近畿地方に於ける神社

内藤湖南




 私のお話致しますのは、「近畿地方に於ける神社」と申します。近畿地方は殊に神社の大變多い處でありまして、最も古社の多い處であります。それらに就て悉く話すことは到底出來ることではありませぬ。又私は一體神社のことを深く研究した譯でも何でもありませぬが、幾らか趣味を持つたのは大分古いことで、大日本史神祇志が出版になりました頃之を讀みまして、其の中に神社に關する色々の考證が時々出て居りましたのに大變興味を感じたことがあります。其の後それに類似したもの、即ち矢張り大日本史神祇志を書かれた栗田博士が色々研究されたもの、其の他のものなどを見まして、神社の研究に幾らか興味を有つた。併し私の專門に屬することでないから、大分前にさう云ふことを考へたゞけであつて、其の後一向研究は進歩して居りませぬ。唯其の頃考へたことを一二拾つてお話をする位のことであります。
 近頃神社といふことが大分世間で問題になるやうになりまして、御承知でありますか知りませぬが、政府筋でもそれに關して商賣に拔目が無く、鐵道院では「かみ詣で」といふ小さい本を作つて居られる。是も貰つたから見たので、強ひて買つて見ようといふほどの考も無かつた。見ると、是は鐵道院でも半分は商賣に致したことでありませうから、學問上から色々苦情を言つても仕方がないが、殊に其の見方は言はゞ遊覽の材料に書いたやうなものでありまして、實は神社を有難く感ずる爲に書いたのか、遊び歩く序でに少し見たら宜からうといふので書いたのか判らない位であります。之を見ますと如何にも信仰のあるやうな口繪などが付いて居りますけれども、中は矢張り何處が特別保護建築物であるとか、景色も佳いとか、惡いとかいふやうなことが重に書いてあります。まア半分は遊覽の爲めである。尤も遊覽から信仰が起つたら猶更結構でありますが、兎に角さういふ風で大分神社等に注意するやうになりました。それと共に「神社と思想問題」などが屡々現はれかゝるのであります。私は思想問題の方へ觸れることは、神社の事に就て言ふよりも遙かに不得手でありますから、矢張り單に自分のやる歴史上から考へて見たいのであります。それ故私の方から言ふと神社は有難くならぬ方が多いかも知れませぬ。併し兎に角色々昔の人の研究したことに就て自分の考へたことを少しばかり話してみようと思ふのであります。
 古い事を考へますと、近畿地方は神社のことだけではなく、歴史上非常に年數が永い。同じ日本としましても、近畿地方と私が生れました東北地方などゝは歴史上の年代に餘程差があります。日本の開闢は何千年か知りませぬ。普通二千五百年と言つて居る。併し私共の生れた東北地方の歴史らしい歴史の始まりは、非常に古くても八九百年位であります。それも眞に我々の地方の名が歴史に出て居るか居らぬかといふ位のものであります。多少歴史の上に分るやうになつたのは、殆ど南北朝以後のことであります。それでありますから近畿地方とは二倍も三倍も年數が違ふのであります。それだけ又近畿地方は同じ地方のことが歴史上重なつて居ります。史蹟と申しましても非常に厄介でありまして、同一の地に幾つもの事が重なつて居る。それで神社なども自然さういふ風になつて居ります。けれどもそれが又近畿地方の神社を研究するに就て最も興味の多い所であらうと思ふ。
 それに就てつい此の附近の事に關して偶然色々思ひ付た事があります。今京都の附近で立派な神社と申しますと、先づ加茂であります。併し加茂の神社の存在して居る地方に於て、昔から加茂の神社があの通りの大きさ、あの通りの盛んさであつたかどうかと考へますと、餘程それは疑問なのでありまして、加茂の縁起などを見ますと、あの川の處が昔から清らかであつて、加茂の神樣の娘さんが洗濯して居つたか、遊んで居つたか、其の時に、丹塗の矢が流れて來て、それに感じて子を産んだとか、其の子が屋根を破つて飛んで行つて松尾神社になつたとか、色々面白い話があつて、初めからあの近邊が加茂の神社で以て占領して居つたやうに考へられますが、能く調べて見ますと必ずしもさうではなさゝうであります。下加茂の境内といつて宜しい所に小さい柊神社といふものがあります。それは延喜式の神名帳などで見ますと「出雲井於ゐのうへ」と申す神社であります。此の神社は今では加茂の境内の隅の方に小さなものになつて居るけれども、昔からあんなに小さいものであつたかどうか一つの疑問である。「出雲」といふことは出雲國といふやうに、そんなに遠方まで持つて行つて關係を付ける程のことでもないと思ひますが、兎に角此の附近に出雲を頭に冠つた地名、神社が色々あります。丹波の國の桑田郡に出雲神社といふものがあります。それから又京都の北部にかけて、多分それに關係のあると思ふ出雲の地名を冠つた神社があります。山端やまばなの北手に高野村といふ處がありますが、其處に出雲高野神社といふものがあつたといふことであります。今日ではそれが變りまして崇道神社といふものになつて居ります。それが出雲高野神社であるといふことを、色々神社の研究をした人が考證して居ります。又京都の北部全體を出雲路と稱して居ります。それでこれが大體出雲に關係がある。――それが直ちに出雲國に關係があるかどうか知りませぬが――兎に角出雲といふ一の氏族が昔其處に割據して居つた所ではあるまいかといふことが考へられる。それではどうして其處へ加茂といふものが關係して來たかといふことになりますが、まだ其の前に關係したものもあると思はれます。一體崇道神社といふものは私にとつては何でもないことでありまして、そんな事を調べる必要は無いのでありますが、それに興味を感ずるやうになりましたのは、崇道神社の山の裏手に小野毛人といふ人の墓があつて、銅板の墓誌が出た所でありますので、それを研究するに就て色々崇道神社なんかのことを考へるやうになつたのであります。