「ほう、すると君は今日あの公判廷に来て居たのか。……そうだったのか」
「ええ、あの事件の初めから終りまで傍聴して居ました。あの、あなたが弁護してやってる
「そうかね、僕は君のような芸術家があんな殺伐な犯罪事件に興味をもってるとは思わなかった」
冴返った春の寒さに、戸外はいつしか雪となり、暮れてからは風さえ加わって来た。
ぎっしりとつまった本棚に囲まれた洋風の書斎に、
思えば、二人が此の部屋で、炉辺に膝を交えて冬の幾夜をすごしたのは一昔も前の事である。衣川は清川には五ツ上であった。同じ高等学校、同じ大学に居た頃、二人は真の兄弟のように、信じ合い愛し合った。
けれど、青春の友情は青春の感激が去りゆく頃から、兎角薄らぎはじめるものである。
衣川は法律を学んだ。そうして父の後を
こうやって二人の道は次第に隔って行く。
三十六歳になる衣川は六年前に結婚した。
清川は久闊を叙すると、いきなり今日自分が法律家として出た公判廷の模様について話し出した。けれども之は弁護士たる自分に対する一応の礼儀――世辞に過ぎないように思われる。
彼は
「実際、君があんな殺人事件なんていうものに興味をもっているとは意外だったよ。僕らには相当面白い事件なんだがね。……時になんだったらゆっくりあの話でもきいて行かないか。君は知ってるだろうが、ワイフは
彼は斯う云って好意ある微笑を見せた。
清川純は昔ながらの美しい笑顔で之に応じたが、改めて答えた。
「僕は格別殺人事件に興味をもってるわけじゃないんですがね、ただあの松村子爵が殺されたか、どうかという事だけが妙に興味をそそるんですよ」
此の答えは衣川には意外であった。彼はただ清川をして出来るだけ気楽にその用件を(恐らくは通常の依頼人のように云い憎いものであろうから)云い切り出させるつもりで、自分が関係して居る事件を、云わば行きがかり上触れたにすぎない。
「ふーん、すると君は死んだ子爵と何か……」
「いや、全然知らない。子爵とは会ったこともないのです。けれど森木が殺したのか、又は子爵が自殺したのか、という事が妙に気になるのでね……」
自分が全力を注いでいる刑事事件についてこう云われると衣川も
「いや全く、それは君ばかりではない。世人が等しくその真相を知ろうとして居るところだろう。無論僕は子爵が自殺したものと信じて居る。少くも森木国松が殺人者ではないと思っている。
然し見給え、検事は立派に彼を強盗殺人犯人として起訴した。藤山検事は僕は私交上よく知って居るがめったに軽卒なことをする男ではない。予審判事も之を強盗殺人被告事件として、公判に移して居るのだ」
「森木は検事の前で全部自白して居るというじゃありませんか」
「まあ待ち給え。君がそんなに熱心ならば、僕が改めてあの事件を詳しくここでくり返して見よう。
あれは丁度去年の秋、十月初めの出来事だった。あの月のはじめ、僕は事件の用があって約十日間程関西に行って居たが、その留守十月の三日、小田原に近いM温泉場で起った出来事なのだ。無論君も御承知の通り、M温泉場のMホテルの第一〇三号室で、その前々夜即ち十月一日の夜から滞在して居た松村子爵が、死体となって発見されたわけなのだ。
当時詳細に伝えられた事だから君も知って居るだろうけれども、松村子爵は若い時から外交官生活をして当時四十二歳になるまで全くの独身だった。後嗣の事に就いても、平生健康でもあったせいか一向に考慮せずに居たらしく、東京に帰ってからも外部からは至極淋しい、然しながら気楽そうな独身生活をつづけて居た。
十月一日の夜、松村子爵は
ところでドアには内側から鍵がかかって居なかったので森木は戸をあけて中にはいって見ると子爵がベッドにねたまま死んで居るのを発見した。
この所まではあの当時伝えられた通りを僕が述べるにすぎないけれども、森木の行動に不自然な点のあるのは否めない。従って後に彼が被告人となり、彼自身でも供述を大分変えているのだが、ともかくはじめは右のように伝えられたのだ。
それは後にゆっくり研究する事として、子爵は如何いう風に死んでいたか、というと(之は全部当局者が調べたところだが)、ベッドの中にねていたままで、右の手にピストルをもち、右の耳の直上を射て居る。そこから鮮血が少しくこぼれているだけで、全くその他に変ったところはない。検証の結果、子爵は前夜の十二時前後にピストルの一弾によって即死したものである、という事が明かとなった。
扨いよいよ問題は、子爵の死は自殺か他殺か、又は過失死かという事である。姿態のようすから見て過失死であるという事は考えられない。最も自然な見方は無論自殺というテオリーを立てる事である。
警察でもはじめは一応そう考えたらしいけれども、まず第一に自殺の動機らしきものが発見されない。無論遺書の如きものは全然見出されなかった。第二に子爵は左利きである。という事が判った。左利きの男が、死ぬ時に右手でピストルを打ったと、いう事になった。第三に、さきに述べた通り、第一の発見者であるボーイ森木国松の供述が頗る怪しくなって来たのである。
そこで森木国松を取調べると、そこに甚だ不利益な事実が曝露して来た。即ち彼は、当時同所の白首に身を打ち込んで借金で全く首もまわらなかったところが、十月四日になって諸所方々の借金を約半分程きれいに払ったのみならず、彼の室から約五百円の紙幣が発見されたにも
