お銀様は、竜之助を連れて江戸へ逃げることのために苦心していました。勝沼へ行くと言ったのも、おそらくは親戚の家を
こうして心ならずも小泉の家の世話になっているうちに、月を
雨もこう降っては、夜の雨という風流なものにはなりません。竜之助はただ雨の音ばかりを聞いているのだが、一歩外へ出ると、そのあたりの沢も小流れも水が
竜之助とお銀様との間は、なんだか無茶苦茶な間でありました。それは濃烈な恋であったかも知れないし、
今、お銀様に離るることしばし、こうして雨を聞いていると、竜之助の心もまた
その時に家の外で、急に人の声が
「危ねえ、土手が危ねえ」
という声。
「旦那様、笛吹川の土手も危ないそうでございます、
小泉の主人にこう言って注進に来たのは、
笛吹川はこれよりやや程遠いけれど、それへ落つる沢や小流れの水が、決して侮り難いものであることは、竜之助も推量しないわけではありません。
ことに山国の
「この水で、お銀は道を留められた、それで帰られないのじゃ、してみれば……」
と竜之助は、はじめてお銀様のことを思いやりました。
外の騒ぎはますます大きくなって、気のせいか、
しかしながら、外はドードーと雨が降っています。風はあまりないようでありましたけれど、どこかの山奥で、
その騒がしい声と、穏かならぬ光景とを聞いたり想像したりしてみても、
竜之助は雨戸を立て切って、また前のところへ帰りました。この出水も気になるし、お銀の帰りも気になるけれど、なんとも
けれども、外はその通りに騒がしいのに、今や全村の犬も鶏も声を揚げてなきだしました。人畜ともに寝ることのできない晩に、竜之助とても安々と眠るわけにはゆきません。ただ横になったというだけで、外の騒ぎを聞き流していようというのであります。
この東山梨というところは、言わば全体が笛吹川の谷であることは竜之助もよく知っていました。三面から
しかし、この時分になっては竜之助は、天災の来ることを怖れるよりは
「もし、お客様」
竜之助が眠った時分になって、誰やら家の外から叫びました。
「もし、お客様」
見舞に来るならば、もっと早く、まだ眠らない時分に来てくれたらよかりそうなものを、いくら
「あ、誰だ」
と、眠りかけていた竜之助は、その声で直ぐに呼び醒まされました。
「御用心なされませ、今夜はお危のうございます」
「危ないとは?」
「こんなに水が出て参りました、山水がドッと押し出すとお危のうございますから、本家の方へおいでなさいまし、お待ち申しておりまする」
「それは御苦労」
「どうか直ぐにおいで下さいまし」
と言い捨ててその者は行ってしまいました。よほどあわてていると見えて、家の外からこれだけの言葉をかけて、その返事もろくろく聞かないで取って返してしまいました。
竜之助はあえてその言葉に従って、本家の方へ避難をしようという気は起しませんでした。
不意に
「水だ!」
畳の上を水が
刀と脇差とを抱えて立ち上った時に、水は戸も障子も
あっという間もなくその水に押し倒された竜之助の姿を見ることができません。
山水の勢いは迅雷の勢いと同じことであります。あっという間に耳を蔽うの隙もありません。
裏の山からこの水を
「助けて!」
という悲鳴が起ると、
「おーい」
と答える声はあるけれど、どこで助けを呼んでどこで答えるのだか更にわかりません。
避難すべき人は宵のうちから避難し尽したはずであるのに、なお逃げおくれた者があると見えて、
そのなかの一つの屋根の
とにもかくにも屋根の棟へとりついた竜之助は、そこでホッと息をついて面を撫でてみたが、その
続け打ちに打つ半鐘の音は、相変らずけたたましく聞えるけれども、さきほどまで
その月の光に照らされたところによって見れば机竜之助は、屋根の棟にとりついたまま、さも心地よさそうに眠っていました。月の光に照らされた蒼白い
屋根は
一夜のうちに笛吹川の沿岸は海になってしまいました。家も流れる、大木も流れる、材木や家財道具までも濁流の中に漂うて流れて行くうちに、夜が明けました。
人畜にどのくらいの被害があったかはまだわかりません。救助や焚出しで両岸の村々は、ひきつづいて戦場のような有様であります。
恵林寺の慢心和尚は、
雲水どもは土地の百姓たちと力を併せて、濁流の岸へ
この時のムク犬は、もはやお寺へ逃げ込んだ時のように、
「和尚様、何か御用があったら及ばずながら私をお使い下さいまし」ムク犬は和尚に、自分の為すべきことの命令を待っているかのようでありました。
そのうちに何を認めたかこの犬は、岸に立って流れの或る処にじっと目を
堤防の普請にかかっていた慢心和尚をはじめ雲水や百姓たちが、
「あ、あの犬はどうした、この水の中へ泳ぎ出したわい」
さすがに働いていた者共も
ムクがこの場合、なんでこんな冒険をやり出したのだか、それは誰にも
草屋根の流れて行く方向へ斜めに、或る時は濁流の中にほとんど上半身を現わして、尾を振り立てて乗り切って行くのが見えました。或る時は全身が隠れて、首だけが水の上に見えました。また或る時は身体も首もことごとく水に溺れたかと思うと、またスックと大きな
ながめていた沿岸の人たちは、犬のことを中心にしてさまざまな評議です。あの犬は人を助けに行ったのだろうと言う者もありました。水を見て興を抑えることができないで、自ら飛び込んだものであろうという人もありました。いずれにしてもこの水の中へ飛び込むとは思慮のないこと、それが畜生の浅ましさ、あたら一匹の犬を殺してしまったというような話でありました。慢心和尚はその評判を聞きながら、こんなことを言いました。
「昔、
お前たちより犬の方が思慮もあり、勇気もあるから、心配するなというようにも聞えました。
それから三日目の朝のこと、笛吹川の
岸を
岸を上ってみたり、下ってみたりするこの女の挙動は、
「
「こんなものは
と言って、いったん懐ろへ入れた悪女大姉の位牌を、荒々しく懐中から取り出してそれを振り上げました。
「こんなものは要らない!」
お銀様は水の
「おや?」
驚いて振返ったお銀様は、
「見たような犬だ」
見たような犬も道理。いつのまにかお銀様の
お銀様はあの時、お君について駒井家に赴くべくわが家を去って以来、ムク犬の身の上は知りませんでした。
今ここに偶然めぐり会ってみると、不思議に堪えないながらも、さすがに懐しい心持が湧いて来ないでもありません。
「おや、お前はムクではないか」
と言った時に、ムクの後ろから少し離れた土手の上に、人の影が一つ見えることに、はじめて気がつきました。
お銀様にとってはついぞ見たことのない人、しかもそれは
「ムクや、ムクや」
その年増の女の人が、やさしい声をして犬を呼びました。果してこの犬の名をムクという。ムクの名を知っている上は、お君に縁ある人に違いない、と思っているうちに、その年増の女は土手を下って、お銀様に近い川の岸の
この年増の女、お銀様にはまだ
「ちょうど
ムク犬が
宇津木兵馬はどうしても、神尾主膳が机竜之助を隠しているとしか思われません。
神尾の屋敷は種々雑多な人が集まるそうだから、そのなかに机竜之助も隠れているに相違ないと信じていました。
けれども、甲府における兵馬は、破牢の人であります。罪のあるとないとに拘らず、うかとはその町の中へ足の踏み込めない人になっているから、長禅寺を足がかりにして、僧の姿をして夜な夜な神尾の本邸と別宅との両方に心を配って、つけ
まず見つけ次第に神尾主膳を取って押えて、
よし、その医者をひとつ当ってみよう。兵馬は例の
「お願いでございます、神尾の殿様」
「お願いでございます」
と彼等は口々に
「
門番はこう言って叱りつけると、
「どうか、殿様にお目にかかりてえんでございます、殿様にお目にかかって、その申しわけがお聞き申してえんでございます」
「聞分けのない者共だ、
「そんなことをおっしゃらずに、殿様に取次いでおくんなさいまし、その御返事を聞かなければ帰れねえのでございます、御病気でも、お口くらいはお
「そのような者は御主人は御存じがない、ほかを探してみるがよい」
「駄目でございます、ほかを探したって、ほかにいるはずのもんでごぜえません、こちらの殿様にお頼まれ申して参りましたのが、今日で二十日になるけれども、まだ帰って参らねえのでございます」
「左様なことはこちらの知ったことではない、それしきのことに、
「こちら様の方では、それしきのことでございましょうが、私共の方にはなかなかの大事でごぜえます、長吉にも長太にも、女房もあれば子供もあるでごぜえます、亭主を亡くなした女房子供が、泣いているのでございます」
「くどいやつらじゃ、左様なことは当屋敷の知ったことではないと申すに」
「お前様にはわからねえでごぜえます、殿様でなければわからねえでごぜえます、殿様にお目にかかって、長吉の野郎と長太の野郎が、生きているのか死んでしまったのか、そこんところをお伺い申してえんでございます」
「黙れ、
「黙らねえでございます、穢多非人で結構でございます、穢多非人だからといって、そう人の命を取っていいわけのものではごぜえますめえ、長吉、長太は犬を殺すのが商売でございます、それで頼まれて来たもんでございます、殿様に殺されに来たもんではねえのでございます」
「御主人に対して無礼なことを申すと、奉行に引渡すぞ」
「引渡されて結構でごぜえます、眼のあいたお奉行様にお
「よし、一人残らず
「おい、みんな、一人残らず引括りなさるとよ、ずいぶん引括っておもらい申すべえじゃねえか」
「そうだ、そうだ、引括られるもんなら、みんな一度に引括っておもらい申してえもんだ」
「引括られるとしても、
「その方がいい、そうしているうちには殿様が出て来て、長吉、長太を返しておくんなさらねえものでもあるめえ。さあ、みんな、一度に引括られてみようではねえか」
「こいつら、
門の中から、
その時代において、人間の部類から除外されていた種族の人に、四民のいちばん上へ立つように教えられていた武士たる者が、こんなにしてその門前で騒がれることは、あるまじきことであります。非常を過ぎた非常であります。兵馬はそれを見て、よくよくのことでなければならないと思いました。この部類の人々をかくまでに怒らせるに至った神尾の仕事に、たしかに、大きな乱暴があるものだと想像しないわけにはゆきません。
見物のなかの噂によると、事実はこうだそうです。すなわち神尾主膳がこの部落のうちで
穢多非人の分際として、
「あれでは、ここの殿様が無理だ、穢多が怒るのが道理だ」
というように聞えるのであります。聞いていた兵馬も、なるほどそう言えばそうだ、たかが犬一疋のために、二人の人間を殺すとは心なき
そのうちにバラバラと石が降りはじめました。メリメリと長屋塀の一部や、門の扉が打壊されはじめたようであります。
「始まったな――」
そのうちに、
穢多のうちには、切られたものも二人や三人ではないらしい。さすがに白刃を見ると彼等は
ともかく、この場の騒動はこれだけで一段落を告げましたけれど、彼等の恨みがこれだけで鎮まるべしとも思えず、神尾の方でもまた、いわゆる穢多非人
その翌日、聞いてみると、果して昨夜の納まりは容易ならぬことでありました。なんでも、いったん神尾の門前を引上げた彼等の群れは荒川の岸に集まって、
それだけの評判が長禅寺の境内までも聞えたから兵馬は、また急いで例の姿をして町の中へ立ち出でました。
右の風聞のなお一層くわしきことを知ろうとして町へ出てみると、町では三人寄ればこの話であります。それを聞き
神尾の門前を引上げた彼等が集まっていたのは、下飯田村の八幡社のあたりと言うことであったということで、そこへ踏み込まれて、ピシピシと縄をかけられた数は二十人という者もあるし、三十人というものもあり、或いは百人にも余るなんぞと話している者もありました。
その縄をかけられた者共の処分について、ずいぶん烈しい
兵馬が何心なく通りかかったのは、例の折助どもを得意とする酒場の前であります。この夜もまた、恋の勝利者だの、賭博の勝利者だのが集まって、
それを後ろから兵馬が見ると、なんとなく見たことのあるような男だ、鼻唄の声までが聞いたことのあるように思われてならぬ。
「はッ、はッ、はッ、何が
その途端に、兵馬はようやく感づきました。これはいつぞや竜王へ行く時、畑の中の木の上で、犬に
その男の名前も金助と呼ぶことまで兵馬は覚えていました。この男を捉まえてみると面白かろう。
「金助どの」
「おや、どなたでございます」
振返って金助は、怪しい眼を闇の中に光らせました。
「
兵馬が、わざと名乗らないでなれなれしく傍へ寄ると、
「ああ、鈴木様の御次男様でございましたね、徽典館へおいでになるのでございますか、たいそう御勉強でございますね、お若いうちは御勉強をなさらなくてはいけません」
金助は
「金助どの、昨夜の火事は驚いたでござろうな」
「驚きましたにもなんにも、あんなところへ赤い風が吹いて来ようとは思いませんからな」
「お前の家には、別に怪我もなかったか」
「へえ、有難うございます、私の家なんぞには怪我なんぞはございません、よし怪我があってみたところで、私なんぞは知ったことじゃあございません」
「それは何しろよかった」
「鈴木様の御次男様、いや辰一郎様でございましたね。なんでございますか、あの徽典館は昨夜の火事で、屋根へ飛火があってお家が大層いたんでおいでなさるそうでございますが、それでも今晩、学問がおありなさるのでございますか」
「大した
「それは結構でございます、お若いうちは御勉強をなさらなくてはなりません、私共みたようになっては追付きませんからな。ただいま何を御勉強でございます、論語でございますか、孟子でいらっしゃいますか、
「金助どの」
「はい」
「お前は、これからどこへ行く」
「私でございますか、私はこれから少しばかり淋しいところへ行くのでございます、淋しいところと言ったからとて、別に幽霊やお化けの出るところではございません、
「左様か」
金助は言わでものことまで言ってしまいました。兵馬は計らず都合のよいことを聞いてしまいました。
「ねえ鈴木様の御次男様、
金助は同じようなことを繰返しました。
「驚いたとも」
「私も驚きましたよ、まさか、あすこへ、あれほど思い切って赤い風が吹こうとは思いませんからね」
「金助どの、あれは一体、
「放火……いや御冗談をおっしゃっちゃいけません、この御城下の、しかも当時飛ぶ鳥を落すほどの神尾主膳様のお邸へ、どこの奴が放火をするもんですか、そそう火にきまってますよ、誰が何と言ったって、そそう火でございます、放火だなんという奴があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「それはそうであろう。して、神尾殿や御一族はいずれに避難をしていらっしゃる」
「神尾様のお立退き先でございますか、それはわかりませんね、よしわかっていても、そればっかりは申し上げられませんね、それを知っているのは大方、この金助ぐれえのもので……おっと危ねえ、そりゃ嘘でございます、神尾の殿様は躑躅ヶ崎のお下屋敷へお立退きでございますよ、ええええ、御無事でいらっしゃいますとも、お怪我なんどはちっともおありなさりゃしません、もしお怪我があるという者があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「
