口笛を吹く武士

林不忘




   無双連子

      一

「ちょっと密談――こっちへ寄ってくれ。」
 上野介護衛のために、この吉良の邸へ派遣されて来ている縁辺上杉家の付家老、小林平八郎だ。
 呼びにやった同じく上杉家付人、目付役、清水一角が、ぬっとはいってくるのを見上げて、書きものをしていた経机を、膝から抜くようにして、わきへ置いた。
「相当冷えるのう、きょうは。」
「は。何といっても、師走しわすですからな、もう。」
 小林が、手をかざしていた火桶を押しやると、一角は、それを奪うように、抱きこんですわった。
「用というのは、どういう――。」
 上杉家から多勢来ている付け人のなかで、この二人は、よく気が合っていた。身分の高下を無視して、こんな、ともだちみたいな口をきいた。
 朱引きそとの、本所松阪町にある吉良邸の一室だった。
 小林は、しばらく黙っていたが、
「念には、念を――。」
 と、いうと、起ち上って、縁の障子や、隣室のさかいの襖を、左右ともからりと開けはなして、うふふと苦笑しながら座にかえった。
 庭から、さらっとしたうす陽が、さし込んだ。
 一角が、
「だいぶ物ものしいですな。」
 重要なことをいう時の、この人の癖で、小林は、にこにこして、
「この、裏門のまえに、雑貨商があるな。御存じかな?」と、覗くように一角の顔を見て、はじめていた。「米屋五兵衛とかいう――あれは、前原といって、赤穂の浪士だと密告して来たものがあるが。」
 一角は、笑った。
「またですか。私はまた、この本所の万屋で小豆あずき屋善兵衛というやつ、それがじつは、赤浪の化けたのだと聞かされたことがあります。たしか、かんざし五郎とか、五五郎とか――しかし、らちもない。そうどこにも、ここにも、赤浪が潜んでおってたまるものですか。そんなことをいえば、出入りの商人や御用聞きも、片っ端から赤浪だろうし、第一、そういうあなたこそ、赤穂浪士の錚々たるものかも知れませんな、あっはっはっは、いや、風声鶴唳かくれい、風声鶴唳――。」
 小林は、手文庫から、元赤穂藩の名鑑を取り出して、畳のうえにひろげて見ていたが、つと一個処を指さして、
「ほら、ここにある。前原伊助いすけ宗房むねふさ、中小姓、兼金奉行、十石三人扶持――。」

      二

 一角は、貧乏ゆすりのように、細かく肩を揺すって、口のなかで呟いていた。
「清水一角、とはこれ、世を忍ぶ仮りの名。何を隠そう、じつを申せば浅野内匠頭長矩家来――などということに、そのうちおいおいなりそうですな、この分ですと。はっはっは。」
 が、かれは、小林の真剣な表情に気がつくと、名鑑のうえに眼を落として、
「ふうむ。で、この前原というのが、あのうら門まえの米屋だという確証は、挙がっているのですな。それなら、今夜にでも、ぶった斬ってしまいますが。」
「まあ、待て。こっちのほうは、いま星野に命じて探りを入れさせている。」
「では、その報告を待ってからのことに――だが、どうも私は、皆すこし、神経過敏になっているように思う。」
「しかし、清水、暮れに近づいたせいか、何かこう、世上騒然としてまいったな。」
「そういわれると、」と、一角は、微笑して、刀をかまえる手真似をした。「近いうちにあるかもしれませんな、これは。」
「うむ。それについてだ。」
 小林は、膝をすすめて、
「君の兄貴の狂太郎君、ぜひあの狂太郎君の出馬を仰ぎたいと思ってな――。」
 一角も、火桶ごしに乗り出して、小林の口へ耳を持って行った。
 密談が、つづいた。
 元禄十五年、十二月四日だ。

