彼は誰を殺したか

浜尾四郎




          一

 男でもほれぼれする吉田豊のやすらかな寝顔を眺めながら中条直一は思った。
「こんな美しい青年に妻が恋するのは無理はないことかも知れない。どう考えても俺は少し年をとりすぎている。ただ妻の従弟だと思ッて近頃まで安心していたのは俺の誤りだッた。明日はどうしてもあれを決行しよう」
 中条はこんなことを思い耽りつつ、海辺の宿屋の小さい一室で、真夏の暑苦しい夜を一睡もせず明かしてしまった。
 彼は十五も年の違う美しい妻の綾子の愛に対して妙に自信がもてなかった。だから大抵の男が綾子に会うのを警戒していた。近頃ではこれが判然として来たので、心ある友人は彼を馬鹿にしながらも訪ねるのを遠慮するようになった。ただ今年大学にはいったばかりの綾子の従弟の吉田豊ばかりは平気でやって来て綾子と親しく話していた。又中条の方でも何らの不安もなかった。それはただ従姉弟いとこ同志だから、という理由からであった。
 その吉田の最近の行動は、中条から云えばどうも許し難かった。従姉弟のことだ、自分との結婚以前にはどんなに親しかったか知れない。然し結婚後にもその親しさを延長されてはたまらないというのが、彼の気持だった。
 実は、結婚後ますます親しく仲よくなって来たのじゃないかとさえ感ぜられる。
 彼等を近づかせて居るものは表向きは音楽だった。ピアノのすきな綾子の所へ、ヴァイオリンが巧みな吉田がやって来て、この二つの楽器を合わせて楽しむことは当然のことだった、少くとも綾子と吉田にはそう思われた。
 しかし、中条にとっては、夫が全く除外されているという時の状態は堪らなく不愉快だったのである。
 吉田には兎も角、綾子にはこの夫の不快が判らない筈はなかった。けれども、綾子はそんなことを何とも思わなかった。こんなことを不快に思っている夫をもつことを恥とすら考えた。だからますます平気で吉田をよんでは合奏した。彼女は賢かった。成程中条は弱気な哀れな夫だったかも知れない。しかし彼女は火と戯れていることに気がつかなかった。こういう性質の男は時とすると犯罪に対しては、非常に勇敢になるものだからである。
 中条と雖も音楽は嫌いではなかった。はじめのうちは二人の演奏にひたることも出来た。
 けれども最近に至っては、彼は全く不快な気持で二人を客間に残して自分の部屋にもどるのが常となった。
 彼がいなくなると彼等は一層仲よく弾いてるような気がした。
 いや、楽器をおいて、笑いさざめく声がよく聞えた。そうして弾きはじめると音楽は一層幸福そうにひびいて来た。
 彼は、「春のソナタ」を書斎の中でききながら幾度歯を食いしばったことだろう。
 彼は舌打をしながら、ベートホーヴェンを呪った。それ程、二人のすきな曲は、この奏鳴曲だったのである。
 一方吉田は遠慮なく綾子を音楽会にさそいに来る。妻は平気で一緒に行く。そうして夜おそくなって帰って来る。
「一体今までどこで何して来たのだ」
「だからS氏のコンサートって申し上げたでしょう。マーラーのシンフォニーって素的ね。何だかむずかしくって判らないけれど」
「何を云ってやがるんだ」と彼は心で思った。
「おそくなって申訳がございません位のことを云ったらよかろう」
 斯う思ってももう口にさえ出し得ない男だった。
 吉田と妻が人目を憚らずに出歩くことは考えても堪らないことだったが、しかし、彼は之に口をださなかった。
 綾子に対しても吉田に対しても、一言も注意すらしなかった。
 云ったら綾子は軽蔑の笑いで一蹴するだろう。子供とはいかぬ迄もまるで年下の吉田に云うことはなお更はずかしいことだった。
 斯うやって悶えの幾月かが経ったが、結局中条直一は吉田の存在を呪うより外仕方がなかったのである。吉田の存在と、ピアノの存在と、ヴァイオリンと而して彼等が好んで合わせる「春のソナタ」と、そうしてその作曲者とを、凡てを彼は呪った。
 然し妻と吉田の間に就いて何らの確証を握っているわけではなかった。が、何らの証拠がないということは中条のような男にとっては証拠があるのと全く変らなかった。吉田の存在が呪わしいのは同じだった。
