女眞種族の同源傳説

内藤湖南




 滿洲の各種族の中で、古くは金國を形作り、後には清朝を出した所の女眞族は、或説には既に唐の初頃から現れて居ると云ひ、或説には五代に始めて知れたとも云はれてゐる。要するに其の種族の事情が分明になるやうになつたのは、契丹との接觸から起つたのであつて、契丹即ち遼の時代には、女眞種族を大體三通りに分けてあつた。一つは生女眞、一つは熟女眞で、今一つは非生非熟女眞である。文獻通考、大金國志或は契丹國志などによると、生女眞といふのは、即ち契丹種族に化せられぬ所の、在來の風俗を守つて居つた女眞で、主に今の松花江沿岸地方に居たのである。非生非熟女眞はその南方にいて、即ち松花江の支源に當る輝發江の沿岸に居た者をいふのである。熟女眞といふのは、契丹の太祖阿保機時代に、女眞が寇をすることを恐れて、女眞の豪族數千家を分けて遼陽の南方に置いた。即ち今の滿洲の復州・岫巖地方に當る處に置いたので、之を合蘇※(「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1-86-31)とも曷蘇館とも稱して居た。曷蘇館といふのは、滿洲語で藩籬といふ意味に當ると云はれ、契丹人が生女眞を防禦する藩籬として之を用ひたのだと云はれてゐる。
 生女眞は騎射が非常に上手で、地が方千餘里、戸數が十餘萬あり、それが皆山谷の間に住居してゐると云はれてゐるが、曷蘇館といふのは契丹に歸化した所の女眞人であるけれども、其生活の爲方はやはり生女眞と同樣であつて、遼陽以南の土地に遷されてからも、依然として山谷に住居して居つたらしい。
 此の女眞人が生熟二種族に分れたのは以上の如き因縁で、是は當時相應の文化を有し、文字をも使用してゐた契丹の所傳であるから、正確であるに相違ない。
 然るに此の女眞人が後になつて金國を興した時に、生熟女眞に關する傳説は頗る變化を來して、一種の移住傳説となつてゐる。其傳説の大要は金史の世紀に出て居る。其説によると、金の始祖は函普といふ名で、始め高麗から滿洲に來た。そして其時に既に六十歳餘りであつた。その兄に阿古迺と稱する人があつたが、この人は佛を好み、高麗に止つて函普と共に滿洲へは行かなかつた。然し阿古迺が其時いふには、後世子孫に至つたならば、必ず兩方の子孫は一緒に聚まる者があるであらう。自分は去ることが出來ないといふことであつた。そこで函普は弟の保活里と共に滿洲に行つて、函普は完顏部の僕幹水の畔りに居つたと云はれ、保活里は耶懶といふ處に居つたといはれてゐる。僕幹水といふのは多分間島の※(「にんべん+布」、第3水準1-14-14)爾哈通河であつて、耶懶といふ處は今の露領沿海州の浦鹽の西北に當る地方と思はれる。さういふ風にして兄弟が分れたが、其後胡十門が曷蘇館人を引き連れて、金の太祖阿骨打に歸服した時に、自分の祖先は兄弟三人あつて、それ/″\分れて去つたと云ふことであるが、自分が即ち其の長兄阿古迺の末孫だと稱した。かくて其時太祖に服屬してゐた石土門・迪古が、即ち前にいふ保活里の末孫だといふことであつた。胡十門のことは金史の列傳に詳しく載せてあつて、胡十門は父の撻不野といふ人が遼に仕へて官爵も受けて居たので、漢語を善くし、契丹の大字小字に通じて居つた人であるが、其遠祖の兄弟三人が同じく高麗から出たので、今金の皇帝即ち太祖が位に即き、契丹が何れ滅びる兆候があるからといふので、自ら部族を率ゐて金に屬した。而して其先祖が同じ兄弟から分れたといふのは胡十門が自ら稱したことである。と、かう書いてあるから、曷蘇館といふ者は、生女眞と同じ種族であつても、其國語をば既に失つて居つたかも知れぬ。其は兎も角、其の同族と考へる者と合する爲に、古來の傳説を言ひ立てゝ歸服して來たのである。又金史列傳には、石土門にも別に傳があり、是は保活里四世の孫と稱するが、然し宗族を同うするも、相通問せざること久しかつた。而して金の太祖の祖父景祖の時に、其系圖を陳べ立てゝ、再び交通するやうになつたといふことを書いてある。
 以上は女眞の中の異つた種族が最初分れた所の事實を、後になつて其子孫に傳へられた傳説によつて語られるまでには、如何に其中途で變化をしたかといふことの概略である。即ち曷蘇館が初め女眞から分離したのは、事實に於ては、其敵たる契丹人の壓迫を受けて、一部分が移住させられたのであるにも拘らず、後世になると、僅か百餘年を經過する間に、既に眞の事實を忘れて、兄弟が個々別れ/\になつて、高麗から移つて來たといふやうな話に變化して居る。而してこの女眞族の如きは、比較的遲く國を建てた爲め、隣接した地方に、それよりも古く國を建て、記録によつて史實を傳へた國があるから、其の他種族の確實な記録によつて、このやうに詳細にその變化の樣子を知ることが出來るのであるが、是の如き變化は、之を他の種族の同種の傳説を研究する場合の參考とすることが出來るのであらうと思ふ。其は縱令其傳説を持つた種族よりも古い種族があつて、其當該種族の事實と傳説とを側面から證據立てることがなくても、是と類似したことは、大體に於て事實と傳説とが同樣の變化を經て居るものであると判斷する材料になるのである。
