一
清澄の茂太郎は、ハイランドの月見寺の三重の塔の
天には星の数
地にはガンガの砂の数
大声あげてうたいました。地にはガンガの砂の数
してみると、茂太郎は、星をながめるべくこの塔の上へのぼったものです。
茂太郎が、星をながめる興味は、今にはじまったことではありません。
「星は雨の降る穴だ」
と教えられた時分に、ふと清澄山の
「穴ではない、星だ、星だ」
と叫んだのが最初で、それからこの子は、天界の驚異のうちに、星の観察を加えました。
見れば見るほど、星の正体がこの子供には神秘にも見え、また親愛にも見え出して来たので、月を迎えに出るのを口実に、ほんとうは星の数をかぞえて帰ることが多かったものです。
もとより、この子は、天文の観察を、少しも科学の基礎の上には置いていない。
「あの星がいちばん光る」
という直覚の第一歩から踏み出して、それを標準に、夜な夜なの変化を観察して、その記憶を集めているうちに、
「動かない星がある」
という第二段の知識で、北極星を認めたことから進み、今では星座の知識をほとんど備えて、普通の肉眼では六ツしか見えないという
星は決して雨の降る穴ではない、どの星も、この星も、おのおの独立した個性を持って大空に光っていると見たこの少年は、昔の
清澄山や日本寺あたりの空は広く、気は澄んでいて、天候の観察には便利でありましたが、このハイランドは、それに比べると
天には星の数
地にはガンガの砂の数
を歌い出すと、おのおのの星が舞い出して、茂太郎の周囲に降りてくるようです。地にはガンガの砂の数
色の最も赤い、運動の最もはやい、マースの星が、茂太郎の愛するところの一つでありました。
茂太郎の天文学は、科学に基礎を置いていないように、迷信にも
すべて、物は、純な心を以て見ないものに、その美しさを示すということがありません。清澄の茂太郎にとっては、天上の星の一つ一つが、充分にその美しさを旋廻して見せるのですから、見れども飽くということを知らず、ある時は星と共に大空の奥深く吸い込まれ、ある時は星が来って、わが周囲に舞いつ、おどりつしているもののように見え、
「弁信さん、星がキレイにおどっているよ、とても
と呼びました。
清澄の茂太郎が、天上の星をながめている時、地上の庭では、弁信法師が虫の鳴く音に耳を傾けております。
「トテモ綺麗だよ」
茂太郎は天上の星に
「茂ちゃん、わたしは今、虫の音を聞いているところですよ」
この返事は、塔の上はるかな茂太郎の耳には入らなかったでしょう。
「いろいろの虫が、草むらで鳴いておりますよ」
おのおのの虫は、おのおのの生を語るが如く、力いっぱいの奏楽を試みている。弁信は、今、その一つ一つが持つ生命の曲を聞きわけようとして離れられないものらしい。茂太郎は、あらんかぎりの愉悦を以て、あらんかぎりのあこがれを捧げて、星をながめているのだが、虫を聞いている弁信の
そこで、天上と地上の二人の交渉は、暫く絶えてしまいました。
星はほしいままに天上にかがやき、虫は精いっぱいに地上で鳴いていると、
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりました」
弁信法師がこういって、見えない眼をしばたたいたのは、物に感じて、また例のお
「鳥と虫とは鳴けども涙落ちず、日蓮は泣かねど涙ひまなし……と日蓮上人が仰せになりましたのは……」
弁信法師は、地上の虫が
「現在の大難を思うも涙、
といって、あらぬ
「ええ、私でございますか……いつも申し上げる通り、この眼が見えないものでございますから、耳の方が発達しておりまして、一度聞かせていただいたことはわすれません、二三度、とっくりと聞かせていただきますと、生涯わすれないのが、幸か不幸か私にはわかりませぬ……ことに、達人高士のお言葉には、必ず音節とおなじような
弁信は、ふらふらと庭の中を二足ばかりあるいて踏みとどまり、
「日蓮上人は、
虫の鳴く音から誘われた弁信の耳には、東夷東条安房の国、海辺の
二
その時、塔の上では茂太郎が、けたたましい声で歌い出しました――
とっつかめえた
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえて
五両に売った!
五両の相場
五両の相場は誰 が立てた
八万長者のチョビ助が!
けれども、下にいた弁信法師の耳には、この時とっつかめえた
星の子を
とっつかめえた
星の子を
とっつかめえて
五両に売った!
五両の相場
五両の相場は
八万長者のチョビ助が!
弁信法師は今
こうして、天上のあこがれと、地上の
殺生者――といっても白骨の温泉へ出発した机竜之助が立戻ったわけではなく、極めて平凡なその道の商売人である猟師の勘八が、抜からぬ
「弁信さん、お前、そこで、あにゅう、かんげえてるだあ」
猟師の勘八は、いま山からもどったばかりのなりで、鉄砲をかつぎながら言葉をかけたものですから、
「あ、勘八さんでしたか」
「今、けえりましたよ」
「そうでしたか、猟はたくさんございましたか」
「大物を追い出すには追い出したでがすが、また追い込んでしまったから、これから出直しをしようと思ってけえって来たところでがすよ」
「あ、左様でございましたか。そうしてその大物というのは何でございます」
「熊だよ」
「え、熊がこの辺にもおりますか」
「いますとも」
「お
「有難う。それから弁信さん」
「はい」
「お前さんは、お銀様という人を知っているだろうね」
「お銀様――ああ、知っておりますよ、それがどうしましたか」
「その方を、わしが連れて来ましたよ」
「お銀様を連れておいでになった……勘八さん、お前こそ、どうしてお銀様を知っているのですか」
「山の中で拾って来ました」
「拾って……それは、どうしたわけでしょう」
「
「本人のお銀様を、お前さんがここへ連れておいでになったのですか、そうしてお銀様はドコにおいでになりますか」
「いま、
「有難うございます……そうしてなんでございますか、勘八さんがお連れ下すったのはお銀様だけでございますか、それとも、あの若いおさむらいの方も御一緒にお帰りになりましたか」
「あの方は、けえりません、お銀様だけ一人連れてきました」
「そうでしたか……お銀様のこれへおいでになった理由は、私にも思い当ることがないではございませんが……」
といって弁信は、何か思案にくれました。
三
月見寺の一室に控えているお銀様は、ふと床の間に目をつけて、その草花を
というのは、青銅の大花瓶に乱雑に投げ込んである秋草は、多分清澄の茂太郎あたりの仕事だろうが、無論、式にも法にもかなってはいない。そこで、お銀様が見かねて、それを整理する気になったのです。
かなり丹念に、花と枝を整理してゆくと、見ちがえるばかりのあざやかなものとなりました。
それでもお銀様は、まだ不足なものがあるように、
これは、どうしたものだろう。お銀様は、花を活ける手際には、相当の自信を持っているつもりなのに……
結局、これは、自分の活け方の悪いのではない、この方式で活けた花は、この室内にはうつらないのだ、と気がつきました。
花にも、手際にも、難があるのではない、この室そのものが、花と、手際とにそぐわないのだ。つまりこの室が悪いのだという結論になりました。
ですから、この室を作り変えない以上は、この花に得心がゆくべきはずがない。室を作り変えるのは、家を作り変えるのだ。問題が、そこまで行くと、お銀様も不本意ながらこのままで安んずるほかはありません。
そんならば、この室のどこが悪いのだ、一見したところで、無理に作られているとも思われない。仔細に見たところで、世間並みの書院造りの手法様式と変ったものが、あろうとも思われないが、どうも気分そのものが気に喰わない。
と思って、見廻しているうち、ふと、お銀様の眼にとまったのは、床の間に立てかけであった、長い
お銀様は、ようこそあれと、その白鞘の長物をとって、自分の膝の上まで持って来ましたが、やがて
この時とても、お銀様はいつもするように、
お銀様の眼が怪しくかがやきだしたのは、それから後のことで、息をはずませながら、刀をもとのままにおさめて、もとあったところへ置く手先がふるえているのも不思議でしたが、刀を置いた手を、すぐに棚の戸にかけて、スルスルと押し開くと、中をながめていましたが、手をさしのべて、中から引き出したのは、若い娘などの持ちたがる
それを、大事そうに、以前のところまで持って来たお銀様は、
これは、水につけて蔭干しにして、やわらかくもみ上げた奉書の紙で、これで刀剣の中身をぬぐうのだとは、お銀様もちゃんと知り抜いているので、かたえに刀剣がある以上は、ドコかにこれがなければならない――
それは、家があれば台所のあるのとおなじことで、お銀様も、幾度か、机竜之助のために、この紙を用意してやった覚えがあるのですが、現在、ここにあるこの紙は、お銀様がこしらえてやったものではありません。
そう思って見ると、自分が常にこしらえてやったものよりは、揉み方がやわらかである――お銀様は、急にその香箱を持って、自分の鼻先に持って来ると、
けれども、お銀様は、その油の香いが嫌でした。この場合、お銀様には、奉書の紙の
「お嬢様――」
と弁信法師のおとずれの声が聞えたのは――
「はい」
お銀様は引裂いた紙を、
「弁信さんですね」
「ええ」
と答えたその弁信は、この室へ入って来たのではありません。それは次の間にいるのだか、また廊下の辺にでもたたずんでいたか、夜来て、夜この室に入ったお銀様には、更に見当がつきません。
「お嬢様」
再びお銀様の名を呼んだ弁信は、前の通りどこにいるか、所在を知らせないで、
「あなたが、何のためにここへおいでになって、何を、私におたずねになろうとするのか、それは、私にようくわかっております。しかし、お嬢様、たとい、あなたがおたずねになろうとするほどのことを、私がいっさい存じておりましたにしても、それを残らず申し上げねばならぬという
何も尋ねられない先に、弁信はこういって予防線を張ってしまったのは、尋ねられないまでも、その先、その先をいってしまいたがるこのお
「それでは無理におたずねは致しますまい」
とお銀様が冷やかに答えましたが、
「お前が教えてくれなくても、わたし一人で探してみせるから……」
と針をふくんでいいかえしました。しかし、この針も弁信法師の胸には立たず、
「すべての女の人は、男を
弁信法師一流のいい廻しで、前提を置き、言葉をついで、その註釈を述べようとする時、
「今晩は……」
とその間へハサまったのは、それは弁信の声ではありません。お銀様の挨拶でもありません。清澄の茂太郎が、自分の身体が押しつぶされるほどの
「御苦労さま」
とお銀様が言いました。
「ああ、重たかった」
夜具蒲団を頭から投げおろした茂太郎が、ホッと息をつく有様を、お銀様がつくづくとながめて、
「随分重かったでしょう、よく、これだけ持てましたね」
「随分重かったよ……どちらへお休みになりますか」
といって、茂太郎は座敷の部分を、キョロキョロみまわしますと、
「ええ、ようござんす、そうして置いて下さい」
「そうですか、それじゃ枕を持って来て上げましょう」
茂太郎は取ってかえしました。
お銀様は立って、その蒲団を程よいところへしきのべた時分には、弁信法師のことはわすれていました。弁信もまた、それきりで、どこにいたのだか、どこへ行ったのだか、最初からわからないままです。
まもなく一つの箱枕を持って来た清澄の茂太郎は、燃ゆるばかりの
そこでお銀様が、
「たいそう
「ええ、もとは坊さんの
「そうですか」
茂太郎は今、下着には、あたりまえの
「お雪ちゃんというのは、あなたの姉さんですか」
お銀様は、この子供の言葉尻を利用することを忘れませんでした。
「いいえ、お雪ちゃんは、ここのお寺の娘さん分ですよ」
「そうですか。そのお雪ちゃんは、いまもここにいて……?」
「いいえ……」
茂太郎が頭を振るのを、お銀様は
「
「ええ、この間までいましたけれど……」
「この間まで……そうして、今どこへ行ったの?」
「温泉へ行きました」
「温泉へ……?」
「ええ」
「どこの温泉」
「さあ……」
お銀様の追窮が急なので、茂太郎に困惑の色が現われましたから、お銀様も、ちょっと
「お雪ちゃんという娘さんは、幾つぐらいのお歳なの」
「そうですね、あたいは聞いてみたこともないんだけれど……十七か八でしょう」
「そうして、お雪ちゃんは誰と温泉へ行きました」
「誰とだか……」
「お前、知らないの?」
「ええ。だけども、一人で行ったんじゃないんだよ」
「一人じゃないの、幾人で?」
「三人連れで……」
「その三人は、誰と誰?」
お銀様の追窮が、やっぱり急になってゆくので、茂太郎の困惑が重なるばかりです。
「それは、わかってるにはわかってるが、弁信さんが、いうなといったからいわれない」
「そう……」
お銀様も、それ以上は押せなくなりました。しかし、これだけ聞けば、全然得るところがなかったとはいえない。
そうするとお銀様は、十七八になるお雪という娘の骨を、食い裂いてやりたいほど憎らしくなりました。
「おばさん、お前はなぜ
その時、不意に茂太郎が反問しました。
「これはね――」
お銀様は
「お前さん、わたしの
といいました。
「見たかないけれど、家の中で頭巾をかぶっているのはおかしいじゃないか」
「お前、おばさんの
「見たかないけれど……」
「見たいんでしょう……」
といって、お銀様は膝を進ませて茂太郎の手を取りました。
「見たければいくらでも見せて上げるから、この頭巾の
「だって……」
「いい児だから解いて頂戴……」
お銀様は茂太郎を膝の上へ抱き上げ、そうしてあわただしく自分の頭巾を取ってしまいました。
「おばさん、何をするの」
清澄の茂太郎がもがくと、お銀様は、
「何もしやしません、わたしは
といって、放そうとはしませんから、
「いやだ、いやだよ、おばさん」
「
「いやだってば、おばさん」
「いいのよ、わたしの
「え」
といって茂太郎は、
「
人に隠して見せまいとつとめた自分の面を、この時に限ってお銀様は、打開いて茂太郎に見せようとします。
満面が焼けただれて、
「怖かありません、おばさんの面は怖くないけれども、こうやって抱かれるのが窮屈でならない、放して下さい」
「お前、ほんとうに、わたしの面を怖いとは思わない?」
お銀様は、なお、おびやかすように茂太郎の面に、呪いそのもののような自分の面を見せようとすると、
「怖かありません、あたいは人の怖がるものを怖がらないけれど、窮屈なことがいちばんきらいなのよ」
「いいえ、おばさんの面はこわい面でしょう、それにくらべるとお前の面は、綺麗な面ね」
「いいえ、怖かありません、あたい蛇だって、狼だって、何だって怖いと思ったことはないけれど、人に可愛がられるのが大嫌いさ、息が詰まるんだもの……」
「お前の名は何というの?」
「清澄の茂太郎」
「茂ちゃんていうの」
「ああ、おばさん、放して頂戴よ、息苦しくて仕方がないからさ」
「おとなしくして、
「放して下さい、ほんとに熱苦しいんだもの……よう、おばさん」
「おとなしくしておいで――」
「いやだ、いやだ……おばさん、何をするの、放さないの?」
「わたし一人で淋しいから、茂ちゃん、泊っておいでなさいな」
「息が詰まるじゃないか、おばさん、どうしても放さなけりゃ、あたい、口笛を吹いて狼を呼ぶからいいや」
「何ですって、狼を呼ぶ……?」
「ああ、あたいがここで口笛を吹くと、狼が出てくるんだから……」
「まあ怖い……お前は狼より、わたしの方が嫌いなの?」
「だって、息がつまりそうだもの」
「あたしの顔は、狼より怖い……」
「そんなことはないけれど……」
「わたしの息は、蛇の息より、熱苦しいの?」
「おばさん、
「だから、おとなしく、おばさんのいうことをお聞きなさい、あたしは千人の子供を食べる鬼子母神様の生れ変りなんですもの」
「いけませんよ、おばさん。あ、それじゃ、あたい口笛を吹きますよ」
「吹いてごらん、いくらでも」
お銀様は、その
四
お銀様の膝をのがれ出た茂太郎は、弁信に向っていいました、
「弁信さん、奥にいるおばさんはこわいおばさんですよ、人の子を取って食べるんですとさ」
「そばへ寄らないようにおし」
「嘘でしょう、千人の子供を取ってたべるなんて……」
「それは鬼子母神のことです」
「でも、鬼子母神様の生れ変りだっていいましたよ。ナゼ、鬼子母神様は、人の子を取って食べるの?」
「それは愛に餓えているからです……」
弁信法師はこういって、その話を打切って、二人は例の如く枕を並べて寝に就きました。
その夜は無事。
翌日になって、またしてもこの寺へ一人の珍客がやって来ました。
それは武州高尾山の半ぺん坊主が、やけに大きな
「こういうわけで、今度お許しが出ましたから、またまた山を崩し、木を
といって、
奉加帳をひろげて、べらべらと
「さて高い声ではいえませんが……そうして登りが楽になりますてえと、山の上へ金持がバクチを打ちに参ります、商売人を連れて、おんかでバクチを打ちに参ります、これがそのテラといっては出しませんが、この連中の納める杉苗が大したものなんで。それにのぼりが楽になりますてえと、連込みの客もだいぶ入ってまいります、こういうのが、また杉苗を余分におさめるというわけでございますから……その杉苗でございますか、そんなに杉苗をもらってどうするのだとおっしゃいますか……へ、へ、それは徳利の中でも、半ぺんの下でも、どこへでも植えちまいますから御心配下さるな。そういうわけで、この車が出来さえすれば、一割や二割の配当は目の前でございます」
半ぺん坊主は、言葉たくみに説き立てました。
その時、応対に出たのが幸か不幸か、弁信でありました。
弁信は半ぺん坊主のいうところを
「御趣意の程、よく
弁信法師が一息にこれだけのことをしゃべって、なお立てつづけようとするから、半ぺん坊主は青くなって、
「話せねえ坊主だなあ」
奉加帳を小脇に、逃ぐるが如く走り出ました。
五
半ぺん坊主が出て行った日の夕方、宇津木兵馬が
その晩、前のと同じ部屋で、兵馬は燈下に
「私は、明日再び山へ入ります、そうして今度は当分出て来ないつもりです」
と言うと、あちらを向いていたお銀様が、
「どちらの方の山へ?」
とたずねました。
「以前の方の山を、もう少し深く、入れるだけ入ってみようと思います」
「そちらの山を深く行きますと、温泉がございますか?」
「温泉……あちらの方面には温泉がありませぬ」
「わたしは、また温泉のある方の山へ行ってみたいと思います」
「そうですか……では、信州の方面へおいでになるとよろしうございます、甲武信と申しましても、甲州と武州には、温泉らしい温泉がありませぬ」
「あなたは御存じですか」
とお銀様があらたまった質問を、兵馬に向って試みようとします。
「何でございますか」
「このごろ、
「ああ、お雪ちゃんですか……あの子は、そうですね、どこでしたか……」
と兵馬が小首を
「あなたも、そのお雪ちゃんという娘さんを御存じでしょうね」
「知っていますとも、親切なよい娘さんです。わたしもそのお雪ちゃんの親切で、この寺へ御厄介になる縁になったのです」
「そうですか。その娘さんはひとりで温泉へおいでになりましたか?」
「いいえ、ひとりではありますまい、娘さん一人では遠くへは出られますまい……誰か近所の人が附いて行ったようです」
「その近所の人というのは、誰ですか御存じ?」
「知りません、私のいない間のことですから……」
「わたしも、そのお雪ちゃんとやらの行った温泉へ、行ってみたいと思うのですが、それは、あなたのおいでになろうとする山の方角とは違いますか」
「さあ、それが……私の行こうとする方面には、こころあたりの温泉がないのです」
「誰も、そのお雪ちゃんという娘さんの行った先の温泉を、知らないというのが不思議ではありませんか」
「知らないはずはありますまい、留守の人に尋ねてごらんになりましたか」
「尋ねてみましたけれど、誰も教えてはくれません」
「それでは、あとで私が尋ねてみて上げましょう、誰か知っていなければならないはずです」
そこで、兵馬は、少し進んでたずねてみようかと思いました。
いったい、この不思議な女の人は、誰をたずねてこの寺へ来たのだ。男の姿に身をかえてまで、一人旅をしてたずねて来たのは、どうもお雪という娘をめあてに来たのではないらしい。よくよくの深い
今となって、燈下にうつるこの女の
「あなた、もし、この刀の持主を御存じはありませぬか?」
といって不意に立ってお銀様が持ち出したのは、例の床の間の
宇津木兵馬はその刀を見て、こんな刀が、この寺にあったのかと疑いました。
行李をまとめていた手を休めて、お銀様の手からその刀を受取ると、多大の疑惑を以て、その刀を抜きにかかりました。
兵馬はまだ刀を見て、その作者を誰といいあてるほどの眼識はない。けれども、刀の利鈍と、品質はわかる。ことに一たび実用に用いた刀……露骨にいえば、最近において人を斬ったことのある刀は、一見してそれとわかる。到るところの社会で、血のりを自慢の刀をよく見せられていたものだから――
ところで、寺院には似げもない
十分に拭いはかけたつもりだけれども、拭いが足りない。
そこで兵馬は、まずこの刀の作者年代が、誰で、いつごろ、ということは念頭にのぼらないで、
「これは寺の刀ですか、それとも誰か持って来たのですか?」
「この床の間にあったのです」
「それでは、寺の物ですな」
「そうかも知れません」
兵馬の疑点が一歩ずつ深く進んで行きました。身に寸鉄を帯びざることは、智識の誇りではあるにしても、寺に刀があって悪いという
同時に
これほどの斬り手がどこにひそんでいたか。これは今以て兵馬には解決がついていないところへ……見せられたこの刀が、激しい暗示を与える。
「誰がこの刀を持っていましたか?」
「それは、わたくしから、あなたにたずねているのです」
「いや、私にはわかりませぬ、あなたにお尋ねしなければなりません。あなたはこの刀の持主を尋ねて、この寺へおいでになったのですか、その人は、何という人で、何のためにこちらへ来たのですか」
「それは人を殺すことを何とも思わない人です……ですけれども、わたしはその人が忘れられないのです」
「あなたのおっしゃることがよくわかりませぬ」
「それでは、もう一つ付け加えましょう、その人は目の見えない人です……どういう縁故でこの寺へ参りましたかは存じませぬが、今はこの寺にはいませんそうで……温泉へ行ってしまったそうです」
「まだわかりませぬ、もう少しお聞かせ下さいまし」
話が、それから進むと、お銀様は、ついに兵馬に向って、
「机竜之助」
の名を語らねばならなくなりました。そうでなくてさえ一語一語に、何かの暗示を
「あ、それだ、その人ならば、あなたが尋ねる人ではない……」
兵馬の昂奮がお銀様を驚かしたのみならず、あわただしく刀を
「私は、あなたと共に、その温泉へ行かなければならぬ、その温泉とはどこですか」
兵馬が最初の
ここに運命の極めて奇なる因縁で、宇津木兵馬とお銀様とは、その翌日、行を共にして尋ね人のあとを追うことになりました。
温泉の名をハッコツとだけは、知ることができましたが、そのハッコツとはどこ。それは誰に聞いても要領を得ることができませんでした。
今ならばハッコツの
ともかくも、温泉として聞えたる信濃の国、諏訪の地名から
欲望を異にして、目的を同じうするこの
お銀様は今も、持てる金のすべては兵馬に附託して、これで旅の用意の万事をととのえるように、そうして乗物も二人分、通しを頼んでもらいたいということをいいました。
しかし兵馬は、お銀様だけは都合のよい乗物で、自分はドコまでもそれに附添うて、徒歩で行こうと決心をきめて、それによって旅行の準備を進めてしまいました。
兵馬は計らずして、
あてどもない山奥に、半ば
そうかといって、この世に代価を払わない幸運というものは一つもない。兵馬にこの幸運を与えた祝福の神は、人の子を取って食う
六
駒井甚三郎は、房州の
その昔お角が、清澄の茂太郎を買込みに行く時に乗込んで、大難に
なるべく人目に立たないように、駒井は帆柱のうしろ、荷物の隅に隠れていました。
乗合の客は、例のとおなじように、士分階級をのぞいた農工商のものと、今日は、それ以外の遊民が少なからず乗合わせている。
遊民というのは、
しかし、きょうは、天気も申し分なく、近き将来の時間において、思い設けぬ天候の異変もこれあるまじく、たとえ、お角が乗合わせていたからとて、
隠れているといっても、なにしろ限りある木更津船の甲板の上で、書物を開いている駒井甚三郎の耳には、乗合船特有の世間話が、連続して流れ込んで来るのを防ぐことはできない。ある時は耳を傾けて、これに興を催してみたり、ある時は書物に念を入れて、それを聞き流したりしているうちに、こまったことには、例の遊民の連中がいつか気を揃えて、いたずらを始めてしまったことです。
「
と
「おい、音公、お前に五本行ったぞ」
貸元が念を押す。
「
向う鉢巻が返答する。
「六三に四六を負けるぞ、負けるぞ」
と中盆が
「はぐりをうっちゃれよ、
と
「一番さいてくれ、さいてくれ」
「金公、それ三本……ええ、こっちの旦那、お前さんは十本でしたね」
貸元は盛んにコマを売る。
「いいかげんに、やすめを売れやい」
「勝負、勝負……」
駒井甚三郎も、これには弱りました。
この連中も最初のうちは、やや控え目にしていたのが、ようやく調子づいて来ると、
こうなっては隠れていることも、書物を読むこともめちゃめちゃです。駒井は一方ならぬ迷惑で、避難の場所を求めようとしたが、やはりかぎりある船中に、人と荷物でなかなかそのところがない。ひとり駒井が迷惑しているのみならず、乗合いの善良な客はみな迷惑しているのです。しかし、善良な客が進んで船内の平和を主張するには、どうも相手が悪過ぎる――船頭でさえ文句が附けられないのだから、暫く、無理を通して道理をひっこめておくより思案がないらしい。