 春が去って夏が来た。どうしても此のままでは堪らないと感じた彼は、役所の休みを利用して、二、三日前から泳ぎにゆくと称して、吉田をこのT海岸へ連れだしたのである。
 最初の彼の目的は吉田に恥を忘れて事実をつきとめることだった。けれど、宿屋の一室で一寸その話にふれかかった時、吉田は呆れた顔で笑ってしまった。
 中条は一時やはり「俺が疑いすぎたかな」と安心した。けれども吉田が直ちにあとから云った言葉が中条を直ちに不快にした。
「僕、今度はじき帰りたいんです。お姉さん(彼は綾子のことをいつもこう呼んでいた)とこの夏、ブルッフを合わせる約束がしてあるんですから」
「この男はひどく無邪気な人間か、途方もない、白らじらしい奴だ」と中条は考えた。
 機会があったら吉田を此の地上から失ってしまい度い、とは必ずしも今になってはじめて考えたことではない。彼がとりわけて淋しい房州の一角、T海岸をえらんだのもそこに理由があったのである。
 夏になると、二人連れの友達が山へ登ったり、海岸に行く。そして一人が誤って足をすべらせて深い谷に陥って死んだり、又は崖から海に陥って岩に頭をぶつけて死んだりすることがよく報道される。
 其の時、若し一方が他を殺したとしても、どうしてその殺人を立証し得るだろう。而してもしその動機が外面に表われない場合には聊かも殺人の疑いさえ起り得ない筈ではないか。
 誰も人目にふれぬことだ。誰も人のいない時決行するのだ。そうすればこの犯罪は永遠に人に知られない。
 中条は思った。彼の場合において、動機たり得るものをたしかに知っているとすればそれは妻一人だ。よし其の妻が自分を訴えたとしても、どうして直接の証拠を掴み得るか。
 中条と吉田が泊っている宿屋から、泳ぎに行く所までに恐ろしい岩の崖道がある。無論遠まわりをすれば安全な道があるのだが、中条等は、近道を往復した。而もこのある一部分には崖の上に茂る木と、海にそびえ立つ岩にかくれて一寸外から見えない個所があるのを中条はちゃんと知っていた。
 水泳着一枚の吉田が足をすべらして下へ落ち、頭を割って死ぬということは決して不思議ではない。現に中条自身も危いのでずい分用心して歩いているのだ。
「よし、あしたはどうしてもやっつけてやろう!」
 中条は夜の明けるまで思いつづけた。
 あくる日は前日同様の快晴で、やはり暑い日だった。
 水泳着一つになった中条と吉田が細い危い崖道を歩いて行く。吉田が先に中条が後から。
 中条は、ここと思う所まで来てあたりを見廻した。
 彼の見得る限り一人も人は居なかった。
 今やろうか、今やろうかと思って彼は吉田の後姿に見入った。
 この時、偶然が、中条の気持に対して、拍車の一撃を与えた。
 何も知らずに先に立って歩いていた吉田が楽しげに口ぶえを吹き出した。それこそ彼が綾子とよくひく「春のソナタ」のヴァイオリンパートの一節だった。
 之を耳にした刹那、中条は身慄いした。
 彼はいきなり吉田の後に身を引き付けた。……
 吉田がT海岸から誤って落ちて頭を粉砕されて即死したという急報が四方にとんだのはそれから間もなくだった。警察からは直ちに係官が出張した。東京から家族の者もかけつけた。
 けれどもそこには何ら他殺の疑いをかけるべき点もなく又自殺と見られる所もなかった。中条直一が相当地位ある某省役人であることが凡ての嫌疑から彼を救った。
 かくして吉田豊は、前途有為の身を以て、T海岸で不慮の過失死をとげたということが一般に報ぜられたのである。

          二

 中条直一は然し其の後、だんだん憂鬱になって行った。そうしてその秋には極度の神経衰弱にかかって、当分役所を休まなければならなくなった。
 同じ家に居ながら彼は、綾子とは一日中一言も口をきかぬことすら多くなった。
 綾子は綾子でピアノを盛んに独りで弾じた。而も相手がないのに、ヴァイオリンやヴァイオリンコンツェルトのピアノのパートを、やけに弾ずることが多かった。
