近頃は私は田舍にばかり引つ込んで居りまして皆さんにお目に掛る機會が少いのでありますが、今度何か支那學會の大會でお話をしろといふことでございますので、段々老衰を致しまして、新しく何物かを調べてお話をするといふやうな大儀なことは叶ひませんから、何ぞ何も新しく調べんでもよいものが思ひ出せたらお引受けしませうと言つて居りました。その後、何かそんなものは無いかと思つて
それで「支那歴史的思想の起源」といふ、何だか如何にも近頃の演題としては、ひどく氣の利かない題目であります。近頃はかういふ風な幼稚な題目は流行りませんで、皆凝りに凝つた題目ばかり流行つて居つて、題目を見ると、何の内容があるのか分らんやうなのが流行りますけれども、至つて分り易い題目であります。
實は私の支那史學史といふものは、抑

さういふ譯で隨分研究とすれば、もう黴の生えて居る研究であります。その時に大體この支那の歴史の起源といふやうなものに就いて色々研究をして見ました。或はその中の研究で、私が先にやつたことを後に王國維氏がやつたのが、今日では王國維氏の創説のやうになつて居る部分なんぞありますが、ともかく一通り歴史の起源といふやうなことに就て、その時考へて見たのであります。その時講義しました歴史の起源は、多くは史料の起源、記録の起源といふやうなものに就てやりましたので、餘り歴史的思想の方の起源はやつて居らなかつたやうに思ひまして、それでその部分が缺けて居ると思ひまして、
實は起源と申しましても、起源といふ方がよいのか、或はその歴史的思想が段々發達して居る徑路に及んで居るのでありますから、歴史的思想の發達と云ふ方がよいかも知れません。ともかくさういふ方のことに就て、色々の材料に就て考へました。
第一は比較的正確な記録の中に見えてゐる歴史的思想であります。支那の古記録、例へば經書といふやうなものでも、絶對に正確といふことを申しますのは餘程困難であります。先づ比較的正確と言ふより外致し方ありません。それでつまり尚書などが最も比較的正確な記録であると思ひますが、その尚書の中に、又最も比較的正確な部分があると思ひます。それはどういふことかと申しますと、周の初め、周公を中心として書いたものが最も比較的正確であらうと思ふのであります。今日の尚書の中の、確かだと言はれる今文尚書の中で、殊に周公に關することが比較的正確であると思ひます。その理由まで申すとなか/\長くなりますから、今日はお預りして置きます。でその周公に關係したことと申しますといふと、例へば大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥、之を五誥と申しますが、その五誥であるとか、或はそれに續いてあります所の無逸・君


ともかくさういふ次第でありまして、先づその中で五誥といふやうなものは、傳來して居る支那の記録としては最も確かなものではないかと考へられます。もう一つこの中で召誥・洛誥が餘程古からうといふ證據としては、洛誥篇の組立てが餘程妙に出來て居りまして、一篇の最後に年月を書いて居ります。洛誥篇の最後に「惟周公誕保文武受命惟七年」と書いてありますが、その前に「在十有二月」と書いてあります。で、この召誥・洛誥といふ二篇は、これはその内容の意味は連續してゐる記事でありまして、これは殆ど同時に出來たといふことは内容からして疑ひのないものでありますが、その洛誥の末尾にかういふ紀年の書き方がしてあります。この紀年の書き方は、之を銅器の銘と比較して見ますと、銅器の銘の中でやはり最も古い書き方の所にこれがあるのであります。大盂鼎・小盂鼎といふ銅器がありまして、これは今日に遺つて居る銅器の中で、最も製作も立派なもので、さうしてその銘の内容も餘程淳古なものとなつて居るのでありますが、その銅器の紀年のし方は、大盂鼎の方にはやはり最後に年を書いて居りまして、さうして「隹(惟)王廿又三祀」とあります。それから小盂鼎の方は「隹王廿又五祀」とあります、これが最後にあります。その外私は當時之を調べました頃に※[#「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」、454-15]古録金文などに當つて見たのでありますが、※[#「てへん+(鹿/禾)」、読みは「くん」、454-15]古録金文に出て居ります銅器では