      三

「兄者、兄者っ――!」
 清水一角の武骨な手が、きょうも朝かららい酔って大の字形に寝こんでいる、兄狂太郎のからだに掛かって、揺り起そうとした。
「兄者! またか。夜も昼も食べ酔って、困ったじんじゃなどうも。」
 一角は、黒羽二重の着流しの下に、紐で結んだ刺子の稽古着の襟を覗かせて、兄の顔のうえに、かがみこんだ。
 常盤橋ときわばしぎわから、朱引き外の本所松阪町へ移った吉良家門内の長屋で、一角はいま、小林の許を辞して、この、じぶんの住いへかえってきたところだ。
 無双連子むそうれんじの窓から、十二月にはいって急に冬らしくなった重い空が、垂れ下がって見えて、水のような日光がひたひたと流れこんでいる。
 奥ざしきとはいっても、玄関から二た間目の、そこの三尺の縁に、かたちばかりの庭がつづいて、すぐ眼のまえに屋敷をとりまくなまこ塀の内側が、すように迫っている部屋である。
 床の間のふちに後頭部を載せて、赤く変色した黒紋つきの襟をはだけ、灰いろによごれた白ばかまの脚を投げ出して、一角の兄、清水狂太郎は、ぐっすり眠っていた。
 線のけわしい、鋭角的な顔だ。まだ四十になったばかりなのに、だらしなくあいた胸元に覗いている黒い、ゆたかな胸毛のなかに、もう一、二本、白く光るのがまじっているのを見つけると、一角は、この、放蕩無頼ほうとうぶらいで、人を人とも思わない変りものの兄が、何となく、ちょっと可哀そうに思われて来た。
 その瞬間、老驥ろうきということばが、一角のあたまのなかに、想い出された。老驥ろうきれきに伏す。志は千里にあり――そんなことを口の奥にくり返して、急にかれは、この厄介者の狂太郎に対して不思議に、いつになくやさしい、センチメンタルな気もちにさえなって往った。
「兄貴、起きてくれ。話しがあるのだが――弱ったなあ。」
 舌打ちをすると、眠っているとばかり思っていた狂太郎の口が、動いて、
「おれの耳は、縦になっていようと、横になっていようと、同じに聞えらあ。」
 一角は、どんと激しく畳に音を立てて、すわり直した。
「こん日も、小林殿より内談があった。」
 当惑しきったという顔で、一角は、語をつないで、
「例によって、今までたびたび取り沙汰された、無論、一片の風説に過ぎますまい。」
「何が――?」
「が、赤穂の浪人めらが、近く御当家を襲撃するらしいといううわさは、依然としてひそかに、ちまたに行われているというのです。」
「そうだったな。そいつを聞いて、おれも、呆れけえってる始末よ。」
「あきれ返るのは、こっちです!」
「何だ、出しぬけに。」
「ですから、このさい、ことに上杉家から来ておるわれわれは、御家老千阪様の恩顧おんこに報いるためにも、ああして一同、夜を日に継いで、赤浪の動静探索に出ておるのに、兄者ひとりが、こうやって、ごろごろ――。」
「うるさいっ!」
 狂太郎は、ごろっと、寝がえりを打った。