そこで又延喜式の神名帳に據りますと、小野神社といふものが其の邊にあつたといふ事であります。小野神社といふものはどうなつたかと申しますと、今日では矢張り高野村の中に加茂御影みかげ社といふものがありまして、崇道神社の南側になつて居りますが、それがさうであつたといふ風に考へられて居ります。それが昔小野神社であつたとしますと其處に小野といふものが關係があつたといふことになるのであります。それでは小野といふものはどういふやうに關係して來たかと申しますと、矢張り近江國の滋賀郡に小野神社と稱するものがありますが、小野毛人といふ人は聖徳太子の時代に隋に入りました妹子の孫に當るといふ人でありまして、即ち聖徳太子時代から小野氏は著しく見はれて居りますが、歴史上小野氏といふものはどういふ系圖を引いて居るかと申しますと、孝昭天皇の末孫であつて、それから系圖を引いて小野氏といふものが出來たことになつて居ります。其の先祖の神社が近江國の滋賀郡に小野神社といふものとなつてありまして、そして小野氏が段々に盛になつた時に山を越えて山城の北部まで領分を擴げて來て、小野毛人の墓などが高野の崇道神社の裏に造られるやうになつたのであらうと思ひます。さう考へて見ますと、京都の北部全體が出雲氏の關係であつた時から見ると大分後であると思ふ。小野妹子時代といふものははつきり分つて居る時代でありますが、其の前の出雲氏のことは殆ど記録にも何にもなつて居ないので、唯神社に依つてさういふものがあつたやうに思はれるだけであります。さうすると京都の北部といふものは時代の分らない前に出雲氏の關係のあつた土地であつたが、丁度歴史の始まる時代、即ち聖徳太子の前後頃からして近江の方に根據を有つて居つた小野氏の支配に何時となく入つて、それから後に加茂の關係が生じて來たのであらうと考へられます。上加茂の方は古いかも知れませぬ。鴨建角身命の娘から加茂の別雷神が生れたといふのでありますから、大分古いかも知れませぬ、併しそれは兎に角、加茂の一部分の山奧に神社があつたのが、加茂の氏人が段々擴つて來て、ことに京都が帝都になりました關係から、其の時分の大きな神社を一般に尊敬するやうになりましたり、或は又天子が尊崇される神樣とか、或は其の他の大きな神社といふものが段々世に尊敬されて行きました。大和地方などでも龍田などは天武天皇が特別に尊崇されたからそれが盛になつた。一體それがどういふ譯で尊崇されたか分らぬが、兎に角天子が特別に尊崇されることになるとそれが繁昌することになります。加茂も此處に帝都が遷されて特別に加茂神社が尊敬されたのであらう。其の尊敬された由來も色々ありませうが、それまでやりますと餘り諄くなりますからやめて置きますが、それで段々加茂の氏人が擴つて來て、元の出雲氏の占めて居つた京都の北部地方を段々占領しまして、出雲井於神社といふもとの神樣は隅の方に押遣られて、其の大部分は下加茂の境内になつてしまつたといふ形になつたのでありますが、併し其處を占領したからといつて、他の氏族が崇敬して居つた神社を無暗に取拂つて仕舞ふといふことはしないのが我が古の習俗である。此の節の支那邊りの模樣でありますと、革命になると前から尊敬して居つた偉い人の祠などでも皆打ち壞して新らしいものを祀つて居るといふ譯でありますが、日本は一つは風俗の敦い所からでもありませう、一つは又さういふことをしますと能く祟つたものでありますから、神樣を取除けると必ずそれが祟るといふので、大方祟りの爲めに昔からあるものは其のまゝ据ゑてあつた。それで柊社といふものは地主の神と稱して居る。元來其處が柊社が有つて居つた所で、後から入つて來た者がそれを占領したのでありますから、前の神樣を地主の神として尊敬して居つたのであります。それから高野の方でもさういふ風にして、小野神社といふものは加茂御影社といふ風に變つてしまふやうになりました。それで加茂の族といふものは非常に繁昌して近代まで存續した。其の後になりますと平安朝の以後から神社はどうなるかといふと、時々一つの氏が他の氏に侵略されるといふことに依つて變るよりも、佛教が起つた爲めに寺の方から神社が侵略された。叡山などが好い例であります。叡山は御承知の如く日枝神社といふものがある。大日枝、小日枝といふ大小の日枝神社がありますが、小日枝と稱する方は大山咋おほやまくひ神が祀つてありまして、今の加茂の別雷神のお父さんであると言はれて居る神樣、丹塗の矢になつて來て加茂の建角身命の娘さんに孕ました大山咋尊がそれであるといふことであります。それが小日枝でありまして、元來の神社であります。然るに傳教大師があの山を開きました時に自分の信仰する神樣を連れて來て其處に鎭守させる。それは大和の三輪の神樣であります。そして彼處に鎭守させたのが大日枝の神社であります。昔からの小日枝の方は山の下へ下げましたが、昔からある神樣でありますから矢張り地主の神としてあります。是は二重の手數でありまして、お寺が神社の領地を占領する爲に、直ちに其のまゝ占領せずに、矢張り餘所から神樣を連れて來て、其の神樣に占領させて、是が自分の鎭守の神樣だと稱して彼等が其處を支配して居つた。二重の手數を致して居りますが、それ位の必要は當時神社の領地を占領するに就てあつたものと見えます。さういふことで段々變動して、平安朝の頃からは佛教の方で神社を占領するやうになりましたが、それから後鎌倉頃になりますと、武家が寺、神社の領地を占領するやうになりました。武家といふものはいたつて信仰の範圍の狹いもので、自分の尊崇して居る神樣を持つて歩きました。平家は嚴島の辨財天を其處らぢう持つて歩く、源氏は八幡樣を擔ぎ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)る。或は在來の神社を八幡樣に變へた。