それでかういふ風に篇末に紀年のあるのは、大體所謂西周の銅器にだけあるのでありまして、東周以後の銅器には殆どありません。これは餘程古い紀年の書き方と言つてよろしからうと思ふのでありますが、それとこの洛誥の紀年の書き方と一致しております。ただ洛誥には七年としてあつて、七祀としてありませんが、かういふのは、記録が段々傳はつて居る間に、後出の分り易い文字に書き直すことはあり得るのでありまして、例へば司馬遷の史記の中に尚書を引用した處を見ますと、色々原文の文字を易へて居ります。訓詁の字を以て易へたと云はれて居りますが、やはり古い記録を新しく傳へる時は、分り易くして置く必要がある所から、かういふ風に文字を書き直すことはあり得ることであります。
ともかくこの召誥・洛誥が尚書の中で、記録された時代が最も古いもの、確かなものと云つてよからうと思ふのでありますが、處でこの召誥の中に、この歴史的思想といふやうなものが餘程はつきりと現はれて居ります。大體支那の歴代は、最も古い時代に夏が代つて殷となり、殷が代つて周になつたと申しますが、夏が代つて殷になつた時の確かな記録といふものは、今日では分りませんので、尚書の中に殷の湯が夏を征伐した時の湯誓・湯誥といふ誓誥の類はありますけれども、これらは大體物語で傳はつて居つたのが、或る時代に記録に書き入れられたらしく思はれますもので、全く初めから記録で保存されて居つたとは考へられませんのです。それのみならず、その夏以前に一體支那はどれだけの歴代があつたか知りませんけれども、ともかく夏が殷になり、殷が周になるといふことは、支那では餘程古代史上の大事件であつたのでありませうが、夏が殷に代つたといふやうな、ああいふ一つの朝廷が一つの朝廷に代つただけでは、まだ歴史といふものの考へがさう著しく現はれて來ないと思ふ。ところがもう二つも代つて來ますといふと、そこに王朝の變化といふものが餘程痛切に一般の人に考へられることになるものと見えまして、支那でこの夏殷周といふ三代に就ては、色々の點から考へられて居ります。後になつては、それに三統説といふやうなものをつけまして、さうして各

我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。
といふ言葉が出て來て居ります(2)。前代のことに就て、それを手本とし、或は戒めとして考へる上に就て、この三代がだん/\に代つたといふことが、古代の思想上重大なことであつたらしく思はれます。召誥の外に、同じやうな考へは多士篇にも現はれて居ります(3)。それから全體の革命の上の考へではありませんけれども、無逸とか君
それから第二に於きましては、古代に於てこの支那の國土を開いた人から、段々その時代迄の世の中の變化、王朝の變化といふことを考へる思想が現はれて來て居ると思ひます。古代に於て國土の開闢者として詩經若しくは書經の中に先づ出て來るのは夏の禹であります。夏の禹に關することは經書の中にも隨分澤山出て居りますが、詩經の大雅の蕩の篇に、これは有名な誰でも知つて居ることで
殷鑒不遠。在夏后之世。
といふ言葉が出て居ります。これは僅かに二句にして三代の移り變りを言ひ現はして居るのであります。それから大雅の文王有聲の篇に
豐水東注。維禹之績。
といふ言葉が出て居る。つまり禹が水土を平げたといふことの考へは、この頃現はれて居るのであります。又大雅の韓奕の篇に
奕奕梁山。維禹甸之。
かういふことが現はれて居ります。それからその外にも、魯頌の

陟禹之迹
この文句は大體詩經の中にある文句と餘程よく似て居ります。この「迹」の字が詩經の方では「績」の字になつて居りますけれども、ひよつとすると、かういふのは昔同じ音の字であつたので、同じ意味であつたのではないかと思ひます。同じやうな例は又魯頌の中に

咸有九州。處禹之堵。
かう出て居ります。これらは「堵」の字と「緒」の字は本來は同じ字であつたらうかと思ふのであります。さうしますと、つまりこの禹が水土を開いたといふ傳説の盛んに世の中に現はれて來たのは、西周の末から東周の初め頃であらうと考へられます。さうすれば商頌にしても、その作られた時代をこの頃と見る説の方が確からしくなるのであります。それからして今申しました齊侯