駒井甚三郎とても、相手をきらわないというかぎりはない。見て見ないふりのできるかぎりは、立ち入りたくない。しかし、この船中で見渡したところ、かりにも士分の列につらなっている身分のものは、自分のほかにはいないらしい。万一の場合、義において自分が、船内の平和を保つ役目を引受けなければならないのか、とそれが心がかりになりました。その時分、勝負がついたと見えて、船の上はひっくりかえるほどの騒ぎです。
こういう場合の役まわりは、宇治山田の米友ならば適任かも知れないが、駒井甚三郎ではあまりに痛々しい。
それを知らないで、調子づいた遊民どもは、全船をわが物顔に熱興している。
彼等が、熱興だけならば、まだ我慢もできるが、船中の心あるものを迷惑がらせるのみならず、その善良な分子をも、この
いわゆる良民のうちにも、
「へ、へ、へ、丁半は
「じょうだんいいなさんな」
「五貫ばかり売ってもらいてえ」
「
貸元が景気よくコマを売る。
「丁が余る、丁が余る……いかがです、旦那、負けときますぜ、やすめを一つお買いになっては……」
「へ、へ、へ」
前のよりはいっそう人のよかりそうな、
こうやって彼等の景気は増すばかりで、心あるものの気持は
暫くしている間に、最初にしたり
「
いざやと壺振りが、勢い込んで身構えをする。
二三番するうちに、新入者がまた二三枚加わる。加わった当座は多少の目が出ると、
こうなってみると駒井甚三郎も、相手を
「これこれ、お前たち、いいかげんにしたらいいだろう」
「何が何だと……」
「そういうことをしてはいけない、乗合いのものが迷惑する」
と駒井が厳然としていいました。
しかし、この遊民どもは、駒井が
「何がどうしたんだって――人の楽しみにケチをつける奴は
「殴っちまえ」
風雲実に急です。駒井もこうなっては引込めない……かえすがえすも、米友ならば面白いが、駒井では痛ましい。
その時、帆柱のかげからムックリとはね起きた六尺ゆたかの壮漢、
「こいつら、ふざけやがって……」
盆ゴザも、場銭も、火鉢も、煙草も、手あたり次第に取って海へ投げ込む
七
これほどの勇者が、今までどこに隠れていたか、駒井も気がつかなかったが、乗組みの者、誰も気がついていなかったようです。
不意に飛び出したこの六尺豊かの壮漢が、痛快というよりは乱暴極まる
さしもの遊民どもが手出しができないのみならず、あいた口がふさがらないのは、その
といってこの六尺豊かの髯面の大男、そのものの
それですから、さしもの遊民どもも、一層おそれをなしました。
「人の安眠を妨害する奴等、船底へ引込んで神妙にしとれ」
中盆と壺振の二人の襟首をひっぱって、船底の方へ投げ込んでしまったのは、あながち怪力というわけではない、呑まれてしまった遊民どもが、自由自在になっているのです。
そこで、さしも全権を
船中の者も、この勇者を
その勇気といい、筋骨といい、身に帯びたすばらしい長短の刀といい、天下無敵の
駒井もまた、この豪傑が不意に現われて、自分の解決すべき難関を、一気に解決してくれた幸運をよろこびましたから、讃仰者のないのを恨みとする理由はありません。こういう場合においては、第一声を切ることが勇者の仕事で、その
こうして一時無頼漢どもに占領されていた船の甲板は、再び良民の天下となって、乗合船そのものの平和な光景が回復されました。
駒井能登守は思いました。これはこれ一場の喜劇のようなものだが、一代の風潮もこの通りで、進んで身を挺するの勇者さえ現わるれば、悪風を退治するのはむしろ
ただ、ここに現われた勇者は、体格の屈強なるに似ず、勇気の
「どうも御苦労さまでした……失礼ながら、あなたは何とおっしゃいますか、そうして何の目的で
駒井から慇懃に尋ねられた六尺豊かの壮漢は、
「は、は、は、拙者は絵師ですよ、
駒井甚三郎も、この返答には、いささか
誰もが天下無敵の勇者であるように思い、またそう思われても、さしつかえないほどの体格と力量を持ち、今やこの船中では、偶像的にまで
そこで、駒井甚三郎と田山白雲との、うちとけた談話がはじまります。
田山白雲は、今の画界の現状と、その弊風とを語りました。
「あの書画会というやつ、あれがいけないんです……柳橋の万八で、たいてい春秋二季にやりますな、あれが先輩を
「ありません」
「それは話せない、一度はごらんになってお置きになるがよろしい、あれは新進の画家には登竜門になるのですから、あの別席へ陳列されるということは、画家にとってはなかなかの光栄なのですから、若い人たちが勉強します……勉強して、なかなかいいものを作ることがあります、その点だけは画界のためになりますが……」
と、いいながら田山白雲は、そのすぐれて長い刀をいじくりまわすところは、どう見ても
「それからがいけないのです、自分の努力を、正直に人に見せている分には難はないのですがね……そのうちに、人の物を審査してみたくなる、これが間違いのもとです。二三回いいのを見せてくれたなと思っているうちに、いつのまにか大家になって、人の物の審査をやり出すのです、そうして後進に訓示をするような
「そうでしょう、好んで人の師となるのはよくないことです」
と駒井が軽く
「そこへいくと……浮世絵師とはいいながら、
それから白雲は、当代の画家にはこの
ここで、こそこそと例の遊民どもは上陸し、乗客の大部分も下船しましたが、この二人は船の上に
聞くところによると田山白雲は、
白雲のいうところによると、古来、日本の画家で、水を描いて
駒井は、自分の
「わしは、こうして歩いていると、誰も画家とは見てくれないで困りますよ。いや困りはしません、結局、それが幸いになることもあるのです……そうです、十人が十人、拙者を武芸者だと
といって白雲は、支那の古代からの、宋、元、明に及ぶまでの絵画の歴史と品評とを始めました。駒井甚三郎はここでもまた、異常なる傾聴を余儀なくされたのです。
駒井も今まで絵を見ていないということはない。また絵についても当時の上流の士人が持っていただけの教養は持っている。ただ、当時上流の士人が持っていただけの教養以上にも、以外にも出でなかったのみだ。南北の両派、土佐、
彼は船乗りの小僧、
学ぶべきものは海の如く、山の如く、前途に横たわっている――という感じを、駒井甚三郎はこの時も深く
船が保田に着く。田山白雲は、
「さようなら、近いうち必ず洲崎の御住所をお訪ね致しますよ」
笠を傾けて、船と人とは別れました。まだ船にとどまって、
八
その名のような白雲に似た旅の絵師を、駒井甚三郎は奇なりとして飽かず見送っておりました。
ほどなく松の木のあるところから姿を隠してしまった後も、
しかしながら、人の生涯は、大空にかかる白雲のように、切り離してしまえるものでないと思いました。人情の糸が、必ずどこかに付いていて、大空を勝手に行くことの自由をゆるされないのが人生である。あの男もどこかで行詰まるのではないか。あの男の蔭に、泣いて帰りを待つ
さりとて、人間は天性、漂泊を好む動物に似ている。
自由を好んで不自由の中に生活し、漂浪を愛して、一定の住居にとどまらなければならない人間。それでもその先祖はみな旅から旅を漂泊して歩いたものだから、時としてその本能が出て来て、人をして先祖の漂浪にあこがれしめるのではないか。物慾の中に血を沸かして生きている人々が、どうかすると西行や芭蕉のあとに、かぎりなき
左様なことを駒井は考えました。
船はその夜、保田の港へ泊ることになったものですから、駒井も船の中に寝ることにきめました。この時分には、もう大抵の乗客は上陸してしまって、船は駒井だけのために館山へ廻航するの有様で、船のしたには駒井の携えてきた書物をはじめ、手荷物の類がかなり積み込まれているから、駒井も、ここでちょっと船とはわかれられないようになっているのです。
まだ
そこで、駒井甚三郎は、程遠からぬ
「これから日本寺へ参詣してくる、ことによると今夜はあの寺へ泊めてもらうかも知れない、しかし、明日の午後、船の出帆までには相違なくもどってくる」
といって、笠をかぶり、田山白雲が右の方、保田の町へ入り込んだのとちがって、左をさして、
切石道を登って、楼門、
「羅漢様に
「べらぼうめ、こちと
「ちげえねえ、いよう羅漢様」
「羅漢様――」
「羅漢様――」
山を遊覧する人間が、大きな声を出してみたくなるのは、妙な心理作用であると思いました。江戸あたりから遊覧に来た連中らしいが、とうとうそれらは羅漢様からお釣りを取ろうという
さて、石の千体の羅漢はこれから始まる。あるところには五体十体、やや離れて五十体、駒井甚三郎は、その目をひくものの一つ一つをかぞえて行くうち、
やがて駒井が足をとどめたところには小さな堂があって、その傍らにかなり古色を帯びた石標――「秋風や心の
それよりも、駒井の心をひいたのは、まだ新しい羅漢様の一つに「
そこを少しばかりのぼってまた曲りにかかる。
その曲りかどで風が吹いて来ました。
その風の中からおりて来たのが妙齢の美人です。
駒井もゾッとしました。高島田に結って、
それだけではありません。見ればその娘の胸に抱えられているものがある。
娘が
すれちがって、娘は曲りかどを下へ、駒井は立って見送っていると、一間ばかり行き過ぎた娘があとを振返って、駒井を見てにっこりと笑いました。
「これからお登りなさるの?」
「ええ」
駒井は
「お帰りに、わたくしのところへ泊っていらっしゃいな」
これには急に挨拶ができませんでした。しかし、そこで駒井は、ああ気の毒なと感ずることができました。
この娘は、その風姿の示す通り、しかるべき家のお嬢様として、恥かしからぬ女性ではあるが、何かにとらわれて気が狂っているのだ。そこで、
「どうも有難う……」
駒井は愛嬌を以て答えると、娘はうれしそうに踏みとどまって、
「ほんとうに来て頂戴……待っていますから」
「行きます」
駒井はお世辞のつもりでいいました。
「きっと」
「…………」
深くは相手にならないがよいと駒井が思いました。常識を逸しているものを
登る
以前の娘は、まだそこに立って、駒井の後ろ姿をながめているのと、ピタリと眼が合いました。
「きっと、いらっしゃい」
「行きますから、早くお家へ帰っておいでなさい」
駒井は早くこの娘を家へ帰してやりたいものだと思いました。家ではまたナゼこういう病人を一人で手放して置くのだろうと、それを心もとなく思っていると、娘は恥かしそうに、
「もし……あなた、そこいらに茂太郎が見えましたら、お帰りにぜひおつれ下さいましな」
それでは、やっぱり連れがいたのか……そこへにわかに雲がまいて来ました。
日本寺の裏山はすなわち鋸山で、名にこそ高い鋸山も、標高といっては僅かに三百メートルを越えないのですから、そうにわかに雲を呼び、風を起すほどの山ではありません。しかし、このとき、にわかに雲がまいて来たのは、比較的、風が強かったせいでしょう。山も、
髪と着物の
「いやな人……」
九
駒井甚三郎はその晩は日本寺へ泊り、
これよりさき、保田の町へ入り込んだ田山白雲は岡本
あれほどに写生を主張していた男が、船から上ると早々模写をはじめたことは、多少の皮肉でないこともないが、そうかといって、写生主義者が模写をして悪いという理窟もありますまい。つまり、よくよくこの仇十洲の回錦図巻に
仇十洲の回錦図巻の模写に、田山白雲が寝ることも、飲むことも、忘れていると、
「今晩は……」
そこへ、極めてものなれた女の声。
「はいはい」
田山白雲も筆を
「入ってもようござんすか」
「ようござんすとも」
「そんなら入りますよ」
「おかまいなく」
白雲は始終描写の筆をやすめませんでした。白雲の頭は仇十洲の筆意でいっぱいになっているものですから、障子の外のおとずれなどはつけたりで、調子に乗って、うわの空で返事をしてみただけのものです。
「御免下さい」
障子をあけて、そこに立ったのは、スラリとした牡丹燈籠のお露です。
「はい」
それでも田山白雲は筆もやすめないし、頭を後ろへまわして、来訪に答えるの労をも惜しんでいる。
「御勉強ですね」
「ええ、御勉強ですよ」
「お邪魔になりゃしなくって?」
「ええ、お邪魔になりゃしませんよ、話していらっしゃいな」
白雲は
「どうも有難う……何を、そんなに勉強していらっしゃるの?」
幽霊のような
「ここの主人から借り受けた仇十洲の回錦図巻があまり面白いから、こうして模写を試みているところですよ」
白雲は、やはり言葉はうわの空で、頭と、手と、目とが、図巻に向って燃えているのです。
「そんなによいのですか、その絵巻物が?」
「結構なものですよ、全く
「そうですか、そんなによいものなら、わたしにも見せて頂戴な」
といって無遠慮に図巻の上へ伸ばしたその手が、白魚のように細かったものですから、ここに初めて田山白雲は
「え」
そこで初めて振返って見ると、例のゾッとするほどの妙齢の美人です。
「あなたは何ですか」
「幽霊じゃありませんよ」
疑問を先方が答えてくれましたから、白雲ほどのものが
「いつ、ここへ入って来ました?」
「いつ……? 今、あなたにお聞きしたんじゃありませんか、それで、あなたがいいとおっしゃったから入って来たのよ」
「そうでしたか、拙者がいいと言いましたか」
「いいましたとも」
「そうでしたか……」
田山白雲が
それが人間の生首でなくて仕合せ。
「あなた、わたし、今日、鋸山の日本寺へ参詣して来たのよ、一人で……」
「そうですか」
「そうしてね、途中で
「そうですか、それは結構でしたね」
白雲がしょうことなしに話相手になりました。
「あなたより美い男よ……」
「そうですか、わたしより美い男でしたか」
と白雲が苦笑いしました。
「ですけれども、あなたも美い男よ……美い男というより男らしい男ね、あなたは……」
「大きに有難う」
「ですけれども、茂太郎も
「左様……」
「そうでしょう、あのくらい美い子は、ちょっと見当らないわ」
「そうかなあ」
「それに第一声がいいでしょう、あの子の声といったら素敵よ。昔は、わたしが歌を教えて上げたんだけれど、今ではわたしより上手になってしまったわ」
「ははあ、そんなに歌が上手でしたか」
「上手ですとも。あなた、それで、あの子は声がよくって、歌うのが上手なだけではないのよ、自分で歌をつくって、自分で歌うのよ」
「そうですか、それはめずらしい」
「一つ歌ってお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
「わたしは茂太郎ほどに上手じゃありませんけれど、それでも茂太郎のお師匠さんなのよ」
「何か歌ってお聞かせ下さい」
「何にしましょうか」
「何でもかまいません」
「それでは、わたしが茂太郎に、はじめて歌の手ほどきをして上げた、あれを歌いましょうか」
「ええ」
「それは子守唄なのよ」
「子守唄、結構ですね」
「それでは歌いますから、よく聞いていらっしゃい」
といって、女は胸に抱いているものをあやなすようにして、
ねんねがお守 は
どこへいた
南条長田 へとと買いに
そのとと買うて
何するの
ねんねに上げよと
買うて来た
ねんねんねんねん
ねんねんよ
そうすると、女が歌の半ばにほろほろと泣き出してしまいました。どこへいた
南条
そのとと買うて
何するの
ねんねに上げよと
買うて来た
ねんねんねんねん
ねんねんよ
田山白雲は胸を打たれて気の毒なものだと思いました。この年で、この
これが岡本兵部の娘なのか。
娘は泣きながら両袖を合わせて、抱えたものをいよいよ大事にし、
「ねえ、あなた、茂太郎はどこへ行きましたろう……鋸山の上にもいませんでしたわ」
「そのうち帰るでしょう」
「そうか知ら、帰るかしら、いつまで待ったら帰るでしょう」
ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
お山を越えて
里越えて
そうしてお家へ
いつ帰るの……
女はねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
お山を越えて
里越えて
そうしてお家へ
いつ帰るの……
「ねえ、あなた、この子の
といって、今まで後生大事に胸にかかえていたものを、両手に捧げて白雲の机の上に置きました。それは石の
「うむ」
白雲が挨拶に苦しんでいると、
「似ているでしょう。もし似ていると思ったら、それを
十
田山白雲は保田を立つ時、予期しなかった二つの
下谷の長者町の道庵先生が、かねての志望によって、中仙道筋を京大阪へ向けて出立したのも、ちょうどその時分のことでありました。
先生のは、もっと、ずっと以前に出立すべきはずでしたけれども、米友の方に故障もあったり、何かとさしつかえがそれからそれと出来たものですから、つい延び延びになってしまいました。
いよいよ出立の時は、近所隣りや、お出入りのもの、子分連中が盛んに集まって、板橋まで見送ろうというのを
しかし、これらの連中は、みな庚申塚でかえしてしまい、あとに残るのは先生と、同伴の宇治山田の米友と二人だけ。
「米友様」
と道庵先生が呼びかけると、
「うん」
と米友がこたえます。
道庵がしゃれて
「さて米友様、
「なるほど」
「
「うん」
「もしまた、馬や、
「うん」
「朝はせわしいものだから、よく落し物をする故、宵のうちによく取調べて、風呂敷へ包んで取落さぬようにしなくちゃならねえ」
「なるほど」
「旅籠屋は
「そうかなあ」
「道中で腹が減ったからといって、無暗に物を食ってはいけねえ、また
「おいらは酒は飲まねえ」
と米友がいいました。
「そうか、では道中は、別してまた色慾を慎まなければならぬ……道中には、
道庵先生は、丁寧親切に米友に向って、道中の心得を説いて聞かせているつもりだが、酒を飲むなの、色慾を慎めのということは、この男にとってはよけいな忠告で、御本人の方がよっぽどあぶないものです。
それでも米友は神妙に聞いていると、ほどなく板橋の宿へ入りました。
「さあ、米友様、ここが板橋といって中仙道では
と、あるお茶屋へ休みました。
こうして二人がつれ立って歩くと、こまったことには道庵の方はそれほどでもないが、米友の姿を見て、みかえらないものはないことです。極めて背の低いのが、もう
「やあ、チンチクリンが通らあ……」
正直な子供たちは、わざわざ路次のうちから飛んで出て、米友の周囲にむらがるのです。
そのたびごとに、米友に腹を立たせまいとする道庵の苦心も、並々ではありません。
「何でも米友様、旅に出たら、
しかし、米友とても、そう無茶に腹を立つわけのものでもなし、道庵とても好んで脱線をしたがるわけでもありませんから、町場を通り過ぎてしまえば、心にかかる雲もなく、道庵はいい気持で、
太平楽を並べて歩きながらも道庵は、折々立ち止まって路傍の草や木の枝を折って、それをいい加減に
そうして浦和の
ここにはあまり、よい宿屋がありませんでした。泊り客を見かけては道庵がいちいち、途中で
「これは
おかげさまで、その晩は蚤に食われなかったお礼をいうものがありました。そこで米友には、道庵の道草の理由がわかり、
「先生のすることにソツはねえ」
といまさらのように、感心をしてしまいました。
浦和から大宮、武蔵の国の一の宮、
「すべて、神仏を大切にすることを知らねえ奴に、ロクな奴があったためしがねえ、国々へ行って見な、いい国主ほど神仏を大切にしてらあ、人間だってお前、エラクなるぐらいのやつは、エライものの有難味を知ってらあな、薄っぺらなやつだけが神仏を粗末にする」
と言って気焔を吐きました。
この気焔によって見ると、道庵先生自身はエライ奴の部類に属していて、薄っぺらな奴に属していないという理窟になるのですが、米友はそこまでは追究せず、なるほどそういうものか知らんと思いました。
宇治山田の米友は、伊勢の大神宮のお膝元で生れたから、神様の有難いことを知っている。そこで道庵につづいて笠を取って、
「こいつは感心だ、見かけによらねえ」
と言って道庵が手をうってよろこびました。
その時、道庵先生は米友に向って、
「神様を拝むには、少し遠く離れて拝まなくちゃならねえ、あんまり
と神様を拝む秘伝を教えますと、米友が
「先生」
「何だい」
「どこで拝んだって、心さえ誠ならば、それでよかりそうなものじゃねえか……よしんば賽銭箱の前で拝もうと、鳥居前で拝もうと、信心に変りがなければ、
と米友が不審を打つと、道庵はそこだとばかりに、
「それが
と
「そうかなあ」
米友は無言で何か反省を試むるような
「わかったか」
と道庵からいわれて、
「どうもわからねえ」
と白状しました。正直な米友の心では、神様を拝むのに
道庵はそれを相変らずいい気持で、
「は、は、は、は、は……」
と高笑いしたのは、本気の沙汰だか、ふざけているのだかわかりません。
しかし、米友としては道庵を信じ、今までとても、
つまりこの科学者は、その絵の全体が、
これは凡庸なる科学者の罪ではない、遠く離れて画を見ることを知らなかったその罪です。
道庵先生が、米友に向って、神を拝むには離れて拝めと教えた秘伝も、或いはその辺の理由から来ているのかも知れません。
しかし、医者はその職業の性質上、科学者でなければならないことを知っているはずの先生ですから、科学を軽蔑するつもりはないにきまっている。近く寄って見ることを悪いとはいわないが、遠く離れて拝むことを忘れてはならないとの老婆親切かも知れません。偉大なる科学者は必ずこの二つを心得ている――というような気焔は揚げませんでした。
こうして二人は社前を辞して大宮原にかかる。ここは三十町の原、この真中に立つと、富士、浅間、
原の中で米友が
十一
こうしてある者は南船し、ある者は北馬して江戸の中心を離れる時、例の三田四国町の薩摩屋敷ばかりは、いよいよ四方の浪人の目標となって、ここへ集まるものが絶えません。
今日も数十人の者が一席に集まって、群議横生のところ。
いよいよ甲府城を乗っ取るの時機が熟したという者がある。
さて、甲府を定めて後は、
それに備えるの要害を利用すること、
さてまた一方には、相州
他の一方には、関東の平野を定めるにはやはり平野から出づるのがよろしい、それには野州の野に越したものはない、栃木の
或いは房総の半島から起ること、源頼朝の如くあってよろしいというものもある。
水戸を背景として、筑波によることも決して拙策ではないと補修するものもある。
それよりも手っ取り早いのは、もう少し手強く江戸の内外を荒して、全くの混乱状態に陥れるに越したことはないと唱導するものもある。
もう少し手強く江戸の内外を荒すというのは、つまり以前よりもモット豪商や富家をおびやかすことと、役人に楯をつくことと、徳川幕府を
本所の相生町で牛耳を取っていた南条力は、この時はひとり、席の中心からは離れてたつみの隅の柱によりかかり、白扇を開いて、それに矢立の筆を執って、地図らしいものを
南条は扇面に地図を引いて、席の大勢には関係のない二人だけの内談で、
「こういうふうに地の利がひっぱっているから、ここのところに手は抜けないのだ。江戸を計るものは、甲州を
と言いますと、神楽師の長老が眉根を曇らせて、
「甲府が関東の険要であるとおなじ理由によって、
と言って懐中から一枚の地図を取り出して、南条力の前にひろげ、
「ごらんの通り、飛騨の高山は、彦根に対して
話ぶりによると、南条力はまず甲州を取らなければならぬといい、神楽師の長老は、それよりも飛騨を取るのが急務であると主張し、おのおの天険と地の利を説いて相譲らないらしいが、なにぶんにも二人の会話は、席の中心を離れた内談だから、中央の高談放言に消されて、その話がよく聞えない。ややあって
「では、貴殿、ともかく高村卿におあいくだされよ、今明日あたり当地へおつきのはずでござる」
という声だけがよく聞えました。
その晩、薩摩屋敷へまた数名の新来の客がありました。そのいでたちはみな先日のお神楽師の連中と同じことでありましたが、なかに一人、弱冠の貴公子がいたことを、邸について後の周囲のもてなしと、笠を取って
翌朝になって見ると、この貴公子は上壇の間に、赤地の錦の
「そちたち、わしは飛騨の国を取りたいと思うて、そちたちを頼みに来たのじゃ、助力してたもるまいか」
猫の児をもらいに来たような頼みぶりでこういいましたから、豪傑連中も
その時に例の南条力が少しく膝を進ませて、
「その儀につきましては、昨日池田殿より一応のお話をうけたまわりましたが、飛騨の国を御所望は、まずおやめになった方がよろしかろうと心得まする」
「何故に?」
そこで南条力は、昨日お神楽師の長老と内談的に議論をたたかわしたその要領を、再び貴公子の前でくりかえして、結局、飛騨を取るよりも、甲州を略するのが急務だという意見を述べると、それを聞き終った貴公子――昨晩、池田なるものはその名をたしか高村卿と呼びました、
「そちたちは江戸を
弱冠なる貴公子が取って動かない気象のほど、侮り難いと見て、
「仰せではございますが、われわれの今の目的は、関東を主と致します、飛騨の方面まで手の届きかねる実際は、御逗留の上、したしく御覧あそばせばおわかりになると存じまする」
「うむ。そうして、この屋敷にはただいま、何人の人がいますか」
「都合五百人には過ぎませぬ」
「しからば、そのうち三百人を、わしに貸してたもらぬか」
豪傑が沈黙してしまいました。かねて高村卿は
もし、かりにここから三百名の浪士を借り受けたところで、それに伴う兵器食糧はどうするつもりだろう。もしまた仮りに、
豪傑連は、この豪胆な貴公子の意気を喜びましたけれども、その豪胆通りに実際が行われるものでないことを、懇々と説諭しなければならぬ役まわりになりました。
豪傑連の説諭を聞き終った高村卿は、
「それでは要するに、飛騨の国を取ることに助力ができないというのじゃな。それは意見の相違でぜひもないが、そちたち、
といってのけ、彼等がなおも弁明をしようとするのを聞かず、意見の合わぬところに助力の望みなし、助力の望みなきところに長居するの必要なし、直ちに帰るといい出しました。