 彼女のこの振まいは、必ずしも夫に対するあてつけばかりではなかったらしい。
 こんな時に、夫の直一はますます陰気になって行った。
 ついに、医者の注意によって毎朝ある一定の時間を散歩に費やさなければならないと云うことになって、永田町の自宅から徒歩で日比谷公園を一周して来ることにした。それは十二月頃のことである。
 年があけて、再び夏が来た。吉田の死んだ月が又来た。丁度、その月だった。中条直一は突然思いがけない禍に出会った。
 彼は自動車にき殺されたのである。
 或る朝、身なりのいやしくない紳士体の男が、西日比谷検事局にあわててとび込んで来た。人を轢いた。いやあの男が自分の車で自殺したというのだ。
 居合わせたH署の巡査が早速行って見ると、公園の検事局に相対している入口から約五十間ばかり中に行った道路に、おびただしい血汐を流してこれも一見紳士風の男が自動車に頭を轢かれて即死して居る。自動車は反対の帝国ホテル側の入口から左側を通行して来たらしく、西側に車首を向けて止って居る。
「運転手はどこに居るのか」
 と聞かれて、とび込んで来た紳士は恐縮しながら、
「実は僕自身運転して来たんです」
 と答えた。
 直ちに取り調べが開始され、紳士は一応H署に連行されたが一通りの取り調べによって即日帰宅を許された。
 加害者たる紳士は、某会社の重役で法学士伯爵細山宏、殺された紳士は某省の役人中条直一と判明した。
 細山伯の警察で述べた所によると、彼は毎朝其の時間に自宅から自身自動車を運転して必ずその場所を通り勤先に出る。丁度其の日は今までのクライスラーの代りにおろしたてのパッカードを運転して通った。昨年頃まではもっとおそく出かけたけれ共、今年になってからは健康の為というので割に早く出かける。そうしていつも日比谷公園を東から西、即ち日比谷門から霞門を抜ける順序だった。この日もいつもの通り走って来ると左側の鉄柵と車道との間の細い舗道の上を歩いて来る人を見た。此の儘進んでも無論衝突の憂えはないからと思って、念の為にクラクソンを鳴して進んで丁度その人とすれ違いそうになった時不意に、その男が車道によろよろと入って来た。むしろ飛び込んだ。ブレーキをかけたがどうすることも出来ない。仕方がないから、あわてて右にさけようと思って、ハンドルを右に切ったけれど及ばず、相手の頭を前右車輪にかけてしまった。
 その後、警察の調べた所によると、中条直一は別に自殺するような動機は認められなかったけれども最近では非常な神経衰弱にかかって居たから、かかることは在り得べからざることではないと云うことだった。
 然し、H署ではこの事件を「業務上過失致死事件」として、一件書類を区裁判所検事局に送って来たのである。
 伯爵細山宏が検事局から呼出を受けたのはそれから二週間程経てからであった。
 係りの大谷検事は、当時所謂バリバリの検事だった。検事の問に対して伯爵は警察で申し立てた通りの答えをした。
「時に、あなたは、昨年T海岸で死んだ吉田豊という人のお兄さんですね」
「そうです。吉田は私の実弟で、あの家の養子に行ったのです」
「そうですか、それはお気の毒でした。しかし、とするとあなたは被害者の中条にも度々お会いになったことはあるわけですね」
「はあ」
「この日、むこうから来た紳士が中条だということは、この事故の起らないうちに判りませんでしたか。無論、後には被害者は僕の知っている男だと仰言ったそうですが」
「いや、とっさの場合ではじめはよく判りませんでした」
「そうですか、いやそれならそれでよろしい」
 対話は極めて円滑に進捗しんちょくした。凡てに渉って三時間たてつづけに調べられたが、ようやく一通りのことは終ったと思う頃、伯爵がきいた。
「いかがでしょう、私は許されましょうか。私の考えでは自分には過失はないように思いますが」
