支那目録學

内藤湖南




 目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。これは目録といつても、單に書物の帳面づけをするといふやうな簡單なことではない。支那の目録學にはもつと深い意味がある。これを知らないと、書物の分類も解題もできない。のみならず、今日實際に當つて、色々のものを見るのに困る場合が多い。日本の目録には、意味のないことが多い。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。

目録學の始


 ともかく、現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。
 大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全體の大部分は、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略によつて書いたのである。七略の中の六略を採つて載せたので、七略の一つである輯略は藝文志には載せられてゐない。ところで、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が七略を作つたのは、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が創始したのではなく、その父の劉向が着手したのである。向が前漢の成帝の時より着手して、それを※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が仕上げたのであるが、それは前漢の哀帝の時である。哀帝の末年は西洋紀元前一年に當るから、大體西洋紀元の少し前頃に出來たものと思はれる。
 この頃の學問は、多くは家の相續の學問で、劉氏も二代學者であるが、元來劉向の家は漢の宗室で、しかも不思議に宗室中で學問をした家である。先祖は楚の元王といつて、漢の高祖の弟である。馬上で天下を取つた高祖の兄弟ながら、學問好きであつたが、それ以來この家は學問が續いた。向の時になつて、成帝が天下の祕府に集まつた書籍の整理・校正を向に掌らしめたので、ここに目録學が始めて興ることになつた。

二劉の學の本旨


 勿論この目録學は、前述の如く、單なる帳面づけ、支那で謂ふところの簿録の學ではない。その本旨は著述の流別に在りとされてゐる。これは或る意味から云へば、學問が最後の點まで發達したものと見ることができる。といふのは、少くとも支那では春秋戰國以來、學問が次第に興つて色々の著述が出來たが、劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)に至つて、それらの著述を總論する學が出來た。單にこの點だけでも、學問の最後の結末をつける意味があるが、なほ詳しくその内容を考へると、戰國時代、學問の始めて盛になつた頃には、學問は大體哲學的で、各人の主張する理論を專らとした。從つて學問の上に色々の區別を考へるのにも、その主張・理論を主とした。然るに劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)に至つて、すべての學問、すべての著述を、單にその學派、その著述の有つ主義・理論の上から考へるに止めずに、その學問の由來を考へるやうになつた。學問を歴史的に考へるやうになつたのである。支那の學問といふものが、大體に於て、あらゆる學問を歴史的に考へる傾きを多く持つてゐるのは、ともかく、漢の時代にかかる傾きを生じたところから、一度出來上つた傾きを、いつまでも持つてゐた爲めと考へられる。それが支那の國の學問としての特殊の性質、支那文化の特殊の性質となつたのである。

著述流別の源


 勿論劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が、著述の流別を考へたといふことも、その源は更に古くからある。これは恐らく戰國の頃からしてすでに、諸子百家の間に論爭の行はれた結果、自他の學派を區別する必要から、次第に出來たものと考へられる。春秋戰國以來の諸派の學問の中では、勿論儒家が最も早く發達した。從來から、殊に近來の支那の學者は、道家の方が儒家より先に發達したと考へるが、さうではない。儒家の方が早く發達したのであるが、その代り、同じ儒家の中で學派の分れたことも最も早かつた。儒家の諸流派については、すでに論語に見えてゐる。論語の成立が最も古いといふ譯ではないが、ともかく論語の中に、すでに流派の區別のあることが見える。即ち子張篇に、子游・子夏・子張などの人達が、各※(二の字点、1-2-22)孔子から聞いたことにつき、異つた意見を傳へたことが現はれてゐる。禮記の檀弓などにもやはり同樣のことが見えてゐる。又孟子の中にも、公孫丑篇に、子夏と曾子との考へ方の相違を論じ、その他の孔門の諸子たちを評論したことが見える。荀子などになると、儒家の中で子思・孟子を排斥し、仲弓などを尊ぶ傾きが見え、すでに儒家の中で、互に相容れない學派を生じたことを示してゐる。それが荀子の教を聞いたといふ韓非子になると、その顯學篇に、明かに各派の儒家を擧げてある。即ち子張之儒・子思之儒・顏氏之儒・孟氏之儒・漆雕氏之儒・仲良氏之儒・孫氏(荀子)之儒・樂正氏之儒のあることを記してゐる。
 儒家の次に盛になつたのは墨家である。墨子の學問も、韓非子の顯學篇によると、やはり幾つかに分れたやうである。即ち相里氏之墨・相夫氏之墨・※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)陵氏之墨があり、儒家分れて八となり、墨家は三となり、取捨相反して同じからず、各※(二の字点、1-2-22)自ら稱して眞の孔墨といふが、どれが本當だか分らぬと云つてゐる。墨家の分れたことは、この外、莊子の天下篇にも見え、それにやはり相里勤、※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)陵氏などに分れたことを書いてあるから、かかることは確かなことであらうと推察せられる。
 その他のあらゆる諸子について論じたものでは、孟子の中には、墨子とともに楊子を排斥することを論じ、孟子が告子と主義の上で議論したことを書き、又農學家ともいふべき陳相と論じたことを記し、かくて既に學派の異同につき論辯したことを書いてゐる。荀子には非十二子といふ篇があり、當時行はれた諸子の主義につき批評し、殊に荀子は、その中の同じ學派なる子思・孟子については特別に攻撃を加へた。荀子にはその外、天論篇に諸子の長短を論じた箇處がある。又莊子の天下篇には、各派の長短を盛に論じてある。
 かくの如く、ともかく戰國時代の諸子からして、既に他の各派との論爭上より、學派の區別を明かにすることが行はれた。もつとも、これらの書が悉く戰國に書かれたのではないが、ともかく色々の變つた諸子が出る以上、各※(二の字点、1-2-22)特別の主義があつたことは爭ふべからざることである。されば漢代になつて、色々の書籍を總括して見られる位置にゐた人は、勿論諸子の各※(二の字点、1-2-22)の流派に就てその長所短所を考へるのは自然のことである。二劉以前に、すでに司馬談・司馬遷父子は、太史の官にあつて、朝廷に集まるあらゆる書籍を總覽することができた。故に史記の太史公自序によると、司馬談がすでに六家の要指を論じたことが記されてゐる。六家といふのは、陰陽家・儒家・墨家・法家・名家・道家のことであるが、談は元來、道家を學んだ人で、六家を論ずる上に於て、道家を最も偉いものとした――これによつて、司馬遷も亦同じく道家を尊んだやうに云ふのは誤りである。――この六家要指になると、大分二劉の學問に類似してゐるが、その違ふところは、司馬談の考へ方でも、單に六家の長短を論ずるのが主で、その善い所はどうしても捨てられず、その弊害は考へねばならぬといふ風の考へ方であつて、まだこれには、六家を歴史的に考へるといふ考へ方はない。然るに二劉の學問は、この各派の流別を論ずる上に於て、一一歴史的の意味を附した點が異るのである。

劉向校書の由來とその方法


 劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が目録を編纂するに至つた由來は、漢書藝文志に大體記されてゐる。藝文志の云ふところによると、――向・※(「音+欠」、第3水準1-86-32)からして既に儒家中心の考へ方で、藝文志もその意を受けてゐるが――孔子が沒くなつて時がたつと、孔子の學問の中に、又幾多の派が出來た。これは單に韓非子の顯學篇などに云ふところの派のみならず、孔子の殘した經書について、幾通りかそれを傳へる家が分れたことを云つてゐる。かかることのある間に、秦が天下を併せて、書籍を燒くといふことが起り、そこで漢になつて大いに書籍を集めたが、武帝の時代までに色々集まつた書籍には、缺本が多かつた。その爲めに、書籍を集めるための官を設けたことが書いてあるが、これは劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の説によると、その集める場所は、宮廷の内と外とに分れ、外の方には太常・太史・博士、内の方には廷閣・廣内・祕室に藏書の場所を設けた。そして諸方より書籍を獻納する路を開き、獻じたものには賞を與へることになつてゐた。又書籍を寫す官を置いて本を集めたので、色々の本が多數に集まつたが、成帝の時までに、それらの本が又散亡する傾きがあつたので、更に集めることになり、陳農に命じて天下に書を求めしめた。この時、劉向が書籍の校正係りを命ぜられた。向は經傳・諸子・詩賦に關するものを校正したが、その他の專門學に屬するものは、歩兵校尉任宏が兵書を校正し、太史令尹咸が數術を、侍醫李柱國が方技を校正することになり、さうして一書の校正の終る毎に、劉向がそれに篇目を分ち附け、その本の趣意の大要を撮り、そのことを別に書き、それを天子に上つた。それが劉向の別録である。
 この別録が今日殘つて居れば、大いに有益であらうが、不幸にして早く散佚した。今日では、この別録の一部分ともいふべきものは、戰國策・晏子春秋・列子などの書に附いてゐる。その校正の仕方は、必ずしも劉向一人の力によつたのではないやうである。諸所にある本を集めて校正した。第一は内府にある本、即ち中祕の本、これに劉向自身の本、他人所有の本などの多數の本を集めて一一校正した。戰國策に附いてゐる別録の文を見ると、どういふ風に校正したかが分る。即ち文字の異同を校正したことが見える。又晏子春秋の別録を見ると、向が當時校正をするに際し、從來の書で編輯の工合の亂雜になつてゐるものは、彼の考で一一新たに正して分類したことを書き、その分類の仕方を擧げてゐる。さうしてその校正が終ると、皆「殺青す、書繕寫すべし」と書いてある。殺青すといふのは、即ち竹簡に書くことである。昔の説では、殺青とは竹を書物になるやうに簡にして書くことであるが、新しい竹には油があり蟲がつき易いので、火の上で炙つて乾かして油を去り、それを削つて書くことであるといはれる。繕寫すべしといふのは、當時新たに行はれて來た素に上せること、即ち白い絹に書くことであると云はれる。
 ともかく、藝文志を見ると、當時五百九十六家の書があり、一萬三千二百六十九卷といふ卷數であるが、之を劉向が總裁して、これに一一精密なる校正録と解題とを作つて上つたのである。ただこの劉向の時に、之を總論するものが既に出來たかどうかは分らない。一一の本については、その著述の由來、その趣意、その長所短所を詳しく論じてあるが、それらの總論として全體に渉つて論じたものが出來たかどうか分らない。その中に向は死に、子の※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が天子より命ぜられ、相續して行ふこととなつた。

劉向の別録の佚文とその體裁


 劉向の別録の中で、今日まで幾らか滿足に殘つてゐるのは、戰國策・管子・晏子・荀子・韓非子・列子・※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)析子のものであるが、この中で確かなのは初めの四つである。これらの四つのものは、皆體裁が同じで、初めに先づ、如何なる本を集めて校正し、定本を作つたかといふことを書き、定本を作つた以上は幾らでも寫本が作れるといふことを書き、それからその人の傳記の如きものを明かにし、その學問の系統を記し、その得失長短を論じてゐる。初の四つは皆同じやうに出來てゐる故、別録の體裁として間違ひないものである。韓非子のは、その體裁が揃はず、本を校正した記事が缺け、最後の學問の系統を論じた處も缺けて、傳記のみであるので、確かに劉向の作つたものかどうか疑はしい。列子といふ書には色々疑問があつて、今日傳はるものは六朝頃の僞作でないかと云はれてゐる。もしさうだとすると、その書の最初にある劉向の別録ともいふべきものも確かとは云はれないが、大體別録の體を具へてゐる。※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)析子のも體裁は具へてゐるが、劉向のものとも劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)のものとも云はれ、確かでない。その他、全く僞作と思はれるものは、關尹子と子華子との二つで、これは全く後世の人の僞作と決められてゐるから、先づ採らぬ方が安全であらう。
 劉向は、かく他人の作つた本に解題を書いたばかりでなく、自分の作なる説苑の初めに、その著作の大要を述べてゐる。その他、別録の文が斷片的に殘つてゐるのは澤山あつて、嚴可均の全上古三代秦漢六朝文の中の全漢文の處に、劉向のすべての文を集め、斷片的の文句も皆載せてある。

