弘法大師の文藝

内藤湖南




 弘法大師の事に就きましては、年々こちらで講演がありまして、殊に今日見えて居ります谷本博士の講演は、私も拜聽も致し、又其の後小册子として印刷せられましたものも拜見いたしました。それで先づ弘法大師に關する總論と申しますか、兎に角弘法大師に關する全般の觀察に就きましては、殆ど谷本博士の講演に盡きて居りますので、其の外に別に新らしい事を見付け出し得ようと云ふことはありませぬ。其の後矢張り同僚の一人松本博士などからも、何か密教に關する講演がありましたさうです。それは私共一體分りませぬことでありますから、是はどうせ讀んでも分らぬと思つて、餘り拜見も致しませぬ。それから又是はこちらで講演をせられたものではないのでありますけれども、印刷物として配布せられたのに、幸田露伴博士の何か小册子がありましたやうで、是も弘法大師の文學上に關係したもので、是も一通りは拜見いたしました。何れも皆結構なもので、何も其外に私が今日新らしく申上げようと云ふことはありませぬ次第でございます。
 所で何の研究でもさうでありますが、初めに總論のやうなものが出來ますと、それからあとの研究は段々、自然細かい所へ入り過ぎて仕舞ふ。其の細かい研究と云ふものは、研究者本人に取つては隨分相當に面白いことがあると思ひましても、一般の人が聽きますと、何か研究者自身が一人だけ分つたことを言つて居るやうになりまして、餘り興味が多くないと云ふやうなことになる傾きがあります。それで弘法大師の文學上の事に就きましても、既に大體の總論に於きましては、谷本博士の講演があり、又幸田博士の文學上に對する意見も發表せられて居りますから、其のあとで私が何か申さうとすると、自然どうしても一部分の細かい事にはいり過ぎるやうな傾きになるのは免がれませぬ。勿論初めから其の覺悟で何か細かい一部分の事を申上げて、それで御免を蒙らうと云ふ覺悟でありますので、今日御話を致しますのも、弘法大師の文藝とは申しましても、極く其の中の一部分、詰り大師の著はされた書籍に就いて、それの批評と申しますやうな事を申上げるに過ぎませぬ。勿論それ等の事も既に谷本、幸田兩博士の研究に於て、重もなる點は發表されて居りますので、私が申上げるのは段々枝葉に亙ると云ふことは免がれませぬ。どうぞ其の御積りで御聽きを願ひます。餘程是は聽かれる方々に取つては御迷惑なことであらうと思ひますけれども、兎に角弘法大師の盡力されたことを此處で細かに申上げる次第でありますから、私に對する御勤めでなく、宗祖弘法大師に對して御勤め下さる御心で暫く御清聽を願ひます。
 それで弘法大師が著はされた書籍の中の一二のものに就いて批評を致して見ますと、弘法大師でも文藝上の著述が澤山ある次第ではございませぬ。是は谷本博士の講演の中にも、隨分いろ/\御骨折りになつて研究せられたものでありますが、其の一つは文鏡祕府論であります。此處に持つて來て居りますが、是は弘法大師のことに御注意になつて居る方は、どなたでも御承知でありますが、文鏡祕府論と云ふ本があります。此の本に就きましては谷本博士も大變に御骨折りになつて、研究せられて居りますので、一つはそれ等の事から私も刺激された傾きもあります。それから又私は元來此の本に對して存外多少の興味を有つて居る點もあります。それ等の點からして時々私は此の本を開いて見ることがあります。其の度に時々氣の附いたことをチヨイ/\と本の鼇頭あたまへ書入れを致して置いたり何かします。詰り今日どう云ふ事を申上げようかと困つた揚句、之を開いて見て、かねて調べ掛けたことがありますので、それから少しばかり端緒を得て調べたことを、今日申上げようと思ひます。所が是は話の面白くない割には存外話が込入つて居りまして、隨分御聽きにくからうと思ひますが、どうか暫く御辛抱を願ひます。
 此の文鏡祕府論と申しますのは、勿論弘法大師が當時の漢文を作り、詩を作ります者の爲に、其の規則を書きましたものであります。規則と申しましても、是も谷本博士の御講演の中にもありましたが、弘法大師が自分で御作りになつた規則ではありませぬ。其の當時支那に於て行はれて居ります詩文の法則となつて居るものを集めて、いろ/\取捨をされて書かれましたものであります。弘法大師が文鏡祕府論の序文を書きますに就いても、其の事を明かに御斷りになつて居ります。弘法大師が御若い時に、其の當時京都に大學寮といふものがありまして、此處で勉強されたといふことでありますが、其の時分に伯父さんか何かに當ります阿刀某と云ふ人、其の他大學の諸博士に就いて漢文を勉強された。又其の後入唐をして居られる時に、さういふ事を注意されたと云ふことを御斷りになつて居ります。其の際に詰りいろ/\其の當時行はれて居つた詩文の法則の本を御覽になつたものと見えます。其の結果それを集めて皆んなの爲になるやうに、俗人でも坊さんでも、兎に角詩文を作るものゝ便になるやうに、一つの本を作つたら宜からうといふ考が出られたものと見えました。所が色々なものが澤山出ると、いろ/\本に依つて相違があり、又同じ所があり、隨分面倒である。本は非常に澤山にあるけれども、其の中肝腎のことは大層少ない。それで自分の病氣として、さういふものを見ると、其の儘打捨てゝ置いて、其の通り書くといふ氣にはなれぬので、兎に角いらぬ所は省いて、宜い所だけを殘して置く、即ち添削をしたいといふ考になつて、それで段々重複して居る所は削つて、重もなる肝腎の所を殘して、文鏡祕府論といふものを作つたのであるといふことを言はれて居ります。是は支那から歸られてから幾年ぐらゐ經つて之を作られたかと云ふことははつきり分りませぬが、後に文鏡祕府論をもう一つ簡略にして、文筆眼心抄と云ふ本を書いて居られます。それは弘仁十何年かに之を書かれたといふことは分つて居りますから、文鏡祕府論は其の以前に出來て居つたと云ふことが分ります。
 先づ之を作られた由來は大體そんなものでありますが、之を作るに就いて弘法大師はどう云ふ書籍を重もに參考されたかと云ふことは、谷本博士が苦心をされた結果、其の種本とも謂はれるものを擧げて居られます。それは即ち大師の詩文集たる所の性靈集の中に王昌齡と申します人、盛唐の時分に有名な詩人で、絶句に巧みであつた人があります。其の人の著はした詩格と云ふ本があります。即ち詩の格式であります。それを土臺にして文鏡祕府論を書かれたらうと云ふ御考へであります。私も大變面白い御考へと思つて、それから段々調べて見ますと、勿論此の王昌齡の詩格と云ふものは、大師の文鏡祕府論の種本になつて居るやうでありますが、其の外にも隨分いろ/\な本を參考されて居るやうであります。所でそれはどう云ふ事を參考されたか、その本といふものはどう云ふ價値があるかと云ふことに就いて、少しばかり申して見たいと思ふのであります。
 それは矢張り大師は此の文鏡祕府論を書かれる時に、其の序文に於て既にどう云ふ本を參考したかと云ふことは、大方御斷りは言つて居られます。大師の祕府論の序文の中に斯う云ふことを言つて居られます。
『沈侯、劉善が後、王皎崔元が前、盛んに四聲を談じて爭うて病犯を吐く』