平家は時代は大して長くありませぬから辨財天に化する事は餘り致しませぬけれども、源氏は其處らぢうに蔓りましたから皆他の神社を八幡樣に化して了つた。それから後の事は段々鎌倉に訴訟が起りまして、文書といふものが出來ました。文書といふものゝ多數は何時でも寺と武家の訴訟から出來まして、それが鎌倉頃から始まつて居るから、我邦の文書の多數は鎌倉頃から始まつて居ります。詰り寺と武家の喧嘩になりまして、其の頃から文書がありますから、寺領が武家に占領された時のことは明に分ります、又其の前のことは神社を占領した寺の記録も相當にありますから分りますが、神社が神社を占領した、詰り一つの氏が盛になつて居る處に、後の氏が侵略して行つた爲に、自分の氏神を持つて行つて前の氏神に代へるといふ侵略の時代は文書がありませぬ。殆ど歴史がありませぬ。今日になつては神社の存在に依つて幾らかそれが分る。加茂の隅の方に柊神社があつてそれが昔の地主の神社であつたとか、叡山にある小日枝が矢張り昔比叡の氏人が持つて居つたのを、それを寺が侵略したのであるといふことが分るやうなことであります。詰り神社研究といふことは、私は餘り國學をやりませぬから專門外でありますが、歴史の方から申しますと記録のない時代の變遷を説明するといふことになります。其の點は餘程役に立ちます。それで例へば口碑の研究をするとか、神社の分布、神社の來歴、さういふことを研究することは餘程上古の歴史を知る上に於て役に立つと思ひます。又日本のやうな神代からの神社が今日まで遺つて居つて、假令それが段々變つて大きなものが小さくなり、小さいものが大きくなつたとしても、兎に角それを亡ぼさない習慣がありまして、そしてそれが今日まで存在して居るのでありますから、言はゞ人間の歴史を以て開け始まるまでの古代の樣子が判ります。私共がやります支那の歴史などに於きましては、遺蹟が日本のやうに、古いもの新しいものとも揃つて存在して居るといふことが希れであり、歴史上に於ても記録は澤山ある國でありますけれども、上古の記録には確かなものがありませぬ。それでありますから殆ど古代の状態は分らなくなつて居りますが、日本は幸にして記録の時代は若いにしても、神社といふものがあつて、神社に依つて其の記録のない時代の補ひを付けることが出來ますから、非常に國史を研究する上に於て便利であります。それを幾らかやり方を間違へると飛んだ間違つたやり方をしますものですから、其の研究は餘程微細な注意を致さなければならぬのでありますが、兎に角其の研究の方法さへ誤りがなかつたならば、古代のことは神社に於て餘程明らかになる。殊に近畿地方は昔から記録の無い時から非常に早く開け始めた地方でありますから、近畿地方に於ける神社の状態は二重にも三重にもなつて居りますから、近畿地方の神社を研究しますと日本の最も古い所が隨分分らうと思ひます。それが神社研究といふことの大體緒論みたやうなものであります。
 前に申しました如く私が神社のことに就て少しばかり本を讀んだ時に、神社を深く研究する積りでありませぬから文書を研究するとかいふ根本的の研究をしたのではありませぬ。人が研究したのを極く粗雜に讀んで見た位のことでありますが、人の研究したものを見た所の結果に依つて多少生じた疑問と申しますか、別に私は專門家ではありませぬから、そんなことを決着する必要はありませぬから決着して居りませぬが、色々それに就て偶然思ひ付いたことを述べて見たいと思ふのであります。
 其の一つは外國から來た神のことであります。これは前から研究した人があります。伴信友の蕃神考、是は京都の平野神社の研究、即ち是は今日では國書刊行會などで版になつて居りますから御覽になつた方もありませうが、之に就て思ひ付いたことがあります。
 所が私は能く申しますが、國學、例へば神社の研究にしても、古代の研究にしても、國學といふものは明治以前の方が大分發達して居ります。明治以後は頓と發達しませぬ。神社のことでも明治以前の方が大分微に入つて研究しました。其の後明治以後になつては頓とさういふ方の人が餘り研究をしませぬので、どうかすると進歩しないのみならず、色々書いたことが皆後戻りをして居る。平野神社なども同樣でありまして、平野神社の伴信友の研究といふものは餘程良い頭で研究したものであります。非常に感服すべき所のものであります。今日平野神社で其の祭神が如何なるものかといふことに就て考へて居ることは信友の考へたよりも遙かに退歩して居るではないかと思ふ。平野神社に就て研究したのではありませぬが古事類苑といふ大きな本があります。あれに官國幣社のことを書いてありますが、あれで見ますと平野神社に就て伴信友の研究したやうなことは、丸で書いてありませぬ。信友の研究した中で詰らない所の一部分五六行のものが載せてありますが、眼目とした事は殆ど何も述べてない。矢張り昔からの詰らない傳説を土臺として、何だか分らないやうになつて居ります。別にそれで差支があるといふ譯ではありませぬが、平野神社といふものは途中から色々變りまして、後になつて皇室が繁昌されなくなつた時代に大分衰へた。兎に角中古は神社といふものは保護者が無くなつたら往々自分の自營策を講じた。伊勢の大神宮でも其の時分に皇室の保護が無くなり、氏族の神社でも氏子が繁昌しなくなると自營策を講じた。其の爲に色々のことをやる。神社の自營策の結果として氏子を取込むことを考へる。平野の神社も八姓の神樣の合祀と言はれて、源氏もあれば平家もあり、何もかも皆取込んで、大凡京都に居る名族の人達は皆平野神社に詣らなければならぬやうに仕組んである。さういふことは自營策としてなか/\巧く考へたもので、さういふことを中古に神社はやりました。それで其の頃出來た八姓の神といふ説でありますが、今日ではどの位の程度で平野神社といふものを考へて居るかと申しますと、斯ういふ鐵道院の方で書いた本に出て居ることも好い加減のものであります。それで折角伴信友といふやうな學者が非常な苦心をして研究したのが何の役にも立たない。學問の權威を無視すること夥しいものである。