劉向の目録學


 劉向の學問の仕方、殊に目録學のそれについては、孫徳謙の「劉向校讐學纂微」に大體論じてゐる。今、この孫氏の書の項目により、自分の意見をも加へて説明することとする。孫氏は第一の箇條として、
(一)備衆本 といふことを擧げてゐる。本を校正するには、色々の本を集めなければならぬ。劉向が多くの本を集めたことは、別録に皆書かれてゐる。その「中書」とか「中祕書」といふのは天子の手許の本である。その他には、自分の持つてゐる本をも擧げてゐる。即ち「臣向が書」とあるもので、その他の本は誰某の書と名前を書いてその本を擧げてゐる。時として「太史書」とあるのは、太史公司馬遷などが見た本であるらしいので、太史の官に備へてあつた本である。漢の時、朝廷へ奉る本は、必ず副本を太史の所に入れたのである。これらを總稱して「中外書」と云つてゐる。これらの本を校正した工合を見ると、劉向の見る以前までは、管子なら管子にしても、篇數の多いのもあり、少いのもあり、色々であつたが、向は之を寄せ集めて、重複したものを除き、重複しないものを殘して、一つの定本を作つたことが分る。
(二)訂脱誤 これは今日の漢書藝文志などにも明かに見えてゐるところで、藝文志には、劉向が尚書を校正したとき、本によつては脱文があり、又文字の異つたものが多かつたが、それを校正するのに、最も主もなる善い本として、中古文(天子の手許の本で、當時行はれた隸書でなく、篆書以前の文字を以て書いた本)に據つたことが書いてある。この脱誤を訂したことに就ては、劉向自身の書いた文、即ち戰國策を校正した時の序録にも、本字が多くは誤脱して、往々字が半分になつてゐることがある、趙が肖になり、齊が立になつてゐるといふことを書いてゐる。しかしこれは今日より見れば、必ずしも脱誤とは云へぬこともある。何故なれば、戰國頃には、文字を簡單に書くことが行はれ、趙を肖と書くことなどはよく行はれた。今日殘つてゐる古※[#「金+木」、U+9222、377-2](印)を見ると、趙は皆肖となつて居り、つまり通用の俗字であつたのであらう。しかし劉向の頃より、俗字を正しい古文の文字に復さうとする學問的傾向があつたらしく、彼は一一これを直したのである。ともかく戰國策にかういふことが斷わつてある爲めに、古※[#「金+木」、U+9222、377-4]の中にある肖の字が趙と同じ字であることを知り得る。
 この校正といふことは、非常に古くより起り、劉向以前から既にかういふことは起つてゐたと思はれる。孔子家語――劉向以後の僞作と云はれ、確かな本とは云はれないが――の中に、孔子の弟子の子夏が、歴史を讀んでゐるものが「晉師伐秦三豕渡河」といふ文句を讀んでゐるのを聞き、三豕は己亥の誤りであると注意したといふことが書いてあるが、その眞僞はともかくとして、支那人は古くから校正に意を用ひたらしい。公羊傳の中にも、やはり文字の誤りがあるのを、孔子が直接に見た事により今の本の誤りを正したといふことがある。劉向に至つて、校正を大仕掛にやり、色々の本の誤りを正した。校正のことを校讐といふことも、別録に見え、向が始めて云つたのであると云はれる。一人が本を讀み、一人がそれに對し別の本を持ち、引合せてゐる形が、怨のあるものが對立せる如くである故であるとせられてゐる。
(三)刪復重 これは別録に「復重若干篇を除く」とあるのを指す。最初に手當り次第に本を集めたので、これを引合せて見ると、同じ本の異つた種類で重複した部分が出る。それを刪除して一つに定める。但だ向は之について注意を拂ひ、重複したものも、たとへ大意は同じでも、文辭の異つたものは、殘して一篇としたことを、晏子春秋の序録に記してゐる。
(四)條篇目 これは、元來集まつてゐた本は、必ずしも内容の篇目があつたのではなく、篇目のない本も多かつた。これにともかく劉向が篇目を附けた。今日殘つてゐる本で殊に甚だしいのは禮記で、これなどは、非常に多くの篇が混雜してゐたのを、篇目を立て、禮記の外に出したものも、内に入れたものもあるのは、向が定めたのである。つまり從來の本は順序も混雜し、部類も混雜してゐたのを、順序を立て、篇目を附けたのである。勿論前から篇目のあるものもあり、管子の如きは、劉向以前よりあつたと見えて、史記の中にその篇目が擧げられてゐる。本の一定してゐなかつたのを一定し、整理したのが向の仕事である。
(五)定書名 書名も、もと一定しなかつたのを一定した。中でも甚だしいのは戰國策で、向の序録によれば、この書はもと或は國策といひ、或は國事といひ、短長といひ、事語といひ、長書といひ、修書といつたが、向は、これは戰國の時、游説者が自己の用ひられる國の爲めに策謀を立てたのであるから、戰國策とするがよいとして、ともかく名前を一定した。しかしその爲めに、本の名前の意味が變ることがある。戰國策の如きはそれで、これは前から國策といつたが、それは戰國の策謀の意味ではない。策は簡策の意で、國々のことを木簡か竹簡に書いたものといふ意味である。大體、國語があり、之に對して國策ができたと思はれる。國語は國々の物語で、我が語部式に、口傳で傳へられたのであらう。之に對して、國策は初めから文字に書かれて傳へられたので、かく名づけられたのであらう。それを劉向は策謀の意味に變へたのである。國策の策を簡策と解する説は、劉知幾の史通に見えるが、孫徳謙などは史通の説を誤りとしてゐるけれども、恐らくは誤りではあるまい。戰國策の名の中、長書・修書・短長とあるのは、書かれた物語が長いのを長書・修書といひ、又短いのもあるので短長といつたので、やはり本の體裁から云つたのであらうと思はれるから、史通の説が正しいやうである。かくの如く、ともかく定本を作る際に、名前をも變へたことがあるのである。
(六)謹編次 劉向が編次を謹んだことは、戰國策を編次した時のことを書いてゐるのでも分る。元來この書は國別けになつてゐて、時代の順序はなかつたのであらう。それを向が時代順に編成し變へたのである。又晏子の編成の仕方を見ると、その中、道理の正しいもので、晏子の書全體を通じて筋道の立つたものを集めて、これを内篇とし、その外、晏子の言ではなく、後人の傅會と思はれるが、ともかく晏子の中にあつたものを別の部類として一括してある。かく色々に部類分けをしたのも向の一つの仕事である。この部類分けは、又目録學に關係することで、向などは管子を道家に入れ、晏子を儒家に入れたが、――或は管子はもと法家に入れたといふ説がある――かく何家何家といふ風に分けることは、つまり目録を分類する人の見識であり、目録の學としては、之を最も重しとする。今日ある本でも、どうかすると編次の誤まつてゐるらしいものがある。例へば韓非子であるが、韓非子は韓の國の公子で、韓を立てる考のあつたことは明かであり、韓非子の中に存韓篇があるが、今日の韓非子の最初にある初見秦篇には、秦に勸めて韓を滅ぼさせる意を書いてある。かかることは有り得べからざることである。第一、初見秦篇には、彼の死後のことまであつて怪しいところがある。戰國策では、秦に韓を滅ぼさせようとしたのは張儀の語とされてゐる。これが誤つて韓非子に入つたのであるが、これは果して劉向が知つてしたのか、それとも後人がしたのかは分らないが、ともかく今日殘つてゐる本には、なほ編次の誤まつてゐるものもある。
(七)析内外 内外とは、莊子に内篇外篇あり、晏子に内外篇あるが如きである。或人はこの内外を劉向の謂ふ所の中外書と同じく、天子の手許の本と、それ以外の本とのことであらうと云つてゐるが、これは必ずしもさうとは云はれぬ。やはり本の中の意味によつて内篇外篇に分つたものらしい。晏子の内外篇の如きは明かにこの意である。
(八)待刊改 向の序録を見ると、前述のやうに、多くは「定以殺青、書可繕寫」の語がある。初めに定本を竹で作り、それが出來た上で、これを素(白い絹)に書くのが繕寫である。竹であれば誤つても削つて書き直しが出來るが、絹ではそれができぬからであると云はれる。向は色々の本を校正した經驗から、異本の出るごとに誤りを直さねばならぬといふので、初めは竹簡に書き、刊改を待つことにしたのである。
(九)分部類 これは前述の編次を謹むことと關係があり、主に部類分けのことについて云つてゐる。但だ今日の漢書藝文志には、明かに部類を分けてあり、即ち全體を六略に分ち、六藝略・諸子略・詩賦略・兵書略・數術略・方技略としてあるが、孫徳謙は、これは向が分けたか※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が分けたか分らぬけれども、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)は向の業を繼いだのであるから、向以來の分け方であらうと云つてゐるが、これは漢書藝文志によれば、初めから分れたことが明かである。即ち成帝の時、書籍を集め、校正を命ぜられると、向は經傳(六藝)・諸子・詩賦を受け持ち、任宏は兵書、尹咸は數術、李柱國は方技を受け持つたとあつて、大體の方針は、向の着手の時に定められたのであるから、この部類分けは向に始まることは明かである。今日の漢書藝文志を見ると、六略の中にも色々の部類を設け、之によつて書籍の部類分けをしてゐる。この項は目録學に於て重要な部分である。
(十)辨異同 これは前の「訂脱誤」と關係があり、單に字句の脱誤のみならず、著述の趣意の異同にまで推し擴げたもので、「訂脱誤」はこの中に含めてもよい。これは前述のやうに、戰國時分から、諸子の間に於て、自分の學術と他の學術とを區別するために行はれたのを、向が全體として纏め、書籍の部類分けを定めるまでに作り上げたのである。
(十一)通學術 これは「辨異同」と關係があり、著述をした人の學問の、如何なる筋道、如何なる系統を引いてゐるかの研究をするのである。同じく儒家の中で、孟子と荀子とは相違があつても、儒家たる點では共通する。道家にもさまざまの人があるが、道家たる點で共通する。これを學術を通ずと云つたのである。從つて異同を辨じ、部類を分つことと關係する。
(十二)敍源流 今日の漢書藝文志を見ると、源流を敍することは最も大切なことになつて居り、何々の學は何々から出たといふことを一一論じてあるが、ただ今日の藝文志は、果して劉向の手から出たままであるかどうか、はつきり分らない。今日僅かに殘つてゐる別録によれば、源流をはつきり區別したかどうか分らぬが、しかしこれは、向・※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の前からもこの傾向はあり、莊子の天下篇などには、源流をいくらか書いてゐる。向の時にもすでにかかる考はあり得るので、今日の藝文志にある源流も、向より出たことと想像するのである。
(十三)究得失 荀子の非十二子、太史公の六家要指の如く、學術の得失を擧げて論ずるもので、別録の中にも見えてゐるから、向自身が之を行つたことは確かである。
(十四)撮指意 大意の摘要を作ることである。これも今日殘存せる別録の殘篇に屡※(二の字点、1-2-22)見えてゐる。
(十五)撰序録 向の別録は即ちこれである。別録の録とは、その本の解題にも批評にもなるもので、即ち序録のことである。これは一つの本に一つづつ附けたのであるが、それを纏めて一つの本にしたのが別録である。他人の作つた本に解題批評を書くことは向に始まる。自らの本に序録を書くことは、これ以前にもある。莊子の天下篇、呂氏春秋の序意、淮南子の要略、史記の太史公自序などがさうである。これらは自己の本又は自己の學派の本を纏めた時に作つたものであるが、向は他人の書を整理する時に作つたのである。これは他人の本に序文を書く起源になつた。
(十六)辨疑似 今日の漢書藝文志に、何の書は誰某の作る所に似たり、といふのがある。この「似たり」といふことは、皆向が書いたのかどうか分らぬが、他の本、例へば禮記の中の雜記の正義に、別録を引いて、「王度記似齊宣王時淳于※(「髟/几」、第4水準2-93-19)等所説也」とあり、又漢書藝文志の神農二十篇の處の顏師古の注に、別録を引いて「疑李※(「りっしんべん+里」、第3水準1-84-49)及商君所説」とあり、これはまだ向の別録の亡びない當時に見た人の云ふところであるが、之より推せば、今日の藝文志の「似たり」といふのも、向の説をそのまま取つたのであらう。これは藝文志の中に色々あり、本の名が古くても、書いた時代は新らしいことを考へたのである。神農といふ古い名があつても、戰國の時の説を書いたものと考へ、黄帝何々といふ書を六國の時のものと斷じたのもこれである。これらは批評判斷で、向の目録學に評論の意を含んでゐることが明かである。
(十七)準經義 向の序録を見ると、例へば戰國策の評論などに、戰國の時の人が、色々その國の爲め策略をするに、道に外れたといふことを云つてゐる。その道は、孔子の經書の義理をもととして論じてゐるのである。
(十八)徴史傳 現在殘つてゐる管子・晏子・荀子の序録を見ると、各※(二の字点、1-2-22)その人の傳をあげ、著述になるまでの由來を述べてゐる。これが徴史傳の意である。
(十九)闢舊説 傳記などに就て、昔の説の謬れるを訂正したのである。※(「登+おおざと」、第3水準1-92-80)析子の序録に、その傳説の謬れることを辯駁してゐる。
(二十)増佚文 今日の晏子春秋などに、從來その書に無かつた筈のことが入つてゐるのは、向が色々の本を比較校正した時に増したのであらうといふ。
(二十一)攷師承 道統傳授の次第を考へたものである。荀子の序録の中に、荀子から學問を受けた人々のことを書き、如何にしてその學問が傳はつたかを書いてゐる。その他の本でも、その人の學問の筋道の如何樣に後世に傳はつたかを書いた。これは向の學問が源流を敍づる學であるため、自然ここに注意し、これが別録にあらはれたのである。
(二十二)紀圖卷 從來、宋の鄭樵などは、目録を作るに圖譜の大切なることを論じ、向が目録を作るとき、圖を取り入れなかつたのは缺點であると云つたが、これは必ずしもさうでなく、圖のあるものは圖をも合せて録したに相違ない。殊に向の自著なる列女傳は、圖を書き、その讚の如くにして本を作つたのであるから、他の書を調べる際にも、圖を除く筈はない、と孫徳謙は云つてゐる。
(二十三)存別義 これは本の名前が色々あつたりした時、その別の名前をも併せて擧げる。又同じ事柄につき、異つた話が傳はつて居れば、之をも併せて擧げることである。
 孫徳謙は以上の項目を擧げてゐるが、これは勿論もつと簡單に總括することもできる。この中には、劉向以前に始まつたこともあり、向以後に始まつたこともあり、これが悉く向の目録學にあるとは云へぬが、大體かやうに見ても大した違ひはない。この中で、どれが最も大事なことかと云へば、(九)分部類より(十六)辨疑似までが、最も目録學上の特殊なもので、殊に前からあつても、少くとも向に至つて始めて完成したものである。かくの如く、當時あつた學問を總括的に考へ、經書を中心には考へたが、その他の學問も皆古來系統があり、色々の學派が分れて著述のできたことを、即ち學問著述の成生を歴史的に考へたのが向の特色である。

漢書藝文志に遺る二劉の學の究明


 劉向の仕事を※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が相續したが、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の書いた解題は、向のものよりも殘つてゐない。今日殘つてゐるのは、ただ上山海經表だけである。大體に於て向の書き方に似てゐるが、この一篇で見ると、いくらか向よりも學問の仕方が雜駁になつてゐるやうに感ぜられる。ともかく、この二代の仕事は、二十餘年間繼續し、その中、大部分は向がしたので、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)一人で關係したのは僅か一二年である。それ故、全體からは向の仕事と云つてよい。いよいよ完成したのは哀帝の建平年間で、今日の山海經にも、建平元年に校正した奧書きやうのものが、第十三篇の末に附けられてある。もしこの二代の仕事が、全部殘つて居れば大したものであるが、今日では、その極めて省略されたものが、漢書藝文志に殘つてゐるだけである。元來向の別録は二十卷あつたと云はれる。それを※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が省略して七略としたのであるが、七略が一略一卷づつで七卷である。それが漢書藝文志になる時に、餘程節略せられた。しかし幸ひにこの藝文志があるために、殊に班固が之を漢書に取入れるとき、本の目録を増減したり、部類を移したりしたことについては、皆そのことを斷わつてあるので、ともかく七略としての大體は分る。班固の手を入れなかつた前の大體も分る。
 それ故、後の人は藝文志の研究をするのであるが、この藝文志の研究は、隨分古くから始まつて居り、唐の顏師古が漢書の注を書いたときに、すでに當時まだ存在してゐた別録並びに七略によつて、その簡略に過ぎた處をいくらか補つてあるので、之によつて又別録・七略より藝文志に移つて行つた樣子が分る。南宋時代に及んで、鄭樵は藝文志を基礎として所謂目録學、校讐學の大體の輪廓を立てて見た。從來目録を書く人は、皆暗に別録・七略以來の趣意を繼承してゐても、如何なる點が特に目録學として注意されたかを論じたものは無かつたが、鄭樵に至つて始めてその趣意を調べ出すことになつた。南宋の終りに、王應麟が藝文志の研究を始めたが、ただこれは、全體の趣意について論ずるのではなく、藝文志に載せられてゐて、今日なくなつた本について研究をしたのである。とにかく、この頃より以後、藝文志の研究が盛になり、清朝に入つて、章學誠は校讐通義を作つて、詳しい研究評論をするに至つた。今日の支那に於けるこの方面の學者は、皆章學誠の系統を引いてゐる。孫徳謙は漢書藝文志擧例を作り、藝文志の作り方につき、その例を擧げて、特別に注意された點を明かにしてゐる。

二劉(漢書藝文志)の分類法、著述の史的分類


 大體、今日の藝文志、即ち別録・七略を經て來たこの本は、目録そのものが、單なる簿録ではなしに、それ自身が一つの著述の體をなしてゐる。前述の如く、大體はあらゆる書籍を六部に分類し、その六部の各※(二の字点、1-2-22)に更に細目即ち子目を作つた。
一、六藝略  易・書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學・六藝總論
二、諸子略  儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縱横家・雜家・農家・小説家・諸子總論
三、詩賦略  賦・雜賦・歌詩・詩賦總論
四、兵書略  兵權謀・兵形勢・陰陽・兵技巧・兵書總論
五、數術略  天文・暦譜・五行・蓍龜・雜占・形法・數術總論
六、方技略  醫經・經方・房中・神仙・方技總論
この中、詩賦略の子目には總論がないが、その他の子目には各※(二の字点、1-2-22)總論が附せられてゐる。まづこの子目につき書名を擧げ、その一種類毎にそれを總括した文章があり、一略が終れば更に一略全體の總論がある。この時代としては、よほど本の分類の仕方もよく出來、却て後世、本を四部に分けたのより學問的でよい處がある。そしてその一つ一つの書目を擧げるについても、皆相當の意味がある。藝文志は七略を簡單にしたに相違ないが、その必要な目録の書法は、もとのままを守つたらしい。
 その中で注意すべきことは、全體の總論的なこととしては、書籍の歴史的な排列法、分類法の取られてゐることである。それは本の出來た時代の順に書くといふことではない。歴史的なりといふ意味は、大體、本の出來て來る由來から分類の仕方を考へたことである。經書を六藝その他に分けるのは勿論、最も骨を折つたのは、諸子略の儒家以下九流について書いたことである。勿論六藝でも、易は如何にして出來たか、書は昔如何なる種類のものがそれらに纏まつたかといふ風に由來を説いてゐるが、殊に九流では、九流が悉く昔の官師から出たことを説いてゐる。例へば、儒家は司徒の官に出づ、道家は史官に出づとあり、その外、陰陽家は羲和の官(天文の官)に出で、法家は理官(裁判官)に出で、名家は禮官(禮儀を司る。名と實とを合致せしむるを職とす)に出づといふやうに、すべて昔の官職に歸することを論じてゐる。かくの如く學問を歴史的に考へるのが二劉の學の特色である。その他の詩賦略以下も皆由來をたづねたが、殊に九流については、由來の外に長短得失を論じてゐる。その見方は、九流が皆官師から出たから、初めは皆社會組織の必要から出た職務であつたが、それが漸く一家の説を作り出した。そして或る時代には、九流百家が各※(二の字点、1-2-22)その長所を盛に鼓吹し、己れ一家の學さへあれば、他の學問はなくとも國家を治め得べしと考へたが、根本は皆六藝略に載せられた六家の支と流裔とであると考へ、その各※(二の字点、1-2-22)の一派のものが、その自己の説を誇張するにつけて、その説の偏つた處をむやみに大きくして行き、そこから弊害ができ、各家の主張するやうな九流の著述が出來たといふのである。もと國家の機關であつた時には衝突はなかつたが、各※(二の字点、1-2-22)極端に自説を張るに至つた爲め、各説相衝突するに至つたのであるとの考へである。これは勿論九流各家より云へば承服すべからざる議論であつて、二劉の説は、儒學、六藝を中心としてあらゆるものを歴史的に見るところからかくなつたのである。二劉の考へでは、儒學を中心にし、六藝を中心にするのは獨斷ではなく、すべての書籍を歴史的に見るところから來てゐる。即ちもろもろの書籍の中で、六藝の書のみは、古のものをそのまま傳へてゐるので、歴史的に考へて誤りなく、手を入れずに傳へられてゐるが、九流の書は、各※(二の字点、1-2-22)の説を主張する爲めに、その材料を誇張變形して傳へてゐる。但し六藝の書に失はれたことも、九流の書に殘つてゐるものがあるから、この點を取れば役に立つといふ意見である。大體諸子略だけは六略中特別なもので、その他はすべて昔のものがそのまま傳へられたものである。