「それはそうでございましょう、躑躅ヶ崎においでになることはおいでになるに違いないのでございますがね、当分はどなたにも決してお目にかかることはございません。それは御病気なんですよ、前から御病気でもって休んでおいでになったのでございます、この御病気がお
「金助どの、それをお前がどうして知っている」
「どうして知っているとおっしゃったって、そこはこの金助でなければわからないのでございます、そこが金助の
酔っているとは言いながら、この金助の言うことは何か心得面でありました。だから兵馬はいよいよ好い
「ところで金助どの、お前に折入って頼みたいのだが、特別に拙者だけを神尾殿に引合せてくれまいか、内々で、ぜひともお話を申し上げねばならぬことがあるのじゃ」
「へえ、それはまた、どういうことでございましょう。しかし、それはせっかくでございますが、どうもそのお頼みばかりは駄目でございますよ、エエ、そりゃもう」
「左様なことを言わずに会わしてくれ」
「会わしてくれとおっしゃったところで、いねえ者はお会わせ申すことはできねえではございませんか」
「ナニ、神尾殿はおらぬと? では、躑躅ヶ崎においでになるというのは嘘か」
「エエ、なんでございます」
「今、お前は、神尾殿は躑躅ヶ崎の下屋敷に立退いておいでになると言ったではないか」
「そう申しましたよ」
「そんならば、拙者は会いたいのじゃ、会って
「なるほど」
「さあ、お前が躑躅ヶ崎へ行くというなら、拙者も
「そいつは困りましたな、そんな駄々をこねて下すっては困ります、お帰りなさいまし、ここからお帰りなすっておくんなさいまし」
「金助!」
兵馬は金助の手首を取って、グッと引き寄せました。
兵馬に強く手首を取られたものだから、金助は
「ナナ、何をなさるんで」
「拙者を躑躅ヶ崎まで連れて行ってくれ」
「そりゃいけません」
「なぜいかんのだ」
「そりゃいけません」
「神尾主膳殿に会いたいのだ」
こう言って引き寄せた兵馬の言葉が、あまりに鋭かったから金助もやや
「おやおや、お前様は、私をどうしようと言うんで。おや、お前様は鈴木様の御次男様ではねえのだな」
「金助、ほかに見覚えはないか」
「知らねえ」
「よく考えてみろ」
「何だか知らねえけれど、放しておくんなせえ、放さねえと為めになりませんぜ、それこそお怪我をなさいますぜ」
金助が振り切ろうとするのを兵馬は、地上へ難なく取って押えました。
「金助」
「ア痛い、この野郎、ふざけやがって、
「金助、痛いか」
「痛ッ!」
「いつぞや、竜王へ行く途中、貴様が犬に追われて、木の上へ登っていたのを助けてやったその時のことを忘れたか」
「エ、エ!」
「その時のが拙者じゃ、鈴木の次男とやらでもなんでもない」
「ア、左様でございましたか、その時は、どうも飛んだお世話さまになりました、そういうこととは存じませんものでございますから失礼を致しました、どうかお放しなすって下さいまし、痛くてたまらねえんでございますから」
「金助、お前は神尾家の様子をよく知っているようじゃ、拙者はそれをよく聞きたいのじゃ、包まず話してくれ」
「へえ、知っているだけのことはお話し申しますから、ここを放していただきてえんでございます」
「こうしているうちに話せ、神尾主膳殿は
「へえ、それは……躑躅ヶ崎においでのはずでございますが……」
「いるならば、これから直ぐに拙者を案内致せ」
「どうも、そういうわけには参りませんで……」
「いやいや、貴様の口ぶりによれば、神尾家の内状をよく知っているらしい、隠し立てをすればこうじゃ」
兵馬は上にのしかかって、金助をギュウギュウ言わせます。
「ア、痛ッ、
「早く言ってしまえば、無事に放してやる、言わなければ命を取る」
「あ、申し上げます、実はその神尾の殿様は、躑躅ヶ崎においでなさるんではねえのでございます」
「それではどこにおられるのじゃ」
「それがその……」
「真直ぐに言ってしまえ」
「ア、痛ッ、ではお前様に限って申し上げてしまいます、神尾の殿様は
「それは本当か」
「本当でございますとも。けれども神尾の殿様ともあるべきお方が、
金助の白状は
けれども、それは兵馬が
「そういうわけでございますからね、私共は実は
金助はようやく起してもらって、こんな愚痴を言いました。
「お前は今、どこに奉公しているのだ」
「私でございますか、私は今はどこといって奉公をしているわけではねえのでございます、神尾の殿様のお出入りで、どうやらこうして
「どうだ、その躑躅ヶ崎の屋敷とやらへ、拙者を案内してくれないか」
「そりゃよろしうございますけれど、お前様はいったいどちらのお方で、何のためにそんなに神尾様のことをお聞きになるんでございます」
「そんなことは尋ねなくともよい、今晩は拙者をその躑躅ヶ崎へ案内して、お前の寝るところへ泊めてもらいたい」
「そりゃ差支えはございませんがね、なんだか気味が悪いようでございますね」
兵馬はこうして金助を
してみれば机竜之助は、すでにこの甲府の土地にはいないらしい。眼の不自由な彼が、それほど敏捷にところを変え得るはずがない。と言って神尾が
「あ! あの女が世話をして、また江戸へ落してやったのだろう」
それに違いない。ハタと膝を打ったけれども、そのお絹という女も主膳と一緒に、穢多の仲間に
兵馬は茫々然としてその夜は長禅寺へ帰ったけれど、こうなってみると、ここにも
表面は病気で
そのうちに、神尾主膳は病気保養お暇というようなことで、江戸へ帰るという
駒井能登守の屋敷あとには草がいや高く生え、神尾主膳の焼け跡ではまだ煙が
「神尾の屋敷もああしたものだろうよ」
若い方が言いました。
「ああしたものだろう」
やや年とった方が答えました。
「駒井能登守の方は、滝の川でともかくも落着きを確めたが、神尾主膳はどうしてるんだ」
「病気でお暇を願って、江戸へ帰ったということだ」
「そいつは
「それも裏の裏で、おれが思うには、まだ裏があると思うんだ」
「してみると神尾は江戸へも帰らず、穢多にも捉まらずに、無事にどこかに隠れているとでも言うのか」
「そうよ、あいつはどう見ても、穢多に
「なるほど、そういえばそんなものだが、それにしちゃあ狂言の書き方が
「どのみち、あの大将も破れかぶれだから、トテも上品な狂言を
「ふむ、そうすると病気も穢多も、みんな狂言の種かい」
「あの火事までが狂言だとこう
「なるほど」
「火をつけて罪は奴等へなすりつけておいて、帳尻の合わねえところは焼いてしまった……おいおい、向うから役人みたようなのが来るぜ、気をつけなくっちゃあいけねえ」
道を
この二人は何のために、また甲府までやって来たのだろう。ここには駒井能登守もいないし、神尾主膳もいなくなったし、宇津木兵馬も、机竜之助も、お松も、お君も、米友も、ムク犬も去ってしまったのに、なお何かの執着があって来たものと見なければなりません。
いつぞや持ち出した安綱の刀、それをどこぞへ隠しておいたのを、取り出しに来たものかと思えば、そうでもなく、二人はその足で直ぐに甲府を西へ突き抜けてしまいました。
それから例の早い足で瞬く間に甲信の国境まで来てしまい、山口のお関所というのは、別に手形いらずに通ることができて、信州の
いつ、どうして木曾を通ったか、
この二人が徳川へ
「兄貴、上方には
まだ宿へ着かない先に、町の中でがんりきがこんなことを言いながら、町を通る京女の姿を見廻しました。
「この野郎、よくよく
七兵衛は、こう言って
この二人が京都へ入り込んだのと前後して、甲州から江戸へ下るらしい宇津木兵馬の旅装を見ることになりました。
恵林寺へも
この
兵馬は翌朝、宿を出て笹子峠へかかると、金助が、
「これから私も心を入れ替えてずいぶん忠義を尽しますよ、お前様もこれからズンズン御出世をなさいまし。まあ、私が考えるのに、これからは学問でなくちゃいけませんな、お前様は腕前はお出来になって結構でございます、学問の方も御如才はございますまいが、学問も、どうやら今までの四角な学問よりも、横の方へ読んで行く
金助は、よくこんな巧者な話をしたがります。そうして
「私なんぞは、もう駄目でございます、これでも小さい時分から学問は好きには好きでございました、けれどもほかの道楽も好きには好きでございました、親譲りの
金助は、ぺらぺらと兵馬の前も
これから心を入れ換えて忠義を尽しますという口の下から、もういい気になって吉原の話であります。
兵馬がそれを黙って聞いていると、金助は自分の放蕩した時代のことを、得意になって喋り立てました。その揚句に、
「あなた様は吉原へおいでになったことがございますか、
「まだ行ったことはない」
「では、一度お
「そんな譬えは聞いたことがない」
「一度は見物にいらっしゃいまし、私は江戸へ着きまして、この荷物を宿へ置いたらその足で、吉原へ行ってみるつもりでございます。こんなことを申し上げると、いかにも馬鹿野郎のようでございますけれど、正直のところ、私共なんぞはそれでございますよ、行く末、英雄豪傑になれるというわけのものではなし、また大した金持になれようという見込みもあるのじゃあございませんですから、いいかげんのところでごまかしてしまうんでございますよ。何楽しみにこの世に永らえているんでございましょう。ただ残念なことには
兵馬は聞いているうちに、この野郎がかなりくだらない野郎であると思いました。けれどもこんなことを言い言い、自分の心を引いたり目つきを見たりする挙動に、多少、油断のならないところもあるように思いながら、
「金助、お前が、あの神尾主膳の
「それはなかなか大役でございますねえ」
金助はわざとらしく
「しかし、あの神尾の殿様は、さすがに苦労をなすったお方だけに、届くところはなかなか届くんでございますから、あそこのところだけは感心でございますがね、あれがまあ、苦労人の
「苦労したというのはどういうことなのだ」
「どうしてあの方は、なかなか遊んだお方でございますよ」
「苦労したとは、遊んだということか」
「そうあなた様のように
「神尾主膳という人は、そんなによく物のわかる人か」
「それは人によっては、随分悪く言う者もございますけれど、私なんぞに言わせると、よく分った殿様でございますね、何かというと手首をギュウと取ったり、首筋をグウと押えたりして白状しろなんぞと、そんな
「なるほど」
兵馬は苦笑いをしました。
「そのくらいですから
その後暫くあって、染井の
「ああ、
酒屋の御用聞の小僧なんぞが早くも気がつきました。
地所が広く、家が大きく、そうして人の住みてのないところは化物屋敷になる。化物が出ても出なくても、化物屋敷であります。どうしても化物が出なければ、人間の口が寄って
先代の殿様が、
「小僧、酒屋の小僧」
「へえ」
「あ、お化け……」
と言って立ち
「明日から酒を持って来い、一升ずつ、上等のやつを」
「へえ、
御用聞の小僧は丸くなって駈け出して、駒込七軒町の主人の店まで
「大変……化物が酒を飲みたいってやがらあ」
唇の色まで変っていたから、番頭や
「どうしたんだ、どうしたんだ」
「あの化物屋敷で、明日から一升ずつ、上等のお酒の御用を
「化物屋敷でお酒の御用?」
次に廻るべき小僧が再び確めに行った時に、ほぼその要領を得て帰りました。それは化物屋敷ではあるけれども、酒の御用を言いつけたは化物ではない。前に言いつけたことが確かであるように、再び念を押しに行った時も、確かに注文したに相違ないのであります。
しかも最初に御用を言いつけたのは、
「毎度有難うございます……」
と言って酒をそこへ置くと、
「どうも御苦労さま、それから明日はお
というような注文が台所のなかから聞えて、それは女ではあるけれども、さっぱり面を見せないのが変だといえば変であります。売掛けもどうかと思って、その月の
この屋敷の一間で庭をながめながら、晩酌を試みているのは化物でもなんでもない、
それと、面白いことは、神尾の前に晩酌のお相手をしているのが、勝沼の宿屋にいた、もとの両国の
「お角、お前はそんなに金が欲しいのか」
神尾は盃を置いて、お角の
「
「それは御同前だ」
と言って、神尾は苦笑いをしました。
「殿様などは失礼ながら、お金をお持たせ申せば、直ぐに使っておしまいなさるけれども、わたしなんぞはそうではございません、それを
「全く頼もしい、お前に金を持たせれば、何か一仕事やるだろう、そこは拙者も見ているけれど、残念ながら金は無い、拙者は金がない上に、世間に
「それでございますからね、わたしが少し
「してその資本の工面がつけば、何をしてみようというのじゃ」
「それは、やはり
お角が、もとの仕事に充分の自信と未練を持っての話を、主膳は首を
「
「お心あたりがございますなら、ぜひ伺いたいものでございます」
「
と言って主膳は、荒れた庭のあちらに、大きな土蔵の鉢巻のあたりの
主膳は化物と言って、土蔵を見ながら、
「は、は、は」
と笑いました。
「いけません」
お角は自分の口を袖で押えながら、主膳を叱るように言いました。
「聞えやせぬよ、大丈夫」
「御前が左様なことをおっしゃるのは、お悪うございます」
「もう言わん。しかし、お前が言わせるように仕向けるから、つい口が
と主膳は申しわけのような前置をつけて、それからこんなことを言いました、
「あれはお前も知っているかどうか知らん、あの実家はすばらしい物持で、田地も金も
「そんなことはできません、わたしはそれほどに計略をしてまでお金を借りたいとは思いません、よし借りられるものにしましても、もう二度と甲州の山の中なんぞへ、入ってみようという気にはなりませんから」
「いや、甲州の山が宝の山なのじゃ、全く以てあの女の実家というものの富は、測り知ることができないほどじゃ、惜しいものよ、あれをあのまま寝かしておくのは」
「心がらでございますね、いくらおすすめ申しても、お家へお帰りなさるお心持になれないのでございますから」
「家へは帰られないわけもあるが、ああ
「わたしは、あれこそ何かの
「因縁かも知れん。このごろ、拙者もあの女の
「あのお嬢様は、たしかに御前を恨んでおいでになります、御前とお面をお合わせになると、きっと横を向いておしまいになりますけれど、御前のお後ろ姿や、
「それは大きに、そうありそうなことじゃ、ずいぶん恨まれていい筋がある。思えばこの屋敷は化物屋敷に違いない、この神尾主膳と、あの藤原の娘のお銀とが落ち合って、睨み合っているのさえ
こう言って神尾主膳の眼が、怪しく輝きました。
神尾主膳の眼が怪しく輝いたのを、お角は変だとは思いました。しかし、この女は主膳に、怖るべき酒乱のあることを知ってはいませんでした。主膳もまた、ここへ来てから、酒乱になるほどには酒を飲んでいませんでした。
「化物屋敷なんて、そんなことがありますものか」
お角は、主膳の怪しい眼つきを見ながら、そのいやな言葉を打消します。
「
と言っている時に、不意に、裏手の車井戸がキリキリと鳴りました。その音を聞くと、神尾主膳が急に
