだ。
それを
火の玉というよりほかはない、七兵衛は危なく身をかわしたけれども、火の玉は室内へ落ちてパッと燃えひろがりました。幸い、七兵衛は自分の身になんらの異常を覚えなかったから、その爆発した火を飛び越えて廊下へ出てしまいました。
この出来事を、興半ばなる一座の者を驚かせずして、駒井だけに注進するわけにはゆきませんでした。仰天する一座を一室にかたまらせて置いて、七兵衛は駒井を案内して、以前の爆発の場所へ連れて来ました。
そのあたりは、一面に
ズドーン
ズドーン
といっても、本来はコケおどしで、海岸で急に花火を揚げ出したまでのことですが、その花火も示威脅迫の音を含んでいることは
この分では、今夜こそ彼等は、焼打ちをはじめるかも知れない、こちらを焼打ちするくらいだから、船の方もあのままで置くはずがない、双方取囲まれてからでは遅いから、今のうち御一同は船へお引揚げなさい。
この連中を相手に応戦することの無益なのは勿論だから、七兵衛の提議で、こういうことになりました。殿様はじめ一同は、一刻も早く船へ避難なすった方がよい、あとのところは、私がどのようにでも引受ける。
今のうち、同勢にムクを護衛として船まで御避難なさる分には何でもない、あとは私が喰い止められるだけ喰い止めて、それから
再々申し上げる通り、私の方はどうにでもなります、うまくこいつらが退却すれば、ここに踏み止まって田山先生のお帰りを待って、あとからお船をお慕い申して、陸路をその奥州の石巻とやらまで
その辺は一切、御心配なく、どうか一刻も早くこの場を御避難下さるように。
七兵衛のいうところに理があるのみならず、こうして立ち話をしている間にも、寄手の人数が続々と増して来るのは明らかで、今までなるべく暗くしていたのが、爆竹のように焚火をはじめたかと思うと、また轟然たる響、大砲ではない、花火をまたしても打ち込んで、物置の裏あたりへ来て爆発させたもののようです。
同時に、今まで声を立てなかったムクの
まもなく、七兵衛の献策通り、ムクを先導に、駒井とマドロスとが前後に警衛となって、楽しい晩餐の席の女子供のすべてが、造船所へ向って闇の中を急ぐのを見ました。同時に、番所に踏み止まった七兵衛は、どういう
番所の中が一時に明るくなったと見ると、外の寄手は一時、鳴りを沈めていたようでしたが、やがて山の崩れるようなトキの声を一つあげました。
それと共にまた
おやおや、この部屋は田山先生のお部屋だな、ほかの部屋部屋は残りなく船の方へ移されているけれども、このお部屋だけはそっくりだ、失礼だが、たいして金目のものは無かりそうだが、お描きになったものがたくさんある、他人には分らないが、御当人にはずいぶん丹念な種本かも知れない、これを暴民共に滅茶滅茶にさせてはお気の毒だ、ひとつ
外では、大砲ではない花火の筒を横にしたのが、
二発、
三発、
轟々――
台所のあたり、たった今の晩餐の食堂のあたりも急に明るくなった。さあ、からめ手へ火が廻った。
七兵衛も、有合わす麻袋へ田山白雲の作物や画具を手当り次第に投げ込んで、それを荷って、もうこれまでと庭へ
「そうれ、魔物がいた、切支丹のマドロスが、袋を
七兵衛の姿を認めた寄手の叫び声。
「今、袋を背負った魔物が向うへ駈けて行った、早いのなんの、飛ぶように駈けて行った、船の方へ逃げたに違えねえ、それ、造船所へ押しかけろ、船をぶち壊して魔物を生捕れ! 一人も逃がさず、国賊に
口々におめき叫んで、造船所をめがけてなだれかかったのです。
「天誅!」
「切支丹バテレン!」
「国賊、毛唐、マドロス、ウスノロ!」
やがて、造船所の界隈が群集の暴動と焼打ちの的になりましたが、建物と違い、船は動くように出来てありました。
群集の
花火大砲も届かず、悪口雑言も響かぬところに、悠々として
二十三
郁太郎を背負うた与八が、大菩薩峠を越えたのはあれから三日目。峠の上には雪がありました。
ここには自分の建てた地蔵菩薩、その台座のあとさきに植えた
幼きものを
ここを下れば、もうその武蔵の国の山は見納めということになるのだ、と思えば尽きせぬ
「さあ、お地蔵様、お
与八は再び
「
自分の持って来た
姫の井の道、見返りがちなる大菩薩峠の辻――木の間枝のはずれから、いつまでも見えるあの笠。菩薩も笠を傾けて送り給うと見ゆる。
姫の井の道を、左に広やかなかやのを見て歩いて行くとまもなく大菩薩西の峠の萩原の小平。珍しやここにまだ新しい山小屋が一軒、その以前に見かけなかったものだが、猟師か、山番の小屋か、立寄って見ると締め切った入口に札がかけてある。
「長兵衛小屋
大菩薩峠ノ道ヲ通ル旅ノ人、往々魔風ニ苦シメラルルコトアリ、依ツテココニ茅屋ヲ造リ報謝ノ意ヲ表スルモノナリ、貴賤道俗トナク、叩イテ以テ一夜ノ主ナルコトヲ妨ゲズ
年月日
大菩薩峠ノ道ヲ通ル旅ノ人、往々魔風ニ苦シメラルルコトアリ、依ツテココニ茅屋ヲ造リ報謝ノ意ヲ表スルモノナリ、貴賤道俗トナク、叩イテ以テ一夜ノ主ナルコトヲ妨ゲズ
年月日
嶺麓 大藤村有志」


徊