二劉の學と司馬遷の史學


 これは、ともかく、その當時までに支那に出來てゐた本を總括して考へたものであるが、この漢代までの支那の學問を總括して考へたものに、二通りの種類がある。一は司馬遷の史記で、一は二劉の學である。司馬遷の史記も、當時までのあらゆる本を總括して考へてゐるが、その考へ方は、司馬遷の場合は、例へば九流諸子の書、六藝の書に據つて書いても、その各※(二の字点、1-2-22)の職務、各※(二の字点、1-2-22)の流儀の學で持ち傳へてゐる事柄は史記には書かず、その傳來して來た書籍を調べるについて、歴史・傳記の必要があるので、その部分を書いた。單に本の由來を知るためのみではなく、あらゆる學問の中で、最も總括的な最大の學問は史學であつて、史學は世の中を經綸する學問であり、史學が古來から漢代までの學問の關係を知る學問であるとし、この根本の古今一貫した學問を知れば、當時世に殘つてゐる書籍はそれによつて總括せられ、色々の本はあつても、その全體に關係があり、世の中の經綸に役立つといふ考へで史記を書いたのである。
 二劉はこれと異り、司馬遷が史記に載せないで、そのままにして世間に殘しておいたその方を全體に總括したのである。これは一書毎に解題を作り、その由來・主張・得失を一一の本について書き、之を子目ごとに一纏めにし、更にそれを一纏めにして六略の各部類とし、全體を六略とし、その六略の上に輯略を作つて全體を總論した。即ち各※(二の字点、1-2-22)の本の部分的方面より見て行き、最後に總括されたところで、人間の思想・技術が古來如何に動いたかを見たのである。即ち司馬遷の殘した部分的のものを一つに纏めた。當時の學としては、司馬遷の如く歴史の中心から總括したものと、二劉の如く各部分より總括したものと、この兩方より見て全體の學問が分るのである。
 かくて司馬遷と二劉との考へは大分異る點がある。司馬遷は史記の一家の學を以て全體の本を總括せんとしたから、自ら春秋の意を取り、之に繼いで作ると考へてゐるが、六藝全體は殆ど之を總括して、六藝の正統の書として史記を作つたと考へてゐる。二劉より見れば、史記は春秋に繼いで作つた本で、六藝略に入るべき一書に過ぎぬ。司馬遷から云へば、二劉のしたことは枝葉のこととなり、二劉よりすれば、枝葉の全體を總括するのが學問であり、史記もその一部分といふことになる。司馬遷は史記を作つて學問を總括したと考へ、史學を學問全體の總論と考へたが、それより百年もたつた後の二劉は、史學の獨立を認めず、六略にも史學はない。これは當時史書の數が至つて少かつた爲めもあらうが、根本は見方の相違である。司馬遷が史學を創立したのは、過去の事實を總括したのみではなく、將來の學問を暗示したものであるが、二劉は過去の學問を總括することを以て學問とした。しかしともかく、この二書は、漢代の最大の學術的收穫で、これだけで支那の學術は盡きてゐると云つてもよい。その後、書籍も色々出來、分類法も色々變つたが、全體に於てこの二大學問の流れに過ぎぬ。その後、史學即ち司馬遷の始めたことは大發展をし、書籍の分類の一大部分を占めることになつた。又あらゆる支那の學問に、司馬遷の考へたやうに、春秋の法を以て事實を記録する精神を與へた。一方書籍の分け方は、二劉の後も、彼等の最初考へた六略の趣旨を出ない。ただ史學が厖大に食み出しただけである。又あらゆる著述・分類に對し、支那人が歴史的意味を以て考へることも少しも變らない。ただ二劉ほどの頭の人が出なかつたので、二人よりも拙いものを作つただけである。

七略の史的書法


 この七略――今日の藝文志を見ると、歴史的に或る著述を考へることは、極めて部分的な一一の本の目録の上にも考へられてゐて、大體に於て、書名の下に附いてゐる注釋なども歴史的に出來てゐる。著者は誰某の弟子で、誰某の家の學であるかといふことがよく注意されてゐる。又大體に於て時代精神といふやうなことも考へられてゐる。即ち書名は古くとも、六國の時に出來たものは、六國の時の作と斷じ、著者の傳が明かでないものは、誰某と時を同じくすると云ひ、大體、時代により思想に精神のあること、家學の繼續により流派の生ずることを、縱横に注意して、目録の下に皆注をしてゐる。その極めて疑はしいものは疑を存しておき、人の名を借りて出した本は依託といふことを明言し、いよいよ作者も時代も分らぬものは、作者を知らず、時代を知らずと書いてある。又目録の書き方として、一人の著者の本が一つに纏まつてゐても、一方は兵書、一方は諸子に入るべきものあるときは兩方に書いた。これによつても六略は單に書籍の簿録でなく、著述の源流を論ずるものであることが分る。かかることは、單に書名を簿録するやうな簡單な意味ではできることではなく、あらゆる本を皆讀み、學問の組織系統の全體を知つた人でなければできないことである。目録學が著述の總論たるはこの點にある。この點は二劉が目録を作るのに極めて進んだ例を示したので、この後、彼等ほどの知識もなく頭もない人が作つても、この手本があるので、比較的によく出來、精神の貫通した目録が出來てゐる。これは二劉の支那の學問上に於ける大なる功績である。

七略と漢書藝文志との異同


 漢書藝文志を讀むのに、細かい點で注意すべきことは、七略との關係である。班固はこれについて、出・入・省・加・續といふことを考へた。入とは二劉の時に無かつたものを班固の時に加へたものである。又時には分類法の意見の相違によつて直した例があり、これには一方には出、一方には入として編入替へをするのである。これらによつて七略と藝文志との相違の點がよく分る。又省は七略にあつたものを省いたものであるが、省いても、もとあつた本の名前を殘したので、全然抹殺したのではない。加は或る一書が前に出來上つてゐたのに後人が附加したもの、續は二劉から班固までの間に後人が書きついだものである。かかることについては、孫徳謙などの特殊な研究家が出來て、七略と藝文志との異同を明かにするに至つた。もつとも、これらの研究により、藝文志・七略・別録に關するあらゆる疑問が解けた譯ではない。孫徳謙が漢書藝文志擧例を書いたとき、王國維がその跋文を書き、まだ解決の出來ない問題を數條擧げてゐる。その中には、今日解決の出來るものもあるが、この研究は將來も行ふ必要あるもので、支那古代の學問の總括された状態を見るに最も肝要なものであり、支那の學問の續く限りはいつまでも必要である。

六朝に於ける四部分類法


 劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が七略を作り、漢書藝文志が之に據つてから、書籍を七部に分類することは、六朝の中頃、梁の頃まで繼續した。もつとも梁頃までの間に、同じく七部でも、その内容は段々變化して行つた。さうしてその間に支那後世の書籍の分け方即ち四部に分ける方法が現はれて來てゐる。この四部に分けることは、三國の魏の時より始まり、魏より梁までは、四部と七部の分類法は、色々混雜してまだ一定しない時代であつた。隋書經籍志に至つて始めて四部の分け方に一定して、その後は支那の目録はすべて四部の分け方になつた。
 この四部分類法の擡頭したのは魏の時代と推測されるのであるが、隋書經籍志によれば、それは魏の祕書郎鄭默に始まつてゐるらしい。實は鄭默が果して四部に分けたかどうかは判然しないのであるが、彼の作つた書籍目録に中經といふのがあり、晉の荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)が之に對して中經新簿を作り、これは四部に分けたとあるから、中經も四部に分けられてゐたのであらうと推測するだけである。但しこの頃の四部は、隋書經籍志以後のものに比べて差違がある。中經新簿は、甲乙丙丁に分けてはゐるが、その内容は
甲部 六藝及小學等書
乙部 古諸子家・近世子家・兵書・兵家・術數
丙部 史記・舊事・皇覽簿・雜事
丁部 詩賦[#「詩賦」は底本では「詩譜」]・圖讚・汲冢書
といふ分け方である。これで見ると、甲部は藝文志の六藝略に當り、乙部では、古諸子は諸子略に當り、近世子家は漢以後晉までに著述されたものであり、兵書と兵家とに分けたのは、兵書は兵家の如く一家言をなしたものでなくして、普通の軍事に關したものを云ひ、術數は藝文志の數術であるが、恐らく方技を含むのであらう。丙部の史記は一般の歴史の書籍、舊事は歴史に類するが主として故事を集めたもの(掌故)、皇覽簿・雜事は後世の類書に當る。この四部では、乙が諸子部、丙が史部であるが、後世の四部では、乙が史部、丙が子部となつた。なほ後世では類書は子部に入つた。丁部では、詩賦は藝文志の詩賦略に當るが、その外色々のものを寄せ集めた。汲冢書は、荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)が目録を作る頃に始めて發見されたもので、荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)は目録を作る時に、汲冢の竹書――汲郡の塚から竹書紀年・穆天子傳などの書が出た。但し今日のものはもとの形ではない――を特別に丁部の末に附載したものの如くである。荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)は當時の物識りであつた張華とともに、この目録の整理をしたが、大體は劉向の別録により、錯亂せるを整理し、汲冢書を加へて作つたといふ。このことは文選の中の王文憲集序の李善注に見えてゐる。
 その後、四部の目録を採用したものに、梁の任※(「日+方」、第3水準1-85-13)・殷鈞の二人で作つた四部目録があると云はれ、この時、書籍が文徳殿に集められたので、四部目録の外に文徳殿目録を作つたといふが、その四部の分け方は傳はらない。ただその術數の書だけは別に一部としたので、梁の目録は五部になつたと云はれるから、この四部は荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)の四部とは多少異つたものである。

簿録に墮した四部分類法


 かく書籍を四部に分けることは、魏晉の間に始まつたが、これは恐らくその内容の意味から分類されたのではないであらう。大體荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)が中經を作つた時、「但録題及言」又「至於作者之意、無所論辯」と云はれ、この目録はただ表題と内容の一部とを書いたもので、別録・七略の如く作者の意にまで立ち至つて論辯したのでないことが分る。それ故、この目録は、眞に書籍の出來る由來を考へて分類したのではなくして、單に置き場所の都合によつて四部に分けたものの如くである。このことは又次に述べる如き他の證據からも推測される。今日では、漢書藝文志より隋書經籍志までの間には、書籍の目録として詳細に書名を書きあげたものは殘つてゐないが、その間にあつて、目録學にとつて非常に大切なことを書いたものが一つある。それは梁の時の處士阮孝緒の七録である。その全文は今日散佚して殘つてゐないが、ただその序だけが佛教の文集なる廣弘明集の中に載つてゐる。今日では六朝の間の目録學の書としては、これがよほど大事なものである。これによると、四部の目録がすでに荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)の時より出來てゐるが、それは重要なものとは認められずに、やはり書籍の分類法としては、七部の分け方が採用されてゐるので、この時分の四部目録は、單に所謂簿録の上の分け方であつて、二劉の如く、目録學として成立した分類法でないことが知られる。
 ともかくこの七録の序は、目録學の歴史を知る上には大切なもので、隋書經籍志で不明なことも、これで分ることがある。四部の目録の中、乙と丙とを取り換へ、乙を歴史部、丙を諸子部にしたことが、晉の李充より始まることも七録の序に見える。この李充の目録は、勿論四部に分けることは荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)によつたが、乙丙を取り換へ、又漢書藝文志の如く、その部類に對して名前を附けることもこの時にやめ、單に甲乙丙丁で區分をした。つまりこの時分は、漸く目録の學問が衰へ、單に簿録を主として、内容を評論することはなくなつてゐたらしい。

七部分類法の復興――王儉の七志


 内容を評論し、内容によつて書籍を分類する目録學の復興する傾きのある時は、常に七部の分類法に歸るのである。阮孝緒以前に、宋に王儉があり、目録を作つて七志と云つた。これは、前の荀※(「瑁のつくり+力」、第3水準1-14-70)・李充の四部の目録によつたものに、宋初の有名な文人謝靈運の作つた四部目録があつたが、この時これを改正し、又大體に於て別録七略時代の内容的の分類法に復歸せんとしたものである。この七志の分け方は、
一、經典志 六藝・小學・史記・雜傳を紀す
二、諸子志 古今諸子を紀す
三、文翰志 詩賦を紀す
四、軍事志 兵書を紀す
五、陰陽志 陰陽圖緯を紀す(隋書經籍志には陰陽圖緯としてゐるが、阮孝緒の七録序の説では數術に當るとしてゐる。)
六、術藝志 方技を紀す
七、圖譜志 地域及び圖書を紀す
となつてゐるが、この外、七略にも藝文志にも中經簿にもない本、並びに方外の經、即ち大體佛教・道教の本は、七志以外として附録した。これは七志の數に入らぬが、新部類である。故に王儉の七志は實は九部類に分れると隋書經籍志に云つてゐる。この七志の分け方は大體、別録七略の分け方に復舊したので、四部の分け方を慊らずとしたのである。經典志の中に、史記などの歴史部のあるのがその著しい證據である。ただ地理・地圖に關係したものを新たに作つたのは、一體六朝時代には地志の類が多く出來た。別録七略時代には、地志はまだ一つの部類とならず、山海經の如きは、數術中の形法家に入れられ、即ち土地の吉凶を觀る、支那に今日ある風水・相墓・相宅の部に入れられたのである。然るにこの以後、地志の書が多くなつたので圖譜志の一類を創めたのである。漢書藝文志までは、七略といつても實は部としては六略で、あとの一つは總論であるが、王儉の七志では皆部類となつた。大體に於て別録七略への復舊であるが、その間、新しく出來た本のために新たな部類を作ることの已むを得ぬことが、この時に現はれた。又古にはなかつた佛教・道教の本も、七志の外として新たに部類を作らねばならなかつた。この時の目録は大部なものであつたと思はれ、七志の卷數は四十卷あつたといふ。