「誰か井戸で水を汲んでるな」
「左様でございますね」
「水を汲んじゃいかんと言え」
「それでも、御前」
「いや、水を汲んじゃいかん、拙者はあの車井戸の音が大嫌いだ」
「おおかた、お嬢様が水を汲んでいらっしゃるのでございましょう」
お角も、車井戸で水を汲んでいる者があることを気がついていました。車井戸の音が嫌いだという神尾の心理状態を、怪しまないわけにはゆかないが、これも酒の上での
それにも
「まだ水を汲んでいる奴がある、早く行って差止めてしまえ」
「水を汲んでは悪いのでございますか」
「水を汲んで悪いとは言わん、車井戸を鳴らしてはいかんのじゃ」
「それでも、車を鳴らさずに、あの井戸の水を汲むわけには参りますまい」
「
「それは御前の御無理でございます、何か御用があるからそれで、水をお汲みなさるんでございましょう、御前をおいやがらせ申すために、水を汲んでいらっしゃるのではござんすまい」
「あれ、まだよさんな。よし、拙者が行って止めて来る」
神尾主膳は刀を提げて立ち上りました。その心持も挙動も、酒の上と見るよりほかには、お角には解釈の仕様がありません。
「まあ、お待ちあそばせ」
お角は主膳を
化物屋敷へ人が住むようになったけれども、この庭まではまだ手入れが届いていません。
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
井戸端にいる人は返事をしませんでした。主膳は
「そこで
こう言われたけれども井戸端では、やはり返事がありません。たしかに人はいるにはいるのです。それも白い
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
しつこく繰返して井戸端へ寄った神尾主膳、酔眼をみはって、
「お銀どのではないか」
それはお銀様でありました。お銀様は
「洗濯をなさるか、可愛い人へ、お心づくしのために」
主膳はお銀様の
「はッ、はッ、はッ」
と声高く笑いました。その笑い声を聞くと、お銀様は井戸縄へ手をかけたままで、じっと神尾主膳の
「
お銀様の持っている井戸縄を、片手でもって主膳は横の方から引ったくりました。
「何をなさる」
お銀様は強い声でありました。
「は、は、は」
神尾の笑い方は尋常の笑い方ではありません。その笑い方を聞くとお銀様はブルブルと身を慄わせ、
「幸内の
思わずこう言って歯を噛むと、
「ナニ、幸内の敵がどうした、たかが馬を引張る雇人の命、この神尾が手にかけてやったのを過分と心得ろ、敵呼ばわりがおかしい、あッははは」
「ああ、
「何が口惜しい。なるほど、幸内は拙者の手にかけて亡き者にしてやった、お前の好きな幸内は拙者のためにならぬ故、亡き者にしたけれど、その代り、お前には別に好きな人を授けてやったはず」
「ああ、幸内がかわいそうだ」
お銀様は火を吐くような息を吐き、神尾の手から井戸縄を奪い取って、力を極めて車井戸を
「
神尾主膳は再びその井戸縄を奪い返そうとして、流しの板の上によろよろとよろめきます。それには頓着なく水を汲み上げたお銀様は、今、流しの板から起き上ろうとする神尾主膳の姿を見ると、むらむらと
「エエ、どうしようか」
汲み上げた水を
「やあ、慮外の振舞」
慌てて起き上ろうとするところを、お銀様は
「ああ、かさねがさね」
主膳がようやく起き上った時は刀を抜いていました。その時に後ろから、
「御前、お危のうございます」
抱き留めたのはお角。お銀様はこの時、もう土蔵の中へ入ってしまいました。
お角に抱き留められた神尾主膳は、例の酒乱が
「あははは、拙者が悪かった」
と言って、ぐんにゃりと
「ズブ濡れだ、いやはや」
主膳としてはあまりに人のよい態度で、土蔵の前へよろよろと歩いて行き、土蔵の戸前から中を覗き込んで、
「机氏、机氏」
と二声ばかり呼びました。
土蔵の二階では、何かひそひそと話をしていたらしいのが、はたと止まって、真暗でそうして静かで、何とも返事はありません。
「こんな
「いま行く」
二階では、帯を締め直すような音がしました。
「拙者は水を浴びせられた、それでこの通り五体びっしょりになってしまった、衣裳を替えて待っているから直ぐに出て来さっしゃいよ、酒もあり
主膳はこう言い残して、またよろよろともとの座敷の方へ取って返します。
ほどなく土蔵から下りて来た机竜之助は、
びっしょりになった浴衣を着換えた神尾主膳もまた、同じように生平の
「暑いな」
竜之助が言うと、
「なかなか
主膳は答えながら、竜之助の手を取って座敷へ
「まず、
ここで二人は水入らずの
「何か面白いことをして遊びたいものだな」
と言いました。
「左様、面白いことをして遊びたい」
竜之助もまた同じようなことを言って
「ここの屋敷内には、女が三人いて男が二人」
神尾は謎のようなことを言いました。
それに返答もせずに竜之助は、酒を飲んでいました。
「やれやれ、月が出たそうな」
なるほど、木の間から月の光が洩れて、庭へ射し込んで来るようであります。
「いい風が来る」
月の上る方を見ていた神尾主膳が、急に何か思いついたように坐りかけて、
「机氏、机氏、ちと思いついたことがある、耳寄りな話」
と言って机竜之助の耳のあたりへ
「さあ、これから直ぐに出かけよう」
「よろしい」
何を思いついたのか、二人はその場で話がきまったらしく、主膳の方は急にそわそわと
それから暫くたつと、吉原の引手茶屋の相模屋というのへ二挺の
「これはお珍らしい、神尾の御前」
と相模屋の
「神尾ではない、
と
それにひきつづいて机竜之助が、手さぐりにして駕籠を出ようとすると、神尾は自分の眼を指さしながら、
「ここが悪い、手を引いてやってくれ」
「
主膳は先に立ち、竜之助は女に手を引かれて茶屋へ通りました。
「今時分、思い出したように神尾の御前がお出ましになるのはどうしたものだろう、御前は甲府お勝手へお廻りになったと聞いたが……」
ちょうどこの時分に、水道尻の
「ちょッ、詰らねえな、俺たちはああして、茶屋から
金助はこんなことを言いながら、
「おやおや、ありゃあ、たしかに見たことのあるお侍だ、俺の見た目に曇りはねえはずだが、もう一ぺん見直し……」
二三間立戻って、いま箱提灯に送られて茶屋を出た、二人連れの
「そうれ見ろ、間違いっこなし、見覚えのあるも道理、神尾の殿様があれだ、あれが甲府で鳴らした神尾の殿様だ。もし……」
金助は後ろから呼び留めようと、
「向うも身分があらっしゃるから、うっかり言葉をかけて
金助は
「無礼者」
「御免下さいまし」
危なくそれを避けて、今度は天水桶に突き当ろうとして、それも危なく身をかわし、見え隠れに神尾主膳と覚しき人のあとを追って行きました。
神尾主膳と机竜之助とが、万字楼の
「もし、殿様、躑躅ヶ崎の御前」
金助がこう言って横の方から呼びかけたので、神尾主膳が振向きました。
「金助……」
「へえ、金助でございます、殿様、どうもお珍らしいところで、エヘヘヘヘヘ」
「貴様もこっちに来ているのか」
「へえ、流れ流れて、またお江戸の
「いいところで会った、貴様もこの店に
「どう致しまして、ここは私共の入るところではございません、こんなところへ入りますと
「よし、好きなところで遊んで来い、そうして暇を見てここへ話しに来るがよい」
主膳は紙に包んで
「これこれ、こう来なくっちゃあならねえのだ」
という面をして、お礼の文句を繰返しながら、暇乞いをしてひとまず別れました。天水桶のあたりへ再びうろついて来て、いま神尾主膳から貰った紙包を開いて見ると、
「一両! 占めた」
と言って通りがかりの人を驚かせました。金助は一両の金にありついて、
「待て待て、運の向いて来る時にはトントン拍子に向って来るものだ、ここで金の
と言って、万字屋の方を見ながらニヤリと笑いました。このとき金助の心持は、今までの小成金気分の酔いから、すっかり
「今、さるところで神尾の殿様に会って一両いただきました、とこう言えば、あちらでも一両
金助は、ここでからりと心持が変って、
その晩、宇津木兵馬は不意に、金助が尋ねて来たという案内で、何事かと思うと、
「夜分、こんなにおそく上って済みません。いや、驚きましたね、まだお休みにならず、ちゃんと
言わでもの
「まことに穏かならぬことが出来ましたから、それで
と言って金助は、吉原で見た神尾主膳のことを遠廻しに話した上に、神尾から心づけを貰ったことの暗示をして、兵馬から
「しかし、宇津木様、そうお急ぎにならずともよろしうございます、あの里へお入りになったものが、
「これでよい、何も忘れ物はない」
「左様でもございましょうが、ほかへ参るのと違いまして、あの里へ参るんでございますから、御用心の上に御用心が
遠廻しに言うけれども、やはり、その帰するところは同じようなことであります。
「なるほど」
兵馬は、それを
「何しろ、先方様は
金助からそう言われて、兵馬はハタと当惑しました。兵馬の懐中にはその当座の
「それもそういうものか知らん、暫く待っていてくれ」
何を考えたか、兵馬はこの一刻を急ぐ場合に、金助を一人そこへ残してこの間を立去りました。
兵馬は老女の許しを得て、お松を廊下に呼び出して、
「お松どの、まことに申し兼ねるが無心がある……」
廊下で立ちながら、苦しそうにこう言いました。
「何でございます、兵馬さん」
お松は心配そうに兵馬の
「申しにくいことだけれども……」
兵馬は二度まで苦しそうに前置をして、
「急にさしせまった
兵馬から苦しそうにこう言われて、お松はかえって安心した様子であります。安心したのみならず、兵馬からこんな無心を言いかけられたことを、かえって嬉しく思うように見えました。
「わたしの持っているだけで、御用に立ちますならば……」
「それが大金というほどではないけれど、差当り少しばかり余分に欲しいのじゃ、二十両ほど」
「二十両」
お松は繰返して、これも当惑の色が現われました。
「わたしの持っているのが、今、十両ほどありますけれど……」
「
「どうしましょうね。わたしのを差上げてまだ、大へんに足りないんでございますね、困りました」
お松はせっかくの兵馬の無心を、充分に満足させることのできぬのを、ひとかたならず
「ともかく、それだけを借用したい、あとはまた何とか工夫するから……」
「お待ちなさいませ」
お松は自分の部屋へ取って返して、紙入れに入れたままを兵馬の手に渡しながら、
「あとは、あの、わたしから御老女様へお願い申してみましょうか」
「御老女へ……それはいかん」
兵馬は頭を振りました。
「でも、急なお
「しかし、この金の入用な筋道は、御老女様には話せない」
「いったい、何に御入用なんでございます」
「実はそなたの前で言うのも恥かしいが、これから吉原まで行かねばなりませぬ」
「まあ、吉原へ、あんなところへ、これから?」
と言ってお松も、さすがに
「どういうわけか存じませんが、あなた様が、今時分、あの里までお出かけにならなければならないのは、定めて大事の御用と存じます、お金のお入用も一層大事のことと思いますから、吉原というようなことや、あなた様のことなんぞは少しも知らないようにして、御老女様から融通を願って参ります、他からお借り申すのと違って、御老女様からお借り申す分には、恥にも外聞にもなりは致しませぬ」
「それが困るのじゃ、吉原へ用向きというのはほかではない、そなたの以前
「まあ、神尾の殿様が?」
「知らせて来てくれたものの話には、神尾殿は茶屋から上って
「そうでございましたか。そうでございましょうとも。そういう場合ならば、充分の御用意をなすっていらっしゃらなければ、殿方のお
「それは堅くお断わり申す、事情はどうあろうとも、吉原へ行くために金を借りたということが後でわかると、御老女にも面目ない」
「兵馬さん、少しお待ち下さいませ、お手間は取らせませぬ、わたし、よいことを考えつきましたから」
お松はこう言って兵馬を引留めておきながら、廊下をバタバタと駆け込んだところはお君の部屋でありました。
お松はよいところへ気がつきました。お君の部屋へ飛んで行って手短かに、金の融通を頼むとお君は、なんの苦もなく二十両を用立ててくれました。
両女の分を合せて三十両を借受けた宇津木兵馬は、それを懐中して、いざとばかりに金助を促してこの家を立ち出で、飛ぶが如くに吉原へ駕籠を向けました。
「お松さん」
そのあとでお君は、何か心がかりがありそうにお松を呼び、
「そういうわけならば心配することはないようだけれど、なんだかわたしは気にかかってなりませぬ、御老女様には申し上げてはいけないと兵馬さんはおっしゃったそうですけれど、南条様や五十嵐様に御相談申し上げて、御様子を見に行っていただいたらどうでしょう」
お君から勧められて、お松もその気になりました。
「おいおい、芸州広島の大守、四十二万六千石、浅野様のお下屋敷へ、
籠抜けの伊八は、商売道具の長さが六尺、口が一尺余りの籠を、右の小腕にかかえ込んで、誰をあてともなくこう言い出すと、
「芸州広島の大守、四十二万六千石、有難え、そいつは
横になって寝ていた丹波の国から生捕りました荒熊が答えると、
「お前じゃあ駄目だ」
籠抜けの伊八は、言下に荒熊を忌避しました。
およそ大道芸人のうちでも、丹波の国から生捕りました荒熊の如き無芸で殺風景なものはない。自分の身体を墨で塗り、荒縄で鉢巻をし、細い竹の棒を手に持って、人の
「ヘエ、丹波の国から生捕りました荒熊でございッ、ひとつ、鳴いてお目にかける、ブルル、ブルル、ブルル」
これが、荒熊の持っている芸当の総てであります。ほかの芸人は、それぞれ相当の苦心と、思いつきと、熟練とをもって相当の
「籠さん、あっしじゃあ、いかがでゲス」
これから夜の稼ぎに出かけようとした阿房陀羅経の
「おやおやお前も、四十二万六千石という格じゃあねえ、黙っておいで」
「おやおや」
阿房陀羅経は
「何しろ、芸州広島の大守、四十二万六千石、浅野様のお下屋敷から、俺らの芸をお名ざしで
籠抜けの伊八は、なおそこにゴロゴロしている芸人どもを物色すると、
「それじゃあ、
「なるほど」
紅かんさんと言い出すものがあって、籠抜けの伊八がなるほどと首を
「紅かんさんなら申し分はねえけれど、紅かんさんは聞いてくれめえよ、あの人はこちとら仲間のお大名だから」
「そりゃそうだろう。そんなら新参の友兄いをひとつ、引張り出したらどうだ」
「なるほど、友兄いは思いつきだな」
籠抜けの伊八は、ようやく
「友兄い、友兄いはいねえか」
大きな声をして後ろを顧みながら、呼んでみたが返事がありません。
「友兄い、籠さんが呼んでるよ」
集まった者共が、声を合せて呼んでみたけれども、友兄いなる者は、返事もしなければ姿も現わしません。
呼んでみたけれども、友兄いなるものは返事もせず、姿も見せないし、探してみてもこの家におり合せないことがわかりました。それから後、籠抜けの伊八は、誰をつれて行くことになったか、昼の疲れで寝込んでしまったのに、米友はそこへ帰って来た模様はありません。
芸州広島の大守も、四十二万六千石も、
米友はここへ身を寄せて、それらの芸人の仲間に加わって、独得の芸当をして折々、人通りの多い大道に