第三は、私は之を縁起譚と申して居りますが、縁起譚に現はれる所の歴史思想であります。この縁起譚といふものは、何處の國でも古い歴史、物語、記録には皆あるのでありまして、日本などでも、日本紀や何かの古い歴史には縁起譚が非常に多いのです。殊に風土記といふやうなものは、全部縁起譚で出來てゐると言つて宜しいのでありますが、この日本紀などの縁起譚には、よく其の事實を書きまして、これは世の人がかういふ風に傳えてゐる「
此れ世の人の所謂反矢 畏 むべしと云ふ縁 なり
と書いてあります。それから伊弉諾・伊弉册尊の所でありましたか
世の人生 を以て死 に誤つことを惡む、此れ其の縁 なり
と書いてあります。さういふことは日本紀に隨分澤山あります。神武天皇紀でも、機密を人に言ひ渡す爲に

孔氏之不喪出母。自子思始也。
といふことがあるのを擧げ、さういふ例をずつと皆擧げて居ります。これは勿論王應麟が始めて氣が付いたのでなくして、宋の陸佃が氣が付いたのを王應麟がそれを補つたといふことでありますが、ともかく禮の變化といふことに就て「始」といふことを書いてあることが王應麟、その他の人によつて注意されました(5)。王應麟はその外にも困學紀聞の卷の五に「禮記の曾子問篇は變禮に於て講ぜざることなし」といふことを云つて居ります。それから又困學紀聞の卷の六に先程申しましたやはり六
其の外に、支那の學者で左傳のことを研究しました汪中なども注意して居つたのでありますが、左傳に記す所は、人事のみでなく、天道・鬼神・災祥・卜筮・夢の五つであるとして、一々その例を擧げて居りますが、その中で歴史的思想に關係することは主に災祥・卜筮・夢の三つであります(8)。これは隨分色々歴史的思想の發生に關係すると思ひます。はつきり分りよいのが卜筮でありますが、左傳・國語の卜筮に關したことは、日本でも卜法の上から注意した人がありまして、谷川龍山といふ人が「左國易一家言」といふ本を作つた位であり、それに左傳・國語の卜筮に關した記事が大方載つて居ります。それを見ても分ります通り、大體この卜筮に關する記事といふものは、大抵皆――勿論あたつた八卦ばかり載つてゐるに違ひないので、あたらない八卦は大抵載つてゐないのです。恐らくこれは卜筮家の記録が根本だらうと思ひます。卜筮家としては、自分の家の職務で卜つたけれども、あたらなかつたといふことを書く必要はない。皆あたつたことを書くと、自分の家の職務として輝きます。さういふことから勿論あたつた八卦を書くに違ひありません。そのことは汪中も注意して、「史之於禍福。擧其已驗者也。」と云つて居ります。四庫全書提要には、「左傳載預斷禍福。無不徴驗。蓋不免從後傅合之。」とまで申して居りますが、それを日本の安井息軒先生のやうに、もつと眞面目に考へるといふと、それが道徳的に勸戒とするに足る正しいことだけ書いてあるやうに考へられますけれども、提要の作者や汪中は、もつと皮肉に見まして、やはりあたつた八卦だけが現はれて居るのだといふことを注意して居ります。その中で最も大きなあたつた八卦で世の中の問題になつて居るものがあります。それが或はこの左傳そのものの本の値打如何、眞僞如何に關係する問題に迄なつて居るものでありますが、支那でも七百年前の朱子などは、なか/\さういふことに對して隅に置けない皮肉屋でありまして、面白い批評をして居るのであります。この重大な關係と申しますのは、一つは齊の國の田氏のことであつて、田氏は齊の國を奪つて取りますが、この田氏の先祖といふものは、陳敬仲といふ人が陳の國から行つて齊の國に仕へたのでありまして、その末孫が大變盛んになつて、さうして到頭齊の國を奪つたのであります。その陳敬仲が始めて齊の國へ行つて仕へたことが左傳の魯の莊公の二十二年の所に出て居つて、そこに占が出て居りますが、それは段々その家が盛んになつて、八代の後になつたならばこれより大きな家がなくなるだらう、といふやうなことを書いて居ります。それに對して、朱子はハヽアこれはつまり八代の後になつてその家が大きくなつた所を見てから書いた、これは後から前の占のことを書いたのだ、――朱子は左傳といふものは、多くは後來の人が書いたのだと云つて居りますが――後に盛んになつた家のことを見てから、その家が始めて興つた時のことを遡つて書くから、それで旨いあたつた八卦が書けたのだといふことを言つて居ります。さうしますと、齊の國が田氏に易つたといふのは、戰國の初めになるのでありますから、その頃のことを知つた人が左傳を書いたのだといふことになるので、左傳の記録された時代の一つの證據といふものになり得るのであります。