   雑魚ざこ一匹

      一

「兄貴ののん気にも、泣かされますな。すこしは、舎弟の身にもなってもらいたい。小林殿に対して、じつに顔向けならん仕儀だ。」
「何をいってやがる。てめえのあ、顔って柄じゃあねえ。そんなつらあ、誰にだって向けられるもんか。」
「千阪様の御推挙によって、目付役として来ておる拙者であってみれば、大須賀、笠原、鳥井、糟谷、須藤、宮右をはじめ、松山、榊原、それに、和久半太夫、星野、若松ら――あの連中を懸命に督励して、せっせと赤浪どものうごきを探らねばならぬ。また事実、みな必死に働いてくれておるのに、それに率先そっせんすべき身でありながら、兄貴ばかりは、そうやって、無精ぶしょうひげを伸ばして――。」
 狂太郎は、頬から頤へ手をやって、撫ででみた。
 やすり紙で軽石をこするような、ざら、ざらと、大きな音がした。
 一角が[#「 一角が」は底本では「一角が」]、つづけて、
熟柿じゅくしくさい息をして――。」
 はあっと息を吐いて、狂太郎は、それを追うように鼻をつき出して、においを嗅いだ。
「眼ざわりでござる!」
 呶鳴った弟の声に、狂太郎は、むっくり起き上った。
「大きな声だな。寝てもおられん。」
 きょとんとした円顔で、不思議そうに、一角を見つめた。
「ううい、どうしろというのだ。」
「じつにどうも、度しがたいお人ですな。吉良殿を護るために、赤浪ばらの策動を突きとめていただきたい。これは、付け人として当然の任務ですぞ。」
「大丈夫。攻めてなんぞ来はせんよ。また、来たら来たで、その時のことだ、あわてるな、狼狽あわてるな。」
「何をいわれる! 隠密の役目は、あらかじめ――。」
「隠密? この、おれが、か?」
「さよう。」
「間者だな。」
「さようっ!」
「密偵だな、早くいえば。」
「くどいっ!」
「犬じゃな、つまり――犬、猫、それから、男妾には、なりとうないと思っておったが――。」
「何をいわれる。誰が兄貴を、男めかけにするものがあります。」一角は、とうとう笑い出して、「犬、猫などと、見下げたようなことをおっしゃるが、兄貴は、それこそ犬、猫のごとくに――。」
 狂太郎は、眼をしょぼしょぼさせて、
「まあ、それをいうな。」
「いや、いいます。あまりだからいうのです。まるで犬、猫のように、雨露をしのぐ場所もなく、尾羽おはうち枯らして放浪しておられた――。」
「今だって、尾羽うち枯らしておらんことはないよ。」
「自慢になりません!」
 一角は、たまらなくいらいらして来て、そこに、まぐろが胡坐あぐらをかいたように、ぬうっと済ましてすわってるこの狂太郎を、力いっぱい突き飛ばしてやりたくなった。

      二

「その、失礼ながら困っておられた兄者を、拙者が引き取って、こちらへおつれ申すとき、兄者は何といわれた。」
「四十余年、老措大そだい――ってなことでも、口ずさんだかな。よく覚えておらん。」
「これからは、心気一転して、おおいに天下に名を成すよう、まず、振り出しに、この、吉良殿の護衛として、十分に働いてみると、あんなにお約束なすったではないか。」
 それは、事実なのだった。
 狂太郎も、すこし降参まいった表情で、がりがり大たぶさのあたまを掻いて、白いふけを一めんに飛ばしながら、
「ちょ、ちょっと待った! 腹の空いておったときにいったことは、言質げんちにならんぞ。」
「かねがねおすすめしてあるとおりに、これを機会に、千阪様に知られて、小林殿の取り持ちで、上杉家へ仕官なさるお気はないのか。」
「ないことも、ない。」狂太郎は、困ったように、「が、この年齢としになって、宮仕えというのも――三日やると、止められんのが、乞食と居候の味でな。」
 一角は、握り拳をつくって、肘を張って、詰め寄るのだ。
「その、ありあまる才幹と、不世出[#「不世出」は底本では「不出世」]の剣腕とをもちながら――。」
「や! こいつ、おだてやがる。」
「そうして年が年中ぶらぶらしておられるのは――いったい、どこかお身体からだでもお悪いのか。」
「ううむ。どこも悪うはない。ただ、酒が呑みたい。これが、病いといえば、病いかな。」
「さ、ですから、ここで一つ働きを見せて、千阪様に認められ、上杉家に抱えられて、相当の禄を食み、うまい酒をたんまり――と、拙者は、こう申し上げるので。いかがでござる。」
「それも、そうだな。」狂太郎は、とろんとした眼つきで、「わかっておるよ。人間、食わしてくれるやつのためには、何でもする。いや、何でもせんければならんことに、なっておるのだ。これを称して忠義という。なあ、赤穂の浪人どもが、小うるせえ策謀をしておるのも、忠義なら、それを防がにゃならんこっちも、忠義だ。忠義と忠義の鉢合わせ。ほんに、辛い浮世じゃないかいな、と来やがらあ――どっこいしょっ、と。」
 立てた片膝に両手を突っ張って、狂太郎は、起ち上っていた。
「まいるぞ。」
「どこへ、兄者――。」
「兄者、兄者と、兄者を売りに来てやしめえし――停めるな。」
「うふっ、留めやしません。」
「いずくへ? とは、はて知れたこと。隠密に出るのだ。あんまり、柄にはまった役割りでもねえがの。」
「というと、いずれかの方面に、何かお心当りでもおありなので――。」
「ねえんだよ、そんなものあ。」
 いいながら、狂太郎は、馬鹿ばかしく長い刀を、こじり探りに落とし差して、
「だが、犬も歩けば棒に当たる。あばよ。」
 もう、土間へ下り立っていた。
 そして、うら金のとれた雪駄せったをひきずって、すたすた通用門へかかると、
「通るぞ。雑魚一匹!」
 破れるような声で門番の足軽へ呶鳴って、さっさと松阪町のとおりへ出た。