帰るといい出した英気風発の貴公子は、誰が留めても留まりそうもない。
十数人のお
「せっかくのみやげに
と言い出でました。
そこで、いったん、包みかけた荷物はほどいて、これらのお神楽師が薩摩屋敷の大広間で、腕をすぐって踊るから、志のあるほどのものは、
さて、
そうして、花やかな衣裳をつけて、この十数人が、われ劣らじと踊り出でました。
この踊りは、一種異様なる
それに、不思議なのは、一人一役がみな独立して、個々別々に踊っているので、時代と人物には頓着なく、
薩摩屋敷のものは、このめざましい
これは申すまでもなく、お銀様が、武蔵と甲斐と相模あたりの山の中で、思いがけなく見せられた一団の舞踊とおなじことで、その指揮をつかさどっていたのも、今で思い合わせると、ここで高村卿と呼ばれている英気風発の
前にいった通り、その時分の京都の公卿さんの若手のうちには、きかないのがおりました。中山忠光卿や、姉小路
彼等の憂うるところは、徳川幕府よりはむしろ勤皇を名として勢いを作り、幕府の実権をわが手におさめようとする一二雄藩の野心である。ちょうど、
京都の公卿をして、再び
その充分なる気概を保留するには、こうして山林にのがれて、舞踊に隠れるの必要があったかも知れない。それとも単にお公卿さん
この怪異なる総踊りが済んでしまうと、白面にして英気風発の十八九歳とも見られる貴公子は、ひとり赤地の錦のひたたれを着て、
羅陵王を舞い終るや、その場へ一座をさしまねいて、疾風のような勢いで荷物を整理させ、以前のお神楽師の旅のなりした十余名のものに守られて、時を移さずこの屋敷を立退いてしまいました。
十二
高村卿の一行が引払ってしまうと、例の南条力と五十嵐甲子雄は、薩摩屋敷の幹部のものと相談して、数名の人夫をひきい、その人夫に荷物をかつがせて、飛ぶが如くにこの屋敷を立ち出でたのは、多分高村卿一行のあとを追いかけるものと思われる。
それは途中で
そうして高村卿の一行も、それを後から追いかけた南条、五十嵐らの一行も、薩摩屋敷へは戻って来ないところを見ると、この両者が議論をたたかわした通り、甲斐か飛騨かの方面へ、落合ったのかも知れません。
そう思って見ると、この間少しばかり
「またはじめやがったな」
けれども、この響きを
ある日、
勘八は驚き
「小判二枚!」
勘八は、これはニセ物ではないか、あるいは時間がたてば木の葉に変ってしまうのではないかとさえ疑いました。勘八にとっては
こうなった以上は、何も命がけで
帰る途中、谷間の小流れのところへ来て見ると、何か落ちている。
近づいて見ると意外にも、それは
これは
そうして般若の
「勘八さん……般若の面をおひろいなさいましたか、それは結構でございます。般若とは
弁信が暗いところで、こんなことをいい出したものですから、勘八は気味が悪くなりました。実はさいぜんとても、面に現われた鬼女の
十三
塩尻から五千石通りの近道を、松本の城下にはいって、机竜之助と、お雪ちゃんと、久助の一行は、わざと松本の城下へは泊らずに、城下から少し離れた浅間の湯に泊り、そこで一時の旅の疲れを休め、馬をやとい、食糧を用意して、
浅間を立つ時に、宿で誰かが久助に向って、こんなことをいうのを、竜之助は耳に留めておりました、
「おやおや、
しかしながら、それがために、いまさら思い止まるべきものではありません。
久助だけが徒歩で、お雪と、竜之助は馬に乗り、他の一頭には、米とその他の荷物をつけて、松本をゆっくりと立ち、
翌日早朝にここを立って、島々の南谷を分け入りました。
島々では、案内者がこういうのを聞きました、
「山地は秋の来るのが早いですからね。左様でございます、穂高の初雪は九月のうちに参りますよ。八月の末になりますと、
とにかくに馬を進ませて行くに従って、秋の色は深くなってゆくばかりです。
「まあいいわ……」
「大きな山……」
檜峠のおり道で、お雪が眼をあげてながめたのは
「いつも地獄のように火をふいている焼ヶ岳というものが、あの向うにありますよ」
久助が説明しました。
五彩絢爛たる島々谷の風光の美にうたれたお雪は、風相
「火を吹いているんですか?」
「あれごらんなさい、あのむらむらしているのは雲じゃありません、みんな山からふき出した煙ですよ。焼ヶ岳の頭は、人間ならば髪の毛が蛇になってのぼるように、幾筋も幾筋もの煙が巻きのぼっています」
「そうして、
やがて白骨の温泉場に着いて、顧みて
もう、客はおおかた引いていますから、この一行は、存分に広い座敷を占領することができ、どっしりと落着いて、ほとんどわが家へ帰った心になりました。
ことに、竜之助はここへ着くと、まず第一に、「これから充分眠れる」という感じで安心しました。
これから思う存分に眠るのだ、大地のくぼむほど寝つくのだ、という慾望が何よりも先にこの人の心に起ったのは、今まで身を労することは少なかったとはいえ、その生涯は、ほとんど波に任せてただようと同じことの生涯で、夜半夢破れた時は、いつも枕の下に波の声を聞かぬこととてはない。聞くところによれば、ここは飛騨と信濃の境、晩秋より初春まで、住む人もなき家を釘づけにして里へ帰るのだと。
竜之助は、その以前は眠ることを怖れたものです。眠ることを怖れたのではない、眠って夢を見ることを怖れましたが、今はそうではありません。
このごろになって、はじめて夢を見ることの快楽が、少しずつ身にしみて来たようです。
四境
またいう、夢の
今、竜之助は、夢みることに新しい生活を見出し得たかのように夢みていると、お雪が、竜之助の枕もとへ、本を二三冊たずさえてやって来て、
「先生、お退屈でしょう、本を読んでお聞かせしましょうか」
「どうぞ」
と竜之助が夢を現実に振向けると、お雪が、
「王昭君物語という本ですよ。王昭君、御存じでしょう、支那の美人……」
と言って、その本を竜之助の前、
お雪は本を読むことが、なかなか達者です。これは支那の物語を、だれか日本文に作り直した物語です。けれどもお雪は、その中に挟まれている漢文や、漢詩まで、苦もなく読みくだくので、竜之助がおどろいているくらいです。お雪になかなかの読書力があって、読み方が
「これでおしまい、とうとう一冊読んでしまいました」
紙数にして五十枚ほどの一冊を、お雪はスラスラと読みおわって、
「つまり王昭君という方は、絵をかく人に美人にかいてもらえなかったために、あんな運命になったのですね、美人薄命というのを、裏から行ったようなものですね」
と言いました。
「王昭君は本来美人なのだろう、だからやはり美人薄命さ」
竜之助が答えると、
「それはそうですけれど、本来の美人を、絵をかく人が醜婦にかいてしまったのでしょう、ですから、醜婦として取扱われてしまったんですね。つまり絵をかく人が、筆の先で王昭君を殺してしまったのですね」
「まあ、そんなものだ」
「してみると、人を殺すのは刀ばかりじゃありませんね、筆の先でも、立派に人が殺せるんですから……」
「そうだとも、筆の先でも、舌の先でも……」
と竜之助がいいますと、お雪が、
「わたしなんか美人じゃありませんから……」
それは
「先生、わたしには、どうしてもまだ一つわからないことがあるのよ、いつかお尋ねしようと思っていましたけれど、つい……」
お雪がこう言いますと、竜之助が、
「何ですか」
「それはね、この間、塩尻峠の上のあの大変の時ですね、勝負がどうなったんだかちっともわかりませんわ、相手の人たちはいないし、斬られてしまったとばかり思っていた先生が、無事でお帰りになったんですから。わたし、あの時から、あなたは幽霊じゃないか知らんと思いました」
「あれですか、あの時は先方が乱暴をしかけたから、こっちがそれを防いだだけです」
「でも、先方は四人でしょう、そうして、あなたはお一人でしょう」
「ええ……」
「それで、どうしてお怪我がなかったのですか」
「こっちも刀を抜いて防いだから……」
「だって、あなたはお眼が見えないでしょう、眼が見えないで刀が使えますか」
「眼が見えなくたって、手があるじゃありませんか」
「だって、先生……」
「手があるから刀を抜いて防いでいました、そうしたら先方が逃げてしまったのです」
「だって、あなた、斬られたらどうなさるの?」
「斬られなかったから助かりました」
「その斬られないのが不思議じゃアありませんか、先方は眼のあいた人が四人で……」
「それでも、こうして刀を持っていれば斬れないじゃないか」
といって竜之助は、右の指を一本出して刀を構える形をして見せますと、
「斬られないことにきまっているもんですか、刀を持っただけで、斬られないッてことがあるもんですか」
「それでも……こうしていれば斬れないものだ」
竜之助が横になりながら、右手の指を一本出している形に、お雪はゾッとしました。
「じゃ、あなたは剣術の名人なのですか」
「名人でも何でもないさ、人間が二尺の刀を持って、五尺の
「だって、先生、刀と
「そうですね、刀と物差は……」
竜之助は、お雪の比較を珍しそうに暫く考えていましたが、
「同じようなものでしょう、眼をつぶっていても、思う通りの寸尺に切ろうと思えば切れますからね」
「そんなことがあるものでしょうか……」
お雪もそれを考えさせられましたが、しばらくして気がついたように、
「そうそう、昔、裁縫の名人があって、年とってから眼がつぶれ、不自由をしたそうですけれど、ハサミを持つと、物差をつかわないで、一分一厘の狂いもなくたちものをしたという話を聞きました」
と言いました。
それそれ、おれは今でも刀を取れば、
「それでも先生、もうおよしなさいましよ、ああいう時は早く逃げて、相手になさらないようになさいまし」
「逃げるったって、逃げられないじゃないか」
と竜之助が言いますと、
「全く困ってしまいましたわ。つまり運がよかったんですね」
ここでも運の一字で、偶然と必至とに結論をつけようとしている時、下の座敷で、にわかに足拍子の音が起って、声を合わせて歌い出したものですから、
「木曾踊りが始まりました」
こころナアー
ナカノリサン
節面白く歌う木曾節は、ナカノリサン
こころナアー
ナカノリサン
心細いよ
ナンジャラホイ
木曾路の旅は
ヨイヨイヨイ
笠にナアー
ナカノリサン
笠に木の葉が
ナンジャラホイ
舞いかかる
ヨイヨイヨイ
お雪も、竜之助も、二階で、その歌と足拍子を、手に取るように聞いておりましたが、ナカノリサン
心細いよ
ナンジャラホイ
木曾路の旅は
ヨイヨイヨイ
笠にナアー
ナカノリサン
笠に木の葉が
ナンジャラホイ
舞いかかる
ヨイヨイヨイ
「先生、木曾踊りがはじまりました。夏の盛りの時は、あれが毎晩のようにあったんだそうですけれど、もう人が少なくなったものですから、きょうは納めの木曾踊りだそうですよ」
お雪は、その歌と踊りの音に、そそられたようですけれども、竜之助は、さほど多感ではありません。
「まだ、あんなに人がいたのですか」
「ええ、総出で踊っているんでしょう、お客様も、宿の人たちも、そうしてきょうは器量一杯に踊って、あすは、みな散り散りに別れるんですって、寒くなりましたから……」
「お雪ちゃん、お前も行って踊りなさい」
と竜之助が言いますと、
「わたし、踊れやしませんわ、ですけれども、ちょっと行って見て参りましょう」
「歌をよく覚えておいでなさい」
「ええ」
お雪はこの座を立って踊りを見に行きました。
十四
お雪が行って見ると、下の座敷を打抜いて、かれこれ五十人ほどの
木曾のナアー
ナカノリサン
木曾の御岳山 は
ナンジャラホイ
夏でも寒い
ヨイヨイヨイ
袷 ナアー
ナカノリサン
袷やりたや
ナンジャラホイ
旅の人
ヨイヨイヨイ
お雪が後から駈けつけて立って見ると、ナカノリサン
木曾の
ナンジャラホイ
夏でも寒い
ヨイヨイヨイ
ナカノリサン
袷やりたや
ナンジャラホイ
旅の人
ヨイヨイヨイ
「あなたもお入りなさいな」
「いいえ、わたし、踊れないんですもの」
「踊れますよ、中へ入っておいでなされば、誰でもひとりでに踊れるようになりますから、お入りなさいな」
「有難うございます」
お雪がまだ遠慮をしていると、その色気たっぷりの婆さんが、また輪の中へ戻って、
ナカノリサン
袷ばかりも
ナンジャラホイ
やられもせまい
ヨイヨイヨイ
ナカノリサン
襦袢仕立てて
ナンジャラホイ
足袋そえて
ヨイヨイヨイ
果して、この総踊りを
ひとり色気たっぷりな物持の後家さんらしいのは帰りません。その次の日になっても、帰ろうとする模様が見えません。
で、お雪と顔を合わせるごとに、
これでは、四十島田をいやがる者まで、ついまきこまれるだろうと思われるほどの愛嬌を売るものですから、お雪も心安くなりました。実際、また今はお雪のほかには女客は、みんな帰ってしまったのですから、いやでも心安くなるのはあたりまえです。
どこのおかみさんで、どういう人で、いつまでこんなところに
「ありゃ、飛騨の高山の
と言ったものですから、お雪がそうかと思いました。
ある時、廊下で顔を見合わせた若いのがそれでしょう。色が青ざめてやせていましたが、かなりのやさ男と思いました。
後家さんは、それを男妾だとはいいません、
「あんな婆さんに可愛がられては、男妾もやりきれまい」
岡焼半分に噂は絶えなかったが、後家さんは
そうしていま帰らなければ、御同様ここで
久助も、お雪も、その話を聞いて
ただ、なんだか気の毒で痛々しいのは、後家さんの連れて来た男妾だといわれる男で、ロクロク座敷から顔を出さないで、たまたま顔を出した時も、気の抜けたような色をしているものですから、
「あの分じゃ、今年中には
勝手口でよけいな心配をすると、
「とぼしきったら、また新しいのを
と憎まれ口をきく者もある。
そんなのを聞きながらも、日一日とお雪は、この色気たっぷりの後家さんと懇意になって、お雪はおばさんおばさんといい、後家さんはお雪さんお雪さんといって、絶えず往来していましたが、ある日、
「お雪さん、きょうはひとつ
「参りましょう」
「二人、水入らずで行きましょうね」
「そうしましょう」
お雪はこの後家さんの誘いを
十五
そのあとで、机竜之助は、
「御免下さいまし……」
怖る怖る隔ての襖を開いたものがあります。
「誰です」
竜之助は別に振向きもしません。振向いたとて見えもしませんから――
「御免下さいまし、お邪魔をしても、さしつかえございますまいか」
「お入りなさい」
と
「それでは御免下さいまし」
御免下さいましを三重まで重ねて、おずおずと入って来たのは、二十二三の色の白い、羽織じかけの気の
「実は、私は困ってしまいましたものですから、お見かけ申して、あつかましくもお願いに上ったわけなのですが……早く申しますと、私はここを逃げ出したいのでございますが、どう逃げ出したらよろしうございましょう、お察し下さいまし」
その語尾が、おろおろ声になるほどの嘆願でありましたから、ははあ、これは例の男妾だなと竜之助が思いました。
その話は、もうお雪から聞いていたのです――
「あの後家さんは男妾を連れて来ているんですって。かわいそうに、その男妾というのは、逃げ出したがって、逃げだしたがって、弱りきっているんですって」
とお雪が、前の晩に竜之助に向って、笑いながら話したことでした。
それが、この
「恥をお話し申さないとわかりませんが、実はあの婦人につかまりましたのも、私の方にも
馬鹿な奴だ! 意気地のない
「せっかくですが、拙者にも智恵がありません」
男は泣かぬばかりに、
「弱りました、全く弱りました、この分では、私は殺されてしまいます……いっそ、女を殺してと思いましたけれど、私にはそれだけの力がございません、ああ、もうやがて帰って参りましょう、私は、怖ろしうございます、私はあの女の息をかぐのが、
五十を過ぎてあぶらぎった好色婆のために、取って押えられて、人目も恥じず、
久しぶりで竜之助の顔に、微笑が浮みました。
「何がそれほど苦しいのです、そんなに人を苦しめる奴は、
「全く……」
男は苦しい声で叫びました。
「殺してしまいたいんですけれども、私は意気地なしでございます」
意気地なしは今はじまったことか――
その時、思わず竜之助の血が熱くなりました。一番その淫乱の後家をきってやろうかな。五十過ぎたとはいえ、
そうなると、いよいよ冷然たるもので、竜之助は
「これ、若い衆……」
「えッ」
男妾が、そのつめたい呼び声にヒヤリとします。
「お前は、本心からその女がいやなのか」
「いやでございますとも――死ぬほどいやでございます」
「その女が死ねばお前は助かるのだな、お前の力で殺せれば、殺したいのだが、その力がないとこういったな」
「ええ、その通りでございますとも、自分が殺されるか、あの婦人を殺して助かるかの境でございますが、私は意気地なしで、とても人を殺すことなんぞはできませんから、みすみすあの婦人にいびり殺されてしまうんです」
「よろしい、それでは、わしがお前の代りに、その女を斬ってみよう」
「えッ」
その時、男妾はゾッとして、
「えッ、ただいま、何とおっしゃいましたか」
竜之助の、たったいま言った一言を思い返そうとして、まずふるえが先に立ちました。
冷罨法を施している竜之助は、二度とはそれに答えようとせず、男妾のみが、無暗にふるえ出してせきこみ、
「私に代って、あなた様が、あの婦人を斬っておしまいになる、殺して下さる、それは本当ですか。それは怖ろしいことです、その怖ろしいことを、あなた様が、私に代って、そうして……」
男妾は自分でせきこんで、自分で
「本当でございますか。人を殺せば自分も助かりませんね、これを御承知でございますか。色事は冗談でございましょうとも、人を殺すのは真剣でございます……私はいったい、何を、あなた様に申し上げましたろう、何をおたのみ申したんでしょう」
一旦、息のつまった男妾はこういって、眼をきょろきょろさせながら、極度におちつかない心で
一切、その
「ねえ、あなた様、ただいま、何を申し上げましたか、それは一時の愚痴でございますから、どうかお取消しを願います、お気にさわりましたら、御勘弁下さいまし。なあにほんの取るに足らない色恋の沙汰でございますから、私さえ逃げ出せばそれでいいんでございます。生かすの殺すの、あなた、水の
しかし竜之助は
「さきほど、あなたのおっしゃったことを、もう一度お聞かせ下さいまし、私に代ってあれを斬ってみようとおっしゃったのは、
それでも竜之助は返事をしませんでした。返事をする必要がないからでしょう。そこで男妾はまた立ち上って、
「本当のことを申しますと、私もあれが好きなんでございます、年こそ違っておりますけれど、たまらない親切なところがあるんでございますから……生かすの殺すの、それはあなた、一時の
竜之助のつめたい
十六
山地は
この頃、男妾の浅吉は、別な心持で落着かなくなりました。
というのは、後家さんの圧迫をのがれよう、のがれようと苦しんでいた男妾が、かえって嫉妬に似た気持で、後家さんを引きつけようとあせる
この二組のほかに、お客というもののない
「おかみさん、うっかりあの座敷へ行ってはいけませんよ……あの久助さんや、お雪ちゃんたちと、懇意にするのはようござんすが、あの浪人者みたような人に、近寄らないようになさいまし」
そうすると、色気たっぷりの後家婆さんが、
「何ですね、お前、そんなわけにゆくもんですか、この一つ家にいながら……」
と取合いません。
「それでもね、おかみさん、あの人は、どうも気味の悪い人ですから、御用心なさらなくちゃあ……」
「気味の悪い人……そりゃ御病人ですもの。お目が悪いのに、
「いいえ、おかみさん……」
といって
「おかみさん、あの方は人殺しをした方ですよ、そうに違いありません、私はそばへ寄ってゾッとしました。いいえ、証拠を見たわけじゃありませんが、たしかに人を斬って身を隠すために、こちらへ来ているんですよ、どうしても私にはそうとしか思われません。ですから、あの人のそばへ寄ると、いつも斬られてしまうようにばかり思われてなりません。ですから、おかみさん、あなたも斬られないようになさいまし」
「何をいってるんですよ、この人は……人様をつかまえて、そんなことをいってごろうじろ、それこそ本当に斬られる種をまくようなものじゃないか。わたしぁ、どんな人だってこわいと思わないよ、こっちの出様ひとつじゃないか、出様ひとつでどうにでもなるものだよ」
「ですけれど、おかみさん、あの方は殺すといったら、キッと人を殺しますよ、あの人情につめたい顔の色をごらんなさい」
「ほんとうにどうかしているよ、この人は……誰か、わたしたちを殺すといいましたか」
「いえ、いえ、そういうわけじゃありませんけれど、
「お前、何かあの方に失礼なことをいって、
「いえ、いえ、決してそういうわけじゃございません、おかみさんのお身を心配するあまり、ついよけいなことを申し上げました」
「付合ってごらん、あれで、なかなか苦労人で、世間を見ておいでなさるから。ポツリポツリ話してゆくうちに、だんだん味が出て来るようなお方ですよ、こわいこともなにもありゃしません」
「ですけれども、おかみさん……私が可愛いと思うなら、私に心配をさせないで下さい。ね、私は、いつおかみさんが、あの人に斬られるか……それを思うとヒヤヒヤしつづけですから」
「ほんとうにお前は意気地のない人だ……さあ一つお上りよ」
後家さんは、
そこへお雪が廊下の外からやって来て、
「おばさん」
「はい、お雪さん、お入りなさい」
と言って、炬燵の上の酒の
「さきほどは有難うございました、お邪魔をしてもようございますか」
「よいどころじゃございません、さあ、お入りなさいまし」
「御免下さい」
お雪が入って来ると、後家さんは炬燵の一方へ
「一つおつまみなさいな」
「どうも御馳走さま」
三人が炬燵を囲んで世間話がはじまると、やがて先日の木曾踊りのことになり、
「おばさん、まだ、わたしあの歌がよく覚えきれませんから、教えて頂戴な」
後家さんは喜んでお雪に向って、例の「心細いよ、木曾路の旅は、笠に木の葉が舞いかかる」という歌の文句からはじめて、
歌を教えてしまうと、後家さんは、
「踊りはこの人が上手だから、教えておもらいなさい」
と
「どうぞ、教えて下さい」
とお雪も、それに合わせて浅吉にたのむと、
「どう致しまして、私なんぞ……」
浅吉がハニかむのを、後家さんは叱るように、
「教えてお上げなさいよ」
「どうぞ、おたのみ致します」
お雪も面白半分に、浅吉にたのむものですから、浅吉がいよいよ迷惑がり、
「いいえ、ダメですよ」
「そんなことをいわずに踊って見せてお上げなさい……ねえ、お雪さん、あなたも、ただ教わっちゃ駄目よ、一緒に立って、手を取って教えてもらわなくちゃ」
「いいえ、わたしは見せて教えていただけば覚えますから」
「そんなズルいことをいって駄目よ、教わるのに横着をしちゃいけません」
「だって、できもしないのに、きまりが悪いんですもの……」
「ナニ、きまりが悪いことがあるもんですか、若い同志で充分に踊りなさい、わたしが、ここで歌いますから……」
後家さんがこう言って、二人を立たせようとしたけれども、浅吉はいよいよハニかんで立とうとはせず、お雪も無論手を取ってまで、教えてもらおうとは思いません。
そこで、木曾踊りの実演は中止の形となりましたが、
「若い人は、遠慮があるからいやよ」
と言って後家さんが急に立ち上って、廊下へ出ました。浅吉と二人ばかりあとに残されてみると、急に座敷がテレてしまって、なるほど、あの陽気な人が一人いるといないでは、こうも違うものかと思わせられるくらいです。
それでも、お雪は急に
「おばさん、どうしたんでしょう、帰りが遅い」
いらいらしていた男妾の浅吉は、やがて声を低くして、
「お嬢さん――」
と、お雪のことを呼びました。
「はい」
お雪は、この男にも同情を持っているのです。同情というものは、広い意味の同情で、同情の中に異性の思いやりを含むという次第では無論ありません。いわばお雪は誰に対しても親切な娘であります。
「あなたのお連れのあのお方は、あれはお兄さんですか……」
「いいえ、兄ではありません、親類の……」
とお雪が煮えきらない返事をしました。
「お目が悪いんですね」
と言いますと、
「ええ、
「それはいけません」
「どういうわけですか、わたしもよくは聞きませんでした」
二人がボツリボツリとこんな問答をしている間も、席を
「どうしたんでしょう、おばさん帰りが遅いですね、わたし、お暇致しましょう」
お雪も、若い男と二人さしむかいでは気が置けると見えて、帰ろうとすると、
「まあ、いいじゃございませんか、お話しなさいまし、もうすぐ帰りますよ」
「それでも……では出直して参りましょう」
「いいえ、よろしうございますよ。それからお嬢さん、まだ本がいくらもございますから、お持ち下さいまし」
「そうですか、それではあとでお借り申しに上りましょう、御免下さいまし」
と、そこそこにお暇乞いをしてお雪は帰りますと、まもなく、自分の廊下のところに立ち止まりました。
その中でヒソヒソと話し声が聞えたからです。はて、久助さんは下で煙草切りをしているはず。あとは先生一人でいたはず。そこでヒソヒソと話し声がしたものですから、お雪が足をとどめたのも無理はありません。
「
と、詠嘆的にいったのは、例の後家さんの声でありました。
帰って来ないはず。ここで話し込んでいたのだもの――
それにしても、座興半ばで席を外して、人の座敷へ来て、ゆるゆると話し込んで、しかも役者の
「そうすると、隣りの
後家さんは、水っぽい調子で得意になって、こんなことを言っていましたから、お雪がいっそう呆れてしまいました。
立聞きをすれば三尺下の地の虫が死ぬというたとえがありますから、お雪はそれを聞きたくないと思いましたけれども、こうなってみると、後家婆さんが得意になって
そこで、お雪は気をかえて、ひとり湯殿へ下りて行きました。