といふことがあります。唯だ斯う申しては分りませぬが、沈侯と云ふのは人名であります。南朝の齊の時からして梁の朝まで掛けての間に沈約と云ふ有名な學者がありました。此の人が支那で四聲と申しますものゝ發明者と言はれて居ります。四聲と申しますのは、詩を作る方はどなたでも御存じですが、平上去入と云うて、平聲と云ふのは平らかな聲、上聲と云ふのは上げる聲、去聲と云ふのは下げる聲、入聲と云ふのは呑む聲、斯う云ふ四つに聲を分けて、有らゆる文字を其の四つの聲に嵌めて、さうして研究することになつて居ります。それは南齊の時分、永明年間からして、此の沈約などが唱へ出して、盛んに行はれたので、之を用ひた詩を永明體と申して居りました。沈侯とはこの沈約のことであります。それから劉善とありますが、これは劉善經の經字を略したのでありませう。それは後に委しく申上げる場合になると分ります。此の人は傳記は分りませぬが、其の人の著述のことは分つて居ります。其の人から後、王皎崔元、是は四人のことを言ひます。王と云ふのは前に申しました詩格を作つた王昌齡であります。皎と云ふのは唐の時の坊さんで皎然と云ふ人であります。此の人の作つた詩式といふのが、今でも其の中の一部分、ちぎれちぎれとなつて殘つて居るものがあります。それから崔と申しますのは、是は崔融と云ふ人だらうと思ひます。此の人の著述には矢張り詩文の格法を書いたものがあります。元と云ふのは元兢と云ふ人であります。此人にも矢張り詩の法を書いたものがあります。是等は皆唐の人であります。それで沈侯、劉善からして以後、王皎崔元までの間に、いろ/\四聲の議論が盛んであつて、さうして爭うて病犯を吐くと書いてありますが、四聲といふものは詰り謂はゞ日本で申せば唄の調子のやうなものであります。唄を唄つても調子が間違ふと音樂に掛らない。それで音樂に掛るやうにする爲に、いろ/\調子に就いて議論があります。詩といふものは昔は歌つたものでありますから、之を歌へるやうにする爲に、此處を斯う云ふやうにしては歌へなくなるとか、此處は上げるとか下げるとかしないと、詩は歌へないと云ふ規則があります。其の規則をやかましく言つて、此處で斯う云ふやうにしてはいかぬとか、春雨の替歌なら春雨の替歌で、斯う云ふ調子にしなければならぬと云うて、規則を説いたものがあります。さう云ふ本があるので、それからして採つたと云ふことを茲に御斷りになつて居る。それでは今申しただけかと申しますと、まだ外にもありますけれども、兎に角此の六人の本を大師は參考にせられたと云ふことは明かに分つて居ります。
 所で其の大師が參考せられたと云ふことに就いてどう云ふ價値があるかと云ふことであります。是は面白いことには大師が參考せられた本の多くは、今日傳はつて居りませぬ。大抵は皆絶滅して、無くなつて居る。それで大師が之を參考して文鏡祕府論に採つてあるが爲に、其の人等の本の一部分と云ふものは、幸ひにして傳はることを得て居るのであります。詰り斯う云ふ人等の本、即ち今日無い本を、大師の文鏡祕府論で今日見ることを得ると云ふことになつて居ります。併しそれは今日どう云ふ所に價値があるかと云ふことを申して見ますと、今申しました詩の法、詩の調子、絶句なら絶句、律なら律、古詩なら古詩と云ふものは、是はどう云ふ風に作るべき法則のものか、それからしてどう云ふ所を間違ふと、是は詩の規則に嵌らぬものかと云ふことは、是は面白いことであります。それで今日に於て、唐の時並に唐以前の詩の法則を見ると云ふことになると、此の文鏡祕府論より外に、今では良い本が無いと云ふことになつて居ります。詰り詩と云ふものゝ沿革などを考へて見る、日本でも歌の沿革を考へて見る。今日でもいろ/\古い歌を詠む人もあり、新體の歌を詠む人もありますが、日本の歌が今日に至つた沿革を考へて見ると、萬葉集なら萬葉集の時代から、古今集とか、其の他三代集から段々今日に至つた由來を知る必要が出て來る。支那でも其の通りであつて、詩と云ふものが其の後も盛に行はれて居るが、唐の時の詩はどう云ふやうに出來て居つたか、唐の時の詩はどう云ふ規則で作つたのであるか、其の時の音律に合ふやうに出來て居つたのであるかと云ふことを、今日から之を知りますには、どうしても其の當時の人の詩の規則を書いたものを知らなければいけませぬ。所がそれは支那では傳はつて居りませぬ。支那で現在傳はつて居る本と云ふと、宋の時に矢張り坊さんでありまして、冷齋夜話、是は能く人が知つて居る本でありますが、其の本を書いた坊さんがあります。それは洪覺範と云ふ坊さんで、其の人の書きました天廚禁臠と云ふ本がある。是も餘り人の見ない本でありますが、それに宋の時の詩の法則が書いてあります。所がそれはどれだけの役に立つかと云ふと、一方詩と云ふものは、宋の時には既に音樂に掛りませぬのです。唐の時までは音樂に掛つて、歌ふことが出來た詩が、宋の時には既に音樂に掛らぬやうになつて居る。それで其の時にありました法則と云ふものは、是は音樂に掛るだけの價値のある法則ではありませぬ。それ以前の法則と云ふものは、支那には一つも殘つて居らぬ。支那は詩の本國でありますが、唐以前並に唐の時の詩の法則を書いたものは一つも殘つて居りませぬ。所が文鏡祕府論がある爲に、それが分るのであります。
 文鏡祕府論に引いてある本は、上は梁の沈約の本から、下は唐の時の本まで引いてある。それで又それ等の本を調べるに就いては、私共の專門の學問をする者は、いろ/\調べる道具があります。それは妙なものでありまして、大師がさう云ふ風に珍重して用ひられた本は、其の當時にはそれではどれだけにそれが用ひられて居つたかと云ふことを知らなければなりませぬ。大師が用ひられた本が、其の當時餘り行はれて居ないものであつたならば、今日殘つて居つても大切なものではありませぬが、大師の使つたものが其の當時にあつても重んぜられた本であつたとすれば、大師の文鏡祕府論と云ふものは、今日に於て非常な價値を有つて居るものと謂はねばなりませぬ。さう云ふ原本の價値を調べると云ふことになると、私共のやうな專門のことを致します者には、いろ/\調べ方があります。それは大體どう云ふものがあるかと云ふことは、今日でも分ります。それで實は斯う云ふ事を知らぬと云ふと、折角文鏡祕府論と云ふものゝ珍本だと云ふことは知つても、存外本當の價値を發揮し得ずに仕舞ふことがあります。それは既にさう云ふ例が實際あるのであります。此の文鏡祕府論と云ふものは珍本であつて、唐の時の詩文の法則を書いたものであると云ふことを注意したのは、勿論日本でも注意して居る人が無いではありませぬけれども、是は支那人が矢張り注意いたして居る。支那人で明治十三四年の頃からして明治十七八年頃まで東京の支那の公使館に來て居つた男で、楊守敬と云ふ人があります。此の人は今でも支那に居ります。先頃支那に騷亂のあつた時、武昌に居つたのが、今は避難して上海に居ると云ふことでありますが、今は七十幾歳かの老人であります。其の人が注意を致して、自分で著はした日本訪書志と云ふものに書いてあります。谷本博士も其の事を仰つしやつて居られますが、兎に角注意して居ることは事實でありますが、楊守敬も其の當時綿密に讀んだかどうか分りませぬが、兎に角珍本であつて、是は唐の時の詩の法則を知るには、大變貴重なものであると云ふことを知つて居るに拘はらず、其の法則と云ふものは、細々しいことばかりを書いてあつて、重大なことではないと云ふことを言つて居る。兎に角極めて細かな規則を規定してあつて、さうして何處にどう云ふ字を餘り入れてはいけないとか、どう云ふ字を入れゝば宜いとか云ふことを言つてありますが、管々しい細かいことには相違ないが、之を詰らぬことゝは言はれない。唐の時には現に詩の規則と云ふものは、さう云ふやうにありまして、其の規則にあるものは採られる。規則にないことは採られぬ。採る採らぬと唯だ申しては分りませぬが、詰り唐の時には詩でもつて文官試驗を致しました。即ち試驗の重もなる科目の中に詩があつたのであります。それで文官試驗に應ずる爲には、細かしい詩の規則を知らなければならぬ。一字の置き處が間違つても、一字の聲が間違つても、詩は落第を致します。