君は無論気がついて居るだろうけれども、大体森木が子爵の死体を発見するまでの順序というものが甚だおかしい。客が呼んだのならいざ知らず、ドアの外から叩いて許可がなければ、ボーイが室内に入るべきものではない。殊にMホテルのようなところではそういう事にボーイは十分訓練されて居る筈なのだ。それに終日客が出て来なければともかくも午前十時頃までに客が朝食に出て来ないからと云ってむやみにノックすべきものではない。第一何の用があって彼が一〇三号室の戸をたたいたか。彼はこの点をはっきり答えられなかった。警察でひどくつっこまれてから彼は一時供述をかえて前を通ったら偶然戸が開いて居て中からうなり声がきこえた、などという出たらめを云い出した。おまけに例の紙幣に就いてはかれこれあいまいな事を云うばかりで一こうにらちがあかない。すったもんだをした揚句、警察では彼が犯人にちがいなしと見て検事局に送る事になった。
これは無論無理のない話で、僕はこの際、一応彼を怪しむという事はよく了解出来る。
警察で厳重に調べられてから、不思議にも森木は全く自分の犯行であるという事を自白した。
彼の自白によれば、彼が強盗殺人者として起訴されるに十分値して居るのだ。前夜子爵に命ぜられて煙草を一〇三号室にもって行った。その時、子爵はベッドに入ったまま、紙幣の束を勘定して居た。金に困って居た奴にはこれは甚しい誘惑だったのだ。然し流石に子爵を殺してその金を取ろうという勇気もなく、黙って戻って来たが、一時頃、眠ろうと思って便所に行く時、偶然一〇三号の室の前を通ると、戸が五分程開いて居る。さては中から鍵をかけるのを忘れたな、と思った時、彼にはさっき見た紙幣の束が目の前に浮んで来た。金に困って居た彼にとっては之はたしかに容易ならない誘惑だった。何ものかに引ずられるようにして森木は室内にしのび込む。スタンドの薄明りで子爵の枕もとには腹をふくらました札入と一挺のピストルが目についた。するすると進んで彼が札入に手をかけた刹那、子爵がふと目をさました。そうして誰だ! と一声叫びながら、
之が、森木が検事の前ではっきり云っている事実なんだ。即ち彼は、他人の財物を得んが為に、ピストルを放ってその所有者の生命を奪ったわけになる」
衣川はここまで語ると、改めて新しいシガレットに火をつけた。
清川が塑像の如くに身動きもせず、黙ったまま、ストーヴの
「僕が此の事件の依頼を受けたのは、Mホテルの主人の友人を知って居たからだったが、僕が関係しはじめた時は事件が予審に移ってからだった。君も知って居るだろうが、予審中は事件の内容について詳しくたずねるわけにはいかない。予審判事の取調べが終ってからはじめて僕は森木国松にもあい、事件について詳しく知る事が出来たのだ。
森木は予審廷に行ってから俄然自白を
君はあれを傍聴して居たのだから大体、話の筋は判って居るだろうけれども、はっきり僕から話して見よう。
森木の云う所に従えば、松村子爵は彼の目前で自殺をとげたのだ。そうして彼が所持して居た五百円の金及び借金の穴うめに使った金は、子爵の自殺の直前、子爵自ら森木に与えたものなのだ。
一体、子爵はMホテルにはじめて泊ったわけではない。既に数回来泊して居て森木国松とは大分面識がある。それ所か相当可愛がられてさえ居たらしい。君も見たように、被告はまだ二十四歳でわりにきれいな顔をしているし一寸気も利いて居るところから独身子爵の身のまわりの世話をするのは大分慣れていたらしく思われる。
十月一日の夜、子爵は一人でやって来て、一〇三号室に泊った。その当時は森木の見たところでも少しも子爵の様子に変ったところはなかったそうだ。すると二日の夜十二時頃に突然、子爵の室から呼りんが鳴った。森木はいそいで子爵の室に行くと丁度子爵はベッドにはいって煙草をすって居たそうだが、彼の顔を見ると、突然、
『お前にもいろいろ世話になったが、俺は今度遠い所に行くから、之をお前にやっておく。黙ってとっておいてくれ』
と云いながら、いきなり札束をつき出したそうだ。森木が驚いていると、子爵はだしぬけに、彼の左手をとって
森木には、此の突然の子爵の振舞は一寸解し難かったそうだが、ともかくやるというものなので、礼を云ってその金をもらったのだ。
『もうよし、用はないから行ってねたまえ』
と云われて、彼はめんくらったまま、おじぎをしてドアを開けて外に出た。彼が、
『おやすみなさい』
と云って去ろうとする刹那、ぶすっというような異様な音が室内からきこえた。最前から子爵のようすが少しおかしいと思っていた彼は、いきなり今閉めたドアを又あけてとび込んで見ると、子爵は、ベッドの中にねたままピストルで自分の頭を射って即死をとげている。
此のピストルはさきの会話の間は、子爵はベッドの中にかくして居たらしく、森木はその時まで全く気がつかなかったという。
扨、ここで、森木にとって最も賢明な方法は直に此のことをオフィスに行って皆に告げる事だったのだ。君も無論そう思うだろう。然るに何故彼がその挙に出なかったか。
一言で云えば金の誘惑だったのだね。
無論彼もすぐオフィスにかけつけようと思ったそうだ。然し手の中に握りしめて居る大金を見た時、ふとその結果を考えたのだ。成程子爵の自殺は認められるだろう。まさか彼が殺したとは疑われはしまい。けれど、子爵が彼にこんな大金をそっくり今くれたという事を誰が証明してくれるか。彼は考えた。もし、彼がもらった事を主張すれば、役人たちはそれを信じないのみならず、却って死因までを疑いはしまいか。慾をすてれば何でもない。黙って札束をつきもどしておいて人をよべばいいのである。けれども金はのどから手が出る程ほしい。のみならず、この場合、