十七
お雪が湯から上って来た時分には、後家さんも帰ってしまっていました。けれど、それから後、この後家さんは、いよいよお雪になつこくして、お雪も悪い心持はなく往来しているうちに、どうも後家さんがお雪を、浅吉に近づけよう、近づけようとしていることがわかりました。
前の時のように、お雪が来ると、自分は座を
そうかといって、お雪は
それに反して、浅吉の方の
ある時、お雪は湯から上って帰ると、廊下でただならぬ物争いを聞きました。
それは珍しくも、あの柔順な浅吉が、主人の後家さんを相手に、一生懸命で何事をか言い
今日も、たくんでした立聞きではありませんが、行きがかり上、耳に入れないわけにはゆかないので、困っていると、
「おかみさん、あなたという人はほんとうに罪な人ですよ……今だから申しますが、
「ナニ、何ですって。人聞きの悪いことをお言いでないよ」
「申しますとも。あなたぐらい、
「おや、わたしはお前に監督されなけりゃならないのかい、お前が見ているところで、何かしちゃ悪いのかい」
「だッて、少しは遠慮というものがございましょう、私を前に置いて……」
「だからいってるじゃないか、何を私がお前に遠慮しなけりゃならないの……よく考えてごらん、身分を考えてごらん、わたしは主人、お前は雇人じゃないか」
「…………」
「口幅ったいことをおいいでないよ」
柔順な若い男は、
聞くとはなし、それを聞いたお雪は、なんというかわいそうな人だろう、またこのおばさんも、なかなかのしたたか者だと思わないわけにはゆきません。
その日の午後、お雪は花を集めて部屋を飾ろうと思って、近いところの尾根から林の中へ入りました。
無心で花をたずねて、林の中へ進んで行くと、ふと行手でガサリと音がしましたので、ハッと驚きました。もしや、あんまり深入りして、熊にでもでっくわしたのではないか。
とおそれて、その音のした林の奥を見ますと、幸いに熊ではありません。たしかに人間の姿であります。先方では気がつかないが、こちらではよくわかります。林の中を、あちら向きになって、うろうろたどって行くのは、まぎれもない、男妾の浅吉の姿でしたから、お雪は、不安な思いでじっとそれを見送りました。
暫く様子を見ているうちに、お雪がじっとしていられなくなって、顔色を変えて、
あなやと、お雪はかけよって、今しも紐へ両手をかけた浅吉の
お雪に抱き留められた浅吉は、それを振り
それを慰めるお雪。追々力をつけられて、死ぬまで思いつめた心の苦しみをお雪に訴える浅吉。つきつめてみると、それは嫉妬からです。あの浮気婆さんとの今までの関係を、浅吉はお雪に向ってことごとく打明け、あの後家さんの容易ならぬ乱行を、こと細かく語って聞かせました。旅役者か何かとくっついて、
その帰り道、茶堂橋まで来た時分、お雪は何心なく小梨平の方を仰ぐと、そこの坂道を、こちらへ人の下りて来るのを認めました。同じような笠が揃って四五名、まだ士農工商のいずれともわからないが、こちらへ向いて四五名が隊をなしてやって来る姿が、豆のように見えることは確かです。
もう、人が入って来ないはずの白骨の温泉。集まった人は、この間、
そう思って見ると、今し、山道を下って入り込んでくる四五名の人数が、お雪にとっては容易ならぬ脅威のように思われてなりません。そこでなんとなく胸が落着かないで、振返り振返り、茶堂橋を渡ると、右の人たちの姿も、木の間に隠れてしまいました。
ほどなく、その山かげから歌をうたう声が起りました。遠く響いて来る歌の声は聞えるが、それが何の歌であるかわかりません。ちょっと耳を傾けていたお雪は、ややあって、ああ詩を吟じているのだとさとりました。
してみれば、これは侍だ。農工商、或いは
侍ならば、まさしく塩尻峠の連中があとを慕うて来たのだ。どうしよう、あの人たちの立退くまで、わたしたちは隠れていなければならない。一日や二日ならば隠れおおせるが、もしあれがわたしたち同様に、
お雪は、一緒につれた浅吉の身の上よりは、自分たちの近い将来が心配になって、急いで宿へ帰り、浅吉をその部屋へ送り届けて、自分たちの部屋の障子をあけようとすると、中からあわただしくそれを押しあけて、
「お雪さん、お帰りなさい」
と飛んで出た後家さん。その上気した顔と、息のはずんだあわてぶりが、この人らしくもないと思いながら、
「ただいま帰りました」
そうして一歩なかへ入って、枕を横にしている竜之助の顔を見ると、それが人を斬ったあとのように
幸いにして、山を下って来た笠の一隊は、お雪が心配したほどのものではありませんでした。木曾路を取って京都へ帰ろうとした
お雪は、その由を聞いて安心しましたが、疑えば疑えないことはない。第一木曾路を通るものが、ここへ道を間違えたとは間違え過ぎる。しかしそれとても昔の歴史をたどってみれば、全く無理な間違え方ともいえないので、この一行が宿へ到着して、一浴を試みてから
「
と説明するところを見れば、地の理にも、歴史にも、そう暗い人たちとは思えません。
それほどの知識がありながら、わざわざここへ迷い込む由もなかろうではないか。
その説明者を見ると、ついこの間、芝の三田の四国町の薩摩屋敷で、南条力を相手に地図を示して、飛騨の国の国勢を説いていた、たぶん、池田といった神楽師の一行では長老株――武州の高尾山では、七兵衛と泊り合わせた中の一人によく似ている。
しかし、かの白面にして豪胆なる貴公子はここにはいません。
時ならぬ時に、神楽師の一行が、つれづれな温泉宿に舞い込んだという
「われわれどもは角兵衛獅子ではございません、神楽師であります。
という返事で、後家さんもちょっと二の句がつげません。
この神楽師の一行は、早々辞し去るかと思うと、案外にも
十八
月見寺を出て、甲府の城下についた宇津木兵馬とお銀様。
甲府は兵馬にとって最も思い出の多いところ。お銀様にとっては故郷も同様のところ。
城下に宿を取って、その晩、兵馬は、ひとり町を歩いてみました。
駒井能登守もいなければ、神尾主膳もいない。南条力も、五十嵐甲子雄も昔のこと。お君も、米友も、ムク犬も、暫くはここの天地に生を寄せていたことがあり、
しかし、それはみな夢のように流れ去って、残るところの山河と、町並だけは相も変らず。兵馬の眼で人間がその昔の時よりも
柳町の一蓮寺。その昔、お角の一行が女軽業を打ったところへ来て見ると、そこは相変らず賑やかで、甲府人の行楽のところ。
以前、お角一行の軽業のあったところには、けばけばしい芝居の興行がかかっているらしい。兵馬はその方へ進んで見ると、何かは知らないが人だかりのする絵看板。
近づいて見ると、思いきって大きな看板に、
兵馬は、それを見てゾッとするほど嫌な気持がしました。
このごろは、世間が
一流の芝居はそうでもないが、年中、活動しているお茶ッ葉芝居は、へらへら役者をかり集めては、無茶に人殺しをやらせる。
ことに沢村宗十郎が、宗十郎頭巾をかぶりはじめてから、へらへら役者共が争ってこの頭巾をかぶりたがり、切れもしない刀を抜いては
兵馬は正直だから、こんな下等な芝居の横行が、剣法の神聖を
そうして、一蓮寺のさかり場を離れて、また市中へ取って返すと、宿からはいくらもないところの町並に、
「
の看板を認めました。
それを認めたのは
無眼流の名は今でこそあまり聞かないが、武術流祖録中に立派に存在する意義ある一流。
町並になっている狭い間口の一方を、少しばかり道場構えにして、一方の畳の上ではしらが頭の一人の爺さんが、
無眼流の名を珍しとする兵馬は、ここを素通りすることができないで、
「無眼流の道場というのは、御当家でございますか」
腰をかがめて丁寧にものを訊ねました。
その時に絵馬をかいていたおやじが、大きな眼鏡越しにジロリと兵馬を見て、
「はいはい」
と答えました。
「先生は御在宅でございますか」
「はい」
「御在宅ならばお目通りを致したいものでござります」
「はい、お前さんは何しにおいでになりましたか」
「無眼流指南の表札を拝見致しましたゆえに、先生にお目通りを願って、できることなら、一手の御指南にあずかりたいものと存じまして……」
「なるほど、それは結構なお心がけじゃ……しかし先生と申すのは、恥かしながらこのおやじめのことでござりまする」
「ははあ、あなた様が無眼流の指南をなされますか。それは何より」
兵馬も少し案外に思いましたけれども、事実、こんなのがあるいは隠れたる本当の名人であるかも知れない。名人でないまでも、こういうところに意外な流儀の血統が伝わっているのかも知れない。何か相当の自信がなければ、かりにも一流指南の看板は出せないはずと、少しも軽蔑の色なく
「さあ、どうぞお通りなさい」
と言ったが、自分は少しも絵馬描きの手を休めるのではありません。
お通りなさい、といわれ、兵馬は、ちょっとドコへ通って、ドコへ腰を下ろしてよいのだか、それに迷いましたが、やむなく道場の板の間に足を置いて、畳の方へ腰をかけて、
「御免下さい、無眼流とあるのを珍しいことに存じました」
「はい、当今は一刀流だの、心蔭流だのというのがはやりまして、無眼流などは一向はやりませぬゆえ、こうして、道場の看板だけはかけておりますが、弟子というものが一人もありませんでな……」
おやじはあまり自慢にもならないことを、平気でこういいました。
「勤番の諸士方で、御指南をこいにまいるものはありませんか」
「ありませんね……ばかにしてね、このおやじをばかにして寄りつきませんよ」
「市中の若い者は……」
「年寄をなぐっても仕方がないといって笑っています」
「失礼ながら、ドチラで無眼流をお学びになりましたか」
「
と言うところは、いかにも
「なにぶん、お願い申します」
このおやじ、むかし取った覚えの
「で、お前さん、わしはこうして仕事をしているから、遠慮なく打ち込んでおいでなさい、竹刀でも、木刀でも、真剣でもかまいませんから……」
けれども兵馬は、この老人に打ってかかろうとも、斬ってかかろうともしませんでした。この老人を打ち取っても
それと同じで、有能者が無能者に負けることの逆理を説き出したのが、なるほどと聞きなされました。
「また、おいでなさい。無眼流の極意は、この見える目をいったんつぶしてしまわなければわかりません」
と老人が最後にいった言葉を意味深く聞いて
兵馬はその絵馬をかついで、
「しッ」
兵馬が叱ったけれども、犬は容易に尾をまかないで、かえって目を怒らして兵馬に飛びかかろうとする、すさまじい勢い。
そこで兵馬は
兵馬は、この一言を思い出しました。なるほど、あの和尚は、随分奇抜な
和尚にいわせると不思議でもなんでもなく、害心のないところに、敵意の生じようはずはないのだと説明する。
しかし、すべての人が犬に向って害心を持たずに近寄っても、犬のすべてが敵意を示さないという限りはない。そこに何かの修行があるのだと思いました。
今しも、こうがむしゃらに吠え立てられてみると、それが頭にあるだけ、兵馬は癪にさわってならない。つまり、この犬は、自分の修行を、頭から無視してかかっているのだ。小癪な犬だと思わないわけにはゆきません。
「
ははあ、これは狂犬だ。だれかれの見さかいなく食いつくようになっている。あえて兵馬の修行を軽蔑しているのではない。兵馬は、それでやや安んじましたが、犬はいっそう烈しく、尾を振り、牙を鳴らして、兵馬に飛びかかって来るのです。
そこで、兵馬は、今かついで来た絵馬を肩からおろして、これを左手で縦に構えると、狂犬はさしったりというようなわけで、猛然としてその絵馬の上へ乗りかかって来たのを、右の手を遊ばしておいた兵馬が、絵馬の下から犬の左の前足をムズとつかむと、ハズミをつけて一振り振って投げました。
それは実に見事なもので、狂犬はクルクルと中空高く舞い上り、
「強いなあ、あの侍は」
歩みをとめた人々が驚嘆して集まるので、兵馬はきまりが悪く、絵馬をかかえて一散に逃げました。
十九
ちょうどその日の
「あ、今になって思い当った」
突然に叫び出したものですから、同行の
「何だい、何を思い出したのだい」
「あの、例の塩尻峠の……」
と前の逞しいのが、ちょっと後ろを振返りました。これはいのじヶ原の斬合いの一人、仏頂寺弥助であって、それに答えて、
「塩尻峠のしくじりを、まだ持越しているのかい」
それは書生で、医術を心得ているあの時の立会人、丸山勇仙であります。
斬られて介抱を受けた、二人がいないところを見れば、あの傷がもとで死んでしまったか、そうでなければ、まだ治療最中であろう。
「あれはな、あの男は、武蔵の沢井の机竜之助だ――」
「え、武蔵の沢井の……机?」
「そうだ、そうだ、それに違いない。それと知ったらば出ようもあるのだった」
仏頂寺弥助が何か思い出して、しきりに残念がるのを、丸山勇仙が
「覚えがあるのか」
「あるとも、あるとも……
「武蔵の沢井とは、どちらの方面だ」
「多摩川の奥の高地で、江戸から甲州裏街道、つまり大菩薩越えをするその途中、御岳山の麓あたり。あの辺は、むかし関東の野を追われた
と言って、仏頂寺弥助が
「それと知ったら、また出ようもあったものを……」
と重ね重ね残念がる様子。
そこで、まだ呑込めないらしい丸山勇仙のために、仏頂寺弥助は、沢井道場、音無の剣術ぶりの物語をし、今その主人公は、行方不明になって、その道のものの問題とされていることを話して聞かせると、丸山勇仙が、
「ははあ、そういうわけで、そういう人物であったのか……なるほど」
と幾度もうなずきましたが、つづいて、
「それで、机竜之助という男はいったい、いい男なのか、わるい男なのか」
「何だ、それは――」
「つまり、机竜之助は美男子であったか、それとも、
「妙なことを聞くじゃないか」
「そこが問題だ」
「誰がそんなことを問題にしている」
「いや、それが、なかなかの大問題になったことがあるのだ」
「どうして、それをお前が……第一、机竜之助なるものの存在を、ただいま、拙者の口から初めて聞いたお前が、あの男の容貌の美醜を論ずることでさえが奇妙なのに、それが問題になっていたというのはどこで……いつのことだ。してみればお前は、その以前から竜之助なるものを知っていたのか」
「知っていたのだ……知っていたのをお前からいわれて、今になって気のついた一人だ」
「いつ、どこで」
「大和の国、十津川のあの騒ぎの時よ。実は拙者もあの時、あの乱軍の中へまぎれ込んでいたものだ……その節、たのまれて竜之助なるものの人相書を書いてやったことがある」
意外にも丸山勇仙が十津川話を持ち出して、その時、よそながら机竜之助にひっかかりのあったようなことをいう。
仏頂寺弥助が、足を踏みとどめました。
丸山勇仙が語りつづけていうことには、
「十津川の乱が
「その問題は?」
「その問題が、それ、机竜之助は
「ばかばかしい問題じゃないか」
「ばかばかしくないのだ、解釈のしようが人によって全然ちがうのだから……まず拙者がいわれるままに一枚をかいて見せると、それを見た一人が、机竜之助を、こんな美男子にかいてはいけないというのだ。けれども、いわれた通りにかけばこうなる――と主張したところが、そんな美男子ではいけないとおそろしい権幕、拙者のかいた下書をいじくり散らして、勝手な訂正を試みたものだから、それによって新たにかき直してみると、他の方面からまた苦情が出たのに、竜之助は、こんな
「論より証拠じゃないか、お前は塩尻峠で何を見ていた」
「お前こそ何を見ていた」
その時、通りかかった
「何だ」
「ええ、
「狂犬が、どうしたのだ」
「今、若いお侍が、狂犬を取って投げました、上の方へ遥かに飛んで、松の枝をかすめて、犬がお濠の真中へ落っこちたところであります」
「なあんだ」
何事かと思えば犬一匹のこと。仏頂寺弥助が冷笑して過ぎて行くところへ、いったん、沈んだ
「それ、狂犬がまた出て来たぞ、浮み上ったぞ」
人だかりは八方へ散ると、血迷いきった狂犬は、仏頂寺と丸山をめがけて飛びかかったのを、仏頂寺が、
「ええ、畜生」
一旦、蹴飛ばしておいて、次に踏み殺してしまいました。
二十
この二人が甲府の市中を進んで行くうちに、例のヘラヘラ役者の、覆面辻斬の絵看板の辻々に掲げられたのを見ると、仏頂寺が、
「この奴等、いいかげんにしないと、目に物見せてくれるぞ」
と、ちょっと
やがて、この二人が、柳町の佐野屋という宿へ着いたので、幸か不幸か、そこでバッタリと落合ったのが宇津木兵馬です。兵馬も、この宿に泊っていて、もう少し先に立帰ったところでありました。
勢い、バッタリと
「やあ、珍しい、宇津木兵馬君、君はここに泊っていたのか」
兵馬も、逢いたくもない相手だと思いましたが、のがれるわけにはゆきません。
「これは仏頂寺、丸山の両君」
「君の座敷はどこだ」
仏頂寺、丸山の両人は、ほどなく兵馬の座敷へ押しかけて来ました。
兵馬はお銀様を
「宇津木君、拙者は机竜之助に出逢ったぞ、しかも最近に――」
「え」
その言葉は、両様の意味で兵馬を驚かせました。その一つは、多年の
「ついこの間、計らずもあの男に信州の塩尻峠の上で会ったのだが、その時は、それと気づかず、たった今、あれだなと思い出したようなわけだから、無論、おたがいに名乗りもせず、あの男の行先とても聞いてはおかなかったのを残念に心得ている。ところがここで、君に出逢ったのが
案の如く、お銀様に聞かせたくないことを、この男はズバリズバリとしゃべってしまったのみならず、ひとり呑込みで同行をとりきめ、まかりまちがえば、助太刀の役まで引受ける気取りでいる。これは兵馬にとって容易ならぬ有難迷惑だけれども、相手が相手、ことにこう乗り気になっている際では、いやといっても付いて来るに相違ない。そこでいやでもおうでも明日からは当分、この連中と道づれにならなければならぬ運命となる。
自分は、いいとしても、お銀様が、それは
「御両君の好意を有難く存じます、おかげで
途中しかるべきところで落合おうということを申し出しました。
やがて二人が帰ってしまうと、静かにお銀様が次の座敷から出て来て、
「宇津木さん、わたしの尋ねて行く人は、あなたの
「そうです」
聞かれてしまっては仕方がない、兵馬は苦しげに白状しました。
「なんという
「そうですね、全くなんともいえない
「わたしは好きな人を探しに行く、あなたは、どうでも、その人を殺さなければならないのですね」
「その通りです、彼を討たんがために、わたくしはこの年月を苦心致しました」
「けれども、わたしは、またあの人がなければ、生きていられないのですよ」
「私はまた、彼をそのままで置いては、男子の面目が立たぬのです」
「そうして、明日からの旅はどうなさるつもり?」
これは兵馬が、お銀様に
「お聞きの通りです、拙者は、あの人たちと
「どうしても、わたしが邪魔になりましょうね」
「いいえ……私は、あなたのお心任せにするつもりでいます、場合によっては、あの者共の同行をもことわるつもりです」
「どちらにしても結果は同じことですね、わたしはあの人を取りに行く、兵馬さんはあの人を殺しに行く……全く別な目的の二人が、今まで連れ合って歩いていたのです。つまり、あなたとわたくしとは、
「いや、拙者は、ほかの人を
と、兵馬はおとなしく言いました。
「それでも、わたしは、あの人を愛します、自然、あの人の立場を危なくする者があれば、力を極めてそれを妨げるのが、わたしの仕事ではありませんか。どうしても、あなたとわたくしとは敵同士です。宇津木さん、あなたがわたくしを邪魔にしなければ、わたくしの方で、あなたを邪魔にしますよ」
「それは御随意に任せるよりほかはありません」
「わかりましたか。それでは、もうあなたとの一緒の旅は今日限り、わたくしの方からお断わりを致しましょう。そうして、これから後はおたがいに敵同士です」
「いいえ……
「でも、わたくしは、生ぬるいことが嫌い、この世の人は
「ああ、あなたの考えは
「わたくしは、そうではありません、味方でないものはみんな敵です……兵馬さん、お前が机竜之助を討とうとすれば、わたしはあの人の味方ですから、あなたを殺してしまいます」
「よろしい、そのお覚悟なら、それでよろしうございます、拙者もこれから、あなたを
「それがよろしうございます。わたしはここで、人をよんで座敷を改めてもらいます、あなたにもお世話になりましたが、どうぞ、お
と言って、お銀様は手を鳴らして女中を呼び、更に番頭を呼んでもらって、自分だけ座敷を改めることをたのむと、さっさと、自分のものだけを運ばせて引移ってしまいました。
兵馬はお銀様の片意地に驚きました。けれどもお銀様を片意地の気質にさせた原因を知っているものですから、いい出した以上は、その意に任せるよりほかは仕方がないとあきらめました。
さて、こうなってみると、有力な後援者を失った自分は、また貧寒なる一人旅のさすらいだ。しかし、もう今度こそは、相手が塩尻峠を越したことを、歴然とつかんでいる。あの峠を越した以上は、その行先こそしかとわからないとはいい条、袋の鼠のようなものである。今度こそ――という目あてがついたようなものですから、
そこで思い出して、預かっていた胴巻の金のすべてを取り出し、女中を呼んで、これをお銀様のもとへ届けさせますと、お銀様から突き戻して来て、
「そんなものは知らない」
と言ったとの返事。それではいけないと兵馬は自身
「そうですか、確かにお受取り致しました」
そのあとで、今度はお銀様が改めて女中を呼んで、こういうことをたのみました、
「あの、さいぜんお泊りになった二人づれのお客様で、お一人はたしか仏頂寺様、も一人のお方は丸山様とかおっしゃいましたが、その方に、わたくしが内緒で、ちょっとお目にかかりたいのですが、伺ってよろしうござんすかどうか、お聞き申してみて下さい」
女中は、そのたのみを心得て立去ろうとするのを、お銀様がまた呼びとめて、
「それから、お伺いしてよろしければ、まことに失礼でございますが、怪我を致しておるものですから、これをかぶったまま失礼を致したいが、このことをお聞き入れ下さるように申し上げておいて下さい」
と念を入れてたのみました。
仏頂寺と丸山は、見知らない婦人の人が面会をしたいとの申入れを聞いて、不思議に思いました。けれども、辞退するガラでもないから、
「御免下さいませ、さきほど、使を以てお願いに上らせましたのを、お聞届け下されて有難う存じます、その節、併せてお願いを致しました通り、少々怪我を致しておるものでございますゆえ、このままで失礼を、おゆるし下さいますように」
見れば品のよい令嬢姿の女が、顔にはお
「いかなる御用か存ぜねども、まずこれへお通り下さるよう」
火鉢の間を分けて、お銀様を招じました。そこでお銀様が二人に向っての頼みというのは、こうです。
自分は宇津木兵馬の連れの者であるが、兵馬は机竜之助を
ついては、あなた方のお計らいで、どうか二人を近づけないようにしていただきたい。自分としては、どちらが傷ついてもいやである。しかし、二人は近づかねばならぬ運命が迫っている。近づけばいずれかが傷つくか、両方が倒れる。それをさせないのは、
二人は、お銀様のハッキリした語調と、情理ある頼み方に感心しているところへ、お銀様はさいぜん兵馬から受取った路用の全部を、二人の前に提出して、
「これはあの宇津木のために、あなた方がお預かりの上、御自由に処分をなすって下さい」
仏頂寺と丸山は、眼を見合わせました。
二十一
あれから二十日あまりたって、田山白雲は
「どうです、よい収穫がありましたか」
駒井から問われて、
「ありました」
「それは結構です。まあ、こちらへ来て、ゆっくりと旅行談をお聞かせ下さい」
そうして、白雲は、駒井の応接室へ来て、
「あなたと別れてから、
「そうでしたか、その二つの収穫とは何と何です」
「一つはあの家に秘蔵の
「ははあ」
「仇十洲は御存じの通り、
田山白雲は
「仇英、字 ハ実父、十洲ト号ス、太倉ノ人、呉郡ニ移リ住ム、呉派ノ第一流トイハレシ周東村ニ学ビ、人物鳥獣、山水楼観、旗輩車容ノ類、皆、秀雅鮮麗ト挙ゲラレ、世ニ趙伯駒ノ後身ナリト称セラル、特ニ流麗細巧ヲ極メシ歴史風俗画ニ於テハ艶逸比スベキモノナク、明代工筆ノ第一人者トイフベシ。伝フル所、士女雅宴、楼閣清集等ヲ画ケルモノ多シ……」
駒井がそれを読んでいると、白雲は改めていうよう、「それと、もう一つは岡本兵部の娘です、あれが、なかなかの傑作でした」
「それは、どういう意味でです」
駒井は画帳を見ながら、岡本兵部の娘の、傑作という文句の意味を問い返すところへ、
「風呂がわきました」
扉を押して金椎が顔を見せたものですから、駒井は、その方へ向いてうなずいて見せ、次に白雲の方に向き直り、
「風呂がわいたそうですが、おはいりなさってはどうです」
「イヤ、それは有難い、なにぶんこの通りですから……」
白雲は喜んで立ち上りました。久しく湯の中をくぐらなかったので、
「遠慮なしに頂戴致しましょう」
「風呂場はあちらです……それから今のあの少年が世話をしてくれますが、あれは耳が聞えない
「承知致しました、それではお先に御免をこうむります」
白雲が風呂場へ立ってしまったあとで、駒井は田山白雲の画帳を、物珍しくいちいち見て行きました。
「これは見たような女だ」
駒井が、じっと見入ったのも道理、そのうちに一枚の美人の首だけがありました。
これは模写でもなければ、想像でもありません。まさしく、モデルがあって描いておいたスケッチの類である。しかもその美人の
風呂から上って、駒井甚三郎の衣裳を着せられた田山白雲の形は、珍妙なものとなりました。それは白雲が
「あれから
白雲は、風呂へ入る以前の岡本兵部の娘の解釈はもう忘れてしまって、早くも話が小湊の浜まで飛んで行きました。
「小湊は、どうでした」
「あそこには長くおりましたよ、十日も
といって白雲は
「なるほど」
駒井はそれを受取ってひもといて見ると、一枚一枚にみな海の波です。