 例へば支那の古代に於て、殷と周との開祖の傳説は、殷の方はせつの母が玄鳥の卵を墮すを拾つて食べたので姙娠し、契を生んだといふ話があり、周の祖后稷は、其母が野に出て巨人の足跡の拇を踏んで、其れに感じて姙娠して生れたと謂はれてゐて、各々別々の傳説であつたのであるが、後に其れが統一されて、后稷の母は帝※(「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1-15-30)の元妃、契の母は帝※(「學」の「子」に代えて「告」、第3水準1-15-30)の次妃であるといふことになり、之を兄弟としてしまつた。斯ういふ風なことを見ると、事實と傳説とが如何なる關係を持つかを判斷するに、女眞族の祖先の如き事實を應用することが出來るであらうと思ふ。
 日本に於ても同源傳説が種々に利用されるのであつて、大和朝廷の先祖と出雲國造の先祖とは兄弟であるといふ傳説である。即ち出雲國造の先祖も天照大神の子たる天菩比命であると云はれてゐるが、然し出雲國造が大和の朝廷に歸服した時の事實を見ると、日本紀では崇神天皇の時、出雲振根といふものがあつて、大和朝廷に歸服することに就て弟の飯入根と意見が異りたる所から、飯入根をだまして眞刀と木刀とを取り替へ、之を殺したのださうで、此の振根は又吉備津彦と武淳河別とに征伐せられて誅せられたといふ傳説があり、古事記では景行天皇の時、日本武尊が出雲建を騙して、やはり眞刀と木刀とを取替へ、之を誅したといふことになつて居るが、兎も角、崇神・景行の頃に、征伐の結果之を歸服せしめたのは事實である。然るに神代紀に載つて居る傳説では、最初から天照大御神と素戔烏尊とが兄弟であり、又天菩比命も天照大神の子であるといふ風に神話が形作られてある。しかし其の天照大神から崇神・景行までの御歴代の數を、出雲國造の系圖に傳へて居る天菩比命から出雲振根までの代數に比して、この代數が信ずべきものとすれば、其れによつても二つの系圖が同じ年代を經て來たのでないといふことが推斷される。よつて事實と傳説との間に幾許かの變化を經て來たものであるといふことが考へられるのである。
 今一つは肥後の阿蘇氏の先祖のことであるが、景行紀によると、天皇が肥後の國に行かれた時に、阿蘇都彦・阿蘇都媛といふ神が、人につて現れたといふことになつてゐるのである。其記事の模樣では、始めて行幸された國であつて、二神も皇統と何等の關係のあつたらしい形跡は見えぬ。然るに一方に於て、古事記には、綏靖天皇の兄神八井耳命は阿蘇君の祖なりとあり、又舊事紀の國造本紀には、崇神天皇の御代に、神八井耳命の孫の速瓶玉命を阿蘇の國造に定め賜ふとあつて、神八井耳命の子は健磐龍命と云ひ、延喜式の神名帳に祭られて居る神であるといはれてゐる。然るにまた國造本紀に、神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつたと書いてある。この建五百建命と健磐龍命とは同じ神に違ひないが、話が兩方に分れて居る。兎も角、阿蘇の先祖は神八井耳命から分れたといふことになつてゐて、其國造に立てられた二人の命は、景行天皇よりも以前になつてゐるのである。されは其間に矛盾が種々あるといふことが明かである。是等も一種の同源説であつて、阿蘇の國造が大和朝廷に歸服する時に出來上つた、便宜上考へられた傳説が、又種々に變つて傳つたのである。
 最も肝腎なのは、物部氏の先祖たる饒速日命と神武天皇の先祖たる瓊瓊杵尊との關係であつて、神武天皇が大和に入られた時、互に其の寶物を交換して見て、同祖の末孫なることの證據が判つたので、饒速日命は長髓彦を殺して神武天皇に歸服したといふことになつてゐる。
 總ての古代の傳説の中には、是の如き同源説が屡々應用されてゐるのであつて、歴史家は動もすれば其説に拘泥して民族の關係などを研究しようとするが、傳説と事實との間には如何なる變化があるかといふことを證すべき材料が乏しい爲に、之を信ずる者も疑ふ者も、皆確かな考の根據を得ることが出來ぬのである。然しこの女眞族の同源説の如きは、一方に隣接して居る先進の民族がある爲に、事實と傳説との間に變化を生じた形跡が歴々と分る。此の證跡を應用すると、古傳説の中にある所の同源説を、大體に於て謬なく判斷することが出來るであらうかと思ふから、其參考の爲に試に此の一篇を書いて見たのである。
(大正十年七月發行「民族と歴史」第六卷第一號)





底本:「内藤湖南全集 第八卷」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日初版第1刷発行
   1976(昭和51)年10月10日初版第2刷発行
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月初版発行
初出:「民族と歴史」
   1921(大正10)年7月
入力:はまなかひとし
校正:土屋隆
2004年11月4日作成
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