巷説享保図絵

林不忘




    金剛寺坂こんごうじざか


      一

「おたかどの、茶が一服所望じゃ」
 快活な声である。てきぱきした口調だ。が、若松屋惣七わかまつやそうしちは、すこし眼が見えない。人の顔ぐらいはわかるが、こまかいものとくると、まるで盲目めくらなのだ。その、見えない眼をみはって、彼はこう次の間のほうへ、歯切れのいい言葉と、懐剣のようにほそ長い、鋭い顔とを振り向けた。
 冬には珍しい日である。梅がほころびそうな陽気だ。
 この、小石川こいしかわ金剛寺坂こんごうじざかのあたりは、上水にそってが多い。枝の影が交錯して、畳いっぱいにはっている。ゆれ動いている。戸外は風があるのだ。風は、あけ放した縁からそっと忍び込んできて、羽毛はねのようにふわりと惣七のほおをなでて、反対側の丸窓から逃げて行く。それによって惣七は、一室にすわりきりでいながら、世の中が春に近いことを知っている。
 若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、すずり箱、それに、壁に特別のこしらえをして、貸方、借方、現金出納、大福帳などの帳簿が下がっている。状差しに来書がさしてある。口のかけた土瓶どびんに植えた豆菊の懸崖けんがいが、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。よくいえばさびているというのだろう。
 次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。きぬずれの音がした。すうっとふすまがすべって、このへんでは珍しい下町風俗の、ようすのいい女のすがたを吐き出した。すんなりした肩、はやりの絵のようなからだつき、まゆが迫って、すこし険のあるのが難だが、それも、しいてあらを探してのことで、見ようによってはかえって、すごい美しさを加えている顔である。
 ちょっとひざをついて背後うしろをしめる。向き直って、三つ指を突いた。お高である。お屋敷ふうなのだ。
「あの、お呼びなされましたか」
「おう。茶が一ぱい飲みとうなった。風で、ひどいほこりだな」
 惣七の癇癖かんぺきらしい。眼の不自由な人のつねで、指さきの感触が発達している。いいながら、畳をなでた。風が土砂を運んできてざらざらしている。顔をしかめた。
咽喉のどが、かわく。雨も、久しく降りませぬな。いつであったかな。後月あとげつの半ばであったかな、降ったのは」
「はい。いいおしめりが一つほしゅうございます」
「茶を、もらおう」
「はい」
 お高は、切り炉へ向かってはすにすわって、ふくさを帯にはさんだ。湯加減をみて、ナツメを取りあげた。薄茶をたてようというのだ。
「もういらぬ」
 惣七がいった。
「は!」
 お高は、顔を上げた。不可解の色が、お高のかおをあどけなく見せている。そのせっかくの美しさが、よく惣七に見えないのが、惜しかった。
 惣七は、いらいらした。
「茶は、いりませぬ」
「はい」
「急な手紙を思い出したのだ。また代筆を頼みたい」
「はい」
 お高は、茶道具を片づけて、手早く硯箱を持って来た。巻き紙をのべて、筆の先を小さくかんだ。くちびるに墨がつく。二、三度、硯に穂さきをならして筆を構えた。
 しんとなった。上水をへだてた大御番組おおごばんぐみの長屋から、多勢の笑い声が聞こえて来て、すぐにやんだ。若松屋惣七は、荒れた広庭へ、うつろに近い眼を向けて、黙っている。出の文句を考えているのだろう。お高も、つくり物のように身うごき一つしないで、待っているのだ。
 若松屋惣七は、はっきり見えない眼を返して、お高を見た。見ようと努力して、顔を前へ突き出した。
 まきのような感じの、不思議な顔である。血の気というものがすこしもなく、すっかり枯れて見えるのだ。我意の張った口を、一文字に結んでいる。その口のため、世の中を渡るのに損をしている人間である。眼と眼のあいだに傷がある。いま明りを失いかけているのは、若いころ、争いで受けたこの傷が悪くあとをひいているせいだ。

      二

 若松屋惣七は、もちろん町人だ。妙な商売をしている。両替が本業なのだが、貸し借りの仲介なかだち貸金かしきんの取り立て、あたらしく稼業しょうばいをはじめるものに資本もとでの融通をしたり、その他、地所家作の口ききなど、金のことなら、頼まれれば、どんなはなしにも立つ。口銭こうせんをとってまとめるのだ。そういうほうの公事くじにも通じていて、おなじ貸金かしの督促にしても、相手を見て緩急よろしきを得る。応対にも、強腰つよごし弱腰よわごしの手ごころをも心得ている。たいがいの金談は、若松屋が顔を出せば成り立つのだ。
 まるで彼は、いながらにして江戸中の大店おおだなの資本を、五本の指で動かしているといっていい。それほど売れている男なのだ。金の流れの裏に巣くっている、蜘蛛くものような存在である。が、蜘蛛というのは当たらないかもしれない。若松屋惣七は、蜘蛛のように陰険ではないのだ。人物は、むしろ仔馬こうまのようにほがらかなのだ。ただ剃刀かみそりみたいに切れる。金のこととなると、切れ過ぎるのだ。
 武士は、くつわの音に眼をさますという。若松屋惣七は、ちゃりんという小判の音で眼をさます。どっちも同じことだ。この若松屋惣七は武士出だ。彼は、両刀をばさむ気でそろばんを取る。大義名分を金勘定のあきないに移している。みずから商道といっているのが、それだ。
 若松屋惣七は、もと小負請こぶしん[#「小負請」はママ]入り旗本の次男坊である。一生部屋住みというわけにも行かないし、養子の口だってそうざらにはない。仕官をすれば肩が凝っていやだ。さりとて、浪人しては食うに困る。若さを持てあまして、剣術に凝った。星影ほしかげ一刀流に、落葉おちば返しという別格の構えをひらいたのは、この若松屋惣七だ。それはいま、同流秘伝の一つに数えられた。惣七は、星影一刀流の江戸における宗家と目されている。名人である。達剣である。剣哲である。
 では、それほどの剣道のつかい手が、どうしてこんにちの若松屋惣七として、前垂れをしめるようになったか。わけがあるのだ。
 さて、腕は立つものの、武者修行に出るというのも、大時代で面白くない。江戸でのらくらしていた。あそんでいると、ろくなことはしでかさない。女ができた。まあ、恋というところだ。その女のことで、仲間と果たしあいをした。相手も、相当できる男だった。仲裁がはいって、人死には出なかったが、そのとき惣七は、両眼のあいだに怪我けがをしたのだ。不覚なようだが、もののはずみだったと自分では思っている。それから、眼が悪くなって、おまけに、その女も、相手の男にとられてしまった。
 そこで、というわけでもない。もとから、さむらいがいやになっていたやさきだったので、惣七は、ひらりと稼業しょうばいがえをした。さむらいをよして、町人になった。若松屋惣七となった。剣悟の呼吸いきで、金をあつかいだした。恋を失った自暴やけもあった。が、はじめは、その苦しみを忘れるために、小判の鬼と化してやれなどという、そんなはっきりした気もちではなかったのだ。ただ、どうせ泰平の世である。武士では、出世のしようがない。剣では身が立たない。と思って、すっぱりくら替えをしただけのことなのだ。
 しかし、何でも、やり出してみると、面白い。夢中にさえなれば、武道も商道もおなじこつなのだ。いつのまにかここまできた。きょうの若松屋惣七は、むかし星影一刀流に落葉返しの構えを作り出したように、金銭の取り引きに、彼独特の一つの秘奥ひおうを編み出している。悟りをひらいている。小判を手玉にとる名人の域にまで達しているのだ。これが、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんだ。
 女のことは忘れている。忘れようと骨折っている。忘れようとして骨を折らなければならないほど、忘れられないのだ。若いころのことを思うと、よくもああいろいろ馬鹿ばかなことができたものだと思う。それでも、武士の生まれであることは、身にしみている。だから、若松屋惣七は、ひとりでいると、名前らしくない、あんな四角ばった口調になるのだ。直そう直そうと思いながら、いまだに、さようしからばが口に出る。知らない人からみると、へんてこな町人だ。
 両替渡世の看板をあげているわけでも、若松屋という暖簾のれんが出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守あんどうひだのかみの屋敷の裏手である。父の同僚なかまの住みあらしたあとを、もうけた金で買い取ったのだ。かなり広い。木立ちも多い。が、なにぶん荒れはてた古い家である。
 そんなところで、生き馬の眼を抜くような稼業しょうばいをしている。しかも、本人は、奥の茶室にすわったまんまだ。手代てだいとも用人ようにんとも、さむらいとも町人ともつかない男が、四、五人飼われている。それに、女番頭格のお高と、それだけの一家だ。朝は、水道下の水戸みと様の屋根が太陽を吹き上げる。西には、牛込うしごめ赤城あかぎ明神が見える。そこの森が夕陽ゆうひを飲み込む。それだけの毎日だ。
 商売は、多く手紙のやりとりでする。若松屋惣七は、よく眼が見えない。お高が、手紙の代読と代筆をするのだ。帳簿も、お高が整理していた。

      三

 お高は、この金剛寺坂へ来て、六月ほどになる。誰か商売の手助けと身のまわりの世話をかねるものをとのことで、下谷したや桂庵けいあんをとおして雇われてきたのだ。お高は、女にしては珍しく、相当学問もあり、能筆でもあった。何よりも、美しい女である。年齢としは二十四、五だ。このお高が、若松屋へ来たときは、男世帯おとこじょたいの殺風景な屋敷に、春がきたようだった。家のなかが、一時にあかるくなった。
 おもてといっても、べつに店があるのではない。武家屋敷とおなじ構えで、男たちがごろごろしている。若松屋惣七は、例の奥まった茶室を一歩も出ない。お高は、次の間に控えていて、万事惣七のいうなりに取り計らっているのだ。日夜いっしょにいるのである。惣七とお高のあいだが、いつしか単なる女祐筆ゆうひつとその主人の関係以上に進んでいたとしても、それは、きわめて自然だ。
 お高は、金剛寺坂の家を住みやすいと思っている。仕事は多いが、多すぎるというほどでもない。その大部分は、惣七のことばを書き取って、手紙にすることだ。もともと、惣七は眼が悪いので、この手紙の代書をするために、雇われて来ているのである。
 はじめは気の変わりやすい、怒りっぽい惣七の口書きをすることは、大変な仕事だったが、それも、慣れてしまうと、このごろのように楽なものになって来た。惣七の声が、お高の耳から飛びこんできて、手をうごかし、手紙を書かせるのだ。お高は、いわば道具のようなものだ。
 手を動かしながら、頭ではほかのことを考えている場合が多い。お高は、自分だけの夢を持ちはじめたのだ。お高の眼が、うっとりとした色を帯び出したのは、そのためだろう。お高は、惣七を愛し出しているのだ。ぶっきらぼうな、味もそっけもない、眼が悪いためにしじゅういらいらしている惣七である。
 彼は、お高をどう思っているか。おどろいている。むかし、自分の心をとらえて、まだ離さないでいるあの女に、お高があまり似ているのに驚いているのだ。どうかした拍子に、人の顔などははっきり見えることがある。そういうとき、お高の顔がよく見えると、惣七は、思わずぎょっとするくらいだ。それほど似ている。と、惣七は思うのだ。
 いまもそう思って、彼は、お高のほうへ眼を見ひらいている。
「きょうは、あちこち手紙を書かねばならぬ。だいぶたまった。ひとつ頼もうか」
「はい」
「まず大阪屋おおさかやへ書きましょう」
「はい」
「織り元から、この夏入れた品物の代を請求して来ているのだ。あそこはいつもこうです。毎年このごろに二、三本の催促状を書く。今度は、一本で済むように、すこし手きびしくいってやりましょう」
「はい」
 惣七の冷たい声が、しばらく部屋に流れつづけた。巻き紙を走るお高の筆の音が、それを追う。
 条理と礼儀をつくしたなかに、ちょいちょいすごさをのぞかせた文句が、お高の達筆によってきれいにまとめられた。
 つづいて三つの手紙を片づけた。それぞれ文箱ふばこに納めて、あて名を書いた紙をはり、使いのものに持たせてやるばかりにする。
「それから」と、惣七がいいかけていた。「最後に、こんな馬鹿げたのを一つ書いてもらおう。筆ついでだ。いや、着物を買い過ぎて、呉服屋へ借金のかさんだ女へ、その呉服屋に代わって、払いの強談ごうだんを持ちこんでやるのだが、愚かな女だ。首もまわらぬらしい」
 若松屋は冷笑をうかべている。しばらくして語をつなぐ。
日本橋にほんばし磯五いそごに頼まれて、麻布あざぶ十番の馬場屋敷ばばやしき住まい、高音たかねという女に書くのだ。すこし、おどしておきましょう」
 ちょっと切って、すぐ糸をるように文案が出てきた。
一筆啓上つかまつりそうろう。当方は若松屋惣七と申す貸金取り立て業のものにござ候。呉服太物商磯五よりおんもとさまへの貸方二百五十両のとりたてをまかせられ候については、右貸金はすでに三年越しにて、最初内金五両お下げ渡しありたる後は、月延べ月延べにて何らの御挨拶ごあいさつなく打ちすぎ参り候段、磯五とてもいたく迷惑いたしおり候ことお察し願い上げそろ。今回磯五になりかわり、当若松屋が御督促申しあげ候以上、もはや猶予のお申し出には応じ難く、一両日中に即金二百五十両お払いくだされたく、伏して願い上げ申し候。なおしかるべき御返答これなきときは、ただちに公事におよぶべき手配、当方において相ととのいおり候旨、念のため申し添え候。

      四

「これで、すこしは驚くことであろう」
 若松屋は、声をたてて笑う。面白くてたまらないといった、屈託のないわらい声である。それが、けむりか何ぞのように、眼に見えて、軒を逃げて、樹間に象眼ぞうがんされた冬ぞらへ吸われていくような気がするのだ。
 お高は、筆をおいて、ぼんやり戸外そとを見あげている。惣七が、いっていた。
「二百五十両も、衣裳いしょうを買いこむやつも、買い込むやつだが、貸すほうも、貸すほうだて。全く、笑わせる。女子おなごのなかには、度し難いのがおるものだな」
 お高が、きいた。物思いから、急にさめたような声だ。
「あの、あて名は、麻布十番の馬場屋敷内、高音と申すのでござりますか」
「さよう。麻布十番の馬場屋敷居住、高音という女です、愚かなやつだ」
「はい」
「きょうは、手紙は、それでおしまいにしましょう」
「はい」
「疲れたであろう。大儀たいぎ大儀たいぎ。ゆっくり休息なされたがよい」
「はい」
「もうよい。あすまで用はない」
「はい」
「用がないと申したら、用はないのだ」惣七は、じりじりと甲高かんだかい声になっていった。「早く、部屋へ引き取れ」
「はい」
「な、何をぐずぐずといたしおるのだ!」
「はい。あの――」
「何?」
「あの、磯五は、磯五とやら申す呉服屋は、そんなに恐ろしい店なのでござりますか」
「恐ろしい? なにがおそろしいのだ。いや、金のこととなると、世間はみんな恐ろしいぞ。金にかけては、人はすべて鬼なのだ。まず、この若松屋惣七がその筆頭かな」
「はい」
「はいという返事は手ひどいぞ。ははははは、なに、このごろ、磯五の店を暖簾ごと買い取ったものがあってな、つまり、磯五は磯五だが、そっくり人手に渡ったのだ。そのあたらしい主人あるじというのが、眉毛に火がついたように、古い貸しの取り立てをはじめている。この高音のほうも、その一つだろう」
「はい。そうしますと磯五には、あたらしい金主がついたのでございましょうか」
「金主かどうか、それは知らぬ。が、店の名義は、変わったな。挨拶が参っている。それやこれやで、古証文に口をきかせて、いくらにでもしようというのであろう。よくあるやつだが、今度の磯五は、腰が強そうだぞ」
「はい」
「呉服仲間は、馬鹿にできん商売仇敵がたきとして、はやおそれておる」
「はい」
「もうゆきなさい。わしも、ちと横になろう」
「では、あの、お床をおとり申しましょうか」
「ううん。それには及ばぬ。たたみの上で、結構だ。手まくらで、とろとろと致そう」
「はい」
「早うあちらへまいれ! その手紙を、それぞれ使いに持たせて、即刻届けさせるのだ」
 惣七は、叫ぶようにいった。惣七の声が高まるのは、これから機嫌のわるくなる証拠だ。お高は、早々に座を立って、男たちの部屋へ行った。いま書いた四、五の状箱をかかえて行った。玄関わきの、もとの用人部屋には、佐吉さきち国平くにへい滝蔵たきぞうという、三人の男衆が、勝手な恰好かっこうで寝そべって、むだばなしをしていた。
「どら、風呂ふろをたてべえか」
 と、佐吉がたち上がったところへ、文箱を重ねてかかえたお高が、そっとはいって行った。
 はでな色が、不意に動いたのにおどろいて、三人は一時にお高を見た。
「お使いですかい」
 内儀ないぎ同様のお高なので、このごろでは、男たちも、改まった口をきいているのだ。
「あい。ちょっと行ってもらいましょうよ。三人手分けをして届けてもらうのですよ」
「ようがす」三人は、いっしょに手を出した。
「あっしは、どっちをまわるのですね」
 お高は、一つだけ残して、佐吉と国平と滝蔵に状箱を振り当てて、それぞれゆく先を教えた。滝蔵が、お高の手に残っている一つに、眼をとめた。
「それは、どうするのですね。誰か持って行かねえでも、いいのですかね」
「これはいいの」お高は、あわてて、その状箱を隠すようにした。
「これは、あたしが持って行くから――」
 それは、若松屋あつかい磯五より、高音さまへ、とある、あれだった。


    客


      一

 あくる朝だ。
 松の影が、たたくように障子に揺れている。朝ももう、正午ひる近く進んでいることがわかるのだ。若松屋惣七は、石のようにむっつりして、寝床からたった。お高は、きのうから顔を見せない。どうしたのだろう? 頭痛でもして、自分の部屋にこもりきりなのか――ちょっと、そう思った。
 それにしては、することだけは、きちんとしているのである。夕飯の給仕にも出た。この床も、取っていった。いつものとおり、行燈あんどん燈芯とうしんを一本にしてこっちに向いているほうへ丹前たんぜんを掛けておくことも、忘れてないのだ。
 が、考えてみると、そのあいだずうっと無言だったようだ。気分でも、すぐれないのかもしれない。それとも、何か、気になることでもあるのか。そのときは、そう思っただけで、惣七も、べつに気にとめなかったのだが、どうもきのう以来、あのお高のようすがへんなのである。けさひとつ、顔が合ったらきいてやろう――若松屋は、そう思った。
 思いながら、彼は、苦笑した。小判魔、というのもへんなことばだが、そういってもいいほど、とにかく、今では、金のほかは何もなくなっている若松屋だ。その若松屋が、けさは、どういうものか、お高のことが気になってしようがないのだ。
 それは、盲目に近い彼にとって、女番頭といえば、大切な人間ではある、ことにお高は、女ではあるが、字も達者だ。それにこのごろは、金稼業かねしょうばいこつもなかなか呑みこんできている。ただ、手紙の代筆をするだけではないのだ。取り引きに関して、なにげなくはさむお高の意見に、ちょいちょい光るものを発見して、じつは若松屋も、内心おどろいているのだ。
 それに、いつからか若松屋に許して、女房もおなじになっているお高でもある。若松屋惣七が、このお高がゆうべから顔を見せないことを気にするのに、別に不思議はないのだが、彼は、珍しく、ほんとに何年ぶりかに、女というもののことをこうして、すこしでも切実に考えている自分に皮肉を感じて、いま苦笑をもらしたのだ。それは、霜の朝の池の氷のような、うすい、冷たい苦笑だった。
 八端はったんの寝巻きに、小帯を前にむすんだ惣七である。よく見えない眼をこすって、縁の障子をあけた。日光が、待ちかまえていたように、音をたてて飛びこむ。微風が、ねまきのすそをなめた。雑草が、に伏している。しんみりと太陽のにおいがする。今日も、冬らしくない日なのだ。
 縁ばたに、杉の手水ちょうずだらいと、房楊子ふさようじと塩が出ていた。お高が置いて行ったのだろう。惣七は、ふうっと腹中にたまっていた夜気を吹き出して、かわりに、思い切り日光を吸い込んだ。それにしても、眼の不自由な自分が、いま朝の水を使おうとしているのに、お高が出て来ないというほうはない。惣七は、手を鳴らした。耳を傾けて、反響を待った。どこからも、何のこたえもない。お高は、いないらしいのだ。
 若松屋惣七は、舌打ちをした。そこらをなでるようにして、顔を洗った。口をゆすいだ。手さぐりで、廊下を進んだ。彼は、自家うちのなかでもこうなのだ。年とってからの眼の故障なので、感がわるいのである。
 若松屋惣七は、毎朝、洗顔すすぎがすむとすぐ、彼の帳場である奥の茶室へ引っこんで、一日出て来ないのだ。食事もそこでするのだ。で、壁に手をはわせて、若松屋惣七は、そろりそろりと足を運んだ。
 あかるい光線が、茶室にあふれていた。それは、四角い桃色となって、若松屋惣七の網膜を打った。そのなかで、ほっそりした人影が、ゆらりとなびいた。何者か、自分の留守に、この帳場へ来ているのだろうと、彼は思った。同時に、からだ恰好かっこうの直覚が、惣七に、その人影はお高であると断定させた。
「お高か」
「はい。お高でございます」
「何しにここへ来ておるのだ。わしがおらんときは、誰もはいってはならぬことを知らぬのか」
 惣七は、不愉快な顔をした。不愉快な顔をすると、両眼と、そのあいだの傷あとが、一線に結びつくのだ。机の前へ行って、すわった。机の上で、彼の手に触れたものがある。文箱だ。
「来書か」
 といって、惣七は、その状箱を両手に握った。ぐように、鼻さきへ持っていった。眼に近く、いろいろにすかして見ている。こうしているうちに、どうかすると、見えることもあるのである。
 高音どのへ、若松屋あつかい磯五の件、とお高の字が読めてきた。
「お!」と、若松屋は、首をかしげた。「これは、きのう送ったはずの手紙ではないか。もう、返書が参ったのか」
「いいえ」
「なに? 返書ではないと」
 惣七は、がた、がた、がたとき込んできて、文箱をあけた。
「や、これ、封が切ってあるぞ」
 いいながら内容なかみをつかみ出した。巻き紙がほぐれて、ばらり、手から膝へ垂れた。それを風が横ざまに吹き流した。
「うむ。これはどうしたというのだ。持たしてやったはずの手紙がどうしてここにあるのだ。これ、一つ忘れたというのか」
 ふだんから青鬼の面のようにあおい顔だ。それが、いっそう蒼くなってお高のほうへ向いた。笑っているようにも見える。笑っているように見えるときは、若松屋惣七の激怒しているときだ。
「わたしは、とくに、この手紙を急いでおったのだ。その、いそぎのやつを選びにえらんで、忘れるという法はあるまい。いや、忘れたでは済むまい」
 お高は、たたみの上で収縮した。
「はい」
「はい、ではない。はいではわからぬ!」
「はい、あの――」
「ちいっ! はいではわからぬと申すに!」
「――」
「しかも、これ、開封してある」
 若松屋惣七は、急に、しずかな口調を取り返した。
「お高、お前、どこか気分でもすぐれぬのではないかな」
 すると、お高が、いつになくきっぱりした声をあげたのだ。
「いいえ。ただそのお手紙はわたくしのでございます」
「なに? 何のことだそれは」
「わたくしのでございます」
「この手紙が、か」
「さようでございます。そのお手紙は、わたくしにあてたものでございます」
 ほう! ――というように、若松屋惣七の口が、長くなった。長くなったまま、無言がつづいた。