「小湊の浜辺は不思議なところで、あそこへ立ってながめていると、あらゆる水の変化を見ることができますな。水が生きている、ということを如実に見て取ることができます。水が生きている、という言葉は面白い言葉です、私が発明したのではありません、ある
田山白雲はこういって、幾枚も幾枚ものうち、波の怒れる部分だけを取って、駒井の前に積みました。とても筆では間に合わない……といった心持に迫られながら……
駒井は与えられた絵をいちいち取って、仔細にながめていると、白雲は言葉をついで、
「しかし、海を怒るものとばかり思ってはいけません、歌うものです、泣くものです、笑うものです、また
と言って白雲は、別に一枚を取って駒井の前にのべながら、
「そうです、海は戯るるものです。戯るるものということを、私は小湊の浜辺でほどよく見たことはありません。御覧下さい、これがその心持をうつしたつもりなのですが、どうして拙者共の筆では……海の怒りはともかくその
白雲は一枚一枚と、いわゆる海の戯れを駒井の眼前に並べました。
それは今までと違って、奇岩怪礁に当って水の怒るところとは打って変り、岸辺の砂浜に似たところや、板のような岩の上や、岩と岩との
「ここには海の

田山白雲は、着物のゆきたけの合わないこともすっかり忘れてしまいました。
「そういうふうに、小湊の海の浜辺に立つと、あらゆる水の躍動が見られるものですから、つい十日あまりを水の写生で暮してしまいました」
駒井甚三郎は始終受身で、白雲の語るだけのことを語りつくすまで聞いてしまおうとの態度です。客を好まない人も、客の性質によっては、その貴重な研究の時間をいつまでも、それがためになげうって悔いないだけの余裕はあるようです。
白雲は興に乗じて語りつづけました。
「われわれの写すところは、形と色とだけの世界ですが……そこで小湊の浜辺には、あらゆる波の形が存在しているとすれば、おのずから、あらゆる波の色も存在している道理でしょう。西洋の画家は色を研究します、東洋とても色を
「そうはゆきますまい」
駒井はこの時、軽い抗議を挟みました。
「どうしてです」
白雲は熱心な眼をかがやかせて、駒井の抗議を食いとめながら、
「どうして形を写して、色が現わせないのですか」
改めて見直すまでもなく、白雲の描いた海は、一枚として着色のものはありません、みんな墨で描いたものばかりです。その点を駒井はいいました、
「桜の花だけを描いて、
「そこです――」
白雲は膝を進ませて、
「そこです、私の描いたものにそれが現われなければ、私の恥辱です。
といって白雲は、何か急に悲しい色をその熱した満面に
「音までも……といいたいのですが、不幸にして、私には
こういった時の白雲の
田山白雲は眼の中に涙をさえたたえて、言葉をつづけます、
「私が、浜辺に立って熱心に写生を試みていますと、一人の
田山白雲は、
田山白雲は暫くして、昂奮から
「日蓮の遺文集を読み出したのは、小湊滞在中の記念です。私はその十日の間に、日蓮の遺文全部を読みました。片田舎の子供が初めて海を見て、水が生きてる! といったように、人間が生きている! と腹のドン底から動かされたのは、その時です」
と言って白雲は、また行李の中をさぐって、別に一小冊子をとりだしつつ、
「駒井さん、あなたは日蓮をお読みになりましたか。日蓮をお読みになるならば、直接にその遺文集を読まなければなりません、後人の書いた伝記、注釈、すべて無用です。また騒々しいお
「それは非常によいことです」
駒井がそこへ言葉を挟んでいうことには、
「おそらく、あなたの今度の収穫中、それが第一のものでしょう。私もまだ日蓮の概念を知って、内容を知らないものです、あなたの日蓮観をお聞かせ下さい」
「よろしうございます。私は、ほとんど幾晩も徹夜して、この通り、遺文集全部の中から、書き抜いて持っております、日蓮を説明するには、やはり日蓮自身をして説明せしむるより、よきはなかろうと思います」
白雲の取り出した小さな本は、今度のは絵ではありません。よき根気を以て書いた細字の、数百枚をとじた小本でありました。
「幸いに、拙者を泊めてくれた居士は、まだ世間に
そこへ
お茶を置いて金椎が、丁寧なお辞儀をして出て行ってしまうと、駒井甚三郎は、そのお茶を白雲にすすめ、自分もすすって、
「今の少年が、あれで熱心な
と言いますと、
「ははあ」
熱している
「あれの語るところによると、イエス・キリストも、また、微賤なる大工の子の出身だといっています、そうしてキリストが、世界の歴史を両分し、人間の心を支配しているのだというようなことをいっています」
「ははあ」
白雲は再び、気のあるような、ないような返事でしたが、急に思い立ったように、
「そうです、そうです。私はキリストのことをよく知りませんけれど、なんにしても西洋の数千年来の文明を指導して来たのですから、そのくらいの抱負はありましょう。日蓮も言っています、『我レ日本ノ柱トナラム。我レ日本ノ眼目トナラム。我レ日本ノ大船トナラム――』これは
白雲は再び小冊子をくりひろげて、いちいち書抜きを指点しながら、
「ともかく、こういう真実性を持った巨人が現われて来ますと、凡俗は驚きますよ。人間が生きている! というわれわれの無邪気なる驚異で済まされないのは、その立場をおびやかされやしないかという小人ばらの恐怖です。多年、糊で固めておいた自分たちの立場が、この巨人のために一息で吹き飛ばされては大変だ。そこで
「どうも困りものですね、巨人も小人も、共に生きてゆくわけにはゆきませんか」
駒井が
「それをするには巨人が
といって白雲はお茶を飲みました。そうして
「これは日蓮自身もいっています――世には王に
二十二
田山白雲は、ここに当分足をとどめることになって、駒井の造船所を見たり、附近の名所をさぐったり、或いは一室にこもって、駒井のために何か一筆をかき残して置くといっていました。
白雲の給仕役は例の
今日は白雲が一室にこもって、長い筆をふるいながら絵をかいている。絵をかきながら鼻唄をうたっている。
ねんねんねんねん
ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条長田 へ魚 買いに……
そこへ不意に駒井甚三郎が入って来て、ねんねんよ
ねんねのお守は
どこへいた
南条
「田山氏、鉄砲の試験をするから、見に行かないか」
駒井はこの頃、小銃の製造に苦心していたが、それが出来上ったと見えて、白雲に同行をうながすと、
「お
白雲は直ちに絵筆をなげうちました。
駒井は軽装かいがいしく、一挺の鉄砲と弾薬を用意して出かけると、白雲は例の駒井から借着の筒袖のつんつるてんで、そのあとについて行きます。
「駒井さん、僕はこういう
と白雲が言いますと、駒井が、
「なるほど、そういわれればそうですね」
ほどなく馬場のようなところへ来て見ると、射撃の練習は今にはじまったことではないと見えて、場の一方に
ここで駒井が三十間、五十間、百間と位置をかえて鉄砲を打つのを、田山白雲が見て感心しました。
「なるほど、商売商売だ」
小さな厚紙の的をかけて置いては、それを、パチリパチリとうちおとしてゆく駒井の手腕は鮮かなもので、全く
すべて人は、自分の持っていない知識経験には、ことに驚嘆し
「着弾距離はどのくらいですか」
「左様、これは六百間までは有効のつもりですが……」
「従来のものとの比較はどうですか」
「それは着弾距離において、三分の一以上はすぐれているでしょう、しかし、特長はこの
「なるほど」
白雲は銃を駒井の手から借受けて、つくづくとながめて感心をつづけていると、駒井は、ただいま船に
「短銃を一つ試験してみましょうか。西洋のピストルです、日本の
といって駒井は懐中へ手を入れて、革袋の中から取り出したのが、コルト式の五連発であります。この人は常にこれを懐中にたくわえているらしい。そうしてズンズン
「あの眼をうってみましょうか」
駒井甚三郎は五連発のピストルを三発打って、あとの二発を白雲に打たせました。そうしていうことには、
「これは今、日本へ渡っている短銃のうちでは最新式のものですが、西洋ではその後、どんな進歩したものが発明されているかわかりません。私の考えでも、いちいちこうして使用したあとで、ケースを抜き取って弾薬を詰めかえる手数が、もう少しなんとかならないかと思います。それと、もう少し形を小さくし、量を軽くしたいものだと思います。その方針で研究していますから、そのうち相当の改良を加えてみるつもりです。今のところは、この小銃と大砲の方へ力を注いでいるものですから、これで満足しているほかはありませんが、これはゆくゆく、てのひらの中へ握り切れるほどの小さなものにして、そうして、威力が減じない程度に改良され得るだろうと思っています。ですからピストル――日本ではそういっていますが、やはりピストルですね、もとはイタリーの地名から出たので、短銃という意味はないのですが、将来はむしろ拳銃とでもいった方が適切になるでしょう――要するにピストルは、進歩するほど小さくなるのが原則であり、大砲は、いよいよ大きくなるのが進歩であります……大砲の工場をひとつ見て下さい」
駒井は
こうして二人はブラブラと小さい丘を上り、海岸の造船所に近いところに設けてある駒井甚三郎の鉄砲工場の方へ歩いて行きます。
駒井甚三郎は、江川、高島の諸流を
工場といっても、ささやかなものではありますが、その道の鍛冶をつれて来たり、自身が
「これはカノーネルの一種で、関口の大砲製造所で作らせたうちの一つを持って来て、修理を加えているのですが、海軍砲としては最小のもので、万一の際、これが一つ有ったからとて、大した力にはなるまいが、それでもないにはまさると思って工夫を加えています。近々出来上り次第、試射をやってみるつもりですから、田山さん、あなたもぜひ、それまで
「承知致しました、ぜひそれは見せていただきます。ただ見せていただくだけでは気が済みません……私も、その船の乗組の一人に加えていただけますまいか、どこへでもお
「そうですか、あなたのような乗組員を得ることは、船のため仕合せですから、私の方から希望を致したいのですが、いかがです、あなたはよくても家族の方が……」
「左様……」
そこで白雲が、家族のことを考えさせられました。この男とても、大空にただよう白雲の如く、行くも、とどまるも、自由には似ているが、自由ではないのが人間の原則です。
浅草の露店の時に伴うていた妻子ある以上は、この人の帰りを待っているに相違ない。この人を柱とも杖ともたよっているに相違ない。
「それはなんとか始末をしておきますよ」
こういう話をしながら、二人は海岸へ出ました。
二十三
武州大宮へ参拝した道庵先生は、それを初縁として、今後沿道の神社という神社には、少々は廻り道をしても参拝して行こうとの案を立てて、
道庵が、こういう敬神思想を発揮するようになったのは、いつもの茶気とばかり見るわけにはゆかない。道庵も実はこのごろ、つくづくと考えさせられているのです。
考えた結果は、どうしても日本国には、敬神思想を普及せしめなければならぬとの確信を得たものらしい。
というのは、道庵も十八文で売り出したり、貧窮組のリーダー気取りになってみたり、またデモ倉や、プロ亀あたりとも交際をしてみたが、どうもあんまりたのもしい気がしない。
デモ倉や、プロ亀ときては、新しい方へ頭をつっこんで、かなり鼻っぱしが強いかと思うと、風向き次第で、からっきし腰が据っていない。そのくせに人をおだてたり、あやつってみようとするケチな
あいつらは平民の味方でも何でもないのだ。飯の種に新しいことを
本来、人間というものは、まだそう完全には出来ていないのだから、
といって、畏れというのは、サーベルや、鉄砲で
「べらぼう様、神様ほとけ様が
道庵一流の論法でおしきったはいいが、この案が通過すると共に、路傍の
ここでは規定の神社参拝のほかに、熊谷蓮生坊の
おびただしく市川
「あれ……あれは
といって、ちょっと足を停めました。
水垂のげん公というのは、江戸ッ児気取りで、人を見ると二言目には百姓といいたがる気障な奴で、そうかといって、当人は芝居の台本を作るだけの頭はなく、劇評をするだけの腕もなく、演芸の風聞を聞きかじっては、与太を飛ばしたり、
大宮から
熊谷の
「どうもいけねえ、昔はそれ、芝居に、なかなか
といいました。つまり先生の心持では、あらゆる方面に気を配って、それに親切を尽してやりたいところから、こういう半畳屋を憎む心になったのでしょう。悪く取ってはいけません。
「しかし、そういう下等な奴は下等な奴として、本当の江戸ッ児にはいいところがあるよ、本当の江戸ッ児にはどうして……」
といっているうちに、道庵先生が急に
「アハハハハハハハ」
「何だ、先生、何がおかしいんだい」
「米友様、あれ見ねえ、あの
といって道庵先生が、芝居小屋の前に林立された役者の旗幟を指さしましたが、それをながめた米友には、別になんらの異状が認められません。どこの芝居小屋にもあるように、景気のよい色々の幟が、役者の名を大きく染め出して林立しているばかりです。
「う――ん」
といって、先生がおかしがるほどの理由を、その幟の中から見つけ出すことに、米友が苦しんでいると、
「アハハハハハハハ」
と道庵がわざとらしく、また大声で笑い、
「米友様、よくあの
「そうかなあ」
道庵にいわれて米友が、改めてその文字を読み直してみると、なるほど、海土蔵と書いて、海老蔵と読ませるようにごまかしてある。しかし、米友はごまかしてあったところで、ごまかしてなかったところで、道庵先生ほどにそれをおかしいとも悲しいとも思いません。
というのはこの男は、まだ生れてから芝居というものを見たことのない男ですから、海老蔵が海土蔵であろうと、海土蔵が江戸ッ児であろうとも、大阪生れであろうとも、いっこう自分の頭には当り障りのないことですから、「そうかなあ」で済ましてしまいました。
これには道庵も張合いがなく、さっさと歩き出して、テレ隠しに、
「夫の帰りの遅さよと、待つ間ほどなく
変な身ぶりまでして歩くほどに、やがて
道庵と米友は蓮生山熊谷寺に参詣して、熊谷次郎直実の木像だの、寺の宝物だのを見せてもらい、門前の茶店へ休んで、名物の熊谷団子を食べておりますと、そこへ若いのが四五人入り込んで来て、同じように熊谷団子を食べながら、威勢のいい話を始めました。
それを道庵先生が聞くともなしに聞いていると、いずれも熊谷次郎に関する話で、なんでもこの若い人たちは演劇の作者連で、旧来の
「時に、皆様や」
たまり兼ねた先生が、若いのへ口を出しかけると、先方で、
「何ですか」
「承れば、あなた方は熊谷次郎直実公の事蹟を調べ、演劇にお作りなさるそうですね」
「左様……少しばかり書いてみたいと思って、遊びに来ました」
「それは結構なお心がけで……拙者も、こう見えても芝居の方が大好きでございましてね、ことに熊谷とくると夢中でございます」
「そうですか」
「しかし、あなた方のような血のめぐりのいいお若い方とちがって、この通りの頭でございますから……」
道庵先生は、ちょっと自分の頭の上へ手をやって、くわい頭を
「どう致しまして」
若い劇作家連も、道庵の髪の毛をつまんだ手つきを見て、仕方がなしに苦笑いを致しました。
「この通りの頭でございますから、新しいことはあんまり存じませんが、一の谷の芝居はいろいろのを見ましたよ、おめえ方は知りなさるめえ、
「いいえ」
「今時は、熊谷といえば、陣屋に限ったようなものだが、組討ちから引込みがいいものさ。わしゃ、
「渋団は好かったそうですね」
「好かったにもなんにも。総じて今の役者は熊谷をやっても、神経質に出来上ってしまって、いけねえのさ」
「なるほど」
「それから、お前さん方、蓮生をレンショウとおよみなさるが、あれも詳しくはレンセイとよんでいただきたいね」
「蓮生坊をレンショウボウとよまずに、レンセイとよむのですか」
「左様、あの時代に蓮生が二人あったんですよ、本家がこの熊谷、それからもう一軒の蓮生が、宇都宮の弥三郎
「なるほど」
「まあ、お聴きなさい、熊谷の次郎が最初に出家をしてね、
その時、道庵は何と思ったか、あわてて自分の口へ手を当てて、子供があわわをするように、
「様、様、様、様」
と続けざまに呼びましたから、若い劇作家連が変な顔をしました。
実は、ここに長者町一味のならず者がいなかったから幸い。いれば先生は
「法然様も、これには驚いてね、法名が欲しければいくらでもしかるべきものを上げよう、なにも熊谷が
「そういうわけでしたか」
「それからまた或る人が、この二人蓮生に向ってこういう告げ口をしたものさ、熊谷の入道や、宇都宮の入道は無学の者だから、法然様は念仏だけを教えてだましておくんだが、もっと、
「なるほど」
「そうかと思えば、物に触れて無常を感じてみたり、涙を流してみたりするところに美質があるのさ、その無邪気なところをお前さん方、神経質にしてしまってはいけませんよ」
「注意致しましょう」
「それからお前さん方、熊谷様はしの党だか、
若い人たちが
「熊谷の芝居は
興に乗じた道庵先生は、故名優の型をやり出して、あたり近所の煙草盆や
芝居そのものに予備知識のない米友には、こんな物語がばかばかしく、聞いていられるものではありません。
ぜひなく米友は、盛んに団子を食べました。
話より団子という
「先生、いいかげんにしたらどうだ」
「そうだそうだ、日が暮れらあ」
団子屋を飛び出してから間もなく、道庵先生が、
「あ、
これはこの土地に、梅本という
ところへ、
「下に――下に――かぶり物を取りましょうぞ」
これはいわずと知れた大名のお通りの先触れです。
どうも大名のお通りというやつは、道庵と米友の
その声を聞きつけた道庵は、顔をくもらせて、
「さあ、いけねえ、友様、面倒だから、そこらへ
道庵は、蕎麦のことなんぞは打忘れて、米友を促すと共に、丸くなって脇道へ走り込んでしまいました。
米友とても、大名の行列があんまり好きではない。
けれども、先生のように丸くなって逃げる必要はないと思う。大名に借金があるわけではなし、こんなに丸くなって逃げなくてもいいと思うが、道庵がやみくもに逃げ出したものですから、米友もまた、そのあとを追わないわけにはゆきません。
やみくもに逃げた道庵は、ついに畑の中へ飛び込んで、桑の木へ衝突して、ひっくり返り、そこであぶなくとりとめました。桑の木がなければどこまで飛んで行ったかわかりません。そこへ駈け寄った米友が、
「先生、怪我はなかったかい」
「おかげさまで……」
畑の中へひっくり返って、羽織をほころばした上に、土をかぶった有様は、見られたものではありません。米友がそれを介抱して、それから廻り道をしてまた本街道に出ると、ちょうど通りかかりの駄賃馬を、道庵が呼び留めました。
値段をきめて、
いよいよ、馬に乗る段になると馬方が、
「旦那、それじゃあ向きが違いますぜ」
と笑ったのも道理。道庵は、馬の頭の方へ自分の尻を向け、馬の尻の方へ自分が向いて乗込んだものだから大笑いです。
「ナアーニ、これが本格だ」
道庵はすましたもので、向きをかえようとも致しません。
「は、は、は、旦那は
馬方どもが笑いますが、道庵は笑いません。
「坂東武士が、敵にうしろを見せるという法はねえ」
さては、先生、大名の行列を見て戦わざるに逃げた余憤がこんなところへ来て、負惜しみをやり出したな。
しかし、先生が
ですから、通行の人が指さしては笑います。
それをいっこう取合わない道庵は、
「なあに、これが本格の乗り方だよ、笑うやつは古式を知らねえのだ」
というが、大坪流にも、佐々木流にも、こんな乗り方はなかったはず。
ははあ、読めた。熊谷の蓮生坊が
この逆乗りで納まり返った道庵。
二十四
武州沢井の机竜之助の剣術の道場の中で、雨が降る日には、与八が彫刻をしています。
海蔵寺の東妙和尚が彫刻に妙を得ていたものですから、それを見様見真似に与八が像を刻むことを覚えてしまいました。
与八のきざむ仏像――実は
ともかく、ひまに任せてはこうしてお地蔵様を刻んでいるから、その作り上げた数も少ないことではあるまい。これは皆、しかるべき需要者があってする仕事で、これだけでもけっこう商売になりそうですが、与八はこれで
与八さんの刻んだお地蔵は
また、与八さんのこしらえたお地蔵様は
百年の後、
「与八さん、皆さんが、あれほど有難がって頼むんですから、かかりっきりに彫刻をなさいましよ、ほかの仕事は誰でもやれますが、その彫刻は与八さんでなければ出来ない仕事でしょう」
とお松が、かたわらからすすめるくらいです。与八にとってはドレが本職で、ドレが余技ということもないが、一を
今とりかかっているのは石の高さ一尺――極めて小さなものです。これはある子供の母が、死んだおさな児へ
与八もこのごろ一つ助かることは、お松が来てくれたので、まず児を育てるの心配がなくなったこと。お松は、郁太郎と登を両手に抱えて、かたわら与八の仕事のすべてに後援を与えている。幸いに、近所から子守も来てくれるし、たのめばいつでも人手が借りられる。剣術の道場は、いつか知らず寺小屋となり、学校となり、与八の製作場となる。
無心で与八が地蔵を刻んでいる時、どうかすると、ふいと気がさして道場の武者窓を見上げることがある。そこから、誰か顔を出しているようでならぬ。
誰というまでもない、それは女で――
「与八さん、郁坊は無事ですか」
と恨めしい声。
その時に与八は、郁太郎の母お浜の
そういう時に与八が悲しい思いをする。もろもろの
与八が道場で彫刻をしている時、お松は
お手本というのは、ここの道場の学校に来る子供たちのために、西の内の折本をこしらえて、お松がそれに「いろは」と「アイウエオ」から始めて、
子供たちのためにお手本を書くのみならず、このごろでは、娘たちのために
人に物を教えるということもまた、自分を教育する一つの仕事になりますものですから、今、お手本を書くにしても、お松は一生懸命であります。
幸いなことに、登は
人間の家は、人間が住まなければ駄目なものです。
お松のここで書いているお手本は、単に道場へ集まる子供たちに分けてやるのみならず、これから三里も五里も山奥の炭焼小屋や、猟師の家庭にまで入ります。
どうかするとこうしているところへ、武者修行が尋ねて来ることがある。道場の
「ははあ、では、あなたは机竜之助殿のお妹御でもござるか……」
といってお松の顔をながめ、
「いいえ、わたくしどもは、ただお留守居をしているだけなんでございます」
そうしているところへ間もなく、ゾロゾロと草紙をかかえた近辺の子供が集まって来るものですから、武者修行は到底、薙刀をつかう娘ではないとあきらめて退却する。
海蔵寺の東妙和尚なども、お松の字をことごとく称美して、
「これは見事なものだ、どうしてわしらは遠く及ばない」
と言いました。それも謙遜だろうが、お松の字はお
そこで今までは、東妙和尚からお手本を書いてもらっていた人が、改めてお松をお師匠番にたのむ。こうなるとお松がこの寺小屋の実際上の校長で、その職分を、いよいよ興味あることに思っています。
しかしながら、現在
早く、郁太郎を成人させて、立派にこの家を
ほどなく傘をさして二人、三人、五人と上って来る石段。
手習草紙を帯からブラ下げて、風呂敷を首根ッ子へ結えたのが、
「誰だい、ここんちへ、お化けが出るなんていったのは、三ちゃんかエ」
「おいらは、聞いたんだよ、よそで」
「悪いや、悪いや、お化けが出るなんて悪いやい」
「だって聞いたんだもの。おいらが、こしらえ事をいったんじゃねえのよ」
「悪いや、お化けが出るなんて」
こういいながら石段を上る子供連。村里から机の屋敷へのぼるには、かなりの石段を踏まなければならぬ。
「だって、この間も、旅のお侍がいってたよ」
「何だって」
「あの道場へお化けが出るって」
「嘘だあい」
「聞いてみな、今度、旅のお侍が通ったら聞いてみな」
「どんなお化け?」
「知らねえや、おいらは見たことがねえから」
「嘘だい」
たしなめ役の
「お化けが出たって、夜だけだろう」
「そうさ」
「夜だけなら怖くねえや」
いちばん背の低いのが怖くないという。
「与八さんがいらあ、与八さんがいるから怖くねえや、与八さんは力があるんだぜ、とても力があるからなあ」
「駄目だよ」
おでこが
「何で駄目だい」
「与八さんは、力があったって、お人好しだから駄目だよ」
「お人好し?」
「ああ」
どちらもお人好しの意味がよくわからないで、
「お人好しなんていうのはおよしよ、与八さんは、ありゃお地蔵様の生れかわりだって、うちのおっ
「うちの
「力は喧嘩のためにばっかり使うもんじゃあるめえ」
「だって喧嘩の時に使わなけりゃ、力があったって詰らねえや」
「そうでもあるめえ」
その時、子供の一人が急に下の方をながめて、
「ああ、それムクが来たよ」
「ムクが来た」
子供たちのすべてが傘をあみだにして下段の方を見ると、ムク犬が首に
今ではこの犬も、同じところの屋敷に、同じように客となっている。
そうして、小笊を首に下げては、里へ買物に行くのを仕事の一つとしている。最初は怖れていた村の子供も、今はこの犬を
子供たちはムクを中にとりまいて上りはじめる。お化けのことも、お人好しのことも、もう問題にはなっていない。
「犬ハヨク夜ヲ守ル、人ニシテ犬ニ
背の高いのが、大きな声で叫び出す。
「太郎ドンノ犬ハ白キ犬ナリ、次郎ドンノ犬ハ黒キ犬ナリ」
負けない気で、あとをつづけた
「油屋ノ縁デスベッテコロンデ……」
と歌い出した
こうして犬を
「先生」
「与八さあ――ん」
「こんにちは」
「雨が降ります」
道場の庭は、にわかに騒々しく、賑わしくなりました。
その時分、与八はもう地蔵の彫刻をやめて、道場の内部には机が並んで、三十人ばかりの子供がズラリと並ぶ。
「先生、こんにちは」
「お師匠様、こんにちは」
先生といわれ、お師匠様と呼ばれているのはお松です。
「みなさん、雨の降るのに、よく休まないで来ましたね」
お松はここで三十人の子供を相手に、単級教授をはじめる、