阮孝緒の七録


 この分類は、梁の阮孝緒が七録を作る時に至つて又變化した。阮孝緒は、その分類の方法、考へ方を詳しく述べてゐる。七録の分け方は、全體の本を内篇と外篇とに分け、一より五までが内篇、六七が外篇である。これは佛教の方で佛教の本を内典とし、儒教の本を外典とするのと正反對で、支那在來の本を内篇とし、佛教・道教の本を外篇とした。七録の分け方は左の如くである。
經典録内篇第一 易部・尚書部・詩部・禮部・樂部・春秋部・論語部・孝經部・小學部
記傳録内篇第二 國史部・注暦部・舊事部・職官部・儀典部・法制部・僞史部・雜傳部・鬼神部・土地部・譜状部・簿録部
子兵録内篇[#「子兵録内篇」は底本では「子兵録内典」]第三 儒部・道部・陰陽部・法部・名部・墨部・縱横部・雜部・農家部・小説部・兵家部
文集録内篇第四 楚辭部・別集部・總集部・雜文部
術技録内篇第五 天文部・讖緯部・暦算部・五行部・卜筮部・雜占部・刑法部・醫經部・經方部・雜藝部
佛法録外篇第一 戒律部・禪定部・智慧部・疑似部・論記部
仙道録外篇第二 經戒部・服餌部・房中部・符圖部
これについて阮孝緒は、
(一)經典録 經典と名づけることは、王儉の七志の從つたと云つてゐる。大體七録は、二劉と王儉とを參照して作つたが、王儉が※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略の六藝といふ名稱では經目を標榜するに足りぬとして經典としたのは都合がよいから之に從ふと云つてゐる。
(二)記傳録 但し※(「音+欠」、第3水準1-86-32)も儉も史書を春秋に附してゐるが、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の時代は史書が少なかつたから春秋に附したのは良い例であるけれども、今は衆家の記傳は經典に倍するほどあり、しかも猶ほ王儉に從つてこれらを經典に入れては、多過ぎて蕪雜になるとて、經典より史傳に關するものを拔いた。さうして、かかることをしても差支ない例として、七略の詩賦は別に一部類をなして、六藝の詩部に入つてゐないが、これは當時詩賦の數が多かつたので一部類を立てたのであるから、その例によつて、多くの史書を經典部より分つて記傳録とした。
(三)子兵録 諸子部は※(「音+欠」、第3水準1-86-32)も儉も同じく諸子と稱した。然るに※(「音+欠」、第3水準1-86-32)には別に兵書略がある。これを王儉は、兵の字が淺薄で、軍の字の方が意味が深廣であるとして、改めて軍書志とした。然るにこれは王儉の考へが必ずしもよくはなく、古より兵の字の用ひ方廣く、武事の總名となつてゐるから、やはり軍と云はず兵といふ方がよい。しかし兵書は數が少い。一部門を立てることは不都合であるから、これを諸子と合併して子兵録とする。
(四)文集録 王儉は※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が詩賦略と云つたのを、詩賦だけでは言葉がせますぎて他の種類を兼ねられぬとて分翰と改めたが、文を作れるものはすべて之を集にする。よつて翰を改めて集とするがよいとて文集録とした。
(五)術技録 王儉は※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の數術といふ名稱は繁雜であるとして陰陽と改め、方技の語は昔の本に典據がないからとて改めて術藝とした。しかし阮孝緒は、陰陽は數術の包括的なるに及ばず、術藝は六藝と數術とにまぎらはしいから、やはり方技の方がよいとした。但だ七録では道教を別に立てたので、方技の中より房中・神仙を除いてその方に入れた。そこで方技は書數が少くなるので、方技と數術とを合併して術技録としたのである。
 王儉の圖譜志は※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略にはない。七略に暦譜があるが、王儉の圖譜とは別物である。大體は圖譜は圖畫に關係するが、圖畫は何れも獨立したものではなく、書籍に附屬したものであるから、元來書籍の中に附した方がよい。又圖譜の中には繪ときのやうな注記のあるものがあるが、これは記傳録の末に附した。以上を内篇とする。
(六)佛法録 佛教が支那に入つてから、孔子の派と殆ど同じだけの本が出來た。王儉はこれを載せても、七志の外に出したが、落着きが惡いので、之を一部として外篇第一とする。
(七)仙道録 これは古くからあるが、※(「音+欠」、第3水準1-86-32)は神仙を方技の末に入れ、王儉は道經を七志の外に置いた。今、仙と道とを合して外篇第二とする。王儉の目録では、道を先にし佛を後にしたが、今之を佛道の順序に換へたのは、教に深淺あるによると云つてゐる。
 七録は梁の普通四年に出來たが、これは王儉の七志と比較してゐるので、之によつて七志の趣旨の大體を窺ふことが出來る。七録には、その末に、文字集略三卷と序録一卷とが附いてゐる。これは阮孝緒自身の著述のやうであるが、果して初めから七録に附けたのかどうか分らない。その外の阮孝緒の著述と共に、廣弘明集では附載してあるが、これは廣弘明集の作者が加へたのかも知れぬ。これによると、七録は大體十一卷の著述である。

七録と隋書經籍志との比較


 七録の目録の大きい分け方は前述の如くであるが、その子目を見ると、七録に分れてはゐるが、すでにその内容に於ては、次第に隋書經籍志の四部の分類に近くなつてゐることが分る。さうしてその或る部分は、著録された書の卷數まで殆ど同じい處があるから、今日七録の書籍一一の目録は殘らないが、或種のものは、その書籍も隋書經籍志と同じものを含むのではないかと思はれる。七録と隋書經籍志との子目の異同を比較して見ると、
(七録)經典録 易・尚書・詩・禮・樂・春秋・論語・孝經・小學
(隋志)經部  周易・尚書・詩・禮・樂・春秋・孝經・論語・讖緯・小學
大體は同じく、ただ隋の時に、讖緯を禁じて、これに關する書を燒いたので、七録では術技録にあつた讖緯を、隋志では經部に列して、僅かに殘つてゐた書籍を擧げた。
(七録)記傳録 國史・注暦・舊事・職官・儀典・法制・僞史・雜傳・鬼神・土地・譜状・簿録
(隋志)史部  正史・古史・雜史・覇史・起居注・舊事・職官・儀注・刑法・雜傳・地理・譜系・簿録
七録にあつて隋志にないのは鬼神であるが、如何なる種類のものであるかは分らない。隋志に新たに出來たのは古史・雜史の二つであるが、これはもと國史の中に入つてゐたのであらう。僞史が覇史となつてゐるなど、多少名目上の差はあるが、要するに内容は大體同じであつたことが認められる。
(七録)子兵録 儒・道・陰陽・法・名・墨・縱横・雜・小説・兵
(同)術技録  天文・讖緯・暦※(「竹かんむり/卞」、第4水準2-83-31)[#「暦※(「竹かんむり/卞」、第4水準2-83-31)」は底本では「暦※[#「竹かんむり/下」、U+25AEB、398-1]」]・五行・卜筮・雜占・刑(形)法・醫經・經方・雜藝
(隋志)子部  儒・道・法・名・墨・縱横・雜・農・小説・兵・天文・暦數・五行・醫方
七録の陰陽家は隋志では五行に入つたのであらう。讖緯は前述の通りである。卜筮・雜占・形法も五行に合せた。醫經と經方とを分けるのは、漢書藝文志の分け方で、基礎醫學と醫術を分つたものであるが、之を合併して醫方としたのは學問の退歩である。陰陽のなくなつたのも、諸子の學の衰へたのを示す。且つ隋志では、かく子目は多いけれども、各部門に載せた本は極めて少い。
(七録)文集録 楚辭・別集・總集・雜文
(隋志)集部  楚辭・別集・總集
隋志では雜文は總集に合せた。これも七録の方が幾分精密である。
 佛法録は、戒律・禪定・智慧・疑似・論記とあるが、この分け方は、今日現存する佛書のどの目録とも合はない。隋志とも勿論合はない。隋志は大乘・小乘を分ち、經・律・論に分けてゐる。七録は戒・定・慧の三學から分け、内容的分類であつたが、後には便宜的の分類が盛になり、内容からの分類は起らなかつた。阮孝緒の頃は、僧祐が出三藏記を作つた頃であるが、これはもつと便宜的の目録で、殆ど學問上の意味をなさない。大體佛教の方の目録は、その後まですべて索引目録が主で、内容目録になつたことはない。佛教學者には目録の智識は發達しなかつた。この頃から佛教には僞物が多かつたと見え、疑似の部がある。又論記は後に生じたものを別にしたので、この區分法はよく出來てゐる。
 仙道録の子目は、經戒・服餌・房中・符圖であるが、これは隋志も殆ど同じで、ただ符圖が符録となつてゐるだけである。この中、服餌・房中・符圖の三部は隋志と卷數まで同じである。その間、全く道教の本が殖えなかつたのではないが、隋志の時、著録すべき本として取り上げられたものは、七録の時と同じであつたことが分る。

六略より四部への過渡とその意義


 七録の中には、右の如く佛法・仙道が加はつてゐるのであるが、隋志では之を四部の外に出してゐる。故に七録でも之を除けば、實際は五録に過ぎぬのであつて、この五録は梁の時の官書の五部と一致してゐるのであらう。さうして五録と云つても、子兵と術技とを合すれば子部になるのであるから、その内容は殆ど四部に近い。七録は漢書藝文志の六略より隋志の四部に至る過渡に現はれたもので、これを兩者の間に挾んで見ると、その變遷の有樣がよく分る。七録は單に録の名と子目だけが殘つて、書籍名は一つも無いけれども、之によつて大體を知ることができる。
 この六略が四部となりつつあるのは、やはり支那の學問の變化によるのであつて、專門の學術は次第に衰退しつつあることを示してゐる。史部の書の増加することは、年數のたつとともに當然であるが、歴史としても、初め司馬遷が史記を作つた時のやうに、春秋の後を繼いで一家の言を立て、著述者の批判によつて作り上げる歴史は次第に衰へ、單に記録そのものの種類が増加することが分る。記録が自然に積み重なり、史部が大きくなり、經書から離れて獨立したのであつて、史學の學問の上からは退歩である。殊に著しいのは、術數の部の子目の數の減つて行くことで、これは專門の學術の退歩をよく表はしてゐる。もつともその中には、天文・暦算の如く進歩しつつあるものもあり、又專門の學とても雜占・卜筮の如く進歩しても役に立たないものもある。ともかくだんだん書籍の種類が減じ、文集の如きものが殖え、人が目的なしに書いたものが著述となる傾きがある。史部と文集との増加は、かかる書籍の増加を意味してゐる。

抱朴子遐覽篇の道經目


 なほ仙道録に關聯して一言して置くことは、これより以前に、晉の葛洪の抱朴子の内篇に遐覽篇があり、それに晉頃までに出來た道經の目録が載せられてゐる。その何の本が七録でいふ四つの種類に當るか明かでないが、その中の諸符といふものが七録の符圖の部に當るものであることが分る。この符の類は、抱朴子にも卷數・種類が書いてあるから、計算すれば分るであらう。大體より見て、抱朴子の符録の種類は、七録・隋志よりも多いことは明かである。ともかく、七録とか隋志とかの仙道部の參考になるものとして知るべきである。

隋書經籍志


 次は隋書經籍志である。これは正史に載つたものとしては漢書藝文志に次ぐものである。隋書の志類は、單に隋書の志でなく、志だけは五朝の志となつてゐる。その中でも、經籍志は又特別で、――大體は五朝は北朝のことを主に書いたが、――北朝は書籍については餘り注意すべきことがないので、梁の目録に重きを置き、それを隋書經籍志を作る當時の目録と引合せて書いてゐる。これは隋書についた經籍志であるが、書籍の現在は唐の時の現在である。その序を見ると、遠くは史記・漢書、近くは王儉・阮孝緒の七志・七録を見て參考して之を作つたと云つてゐる。隋書經籍志の序と七録の序とを見れば、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略以來の書籍の増減、その傳來、集散などの大體を知り得る。七録には既に七略から漢書藝文志、晉の中經、その他南朝の書籍増減の總數を書いてゐるが、隋志にも書籍集散の事情をよく書いてゐる。書籍の選擇についても、隋志はよく考へてあつて、舊來の目録に載つてゐるものでも、役に立たぬつまらぬものは之を削り、昔の目録に落ちてゐるものでも、役に立つものは之を入れたと云つてゐる。又各※(二の字点、1-2-22)の書籍の下に、梁の時に於けるその書の有無及び梁の時との卷數の異同を注してゐる。梁の時といふのは、はつきり斷わつてないが、七録に據つたのであらう。梁の時には官書の目録もあつたが、それは唐初に存在したかどうか分らぬ。確かに存在したのは七録で、七録との異同を書いたものであらう。梁の時にあつて、隋志の時に亡んだ本も入れてあるので非常に役に立つ。これによつて七録を復活して見ることが出來る。勿論七録にあるのを省いたのもあらうが、ともかく、隋志に梁にあつたと書いてあるものによつて、七録の大部分は復活される。復活できないのは、佛法・仙道の二録で、これは四部以外のものとして、一一書名を擧げてゐない。
 隋書經籍志の分類は、經・史・子・集の四部であつて、これに道と佛とを附載したが、これは餘分のものとして、一一書名さへ擧げず、四部の分類はここに確定した。そしてこれが正史に入つた結果、爾來四部と一定し、その子目も、多少の變化はあるが、隋志の區分法は、清朝に至るまで行はれることとなつた。隋志は漢志の方法を學んで、各子目の書籍を列べた後には、必ず各※(二の字点、1-2-22)總説があり、四部の各部の終りには、各部の總論がある。ただこれは二劉の時代とは異り、學問の方針は既に二劉の時代に出來上つて居るので、隋志は主にその以後の學問の變遷を書いた。これは漢志以後の書籍の目録であると共に、漢以來の學術の概括された歴史である。尚書ならば尚書の傳來の歴史を詳しく述べ、それによつて、各※(二の字点、1-2-22)の本が如何に傳へられ、如何に學説が増加したかが、之を一見すれば直ちに分るやうにしてゐる。隋書の編纂には唐初の有名な學者が關係し、殊にその志類は學者たちが專門々々によつて關係したので、經籍志に載せた各種類の總説に於ても、沿革をよく概括し、今日に於ても、漢以來六朝の學問の變遷を知るには之に頼らねばならぬやうになつてゐる。子目の種類は、七録の處で云つた通りであるが、かく子目の種類を分合した由來も隋志に述べられてゐる。その書法の大體はよほど漢志に眞似たところがあり、強ひてその型を眞似すぎたところもあるが、ともかく、漢志以後、現存する目録としては、之に越えるものはない。ただそれが漢志の模倣で、獨創でないだけに、二劉時代より學問の衰へを示してゐることは已むを得ない。

經典釋文序録


 隋書經籍志と同時代に、參考とすべきものがある。それは經部としては陸徳明の經典釋文序録、史部としては劉知幾の史通の一部分である。陸徳明は唐初まで生存してゐたが、その前から有名な學者であるから、經典釋文は唐になつてから出來たかどうかは疑問であるが、しかし大體同時代である。隋書經籍志を書いた魏徴よりは先輩であらう。これは易・尚書・詩・周禮・儀禮・禮記・春秋(左氏傳・公羊傳・穀梁傳)・孝經・論語・老子・莊子・爾雅に序録を書いたのであるが、それにはこれらの書の學問に關する傳來と、隋末唐初までの陸氏の見た本の目録を書いたのである。これも阮孝緒の七録を參照し、七録の目録と比較した處があり、これらの書に關する目録としては重要なものである。その傳來に關することは、隋志よりも詳しい位で、今日でも經學の傳來を見るには極めて必要なものとされてゐる。

史通六家


 劉知幾の史通は少し時代が後れ、劉氏は則天武后の時から中宗・睿宗頃にゐた人であるが、この史通は大體武后の時の作で、中宗の時に出來上つてゐる。この本の全體は、當時に至るまでの歴史に關する總論であるが、その中に歴史の種類を分けたところがある。即ちこの書の第一篇に六家篇があり、尚書家・春秋家・左傳家・國語家・史記家・漢書家に分けた。この時は既に隋書經籍志もあり、七録もあり、色々の目録に關する本があり、大體史部の分け方はほぼ一定してゐたが、劉知幾は自己の考へで別な分類法を考へたのである。これは書籍の内容よりは、歴史を編纂する主義の如何よりして分類したものである。内容よりの分類は隋志で十分であるが、彼は歴史の本質を考へ、その主義を見たのである。たとへば、尚書家は或る一つの事件によつて記録する書き方を云ふ、春秋家は、一方には編年體を用ひながら、一方には褒貶の意を以て書いたもので、後に史記は本紀をこの體裁によつて書いた。この後、國史を作るものは、本紀はすべて春秋の體裁によつた。尚書と春秋とを比すれば、尚書は記言、春秋は記事である。――尚書中にも記事に關するものもあるが――後世これによつて、春秋の體裁のものを作り、又尚書と名づけるものを作つたものがあるが、多くはその本來の意味を失つてゐることを云つてゐる。左傳家も編年體であつて、これがむしろ後世編年の正體とされた。春秋の如く褒貶することは後世用ひられず、左傳の如く編年によつて記事を書く方法が盛に行はれるに至つた。元來、傳といふのは、經を解釋する意味であるが、單に解釋に止まらず、詳しい記事を書くことになつた。この體は後世盛に行はれ、隋史に所謂古史家である。(隋史では、紀傳體を正史とし、編年體を古史とす。)國語家とは、國別に書く歴史である。戰國策もこの流儀の歴史であり、その後、支那の國が分裂する毎に、この體裁の歴史が屡々用ひられたが、次第に史記・漢書の體裁が盛になるにつれて、國語家の體裁は衰へたと云つてゐる。史記家と漢書家とは、共に紀傳體の歴史であるが、史記の方は通史で、漢書は斷代史である。これが兩者の間の相違である。大體漢書が出來てからは、正史は斷代史の體裁になつたが、時々は通史の體裁で歴史を書いた人もあり、劉知幾はむしろ正史は斷代史をよしとしたが、後になると、歴史は通史でなければならぬといふ論も起つた。ともかくこの二つの區別あることを認めたのは劉知幾である。大體以上の如く六家に分けたが、これは歴史を作る人の主義より云へば、かかる分ち方も必要であるが、現存せる書籍の分類としては不便であるから、――勿論劉氏は目録學のために考へたのではないが――他には採用されなかつた。しかし隋史で書籍の内容に關する目録が出來るとともに、編纂の主義より來る分類が唐初に考へられたことは、目録學上參考すべきことである。