 それでは伴信友はどういふ風に研究したかと申しますと、平野神社といふものは今木神、久度神、古開神、比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神、斯う四つの神樣となつて居ります。鐵道院の神詣でには何の神樣か分らないといふことになつて居ります。伴信友の説では是は一體平野神社といふものは桓武天皇樣が平安京を開かれた時に此の平安京へ持つて來られたものであるとしてある。桓武天皇の母方の家といふものは、百濟の王の末孫であります。百濟の聖明王は日本へ佛教を欽明朝の時に送つて寄越した王であります。此の王の末孫であります。それで此の今木神等は百濟の王家の神樣と考へられたのであります。此の今木神といふのは即ち聖明王だと考へた、久度神、古開神といふのは何だか分らない、兎に角久度神社といふものは大和の龍田の附近にあつたので一緒に來た。古開神といふのは矢張り外國から來た家柄ではありませぬけれども、桓武天皇樣の母、皇太后の又母方の家の神樣だ、比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神といふのは母方の神樣だと斯うしました。多分久度神といふのは、今の竈のことを私の國などでも「くど」と申して居りますが、竈の神であつて同時に大和の國で桓武天皇の皇太后の母方の家の方で祀つて居つた竈の神があつて、それを勸請して來たとある。斯ういふ考へである。兎に角其の中、今木神といふのは聖明王に違ひないと考へた。是は餘程面白いことでありますけれども、それは誰方でも國書刊行會の伴信友全書を御覽になりますれば分りますから、私がくはしく述べる必要はありませぬ。併し伴信友の考證に幾らか不滿足なことがありますので、それに餘計なことを付加へて見たいと思ふ。
 それは今木神といふのは大和の地名だと考へた。久度といふのも方々にありますから矢張り地名と稱してあるのであります。併し大和邊りで新漢いまきのあやとか何とかいふことがありまして、いまきといふのは或る氏が今外國から新らしく來た、今來た所の種族が居つたので、それで「いまき」の何某といつたので、元來は今來とも書て、今木といふのは地名でないと思ひます。新らしく來た種族が居たので今木といふことが頭に冠るやうになりました。それでありますから今木神といふのは、今木を大和の地名にする必要はないので、新らしく來たので、即ち外國から來た神といふ意味であります。
 それから久度でありますが、是は信友も朝鮮の書物を讀みましたけれども、到頭それに氣が付かなかつたと見えます。私の考へでは聖明王の先祖を祀つたのだと思ひます。それは百濟の國の開闢に就て餘程有力な王があります。朝鮮の歴史の中で尤も古い三國史記では百濟の國の先祖と言はれて居るのは温祚王といふことになつて居ります。其の數代後を肖古王といふ、それから其の次を仇首王。それで此の肖古、仇首といふ二代の時に百濟の國が大變大きくなりまして、其後此の王の頭に近の字を冠せた近肖古王、近仇首王といふ人がありまして、其の時に又非常に盛になりました。兎に角肖古王、仇首王といふ時は百濟の國が大變に發展した時代であります。所で此の仇首王といふ人は三國史記にも或は貴須といふとありまして、日本の姓氏録でも、「貴首王」と書いてあります。或は「陰太貴首きす王」とも書いてあります。「陰太」といふのは分らないのでありますが、温祚と關係があるかと思つて居ります。マア其方はどうでも宜いとして、兎に角この仇首王といふのが、百濟では大關係のある王であります。時としては仇首といふ文字が朝鮮の本の他の所では首の字に※(「二点しんにょう」、第4水準2-89-74)が付いて仇道となつたのもあります。それから百濟の國のことを支那の方で書きました後周書、隋書、北史などに依りますと、百濟の國の起り初めを温祚でなくして、仇台といふ人が百濟の國を起したのである。元來百濟といふものは高句麗と同じ先祖で夫餘から分れたのでありますが、其の分れた時に仇台といふ人が分れた。是が百濟の國を起したといふことになつて居ります。又もう一つ遡りますと高句麗といふものは夫餘國と同じ種族であるとなつて居りますが、夫餘國の主な王の名前に尉仇台といふものがあります。「尉」といふのは人の名前ではありませぬ。支那で漢の時代の地方行政區劃は郡と國で、郡の頭は太守でありますが、太守の領分を二つか三つに分けて都尉といふものが之を支配し、又縣には尉がありました。尉仇台といふのは都尉又は縣尉の仇台といふ意味でありまして、其の時代に支那に境を接した夷狄の土着民は都尉や縣尉といふものを大變に偉いものだと思つて居りましたから、尉といふ語を自分の頭に冠るのが皆大變偉いことゝ思つた。日本でも左衞門尉とか右衞門尉とか左兵衞尉、右兵衞尉といふやうなものは朝廷では極く低い官ではありますが、それが鎌倉時代頃に田舎へ行くと豪族などは偉いものだと思つて、何兵衞尉と名のることを大變名譽であると思つたと同じことであります。尉の字を冠るのが名譽として居つたので、それを名前の上に付けたので、名前は仇台であります。三國史記には又優台ともしてありますが、是は尉仇台のつまつた音だと思ひます。兎に角仇台といふ者が夫餘並に百濟で國を起したといふことが昔からあるのであります。其の名前の人は後になつても偉い王が出て來ると屡々現はれて來ます。詰り仇首も仇道も同じ音であつたので、「くど」の音であつたと思ひます。又仇台が「くど」と讀まれるのは、「台」の字は日本紀などには「と」と讀んであります。それで仇台も「くど」仇首も仇道も「くど」で其の音がどうかした關係から、貴首又は貴須とも響くのでありますが、要するに「くど」といふ音の變化だと思ひます。それで今日朝鮮の方に遣つて居る歴史に據ると、温祚が元祖、貴須王が中頃の王でえらく仕事をしたといふに過ぎませぬけれども、支那の歴史上の話では仇台くどといふ人は矢張り開闢の偉い王であつたと考へられるものと思ひます。仇首即ち久度で久度が大變大事な神であつて、それで聖明王の家柄、桓武の皇太后の家柄では聖明王と同じやうに仇首を尊んだもので、後に日本の音で久度といふ文字になつて來たものと思ひます。是は矢張り百濟の王だらうと思ふ。