ソの字と、リの字の区別のつかないもの、七の字を左へ曲げたがるもの、カの字の肩の丸いのを直したり、やや進んだところで、
「お師匠様」
だしぬけに呼ばれて、お松は振返り、
「何ですか」
「与八さんはお人好しだっていいますが、本当ですか」
「そんなことをいうものではありません」
お松がたしなめると、当の与八は笑っている。
「お師匠様」
「何ですか、もうすこし小さい声をなさい」
「金太の野郎が、おいらの墨をなめました」
「なめやしないやい、香いをかいでみたんだい、こんな物をなめるかい」
「いけません、人の墨や筆を、だまっていじるものじゃありません」
「あ、先生、宇八が、あとから、おれの頭の毛をひっぱりました」
「いけません」
「お師匠様」
「何ですか」
「三ちゃんが、ここの道場へはお化けが出るって言いました」
「旅のお侍に聞いたんです」
「そんなことをいうもんじゃありませんよ」
「お師匠様、川っていう字は真中から先に書くんですね、端から書いちゃいけないですね」
「そうです、真中から先にお書きなさい」
「先生、おたあは字を書くふりをして、人形の頭を書いています」
「うそだい、うそだい」
「うそなもんか、これ見ろ、墨がこの通り坊主頭になってらあ。先生、おたあは字を書くふりをして、こんな坊主頭を書きました」
「いけません……それから周造さん、お前さんも、人のいいつけ口をするものじゃありませんよ」
「先生、おたあがおいらを
「静かになさい。多造さん、人をおどかしてはいけませんよ。それから周造さんも、おたあといわずに、ちゃんと多造さんとおいいなさい」
「先生、
「それではみなさん、お手習はこれでおしまいにします、硯と草紙を、ちゃんと正しく、筆を前に置いて、こちらをお向きなさい」
程経てお松がこういうと、子供たちが静まり返る。お松は自分も座について、
「手をよごしませんでしたか、さあこうして上げてみてごらんなさい」
三十名の子供が、残らず両手を差し上げると、
「あ、先生、おたあはつばきで、手にくっつけた墨をふいています」
「うそだい」
ともかくもこれで習字の時間が終って一礼すると、子供らは、切りほどかれたように、与八と、お松の周囲に寄ってたかってかじりつく。
与八も、お松も、それを叱ろうとはしません。
沢井道場の今日このごろの有様は、こんなあんばいです。
今日はお松が、ムク犬をつれて、万年橋を渡ります。
これはかねて、心がけていた、対岸和田の村に、宇津木文之丞のお墓参りをしようと思っていたのを果すつもりと見える。実は、このお墓参りには、与八も、郁太郎も、
天気がよいのに、秋がすでに
大菩薩へ通ずるこの街道。お松には思い出の多いところ。
万年橋の上ではたちどまって、川の流れを見下ろしました。
橋の
「どちらからおいでになりました」
「
「大菩薩峠の上は、もう雪でしょうね」
「いいえ、まだ雪はございませんでしたが、ずいぶん寒うございました」
「
「
「そうですか、お
それだけの問答で別れる。
海抜六千尺の峠の
向うの村へ渡って、改めて沢井を見渡すと、
お松は秋の情景をほしいままにして、山と畑との
と見れば、道ばたの芝の上に置かれた剣術の道具一組。袋に入れた
あちらの畑の中の柿の木の上で声がする。
「新ちゃん、沢井の道場がこのごろ開けたってなあ」
「そうかい」
「それでね、女の先生が来たんだとさ。女の先生だから
「そうか知ら、薙刀はこわいや」
お松が通りかかるとも知らず、沢井の道場のこのごろの
「薙刀は一段違いだからな」
「そうさ、薙刀は一段違いだから、油断してかかるとやられるとさ」
「明日あたり見に行こうか」
「見に行こう。だが、先生にしかられると悪いからな」
「見に行くだけならよかろう。それに、薙刀の武甲流というのは、もとは甲源一刀流から出ているのだと先生がいったよ」
「そうか知ら」
「女でも先生になるくらいだから、強いだろうな」
「そりゃ強いさ」
お松は立ちどまって、柿の木の上の子供の話を聞きながら、おかしさに堪えられませんでした。沢井の道場を開いて、剣を教えずして、文字を学ばしめているのに、それが誤り伝えられて、自分のことが薙刀の師範として子供らの噂にのぼっている。それにしてもこのあたりの子供、柿の木によじながらも武芸の話。路傍に置捨てられた剣術の道具も、この子供のそれに違いない。
話によれば、近いところの先生の
ほどなく、枝つきの柿の実をおびただしく
「あ――」
といってお松と顔を見合わせ、恥かしそうに以前置捨てた剣術の道具の傍へよって、その柿の枝を
武術は人に
二十五
根岸に引移った神尾主膳と、お絹とは、このごろ痛切に金がほしいと思っています。
誰でも大抵の人は金がほしいと思っているが、この二人にとって、それがいっそう切実なのです。
神尾主膳はある時、つくづくと思いました、
「金というやつは女とおなじことで、出来る時は逃げても追っかけてくるが、出来ないとなると、追いかけても逃げてしまう」
お絹もまた口に出して言う、
「どうかして、お金がはいる工夫はないものかしら」
実際、金というものがない以上は、都会生活の興味の大部分は失われる。こうして不景気に隠れん坊をしているくらいなら、
ことに金の有難味を知っている神尾主膳――金を
眼と鼻の先に吉原があろうとも、好きな書画
お絹にあっては、それがいっそう輪をかけた渇望で、この女の持っているすべての虚栄心と不満足は、みな金というところへ落ちて行く。その金が廻らない。廻るべきはずもない。果してこんなところへ思うように廻って来れば、この世に苦労はない。そこで、どうしても廻らないものを、無理に廻そうとする。
あの当座こそ、二人は外へも出ないで、
それは廻らないものを、無理に廻そうとする算段だと知っているから、神尾もとがめ立てをするわけにはゆかない。けれども、その出て行ったあとでは、神尾もいい心持はしない。ことに夜おそく帰られたりする時には、むらむらと気が変になることもあるが、今の身ではそれもかれこれということはできない。そういう時には、お絹が必ず多少のみやげを持って来るのだから。そのみやげというのは、つまり、差当って二人の生活になくてはならぬ「金」をどこからか借り出して来るからです。
こうして神尾は、今のところ、お絹の働きによって養われている有様だが、これは神尾にとって不満であるように、お絹にとっても食い足りない。もっと派手に儲けて、もっと派手に
こんな
お絹が駒井甚三郎に当りをつけたのは、最初からのことでしたが、手を廻してみると、駒井は房州の方へ行ってしまったとのこと。房州まで
そこで、方針をかえて、江戸府内の心あたりを訪ねている。
今日も、小女を連れたお絹は、湯島の方から上野広小路へ出て、根岸の宅へ帰ろうとしました。広小路の賑やかなところを通って行くうちに、五条天神へはいる角のところで、一人の坊さんが立って
「成田山御本尊のお姿、滅多にはおがめない不動尊御本体のおうつしを、このたび御本山のおゆるしを得て皆様に売り出して上げる、一巻が百と二十文、十巻以上お買求めの方には、一割引として差上げる、滅多にはおがめない成田山御本尊の御影像、一枚が百と二十文、十枚以上お買求めの方には一割引……」
お絹がそれを聞いて、これはお説教ではないと思いました。
これはお説教ではない、成田山御本尊の絵姿を売っているのだと思いましたが、その坊さんたちの仰々しい
「
前に、やはり錦襴の帳台を置いて、その上におびただしい絵像の巻物を積み重ねながら、要するに衆生済度のために、不動尊の絵姿を、一般に公開して売下げるという宣伝であります。
大江戸は広いものですから、これを聞いて有難涙に暮れながら、お姿をいただいて帰るものもあり、なかにはばかばかしがって、山師坊主の堕落ぶりの徹底さかげんを、あざ笑って過ぐるものもあります。お絹も、その光景を見て、なんだか異様に感じました。
信仰心などは
その場は、それだけで、まもなく根岸の里へ帰って来ました。
神尾主膳はその時、一室に屈託して、今日もしきりに金のことを考えています。ぜひなく両国の
「ただいま帰りました」
「お帰り」
と言ったが、神尾はやはり
「ああ、今日はずいぶん歩きました」
「どこへ……」
「どこという当てはございませんけれど……」
神尾はひとりで留守居をさせられている時は気が
やがて、二人
「今の坊さんたちの商売上手には、驚いてしまいました」
「どうして」
「今日、上野の広小路を通りかかりましたところ、坊さんのお説教とばかり思って見ましたら、不動様の御本尊の巻物を売り出しておりましたよ」
「なるほど」
「それもあなた、不動様の
「ははあ」
この時神尾主膳の耳へは、金儲けという言葉が強く響いて、その金儲けから逆に、お絹の言葉を二度三度思い返しているうちに、ハタと自分の膝をたたきました。
神尾主膳がハタと膝をたたいたのは、お絹の世間話が暗示となって、こういうことを考えついたのです。
坊主を利用してやろう――という、ただそれだけのボーッとした
そこで輪廓のうちへ、お絹の顔が、またボーッと浮んで来ました。
女だわい――
坊主は、比較的に身分ある婦女子にちかより
感応寺の「おみを」は十一代将軍の
神尾主膳は、そういうことの幾つもの例を手に取るように知っていたから、お絹の今の世間話が、その記憶を残らず
腹があって、融通がきいて、商売気のある坊主を見つけたいものだ。
それは、さして難事ではあるまい。清僧を求めるにこそ骨も折れようが、左様な坊主は今時ザラにある――と神尾は、ひとりうなずいてみました。
どういうつもりか、編笠をかぶって、忍びの
右の坊さんは、怪しげな妊娠の原理から説き起して、この安産のお守りの功徳の莫大なることと、これによって、子無き婦人が、玉のような子供を挙げた実例を、雄弁で説いた上に、なお、希望の方は根岸の千隆寺というのへおいでになれば、われわれの師僧が秘法によって、子を求めんとする婦人のために、
ははあ根岸の千隆寺。これが近ごろ評判のそれか。自分の
しかし、今のところへその住職を招くのも嫌だし、自分が行って会見を求めるのも嫌だ、何か機会はないものかと考えているうちに、そうだそうだ、お絹をやることだ、あの女を子を求める子無き婦人に仕立てて……これは打ってつけの役者だわい、と神尾が思いつきました。
二十六
それから二三日すると、どういう相談がまとまったものか、お絹が装いを
住職の僧が存外若いのに驚かされました。年配は神尾主膳と同格でしょう。美僧というほどではないが、色は少々浅黒いが、どこかに愛嬌があって、また食えないところもありそうです。
で、左右の侍僧がたしか十余人。
席はいつでもいっぱい。しかもそれが六分通りは婦人。あとの四分も、やはり婦人ではあるが、もう婦人の役を終った老婆連と、そのおともらしい男だけ。
この若い住職は、印の結びぶりも鮮かだし、お経を読むのもなかなかの美声です。
ともかく、何の信仰心もなしにやって来たお絹でさえも、その席へ連なっていると、悪い心持はしません。
それはある日のこと、
「神林の奥様、お急ぎでなくば、今日は書院でお茶を一つ差上げたいと、
「それは有難うございます」
護摩の席が終ったあとで、帰ろうとするお絹を、こういって番僧がひきとめたものですから、お絹が喜びました。
書院に待たせられていると、ほどなく例の千隆寺の若い住職が、まばゆいほど
「お待たせ致しました」
「先日は失礼致しました」
「いや、拙僧こそ。あの時は多忙にとりまぎれて、余儀なく失礼を
「はい……」
お絹はどこまでも殊勝な
この身の上話は、ここに通いはじめた最初から用意をして来たのですが、今日まで直接に住職に打明ける機会を与えられなかったものです。
「おはずかしい次第でございますが、わたくしが
「
「家名大事と思いまする夫は、
お絹はそこで、自分の苦しい立場を、言葉巧みに住職に訴えました。嫉妬ではないが、女のつとめが果せないために、夫の愛を他の女に分けてやらなければならない恨み。どんな方法によってでも、一人の子供を挙げることさえできたなら、死んでも恨みはないという
聞き終った住職は、
「いや、いちいち御尤もなこと、左様な恨みを抱く婦人が世に多いことでござる。御信心浅からずとお見受け申すにより、八葉の秘法を
案外
丑の日の深更を選んで、子無き女のために、子を授くるの秘法が行われる、滅多な者には許さないが、信心浅からずと見極めのついた者にのみ、その
という住職の申渡しが、お絹をして、してやったりと心の中で舌を吐いて、うわべに拝むばかりに有難がらせ、あまたたび、住職に拝礼して、いそいそとして千隆寺から帰って来ました。
一切を神尾主膳に報告して三日目、丑の日という日の夕方、お絹が念入りにお化粧をはじめると、神尾がその傍でニタニタと笑い、
「これからが
と言いました。
「戦場へ乗込むようなものですわ」
お絹は度胸を据えながらも、ワクワクしている。
「一人でやるのは心配だ」
と神尾がいいますと、
「お連れがあっては許されませぬ」
とお絹がいう。
どうもこの女の心持では、秘密の修法を受けに行くおそれよりは、好奇心に
今にはじまったことではないが、それが神尾には不満です。神尾でなくったって誰だって、こういう危険を好む女に安心をしてはいられない。今は計るところがあるのだからいいようなものの、もしこれが本当の女房であったらどうだろう。深夜の秘密の修法には、秘密の道場があるに相違ない。その秘密室に隠されたる秘密の罪悪。子をほしがるほどの女に、娘というのはないはずだから、みんな人の妻妾――その秘密が洩れないのは、受ける者が秘密を守るからだろう。
神尾主膳はこの時、千隆寺の坊主が憎いと思いました。まして美僧でもあろうものなら、殺してやりたいとさえ思いました。
千隆寺の坊主ども覚えていろ! 思わず血走って一方を
それと知るや知らずや、お絹は
「色は浅黒いが、ちょっと乙な坊さんですから、ことによると女の方が迷うかも知れません。しかし御安心なさいまし、こちらは役者がちがいますからね」
とお愛嬌のつもりでいったのが、はげしく神尾の神経に触れたようです。
飲まない時は酒乱が起らない。酒乱のない限り、神尾は扱い
「お絹!」
「え……」
「お前、今晩、千隆寺へ行くのを
「え、何ですか、千隆寺へ行くのは止せとおっしゃるのですか。止せとおっしゃるなら止しもしましょうが、わたしが好んで行きたがるわけじゃないはずです、どなたか、おたのみになったから、柄になくわたしがお芝居を打とうというんじゃありませんか」
お絹も少しばかり気色ばみました。そのくせ、お化粧の手は少しも休めない。
「いや、止してもらいたい、止めにしてもらいたい」
神尾はいよいよあせり気味で口早にいいますと、お絹は落着いたもので、
「駄々っ児のようなことをおっしゃったって仕方がありません、止すなら止すように初めから……」
この時、神尾主膳は物につかれたように立ち上って、
「止せ!」
お絹の向っていた鏡台に手をかけると、
「あらあら」
これにはお絹も
けれどもこの時のは、酒に
「なんて、乱暴でしょう」
お絹も、さすがに、むらむらとしましたが、酒が手伝っていない以上は、結局、これだけで納まるものだと見くびりながら、倒れた鏡台を起し、
「いやになっちまう」
と言いながら、鏡台を引起して、ふたたび鏡台に向ったが、「じゃ、
そうして丹念にお化粧を済ましたお絹は、根岸の里の夕闇を、さんざめかして程遠からぬ千隆寺へ乗込んだのは間もない時。
神尾主膳が酒を飲み出したのはそのあとのことで、お絹とひきちがいに、下男が近所の酒屋へ飛びました。
お絹は日頃、主膳の酒癖を知っているから、この点は厳しくして酒を禁じていたものです。主膳もまた、その悪癖を自覚しているから、お絹の禁制をかえって力にもしていたようですが、今は、矢も楯もたまらず酒が飲みたくなって、下男を追立てたものです。
で、居間に入って、ひとりでチビリチビリとやり出した時に、ようやく
やがて癇癪が納まって
「誰だ、そこへ来たのは」
酔眼にようやく不穏の色を浮ばせ、主膳が一喝したのは、まさしく酒乱のきざしと見えました。幸いにそれを
「誰だ、案内もなくそこへ通ったのは?」
誰もいないはずの人をとがめていると、いないはずのところで、
「はい、これは神尾主膳様」
と返事がありました。
「誰だ、聞覚えのない声じゃ、
「神尾の殿様」
「拙者の名を聞くのではない、そちの名をたずねているのじゃ、何者だ」
「御酒宴中のところを、お邪魔にあがりまして相済みませんが……」
「かごとをいわずと、名を名乗れ、案内もなしに、尋ねて来たのは誰じゃ」
といって神尾主膳が、荒々しく向き直りました。
「へえ、どうも相済みませぬ」
顔を見せないで、声ばかりしている男が、たしかにこの襖の外に来ている。それを聞いて神尾はじれ出しました。
「ただ、済まないでは済むまい、夜陰、人のおらぬはずのところへ忍び込んで来た奴、盗賊に相違あるまい……盗賊でなければ名を名乗れ」
「へえ、恐れ入ります、七兵衛でございます」
「ナニ、七兵衛?」
「左様でございます」
「七兵衛とはどこの何者だ」
「お忘れになりましたか?」
「知らん、左様な者は覚えはない、誰にことわって、何の用で入って来たのだ、不届きな奴」
神尾主膳は、荒々しく立って
ほどなく
「あぶねえ、あぶねえ」
と言いました。
この時、
神尾主膳には多少槍の心得があって、九尺柄の槍を座に近いところへ置き、いざといえばそれを取ることにしている。いざといわない時も運動の意味で、それをしごいてみることがある。
今は、そのいざというほどの場合でもなく、運動のためでもないのに、まさしく酒乱の手ずさみにこの槍がえらばれているもので、こういう際には、平生の技倆以上に思う存分にその槍を使うことが例になっている。かつて染井の化物屋敷では、この槍のためにお銀様が、危うく一命を取られるところでした。
今はこうして、追わなくてもよい敵を、本城を留守にしておいて追いかけて来たものですから、七兵衛も驚きました。
また厄介なことにはこういう際には、いやに眼が
「あぶねえ」
驚いた七兵衛は、身をかわして飛び退きましたが、神尾の槍先は、透かさずそれを追いかけて来る。ために七兵衛は、
「ちぇっ」
といって身を躍らすと、松の幹へ足をかけて、早くも三間ばかり走りのぼってしまいました。突きはぐった神尾主膳、天井裏の鼠をねらうように、槍を
木の上でホッと息をついた裏宿の七兵衛、
「神尾の殿様……私はあなた様に追われようと思って上ったんじゃありません、あなた様のおためになって上げようと思って上りました、それを、いきなり槍玉にかけようとなさるのは驚きました」
「憎い奴」
「神尾の殿様、落ちついてお聞き下さいまし」
「憎い奴」
「私は、あなた様にお目にかかった上で、ご相談を願いまして、それからひとつ、あの千隆寺へ行ってみようかとこう思いまして、穏かに上ったつもりなのですが……」
「千隆寺?」
その時、神尾主膳は忘れていた記憶が
「うむ、千隆寺」
と叫んで歯噛みをしました。
「その千隆寺へ、実は七兵衛が、お絹様のおともをして行ってみたかったんです、ところが、どうも、そうはいきそうもございませんものですから、あなた様と御相談をした上で、ひとつ
木の上で七兵衛は、なるべく低い声で、ものやわらかに言いますと、主膳の逆上がいくらか引下ったと見えて、
「うむ、では、貴様は盗賊ではなかったのか」
「ええ、まあ、そういうわけでございます」
「では、下りて来い」
「いや、お待ち下さい、もう少し上ってみましょう、千隆寺の庭がここで眼の下に見えますから……」
なるほど、この
円光寺も見える。正燈寺も見える。金杉の安楽寺までが、それぞれ相当に高い
七兵衛が、夜分、遠めの
一方、神尾主膳は、槍を片手に、一時は酔眼をみはって、松の上をながめていたが、やがて、酒乱の峠を越したのか、疲れてしまったのか、しきりに眠くなったと見えて、くずおれるように、松の幹によりかかってみたが、ついに支えきれず、根元へ倒れようとして起き直り、きっと足を踏みしめて、何か
どこへ行くのだろう。多分、屋敷へ引返すのだろうと、松の上から七兵衛は、足もとあぶなく、槍を力に、ふらふらと歩いて行く主膳の姿を、こころもとなく見返っていましたが、それも、まもなく、
あとで、ゆっくりと、高見の見物で、千隆寺の境内を隈なく見おろしていた七兵衛。いいかげんの時刻に、ひとり
また思い出して、神尾主膳が戻って来たな、見つかっては面倒だと、いったん下りて来た七兵衛が、そのまま、松の茂みの間に身をひそめています。
歩いて来たのは二人連れ。神尾主膳が戻って来たのでないことは確かだが、因果なことに、その二人が、
「時に時刻はどうだ」
「まだ少し早かろう」
そのまだ少し早かろうという時間を、ここでつぶそうとするものらしい。
七兵衛が
「いったい、その立川流というのは、いつの頃、どこで起り出したものだろう」
「それは、今より八百年ほど昔、武蔵の国、立川というところで起ったのだが、その流行の勢いが烈しきにより、まもなく禁制となったにもかかわらず、ひそかに、その法を行うものが絶えなかったとのこと」
「ははあ、武蔵の立川が発祥地で、それから立川流という名が出たのか」
「それを、今時分、千隆寺の山師坊主がかつぎ出して、大分うまいことをしていたのが、今宵はその納め時」
というのが、七兵衛の耳に入りました。そうでなくても、その以前から七兵衛が
それはわかったが、わからないのは立川流ということ。
武蔵の国、立川というところは、七兵衛が江戸への往還の道だからよく知ってはいるが、そこから立川流というものが出たことは知らない。
千隆寺の坊さんが、立川流という剣術をつかうわけでもあるまい。八百年前に起って、流行の猛烈にして弊害の甚だしきにより、禁制になったという流儀を、ここの坊主が行っているという。
二十七
立川流――の流れは、もう少し源が遠く、流れが深いはず。
しかし、たぶん今ごろは、千隆寺の
とにもかくにも、ここで、禁制の立川流を秘密に行って、男女を集めているという風聞は、もう、その筋の検挙の手を下すまでに拡がっているというのは、本当らしい。
お絹という女の好奇心をそそって、今宵その秘密の
さあ、いよいよその秘密の伏魔殿が
七兵衛は、そんな事を考えている時、下では、呉竹の間や、稲垣の蔭や、藤棚の下や、不動堂の裏あたりから、黒い人影が幾つも、のこのこと出て来ては、松の幹の下の、以前に話し込んでいた二人の前に集まると、二人の者がいちいちそれに
その時、さいぜんから控えていた二人の者が、やおら立ち上って、しめし合わせながら、闇に消えてしまいました。
そこで七兵衛も思案して、松の樹を下りましたが、さてどこへどう飛び込んだか、闇の
しかし、松の上で見定めておいた見当によって、千隆寺の境内へまぎれ込んだのは疑いもなく、八葉堂の
いや、その
それから
火事か、火事ではない、強盗か、いいえ、盗賊でもないそうです。千隆寺へお手が入りました。
ナニ、どうして? お寺で
八葉堂を中にした千隆寺の庭では、
なかには、闇にまぎれて裏手から、或いは垣根を越えて、やっと逃げ出したところを、待ち構えていた捕方につかまえられて、
さて、本尊の住職はどうした。その夜、はじめて入室を許されたお絹という女はどうした。これは、
これより先、七兵衛は早くも本堂の天井裏に身をひそませて、じっと下の様子を見おろしておりました。
本堂の中では、お手前物の
しかし、恥と怖れとで、その婦人たちは、いずれも
有合わせの
その時、七兵衛が疑い出したのは、この役人は町奉行の手か、お寺のことだから寺社奉行の手か。それにしても二人の役人ぶりが少し
なるほど、芝の三田の四国町の薩摩屋敷の浪人あたりのやりそうなことだ。てっきり、それに違いないわい。それなら、それで、こっちにも
下では、そんなことは知らず、いちいち婦人たちに訊問をつづけているが、いずれも恥かしがって返事がはかばかしくない。
「その方たち、夫ある身でありながら、こうして夜陰、お
「夫も承知のことでございます、ただ子供がほしいばっかりに……」
と泣き伏してむせぶ者もあります。
「どうだ、祈祷の
「はい……」
「聞くところによれば、住職及び徒弟どもの身持ちがよくないとのことだ、何ぞ覚えがあるか」
「…………」
「これは何に用うる品だ」
問題の役人が手に取って示したのは、
「お祈りの時の敷物でございます」
「ナニ、これを下へ敷いて、その上でお祈りをするのか」
「はい」
怖る怖る返事をするたびに、七兵衛がその婦人たちの横顔をうかがうと、町家のお
ところで、当の本尊の住職の
「秘密堂の壇の下に、抜け穴がありました」
「ははあ、その抜け穴が……」
さてこそとこの連中が意気込んで、その抜け穴というのを検分に出かけたあとで、七兵衛はソロソロと天井裏を
それを
ちょうど、それと前後して、
ほどなく、神尾主膳の屋敷の中へ再び姿を現わした七兵衛。
その時分、主膳は前後も知らず眠っておりました。
その一間へ悠々とお賽銭箱を
ははあ、帰って来たな、と思いました。
さいぜん、七兵衛が天井裏で眺めていた婦人の中には、お絹の姿が見えなかったのが不思議だが、あの女のことだから、うまく
一番おどかしてやろうかなという心持で、フッとその燭台の火を消してしまいました。
果して、立戻って来て、裏の篠藪からソッと
「お前様、これが、わたくしどもの控えでございます、もう御安心あそばせ」
「いや、おかげさまで助かりました」
やがて二人は廊下を通りかかると、その一室で音がする。その音は異様な音で、まさしく銭勘定の音であります。金、銀、青銅の類を取交ぜて若干の金を積み、それをザラリザラリと数えては積み、数えては積んでいる物の音ですから、お絹が怪しみました。
誰かこの座敷で金勘定をしているな――しかしこれは
そう思うと、ゾッと気味が悪くなりました。
「お前様」
「はい」
「ちょっと様子を見て参りますから、これにお待ち下さいませ」
お絹は住職をとどめておいて、こわごわとその室に近寄って見ますと、暗い中で、まさしくザラリザラリと銭勘定の音。