      二

 お高が、いっている。こわれた笛のような声だ。
「はい、それはわたくしあてのお手紙でございます。でございますから、わたくしが拝見いたしました」
「そうか」
 と、若松屋惣七は、驚愕おどろきをふきとるために、顔をなでた。平静を装おうとしているのだ。
「そうか。高音たかねというのは、お前であったか。高音とお高、なるほどな。知らなかったぞ」
 もう一度、顔をなでる。なでながら、見えない眼が、指のあいだからお高をみつめた。鼻に、しわが寄った。
「ふん。お前が高音か。そうか。そんなら、手紙をひらいたに不思議はない。本人だからな。あはははははは、それがどうしたというのだ?」
 どうしたというのだ? と、笑いを引っ込めて、若松屋惣七は、膝を振り出した。いらいらしてきたのだ。
 三年まえに、麻布十番の馬場屋敷に住んでいて、そこで、日本橋式部小路にほんばししきぶこうじの太物商磯五の店から、二百五十両の買い物をして、それからこんにちまで、払いを逃げまわってきた高音という女――それが、お高と名をかえて、じぶんの屋敷に住みこみ自分も今では、稼業しょうばいの右腕とたのんでいるばかりか、こうして何年ぶりかに、女として、人間的な愛をすら感じ出している。
 どうせ、何か、いわくのありそうなやつとはにらんでいたのだが――若松屋惣七は、裏切られたような気がした。このうえなく、不愉快になってきた。
 お高は、手をそろえて畳に突いている。そのうえに、頭を押しつけたままだ。たぼと肩が、こまかくふるえている。泣いているらしい。
 若松屋惣七は、火桶ひおけを抱きこんで、ふうむと口を曲げた。考えこんでいるのだ。
 二百五十両といえば、大金だ。女の身で、ひとりでその借金をしょっているのだ。それがみんな衣類を買った代だというのだ。利口なようでも、やはり女だ。馬鹿なやつだ。しかし、何しにそんなに、着物ばっかり買いこんだのだろう? また、磯五ともあろうものが、どうしてそんな額にのぼるまで、貸し売りを許しておいたのだろう?
 どんな生活をしていたのか、知れたものではない。払いを逃げまわっていたあいだも、どこで何をしていたのか――そのお高を、今までかなり信用して、ある程度まで取り引きの秘密にも参与させてきたのだ。そう思うと、若松屋は、いやな気がした。自分がうかつだったと思った。
「旦那様にまで、身分を隠してまいりました。すみませんでございます。どうぞ、お気を悪くなさらないように」
 お高が、いっていた。うつ伏したままだ。若松屋はもう千里も遠のいてしまったような、つめたい顔を上げた。
「なに、すむもすまないもない、どうせ、なにかあることと思っておった。女は、化物ばけものだと申すことだからな」
「そんな、そんなつれないことをおっしゃらずに――」
「いいます。そう思うから、いうのだ。いや、もう何もいうまい。ただ、一言だけ聞かしてもらいましょう。何しに素性を隠して、このうちに住みこんだのだ。何か、探りにか?」
 若松屋は、ぐっと曲がってしまった。何ごとでも、だまされていたのだという心もちが、若松屋をそうさせずにはおかないのだ。
「と、とんでもない! さぐりに、などと、旦那さまあんまりでございます――」
 泣き声が、お高のことばじりを消した。お高は、たたみを打って、突っぷした。
 若松屋は、横を向いた。
「何も、泣くことはあるまい。わたしこそ、あんな手紙をお前に書かせて、さぞつらかったことであろう。すまなかったと思っておる。が、それも、知らぬこと。ま、許してもらおう。ははははは」
 若松屋は、意地わるく出るのを、押えることができないのだ。

      三

「旦那様、どうぞ一とおりお聞きくださいまし」
 なみだに光った顔は、庭の松の樹の反映で、惣七にはみどり色にうつった。惣七はそれを不思議なものと見た。
「聞く――必要もあるまいが、ま、聞きましょう。しかしわたしを泣き落として、その二百五十両を払わせようと思っているなら、むだだ。よしたがよい。理由のないところに出す金は、わしには、一文たりともないのだ」
「まあ! 決してそんな――」
「気はないというのだな。ははははは、それで、大きに安心いたしたよ。何でも聞きましょう」
「払えるつもりで――払う目当てがあって、買ったのでございます」
「高音どの、お前さまはいったい、何者なのだ?」
「どうぞ、高音とだけは、お呼びくださいますな。いまのわたくしは、ほんとに、ただの高なのでございます」
「それは、まあ、どっちでもよいが――」
「わたくし、自分のお金といっていいものを、二千両ばかり、もっていたのでございます。けれど、どうしてあのとき、あんなに衣裳いしょうに浮き身をやつしたのか、自分でもわからないのでございます。きっと、離れかけていた良人おっとのこころを、身を飾って取り戻そうと努めたのであろうと、じぶんのことながら、まるで他人事ひとごとのようにしかおもわれないのでございます」
 意外という字が、若松屋の顔に、大きく書かれた。
「良人? 良人が、あったのか」
「良人は、わたくしがいい着物を着ているのを見るとこのうえなく機嫌がよかったのでございます。わたくしのお金で買いさえすれば――」
「そりゃ、そうだろう。その、美しいお前が、いい着物を着るのだ。一段も二段も、たちまさって見えたことであろうよ。自分の財布さいふが痛まぬ限り、誰しもよろこぶのは必定だ。うふふ、そんな馬鹿ばかしいはなしはよしてくれ。聞きとうもないのだ」
 そっけなくいい放った。が、すぐ、ちょっと気をやわらげたようだ。
「その、良人とやらは、武士か」
「はい、いえ、大奥のお坊主組頭ぼうずくみがしらをつとめておりましてございます」
「もちろん、故人であろうな」
「は?」
「いや、いま在世してはおらぬのであろうな」
「いえ、生きておりますでございます」
「なに、生きておる?」
 若松屋惣七の顔には、純真なおどろきと、不審と、好奇と、何よりも悲痛の色が、一時に、はげしいうずをまいた。
「良人の生きておることを知りながら、妻たるお前はどうしてわたしと、こういうことになったのだ――」
「あなた様を、おたぶらかし申したようなことになりまして、面目次第もござりませぬが、決してそんな――」
「ええっ! よけいなことを申すな。いつ会ったか、その良人と」
「いえ、会ったことはござりませぬ。会ったことはござりませぬ。ただ、死んだといううわさは聞きませぬから、まだ、生きておるのであろうと思うだけでございます。わたくしは、感じますのでございます。良人は、まだ生きておるのでございます」
 若松屋惣七は、だんだん事情がわかってくる気がした。
「その茶坊主の良人とやら、お前には、つらく当たったであろうな」
「はい」
 と、お高は、つらかった日を思い出したように、顔を伏せた。若松屋は、形だけの眼をしばたたいて、のぞき込むようにした。
「お前の持っておった金子きんすを横領して、姿を隠したというのであろうな」
「はい」
 若松屋惣七は、茶坊主などという、そういう型の男が、眼に見えるような気がした。そういう男に対する嫌悪けんお憤怒ふんぬのいろが、白く、彼の額部ひたいを走った。同時に、お高に対しては、すこしくやさしい心になったらしい。腕を組んで、庭へ眼をやった。
 お高が、いっていた。
「半年ほど、いっしょにいたばかりでございます。つらい半年でございました。あげくの果て、わたくしのお金をさらって、逃げて、おおかた、ほかの女にでも入れ揚げたのでございましょう」
「三年前のことだというのだな」
「三年まえでございます。そのために、立派に払えるはずだった磯五のほうも、払えなくなってしまったのでございます」
「何をしておった。それから、当家へ参るまで」
「あちこち女中に住み込んだりなど致しまして、精いっぱい働いて参りましてございます。良人が、洗いざらい持って行ってしまいましたので、ほんとに、わたくしに残されましたのは、浴衣ゆかた一枚でございました。そのなかから、お給金をためて、五両だけ返金いたしたのでございます。ほかにも借りがございましたし、それに、良人の不義理のあと始末や何か――」
「きやつ――というては、悪いかもしれぬが、きやつはいまだに、奥坊主組頭をつとめておるのか」

      四

「いえ。ただいまは、小普請こぶしんお坊主だとか聞き及びました」
「小普請坊主か。しからば、無役だな」
「はい。無役でございます」
「女にでも食わせてもらっておるのか」
 いってしまって、これはすこし残酷だったかな、と若松屋は思った。はたして、お高は、顔を伏せた。べつのことをいいだした。
「いただきますお手当てをためておきまして、月づきなしくずしにでも返してゆきたいと思うのでございますが、でも、二百五十両とまとまりますと、女の腕いっぽんでは、大変でございます。お察しくださいませ」
「それは、察せぬこともないが――」
「はい」
「何とかせねばならぬ。なぜきのう、あの手紙を書いたときに、すぐいわなかったのか」
「申し上げられなかったのでございます」
「ふん。そんながらでもあるまいが――」
「申し上げようと思って、申し上げられなかったのでございます」
 お高は、眼を閉じた。あふれ出ようとする泪を、押し返そうとしているのだ。が、一粒、澄んだ泪の玉がまぶたの下を破って出て、黒い、長いまつ毛の先に引っかかっている。
「こんなにしていただいていて、そんなこと、とてもお耳に入れられなかったのでございます。それよりも、気が顛倒てんとうして、思案がつかなかったのでございます。まさか、こちら様へ取り立てを頼んでまいろうとは、夢にも考えなかったのでございます。それだけに、びっくり致しました。
 磯五は、今までよく親切に、事情わけを聞いて待ってくれましたのでございます。わたくしも、何本となく手紙を書いて、猶予をたのんでやってあるのでございます。でも約束だけで、最初の五両以来、返金することはできなかったのでございます。
 きのうあのお手紙を書きましてから、どんなに苦しみましたことでございましょう。麻布十番の馬場やしきのうちは、まだそのままになっておりまして、わたくしもそこにおりますことになっているものでございますから、とにかく手紙だけはそちらへ届けようか、それとも、いっそ死んでしまおうか――とも思いまして一晩じゅう考えあぐみましたが、思い切って死ぬこともできず、こうやって、いま、何もかも、申し上げておりますのでございます――」
 若松屋は、無言だ。しずかになると、下男の滝蔵がもみをひくうすの音が風のぐあいで、すぐ近くに聞こえてくるのだ。
「旦那様」お高が、あらためて呼びかけた。「わたくしは、ここに三両持っておりますでございます。どうぞこれを、磯五のほうへおまわしくださいまして、あとは、また待ってくれますように、どうぞあなたさまから、磯五のほうへ、おかけあい願えませんでございましょうか」
「馬鹿な!」
 若松屋は、つばくようにいった。
「だめでございましょうか」
「馬鹿な!」若松屋は、笑った。「そんなことをせんでも、そう事がわかれば、その二百五十両は、わたしが払ってやる」
 お高は、紅絹もみのようにあかい顔になった。
「いいえ、いいえ、めっそうもない! そんなことをしていただいては、冥加みょうがにつきます。ほんとに、それだけは、御辞退申し上げます」
「なぜだ」
「なぜと申して、そんなことをしていただこうと思って、お話し申したのではございません」
「それは、わかっている。だから、貸すのだ。暫時ざんじ、貸すのだ」
 若松屋惣七は、いつのまにか、ほろ苦くほほえんでいた。お高は、あわてて、二度も三度もつづけさまにおじぎをして、やたらに手を振った。
「いえ、もう、それだけは――そのお志だけで、ほんとに、ありがとうございますが、でも、お立て替えくださることだけは、失礼でございますが、お断わり申し上げます」
「ふうむ。それはお高、あまりに他人行儀というものではないか」
「――」
「ははあ、読めたぞ。お前はまだ、そのすてられた男のことを思っているのであろう」
「――」
「これ、お高、そちは、その男のことを思いながら、わたしと、こういうことになったのか」
 若松屋惣七は、くちびるを白くしている。お高の顔にも、血の気がないのだ。

      五

 いきなり、若松屋惣七は、天井へ向かって笑い声をほうり上げた。いつまでも笑っている。いつまでたっても、馬がいななくように笑っているので、お高は、気味がわるくなったが、それでも、ほっとして、びんのほつれ毛を指でなで上げた。
「もし、旦那様。わたくしが払いできずに、磯五が訴えましたならば、わたくしは御牢屋おろうやへはいらなければならないのでございましょうか。あの、ほかのかたへ、貸金のさいそくを御代筆いたしますごとに、わたくしは、心配やら情けないやらで、死ぬような思いを致しましてございます。
 でも、こちら様から督促状がいきますと、たいていの方が、お金を届けて参ります。わたくしは、しじゅう、もしわたくしにそんな日がきたら、どうしようかと思って、夜もおちおち、眠れないようなことがございましたが、とうとう、その時がまいったのでございます――」
 若松屋惣七は、急に、お高のほうへ、半身をつき出した。
「どんな男だな。その良人というのは。何か近ごろ、たよりでもあったかな」
「いいえ。家出しましてから、一度のたよりもございませぬ」
「だいぶ、たちのよくないやつらしいな」
「あの、酒がはいりますと、まるで別人のようになるのでございます」
「のんべえか。だが、その男も、お前を大切にしたことがあるであろうが――」
「はい。それは、ひところは――でも、べつにわたくしを好きだったのではございません。わたくしのもっていた二千両が目当てだったのでございます」
「きやつが生きておるというのは、確かか」
「たしかに生きているという気が、いたしますのでございます。もし死ねば、何かわたくしの耳にはいるはずでございますから――」
「てへっ! 貞女だなあ、お前は、貞女だよ。見上げたものだよ」
 若松屋は、苦々しげに、この皮肉を吐き出した。お高は、はっとして下を向いた。耳のつけ根まで燃えた。
「わたしは、そのお前の良人が、死んでいてくれればいいと思う」
 若松屋が、しずかにいっていた。お高は、もう一度はっとして、こんどは、顔を上げた。黙って、惣七を見た。惣七の、ふだんは森林にかこまれた湖のような顔に、いまは、かつて見たことのない情炎がぼうぼうと揺れうごいていた。それが、惣七の顔を、真昼の陽光のなかに、不思議と、影の多いものに見せていた。
 れいれいたる茶室に、男の感情が大きくひろがったのだ。死んでいてくれればいい、という露骨むきだしなことばのかげには、もし生きていてあうことがあれば、殺すのだという意味も、くんでくめないことはないのだ。お高は、若松屋惣七の冷火のような激情に胸をつかれて、それに、肉体的な苦痛をさえ感じた。それは、自分でも意外な、快感でもあった。
 若松屋惣七の声は、水銀を飲んだように、ひしゃげてきた。
「死んでいてくれればいい」繰りかえした。「なぜこんな容易ならぬことをいうのか、お前にはわかっているであろう。わたしは、お前を思っているのだ。わたしという人間は、冷たい人間だが、お前を熱くおもっておるのだ。あすにも、いや、きょうにも、あらためて、女房になってくれというつもりでおった。もそっと、こっちへ寄れ」
 が、お高は、肩をすぼめて、かえって身をひくようにした。さおな顔が、いまにも気絶しそうにそって、うしろへ手を突いた。
「何だ。いやなのか。そんなに、わたしが恐ろしいのか。よし。そんなにいやがるものを、いまどうしようともいいはせぬ。しかしお高、その茶坊主はお前の良人かもしれぬが、わたしとお前のあいだも、妻と良人も同然であることを、忘れぬようにな。ははははは、つまりお前には、良人が二人あるのだ」
「どうぞ、そんな、あさましいことをおっしゃらずに――」
「あさましい? こりゃ面白い。何があさましいのだ。男が、好きな女をくどくが、あさましいか」
「でも、わたくしには、いま申し上げましたとおり、良人があるのでございます。たとえ家出して、行方知れずになっておりましても――」
「ふん、そんなら、どういう気で、わたしとこういうことになったのだ。一時の気の迷いか」
「――」
「それみい。答えられまいが。お高――」惣七の声は、意地にふるえた。「わたしは、お前は離しはせぬぞ。この、見えぬ眼で、どこまでも追いかけるのだ」
 おおっ! というように、お高が、おめいたようだった。去った良人への気がねに、全心身をあげて惣七に打ちこみ得なかったお高だ。惣七に対する愛恋に、自制に自制を加えてきていたのだ。
 そのかきも、惣七の朴訥ぼくとつな迫力のまえには、一たまりもなかった。そこには、ふたりの感情のほか、何もなかった。泣き叫ぶのと同時に、お高は、腰を上げていた。膝で畳を走って、つぎの秒間には、総身の重みを、惣七のふところに投げあたえていた。
 こうして嗚咽おえつとともに飛びこんで来たお高を、惣七は、父のごとく、ゆったりと受け取った。
 お高は、しがみついて、惣七のえりに、顔をうずめた。おおっ、おおっと聞こえるお高の泣き声にもつれて惣七の声がしていた。
「泣け、泣け。泣いて、泣いて、泣きくたびれて、眠るのだ。なあ、何も心配することはないぞ。泣きくたびれて、ねむくなるまで、泣くのだ」
 お高を抱いている惣七の手が、軽く、お高の背なかをたたきつづけた。そして、ゆっくり、からだを左右に揺すぶっていた。まっすぐに上げた惣七の顔が、白く、引き締まって見えた。

      六

 お高の声が、惣七のふところから、揺れ上がった。
「この借銭だけは、わたくしひとりの手で、返させていただきとうございます」
「強情な。しかし、それも、面白かろう」
「はい。何とかして、わたくしひとりの手で返金して、さっぱりいたしとうございます」
「うむ。やってみるがよかろう。やってみなさい。わたしも、先方へ口添えをしておきます。その磯五の店の暖簾ぐるみ買ったという男、つまり新しい磯五だが、わたしは、その男を、すこしも知らないのだ。が、文通はあるのだから、いずれ、よく伝えておきましょう。なに、案ずることはない。ただ、わたしにその金を出させてさえくれれば、なんのいざこざもないのだがな」
「いえ。そればっかりは――それでは、あんまりもったいのうございます」
「では、その茶坊主のことなりと、いますこし聞かせてくれぬかな」
「はい」
「さしつかえあるまい」
「なんのさしつかえが――それは、それは、見得坊な、とんと締まりのない男でございました。それに、鬼のように情け知らずで――でも、よく頭のまわる、はしっこい男でございました。あんなのを、山師、とでもいうのでございましょうか。しじゅう、何かしら、大きな商売などをもくろんでいたりなどしまして、それをまた、不思議に、人さまが真に受けるのでございます。でも、心のしっかりしていない、弱い人でございました」
「家を出て、どこへ行ったのかな」
「はい、何でも風のたよりでは、京阪かみがたのほうへ、もうけ話をさがしにまいったとかいうことでございます」
「それは、きやつが、奥坊主の組頭くみがしらをやめてからのことだな」
「さようでございます。やめまして、小普請お坊主として、からだが自由ままになるようになってから、まもなくのことでございました。わたくしがいやで、いやで、顔を見るのもいやじゃと、しじゅう口癖のように申しておりました」
「お前を、か。何と男冥利みょうりに尽きたやつじゃな」
「あら、でも、人はみな好きずきでございますから、そんなこと、とやこう申す筋あいではございません。それからわたくし、高音という名を高とあらためまして――」
「もうよい、よい。あとは聞かんでも、わかっておる。だが、しかし、二千両持ち逃げしたとは、そりゃ、はじめからたくらんだ仕事に相違あるまい」
「どうも、そうらしいのでございます。でも、わたくしは、お金のことは、もう何とも思っておりませんでございます。あの人も、心から悪い人ではなし、ふっと魔がさしたのであろうと、あきらめておりますのでございます」
「何の、心からの悪ものではないものが、そんなことをしようぞ。これ、お前は、このわたしの膝の上で、きやつの弁疏いいわけをする気か」
「いいえ。決してそんな――」
「ええっ、聞きとうないわ。こりゃ、もしその茶坊主が死んでおったら、お前はわたしに、身もこころもくれることであろうな」
「それはもう、たとえあの人が生きておりましても――と申し上げたいのはやまやまでございますが、何だか、気になりまして――」
「うむ――」
 若松屋惣七の顔を、けわしい剣気が、いて過ぎた。これは、お高が夢にも知らない、流山りゅうざん一刀流の[#「流山りゅうざん一刀流の」はママ]剣士としての惣七である。一抹いちまつ殺闘の気が、男の胸から、お高にも伝わったのであろう。お高は、ひょいと、あどけない顔をふり上げて、惣七を見た。
「まあ、こわ! 何を考えていらっしゃいますの?」
「――」
 お高は、甘えて、惣七を揺すぶった。
「よう、旦那さま、何をそんなに考えていらっしゃる――あ! わかった」
 お高は、顔いろをかえて、惣七をふりほどこうとした。惣七は、もう笑顔に返っていた。
「わかったか。わたしはいま、その男にあったときのことを思っておったのだ」
 久しく、思い出したこともない落葉返しの構え、その落ち葉のように、かっと散る熱い血しぶき――惣七は、とっさに剣を想ったのだ。忘れていたやいばのにおいが、つうんと惣七の嗅覚きゅうかくをついた。
 この、はじめて見る惣七に、ぎょっー、としたらしく、お高が、惣七の抱擁ほうようからのがれようと、もがいている時、廊下の跫音あしおとが近づいて来た。
 惣七も、お高を離した。同時に、縁側に、男衆の佐吉が、うずくまった。若松屋惣七は、不興げな顔を向けた。
「客か」
「へえ。日本橋式部小路にほんばししきぶこうじ太物ふともの商、磯屋五兵衛いそやごへえてえお人が、お見えでごぜえます」
「なに、磯五が参った」
 ちらと、お高と惣七の眼が、合った。お高は、恐ろしい借金のことを思って、眼に見えてふるえだしていた。惣七が、佐吉に命じた。
「座敷へお上げ申せ、あっちで会おう。主人は、すぐ参りますと、丁寧に申すのだ。失礼のないようにな」それから、お高へ、「着替えを、これへ」
 まもなく、茶結城ちゃゆうきの重ねにあらためた若松屋惣七だ。茶室を出がけに、お高にいった。
挨拶あいさつが済んだころを見はからって、茶菓を持って参れ。よいか。何もおどおどすることはないのだ。ちょうどよいところに、磯五が来たものだな。新しい主人であろう。わたしも、はじめて会うのだ。が、安心しておれ。ことによると、二百五十両に棒を引かせてみせるから」
 そのまま、手さぐりで、座敷へ出て行った。お高は、いいつけられたとおり、茶菓のしたくをいそいだ。もうよかろうと、盆をささげて、その座敷のそとまで行った。
 室内なかからは、別人べつじんのように町人町人した、若松屋惣七の声がしている。
「へっ、これはどうも、お初にお眼にかかりますでございます。手前が、若松屋でございます。はいはい、あなた様が、このたび磯屋をそっくりお買い取りなすったお方で、ああ、さようでございますか。こん日はまた、遠路をわざわざ、いえ、なにぶん、手前は、このとおり眼が不自由で、他出がかないませんで――」
 それに対して、磯屋五兵衛も、何か挨拶を述べているようすである。
 ころあいをはかって、お高は、しとやかにふすまをすべらせた。色の白い、立派な男が、こっちを向いて、すわっていた。お高と、視線が合った。お高の手から、けたたましい音をたてて、茶器が落ち散った。男は、ぐっと眼をみはらせて、あっと口をあけた。そのまま、固化して見えた。
 すっぱいような、ヒステリカルなお高の笑いが、びっくりしている惣七に、向けられたのだ。
「この人、わたしを置きざりにした良人でございます」