 次に古開といふものは伴信友も持て餘して居る。私も少々持て餘す神であります。是が古開かどうかといふことさへ疑問であります。伴信友の説では「開」の字だか「關」の字だか分らない。假名の付たものに「ふるあき」といふのがあつたからさうしたので、何か分らないといふことになつて居ります。それで私も色々な異説を出して見ようと思ふ。「古關」の方で考へて見ようと思ふのであります。神樣を玩弄にするやうで相濟みませぬけれども、ともかく考へて見たいと思ひます。それは古と關とは之を一つにしても、或は二つにしても差支がない。二人の人を一人に、一人の人を二人に分けたやうなことが外にもあります。日本の姓氏録にある貴須王といふ王さんでも陰太貴須王となつて、陰太の方を考へて見ると温祚の方に當る譯でありますので、朝鮮の歴史では温祚と貴須と別々になつて居りますが、姓氏録では一緒になつて居ります。古關も強ひて之を一つに考へなくても宜いと思ふ。二つに分けて考へて見ようといふことになります。
「古」といふのは私が能く申しますが、朝鮮の上古の傳説では自分の國の元祖を「沸流ふる」といふ者だと考へる系統と、それから「東明とうめい」といふ者だと考へる系統と二つある。それが面白いのであります。一つの「沸流ふる」といふ方を申しますと、朝鮮の今存在して居る歴史では温祚といふ人の兄さんに沸流王といふ人がある。是が兄弟であつて、兄の系統が絶えて弟の方が繁昌したといふことになつて居ります。百濟の國にさういふことがあるのでありますが、高句麗の國の傳説には、高句麗の系統といふものは一體東明王から來て居る。東明の名は音通で色々になりまして、鄒牟とも朱蒙ともなることもある。是はどちらも高句麗でありますが、百濟の國になりますと是が「都慕」となります。皆同じであります。東明といふのが又色々に分れるのであります。百濟では都慕と言ひ、高句麗地方の人々は東明とも鄒牟とも朱蒙とも云ふ。日本で大山祇おほやまずみの神のすみ海童わだつみつみも、同音同義である。大山祇を大山くひとも申しますが、日本語の隅のことを朝鮮語でクビと申しますから、是も同義だと思ひます。兎に角、朝鮮の國の開闢の傳説には、先祖が「都慕とむ」即ち「東明」の系統か、「沸流」の系統だといふことになる。そして沸流のことは朝鮮の古い歴史には扶餘國に解夫婁ふるといふ王があつて、その子の得た女子から高句麗の東明といふ王が出て來る。又東明が高句麗を開くに就て面白い神話がありますけれども、それは省きます。解夫婁の解といふのは高句麗の「高」といふのも、新羅の方で金とか、健とかいふのも皆同じ事でありまして、頭に冠る字でありまして、「大きな」といふことであります。で言葉の主なる意味は「ふる」であります。是が高句麗並に夫餘にも百濟にもある。新羅の國では元祖の王を赫居世といつて居ります。是は漢字で斯う書いたので、之をどう讀むかといふことは矢張り朝鮮の歴史である三國遺事に書いてありますが、「弗矩内」と讀む。是が即ち赫といふ字に對する弗「ふる」といふ字が當つて居る意味でありまして、矩だけは分りませぬけれど、「世」といふ字は朝鮮の古語で訓むと内となります。即ちこの弗矩内といふのが赫居世の意味で、朝鮮語を音で現はして居る。此の赫といふ字は古い言葉でこれを「ふる」と見ますと新羅の國の元祖の王の赫居世といふ者も「ふる」といふ語を頭に持つて居る。之を日本に持つて來ますと天照大神の大日※(「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53)おほひるめのむちといふ「ひる」といふのが「ふる」に當ります。光輝く意味を皆持つて居る。朝鮮では日を「ふる」と申します。光る意味であります。元祖が沸流であるか東明若くは鄒牟か、兎に角朝鮮から滿洲地方の國々の開闢の傳説の一番最初の王が東明であるか沸流であるかどつちかである。皆古い時には此の説を持つて居つたので、古關の古といふのも其の「ふる」だと申してよいのです。それから「關」は何か。之を肖古王に持つて來る。姓氏録では「速古」とも書いてあります。「肖古せうこ」「速古そこ」といふのは「そこ」で、滿洲語のヂヤハ、日本で「關」といふものと同じ意味で同じ言葉であります。それで肖古といふ王は百濟を起した人で有名な者でありますから、關の字を肖古王へ持つて行かうといふのであります。尤も肖古王を近肖古王に對して古肖古王といつたとすれば、滿洲でもふるをフオと申しますから、古關は古肖古王だとして、一つの王として手數がかゝらぬ片付方をしてもよいのです。兎に角さういふやうに詰り今木神、久度神、古開神此の三つの神が皆朝鮮の王だ、斯ういふやうにしたい。是は伴信友の桓武天皇の皇太后の母方の家、即ち大枝氏の神樣を古開とした根據の無い説よりも、私の方が根據があると思ひます。先づ多少こじ付け得られることが出來れば根據がある。信友の方はこじ付けずに持て餘して居るから、持て餘さなかつただけは私の手柄だと思ひます。