彼は迷った。迷った結果、愚かにもそのまま黙って自分の室にしりぞいてしまったのだった。
思えば子爵も罪作りさね。ほんとに森木にあれをやるだけの好意をもってるなら、何とか一片の遺書を残しておいてやればよかったのさ。あれでは若いあの男を疑わせるようなものだからね。
一晩中悶々として森木はとこの中で弁解の方法を考えたが結局いい考えは出なかったわけなのだ。そしてやはりこわいもの見たさで、とうとう自分で子爵の室まで行って見てはじめて翌朝発見したふりをして皆をよび立てたんだ。だから彼の申立にあやしい所のあるのは無理もない。従って又警察で疑われてもやむを得ないのだ。
然らばどうして警察で自白したか。
之は単純だ。森木はさんざん責められた上自分が大体はじめに嘘を云っているので、やり切れなくなり、勝手な事を自白してしまったので、こんなケースはめずらしくはない。警察でどの程度まで被疑者をいじめるか僕は知らないが、よくうその事実を自白する人間のある事は君だってきいてるだろう。森木もその不幸な人間の一人だった。最初にくだらない嘘を云ったが為に、とんでもない嘘を云わなければならないようになってしまった。
彼は此の儘で検事の前もすごした。勿論一応検事の前では警察の自白を否認したそうだけれ共、『そんないろんな事を云ってはいかん』とどなられてから又そのままに戻ってしまったのだ。
こうなると、被告人心理には妙な幻影が出来てくるものだ。われわれが外部から見て、どんな馬鹿な目に会ったって生命にかかわるような出たらめを云う筈がない、と思うにも不拘、被告人は一旦筋道の立った嘘を云ってしまい、それを度々くり返して居ると、それがだんだん恐ろしくなくなり、しまいには案外平気になってしまうらしい。
森木国松は、恐ろしい強盗殺人の罪を自白してから予審判事の前でも第一回第二回目の訊問まで同じ事を云っている。
彼が、今云っているような事実を云いはじめたのは、ようやく予審の第三回目の訊問の時からなのだ。この回に至ってから彼は俄然今までの事実を否認して、自分の無罪を主張するようになったのだ。
御ききの通り、公判廷に於いては自分の絶対無罪なる事を力説して居る。
彼の自白に基いて彼を起訴した藤山検事の立場も一応よく判る。又公判に移した判事の気もちも判らぬのではない。
けれども罪なきものは何と云っても罪はないのだ。もし彼に有罪の言渡でもあって見たまえ。国家はとんでもない誤りをおかそうとするのだ。実に危いじゃないか」
衣川柳太郎は
清川純は全く沈黙して之をきいて居たが、この時突然口を切った。
「なるほど事件の経過は詳しく判りました。……けれどあなたはほんとうに森木国松の無罪を信じますか?」
「………………」
「いや、弁謹土としてのあなたにこんなことをうかがったのは乱暴です。しかし、衣川さん。友人として、ね、友人としてこれはききたいのです。あなたはほんとうに森木国松が無罪だ。彼の云う事が――勿論公判廷で今日云ったことがですよ……その事がほんとうだと信じて居るのですか?」
「無論だ」
どなるように衣川が答えた。しかし彼の顔色には明かに急所をつかれた表情が見えた。
「どうしても?」
逃げる獲物を追うように清川がつっこんだが、彼の顔には意外な程の真剣さが浮んでいる。
「勿論。……信じて居ないでどうして今日のような弁論が出来るか、君……」
ごっくりと唾をのんで衣川がつづける。
「無論、僕は弁護士だ。弁護士を商売にしてくらしているのだ。依頼人をあくまでも弁護すべき職業に居る。けれども、不肖ながら、衣川柳太郎、愚なりとは云え、明かに有罪と信じているものを、金銭の為に目がくらんで、之を無罪と強弁しようとするのではない。僕はそれならはじめから受けつけないのだ。
衣川の亢奮につれて何故か清川は、段々冷かな表情を示した。そうして更につっこんできく。
「何故ですか。どういう理由からですか」
衣川はこの執拗な矢つぎ早の質問に対して、稍呆れたように清川の顔を見ながら答える。
「何故? 何故君がそんな事を僕にきくのか判らないが、一言で云えば、有罪とすべく証拠が薄弱だからだ」
いつの間にか衣川は立ち上って、ストーヴの前を歩きはじめている。
「清川、君は法律家でないから念の為に云っておくが、法律の精神、刑法の精神に従えば、僕が被告の無罪を証明する義務はないのだぜ。
だから今度の事件でも、僕は森木の無罪を積極的に主張する義務はないのだ。――清川、之は君だから云うが、積極的に証明する事は今の程度では、子爵の死が自殺であると積極的に証明する事であって、それは中々困難なのだよ。しかし検事は、子爵が殺された、自殺ではない、而も森木国松に殺された、と立証するべきなのだ。
一言で云えば、今日の検事の論告其他だけではそれが立証されては居ないと信じられる。藤山検事はあれで証拠十分だと思って居るかも知れないが、僕は絶対にそうは考えない。
子爵に自殺の動機が見出されなくて、却って被告に殺人の動機が十分に有るなどという事は今更論ずるまでもなく、断罪の十分な証拠にはならない。人には誰しも秘密というものがある。殊に独身であったあの子爵のことだ。どんな秘密があったか、そうやすやすと判るものではないのだ。発作的に死ぬ気になる事だって有り得る。遺書を書くにきまって居るとは限らない。森木に強盗殺人の動機はあるかも知れない。然しそれだからやったに違いないと云われてはたまらない。一番問題なのは、左利きの人がピストル自殺をする時に何故左手を用いなかったか、という事である。これは勿論左利きの程度に依るのだ。けれども左利きの人間が右手で何かする事は決して不自然ではない。左利きだけれども箸は右手で必ず持つとか、ペンは必ず右手にもつとか、いうもので、ピストルだって必ず左にもつとは限らない。