    式部小路


      一

「や、これは!」
 と、おどろきの声をあげたのは、磯屋五兵衛だ。この、新しい磯五のあるじは、こんがり焦げたようなきつねいろの顔を、みがき抜いている人物である。そんな感じがするのだ。締まったほお額部ひたいが、手入れのあとを見せて光っている。女の脂肪あぶらで光っているような気がするのだ。
 つぎに彼は、うふふふ、と不思議な笑い声をたてた。それは、意外にも、少年のような無邪気な、ほのぼのとした笑い声で、どんな場合にも人に好感をいだかせずにはおかない、一種の魅力がこもっていた。
「これは驚いた! おどろきました」
 磯五はこういって、お高と若松屋惣七を交互に見たが、ほんとは、口でいうほど、さほどおどろいてもいないようすだ。茶坊主あがりだけに、円頂を隠すためであろう。茶人頭巾ちゃじんずきんのようなものをかぶって、洒落しゃれた衣裳を着けている。
 長らく大奥につとめたという、その品位はさすがに争えないもので、香をたきしめたように、彼の身辺に漂っているのだが、こうしていると、ちょっと見たところ、磯五という大きな太物屋の旦那とよりは、まず俳諧はいかいの宗匠と踏みたいのである。
 すらっとして優男やさおとこで、何よりも、その顔だ。じつに美男で――美男というと、いやにのっぺりしているように聞こえるが、のっぺりしていない美男なのだ。何といったらいいか、――大きな眼が澄んでいて、顔だちがすっきりしていて、官能的な口の両端が皮肉に切れ上がっていて、とにかく妙に女好きのする顔だ。
 ほがらかな表情のまま、じっとお高を見ている。
 お高は、みじめにあわてていた。手をすべり落ちた茶器が、足もとに散らかって、畳が、うす緑色の液体を吸いこもうとしている。その始末も忘れて、若松屋惣七の顔へ、おののいた眼を凝らした。
 惣七は、無言だ。青い色が、顔を走り過ぎた。よく見えない眼をみはって、磯五を見ようとした。細い指が、ふるえて、着物の膝をつかもうとしていた。
 若松屋惣七は、はじめて挨拶した瞬間から、この磯五からいい印象を受けていた。視力の不自由な人の感である。この男なら、高音の二百五十両の件を切り出しても、事情さえわかれば、取り立てを延ばしてもらえそうだ。それどころか、こっちの出ようによっては、無期延期というような話しあいも、むずかしくはなかろう――そう考えていたやさきである。
 そう考えていたやさきに、この新しい磯五こそ、もと奥坊主組頭をつとめていた、お高の良人だと聞いて、若松屋惣七は、急に、たましいの全部をあげて、磯五を憎んだ。突っかかるような憎悪ぞうおが咽喉につかえて、彼は、ことばが出なかったのだ。
 無意識のうちに、左手がひだりへ伸びて、そっと畳をなでていた。武士のときの癖で、そこに、佩刀かたなが置いてあるような気がしたのだ。刀を引きつけて、どうする気か? ――若松屋惣七は、急に手を引っこめた。同時に、爆発するように笑い上げていた。
 笑っているうちに、磯五の顔が、うっすらと見えてきた。すると、なぜお高がこの男といっしょになったか、のみならず、二千両という金を着服されて逃げられたのちまでも、いまだに、いささかの恋情を残しているそのわけが、若松屋惣七にははっきりわかる気がした。磯五の男ぶりは、若松屋惣七も認めざるを得なかったのだ。とともに、さっきお高はいった。良人はそのうちにきっと何かえらいことに成功しそうにしじゅうみんなに信じられていたという、その理由も、ほぼうなずくことができた。
 若松屋惣七は、氷のような鋭い頭脳あたまを持っている。すぐにものの両面を感得することができるのだ。こういう才能は、眼がわるくなってから、いっそう発達したようである。ものの両側を看破することの速さ――恵まれているといっていいかもしれないが、自分では、のろわれていると思っていた。気がつき過ぎて余計な不幸を招くたちだ。そう思っていた。
 彼には、磯五という人間のタイプが、書物を読むようにわかるのだった。御家人や町人などに、よく見かける人物である。女性をあつかうことにかけては、天才といってもいいのだ。ことに女から金をまき上げる、女に金を吐き出させる、そういうこととなると、職業的に巧みなのだ。ことに、坊主あがりだという。よくあるやつ――若松屋惣七は、一瞬のあいだに、すでに磯五を値踏みし、部わけし、早くも応対のしかたをきめていた。こういう人間ならば、こういう人間で、こっちにも、おのずから別な出方がある――。
 こうして若松屋惣七には、磯五という人物の特徴、習癖などが、たなごころをさすようにわかるのだ。わかってしまえば、あわてることも、恐れることもないと呑んでかかる。それだった。が、口へ泥をつぎ込まれたような不愉快な感情だけは、どうすることもできない。
 これが、この男が、お高の良人だったのか。お高のからだのみならず、その心へもしっかりくいこんでいる、最初の男なのか――そのお高と、自分は夫婦同様の関係にあるのみか、いまは、絶えて久しい恋ごころさえ働きかけている――そう思うと、若松屋惣七は、しいんとした気持ちのなかへ落ちていく自分を、意識した。それは、日ごろ、彼が何よりもおそれている、白じらとした虚無の気持ちだった。
 そういえは、お高と磯五は、ちょっとした身のこなし、ことばの端はしにも、共通なものがある、二人が、おたがいを開き合って暮らしたであろうころの想像が、一秒のうちに、若松屋惣七を、はげしい嫉妬しっとに駆った。
 彼は笑いやんでいた。
「いろいろとお二人のあいだに、積もる話もござろう、中座いたす」
 思わず、さむらいの前身が出た。膝をあげて、たちかけていた。

      二

「いや」磯五が、手をあげてとめた。ころがるような、へんにまるい声だ。「いや、なに、驚きました。ちょっと、びっくりいたしましたよ」
 あははと笑って、彼は立ち上がった。ふところからきれいに畳んだ手ぬぐいを取り出した。いきなりしゃがんで、お高のこぼした茶をふきはじめた。
「何という粗相だ! これ、おわびしないか――」
 それはまるで、じぶんのところへ来た客に、妻の高音が粗相をしたような、もうすっかり主人らしい口調である。
 これが、静観にかえりかけていた若松屋に、ぐっと激怒をあたえた。
「お高、ふけ!」
「はい」
 お高はおどおどしてかがんだ。磯五が、さえぎった。
「いや、お前はよい。これはわたしがふきます」
「お高、ふけといったら、ふけ!」
「はい」お高は、あなた! と低声こごえにいって、磯五の手から、はげしく手ぬぐいをとろうとした。磯五は、あらそった。ふたりのからだが、近く寄った。惣七は、あわてて眼をそらした。今の、あなたというのが、彼を、突然、いいようのないさびしさに突きおとしたのだ。
「いや、磯屋さん」若松屋がいっていた。「そりゃあもとは、あなたのお内儀だったかもしれませんが、今では、お高は、この若松屋のおんなでございます。どうかお手をお引きねがいましょう」
 若松屋惣七は、もう若松屋惣七に返っていた。磯五は、ちょっとけわしい眼をした。二人の男が、瞬間、気を詰めて向かいあった。
 磯五は、畳をふく手をやめなかった。結局、こぼれた茶は、もとの夫婦によって掃除された。
 磯五は座にかえった。
「ほう。おたか――さまというのでござりますか。お高に高音、いや似たような人に、似たような名があるもので。は、は、は、は」と小刻みに笑ってから「思いがけないところで、行方知れずで捜しあぐんでおりました家内に出あいまして、ほんとに、こんなうれしいことはござりませぬ」
 若松屋惣七は、ぷすっとして黙りこんでいた。お高は、ふたりのあいだにすわって、もじもじしていた。あおい顔を極度に緊張させて、惣七と磯五を、いそがしく見くらべていた。彼女かれはまだ、真昼の悪夢からさめきらぬ思いがしているに相違なかった。
 磯五が、ひとりで、他意なさそうにつづける。
「どうもひょんなぐあいでございますな」と、それから彼は、お高のほうへ向き直って、
「きょうはな、麻布十番の馬場やしき内高音というおひとから、呉服代二百五十両をお取り立てくださるように、こちら様へお頼みしてあるという番頭めの話を聞いて、それはお前、わたしの家内なのだとびっくりしてな、じつは早々取り消しに願うつもりで、こうしてわたし自身、あわてて飛んで来ましたわけさ。が、その家内が、こうしてこちら様に御厄介になっていようとは、わたしも夢にも知らなかったよ。どうしたえ、あれから」
 笑いをふくんで、こころよく聞こえる声だ。若松屋惣七は、その声のなかに、先天的な女たらしにつきものの、やわらかいしつこさを読んで、またこの上なく不愉快にされた。切り落とすように、彼はいった。
「わかりませぬな」
 磯五とお高が、同時に惣七を見た。
「すると何ですか、磯屋さんは、お店からわたしに、高音さんのほうの取り立てがまわってきているということを、御存じなかったというんですね。それが、わたしにはわからない」
「いえ、ごもっともでございますが、なにしろ、店を譲り受けましたばかりで、それに、借り貸しの帳あいなど、かなり乱脈になっておりましたものですから、まだちっとも整理がついておりませんで――」
「それにしたところで」若松屋惣七は、表面いつしか、ふだんのあの夜の湖面のような、気味のわるい静かさを取り戻していた。
「それにしたところで、名と住まいで、すぐにお気がつかれそうなものと思われますがな」
「それが、でございますよ。わたくしは、あとになるまで帳面を見なかったので――いや、若松屋さん、あなたは、何かわたしが、知らん顔して現在の女房から――」
「おことば中だが、現在の女房とおっしゃるのは、ちとはずれておるように思われますが――」
「はて、げんざい自分の女房を女房と申すのに、何のさしさわりもあるまいと存じます――いえ、全く、わたしはこの高音に去り状をやったおぼえはないのでござります。
 まあ、これは、手前の内輪のはなしになりますが、わたしが、お城づとめをひいてまもなく、もうけ話があって京阪かみがたのほうへ参りますとき、そのうち帰って来て楽をさせてやるからといいのこして出ましたのに、その後、何度手紙を出しても返事もよこさず、先ごろ、どうやら芽が吹いて江戸へかえりますと、すぐその足で麻布の家へたずねて行きましたところが、高音はとうに家出して行方知れずになっているとのことで、じつは、どうして捜し出したものかと、途方にくれておりましたところでございます」
「いえ、それは」とお高がはじめて口をはさんだ。膝でたたみをきざんで、なじるように詰め寄った。「いいえ、それではまるでお話が違います」
「まあ、いい」
 若松屋惣七は、手で制した。
「磯屋さんの言い分を、ひととおり伺いましょう」

      三

「でございますから、何もわたしは、知らん顔をして、現在じぶんの女房となっている女から、二百や三百の金をやいやい取り立てようとしたのではございません。何だか、人情しらずのやつとお考えのようですが、決してそういうわけではないので、はじめから、とんでもない間違いだったのでございます。
 じつを申せば、わたくしこそ、あちらへ旅だちますときに、これの金子きんすを少々借用いたしまして、それがそのまま借りになっておりますくらいで。わたくしから女房のほうに貸しなどと、ぶるる! めっそうもござりませぬ。わたくしこそ、借りたものを返さねばならぬと、あちこち心当たりをさがしておりましたが、それでも、まあ、こうしてこちら様で会って、大きに安心いたしました。
 いえ、全くのはなし、あの商売をのれんでと、雇い人ごと買い取りましたときに兼吉かねきちという一番番頭が申しますには、これこれこれこれのお顧客とくいさまへ貸しになっている。どうしたものでございましょうといいますから、商売を新しくするためにも、このさい何とかして取り立てねばならぬ。いいように計らってくれ、こう申しつけましただけで、そのときじつは、その貸方のあて名先を、手前は見なかったのでございます。
 なお、なかでも難物だけ一まとめにして、さっそく若松屋さんへ取り立てを、お願いすると申しておりましたが、あとになって、その、こちら様へ御厄介をお頼みした分のなかに、麻布十番の高音という口があると知りまして、それは大変だ、それこそわたしが、神信心までしてさがしている女房なのだ、というわけで、さっきも申しましたとおり、その取り立ての取り消しに、こうして駈けつけてまいりましたようなわけで――ところが、そのこちら様に、当の高音が御厄介になっておろうとは、いやどうも、近ごろ不思議なまわり合わせでございましたな」
 長ながと弁じ立てながら、この、あとのほうの、当の高音がこちら様に御厄介というところに、ちょっといや味を持たせて、それとなく探るように、惣七を見ていた眼を、ちらっとお高へ走らせた。
 惣七は、石になったように動かなかった。
「ほかにも、取り立ての御依頼があるとのおことばだが、近ごろお店からまいっているのは、この一件だけです」
「ははあ。それなら、今明日中にでも、続々お願いしてまいることと存じます。その節は、どうぞよろしく」
「いや。手前のほうこそ」
 と、さりげなく応対しながら、若松屋惣七は、あたまのなかで考えていた。いま、たとえこの男を、刀にかけてぶったってみたところで、面白おかしくもない。野暮の骨頂であるのみか、公儀のほうもむつかしい仕儀になって、かえって事態を悪化させるばかりである。
 それよりは、相手も商人、こっちも商人、それなら、いっそのこと商道で争ってやろう。剣のかわりに算盤そろばんで渡りあうのだ。刀を小判に代えて、斬り結ぶのだ。そうだ、面白い。こいつを向こうにまわして、知恵をけずろう。掛け引きでいこう。若松屋が倒れるか、磯五の屋根にぺんぺん草がはえるか――これは、われながら大芝居になりそうである。
 と気がつくと、若松屋惣七は、即座に顔いろをやわらげていた。
 磯五がいっていた。
「おわかりくださいましたか」
 惣七は、上を向いて笑った。
「いや、よくわかりました」と彼は、こともなげにつづけて、
「それはそうと磯屋さん、そんなら、この二百五十金は、まあ、棒引きでございましょうな」
 磯屋も、にっこりした。
「申すまでもござりませぬ。手前のほうからいい出して、それはまあ、すっぱりと、なかったことにしようと考えておりましたところで――これに、証文がござります。焼くなり破るなり、どうぞ御随意に――」
 磯五は、ふところを探って取り出した一札を、若松屋惣七のほうへ押しやった。

      四

「さすがおわかりが早い。恐れ入った御挨拶で――」
 若松屋惣七は、手をおろして、取ろうとした。その手を、磯五が押さえた。
「お待ちください」
「はて!」
「若松屋さんはおわかりくだすったが」と、磯五は、あらためてお高のほうへ、「お前はどうだ。お前もわたしの話がわかってくれたろうな」
「知りませぬ」
 きっぱりいい放って、お高は、高いところへ上がったように、眼がくらむ感じがした。若松屋惣七には、お高は、三年ぶりに別れていた良人に会っても、何の感情もないもののように感じられた。憎しみも恨みもないようすなのだ。磯五に対する限り、お高のこころは死灰しかいのようになっているのであろうか。
 それも、むりはない。出て行けがしにしたあげく、有り金をさらって逐電した良人である。こうして再び顔が合ったところでふたりのあいだは、他人以上につめたいのかもしれない――若松屋惣七は、いろいろに考えた。
 一枚の証文のうえに、惣七と磯五と、二つの手が重なったまんまだ。
 惣七は、ほのあたたかい磯五の手を感じた。白い、やわらかな手だ。はげしい労働や武術を知らない手だが、これは弱いようで、強い手である。一つの目的を達するためには、すべてを犠牲にするだけの熱をもっているのだ。水のように弱い。しかし、やどり木のように強い。宿り木は、執拗しつようにまつわりついて、ときとして、大木の精分を吸いとって枯らすことさえあるのである。
 惣七が、こんなことを考えたのは、ほんの一瞬だ。磯五が、証文の一端を押さえて、ささやくように、低い声でいっていた。
「この証文を御処分願う前に、一こと伺いたいことがございます――正式に離縁状が出ていない以上、たとえ何年別れておりましても、妻は妻、良人は良人でございましょう?」
「もとより」
 たたみの上の一枚の紙を、両方から押さえているので、顔が寄っていた。今にもがらりと伝法に変わりそうな磯五のようすに気づいて、若松屋惣七は、心がまえをした。早い殺気が、ひやりと流れた。
「この証文をお渡しするかわりに、ひきかえに高音をいただいて参ります」
「それは、御勝手です」
「が、知らぬは亭主ばかりなり――そんなようなことですと、磯屋五兵衛も顔が立ちませぬので」
 お高はあっと出ようとする叫びを、たもとで押さえた。惣七はあおい顔を笑わせた。
「ははは、何のことかと思えば――すてた女房に出会った照れかくしに、話しあいで旅に出たのだの、江戸へ帰ってからさがしておったことのと、調法な口をならべるばかりか、今また、あはははは磯屋さん、あんまり笑わせないでください」
「それでは、いっさいひょんな関係かかりあいはないとおっしゃるので――?」
「御冗談を。このお高は、ただいま手前が女房同様にしている女でございます」
 平然といってのけると、若松屋惣七は、証文を持った手を引いて、びり、びり、と細かく破り出した。
 磯五も、平気で起ち上がっていた。二、三歩、惣七のまえへ進んだ。
「若松屋さん、間男まおとこの成敗だ。ちっと痛かろうが、がまんしていただきましょう」
 いきなり、こぶしを振り上げて、若松屋惣七の横面を打った。あっと叫んで、狂気のようになったお高が、ふたりのあいだにころがりこんだ。
「何をなさいます! 旦那さまは、どんなにわたしにお情けぶかくしてくださいましたことか、そのお礼も申し上げずに、お眼の不自由な旦那様を、ぶつとは何事です!」
他人ひとの女房にやたらになさけぶかくされて耐まるものか。高音、そこのけ!」
「いいえ、お前さまこそ、人でなし! わたしをあんなひどいめに合わせておきながら、さっき黙って聞いていれば、待っているようにといい残して旅に出たとは何といういいぐさです! あちこちさがしていたなどと、うそをつくにもほどがあります! ――」
「ええっ! うるさい」
 磯五は、お高を振りのけて、また惣七へ迫った。惣七は、平然とお高をかえりみた。
「心配いたすな。間男といえば、間男に相違ないのだ。痛くもない。なぐらせてやるのだ」
「何をへらず口を!」
 磯五の拳が、あられのように惣七の面上に下った。惣七は、磯五の手をよけようともせずに、しっかりすわって、しずかに証文を破っていた。蒼白く笑っていた。
「佐吉、国平、刀を持て!」
 彼は、そう叫びたかったが、何か考えでもあるのか、そう叫ぶかわりに、じっとくちびるをかんで、磯五の拳を受けつづけていた。
「ああ、すまない! それではすみません!――」
 お高が、泣きじゃくって、再び磯五にむしゃぶりついたが、たちまちはねのけられてしまった。
 お高の泣き声と、磯五が若松屋惣七をなぐる音とが、しばらく入りまじって聞こえていた。
 磯五がなぐり終わったとき、惣七は証文をやぶり終わっていた。
 惣七は、手の上の紙きれをふっと吹いた。雪のように飛んだ。惣七は、ところどころ色の変わった顔を上げた。笑っていた。
「磯屋さん、もういいのかね?」

      五

 若松屋惣七という人間は、妙な人間だ。ときとして、こんなに鉄のように固いのだ。すこしも感情を外へあらわさない。茶坊主あがりのならず者磯屋五兵衛も、さすがにうす気味わるくなったものか、なぐっていた手を引っこめて、あきれたように、惣七を見た。
 惣七は、にこにこしていた。磯五は、泣きくずれているお高を引っ立てて、早々に帰ろうとしていた。彼は、惣七とお高のまえにうそ八百をならべたものの、じつは、女房の高音と知りつつ二百五十両を取り立ててもらうつもりで、なおよく頼み込みに自分で若松屋へ出かけて来たのだが、そこで思いがけなく高音のお高に会って、引っこみがつかなくなり、証文を棒に振ったくやしまぎれに、間男をいい立てて惣七をなぐったのだ。
 彼は、これを種に、いずれ若松屋をいたぶるつもりでいるのだが、今は、いくらなぐっても、相手が平気に澄ましているから、始末がわるい。一つどうんと惣七を蹴倒けたおしておいて、お高を促して部屋を出ようとした。
 お高は、泣いて、惣七に取りすがっていた。
「旦那さま、ああいう乱暴者でございます。わたくしのことから、とんだめにおあわせ申して――何か話があるから、店へ来るようにとか申しております。ちょっと行って参ります」
「ああ行きなさい」若松屋惣七は、何ごともなかったように、けろりとしていた。「もう帰って来んでもよい。もちろん、帰ってこんだろうが、帰って来ないでも、わたしは困らぬというのだ。安心して、磯屋さんのいうとおり、またいっしょになれるものなら、いっしょになったがよかろう」
「いいえ。そんなそんな悲しいことをおっしゃらずに――お高は、きっと帰って参ります。おそくとも、必ず夕方までに帰って参ります」
 そういって、お高は、磯五の待たしてあった駕籠かごに乗せられて、金剛寺坂の家を出たのだった。若松屋惣七は、つるりと顔をなでて、すわったまんまだった。若松屋惣七は、へんないきさつから、長いあいだの夫婦喧嘩ふうふげんかに飛びこんだようなもので、要するに、自分には何の関係もないことなのだ。
 何といっても、磯五とお高のあいだには、夫婦としての共通の理解も感情もあろう。それに、お高のこころは、事実、磯五に傾いている。自分はひっきょう用のない第三者なのだ。そう思うと、磯五の売った喧嘩を買って出る勇気もないほど、はやさびしい気もちに打ちのめされていたのかもしれない。
 むっと、土のにおいのするざしだ。
 濃い影を地面におとして、お高の乗った駕籠は、上水とお槍組やりぐみのなまこべいのあいだを、水戸みと様のお屋敷のほうへくだって行った。磯五が、顔を光らせて、駕籠のそばにぶらぶらついて行った。ふところ手をして、黙りこんでいた。
 お高も、駕籠に揺られながら、黙って、頭は、いま残して出て来た若松屋惣七のことを考えていた。あんなに打たれて、何ともないかしら? なぜあの方は、立ちむかおうとなされなかったのだろう? 悪いお眼が、いっそうわるくならなければよいが――自分のことを、いったい何と考えていられるであろう?
「高音、しばらく見ぬうちに、おそろしく容子ようすがよくなったじゃないか」
 駕籠のそとから、磯五がいっていた。お高は、答えなかった。
「おれもまあ、上方かみがたのほうで、いろんな人間にもまれて、ちっとは変わったつもりだが――おい、久しぶりに会ったんだ。あんまりうれしくねえこともないだろう。そういやな顔をするなよ」
「知りませんよ。ちっともうれしくありませんよ」
「御あいさつだな。おめえ何か、あの御家人くずれのめくら野郎に、れているんじゃああるめえな」
「何という下素げすなもののいい方です。ちっとも昔と変わっていないじゃありませんか」
「そうかな。これでも、酒だけはよしたよ」
「あら、お酒を? まあ、どうしてよしたの」
 お高はあれだけよせなかった酒をよしたと聞くと、ちょっと世話らしい興味が動いて、思わずきいた。
「大病をしてなあ。死ぬか生きるかだった」
「どこで?」
泉州せんしゅうさかいだったよ」
「まあ――」
 ちょっと、しんみりした空気のまま、またしばらく黙って歩いた。磯五が、いった。
「あいつ恐ろしくがまんづよい奴じゃないか。見上げたもんだぜ」
 駕籠の中から、甲高かんだかい声が、走り出た。
「若松屋さんのことなら、もう何にもいわないでください――」
 磯五は、声をたてて笑った。

      六

 日本ばしの通りを行って、式部小路へまがった。町家ならびだ。天水桶てんすいおけと金看板の行列に、陽が、かんかん照っている。磯五は、手をあげて、むこうの一軒をゆびさした。
「あれだ」
 紺の暖簾に、いそやと出ている。間口のひろい、立派な店である。客も、出はいりしている。駕籠がとまると、小僧や手代が、うす暗い土間の奥から、旦那おかえりと声をそろえた。
 お高は、磯五に案内されて、横手の通用口からはいって行って、すぐに、奥まった一間に通された。あるじの居間らしい部屋だ。きちんと片づいて、贅沢ぜいたくな調度が置かれてある。
 せせこましい中庭をへだてて、店のさわぎが、手に取るように聞こえていた。客に接している番頭が、長い節をつけて品物の名を呼ぶと、小僧が、間延びした声でそれに答えながら、蔵から反物たんものをかつぎ出すのである。おとくいには茶を出すらしく、茶番よう! と呼ぶ声も、のどかに聞こえて来ていた。
 すわるとすぐ、お高の顔をのぞきこむようにして、磯五がいった。
「なあ、よく、話し合って理解をつけようじゃないか。まあ、よろこんでくれ。知ってのとおりのやくざでお前にもしじゅう心配をかけたが、どうやらおれも、これで身が固まったようだよ。おかげで、今ではこのとおり、江戸でも名の売れている大商人だ。
 なあ、お前にだって、これからはつらい思いをさせやしない。何も、あの小石川の奥へ帰って、あんなめくらなんぞのきげんをとることはありはしないのだ。どうだ、おれといっしょに、ひとつ、この大屋台をしょって立とうって気はないか」
 ほん心かでたらめか、それとも、久しぶりに見るお高に、あたらしく心をひかれかけているとでもいうのか、磯五は、ふとこんなことをいいだした。そしてまんざら出放題ほうだいでもないらしく、こうつけたした。
「やりようによっちゃあ、この店は、ものになると思うんだ。そこで、お前は字がいいし、それに、数理にあかるいから、帳場にすわって、おかみさんとしてにらみをきかしてもらいてえと思うんだが、相談だ。どうだい」
 お高は、そっけなく、わきを向いた。
「いやでございますよ。お前さんというお人にはこりごりしていますからね、またどこに、どんなわるだくみがあるか、知れたものじゃあありません。お断わりしますよ」
 磯五は、そういうだろうと思っていたというようにおだやかに笑った。
「いや、話せば長いことだが、いい手づるがあってなわたしに、衣裳の流行はやりに眼があるというんで、友だちやなんか、いろいろ骨を折ってくれる人があってな、金を工面くめんして、この磯五をそっくり買いとってくれたのだよ。まあ、金主がついて買ったようなものだが、わたしの店は私の店なのだ。だから、力の入れがいも、あろうというものだ」
 お高は、つと磯五を見た。
「もう何も知りたいとは思いませんが、きくことだけは聞きますよ」
「何だな、あらたまって」
「わたしがこの磯五の店から買い物していたことは、お前さまよく知っていなすったろうに」
「うん。いろいろ買っておったことは知っていたが、借りがあるとは知らなかった。お前の金で、払ったのだろうと思っていた」
「その私のお金を、あなたが持って行ってしまったのではありませんか。どうして払えるものですか」
「まあ、そんなこというな。あの金は、いまでも返すよ」
「いりませんよ、あんなお金――」
「そうけんけんいうな。それより、おれはこの店全体をお前と二人でやって行こうといっているのだ」
「何のことですの、それは」
「つまり、よりを戻そうというのだ――なあ高音、おれは、お前に会いたかったよ」
 お高は、眼を伏せた。肩が、大きくなみを打っていた。磯五は、そのようすを見て、ひそかにほほえんだようだった。
「高音――」と、彼は、声を沈めて、いざりよった。お高も、男のほうへ、一、二寸引かれたようだった。
「なあ、またいっしょに住もうじゃないか。これだけの大店おおだなが、みんなお前のものなんだ。おれも、昔のままのおれではないつもりだ。な、高音、もとどおり、おれんとこへ帰って来てくれよ」
 ねこのような磯五の声が、お高の耳に熱く感じられた。お高は、思わず、彼の膝へ手を置こうとしていた。
 廊下にあし音がして、小僧が顔を出した。問屋の使いが、至急の用で、ちょっと会いたいといって待っているというのだ。磯五は、すぐ帰ってくるとお高にいって、あたふたと部屋を出て行った。
 ひとりになると、お高のこころは、また金剛寺坂へ飛んでいた。惣七のことが、すうと入れかわりに、彼女のあたまを占めだした。
 そのとき、音もなく縁から人がはいって来た。金のかかったなりをした、四十あまりの大年増おおどしまだ。
 それが、お高の前に丁寧に指をついて、こう挨拶をはじめた。
「いらっしゃいまし。旦那のお妹さんでいらっしゃいますか。おうわさはしじゅう伺っております。わたくしは、磯屋の家内でございます――」