又晉の國は後に韓・魏・趙の三家が奪ひまして、さうして小國になつたのでありますが、その魏の國の最初の人の畢萬といふ人が晉に用ゐられる時のやはり占がある。この畢萬といふのが魏といふ土地に封ぜられた。魏といふのは大きいことをあらはす名である、又萬といふのは、ものの數の極度であるから、この家が繁昌するだらうといふことに占つてゐる。この占は、朱子などの考では、やはりこれは魏の國が盛んになつて、韓・趙と三家で晉國を分けてしまつた時に書かれた、かう考へた。さうしますと魏の國の盛んとなつたと申しますと、魏の文侯・武侯・梁の惠王の頃のことでありますから、その頃になつて左傳が書かれた、かういふ風に朱子は考へたのであります。王應麟も之を朱子の語類によつて困學紀聞の中に書いて居りますが、王應麟は朱子程に極端には考へないで、これらの後からの記事は左傳の舊文ではない、もと左傳になかつたのを、後の人が入れたのだといふ風に考へて居ります(9)。ともかく左傳の成立の上に就いての問題は姑く措きまして、子孫が繁昌して居る所から、その起源に遡つて、さうしてその起源に關する記事から書き起すといふやうな考といふものは、これが隨分重大な歴史的思想だと思ひます。日本の神皇正統記などを見ますと、或はその前のものにもありませうが、藤原家といふものは、昔、その先祖天兒屋根命が天照大神を輔け奉つた關係から、末々までもその家が繁昌して、さうして歴代攝政關白の家になるのだといふやうな思想を皆含んで居ります。さういふことはやはり藤原家繁昌の後に出來た思想であつて、その時代思想から遡つて古代のこと迄書かれるやうになつたものと考へますが、さういふ思想が支那に於ては、主として卜筮に關して見はれて來て居りまして、一種の歴史的思想となつたのであります。
それから夢・災祥といふことでもやはり同じことであります。災祥といふのは、大體尚書の洪範に「休徴」「咎徴」といふものがありまして、
これらのことは、どちらかと申しますといふと、儒教の方では、孔子の時代、或はそれ以後、段々さういふ考へが薄らいで居つたやうで、孔子などは隨分さういふ古代思想に對しては明白な謀反氣を出して居られるやうですが、墨子などには餘程この古代思想が純粹に遺つて居りまして、墨子の書には隨分かういふ奇怪な思想、即ち鬼神などが現はれるといふやうな思想をまだ持つて居つた。墨子の明鬼篇の中にはさういふことが出て居りますから、隨分この思想は春秋以後迄も相當皆信ぜられて居つたものと見えます。それが一方から云ふと、一種の歴史思想であります。さうして春秋三傳から申しますと、さういふ思想は最も多く左傳の方に含んで居りますので、公羊傳などには左傳程さういふ思想がありません。それで朱子などが、公羊は經學であつて、左傳は史學だと申して居りますのも、さういふ一種の因果思想を多分に左傳が持つて居る所からさういふ風に考へられるかも知れんと思ふのであります。尤も公羊傳には又もつと別な歴史思想を持つて居ります。それは又後で申しますが、大體卜筮・夢・災祥といふものは、縁起譚と少し似たやうな事柄でありますけれども、又縁起譚とは一種違つた思想でありまして、まあ宗教的縁起譚とも言ふべきものであります。
其の次になりますと、今度はこれらの原始的歴史思想がもつと洗煉されて、綜合的史學思想と言つてもよいやうなものが出來て來るのであります。それは孟子に於きましては、滕の文公の篇に「孟子好辯」といふ章がありまして、その中に一治一亂といふことが盛に論ぜられて居ります。昔から世の中は一治一亂であつて、堯舜以來段々國が一時治まるといふと、その次に又亂れる時が出て來る。それから又亂れて後治める人が出て來て、又一治が出て來る。又一亂が出て來るといふことで、一治一亂を繰返すといふことを孟子が論じて居ります。この一治一亂は、これは餘程古代からのことを大きく綜合した所の歴史的思想でありまして、ここらになると、後世の立派な史學の歴史思想と大した差がなくなつて來て居ります。大體私は孟子と公羊傳といふものは、餘程關係のあるものと思つて居りますので、この二つは屡