それで當時の人は其の細かしい規則を記憶しなければならぬ。隨分厄介なことで、是は日本でも其の儘採り用ひました。日本でも大學の文章博士と云ふものになる爲には、矢張り支那と同樣に詩の試驗をして、一字でも聲が間違ふと試驗は落第を致します。それで其の時代には一字でも半句でも詰りさう云ふ規則と云ふものが非常に大切なものであつた。併しそれを皆研究して居つた。細かしい規則でありますけれども、それを知らぬと云ふと、當時の試驗の模樣も分らず、又當時の詩の作り方も分らぬのであります。詰りそれ程其の當時に於ては貴重なものであつた。それで管々しいことだからと云うて、又今日から見て餘り役に立たぬからと云うて、其の當時それ程に重んじて、一國の秀才を試驗をするのに用ひた規則を、唯だ詰らないものと一と口に言つて仕舞ふべきものではなからうと思ふ。楊守敬などは今日の支那に生れて、詰り當時の試驗と云ふものは、どう云ふものであつて、どれだけ規則が重きを爲したかと云ふことを十分に知りませぬから、それで唯だこんな管々しいことを澤山書いてあると云ふやうに言つて居りますけれども、詰り其の時勢から申しますと、さう云ふ規則と云ふものが、既にそれだけ大切なものである。
 所で其の規則に關係した種々の書籍の中に於て、大師が茲に採用された本は、それではどれだけの價値があるかと云ふことになります。さう云ふ事になりますと、是は又當時のいろ/\の書籍を調べることに就いて溯らなければならぬ。それには又道具があるのであります。支那では代々歴史を編纂します。支那は革命の國でありまして、天子の血統が時々變りますから、天子の血統が變りますと、前の代の歴史を編纂します。其の編纂する時には、大抵昔から前の代まで保存されて居つた書籍の目録を作ることになつて居ります。是は面白いことであります。それで唐の時代には其の前の隋の代の歴史を作つて居る。其の時に隋書の中に昔から隋の時まで行はれて居つた本の目録があります。それは隋書の經籍志と申します。經籍を記録したと云ふ意味でありますが、それには上古から隋代まで行はれて居つて、隋代まで保存されてあつた書籍の目録が附いて居る。それで詰り隋の時まで保存された本の目録と云ふものは、大抵一通り分ります。勿論それは遺漏が無いことはありませぬ。それからして其の次の唐の代に實際行はれて居つた書籍の目録と云ふものは、唐が亡びてから作つた唐書と云ふ歴史に載つて居る。是は二通りありまして、新唐書、舊唐書と申しますが、舊唐書と云ふものには矢張り隋書と同樣に經籍志と云ふものがあります。新唐書には、藝文志となつて居ります。詰り上古からして唐の代まで殘つて居つた本の目録と云ふものは、經籍志なり藝文志なりに載つて居ります。其の目録に載つて居る本は、詰り相當に勢力のあつた本と云ふことが明かに分ります。それで古い學問をする人、殊に古代の書籍のことを調べる學問をする人は、隋書の經籍志、舊唐書の經籍志、及び新唐書の藝文志などと云ふものを大切なものと致して、此の三つの目録に依つて、古い書籍を調べる例になつて居ります。それで詰り大師が茲に採用された書籍に於きましても、此の三つの目録で、其の當時行はれて居つたか、行はれなかつたかと云ふことを檢査するのが、古いものを調べる一つの法則になつて居ります。
 所がもう一つ斯う云ふ事があります。唐の代などゝ申しますと、二三百年繼續して居りまして、唐の代の歴史を作るのは、唐の代が亡んで仕舞つて、次の代に作るのである。それで唐の代には相當に盛んに行はれた書籍であつても、唐書と云ふ歴史を作る時は、どう云ふ譯か書籍が無くなつたものが隨分尠からぬものである。さう云ふやうに唐の代にあつた本でも、唐書の中に載つて居らぬ本の研究をするのには、又どうかしてしなければならぬことになつて居る。それで支那でもいろ/\方法がありますが、日本ではさう云ふ事を調べるに都合の好い本があります。是は日本の本でありますが、支那人などに非常に大切にされるものであります。それは『日本國現在書目』と云ふ本であります。今日の現在書目ではありませぬ。是は平安朝の時に儒者の家柄でありました、南家の儒者の藤原佐世と云ふ人が作つたものであります。是はどう云ふ譯で作つたかと云ふと、日本では支那から段々澤山の書籍を輸入して、之を研究して居つた。日本では其の當時から非常に支那の學問が盛んでありました。所が嵯峨に冷然院と云ふものがあつた。冷然院とは今は『冷泉院』と書くが、昔は『冷然院』と書いて居つた。其處に澤山な書物があつたが、それが燒けた。現に此の現在書目には冷然院と書いたものを使つて居ります。所が冷然院が火災に罹つたのは、此の『然』と云ふ字は、下に四つ點が打つてあります。是は烈火と云うて火と云ふ字である。冷然院は下に火が附いて居るので燒けたと云ふので、それから後は冷泉院と改めたと云ふことであります。兎に角冷然院には澤山の本があつたが、平安朝の初めに火災に遭ひまして、大分本が燒けました。其の後に又段々本をいろ/\集めて、其の時に『日本國現在書目』といふ支那の書籍目録を作つたのが即ち是れであります。是は即ち唐の末頃の時に出來ましたのでありますから、唐の末頃までに日本國に傳はつた書籍で、其の時に日本に現在あつた書籍は、是に載つて居るから分ります。それで支那人も此の日本國現在書目を、隋書の經籍志とか、新唐書の藝文志とか、或は舊唐書の經籍志とかに對照致しまして、其の中に拔けて居るものが、此の日本國現在書目に載つて居ります。即ち新唐書なり舊唐書なりを作る時に、既に無くなつて仕舞つた本が是れに載つて居ります。幸に日本には此の書目があるので、唐代の當時どう云ふ本があつたか、弘法大師などが世の中に存生せられた時にはどう云ふ本が實際行はれて居つたかと云ふことを知るには、日本國現在書目を見れば分るのであつて、是は今日大變大切な本であります。
 所で元へ戻つて弘法大師が文鏡祕府論を作られるに就いて採用された本は、それ等の目録に載つて居るかどうか、それが載つて居れば、是は少しも疑ひのない立派な本だと云ふことは明かなわけで、斯う云ふ事は極めて現金なものであります。總て皆載つて居る。それで一番最初に申しました四聲のことを發明した沈約の四聲に關する本といふものは、それは元と一卷ありまして、それが即ち隋書經籍志に載つて居る。又沈約と云ふ名は出て居りませぬが、是は日本國現在書目にも勿論載つて居る。それから其の次に申しました劉善經と云ふ人の四聲指歸と云ふ本であります。四聲指歸と云ふ本は、是は隋書經籍志にも載つて居れば、日本國現在書目にも載つて居ります。さうして殊に大師は此の本は餘程丁寧に見られもし、又御好きでもあつたものと見えまして、文鏡祕府論の卷一の終りに、四聲論と云ふことが載つて居ります。是は紙數が六七枚ありますが、それは殆ど劉善經の四聲指歸から全部拔書きをされたと思はれるほど、悉く茲に其の文を引いてある。是は四聲指歸だと云ふことは御斷りも何もありませぬが、四聲論の中に『經案ずるに』と書いてある。劉善經の一番下の經の字であつて、是は劉善經の著述から採つたと云ふことは明かに分ります。大師は劉善經の本は御好きであり、又必要な本であると云ふことを知つて居られたと見えて、澤山拔書きをされて居ります。それで四聲指歸と云ふ本は、今日は天にも地にも殘つて居りませぬ。幸ひに大師が此處に六枚なり七枚なりを其の儘採つて居られたから、此の四聲指歸に依つて六朝時代の四聲に關する議論の大體を知ることが出來るのであります。兎に角一番最初に四聲を發明して、それが詩の規則になると云ふ時までには、いろ/\の議論がありました。