日本國現在書目録


 支那でこの次に來るのは舊唐書の經籍志であるが、この前に、日本の本でちやうど隋唐兩志の間に出來た日本國現在書目録がある。藤原佐世の撰で、宇多天皇の寛平年間に出來たものの如くである。これは、從來日本で支那の書籍を輸入して居り、そして朝廷の藏書は多く冷然院にあつたらしいが、これが火災に遭つて燒けた。その後再び集めて、この目録が出來たのである。冷然院は火を忌んで冷泉院と改稱した。これは目録學としては、何等取るべき所のないもので、大體は隋書經籍志の分類によつてゐる。舊唐書の經籍志も多く隋志によつてゐるが、分類の内容は變つてゐる。然るに日本國現在書目録は、實際の分類の仕方まで隋志と同じである。舊唐書經籍志は、玄宗時代の古今書録によつて書いたもので、古今書録は見在書目録以前のものであるが、佐世はこの分類は取らなかつたのである。これに載つてゐる本の名を見て、隋志と舊唐志との間にある本を知るためには必要のものであるが、目録學そのものには大した意義はない。

舊唐書經籍志の退歩


 舊唐書經籍志に至つて、目録の學は又一段の退歩をした。この經籍志には、各部門の總論もなく、各子目の總説もなく、單に隋志以後唐代の書籍の集散に關する全體の總論があるのみである。各部門の書籍の傳來、學問の傳來を知るべき材料は全くなくなつた。經籍志とは云へ、單なる簿録に止まり、學問の流別、沿革を知るものとはならず、目録ではあるが目録學とはならぬものになつてしまつた。その總序によると、この書の根據としたところは、玄宗の開元年間に政府の書庫に集められた書籍の目録である。この開元の時の目録作製に關係したものには學者が多いが、その主なる一人に毋※[#「(日+秬のつくり)/火」、U+715A、405-7]がある。この時出來た目録は群書四部録と云つて二百卷あつた。それを毋※[#「(日+秬のつくり)/火」、U+715A、405-7]が省略して古今書録四十卷とした。その後、書籍は散佚し、唐の文宗の時にまた集められたが、再び散佚した。舊唐書經籍志は五代の時に出來たが、五代の現在の書籍には關係なく、開元の盛時、毋※[#「(日+秬のつくり)/火」、U+715A、405-9]の作つた古今書録によつて出來たのである。大體は四部の目録で、隋志と大差はない。ただ古今書録には經解・詁訓が子目に現はれた。しかし舊唐書經籍志では、經解・詁訓は皆讖緯と小學の兩方に合併されてゐる。ともかく、古今書録までは、やはり部に從つて皆小序があつたと云はれ、大體漢志・隋志と同じ體裁であつたらしい。しかしそれは極く大體だけで、漢志や隋志の如き綿密な各部の總論があつたのではなく、主もに新たに目録を作つた所以を明かにするだけのことを、毋※[#「(日+秬のつくり)/火」、U+715A、405-13]は序文として書いたらしい。
 ともかくこの時までは、或る場所に現存してゐた書籍の目録である。漢志は七略に班固が多少出入を加へたが、これは班固が親しく見た本によつて加へたのである。隋志も大體現存を考へて四部に分けたもので、唐初の現存書目である。その以前の七志・七録もさうである。舊唐書經籍志も之を作つた時の現存ではないが、毋※[#「(日+秬のつくり)/火」、U+715A、406-1]の時の現存書目である。日本國現在書目録も現存書目である。この體裁が崩れたのは新唐書藝文志からである。

新唐書藝文志の粗略


 新唐書藝文志は北宋の時に出來たが、これは、總論として書いた書籍集散の沿革も、舊唐書よりは粗略であり、又その目録は、舊唐書經籍志が開元までの本より著録してゐないといふので、その後の本を舊唐志に増入したが、その増入をするについては、何等の據り所を示さず、何處にあつた本かも明かならず、新唐志の作者が見たかどうかも確かでない。舊唐志に著録した本がどれだけ、著録しなかつた本がどれだけと書いてあるだけで、實際に左樣の本があつたのか否かも判然しない。この新唐書藝文志に至つて、目録學はますます墮落し、何もあてにならぬ目録となつた。この時までは、目録學が非常に惡くなつた時代である。もつとも新唐志とても全く據り所なしには増入する譯はないから、何か據る所があつたのであらう。今日から考へると、その如何なるものに據つたかを書かなかつたのが、この藝文志の大缺點である。それまでの目録は、すべて何處にあつたどういふ目録といふことを斷つてあるが、ここに至つて之を斷ることがなくなつた。これは歴史編纂上よりも、又目録學の上からも、著しい退歩である。この後、又次第に目録學復興の傾向が現はれた。

崇文總目


 前述の如く、正史に載せられた目録は、新唐書藝文志に至つて、最も粗略にして目録學の體をなさぬものとなつたが、同時に他の方面に於て、漢書藝文志・隋書經籍志などの體裁を學んで作られた目録が出來てゐた。それは崇文總目である。不思議なことには、新唐書藝文志も崇文總目も、同じ人が關係してゐる。當時の有名な文章家歐陽修は、新唐書の主もな編纂者であり、同時に崇文總目の序録の大部分もこの人によつて作られた。崇文總目は、やはり四部に分けられた目録であるが、六十六卷もあつた大部のものが、今日では殘缺してしまつた。崇文總目の出來たのは慶暦の初めで、即ち宋の仁宗時代である。これは多分宋の末頃までは滿足な本が殘つてゐたらしいが、既にその前、南宋の初めからその略本が行はれ、後になつてその略本だけが行はれて、足本はなくなつた。清朝になつてから、四庫全書館で、これを出來るだけもとの體裁に復さうと試みた。それから又、錢※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)(錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)の一族)の兄弟友人等が協同して、この書の復舊を試み、その本は既に版になつた。之を復原するについては、大體、歐陽修の文集中にある崇文總目の序録を取り、序録以外はその他の本から取つた。文集から取つた序録は、經部・史部の殆ど全部と子部の半分ほどである。これで見ると、この崇文總目の編纂には、歐陽修はよほど有力な一人であつたと思はれる。然るに新唐書には粗略な目録を作つたのは、一方崇文總目に於て漢志・隋志以來の目録學の系統を相續するつもりで、新唐書の方を略したのかも知れぬ。
 この崇文總目は、若し殘缺して居らなければ、相當立派なもので、隋書經籍志以來の學問並びに書籍の變遷を見ることの出來るものであつたかも知れない。その歐陽修の序録の中には、隋志と同じことを書きながら、遙かに隋志より體裁の整つたところがあり、學問の沿革を見るについても、非常にはつきりした觀念を與へる所がある。崇文總目は、後になつて、南宋の鄭樵などからは大いに攻撃されてゐる。それは一部一部の書籍に一一解題を附けたのがつまらぬといふ論である。大體分類さへ精密にしてあれば、一部一部の本に解題を附けるに及ばぬといふのが鄭樵の論である。これは又後世の學者から反駁を受けた。大體鄭樵は、今日の漢志・隋志ぐらゐを目録としての標準としたので、漢志の前に七略あり別録のあつたことを察しない議論である。それで單に目録學としては、本の名前をはつきりと書き、分類を精密にすればそれでよいといふ議論である。勿論崇文總目に書籍の一一の解題があつたとしても、到底それは七略別録の如く、著者の意志をうまく酌み取り、その學派の所屬を明かにし、分類の方法と相應じて批判的な目録を作るといふほど立派なものではあり得ないに相違ない。鄭樵の苛酷な批評も必ずしも全然當らずとは云ひ難いが、しかし後世の本には、書名によつて内容の如何を十分に知り難いものが往々にあり、多少とも解題のある方が目録として望ましいことである。目録の學問としては勿論七略別録などと對立するほど立派なものではないに違ひないが、幾分か目録學の意味を殘さうと試みた本であるには相違ない。これが全く略本だけ殘り、もとの足本がなくなつたのは遺憾なことであるが、かくなつたのは、鄭樵の議論の影響で、書名のみが殘り本文は削られたのであらうといふ人もあるが、これは然らずといふ説の方が確かのやうである。ともかく歐陽修の文集その他から、この大切な宋代の目録を、いくらかでも復原し得ることは、目録學の沿革を知る上には幸ひである。

唐宋間に於ける子目の變化


 崇文總目は大體に於て唐の開元四部録の體裁によつたと云はれる。開元四部録が今日見られない以上、唐宋時代の目録の分類法は、崇文總目によつて見るのが捷徑である。この唐宋の間に、隋志の分類の子目が多少變化した。史部の中では、隋史で古史と云つたのは、舊唐書經籍志以後は皆編年と云ひ、部類の本質を現はすに至つた。新唐書藝文志並びに崇文總目より、實録といふ部門が出來た。その代り起居注などといふ種類がなくなつて來た。單なる起居注では非常に量が多くなるところから、唐頃より後には、之を編纂したものが現はれた。それで新唐書藝文志では、起居注類の中の小分けとして實録が入つてゐるが、崇文總目になると、實録の部を設けたが、起居注は全く省かれてゐる。しかし全く起居注の類がなくなつたのではなく、後の目録には復活したものもある。新らしい記録の仕方が出來ると共に、新らしい部目の出來ることが分る。六朝から唐の間に、氏族に關する系譜類が多く出來た爲め、隋書經籍志には譜系があり、舊唐書經籍志・新唐書藝文志には譜牒類があつたが、崇文總目では氏族部とした。又從來は年中行事のやうな種類のものは大體、朝廷に關するものが主で、それらは儀注類か故事類に入つてゐたが、崇文總目には歳時類が出來た。民間に於ける年中行事の書が多く出來た結果である。次第に年中行事の必要が貴族から民間に普及したことが分る。
 子部の方でこの間に新らしく出來た部類は、類事(舊唐志)もしくは類書(新唐志・崇文總目)である。これは別に子部として何等一家言をなすものでもなく、何等特別の技術・藝術をなすものでもないが、何がなし世間のことを一般の人が知る必要より類書類が多く出來た。天子の爲めに出來た類書、試驗を受ける人の爲めの類書もあり、天子の爲め詔敕を作る翰林の人々の仕事の必要から出來た類書もあり、政治上の必要から官吏その他の爲めに出來た類書もある。大體一家の主義をなすためではなく、すべての事を一通り知るための本がこの時代に必要とされた。なほ崇文總目では、道家・釋家の本も子部の中に入れてゐる。
 集部の中で特別なことは、新唐書藝文志・崇文總目ともに、文史類が出來たことである。これは大體、批評學である。近來の目録には詩文評類があるが、文史類は幾らかこれより廣く、且つ一部分の零碎な批評の外に、全體の著述を批評的精神で見るものをも含む。この部類の内容としては、詩文の評もあり、史通のやうなものまで新唐書藝文志では含ませてある。崇文總目では史通はこの中に入らぬ。そこは同じ歐陽修が兩方に關係しても、總體の人の意見が異つたのかも知れぬ。しかし主もな本としては文心雕龍などが中心となつてゐる。これが目録の最後の部類を占め、殊に新唐書藝文志では、これが何となしに目録學の結論のやうな形をなしてゐる。事實この種類の本に、別録・七略の精神が幾分殘つてゐる。新唐書藝文志は、心あつて史通までもここに入れたかは分らぬが、ともかく文史類が最後を占めてゐるのは、當時、批評學が目録の最後に來ることの必要が自然に感じられたのであらう。
 この新唐書藝文志・崇文總目の間は、目録學の一つの時代で、正史の中に入れられた目録は惡くなつたが、その代りに崇文總目の如きものが特別の著述として出來ることとなつた。その後、南宋の時代には又一つの特別の状態が出來る。

宋祕書省續編到四庫闕書目


 南宋の初めには、當時の朝廷としては、崇文總目にある書籍を復興せんとする傾きがあり、その爲めに出來た目録がある。もつとも崇文總目の時からして、官庫にある書籍の全部を録したといふ譯ではなかつたらしく、ややもすると、當時有つたに違ひなく、しかも必要な本で、總目に載せられてゐないのがあるらしい。一一引合せたことはないが、偶然の經驗から氣づいたのでは、當時司馬光が資治通鑑を作る時に(崇文總目の出來たより後のこと)引用した本の目録が、南宋の時の高似孫の史略に載せてあるが、その中に五胡十六國のことを書いた十六國春秋がある。それが崇文總目にはないやうである。この載るべき筈のものが載らなかつたことは、支那の學者も注意してゐる。官庫の書目より多少ぬけたり、故意に載せなかつたもののあることは隋志と同程度である。しかしともかくこれは官庫の目録である。それ故、南宋に於て書籍を復興せんとするや、宋祕書省續編到四庫闕書目を作つた。これは崇文總目を根據として、南宋の初め戰亂の後の現在書目を調べ、崇文總目にあつて闕けたものには闕と注し、搜訪に便するやうにしたものである。その時崇文院は祕書省と改まつた。これは崇文院の復興を目的として作つたもので、朝廷はこの時まで崇文院を標準としてゐたのである。
 しかしその時既に目録に關する議論も新たに起り、南宋時代には目録學上に新現象が又起つて來た。新らしい考への出來たのは即ち鄭樵が通志を書いた時、その中に藝文略と校讐略とを書いたことで、これは目録學上よほど大切なことである。そのことは後に述べる。

私家書目の勃興――遂初堂書目・郡齋讀書志・直齋書録解題


 今一つの新現象は、個人の藏書目録の盛になつたことである。その中最も有名なのは、尤袤の遂初堂書目、晁公武の郡齋讀書志、陳振孫の直齋書録解題などである。遂初堂書目は全く書名と卷數だけを擧げた目録で、これは鄭樵の議論によつたのだらうと云はれる。他の二つはいづれも詳しい解題のある目録である。もつとも學術の源流を調べるといふやうな大著述の志でしたのではなく、ただ自家の所藏本につき、卷數等のことを調べ、本の大體の性質、多少は本の沿革を書いたものである。それ故、これに載つてゐないからとて、當時その本が全く絶えてゐたとも云へず、これにあるのが當時の完全な本とも云へない。崇文總目の如きも、この二書には單に略本の一卷本しか載つてゐないが、その後まで崇文總目の完本があつたことは事實である。しかしこれに載せられた本の卷數は、その後今日まで引き續き存在する本が、南宋の時代に如何なる體裁であつたかを調べるには必要である。崇文總目は殘闕して、もとの形はなく、宋の官庫の目録で詳しい解題のあるものがなくなつた後に、幸ひにこの二書が殘つたので、後世の藏書家からは、この二書は頗る珍重された。
 この個人の藏書目が盛になつたのは、やはり南宋頃に學問が一般に普及した結果である。從來は目録は官庫のもので、阮孝緒の七録も、私に作つたものであるけれども、私藏の本とは云ひ難い。南宋の時になつて初めて私家の書目が色々編纂されるやうになつたのである。これが南宋の末頃に於ても、すでに書籍の解題を知るためには、この二書以上に出るものはなかつたと見え、馬端臨の文獻通考の中に、經籍考といふ書籍志を作る時には、大部分はこの二書に據つたのである。馬氏は勿論この外にも參考したが、一部一部の解題としては、多くこの二書に據つた。かかることが南宋に起つたが、これよりも更に大きな問題は、鄭樵の通志にある藝文略・校讐略が目録學に與へた新らしい考である。