一番残念なのは、現代の科学によっては、自殺か他殺か、即ち自分でピストルを発射したか、他人が発射したか、ああいう場合にはっきりときめられない事なんだよ。あれが縊死だとかいうものになるとわりによく判ることもあるけれども、やはり紛糾する事はあの小笛事件でもよく判る。要するに僕は証拠不十分だと考える。のみならずほんとうの事を云うと、無罪を積極的に立証することこそ出来ないけれども、僕は、森木国松のいう事が、全くの事実だ真実だと考えるのだ。そう確信するのだ。ねえ、清川、君は如何考えるね」
夢中になって室中を歩きまわりながら
「だから、僕はさっき云った通り、森木がやったんじゃない、という気がするのです」
今度は清川の方が稍たじろぎながら、力のない声で返事をした。そうして、何となく手もち無沙汰そうに、思い出したように、紅茶の茶碗を手に取り上げた。
又しても沈黙がつづいた。
風はまだやまない。窓ガラスは時々音をたてて雪の烈しいのをしらせて居る。
衣川柳太郎は清川に対して、否万人に対して、今や法律家以外の何ものでもない。
彼は自己に反撃する何者をも敵として、食いつこうとして居る。彼はもはや昔の友情などを思い出しては居ない。彼は何故、清川が雪の夜彼を訪ねて来たか、そんな事をもはや問題にしては居ないのだ。
然し沈黙は清川によってまず破られた。
急に、深刻な顔貌になりながら、清川が云った。
「衣川さん、あなたは森木の無罪を立証する必要はない、と云われた。けれどもその立証が出来ればなおいいのでしょう。否、仮りに、法廷に於いて立証し得ないでも、あなたの前で立証する人があれば、あなたはますますその所信を強くし、従って力ある防御が出来るわけでしょう」
「あたり前さ、そんな事が出来る人さえ居れば文句はないんだ」
「では云いましょう、衣川さん、森木国松は無罪ですよ。彼の自白は真実です。安心なさい。そうしてあくまでもあなたの信ずる方向に進んでいいんです」
「何? 君、なんだって?」
清川の言葉は青天の
「そうです。僕は或る男を知って居るんです。その男は僕の親友です。その男があの事件の推移を見て知って居るのです」
衣川はとび上るように椅子から立ち上った。そして清川の肩に手をかけながら、
「おい君、そりゃほんとか。え、ほんとなら一刻も早くその男に会わせてくれ」
と叫んだ。
「まあ、驚かずに落付いてきいて下さい。実はその為に今日はここに来たのですから」
「おい君、なんだって今まで黙ってたんだ。もっと早く来てくれればよかったのに! 然しああ、やっぱり君は僕の親友だった。君は信頼すべき人だった。その為に今日わざわざ来てくれたのか。ありがたい、感謝するよ」
衣川は亢奮した顔付で清川の手を握った。
「衣川さん、礼を云うのはまだ早すぎます。僕が何故今まで黙って居たか、之には深い理由があるのです。僕は或は今日あなたに会った事を後悔するかもしれません。或は亦あなたも……」
「君、馬鹿な事を云っては困る。如何なる理由があろうとも、無実の罪を着ようという人間を目前にひかえて居ながら君、何を躊躇したんだ。何で又後悔する事があるんだ。君は知ってるだろうが、強盗殺人の刑は、死刑か無期懲役か二つしかないんだぜ。君は森木が無罪な事を知って居る。又は知っているという男を知って居る。それで居て何を考えるのだ……」
「深い理由があるものだから!」
「いや、どんな理由があろうともだ、正義、そうだ。正義が
「衣川さん、僕はその正義という事を考えていたものですから」
「無辜の者がかくの如き刑罰を言渡されはしないか、という今、それを黙って見ていて、どこに正義がある! 一体正義という事は……いや、議論はあとでするとしよう。ともかく君の知ってる話だけでもしてくれ給え」
強いて心の激動を抑えつけながら、衣川は清川に迫った。
衣川さん、僕が今日まで黙って居た事がいいかどうか、あとで云って下さい。ともかくあなたも云われる通り、僕は僕の知っているだけを話して見ますから。
僕が今云ったように之は僕が親しくしている男の話なのです。この男は嘘は云いません。仮りにAと名付けましょう。Aがどうしてあの事件を知って居たか。
衣川さん、あなたはM温泉のMホテルを知って居ますか。一〇三号室というのを知っていますか。あの室はMホテルの
Aが何心なくそこを見たのは夜の十二時頃だったそうです。そこからは室内のスタンドの明るみで、ベッドの一部分だけが見えたのです。と云っても之は後の話ですがね。いくら近くても肉眼でそうはっきり見えるわけはありません。はじめは別に注意していなかったので、それがベッドの一部分であることもわからなかった。ところが何かの拍子で突然ピカッと光るものが見えたのです。それが一度ならず目に映じたものだから、Aは急に好奇心をおこして、そばにあったオペラグラスを取り出して一生懸命にピントをあわせて見たのです。すると、男のらしい頭と、片手とが見えました。光るものをよく注意して見るとそれがピストルの銃身らしい事が判ったのです。つまり一〇三号室の中でピストルをいじっているのが見えたわけです。