   綿流し独り判断

      一

 が、すぐ門のそとに立ちどまって、往来の左右へ眼をやった。
 年の瀬を控えて、通行人の跫音のあわただしい街上だ。
「東西南北――はて、どっちへ行ったものかな?」
 笑いをふくんだ眼で、狂太郎はそうひとり言をいって首を傾げた。
 鍔擦つばずれで、着物の左の脇腹に、大きな穴があいて、綿がはみ出ている。
 狂太郎は、その綿を、二つまみ三摘み※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり取って、ふっと吹いてみた。
 あるかなしの風。綿は、その風に乗って、白い蛾のようにくうに流れた。
 本所二つ目の橋のほうへ飛んだ。
「東か――。」ぶらりと歩き出した。「そうだ。面白い。ひとつ、東海道筋へ出張でばってやれ。」

      二

 海が見える。灰いろの海だ。舟が出ている。道は、ちょっと登りになって、天狗の面を背負った六部がひとり、町人ていの旅ごしらえが二人、せっせといそぎ足に、ひだり手には、杉、けやきの樹を挾んで、草屋根ののきに赤い提灯をならべ、黒ずんだ格子をつらねた芳屋、樽や、玉川などの旅籠はたごに、ずっこけ帯の姐さんたちが、習慣的な声で、
「お泊りさんは、こちらへ――まだ程ヶ谷までは一里九丁ござります。」
「仲屋でございます。お休みなすっていらっしゃいまし。お茶なと召しあがっていらっしゃいまし。おとまりは、ただいまちょうどお風呂が口あきでございます。」
 神奈川の宿だ。その中ほどに、掛け行燈あんどんの下に大山講中、月島講中、百味講、神田講中、京橋講中、太子講――ずらりと札の下がったわき本陣、佐原屋は今日、混んでいた。その、裏二階の一室に、障子をとおして、しずかな声がする。
「いや、江戸に公事くじ用がありましてな、これは、訴訟ごとに慣れませんので、伯父のわたくしが、後見役に出府することになりましたわけで、はい。」
 といっている、四十四、五のでっぷりした、温厚な人物は、近江の豪農、垣見吾平という触れ込みで泊まりこんでいる大石内蔵助くらのすけである。
 かれの甥、垣見左内と変称して、そばでにこにこしている少年は、主税ちからだ。ゆうべこの宿の風呂場で近づきになったというカムフラアジで、いま此室ここへ茶菓を運ばせて話しに来ている老人は、土佐の茶道と偽っている同志中の元老、小野寺十内だった。
「変りましたでございましょうな、江戸も。」
「さ、手まえは、しばらく振りの、まったく、三年目の江戸でござりましてな。初下りも同然で――。」
「こちらは、はじめて――。」
「甥はもう、ほぞの緒切っての長旅でござりまして、はい。」
 廊下を通る人影を意識して、聞こえよがしの高ばなしだ。