沈約はそれが必要として論ずる。又それはいかぬと云うて反駁する人も當時にあつた。當時支那は南朝と北朝と分れて居つて、沈約は南朝の人である。所が北朝の方にも相當の學者があつて、反對をしたものがある。甄思伯などゝ云ふ人は、當時有名なもので、反對をして居る。又當時沈約と同じやうな考をもつて、四聲の議論をした人が幾人もある。それ等の書籍と云ふものは、一部分ではありますけれども、皆劉善經の四聲指歸の中に當時皆引いてあつたと見えまして、それを大師が文鏡祕府論の第一卷の終りに引いて置かれた爲めに、其の當時の四聲の議論を明かに見ることが出來るやうになつて居ります。是等は大師が幸ひ之を採用して置かれたから、六朝時代、今から見ると千二三百年前の音の議論を、今日からして當時は斯う云ふものであつたと云ふことを明かに見ることが出來る次第であります。是等は大師の文鏡祕府論と云ふものがあるおかげでもつて、我々今日斯う云ふことの研究が出來るのであります。又王昌齡の詩格と云ふのは、是は前に谷本博士も御考證になりました通り、是は大師が性靈集の中に、この詩格に關する本が當時いろ/\あるけれども、近頃では此の王昌齡の詩格が大變流行るといふので、天子に其事を上表されて居るやうな譯で、其の當時大變流行つて居つたと云ふことが分ります。併し是等でも卷數などには相違がありまして、是は新唐書の藝文志の方では二卷として居りますが、性靈集には一卷としてある。又日本に傳はつて居る唐の才子傳と云ふものには一卷としてある。是は一卷と云ひ二卷と云ふのは、どうでも宜からうと思ひますが、古い本に一卷と書いてあると、實際それが後になつて二卷と書いて居つても、前の本は一卷であつたと云ふことが分りますので、斯う云ふ事から目録を大切に致します。斯の如き相違がありますが、是は新唐書の藝文志にも載つて居り、又唐の才子傳と云ふ本にも載つて居ります。それで王昌齡の詩格と云ふものは、大師が當時賞讚されたのみならず、其の當時一般の人にも賞讚せられて居つたものであると云ふことが分ります。此の王昌齡の詩格と云ふものは、此の文鏡祕府論の中にも段々『王が曰く』と云ふことが書いてあります。此の祕府論の外には王昌齡の詩格と云ふものは何處にも引いてありませぬ。全く大師の文鏡祕府論に依つて、此の本はどう云ふものであつたと云ふことを想像するより外ありませぬ。
 其の次には皎然、此の人の著述は新唐書の藝文志には詩式が五卷、それから詩評が三卷あるとしてありますが、今日では矢張り是も殆ど大部分は皆無くなつて居ります。今日でも此の皎然の詩式と云ふものは、僅かに一部分殘つて居りますけれども、是は乾隆年間に出來た四庫全書總目提要の解題に依つて見ても、今日の詩式は其の當時の詩式の儘でないと云ふことが明かであつて、極めて殘缺した小部分の本であると云ふことが分るのみならず、今日殘つて居る皎然の詩式には、大師が申します當時の詩の作法、即ちどう云ふ聲はどう云ふ所に用ひてはならぬと云ふやうな細かいことは一つも殘つて居らずして、大體の批評のやうなことばかり殘つて居る。それで皎然が書いた詩の作法は、矢張り文鏡祕府論の中に殘つて居る。それは皎然が詩議と云ふものやら、又いろ/\の批判をしたことを、大師は此の文鏡祕府論に引かれて居りますから、それで皎然の詩式の大要は、今日でも幾らか分るやうになつて居ります。
 其の次に申しますのは崔融と云ふ人の本でありますが、果して崔融かどうかと云ふことも實は明かには分りませぬ。併し大師の文鏡祕府論の中を繰つて見ると、其の中に崔融と云ふ人だらうと思ふことがあります。此人には唐朝新定詩體と云ふ著述があります。即ち唐の時に文官試驗をするのに、どう云ふ體でもつて詩を作らなければならぬと云ふ規則を著述したものであります。或は之を新定詩格とも書いて居ります。大師は矢張り文鏡祕府論の中に崔氏の唐朝新定詩體と云ふものを引いて居られます。さうして其の名目は隋書の經籍志にも、新唐書の藝文志にも、舊唐書の經籍志にも無いのが、日本國現在書目の中に殘つて居ります。併し唯だ本の名目があるだけで、崔融が作つたと云ふことは殘つて居りませぬ。大師の文鏡祕府論の中に崔氏とも書いてあるが、或る所には崔融とも書いてあるので、始めて是れが崔融の著述だと云ふことが分るのであります。詰り崔融が當時の詩の格式を著述したのでありますが、若し大師の文鏡祕府論が無かつたならば、其の人の名が分らぬ。よしんば現在書目で書名が分つても、誰れが作つたのか分らぬのであります。此の文鏡祕府論が今日殘つて居るが爲に、其の人の著述も分り、其の内容も分ることになつて居ります。
 其の次は元兢と云ふ人で、此人には、詩髓腦と云ふ著述が一卷あります。此の本も新唐書の目録にも、舊唐書の目録にもありませぬ。日本國現在書目だけに殘つて居る。是も矢張り元兢と云ふ人が作つたと云ふことは、明かに分らぬのでありますが、幸ひ文鏡祕府論の中に『右は元氏の髓腦に見えたり』と云ふことが書いてあるので、元兢と云ふ人の詩髓腦を書いたと云ふことが分つたり、又内容が分るのであります。
 つまり是等の本は皆其の當時大層必要な本として行はれて居つたのでありますが、若し文鏡祕府論がなかつたならば、悉く是等の本は絶滅して、今日は其の人の名も分らず、其の本の名も分らなくなつたのでありませう。然るに大師が文鏡祕府論の中に合せて一つに纏めて、是は誰某の議論、是は誰某の議論と云ふことを書いて置かれたので、是等の書籍の名も分り、著述者の名も分り、もう一つは唐の時代の詩の格式は如何なるものであつたかと云ふことも分るのであります。文官試驗としても大切な規則があり、又當時詩と云ふものは音樂に掛けても歌はれると云ふのは、どう云ふ法則で歌はれるかと云ふことは、今日大師の文鏡祕府論があつて、始めて分るのであります。支那人でも之を今日手掛りにするのであります。即ち其の手掛りは弘法大師の文鏡祕府論に依る外何の手掛りもありませぬ。此の點は文鏡祕府論の重大な價値のある點でありまして、千二三百年前の、重くるしく云へば詩の作り方、碎けて云へば其の當時之を俗歌俗謠と同樣、歌に唄つた音樂の仕方と云ふことが、文鏡祕府論で分るのであります。祕府論は僅に六册の本でありますが、非常に大切な本であると云ふことは、是れで御分りにならうと思ひます。
 勿論是は弘法大師が自ら序文の中に自分で御斷りになつたに就いて申しましたゞけで、其の外にも大師が引用された本があります。それは矢張り現在書目に出て居ります所の文筆式と云ふものであります。文筆式を文鏡祕府論の中に引いて居るのであります。
 それからして又茲に斯う云ふことがあります。是は今日でも殘つて居る本でありますが、今日殘つて居る本に就いてさへも、大師の本が大變に大切な役目をすると云ふ證據をもう一つ申します。唐の初めに殷※(「王+番」、第4水準2-81-1)と云ふ人がありまして、其の人の著述に昔から其の當時までの詩を集めた河嶽英靈集と云ふ本があります。是は今日でも殘つて居りますけれども、其の河嶽英靈集の序文を大師が文鏡祕府論の四卷目に引用されて居る。所が今日殘つて居る序文と少しばかり違つて居つて、大師の引用されて居る方が文字が百何字か多いのであります。即ち今日殘つて居るのは、文鏡祕府論に引いた時よりは百幾字か失つて居るのであります。それで今日殘つて居る本でありましても、それはいかぬ本で、大師の見られたものは其の當時の元の儘の本であると云ふことが分ります。それから大師が此の序文を引いて居るのには、詩の數が二百七十五首あるとしてあります。所が現在傳はつて居る河嶽英靈集には、二百七十五を二百三十五と改めてある。それで其の數を當つたものがあります。當つて見ると二百二十八首しかなかつたと云ふ。さうして見ると大師が見られた本は二百七十五首と云ふ元の儘であるにも拘はらず、今日は其の中の五十首ばかりは失つて居ると云ふことが分ります。兎に角今日の河嶽英靈集は殘缺した本で、元の儘の本ではないと云ふことが分ります。是は唯だ一の篇序文を文鏡祕府論の中に引いて置かれた爲に、さう云ふ事が分ります。