Aはなお息を殺して眺めていると、突然見えていた手が引込んでしまって、それ切りしばらくは何も動かなくなってしまった。それで、もう何事もないのかと思って、目からグラスを外そうとした刹那、彼は再び片腕を見ました。それははっきりおぼえていないそうですが、頭のあった位置から後で考えると右手だったらしいのですが、その手がニュッと出ると手の中に紙の束のようなものをもっているのです。その中その手がいろいろに動きはじめたので、Aははじめて、誰かベッドの側に人が立っていて、腕の主はその人と何か話しているのだなと感じたそうです。
するとはたして、反対の側から黒いような洋服のらしい腕が出ました。ベッドの中の手とその手とがからみあいました。それから紙の束が、後から出た手にうつったのです。空になったベッドの手は、まだしきりに動いていろいろ話をしているようでしたがその中それがぱったりやんでしまったので、話が終ったのだな、とAは考えたそうです。之は面白いわい、と思って見て居る途端、ベッドの手が又出ました。今度はさきのピストルをもっています。あっと云うまにその右の手は、自分の頭にピストルの銃口をあてました。Aが思わず声をあげようとした時、他の見えない左手でかけ蒲団をひきずり上げたと見え不意に銃口も頭も
どうです。之は被告森木のいう所とまったく一致するではありませんか」
清川はここまで言い来って、ぐっと唾をのみこんだ。先程からにらみつけるような顔をして耳を傾けて居た衣川は堪りかねたか、不意に云う。
「うむ、うむ、それ見給え、僕の信じて居る通りじゃないか。それでその君の友達はどうしたのだ。だまって居るのか」
「親友たる僕に、最近その話をしただけです。あとは誰も知りません」
「けしからん、君も亦君だ。それだけの事実を知って居て、而も一方森木が捕まったことを知って居ながら、なぜ君は、君は! そしてその男は、訴え出ないのだ」
返事によってはそのままにはおくまじき切迫した気もちが衣川の顔をおおう。
「然しAは訴え出られぬ理由があるのです。AにはAの立場、僕には僕の立場があるのです。衣川さん。その点を一寸考えて頂きたい」
「清川、君は何という情ないことを云うのだ。君と僕とは[#「云うのだ。君と僕とは」は底本では「云うのだ君と僕とは」]親友だったじゃないか。僕は君がそんな人間になってしまったとは今の今まで思わなかった。なるほど君は法律家ではないけれどもこの位の理窟が君には判らないのか。いいか[#「判らないのか。いいか」は底本では「判らないのかいいか」]、ここに森木国松なる青年が、あらぬ罪をきて、今死刑になるかも知れないという状態に居るのだ。いいか、一方に彼が無罪なる事を明かに知っている君の友人Aなる人と君とが居る。この場合、Aと君は如何にすればいいか。どうすれば正しいのか。こんな判り切った事がAにも君にも判らないのか。いくら芸術家であっても君にこの位の理窟がわからない筈はない。清川、くどいようだがもう一度いう。正義は蹂躙されかかっているのだ。否既にあの被告を長い間捕まえた事によって正義は蹂躙されているのだ。君らに対して法律は何も命令はしない。法律上の義務はないだろう。けれども道徳は何と教えるか。正義はどこを指すか。清川、少し考えて見てくれ」
清川は冷やかに答える。
「衣川さん、あなたのいう所はよく判っています。然し、それなら僕が承りたい。Aは自分を犠牲にしても森木を救う義務がありましょうか」
「犠牲?」
「そうです。即ち深い理由というのはその点なのです。Aは自ら名乗りをあげると同時に、身を犠牲にしなければなりません」
「とは又、どういうわけだ? Aの生命にでもかかわると君はいうのか。
「いいえ、違います。おききなさい。十月二日の夜半、Aは一人でEホテルの二階に居たのではないのです。はっきり云います。彼は恋人と二人でその夜をそこであかしました。而もその婦人は人の妻です」
愕然として衣川は清川の顔を眺めた。清川は更につづける。
「Aは或る人妻とその夜Eホテルに居たのです。これは無論非常な秘密です。従ってもしAが森木を救おうとすれば何故その時彼がEホテルに居たか、という事を調べられるでしょう。そうなれば自然かれの恐ろしい恋は、曝露されるにきまって居るのです。
Aは、今日も恐らく涙にくれて居るでしょう。彼は森木が捕まって以来一日としてこの問題を考えなかった事はないのです。衣川さん、Aだって僕だってそう馬鹿ではないのですよ」
一寸した沈黙の後衣川がおごそかに云った。
「なる程、そういう次第なのか。よく判った。然し、清川。僕は何ら問題はないと思うがね。けしからん話じゃないか。Aは立派に法律上の罪人じゃないか。彼の立場には一応同情は出来る。けれど一方は死刑になる事件だぞ。一方はそんな重い刑にはならない。この点から云ってもAは進んで名乗るべきだと思う。大体君自身がAのような犯罪人に同情するというのが不思議に思われるが」
「あなたは法律家だ。だから凡てが法律的にしか考えられないんだ。Aにとってこの恋の発覚は或は死刑以上の問題かも知れない……」
「それは自業自得というものだ。何を考える必要がある。清川、森木国松を救ってくれ。頼む」
「衣川さん、それはあなたが法律家として、又は弁護士としての利己主義からじゃありませんか」
「何、利己主義? けしからん。何を云うのだ。君は、さっきも度々云った通り、問題は正義という事にあるのだ。正義の命ずる処……」
「いや僕はあなたが利己主義者というわけじゃないんです。ただ僕はあなたが余りに森木のみしか考えて居ないという事を云いたいのです。衣川さん。Aが名乗り出るとします。問題はA一人ではありませんよ。無論相手の夫人も犠牲にならねばなりません。しかしあなたはいうでしょう、自業自得だと。なるほど、あなたのような冷やかな法律家には、そう思われるでしょう。よろしい、僕は
