一
つまらないことから、えて大喧嘩になる。これはいつの世も同じことだ。もっとも、つまらないことでなければ喧嘩なんかしない。
で、じつは喧嘩の
尾張藩の侍寺中甚吾左衛門、今がちょうどそれでかんかんになって怒っている。
「いいやいや。
一同、黙って甚吾左衛門の顔を見ている。ちょっとその権幕に呑まれたかたちだ。なかにひとり口唇を青くして甚吾左衛門をにらんでいるのがある。同藩の士
「こ、こ、ここへお眼をとめられい。」
と甚吾左衛門は、膝元の、
「
言い切って一座を見まわす。みんなぽかんとしているから、じかに当の安斎へ食ってかかった。
「安斎、粟田口だな。」
「ふうむ。粟田口かな。」
と腕を組んだ安斎十郎兵衛、感心したのかと思うと、そうではない。
「なるほど。言わるるとおり乱れは乱れじゃが、ちと
「しかし――。」
甚吾左衛門が口をとんがらせる。
「しかし――。」
と十郎兵衛も負けてはいない。が、一歩譲る気になって、
「しかし――何じゃ?」
「しかし、」甚吾がつづける。「しかし、
しきりに難かしい論判をしている。
寛永三年春。さくらも今日明日が見ごろというある日の午後だ。
戦国の余風を受けて殺伐な世だ。そこへ持ってきて、武士の
今日の会主は
つぎつぎに持ち出される刀について、議論が沸騰する。こうした会は後年はものしずかなものになったが、この時代はどうしてどうして
こういうわけで、天狗連が点取りを争うのだから、ともすれば荒っぽくなる。
しかも今日は若侍のよりあい。どういうものか、はじめから寺中甚吾左衛門に旗色が悪くて、いつもの甚吾にも似ず、言うことが片っぱしからどじで、取った点も列座の面々とは桁ちがいと来ているので、甚吾の心中、はなはだ穏かでないものがある。それにひきかえ、安斎十郎兵衛の指す星は、毎度見事に的中して、安斎が甚吾に反対するたびごとに、安斎は奇妙に一の当り二の当りという点のいいところを重ねて来ている。殺気などというほどのことでもないが、二人のあいだにいささか変なこだわりが流れ出していることは事実だ。
二
さて、いま出された刀だが、寺中甚吾左衛門はあくまでもこれを粟田口藤原国光の作と言い張っている。その理窟を聞いてみるとまんざら根拠のないものとも思えないが、およそこの席につらなっている者で甚吾が示した刀剣の智識ぐらいは誰でも持っているのに、そいつをしゃあしゃあと物識顔にやり出したので、十郎兵衛、ついぐっと片腹痛く感じた。
で、はじめは反対のために反対したのである。
というのは十郎兵衛も最初はその一刀を粟田口則国あたりと
「安斎、粟田口だな。」
と突っかかって来たのだ。うっかり、いかにもさよう、同眼でござる、と出ようとするのを押えて、ふうむと鼻の穴から息を吹いたとたん、思いがけない考えが十郎兵衛の頭にひらめいた。ことによると、これぁずっとさかのぼって備中青江鍛冶ではないかしら――とこう思ったので、彼は瞳を凝らして
すると、甚吾左衛門は予期以上に
「御免。」
と言った。
この御免をきっかけに、彼は

お刀拝見の定法である。
これで十郎兵衛がまことの具眼者ならば、刃の模様は
しかし、藩中に刀剣の鑑定家をもって自他ともに許している寺中甚吾左衛門をことごとに打ち負かしたのは、今日の安斎十郎兵衛である。おまけに、こう
ところが十郎兵衛、うんともすんとも言わない。なに、じつは何にも言うことがないので、そのかわり、しきりに人のわるいことを考えている。
「これは困ったことになったな。まぐれ当りに好い点を取って来たのはいいが、ここでへまをやっちゃあすっかりお里が知れてしまう。なんとかうまい工夫はないものかしら。今まで寺中にさからって当ったんだから、今度も一つ逆に出てみようか。ふふふ、すると甚吾のやつめ、なんのことはない俺に
と、表むきはえらそうに刃すじを見守っていると、刀身の三分の二手元へ近い、その道で腰と称するところに、横にかすかに疵があるのが眼についた。さっき甚吾が切込みと指摘したのはこれである。
切込みとは戦場で敵の刀を受けた痕のことで、疵は疵だが賞美すべきもの。だが、ここに、この切込みに似ておおいに非なる純粋の疵に、刃切れというのがある。これはすべて横にある焼疵で、一つでも結構ありがたくないが、こいつがいっしょに幾つもあると、それを
いま十郎兵衛が、この疵を見ていると、だんだんそれが、切込みではなくて、刃切れも刃切れ、
「はてな。」
と彼は大仰に眉をひそめた。
「どうじゃ、粟田口であろう。」
甚吾が詰め寄る。
「その切込みは――。」
「これは切込みではござらぬ。」
あんまりきっぱりした自分の言葉に、十郎兵衛は自分で驚いた。が、それと同時に、すっかり度胸が据わって、
「これはこれ、百足じゃ。百足を切込みと見誤るなぞ、寺中、常の貴公らしゅうもない。
笑ってしまってから、これはすこし過ぎたかな、と思ったが、もう遅い。怒ると
「な、な、な、な――。」
と首を振り立てた。そこを、
「青江じゃ。為次じゃこれは。」
と十郎兵衛は会主を見た。すると、不思議なことには、会主がにっこり
また、十郎兵衛の半あてずっぽうが的中したのである。