    妹


      一

 おせい様が、わたしは磯屋の家内でございますと挨拶すると、客の若い女はひどくおどろいたようすなので、おせい様はあわてていい直した。
「いえ、まだ、家内――ではございませんが、近いうちにこちらへ参ることになっております。五兵衛さまといっしょになるはずになっておりますのでございます」
 女房だといい切ったのを、いい過ぎたと思ったらしく、おせい様はあかい顔をして自分のことばに笑いながら「こちら様は五兵衛さまのお妹さんでございましょう?」
 お高は、びっくりした。三年前に自分をすてた良人だ。それが突然、江戸有数の太物商磯五の旦那として現われたのみか、たった今自分に、すべてを忘れてもとのさやにかえってくれ、そうして内儀として、当家ここの帳場へすわってくれと、あんなにおもてに実を見せていい寄ったばかりなのに、いまこのひとが出て来て、近く磯五の女房としてここへ迎えられるはずだというのは、どういうことであろうか。
 それに、五兵衛の妹というのは? ついぞ聞いたことはないが、あの人に妹があったかしら? とっさのことで、お高はさっぱり判断がつかなかった。
 磯五が、すぐ来るからといって出て行ったあとだ。お高は、この人はまあいつのまに、そしてどんなみちを通ってこんな大店おおだなのあるじとまで出世をしたのであろう? いぶかしく思いながら、何からなにまで珍しい心持ちでそこらを見まわしていた。
 瞬間だったが、金剛寺坂の静かな生活が、こころにひらめいて、ひとり残して来た若松屋惣七を、なつかしいと思った。若松屋惣七の長いこわい顔が、眼のまえを走り過ぎた。黙って磯五にぶたれていなすったようすが、いたましく思い出された。日ごろの惣七の気性を知っているので、あのことから何か恐ろしいことになりそうな気がして、ぞっとした。そこへ、いきなり人影がさして、おせい様がはいって来たのだ。
 おせい様は自分のうちのように誰にも案内されないで、すべるようにこの部屋へはいって来てすわったのだ。おせい様は三十五、六のしとやかな女だ。美しい人で、にこにこしている。おせい様は鼠小紋ねずみこもんの重ねを着て、どこか大家たいけの後家ふうだった。小さくまとまった顔にくちびるが、若いひとのようにあかいのだ。
 おせい様は、磯五といっしょになる約束のできていることを、誇らずにはいられないのだろう。そんなようすに見えた。磯五のことをいうときは、さざなみのような小皺こじわの寄っている眼のまわりに、さくらいろのはじらいがのぼるのだ。うれしさを隠そうともしないのだ。
「ほんとに五兵衛さまは、お立派な方でいらっしゃいますよねえ。何から何まで気のつく、いい方でいらっしゃいますよね。よく妹さんのおうわさをしていらっしゃいますでございますよ。あなたといういいお妹さんがあるから、商売のほうもちょくちょくからだを抜くことができて、たいへん楽だと口ぐせのようにおっしゃってございますよ」
「何かのお間違いでございましょう。わたくしはあの人の妹ではございません」
「あら、お妹さんでないとおっしゃると、すると――」
「ちょっといの者でございます」
 おせい様は、にっこり笑った。
「ああわかりましたわ。このお店を切り盛りしていらっしゃる妹さんのお友だちの方でございましょう」
 五兵衛に妹があってその妹がこの磯屋を経営しているとは、お高ははじめて聞いた。お高は不思議な気がしてきた。
「妹さんのことは存じません。わたくしはここの親類の者でございますが、しばらく交際つきあいが絶えておりましたので、このごろのことはいっこうに存じません」
 おせい様は、お人好しで話好きなのだ。問わず語りにいろいろなことを話し出した。どうしても呉服の鑑識めききにはその方面に肥えた女の眼が必要だ。この磯屋も五兵衛の妹が中心になってやっているので、五兵衛はおもてに立って仕事を片づけているに過ぎない。五兵衛もなかなか流行はやりの色や柄を考案することにかけては妙を得ていて、このごろでは、江戸の女物のはやりはすべてこの式部小路から出るといわれているほどである。
 自分は、良人に死なれてから、大きな財産をひとりで守ってきたが、あの五兵衛のような人なら、二度の夫に持ってもいい。そのうちに磯五の内儀となって立派に披露もし、財産もみんなこの磯屋の商売へつぎこむつもりでいる。五兵衛さんも進んでいるが、わたしも進んでいる。ふたりは恋仲でございますといわんばかりに、おせい様は、あけすけに何でも話すのだ。

      二

 お高は、何にもいえなかった。弱々しいおせい様が、あまりにうれしそうに輝いてみえるのだ。そういうおせい様は、まるで十七、八の花嫁さまのように美しいのだ。お高は不思議なものにかれたような気がして、このおせい様の前に、自分がすでに磯五の妻であるとはどうしてもいえなかった。
 男が家出してから今まで三年のあいだ別居してきはしたものの、そしていくら音信不通だったとしても、磯五自身が若松屋惣七にいったように、去り状というものをもらっていない以上、じぶんはやっぱり磯五の女房であることに変わりはない。現に磯五も、それをいい立てて自分を金剛寺坂からここへつれて来て、たったいま、もとどおりになってくれと頼んでいる最中に、ちょっと中座したばかりではないか。
 それなのに、このひとは、どこからか、ひょっこり現われて、夫婦約束をかわしたとか何とか、もうあの人を良人扱いにしている――お高は、夢をみているような心持ちがして、これは何かのまちがいであろう。今にもあの人が帰って来ればわかることだと思いつづけた。
 お高にはわからないのだ。が、これが若松屋惣七なら、おせい様を一瞥ひとめ見ただけで、すべてがわかるはずだ。磯五としては、やりそうなことなのだ。
 すこし苦味の加わったくどき上手じょうずの色男が、この茶道あがりの磯屋五兵衛である。女盛りに良人に先立たれて、子供もなく、小判の番人をしているだけで、こころのやり場がなかったのがおせい様だ。ことに、この年までほんとに愛したことも、愛されたこともないおせい様だ。磯五に会ってはじめて、男を想うことを知ったといってもいいのであろう。
 この人のいいおせい様を、女たらしの磯五が巧みにくどいて、夫婦約束までして、色仕掛けで金を絞ろうとしているこんたんや、そのあぶらっこいくどきの場面が、まるで浄瑠璃じょうるりにかけるように、眼に見えるような気がするのだ。
 もちろん磯五は、恋というものをに、おせい様のまごころをあやつって、金を吐き出させようとしているだけのことなのだ。中年女の激しい恋だ。金が眼当ての磯五の色細工などには気がつかずに、おせい様は、一すじに磯五を思って、要求するものは何でも与えようとあせっているのである。
 おせい様が大家たいけの人であることは、身なりを見てもわかる。よくあるたちのわるいやり方で、この磯五の店を買いとった金も、おおかたおせい様から出ているのであろう。磯五が女殺しであることは、顔や風体や弁舌だけでもわかるが、彼はこうして、女の生き血を吸って生きているのだ。世間知らずの単純なおせい様のこころは、もうすっかり磯五にしてやられて、ほんとにいっしょになる気でいる。いっしょになって、自分の財産の全部を、男の愛のために、よろこんでほうり出す気である。
 今のおせい様には、何とかして磯五をよろこばせるほか、何の目的もないのだということが、世の中のうらおもてを見てきている若松屋惣七には、たとえ眼は不自由でも、磯五という人物の解釈から、瞬間にして看破することができたであろうが、お高は女で、年も若いし、それになんばなんでも磯五がそんな悪辣あくらつなことをしようとは思わない。
 自分をすてて逃げたのだし、自分もいまもとの関係へかえろうとは思っていないが、それにしたところで、ほかに夫婦約束ができるわけのものではない。そう思った。うつむいて、黙っていた。
 話し相手を見つけたうれしまぎれが、おせい様をひとりでしゃべらせていた。
「去年わたしがお伊勢さまへおまいりしましてね、大阪へ遊びに寄って、あの人に会ったのでございます。あの人は堺で大わずらいをして、そのときわたしが看病をしました。おや、あの人はどこへ行ったのでございましょう。此室ここにいると小僧さんがしらせてくれましたので、おどろかしてあげようと思ってこっそり来たのでございますがねえ」
「ほんとにねえ。今までここに話しておりましたのでございますが、どうしたのでございましょう。ちょっとわたくしが見て参りましょう」
 お高は、ゆらりと起ち上がった。

      三

 お高は、ここでおせい様と話しているところへ、磯五に帰って来られてはたまらないような気がした。どうしたらいいかわからないと思った。おせい様は磯五という人間を、神様や仏さまのように考えているらしい。そのおせい様のまえに、ぎっくりしてまごまごしている磯五を見せることは、おせい様にすまないとお高は思った。
 縁へ出ると自分のはきものがあった。それを突っかけてはいって来た横丁づたいにおもての往来へ出た。
「まあまあ、そのうち見えますでございましょうよ。わざわざあなた様に呼びにいらしっていただかなくてもよろしいんでございますよ」
 うしろで、少女こどものように邪気のない、おせい様のほがらかな声がしていた。ああいう人をだますなんて、空恐ろしいとは思わないかしらとお高は思った。
 お高は一度往来へ出て、そこからそれとなく店をのぞいてみるつもりだった。何だか、わるいことをしているようで、ためらいながら、式部小路の通りまで出た。白く乾いた地面に日光が揺れていた。かた、かた、かたと金具を鳴らして錠剤屋じょうさいやが通り過ぎた。色の黒い錠剤屋が汗ばんだ額を光らせて、ちらとお高を見て通った。すぐあとから、尾を巻いた犬が、土をかいでいった。
 日本橋の通りに、大八車がつづいていた。近所に稽古屋けいこやがあるに相違なかった。女のの黄いろい声とお師匠さんの枯れた声とが、もつれ合って聞こえてきていた。お高は、そっと店の前へまわろうとした。
 磯屋の前は、ちょっとした空地あきちになっていた。小松が二、三本はえていた。これから普請ふしんにでも取りかかろうとしているのだろう。まばらな板囲いがまわしてあって、材木などが置いてある。
 その囲いのなかの、磯屋の店からはちょうど仮塀のかげになって見えないところに、ちょっと人が動くのが見えた。お高のところからは、横からすかして見るようなぐあいになるので、板がこいの隙間すきまから見えたのである。お高は、人のいない空地に何かのうごきが眼にはいったので、そのまま磯屋の天水桶のかげにたちどまってそっちのほうを見た。
 磯五が、誰か若い女と話しこんでいた。向こうからは磯屋の陽影になっていて見えないのだが、こっちからは、板と板の合わさっている角度によって、よく見えるのだ。磯五と女は、見ている者がないと安心して、抱き合わんばかりにからだを寄せて、何か熱心に話し合っては、声を殺して笑っているのである。
 女は、芸者にしてはけばけばしい姿なりをしているが、どこか素人しろうとらしくないところの見えるのは、女歌舞伎かぶき太夫たゆうででもあろうかとお高は思った。黒い豊かな髪をきれいに取り上げた、すんなりと背の高い女だ。笑うたびに肩から腰を大ぎょうに波うたせて、色好みの男の玩弄おもちゃにまかせてきたらしい、しなやかな胴である。
 いやみったらしい女だと思うと、お高は、自分がひとのことを隙見しているのに気がついて、はっと気がとがめた。いやしいことだと思って、顔が赧くなった。が、いま動けば磯五に見つかると思って、足がくぎづけになったようで動けなかった。かえって、どうにかして女の顔を見てやろうと思って、いろいろに角度を計って首をうごかしていた。
 女は、一生懸命に磯五のいうことを聞いているふうだった。するとうつむいてはきものの爪先つまさきで小石をもてあそびながら女が向きを変えた。顔が、お高に見えてきた。お高は、その女があまりに美しいので、急に何か光るものを見たように、眼さきがきらきらとした。それほど色の白い、ほっそりした美人であった。
 しかし、眼鼻だちがくっきりあざやかで、大きな眼が、何かしきりにうなずきながら、ほれぼれと磯五をみつめていた。あごを襟へうずめて、上眼づかいに男を見あげているのだ。そのようすは、女のお高にも悩ましくうつって、いっぽうには、これはいよいよただ者ではないと思わせた。そして、この女も磯五に想いを寄せていて、磯五のためには何でもしようとしているのであることが、磯五を見る女の眼つきから、お高はすぐに読みとることができた。
 お高は反射的に、奥の居間に待っているおせい様のことを思った。また、おせい様のことばかりではなく、さっきよりを戻してくれと磯五にくどかれたときに、あやうくそれに傾きかけたじぶんの心をも思い返していた。お高は、それを思って、ぞっと寒けのようなものに襲われた。同時に、どうしてあの磯五という人には、女という女が心を傾けるのであろうかと不思議に思った。
 その、女をひきよせる磯五の力が何であるのか、わかっているようで、お高にもよくわかっていなかった。それは、お高も、一方では唾棄だきしながら、他方では理窟りくつなしに、多分にひかれているひとりであるために相違ない。しかし、このときは、自分のほんとの場処は、あの、小石川の森の奥の、金剛寺坂の若松屋惣七さまのおそばなのだ。そのほかにはないのだと、お高はつくづく思った。そう思うと、あぶないところを救われたような気がした。
 と、磯五からはもう千里も万里も遠のいたようなこころになって、あとのほうは、女をも磯五をも、お高は平気で見ていることができた。ただあのおせい様のことだけが、自分の責任か何ぞのように、たまらなく気の毒に思われてきた。
 磯五は、女のむっちりした肩に手をまわして、何ごとか耳へいっていた。それが、お高のところからは、女の耳をなめているように見えた。あの人はよく自分にもああしたことがあるとお高は思った。そう思っても、もうべつにいやな気もしなかった。何だか芝居を見ているようで、のぞき見しているのが面白くなってきた。
 女は、白い歯を見せて、もたれかかるように笑っていた。合点々々をしていた。ふたりのからだが、別れた。女は不服そうにちょっとからだをよじっていたが、やがて、磯五がしかるように何かいうと、やっと別れることを承知したとみえて、白い顔を振り向かせながら、空地の裏の板塀のこわれを抜けて、むこうの横町へ通ずる小路を、いそぎ足に立ち去っていくのが見えた。
 磯五は、離れていく女を見返りもしなかった。ちょっとあたりをうかがって、人通りがないと見ると、するりと小松の下の囲いをくぐって往来へ出て来た。磯五の店でも、誰も気がつかなかった。この以前、二人が別れそうなようすを見せだしたときから、お高は、見つからないように天水桶に身をかばって、そっと磯屋の横の路地へ引っ返していた。
 だいぶ引っかえしたとき、うしろに磯五の跫音あしおとがした。いつものやさしい声だ。
「お高じゃないか。何しにこんなところに出ているのだ」

      四

「お前さまをさがしに出たのでございます。後家さまふうのお客さまがお見えになりましたから」
「うむ。おせい様だろう。ちょっと知り人なのだ。気のいい面白いひとだよ。大事なおとくいでもあるし、いろいろとまた力になってもくださるのだ。御挨拶したか」
 案のじょう、そらとぼけていった。お高も、そのまま黙って並んで歩いて、おせい様から聞いたことも、いま空地あきちで女役者らしいひとと会っていたのを見たことも、いわなかった。いわないほうがいいし、いう必要もないと思った。
 狭い横町なので、並んで歩くと、磯五のからだに触れるのだ。いやな気がした。で、立ちどまって磯五を先へやって、二、三歩遅れて行った。磯五が、ちょっと気がかりなように、ふりかえってきいた。
「問屋の用というのが手間取ってな、届いた荷を見におもての土間まで行っていたのだ。だから、こっちをまわって来た。お前、おせい様に、何といって御挨拶をした」
「御心配なさらないでもようございます。何もいいはしません。こちらの親類のものだと申し上げました」
「おせい様何かいったか。あの人は、あたまの調子が変なときがあるのだ。ときどきつまらねえことをいいだすんでね、知らねえ人あびっくりすらあな」
「いいえ。何もおっしゃりませんでした」
「おせい様は商売のことでしょっちゅう見えるのだ。この磯屋の店へも、すこしばかり金を出してもらったことがあるのだが、そのために、自分の店みてえな顔をされるのには往生するよ。雑賀屋さいがやてえ小間物問屋があったのを知ってるだろう?」
「はい。駒形こまがたのほうでございましょう。何でも、小間物のほうでは老舗しにせだとか――」
「今はねえのだ。先代が死ぬと、子がねえので、これから養子をして気苦労をするがものもないといってな、おせい様が店を畳んでしまったのだ。だから、早くから山ほどの財産を後生大事に、若後家を通してきたのだ。今じゃあもう若後家でもねえが――」
 その山ほどの財産が目あてなのでございましょうとお高はいいたかったが、そうはいわなかった。
「あの人が雑賀屋のねえ」
「うむ。おせい様は雑賀屋の後家さんなのだ。その財産も、おおかたあちこちの資本もとでにまわしてあるのだよ。何でも、誰か人が立って、おせい様になりかわってそのほうのめんどうを見てるてえ話だ。おせい様にまかせられて、その男がおせい様の金を動かしているということだ。だいぶおせい様のために利をあげるてえことだから、かなり腕のすごい野郎に相違ねえのだ」
「そうでございますかねえ。その人は、腕もすごうございましょうが、ずいぶんと正直なお人でございますねえ」
「正直といえば正直だろうよ。あの、よろずにぼうっとしているおせい様の金を、長年預かって間違えのねえばかりか、いい利を生ましちゃあきちんきちんとおせい様へ知らせるというのだからな。小判を上手に使えば、小判が小判を生むのだ。その男は、しっかりそこらのこつを呑みこんでいて、おせい様に、遊びながらもうけさせてきたのだ。
 その男の扱い巧者で、先代ののこした雑賀屋の財産は、おせい様がふところ手をしているうちに、今じゃあもう、倍にはなっているだろうとのことだ。それも、きわだってどうしたというのでもねえ。そこここの小商人こあきんどに貸しつけて、うまく金の糸を引いただけだそうだから、まあこれは人のうわさだが江戸は広いや。えらいやつがいやあがる」
 めったに人をほめない磯五が、しきりと感心するのを聞きながら、お高は、それはきっとあの若松屋惣七さまであろう。若松屋様にきまっていると思った。それほど小判にかけての腕ききが、若松屋さまのほかにいようとは思えないからだ。お高は、自分がほめられているようでうれしかった。

      五

 ふたりは奥の居間のほうへ近づいていた。そこにはうわさのおせい様が待っているので、磯五は、そこから上がらずに、そっとお高を招いて、前の中庭を突っ切って行った。
 つき当たりにお稲荷いなりさんがまつってあった。そこらは、あまり手入れのしてないやぶになっていて、ひからびたお供物くもつなどののったさらが、土といっしょにころがっていた。お高は、もったいないと思って、そっと拾い上げてお稲荷さんの前へ持って行って置いた。
 ふたりは、がさごそ音がするのに気を兼ねながら、その薮を分けて、お稲荷さんの裏へ出た。そこも磯屋の庭つづきではあったが、すぐ勝手や風呂場ふろばに近くて、おんなや下男が多勢立ち働いているのが、あけ放した水口の腰高障子こしだかのなかに見えていた。たきぎを割る音や茶碗ちゃわんを洗う音もしていた。
 お高は、何のために磯五についてそんな物蔭ものかげまで来てしまったのか、自分でもわからない気がしたが、そこなら、ちょっとした木立ちにさえぎられて、勝手口からも店のほうからも見えないし、すこしぐらい大きな声をしても、居間にいるおせい様に聞こえそうもないので、安心して、磯五が何かいい出すのを待っていた。
 きっとさっきの自分にこの店へ来ていっしょに暮らしてくれという話のつづきであろうと思った。あんな女との立ち話まで自分に見られながら、またあのおせい様がすっかりしゃべったことも知らずに、何てこの人はずうずうしいのだろうと、お高はあきれて、すこしおかしくなってきた。早く切り上げて金剛寺坂へ帰りましょう。お眼の不自由な惣七さまは、わたしがいないで、誰のお給仕でお昼飯ひるを召し上がったろう?――佐吉かしら、国平かしら、それとも滝蔵――。
「なあ、お高、おれは真剣に相談しているんだが、おめえだって、あんなところであんなことをせずとも、おれのところへ帰って来さえすれあ、ここは呉服屋だ。着てえ物は何でも着れるし――ほんとに、お世辞じゃあないが、おめえはこのごろずんと女っぷりが上がりましたぜ。あのめくら野郎がほれこむのもむりはねえのだ。もっとも、めくら野郎にはおめえの美しさがよく見えねえかもしれねえが――。
 一度はおれも、なに、決して捨てたわけじゃあないが、ちょっとおめえを置きざりにしたことがある。それは許してくれよ。な、このとおり、を合わしてあやまっているのだ。ははははは、いや一度別れた女だけに、他人ひとのものになりかけているのを見ると、いっそうほしくなってきたのかもしれねえ。うむ、それが本当のこころかもしれねえ。これからはおれも、まじめにかせいで埋めあわせをするつもりだ。おめえに楽をさせるつもりだ。だからよお高――」
 なめらかにほほえみながら、つと手を取ろうとしたので、お高はぎょっとして手を引っこめた。
「いやですよ。もうそんなこと聞きたくもありませんよ。それより、おせい様ははじめわたしをお前さまの妹だと思って、そう御挨拶をなさいましたよ。お前さまには、妹さんがおありでございますか」
「うむ。妹のことをいやがったか。なに、妹なんかあるもんか。そんなもの、おめえの知ってるとおり、ありゃあしねえ」
「わたしはまた、別れてからあとになって、ひとり妹さんができたのかと思いましたよ、ほほほ」
「ふざけねえでくれ。実あこうなんだ。おせい様の手前、おれにあひとり妹があることになっているんだ。その妹が店の仕入れなど引き受けてやっている。おれはいわば後見をしているようなものだ――と、こうまあ吹っこんであるんだが、そういうことにしねえと、おれは根っからの呉服屋でねえことをおせい様は知っているから、男のおれが女の物を見立てるんじゃあ、おせい様があぶながって、ちいっとこっちに都合のわるいことがあるのだよ」
「お金の融通にさしつかえができるというのでございましょう、問屋の払いや何か――」
「察しがいいや。さすがめくら野郎に仕込まれただけあるぜ。いよいよ店へ来て、その腕をひとつ、磯五の帳場でふるってもらいてえもんだなあ」
「まっぴらでございますよ。わたしはお前さまとくらすくらいなら、死んだほうがましでございますよ」
「そりゃあお前、あんまりな御挨拶だぜ」
「あんまりでも何でも、これが真心ほんしんでございますよ。きょうあの二百五十両の借りというひょんなことから、三年ぶりにお前さまにお眼にかかって、お前さまはあの借りを帳消しにしてくださいましたし、わたしはお前さまが持って出た二千両を今あらためてさしあげましょうと申しているのでございますから、もう両方に何のいいぶんもないはずでございます。
 でございますから、どうかこのうえは、わたしに去り状をくださりませ。そのうえで、はっきり申し上げたいことがあるのでございます」
 お高は、いつのまにか真っ蒼な顔になっていた。

