日本文化とは何ぞや(其二)

内藤湖南




 もう時間がありませぬので、私が御話申したいと考へました事の眞の骨組だけを、二十分ばかりにザツと御話してしまひたいと思ひます。
 私の申上げます事は「日本文化とは何ぞや」といふのでありますが、先づ茲に日本文化といふものは現在有るときめて掛ります。而してその日本文化の現状はどんなものであるか、現在有るところの文化といふものは、社會組織もあり、文學藝術といふやうなものもある、色々なものがありませう、その現在して居るところの日本文化の中に、日本固有のものがどれだけあるかといふことであります。これは隨分研究の仕方に依つては面倒な事でありまして、餘程議論がある事と思ひますが、併し私は直に結論だけを申上げますが、日本文化の中の日本に起原した所のものを調べ上げると、そんなに大部分なものでないと思ふ。
 極く簡單な例を申しますと、茲に日本文化の古い産物として、例へば萬葉集といふ歌の集がある、それから又源氏物語といふやうな古い日本文で書いた本がある。此等を讀むのと、今日吾々が漢文で書いてある所の論語などを讀むのと、どつちが理解しやすいか。それだけで既に今日の吾々日本人には、日本人の頭に最も解し易く遺つて居るのは、日本固有のものよりかも、東洋一般に通じて居つた支那文化であつたといふことを考へる事が、極めてたやすい事だと思ひます。それが先づザツと現状でありますが、そこで日本文化といふものが、一の儼然として出來上つたものがあると致しまして、それがどうして出來上つたかといふ事が次の問題であります。
 この出來上り方を、例へば動植物が、一の種から、養分を得て、それが段々芽を出して、さうして育つて來たやうにして出來たとも解釋は出來ませう。或は又單に、例へば豆腐が出來るやうに、殆ど豆腐の形が出來上つて居らんで、豆腐になるべき成分があります所へ、そこへにがりを入れると、成分がその爲に寄せられて豆腐の形になるといふやうな出來上り方もありませう。日本文化は、この二種の出來上り方の中、どちらで出來上つたものかといふことが一の問題であらうと思ふ、而もこれが中々むつかしい問題で、私はヒヨツとすると後の方の方法で出來上つたのでないかと思ふのです。日本には、文化の種が出來上つて居つたのでなくして、只文化になるべき成分があつた所へ、他の國の文化の力によつて、段々それが寄せられて來て、遂に日本文化といふ一の形を成したのでないかと思はれるのであります。
 兎も角さういふ風に日本文化といふものが出來上つたと、假に斯うきめますと、それからそれがどういふ順序で出來上つて來たかといふことが次の問題で、日本文化といふものは、日本だけで考へますと、日本中心のやうに考へられます。誰でも自分の居る所を中心と考へることは容易なものであります、むかし太陽系の理論がハツキリ分らなかつた時には、地球が中心だと考へて居りました、それで昔は天動説であつて地動説ではなかつた、すべての天體は地球を運るものだと考へて居つたのでありますが、それが段々太陽系の學説が進歩して來ると、自分の所が中心でなかつたことに到達して來た。日本文化の見方も、さういふ風に云ふことが出來るのでありまして、日本で考へると日本が中心でありますけれども、之を世界全體から考へて見ると勿論でありますが、東洋全體から考へても、その文化の起原は、何處から始まつて、さうしてどういふ風な順序を經て日本文化といふものまで到達して來たかといふことを考へると分ると思ふのであります。
 私は東洋の文化は古來支那中心であつたと思ひます。勿論印度もありますが、日本に關係して居る點では、印度文化も直ちに印度から日本へ來たのではなくして、大部分は一度支那を潛つて來て居ります、例へば佛教のやうなものは、元は印度から起つたのでありますが、今日の日本の佛教は、印度其儘の佛教ではなくして、支那を通つて來た佛教、それも單に支那の土地を通つて來たばかりでなくして、支那の文化を通過して來たところの佛教であります、支那文化に洗練されて來た佛教であります。