   この男売り物

      一

「ほ! 何だ、ありゃあ。」
 佐原屋の二階の、おもて欄干らんかんに腰かけていた武林唯七が、感心したような大きな声を上げた。
「おい、ちょっと来て見ろ。」
 この数カ月武林は、大阪にかくれていた原惣右衛門、京都に潜んでいた片岡源吾、それから、江戸の堀部安兵衛らと、ひそかに、あちこち往来して、一挙の時期を早める硬論を唱道してきたのだ。それが、こうしてまとまって、かれは、すっかり町家の手代風に変装し、いま江戸へ上る途中なのだった。
 同じ商人ていにつくったはざま新六しんろくは、部屋のまん中に、仰むけに寝そべっていたが、
い女でもとおるのか。」
「いや、驚いた。なんでもいい。来てみろ早く。」
「騒々しいやつじゃな。」
 と、起って来た。
 唯七は、笑いながら、しきりに眼下したの往還を指さしている。
 男が通っているのである。浪人体の武士である。その背中に、「この男売物」と大きく書いた半紙が、貼ってあるのだ。
 白い紙に、墨黒ぐろと――いかにも変な文句。が、何度見ても「この男売物」と読める。
 男は、その「売りもの」貼り紙を背なかにしょって、大威張りで歩いているのである。
 新六も、いっしょに笑い出して、
「何だい、あいつぁ。狂人きふれか。」
 といった、その、気ちがいかというのが、ちょっと声が高かった。ちょうど真下をとおりかかっていた男に聞えて、かれは、立ち停まって振り仰いだ。
 大たぶさにり上げ、あかぐろい、酒やけのした顔で、長身の――清水狂太郎なのだ。
 かれは、何がな人眼をひく方策を編み出し、それによって、この街道すじの旅人のあいだに、なにか口を利く機会をつくろうと、いろいろ考えた末、この貼紙を思いついて、江戸から来るこの一つ手まえの宿、川崎の立場茶屋で、半紙を貰い、墨を借りて、これを書いたのだった。
 そして、飯粒で、その紙看板を紋つきの背に貼りつけて、往き来の人の驚愕と、憫笑びんしょうに見迎え、見送られながら、こうしてこの神奈川まで来かかったところだった。
 眼のまえの、佐原屋とある宿屋の二階をふり仰ぐと、町人の男がふたり、欄干から見おろしてにやにや笑っているので、狂太郎は、待ちかまえていたように、ぐっとを据えて睨みあげた。
「こら、てめえら、笑ったな。何がおかしい! 貴様ら素町人に、吾輩の真意がわかるか。禄を失って路頭に迷えばこそ、恥を忍び、節を屈して、かくは自分を売りに出したのだ。何とかして食おうとする人間の真剣な努力が、何でそんなにおかしいのだ、ううん?」
「お侍さん、何ぼお困りでも、あんまり酔狂すいきょうが過ぎましょうぜ。」
 急に町人めかした口調で、そういい出した唯七の袖を、新六は、懸命に引いて、
「止せ。相手になるな。変に文句をつけられると、うるさいから。」
 下では、狂太郎が、大声に、
「この男売りものてえのを笑う以上、お前たちに買う力があるのであろう。よし。そんなら一つ、おれをこのまま、買ってもらうことにする。」
 許せ――と、聞こえて、その、あぶれ者の浪人は、もう、佐原屋の土間口へ踏みこんだ様子だ。