      六

「なに、三下り半をよこせってえのか」
「はい。さようでございます」
「読めた。そいつを取ったら、大いばりで、あの若松屋へ乗りこんで、めくら野郎といっしょになろうてんだろう」
「いいえ、そのまえに、お前さんから離縁状を取ったなら、お前さんにしてあげることがあるのでございます」
「おれにすること? 何をしようというのだ」
「離縁状さえ渡していただけば、もう妻でも良人でもないのでございますよ」
「それはそうだ。そのための離縁状だからな。で、妻でも良人でもなくなったら、おめえはおれに何をしようというのだ」
「お前さまが若松屋さまをおぶちになった数だけぶち返してあげるのでございます」
「ふうむ、てめえ、いよいよあの若松屋にまいっているな」
「そんなことはよけいなことでございますよ。どうでもよろしゅうございますよ」
「うんにゃ。よかあねえ」
「さあ早く去り状をお書きになってくださいませよ」
「書かねえ」
「え? お書きになってくださらないのでございますか」
「書かねえ、決して書かねえ。意地になっても書かねえからそう思え」
「意地になっても書いてくださらないとは、ずいぶんまたわけのわからないお話でございますねえ」
「わけがわかってもわからなくっても書かねえといったら書かねえのだ」
「それはいったいどういうお心からでございます。若松屋さまをおぶちになった数だけ、このわたしにぶたれるのが、そんなにこわいのでございますか」
「てめえを若松屋へくれてやるのがいやなのだ。といったところで、今までだって他人じゃああるめえが――」
「若松屋さんとわたしは、今までのことは今までのこととして、お前さまがわたしに去り状を一札書いてくだすって、若松屋さんをおぶちになった数だけわたしがお前さまをぶち返せば、わたしは決して金剛寺坂へ帰りは致しませぬ」
「どうするのだ。うふっ、尼にでもなるというつもりだろうが、その手に乗るおれじゃあねえんだ。離縁状を握って、おめえが若松屋へ飛び込んでいくのは、おれには眼に見えているんだ」
「では、どうあっても、去り状はお書き下さらないとおっしゃるのでござりますか」
「いや、書く。書こう」
「え! お書きくださいますか」
「うむ。書こう。離縁状を書いてやろう」
「それでは、あの、ほんとに書いてくださいますのでございますか」
「いかにも書こう」
「そうでございますか。ではすぐ――」
「待て!」
「ほら、いま書いてやろうとおっしゃったのは嘘でございましょう」
「いや、書く。望みどおりに縁切り状を書いてやる。そのうえで、おれが若松屋をなぐった数だけ、お前になぐられもしょう」
「それはほんとでございますか」
「うそはいわねえ。が、そのかわり、こっちにも一ついいぶんがあるのだ」
「はい。そのいいぶんと申しますのは?」
「おれがおめえのいうなりにするように、おめえにも、おれのいうとおりになってもらいてえのだ」
「それは、何でございますか」
「おれの妹になってもらいてえのだ」
「妹さんに?」
「そうだ。無代ただでとはいわねえ。大枚の給金をやろう。妹料だ。どうでえ」
「そして、その妹さんに化けて、わたしは何をするのでございますか」
「何もするこたありゃあしねえ。ただおれの妹だといってすわっていりゃあいいんだ」
「そして、お前さまがおせい様から、お金をまき上げる種に使われるのでございましょう。おおいやだ! わたしにはそんな大それたことはできませんでございますよ。お断わり致しますよ。それに、さっきおせい様にお眼にかかりましたとき、わたしはお前さまの妹ではないと、はっきり申し上げたのでございますからねえ。そんなに、妹でなかったり、妹であったり――誰でもおかしく思いますよ。いやでございますよ」
「なあに、おせい様には、たとえ何といったところでおれの口一つで、あとからどうでもなるのだが、すりゃてめえは、どうあっても妹に化けるのはいやだというんだな」
「まあ、せっかくでございますが、お断わり致しますでございますよ」
「金になる口だぜ、おい」
「お金なんかほしかございませんよ」
「よし。そんなら、こっちもせっかくだが離縁状を書くのは取り消しだ」
「はい。結構でございます」
「妹は、こっちでさがすからいいや」
「いろいろとお心当たりもございましょうからねえ」
「お高、これから、金剛寺坂へ帰るのか」
「はい。何ぞおことづけでもございますか」
「恨みがあるなら金でこいと、めくら野郎にそういってくれ。これから、若松屋と磯屋はかたき同士、ひとつ小判で張り合って、どっちが立つかへたばるか、智恵くらべをしようと、な」
「はい。承知いたしました。若松屋様になりかわりまして、高からもそう申し上げようと思っておりましたところでございます」

      七

 お高が、小石川上水にそった金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ帰って来たのは、夕方だった。ここらに多い屋敷々々の森が、あいをとかしたような暮色を流しはじめて、空いちめんに点を打ったようにからすが群れていた。
 お高は、じぶんの立場と心もちがはっきりして、いつになくすがすがした気もちだった。足早に坂を登って行った。この辺は、下町から来ると、まるで山奥へでも踏みこんだようなしずかさだった。お高は、何となくこころ楽しく、その静寂を、しみじみと呼吸した。
 見慣れた若松屋の門が見えてくると、たまらないなつかしい気が、ぐんぐんと胸へこみ上げてきた。それは久しく遠国に旅をしていた人が、何年ぶりかにわが家へ帰って来て、出発のときと変わらない門口の模様を発見したときの、あの妙に白っぽい、不思議な昂奮こうふんに似ていた。お高は、大声をあげて泣きたかった。大声をあげて笑いたかった。両方だった。
 が、何となく面はゆくて、いつもの内玄関からははいれなかった。で、裏へまわった。ひっそりしていた。佐吉や国平も滝蔵も、そこらに姿を見せないのだ。御飯でもいただいているのかしら。お高は、そう思った。もしそうだったら、下男部屋の前を通るときに、そっと三人に、旦那様のごきげんをきいてから奥へ通ったほうがいいと思った。
 けさあんなことがあって、じぶんは磯五につれられて出て行ったのだから、どんなに気もちをわるくしていらっしゃるかもしれない。きっといつもの倍も三倍もむりをいって、わたしをいじめなさるに相違ないのだ――お高は、早くそういう惣七を見て、思いきりむりをいわれてみたい気がした。いじめられてみたいと思った。
 なみだが、お高の眼をくもらせて、足もとを見えなくした。お高は、台所へ上がるまえに、立ちどまって眼をふいた。
 わざといきおいよく上がって行った。
「滝蔵さん、佐吉さん、国平さん、ただいま帰りましたよ」
 どこからも返事がなかった。どうしたのだろう。三人ともどこへ行ったのだろうと思いながら、台所につづいた下男部屋の前を通りかかった。
 なかで、三人の話し声がしていた。話に気を取られて、お高の声も聞こえず、はいってきたのも知らなかったのだ。
 国平の声が聞こえた。
「いや、あのごようすは、ただごとじゃあねえ。お高さんがいねえからばかりだとは、おいらにあ思えねえのだ」
「そうよなあ。そういえば、朝から何一つお口へも入れずに、ひどくふさいでいなさるようだな」
「全く、あんな旦那をおいら幾年にも見たことがねえのだよ」
 お高は、はっと胸を突かれたような気がした。黙って、そこを通り過ぎると、駈けるように縁へかかった。長い縁だ。胸をさわがせて、いそいで歩いて行った。
 例の帳場になっている茶室の前へ出た。障子がしまっていた。中は、人のけはいもないように、しずかだった。お高は、思い切って声をかけた。
「旦那さま、ただいま帰りましてございます。高でございます」
 すると案外すぐ若松屋惣七の冷たい声がした。
「お高か。はいれよ。わたしは、手も足も出ないことになった。若松屋も、これで身代限りだ――」


    荒夜こうや


      一

「お高――どのか。わたしは、無一文になりました。は、は、は、見事に無一文になりました」
 笑うようにいった。が、若松屋惣七の顔は、灰いろなのだ。折れ釘のかたちをした筋が、こめかみにうき出ている。うつろに近い眼が、くうの一点をみつめて、口じりが、ぴくぴくとふるえているのだ。急な心痛がもち上がって、ふかい悩みに沈んでいることがわかるのだ。
 お高は、磯五のことをはじめ、自分に関するすべてを、とっさに忘れた。どきん、と一つ、心臓が高い浪を打った。ぺたりとすわった。口がきけなかった。あのあの、と、ことばが舌にからんだ。
「いや、わたしとしたことが!」若松屋惣七は、お高の前に、一時、意気沮喪いきそそうした自分を見せようとしたことを、恥じているに相違ない。自制を加えて、急にふんわりとした口調だ。
「いや、わたしのことなど、どうでもよいのだ。が人間は、えて身勝手なものである。けさお前が、磯屋さんとつれ立って出て行ってから、わしはもう二度とお前を見ることはあるまいと思っておった。見とうもないと思っておった――のだが、しかし、そうして帰ってくると、わしも、ついよく帰ったといいたくなるよ。あはは」
 お高は、たたみに手をついて、いざり寄った。
「旦那様、若松屋が、あなたさまが身代限りをなすったというのは、それはいったいどういうことでございますか。お戯言ざれごとでございませんければ、どうぞわけを、お聞かせなすってくださりませ」
「ふん」若松屋惣七は、うそぶいているように見えた。
「だから、いまも申すとおり、人間は、えて身勝手なものである。お前のことは、忘れておったといってはすまんが、自分の用にかまけて、つい忘れておったぞ。どうだった! 磯屋さんと二度の念がかなって、お前もあのお店へ乗り込むことになったのではないのか」
 若松屋惣七は、磯五のこぶしを面上に受けながら、お高のために証文を破った、あのけさのいきさつを根に持っているのではない。あれは、ゆきがかり上、若松屋惣七としてはああ出ざるを得なかったのだ。いわば、磯屋とのあいだの戦端開始の合図のようなものだったのだ。しかし、もとはといえば、お高から出たことだ。
 が、いま若松屋のこころは、そのお高からも遠く離れてしまった。お高のみならず、磯五とのあいだにひそかに自分に誓った商道のあらそいすらも、すでに彼の興味を失いかけているのだ。そんな余裕も闘志も、なくなっているのだ。より以上に重大な、彼自身の死活に関する問題が、大きな手のように、若松屋惣七をわしづかみにしようとしている。いや、わしづかみにしているのである。
 お高は、それほどのこととは思わなかった。で、せっかく帰って来たのに、妙な皮肉をいわれると思うこころが、彼女をちょっとすねてみたくさせた。
「人間は身勝手なものであるとおっしゃいますのは、わたくしが帰ってまいりましたのが、いけなかったのでございましょうか。磯屋と二度の念がかなって、あの店へ乗りこむなどと、あんまりでございます。なんぼなんでも、高は、そんな恥知らずではございません」
 思わず強いことばが出たのに、じぶんでも驚いたお高が、ふと惣七の顔に眼をそそぐと、お高の声が聞こえなかったように、若松屋惣七は、きょとんとしている。
 やがていい出した。なかばひとり言だ。
「馬鹿だった」表情のない声だ。「わしが大馬鹿だった。誰を恨みようもない。おのがったなわで、くびれ死ぬようなものなのだ。お高どの、掛川宿かけがわじゅくの具足屋という宿屋のことを話したことがあったかな?」
「はい。伺いましてございます。脇本陣わきほんじんとやらで、たいそうお立派な御普請でございます。いつぞやも絵図面を見せていただきましてございます」
「そうであったかな。あの具足屋の一件なのだ。掛川までは、わたしも、ちと手を伸ばし過ぎたのでしょう。今ごろたたって参った」
「とおっしゃいますと、すこしも引き合わないのでございますか」
「いや、ひき合わぬことは、はじめからわかっておった。宿場の旅籠はたごなどという稼業しょうばいは、俗にも三年宿屋と申してな、はじめてから三年のあいだは、おろした資本もとでがすこしもかえらぬのが、ほんとうだ。その三年のあいだに、ちっとでも利をみようというほうが、むりなのだ。だから、もうけのないことも、当分は金を食う一方であることも、驚かぬぞ」

      二

「が、その三年目も、来年である。来年になれば、具足屋もそろそろ上がりがあろうと思っておったにもうおそい。お高、そちは、東兵衛という名を聞いたことがあるか」
 お高は、つばをのんで、うなずいた。ぱっちりした眼が、若松屋惣七の額部ひたいを凝視していた。まゆのあいだの刀痕とうこんをめざして、両方から迫りつつある若松屋惣七の眉毛が、だんだん危険なものに見えてきていた。
 暗くなりかけていた。お高は、灯がほしいと思ったが、惣七のはなしがつづいているので、お高は、灯を入れに起つひまがなかった。起つ気にも、なれなかった。夕風が渡って、障子紙ののりのはげた部分を、さやさやと鳴らした。風には、雨のにおいがしていた。じっさい、そのときも大粒なやつが、ぽつりと一つ縁側をたたいて、かわいた板に吸われていっていた。暴風雨あらしを予告するものがあった。
 お高は、東兵衛という男のことを、聞いたことがあるのだ。その東兵衛という男は、もと藤沢ふじさわで相当の宿屋をしていたのが、すっかり失敗して困っていたのを若松屋惣七が、例の侠気おとこぎから助け出して、東海道の掛川の宿に、具足屋という宏壮こうそうな旅籠をひらかせて、脇本陣の株まで買ってやった男である。
 もっとも、若松屋惣七が、ひとりで資金もときんの全部を持ったわけではない。半分出したのだ。あとの半金は、東兵衛がじぶんでかきあつめて、みずから具足屋を経営すべく、具足屋東兵衛となって、掛川の宿へ移り住んだのだ。
 具足屋は、もとの脇本陣の地所を買って、すっかり建て前をあたらしくしたものだ。木口をえらび、建て具や調度にも、若松屋惣七も東兵衛も、かなり贅沢をいった。ことに、庭を凝った。大きいことも大きいし、掛川の具足屋ほどの旅籠は、東海道すじの本陣脇本陣を通じてあんまりあるまいという、これは何も、若松屋惣七と東兵衛の自慢だけではなかったのだ。定評だったのだ。
 この、万事金に糸目いとめをつけないやり方で、最初の利がかえるまで、三年もとうというのだから、骨だ。若松屋惣七も、許す限りの才覚をして、江戸から応援したのだが、むだだ。焼け石に水というやつだ。
 諸費ものいりはかさむいっぽうで、こうなると、第一、毎日のものを入れている商人たちが不安になってくる。黙っていない。大挙して、具足屋東兵衛に膝詰め談判をした。たった今払いをしてくれなければ、もうつけがけで仕込みをしてもらうことは、ごめんだというのだ。
 現金がないのだから、ほかの商人を当たってみたところで、顔のききようがない。さっそく具足屋は、あすから休業である。というので、東兵衛からの急使が、江戸小石川の金剛寺坂へ飛んだ。見殺しにはできない。また、今までつぎこんだ金も、生かさなければならない。即刻、若松屋惣七は、工面に奔走した。あそんでいる小判というものはないのだから、これには惣七も、かなりひどい無理をした。
 その結果、若松屋惣七から相当のものを託された金飛脚が、掛川宿へ駈けつけたのだがそのときは、それやこれやを苦に病んで、つまり、どっちかといえば、気の小さな男だったのだろう。具足屋東兵衛は、気がれていたというのだ。
「客商売に、座敷牢ざしきろうというのも面白うない。裏山の奥に、掘っ立て小屋を建ててな、見張り人をつけてあるそうだ」
「すると、何でございますか。旦那さまが、その掛川の借財をすっかりおしょいこみになったのでございますか」
「さよう。これは四月よつきばかり前のことだが――」
「あら、ちっとも存じませんでおりましてございます」
「なに、よけいな心配をさせるにも当たらぬと思って、お前には黙っておりました。べつに書状をしたためてもらわにゃならぬことではなし、使いの口上を聞いて、金さえ送ればよいことだったので、お前をわずらわせずにすんだのだ。どこかへ出て、お前は留守だった」
 よけいな心配をさせたくなかったなどと、それはまるで女房にでもいうようなことばだと、いってしまってから気がついたらしく、若松屋惣七はじぶんでも意識しないこころの底のひらめきにちょっとおどろいた。あわてて、話の本筋にかえった。お高は、いつのまにか、うれしそうに惣七に寄り添っていた。
 もう、ほんとに暗かった。暗いなかに、雨あしが光っていた。若松屋惣七もお高も、その、寒く吹きこんでくる雨に、気がつかないようすだ。国平であろう。縁側の端で、大いそぎに雨戸をくり出す音がしていた。

      三

 国平が雨戸をくり出す音に勝つために、惣七は、しぜん大声だ。
「こうなのだ。はじめ東兵衛が、わしと半分ずつ持って具足屋へおろした資本もとでだな、それだけは、わしのふところから出して、急場をしのがねはならぬことになったのだ」
「でも、それはお出しにならなければならなかったことはございますまい。義理固い旦那さまの御性分は、よく存じ上げておりますでございますが、そこまでなさらなくても――一言お話しくだされば、きっと高がおとめ申したにと、恨みがましく考えられますでございます。
 その東兵衛さまとやらがお出しになった資金もとでは、申せば東兵衛さまが御自身でおりになったものでございます。旦那さまは、御自身の分だけ御損をなすって、きれいにお手をお引きなすったほうが――」
「それが、そうは参らぬ。というわけは、東兵衛の女房子供が気の毒だし、また大口の借りがたくさん控えている。わたしは、東兵衛のおろした半分の資本もとでを、わたしの手で浮かび出させて、東兵衛の女房に返してやったのだ。つまり、それだけの現金かねで、借金かりだらけの具足屋を、わしひとりのものに買い取ったのだ。ありがたくない荷物は、ありがたくない荷物に相違ないが、あの場合やむを得んと思ったのだ」
 お高は、くらい中で眼をかがやかせているに相違なかった。男に傾倒するこころが、熱い息となった。
「だれにでもできるものではございません」
 若松屋惣七は、自嘲的じちょうてきに笑い出していた。
「なあに、それも、先へいって具足屋が芽を吹くことがあればと、見込みがあるつもりでしたことなのだ。よくと二人づれで、やったことなのだ。うふふ、侠気おとこぎだの、義理だのという、そんな洒落しゃらくさいものではない、ははははは」
「で、その借財かりのほうは、どうなすったのでござります」
「いま具足屋を人手に渡したくない。しばらく立て直して、もちこたえてみたいと思ったから、すっかりわたしが払ったのだ。この弁金と、いま話した東兵衛の女房へやった、東兵衛の出した資本もとでの分と、この二くちの金に困ってな、金のことをまかせられているある後家さんから、話しあいで、一時の融通を受けたのだ。
 それも、それだけのものをまとめて借りたのではない。その女から預かって、わしの眼きき一つで、あちこちに動かしてある金を、その女の許しを得て、一時わしの手にあつめて、具足屋のほうへまわさせてもらったのだ。一年後に、わしがほかへ小分けしておいたと同じ利分をつけて、耳をそろえて、その女に見せるという約束だった」
 滝蔵が、おそくなったいいわけをしながら、灯のはいった行燈あんどんを持って来て、ほどよいところへおいて、さがって行った。お高は、下男がいるあいだ、惣七から離れていた。雨戸のそとは、はたして、叫ぶ風と狂う雨とのあらしだった。樹々きぎのうなりが、ものすごく聞こえてきていた。
 お高は、惣七の肩にじぶんの肩をあたえて、不釣り合いに大きく見える自分の膝の上で、惣七の指をもてあそんでいた。惣七は、それにまかせていた。考えていることのために、気がつかないふうだ。
「ずいぶんわたくしにお隠しなすっていろいろなことをしておいででございます。いつのまに、そんなことをなさるのやら――お出かけなすったことも、それらしい用事の人が、みえたようすもございませんのに」
 お高は、不服そうだ。
「ははは、まだお前の知らんことは、ほかにいくらもあるのだ」
「まあ、憎らしい」
「下らぬことをいわずに、聞け」
「はい」
「そういう約束である。一年のうちには、具足屋も、何とかもうけをみるであろう。また、いくらかでも稼業かぎょうが立ちなおってきたら、根こそぎ手放してもよいのだ。こう思って、その後家さんの金の中から入要いりような分だけ借りておいたのだ。
 先方にしてみれば、若松屋というものにまかせてある以上それをこっちが、どう細かく割ってうごかそうと、若松屋の仕事につぎ込もうと、その金がおなじ利を生むからには、何もいうべき筋はないはずだ。よって、貸した借りたとは申しても、普通なみの借銭とは、おのずからことわりをべつにしておる」
「さようでございますとも」
「ところが、けさお前が出て行ってまもなく後家さんから使いが来てな、あしたにも、その金はもとより、わしの手から動いておる自分の金を、そっくりまとめて納めるようにとのことなのだ」
「あら、それでは約束が違うではございませんか、約束をたがえてそんなことがいえるものでございましょうか」
「それは、いえる。女分限者と金番頭の、いわば内輪のことなのだ。約束がちがうといって、公事くじにも持ち出せぬ以上、いつどう気をかえられても、しかたがないではないか」

      四

「さようなものでございましょうか」
 お高は、若松屋惣七のためを思って躍起になっていた。
「それでも、もとはといえば、具足屋東兵衛さまとやらから、起こったことでございましょう。何も、旦那さまが、一身にお引きうけなさらずとも――」
「東兵衛は、狂人だ。狂人から、何が取れる」
「でも、それではあんまり――」
「のみならず、東兵衛は東兵衛としても、わしと後家さんのあいだの貸し借りは、貸し借りなのだ。亡夫にのこされた財産だ。金のたてぬきは何ひとつ知らぬのだ、知ろうとせぬ女なのだ。夕方、お前の戻ってくる一ときまえにも、また二度目の使い者がせき立てに参ったような次第で、困る。まことに、困る。おおぎょうに申すのではない。若松屋も、これぎりではないかと思うのだ」
「何とか、待ってもらえないものでございましょうか」
「それが、一日半日をあらそっておると申すのだ。じつに、まゆ毛に火のつくようなはなしでな」
「何しにそんなに急に、お金がいることになったのでございましょう」
「さっぱりわからぬ」思案のしわが、若松屋惣七のひたいを刻んだ。
「それが、さっぱりわからぬのだ。使いの者にきいてみたが、使いの者は、いわぬ。知らぬらしいのだ。わたしは、具足屋のいきさつを話して、猶予を頼みこんだ。が、いっかなききいれぬ。聞こうとさえせぬのだ。何でもよいから、金をそろえろというのだ。いそぎの用があるというのだ。
 具足屋につくすべてを見積もりにして出すから、それだけ引いてくれとも申し入れたが、それも受けつけぬ。どこか具足屋の庭にでも、じぶんの小判が、山のごとく積んであるとでも、思っているらしいのだ。全く、そのとおりなら世話はいらぬがと、わたしも、つくづく思いますよ」
 若松屋惣七は、ほろ苦く笑った。行燈の灯が、面のような顔を、いっそうグロテスクにくまどった。
多額たんとでございましょうね、どうせ」
「一万二千両です」
「まあ、そんなに、でございますか」お高は、おろおろと声がふるえた。「どうしましょう――」
「みんな、具足屋という旅籠が食ったのだ」
「その具足屋を、そっくり売ることはできませんでございましょうか」
「まだだめだな。損つづきのことを知っているから、ちょっと手を出すものずきもあるまい。それに、持ってさえおれば、やがて、金脈に変わることはわかりきっているのだ。わたしも、放さずにすむことなら、放したくはないのだ」
「何とかならないものでございましょうか」
「一言も、こっちのいい分に耳をかそうとせぬのだから、しようがあるまい。金がいる。いまがいま、そっくり出せ。これだけのことを繰り返して、せきたてに毎日来おる」
「たいそうなお金持ちの方とおっしゃったようでございますが――」
「金持ちは金持ちです。ほかにも地所やら家蔵やぐらやら数多くあるのだが、それらはもちろん、わたしにあずけて利まわりを取ってきた金も、至急に用が出来しゅったいしたから、是が非でも、耳をそろえて出せというのだ。なんとも妙なはなしである。裏に何かあるのかもしれぬ。何人かの呼吸いきがかかっているような気も、せぬことはないのだ。が、それとても、はっきりしたことはいえぬ」
「ほんとにそんな大金を、一時に何しようというのでございましょうねえ」
「おせい様は、きょうまでわしにいっさいをまかせてきたのだ。それが、今度のことに限って、なに一ついわぬ。若松屋惣七にも、見当が立たぬ。いくじがないようだが、かほど当惑したことはないぞ」