目をつぶって何か考えに
「お互いに考えの相違は仕方がないとして、それならば僕ははっきりときき度い。君はA氏又は君自身が訴え出る事は全然不可能だというのかね」
「だから……だから其の点に就いて僕は迷って居るのです」
「清川、そんなら僕がもう一つきく。そんな不可能な事ならば何故君は僕の処へやって来たんだ。一体何の為にそんな事を云いに来たのだ。いっそはじめから黙って居てくれた方がどんなに僕は気が楽だったか知れないじゃないか」
衣川の言葉はむしろ怨ずるものの如くひびく。
「だから僕はあとで後悔しやしないかと云ったんです。然し何故僕が今日ここへ来たかその問に答えましょう。Aは最近になって事実を打明けたのです。僕は驚きました。そうしてどうしようかと思い悩んだのです。処が今日あなたがあの被告事件につき出廷するという事をききました。それで僕は早速法廷に行って始終のようすをきいて居たのです。僕はあなたの熱意に感激しました。罪なき人を救うためにあなたは全力を注いで居られる。あなたのやって居ることは正しい。尊敬すべきことです。ただその時僕は思った。あなたはほんとうに森木国松の無罪を確信して居るのかどうか、という事を。こう思った時、僕はどんなにかして、あなたに真相を告げたい。そうして少しでも今以上の確信と勇気とを与えたい、と決心したのです。法律家でない僕には、真相を語るだけでも語らないよりはましだ、としか考えられなかったのです。今あなたが云われるように、そんならいっそ何も云わない方がいいとは思えません。と同時に、真相を語る事が、直にそれを立証しなければならない事だとも思いません。Aの話をした事は、しないよりいい筈です。Aの話をしたからAを法廷に引張り出さなければならぬとは思いません」
「…………」
「あなたは法律家だから、Aの話をする以上Aを法廷に引張り出さなくては何もならないとお考えになるのでしょう。法律問題としてはそうかも知れません。しかし僕は法律家ではないのです。僕はただ事実をあなたに伝えたかった。そうしてあなたにただ確信と勇気を与えたかっただけなのです」
いい終ると彼ははっきりと衣川の顔を見つめたのである。
いろいろな感情が、衣川の心の中を動いているようであった。
「清川、お互いに考えの相違は仕方がない。それは今云った通りだ。君の云う事も判らないではない。しかし同時に君は僕の立場を理解してくれることも出来るだろう。どうだ、君お互に妥協し合うことは出来ないだろうか」
「……というと?」
「つまりA氏に法廷に出て貰うのだ。けれどその時、ただ一人でM温泉に行っていたことにすればA氏に迷惑はかからないだろう」
「しかし、裁判官にどうしてその時そこにいたかときかれたらどうしますか。Aは嘘をつくのですか。あなたは弁護士として証人に嘘を云わせる気ですか」
「いや、決してそうではない。刑事訴訟法第百八十八条には証言をなすによって自分に法律上の危険が来得る時には、その点に就いて証言を拒む事が出来るように規定してある。即ちA氏の場合には、見た事実だけを語ればいいので、その他の点は証言を拒めばいいわけなのだ」
「衣川さん。あなたは実に法律家ですね。そして実に法律的にしか考えられないのですね。考えてごらんなさい、成程法律はそう出来て居るかも知れません。しかしAがその点について証言を拒む事は一面から見れば、或る種の自白と同様じゃありませんか」
「しかし決して危険はないわけだが」
「それは法律問題です。事実問題として危険がないとどうして云えますか。この事件にAのような証人が飛び出すことだけで新聞は賑わいます。物ずきな記者たちはEホテルに行くかも知れません。いや行くにちがいない。そうすればそこではAが当夜泊った事と同時に、立派な家庭の夫人が同時に居たことが証明されます。衣川さん。そのホテルのオフィスに、勿論偽名ですが二人がサインしているのです。夫人の筆跡がちゃんと明かになって居るのです。Aは逃れることは出来ません」
「ではその夫人だけに出てもらうわけには……」
「絶対に不可能です。あの時分そんな処にいるべき女でないのです。のみならず、夫人自身が実見して居ないのですから仕方がありません」
「それではもはや妥協の余地はないのだね」
「ただ僕自身があなたの前で云っただけの事なら法廷に出て行ってもいいのですが」
「然しそれは、全然作り話だと思われればそれ切りの話だ。……よし、仕方がない。斯うなった以上、僕は僕の信ずる通り行動するより外仕方がない」
「というとどうするのですか」
「われわれ法律家に、Let justice be done though heaven fall. という格言がある。正義を遂行せしめよ。清川、僕は正しいことのために争うのだ。君一個人に対しては、恩を仇で返すことになるかも知れない。君の好意は好意として受ける。しかし、僕はあの話をきいた以上、黙っては居られない。断じて」
「あなたはAを捕まえるのですか」
「僕としてはAを捕まえるか或は君を法廷につれ出すか、いずれも僕の義務だと思う。清川、くり返して云うが之は僕の利己心からではない。正義の為だ。正義の為に戦うのだ」