かういふ風に考へますと、支那の歴史的思想の起源、それからして段々發達して來た迹といふものは、第一實際の事實に於て三代といふ王朝の變り目を感じたこと、それから禹が水土を平げてその上に國をつくつて以來、三代の變化があつたといふことの考へが行はれて居ること、それから社會的なことと致しましては禮俗の變化、宗教的な考へとしては災祥・卜筮・夢の人事との因果關係、さういふ風な色々な思想が根源になりまして、それから最後に綜合的な史學思想即ち孟子の一治一亂、公羊の三世といふやうな思想に發達をして來たといふことになるだらうと思ひます。勿論それらの歴史思想と、それに出て來る所の事實とを綜合して、さうして立派な歴史を作り上げたのは、それは漢の時代の司馬遷でありまして、史記の十二諸侯年表の序の贊に、自分の歴史を作つた所の由來を述べて居りますので、これに古來の歴史の思想なり、材料なりを蒐める方法を言つてあります。それ迄の徑路は、今申したやうな譯ではないかと思ひます。今日幸ひに茲で講演をさせて戴きますので、そのことを申して見ました次第であります。
附注
(1)詩の諸篇中、矣の助字ある篇は左の如し。
(周南)卷耳 漢廣
(召南)何彼※[#「衣+農」、読みは「じょう」、467-6]矣
(
風)緑衣 雄雉 谷風
(
風)桑中 定之方中
(衞風)氓 有狐
(王風)中谷有※[#「くさかんむり+推」、読みは「たい」、467-10]
(魏風)園有桃
(唐風)山有樞
(陳風)墓門
(小雅)常棣 伐木 天保 采薇 出車 魚麗 六月
水 斯干 無羊 節南山 正月 十月之交 小弁 巧言 蓼莪 小明 楚茨 瞻彼洛矣 裳裳者華 采菽 都人士 隰桑 漸漸之石
之華
(大雅)緜 皇矣 生民 卷阿 瞻
召旻
(2)尚書召誥篇に云く(召南)何彼※[#「衣+農」、読みは「じょう」、467-6]矣
(

(

(衞風)氓 有狐
(王風)中谷有※[#「くさかんむり+推」、読みは「たい」、467-10]
(魏風)園有桃
(唐風)山有樞
(陳風)墓門
(小雅)常棣 伐木 天保 采薇 出車 魚麗 六月