鄭樵の通志の藝文略・校讐略――目録學の理論化


 鄭樵の通志の中に藝文略と校讐略とがある。鄭樵は南宋の初めに出た人であるが、祕書省の四部書の目録は既に見てゐる。彼は大體、史學全體につき、すでに立派な議論を出した人で、歴史は通史が本質であつて、斷代史を不可とする議論である。その目的で通志を書いたが、その中の藝文校讐二略は、目録學について新らしい意見を出した。從來目録學は、二劉以來相傳の精神があつて、目録はその傳統によつて作られたものであるが、次第に本來の趣旨を失ひつつあつた。その相傳の精神は、單に目録編纂の方法に一通り現はれてゐるだけで、その精神を纏めて議論としたものがなかつたからである。ところが鄭樵に至つて古來の目録學の精神を抽出して一纏めにして論じた。それが校讐略である。そしてこれを基礎にして自ら藝文略を作つた。それ故、藝文略は一家の分類法であつて、七略にも四部にも據らない。彼は全體の書籍を十二類に分つた。
經類第一   九家八十八種
禮類第二   七家五十四種
樂類第三   一家十一種
小學類第四  一家八種
史類第五   十三家九十種
諸子類第六  十一家、この中八家が八種、道釋兵の三家が四十種
星數類第七  三家十五種
五行類第八  三十家三十三種
藝術類第九  一家十七種
醫方類第十  一家二十六種
類書類第十一 一家二種
文類第十二  二家二十二種、外に別集一家十九種、書餘二十一家二十一種
これは校讐略に載せてゐるもので、藝文略のは之と少しく異同があるが、大體これが彼の分類法である。經類を九家に分けるのは、易・書・詩・春秋・春秋外傳國語・孝經・論語・爾雅・經解であつて、更にこの中、易については、古易・石經・章句・傳・注・集注・義疏・論説・類例・譜・考正・數・圖・音・讖緯・擬易の十六種に分つといふ工合で、分類法は頗る精密である。
 大體鄭樵は史學全體に於ても、理論はよく出來て居るが、自分で歴史を作ると、あまりうまくは行かない。目録學でも、校讐學の理論はよいが、その作つた藝文略はそれほどよい出來とは云へない。殊にこの人の理論があまりに高いので、後人はややもすれば彼に反感を起し、清朝で四庫全書總目を作つた時もさうで、四庫簡明目録には、鄭樵が惡罵した崇文總目をほめて、その出來榮えは鄭樵の藝文略よりも十倍もよいと云つた。ややもすれば藝文略の出來榮えで校讐略の理論まで貶さうとするが、實は校讐略に至つて、目録學に始めて理論が立ち、學問らしくなつたのである。從來はただ精神だけが傳はり、作られたものからその精神の流れるのを暗に認めるに過ぎなかつたが、之をはつきり理論として纏めたものであるから、校讐略を謗るのはよくない。

校讐略の大要


 この人の議論は、色々のことにつき、後世の學者に研究のヒントを與へた。殊に校讐略の最初にある、秦の始皇が儒學を亡ぼしたといふが、それは誤りであるといふ議論などは、後世の學者に議論の種を與へたが、彼がかくの如き論をしたのは、ただ世間の人が始皇が書を焚いたといふのに對して反對の議論を出して喜んでゐるのではなく、目録學より出た議論である。目録學は書籍の分類の學であるが、これは即ち學の專門を明かにするためのものである。學が專門になると、たとへ書籍が一時なくなり、一部分なくなり、或は殆ど全部なくなつても、決してこれが絶えるものではない。どこかに專門の學が傳はる以上、書物の形はなくなつても、別の形で傳はるか、精神で殘るか、書籍は亡びないものであるといふ理由で、秦の時學問が亡びたのではないとした。專門の學問がなくなると、書物の形はあつても書籍は亡びる。故に書籍は類例の法が大切である。例へば醫者の學問も、書物がなくなつたり殘つたりしてゐるが、醫者の學問は絶えない。釋老の書も、屡※(二の字点、1-2-22)變改を經てゐるが、しかもその書は絶えない。漢籍に於ても、漢代の易の本は非常に多かつたが、多くは傳はらず、ただ卜筮の易は傳はつてゐる。卜筮は專門の仕事で、必要上これをなくされないから絶えない。それ故、目録學は、學問の專門を明かにするため、類例の法を明かにするのが根本であるといふ議論である。
 これによつて上述の十二類の分類法を作つたが、これは從來の四部の分類法よりはよほど學術的に出來てゐる。從來の四部の中で、最も一纏めにすることの不合理なのは諸子類であつて、天文・五行・藝術・醫方まで皆これに入れてゐるが、これは不都合であるとて、十二類の分類法では皆これを分けた。殊に經書の中で、經類・禮類・樂類を分けたのはよく考へたもので、單に書籍により傳はるものと、禮樂の如く仕事によつて傳はるものとを別にしたのである。その中で、又色々細かい分類をしたが、これは學問の方法としては相當に綿密に出來てゐる。彼は昔の七略でさへぞんざいである、四部の分け方はあまりにやりつぱなしだといふ議論である。かくの如く類例を分け、專門の學術が明かになると、學術の根源も分り、學術の傳來も分り、昔ない本で新らしく本のあるものは新らしく出來た學問であることも分る。これは皆分類法の效能であるとする。
 彼は又目録は必ず亡書を記すべきだといふ。これは亡くなつた本を書いておくと、一時亡くなつた本も或は搜し出すことが出來るからである。昔の劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略・漢書藝文志、その後六朝までの目録にも、すべて亡書を書いてあると云つてゐるが、彼が六朝の目録を見たかどうかは疑はしく、隋書經籍志に梁以來の亡書を擧げてあるのから推したのであらう。唐からは有る本だけを書き、亡くなつた本を書かぬ。崇文總目にも亡書は書いてない。それ故、亡書はますます搜すことが困難となる。昔は亡くなつた本だけの目録を作つた。魏に闕書目あり、唐に搜訪圖書目あり、かかるものを作ると本が段々出て來る。自分の藝文略は、古今の有無いづれの本をも書いた。ともかく崇文總目はかういふ點が最も惡いと云つてゐる。これは目録學の根本の議論からかく云つてゐるのである。
 又書籍に名は亡びて實の亡びざるものあることを論じてゐる。本はなくなつたといふが、その實が他の本に含まれ、或は他の一部分に含まれて、實際はなくならぬと同じものがあり、かかる本は何時でも復舊が出來ると云つてゐる。
 又本のなくなるのは、校讐する人の失態によるものもある。例へば唐書藝文志には、天文類に星の書があり、風雲氣候の書がない。これは實際はあつたに相違ないが、目録を編輯する時に取り落したのである。そのため有る本が無いといふことになる。これが書籍の存亡に關する論である。
 又目録を編纂する人の惡いことは、書名のみを見て内容を見ずに目録を作るものがあり、又本を半分見て半分を見ないものがあり、分類を誤ることがある。
 又亡書を求める法としては、これを八箇條に分け、一、即類以求、二、旁類以求、三、因地以求、四、因家以求、五、求之公、六、求之私、七、因人以求、八、因代以求、といふことを論じてゐる。
 又分類法の誤りについては、漢書藝文志以後、唐書藝文志・崇文總目に至るまでの諸分類の誤りを論じた。もつとも崇文總目の中にも良い點があるとして、特別に擧げてゐる所もある。
 又解題法を詳しく論じた。目録の編纂は、分類さへ明瞭にすれば、解題の必要はない。注をする必要のあるのは人の姓名だけである。經書の類はすべて經類に入り、史書は皆史類に入る。これを解題して經なり史なりといふ必要はない。されば隋書經籍志には、疑はしいものにだけ解題がある。崇文總目が書毎に解題をしたのは無用のことであるといふ。その例を擧げて、宋代に出來た太平廣記は太平御覽から別出して異事のみを書いたものであるから、之を解題するにはそのことを書けばよい。然るに崇文總目には、「廣く群書を採り、類を以て門を分つ」とある。これはあらゆる類書に共通のことである。これでは太平廣記と太平御覽との區別がつかない。崇文總目の解題は大抵かくの如きもので、必要のない解釋をつけてゐる。又崇文總目の實録の部に唐の實録が載つてゐるが、それに一一唐人撰と書いてある。唐實録といふ以上、唐人の撰なることは云ふ必要はない。文集などでも、鄭樵の藝文略には、朝代を分け、唐人、宋人と分けてゐる。かうすれば姓名のみを書けばよいから手數が省ける。崇文總目には一一唐の誰、宋の誰の撰とあるのは不必要である。これらは誰でも分つてゐることであるが、崇文總目は注意しなかつたのであると云つてゐる。
 又本には解釋すべき本とその必要なき本とがある。崇文總目は皆解釋した。本には名を見れば内容の分るものがある。例へば鄭景岫の南中四時攝生論などは、名を見れば分るものを崇文總目は解釋してゐる。陳昌胤の百中傷寒論なども名を見れば分る。それを百中は必ず癒る意などと解してゐるのは愚である。隋書經籍志などは、人の姓名のみを書いて、つまらぬ解題をしてゐない。ただ歴史の部の中で、雜史だけは混雜が多いので注釋をしてあるが、分り易いものは注釋してゐない。最も分りにくいのは覇史である。分裂した時の列國の歴史であるから説明せねばならぬ。趙に前趙・後趙があり、涼に北涼・西涼があり、混雜し易いために一一注釋してある。唐書藝文志は注釋すべきものも注釋しない。崇文總目はすべからざるものにもしてゐる。これ皆目録の體を失したものであるとする。文集類の分類法についても色々議論をしてゐる。
 かかる分類法の混雜については、元祖たる二劉にさへ不滿を云ひ、七略などでも、よく出來てゐるのは專門家の作つた部分で、例へば兵略は任宏が作り、數術は尹咸、方技は李柱國が作つたから、この三つはよく出來てゐる。劉向父子の作つた三つは無駄があり、混雜もあり、出來が惡い。又文字の本だけを集め、圖譜を集めないのは、二劉の胸中に分類法がないからである。漢書藝文志もこれをそのまま取つたので、これも大いに惡いところがある。一體歴史は昔は一家の學問で、家學である。唐代になつて始めて多數の人の手で作つた。晉書・隋書がさうである。これにも長所があり、諸志類を專門家に任せたのはよい。殊に隋書の諸志は出來がよいと云つてゐる。
 又學は專門を尊ぶことを説き、專門によつて分類しない失を擧げて、漢書藝文志で班固が七略にない書を加へたものは最も惡いとした。即ち揚雄の書を入れてあるのは、七略にはまだ入つてゐないのを補つたのであるが、それを揚雄所序三十八篇として、その中に揚雄の作つた太玄も法言も樂箴も皆入れてある。太玄は易の眞似、法言は諸子の類、樂箴は雜家の類である。これを一人の作だからとて一纏めにして儒家に入れたのは、班固が分類法を知らぬためであると云ふ。
 その他、道家と道書、即ち老莊と道教の本との區別、法家と刑法、即ち申韓と律令との區別をしない誤りを説き、又醫術に於ても、漢書藝文志では色々分類をし、解剖學や生理學や内科外科の處方もある。これを後世一緒にしたのは、後人がぞんざいな爲めであると云つてゐる。
 かく一一分類法の誤りを論じたので、これより支那の目録學の分類がやかましくなつた。
 しかし鄭樵の議論には、往々理論が勝つて、實際に行ふと間違ひ易いこともある。即ち「闕書備於後世」「亡書出於後世」「亡書出於民間」等の論で、その闕書後世に備はるといふのは、同じ本が前に卷數少く後世に多ければ後に備はつたと考へた。亡書後世に出づといふことも、昔なくなつてゐたといふ本、例へば尚書の孔安國傳の舜典が漢に出でずして晉に出た――これは誤り――と云つてゐるが、これらは後に出る僞物のことを念頭におかなかつたのである。亡書の民間に出ることも、その主もな例として色々の本を擧げてあるのは、大部分は僞書である。これは單に目録の學の理論のみを主として、その本の内容眞僞如何を考へるに至らなかつた爲めである。かかる缺點があり、藝文略を書く上にも色々な缺點が出たが、理論に至つては、彼が始めて現はしたのであつて、從來は理論が編纂された目録の上に何となしに現はれてゐたに過ぎなかつたのを抽出して纏めたのである。この校讐略のために支那の目録學ははつきりしたのである。

高似孫の史略・子略


 鄭樵の藝文略・校讐略が出てから、南宋時代には、色々目録學に注意した人があつた。就中、高似孫は經略・史略・子略・集略の外、詩略・緯略・騷略を書いたらしいが、今日現存するのは史・子・緯・騷の四略だけである。しかも史略は支那には佚して日本に殘つてゐたものである。史略の序によれば、この人はやはり劉向等の學問を考へてゐたので、かかるものを著はしたのであることが分る。今日殘つてゐるものでは、史略と子略とは體裁が同じでないが、それにしても一家の見識を以て書いたものに違ひない。
 史略に於ては、まづ歴代の正史を調べ、正史に關することを色々の項目に分つて記述してゐる。例へば史記に於ては、太史公自序を擧げて作者の用意を示し、次に諸儒史議として諸家の史記に關する評論を掲げ、次に續史記を擧げ、次に史記注を擧げ、その次に先公史記注を擧げてゐるが、これには自分の自序を附し、司馬遷が父の業を繼いだやうに、自分も亦父の遺業を繼いで史學をすることを現はして、甚だ史記を尊んでゐる。次に同じ注ながら史記雜傳を別に擧げ、次に史記考、最後に史記音を擧げた。漢書も大體かかる分け方である。その他後漢書以後の歴史も出來るだけ色々の分類をして擧げてゐる。かくして五代史までの正史を擧げ、その他では東觀漢記を、一人の手に成らずして多くの人の手で作られた例として擧げ、又歴代春秋、歴代紀として編年史の體を擧げた。更に實録・起居注・時政記・唐暦・會要・玉牒・史典・史表・史略・史鈔・史評・史贊・史草・史例・史目・通史・通鑑(通鑑の下に通鑑參據書を擧ぐ)・覇史・雜史に及んでゐる。この分け方を見ると、大分鄭樵の議論の影響を受けたことが分り、幾分これに據つたであらうが、極めて簡單に、しかも多くは自ら筆を執らず、他人の書を抄録し、それによつて自然に歴史が大體分るやうにしてあるところは、後來の王應麟などの學風をすでに開いてゐるやうである。この他、王應麟と關係のあるやうに思はれるのは、既に絶えた書に注意して「七略中古書」といふ項目を擧げてゐることである。又古書の存亡についての大體の經過をも論じ、劉軻(玄奘三藏の碑文を書いた人か。この人の史論はこの史略に見ゆるのみ。)が司馬遷以來の歴史を書いた人の名を擧げたのを引いてゐる。史論としては劉※(「協のつくり+思」、第3水準1-14-73)の文心雕龍から歴史に關する議論を引いてゐる。最後には、山海經・世本・三蒼・漢官・水經・竹書等、普通の歴史ではなく、變つたことを書いたものを擧げた。かく色々の方から史學に注意したが、ともかくあまり大部の書ではないが、それで大體歴史の觀念をつかむことが出來るやうに手際よく出來てゐて、學問の相當に出來た人であることが分る。
 子略は歴代の藝文志・經籍志に載つてゐる諸子に關するものを大體擧げてゐる。今日に於て特に貴重なのは、今日佚してゐる梁の※(「广+諛のつくり」、第3水準1-84-13)仲容の子鈔を擧げてゐることで、これは隋書經籍志に名のみ見えるものである。又通志の藝文略を載せてゐる。色々の本の解題をつけたが、好んで人の注意しない妙な本、例へば陰符經・握奇經などのやうなものにつけてゐる。この人も劉向以來の目録學の大意を心得てゐたと見え、學問の源流の分るやうに解題した。もつとも今日殘つてゐる子略は、百川學海に載つてゐるが、これが全體のものか省略のものか分らない。或はもつと多く解題があつたかも知れぬが、今日殘つてゐるのは諸子の一部分に過ぎない。
 高似孫の目録學に關する著述は以上の二つである。その他、緯略があるが、目録學の本ではない。目録學を經と考へ、これに對する緯であつて、史略・子略に於ては、學問の源流に關する大體の輪廓を示し、緯略では細かい事柄で讀書に際し疑問の起つたことに考證を加へたもので、中には目録學らしい處もある。例へば、世説の注に引用された諸書より歴史に關するものを全部抽出してゐるなどは、彼に目録學の知識があつたため注意がとどいたのであらう。これは一見隨筆の體裁であるけれども、著者の考では、目録學の遺を拾ひ、細かいことを補ふつもりで書いたものらしい。
 騷略は全然目録學ではない。屈原の離騷につづいて作つたものである。元來漢代までは、離騷に眞似て作つたものがあつたが、唐宋以後にはあまり流行らなかつた。彼は漢代の人に倣つて之を復活した。そしてその中に多少自己の境遇に關する心持を現はしてゐるやうである。