「私としては今は何も云う必要はないと思いますが、一応あなたの御身分に対して好意的に申しましょう。問題は、あなたの云う通りだとして、果して法律上過失があるかないかということなんですよ。あなたのいうことがほんとかどうか不幸にして立証すべき何物もない。死人に口なしで相手は死んで居る。又第三者で見た者が一人もないのです。従って少くもあなたの云われることを嘘だと立証すべき事実がないのです。そこであなたの今までの供述に従えば御安心なさい、この事件は不起訴になります。私はこの事件を不起訴にすることにきめました」
「ありがとうございました。これで私も安心致しました」
 伯爵がよろこんでドアをあけて出ようとする時だった。不意に後から声がきこえた。
「細山さん、しかしそれはあなたの計画通りに進んだわけじゃないですか、予期した通り、考えた筋書通りに!」
 細山伯爵はこの時ふりかえって大谷検事のすごい皮肉な微笑を見なければならなかった。
「細山さん、事件は之ですんだのです。然し私は検事としてでなく、個人としてあなたと少しお話したいのですがね」
 伯爵は思わず、もとの椅子に腰を下さなければならなかった。
「伯爵、之は私が個人として云うことですよ。検事としていうべきことは終りました。だからもはや安心なさってよろしい。ただ私大谷一個人としてお話したいことがあるのです。
 私は自分の職業の立場から常に犯罪ということに興味をもって居ます。如何にして犯罪を捜査するかということは云わば如何にして犯罪を行うかという事を考えることです。だから私は事件を調べることに趣味があるばかりでなく、もし私が犯人だったらどうするか。又はどうしたかというようなことをいつも考えるのです。
 あなたは、よく、山や海で二人づれの一人が不慮の死をとげた際に、一回もこれを疑ったことはありませんか。私は自分が検事だからというせいか、いつもあれは妙に思うのです。成程殺人としては動機がない。しかし動機がないということはただ外に表われないというだけですからね。人間ですもの、内にどんなことを考えて居るか判るものではありませんよ。
 ところでもし此の場合、動機が表われたとしたらどうでしょう。殺人として検事は起訴出来るでしょうか。つまりそこですよ。丁度あなたの事件のように、第三者が全くない。被疑者のいうことをくつがえす証拠がない。従っていくら検事でもどうすることも出来ますまい。とすると、この方法は殺人として最も巧妙な方法だと云うことになります。
 さて、ここにある夏、二人の男が海に行った。そしてその一人が崖から落ちて死んだのです。すると丁度一年程たってから、その時のつれの男が、ある過失か自殺で、自動車に衝突しました。ところがその時その自動車を運転していた男はさきに死んだ人の兄だったという事実がここにあると仮定します。そう、これは一ツの仮説の例ですよ。
 この二つの事件を偶然であり得ないとは云えますまい。しかしこの事実の間に、ある連絡をとって考えられぬことはありません。
 伯爵。私と同じ役人をしていた男で、今探偵小説作家になってる人があります。このあいだ一寸会った時に、私はこういう二つの事件を彼に語って見ました。するとその男は、小説家らしい途方もない空想を語りはじめたのです。之からあなたに申し上げるのは、私よりむしろその男の考えを多くいうのですから一つ小説のつもりできいてごらんなさい。
 その男の云うのは、まず海で青年が死んだ事件を殺人事件だと考えるのです。少くもその時死んだ人間の親とか兄とか、要するに最も近い人には殺人事件だと信ぜられたと仮定するのです。動機は無論外には表われては居らぬけれども殺された青年の側に居る者、例えば兄などには必ず推測がつくでしょう。その小説家は此の二つの事実に対して兄が『弟は殺された』と確信したと、推測することが最も自然だというのです。もし仮りに兄が、そう信じたら彼は一体どうするでしょう。今云った通り、法律的には之をどうすることも出来ない。訴えたとて何にもならぬ。結局残る所は直接の復讐手段でしょう、そして彼の兄なる人が馬鹿でない限り、自分も法律的には何等の危険のない方法をとるでしょう。伯爵、実際この場合、彼は最も賢明な方法をとったのです。はじめの事件が殺人事件だとされていない限り、之に対する復讐も亦、動機が一般には判らないわけです。即ち二度目の殺人は動機が全然外部に表われていない点に於いて、第一の殺人事件と同じわけです。