      二

 垣見吾平、左内の大石父子と、小野寺十内は、初対面らしくよそおって、それぞれ身分を明かしなどしてから、道中の話しや、これから下って行く江戸の噂や、わざと大声に、雑談に耽っていた。
 すこし離れた、はしご段のとっつきの小暗い一間から、
「だからよ、いわねえこっちゃあねえ。そう毎晩、毎晩、首根っこの白いねえやと酒じゃあ、帰りの五十三次が十次も来ねえうちに、素寒貧すかんぴんになるのあ知れきってるって――やい、すると手めえは、何とかしゃがった。行き大名のけえり乞食が、江戸っ児の相場だ? べらぼうめ、これから品川へへえるまで、水だけで歩けるけえ。金魚じゃあるめえし――。」
「まあ、兄い。そうぽんぽんいうなってことよ。勘弁してくんな。その代り、おいらが明日から、おまはんの振り分けもかついで歩かあ。坊主持ちじゃあねえ。ずっと持ちだぜ。そんなら、文句ああるめえ。」
 と、さかんに高声を洩らしている、お伊勢詣りの帰りと見える熊公、がらっ八といった二人伴れが、いかにもそれらしい拵えの大高源吾と、赤垣あかがき源蔵げんぞうなのだった。
 と思うと、中庭をへだてた向うの部屋では、
「はい。せつなどの医道のほうも、お武家さまの武者修業と同じことで、こうして諸国を遍歴いたしまして、変った脈をとらせていただきますのが、これが、何よりの開発でござりましてな――。」
 医者に化けた村松喜平である。
 なるほど、武者修業めいたいでたちの菅谷半之丞が、となりの部屋から話しに来て、何かとうまく相槌を打っている。
 そのほか、富森助右衛門、真瀬久太夫、岡島八十右衛門など、同志の人々は、こうして町人、郷士、医師と、思い思いに身をやつして同勢二十一名、きょうこの神奈川の佐原屋に泊まっているのだ。
 たがいに未知を装って、ただ同じ方角へ向いて行く一連の旅人が、一時この旅籠に落ちあっただけ、というていなのである。今日会って、あした別れる。何の関係もない他人どうし。そう見せている。廊下や湯殿で顔が合ってもみな、何らの関心も示さず、知らんふりをしているのだった。
 関西に散らばって待機中だった同志が、前後して下ってきたのを、江戸に暗躍していた人々が途中まで迎いに出て、この二、三日、あとになり前になり、警戒にこころを砕きながら三々五々、やっと、江戸へ一しのここまで来たところだった――。
「この部屋だなっ!」
 おもて二階に、大声が湧いて「この男売り物」の浪人が、がらりと、武林唯七と間新六の室の障子を、引きあけた。


   口笛

      一

 はざまが、いきなり、狂太郎の足もとに、ぺたりと手をついて、
「お侍さま、このとおり、お詫びを――。」
 と、かれは、緊張して、顔いろが変っていた。大きな計画のまえに、いまこんなことで騒ぎになり、人眼をひいたりしてはならない。問題を起すようなことがあっては、同志に済まない。それに相手は、どんな人物であるかもわからないのだから――。
「とんでもない失礼なことを申しまして――。」
 が、狂太郎は、黙ってはいってきて、その新六のそばを、畳を踏み鳴らしてとおり過ぎると、まだ窓ぎわに立ってにやにやしていた武林の胸を、とんと突いた。
「貴様か。いま何かいって笑ったのは。」
 気の短い武林である。突っ立ったまま、むっとした顔で、なにかいっそう事態を悪くするようなことをいいそうな顔なので、新六は、はらはらした。
 膝でにじり寄って、とり縋るように、
「いえ。つい、わたくしめが、お気にさわるようなことを申しましたので――。」
「黙っておれ。」
 狂太郎は、武林唯七の襟をつかんで、ぐいと締め上げた。
「こいつ、騒がんな。体の構え、眼の配りが、どうも尋常でないぞ。」
 それでも唯七は、狂太郎をにらんで、ぬうっと立ちはだかっている。
 新六は、あわてた。
「これ、わしにばかり謝まらせておらんで、お前もすわって――いえ、お侍さま、これはすこし、変り者でございまして、気はしごくよろしいのでございますが。」
 そして必死に、唯七へ眼くばせした。
 すると狂太郎は、びっくりするほど大きな声で笑って、
「変り者か。うふふふ、変りものにゃあ違えねえ。武士が、町人の服装なりをしておるのだからな。」
 武林と、ちらと素早い視線を交した新六が、
「滅相もないことを! わたくしどもは、正直正銘、生れながらの町人なんで。下谷の者でございます、へえ。商用で、ちょっと上方かみがたのほうへまいっておりましたのが――。」
 狂太郎は、抜け上った唯七の額へ眼をやって、切り落とすようにいった。
面擦めんずれ――こら、この面ずれが、何よりの証拠だ。」
 唯七の指が、襟元を握っている狂太郎の手へ、しずかに掛かった。
「売り物なら、買おうか。」
「この男は売りもの――だが、止めた。もう、貴様らにゃあ売らねえ。」
「売る喧嘩なら、買おうかというのだ。」
 新六が、叫ぶようにいって割りこんだ。
「お前は、まあ、相手も見ずに、お侍さんに何をいうのだ――。」
「ふん。」狂太郎は、小鼻をうごめかして、「この手、ほら、この、おれの手を取る手が――おめえ、柔術やわらは、相当やるのう。」
 もう、止むを得ないと見て、新六は、押入れのほうへ行った。そこに、武林のと二本、道中差が置いてあるのだ。
 変な侍が押し上ったので、心配してついてきた宿の番頭や女中たちのおどろいた顔が、廊下からのぞいていた。かれらは、武林と狂太郎の白眼にらみあいと、そして、新六が刀のあるほうへ行ったので、ぱっと逃げ散った。