高似孫の學風


 大體彼のやり方は、宋の時の一般のやり方と異り、漢以來の古い學問の仕方を復活せんとした。鄭樵の目録學の影響を受けながら、それより一段内容に立入つて考へ、又鄭樵の目録學は自己の頭で組織立てた理論であつたが、高似孫はすべて昔からあるものについて之を組織しようとした。即ち歴史に關する理論も、昔から多くの人が書いたものを引き拔いて並べると、そこに一種の史學が出來る。目録學より見て史學・諸子の全體を知らしめ、しかも自分の組立てた理論でなくして、人の議論を順序よく並べて、昔の人の議論で自分の説を立てようとする。これは學問の深い人でなければ不可能のことである。當時この人の學問に對し、以隱僻爲博といふ批評があるが(直齋書録解題)、ともかく他人の知らぬ本にまで行きとどいてゐた人である。緯略の中でも、色々の古書が殘つて居らないので、唐代の類書などから引用して、その學問の筋道を立てるに缺けた所を補はうとした。この方法は後に明清になつて大いに行はれたが、その風の元祖と云つてもよい。そこらも王應麟の學風と類し、學問の全體を組織せんとする時、現存書のみでは穴があく處がある。それを類書によつて補はうとした。鄭樵もこの點を考へなかつたのではないが、彼は單に書の名前の上のみから考へたので、時として僞書なども取つた。高似孫はよく類書その他の古書に佚書の一部分を殘したものを引き拔いて補つた。後に古學の研究に盛に用ひられた方法を、宋代に考へてゐたのである。當時の人に隱僻として考へられたのもこの點であるが、彼は目録學より全體の學問を考へる立派な方法を持つてゐたので、彼の書は量は少いが非常によいところがあるのである。史略を日本に得て、古逸叢書の中に之を收めた楊守敬は、その瑣末な點を擧げて之を攻撃し、これを子略・緯略に比してよほど劣ると云つた。そして歴史家の流別に關する議論は劉知幾の史通に詳しく、高似孫はその範圍を出でず、むやみに古書を引き拔き、詳略當を失すと云つてゐるが、これは彼の眞の學風を領解しない故である。もつともこの書は二十六七日間で出來た爲めに粗略なのであらうと云つてゐるが、この人は頭の中に歴史に關する考は前からあり、書き拔くのにそれだけの日數を要したに過ぎず、引用も極めて巧みである。ともかくこれは鄭樵以後の目録學に一新紀元をなしたもので、勿論鄭樵の影響は受けたが、鄭樵のあまり考へなかつた、本の内容に注意することや、亡書を目録以外に類書などより取ることなどは、彼の發明と云つてよい。

王應麟の目録學


 次に來るのは王應麟である。その目録學に關する考は、玉海の中の藝文類にある。又漢藝文志考證を書き、玉海に附録されてゐる。この二つのものが主なるものであるが、彼は高似孫のやりかけたごく一部分のことに特に力を用ひ、之を以て一種の新らしい目録學を起した。即ち當時にあまり知られぬ本又はなくなつた本につき、内容の概念を與へることに骨を折つた。玉海には、當時に殘つた本のことも多く擧げたが、その擧げ方は、その本の内容の大體を知らしめるやうに擧げたので、内容の明かなものは簡單にし、むしろその本の出來るまでの他の本との關係に注意した。つまり現在殘つてゐる本と殘らぬ本との間の内容の連絡をつけ、歴史的に學問の筋道が通るやうに考へたのである。元來玉海は辭學の書として、文章を書くための――天子の詔敕などを書くための學問で、それには多く故事を知る必要があり、その目的で出來た書であるが、辭學として普通に役立つ以上に、學問になるやうに皮肉に考へて作られてゐる。王應麟が手を着ければ、類書たるべき書も學問となるのである。
 漢藝文志考證の方は、なくなつた本について、どれだけの内容が知り得るかを試みたもので、色々その本に關し、類書その他、古の本の注などから、佚書の内容を知り得る材料を集めて考證したものである。
 以上の二書によつて、王應麟の一種の目録學、即ち現在分つてゐる本と分らない本とをつなぎ、その穴を填める方法が分る。彼は高似孫より後の人であるから、その影響を受けたのであらうが、王應麟が大學者で、名聲高く、又玉海が大いに世に行はれた爲めに、この學風は彼が元祖のやうに考へられてゐるが、その前に高似孫のあることを忘れてはならぬ。
 ともかく清朝になつて、學者の非常に骨を折つた輯佚の風は、すでに南宋の末年に行はれ、清朝人はこれを盛大にしたに過ぎぬ。しかも清人は單に輯佚を目的として、全體の學問の一部分として之を爲すことを忘れたことのあるのは、宋人に及ばぬ點である。

馬端臨の文獻通考の經籍考


 王應麟と並んで有名なのは、宋末の馬端臨の文獻通考の經籍考であるが、これも勿論目録學上大切なもので、どうかすると、今日この本がないと解題さへ出來ぬ本が多い。崇文總目の大部分はこの本より復活された。彼の最もよく用ひたのは郡齋讀書志と直齋書録解題であるが、その他にも用ひ得べきものはよく集めた。彼も亦上手に人の書いたものを利用して自分の著述になるやうに排列した。これらは詳しく書かれ、解題の意味も明瞭なる爲めに、後世の人から珍重された。しかしその集め方は、高似孫、王應麟の如く、學問の全體の上より考へる意味があつたかどうかは疑問である。ともかく、解題らしいものは集めておいたので、一貫した主義はないらしい。清朝の學者は、己が使ふのに便利なものを褒めたので、――鄭樵の不評判や、楊守敬の史略攻撃もこの傾きがあると思はれる。――文獻通考は少し買ひ被つた嫌ひがないでもない。畢竟便利であるといふに止まり、著者の見識の見るべきものがあるのではない。しかしともかく目録學の材料としては、この經籍考は必要なものである。
 宋代の目録學は、以上の如く、崇文總目によつて一つの方法を生じ、鄭樵は理論を考へ、高王二氏は佚書に對する方法を發明したのが重要な點である。

宋史藝文志――正史藝文志の行詰り


 元になると宋史藝文志が出來た。これは從來、亂雜であるとて攻撃されてゐる。宋史全體が不評判なために藝文志も攻撃されるが、その方法は新唐書藝文志と同じ方法を取つたに過ぎない。宋代に作られた四度の目録を一つに合併し、宋末の本で之に入らぬものを附加し、それらは唐志と同樣に不著録として載せたのである。ただ四度の目録を合併し、その重複を削つただけで、精密に之に關して考へなかつたので、手落ちや誤りがあつて攻撃されるが、それは新唐書も同じである。殊に宋末の如く非常に本の殖えた時には、目録學は困難とならざるを得ない。殊に宋の亡びて後八十年九十年たつて編纂するには多くの困難があつたのであらう。要するに宋史藝文志の頃より、宋代の著述目録としては多少參考になるが、それ以前の本に關しては、唐書藝文志からあまりに役に立たぬやうになつてゐるが、宋史藝文志もこの點に於ては同じである。卷數の如きも、前代の目録と同じであつても、果して同じ内容であるか否かさへ不明になつた。宋以前の古書については、清朝の學者も之には頼らない。ここに至つて正史の藝文志は行きつまり、古來の本をそのまま正史に著録することは漸く無意味となつた。それ故、これより後に正史を編纂する時には、藝文志を作らぬか、或は作るからには、別の方法を取らねばならなくなつた。これ明史の藝文志が古來の方法を一變した所以である。

※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の國史經籍志――目録學の復興


 明になると朝廷では文淵閣に書籍を集めたが、文淵閣の書目は單に所謂簿録で、全くただ在庫書籍の帳面に過ぎず、殆ど卷數も書かず、外形より見た册數だけを録した。
 明代には全く目録學に注意した人はなかつたが、明末になつて、焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)が出て目録學に志があり、國史經籍志を作つた。これは古く日本でも翻刻された。焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の目録學は鄭樵に負ふ所が多く、大體は四部の分類であるが、その子目の分け方、又子目の中にあるものの分け方は大分鄭樵を眞似た。いくらか體裁の異る點としては、四部以外に制書類を設け、之を劈頭に出した。これは御製・中宮御製(明代には皇后の御製が多い。)・敕修・記注時政に分けた。それ故、史部の中で、實録・起居注又はそれらを基礎とした個人の著述までをここに網羅して、四部の分類法を破つた。これは天子に關するものを別にする尊王心から出たが、分類法としては宜しきを得たものでない。又史類の中に於ても、いくらか新らしいものを入れて、例へば食貨を獨立させた。勿論起居注なども明代以外のものは史部に入つてゐる。集類の子目でも、制詔・表奏・賦頌を別集・總集の外に出したが、これも分類法としては混雜を來すのであつて、殊に賦頌を別にすると、別集から拾ひ出さねばならず、ただ例を破るに止まり、學術的にもならず、便利にもならぬ。この外に附録として糾謬を作り、漢書藝文志・隋書經籍志・新唐書藝文志・唐四庫書目・宋史藝文志・崇文總目・鄭樵の藝文略・晁氏の讀書志・文獻通考の經籍考の各目録につき、分類の誤りを正し、新たに入れどころを變へてゐる。分類の議論については大分考へたに相違ない。
 ともかくこれが崇文總目・鄭樵の藝文略・校讐略以來絶えてゐた目録學に再び注意した特別の著述で、これより又明末清初にかけて、目録學の復興を促した。この國史經籍志は、一つ一つの書は書名だけで解題はないが、各子目については、その子目の末に總序をつけ、多少學問の源流に心を用ひてゐる跡が見える。その源流を論じた所には、時としては清朝の四庫全書總目提要の序論の基となつた所もあり、案外よく出來てゐる。これは宋以來あまり注意されなかつた目録學が、復た興ることになつた一つの機會で、その點では焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の骨折りは有益であつた。

明季清初の藏書家書目


 明末から清初の間には隨分藏書家が多數あり、その目録も大分殘つてゐる。例へば千頃堂書目の如きは一個人の目録であるが、後に明史藝文志の基礎となつたと云はれる。澹生堂書目も有名な書目である。絳雲樓書目・汲古閣藏書目(これには出版書目もあり、それには解題がある。)なども有名である。この頃から藏書の氣運が盛になり、個人の藏書目の中で解題を作つたものには、錢曾の讀書敏求記があるが、これは個人の藏書目に對し一つの特別な傾向を與へた。この頃、藏書家は互に珍本を獲たことを誇り、明末からそんな人々が大分あつた。謝在杭・徐※[#「火+勃」、U+242B9、426-15]・毛晉(汲古閣)・錢謙益(絳雲樓)などは互に珍書の收藏を誇つた。謝在杭・徐※[#「火+勃」、U+242B9、426-16]などの著にはそんな風が見える。錢謙益の絳雲樓は一度火に遭つて本を燒いたが、後にまた集まつて、その大部分は族子錢曾の手に入り、二代相續の有樣となつた。この頃から藏書家所藏の珍本は、その人が死ぬか又は家が衰へると別の藏書家の手に移り、珍本の收藏が系圖を引いて轉々した。清初以來有名な藏書家の本は、今日まで藏書家の手を經て傳來したものがある。又その中には日本にまで流れて、日本の藏書家の間を系統を引いて轉々してゐることがある。謝・徐二氏の本は、よほど前から日本に來て、伊藤東涯などは、その藏書印のあるのを見てゐるが、又圖書寮にも殘つてゐる。これは珍本收藏の傾向の結果である。

錢曾の讀書敏求記――異本書目の祖


 この珍本收藏の最初の解題が讀書敏求記である。この外、徐※[#「火+勃」、U+242B9、427-8]・毛晉にも之に似た書目があつたが出版されなかつた。それで最も大きい影響を與へたのは讀書敏求記である。これより清朝一代を通じて、この種の目録は多く出で、乾隆頃から殊に盛であつた。殊にそれは珍書の解題であるから、版式とか、普通の他の本と異る所以とかを説き、書物の本質の解題ではない。日本でその影響を受けて出た立派な著述は經籍訪古志で、これは讀書敏求記が手本となつて出來たのである。

明史藝文志――正史藝文志の一變


 眞の目録學即ち學問の源流に關する目録學としては別にその方の著述もある。正史の方の書目としては明史藝文志であるけれども、正史の藝文志は明史に至つて一變した。明史藝文志では、古來傳來の書籍の目録は一切省き、明一代の著述のみを集めたのである。その序に、焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の國史經籍志は詳博でよい本だと云はれたが、焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)は朝廷の藏書を見た譯でもなし、何か證據があつて今日どれだけの本が殘つてゐるかを書いたのではなく、ただ傳聞を書き集めたに過ぎず、書目の學問としては不確かである。それで昔からの傳來の書は一切省いて、明一代の著述のみを集めたと云つてゐる。どうして作つたかといふことは、明史稿によると、個人の家藏の書目を取つてやや整理したとあり、これは千頃堂書目などを取つたことをいふのである。從來正史の藝文志・經籍志は、支那全體の現在書目を示し、その書籍並びに學問の源流を論じたが、ここに至つて全く體裁も内容も一變した。明史藝文志は、體裁は大體新唐書藝文志によつてゐる。從來正史は斷代史なるに拘らず、藝文志だけは通史の性質を帶び、古來よりその時代まで殘つた書を現はしてゐたが、ここに至つて藝文志も斷代史的に一變した。かうなれば將來は清史もこの例を追ふより外ないであらう。

朱氏經義考・謝氏小學考・章氏史籍考


 正史の藝文志には、かくて目録學の方針は現はれないことになつた。そこで學問としての目録學は他の方面に傳はらねばならぬ。それは明史の編纂當時から起りつつあつた。部分的のものではあるが、經書に關するもののみを取扱つた朱彝尊の經義考などは即ちこれである。これは又目録學に一種の新らしい方法を開き、書籍を存・佚・未見の三通りに分け、なるべく著述の要旨を知るために、その本の序文の如きものを集めることにした。後になつて之に倣つて謝啓昆が小學考を書いたが、これは小學に關するもののみを集めたものである。史部のものとしては、章學誠が史籍考を書く筈で、序録だけは出來、部門や卷數も見當がついてゐたが、解題は出來なかつた。これは新機軸を出す筈であつたが惜しむべきである。