「待って下さい。僕はその正義の名に於いてあなたにもう一度考慮を望むのです。そうです。何が正義か。もう一度考えて下さい。正義という事は尊いことでしょう。しかしそれに対して人間が、あわれな無力な人間が勝手の行動を取るという事はおそろしいことですよ。人間が考えている以上に運命はおそろしい事をします。あなたはそう勇敢に進むことがおそろしいとは考えませんか」
「僕は文学者ではないから君のいうむずかしい言葉は判らない。僕はただ正義をふみにじる事を恐れるばかりだ。それが恐ろしいのだ。この場合如何なる犠牲を払っても、森木国松を救うことが一番正しいことに違いないのだ。よし、君との妥協は不可能だ。あすにもEホテルについて取調べて必ずAの正体をつきとめてやる。清川、最後にいうが君とAとは余程密接なようだ。よもや君がAなのではあるまいね」
「もはや云い合うだけは云いました。凡てはあなたの考えにまかせます。しかし衣川さん僕が今云ったことは忘れないで下さい」
風はますます強く雪はいよいよ降りつのる中に、旧友は、かくして争い、かくして別れた。旧友を送ったあと、衣川柳太郎は、一人炉辺に坐してまんじりともしなかったのである。
翌日は昨日にまさる大雪であった。午前四時頃になって漸く就眠した衣川柳太郎は、さまざまの夢幻におそわれつつひる頃までねてしまったのであった。
何となくものういまま彼は終日家にこもることにきめて、窓外の大雪をながめて居た。
清川はかわった、全く自分と考えがちがう。彼は不義の罪人をかばうことを正しいと信じて居るらしい。何が正義か、問題は実に簡単ではないか。不義の罪人をかばうことは清川がその罪人である場合にのみ、その気もちに稍同情は出来る。
こんな事を考えつつ彼は書斎で窓外の吹雪を眺めて居た。
けれど、けれど清川は俺の親友だ。彼に良心の無い筈はない。彼が来てくれた事が、既に彼の心の煩悶を表して居る。彼は今日は来るだろう。来てすべてを自分に告げるに違いない。
衣川柳太郎はこう考えて終日家に留ることにした。
けれども之はあてにならぬ予期だった。
たよりにならぬ空頼みだった。
其日もくれたけれども、清川は姿を見せなかった。
夜のとばりがおりた時、彼は戸外の大吹雪のおそろしさを思った。たった一人で小田原にこの淋しい夜を送っているであろうところの妻、静枝の上をふと思いおこして手紙を書き出した。そうして夜おそく床についた。
前夜安眠をとれなかった彼は、睡眠剤を多量に服してその夜は床につくなり、ぐっすりとねこんでしまった。
翌日は好晴だった。雪も風もやんだけれども、あたりは一面の銀世界である。
おそい朝食をすませたところへ、女中が、
「御手紙でございます」
と云って厚い封書をもって来た。
静枝に送る手紙をひきかえに、女中に渡した彼は、その封書の裏を返すと、そこには明かに清川純という三字がよまれた。
心をおどらしながら封を切った彼の眼前に展開された手紙は次のようなものであった。
衣川柳太郎様
僕はここに親しきあなたに向って最後の御あいさつを申上げます。あなたは永遠に僕を忘れて下さい。この手紙があなたの手中に落ちると同時に、あなたと僕とは、地上に於いて全く関係のない二人の人間となるでしょう。
衣川さん、昨日仮りにAといったのはあなたが察しておいでのように、僕自身ではないのです。しかし、僕の分身のような人間です。そうです僕と同じなのです。Aは実は僕の肉親の弟だったのです。肉親の弟清川
おろかにも僕は弟のおそろしい恋を最近まで知らずに居ました。大学を出たばかりの僕からはまだ子供のように思われる弟、弘がそのようなおそろしい恋をして居ることは全く知らなかったのです。
弘は、昨日申した通り、Eホテルで森木国松の事件をすっかり見て居たのでした。
不義の恋に対して天が如何なる方法を以て報いるか、人間のはかり知り得ることではありません。弘は、好奇心から見たあの事件の為に、あれ以来、一夜として安眠を得たことがないのです。
衣川さん、弘に良心がないと思うのは可哀相です。弘は丁度あなたの云われた通りの考えをもって居たのです。殊に法律を学んだ弟には、自分を犠牲にしても名乗って出ることが正しいと考えられたらしいのです。
けれども、一方彼はただれた恋に陥っていました。愛する女を犠牲にしなければならないという事が一番その決心をにぶらせたのです。そうしてあの事件以来、名乗って出よう、名乗り出なければならない、と思っては、それをなし得ず、又自決することも出来ないで、時をすごしてしまったのでした。
ところが、森木国松の事件はいよいよ進行し、而も被告に最も不利に進んでしまいました。新聞でそれを伝えられる度に弟は身を切られるような思いをしていたのです。そうしていよいよ第一回の公判が開かれ、被告の身がいよいよ危険になると知るや、弘はたまりかねてあのおそろしい事実と恐しい恋の話を僕に打明けたのです。
その時の僕の驚きを察して下さい。更にその夫人の夫の名をはっきり聞かせられた時、僕は更におどろいたのです。その人は社会的に立派な地位をもって而も最も妻を信じている善良な紳士なのですから。
而も、その紳士は僕のよく知っている人なのです。よく知りよく信じよく愛している人なのです。
衣川さん、僕の立場を察して下さい。もしあなたが僕の立場に立ったらあなたはどうなさるでしょう。あなたは思い切って弟を法廷につき出しますか。
理論は僕の進むべき方向を示さないわけではありませぬ。僕の立場に立ったものが進むべき一歩は明かでしょう。けれどそれは実に実に忍びぬことです。
僕は弟を犠牲にすることを一度は決心しました。勿論その相手の婦人をも犠牲にする覚悟をしました。