論より証拠、今宵カンテラを
「さあ、
紺の
「ちっとばかりことわっておくがね、
「アイアイ、左様でごさい」
見物の中からこんなことを言い出すものがあったから、見物人一同が
「
「なるほど、理窟だ、怒らねえでやってくんな、こっちも真剣で見ているんだからな。それ兄さん、お志だよ」
見物の中からこう言って、バラリと銭を投げ込んだものがありました。
「有難え」
と言って米友は、足許に転がっていた
「兄さん、怒っちゃいけねえ、それ、しっかり頼むよ」
つづいてバラリと投げる銭の音。
「有難え……」
「こちらの方でも御用とおっしゃる」
またバラリと投げる銭の音。それからひきつづいて、前後左右から面白がってバラリバラリと投げる銭を、一つところにいて、片手では梯子を押えながら、右に左に手をのばし、前や後ろへ身を
「うめえもんだな、あれだけで一人前の芸当だ」
面白がって投げる見物と、面白がって米友の銭受けを見てやんやと言っている見物。そのうちに米友は、
「もういい、このくらいありゃあ、もうたくさんだから投げるのをよしてくれ……」
銭受けの笊を下に置いた米友は、片手で押えていた梯子の両側を、両の手で持ち換えて、
「エッ」
と気合をかけると、高さが一丈二尺あって、
「アッ」
と言っている間に、そのいちばん上の桟へ
ここで
いちばん上の桟へ
暫らく中心を取っていた米友は、
「エッ」
と二度目の気合で、両の手に今まで腰をかけていた桟の板をしっかりと握り、その上体を右へ
「アッ」
見物が舌を捲いている間、米友はその
「エッ」
と気合を抜くと、また元の形に逆戻りして桟の板に腰を下ろして、崩れかかる梯子の中心を、いいかげんのところあたりで、パッと食い止めて元へ戻して納まりました。
「アッ」
それで見物は手に汗を握る。取敢えずこれだけの前芸は、米友がエッと言えば、見物がアッというだけの
「さあ、これから、そっちの方へ歩き出すよ、歩きながら、またちっとばかり芸当をして見せる、弘法大師は東山の大の字……」
自分で口上を述べました。今度は別段に気合をかけないで、桟をつかまえた手と、腰に力を入れるとその呼吸で、梯子は米友を乗せたまま、ヒョコヒョコと動き出して、取巻いた群集の近くへのり出します。
「逃げなくってもいい、お前たちの頭の上へブッ倒すようなブキな真似はしねえから、安心して見ているがいい、俺らの方は心配はねえが、後ろの方と前横を気をつけてくんな、江戸には、
米友はこう言って、見物にスリと泥棒とを警戒したつもりのようでしたが、井戸の中へ入っている時に、火事場泥棒が出るといった米友の論理は、見物にはよく呑込めませんでした。たしか梯子芸をしているから、それで火事場泥棒を持ち出したのだろうと察したものなどは、血のめぐりのよい方でありました。大部分はその口上なんぞに頓着なく、これからまた梯子の上の一番にとりかかろうとする米友の姿を、
米友の梯子乗りの芸当は、大道芸としては珍らしいものであります。通りかかるものは立ちどまり、立ちどまったものは引きつけられて、そのあたりは人の山を築きました。この後、彼がどういう芸当をするかを固唾を呑んでながめていた時分に、群集の一角がどよめいて、
「お通りだ、お通りだ」
「それ、お通りだ、お通りだ」
と言って、早く気のついたものはどよめきましたけれども、前の方に、米友の梯子芸に
通りかかったのは、大名のうちでも大きな大名の行列らしくあります。お供揃いはおよそ三百人もあると見受けられます。御駕籠脇は
この大名行列のためにあわてて道をよけた人は、遠くの方からいろいろと噂をはじめる。
「
と言う者がありました。
「いいえ、抱茗荷じゃござんせん、たしかに
一方からはこんな申立てをするものがある。
「ナニ、そうではござんせん、たしかに抱茗荷、肥前の佐賀で、三十五万七千石、鍋島様の御人数に違いはございません」
「いいえ、揚羽でございましたよ、備前の岡山で、三十一万五千二百石……」
今までそれとは気がつかないでいて、不意にこの同勢を引受けた人、ことに屋台店の
「
先棒が叱ってみたけれど、その一かたまりを崩すにはかなりの時がかかります。後ろの方は気がついても、前の方は全く知らないのであります。尋常ならば、
「おやおや、お通りだ、お通りだ」
はじめて気のついた連中が、驚いて逃げ出したのを、梯子の上で米友は、じっとながめていたが何とも言いません。遠慮して、芸を中止して、このお通りになるものをお通し申して、それから再び芸を始めるのかと思うと、そうでもありません。
「さあ、これから梯子抜けというのをやって見せる……」
「控えろ!」
大名のお通りには頓着なく、米友が梯子抜けの芸当にとりかかろうとする時に、お供先の侍が、
大名のお供先は、米友を中心として、見物の一かたまりが思うように崩れないのが、よほど癪に触ったと見え、物をも言わずにそれを蹴散らしたから、見物のあわて方は非常なものでありました。
かわいそうに、そのあたりに夜店を出していたしるこ屋は、このあおりを食って、煮立てていた汁と、焼きかけていた餅を載せた屋台を、ひっくり返されてしまいます。
「アッ」
と言いながら頭や顔を押えて、苦しがって転がり廻りました。
前の方の連中は、喧嘩でも起ったのか知らと振返って見ると、
「あッ、お通りだ」
喧嘩ならば頼まれないでも、弥次に飛び出して拳を振り廻す連中が、大名の行列と気がついて、
梯子に
いったい、このごろの米友は、殿様とか大名とかいうものを、心の底から憎み出しているのであります。殿様とあがめられ、大名と立てられる奴等、その先祖が、どれだけ国のために尽し、人のために働いたか知らないが、今の多くの殿様というやつは薄馬鹿である。その薄馬鹿を守り立てて、そのお
しるこの鍋を
「ばかにしてやがら」
梯子の上から一足に飛び下りました。飛び下りると共に、人の頭を渡って行って、拳を固めて手当りの近いところの侍の頭を、続けざまに三ツばかりガンと
「手向いするか、無礼者」
その侍が胆をつぶした時分には、米友はつづいて二人三人目ぐらいの侍の頭を片っ端から、ポカポカと撲って歩きました。その挙動の敏捷なこと。
アッというまに、ものの十人も、つづけてお供先の侍を撲った時に、この大大名の行列は、
「
ときいた時は、米友の姿はもう見えません。
「ざまあ見やがれ」
と言って、一散にその場を
「あれだ、あれだ、あれが行列へ無礼を加えた奴だ、狼藉者を取押えろ」
後ろから米友を、追いかけて来るものがあるようです。
「どっちが無礼で、どっちが狼藉なんだ、取押えろも出来がいいや」
米友はせせら笑いながら、それでも取押えられては詰らないと思って一散に逃げました。弥次馬というものは変なもので、今、鍋島様やら池田様やらのお通りへ無礼を加えたものがあって、それが逃げ出したと聞くと、
そこで米友は、突き当った伝法院の塀へ、肩に引っかけていた梯子をかけてスルスルと上りました。
米友が伝法院の塀へ上り終った時分に、弥次馬がその塀の下へ押しかけて来てワイワイと言って
塀へ上ると米友は、その梯子を上からグッと引き上げて、また肩にかけて塀の上をトットと駈け出しました。
「それ、そっちへ行った、こっちへ来た」
弥次馬は誰に頼まれて、何のために米友を追いかけて来たのだかわかりません。
米友は追いかける弥次馬を尻目にかけて、塀の上をトットと渡って歩いたが、やがて塀から
そこで弥次馬に弥次馬が重なってくると、米友を追いかける事の理由が、いよいよわからなくなってしまいました。ただ
「何でございます」
「泥棒でございましょうよ」
「何の泥棒でございます」
「梯子を持っているから、半鐘の泥棒でございましょうよ」
というのはまだ出来のよい方でありました。この非常の場合においても、梯子を抱えて走るというのは、米友が商売道具を大切にする心がけと、それから証拠を残しては後日のために悪いという用心とのほかに、これを持っていることが逃げるのにかえって都合がよいからであります。
追われて行詰った時は、その行詰った塀なり軒なりへそれを倒しかけてスルスルと上って行きます。弥次馬が追いついた時分には上からそれを引き上げて、裏へ飛んで下りたり横へ走ったりします。こうして米友は、淡島様から
どのみち、本所の鐘撞堂へ帰るべき身であるけれども、遠廻りをして帰らねばならぬと思って、
田圃の真中に立って米友は、ここで梯子の必要がなくなってみると、どう処分するか。それは心配するほどのものはなく、
その畳梯子を背中に背負った米友は、手拭を出して
ここで地の理を見ると、右手は畑、左は田圃になっていました。右の方は畑を越して武家屋敷から町家につづいているものらしく、左の方を見ると、そこに
「おい、
後ろから呼びかけたものがあります。
「駕籠屋?」
米友は振返ると、二三人づれの侍らしくあります。
「やあ、駕籠屋ではなかったか」
米友の姿を見て行き過ぎてしまいました。米友は、自分が駕籠屋に間違えられたと思って
「もし、旦那、吉原までお
この声は駕籠屋であります。前には駕籠屋と間違えられて、今度は駕籠屋から呼び留められました。
「おやおや、子供か、お客様じゃあねえんだ」
駕籠屋はこう言って、米友を通り抜いてしまいました。
ここをいずれとも知らず、わざとウロウロ歩いていた米友。今の駕籠屋の間違って勧めた言葉によって、
「ああ、そうか、あれは吉原だな」
と感づきました。吉原の名は、さすがに米友も国にいる時分から聞いていないことはない。幸い、道草を食って行くには、あの吉原を一見物して来るに越したことはないと、ここで米友は、その明りのする一廓をめあてにして進んで行きました。
宇津木兵馬は万字楼の
兵馬のここへ来た目的は、この
神尾主膳は、同じ家の
「
「ナニ、藤原が急病?」
神尾主膳は、その急報をきいて煙管を投げ捨てて立ち上りました。
「藤原、どうした」
神尾は人をかきのけて中へ入って見ると、夜具の上に
神尾はそれを見ると、ああ、この男はここで自殺したのかと思いました。
「これ、気を確かに持て」
近寄ってその背に手をかけた時に、それは決して自殺したものでないことを知りました。そこに
「うむ、神尾殿」
「病気か、苦しいか」
竜之助の
「水を飲ましてくれ」
「うむ、水か、そら、水を飲め、しっかりと気を持たなくてはいかん」
「いや、もう大丈夫」
竜之助は落着いたらしいが、神尾は
「これ、貴様たちは何をしているのだ、早く医者を呼ばんか、医者を呼べ」
「医者はよろしい、医者を呼ぶには及ばない」
と苦しい中から竜之助は、医者を呼ぶことを断わります。
「しかし……」
「医者は要らぬ、ただ、静かなところで暫く休ませてもらいたい、誰も来ないところへ入れて置いてくれさえすれば、やがて
竜之助の望む通り静かな一室へうつされ、医者も固く断わるから、
部屋の者を差図して、竜之助を介抱させた神尾主膳は、自分の部屋へ引返したが、浮かぬ面色であります。親の
やむなく酒をあおりはじめました。多く酒を飲めば酒乱に落ちることを知っておりながら、なんとなしに酒を飲みたくなりました。
「
酒が進むと主膳は、陽気に一騒ぎしたくなりました。
兵馬と
「白妙さんの部屋で心中」
という噂がここまで伝わって来る。
「心中? まあいやな」
と言って東雲は、眉をひそめました。
「心中ではございません、白妙さんのお客様が御急病なのでございます」
そこへ新造が報告に来てくれたから、東雲の胸も鎮まりました。
「今度は勝負でございますね、もうお
東雲は惜しいところで負けたのが、思いきれないようであります。
兵馬は、それどころではない。碁のお相手は、もう御免を蒙りたいのであります。けれども東雲はいよいよ熱くなって、
「どうぞ、もう
東雲は、兵馬の心持も知らないで戦いを
「今度は負ける」
やむを得ず、
この時に、万字楼の表通りが
「茶袋が参りましたよ、茶袋が」
「おや、歩兵さんがおいでになったの、まあ悪い時に」
と言って、東雲の美しい眉根に再び雲がかかりました。
「茶袋とは何だ」
兵馬が新造にたずねると、
「歩兵さんのことでございます」
「ああ、このごろ公儀で募った歩兵のことか、あの仲間には乱暴者が多いそうじゃ」
「どうも困ります、あの歩兵さんたちは弱い者いじめで困ります、わたくしどもの方や、芝居町の者は、みんな弱らされてしまいます」
兵馬は往来に面するところの障子を開いて見下ろすと、なるほど、かなり酔っているらしい一隊の茶袋が、この万字楼の
「我々共を何と心得る、神田三崎町、土屋殿の邸に陣を置く歩兵隊じゃ、ほかに客があるなら断わってしまえ、部屋が無ければ行燈部屋でも苦しくない」
「どう致しまして」
茶袋は
宇治山田の米友が吉原へ入り込んだのは、ちょうどこの時分のことであります。
米友は
米友が吉原の大門を潜ったのは、申すまでもなく今宵が初めてであります。その見るもの聞くものが、異様な刺戟を与え、その刺戟がまたいちいち米友流の驚異となり、
「エエ、これはこのたび、世にも珍らしき京都は
「おや、池田屋騒動って何でしょう」
「稲荷町に池田屋という呉服屋さんがあってよ」
「呉服屋さん? その呉服屋さんがどうしたの」
「どうしたんですか、縄付になったんでしょう」
「縛られてしまったの」
「そうでしょう、縄で縛られたと言っているじゃありませんか」
「エエ、これはこのたび、世にも珍らしい京都は三条小橋縄手の池田屋騒動……」
「稲荷町の呉服屋さんじゃありませんよ、京都三条と言ってるじゃありませんか」
「そうですね、三条小橋縄手というところなんでしょう、縄付ではなかったのね」
「京都の池田屋さんというのでしょう、京都の騒動をどうしてここまで売りに来るんでしょうね」
「どうしてでしょう、きっとその池田屋さんに悪い番頭があって、お駒さんのような
「わたしもそう思ってよ、お駒さんはかわいそうね」
「ほんとにお駒さんはかわいそうよ、言うに言われぬ
「よう、よう」
「買ってみましょうか」
「エエ、新撰組の隊長で、鬼と呼ばれた近藤勇が、京都は三条小橋縄手の池田屋へ斬り込んで、
「おやおや、お駒さんじゃありませんよ、京都へ鬼が出て三十人も人を食ったんですとさ」
「これこれ、読売り」
「へえ、へえ」
「一枚くれ」
「はい、有難うございます」
覆面した浪士
「エエ、これはこのたび、京都は三条小橋縄手池田屋の騒動、新選組の隊長で、鬼と呼ばれた近藤勇が、京都は三条小橋縄手の池田屋へ斬り込んで、長曾根入道興里虎徹の一刀を揮い、三十余人を右と左に斬って落した前代未聞の大騒動、池田屋騒動の顛末が
「ははあ、こりゃ手紙のうつしだ、通常の読売りとは違って、手紙そのままを
浪士体の二人は、かえってその手紙の
せっかく買おうと思った娘たちは、鬼だの人を食ったのということで
それを聞いていた米友の好奇心は、かなり右の読売りの
とこんなに誇張されてみると、米友もまた武芸の人であります。一枚買ってみようと思った時に、右の浪士体の二人に
「おい、お
いま、読売りを買った浪士体の男を、米友が呼びかけると、
「何だ」
「その池田屋騒動の読売りというやつを、読んで聞かしておくんなさいな」
「ナニ、これを呼んで聞かしてくれと言うのか」
子供かと見れば子供ではなし、