 それからもう一つ斯う云ふ事があります。是は矢張り今日では本もまるで無くなつて居るのでありますが、前に申しました元兢と云ふ人に、詩髓腦の外に大切なものがあります。それは古今詩人秀句と云ふので、昔から當時までの人の旨い句を拔き出したものであります。それは新唐書の中に、元兢と云ふ人の古今詩人秀句と云ふものが二卷あると云ふことが載つて居ります。日本國現在書目にも其の書名は載つて居るが、今日は傳はつて居らぬ。處が大師の文鏡祕府論の中に、古今詩人秀句の序文だらうと云ふ非常に長いものが載つて居ります。それは上古から唐の初めまでの詩と云ふものを、一々批評した長いものが書いてある。それが此の文鏡祕府論の中に載つて居る。それで古今詩人秀句を作つた由來が分り、其の當時の議論が分るやうになつて居る。兎に角一篇の序文であるが、是等は大切なものであります。さう云ふものが悉く文鏡祕府論に依つて今日保存されるやうになつて居ります。
 それから詩の病のこと、即ち詩の作り方の病と申します。作り方の越度です。越度の箇條を段々擧げて居る。それに就いては他の本は八つの病を擧げて居るが、大師は二十九種の病を擧げて居られると云ふことは、谷本博士の講演の中にも其の事が研究されて居りますが、大師は詩の法に關する有らゆる本を見られたから、通常世の中では八病と稱へて居つたものを、二十一種も詩の法則を見出して、それを殘して置かれたと云ふことが分るのであります。是等は谷本博士も既に十分に講究して居られます。
 それから文鏡祕府論の一番終りに行つて、妙なことが書いてあります。それは帝徳録と云ふものであります。是は勿論文章の法則でもありませぬけれども、文章を作るに就いて、天子のことなどを書く時は、通例の人とは同じ言葉を使ひませぬ。御出掛けになることでも行幸と申しますとか、いろ/\天子に關する言辭と云ふものは、普通とは違つて居る。さう云ふ形容の言辭は支那では大切なことにして居ります。さう云ふ語類を集めたものが帝徳録と云ふのでありますが、其の帝徳録と云ふものは、日本國現在書目には二卷としてある。今日其の書籍はありませぬが、文鏡祕府論の終りの方に一册を占める位に書いてありますから、或は全部載つて居るのではないかと思ふ程であります。
 何かくだ/\しいことが長くなりますが、兎に角文鏡祕府論と云ふものは、ザツと申せば是れだけの價値がある。今日此の文鏡祕府論が殘つて居るに就いて、唐代の文學上の事を知るにどれだけの利益があるか、今日から昔のことを研究するに就いても、他に得られない材料を、此の一部の本に依つて、それだけの研究が出來ると云ふことを、私は今日御披露したいと思つて、それで此の事を申しました。
 私が改めて申上げるまでもなく、此本は眞言宗の御方が御骨折りで出來た弘法大師全集の中に入つて居るのでありますが、その新板本は幾部かの古寫本を以て、通行版本の文鏡祕府論と對照され、又あとから出來た文筆眼心抄とも校合されたと云ふことも拜見したのでありますが、それに就いて校合の不十分だと云ふことを思ふ所があります。是れ程の價値がある本であるとすれば、是は眞言宗の方のみならず、日本の文學を研究する人は必ず一度は之を見て、日本の文學なり支那の文學なりを研究するに重大な價値があると云ふことを知られることを希望するのでありますが、それに就て弘法大師全集本の校合の不十分だと云ふことを申すのは、甚だ恐縮ですが、御見落しになつて居ると云ふ例を一つ申しませう。此の本は詰り大師が亡くなられた後に、草稿だけが何處かに遺つて居つて、それから段々寫し傳へられたものでありませう。それは此の出版された本の中に、時々御草本と云ふことが書いてあります。即ち大師の御草稿本と云ふことであります。十四條八階などゝいふ條に、御草稿本には此があつて、朱を以て消してあると云ふことが斷はつてあります。けれども矢張り本文は消さずに此處は消した處だと云ふことまで丁寧に斷はつてありますから、此の本を出版する時にさう云ふ斷はりを附けましたか、此の本を出版する前に從來寫し傳へられる時に、御草稿本に依つてさう云ふ丁寧な校語を附けましたか、兎に角さう云ふ風に、弘法大師の御草稿本を自筆で消された所までも殘して、消してあると云ふことを斷はつて置いたといふことが分ります。所で其の消すといふ字を其原本では、皆金偏にして銷の字を使つて居りまして、『之を銷す』と書いてある。『銷』の字を、或る處では出版になる時に誤つて『錯』と云ふ字にしてあります。『之を銷す』と云ふことを誤つて『之を錯る』と云つて居る。それを弘法大師全集を出版される時に、元からある本の儘に『之を錯る』と書いてある。是は『銷』と云ふ字の訛りであると云ふことも斷はつてありませぬ。これは校合された方が御見落しになつたことゝ思ひます。斯う云ふことがありますから、弘法大師のことを研究される方があると、私共のやうな專門家でないものでも、其の誤りを見付けますから、隨分面白いことが出て來ると思ひます。私も此の本を徹頭徹尾十分研究したのではありませぬが、從來愛讀して居つた本でありますから、唯だ氣の着いた所に朱を入れて置いた分を、今日御話をしたに過ぎませぬ。願はくば弘法大師を研究される方も、或は日本文學若くは支那の文學を研究される方も、一層綿密に其の研究を進められたいと云ふことを希望するのであります。文鏡祕府論に關係したことは、先づ是れぐらゐで終ります。
 それからもう一つは是は谷本博士の研究中にも、其の當時多分氣が着かれてあつたと思ひますが、御話になつては居りませぬものに就いて一つ申上げます。それは篆隸萬象名義と云ふ本であります。此の事に就いても實は弘法大師全集の編集を爲された御方に私は不足を申上げたいと思ひます。それは篆隸萬象名義と云ふ本は、隨分少ない本で、栂尾の高山寺に其の原本があります。其の他二箇所ばかりにそれから傳寫した本があります。私は此の本に就いては大變に興味を有つて居りまして、今から十年程前に寫して居ります。それが今日こゝに御目に懸ける六册の本であります。是は私のやうな別に眞言宗の信者でもなく、弘法大師の研究者でもない者が、こんな厚い六册もある本を何故に態々寫して置かなければならぬ程のものかと云ふことを申せば、自然どれだけの價値があるかと云ふことが分ります。