      五

「あの、おせい様――」
 お高は衝撃をうけた。おうむ返しに、その名が、口を出た。
「そうだ。おせい様という女だ。今まで名をいわなかったかな。はて、話したつもりであったが――うむ。知らぬも無理はない。お前が参ってから、書状の往復をしたことはなかったからな。いつも、つかいの者がまいって、口で話をきめるようなことになっておった。
 そのうえ、本人のおせい様は、伊勢参宮いせさんぐうとかに出かけたきり、ながらく上方にとどまっておって、このころまで、わしのほうの用向きもなかったのだ。が、待てよ。お前いま、おせい様という名を聞いて、おどろいたようであったな」
「いいえ」
「知っているのではないか」
「いいえ」
「そうか、おせい様はな、駒形こまがた猿屋町さるやちょう陸尺ろくしゃく屋敷のとなりにあった、雑賀屋さいがやと申した小間物問屋の後家なのだ。いまは、 下谷同朋町したやどうぼうちょうの拝領町屋まちやに、女だけの住まいをかまえておる。見ようによってはけても若くも見えるそうだが、まだ美しさの残っておる女だ。世間知らずの、子供のような人でな、あれに悪い虫がついたならば、いかな雑賀屋の大財産も、一たまりもないであろう。案外、そんなことかもしれぬぞ」
 お高は、若松屋惣七のいうことを、聞いてはいなかった。考えがあたまを駈けめぐって、何をいわれても聞こえなかった。
 お高には、すべてがわかった。なぜ名前が出るまで、気がつかなかったろう。磯五も、おせい様のことを話すとき、誰か凄腕すごうでの、そして正直一轍いってつの金がかりがついているといって、自分はすぐ、それは若松屋さまにきまっていると思ったほどではないか。
 そうだ。雑賀屋のおせい様に、とうとうその悪い虫がついたのだ。そのわるい虫は、たとえ名だけでも、じぶんの良人となっている磯五であると思うと、お高は、恐怖のようなもののために、寒さを感じた。おせい様は、あの磯五に与えるために、旦那さまからそのお金を取り立てようとしているのだ。そのために、この旦那さまは、身も商道もほろぼされようとしている。おせい様が、人もあろうに磯五に、金をみつごうとしているばっかりにである。
 お高は、けっして傍観するわけにはいかないと決心した。血走った眼が、若松屋惣七を見た。若松屋惣七は、行燈のほうへ首を傾けていた。風雨の音に、聞き入っているように見えた。
「あらしに、なりましたな」
「はい。ひどい吹き降りになりましてございます」
「もっともっと、ひどい吹き降りになろうもしれぬ」
「はい」
 お高の顔は、不自然に、白くかわいていた。眼だけは、そこから夏の星ぞらでものぞいているように、これも不自然に、かがやいて見えていた。小さな口が、固い直線をつくっていた。どこにも、悲しい影も、苦しい影もなかった。女というより、美少年のようなお高に見えた。戦いぬこうというこころが、一時に彼女を、強く変えて見せていたのだ。
「なるようにしかならぬ。何とかなろう。どうもならぬときは」若松屋惣七は、眼をみはるようにして、お高のほうを向いた。
「なあ、そのときは、そのときではないか。それより、お前のほうは、どうした。それを聞こう」
「どうと申しまして、べつに、申しあげることはございません」
「うそをつけ。帰って来てくれと、磯屋にいわれて、いろいろ話があったことであろうが」
「はい。そういうはなしはございました」
「それを、どうきめたのだときいておるのだ。べつにって聞こうとはいわんが――」
 若松屋惣七は、ふところに入れていた手を胸元へまわして、がりがりかいた。顔をしかめて貧乏ゆるぎをはじめた。

      六

「どうと申して、またいっしょになるなんぞ、死んでもいやでございます」
「なぜだ」
「なぜでも、いやでございます」
「それで、帰って来たのか」
「はい」
「馬鹿め。磯屋におればよいに。おれのところは、あすにも食うに困ることになるぞ」
「はい。高は、ごいっしょに乞食こじきをさせていただこうと存じまして、帰ってまいりましてございます」
「ふん。そうか、それもよかろう」
 若松屋惣七は笑った。あくびをして立ち上がった。お高も、立ち上がった。二人は、いつものように前後につづいて、寝間のほうへあるいて行った。
 寝間から、若松屋惣七の声がしていた。
「磯五は、金があるのかな」
 お高の声が、答えた。
「さあ、どうでございますか」
「隠すな。借りに行くといいはせぬぞ」
「そんな、意地のわるいことばっかしおっしゃって──」
「磯五は、どうして金をつくったか。話したか」
「お金などないようでございますよ」
「金がなくて、磯屋という店が買えるか。金がなくて、これからどうしてやっていくのだ」
 お高は、黙った。おせい様に対する磯五の態度や気もちが、いっそうはっきりわかってきた。あの人が磯屋五兵衛となるまでに、何人のおせい様があったことだろう。そして、これからも、磯五の店をやっていくために、何人の、いや、何十人のおせい様があらわれることだろう。そして自分は、あの人の妻ということになっているのだ。
 いったいあの人のどこがそんなに女をきつけるのであろう。お高は、磯五の顔を思い出そうとして、まくらの上で、眼をつぶった。そして、いった。
「あの人のことでございましたら、どうぞもうおっしゃらないでくださいまし」
 暴風雨は、つぎの日一日、江戸を去らなかった。若松屋惣七は、どこへ行くとも告げずに、あらしをおかして、駕籠で出て行った。出がけに、お高にいった。
「留守に来書があったら代わりに見ておいてくれ」
 金策に出かけるであるらしいことは、お高にも察しられた。お高は、居てもたってもいられない気もちでいながら、どうすることもできなかった。
 ひるさがりになっても、何をするでもなく、座敷の縁側に近くすわって、寒い白い雨を、ぼんやりながめてくらした。そこへ使い屋が手紙を持って来た。お高は、機械的に文箱をひらいた。きょうに限らず、若松屋惣七が他行か昼寝でもしているあいだ、お高が、手紙を代読しておくのは、珍しいことではなかった。それは、女番頭といったような、お高の役目の一部でもあった。
 その手紙は、おせい様からきたものだった。古風な達筆で、こういう意味のことが書いてあった。
 当方の都合があって、非常にいそいでいるから、できるだけ早く金を届けてもらいたい。それも、じぶんのほうへ届けてもらうのではなくて、日本橋の式部小路に、磯屋五兵衛という呉服太物商がある。ご存じかもしらないが、知らなくても、きげはすぐわかる。そこへ届けてもらいたい。じぶんの手にきても、どうせその磯屋へ持っていくのだから、どうかはじめから磯屋の店へ届けてもらいたい。一刻もあらそう場合である。くれぐれもお願いする。
 というのが文面で、下谷同朋町拝領町屋、おせいよりとある。
 お高は、手紙を、繰り返して読んだ。思ったとおりである。おせい様は、若松屋惣七をこんなに苦しめて取り立てた金を、右から左に、磯屋五兵衛へつぎこもうとしているのだ。磯五は、これを眼あてに、お高という妻のある身でありながら、中年すぎたおせい様をくどいて、うちに迎えると称して、夢中にさせているのだ。考えただけでけがらわしいと、お高は思った。
 お高は、手紙を、帯のあいだへはさんで、たち上がった。どうしても、若松屋惣七には、見せられないのだった。何とかして若松屋惣七に知らさずに、自分の手で防がなければならない。お高は、そう考えた。
 おせい様のところへ出かけて行って、磯五には自分という妻のあること、磯五の人物、その他すべてを打ちあけるに限ると、お高は、思った。惣七が帰らないうちにと、手早く身じたくをして、玄関の用人部屋のまえへ行って、いった。
「誰かお駕籠を呼んでもらいましょうよ」


    拝領町屋


      一

 お高は、下谷同朋町の拝領町屋にある、おせい様の家へ出かけて行った。それは、店屋にかこまれて、裕福らしい素人家しもたやが数軒かたまっている、そのなかのひとつだ。根岸ねぎし向島むこうじまあたりにでもありそうな、寮ふうの構えで、うすへいごしの松の影を、往来のぬかるみに落としていた。
 お高は、鳥居丹波守とりいたんばのかみの上屋敷と上野こうずけ御家来衆のお長屋のあいだを抜けて、拝領町屋の横町へ出て、雑賀屋のおせい様ときくと、すぐにわかった。細い千本格子こうしをあけると、十六、七の小婢こおんなが出てきた。お高は、じぶんの名をいっても、おせい様が知っているわけはないと思ったから、小石川金剛寺坂の若松屋惣七のもとから参りましたとだけいった。
 お高の通されたのは、町家によくある、せせこましい中庭に面した、小じんまりした座敷だ。庭のむこうが土蔵の壁になっているので、部屋のなかは、夕方のようにうす暗いのだ。が、贅沢なつくりであることは、つかってある木を一眼見てわかるのだ。床柱など見事なものだと、お高は思った。
 お高は、待たされているまに、座敷のなかを見まわして、さびしい気がしてきた。あのおせい様のこころといっしょに、この家も、調度もみんな、いまに磯五のものになるのだと思うと、そんな馬鹿々々しいことを、いよいよ黙って見ていられないと思った。
 磯五という人間、自分との関係、磯五とおせい様、とこうならべて考えると、お高には、じぶんの立場と、なすべきこととがよくわかるのだ。だが、お高は、いまおせい様のまえにすべてをぶちまけようとしている自分の動機に、嫉妬がひそんでいることには、自分では、気がつかなかった。
 お高は、若松屋惣七のためとはいえ、若松屋惣七に内証で、こうして勝手に出かけてきて悪いことをしたとは思わなかった。若松屋惣七が帰って来て、留守に手紙がきたと聞いて、その手紙がどこにもなく、お高もどこかへ出て行ったら、何と思うだろうかとも、考えなかった。お高の考えていることは、たった一つだ。
 何とかして、おせい様のこころを磯五から引き離して、おせい様が磯五にやるために、若松屋惣七からいそいで金を取り立てることを思いとまらせなければならない。若松屋の旦那様を、この急場からお助け申さなければならない。そのために、第一に、おせい様に、自分が磯五の妻であることをうち明けなければならない。おせい様のこころを、みじんに砕かなければならない――お高が、いろいろに考えて、決心をしているところへ、おせい様がはいって来た。
 おせい様は、お高を見て、おどろいたふうだった。
「おや、あなたさまは、磯屋のうら座敷でお眼にかかったお方でございますねえ。あなた様のことは、よく存じ上げておりますでございますよ。五兵衛さんが、あとで話しておりましたよ。あの人は、わたしには何でも話すのでございますよ、あの人のお従妹いとこさんでいらっしゃいますって、ねえ。ほんとに、よくいらっしゃいましたよ」
 お高は、おせい様に、無心に先手を打たれたような気がして、挨拶に困った。おじぎをして、それから、おせい様のようすを見た。
 おせい様は、若いころは、珍しく美しい人であったに相違ないと、お高は思った。いまでも、おせい様の表情は、夏の夕ぐれのようににおやかなのだ。びいどろのように、無邪気に、感情がすいて見えるのだ。
 お高は、玉のようなものが上がって来て、咽喉のどが詰まるような気がした。こんな人を、こんなにだますなどと、磯五という人は、何という罪つくりであろうと思った。おせい様も、おせい様だ、磯五の肚黒はらぐろにはすこしも気がつかずに、すっかりまるめられて、近いうちに、磯屋へ迎えられて行く気でいるのだ。お高は、かなしくなった。決心はしたものの、こうして面と向かうと何といって切り出したらいいか、わからなかった。
 従妹だと磯五がいったと、おせい様に聞かされても、お高は、すぐそれを打ち消すことができなかった。黙っていた。
 おせい様は、いつものとおり、にこにこしていた。おせい様のまわりには、しばし春の風が吹いている感じがするのだ。いまその春の風がお高のほうへも吹いてきて、お高は、この人に、そんな残酷なことなど、とてもいえそうもないという気がしていた。
 おせい様は、お高は遊びに来たのだとでも思っているらしく、よもやまの世間ばなしをはじめた。屈託のない、ほがらかな声だ。お高は、床の間にかかっている、小さな、古い軸を見ていた。それは、わらびの絵で、上に、読みにくい字で、賛が書いてあった。野火の煙や横に、とあとはよく読めなかった。
 お高は、それを読もうとして、床の間のほうをのぞくようにした。おせい様も、何か話しかけていたことばを切って、そっちをふり返った。それがお高に、さがしていた機会きっかけをあたえた。お高は、いい出していた。
「あの、さっきの小さな女中さんは、わたくしが何のことで参りましたか、あなた様へ取り次ぎましたでございましょうか」

      二

「はい。それがね、ほんとに馬鹿なで、どなたかほかの人と間違えて、若松屋惣七さんから若いおなご衆がお使いにみえたと申しましたよ。若松屋惣七さんと申すのは、わたくしがお金の扱いをまかせてきたお人で、このごろ、ちょっと頼んでやってあることがあるのでございますよ。
 じつは、そのことが片づかないで、困っておりますので、きっとその話を聞いていて、それであの婢は、そんなとり違えたお取り次ぎをしたのでございましょうよ」
「いいえ。わたくしはほんとに、若松屋惣七から参ったのでございます。ちょっと内々ないないで、お耳に入れておきたいことがございまして――わたくしは、若松屋惣七の女番頭でございます」
「あら、あなた様が、あの磯屋さんのお従妹さんが、若松屋の女番頭――それは、まあ、わたしも、はじめて伺いましたよ」
「まだ今のうちに申し上げれば、おそくはございますまいと存じまして」
「何のことでございますか。若松屋さんに、何かお金のまちがいでもあるのでございますか。あのお人は、正直なお人とばかり思っておりましたに」
「はい。若松屋さまは、正直なお人でございます。若松屋さまに限って、お金のまちがいなどは、決してございませぬ。お話と申すのは、ほかのことでございます。どうぞ、びっくりなさりませんように」
「まあ、気味のわるい。早うお話しなされてくださりませ」
「若松屋さまは、わたくしが、きょうこちら様へお伺いしたことは、ご存じないのでございます。どうしてもお話し申し上げたいことがございますので、わたくしひとりの考えで、お邪魔に上がったのでございます」
「それはいったい、何のことでございますか」
「いまおっしゃった、若松屋さまから取り立てようとなすっていらっしゃる、お金のことでございます」
 お高は、ここから話を持って行こうと思った。おせい様は、ちょっとはあわてたふうを見せた。
「若松屋さんは、その金が、どうしてもできないというのでございますか」
「いいえ、あなた様が、そのお金を若松屋さまから取り立てて、あの、わたくしの親類の磯屋のほうへまわそうとしていらっしゃる、そのことでございます」
 おせい様は、少女のように赧い顔をして、うつむいた。お高は、また、気の毒な気がこみ上げてきた。が、思い切って、つづけた。
「あなた様は、五兵衛さんといっしょにおなりになるにつけて、そのお金を、磯屋の商売のほうへお足しになろうとしていらっしゃるのでございましょう」
 おせい様は、いよいよ赧くなった顔を上げた。
「そうでございますよ。五兵衛さまというお方は、いいお方でございますから、わたしは、何もかも五兵衛さまにあげてしまおうと思っているのでございますよ」
「でも、五兵衛さんは、あなた様といっしょになるわけにはゆかないのでございます。あなた様とのみ申さずどなたともいっしょになるわけにはゆかないのでございます。五兵衛さんは、あなた様を、たぶらかしておいででございます。あの人には、女房となっているひとが、あるのでございます」
 若松屋惣七を救いたいこころと、それから、おせい様と磯五の関係への嫉妬が、お高を一生懸命にしているのだ。で、こう、はっきりいって、おせい様を見ると、どんなにおどろくことだろうと思ったのが、案外、おせい様は、急にまたにこにこしだした。
「はい、五兵衛さんにお内儀さんがありましたことは、よく存じておりますでございますよ。あの人は、わたしには、何でも打ちあけて、お話しくださるのでございますよ。一度、女房をお持ちになりましたが、その女房という人は、もう先に、なくなったのでございます。五兵衛さまのことなら、わたくしのほうがよく存じております。ほんとにあの方は、いまはひとり身で、お気の毒な方でございますよねえ」
 これも、磯五が、まことしやかにおせい様に話して聞かした、からくりの一つに相違ないのだ。それが、あまりに巧みなのと、おせい様が、それを信じ切っているのとで、お高はあいた口がふさがらない気がした。

      三

「うそでございます。何かのおまちがいでございます。磯屋の女房は、死んではおりませんでございます。立派に、生きているのでございます」
「いいえ。あなた様こそ、何かのお間違いでございましょう。五兵衛さまは、わたくしには、何一つ隠さずに、すっかりお話しくださるのでございます。
 そのお内儀さんは、五兵衛さまを捨てて、ほかの男と逃げて、草加そうかの在でなくなったのでございますよ。あんな立派な、気だてのおやさしい五兵衛さまをすてて、そんなことをするなどと、女冥利につきた方でございます。おおかた、義理も人情もわきまえない、じゃのようなおひとだったのでございましょう、ばちがあたったのでございますよ」
 お高は泣き出したいほど、くやしくなってきた。なみだが、お高の眼を、異様に光らせてきた。
「いいえ。五兵衛さんのおかみさんは、そんな恐ろしい人ではございません。五兵衛さんこそ、そのおかみさんにひどくして――」
 おせい様は、にこにこしていった。
「知らない方は、みんなそのお内儀さんの肩を持つと、五兵衛さまがおっしゃってでございますけれど、あなた様も、よく内輪の事情をお聞きになりましたら、きっと、わたくしと同じに、そのおかみさんという女が憎らしくなって、五兵衛さまがお可哀そうだと、お考えになるでございましょうよ。
 その、なくなったおかみさんという人にも、五兵衛さまは、ああいうお人でございますから、何もかも知りながら、それはそれはよくしましてねえ、ほんとに、あのお方は、一つとして非のうちどころのない、見上げたお方でございますよ。めずらしいお方でございますよ。あなた様も、あんなお従兄いとこさんをお持ちで、何かと力になってくださることでしょうから、おしあわせでございますよ。
 あのお方は、女のこころもちが、こまかいところまでおわかりになりましてねえ、あんなにたよりになる方はございませんよ。わたしには、何でも話してくださいますが、その、わがままもののお内儀さんという人にも、長いあいだ、したい三昧ざんまいをさせて、ずいぶん眼にあまることまで、見て見ぬふりをなすったのでございますよ。あなた様は、ちっともご存じないようでございますけれど、苦労をなすった方でございますよ」
 お高は、夢物語を聞いているような気がするのだ。ただ一つ、夢でないことは、じぶんはこれから、どうしても、このおせい様の眼に、あの磯五の面をはいで、見せてやらなければならないという、自分の決心だけだ。
「わたくしは、あなた様から、どんな憎しみを受けましても、かまいませんでございます。ほんとのことを、申し上げるのでございます。あなた様が、五兵衛さんにだまされておいでなさるのを、黙って見ているわけには参りません。五兵衛さんの女房という女は、決して死んではおりません。生きているのでございます」
「仮に、生きていなさるとしましても五兵衛さまから立派に去り状が渡って、死んだも同然に、きれいに縁が切れているのでございましょうよ」
「いいえ。その縁切り状も、おかみさんのほうはほしがっているのでございますが、どうあっても、五兵衛さんがお出しにならないのでございます。でございますから、まだ立派に、夫婦なのでございます。そればかりか、五兵衛さんは、このごろしきりに、そのおかみさんに帰って来てくれと、頼みこんでいるのでございます」
 おせい様は、ちょっと不思議そうな顔をしたが、またすぐ、もとの笑顔にかえって、
「それは、まことに奇妙なおはなしでございますねえ。あなた様は、そのお内儀さんというお方を、ご存じでいらっしゃいますか」
「はい。お親しく願っておりますでございます」
「ただいま、どちらにおいででございますか」
「はい。ここにおりますでございます」

      四

 いってしまって、お高は、はっとした。これはいけないと思ったのだ。いまおせい様に、自分の身分を知られてしまっては、若松屋の金のほうのことが、かえって面白くないことになるかもしれないのだ。ここは、あくまでも、ほかに磯五の女房というものがあって、それが生きていることにして、じぶんはやっぱり、磯五の従妹ということにしておいたほうがいい。
 これは悪いことをいったと思って、お高が、内心悔やんでいると、都合のいいことには、おせい様は、お高のいった意味をはき違えたのだ。
「こことおっしゃるのは、江戸のことでございますか」
「さようでございますよ。江戸にいらっしゃるのでございますよ」
「江戸にねえ。近ごろは、いつお会いでございますか」
「その、磯屋のおかみさんにでございますか。毎日お眼にかかっておりますでございますよ」
「それでも、五兵衛さまは、三年前に逃げて、まもなくくなったと、確かにおっしゃってでございます」
「それが、あの人のうそなのでございます。別居して、江戸にいるのでございます」
「五兵衛さまは、決してうそをおっしゃるような方ではございません。あなたこそ、何かわけがおありになって、そうしてわたしを苦しめようとしていらっしゃるのでございましょう」
 おせい様は、はじめて、すこし激しいことばを用いた。眼のふちがあおくなっていた。お高も、くちびるを白くしていた。
「わたくしは、ただ、申し上げなければならないと存じますことを、申し上げるだけでございます。若松屋さまからお金を取りかえして、五兵衛さんへおやりになろうとしていらっしゃるのを、見ていられないからでございます。わたくしも、五兵衛さんが、それほどの悪人であろうとは――」
「悪人というおことばは、いくらお従妹さんでも、ちといい過ぎではございませんでしょうか」
「でも、ちゃんとおかみさんがありますのに、お内儀に迎えようなどと、あなた様をいつわっていますのは、悪人ではございますまいか」
「もしあなた様のおっしゃることがほんとうでございましたら、五兵衛さまは、その、もとの女房の方が、まだ生きていなすって、この江戸にいらっしゃることを、すこしもご存じなく、死んだものとばかり思いこんでいらっしゃるのでございましょう」
「いいえ。五兵衛さんは、おかみさんが江戸にいることを、よく知っていますのでございます。会っていろいろ話をしまして、さきほども申しましたとおり、一日も早く帰ってきて、もとどおりいっしょに暮らしてくれと、五兵衛さんのほうから、話が出ましたくらいでございます」
「いいえ。それは、うそでございます」
「いいえ。ほんとでございます」
「いいえ。うそでございます。失礼でございますが、わたしは、あなた様より、お飾りの数をよけいくぐっておりますでございます。それだけに、殿方というものの見きわめが、はっきりとつくのでございます。もうこのおはなしは、お打ち切りに願いとうございます」
 男というものの判断を誤らないと、おせい様がいうのだ。お高は、笑い出したくなって、自然に口のすみが、上へうごいてきた。
 自分こそ、その磯五の女房である――こう一こといいさえすれば、何よりの生きた証拠しょうことして、それが、万事を解決するに相違ないのだ。
 じっさいお高は、何度となく、思い切ってそのことをいおうかと思ったのだが、女同士のこころもちから、磯屋に寄せているおせい様の純真な愛とまことが、あまりにいたましくて、口まで出かかっても、いえないでいるのである。が、これをいわない以上、おせい様は、お高のことばを取り上げるふうもないのだ。
 たとえおせい様が、これでいささかのうたがいを起こして、直接磯五に事の真偽をたしかめるとしても、磯五として、おべんちゃら一つでおせい様を丸め直すことは、すこしもむつかしいことでないにきまっている。そして、おせい様はいっそう、ちかいうちに磯屋のお内儀に迎えられることと信じこんで、ますます矢のような催促を、若松屋惣七へ向けるであろう。
 しかたがない。いってしまおうと、お高は思った。
「じつは、わたくしが――」
 やっぱり、いいよどんだ。おせい様は、いつのまにか、もとどおりにこにこしていた。おだやかに、お高のことばをくり返して、促した。
「はい。あなた様が――?」
「はい。あの、じつは、わたくしが――」
 そこへ、さっき取り次ぎに出た十六、七の小女があらわれた。小女は、縁側の障子のかげに指をついて、いった。
「あの、磯屋五兵衛様がお妹さまをおつれになって、お見えになりましてございます」