 さういふことにして今の平野神社を片付けたいと思ひます。比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神といふのは色々ひねくりますけれども、何れの古社でも祭神二三座の外に、多く姫神といふものがある。神を祀るには日本でも支那でも同じことで皆女が祀ることになつて居ります。後になつてから矢張り其女は祭神として必らず祀られることになる。それが比※(「口+羊」、第3水準1-15-1)神であつて信友のやうに色々の説を付ける必要はないので、主なものは三體であつて、それが皆朝鮮の神だ、斯ういふことに仕末をしたいと思ふ。まア斯うすると信友より一段進めた積りでありますが、平野神社の神主さん達の考へて居るのよりも距離が遠くなつて、益々分り惡くなりますけれども、今の神主さん等ももう少し、少なくとも信友時代まで進歩して貰ひたいと思ふ。あの位の人より遙かに後戻りをするやうでは心細い。それで、一つこじ付けをやつて見たのであります。
 もう一つ近畿地方にある神社で「兵主神社」といふものがあります。是は隨分昔から難物で皆持餘して居つたものであります。此の一番主なるものは大和國の城上郡にあります。城上郡に穴師坐兵主神社といふのと、も一つ穴師大兵主神社といふのがあります。これが一番主なものであらうと思ひます。其の外方々にあるといふことでありまして、信友の延喜式の神名帳の考證に據りますと、大分是が其處らぢうにある、近江國の野洲郡、同國伊香郡の兵主神社、播磨國の飾磨郡の射立兵主神社、「いだて」が付くことがあります。射立兵主神社といふものが播磨の廣峰といふ所にあつてそれが勸請されて來たのが京都の祇園社だといつて居ります。「いだて」といふのは色々の字に書いて例へば射楯とも、「伊太※(「低のつくり」、第3水準1-86-47)」とも書きます。是は極く普通の説では大國主命である、又は八千矛やちぼこ神といつて武の神さんである。武の方の神樣であるから兵主神社といつたのだといふ説が多いのでありますが、それは甚だ其の説が薄弱だといふことは誰でも皆認めて居ります。兵主神社といふものは日本へ來ては存外武器の神さんになつて居らぬ。日本に來ては皆食物の神さんになつて居ります。八千矛神だから、大國主命だから兵主神社だといふことは薄弱だといふことは前から研究した人が皆認めて居る所であります。是も矢張り私は外國の神としようと思ふのであります。是は又百濟の神よりかずつと前に日本のまだ何も記録の無い時分に來て居る神でありますから、ちよつと之も確かなことを言ふのは困難でありますが、兎に角私の考では外國の神である。誰でも知つて居る史記封禪書といふものがあります。是は秦漢の時代の色々の神のことを書いたものでありますが、其の中に秦の始皇が齊の國、今の問題になつて居る山東地方へ旅行した時に、山東地方で元來祀つて居る神が八神あるとしてある。一、天主、二、地主、三が即ち兵主、四、陰主、五、陽主、六、月主、七、日主、八、四時主。この兵主が根本の神であります。是がどうして日本へ來て兵主になつて居つたかといふことを考へて見たいと思ふ。和泉の國にも穴師といふ神社がありますが、神名帳には穴師の隣に兵主神社といふのが並べて書いて二つになつて居りますが、兎に角矢張り穴師と兵主は關係があつたことは和泉の國の神名帳でも分る。此の神社の元祖ともいふべき大和の穴師坐兵主神社の穴師といふ處に弓月嵩といふ處がある。此の弓月といふのを引張り出して來ようといふのであります。弓月といふのは日本で秦氏といふ大きな家柄がありますが、秦氏は秦の始皇の末孫だといつて居ります。應神仁徳の間に非常に澤山の人口、何十萬か知りませぬが、或る記録では百二十七縣の人口を連れて歸化したと言はれて居る。非常に大きな種族であります。其の秦の始皇の末孫といふものは向ふの記録には何もない事でありますが、始皇帝の十三世の後に孝武王といふ人がありまして、其の子に功滿王といふ人がありまして、其の又子が融通王といふ人であります。此融通王といふのは姓氏録では一に弓月王といつて居りまして、日本紀などでは弓月君と申します。兵主神社が弓月嵩と稱する處にあるといふことはこの弓月君に關係がありはしないかと思ひます。一方穴師といふ「あな」といふことは「あや」といふことゝ同じことであります。支那のことを意味しております。「漢」といふことを意味して居ります。「あや」といふのは「漢織」、即ち綾を織るから「あや」といふとする説がありますが、それは反つて原因結果を顛倒して居りますので、漢といふ字の音で、それから漢織の「あや」も、綾の「あや」も出たのでないかと思ふのであります。それで穴師若しくは弓月嵩といふ處に兵主神社があるのは當時漢人が來て居つた處で其の奉じて來た神を祀つて居つたのではあるまいか、是が又食物の神になつて居るといふことは、外國から食物即ち稻のやうなものを持つて來たからそれが食物の神になつて居る。さういふ所から穴師の兵主神社といふものは支那の山東の兵主神社を持つて來たのではないかと思ふ。日本の秦氏といふものが秦の始皇の末孫といふのでありますがこれらの系圖はあてになりませぬ。山東の八神といふものは古いものであつて、餘程前からある。それで其の時分に彼等の種族が日本へ渡つて來たが、其の時自分の國の神を持つて來ないとは考へられない。八神を祀つて居るのは地方に依りまして、日主といふのは今日の山東の成山角で祀つて居る。山東の出端でありまして、直ちに日の出る所に向つて居るから日主といふものが其處で祀られて居ります。天主といふものは齊の國の都、臨※(「くさかんむり/緇のつくり」、第3水準1-91-1)といふ所でありますが、其處で祀つて居ります。臨※(「くさかんむり/緇のつくり」、第3水準1-91-1)に天齊淵といふものがあつて、それを祀つて居る。天齊といふ齊の時は臍といふ字と同じ、天の臍といふことで、天の眞ん中と考えたのである。一體齊の方の傳説では、齊の國は臍だ、支那の眞ん中で、天の臍のある所にあるから齊の國だといふことになつて居りまして、齊の國の都に天の臍があると考へた。