 それで此の篆隸萬象名義と云ふ本は何かと云ふと、是は支那の字引の拔書であります。此の事に就いては先程申しました楊守敬なども餘程注意をして居つて十分に其の價値を言うて居ります。どう云ふ所に價値があるかと云ふと、それを申しますには少しばかり支那の字引の歴史を申さなければならぬから、極く簡單に申しますが、支那の字引と云ふもので、纏つたものゝ出來ましたのは、後漢の末に許愼の説文と云ふ本が出來まして、それが大變に重大な著述であつて、今日でも古い字引のことを研究する時は、誰でも此の説文を見なければならぬことになつて居ります。其の後に段々字引は出來ましたが、其の後最も盛んに行はれた字引は、梁の顧野王といふ人の玉篇と云ふ字引であります。是は其の後いろ/\變化をして、日本では普通詰らない字引にまで玉篇といふ名前が附いて居るが、是は顧野王の玉篇が盛んに行はれた結果であります。説文といふ本は今日では昔の儘とは言はれませぬが、大體昔の體裁で保存されて居りますが、此の玉篇は今日其の儘で保存されては居りませぬ。玉篇は三十卷でありますが、其の中四卷半ばかりは昔の體裁のまゝの者が日本に遺つて居ります。即ち栂尾の高山寺にもあり、石山にもあります。或は有名な藏書家の有つて居るものもあります。是は支那には昔の體裁のまゝの者が、全く絶えて居りますから、楊守敬などが日本に居る時に、日本に遺つて居る分を版にして居ります。それも全部は遺つて居りませぬで、六分の一程しか遺つて居りませぬ。此の玉篇と云ふものは能く行はれた本で、唐の時に玉篇に大分手を入れて、其の手を入れたまゝで行つて居る。西洋でも字引は次第々々手を入れて、最初著述した時の面目が無くなるほど手を入れて年々變つて行く。玉篇も、梁、陳の時に顧野王が之を著はしてから、段々手を入れて變つて行つた。唐の時にも變り、宋の時にも變り、宋の時には殊に出版と云ふことが行はれて、宋元の間に玉篇の版になつたものが何十種と云ふ程あります。段々増して行つたものでありますから、體裁が變つて居る。段々増して行つたことになつて居りますが、實は段々減つて行つて居る。字の數は増して居るが、解釋が減つて行つて居る。今日後漢以後、唐以前の六朝の時の字引を見ようとするには、玉篇は非常に大切なものでありますが、惜しいことには顧野王の玉篇の原本の六分の一程しか遺つて居らない。其の後の本は唐宋以後手を入れて、いろ/\まぜくり返したものであつて、六朝の其の儘の玉篇を見ると云ふことは出來ぬのであります。所が弘法大師の篆隸萬象名義と云ふもので、玉篇の眞相が窺はれるのであります。篆隸萬象名義は、字の順なり、數なり、聲の反しから、解釋から、一切顧野王の玉篇其の儘になつて居ります。唐宋以後に手を入れたと云ふものは一つも加はつて居らぬ。顧野王がいろ/\古い本を引いて註釋してある所だけは削つてありますが、字の音と字の解釋とは顧野王の玉篇其の儘にしてあります。是は此の本の特色であります。それでこの篆隸萬象名義と云ふものを見ると、日本にある玉篇の原本に缺けて居る分、即ち足りない分を、八分以上も補ふことが出來るのでありますから、此の篆隸萬象名義と云ふものは、非常に大切な本であります。支那人は恐らく楊守敬だけしか持つて居りますまいが、之を見たいと云ふ人は澤山あります。さう云ふやうに世の中に傳はつて居らぬ本であつて、容易に支那人は見ることが出來ぬ。幸ひに日本に傳はつて居るのであつて、六朝の時の字引の姿を其の儘見ることが出來ると云ふことを喜んで居るのであります。斯う云ふものでありますから、私は其の專門の研究者でもありませぬが、今から十年ほど前に此の本を寫して持つて居ります。それで實は弘法大師全集の出來ます時には、定めし斯う云ふ貴重な本は全部出版されることゝ存じて、樂しみにして居りました。所が出來ました弘法大師全集を見ると、是は大變むづかしい本である。殊に是れに書いてある篆書などを一々入れると云ふことは手數であるから、一部分だけ寫眞石版で體裁を見せて置くと云つて、三四枚載せてあります。さう云ふ風にして此の重大な貴重な本は全部逐つ拂ひと云ふことになつて居ります。是に就ては私は弘法大師全集を編輯された方に對して、滿腔の不滿足を申上げようと思ふのであります。全集に三四枚だけ出て居りますけれども、此の六册の本の中から是れだけ拔いて出して、唯だ體裁だけ分つた所で、是は何の役にも立たぬのであります。是は今更取返しの附かぬことでありますけれども、弘法大師全集を出版される程の熱心があり、弘法大師の文藝上の功績を傳へるだけの御熱心があることでありますならば、高山寺本の原本に就いて、もう一度出版を企てられんことを希望するのであります。是は日本の文學の研究とか云ふやうな、小さい問題ではなくして、東洋の文明に就いて、或る時代、何百年と云ふ間の代表になつて居る字引を立派に保存してあるのでありますから、是はもう一遍出版せられるとしても、非常に重大な必要のあることで、さう云ふことが出來ましたならば、嘸ぞ大師も地下で瞑目せられることであらうと思ひます。是は餘計な話でありますけれども、此の出版者も仰つしやる通りに、此本に篆書がありますが隨分下手な篆書でありまして、弘法大師が書かれたならば、こんな下手な字は書かれませぬが、弘法大師の原本から幾度も傳寫をして、斯う云ふやうになつたので、隨分下手な字が書いてある。時としては誤字と思はるゝのもあります。之を正すのが面倒だといはれませうが、併し是は寫眞石版にでもして、其の儘に出せば格別面倒なことでもありませぬ。若し愈々是れが面倒だと云ふならば、此の篆書は有つても無くつても大したことはありませぬ。つまり篆隸萬象名義とありますが、大師の申します隸書と云ふのは、今の楷書のことであります。此の楷書の分だけを出版されても、十分に用は辨ずると思ひます。是は御骨折りついでゞありますから、間違つても何でも原本の儘でして貰ひたいのでありますが、それが出來ないならば、願はくは楷書の分だけでも願ひたいと思ひます。是は日本のみならず支那にも行はれることゝ思ひます。それから又西洋人にして東洋の事を研究する者にも、大變便利を與へることゝ思ひます。この弘法大師全集と云ふものは、餘程愼重な注意を拂つて出されたものであると思ひます。其の中で是は世の中でもつて弘法大師の御著述ではない、僞作であると云ふことを言はれて居るものも矢張り參考の爲め出版されて居ります。世の中で僞作と疑ひのある本までも出版される用意があるならば、僞作でない確かな本は、猶更出版して貰ひたいと思ひます。先づ篆隸萬象名義に關してはそれだけであります。
 文學の事に關してはそんなものでありますが、もう一つは弘法大師の書のことを申上げたいと思ひます。弘法大師は能書の御方であつたと云ふことは、是は誰も知つて居ることでありますが、是は從來の私の研究の間違つて居つたことを御詫かた/″\申上げたいと思ふのであります。弘法大師は畫も描かれたり、又彫刻もされたと云ふことがありますが、近來では彫刻は嘘であると云ふ説もあり、或は是非弘法大師は彫刻をしなければならぬ筈である。眞言宗の規則の上にさう云ふ事があるから、必ずせられたと云ふ議論があるさうです。私は迚も其處までは研究が屆いては居りませぬ。さう云ふ議論の仲間入りをして、本當だとか嘘だとか云ふことを申上げる資格はありませぬから、それは御免を蒙つて、今日は弘法大師の書の事だけに就いて申上げたいと思ふのであります。
 それはどう云ふ事かと申しますと、弘法大師の著述として傳はつて居る所の、是は全集の中にもあるが、弘法大師眞蹟書訣と云ふ本があります。是は江戸の屋代弘賢と云ふ人が是れに註釋などをして出版をして居りまして、それが能く行はれて居つたので、今度の全集にはそれから取つたと云ふことを斷はられて居りますが、兎に角昔から有名な本になつて居ります。所が此の本に就いて疑問を懷く人がありますが、私は兎に角弘法大師の著述であらうと云ふことは、疑問を懷いて居りませぬ。六朝から唐代まで掛けて、書法の事に就いて書いた本はいろ/\ありますが、其の書き方と云ふものは大體弘法大師眞蹟書訣と云ふ本の書き方に類似して居りまして、大師の書かれたのは唐代に書かれたから、さう云ふ類似があると云ふことを信じて居りますから、贋作でないと云ふことを信じて居ります。併し私に間違がありました。此の事に就いて茲に御斷はりをして置かなければならぬのは、私の友人に須藤南翠と云ふ有名な小説家があります。此の人は近年通俗讀本と云ふやうな體裁で『空海』と云ふ本、即ち弘法大師御一代の事を書いた本を著はした。