 印度の方はそれだけに致しまして、それでは支那の方はどういふ風に文化が發達したかといふと、支那でも無論、殊にあゝいふ大きな國でありますから、全地方一遍に文化が出來上つた譯でない。私の考では、例へば、黄河の沿岸から文化が發芽して、それが初め西或は南の方に開けて、それから段々東北に向つて開けて行つたのが、最後に日本まで到達して來たのであります。さういふものが段々方々へ擴つて、その方々の民族を刺激して、その刺激した度毎に、其地方に多少新らしい文化を形作らせて、さうして最後に日本のやうな所へ及んで來たので、日本が今日のやうな文化を形作られたのであります。
 ところで文化といふものには又、中心から末端に向つて行く運動と、それから末端から中心に向つて反動する運動がある、さうして其又反動する運動に、權力關係から來るところの運動と、それから純粹の文化から來る運動があると思はれます。例へば最初支那の中でも、三代といふやうな古い時代に起つた勢力は、今の黄河の流を中心としたものでありませうが、それが揚子江の沿岸を刺激して、そこに新しい勢力を形作るといふと、漢の高祖などゝいふ人が其地方から起つて全國を一統して居る。それから北の方の匈奴の游牧する沙漠の土地を刺激しますと、其處に一の強い勢力が出來まして、其勢力が屡々支那の土地を侵略して國を建てたこともあります。日本はどういふやうに支那に對して權力を及ぼしたかといふと、大分遠方であるために權力上の關係は遲かつたのでありますが、併し少くとも明の時に、例の倭寇が明の沿岸を暴したのが、先づ日本の權力として支那に影響を及ぼした始めだと思ひます。最近には日清戰爭があり色々なことがありまして、今日では支那人は、日本は軍國主義だと云うて非常に氣に掛けて居りますが、これは日本の勢力が支那に及ばんとして居る關係から來てゐるのだと思ひます。
 是等は權力關係から來たのでありますが、純粹の文化の方の關係から見ましても、支那の文化の中心は屡々移動して居る。最初は黄河の沿岸地方で起りましたのが、今日では支那の文化の中心は矢張揚子江の下流の地方、或は廣東とかいふやうな餘程支那の邊土に文化の中心がありまして、其地方から人物も出來れば、又文學とか藝術とかいふやうなものも出て居ります。最近になりまして日本は西洋文化の影響を受けた爲であるとは申しますけれども、兎も角支那の多數の學生が日本に留學をして、さうして日本で出來たところの本を讀み、日本で受けたところの思想、西洋の思想ではありましても、日本人の手を通したところのものを取るやうになつたといふことは、やはり支那の各地方に弘まつた文化が、段々支那の中心に對して反動して行くと同じ行方で、日本から文化的反動が今支那に向つて起りつゝあるのであります。そこが東洋に於ける日本文化の眞の價値で、そこまで到達したことに依つて日本文化といふものゝ眞の價値が出て來たのであります。
 さういふ事でありますからして、日本文化の起原が支那でありましても、決してそれが爲に日本文化が無價値といふ譯のものでない。全體から見ますれば、これは東洋文化の部分的發達ではありますけれども、その部分的發達が矢張東洋全體に日本文化として大に影響をするので、その日本文化といふものゝ系統は、全體からいふと東洋文化に屬するのだと、斯ういふ風に私は考へて居ります。
 私は嘗て或る處で申したことがあります、それは一しきり中學校の教科の中から東洋史といふものを無くしてしまふといふやうな話がありました、さういふ事が歴史地理科の中等教員の會合の席の問題になりつゝあるといふことを私は聞いたので、恰度さういふ人達の會合のあつた所へ講演を頼まれました時に申したのであります。日本の文化といふものを日本の國が初めて出來た時から出來て居ると思つて居るのは間違である、日本文化といふものは、詰り東洋文化、支那文化の、今日の言葉で云へば延長である、支那の古代文化からズツと繼續して居るのである。それだから日本文化の起原とその根本を知る爲にはどうしても先づ支那文化を知らなければならぬ。