泉が幾つか涌いて居つて、それを天齊の泉といつて居る。さういふ風で地方に依つて色々に祀つて居る。で此の兵主神は其の中でも一番山東の西の方で祀つて居るのであります。今日でも山東人といふものは山東の内地から滿洲何處へでも喜んで移民する所の者であります。移民が滿洲地方へ參ります、又外國へも行く。それで古代の山東人が朝鮮半島を經て日本へ來たなども山東の内地から來たのではあるまいか、さういふものが段々日本へ來て秦氏になつた。それ故に齊の國で八神を祀つて居るのであるから其神を持つて來たのではあるまいか。日本の姓氏録を見ますと何氏々々の末孫と書いてありますが、支那では其の時分では氏族の勢力が衰へまして、漢の高祖のやうに平民から天子になつた人もありますから大分衰へて居るのでありますが、日本では非常に氏を尊んで居りましたので、何か氏かばねのある者でないと、外國から來た者は穢多同樣の賤民にされたのでありますから、外國から來た連中は私は誰某の末孫であるといふ迂散臭い系圖か何かを拵へて、私は漢の高祖、秦の始皇の末孫であつて一技一藝ありといふので、日本で氏姓をもらつて相當の待遇を受けた。殊に秦氏の家などは蠶を飼つて織物をすることが上手であつたので、それが家の職業となつて大變に優遇されましたが、齊の地方は禹貢などからして蠶織のことが出て居ります。さういふので皆何か其の時一藝一能あつて、そして何か怪しい系圖でも持つて來ると日本で立派な氏姓に取立てられた。それで果して秦の始皇の末孫かどうか分らぬけれども、兎に角さう稱して氏神の兵主といふものを持つて來た者が、それが日本に住つてさうして兵主神社といふものが其處らぢうに擴まるやうになつたのではあるまいか。それで兵主といふものは強ち丸で武の方に關係がないといふことは言へませぬ。それは射楯の兵主神社、射楯の神社といふものがありますが、日本の射楯の神社といふのは多くは素盞嗚五十猛いそたけるの神と考へられた。是は武の神の猛烈なる神さんで、それが射楯神社となつたと考へられて居つた。其の素盞嗚尊と支那の秦氏との關係は喜田博士に頼む方が宜いので、私がそこまでやると領分を侵害することになるから止めて置きます。兎に角兵主神社といふものは八千矛の神だから兵主といつたのでなくして、之に限つて何とか難かしい古い日本語の名を呼ばずに、延喜式の時代から音で兵主ひやうず神社と呼んで居ります。であるから支那から持つて來たので音で呼んで居るのでないかと考へられる。それで是も外國から來た神の中に加へたいと思ふ。
 此の二つは外國から來た神樣のことでありますが、もう一つ近畿地方に多數ある神樣で、日本の大變偉い神樣に關係のあることでありまして、今まで餘り人が問題にして居りませぬですから、私には判斷をすることは難しいのでありますが、唯さういふ問題を一つ提供して見たいと思ひます。
 日本で一番崇高の神樣と申しますと天照大神であります。是は延喜式には單に伊勢國度會郡の處に大神宮としてあつて天照とも何とも書いてありませぬ。ところで「天照」といふ二字を冠つた神社が割合に近畿地方に多數ある。それが大神宮と果して關係のあるものか無いものかといふことを、人が是まで考へたことがあるかどうかといふことが第一疑問であります。山城の國から申しますと、つい近い處に木島坐天照御魂神社即ち木島明神といふのがある。此の神樣はなか/\粹な神樣でありまして、日本に遊仙窟と稱する、今日出版したら風俗壞亂で禁止されるやうな支那から早く渡りました有名な本がありますが、嵯峨天皇の時かに其の本が來たが、どう訓點を付けて宜いか讀めなかつた時に、此の木島明神が老人になつて顯はれて其の讀方を伊時といふ學士に教へた。それで遊仙窟の訓點が出來たのだといふ傳説がある位でありまして、なか/\隅に置けない神樣であります。それから大和國には類似の神が二つもあります。城上郡に他田坐天照御魂神社といふのがあります。それから城下郡に鏡作坐天照御魂神社といふのがある。それから河内國の今は何處になりますか昔の高安郡に天照大神高座神社と稱するものがあります。それから攝津の國の島下郡に新屋坐天照御魂神社、それから丹波の國天田郡に天照玉命神社といふものがあります。それから播磨國の揖保郡に揖保坐天照神社、斯ういふのがあります。大體是だけであります。まだ併し類似のが他所にも天照神社といふのがありますが、まあ是だけで話して見ようと思ひます。是は一體どういふ神樣を祀つて居るかといふことは分らないのでありまして、一方を片付けようとすると一方に差支が出來る。それが又天照大神と全く關係があるのか無いのか餘程分り惡い神樣であります。皆是が能く分ると色々又古代史の説明に多少何か理窟が付けられるかも知れぬと思ふのでありますが、私にはそこまで到りかねます。たゞさういふものに注意することが出來ることだけを申して置きたいと思ひます。栗田博士の神祇志料、神祇志を書く前に之を書かれて、其の上で研究されて神祇志を書かれたのでありますが、栗田博士は之を割合に簡便に片付けて居ります。それは此の中で河内の高安郡の天照大神高座神社だけは天照大神高御産巣日命を祭るとしてありますが、其の外は皆天火明命を祀つて居るのだと片付けてしまつた。舊事本記に據りますと火明命の名は天照國照天火明命とあるので、總て之で片付けてしまつた。そして總て此の近畿地方に昔榮えて居つた氏の中の最も大きな氏は尾張氏であります。尾張國には天照御魂神社といふものはありませぬけれども眞墨田神社といふものは矢張り天火明命を祀つたのである。近畿地方の此の神社は皆尾張氏或は尾張氏と同じ系統の家の祖神であると決めてしまひました。栗田博士には色々發明の説があります。たとへば舊事記に尾張氏と物部氏の元祖の系圖のことが出て居りまして、古代のことを研究するに有益なものでありますが、それが色々混雜して居るといふことを栗田博士は考へられて、尾張氏と物部氏の系圖を引分けました。