 扠、ここで仮りにこの兄なる人の位置を定めて見ましょう。仮りに之が子爵某という人だとします。即ち社会的に相当地位ある人間だとしましょう。少くとも殺人事件の如きには最も嫌疑のかかりそうもない地位に居るのです。即ち云いかえれば、最も巧みに人殺しの出来る地位に居るとしましょう。此の子爵は、弟が殺されたと信じて以来、どうにかして相手をやっつけようと考えて居る。絶えず遠くからその行動を注意していると、相手は神経衰弱にかかって役目をひいてしまうと判る。ところで子爵は、毎朝自動車を自ら駈って日比谷公園を通るのです。偶然にも或る朝、子爵は相手がここを通るのを見ました。時々、一方は徒歩、一方は車で公園のあたりで摺れ違う。そのうち子爵は相手の時間が一定しているのに気付きます。健康上いいからという理由で時間をくり上げて相手と必ず会うようにしはじめました。
 ところで伯爵、あなたの事件で、私はその小説家に云われてから気が付いたのですがね。日比谷公園ともあろう所で、あの時分どうして誰も他に人が居なかったかということを調べて見たのです。すると妙なことを発見したんですよ。どういう理由か一寸判らないが、あの事件のあった個所は、日曜日の朝は別ですが、他の朝はある一定の時間――無論極く短い間ですが人通りが全く一時に途絶えるという事実、而もそれが丁度伯爵あなたがあの日あそこを通られた時間だ、という事実が判って来ました。伯爵、半年も同じ道をドライヴ[#「ドライヴ」は底本では「デライヴ」]して居たこの物語の子爵某氏にそれが発見されぬ筈はありません。
 扠、ここまで来て私はこの小説の中の子爵の考えを始めから辿って見ましょう。まず弟が殺されたと思う。ひそかに注意して見ると弟の仇たる某紳士が神経衰弱に罹って役所を休んでしまう。無論子爵は之を良心の苛責と信じるからその確信はますます堅くなる。そこでいよいよ復讐の決心をする。偶然或る日、日比谷公園のドライヴ中某紳士を発見する。いつか又出会でっくわす。之を知った子爵は某紳士の通る時間をはかって自動車を駈って摺れちがう。之から毎朝時間をいままでより早目に出る事にする。そうして半年の間二人は毎日のようにすれ違って居たわけです。之は子爵にとって二つの意味で重大であった筈です。一つは無論『仇の様子』を探る為です。他の意味は、もし某紳士が真犯人とすれば、子爵が殺した相手の兄だと知って居る彼にとって、毎朝偶然子爵に会うと云うことはたしかに一種の恐怖であり従って神経の弱って居るその男の態度に必ず変った所が見い出されるに違いない。そこで約半年子爵と某紳士とは摺れ違って居たとする。すると何日頃からか知らないけれども子爵はさっき云った妙な事実に気が付きはじめた、即ちある一定の時間に全く往来が途絶えるという事実。この事実が素晴しい手段を思い付かせたに相違ありません。
 之からこの子爵が、犯人としてどの位頭がいいかを説明しましょう。先に云った理由によって子爵が行おうとする殺人のモーティヴは決して暴露する危険はない。その点に就いて心配する必要は毫もない筈です。子爵はつまらない小細工は一切しないことにする。わざと白昼、すこぶる自然らしく殺人を行おうというのです。ただ誰からも見て居られないということが絶対に必要です。然り、ただその一点だけが此の殺人事件に於いて必要だったのだから恐ろしいじゃありませんか。而も某紳士が海岸で用いた手も誰からも見られぬという点だけが大切だったのです。之に対する復讐としてはけだし甚だ適切だったと云うべきでありましょう。
 子爵の用いた武器、即ちこの場合兇器は? 之こそ子爵の頭のよさを示すものです。彼は自分の乗っている自動車を相手にぶっつけようというのです。白昼、日比谷公園の中で、あの時に而も人の恐れる検事局の前で、パッカードで人を殺す! 何というモダーンな、而も頭のよい犯罪でしょう。