(大雅)緜 皇矣 生民 卷阿 瞻

王其疾敬徳。相古先民有夏。天迪從子保。面稽天若。今時既墜厥命。今相有殷。天迪格保。面稽天若。今時既墜厥命。今冲子嗣。則無遺壽考。曰其稽我古人之徳。矧曰其有能稽謀自天。
王敬作所不可不敬徳。我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。我不敢知。曰有夏服天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。我不敢知。曰有殷受天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。今王嗣受厥命。我亦惟茲二國命。嗣若功。
上下勤恤。其曰。我受天命。丕若有夏歴年。式勿替有殷歴年。
(3)尚書多士篇に云く王敬作所不可不敬徳。我不可不監于有夏。亦不可不監于有殷。我不敢知。曰有夏服天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。我不敢知。曰有殷受天命。惟有歴年。我不敢知。曰不其延。惟不敬厥徳。乃早墜厥命。今王嗣受厥命。我亦惟茲二國命。嗣若功。
上下勤恤。其曰。我受天命。丕若有夏歴年。式勿替有殷歴年。
我聞曰。上帝引逸。有夏不適逸。則惟帝降格。嚮于時夏。弗克庸帝。大淫
有辭。惟時天罔念聞。厥惟廢元命。降致罰。乃命爾先祖成湯革夏。俊民甸四方。自成湯至于帝乙。罔不明徳恤祀。亦惟天丕建保乂有殷。殷王亦罔敢失帝。罔不配天其澤。在今後嗣王誕罔顯于天。矧曰其有聽念于先王勤家。誕淫厥
。罔顧于天顯民祗。惟時上帝不保。降若茲大喪。惟天不※[#「田」の下に「兀」のようなもの、読みは「ひ」、468-10]。不明厥徳。凡四方小大邦喪。罔非有辭于罰。
惟爾知惟殷先人。有册有典。殷革夏命。今爾又曰。夏迪簡在王庭。有服在百僚。予一人惟聽用徳肆予敢求爾于天邑商。予惟率肆矜爾。非予罪。時惟天命。
(4)毛詩魯頌に云く

惟爾知惟殷先人。有册有典。殷革夏命。今爾又曰。夏迪簡在王庭。有服在百僚。予一人惟聽用徳肆予敢求爾于天邑商。予惟率肆矜爾。非予罪。時惟天命。


禮記於禮之變皆曰始。孔氏之不喪出母。自子思始也。士之有誄。自此始也。
婁復之以矢。蓋自戰於升
始也。魯婦人之※)晉於是始墨。(僖三十三年)始厚葬。(成二年)始用殉。(成二年)魯於是乎始※)魏絳於是乎始有金石之樂。(襄十一年)始用人于亳社(昭十年)魯於是始尚羔。(定八年)亦記禮之始變也。
尚ほ困學紀聞は翁元圻注本によりて看るを便とすべし。
(6)困學紀聞卷六に云く

尚ほ困學紀聞は翁元圻注本によりて看るを便とすべし。
禮樂自天子出。而獻六羽焉。非天子不制度。而税畝焉。故皆書曰初。
と。之に就ては公羊傳の隱公五年初獻六羽の條及び左傳の宣公十五年初税畝の條を參攷すべし。
(7)同書同卷に云くと。之に就ては公羊傳の隱公五年初獻六羽の條及び左傳の宣公十五年初税畝の條を參攷すべし。
猶秉周禮。(閔元年)齊猶有禮。(僖三十三年)觀猶之一字。則禮廢久矣。
と、之に就ては左傳の上に掲げたる年の紀事を參照すべし。
(8)述學内篇卷二、左傳春秋釋疑の文を參照すべし。と、之に就ては左傳の上に掲げたる年の紀事を參照すべし。
(9)朱子語類卷八十三に云く
問。左傳載卜筮。有能先知數世後事。有此理否。曰此恐不然。只當時子孫欲僭竊。故爲此以欺上罔下爾。如漢高帝蛇。也只是脱空。陳勝王凡六月。便只是他做不成。故人以爲非。高帝做得成。故人以爲符瑞。
又云く
左傳是後來人做。爲見陳氏有齊。所以言八世之後。莫之與京。見三家分晉。所以言公侯子孫。必復其始。以三傳言之。左氏是史學。公穀是經學。
困學紀聞卷六に云く
八世之後。莫之與京。(莊二十二年)其田氏簒齊之後之言乎。公侯子孫。必復其始。(閔元年)其三卿分晉之後之言乎。其處者爲劉氏。(文十三年)其漢儒欲立左氏者所附益乎。皆非左氏之舊也。
(10)孟子離婁章句下、王者迹熄而詩亡の章、及び公羊傳昭公十二年の條を參看すべし。(11)公羊傳宣公十五年、初税畝の條、孟子告子章句下、白圭曰吾欲二十而取一何如の章を參看すべし。