      五

 お高は、反射的に、たちあがっていた。おせい様は、入り口の障子のほうに気をとられていた。お高は、そっとおせい様のうしろへまわって、ふすまをあけて、つぎの間へすべり込もうとした。小碑こおんなのあとについて来た磯五が、部屋へはいってこようとしていた。お高は、つぎの間から、ふすまをしめるときに、磯五をちらと見た。磯五は、てかてか光る顔にみをみなぎらして、おせい様に挨拶しようとしていた。
 お高は磯五のうしろに、派手な色があるのを見た。それが、磯五の妹という女に相違なかった。その磯五の妹という若い女は障子のかげに隠れるようにして、はいることをためらっていた。が、すぐ、磯五に呼びこまれて、障子のすきから出て、座敷へはいって来た。しとやかに、おせい様に向かっておじぎをした。磯五が、いった。
「たびたびお話しいたしましたが、今まで、ついかけちがって、おひき合わせもできませんでした。これが磯屋の店の黒幕、妹のおこまでございます」
 そのお駒という女は、なるほど磯五の妹といった格の町家の女ふうに、堅気につくってはいるが、そして、おせい様と初の対面というので、せいぜいしとやかに構えてはいるけれど、お高は、その女に見覚えがあった。
 それは、あの、式部小路の磯屋のまえの空地あきちで磯五と立ち話しているところを、お高が、板囲いのあいだから隙見したことのある、女歌舞伎の太夫上がりのような、大柄な美しい女であった。磯五の妹に化けることを、お高が拒絶したので、磯五は、お高のかわりに、このお駒を妹に仕立てて来たに相違ないのである。
 初対面のあいさつをしている。へびの膚を聯想れんそうさせるなめらかな磯五の声がしていた。
「きょうは、このお駒にもお近づきを願いかたがた、本人の口からお礼を申させようと思いましてね、急に思い立って、やって参りましたよ」
「御丁寧に、まあ、ほんとに、五兵衛さんのお妹さんだけあってお駒さんは、お美しいお方でいらっしゃいますこと」
「いつも兄をはじめ、商売のほうまで、いろいろと御厄介になりまして、ありがとうございます。それに、近いうちに、おめでたがございますそうで――」
 磯五に劣らない、したたか者らしい声音である。おせい様は、おめでたといわれて、もじもじ磯五のほうを見て笑った。
「兄様が、せっかく親切にいってくださるものでございますから、こんなおばあさんも、そんな気になりましてねえ――それはそうと、あれほど大きなお店を、しめくくっていらっしゃるのは、なみたいていのことではございませんでしょうねえ」
「いいえ、わたくしなんど、ほんとに何もできませんのでございますけれど、さいわい兄が万事に眼を届かせてくれますので、どうやら――」
 お駒は、一にも二にも磯五を兄々と立てて、すっかりその妹になりすましている。
 ふと、おせい様は、気がついて、座敷のなかを見まわした。
「おや、高音さまとやらおっしゃる、お従妹さんがおいでになっているのでございます。つい今しがたまで、ここにすわっておいででございましたよ。はて、どこへいらしったのでございましょう」
 お高は、思いきって、つぎの間から出て行った。じろりとすばやく、磯五をにらんだ。
「こちらで、お掛け物を拝見しておりましたのでございますよ」
 磯五の顔を、蒼いおどろきと、怒りが、走りすぎた。が、声は、思いがけないところで、従妹にあったという、愉快な、意外さを示して、ほがらかにひびいた。
「おお、これは、高音か。相変わらず、どこへでも出かけてくるようだな」
「はい。用さえあれば、どこへでも出かけて、何でもいいますよ」
「ははは、相変わらず元気で、面白いことをいいます」
 磯五は、すごい表情かおをして、お高をにらみ上げていた。お高は、平気なのだ。
「従妹とやらが、あまり元気では、お困りになることがございましょう。おあいにくさまみたようでございますねえ。面白くないことを、たんとしゃべり散らす従妹でございますからねえ」
「これ、お駒も来ておるのだ。長らく会わないが、覚えてはいるだろうな」
「これが、妹さんとかいう、お駒さんというひとでございますか。不思議でございますねえ。こんな人、見たこともございませんよ。妹さんがおありだということも、いまはじめて伺うことでございますよ」
「ははははは、いくつになっても、お前の茶目ぶりはなおらないとみえる。いよいよ面白い」
 お高は、このうえ長居は無用と思った。おせい様にだけ、かるく挨拶して、座敷を出て、帰路についた。かみつくような、挑戦的な磯五の視線が、お高のうしろ姿を追っていた。お高も、出がけに磯五に、応戦的な一瞥いちべつをかえした。
 お高は、これで、磯五とすっかり敵になったことを知った。きょうから、あらためて、磯五という良人は、お高という妻の、正面の敵となったのだと、お高は思った。磯五も、そう思った。そしてそのあらそいは、ついにやいばに血を塗るところまで突き詰められなければならなかったのだ。
 お高が、小婢こおんなに送られて、おせい様の玄関を出ようとしていると、入れ違いに、おせい様と同じ年配の、やはり裕福な商家のおかみらしい、いきなつくりの女が、おせい様を訪れて来た。
「まあ、吉田屋よしだやのお内儀さま、おめずらしい。さあ、どうぞ――」
 小婢が、こましゃくれた口で、そういっていた。

      六

 おせい様とは大の仲よしの藁店わらだなの瀬戸物問屋吉田屋の内儀おたみだ、いつも来て、じぶんのうちのように勝手を知っている家だ。案内も待たずに、奥へ通った。
 藁店の吉田屋は、おもてにも、瀬戸物一式をならべて売っている古い店だが、それより、諸大名のやしきへ、屋根瓦やねがわらなどを手広く納めているので有名な家である。お民は、そこの家つきの女房で、おせい様とは、雑賀屋の旦那がまだ生きているころから、芝居などは必ず誘いあわしてきた、したしい友達なのだ。
 中庭にむかった小座敷では、おせい様と磯五とお駒のあいだに、これから、くつろいだはなしがはじまろうとしていた。磯五は、お高のことはいま話題にのぼさないほうがいいと考えて、しっきりなしにほかのことをいいだしていたが、心では、あのお高が何しにこのおせい様のところへやって来たのであろう、何を話して行ったのであろうと、それが、すくなからず気になっていた。
 おせい様は、磯五の顔を見て、お高によって一時植えられた疑念など、けろりと忘れて、酔ったように上きげんなのだ。お茶を呼ぶつもりで若やいだ態度で手をたたいたりした。
 その、手をたたく音を縁を進んでいたお民が聞いて、冗談好きのお民が、お茶屋の仲居をまねて、
「へえーい」
 と長く引っぱって答えると、近いところで、うちの者でない人の声がしたので、おせい様は誰のいたずらであろうと、びっくりした。そこへお民が、あいそよくはいって行った。
「お呼びでございますか。というところでございますね。こんちは」
「あらあら、まあまあ、吉田屋のお民さんじゃあありませんか」
 おせい様も、はしゃいだ声を出した。おせい様は、このお民に対してだけは、友達ずくに、すこし、ことばをくずすのだ。
「いやですよ。女中のまねなんぞしては、まあ、おはいりなさいよ。うちの人同様の人たちばかりですから、ちっとも構いませんよ」
 お民は、にこやかに笑ってはいって来て、すわった。お民は、お店の女房らしい、渋い、美しい年増だ。ふところから、紙にはさんだ煙管きせるを取り出して、手あぶりの火で、一服つけた。そして、
「いえね、あした早くって、旦那といっしょに伊万里いまりのほうへ年例の仕込みにゆきますからね、ちょっとこの前を通ったついでに、しばらくのお別れに寄ってみましたのさ」
 といいながら、なにげなくお駒のほうを見ると、あらと驚いたお民の手から、きせるが落ちた。
「おや! この人は――?」
 ぽかんと口をあけて、お駒とおせい様を、比較するように見た。
 お駒は、今お民がはいってきたときから、あおい顔をして、まごまごしていたのだ。おせい様が、吉田屋のお民さんじゃあありませんかといったときは、のけぞるほど、ぎっくりおどろいたようすで、あっと小さく叫んで、あわてて立ち上がろうとさえしたくらいだ。そこらへ、隠れでもするつもりだったのだろう。こまかくふるえ出したのを、磯五がきっと眼顔でしかりつけて、やっと押しとめておいたくらいだ。
 それが、今こうしてお民の眼をまともに受けると、お駒は、まるで石になったようだ。つめたく固まって、口もきけないのだ。おせい様も、びっくりしたようすだ。あわてて、いった。
「このお方は、日本橋の磯屋五兵衛さんの妹さんで、お駒さんという人ですよ」
「え? 何ですって? 磯屋さんの妹のお駒さんという人ですって?」
 お民は、叫ぶようにおせい様にいって、それから、くるりとお駒へ向き直った。
「何だい、この狂言は。いやだねえ。お前はおやすじゃないか。間違いだなんて、いわせはしないよ。お前だって、わたしの顔をお忘れじゃああるまい」
 おおぜい奉公人を使って、気の強いお民だ。正面から、お駒を見すえて、きめつけた。すると、不思議なことには、今のいままで、磯屋の店をひとりで切りまわしている、五兵衛の妹お駒として、すっかりおさまっていたお駒が、今もいうとおり、凍ったようになってしまったと思うと、こんどは、顔を、真っ赤に、というよりむらさきにして、たちまちへなへなと折れてしまいそうに見えた。
 おせい様は、何やらいっこうわからないながらも、磯五の手まえをおそれて、いそいで、お民をたしなめにかかった。
「お民さん、何をいうのですね。お安などと、とんでもない間違いをしては、いけませんよ。お民さんがとんでもない人違いのことをいうものですから、お駒さんがあんなに困って真っ赤になっていなさるじゃありませんか」
 お民は、お駒から、眼を離さずに、せせら笑った。
「おせい様こそ、ばかな間違いをしているのですよ。きっと何か、食わせものに引っかかっているのですよ。半年ほど[#「半年ほど」はママ]まえのことですが、わたしゃこのお安の顔は、忘れっこありませんよ。どこで見かけても、一眼でわかりますよ。おせい様、まあ、このお駒さんという人を、よく見てやってくださいよ。これは、お安ですよ。わたしに見つかったものだから、あんなにしょげているじゃありませんか。
 このお安は、うちの下女だったのですよ。いいえ、下女に来て、二、三日お目見をしているうちに、お店のお金やらわたしの着物やらを盗んで消えてしまった泥棒女ですよ。お目見得どろぼうですよ。ねえ、お安、お前は、きれいな顔をして、大それた女ですねえ」

      七

 狼狽ろうばいと混迷の極から、お駒は、急に立ちなおってきた。すっかりおちつきを取りもどして、しずかに、お民のほうへすわり直した。
「吉田屋さんのお内儀さんでいらっしゃいますか。何かわたしを、お安とかいう女と取りちがえていらっしゃるようでございますが、わたしは、いまおせい様がおっしゃいましたとおり、この、ここにおります日本橋式部小路の太物商、磯屋五兵衛の妹、駒でございます。
 人ちがいもお愛嬌あいきょうかもしれませんが、ぬすっとう女だの、お目見得泥棒だことのと、おまちがいにきまっていますからこそ、こうして黙って聞いておりますものの、あんまりなおことばではございますまいか」
「まあ、あきれた。これ、お安、お前は、うちへ住みこんだときも、その口で、わたしをちょろりとだましたんだったね」
「何でございますと? わたしは、その、お安とやらではございません。磯屋の妹の――」
「はい。わかっておりますよ。磯屋の妹のお駒さんに化けこんで――」
「まだおっしゃる。もう一度、お安などとおっしゃると、承知いたしません」
「ええ、ええ、何度でもいいますとも。お安だからお安だというのに、何かさしつかえでもあるのですかね」
「なんてまあ、強情なんでしょう!」
 お駒のようすに、だんだん伝法でんぽうなところが見えてくる。今に何をいい出して、地金じがねをあらわさないものでもないから、黙って見ていた磯五が、心配をはじめて、いそいで口をはさんだ。
「ええ、これは、吉田屋さまのお内儀でいらっしゃいますか。おうわさは、おせい様からも、しょっちゅう伺っております。手まえが、磯屋五兵衛でございます。ただいま伺いますと、何かとほうもないお人違いをなすっていらっしゃるようでございますが、まこと、これは手前の妹、駒でございまして、お話しのお安さんでもございませんければ、また、どちら様へも、奉公になぞ上がったことはありませんでございます。
 もしって、そのお安とやらだとおっしゃるんでございましたら、失礼でございますが、何か証拠と申すようなものを、見せていただきたいのでございます。他人の空似というようなことも、往々ままあるためしでございますから――」
 ただおろおろしていたおせい様も、これにいきおいを得て、種々口をそえて、お民に、その、間違いにきまっていることを、さとらせようとしている。
 お駒は、くやしいといって、畳に突っ伏して、泣きじゃくっている。おせい様は、磯五の気を害することを専心おそれて、なみ打っているお駒の背を、一生懸命になでて、慰めていた。が、お駒は、ほんとは泣いているのではなかった。そうやって顔をかくして、上手じょうずにごまかして、笑っていたのである。お民は、決然と席をたって、帰りかけていた。
「おせい様、わたしは、おまえさまの腑甲斐ふがいないのが、歯がゆくてたまりませんよ。とにかく、あしたの朝早く、伊万里のほうへ行きますからね、また帰ったら、寄せていただきますよ。そのときまでには、このことも、はっきりわかっていることだろうと思いますよ」
 おせい様をふり切るようにして、お民は、そそくさと帰って行った。
 龍造寺主計りゅうぞうじかずえが、東海道から江戸へはいったのは、この、お民が、おせい様の家から、そそくさと帰ったころだった。
 龍造寺主計は、どこの産ともわからない、諸国放浪の浪人だ。年のころは、三十五、六であろう。中肉中背のからだを、風雨と汗でよごれた旅装束につつんでいるのだ。ばかに長い刀をさしているせいか、武骨ぶこつで豪放に見えるのだが、人物も、武骨で豪放なのだろう。精悍せいかん相貌そうぼうをしている。顔ぜんたい、大あばただ。
 品川しながわまで来ると、山下やましたの、ちょっと海の見えるところに、掛け茶屋が出ているから、龍造寺主計は、そのまえに立ちどまって、
「おい」
「いらっしゃいまし。おかけなさいまし」
「そうしてはおられん。つかぬことをきくようだが、江戸で人をさがすのに、何かよい工夫くふうはないかな。だれか顔の広い人物があったら、教示にあずかりたい」


    仇人きゅうじん


      一

 吉田屋のお民が、お駒を、お目見得泥棒とののしって、席をけたてるようにしてかえっていったあとだ。磯五は、うつ伏しているお駒の背に手をかけて、おせい様にいった。
「ひとまず、これをつれて帰って、また参ります」
 おせい様は、お民のことばで、磯五が感情を害しているに相違ないと、それをおそれているのだ。
「お駒さんは、気が顛倒てんとうしていらっしゃるのですよ。かわいそうに、誰でもあんなことをいわれれば、気が顛倒しますよ。お駒さんも磯屋さんも、気にかけないでくださいましよ。あのお民さんという人は、口がわるいのがやまいで、人にいやがられているのでございますからねえ、わたしからこんなにあやまっているのでございますから――」
 おせい様は、磯五のきげんを直そうとして、おろおろ声だ。磯五といっしょに、お駒のせなかをさすって、抱き起こした。お駒は、たもとで顔を隠していた。憤然とさきに立って部屋を出ながら、磯五がおせい様にいやみをいっていた。
「おかげで、いい恥をかきましたよ。人の妹をつかまえて下女奉公に出たことがあるの、おまけにぬすっとうを働いたの何のと、あの吉田屋のお内儀には、いずれとっくりこの返礼をするつもりです」
 どなるような大声だから、おせい様はいっそうみじめに狼狽して、まだ泣きじゃくっているお駒を抱かんばかりにして玄関まで送り出た。履物をはきながら、磯五がいった。
「いたって気の弱いですから、ああいうひどいことをいわれると、こたえます」
「そうでございますよ」おせい様は、男の気を直そうと、一生懸命だ。「おとなしいお方だけに、くやしさも一しおでございますよ、ねえ――それはそうと、お前さま、ほんとに戻ってくるのでしょうね。待っていますからねえ」
「はい。お駒を店へ送り届けて、その足で引っかえしてまいります」
 急に赧い顔をしたおせい様から、残っている色気が発散した。それは夕やけのようにはかないものだ。
「だまかすとききませんよ」
 おせい様は、帰って行くふたりを、心配そうに見送った。いつまでも上がり口に立っていて、奥へはいらなかった。
 お駒は、まだ顔をおおったまま磯五に注意されても、おせい様に挨拶もしないで、出て来た。
 拝領町屋の横町をまがって、雑賀屋の寮が見えなくなると、磯五はぐいとお駒ちゃんの腕を握った。磯五は、どういうわけか、このお駒のことを、ふたりきりでいるときは、お駒ちゃんと、ちゃんづけにして呼ぶ習慣なのだ。
「ほんとか、あのことは」
 お駒ちゃんは、長いたもとをぴらしゃらさせて、くっくっと咽喉で笑っているのだ。
「みんなほんとですよ。ちょいと吉田屋へ住みこんで小さな仕事をしたのが、へまをやって、ばれたことがあるんですよ。いやなところへ、いやなやつが出て来たもんだねえ」
 磯五は、ひとごとのようにいうお駒ちゃんの顔を、横眼ににらんで、ならんであるいた。おしろい焼けのしたお駒ちゃんの顔は、ことにくびのあたりが、ひどくすさんで見えるのだ。こいつを妹に仕立てたのはてんから間違いであったかなと、磯五は思った。そう思って、うなだれて、考えこんで行くと、身幅をせまく仕立てたお駒ちゃんの裾から、無遠慮に歩くお駒ちゃんの白いあしが、ほらりほらりと見えるのだ。
 磯五はおせい様のことも、お高のことも、いまの厄介な問題もどうにかなるであろうと思った。下素げすな笑いが、磯五の顔にひろがりかけていた。その笑いを、お駒ちゃんが見つけた。
「ほんとに、おかしいったらありゃしないよ。でも、底が割れそうで、お前さん心配じゃないかい」
「なに、心配することはねえのさ。だが、あのとき泣くなんざあ、てめえが馬鹿だ」
「あれ、誰も泣きはしないよ。笑っていたのだよ」
「なおいけねえや」
「だって、おかしいじゃないか。あの、吉田屋のおばあさんのあきれ顔を見たら、あたしゃどうにもがまんができなくて、ふきだしてしまったのだもの」
「殊勝らしく、泣いているように見えたから、いいようなものの、それが、てめえのかるはずみというものだ」
「悪かったらごめんなさいよ。だけどねえ、お前さんという人も、罪のふかい人だねえ、あのおせい様とかいう四十島田はお前さんにこれったけじゃあないか」お駒ちゃんは、歩きながら、じぶんの首へ手をやった。
「あんなに参っているとは、思わなかったよ。女同士だもの、眼いろでわからあね。けてくるよ」
「何をいやがる。それもこれも、てめえに楽をさせようためのいわば商売じゃあねえか。あだやおろそかには思うめえぞ」
「はいはい。まことにありがとうございます――お前さんは、口がうまいからねえ。かなわないよ」
 磯五とお駒ちゃんは、声をあわせて、笑った。そこは、御成街道おなりかいどう広小路ひろこうじにかわろうとするかどであった。一方に、湯島天神ゆしまてんじんの裏門へ登る坂みちが延びていた。そこのところに、つじ待ちの駕籠屋かごやが、戸板をめぐらして、股火またびをしていた。そこから、二ちょう拾って日本橋へ走らせた。いつのまにか、空気が寒くひき締まって、降雪ゆきを思わせていた。

      二

 品川の八つ山下の茶店のおやじは、ふと立ちどまった、旅によごれた浪人風の壮漢おとこが、腰掛けに腰かけもしないで、いきなり、江戸で人を捜すのだが、誰か顔のひろい人はないかときくので、おどろいていた。
 龍造寺主計という人は、こんなふうに、人を驚かしてばかりいるのだ。だから、人がおどろくのには、平気なのだ。
 立ちどまったついでに、ぽんぽんからだの塵埃ごみをはたきながら、
「貴様は、物りらしいつらをしておるからきくのだ。江戸において交際つきあいのひろい人物がひとり、至急に入要である。名をいえ」
 茶店のおやじは、困ってしまった。きちがいかもしれないと思ったので、さからわないに限ると思った。
「物識りらしい面とは、こんな面がお眼にとまって恐れ入りましてございます。しかしお武家さま、江戸で、顔の広いお方と申しましても、どういうお方でございましょうか。侠客おとこだての衆のようなお方でございましょうか」
「いや。町人仲間で、顔の売れている人物のところへたよって行きたいのだ」
「それはそれは。して、どのような御用でございましょうか、それによりましては、このおやじめが、どなたか思い出さないとも限りませんで、へえ。なにぶん、この掛け茶屋などと申す稼業しょうばいは、人の口が多うございまして、いろいろとまた、なが年小耳にはさんでおりまするで」
「よく申した。ぜひ一人思い出してくれい。用というのは、その人物を伝手つてにいたして、江戸で尋ね人をしようというのだ」
 ははあ、仇敵討かたきうちかな、とおやじは思ったが、あまり立ち入ったことをいうと、危険なような気がしたので、黙っていた。それに、かたきうちにしては、相手のようすに、どことなくのんきすぎるところが見えるのだ。
 しかし、若いころから、仇敵をさがして全国を放浪して、山河のほこりにまみれて、もうどうでもよくなって、こうして江戸へはいって、申しわけに、その顔のひろい人に頼んで捜してもらいながら、自分は、こづかい銭をもらって、一生ぶらぶら遊ぼうというはらかもしれない。よくあるやつだ。じっさい、この香具師やしのように陽に焼けて、悪ずれのしたように見える、龍造寺主計には、そんなようなところが、見えるのだ。
 おやじは、めったなところを教えては、迷惑をかけるかもしれないと思った。
「はい。人をおさがしなさる。そのお人は、どういうお方でございましょうか」
「よく、いろんなことをきくやつだな。まず、はえだ。蠅のようなやつだ」
「あの、蠅のようなお方――」
「そうだ。貴様は、汚物おぶつのうえにたかる銀蠅ぎんばえを、知っておるか」
「存じております」
「そのぎん蠅と同様に、しじゅう小判の集まるところにぶんぶんいうて飛んでおるやつだ」
 おやじは、笑いだしていた。
「それはお武家さま、御無理でございますよ」
「なぜだ」
「なぜと申して、考えてもごろうじろ。きたないものに蠅がたかりますように、お金のあるところに人が集まるのは、当節のふうでございます。あなた様のようなことをおっしゃっては、江戸じゅうの人間が、みんな小判の蠅でございますよ。そのようなことは、人をおさがしなさいますうえに、ちっとも眼当てになりませんでございます」
 おやじも、ひまなので、相手になっているのだが、これを聞くと、龍造寺主計はふわふわと鼻の穴から笑声を押し出して、
「なるほど。いっぽん参ったわい。貴様は、なかなか気骨があるぞ」
 ひどく面白そうだ。おやじも、乗り出して来た。
「お武家さま、へっ、思いだしましたよ。ひとり、思い出しましたよ」
「そうか。思い出したか」
「思い出しましたよ――つまり、何でございましょう? ひろくお金を扱って、そのほうで、江戸のあきんど衆に顔の知れているお方、そういうお方が、御入要なんでございましょう?」
「そうだ、そうだ。そういう人物をたよって、行きたいのだ。その、貴様が思い出したというのは、名は何といい、いずくに住まっておるか」
「ようがす。そういうお方なら、江戸に有名なお方がございます。小石川でございます。小石川の上水端に金剛寺というお寺がございます」
「うむ。曹洞派そうとうはの禅林である。聞こえた名刹めいさつだな」
「へえ。その金剛寺の裏手でございます」
「うむ」
「若松屋惣七さまとおっしゃるお方で、あのへんでおききになれば、すぐおわかりになりますでございます」
「さようか。かたじけない」
 おやじのまえの腰掛けのうえに、ばらばらとたくさんの小つぶがおどった。龍造寺主計は、乞食浪人のように見えるのだ。が、龍造寺主計は、金を持っているのである。内実は、裕福なのだ。

      三

 磯五が、拝領町屋のおせい様の家へ引っかえしたときおせい様は、おなじ座敷にすわって、ぼんやり庭を見ていた。磯五がはいってくるのを見ると、いそいそ迎えに立とうとした。磯五はてかてか光る顔を笑わせて、まあまあと手で制して、ぴったりおせい様のそばへ行ってすわった。おせい様は、娘のようにはじらいをふくんだ眼で、だまって磯五をみつめた。磯五が、なめらかな声で、いった。
「すこしおそくなりましたので、おせい様は、怒っていらっしゃる」
「いいえ、おこってなんぞおりませんわ。お駒さまはどうなさいました」
「店へ帰って、よくきいてみました。驚きました。あのことはほんとうです」
「ほんとう? ほんとうといいますと、あの、お民さんのおっしゃったことは、みんなほんとうなのでございますか」
「いいえ、みんなではありません。みんなほんとうのことでは、わたしの妹が、泥棒をしたことになるではありませんか。それではあんまりですよ、おせい様。そんなことをおっしゃると、五兵衛は、この可愛いおせい様を、お恨み申さなければなりませんよ」
「あれ、いやでございますよ、つめったりなすっては。ですから、早く、すっかり聞かせて、安心させてくださいましよ」
「すっかりお話しします。五兵衛は、おせい様には、何でも申し上げるのですから」
「そうですよ。それはよく知っていますよ」
「わたしもはじめて聞いたのですが、おせい様、お駒は、可哀そうなやつでございます。わたしの心がらから、おんば日傘ひがさで育ったあいつにまで、えらい苦労をかけました。わたしが京阪かみがたのほうに行っているあいだあいつを、この江戸に、ひとりで残しておいたものです。で、まあ、早くいえば口すぎに困ったのでしょう――」
「あの、いたいけなお駒さんがねえ。まあ、おかわいそうに。聞いただけで、おせいは、なみだがこぼれますよ」
「はい。そうおっしゃってくださるのは、おせい様だけです。わたしも、きょうというきょうだけは、男泣きに泣かされました――それで、あいつも、背に腹はかえられず、素性をかくして、下女奉公とまで身を落としたのだそうです」
「その住みこみなすった先が、吉田屋さんだったのですねえ。あそこは、大店で、人の住まいが荒そうですし、それにあの、お民さんというお人が、気はいい人なのですけれど、ああいうしゃきしゃきしたお人でございますから、お駒さまも、どんなつらい目をみなすったことか、お察しできますでございますよ」
「はい。それはもう、朝から晩まで、つらいことだらけだったそうで、それに、もともと下女に出る生まれではないものですから、いっそう骨身にこたえて、そのうえ氏育ちは、争われませんもので、本人はそのつもりでなくても、やれ、お上品ぶっているとか、いやにお高くとまっているとか、朋輩ほうばい衆と、ことごとにそりが合いません。
 いじめられ通しで、泣きのなみだで、それでもおぬし大事につとめておりますと、どうでしょう。あげくの果ては、あろうことか、あるまいことか、女中どもが寄ってたかって、お駒が、何か御主人のものをったとか、とんでもないぎぬをきせて、そのために、お仕着せまで取り上げられて、ほうり出されたのだそうです。
 これもみんな、ほかに身寄り葉よりもない、たった一人の妹を、うっちゃっておく気はなくても、まあ、うっちゃっておいた、わたしの罪でございます。さっきこの話を、お駒の口から聞いて、兄さん、わたしゃくやしい、といわれましたときは、すまない、お駒、許してくれ、このとおりだと、思わず、このやくざな兄貴のわたしが、お駒のまえに下りましたよ」