      二

 しかし、どっちも刀を抜きはしなかった。間もなく、佐原屋の亭主と、同宿の長老というわけで、垣見吾平、小野寺十内、村松喜平などがその部屋へやって来て、二人のために、狂太郎のまえに頭をげた。
 狂太郎は、長いあいだ一同の顔を見まわしていたが、
「うむ。そうか。いや、大事の前の小事だからな。」
 と欠伸あくびまじりにいって、どんどん梯子段を下り、佐原屋を出て行った。
「斬ったほうがいい。」
 唯七が、刀を引っ提げて起とうとするのを、垣見吾平がとめたとき、下の往来から、小鳥の啼くような不思議な声が聞えて、それがだんだん遠ざかって行った。狂太郎は、口笛を吹きながら、立ち去って行くのだった。口笛というものを、この人たちは、はじめて聞いたのだ。
 吉良の屋敷内の長屋へ帰ってくると、狂太郎は弟の一角に、
「馬鹿あ見たよ。赤穂の浪士が江戸へはいって来る模様など、すこしもねえぞ。心配するな。それより、こんなに働いてまいったのだから、どうだ、一升買え、いいだろう一升――。」

      三

 この清水狂太郎のことは、いくら調べてみても、どうもつまびらかでない。
 ただ、日本橋石町三丁目の小山屋弥兵衛方に落ちついた大石の一味は、あとでは、この旅館の裏に借屋住いをして、あの潜行運動を進めたのだったが、吉良のスパイが、その付近に出没するようになった。
 するとそのスパイがまた、何者にとも知れず、よく斬り殺されたものだが、そのときは必ず、口笛の音が聞えたそうである。
 そして狂太郎は、相変らず、吉良邸の弟の部屋で、酒に酔って終日寝ていたと某書にあるから、十二月十四日の夜も、やはりそこにいたのであろう。するときっと、かれも、一角や小林平八郎、柳生流の使い手だった和久半太夫、新貝弥七郎、天野貞之丞、古留源八郎などと一しょに、相当眼ざましく働いて、斬り死にしたものに相違ない。はっきりした記録が残っていないからわからないが、奥田孫太夫が庭で相手取った一人に、青竹の先に百目蝋燭をつけたのを、寝巻のえり頸へさして、酔歩蹣跚すいほまんさんと立ち向った大柄な武士があって、かなり腕の利く男だったという。これが狂太郎だったかもしれない。どうにもしようのないほど酔っていたというから、孫太夫と渡り合って別れてから、たやすく誰かに斬り伏せられたことだろう。
 翌朝、吉良の首を槍の柄に結んで、回向院えこういん無縁寺の門前に勢揃いした一党が、高輪泉岳寺への途中、廻りみちをして永代橋を渡っているとき、行列のなかの武林唯七が、
「おい、はざま!」と、ふり返って、雪のなかに立ちどまった。「口笛が聞える――。」
 武林とおなじに、返り血で全身黒くなっている間新六も、歩をとめた。
「なに、口笛が――?」
「うむ、聞える。耳をすまして――ほら! どこからともなく、口笛が――ほら!」





底本:「一人三人全集2[#「2」はローマ数字、1-13-22]時代小説丹下左膳」河出書房新社
   1970(昭和45)年4月15日初版発行
初出:「サンデー毎日」
   1932(昭和7)年3月
入力:奥村正明
校正:小林繁雄
2002年12月3日作成
2008年3月28日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について