今、歴史といふものを日本の歴史だけで打切つてしまつて、その以前の支那の事を知らぬといふと、日本文化の由來を全く知らぬことになる。今日歐羅巴では、その歴史を歐羅巴史とは申しませぬ、世界史と申して居りますが、苟くも歴史を讀む者が自分の國の歴史だけを讀んで、其前の古代の、例へば希臘とか羅馬とかいふ時代の文化史を全く知らぬで、それで歴史を讀んだと云へるか。詰り東洋史といふものを日本史以外のものだと思つて居るのは全く間違だと申したことでありましたが、即ち東洋文化と日本文化との關係はさういふ續き合になつて居るものだと私は思ひます。
 先づこれが日本文化といふものゝ大體の出來上つた所から、今日の價値を作り出した所までの由來でありますが、併しそれは過去の事であります。それでは將來はどうかといふと、これはむつかしい問題であります、將來に對しては豫言的な事になりますので、それが果して中るかどうか分りませぬが、併し大體この世界の各民族の歴史を見ますると、文化を立派に形作つて、さうしてそこで其民族は終を告げて、その國が滅亡して、その文化だけが後へ繼續する、例へば希臘とか羅馬とかいふ國はそれである。それから又新しく興る國は、前の國の文化を繼續して――前の文化に感化されたところの民族が新しく興つて、その古い文化を吸收して、自分の文化を形作つて行く、これが今日までの順序であります。
 ところで問題は、東洋文化がこれで出來上つてしまつて、もはや東洋はこれで終を告げて、東洋民族は茲で全く役目を濟して滅亡してしまふ運命になつて、さうして此東洋文化を西洋人が吸收して、そこで西洋人が新しい文化を形作るか、或は東洋人が、今日西洋人が有つて居るところの文化を吸收して、さうして東洋と西洋との文化を、先刻某博士の御話もありましたやうでありますが、一つに融合して、自分の物にして民族が永續するかといふ二つの問題が起つて來ると思ひます。これは餘程むつかしい問題でありまして、滅多に豫言の出來る譯ではありませぬが、今日の現状で、自分の文化に滿足せずして、大に謙遜の態度であつて、他の文化を吸收する非常な熱心なる希望を持つて居る民族は、東洋民族か、西洋民族かと申しましたら、私は東洋民族がそれであると思ひます。西洋民族はどちらかと云ふと、自分の文化に食傷し、自分の文化に自負自尊心を有しすぎて、他の文化を吸收するところの能力を餘程減じて居りはしないかと思ふのでありますが、東洋民族は其點に於て、如何なる難解な、如何なる高尚な文化でも、どこまでも進んでそれを吸收して、さうして自分の文化と之を一緒にしてやつて行かうといふ大きな希望と決心とを有つて居るやうであります。さうなつて來ますと、こゝに東西文化融合の希望も達せられるのではないかと思ふのであります。是は豫言でありますから、中るか中らないか分りませぬ、併し現在は兎に角どちらかと申せばさういふやうな傾になつて居ると云ひ得ると思ふのであります。世界の最も完全なる文化を形作る爲には、自分で從來有つて居つた文化の價値を十分に認めて、さうして何處までも其長處を保持して、更に他の長處も十分取入れるといふことが必要であつて、自分の文化に心醉して、他の文化を全く排除するといふことは、決して最良の手段ではないと思ふのであります。以上私の考のほんの骨組だけを申上げました次第であります。
(大正十年某月某處講演)





底本:「内藤湖南全集 第九卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第3刷発行
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月
初出:講演
   1921(大正10)年
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年10月24日公開
2016年4月20日修正
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