「これが聞きたいか、よし、読んで聞かせてやろう」
それから水道尻の
「京都お手薄と心配致し居り候折柄、長州藩士等追々入京致し、都に近々放火砲発の手筈 に事定まり、其虚に乗じ朝廷を本国へ奪ひたく候手筈、予 て治定致し候処、かねて局中も右等の次第之れ有るべきやと、人を用ひ間者 三人差出し置き、五日早朝怪しきもの一人召捕り篤 と取調べ候処、豈図 らんや右徒党一味の者故、それより最早時日を移し難く、速かに御守護職所司代にこの旨御届申上げ候処、速かにお手配に相成り、その夜五ツ時と相触れ候処、すべて御人数御繰出し延引に相成り移り候間、局中手勢のものばかりにて、右徒党の者三条小橋縄手に二箇屯 いたし居り候処へ、二分に別れ、夜四ツ時頃打入り候処、一ヶ所は一人も居り申さず、一ヶ所は多勢潜伏いたし居り、かねて覚悟の徒党のやから手向ひ、戦闘一時 余の間に御座候……」
「なるほど」この二人の浪士もまた、米友並みに、何かわざわざ時間を
「……折悪 く局中病人多く、僅々三十人、二ヶ所の屯所に分れ、一ヶ所、土方歳三を頭として遣はし、人数多く候処、其方には居り合ひ申さず、下拙 僅々人数引連れ出で、出口を固めさせ、打入り候もの、拙者初め沖田、永倉、藤堂、倅 周平、右五人に御座候、かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切 出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候……」
「なるほど」
「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰 れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候、先づは御安心下さるべく候……」
「なるほど」米友はしきりに感心して、近藤勇がはるばる京都から、江戸にいる養父周斎の
その
米友も驚いたが、二人の浪士も驚いて立ち上ります。
この時分、万字楼の前で、十余人の茶袋がみんな刀を抜いて振り廻し、多数の弥次馬がそれを遠巻きにして、一人残さずやっつけろと叫んでいる光景は、かなりものすさまじいものでありました。
その最中、取巻いた群集の後ろで不意に二発の鉄砲が響きました。それと共に
酒宴半ばにこの騒ぎを聞いた神尾主膳は、さすがに安からぬことに思いました。
そこへ、主人が飛んで来て、
「ごらんの通りの始末でございます、お客様に万一のお怪我がありましては、申しわけのないことでございます、何卒、この間にお引取り下さいますよう、御案内を申し上げまする。あれは歩兵さん方でございます、はじめに参りましたのが土屋様のお邸の歩兵さん、あとから鉄砲を持って参りましたのが西丸の歩兵さん、今にもこれへ押上って参ることと思います、お腰の物、お懐中物、残らず次へ持参致させました」
「
とおこったけれども、彼等を相手に争う気にもなれません。
こうして避難させられたお客は神尾主膳だけではなく、この夜、万字楼に登った客は、いちいちこうして避難させられました。
相当に身分のあるものもあり、相当に勇気のあるものもあったろうけれど、誰ひとり残って、歩兵を相手に取ると頑張るものはありません。すすめられるままに、裏手や非常口から避難してしまいました。宇津木兵馬も無論その一人です。
「金助」
非常口で兵馬は、金助を見かけたから呼びかけると、
「宇津木様、驚きましたな」
「神尾殿はどうした」
「へえ、神尾の殿様は、もう茶屋へお引取りになってしまいました」
「その茶屋へ案内しろ」
「よろしうございます」
金助は兵馬の先に立って走る。
「茶屋はどこだ」
「たしかこの辺でございましたっけ」
「ナニ、たしかこの辺、貴様はその茶屋を知らんのか」
「茶屋から送られて参りますまでの途中で、お目にかかったんですから……」
「では、
「何しろこの通りの騒ぎでございますから、
「この騒ぎはいま始まったことだ、神尾殿を見逃さぬよう、用心を頼んでおいたのはそれより前のことじゃ」
「それは、お頼まれ申したに違いございません、いまお知らせ申そうか、少し後にした方が都合がよいだろうかと思っているうちに、この騒ぎでございましたから」
「金助、貴様は頼み甲斐のない奴だ」
「そういうわけではございませんけれど、何しろこの通りの騒ぎで……」
「何のために
「どうもまことにあいすみません」
「金助、とぼけるな」
襟を取ってトンと突くと、金助は一たまりもなくひっくり返ってしまいました。
「まあ、お待ちなすって下さいまし、乱暴をなすっちゃいけません、そんな乱暴をなさると、茶袋といっしょにされてしまいますから」
やっと起き上ったのを兵馬が再びトンと突くと、金助はまたひっくり返ってしまいました。
「ようございます、それでは、わたくしが
「早く行け」
「あれでございます、たしかあの相模屋というのからおいでになったようでございます、あれを尋ねてごらんなさいまし、私はこの天水桶の蔭に隠れておりますから、どうぞ私の名前はお出しなさらないように、そっと当ってみておくんなさいまし」
「神尾殿の
兵馬は相模屋の店先へ軽く挨拶して、その足で座敷へ上ろうとする。
「はい、お二階にお休みでござりまする」
自分が軽く出たから茶屋の者も軽く受けました。兵馬は早速二階へ上り、屏風の中に
「神尾殿、主膳殿」
「う、う、うむ」
呼び
「神尾主膳殿」
兵馬は、主膳の枕許の
「やっ、誰じゃ」
「お目ざめでござりましたか」
「
「拙者は番町の片柳と申すものでござりまする、ちとあなた様に、お尋ね申したい儀がござりまして推参致しました」
「ナニ、拙者に何を尋ねたいのじゃ、其許を拙者は知らぬ」
「親しくお目にかかるは初めてながら、拙者はあなた様が甲府に御在勤の折、よそながらお目にかかりました」
「ナニ、拙者が甲府にいた時分? 其許は甲府から何しにこの拙者を尋ねて来た」
神尾主膳は不安らしく起き直って、兵馬の
「私のお尋ね申したいのは、あなた様ではござりませぬ、あなた様にお聞き申したい人がござりまして」
「ナニ、拙者に聞きたい人? それは誰じゃ、誰を尋ねたいのじゃ」
「もしや、あなた様は、机竜之助というものを御存じではござりませぬか」
「知らぬ、左様な人は一向知らぬ」
「御存じない? それは真実でござりますか、真実その者の行方を御存じではござりませぬか」
「全く知らぬ、知ってはおらぬ」
「あの
「躑躅ヶ崎が拙者の何であろうと、其許に尋ねられる由はない。いったい、君は誰に断わってここへ来た」
「ひとりで参上致しました」
「断わりなしに来たか、無礼千万な、帰らっしゃい」
主膳は起き直って、刀架から刀を取りました。
「まずお控え下されませ」
「黙れ黙れ、物を尋ねるなら尋ねるようにして来るがよい、人の寝込みへ踏み込んで、吟味するような尋ねぶり、小癪千万な」
主膳は、甚だしく怒りました。
「そのお腹立ちを覚悟で参りました、あなた様がどうあっても、その机竜之助の
「ナニ、覚悟がある? 覚悟とはどうしようというのじゃ、
「町奉行へ訴えて出まする」
「町奉行へ何を訴える、誰を町奉行へ訴えるのじゃ」
「あなた様のお屋敷へ火をつけた
「ナニ、穢多がどうした」
神尾主膳は歯をギリギリと
「憎い奴、憎い奴」
神尾主膳は
「机竜之助の行方をさえお知らせ下さるならば、そのほかには、あなた様に御用のない私でござりまする」
「知らん、
主膳は
「それはかえってお為めになりませぬ」
兵馬は主膳の手を押えました。
「放せ」
「左様にお手荒なことをなさると、場所柄でござりまする、あなた様のお名前が出まする」
「憎い奴だ」
主膳はもがくけれども、兵馬に押えられて刀を抜くことができません。
「あの机竜之助と申す者は、拙者のためには
「知らんと申すに、くどい奴じゃ」
「これほどに申し上げても」
「知らぬものは知らぬ、近ごろ珍しいほど執念深い奴じゃ、その分で置くではないけれど、拙者もこのごろは世を忍ぶ身じゃ、今日は許しておく、帰らっしゃい」
「いいえ、こうして参上致しました以上は、お尋ね申した御返事をお聞き申すまでは、この座を立ちませぬ」
と言いながら兵馬は、右の腕を伸べて、外側から大きく神尾主膳の首を抱きました。
「
「お返事をお聞き申すまでは、こうしておりまする」
兵馬は外から大きく神尾主膳の首を抱くと共に、力を極めてそれを自分の胸へ押しつけました。
「アッ、苦しい」
主膳は苦しがって眼を
「さあ、お聞かせ下さるか、それとも」
こうなった以上は、兵馬もまた力ずくであります。力を
「無礼な奴、斬って捨てる」
主膳は直ぐにつけ込んではねあがって刀を抜こうとしますから、兵馬は再びその首を自分の胸へ、いよいよ強く押しつけるよりほかに仕方はありません。
「アッ、苦しいッ、放せ」
「お聞かせ下さらぬ以上は、決してお放し申しませぬ」
「放せッ、苦しい、死ぬ」
「放しませぬ」
「く……」
「さあ、お聞かせ下さい」
「く、死……」
ほとんど死物狂いで主膳がもがくから、兵馬はそれに応じて満身の力を籠めて抱き締めると、やがて急に主膳の力が抜けました。力が抜けたかと思うと、ガックリとその首を、兵馬の胸へ垂れてしまいました。
「や、息が絶えた、死なれたか」
兵馬も我ながら驚きました。知らず知らず自分は、神尾主膳を
この場にも意外の変事が起りましたけれど、これを外の騒ぎに比べると物の数ではありません。万字楼の前を中心にして、吉原の廓内で市街戦が起っているようなものであります。
「困ったな」
「もしや宇津木の身から起った変事ではないか」
「どうともわからん、ともかく、この人混みを押破ってみよう」
浪士は人垣を、無理に破って
「ワアッ――」
と崩れかかる群集。その勢いは大波を返すようだから、進もうとしてかえって押し返されるほかはないのであります。
「困った、なんとかして近づいて、様子を見たいものだ」
「よい工夫はないかな」
二人の浪士は、事を好んでこの騒動を見たいのみでなく、騒動の中に何か自分に利害関係のある人がいて、その身の上が心配でたまらないらしくあります。
この時に宇治山田の米友は、路次の軒の下へ
いつのまにか組立てた梯子を、軒へ立てかけた米友は、
「お武家さん、ひとつこの屋根へ登って、見物しようじゃねえか」
「こりゃ梯子、時に取っての
この場合において
二人を先に登らせておいて米友は、二人よりはいっそう身軽に屋根の上へはね上ってしまい、梯子に結んでおいた縄を引くと、梯子は
「ははあ、万字楼の前に
「恥を知らぬ奴等じゃ、こんなところへ来て、騒がしてみたところで何の功名になる」
「もとよりあれは、歩兵隊とはいうけれど、
「さいぜん、鉄砲の音がしたようだけれど、あの連中、鉄砲を持って来たものと見えるな」
「吉原の廓内で鉄砲を
「それにしても宇津木はいったい、どこの何という店にいるのじゃ」
「それがわからないから困ったのよ、あの娘たちに頼まれてここまで出向いて来たけれど、娘たちはただ吉原とばかりで、吉原の何町の何という家へ行ったのだか一向知らん、吉原とさえ言えばそれでわかるように思うているところが、娘たちの身上だ」
「もし宇津木の身に間違いでもあられては、せっかく頼まれて来た我々が娘たちに対して面目がない」
「そうかといってこの場合、
「困ったものじゃ」
二人の浪士は下の光景を見ながら、しきりに困惑しているようであります。
この二人の浪士は、さきに宇津木兵馬と共に甲府の牢を破って出た南条と五十嵐とであります。
この時、下界のこの混乱の中へ、どこをどうして
「ナーンだ、お医者さんか」
と
「おい、道庵がやって来たぞ、万字楼に病人を一人取残しておいたから、先生、ぜひひとつ行って助けて来ておくんなさいと頼まれたから、道庵が出向いて来たんだ、ばかにするない」
切棒の駕籠、すなわちあんぽつの中で、しきりに怒鳴っているのが道庵先生です。
酔っぱらっているとは言いながら先生、飛んでもない所へ出て来たものだと見物の中にはハラハラする者が多かったけれど、先生自身も酔っているし、
それが
「あっ、ありゃ長者町の先生だ」
こう言って叫び出すと、例の梯子を小脇に
「やいやい、そりゃ、おれの恩のある先生だ、その先生に指でもさすと承知しねえぞ」
人の頭の上をはね越して行った宇治山田の米友が、例の二間梯子を小車のように振り廻して、茶袋を二三名振り飛ばしたから騒ぎがまた湧き上りました。
宇治山田の米友は今やこの梯子一挺を武器に、あらゆる茶袋を向うに廻して大格闘にうつろうとする時、
「酒井様のお見廻りがおいでになった、それ、
なるほどそこへ現われたのは、当時市中取締りの酒井
それを見ると、茶袋の歩兵隊の中からまたしても鉄砲の音が聞え、
万字楼の前が、人の出入りができるようになった時分に、例のあんぽつがまた家の中から
廓内を出たこのあんぽつは、下谷の長者町の方角を指して行くものらしいから、してみればこの駕籠の中は当然、主人の道庵先生であるべきはずなのに、その当人の道庵先生は、やや正気に立返って、万字楼に踏みとどまっているのであります。
万字楼に踏み留まった道庵は、相変らずそこで飲んでいるかと思えば、決してそんな呑気な
ただあまりに勉強と車輪が過ぎて、火鉢にかけた
「こう忙がしくっちゃあ、トテもやりきれねえ」
ブツブツ言いながら、先生はついに
「こんなに人をコキ
口ではサボタージュみたようなことを言いながら、その働きぶりのめざましさ。
主人の道庵先生は、こんなにして働いているのだから、先に返した駕籠に乗って帰った人が先生でないことは
酒井の市中取締りの巡邏隊に追い崩された茶袋の歩兵は、
「おや、お前たちは、わたしをどうしようというんだい」
畑の中で
「いいから、そんなに怒らないで、駕籠に乗ってお戻んなさいましよ」
「乗ろうと乗るまいと大きなお世話じゃないか、どいておいで、邪魔をしないで、お通し」
「そんなわからないことをおっしゃるもんじゃあございませんよ、山下の
「何でもいいから、お通し、先のことが心配になって、気が気じゃあないんだから、通しておくれ」
「いけませんよ」
「この野郎」
女の方が腹を立って、ピシャリと男の頬を
「おやおや、
「泥棒!」
「泥棒だって言やがる、こいつは穏かでねえ、こいつはどうも穏かでねえ」
「あれ――人殺し」
「おやおや、人殺し――なおいけねえ、兄弟、その口をしっかり封じてやってくんねえ」
「あれ――この野郎」
「何を言ってるんだ、ジタバタするだけ
たしかに一人の女を、二人の駕籠舁が取って押えて、手込めにし兼ねまじき事態と聞きつけた兵馬は、もう猶予するわけにはゆきませんから、神尾主膳を背中から下ろしてそこへさしおいて、今の金切り声の方へ飛んで行きました。
ところは
「この馬鹿者めが」
兵馬は横合から一人を蹴飛ばして、一人を突き倒しました。その勢いに怖れて雲助は、霞の如く逃げてしまいました。
「危ないところをお助け下さいまして、有難う存じまする」
兵馬のために悪い駕籠屋を追い飛ばしてもらったから、女はそこへ手をついてお礼を言いました。
「これは、どちらへおいでなさる」
「はい、吉原へ用事がありまして、山下から頼んで参りました駕籠が、この始末でございます」