四庫全書總目提要


 かくの如く目録學として書籍の内容を知ること、源流を知ることは、正史を離れて他の方面に向つたが、それが乾隆の時に至つて四庫全書總目提要となつて現はれた。これは大體に於て崇文總目の復興といふべきで、年數も十年を閲し、あらゆる學者を集めてこの大編纂を行つた。初めから崇文總目を標準としたことは明かである。當時の學問が北宋に比べて、書籍の内容、書目の學問に關する智識が進歩してゐたので、出來上つたものは、勿論崇文總目よりも遙かに優つてゐると思はれる。もつとも崇文總目は滿足には殘つてゐないが、殘つたものについて考へると、四庫提要の如く解題として立派なものでない。
 その總纂官は紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)(曉嵐)といふ非常な博識の人で、その下に集まつた學者も、當時有數なものであつたのみならず、古來よりの學者として考へても數百年に一度しか出ないといふ人達で、それが一部一部について詳しく批評し、その草稿を殆ど全部紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)が目を通して統一した。今日、紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)が訂正して四庫提要に載せたものの外に、各學者の草稿も殘つてゐるが、これも立派で、紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)の訂正したのと比べて何れがよいか分らぬものもあるが、紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)は自分の見識により、その主張に合ふ樣に統一したのである。當時の有名な史學者邵晉涵が正史の解題を作つたが、同じ材料で全く別の意味にしたやうなのもある。とにかく紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)には一定の考へがあり、四庫提要の凡例に斷わつた主義の外に、斷わつてない一種の精神が全體に流れてゐる。之を研究すれば、紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)の明言しない目録學が出來る譯である。勿論各部各子目の序論は紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)自身の筆で、これがすでに一種の著述といつてもよいものと云はれる。時としては焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の國史經籍志によつて書いた處もあるが、全體として一貫した意見があつたことは疑ひない。この人は妙な人で、この外には文集以外に何の著述もない。一生の精力をここに注ぎ盡したのである。彼の一種の主義と思はれるのは、經書とか歴史などで昔から知れ渡つてゐることには新たに解題をしないことである。邵晉涵は、史記についてもその由來を書いたが、紀※(「日+(勹<二)」、第3水準1-85-12)は全然之を採用せず、本文には批評を加へずに、その注に解題を加へた。新らしく解釋するのも一つの方法ではあるが、あまりに知れ渡つてゐるからしなかつた。支那の如く長く學問の相續した國では、かかる方法も必要である。そこは支那の文化の程度を示した一種の目録であると云へる。
 ともかくこれは支那で目録學の興つて以來の大著述である。しかし目録の學としては多少の非難もある。又各個人に分れて書くと、皆の本にはなかなか行き渡らぬ結果、一種の偏頗な四庫館式の方式が出來る。即ちどの本にも何か批評をせねばならぬところから、つまらぬ缺點を搜して何か一つは非難を加へる傾きがすべての解題に見え、正當な目録學でないと思はれる點がある。部類の分け方も、四庫館の人は皆鄭樵に反感を持ち、標準は崇文總目で、鄭樵の理論一點張りの目録學に反對し、鄭樵が學問的ならんとして分けた細かい處を打ち壞してゐる。地理・術數の中の子目につき、新たに種類を設けることは已むを得なかつたが、經・史については鄭樵の細別を捨てて崇文の大まかな分類に還した傾きがある。四庫提要の時に新たに設けた部門も多少あり、子部に譜録といふ部類を作り、又史部に別史とて、雜史でもなく覇史でもなく、正史の目的で書いて之の外に出たものがあり、又詞曲類を集部に設けたる如きである。又子部に道釋を加へたが、その教義に關するものは一切入れず、歴史に關するもののみを取り、道藏・釋藏は別にあることを認めて、四庫に全體を收録しなかつた。ただ明史藝文志までは、文史類をおき、これが批評の總論の學問のやうになつてゐたが、國史經籍志からは詩文評となり、文史類より一段と目的が下落した觀があり、詩文と同時に内容の思想、學問の源流を論ずることはなくなつた。四庫も之によつたが、これは當時存在した書籍が、詩文評に屬するもの多く、文史類に入れるものが少なかつた爲めにもよるが、又この學問の源流に關することを尊重する氣風が、四庫提要を作る時は殘つてゐなかつた爲めでもある。當時は考證學が盛で、一部一部については精細な論はあるが、學問全體の總論は精しくなく、これを卑むものさへあつた。この學者の氣風が四庫提要にも多い。これが文史類が復興せず、詩文評に落ちついた所以である。
 全體の體裁としては、必要上より、著録と存目とに分つてゐる。これは大體四庫全書は天下のあらゆる本を集めたが、その中、立派な本は之を抄寫して帝室所藏本とし、これが文淵閣著録本で三萬六千册七萬九千餘卷ある。その他之に倍する本が集まつたが、それは一應目を通し、目録と解題だけを作つて寫本は留めない。これが存目の本で、これで標準を示したのである。この鑑識にも一種の標準があり、今日より見れば、存目に載つてゐる本の方にも却て面白いものがあるが、支那文化の正統としては著録された本が正統と定めたのである。當時の學問が、どの程度までを必要としたかが分る。かくて四庫提要は清朝の文化を代表する一大産物である。この中に流れてゐる目録學上の主義を拔き出せば、かなり興味のあることであらう。序論だけを集めて出版されたものもある。

天祿琳琅書目


 この時代の目録學は、一方に四庫提要の代表する、學問の源流と現在の學問の總知識を知るためのものがあり、他方には珍書の目録もあつた。乾隆帝は天祿琳琅書目を作つたが、これは朝廷の珍本の傳來等を書き、讀書敏求記を一層精細にしたやうなもので、藏書家の系圖を重んじ、藏書印なども寫してある。それは學問としては校勘學に必要なものである。普通の目録學は四庫提要で、校勘學は天祿琳琅書目で代表させた。この後者と同じ種類のものは、近時まで夥しく出來てゐる。

章學誠の校讐通義――支那目録學の大成


 乾隆の頃に章學誠が校讐通義を著はした。これは支那の目録學を眞に學問として考へたものである。校讐通義は三卷より成るが、その中の第一卷が最も主要なものである。これには先づ書籍に目録のない時分からのことを理論的に考へた。最初は學問は官の職務に附いたもので、官職の關係上、教へる人があり學ぶ人があつても、私の著述はない。私の著述がなければ、書籍は單に官職に從つて保存されるだけで、書籍を一箇所に纏めて目録を作る方法がない筈である。この目録の學といふものは、一家の著述といふものが出來るやうになつてからのことである。それは官が職を失つて、各※(二の字点、1-2-22)一家の學問になつたところから、色々の派の學問に區別が生じ、根本の經書は經書、各※(二の字点、1-2-22)分れた諸子百家は諸子百家といふ風に分れるところから目録の必要が出て來る。劉向・劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)、殊に※(「音+欠」、第3水準1-86-32)が七略を作つたといふのは、即ちそのあらゆる書籍の流別を調べる上から出て來た。そして七略が後に段々四部になつて來たが、これも自然の勢であつて、四部になつたものを、もとの七略に復すことは出來ない。この復されぬ理由として、歴史の部が大變數が多くなつたこと、諸子が段々古いものが衰へたこと、文集が盛になつて來て、それは諸子の如く學派を區別することが出來なくなつたこと、書籍を拔き書きする一種の本が出來て、それを何の部類に屬してよいか分らなくなつたこと、詩文を評點することが起つて、文集の中でも別集とも總集ともつかないものになつて來たこと、かかることから自然七略の法が復興出來なくなつた。しかし七略の法が復興出來なくなり、又著述にえたいの知れぬものが出來ることは、著述の段々惡くなる證據である。それ故、現に四部の法で目録を作つても、四部の中で流別を調べて、昔の學問が官職から出た學問の根本に溯るやうにし、學派の區別を明かにすることが必要であると云ひ、今日四部の區別で分類の仕方が粗雜になつてゐるが、その中に、本の内容を考へるともつと精密な區別が出來ることを論じてゐる。この人は必ずしも書籍を七略の昔に復さうとはせず、やはり支那の學問が昔より學派の區別が明かでなくなつて來た現在の状態に從ひ、四部に分けることは已むを得ないとし、その中で内容を調べることを主張してゐる。
 この目録を作るに内容を主とする意味から――目録は單に簿録でないことから――一つの本でも、その内容の幾通りにも見られるものは、その各部各部に重複して名を出すべきであると論じ、これを互著と云つてゐる。同じ本を一箇所以上に載せられぬといふ考へは、目録を單に書籍の帳面として考へるからのことであり、著述の内容・趣意から考へれば、同じ本が何箇所に出てもよい筈で、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略はかかるやり方であつた。それを漢書藝文志に班固が載せた時に皆省いた。これは藝文志に明かに載つてゐることで、省いた本は省いたと書いてある。それで章學誠は、もとの七略は同じ本も内容により何箇所にも載せたと考へ、これこそ眞の學術の流別を重んずる目録學の法なりとした。
 互著の法については、鄭樵の目録の作り方をも攻撃してゐる。鄭樵が劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)以來絶えてゐた目録學を興したことは大いに重んじてゐるが、樵の目録學は未だ十分に※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の目録學の本旨を得ないとし、その例として、樵が金石略・圖譜略の如きものを古來始めて作つて居りながら、藝文略の中には石經を載せてあつて、金石略の中には石經を全然載せてゐない。これが※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の互著の法を知らないからであると云つてゐる。この書籍の分類に一本を何箇所にも出すことは、例へば歴史を作る時、人の爲めに傳を作ると同じであつて、傳の内容即ち義類が重いので名目が重いのではない。史記・漢書の列傳の法としては、一人の人でもその事件が兩方に關係してゐる時は、詳略して兩方に載せる。例へば史記で、子貢は一方は仲尼弟子の傳にもあるが、一方は貨殖傳にも載つてゐる。又儒林傳に出てゐる董仲舒などは、この外又その人の特別の傳もある。これは事柄の方が重いので人名が重いのではない。書籍の目録を作るも之と同樣で、内容が重いのであつて本の名が重いのではないと云つてゐる。
 互著の外に、別裁といふことも論じた。これはある本の中から一部分を取り出して、之を別の本として目録に掲げることである。それは管子の中に弟子職なる篇があるが、劉※(「音+欠」、第3水準1-86-32)の七略では管子は大體道家に入つてゐるが、弟子職は切り離されて小學の部に入つてゐる。これは昔の人の著述には、必ずしも自分が書いたのではなく、昔からあるものをそのまま取り入れた部分があり、弟子職は管子の書いたものではない。又呂氏春秋の最初に月令が載つてゐるが、これも呂不韋自身の書いたものではない。それは別に切り離して、その適當な部類に入れて差支ないといふ議論である。
 又、辨嫌名といふことを論じてゐる。別裁の方は、一定の主義があつて一つの本を二つ以上の部類に入れることを論じたが、辨嫌名は、主義がなくして同じ本を二箇所以上に入れることの不都合を論じた。これは漢書藝文志以後には、分類に主義がなくなつたので、重複して著録されたものは大部分は義類に關係がなく、全く編纂の誤りに過ぎない。これははつきり辨別して一つに歸着せしむるが當然である。かかる嫌名を辨ずる方法としては、韻に從つて書籍を分ける署名目録を作り、各書の下に本の由來を書き、いよいよ分類するときに、その韻に從つて尋ねるがよいと云つてゐる。つまり今で云へば五十音順のカードによつて整理するといふやり方である。
 補鄭、これは鄭樵の議論を補ふのである。鄭樵の議論に、本の名が亡び、實は亡びぬといふことがある。これは卓説であるが、樵はその應用に粗雜な點がある。内容をよく吟味せず、ただ書名だけによつて、名が亡び實が亡びないといふ説をなすと、大きな間違ひが生ずると云ひ、そして王應麟などのやつた、なくなつた本の内容目録を作ることの必要を主張してゐる。王應麟がかかるものを作つたのが、目録學を内容から見ることについて役に立つたことを論じてゐる。又鄭樵が、書籍の前になかつたものが後に揃ふことのあるのを論じたのに對しても、これも單に卷數から見て後世の卷數が多いから本が揃つてゐると見ることの非を論じてゐる。
 又、校讐條理といふことを論じ、鄭樵が書籍を搜す官を派遣すること及び書籍を校讐する人が長くその任に居る必要を論じたのは、校讐の要義を得てゐる。しかし書籍の搜し方の善不善を更に考へねばならぬ。それは求書は一時のことであるが、治書は平日から必要のあることである。然るに樵は求書の方法を論じてゐるが、治書の方を論じてゐない。不斷から治書の法を考へて、現在の書籍に如何なる處に缺陷があるかを知つて居れば、求書の時にも適當な求め方が出來る。不斷からある本ない本を皆目録に記しておき、又民間で書籍のことについて必要なことを發明したものは、それを官に申し立てれば、そのことを官の記録に留めて、搜す便宜の備へにする。又かく書籍の内容を調べることになると、世を毒する不都合な本の隱れてゐる餘地をなくすることも出來る。各地方でこの法を行ひ、各地方の本の目録を作つておけば、中央で書籍を搜す時にすぐ出て來るので、ことさらに搜す必要がない。中央の本と地方の本と互に照らし合はすと、次第に本が正確になる。それで藏書を全國的に考へ、全國の行政區劃に從つて、皆各※(二の字点、1-2-22)相當の役目を持つやうに藏書政策を考へ、これを治書の法と云つた。これはやはり劉向が本を調べる時にもあつたことで、中書があり外書があり、外書にも又色々な役所の本、個人の藏書があり、之を集めて向が校訂したが、今日でもかく各方面に藏書のあることは大切なことであるとしてゐる。
 又治書の法として、索引を作ることを論じてゐる。即ちあらゆる書籍につき、その中から人名・地名・官職・書目、何でも一切名目で調べることの出來るものを擇んで、佩文韻府のやうに韻によつて編し、本韻の下に原書の出處・卷數を書き、一度出てゐることでも二度出てゐることでも數千百囘出てゐることでも皆書いて索引(群書の總類)を作る。これを作ると、書籍を校讐する時に、疑はしいもののある時、韻によつて探す。これによれば博學の人が一生かかることも、中等の能力の人で居ながらに出來る。索引は最良の校讐法であると云つてゐる。
 又、書籍を校讐する時、同じもので違つた文のある時は、原文と違つた文と兩方を書くこと、又漢書藝文志は七略を取つて直したが、その直したことを注に斷わつてあるから、七略の體裁の大體は今日でも分ることを云つてゐる。
 次に本のなくなつたもの、缺けてゐるものの目録を書く必要をも論じてゐる。ただ時として彼にも誤りがあり、缺けた本を論ずる時、舊唐書經籍志に唐の時の主もな人の詩文が載つてゐないが、これは當時の遺漏ではなく、經籍志のもとになつた本が載せなかつたのであらうと云つてゐる。これは誤りではないが、舊唐書經籍志は天寶以後の人のものは經籍志に載せず、著者の本傳に載せることを斷わつてあるのを忘れたものである。
 最後に藏書といふ議論がある。これは今日、往々普通の藏書にはなくなつてゐる儒教の方の本が、道藏・釋藏の中に殘つてゐるのがある。これは道藏・釋藏には、本を一つに纏めて藏とする藏書の法が備はつてゐた爲めである。普通の漢籍は一箇所に纏める法がないから散逸する。道藏は多く道觀に、釋藏は大抵は寺にしまつてある。漢籍も尼山泗水の間(曲阜)に一大圖書館を作つて藏しておけば、帝室の本が時になくなつても、それで缺を補へるとて、民間に大圖書館を作る必要を論じた。
 以上が彼の校讐學の大體である。その他は漢書藝文志につき論じ、鄭樵が漢書藝文志につき論ぜることを論じ、又焦※(「立+肱のつくり」、第4水準2-83-25)の漢書藝文志につき論ぜることを論じ、又七略の中の六略の分類につき一一論じてある。ともかく目録學をこの人の學問の流儀として、歴史的に根本から學問として組立てることを考へた。支那風の目録學は彼に至つて大成した。

章學誠の祖述者


 章學誠の學問は、久しく祖述する人がなかつたが、現存の人で之を祖述するものに張爾田と孫徳謙の二人がある。張爾田には史微の著があり、孫徳謙には諸子通考(未完)・漢書藝文志擧例・劉向校讐學纂微の著がある。しかしこの二人は章學誠の如く、一種の學問の組立てを自己に持ち、すべての學問に歴史的根據を與へ、目録學にも歴史的根據を與へて、それから分類の法を考へる根本の思想には十分觸れてゐない點もある。





底本:「内藤湖南全集 第十二卷」筑摩書房
   1970(昭和45)年6月25日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
※底本のテキストは、1926(大正15)年4月〜6月に京都大学東洋史学科で行われた特殊講義の聴講者のノート数種と、著者が使用したと思われる資料とを参照して内藤乾吉によって整理されたものです。
※中見出しは、底本編集時に内藤乾吉によって与えられたものです。
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2006年7月19日作成
2016年4月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「金+木」、U+9222    377-2、377-4
「竹かんむり/下」、U+25AEB    398-1
「(日+秬のつくり)/火」、U+715A    405-7、405-7、405-9、405-13、406-1
「火+勃」、U+242B9    426-15、426-16、427-8


●図書カード