「誰?」
お絹がとがめてみますと、
「私ですよ」
「え?」
「私でございます」
「何をしているのです」
「お
「お銭の勘定……人の家へ来て何だって、そんな
「私だというのに、わかりませんか」
「わからないよ、声を立てて人を呼びますよ」
「いけません、いけません」
「では、早く出ておいで」
「お絹様、わたくしでございます、七兵衛ですよ」
「七兵衛さん……」
お絹はあいた口がふさがりませんでした。
「いつ来たの、お前」
「三日ほど前に参りました」
「なんとか挨拶したらよかりそうなものじゃありませんか、だしぬけに人の家へ入って来て、銭勘定なんぞをはじめて」
「でも、これが商売だから仕方がありませんね。いま明りをつけますから、お待ち下さいまし」
と言って、七兵衛が先刻の
「まあ――」
お絹はまずその光に打たれてしまいました。
その翌日になって、お絹から千隆寺の住職を、改めて神尾主膳に引合わせた時、おたがいに
「やあ、君か」
という有様でありました。
千隆寺の住職――その名を
そこで、ガラリと砕けて、お互いの打明け話になってみると、この敏外は、叔父が護国寺の僧で、それを縁故に仏道に入り、無理に坊主にさせられて今日に及んだということであります。
「君などは、坊主になってうまい商売をはじめたものだが、拙者の如きはこの通りの有様でウダツが上らない、何かしかるべき商売があらば世話をしてもらいたいものだ」
と神尾がいいますと、足立敏外和尚はまるい頭をなで、
「ふふん」
と笑いましたが、またつくづくと神尾主膳の
「君のその
「これか――」
主膳は今更のように眉間の傷に手を当てて、
「ちっとばかり怪我をしたのだ、これあるがゆえに、この
「うむ、ちょうど、眼が三ツあるようだ」
「生れもつかぬ
といって主膳の
「いや、その傷が
「ふふん」
と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、
「その
「ナニ、いんがん」
「左様」
「どういう字を書くのだ」
「淫は富貴に淫するの淫の字――これは愛染明王が
「ははあ……」
神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました。
暫くしてこの二人は、久しぶりで
当分は、この住職殿も、この屋敷の厄介になることだろう。
一方、廊下の隅の一間には、裏宿の七兵衛がドッカとみこしを
いつも風のように来ては風のように去る男が、今度は動こうともしないで、その一室をわが物ときめこんで、割拠して
そうして、夜になると、蝋燭をともしてザラリザラリとキザな音をさせる。
これは相変らず、金銀、小粒、豆板、
そこで、この屋敷が、これだけでも、以前の染井の化物屋敷に劣らぬ怪物の巣となりつつあることがわかります。
二十八
今日は夕焼のことに赤い日。
やれ行け
それ行け
早駕籠 で……
早駕籠で……
赤いもんどの
暁 の鐘
そりゃ、暁の鐘
と歌いながら、夕焼に赤い西の空に向って、歩調を練習する兵隊さんの足どりで、行きつ、戻りつしていましたが、またも繰返して、それ行け
早駕籠で……
赤いもんどの
そりゃ、暁の鐘
やれ行け
それ行け
早駕籠で……
早駕籠で……
赤いもんどの
暁の鐘
そりゃ、暁の鐘
例の弁信法師が積み上げた石ころのところまで来ると、左に抱えていたそれ行け
早駕籠で……
早駕籠で……
赤いもんどの
暁の鐘
そりゃ、暁の鐘
お前とわたしと
駈落 しよ
どこからどこまで
駈落しよ
鎌倉街道、駈落しよ
鎌倉街道、飛ぶ鳥は
鼻が十六、眼が一つ
いい心持で、声を張り上げている時、弁信が縁へ現われて、どこからどこまで
駈落しよ
鎌倉街道、駈落しよ
鎌倉街道、飛ぶ鳥は
鼻が十六、眼が一つ
「茂ちゃん」
「あい」
「あんまり
「そうか知ら」
「きまっているじゃないか、考えてごらん、十六の鼻を
「だって、あたいは考えて歌っているんじゃないのよ」
と答えた茂太郎は、弁信の注意には深い頓着を払わずに、再び歩調を取って歩きつづけ、
あの姉さん
よい姉さん
堺町のまん中で
うんげん絞りの振袖を
口にくわえて
通る時……
淀 の若衆 が呼び留めて
お前の帯が解けている
「茂ちゃん」よい姉さん
堺町のまん中で
うんげん絞りの振袖を
口にくわえて
通る時……
お前の帯が解けている
弁信が再び呼びかけたものですから、歌いかけた茂太郎が、
「あい」
「お前、うたうなら子供らしい歌をおうたいよ」
またも干渉を試みたものですから、茂太郎が首を振って、
「なぜ」
「なぜだってお前……
「え……」
「歌うんなら、子供らしい歌をおうたいなさい、今のようなのはいけません」
「弁信さん、お前、むずかしいことばかりいうんだね、鼻が十六あってはいけないの、孔子様が歌をうたってはいけないのなんて……あたいが一人でうたって、一人で喜んでるんだから、かまわないじゃないか」
「そういうものではありません……では、わたしがひとつ、
「白楽天ッてなに――」
「支那の昔の歌よみさ」
「教えておくれ」
「道州の
「道州の民ッていうのはなに」
「道州ノ民、
「道州ノ民、侏儒多シ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「長者モ三尺余ニ過ギズ」
「
「弁信さん、これが歌なの、論語じゃないの」
茂太郎が、少しく不平の色を現わしました。
「だまって覚えておいでなさい、あとでわけを話して上げますから」
そこで二人は、
「あ、いやな奴……」
というが早いか、身をおどらして、縁の下へ隠れてしまいました。
「誰が来たの」
弁信が
「御免下さいまし」
「どなたですか」
「はい、ええ、通りがかりの者でございますが……」
見ればキリリとして
「はい」
「つかぬことを
「あ、大工さんですか」
「はい、渡り大工といったようなものでございますが、承れば」
承ればを二度ほど重ねたことほど
「こちら様の本堂は
「あ、左様でございましたか」
弁信法師もまた、さることありと
「左様なお話を私もお聞き申しておりました、棟より柱、
その道の者が参考に見学したいというのだから、見ても見せても、さしつかえないと弁信がのみこみました。
「はい、有難うございます、それでは、とりあえず本堂の方から拝見をいたしまして、次に三重の塔を」
「どうぞ、御自由に。誰か御案内を致すとよろしうございますが、ただいま、人少なでございますものですから、どうか御自由に」
「その方が勝手でございます」
こういって、旅の男は、スタスタと本堂の方へ行ってしまいました。
その後で、弁信は何か一思案ありそうな
「もう暗いはず、
本堂へ廻って行った旅の人は、この薄暗い空気の中で、建築の模様を眺めながら、ジリジリと堂をめぐって、早くも背面へまわりました。
その時分になって、縁の下から
「弁信さん」
「なに」
「今の人は、もう行ってしまったかい」
「まだ裏の方を見ているでしょう。お前隠れなくてもいいじゃないかね」
「だって……弁信さん、あれはいやな奴だよ、あれはね、がんりきの百蔵といって、両国橋にいる時に、よくやって来た、いやな奴だ。あたいを
「そうかね、そんな人だったの。でも、旅の大工だといっているから」
「大工じゃない、遊び人なんだよ。何しに来たんだろう、気をおつけ」
「そうね」
二人は、そのいやな奴が何しにここへ来たかを
がんりきの百蔵とてもまた、すでに机竜之助在らず、お銀様も、宇津木兵馬も、お雪ちゃんもいないところへ、なんだって今頃になって尋ねて来たのだろう。
果して見るだけ見、たたくだけたたいてみたがんりきの百蔵は、なあんだ、つまらないという
「いや、どうもおかげさまで、大へんによい学問を致しました、まことに結構な
こんなお座なりを言ったがんりきの百蔵は、
そのあとで、弁信は、再び縁の下から
「支那の道州というところは、どういう土地のかげんか、背の低い人が出るのだそうですね、大人になって身の
「背の低い人間を天朝様へ上げるの。そうして、天朝様では、それを何にするの」
「珍しいから朝廷へ置いて、お給仕にでも使うんだろうと思います、それを道州
「ジンドコウ?」
「ええ、土地の産物を
「そうですか」
「その度毎に悲劇――が起るんですね。つまり任土貢に売られるものは、親も、子も、兄弟も、みんな生別れです、嫌ということができません」
「それは無理でしょう」
「無理です。それですから白楽天が歌いました、任土貢
「支那にもお代官があるの」
「ええ、お代官といったものでしょうか、日本のお大名ともちがうし……お代官よりは、もう少し格がいいんでしょう。その陽城という人が、道州を治めに来ました時、この
「その時には、
「そうではないのです……陽城公は考えがあって、ワザとその背の低い人を朝廷へ奉らなかったのです。そうすると、天子様から再三の御催促がありました、ナゼ任土貢を奉らないのだと……」
「お代官も困ったでしょう」
「ところが、陽城公が
弁信法師はこういって、感慨深く息をついて、
「ところが聖天子は、それを御感心あって、それより以来、矮奴を
ひとりで説明し、ひとりで感心している弁信法師。それを聞いていた清澄の茂太郎は、退屈もしないが、さのみ感心した様子もなく、弁信の説明が一段落になった時に、例の般若の面を頭の上にのせて、つと立ち上って庭へ踊り出しました。
いっちく
たっちく
ジンドコウ
有るものは有るように
無いものは無いように
陽城公が申し上げ
道州民 が救われた
天朝様はお見通し
いっちく
たっちく
ジンドコウ
と歌いながら、三重塔のある宮の台にたっちく
ジンドコウ
有るものは有るように
無いものは無いように
陽城公が申し上げ
道州
天朝様はお見通し
いっちく
たっちく
ジンドコウ
その時、宮の台の原には、がんりきの百蔵が石に腰うちかけて、思案の
この野郎、先刻は未練気もなく月見寺を出て行ったはずなのに、まだこんなところにひっかかっているところを見ると、何か思いきれないものが残っているのかも知れない。
「おれという野郎も、わからねえ野郎じゃねえか」
といって
「さて今晩のところは……」
といって頬杖を
「うっかりドジを踏んで、
百蔵は真黒な
で、結局、どう思案がついたか腰を浮かしながら、
「待てよ……あの寺で、おれの姿を見ると、
とつぶやきました。なるほど、がんりきほどの
その時分、幸か不幸か茂太郎は、
いっちく
たっちく
ジンドコウ
そういいながら、ちょうど、この宮の台の原へたっちく
ジンドコウ
「おい――茂坊」
「おや?」
清澄の茂太郎が、ギョッとして立ち止まりました。
「茂太郎」
「あ、お前は……」
「お前こそ、どうしてこんなところに来てるんだい、両国橋にいれば、ああして人気の上に祭り上げられて、
悪獣毒蛇を恐れない茂太郎が、この時、
清澄の茂太郎は、アッとばかりに立ちすくんでしまいました。
がんりきの百蔵は、立ち上って左の手で茂太郎の右の手首をつかまえてしまいますと、
「叔父さん」
茂太郎は悲しい声を出しました。
「何だ」
「
「堪忍するもしないもありゃしねえ、お前をよくしてやるんだぜ」
「だって」
「こんな山ん中に隠れているより、江戸へ出りゃあ――両国橋へ帰りさえすりゃあお前、いい着物を着て、うまいものを食べて、人にちやほやされて……」
がんりきの百蔵は、やさしく言って聞かせるように、
「楽ができて、うまいものが食べられて、人からは、やんやといわれて、それでお金が
といいました。
「叔父さん、あたいは、この方がいいんだよ、こっちにいたいんだから……」
「何をいってるんだ」
がんりきの百蔵が、茂太郎の言い分をとりあわないのは、あながち、この子供のいやがるのを
「それから茂坊、お前には
「叔父さん、御免よ、あたいは江戸へ帰りたくないんだから」
「わからねえことを言いっこなし」
「いいえ。じゃあね、叔父さん、弁信さんに相談して来るから、待っていて頂戴」
「弁信さんてなあ誰だい」
「あたいのお友達……今、縁側に腰をかけていたでしょう」
「あ、あの、小さい坊さんか」
「ええ、あの人に相談して来るから、待っていて下さい」
「それには及ばねえよ」
がんりきの百蔵は、茂太郎の左の手を容易には放そうとしないで、
「おいらが行って話をつけて上げるから。もともとお前はこっちのものなんだ――こっちといっては少しなんだが……親方のところへ帰る分には、誰も文句のいい手がなかろうじゃねえか」
「でも……」
「いいッてことよ」
がんりきは茂太郎の手を引張りました。
「ああ、弁信さあん」
茂太郎は声をあげて助けを求めるの叫びを立てようとするのを、がんりきの百蔵が早くも、
「おとなしくしな」
哀れむべし。清澄の茂太郎は、
しかし、がんりきの百蔵とても、この子供を、そうむごく扱うつもりでしているのでないことは、おおよその挙動でも知れる。誰かに
そうして、とうとうがんりきの百蔵と、清澄の茂太郎とは、どこかへ行ってしまいました。
一方、弁信法師が狂気のように騒ぎ出したのは、それから後のことであります。
弁信は、報福寺の
「茂ちゃあーん」
と幾度か叫び、幾度かころげましたけれども、返事とてはありません。
「茂ちゃあーん」
宮の台の、たった今まで百蔵がいた石のところまで来て、またころんで起き上った弁信は、提灯を拾い取って見ると、幸いにまだ火は消えておりませんでした。
「茂ちゃん、どこへ行ってしまった、悲しい」
といって弁信が泣きました。
もう呼んでも駄目だと思ったのでしょう、提灯をさげたまま、しょんぼりと、宮の台の原の真中に立ちつくしています。
「
弁信は、なお暫くの間、そこに立ったままです。
一時は気がつくと、ハッとして狂気のように驚いたけれども、その驚いた間にも、提灯をつけて飛び出したほどの弁信です。なぜならば、
弁信は、宮の台の原のまんなかに立って考えました。時々、その
ラジオは現代の科学が発明する以前、何千万年の間、この空間に存在していたものであります。けれどもその時代には、各人がアンテナを持つというわけにゆかず、ただ特殊の人だけが、それを聞くことができたのです。天才と修練とによって、透徹された
ここにお
その翌日になると弁信法師は、しょぼしょぼとして
「ええ、皆様のおかげで、長々と御厄介になりましたが、昨晩、茂太郎の
二十九
信濃の国、白骨の温泉の宿の大きな炉辺で、しきりに猪を煮ているのは、思いがけなく繰込んで来た五人連れのお
残された二人は、
「こんにちは。なかなかお寒うございますね」
そこへあいそうよく入りこんで来たのは、お雪ちゃんです。
「おや、お嬢さん、おあたりなさいまし」
と北原が、薪を折りくべながらいいますと、
「御免下さいまし」
いつか、相当の
「先生」
と言って、池田の方へ向きました。
「え」
長い火箸で火を
「少々、お願いがございますのですよ」
お雪は相変らず
「何ですか、改まって、私を先生とお呼びなすったり、お願いだなんておっしゃったり、痛み入りますよ」
という。
「いいえ、お隠しになってもわかっておりますよ、守口さんがお帰りの時にそういいました、あの池田先生は良斎といって、京都では国学の方で指折りの先生だから、よく教えておもらいなさいって……ですから、先生にお願いに上りました」
お雪からこういわれて、池田良斎先生が頭を掻きました。
「守口の奴、よけいなことをいったものだ、なるほど、少しは国学もやるにはやりましたが、指折りの先生だなんて、いやはや」
「先生、わたくしは
「それは御同様ですよ。また思うように
「それはそうでしょうけれども、せめて形だけでも、ほんの門の中へ入ってみるだけでもよろしいんです……
「そうですね……ああいうものは天分ですからね、
池田は
「二ツ三ツ、詠んでみましたが、とても人様にお目にかけられるような品ではありません」
「遠慮はいけませんよ、出過ぎるのはなおいけませんけれど、人に見られるのを恥かしがっては上達はしません」
「それでは後刻お目にかけましょうが、先生、古人の和歌では、どなたをお手本にしたら、よろしうございましょうか」
「誰を……というのは、ちょっと返答に困りますが、万葉集は読まねばなりません。万葉を御覧になりましたか」
「あ、万葉集はここへ持って参りました」
「それは、よい本をお持ちでした、万葉集一巻あれば、三年この
「ですけれども、先生、わたくしには、まだ万葉集の有難味がよくわかりませぬ」
「追々に研究してごらんなさい……私共にもまだまだ、ほんとうに万葉集を読みこなす力は無いのです。この冬仕事にひとつ、お互いにあれを読み砕いてみましょうか」
「お待ち下さい、今、本を持って来てみますから」
お雪は
そのあとで、
「うまい」
と言いました。北原謙次が、
「山陽の
「そうそう、今でもそのあとに、
「耶馬渓へおいでになりましたか」
「行きました」
「どうですか、いいところですか」
「そうさ、人によってだが、わたしはあまり好かないよ。山陽にいわせると、天下第一等のところになっているが、山陽という男が、その実あんまり歩いてはいないのだからな。それに漢学者流の誇張で書きまくっているのだから、行って見て感心する人より、失望する者が多いだろう」
「山陽は
「ないとも。耶馬渓を見てさえあのくらいだから、この辺から
「時に、四面もうみな雪ですね」
「ああ、四面みな雪で懐ろだけが、こうしてあたたまっている」
二人は猪をパクつきながら、
万葉集を
浅吉は、気の抜けたような
「浅吉さん、どちらへ」
「お雪ちゃん、お寒くなりましたね」
「ええ、寒くなりました、お風呂ですか」
「いいえ、これから、あなたのところへお伺いしようと思っているところです」
「そうですか……」
と言ってお雪は、浅吉の手に抱えている櫛箱に眼をつけますと、
「お
「何ですか、浅吉さん」
「あなたのところの先生にお
「まあ、うちの先生に?」
「ええ」
浅吉は浮かぬ
「それは御苦労さま」
「ええ、お前は髪を
「そうですか、それは御苦労さまでした」
お雪は愛嬌にいって、浅吉と連れ立って自分の部屋へやって来ましたが、そこへ近づくと、浅吉の恐怖と
浅吉をつれて自分の部屋へ戻って来たお雪は、障子をあけて見て、
「おや、先生がいらっしゃらない」
いるとばかり思っていた机竜之助がいませんでしたから、お雪も案外に思い、浅吉も、
「おや、どちらへおいでになったでしょう」
櫛箱をさげたまま、ぼんやり立っていると、お雪が先へ入って、
「風呂にでもおいでになったのか知ら。まあ、お入りなさい、浅吉さん」
そこで二人は入りました。浅吉はぼんやりと櫛箱をそこに置いて、
「お雪さん」
それを、ぼんやり見ながら浅吉が言葉をかけたものですから、お雪は本をさがしながら、
「はい」
「あの、お雪さん、済みませんが、油を持っておいででしたら、少し分けて下さいませんか……頭へつける油を」
「油ですか、ええあります、あります、油なら上等のがありますよ」
「切らしてしまったものですからね、どうぞ、少しばかり」
「油なら上等の椿油がありますよ」
「椿油ですか」
「ええ」
「それは結構ですね」
「それも本物の大島の椿油なんですよ、伊豆の伊東の人からいただいたのがありましたから、それを持って参りました、まだたくさんあります」
「そうですか、大島の椿油なら本物です、ずいぶん、椿油といってもイカサマものがありますからね」
「それにね、髪へつけるばかりじゃありません、刀の油とぎをするのに、椿油がいちばんいいんですってね」
「そうですか……刀には
「椿の方がいいんですとさ」
といいながら、お雪は戸棚の隅から油壺に入れた椿の油を取り出して、浅吉の前に置き、
「たくさんお使いなさいまし」
「有難うございます」
お雪は再び書物の数を読んで、都合六冊ばかりの本を取揃えると、
「では、わたし、ちょっと下へ行って参りますから、一人でお待ちなすって下さい」
「お雪ちゃん」
お雪が立って下へ行こうとする袖を、引き留めるようにして浅吉が、
「お雪ちゃん、もう少しここにいて下さいな」
「でも、わたし、よい歌の先生が見つかりましたものですから、教えていただきたいと思います」
「それにしても、私は一人じゃ淋しいから、少しの間ここにいて下さいな」
「いいえ、うちの先生もそのうちに帰るでしょうから」
「お雪ちゃん……
浅吉は拝むようにいいましたけれども、お雪は笑って取合わず、
「浅吉さん、弱い人ね、もう少し強くならないと、鼠に引かれちまいますよ」
お雪は、新しい知識のあこがれがいっぱいで、本を抱えると、
それを追いすがるほどの元気もなく、そのあと浅吉は、ぼんやりとして、お雪から与えられた備前焼の油壺を取り上げて、そっと香いをかいでみました。
そうして、また油壺を前にして、ぼんやりと、かしこまっていましたが、誰も戻っては来ません。当の人がいないのを幸いに、立帰るほどの元気もなく、主なき
こうして取残された
待ちあぐんでしまった浅吉は、しばらくのこと、ひとまず引取って、また出直そうという気になりました。
そこで、油壺を取り上げて、戸棚へ仕舞い込んでおこうとする途端に、
お雪が取急いだものですから、行李の中に残された本が整理しきれず、手軽に投げ込まれてあった中に、眼を
見れば、それは源氏の五十余帖を当世風に描いたもので、絵は二代豊国あたりの筆。版も、刷りも、なかなか精巧で、そこらあたりの安本とは、趣の変った情味がゆたかです。
浅吉は吸い入れられるように、その絵本に見入りました。
お雪ちゃんという子も、これだから油断がならない。
浅吉は怖る怖る、その折本を下へ持ちおろして、最初から一枚一枚見てゆくうちに、浮世絵の情味が、自分の
「お雪ちゃんという子もわからない子だ、無邪気で人なつこく、同情心が深くって、神様のような心持かと思っていれば、こんな本を
浅吉はこの時、お雪を憎らしい子だと思いはじめました。
事実、浅吉にあっては、このごろ中からお雪ちゃんというものが、読めたような、読めないような、心持になっているのです。
もう、年ごろなのに、無邪気で
お雪ちゃんという子はわからない子だ、と浅吉は、これまでも幾度か首をひねらせられたのですが、今という今、ほんとに憎らしい子だ、と思いはじめました。
けれどもなお、一枚一枚と見てゆくうちに、お雪ちゃんを憎らしいと思う心が、いつか知らず絵本の中の主人公に溶け込んで、ついには今様源氏の
「私だって男だ」
という義憤がむかむかと湧き起ったのは、この男としては珍しいことです。といって、こういう男の義憤も、一概に軽んずるというわけにはゆきますまい。
「私だって男だ」
浅吉は、わくわくとして、ひとり憤りを発していましたが、まだ誰も帰って来ません。自分ひとり、腹を立っているのだということがわかりました。
三十
机竜之助はこの日、湯の宿を出て小梨平の方へ歩いて行きました。
かたばみの紋のついた黒の着流しのままで、頭と
四面はみな雪ですけれども、山ふところは
白樺や
このごろは、だいぶ
竜之助の、さして行かんとするところは小梨平に違いない。それより遠くへは冒険になるし、それより近いところには、たずねて行って見ようとするものもない。
小梨平には
白昼に見るせいか、今日はたしかに人間の歩き方になっている。本体を宿へ置いて、遊魂そのものだけが街頭に人を斬って歩く時とは違い、少なくとも人間そのものが、足を大地に踏まえて歩いているように見える。
方二町ばかりの小沼の岸に立った時に、
沼に沿うて銀鞍が再び森に沈んだところに、いわゆる
竜之助はこの間お雪に導かれて、ここに来た時のことを思い出しました。
「ねえ、先生、ここに
と言われたのはちょうど、このところです。
山登りをする者が誰も携えて行く金剛杖、八角に削った五尺余りなのを、今日も竜之助は携えて来ました。
ここは日当りがことによくて、風の当りも少ない。竜之助は目的の
高山の
由来、坊主小屋は樹下に眠り、石上を枕とする捨身無一物の出家が、山岳を行く時にかりの宿りと定めた
ここ、小梨平、
けれども、この鐙小屋までは、まだこの沼づたいに相当の距離がある。
そこで、竜之助はハッとして歩みをとどめました。仰いで見たところで、岩石の落ち来るべきところではない、
そこで竜之助は歩みをとどめて、石の降って来た方面に
第一のものは、いかなるところから、いかなるハズミで飛んで来た
「ホホホ、驚いたでしょう」
と行手に立って言葉をかけたのは、聞覚えのある声です。いつのまにか
「ねえ、先生」
と言ってこの後家さんは、そろそろと少し高い所から下りて来て、なれなれしく話しかけました。竜之助を先生と呼ぶのは、お雪ちゃんにカブれたものでしょう。
「
竜之助のそば近く歩んで来るこの水っぽい後家さんは、よほど急いで来たと見えて、額のあたりに汗がにじみ、まだ息がせいせいしている。
誰にたのまれて、そう急いで来たのだ。
「ねえ、先生」
と後家さんは、いよいよなれなれしく近づいて来て、息を切り、
「今日はお一人ですか。
竜之助でなくてもゾッとしましょう。
「ねえ、先生、あなたはこの間、お雪ちゃんに護身の手というのを教えておいでになりましたね、あれを、わたしにも教えて下さいましな」
「お前さんが習ってなんにする」
「覚えておいて害にはなりますまい、いざという時……」
「そうです、覚えておいて害にはなりますまい。けれども、あれは若い娘たちのためにするものです。若い時分には、どうも危険がありがちだから、もしこういう場合には、こうして手を
「若い時分に限ったことはございますまい、誰だって、あなた、いつ、どういう危ない目に逢うか知れたものじゃありません」
「ははあ……」
竜之助はそれを聞き流しながら、
「お前さんなんぞは、かっぷくがいいから、そのかっぷくで敵を押しつぶしてしまったら、たいがいの男はつぶれてしまうでしょう」
「
後家さんは、まじめに取合われないのを、ちょっとすねてみましたが、
「ねえ、先生」
暫くして、また改まったように、甘えた
「ねえ、先生、あなたは人を殺したことがおありなさる?」
後家さんの