それが良いか惡いか疑問でありますが、巧く本の中で分けた。尾張氏といふのは天火明命の末孫、物部氏は饒速日命の末孫とした。舊事記の方はそれが一つになつてしまつて、尾張氏も物部氏も同じ神から出たことになつて居るのを、栗田さんは巧く分けて、天火明命の末孫は尾張氏、饒速日命の末孫は物部氏と分けた、非常な手際であります。上古史は手際さへよくやれば大抵の事は片付く、手際よくやつた者は大抵勝つに決つて居る。そこで此天照御魂も手際よくやらうと思ふのでありますが、私の學問では出來ませぬ。餘り手際よく行きますと却つてそこらぢう差合が出來ます。それで片つ端から一とわたり當つて見ますと、木島明神、是は何も大したことはありませぬ。是は從來の説では唯天日神命で高産靈の子であるといふことになつて居ります。栗田さんは天照御魂といふものを、全體今の天火明命と決めようといふことで此の説を採らずに火明命と決めたらしいのであります。併し又土地の傳説に依りますと矢張り是は天照大神を祀つたのだというて居る人もあるやうであります。それから其の次の大和の城上郡の他田坐天照御魂神、是は伴信友は志貴連の祖神天照饒速日命だとして居ります。其の次の鏡作坐天照御魂神社といふのが昔からの説では天火明命だといふ説があります。そして又饒速日命の末孫が鏡作氏になつて居るので、そこは栗田さんの説と違つて來まして、鏡作といふものが饒速日の末孫であるとすれば、それは栗田さんのやうに尾張氏と物部氏とをはつきり分けた説が少し怪しくなつて來ます。兎に角鏡作が之を祀つて居つたことがあるといふことになつて居ります。攝津國島下郡の新屋坐天照御魂神社は栗田さんの説では天火明命に決めてしまつた。けれども是は三座に神樣がなつて居りまして、其の中の一座だけは土地の昔からの傳へでは天照大神としてあります。是は其の土地の傳説では神功皇后が三韓征伐で歸られた時に天照大神の御靈を祀つたのだといふ説になつて居りまして、詰りはつきり分らないのであります。それから丹波の天田郡にありますのは是は栗田さんの説が餘程たしかな所がありますので、元來丹波の國造といふものは尾張氏と同じ家から出て、皆天火明命の末孫だといふことになつて居ります。尤も丹波氏といふものは二通りありまして、外國から來た丹波氏といふものは後漢の靈帝の末孫と言はれて居るのでありますけれども、是は丹波の國造の所にあるのでありますから、之を外國へ持つて行くやうな心配はないと思ひます。兎に角是だけは天火明命といふのが餘程根據のあることになるのであります。播磨の國の揖保になりますと最も厄介なのであります。揖保坐天照御魂社といふのは其の土地では伊勢の宮と稱して居りまして、又伊勢村といふ所にある。伊勢の大神宮に關係があるのぢやないかといふことを考へますと、又一方にそれと反對のことも出て來る。それは三代實録に據りますと、此處に伊福部氏が居つた。揖保郡人伊福某と出て居ります。伊福部は又之を五百木部とも書きます。此の伊福部といふのは火明命の末孫である。其處の氏人が其の火明命を祀つたといつて宜しい。又現に地名などを見ますと伊勢村といふ所にあつて、伊勢の宮に關係があると考へることも出來る。兎に角斯ういふ大變煩はしいものが畿内並に其の附近地方の周圍に幾つかありまして、大和の國には二つありますが、主な國々に一つ位殆ど天照といふ字を冠つた神社があります。一方から云ふとそれが伊勢の皇太神宮に關係があるやうにもあり、一方から云ふと關係がなくて火明命に關係があるやうにもある。丹波の國のなんぞは是は天照大神を方々の國を擔いで歩いた時に、倭姫命などが其處へ持つて來たので其處に天照大神があるのだといふ風のことを言つて居る。兎に角近畿地方にある天照といふ字を冠つた神社といふものはさういふやうな疑問の下に置かれて居りまして、果してそれが伊勢の皇太神宮に關係があるか尾張氏の先祖の天火明命を祀つたものであるか判斷がつかぬ。此の研究をしますと詰り尾張氏並に物部氏といふものが神武天皇が大和の國に入られる前に此の地方で非常に盛であつた氏でありますから、其の氏の確かな研究が少し出來かゝつて來たら、其の氏といふものゝ當時のことが餘程分ると思ふ。それから又皇太神宮との關係ももう少しはつきりしたならば、此の土地へ神武天皇が入つて來られてから今の皇室が大きく發展して、そして此の地方を完全に統御するまでの其の來歴が各神社の状態に依つて分るのであらうと思ひます。それで大に研究すべきものだと思ひますが、私は無論それ等の材料を有ちませぬし、是から國史をやつて材料を集めて研究しようといふ程の考もありませぬ。唯之を研究しないといふと近頃のやうに唯神樣を拜めといふことを無暗に言つても實際此の土地が皇太神宮の威徳に服するまでの由來が分らないと思ふ。さういふことを少し國學をやる人、神職などの人が研究して見たら宜からうと思ふので、此の問題を茲に提供したのであります。是は私は必ずしも今日結論を有つて居りませぬから、たゞ問題を提供するまでに止めます。斯ういふやうな色々な疑問は神祇志、又は神祇志料、其他の本を讀んだりなんぞした時に、まだ/\澤山有つたことがありますので、其の中に近畿に關係あるものゝ又一部分を茲に御話して見たゞけのことであります。
(大正八年八月史學地理學同攻會講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:史學地理學同攻會講演
   1919(大正8)年8月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年9月26日公開
2016年4月20日修正
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