「お送り申して上げたいが、拙者もちと急な用事がある……」
「もう、ついそこでございますから、ひとりで参ります」
「吉原は今、あの通りの騒ぎで、うかと近寄れまいと思われるが、用心しておいでなさい」
「有難うございます、いずれ用事が済み次第、お礼に上ろうと存じますが、あの、お
「ナニ、左様な御心配には及ばない。やあ、また吉原の騒ぎが大きくなったようじゃ」
「何でございましょう、あの騒ぎは」
「歩兵隊が入り込んで、乱暴をはじめたのでござる」
「わたしの知合いの人が、ちょうど、吉原に行っていますものでございますから、気が気ではありません。それではこのままで御免下さいまし」
女がそのまま駈け出すと、暫くして、
「アッ!」
「危ねえ、気をつけやがれ」
またしても闇の中でバッタリと突き当ったものがあって、女はよろよろとしました。さては逃げ去ったと見せた悪い駕籠屋共が、まだその辺に
「どうなされました」
「誰か参りました、今わたしに突き当りました」
「今の駕籠屋共であろう」
「いいえ、別の人のようでございました、あちらからバタバタと駈けて来て、わたしに突き当ると直ぐに姿を見えなくしてしまいました」
「誰か、そこにいるのは誰だ」
兵馬は
「隠れているな」
兵馬は進んで行き、
「怪しい奴だ。しかし心配なさらぬがよい、そこまで送ってお上げ申そう」
兵馬は女の先に立ちました。その時、
「うーむ」
と人の
「あれ、人の唸っているような声が」
女は、さすがに気味を悪がって、足を留めました。
「ああ」
兵馬もその唸り声には、驚かされないわけにゆかなかったようです。
「今の悪い奴でございましょう、それとも、あの駕籠屋が、まだそこいらに倒れているのでございましょうか」
「左様ではない、あれは……」
と兵馬は答えて、当惑しました。今、暗い中で唸り出したのは、さいぜん追い飛ばした駕籠屋でもなく、いま
「うーむ、水を持て、水を」
まさしく神尾主膳の声であります。
「おや、あの声は……」
女はその声を
「あれは怪しいものではない、拙者の連れの者」
兵馬はこう言いわけをしました。
「お連れの方でございましたか」
女もそれだけは安心していると、
「ああ苦しい、水を持て、水を、女中共、誰もおらぬか」
闇の中で、つづけてこう言い出したから、
「おや、あのお声は?」
兵馬は女をさしおいて、
「お静かに、静かにさっしゃい」
地上へ捨て置いた主膳の傍へ寄ると、
「早く水を持てと申すに。女共どこへ行った、拙者はもう帰るぞ」
「ここは吉原ではござらぬ、静かにさっしゃい」
兵馬は主膳を抱き上げて耳に口をつけて、
「吉原でない? 吉原でなければどこだ、暗いところだな、化物屋敷か、染井の化物屋敷か、ここは」
主膳は、
それを[#「 それを」は底本では「それを」]聞きつけた女は、
「おやおや、もし、あなた様、そのお方はどなたでござりまする」
女は、立戻って来ました。そうして、兵馬の抱えている人をさしのぞこうとしますから、
「これは拙者の連れの者で、ちと酒の上の悪い男」
「もし、そのお方のお声に、どうやら、わたくしは聞覚えがあるようでございます」
「なんの、そなたたちの知った者ではない」
兵馬は、隠した方がよかろうという心持であったけれど、
「誰が、拙者の断わりなしにこんなところへ連れて来た、こんな暗いところへ誰が連れて来たのじゃ、さあ水を持て、水、誰もおらぬか」
兵馬は隠そうとしても、人心地のない主膳は、うわ言のように声高くこんなことを言い出しました。
女は立っていることができません。
「あの、そのお方のお声は……どうもわたくしは聞いたことのあるようなお声でございますが、もし間違いましたら、御免下さいまし、そのお方はあの、染井の殿様ではございませんか」
「染井……染井の化物屋敷、こんな陰気臭いところへ、誰が連れて帰った……」
主膳は切れ切れにこう言って唸りました。
「おお、そのお方は神尾の殿様」
「この人を神尾主膳殿と知っているそなたは?」
「まあ、神尾の殿様でございましたか、よいところでお目にかかりました。殿様をお迎えのためにわたくしは吉原へ飛んで参るところでございますよ、ここでお目にかかろうとは存じませんでした」
女は喜んで、兵馬の抱いている男を神尾主膳と認めてしまいました。この女というのは、女軽業のお角です。
「いかにも、この方は神尾主膳殿であるが、そういうそなたは?」
兵馬は再び、お角の身の上を尋ねました。
「これは御免下さいまし、つい
「ああ左様か、しからばこの神尾殿のお住居を御存じであろうがな」
「エエ、それは申し上げるまでもございませんが、それよりはこの殿様のお連れのお方は……お連れ様はどちらにおいででございましょう」
「ナニ、この神尾殿に連れがあったのか」
「はい、あの……」
お角はここで竜之助の名を言おうとしました。その変名は時によっては吉田といった、時によっては藤原といったりする、その人の名をうっかり言ってしまおうとして、はっと気がつきました。
「神尾殿は一人ではなかったのか」
「はい、あの、お友達で、お目の不自由なお方が一人」
「目の不自由な友達が……」
その時、宇津木兵馬は
「その目の悪い人に逢いたかったのだ、さあ、その人を探しに行きましょう、一緒に吉原へひきかえしましょう」
兵馬がせき込んで、お角は
その時に思いがけなく、
「宇津木様、早く行っておいでなさいまし、神尾の殿様のところは、わっしが引受けますから、ずいぶん御心配なく」
こう言ってのそりと出て来たのは、金助の声に違いありません。
「金助ではないか」
「へえ、金助でございます、おいやでもございましょうが、おあとを慕って参りました」
金助は相変らずしゃあしゃあとしたものであります。
「今、わたしにぶつかったのはお前さんかえ」
お角がこう言って咎めると、
「へえ、私でございます、飛んだ
お角に代って染井の化物屋敷へ、神尾主膳を送り込んでその一間へ休ませた後、金助は次の間へ入って煙草をふかしています。
「なるほど、こいつは化物屋敷だ、これだけの構えに、主人のほかには人っ気が無えというのが全く人間放れがしている、何だかこうしているとゾクゾクして淋しくてたまらねえ、身の毛がよだつようだ。おやおや、この
金助はあたりを見廻すと、
「おやおや、蚊が出やがった、おお
いつのまにか蚊に手の甲を、したたかに食われていました。その手を掻いてから、ピシリと顔を打って蚊をハタキ落し、
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武と言いて夜も眠られず、さすがに
金助は立って戸棚をあけると、そこに
「だが、陰々と湿っぽい家だな、燈心をもう少し掻き立てて明るくしてやろう。殿様は、よくお休みのようだ、お命に仔細はあるまい、なるほど、すやすやと寝息が聞えるから、まず安心。おや、何か音がしたぜ、風が出たんじゃあるめえな」
耳をすますと、下駄を
「冗談じゃねえ、人の足音だぜ、しかも
金助は驚き怖れて、
「お角さん、もうお帰りなさったの」
障子をあけて、蚊帳の外に立ってこう言ったのは女の声であります。金助は黙っていました、蒲団を頭から被ってガタガタと慄えていました。しかし、
「お角さんはどうしました」
蚊帳の外の女は再びこんなことを言いました。金助はそれでも返事をしなかったけれど、女は容易に立去ろうともしないで、
「そこに
「へえへえ、うーむ」
金助もついに
「どなた」
同じようなことを言い、蒲団の隙間からそっと目だけ出して蚊帳の外を見ました。立っているのは
「お前さんはどなた」
「金助でございます」
「金助さんとおっしゃるのは?」
「へえ、ただいま殿様のお
「お角さんはどうしました、お前さんと一緒に帰りましたか」
「いいえ、あの方は、まだ帰りませんで、吉原へ引返して参りました。わたくしはまたその途中で頼まれまして、こちら様へ殿様をお届け申したついでに、こうして御厄介になっているのでございます」
「それでは帰って来たのは、お前さんと、当家の主人の二人きりなの」
「左様でございます」
「も一人の、その連れの人はどうしました」
「それでございますよ、そのお連れのお方の行方が知れなくなったので、それでお角さんと、もう一人のお方が探しに上ったんでございます、わっしはあとを頼まれて、殿様をこの屋敷へお連れ申したんでございますよ」
「そりゃ嘘でしょう」
「どうして嘘なんぞを申しましょう、本当のことでございます」
「嘘、嘘、お前さんと、あの御別家の奥さんやお角さんと、腹を合せてわたしを
「おやおや、腹を合せて……私があの人をお隠し申すにもお隠し申さないにも、てんでそのお方にお目にかかったことはないのでございますもの……」
「いいえ、お前さんたちの
「わっしどもの企み? いったい私は、こうして今晩はじめてお屋敷へ上ったものでございますよ、それはあちらにいる時分には、殿様にずいぶん御恩を受けましたけれど、江戸へ参りましては、昨晩はからずも吉原で殿様にお目にかかったばかり、なにも人様に怨まれるような企みを致しました覚えはございませんが」
「そんならなぜ、あの人を残して、こちらの主人だけを連れて帰りました」
「なぜ連れて帰ったと、それをわっしにおっしゃっても御無理でございます。いったい、あなた様はどなたでございます」
金助は、ようやく少しは落着いて、蒲団を押し退けて、全く見当違いの恨みを自分に述べているその女の人の何者なるやを見ようとしました。
「や、大変、ほんもの……」
金助は必死になって
「吉原というのも、お前さん、そりゃ嘘だろう」
女は、いよいよすさまじい声。
「どう致しまして、嘘ではございません」
「嘘を言うのに違いない、そうしてあの人をどこへか隠したのは、あれは御別家の奥さんという人に頼まれて、お角さんが手引をして、わたしに知れないように隠してしまったのだということを、わたしは前から、ちゃんと知っている。お前さん、どこへあの人を隠したか、それを言って下さい」
「ト、ト、飛んでもないことで。あの人にも、この人にも、わっしが隠すなんて、お隠し申すなんて、そんなことはございません、ございますはずがございません」
「お前さん、もしお金が欲しいならいくらでも上げるから、あの人を隠したところを教えて下さい」
「いいえ、お金がどうしようと言うんではございません……まあ、何が何やら存じませんが、あなた様にお怨まれ申しても、わっしは損でございますから、ようく事のわけを申し上げてしまいます。あの吉原で、わっしは神尾の殿様にお目にかかっただけで、そのお連れの方にはいっこう気がつきませんでしたので。あとで承ればそれはお目が……お目が悪い方だそうで」
「その人、その目の悪い人が、なんで吉原へ行ってみようという気になるものか。それを
「いいえ、吉原へおいでになったのは本当でございます、吉原は万字楼という大きな店でございまして、そこへ、私も丁度お客になって登り合せたんでございます、そうすると
「そんなことはありません、それはお前のこしらえごとです。なるほど、ここの主人は吉原とやらへ行ったかも知れないが、その前に、あの人をどこへか隠してしまったのです、あの人を隠しておいて、ここの主人だけが吉原へ行って遊んだものに違いない。ここの主人はそういうことをする人です、それだから一人で帰って来たのです。一緒になったものが、それに目の不自由な人を連れにして行ったものが、それを忘れて一人で帰るなんぞと、そんなことはありません。それはお前さんが、みんなから頼まれた
「どうもおそれいりました、それほどにお疑いあそばすなら論より証拠、これから吉原へ行ってごらんなさいまし、わたしのいうことが嘘か本当か、直ぐおわかりになりますから」
「吉原というのは、これから遠いところかえ」
「遠いといったところで知れたものでございます、一里半と思ったら損はございますまい」
「お前、その吉原というところへ、わたしを案内しておくれ」
「いいえ……それはどうも」
「それごらん、わたしを連れて行くことはできまい、お前がつれて行かなければ、わたしは一人で行きます」
女はこう言って、スーッと出て行きました。
お角と共に宇津木兵馬が再び吉原の廓内へ引返した時分には騒動は
たしかに神尾主膳と共にこの楼へ送られて来たのは二人づれであったということ、その一人は
これだけのことを兵馬とお角が尋ね上げた時分には、もう夜が明け渡っていました。
そこでお角と共に長者町へ急ぐことにきめました。お角は兵馬が何故に自分と同じ人を深く尋ねるのだか、それを知ることができませんけれども、自分としてはぜひとも尋ね出して染井の屋敷へ帰らなければならないと思って、どこまでも兵馬と行動を共に、土手から二挺の駕籠を雇って長者町へ飛ばせました。
長者町へ着いて見ると、道庵先生は帰っているにはいるが寝込んでしまって、容易に起きないのを起して様子をたずねると、いっこう要領を得ません。
あんぽつに乗せて盲目の客を送り出したのは全く道庵の知らないことで、その駕籠
それは近頃、浅草の広小路へ出る梯子乗りの友吉というものであったらしいとのこと。よって兵馬は探りの方針を、この梯子乗りに向けなければならなくなりました。
お君は帯をするようになりました。その時にお松が、
「お君さん、おめでとうございます」
と言って祝うと、
「いいえ……」
と言ってまっかな
「お松さん、わたしはこの子がやっぱり生れない方が仕合せだと思いますわ」
「何をおっしゃいます、このおめでたい矢先に、そんなことを」
「いいえ、めでたいことではありません、わたしにとっても少しもめでたいことではございませんし、この子にとっても決してめでたいことではございません、この子は
「まあ、父無し子……このお子さんは、あのお立派な駒井能登守様とおっしゃる親御様をお持ちではございませぬか」
「いいえ、この子は駒井能登守の子ではございませぬ、わたくしの子でございます、それ故にわたくしは、どのようなことがあっても能登守の子としては育てません、わたくしの子として育てて参ります。それよりか、わたくしはいっそ難産で、この子と一緒に死んでしまえば、それに越したことはないと思っているのでございますよ」
「まあ、聞いてさえゾッとします、わたしはそんなことを聞きたくはありません、もっと面白い話をしましょうよ」
お松は力一杯に、お君を慰めようとします。
お君は何を考えたかハラハラと涙をおとしていたが、ふらふらと立ち上りました。
「お君さん、どこへいらっしゃるの」
「はい、わたしは、
その
「まあ、お話がありますから、お坐りなさいませ」
それからお松は、お君のために心配のあまり、神田の
和泉町の能勢様というのは、四千八百石の旗本で、そのお屋敷のうちにお稲荷様があって、そのお稲荷様から能勢の黒札というお札が出る。お札の表には正一位稲荷大明神と書いてあって、そのお札で撫でると、お医者さんでも
そこでお松は能勢様へ行って、お君のために稲荷様のお札をいただいて、帰りに和泉橋のところへ出ると、笠をかぶって
「まあ、ムクだね、珍らしい、お前、今までどこにいたの」
甲州で別れて以来のムクは、お松の傍へ来て、身体をこすりつけて、尾を振って、勇み喜ぶのであります。