それで私は懇意の間柄でありますから、何か序文らしいものを書いて呉れと云ふので、私は詳しい研究も何もありませぬが、唯だ書の事に就いてだけならば何か話をして、それを筆記さして上げませうと云ふことを約束しました。さうして其の書の事に就いての考を話した速記が『空海』と云ふ本の中に載つて居ります。それは此の眞蹟書訣一卷の研究ばかりではありませぬ。大師の書の事に就いて種々の研究と申しますか、私の考へた所を書いて置きましたので、つまり弘法大師の書の風と云ふものは、どう云ふ所から出て來たかと云ふことを申して居ります。大體に於て私は其の書風などのことに就いては、大した誤りはないと信じて居ります。弘法大師の書の風と云ふものは、日本に於て是は書風の革新時代に當つて居つて、其の當時日本で六朝、唐初あたりから傳はつて來て居つた書風とは、餘程一種異つた書風を書き出されたものであると云ふことを言つたのであります。日本へ支那から文字が傳はつて以來、隨分當時の名人には、支那人に比較して餘り劣らない名人がありました。古寫經などにもさう云ふ筆蹟があります、段々さう云ふものに就いて考へて見ると、六朝から唐の初めまでの書風と云ふものは、弘法大師以前には日本には隨分澤山入つて居る。六朝人の書風の入つたと云ふことは、格別怪しむに足らぬ譯でありますが、唐の初めの人の書風が、大師以前、奈良の朝に入つて居ると云ふことは、あまり時代が切迫して不思議なやうでありますが、遣唐使などが隨分往來して居りましたから、早く來て居つたものと見えまして、養※※(「顱のへん+鳥」、第3水準1-94-73)うがひ徹定と云ふ人の舊藏で、今は西本願寺にある華嚴音義と云ふものは、日本で書いた字であると云ふことでありますが、其文字は、唐の初めの歐陽詢と云ふ有名な書家の書に似て居る。それで歐陽詢の書風が奈良の朝に傳はつて居つたと云ふことが分るのであります。それから歐陽詢の子に歐陽通と云ふ人がありますが、其の人の書と似た書を書いたものが、大阪の小川爲次郎と云ふ人の持つて居る金剛場陀羅尼と云ふ寫經があります。それから長谷寺にある千體佛の下に銘が彫つてあります。其の銘も歐陽通の字に似て居る。此の寫經なり銘文なりの出來た時代は、歐陽通の時代とは三四十年しか隔つて居りませぬが、既に日本に傳はつて居つたと云ふことが分ります。さう云ふ譯で日本には奈良の時代から初唐風の書が傳はつて居りました。けれども其の書風の段々傳はつて居る中で、特別に大師の書風と云ふものが、目立つて異つて居りますのは、唐の方に於きましても、向うでは盛唐と謂ふ、其の時分に書風の一大變革を起しました。顏眞卿と云ふ有名な人が出て、新らしい書風を出しました。是は谷本博士も阮元の南北書派の議論を引いて、研究せられました。其の議論に就いては私は餘り贊成をせぬ所もあり、又贊成をする所もありますけれども、南北の書派の議論は阮元の一家言で、私は全部贊成を致しませぬ。其の事に就いては私は大阪朝日新聞に、「北派の書論」として、是は弘法大師の研究とは何の關係も無いことでありますが、南北の書派の議論を申したことがありまして、必ずしも一々阮元の議論に贊成すると云ふ譯には參りませぬ。從つて谷本博士の考とは多少違ふ點はありますが、併し違ふ點はあつても、兎に角一致する。何人が研究しても恐らく一致すると云ふ點は、唐の代に南北の書派が有る無しに拘らず、一大變遷がある。それは顏眞卿、徐浩などゝ云ふ人が起つた結果であると云ふことで、是は疑ひのない事實であります。それで弘法大師が日本に於て從來の書風と異つた所の、一種の書風を書き出されて、一代の書風に大いなる影響を及ぼしたと云ふことは、顏眞卿、徐浩などの書風が影響したのであります。是は谷本博士の考も私の考も少しも違ひませぬ。兎に角さう云ふ書の方から申しましても、一代の風を變化させるだけの力量を有つて居られましたから、日本の書風も一變し、又大師の書風が後々の書風の元祖となりまして、日本では唐以來正統を受け繼いで、今日に至るまで、大師樣と言はれない他の派でも、多少大師の影響を受けぬものはありませぬから、日本の後々の書風に取つては、大變な影響を及ぼして居ると云ふことが言はれます。さう云ふことをザツと書いて置きましたので、それは別に不思議はありませぬ。今日でも同樣であつて、何人が研究しても同樣であると思ひます。所で其の中に一つの間違をしたのは、大師の事に就いては、大師は唐に居られた時に、韓方明と云ふ人に就いて、書法を研究されたと云ふことを古來言はれて居る。所が私はそれに就いて疑問を挾んで書いて置きました。それは韓方明と云ふ人には、授筆要説と云ふ本があつたさうです。今では書の事を書いたものゝ中に一部分が存して居るに過ぎませぬが、其の文を見ると、筆を持つのに雙苞と申しまして、二本の指を掛けて持つやうになつて居る。所で大師の執筆法、使筆法と云ふことを申しますが、大師は好んで指を一本掛けて持つ法を使はれた。二本掛けることもありますが、大師は是はいかぬとしてあります。一本掛ける方が運轉が自在であつて、宜いとしてあります。筆の持ち方などはいろ/\ありますので、非常に有名な人であつても、普通謂ふ規則には掛らない筆の持ち方をしても、大變な書の名人もあります。是は一本掛けるが宜いか、二本掛けるが宜いかと云ふのは、今日でも議論のあることで、二本掛けないと力が弱いとか云ふ者がありますが、大師のやうな旨い方は、一本掛ける方が便利であつたかも知れぬのであります。誰れでも字を書くには懸腕直筆と云うて、腕を上げて書くと云ふことは古來一定の法でありますが、腕を上げないでも書く人があります。蘇東坡などゝ云ふ人は不精な人であつて、腕を上げないで書いたと云ふことで、あれは間違つて居ると云ふものもあるが、あれだけ書ければ間違つて居つても結構であります。それで韓方明と云ふ人は二本掛けろと云うて教へて居る。大師は一本の方が宜いと云うて居られる。それであると韓方明から教へられたならば、直ぐ先生の説を打壞して、さう云ふ風に一本掛けると云ふことはをかしいと思ひますから、恐らく是は誤傳であらう。大師の性靈集にも韓方明からと云ふことは斷はつて居らぬ。書の旨い人から傳授を受けたと云ふことだけ書いてあつたのでありますが、韓方明と云ふ人から傳授を受けたと云ふことは信用が出來ぬと言つたのであります。所が是は私の疎漏でありまして、矢張り古來の傳説の方が宜いのでありますから、それで私の前説を取消すのであります。
 それでは私にどう云ふ間違があるか、と云ふと、私が本を粗末に讀んだ御詫を致しますのでありますが、段々支那には王羲之など昔の書の旨い人から書の規則に就いて議論があります。さう云ふものを一通り見るに、書史會要などと云ふ本がありまして、書家の有名な人の傳記もあり、又書家の筆法のことも書いてありますが、それに韓方明の授筆要説が載つて居ります。凡そ書家が申します筆法には術語がありまして、例へば永字八法とか云つて、點を打つ所を側とか、撥ねる所を啄とか、上げる所を勒とか云ふ、それ/″\術語があります。其の術語は誰れでも一定して居るのではありませぬ。王羲之の術語は王羲之の術語、歐陽詢の術語は歐陽詢の術語、顏眞卿の術語は顏眞卿の術語と云ふやうに、各々違つた術語を以て説明して居ります。どう云ふ人がどう云ふ事を言つたかと云ふこと、他の人のどれに當るかと云ふことを調べるのは、骨の折れることでありますが、兎に角各々勝手な語を用ひて居ります。所が支那では韓方明の用ひました術語と能く合ふのがもう一つあります。それは南唐の李後主と云ふ人で、五代の末に今の南京に國を建てゝ居つた人がありました。其の人は書の上手な人でありましたが、其の筆法の術語が韓方明の術語に似て居る。