「何ですって?」
竜之助は、わざと聞き耳を立てました。
「先生、あなたは人を殺したことがおありなさるでしょう」
「どうして、そんなことを聞くのです」
「でも……」
ちょうど、道が沼の岸を離れて林の中に入る時分に、後家婆さんは、後ろの方をそっと顧みて、
「それでも、人を殺してみないと、度胸が定まらないっていうじゃありませんか」
「そんなはずはあるまい、人を殺さなくても天性度胸のいい者はいい、
「それはそうでしょう。けれどいちど、人を殺すと、それから毒を
「そうか知ら」
「真剣ですよ、先生、わたしは、真剣で先生にお話し申しもし、先生からお聞き申しもしたいものですから、この通り、話しながらも
「そうかといって、おれは人を殺しました、と答える奴もあるまい」
「そうおっしゃられてしまえば、それまでですけれど、先生には、わたし、このことをお尋ねしてもいいと思っているから、それでお尋ねしているんですよ。つまり、わたしは、あなたは、たしかに人を殺しておいでなさると見込みをつけてしまったものですから、こんなことを臆面もなくお聞き申すんですが、あなたがお返事をして下さらなければ、わたしの方から白状してみましょうか。これでも、わたし、人殺しをしたことがありますのよ」
こういって、後家さんは忙がしそうに、
「幾人!」
その時、竜之助が反問したのを、後家さんは充分に聞き取れないほどせき込んで、
「幾人って、あなた……」
「そう幾度も悪いことができるものですか……わたしは、それでも今は度胸がすっかりすわりましたよ……ですから先生、自分に覚えがあるものですから、人を見れば直ぐにわかりますのよ……この人は人を殺したことがあるかないか、心の底がちゃあんと、わたしには読めるようになりました。ここまで申し上げたら、あなたも、
ここに至って、後家さんの腹がおちついて来たらしく、言葉が浮いて来て、
「それで、そういう人と見ると、わたしはなんだか、自分の味方を見つけでもしたように、
道はようやく沼を離れてしまって、林の中深く入って行くようです。
「先生、わたしにばかり白状させてしまっては罪ですよ、懺悔話をお聞かせください、ぜひ、どうぞ」
度胸がおちついたとはいうものの、手ごたえがないので、不安が不安を追っかけるように、後家さんは竜之助に
けれども、何としてか、竜之助は答えることなしに、少し歩みを早めて、ずんずんと後家さんより先に立って木立の中深く進んで行くものですから、後家さんは、
「あんまり奥へおいでになってはいけません……お池の方へ戻りましょうよ」
その時、沼のあなたに当って、
「お
それは林を隔て、沼を隔てて呼ぶ浅吉の声にまぎれもありません。
この声を聞くと後家さんが、いまいましそうな、また、いつになく怖ろしそうな顔になって、声のする方へ向き直ったけれども、そちらへ足をめぐらそうとはしません。
机竜之助もまた、その時、ずんずんと進んでいた足をとどめて立っていると、
「お
「お内儀さあ――ん……」
聞いていると、どこまでも
「ねえ、先生……」
後家さんは、半ば恐怖の色を以て、竜之助にすがるように、
「あれは、うちの浅公ですよ……御存じでしょう、わたしの雇人ですが、このごろ、どうしたものか、わたしを恨んでいます……恨んではいるけれども、口に出しても、手に出しても、何もすることはできない意気地なしなんですが、ああいう意気地なしが思いつめると、また何をしでかすかわかったものではありません……この間の晩も……」
といって、後家さんの唇の色が変って、舌がもつれました。
「ねえ、先生、この間の晩、夜中に、どうも変ですから、ふいに眼がさめて見ますとね、あの野郎がわたしのこの
後家さんが、再び、護身の手のことをいい出した時、竜之助はその左の腕を後家さんの背後から伸ばして、その
「左様、後ろから絞められた時は……」
不意でしたから後家さんが、よろよろとよろけかかりました。
不意のことでしたから、後家さんも
「もし、これを強く絞めようと思えば、こう親指を深く入れて、べつだん力を入れずにグッと引きさえすれば……動けば動くほど深くしまるばかりだ」
と言いながら、後ろから腕を深く入れると、後家さんは、
「あ、あ」
といって息を吹くばかりで口が
この男には、かりそめの
「苦しいか」
「く、く、苦……」
後家さんは、必死となって竜之助の腕にすがって、その蛇のような腕を振りほどこうともがいたが、それは、さいぜん予告しておいた通りに、もがけばもがくほど深く入るだけで、力を入れるそのことが、いよいよ敵に
はっ! と落ちたか、落ちない時に、それでも竜之助は手を放しました。手を放すと、肥満した女の
しかし、それは、ほんの少しの間たつと、倒れた後家さんは半眼を見開いて、
「先生、あんまり
といいました。死んだのではなかったのです。
「あんまり酷いじゃありませんか、殺さなくってもいいでしょう、お雪ちゃんに教える時にも、こんなになさったの……?」
それから、やがてまた二人が相並んで、林の中をそぞろ歩きして行くのを見かけます。
その時分、林のあなたでは、またも
「お
多分、二人の耳には、以前から、その金切声が再々入っているはずですけれども、あえて耳を傾けようとはしませんでしたが、
「お内儀さあ――ん」
そこで後家さんが小うるさくなって、
「気が違やしないか知ら、浅公――」
とつぶやきました。
しかし、その浅公も、もうかなり呼び疲れたと見えて、それからしばらく呼び声が絶えてしまいました。
「ねえ、先生、そういうわけですから、意気地なしほど思い込むと怖いかも知れませんよ。用心のために……殺しちゃいけませんよ、今のように殺さないで、殺しに来るのを避ける法を教えて下さいましな、あれを
といって、もうケロリとして、今の苦しかった地獄の門を忘れてしまったようです。事実、或いは苦しかったのではないかも知れない。上手にしめられると苦しいと感ずるのは瞬間で、それから後は
「それを
といって、竜之助は再び後家さんの首を後ろから締めにかかると、
「先生、殺しちゃいけませんよ」
今度は後家さんも覚悟の前ではあるし、竜之助も心得て、以前ほど強くは締めず、ゆるやかにうしろから手を廻して、
「これをこうすれば
「もっと強く締めて下さい」
その時、サッと木の葉をまいて、風のような大息をつきながら、そこへ
「お、お、お、お、お
「お
「浅吉、お前何しに来たの?」
「え、え」
「何しに来たんですよ、たのまれもしないに――」
「でも、お内儀さん、この節は、お一人で山歩きをなさるのは、お危のうございますよ」
「子供じゃあるまいし」
後家さんは、ひどく
「でも、お内儀さん、私は、あなたが今、この方に殺されているのだとばかり思ったものですから……」
事実、浅吉はそう思って、その主人の急場を救わんがために駈けつけたものに相違ない。ところが来て見れば、当の御本人が至極平気で、かえって助けに来た自分を邪慳にし、
「そんなわけじゃないよ、お前こそ、わたしを殺したがっているくせに……」
「どう致しまして」
「さっきから、なんだって、あっちこっちでわたしを呼び廻っているの。山の中だからいいけれど、世間へ出たら外聞が悪いじゃありませんか」
「どうも済みません」
「いいから、お帰り、お前ひとりでお帰り、わたしはこの池を廻って帰るから……」
「ですけれど、お
「何です」
「お危のうございますよ」
「何が危ない。しつこい人だ、お前という人は。うるさい!」
「けれども……」
「大丈夫だよ、お前こそ一人歩きをして、熊にでも食われないように、気をおつけ」
後家さんは、こういって浅吉を振りつけて行こうとすると、浅吉の眼の色が少し変りました。
「お内儀さん……どうしても危ない、あの方と一緒に歩いてはいけません」
「何をいっているんだい、失礼な」
「どうぞ、わたしと一緒にお帰りなすって下さいまし」
浅吉は、とうとう後家さんの袖をつかまえてしまいました。これほどに思い込んで引留めることは、この意気地無しには珍しいことです。
「お放し」
それを振りもぎって、振向いて見ると、たったいま自分の首を締めた人が、そこに見えない。
「おや?」
後家さんは、
「おや、どこへおいでになった?」
後家さんが、
「お帰んなさいまし、わたしと一緒に帰れば
「何をいってるんだよお前は。お前こそ、わたしにとっては気味が悪いよ」
といって、後家さんはせきこんで、林の中へ駈けて行こうとするのを、浅吉が後ろから必死の力で抱き止めて、
「お内儀さん、あなたは死神につかれています、死神に……」
男妾の浅吉の必死の力を、さしも
ほどなく
小屋はかなりの広さに出来ていて、正面には神棚があって、
浅吉は、小屋の中へ御主人を
「ねえ、お
浅吉は一生懸命でこのことをいいますのに、後家さんは案外平気で、
「お前、このごろ、どうかしているよ」
「いいえ、わたしより、お
と浅吉は例になくせわしく口を
「あなたは魔物に
「ばかなことを言っちゃいけないよ、どこに魔物がいます」
「いけません、お内儀さん、危ないのは、魔物にひっかかったと思う時よりも、魔物をひっかけたと思っている時の方が危ないのです」
「わけのわからないことをお言いでない、魔物なんてこの世の中にありゃしませんよ、みんなあたりまえの人間ですよ、人間並みにつきあっていさえすりゃ、怖いものなんてあるものか」
「そ、そ、それがいけないのです、お内儀さん、御当人にはわかりませんが、
「逃げたけりゃ、お前ひとりでお逃げ、お前こそ、わたしを殺そうとしたじゃないか、この間の晩のあのざまは何です」
「あれは、お内儀さん、その、夢ですよ。その怖い夢を見たものですから、思わず知らず力がはいって、あんなことになりました。お
「いいよ、そう申しわけをしなくったって。ちっとも怖かないから……第一、お前に人を殺すだけの度胸がありゃ頼もしいさ」
「お
「私だって、どうしたの」
浅吉がギュウギュウ問い詰められている時に、小屋の裏戸が鳴りました。
裏口の戸をガタピシとあけて、そこへ現われたのは、
「これはこれは」
おのれが留守中の来客を見て、挨拶の代りに、これはこれはといって、
「は、は、は、は……」
とさも陽気に笑いました。
「お帰りなさいまし、お留守中に失礼を致しました」
浅吉が申しわけをすると、
「なんの、なんの、そのままにしていらっしゃい。いやどうも、いいお天気で、は、は、は……」
と、いいお天気そのもののように、神主は明るく笑いました。
「あんまりいいお天気だものですから、こうしてブラブラと遊びに出かけました」
と後家さんがいうと、神主は、
「ああ、そうでしたかい、そうでしたかい、よくおいでたの。わしは昨晩、
こういって神主は藁靴、藁はばきをとって、炉辺に坐り込み、薪を炉の中にくべました。
「お山の上はずいぶん雪が深うございましたろう、よくおのぼりになりましたね」
「ええ、ええ、もう、積雪膝を没するばかりで、風でも吹いてごろうじろ、とても上り下りのできるものではございません、当分は室堂へお
「御修行でおいでなさればこそ、とても並みの人にはできません」
と後家さんが感心してお世辞をいうと、浅吉が、これに継ぎ足して、
「ほんとに、お
「なんの、なんの……修行というほどのことではございません、誰にもできることですよ。高いお山の上へ登って御陽光を分けていただきますと、もうこの心持が嬉しくなって、世間が晴々しくなって、この足が自分ながら
神主は嬉しくてたまらないように、しきりに喜んでいたが、ふと浅吉の顔を見て、
「
と言って元気に老神主は立って、神棚の前の御幣を持って来て、
「朝日権現は万物の親神……その御陽光天地に遍満し、一切の万物、光明温暖のうちに養い養われ、はぐくみ育てらる……」
と言って、二人の頭の上で、しきりにその御幣を振りかざしました。
この
「ごらん、お前があんまり陰気な顔をしているもんだから、あの神主様にまでばかにされてしまった」
といって、後家さんが浅吉をこづきました。浅吉はよろよろとして踏みとどまるところを、後ろから行って後家さんがまたこづきました。
「ホントに陽気におなりよ、意気地なし、陰気はけがれだと神主様も言ったじゃないか、お天道様の御陽光が消えると、けがれが起ると神主様がそうおっしゃったよ、ホントにお前はけがれだよ」
「だって、お内儀さん……」
恨めしそうに後ろを向きながら、浅吉がまたよろよろとよろけて踏みとどまると、
「お前がいると陰気くさくっていけないって、
といって後家さんが三たびこづくと、浅吉がまたよろけました。
「意気地なし」
後家さんから四たび突き飛ばされて、二間ばかり泳いで踏みとどまった浅吉は、
「それは御無理ですよ」
やはり恨めしそうに振返ったけれど、あえて反抗しようでもなければ、申しわけをしようでもありません。小突かれれば小突かれるように、むしろこうして虐待されたり、凌辱されたりすることを本望としているかの如く、極めて柔順なものです。
そうして、突き飛ばされて、突き飛ばされて、二人の姿は小梨平から見えなくなりました。
そのやや暫くあとで、机竜之助は、林の蔭から、こっそりと身を現わして、
「これは、これは――」
といって、竜之助の仕事を立って見ていましたが、
「それは
「どうも、しみ透るほど冷たい水だ」
と竜之助が眼を冷しながら答えると、神主が、
「トテモのことに、室堂の清水まで行って御覧になってはいかがです、これどころじゃありません……それから一万尺の権現のお池へ行って、神代ながらの雪水をむすんでそれを眼にしめして、朝な朝なの御陽光を受けてごらんなさい、
「御陽光というのは何だね」
「朝日権現のお光のことでございます、黒住宗忠様が天地生き通しということをおっしゃいましたのを御存じでしょう」
「知らない」
「三月の十九日に、宗忠様は、もう九死一生の重態の時に、人に助けられて、
「ははあ」
「久米の南条の赤木忠春様は、二十二歳の時に両眼の明を失いましたけれど、宗忠様の御陽光を受けてそれが癒りましたよ」
「ははあ」
「御陽光に
と言いかけて、美麗荘厳はこの人に向って、よけいなことだと気がつきました。
三十一
宿では、お雪ちゃんが
「あ、先生、お帰りなさいまし」
衣裳人形を片手にして、お雪は帰って来た竜之助を見上げると、竜之助は刀を床の間へ置いて、静かにお雪ちゃんと向い合わせの炬燵に手を入れました。
お雪はにっこりと笑って、
「お迎えに上ろうと思いましたが、たぶん
「そうでしたか、わたしも、お雪ちゃんを誘って行こうと思ったが、歌に御熱心のようだから、一人で出かけましたよ」
「ええ、ずいぶん、あの先生偉い先生よ、お歌の方の学問では京都でも指折りの先生ですって……」
「それはいい先生が見つかって仕合せだ」
「全く仕合せよ、あなたには武術の護身の手というのを教えていただくし、あの池田先生には歌を教えていただくし……」
お雪は心から、自分の今の身の上の幸福を感じているらしい。そうして、今ちょっと手を休めた衣裳人形の着物の
「お雪ちゃん、どうだ、乗鞍ヶ岳へのぼってみようではないか」
「え、お山登りですか、結構ですね。ですけれども……」
お雪は人形の手を袖へ通して、
「けれども今はいけませんね、せめて春先にでもなってからでしょう」
「ところがいま登ってみたいのだ」
「この雪の深いのに……」
「左様……あの鐙小屋の神主が案内をしてくれるといいました」
「あの神主様が案内をして下さる? それだって、先生、今は行けやしませんよ」
「どうして?」
「どうしてとおっしゃったって……ここには雪はありませんが、外へ出てごらんなさい、山はみんな真白ですよ、吹雪でもあったらどうします」
「それでも、あの神主は、昨晩
「そりゃ、仙人と並みの人とはちがいますよ、山で修行している人と、たまにお客に来た人とはちがいますもの」
「だから、その山で修行した人が
「そりゃそうかも知れませんが……わたしは女ですもの。それに先生……」
と言ってお雪は人形の衣裳の前を合わせ、
「あなたは、いったい、山登りをしてどうなさるの、いい景色をごらんになるわけではなし、朝の御来光を拝みなさるわけではなし……それこそ、骨折り損じゃありませんか。それよりは、おとなしく、
お雪は慰め顔に言いましたが、竜之助が何とも返事をしませんから、なんだか気の毒になって、
「ねえ、先生、わたしが今、何をしているか御存じ?」
「知りません」
「それでも当ててごらんなさい」
「歌を作っているのでしょう」
「いいえ」
「それではお
「いいえ」
「わからない」
「あのね……お人形さんに着物を
竜之助は、それを聞いて驚いてしまいました。この娘は自分の周囲に、今、どんな人間がいて、その立場がどうであるかということはいっこう念頭になく、深山の奥で、近づく限りの人を友とし、知り得る限りのことを学び、愛すべきものを愛し、
この間、池田良斎は、お雪ちゃんの持って来た万葉集を見てこういいました。
「ああ、これは寛永二十年の活字本で珍しいものだ、今日の万葉集はすべてこれを
そうして、北原賢次とお雪ちゃんのために、日本の活字の来歴を一通り話したことでありました。同時に、活字本と、普通の木版本の相違をも、よく説明して聞かせたことでありました。
活字は、すべて一字一字ずつとりはずしのできるもの。普通の木版は、一面に文章そのままを
その翌日から万葉集の講義が始まりましたが、その講義は良斎らの座敷を選ばず、名物の
一冊の万葉集を真中に置いて、炉の一方には良斎先生が陣取り、それと相対して北原賢次とお雪ちゃん――
池田良斎は、燃えさしの
こもよ
みこもち
ふぐしもよ
みふぐしもち
この岡に
菜 摘 ます児
家きかな
名のらさね
そらみつ
やまとの国は
おしなべて
吾こそをれ
しきなべて
吾こそませ
われこそはのらめ
家をも名をも
一通りみこもち
ふぐしもよ
みふぐしもち
この岡に
家きかな
名のらさね
そらみつ
やまとの国は
おしなべて
吾こそをれ
しきなべて
吾こそませ
われこそはのらめ
家をも名をも
「この歌は、雄略天皇様が、あるところの岡のあたりで、若菜を摘んでいる愛らしい乙女を呼びかけておよみになった歌で、これ、そこに
と講義半ばのところへ、大戸を押し開いて、あわただしく駆け込んだものがありましたから、講義が一時中止になりました。
「惜しいことをした、ホンのもう一息のところで……」
と言って、講義半ばの空気を壊したことをも頓着せず、炉辺へしがみつくようにやって来て、
「熊を一つ取逃がしてしまった、突くにはうまく突いたが、槍がよれたから
猟師は手首の負傷を撫でて、すんでのことに熊の口から助かって、命からがら逃げて来た記念を見せる。鉄砲を持たないこの辺の猟師は、熊を見つけると充分に引寄せて、のしかかって来る奴を下から槍で胸か腹を突く、突っ込んだ瞬間に逃げる――そのあとで熊は突かれた槍を敵と思い込んで、抜くという知恵がなく、かえって自分で
熊の襲来で、万葉集の講義が一段落となりました。
そうしてこの猟師の報告によって、
ある者はまた、それも程度問題で、突き方が非常に浅ければ振りもぎってしまうし、木の根や岩角に当って、おのずから抜け去ることもあるのだから、無事に逃げ去ってしまったろうという。
どっちにしても、もう少しその運命を見届けて来なかった猟師に落度がある――という結論になって、猟師が苦笑いする。
池田良斎はそれを聞いて、
「とにかく、熊の下腹まで行って槍を突き上げるとは非常な冒険だ、へたに運命を見届けているより、
と言いましたけれども、猟師は、なかなか
宿の留守居連中も集まって来て、諦められない猟師を、いっそう諦められないものにする――というのは、熊一頭を得れば一冬は楽に過せる、山に住む人の余得として、これより大きいのはない、それを
「ちぇッ、もしかすると、そこいらに
この連中にとっては、自分たちの生命の危険よりは、熊一頭が惜しいように見える。猟師は、そこでふたたび
そこで宿に秘蔵の、鉄砲一挺も持ち出されることになる。この鉄砲とても、いつぞや、塩尻峠のいのじヶ原で持ち出された
こうして鉄砲が一挺に槍が二本、同勢六人で押し出した熊狩隊は、行く行く熊の話で持切りです。
熊は必ず一頭では歩かない、親の行くところには必ず子が従うということ。熊の
池田良斎はそれを聞いて、商売商売だと思う。よく朝鮮征伐の物語で、勇士が虎に接近した昔話を読むが、この辺の猟師もそれに負けないことをやる。そうしてかれらは、それを冒険だとも、
暫く進んで、ようやく山深く分け入った時、
「ソラアいた、いた――ソレ、あすこで動いてるのを見ろやい」
一人が叫び出すと、すべての眼の色が緊張する。
「一発ブッくらわしてみろ」
そこに
「人間だよ、人間が一人いるから、気をつけておくんなさいよ」
三十二
そこで、熊狩りの一隊が
彼等が呆れているところへ、お
「一体、どうしたんです、旅のお客さん、今時分こんなところを、どこから来てどこに行くのです……危ないこった」
と熊狩りが狩り出したその人間を取巻いて、詰問の
「わしどもは、旅の
「それは、それは」
熊狩りの一行は、この俳諧師の出現に機先を折られた様子。
ともかく、この俳諧師一人をノコノコと平気で歩かせてよこした方の道には、とうてい熊はいないと鑑定しなければならぬ。
そこで熊狩りの一隊は、陣形と策戦の方針を一変しなければならぬ。
獲物中心の連中が、ガヤガヤとその陣形と策戦の方針を語り
「あなた、俳諧をおやりなさるのですか」
「へ、へ、へ、少しばかり……」
年の頃は、まだ三十幾つだろうが、その俳諧師らしい
「信州の柏原の一茶の旧蹟を尋ねて、只今その帰り道なのでございます」
「ははあ、なるほど、一茶はなかなか
「え」
といって俳諧師は眼を円くし、
「失礼ながら、あなたにも一茶の偉さがおわかりですか」
「それは、わたしにも、いいものはいい、悪いものは悪いとうつりますよ」
池田良斎が答えると、俳諧師は
「では一茶の句集でもごらんになったことがございますか」
「あります、あります、『おらが春』を読みましたよ」
「おらが春――たのもしい、あなたが、そういう方とは存じませんでした」
俳諧師は着物の襟をさしなおして恐悦がりました。
「おらが春を本当に読んで下されば、一茶の生活と、人間と、
「そうですね」
池田良斎がこの質問に逢って、少しく首を
「どうですな、一茶の偉いというのは、太閤秀吉の偉いのとは違いましょう、日蓮上人の偉さとも違いましょう、また近代のこの信濃の国の佐久間象山の偉さとも違いましょう、一茶の偉さは、英雄豪傑としての偉さではありませんよ、人間としての偉さですよ、信濃の国の名物中の名物は俳諧寺一茶ですよ……いや、信濃の国だけではありません、この点において一茶と並び立つ人は天下にありません、一茶以前に一茶無く、一茶以後に一茶なしです……」
俳諧師の言葉に熱を帯びてきました。
一方の熊狩りはどこへ行ったか姿が見えません。かれらは一頭の熊のために、一頭の熊が与うる生活の資料のために、
こちらは歌人――とは断定できないが――と俳諧師とは、古人を論じて来時の道を忘るるの有様です。
しかし、どうやら間違いなく二人は白骨の宿へたどりつくと、池田良斎が
ところで、この俳諧師の、俳諧寺一茶に対する執着は容易に去らない。
「古人は
といって俳諧師は、
「本来、風流に番附があるべきはずのものではありませんが……俗世間には、こういうものを
俳諧師は、話しながら、渋団扇だの、付木っ葉だのを取り出して良斎に見せました。
その時分、お雪ちゃんは、ただ一人で広い
今、髪を洗ったばかりと見えて、それをいいかげんに背から湯槽の
ここの湯槽は、一間に一間半ぐらいなのが八つあって、その八つの湯槽には、それぞれ名前がついているのだが、そのなかで
いつもならば、こうしていると誰か入りに来るのですが、今日は全宿の大部分は熊狩りに出動してしまっているし、三階の
そのうちに、お雪ちゃんが思い出しておかしくてたまらないのは、この間お雪が、竜之助から護身の手を教わったという話を聞いて、宿の留守番の嘉七という若い
「わしらはハア、剣術もなにも知らねえが、敵が前から斬りかけて来た時は、ハア、額で受けらあ、後ろから斬りかけて来た時は背中で受けまさあ」
とすました顔でいったことです。
お雪は、その時の嘉七の言葉と顔付がおかしいといって、ころげるほど笑いましたが、今もそれを思い出すと、ひとりおかしくなって、おかしくなって、ことに嘉七の額が少しおでこだものですから、額で受けらあという言葉が一層
三十三
さてまた弁信法師は一面の琵琶を負うて、またもうらぶれの旅に出でました。
ここは
「茂ちゃん、お前のいるところはわたしには、ちゃんとわかっているようで、それで、どうしても逢えないの。今も、わたしのこの耳に、お前が、わたしに逢いたがっているその声が、ようく聞えるんですけれども、わたしにはお前のいるところがわからない」
弁信は松の
「ですから、
弁信はこういって暫く声を呑みましたが、また、ねんごろに言葉をつづけました。
「茂ちゃん、お前は後生というのを知っていますか……人間に
ここに至ると弁信は、茂太郎に向って語るのだか、それとも、他の見えざる我慾凡俗の
「皆様、人間の死は一つの眠りでございます、眠りの間にも生命は働いているのでございます……ただ一日の夜は、正確な時間の後に万人平等に来りますけれども、人間の死にはきまりというものがございません、死の来る時だけは、人間の力で知ることができず、制することもできません。皆様、それを恨むのは間違いです、人は病気で死んだ、災難で死んだといいますけれども、この世で病気に殺されたり、災難に殺されたりした者は一人もあるものではございません……いいえ、いいえ、お聞きなさい、そうです、そうです、人間は決して病気や災難で死んだものではありません、この世につかわされた運命が、そこで尽きたからそれで死ぬのです……
と言って、弁信法師は
「ねえ茂ちゃん、お前がよく歌った、あの九つや、ここで逢わなきゃどこで逢う、極楽浄土の真中で……という歌が、わたしの耳に残って、今ぞ胸の