「お前さん、この犬を知っておいでか、オホホホ」
笠の中から、お松を見て笑っているのは慢心和尚です。
「御出家さん、あなたがこの犬をお連れ下さいましたのでございますか」
「はいはい、わしが連れて参りました」
「よくお連れ下さいました、この犬の主人のおりますところを、わたしがよく存じておりますから御案内を致しましょう」
「それはそれは。しかし、わしはほかに用事があっての、お前の方へ行っておられないから、持主によろしく申してくれ」
と言ってこの出家は、ムク犬の頭を三べん
お松は
道庵先生は、柳橋の万八楼で開かれた書画会へ出かけて行きました。(その席で先生一流の漫罵やまぜっ返しがあったけれどこれを略す。)宴会の時分に、誰の口からともなく、この正月に亡くなった高島秋帆の噂が出ました。そうすると席の半ばにいた道庵先生が、しゃしゃり出てこんなことを言いました、
「四郎太夫はエライよ。実は拙者も長崎の生れでね、(註、道庵先生はこんなことを言うけれど、事実長崎の生れであるや否やは怪しいものである。)高島のことはよく知っているよ。
道庵先生は友達気取りで高島四郎太夫の話を始めながら、懐中から取り出したのは千住の紙煙草入の安物であります。
「いや皆さん、これだこれだ、これはその八十文で買った拙者の安煙草入でげすがね……」
また始まった。高島四郎太夫を友達扱いはよかったけれども、安煙草入を満座の中へさらけ出して、八十文の値段までブチまけるから、それでお里が知れてしまいます。
「この煙草入について四郎太夫を
道庵がこんなことを言って、一座をにがにがしく思わせているうちに、やはり高島秋帆のことが話題になって、次に江川太郎左衛門のこと、それから砲術の門下のことにまで及んでついに、
「時に、あの駒井甚三郎は……」
と言う者がありました。
「なるほど、駒井能登守殿、その後は一向お沙汰を聞かぬ」
「左様、駒井氏」
「駒井甚三郎か、なるほどな」
「甲府から帰って以来、さっぱり
と言って、一座は駒井能登守の噂になりました。これらの連中は能登守が、何によって
「不思議なこともあればあるもので、拙者この間、意外なところで駒井殿らしい人を見かけ申したよ」
これは道庵先生の隣席にいた、遠藤良助という旗本の隠居でありました。
「遠藤殿には駒井甚三郎を見かけたと申されますか、していずれのところで」
しかるべき大身の隠居らしいのが、遠藤に向って尋ねました。
「実はな、先日、手前は舟を

「なるほど、バッテーラに乗って、海を測量する、駒井のやりそうな仕事じゃ。ことによるとあの辺に隠れて、何か海軍の仕事をしているのではないか」
「なんにしても、あれが生きておれば結構、あれだけの人材を、今むざむざ葬るのはまことに惜しいものじゃ」
「いったい、駒井が甲州を
「駒井としては神尾なぞは眼中にあるまい、主膳と勢力争いでもしたように見られては、駒井がかわいそうじゃ」
旗本の隠居や諸士の間に、駒井の噂がようやく問題になっていたけれど、道庵先生は能登守のことをあまりよく知りませんから、八十文の千住の安煙草入から煙草を出してふかしていました。
この遠藤良助という旗本の隠居は投網が好きで、上手で、かつ自慢でありました。駒井の噂がいいかげんのところで消えると、それから魚の話にまでうつって行きました。遠藤老人は、人からそそのかされて、得意の投網の話をはじめると、いずれも謹聴しました。
道庵先生は、そんなことにさまで興を催さないから、思わず
「これはこれは、道庵先生、久しくお見えなさらんな、相変らずお盛んで結構、ちとやって来給え」
「遠藤の御隠居、暫くでございましたな、相変らず投網の御自慢、さいぜんから面白く拝聴しておりますよ、実は拙者もあの方は大好きで、ついお話に聴き惚れて、夢中になって大欠伸をしてしまいましたよ」
「は、は、は、しかしまあお世辞にも先生が、我が党の士であってくれるのは嬉しい」
「ところが、拙者は投網の方はあんまり
「ははあ、先生、釣りをおやんなさるか、ついぞ聞きそれ申したがそれは頼もしいこと」
「君子は
「なるほど、それも一理」
「拙者はまた天性、釣り上手に出来てるんでございますよ、拙者が
「そりゃそうあるべきもの、
「全くその通りでございます、だから世間の釣られに行く奴が、馬鹿に見えてたまらねえんでございます」
「そこまで至ると貴殿もなかなか話せる、ぜひ
「結構、大賛成でございます、ぜひお伴を致しましょう」
「しからばそのうちと言わず、今夕、この会が済み次第、舟を命ずることに致そう、おさしつかえはござらぬか」
「エ、今夕、今日でございますか。差支えはねえようなものだが……」
道庵先生はハタと当惑しました。実は先生、行きがかり上、釣りが上手であるようなことを言ってしまったけれども、釣竿の持ち方も怪しいものです。けれどもことここに至ると、今更後ろは見せられない羽目になってしまいました。遠藤老人は、ワザと道庵先生を困らせるつもりかどうか知らないが、先生を断わり切れないように仕向けておいて、女中を呼んで漁の用意をすっかり命じてしまいました。
こうなると道庵もまた、痩意地を張らないわけにはゆきません。血の出るような声をして、
「ようガス、芝浦であろうと、
道庵先生はよけいな口を
道庵を誘い出した遠藤老人は、船頭を雇い、家来をつれて、浜御殿の沖あたりまで舟を漕がせ、得意の投網を試みて腕の
道庵はもとより口ほどのことはなかったけれども、まんざら心得がないでもないらしく、ちょいちょい二三寸ぐらいのところを引っかけては鼻をうごめかせて、その度毎に天地をうごかすような自慢であります。遠藤老人はもとより道庵に口ほどのことは期待していないし、やがて竿で水を
それでもこの一夕はかなり暢気な気分になって、また万八へ帰り、そこで道庵と別れて亀沢町の隠宅へ帰ったのは、夜もかなり更けていました。
この人は旗本の隠居でも、そんなに大身ではありません。三百石ほどの家督を
こんなに夜が更けて帰っても寝る前に、ちゃんとその日の
そうかと言って、この老人は
「はて、今時分」
と封じ金をこしらえる手を休めて老人が小首を
「あれー、助けてエ」
絹を裂くような一声。それは確かに女の声で、その声ともろともに、バッタリと人の倒れる音、それが自分の坐っている窓の下で起ったのだから、金を封じてはおられません。
すっくと立って、窓を押し開いて外を見ました。
その窓の下の
老人は
遠藤老人はそのままにしておけばよかったのだけれども、実は
「待て、曲者」
その槍を構えて、いま辻斬の
寝静まっていた老人の家の者は誰もそれを知りません。また近所の人とても、更にそれと知って出合う様子も見えないほど夜は更けていました。もしまたそれと知った者があっても、
辻斬の狼藉者は、たしかに老人の声に驚いて榛の木馬場を後ろへ逃げたようです。しかもその逃げぶりが
「奴め、怪我をしているな」
といちずにそう思ってしまいました。だから勇気はいよいよ増して一息に追いかけた時に、辻斬の狼藉者は、ふいと角を曲って榛の木馬場の稲荷の
「逃げようとて逃がさんぞ」
稲荷の前に並んでいた榛の木の間から
二度突き損じたと思った老人は、二三歩とびさがりました。そこへ全身を現わした覆面の辻斬の狼藉者は、刀を抜いて腰のところへあてがって、腰から上を
三度、突きかけようとした遠藤老人は、どうしたものか、突くことができません。ハッハッと息が切れ出しました。槍がワナワナと
「エイ!」
覆面の辻斬の狼藉者の一声が、氷の上を走るように聞えました。それと同時に血煙が立って、かわいそうに遠藤老人は、槍を投げ出して二つになってそこへのめりました。
その翌日、
「さあ、お
と二枚折りの
「どれ、起きようかな」
屏風の中で、蒲団から半身を起したのは机竜之助であります。以前よりはまた
「どうもよく寝られるじゃねえか、
と言って米友は
「友吉どの、いろいろとお世話になって済まんな」
竜之助は、まだ全く起き上りはしません。
「お世話になるのならねえの、そんなことはどうでもいいが、
「何を……」
「何をじゃねえんだ、こうして見ていると俺らには、どうもお前の仕方に
「合点のゆかないこと、なにもこれほど世話になっているお前に、迷惑をかけるようなことをした覚えはないつもりだが」
「別に俺らも、お前から迷惑をかけられたとも思わねえが、今朝起きて見て、どうもちっとばかりおかしいことがあるんだ」
「そのおかしいこととは?」
「それだ、お前は、俺らに断わりなしで、ゆんべ夜中にどこへか出かけやしねえか」
「そんなことはない」
「無え? 無えとするとどうも変だぜ。まあいいや、なけりゃねえでいいけれど、お前、何事があってもまだ当分、外へ出ちゃならねえことは知ってるだろう」
「そりゃ承知している」
「お前が外へ出て悪いのみならずだ、俺らも当分は外へ出られねえことも知ってるだろうな」
「それも知っている」
「二人を、そっとここの長屋へ隠してくれた
「それもわかっている」
「何だか
米友は何か心がかりのことがあると覚しく、神妙な念の押し方をしました。まだ起き上らない竜之助は、黙ってそれを聞き流しています。竜之助が
敷きっぱなしにしてある
ふと米友は、その大剣の
「はてな」
その刀を手に取って屏風の
「おかしいぞ」
米友は暫くその刀を見ていたが、柄に手をかけて、引き抜いて見ようと意気込むところを後ろから、
「危ない、危ない、怪我をするからよせ」
手を伸ばして、その刀を取り上げたのは、いつのまにか後ろに立っていた竜之助でありました。
「は、は、は」
米友はなんとなくきまりの悪そうな笑い方をして引込みました。朝飯が済んでしまうと、竜之助は少しの間、日当りのよい縁側のところに坐って日光を浴びていましたが、また屏風の中へ隠れてしまいました。
米友は炉の傍で、大きな鉄瓶の中へ栗を入れて煮ています。栗を煮ながら眼をクリクリさせて
「友吉どの」
と言って屏風の中から、竜之助の声でありましたから、
「何だい」
「お前はたった今、この刀の中身を抜いて見たか」
「抜いて見やしねえ、抜いて見ようとしたところだ」
「それならばよいけれども、この後もあることだから、気をつけて刀には触らぬようにしてくれ、頼む」
「そりゃいけねえ、この狭いところでお前と二人っきりの暮しだ、いつどういうハズミで刀に触らねえとも限らねえや」
「それを言うのではない、今のように刀を抜いて見ようとしては困る」
「抜いて見たからっていいじゃねえか、お前と俺らの仲だもの」
「そうじゃない、刀は切れるものだから、お前に怪我をさせては悪い、それでワザワザ頼むのじゃ」
「御冗談でしょう、こう見えても子供じゃございませんぜ、子供がおもちゃのサーベルをいじるのとは違うんだぜ」
「だから頼むのだ、
「面白いね、血を見なければ納まらねえ刀というようなやつに、お目にかかってみてえものだね。権現様の大嫌いな村正の刀というのがそれなんだってね。お前の持っているのは、そりゃ村正か」
「村正ではないけれど……よく切れる刀だ」
と言って竜之助は、どうやら横になって寝込んでしまったもののようです。米友はなお黙ってしきりに栗をゆでていたが、栗もかなりゆだったと見たから、大鉄瓶をさげて流し元へ、その湯をこぼしに行きました。湯をこぼして
「栗がゆだった、一つ食わねえか」
と言って屏風の中を
夜になると風が
こちらの炉の傍に寝ていた米友は、その寝返りの音を聞くと、蒲団から首だけを出して屏風の方を見ていました。屏風の中はそれっきり静かなもので、すやすやと夢を結んでいるものらしくあります。それで米友も首を引込めて、また枕に就きました。それから、しばらくして屏風の蔭から、すっくと立った人のあった時には、もう米友は眠ってしまったものと見えて、動きません。
屏風の蔭からそっと忍び足に出た竜之助は、いつのまにか身仕度をしています。
「ウーン」
と言って
行燈のところで、米友の寝息をうかがうらしい竜之助は、左の親指を刀の
ほんとに米友がこの場合によく寝ていることは幸いでした。それは米友のために幸いであるのみならず、竜之助のためにも幸いです。いったい、竜之助は米友を米友と知らないでいるように、米友もまた竜之助を竜之助と知らないでいるのであります。おたがいに知らないでいるけれども、米友が竜之助を疑うように、竜之助もまた米友を疑わないわけにはゆきません。話をしているうちに、ちゃんぽんになっていた話が、或るところへ行ってピタリと合うことのあるのが不思議でありました。この前の日に、米友は何か急に思い当ったらしく、竜之助に向って、
「おい、お前は、本当の
と言ったことがありました。何のつもりで米友がこう言ったのだか、その時に竜之助は思わずヒヤリとさせられました。米友が竜之助に疑いを
細目にしてあった行燈の火が消えたことと消えないこととは、竜之助にとっては、大した
竜之助が外へ出ると共に、むっくりと蒲団を
暗い中から、短気なる米友としては悠々と、壁に立てかけてあった手槍を取って、同じく外へ飛び出しました。
この真夜中過ぎた晩に、両国橋の上を、たった一人で渡って行く女の人があります。女一人で今時分この橋を渡って行くことでさえが、思いもかけないことであるのに、その女の人は長い
お化粧をしていた
さすがに賑わしい両国橋の上も下も、天地の眠る時分には眠らなければなりません。
「ムクや、お前わたしと一緒においで、離れちゃいやよ」
と女の人は言いました。それは
橋の真中へ来た時分に、お君は欄干に寄り添うて、水の流れをながめながら、
「ムクや、お前、離れちゃいけないよ、今度こそは間の山へ帰るんだから、これからお前、その間の道中が長いのだから、お前がついていてくれないと、わたしは、とても間の山までは行けやしない。それにお前は、どうかすると途中で、わたしを捨てたがるんだもの……ずいぶんお前は薄情な犬だこと、わたしよりもお前は、あのお松さんが好きになったのでしょう、だからお前は、わたしのところへは来ないで、お松さんのところへ尋ねて来るようになったのでしょう。お松さんは誰にも好かれます、兵馬さんにも好かれます、御老女様にも好かれます、また出入りのお
お君は犬に向って、こんなことを言いながら
「さあ、こうしておいで、こうして行きさえすれば大丈夫、これから後は、お前とわたしが離れることはない、ふたり一緒に間の山へ帰れるから」
少しばかり歩き出した時に、
「何をしているの、早く歩かなければ夜が明けてしまいます」
お君は扱帯の端を強く引張りました。けれどもムク犬にはこたえませんでした。
「早くお歩きよ、夜が明けると少し都合が悪いことがあるんだから」
それでもムク犬は動きませんでした。
「あれはお前、向う両国で、左へ曲ると駒止橋、真直ぐに行けば回向院、それを左へ曲ると一の橋、一の橋を渡らないで
お君はこんなことを繰返して、ぼんやりとこし
「おや、誰か人が来るのだね、人が来るからお前はそれを待ってるのかい」
この夜は真夜中過ぎとはいえ、月のない夜ではありませんでした。鎌よりは少し幅の広い月が、たしか
その黒い人影というのは、頭巾をかぶって、竹の杖をついた辻斬の人であります。米友を出し抜いて
お君はゾッとして、