 現今われわれ法律家から云えば自動車位殺人の兇器にたやすく利用され得るものは他にないのです。たやすくとは安全にの意味ですよ。今云ったもとの同僚の探偵小説作家などは役人だった時分からこれを主張して居ました。『探偵小説作家が殺人方法として自動車を兇器に用いるのが一番現代に適切だろう。犯人にとって法律的にこの位安心なものはないのだから。それ程、現今の交通状態と法律とはかけはなれている。僕だってそれを書かせれば書くんだがほんとうにまねをする奴が出るといけないからまだ書かないんだ』とは最近彼が、私に洩した感想です。
 子爵の考えも正にそこだったのです。これは子爵が相当な法律家だということを表わしています。自動車の事件は誰も見ていない限り、相手を殺してしまえば、特殊の場合でない限り、丁度あなたの時同様、検事は被疑者の供述以外に手がかりがないのですから、めったに起訴されないことになるのです。而も最悪の場合を考えて見ましょうか。誰か現場を見ていたとする。この場合故意に相手を殺したと思う人があるでしょうか。誰しも狼狽の極と思うでしょう。ことに殺人の動機が外に表われていない時においては、何人なんびとか之を人殺しと云い得るでしょう。即ち最悪の場合でも殺人事件にはなりませぬ。十人の証人が居てことごとく子爵に不利益な証言をした所で事件は業務上過失致死罪の罰、即ち三年以下の禁錮又は千円以下の罰金ですむ筈です。伯爵、あなたは子爵某が過って人を轢殺して三年の体刑になると思いますか、今までの判例を見れは直ぐ判ることです。之は半年の間狙いに狙った刹那がそういう最悪の瞬間と仮定してもの話ですよ。而もこの不幸のプロバビリティーは子爵の計算に従えば頗る小さいものだったに違いありません。即ち子爵は、犯行の日、日比谷門から霞門に向いてドライヴする。相手がいつもの通り右側の舗道(即ち子爵から云えば左)を歩いて来るのが見えた。神経衰弱にかかった紳士があそこを西から東へ行く時は右の舗道を歩くのが最も安定だと考えるにきまっています。何故ならばあそこの舗道は甚だ狭く左側を通れば後から来る多くの自動車におびやかされるからです。子爵は素早くあたりを見まわす、といってもまず右側だけです。前面はカーヴしているからこっちだけ見ていればよい。左側は鉄柵で仕切られた植込みだからめったにこっちから人が来る筈はない。そのうち子爵と某紳士の距離はますます迫る。この辺でよしという所で、子爵はまッしぐらに相手の身体めがけて――即ち今までの進路から一寸左にハンドルを切って突進する。今まで通りに歩いていれば安心だと思っていた相手は驚いて逃げようとするひまがない。無論右に避けたいが鉄柵ですぐにはとび越えられぬ。仕方がないから左即ち車道に出ようとする。とたんに車体が相手を引き倒すという次第なのです。この場合相手が車道へ少しでもとび出して来ることが必要なのです。何故なら歩道へのりかけてそこで引き倒しては明かに過失ですから。自殺した場所さえ車道なら、はじめ少し車がカーヴして来てもその跡なんか、すぐ踏んでも消せますからね。現にあなたの場合などは全然車のあとは踏み消されて居たそうです。無論あなたがしたとは云いません、群集がです。しかしその群集を犯人が呼ぶことは出来た筈です。少くとも彼が唖でない限りはね。事実あの時調べられた人々は一斉に『声をきいてかけつけて見ますと』と云っていますよ。つまり犯人子爵は相手が死んだのを見定めてから先ず弥次馬を呼ぶ、そして自分は直ぐ目の前の検事局に恐れながらととび込んで来るのです。過失はともかく、どうして故意を疑いましょう。誰が殺人事件だと思いましょう。驚嘆すべき腕まえです。
 然し之は皆例の小説家の空想ですよ。アハハハ、一寸面白いでしょう。おや? どうかなさいましたか」
 この時、今まで青い顔をしてきいていた伯爵細山宏はふらふらと立ち上ったがドアにようやく手をかけながら、
「嘘だ嘘だ、人殺しなどと。――けしからん、あいつ……自殺だ、自殺だ!」とあえいだ。
「お帰りになるならもうお帰りになってよろしい」
 うす気味悪い笑をたたえてドアを助けて開けてくれた大谷検事を後に、よろめくように伯爵は廊下に出た。