韓方明の術語は四字しかありませぬ。李後主の術語は七字あります。兎に角類似した語を使つて居ります。即ち韓方明の術語は、一は『鉤』と云ふ字を使つて居る。それから『※[#「てへん+厭」、U+64EB、85-17]』と云ふ、『訐』と云ふ字、それから『送』の字を使つて居る。南唐の李後主は撥鐙法と云ふものを用ひる。撥鐙法と云ふのは燈心を掻立てる手つきを謂ふのだと云ふ説もあり、又鐙を蹈張る姿勢を謂ふのだと云ふ説もあり、隨分面倒なことでありますが、かういふ事は眞言宗の大學の教授をして居られる畠山八洲先生などがよく御承知でありますが、やかましい議論のある者であるが、要するに此の撥鐙法を七字で説明して居ります。其の中に※[#「てへん+厭」、U+64EB、86-3]の字もあり鉤の字もあり送の字もありますが、訐の字だけありませぬ。所で此の訐の字を筆法の術語として使つて居る人が其の外にあるかと云ふと、一人もありませぬ。所が妙なことには弘法大師だけが使つて居られるから不思議です。弘法大師の書訣、即ち執筆法使筆法と云ふ者の中に、斯う云ふことがあります。※[#「乙」の白抜き、86-6]斯う云ふものを書く時に、頭指で句し、大指で助けて末は停めて訐すとある。又※[#「弋」の第二画の白抜き、86-6]を書く時に大指、頭指(母指、人差指)の二つを掛けて、力のかぎり、引つ張つて勢を十分にして、留めて、而して後訐す。訐すと云ふのは詰り之を彈く。さうして機發の状の如くす。詰り機と云ふのは弩の機の外れる状のことであります。その外れるやうな勢ひでパツと撥ねるのだと云ふことを説明する所に『訐』の字を使つて居る。支那で書法をいろ/\説明した中には、この訐字を使つたのが、韓方明一人である。李後主はそれに代ふるに『掲』の字を使つて居る。即ち掲の字は同じ意味だからと云ふので使つて居る。けれども『訐』の字を書いたのは支那には韓方明の外ありませぬ。所が大師は同じ字を使つて居る。さうして見ると今日の所では『訐』の字一字で證明するのでありますが、大師の筆法は韓方明の筆法を受け繼がれたのであると云ふことは、是れで證據立てることが出來ます。それから單苞とか雙苞とか云ふことは、重んじないことはないのですが、蘇東坡のやうな普通の人の使はない筆法で、隨分立派な字を書くのでありますから、其の人の考へ次第で、いろ/\なやり方をしたもので、大師の方では執筆法使筆法と云つて持ち方使ひ方と云うて、韓方明から傳へられたのは、筆を使ふ法に遺つて居ると思ふのであります。それから今申しました※[#「てへん+厭」、U+64EB、86-17]、鉤、送と云ふ三つの韓方明が使つた術語を大師が使つて居られるか、又は『訐』の字だけを使つて居つて、其の外のものを使つて居られぬでは疑ひを存せねばならぬのでありますが、それはどうかと云ふと、皆明かに此等の術語を使つて居られます。『※[#「てへん+厭」、U+64EB、87-1]』の字は眞先に使筆法の一箇條に使つて居る。それから『鉤』の字は今申しました『訐』の字を使つてある前の箇條に使つて居る。さう云ふやうな譯であつて『送』と云ふ字は其代りになるやうな字を使つてある。『送』と云ふ字を明かに使つては居らぬが、兎に角韓方明の使つた四つの術語の中三つまでは明かに使つて居りますから、もう一つだけを使はないにしても、韓方明の法を大師が受けて居られると云ふことは、明かに分るのであります。斯う云ふ譯で、大師は韓方明の筆法を受繼がれて來たと云ふことは明かで、古來の傳説は貴いものであつて、私が本を能く讀まぬで彼是れ言つたのは分に過ぎたことで、申譯がないと思ひます。それであの『空海』と云ふ本を再版でもするならば、あの箇條を抹殺して、今日申上げたやうに書き直す積りであります。さう云ふ點は私の從來の研究の誤りでありますから、今日此の機會に其の事を發表いたして置きます。
 この書法の事に就いては隨分研究された方があります。近頃では東京の『書苑』と云ふ雜誌に『入木道に於ける大師』と云ふ題で、友人の黒板博士がいろ/\載せて居ります。是は私の贊成する所もあり、贊成されぬ所もあります。併し書のことは筆もなしに空に私が御話をした所で、十分に分るものではありませぬから、是は今日唯だ韓方明と云ふ人の筆法を傳へられたと云ふ古來の傳説が確かであると云ふことだけを申上げて、其の他の書法に關することは、茲に申上げぬ積りであります。隨分宗内の御方でも斯う云ふ事に注意をされる方があると見えまして、蓮生觀善さんは高祖の書道について研究になつて居ります。私が遠慮なく申すと、贊成を致す所と贊成を致さぬ所とあります。それは此處で申上げることは御預かりと致します。それから殊に面白いのは、この長谷寶秀さんの『高祖の遺墨』と申しますもので、是は大師が書かれまして今日まで遺つて居る者の中で、どれだけが確かで、どれだけが不確かだと云ふ批評を載せてあります。是等は餘程宗内の御方の研究としては、えらいことであると思ひます。宗内の御方と云ふものは、隨分其の宗内で寶物とせられてあるものなどに對しては、十分に自由の研究と云ふものは出來にくいものでありますのに、此の長谷さんの研究は遠慮なく批評をされてあります。さうして其の批評は殆ど一々適中して居ると謂つても宜からうと思ふ次第で、是は僅かの短篇ではありますけれども、私は餘程此の研究には敬服いたして居ります。今は仁和寺に御所藏になつて居る『三十帖策子』と云ふ有名なものに就いても、黒板博士が意見を書いて居りますが、實はあの書の研究の始まつたのは、私と黒板君とが同時に仁和寺で拜見した時に、どれだけが大師の眞蹟であり、どれだけが外の人の書いたものであると云ふことを、假りに定めて見たのであります。黒板君の意見には、古くから策子の中に、橘逸勢の書いたものがあると傳へられて居るので、どれだけがそれであると云ふことを書いて居られる。それで黒板博士が逸勢の書いたものと極められたのは、私は矢張り大師の書であると見たのであります。かういふ風に一致しない所があるであらうと思ひます。是は實際のものに就いて當つて見ると面白い研究であつて、黒板君が書苑に書かれました議論に就いて、私は何時か自分の意見を發表する時機があると思ひますが、單に此處で愚見を申上げた所が餘り面白味のないものでありますから、さう云ふ事は他日私がさう云ふ事を申します機會がありました時に、御覽を願ひたいと思ひます。
 今日は前申上げた通り極めて一部分の事を申上げたに過ぎぬので、定めて御退屈のことであつたと思ひます。併し前にも申上げる通り、既に弘法大師に對する總論では、谷本博士の講演以來、段々研究が出來て居るのでありまして、私共の申上げるのはさう云ふ一部分の事しかありませぬから、已むを得ず斯樣な事を申上げた次第であります。御暑いにも拘はらず長い時間御辛抱なすつて御聽き下さつたことを感謝いたします。
(明治四十五年六月十五日弘法大師降誕會講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:弘法大師降誕會講演
   1912(明治45)年6月15日
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月17日公開
2016年4月20日修正
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●表記について

「てへん+厭」、U+64EB    85-17、86-3、86-17、87-1
「乙」の白抜き    86-6
「弋」の第二画の白抜き    86-6


●図書カード