けれども僕はうら切られた夫のことを思った時、どうしてもその決心を遂行出来なかったのです。
その人は僕の親しい友です。僕が尊敬し、理解していると信じている人です。この人の運命を一撃にたたきつぶさなければ、森木国松を救えない、とこう考えた時、はたして正義というものはその友をまで犠牲にしなければならないものか、と思わざるを得ませんでした。
僕を信じて下さい。
之は決してごまかしでも何でもありません。肉親の愛に溺れて僕が決心をにぶらせていたのではありません。僕は罪深き弟を犠牲にする覚悟は今でも十分もっています。けれども天地がくずれても、僕の親しい友が、妻に裏切られた顔を見ることは出来ません。
衣川さん、僕が友人に如何に忠実であるかということは、僕があなたに対する真情でも知ることが出来るでしょう。
一方に不幸な肉親の弟をもち、一方に不幸な友をもち、而も他方不幸な森木国松あるを知っている僕の立場を察してやって下さい。
僕は出来るならば、凡てを何とかうまく纏めようとしたのです。けれどそれは何といっても卑怯なごまかしにすぎませんでした。昨夜もあなたから云われた通り、僕は何としても事実を打明ける心がにぶって居り、そのくせ或る程度まであなたに知らせるという矛盾した行動をとらなくてはならなくなったのでした。
斯うやって此の不幸な僕は、いつまでこの苦しみの中にもがいて居なければならぬのか、そう思い悩みながら僕は昨夜うちに帰ったのでした。
けれども悲劇はついに大詰にまで進みました。弟は、この兄のくるしみも察せず、昨夜ついに死の旅路についてしまったのです。
僕が、あなたを訪問したことを知った彼はすべてを僕があなたに打明けると思ったのでしょう。そうして法律家としてあなたがとらるべき道を察したのでしょう。彼は、一片の遺書を残して、大吹雪の中を、東京をあとに旅に出てしまいました。頼みがいない兄と思ったでしょう。或は又正しいことを一歩もまげない兄とも思ったでしょう。
弟はかねて好んで居たS県のA山麓で死にたい、と書き残しました。そうしておそらくは、その恋の結末として、婦人をも道づれにするでしょう。遺書によれば、かねて相手の女もこの場合あるを覚悟していたそうですから。
今頃はA山麓の大吹雪の中に、二人相擁して
僕は、とめればその死をとめ得たかも知れません。けれど僕は弟の死を、とどめる気に、今ならないのです。
A山麓に二人の人間が死ぬという事は凡てにとって不幸な事です。二人にとっては無論です。しかし女の夫にとっては更に不幸です。更に森木国松にとっては最大の不幸です。
けれども、一歩退いて考えれば、僕のような人間の、はかない力で、この運命をどうくい止められるでしょう。よし、弟の死を救ったところで、どうなるのです。
衣川さん、僕にとってどの道が一番正しいのでしょう。
僕にとって、正義の道はどこにあるのでしょう。
僕は、この手紙をあなたに出すと同時に、僕も旅に出ます。しかし僕は死にません。ただあなたに永久に顔をあわせぬ所に行こうと願っています。
最後に、二人の今はおそらく死についているであろう生命に、罪つぐなわれて、魂天に、かえることを祈ります。森木国松のために、何か偉大な救いの来ることを祈ります。
そうして最後に、僕が最も信じ愛しているあなたに、如何なることが、おころうとも幸福あらむ事を切に切に祈るものです。
清川純
よみ終った衣川の顔色はこの世のものとは思われなかった。
しかし彼が考えをまとめようとする途端ドアを叩いて女中があわただしくはいって来た。
「旦那様、お電話でございます」
「どこから」
「あの……長距離電話で、どこかの警察だそうでございます」
「何、警察?」
或るおそろしい、いまわしい予感におそわれて彼は電話室に立った。
「……僕衣川柳太郎です……え? 何?……S県Nの警察?……はあ、はあ、何です。よく聞えませんが。……それは僕の妻の名ですが。何? 雪の中、死んで?……何ですかもう一度云って下さい、そうですよ、それはたしかに僕の妻ですが。……僕にあてた手紙がある? 死んだのですかほんとうに? え、紳士態の死体?……、……何、清川弘!」
外に居た女中は主人のただならぬようすを注意していたがこの時、突然、電話室のガラスがくだける音がして、主人がよろよろと仆れるのを見た。
衣川柳太郎は脳貧血をおこして仆れたのであった。
数日の後、
臥床して誰にもあわなかった衣川柳太郎は親しい藤山検事が、一私人として見まいに来たのをきいて、しいて居間に通した。
わずかの間にいたましくやつれた主人の顔を見ながら、藤山検事は一応の見まいをのべ、からだの養生をするように、おだやかにいとまをつげようとした。
「藤山君、勝負は僕の勝だよ」
「…………」
いたましい家庭の悲劇を知っている藤山検事は、不意に衣川にこう云われて何のことか一寸判らなかった。
「藤山君、森木国松の事件だよ」
「ああ、あれか、あれは君、弁護の辞任届が出ているが……今、養生が大切なんだから無理もない」
「藤山君、勝負は僕の勝だよ。あれは有罪だと思って弁護を辞したのではないよ。いやその逆なんだ。森木国松は絶対に無罪だよ。君、君はとんでもないまちがいをしているのだぞ」
「…………」
「藤山君、もう一言君に云っておく。Let justice be done though heaven fall だ。しかし何が Justice か、僕らは考えて見る必要があるよ」
こう云うと、冷い気味の悪い微笑を唇の辺に浮べながら、衣川柳太郎は病床にあって、再び目をとじた。
(一九三〇年四月)