          三

 それから一週間たってからのある夜、伯爵は日記の中に次のような感想をしたためていた。
「驚くべきは大谷検事の推理だ。若くは想像だ。全く俺の考えた通りの事を云っている。而も自信に満ちたあの態度! 全く俺はあの通りの計画をしてあの日あの場所まで行ったに違いない。しかし、自然のする皮肉を、われ等の頭の力で見通せると思うか、俺も誤って居た。しかし検事も俺同様の誤算をしていたのだ。
 俺が中条の身体めがけて車をぶつけようとした刹那だった。不意に中条の方がよろよろとして俺の車の方向にとび出して来たのだ。現在殺そうとしている相手だが、しかしこの刹那俺は全く狼狽した。俺は殆ど直覚的に避けようとしてハンドルを切った。けれども間に合わなかったんだ。中条の奴、良心の苛責に堪えかねたか、俺の車にとび込みやがったんだ。
 今となっては、誰も人の居なかったことが残念だ、俺は人殺しを計画した。だから検事にそう思われても仕方がないかも知れない。しかし今一歩という所でやりそこなった。相手に先んじられてしまったんだ。誰でも一人見ていてくれたら、彼のよろめき入ったことを立証してくれただろうに。
 昨日中条未亡人を訪問した。俺が中条を殺したと疑っているのは検事とこの女だ。あの女は、昨日はほとんど物を云わなかった。
 ああ、俺は大谷検事と中条未亡人が生きている限り、人殺しをしたと確信されている。俺は自分の計画が完全だと信じていた。余りに完全すぎたと信じていた。しかし、大自然が行う皮肉を無視していた俺は愚かだった、永遠に俺は呪われている」
 伯爵がここまで書き記した時、ドアをノックする音がきこえた。伯爵の声に応じて小間使が丁寧に一通の封書を机の上において去った。差出人は中条綾子。書留郵便で投函日附は昨日である。
 いそいで封を押し切った伯爵の目には次のような美しい文字がはっきりとうつったのである。

 伯爵様、先刻は失礼いたしました。折角お訪ねくださいましたのに、私実はあの時、大変考え事を致して居りましたの。それで申訳ない失礼いたしてしまいました。お許し下さいまし。あの時私はある物を伯爵様にお目にかけようかどうかとまよっていたのでございます。けれどとうとう決心してしまいました。何事も申し上げませぬ。ただ同封の文をおよみ下さいまし。そうして永遠に御身近くにおもち下さいまし。
 伯爵様、あなたの御力は偉大でございました。けれど、われわれの頭がどんなによくても神様のなさることを考える事は出来ません。神様のいたずらは、人間には判らないものでございます。
綾 子

「神のいたずら?……自然の皮肉?」
 つぶやきながら伯爵はまき込められた一片の紙に目を通した。
 そのはじめに女文字で「之は夫直一の日記の断片でございます。夫の死後、私が発見して今まで誰にも見せずにおいたものでございます。綾子」と記されている。
  ×月×日
 妻はどうしても疑っている。否疑っているのではない。俺が吉田豊を殺したと確信しているのだ。俺の手が血みどろに見えるのか、俺の顔がそんなに恐ろしいのか。俺がこのごろ夜中眠れないで役所も休んでしまったのを、良心の責苦だと思っているらしい。馬鹿! 俺がいつあいつを殺したんだ。俺は人殺しじゃない。あいつはほんとにあやまって死んだんだ。
 俺が豊を殺そうとしたのはほんとだ。恐ろしいことだが俺はこの手で彼を崖からつきおとしかかったんだ。それは間違いはない。しかし、しかし、俺はあの時つきおとしはしなかったんだ。
 もう少しで彼にふれようとする途端に、豊が不意に悲鳴をあげたんだ。俺は却って驚いた。どうしたんだ? と、きこうとする刹那、あの足場の悪い所だ。あっという間に足をすべらせて彼は下の岩に向って落ちこんだのだった。
 俺はしばらく茫然としたが、直ぐにその原因は判った。綾子は前から知っているだろうが豊は、今になっても蜘蛛に対して極度の恐怖心をもっている。自分から見ると殆ど理由のない恐怖だが、あの刹那あの崖の上に立っている松の木からたれちていたのだろう。丁度彼の顔にあたる所に五寸に余る大蜘蛛が彼が落ちてからなおブラブラしているのを自分は見た。