今日はみょうな日だな――十郎兵衛は思った。そして、よせばいいのに、かれ一流の皮肉に見える微笑みとともに、
「寺中、もはや兜を脱いだがよかろう。」
と言いかけると、
「ぶ、ぶ、ぶ。」
無礼者とか何とか言うつもりだったんだろう、甚吾が口早に吃った。それがおかしかったので、父親の葬儀で読経中に吹き出したほどの十郎兵衛だから、思わずぷっと噴飯してわっはっはと笑おうとした。
甚吾の手がむずと
「貴公、それを俺に、投げつける気か。」
すると甚吾は
会の帰り、甚吾左衛門は十郎兵衛にこっそりはたしあいを申し込んだ。
理由は、人なかにて雑言したこと。
期日。今夜四つ半。
場所。高輪光妙寺の墓地。
二人は顔を見合って大笑いした。そしたらさっぱりした。もうすこしもこだわってはいなかった。
三
花時の天気は変りやすい。午後から怪ぶまれていた空から、夕ぐれとともにぽつりと落ちて、
「相合傘と行こう。」
「よかろう。」
というので、長身瘠躯に
いとど人のこころの落ちつく夜、それに絹糸のような雨が降っているのだ。道行めいた気分がすっかり二人をしんみりさせて、どっちからともなく、気軽に、歩きながらの
「降るな。」
「うん。陽気のかわり目だからな。」
「これでずんと暑くなるだろう。」
「暑くなるだろう。」
また黙って二、三歩往く。夜更けだから店の灯りもなく足もとがはっきりしない。
「おい、水たまりがあるぞ。」
「うん。ここはどこだ。」
「芝口だ。」
「芝口か。」
「うん。」
沈黙におちる。風が出てきた。
「貴公、濡れはせぬか。傘をこう――。」
「いやいや。これでよい。それより貴公こそ濡れはせぬか。」
「なんの。」
「よく降るな。」
「よく降るな。」
「ここらの景色――どうだ、城下はずれに似ておるではないか。暗くてよくは見えぬが。」
「さよう。そういえばそうだ。あの、何とかいう稲荷のある――。」
「ぼた餅稲荷であろう。」
「そうそうぼた餅稲荷の森から小川にそうて
「青柳町は下で、
「すると、あそこは――。」
「――――」
「――――」
「青、――。」
「青物町!」
「八百屋町!」
「そうそう、八百屋町、八百屋町。ずいぶん変ったろうな、あのへんも。」
「久しく行かんからな。」
「久しく行かんからな。」
「お! 甲子神社と言えば、貴公、おぼえているか。」
「何を。」
「あそこのそら、そら、あの娘――。」
「娘?」
「うん。顔の丸い、眼の細い、よく泣きおった――。」
「お留か。」
「おう! それそれ、お留坊、神官の娘でな。」
「大きゅうなったろうなあ。」
「嫁に行って子まであるそうじゃ。」
「え! もうそんな
「そりゃそうだろう、あのころ稚児髷だったからなあ――はっはっは。」
「何じゃ、不意に笑い出して。」
「はっはっはっは、いや、思い出したぞ。いつかそらあそこの庭に柿の木があって――。」
「うんうん、あった、あった! 大きな実が成ったな。よく貴公と盗りに行ったではないか。」
「いつか貴公が、ははははは、木から落ちて、ははははは。」
「そうそう、ははは、泣いたな、あの時は。」
「泣いた泣いた。それで俺が、
「なんと答えた?」
「痛うて泣くんではない。せっかく

「そんなことを言うたか。いや、これは! はっはっは。してみると、そのころから強情だったとみえるな。」
「三つ児のたましい――。」
「百までもか、はははは。」
「はははは、御同様じゃ。」
口をつぐんで、しばらく道を拾った。
「しかし、あの時、貴公の泣声に驚いて飛び出して来たお留が、また柿をとったあ、と言うて泣きだしたが――。」
「あれには驚いたな。」
「あのころが眼に見えるようだ。」
「まるで昨日――。」
「早いものじゃな。」
「うん。」
幼馴染み、はなしは尽きない。が、高輪筋へはいって約束の場所が近づくにつれ、二人ともみょうに重苦しくなって黙りこんだ。
どっちかが一言いい出しさえすれば、それでことなくすんで、雨の夜の散歩だけで屋敷へ帰れそうに思われる。
「おい、寺中、はたしあいもいいがつまらんではないか。」
と言うつもりで、
「おい寺中。」
と口に出すと、
「何だ。」
という相手の声のなかに、許しておけない敵意を感じて、だまりこんでしまう。すると他方が、おなじ心もちから、
「おい、安斎。」
と言いかけるが、やっぱり、
「何だ。」
という相手の声で、たまらなく不愉快にされる。で、いらいらしているうちに、二人の息づかいがたがいの耳の近く荒くなって、足がだんだん早くなって、甚吾と十郎兵衛、雨のなかを光妙寺の墓地へ駈けこんだ。こうなってはもう仕方がない。
ぼうんと傘を捨てる。同時に、きらり、きらりと抜きつれた。
「やあ!」
「やあ!」
「どこだ。」
「ここだ、ここだ。」
とにかく、おそろしく念の入った話しだが二人は休んでは斬り合い、斬り合っては休んだものとみえる。一晩じゅう順々に拇指や鼻の先や横っ腹を、かわるがわる落したり
しかし、勝負はあったのである。
地上の甚吾の手が刀から離れていたに反し、十郎兵衛の指は五分ほど柄にかかっていたというので、尾張藩の侍たちは嬉々として、またしても安斎十郎兵衛嘉兼のほうへ軍配をあげたものだ。