「まあ、なんだか怖くなってしまった、早く行きましょう、お前は誰に見られてもかまわないか知らないが、わたしはそうはゆかないの、夜の明けないうちにこの橋を渡りきらないと、あとから追手がかかるかも知れないから」
お君は強く
犬が牙を鳴らした時に、人が近づいています。
駒止橋を渡って右手のところに辻番があるにはあるのです。しかしこの番人は、昼のうちお葬式が、橋の上を幾つ通ったかということを数えていればそれで役目の済む番人でしたから、深夜、眠い目をこすって、メソッコを売る必要はなかったかも知れません。
お君もムク犬も無事にこの橋を渡りかけたように、この人影も無事に橋を渡ってここまで来ました。お君主従が行けば行く、とまればとまるのだから、たしかにそのあとを
「どなた」
と言ったけれども返事がありません。お君は犬に向って、
「それごらん、お前が早く歩かないから、人が来ているじゃないか、相生町から、お前とわたしを追いかけて誰か来たんでしょう、誰でしょう、御老女様でしょうか、お松さんでしょうか、どなた」
とお君は、犬に向ってこんなことを言いました。けれども犬は答えず、やがて一声高く吠えました。
いつしか杖を捨てた黒い人影は、刀を抜いています。
言い知れぬ恐怖に襲われたお君は、そこに立ち
「あれ! 誰かお前の前にいる、お前を殺そうとしている、危ない!」
なぜならば、外は月の光が暗いので、たしかに目星をつけて行く当の人影は、さながら煙のように、現われたり消えたりして行くからであります。人通りはまるっきり絶えてはいたけれども、弥勒寺橋の長屋を出て西へ向いて真直ぐに行けば、六間堀に浅野の辻番があります。右へ行くと、小浜の辻番があります。
それを真直ぐには行かないで、少し後戻りをして林町の方へ出ました。林町の
占めたと思って米友が、そのあとを抜き足で追っかけると、竜之助は煙のように橋を渡ってしまいました。米友がつづいて二の橋を渡ろうとする時に、行手から六尺棒を持った大男の体が見え出しました。
「やあ、あいつが向う河岸の辻番だ」
と米友は当惑して、小戻りして林町の町家の天水桶の蔭へ隠れると、鈴木の辻番は二の橋を渡って、米友の隠れている天水桶の前を、素通りして行ってしまいました。
それをやり過ごした米友が、天水桶の蔭から出て二の橋を渡りきって、相生町四丁目の河岸地へ来た時分には、不幸にしてまたも竜之助の姿を見失ってしまいました。
「チェッ」
米友は舌打ちをして
それで米友は、左手の相生町の角を真直ぐに行きました。気のせいか、今夜の辻番はいつもと変って、なんとなく穏かでないらしく、相生町四丁目の向う角にある本多の辻番などは、何か
「チェッ」
二丁目の
その家の前に提灯をさげて、二三の人を差図をしているらしいのは、まだ若い女でありました。
「お秋さん、お前は台所町の方へ廻って下さい、お前さんと栄助さんがあちらから廻って、辻番でいちいちお聞き申してみて下さい、そうしてやはり両国橋へ出て、こちらの組と落合うようにして下さい。わたしはどうしても両国を渡ったものとしか思われない、でも途中で辻番に留められているかも知れないから、よく聞いて下さい」
この差図をしている若い女の人の声、それが、まさに聞いたことのある人の声でしたから、
「おいおい、お前はお松さんじゃねえか」
「おや、どなた」
女は振返って、
「まあ、お前は米友さんじゃないか」
「うむ、
「どうしてこの夜更けに、お前さん、こんなところへ……それでもよいところへ来て下すった、今お前、お君さんが行方知れずになってしまったところなの」
「誰がどうしたんだ」
「ああ、米友さん、お前はまだ知らなかったのね、お君さんはこの家に、ずっと前からわたしといっしょに暮らしていたの、そのお君さんが今夜、見えなくなってしまったの、このごろ、古市へ行きたい行きたいと口癖のように言っていたから、その気になって出かけたのかも知れない、いいところへ米友さん来て下すった、お前さんも直ぐに探しに出かけて下さい、ほんとにせっかくおいでなすって早々、お使立てをするようなことを言って済みませんけれど、ほかの人と違って、あの方のことですから、お前さんも、喜んで行って下さるでしょう、早くして下さいまし」
「俺らは別に尋ねる人があって来たんだ、
「ちょいとお待ち、米友さん、お前なにか腹を立てているの。それでまあ手槍を持って、この夜中を一人で歩いて……提灯も持たないで。何かお前にも急用がおありならば、この提灯を持っておいでなさい、提灯を持って歩かないと、辻番がやかましいから」
お松は米友を追いかけて、自分の手にしている提灯を持たせようとします。その提灯のしるしには五七の桐がついておりました。
お松の手から極めて無愛想に、提灯を受取った米友は、さっさと相生町の河岸を駈け抜けて、本所元町まで来てしまいました。それまで来ても一向、机竜之助の姿を認むることはできません。ちょうどこの時分に米友は、どこからともなく、一声高く吠える犬の声を聞きました。それは深夜のことで、ここまで来る間には犬が吠えないではありませんでした。けれども、ここで一声の犬の声を聞いた米友は、思わずブルッと戦慄しました。
ここにおいて米友は、たったいまお松の言った言葉を思い合せました。いま吠えた犬の声がムクであってみると、米友はそこに何か異常なる出来事が起ったことを想像しなければなりません。ムクに逢わざること久しい米友は、その異常なる出来事を、路傍のこととして閑却するわけにはゆかないのであります。
米友はその二声目を聞こうとして、両国橋の橋の手前へ現われました。目の前にやはり番所があります。小うるさい、また辻番かと思った米友は、ふと自分の手に持っている提灯を見ると、これだなと思いました。お松の手から受取った提灯を今更のように見廻すと、物々しい五七の桐の紋に初めて気がつきました。
ちょうどその時であります、行手の両国橋の上で、
「あれ――危ない」
という声。
柳の蔭へ槍を隠して橋を渡ろうとした米友は、この声を聞くと共に、その槍を
この時にあたっての米友は、もはや辻番の
「助けて――」
絶叫と共に、ざんぶと水の音が立ちました。米友は橋の欄干に、一領の衣類がひっかかっているのを見ました。それは身分ある女の着るべき
「おい、どうしたんだ」
「はい、ムクがいるから助かります、この犬が、わたしを助けてくれます」
水の中から人の声。
「ナニ、ムクだって? 犬がお前を助けるんだって、それじゃあお前は、君公だな」
米友は、橋の板を踏み鳴らしました。
「チェッ」
槍を橋板の上へさしおいて、
「ばかにしてやがら、この
米友はこう言って
「馬鹿野郎」
たまり兼ねた宇治山田の米友は、提灯をさしおいて帯を解きにかかりました。
それから両国橋の上へ
それをよそにして、矢の倉の
暫くこうして塀の際に立っていた竜之助は、息をついているのであります。隠岐守の屋敷の隣は一橋殿で、その向うは牧野越中守の中屋敷、つづいて大岡、酒井、松平
ここへ来て立っている竜之助は、血に
その犬が……竜之助がここへ来ても、なお不審に思うのはその犬が、猛然としてその主人らしいのを防いでいたけれど、しかも自分に向って、なんらかの親しみがなかった犬とは思われないことであります。ここへ来て、はじめて思い越すよう、伊勢から出て東海道を下る時、七里の渡しから浜松までの道中を、自分のために道案内してくれた不思議な犬があった。自分が全く明を失ったのは、あの犬と離れた後のことである。犬と離れて自分は、ある女の世話になって東海道を下ったが、あれから犬はどこへ行ったやら。いま出逢った犬が、どうもその犬であるような気がしてならぬ。
斬らんとして斬り損じたことが、今宵に限って、まだ疑問として残されていたけれど、それがために血に
犬と人とをもろともに橋の下へ斬り落して、いや、斬り損じて落して、直ぐに
しかし、ともかくここまで来たのは、これから河岸を新大橋へ廻って、新大橋を渡って、
市中の見廻りや辻番が怖いとならば、それは出て来た時も同じこと。このままで帰れないのは、途中のそれらの心配ではなくて、人を斬らんとして斬り損じたことは、水を飲まんとして飲み損じたものと同じことであります。人を斬ろうとして家を出たものが斬らずに帰ることは、水を飲まんとして井戸へ行ったものが、水を得ずして帰るのと同じことであります。
こうして竜之助は、本多隠岐守の中屋敷の塀の下に立って、河岸に向いて立っておりました。
竜之助がここに立っているとは知らず、後ろから静かに歩いて来る人があります。それもたった一人で歩いて来ます。提灯も
「もし」
竜之助がその按摩を呼び留めました。
「はい」
按摩は驚いたように、ピタリと杖を留めました。
「あの、本所へ参りたいのだが、その道筋は、これをどう参ってよろしいか教えてもらいたい」
「本所へおいでなさるのでございますか、本所はどちらへ」
「弥勒寺橋に近いところまで」
「弥勒寺橋……それならば、両国へおいでなすった方がお得でございましょう、これから少々戻りにはなりますがね」
「その両国へ出ないで、新大橋を渡って行きたいと思うのだが」
「新大橋……左様ならば、これを真直ぐにおいでなさいまし、わたくしもそちらの方へ参りますから、なんなら……」
と言いながら
「今、両国に身投げがあったそうでございますね、でも助かったそうでございますよ」
按摩は自分の気を引き立てるために、わざとこんなことを言って、
「米沢町のお得意へ参りましてな、ついこんなに遅くなってしまいましてな、先方では泊って行けとおっしゃって下すったんですがね、ナーニ夜道は按摩の常だと言って、こうして出て参りましたよ、送って下さるというのを断わりましてな。自慢じゃあございませんが、これが
こう言って按摩が振返った時に、ヒヤリと冷たい風。音もなく下りて来た一刀。
「えッ、目の見えない者を斬ったな!」
かわいそうに、まだ年の若い按摩でありました。振返った途端に、右の
宇治山田の米友が、弥勒寺橋の長屋へ帰って来たのは
そろそろと座敷へ上った米友は、そっと屏風の中を
「うーむ」
と言って米友は、それを覗きながら腕組みをして唸りました。そうかといって、よく眠っているものを起そうとするでもありません。枕許の刀架を見ると、夜前見ておいたところよりはこころもち前へ進んでいるかと思われるだけで、大小一腰は少しの変りもなく、米友は昨日の朝したように、
こうして屏風の上から暫く眺めて唸っていた米友は、思い出したように炉の近いところへ来て火を焚きつけました。
「チェッ」
火がよく焚きつかないで舌打ちをしました。ようやく火が燃え上った時分に米友は、ぼんやりとその火をながめていました。しばらくぼんやりと火をながめていた米友が、また急に思い出したように立ち上って、流し元へ行って、二升だきの鍋をさげて来ました。鍋の中には
その鍋を自在鍵にかけて米友は、またぼんやりして鍋を見つめました。せっかくの焚火が消えかかるのに驚いて、また
そのうちに火が威勢よく燃えて、鍋の中の飯が吹き出すと、米友は慌てて鍋の蓋を取って、またその鍋を見つめて、ぼんやりとしていました。その時屏風の中で寝返りの音がして、さも苦しそうに
「眼の見えない者を斬った!」
屏風の中の人は、夢か、うつつか、こう言った言葉に思わず身ぶるいして、
「エエ!」
米友は眼を光らせました。それから尾を引いたような長い唸りが続きました。
また
ここに米友は、不思議の感に打たれています。昨夜、この人を追うて出てついに
相生町の老女の家へ、人と犬とを送り届けて、昨夜出た人の行方を
そもそもこの人は昨夜、何のためにどこまで行って、いつ帰ったかということが、米友には測り切れない疑問でありました。それよりも眼の見えないはずの人が、目の見える自分を出し抜いて無事に帰っていることが、奇怪千万に思われてなりません。
こいつは
多分石川島の造船所から乗り出したと思われるバッテーラが、この真暗な中を無提灯で、浜御殿の沖へ乗り出しました。
「どこへおいでなさるんでございます」
「西洋へ」
と答えたのは、駒井甚三郎の声であります。
「エエ! その西洋へ、こんなちっぽけな船で?」
「これで行くんじゃない、沖へ出ると大きな船がある」
「へえ、いったい、あなた様は、どうしてそんなお心持におなりなさったんです、何の御用で西洋へおいでなさるのでございます」
バッテーラを漕ぎ出したのはこの二人。人足の
「吉田寅次郎の二の舞だ」
と言ったまま多くを語らず、それをわからないなりで
やがてこのバッテーラが神奈川へ近くなると、闇の間にきらめく星のようなものがいくつも見え出しました。
「清吉、あれを見ろ」
甚三郎が指さすところに、三本マストの大船が、海を圧して浮んでいます。
世相はさまざまであります。一方には尊王攘夷が盛んであると共に、一方にはまた西洋を見なければならぬと悟る者も多くありました。駒井甚三郎はこうしてコッソリと抜け出したけれども、この年、幕府からは
それとはまた別に、長者町に妾宅を構えた
その前祝いのために、この妾宅で
この朝野の名流というのが、いつも大抵きまった
それから、主人側と来客が
そのおテンタラの交換が済むと、それから主客が打解けての宴会がはじまります。その宴会の前後には余興が行われました。
余興も例の鬼ヶ島の征伐に至ると、もう主客ともに
さて、この隣家に控えているのがほかならぬ道庵先生であります。これをそのままで置いては、それこそ道庵先生健在なりやと言いたくなるのであります。ところが先生、どうしたものかいっこう振いません。不在でもあるかと思うと、立派に在宅しているのだから、子分のなかでも気の早いデモ倉というのが堪り兼ねて、
「先生、あれでいいですか、長州征伐の兵隊たちは
眼の色を変えて詰め寄せて来ました時に、道庵先生は
「まあ、
腹の大きいところを指さしました。けれどもデモ倉には、先生の腹の大きいところを理解するだけの頭がありませんでした。
「先生、いやにすましてるねえ、お
南条
神奈川の
兵馬の眼を驚かしたのは、眼の前の沖に、見慣れぬ三本

「あれは
南条力は一種の感慨と、
神奈川の宿の外れまで二人を送って別れた宇津木兵馬は、その帰りに神奈川の町の中へ入ってみると、そこにも目を驚かすものが多くありました。今まで京都や江戸で見聞した気分とは、まるっきり違った気分に打たれないわけにはゆきませんでした。神奈川の七軒町へ来ると、大きな一構えの建築を見出して屋根の上をながめると、横文字で、No. 9 と記してあります。兵馬はそれを見て、ははあ、これが有名なナンバーナインというものだなと思いました。兵馬はここで
兵馬の頭はこの新しい開港場へ来ると、いたく動揺してしまいました。何か大きな渦の中へでも捲き込まれて行くような心持で町の中を去って、また小高い丘へ登りました。そこで松の木蔭に坐って横浜の港と東海筋とを、しんみりと眺めました。大きな渦へ捲き込まれそうであった頭の動揺がここへ来ると、また静かになりました。そうして松の木蔭でゆっくりと休みながら海を見ていると、この時にかの大きな船が煙を吐きはじめました。やや暫く見ているうちに、徐々としてその船が動き出しました。
誰を送るともなしに、あの船の行方に