 豊が口ぶえをふいてのんきに歩いている所へ、不意にこの大蜘蛛が顔にあたったのだ。
 蜘蛛だ! と認めた刹那、彼は恐怖の余りとび上ったのだ。その途端に足をすべらせてしまったにちがいない。
 ああ思えばあの時、あの蜘蛛をそのまま、おいておけばよかった。自分も気味のわるい余りに叩き殺して海に捨ててしまった。自分は何という愚か者だ。もしあの時、誰でも一人人間があのありさまを見ていてくれたなら、俺の人殺しの疑いをはらしてくれるだろうに。又もしいっそ俺が訴えられれば弁解の辞は十分にあるのだ。しかし、妻は俺を人殺しと確信しているくせに、一回も俺に訊ねない限り何を云ってもむだなのである。俺はもはや綾子の沈黙の復讐に対しては沈黙の争いをつづけなければならないのだ。
 しかし、俺はこのごろ凡ての人々に人殺しと呼ばれているような気がする。俺は人殺しを計画した。しかし実行はしなかったんだ。ああこの苦しみをいつになったら晴らす事が出来よう。
 妻以外では、豊の兄の細山伯がたしかに疑っている。ああ毎朝、俺と顔を合わせる意味がわからない。俺は不愉快だけれど、俺が、あの道を通らなくなればなお伯は俺を疑うだろう。おお伯よ、いっそ俺を裁判所へ訴えてくれ!
(この間、日記の日附が三ヶ月程あいている)
 ×月×日
 俺はたまらない、こうやって無実の罪を凡ての人々からきせられて見られているのは。綾子は断然俺を人殺しと見て居る。一言もそれにふれない限り、俺も一言もいうまい。伯爵も毎日あうが何の為にわざわざあの時分通るのだろう。そうして訴えるようすもない。彼は俺を殺すつもりなのだろうか。
 それ程疑うならいつでも殺されてやる。しかし、汝の復讐は神の目から見れば真正の復讐ではないのだ。
(この間数日のへだたり)
 ×月×日
 昨日は危く自動車にぶつかる所だった。
 医者は毎日歩けという。併し少しだってよくなる筈はない。
 俺は丁度盲人が杖なしで歩くように往来を歩いている。ひょっとすると医者も俺を人殺しだと思って居るのじゃないか。綾子が医者にしゃべって居るのかも知れない。そうして俺を出来るだけ危険にさらすようにして居るのじゃないか。
 俺は人殺しじゃない。人殺しを考えたことはある。けれどやったおぼえはない。
(次は死の前日の手記)
 ×月×日
 こんなへんな気もちで生きている気はない。豊だって俺があそこにつれ出さなければ、死ななかったんだ。そう思えば俺は死んでやってもいい。しかし細山には殺されたくない。よし俺は奴のような自動車にのって来る人を利用しよう。あしたはあいつの来る頃、日比谷で他人の自動車にとびこんで死んでやる。細山が丁度通る頃、わざと他の車にとび込んでやる。どんな車でもいい、細山以外の自動車にとび込んでやろう。あそこまで用心してあるいて行かなければならない。
 最後に、綾子に云う。人知を以て神の業をはかる勿れ。

 読み終った伯爵は、この時ハッと今まで少しも気にしなかった事を思い浮べた。
「そうだ。あの日はじめて、それまでの箱型のクライスラーをやめて、買いたてのパッカードを動かしたのだった」
 再び中条の日記を見ていた伯爵の目には涙があふれた。それが頬を伝って来た頃、彼は机の上に面を伏せて、長い長い間動かなかった。
(〈文藝春秋〉昭和五年七月号発表)





底本:「日本探偵小説全集5 浜尾四郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1985(昭和60)年3月29日初版
   1997(平成9)年7月11日5刷
初出:「文藝春秋」
   1930(昭和5)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:はやしだかずこ
2001年2月26日公開
2006年4月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について