      四

「ほんとにねえ」おせい様は、しとやかに眼をぬぐった。
「いいえ、ですけれど、そんな馬鹿なことって、ありませんよ。これから、一っぱしり藁店へ出かけて行って、お民さんに談じこんでやりましょうよ」
 たちかけるのである。磯五は、あわてた。
「いけません。そんなことをなすっては、いけません。何といっても、お駒が、吉田屋さんへ奉公に上がっていたことのあるのは、事実ですし、それに、過ぎ去ったことではあり、いまとなっては、反証あかしの立てようのないことですから――」
「それもそうですねえ。それでは、あの人が、伊万里とかから帰ってきてから、会って、よくいいましょうよ」
「わたしが、三年ぶりに江戸へ舞い戻りましたときは、お駒は、もとの磯屋さんに奉公しながら、仕込みのこつやなどを呑みこもうと、それとなく見ておりました。おかげをもちまして、わたしが磯屋五兵衛となりましたこんにち、あれの、そのときの下地が、たいそう役に立っているわけでございます」
「ほんとに、あなたといい、お駒さまといい、このおふたりの御兄妹ほど、そろいもそろって、世の中のあらなみにもまれたお方は、ござんすまいねえ」
「何だか、わたしも、そんな気がいたしますよ。ふり返ってみますと、生まれてから、おせい様にお眼にかかるまでは、長いながい山みちをあえぎあえぎ登ってきたのだと、しきりに、そんな気がいたします」
 磯五は、膝のうえに両手をさすって、うつむいてそういった。おせい様が、ほっと熱い息をした。それは、羽毛はねのかたまりのように、やわらかく磯五の頬に当たって、散った。
 おせい様は、わきを向いて、ほかのことをいった。感情の張り切った声が、かすれて、ふるえているのだ。
「こんど、お駒さんをここへおびして、きょうのうめ合わせに、三人で御馳走ごちそうをいただきましょうよ。このごろ、いい料理番いたばが来ているのですよ。庖丁ほうちょうからお配膳はいぜんまで、ひとりでしないと気のすまない、面白いおじいさんでございますよ」
 磯五の顔が、おせい様の顔に、寄って行った。おせい様の胸に、すこし残っている火がいま、おせい様の眼から、燃えぬけているに相違なかった。その、ほらほらと燃えあがる眼に、磯五の白い顔が大きくうつった。この、涼しいをしたやさ男が、そっくりじぶんのものなのだと思うと、おせい様は、胴ぶるいがした。
 中庭のむこうの土蔵の影が、ながく伸びてきていて、座敷のなかは、うす暗かった。磯五は、起って行って障子をしめ切って来た。
 お高は、若松屋惣七が、まだ帰ってきていなければいいと思って、いそいで帰宅かえった。お高は、若松屋惣七へきた手紙のことで、惣七のためとはいえ、勝手に策動して、しかも、失敗したので、こころが重かった。どうしていいか、わからなかった。
 じぶんがおせい様と話しているところへ、磯五と、あのお駒という女がやって来たときに、思い切って、磯五が自分の良人であること、そして、お駒は、磯五の妹でも何でもないことをいってのけることができたら、両方の面皮をいっしょにはいで、それがいちばんよかったのだが、お高は、どうしてもそれができなかったのだが。
 その前から、お高があんなにいったのに、おせい様が、ちっとも信じてくれようとしないから、お高に、その力が出なかったのだ。お高が、身分をうちあけて、生きた証拠を示さない以上、おせい様は、磯五のいうことを真に受けて、お高の言には、はじめから一顧をもあたえないにきまっている。だが、お高は、じぶんが磯五の妻であると、おせい様に知られることは恥ずかしくてたまらなかった。とてもいえないのだ。
 おせい様と磯五のあいだが、ゆくところまでいっていることは、お高にも、想像できた。そのおせい様から、そこにそういう女房がいるのに、その夫は、わたしとこういうことになっていますという眼で見られることは、お高の、女としての誇りが耐えられなかった。このへんのこころもちを、磯五は、承知しているらしいのである。承知して、お高の口からばれることはないと、たかをくくっているに相違ないのだ。お高は、磯五ひとりに会って、おせい様を迷わせて、若松屋さまからお金を取り立てて巻きあげることだけは、よしてもらおうと思った。
 お高は、出がけに帯のあいだへはさんで行った、おせい様の手紙を思い出した。早く現金をそろえて、日本橋式部小路の磯屋五兵衛へまわすようにとある、若松屋惣七にあてた督促状だ。お高は、帯のあいだへ手をやってみた。手紙は、そこにあった。その手紙を、どうしようかと思った。若松屋惣七さまに渡したものかどうかと迷った。
 若松屋さまには見せたくない。見せられないと思ったが、考えてみると、この手紙ひとつじぶんの手で握りつぶしたところで、どうなるものでもないと気がついた。第一、若松屋惣七に、何ごとでも隠し立てしておくのが、お高は、くるしかった。もうお帰りになっていることであろうから、いっそすぐお眼にかけようと決心した。

      五

 お高は、うら口からはいって行った。そこだけは、雲のきれ目から、うす陽がさしていた。佐吉と滝蔵が、傘と足駄あしだをならべて、ほしていた。炭屋が来ていた。炭屋は、切った炭に、井戸から水をくんで行って、かけていた。
 誰も、お高がかえってきたことに、気がつかないようすだ。みんなで大声に、たれかのうわさをしていた。旦那やじぶんのうわさをしているのだと、気まずい思いをさせると思って、お高は、うら庭へはいるとすぐ、声をかけた。
「みなさん、よくお精が出ますよ」
 ふたりの下僕おとこしゅと炭屋は、びっくりして挨拶した。
「おかえんなさい」
「旦那さまは?」
「まだお帰りではねえのです。半刻はんときほど前から、お客さんが見えて、待っていなさるけれど」
「あれ、お客さまというのは、どなた」
「名はいわねえのです。おっかねえさむれえですよ」
 お高は、若松屋惣七の武士時代の友だちがたずねてきたのだろうと思って、不思議に思わなかった。炭屋の若い衆へ、笑いかけた。
「そうですよ。水をかけておいてくださいよ。火もちがちがいますからねえ」
「火もちがちがいますよ」
「粉炭は、便利ですから、いつものざるへあつめといてくださいよ」
「こな炭は、便利でさ」
 炭屋の若い者は、おなじことを繰りかえしていった。お高は、笑いながら、[#「笑いながら、」は底本では「笑いなが、ら」]家のなかへはいった。ちょっと自分の部屋へ寄って、顔をなおしてから、客が待っているという、中の間の座敷へ行った。そこは、先日、磯五がはじめてあらわれて、このごろのさわぎの発端となった、あの座敷だった。
 お高が、縁側を進んで行って、敷居ぎわに手をつくと、そっちへ足を向けて、大の字なりに寝ころんでいた男が、むっくり起き上がって、あぐらをかいた。それは、龍造寺主計りゅうぞうじかずえであった。
 お高は、びっくりした。龍造寺主計も、不意に現われたお高を、まぶしそうにながめて、つづけさまに、ばたきをした。伸びをした。
「ついたものとみえます。御主人が、おかえりになったのですか」
「いいえ、若松屋さまは、まだおかえりになりませんでございますけれど、御用は、わたくしが、伺っておきますように、しじゅういいつかっておりますでございます。わたくしも、ちょっと他行たぎょうをいたしまして、ただいま戻りましたところでございます。失礼をいたしました」
 いいながら、お高は、龍造寺主計を観察した。龍造寺主計は、かさ草鞋わらじをとっただけで、旅装束のままである。はだしの指のあいだに、土のような真っ黒なごみがたまっているのが見える。まくらにしていたらしく、おかしいほど長い、無反むそりの刀が、あたまのほうに置いてあるのだ。汗と陽のにおいが、お高の鼻へただよってくるような気がした。
 お高が、江戸で見慣れている武士とは、全然違った型なのだ。陽にやけた顔に、あばたがいっぱい浮き出ているのだが、お高は、何だか、男らしい立派な人だと思った。
 先方が口を切るのを、お高は待った。龍造寺主計が、いい出していた。ふとい短いくびから、うがいをするように出てくる声だ。
「留守に上がりこんで、すみませぬ。先ほど江戸へ着いたばかりだ。さっそく若松屋惣七どのにお眼にかかりたいと存じて、推参いたした」
「あの、旦那さまのおしりあいの方でいらっしゃいましょうか」
「あんたは、こちらのお内儀かな?」
 お高は、あかい顔をした。
「いいえ。旦那様はお眼がおわるいので筆役のようなことをいたしておりますものでございます」
「ほう、眼が悪い。それは御不自由な」
 龍造寺主計は、まゆをよせた。彼は、心から気の毒に思ったのだ。そういうふうに、すぐ人に同情したり、他人のことを心配したりする男なのだ。
 しばらく黙っていた。やがて、いった。
「いずれ戻らるることであろう。待ちましょう」
「はい。御迷惑でございませんければ、どうぞお待ちなすってくださいまし」
「うむ、待とう。が、考えてみると、待って、会ってみたところで、しようがないかもしれないのだ」
「はい。でも、それは、どういうわけでございますか」
「ひとつ、あんたにだけでも、聞いてもらおうか」
「はい。うかがわせていただきますでございます」
「まあ、おはいり。こっちへおはいり」
「いえ、こちらで結構でございます」
「さようか。おれは、旅をしておる者だ」
「はい」
「旅をしておると、さまざまな人間に会う。いやでもあうぞ」
「はい」
「その旅で一度会うたことのある人間を、いま、この江戸で、さがし出したいと思うのだ。むりかな」
「あら、いえ。ちっともごむりなことはございますまい」
「まあ、聞きたまえ。ひとつ、聞かせてやろう。剣を弾じて、うたうのだ」

      六

 馮驩ひょうかんその剣を弾じてうたう。と、口ずさみながら、龍造寺主計は、うしろざまに手をのばして、まくらにしていた長刀を、とりあげた。お高が、ぎょっとしているうちに、すうと抜いた。お高は、あっと小さく叫んで、思わず膝を上げようとした。
 そのとき、龍造寺主計の歌声がしていた。それは、詩吟のようでもあり、長歌のようでもあり、俗謡のようでもあった。おそらく、彼自身の独特の調しらべなのであろう。不可思議な節まわしで、はじめは低く、お高があっけにとられているうちに、だんだん高くなっていった。
今日こんにち鬢糸びんし禅榻畔ぜんとうはん茶煙軽※(「風にょう+昜」、第3水準1-94-7)さえんけいよう落花らっかの風――」
 それは、杜牧とぼくの詩であった。朗々たる声だ。その朗々たる声で、うたいながら龍造寺主計は、奇妙な楽を奏しているのであった。彼は、琵琶師びわしが琵琶を弾ずるときのように、長剣を、きっさきを上に、膝のうえに斜めにかまえて、声を合わせて、左手のつめ刀刃とうじんをはじくのである。また、ときとして、こぶしをつくって、刀身のあちこちを、かるく打ったのである。
 すると爪にはじかれたうす刃は、かすかに、微妙なひびきをつたえる。こぶしでたたかれた刀身は、その箇所かしょによって、ふとく細く震動して、単調なようで複雑な、複雑なようで単調の音波を、くうへむかって発するのだった。それを、龍造寺主計は、早く、おそく、強く、よわく、上に、下に、いろいろに、刀身を握ったり、指をかけたりして、たくみに調節しているのである。
 龍造寺主計は、そうして文字どおりに、剣を弾じているのだった。剣は、打々ていていと、錚々しょうしょうと、きつきつと、あるいはむせぶがごとく、あるいは訴うるがごとく、あるいは放笑するがごとく、あるいは流るるがごとく、立派に、弾奏の役目をつとめているのである。この、龍造寺主計の刀は、ただ非常に薄いばかりでなく、何か特別のつくりででもあるのであろうか。
 龍造寺主計は、はじきながら、打ちながら、刀身の上下を押えて、震幅を加減し、うっとりと眼をつぶってまた歌い出していた。
「きんらい酒にあてられて、つねにおそし。して南山なんざんを見て、旧詩をあらたむ」
 お高は、笑いだしていた。
「ほんとうに、結構でございます」
 龍造寺主計は、かたなのつまびきをつづけながら、また口をひらいた。こんどもうたかと思うと、今度は、ことばであった。
「若松屋惣七どのはたずね人の助力など、なさらぬかな」
「それは、なさらないことは、ございませんが、どういう筋あいでございましょうか」
「ぜひわたしに手をかして、この江戸で、人をひとりさがし出してもらいたいのだ」
「さようでございますか。お身内の方でも、行方知れずになったのでございますか」
「いや。さようなわけではござらぬ。さがし出して、この刀に、血塗らねばならぬやつなのだ」
「はい。そうしますと、かたき討ちでございますか」
仇敵かたきうち――といえば、かたきうちだが、かたき討ちでもない」
 このやりとりのあいだも、龍造寺主計は、つるぎのつま弾きをやめないのだ。伴奏入りの会話なのだ。
「すると、どういうことなのでございましょうか」
「人殺しをした者です」
「それでは、御公儀へ、御訴人ごそにんなすったほうが、およろしゅうございましょう」
「いやいや、公儀へ訴え出ても、むだだ。取りあげにならぬことは、わかっている。その者は、やいばで人を斬ったのでも、毒を盛って殺したのでもないのだ。わたしが、めぐりあわぬことには、そやつに、罰の下りようはないのだ」
 お高は、相手の力づよいことばに、何となく、こころよい戦慄せんりつを感じた。龍造寺主計の大まかな顔がゆったりと笑っていた。お高は、ふと若松屋惣七のことを思いうかべた。同時に、磯五のことが、あたまにきた。そして、若松屋惣七や、この、刀をひいている変わったおさむらいにくらべて、磯五は、むしけらのなかの虫けらであると思った。
 龍造寺主計は、何ごとか思いついたらしい。刀をおいた彼は、無器用な手つきで、ふところをさぐって、はだのあぶらを吸って黒く光っている、胴巻きをとり出した。胴まきは、ずっしりと重そうに、ふくらんでいた。龍造寺主計は、その中から、小判をつかみ出していた。それは、ざっと十両であった。
「忘れるところであった。江戸へ参った記念に、何かためになるところへ、この金子きんすをおさめたいと思うのだが――このへんに、子供はおらぬかな」
「子供衆でございますか。子供衆ならこのおもての金剛寺というお寺に、たくさんおりますでございますよ。あそこには、一空和尚いっくうおしょうというえらい坊さんがいらしって、御自分の坊に、この界隈かいわいのおこども衆をおおぜい集めて、学問を教えておいでになりますから」
「何という坊主だ」
慧日山けいにちざん金剛寺の、一空和尚でございますよ」
「しからば、その坊主のもとへ、この金子を献じて参ろう。若松屋どのの帰りを待つあいだに、ちょっと行って来ましょう」
 龍造寺主計は、手の小判をちゃらちゃらいわせて、飄々ひょうひょう[#「飄々ひょうひょうと」は底本では「ひょう、飄と」]たち上がっていた。


    衣懸きぬかけの松


      一

 龍造寺主計は、思い立つとすぐ、うらの金剛寺の一空和尚のところへ金を納めに出て行った。
 お高は、何という変わったお侍であろうと思った。そして、しじゅう近所の子供を集めて、子供たちといっしょに遊びながら学問を教えている、あの一空和尚のでっぷりふとった。のんきそうな顔を思い浮かべた。あれでこれから春秋しゅんじゅうの畳がえをしたり、新入りの子供のために机を買ってやったりできるから、和尚もよろこぶだろうと思った。和尚は、俗姓を柘植つげという人であることを、お高は聞いたことがあった。
 お高はふとそれを思い出して、不思議な気がした。お高の父は、深川の古石場ふるいしばに住んでいた御家人だったが、母は、柘植という町医の娘であった。あまりない苗字みょうじなので、一空和尚は、母方の何かに当たるのではないかと、ちょっとそんな気がした。
 が、そんな気がしただけで、すぐほかの考えごとにまぎれてしまった。
 龍造寺主計という人物には、驚かされたけれど、江戸で、ある人間をさがし出して罰を加えるのだといった彼のことばには、お高は、たいして興味を感じていなかった。おおかた好きな女でもひどいことをした男があって恨みをいだいているようなことであろうと思った。
 若松屋惣七は、どこへ行ったのか、まだ帰って来なかった。
 お高は、名だけにしろ良人おっととなっている磯五と、ほんとうの良人のように思っている若松屋様とにはさまれている、今の自分の立場を考えてぞっとした。磯五と若松屋の抗争あらそいが、音もなく燃えさかる火のようなものに思えて、お高は、じぶんのからだがじりじり焼けてゆくような気がした。
 龍造寺主計と対坐していたときのまま、敷居近くにすわって、ぼんやり考えこんでいた。
 おもての金剛寺坂を、何かうたいながら、三味線をひいて行く、男と女の声がしていた。お高は、それを聞いて、流しの芸人夫婦を想描した。その雨をも風をも分け合っているすがたをお高はうらやましく感じた。何もかも知りあい話しあって、この世の中の重荷をいっしょにかついで行く相手のある人が、いちばんしあわせなのだと思った。
 磯五のことが、心に浮かんだ。磯五という人は、女の口に口を当てて、誠実まことを吸い取りながら、心で他の女のことを考えている、恐ろしい人だと思った。自分がそれに気がつかなかったように、いまおせい様はそれに気がつかないでいるのだ。
 おせい様ばかりではない。あの妹に化けているお駒という女も、すっかり磯五のものになっているのだろうが、磯五の人柄には気がつかずに、女のほうから打ち込んでいるに相違ないのだ。お高は、磯五が、女の毒にあてられてからだがきかなくなればいいと思った。
 そんなことより、お高としては、若松屋惣七をこの急場から、救いさえすればいいのだ。それには、どうしたらいいか。若松屋惣七は、まだあのおせい様の手紙を見ないのだから、おせい様が矢のように金の督促をするかげに、磯屋五兵衛が糸を引いていることは知らないのである。
 これだけは知らせたくないと思って、お高は、こんなに苦心をしているのだが、ああしておせい様のほうが、だめになった以上、今度は、磯五ひとりに会って、まごころをこめて頼むよりほかはあるまい。まごころは必ず人を打って、人を動かすはずである。磯五とて、人間には相違ないのだから、ことによったら理解をして、おせい様を通して若松屋さまをいじめることを思いとまってくれるかもしれない。いや、きっと思いとまらせてみせる。
 とお高が、頼みにならないことを頼みにして、やっと自分を励ましているときに、庭の草を踏んで来る跫音あしおとがした。滝蔵だ。
「旦那は、まだお帰りがねえようだが、おそいことですね」
「どちらへおまわりになったのか、わたしにも心あたりがないのですよ」
「それはそうと、いまどこかのもりが使いに来ているのです。誰か、男の人に頼まれて、お前様を迎えに来たとのことで、裏門に立って待っているので」
「おや、いやな話でございますねえ。わたしは男の人に呼び出されるような覚えはありませんよ」
「わっしもそう思って、めったなことがねえように断わったのですが、ちょっと帰って、またすぐ同じ口上をいって来るのです。二度も三度も来るのです」
「いやですよ。断わってくださいよ」
「何度断わっても、来てしようがねえのです」
「人聞きが悪いじゃあありませんか。何かわたしに、まともに来られない男の相識しりあいでもあるようで――誰でしょう、用があったら、自分で来たらいいじゃないの、ねえ」
「そうですよ。金剛寺さんの実朝様のお墓の前に待っているというのですよ」
 金剛寺と聞いて、お高は、ことによると今出て行ったお侍ではないかと、思った。あの変人が、何をまた思いついて、子守こもりをなぞ使いに、そんなことをいわせてよこしたのだろう――。
「行ってみようかしら」
「そうですか。守っ娘が待っているのです」
「行ってみようよ」
 お高はたち上がった。滝蔵が、心配そうな顔をした。
「あっしが、そっと後をつけて行ってもようがすよ」
「大丈夫ですよ。あそこは、参詣さんけいの人も多いから、心配しないでくださいよ」

      二

「おや、お前さまは五兵衛さまではございませんか。いやでございますねえ。何ぞわたしに、急な用事でもできたのでございますか」
 若松屋惣七方のうら手、小石川上水堀のはたにある金剛寺は、慧日山けいにちざんと号し、曹洞派そうとうはの名だたる禅林だ。境内けいだいに、源実朝みなもとのさねともの墓碑が[#「墓碑が」は底本では「幕碑が」]あった。碑面には、金剛寺殿こんごうじでん鎌倉右府将軍かまくらうふしょうぐん実朝公さねともこう大禅定門だいぜんじょうもんと大きく一行に彫ってあった。
 その実朝公の碑のまえに、人目を忍ぶように立っていたのは、磯五であった。磯五は、近くに遊んでいた、子守娘に駄賃をやって、こうしてお高を呼び出したのだ。子守は、お高をそこまで案内して、役目をはたして立ち去って行った。
 磯五は、何にもいわずに、お高についてくるように眼くばせをして、先に先って[#「先に先って」はママ]あるき出した。碑の裏へまわって、松林のなかへはいって行った。お高はしぶしぶあとを踏んだ。
「何の御用か存じませんが、なぜうちへいらっしゃらずに、あんなを使いによこして呼び出したりなさるのでございますか」
 そこは老松と老杉の幹にかこまれた、ちょっとした開きだ。下は、茶色になった去年の雑草だ。むこうに本堂が見えるのだ。
 ここに、きぬかけの松といって、名木になっている、いっぽんの木がある。下枝が一本、物ほし竿ざおのように横一文字に伸びて、地上三尺ばかりのところを、長く突き出ているのである。さながら衣をほすために細工したようであるというところから、いつからともなく衣かけの松の名があるのだが、いま磯五は、この衣かけの松の、横に張り出ている枝にひじをのせて、よりかかった。お高は、枯れ草のあいだにしゃがんだ。
「あのめくら野郎に会いたくねえから、おめえにここまで出て来てもらったのだ」
 磯五は、お高にうす笑いを落とした。お高は、自分のほうから、一人とひとりで磯五にぶつかっていこうとさっき決心したことを思い出して、これはいい機会だと思った。
「わたしのほうにも、いいたいことがありますでございます。ざっくばらんにいいますよ。おせい様をだまかすのはよしてくださいまし。あなたがおせい様をだまして、いっしょになるの何のとちゃらんぽらんをいうものですから、おせい様が、若松屋さんからお金を引き出そうとして、若松屋さまもわたしも、たいそう苦しめられておりますのでございます」
「他人の金を預かっておきながら、自用にまわしたりするのが悪いのだ」
「わたしはおせい様に、お前さまには女房があって、その女房は生きていますといいましたでございますよ」
「そんなことだろうと思って、きょう限り、おれのことにはかかりあってもらうめえと、それをいいに来ましたよ」
「お前さまこそ、きょう限り、おせい様をそそのかして若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ今度は、このわたしこそ磯五の女房でありますと、おせい様に打ちあけるつもりでございます」
「ははあ。それは面白い」
 磯五は、せせらわらって「ぜひ打ちあけてもらおう」
 お高は、あいた口がふさがらないように、磯五を見上げた。磯五は、うそぶいていた。
「おめえが何といったところで、おせい様は、おめえよりもおれを信じるのだ。なるほど、おめえがその女房だと名乗れば、何よりの証拠だから、おせい様もびっくりするだろう。悲しむだろう。が、いくらびっくりしても、悲しんでも、それかといって、そのときからおれがきれえになるわけのものでもねえ。かえって、いっしょになれないとわかれば、いっそうつのってくるのが、ああいう女のこころもちだ。高音、藪蛇やぶへびだぜ、これあ。藪蛇はよしな」
「何が藪蛇でございます」
「薮蛇じゃあねえか。よく考えてみなさい。おめえがおせい様に身分を打ちあける。すると、おせい様の心になってみれば、おめえというものがあるばっかりに晴れておれと夫婦になるわけにゆかぬ。すりゃ、おせい様はおめえが憎くなる。けてもくる。
 その憎い恋がたきのおめえが、おせい様の道に立って邪魔しながらじぶんでは、一方にあの若松屋とねんごろにしている――おせい様は、おめえに対する意地からでも、いっそう激しく督促して、若松屋をいためつけるに相違ねえ。これは誰に聞かせても、むりのねえところだろうと思うのだ」
「わたしは、何も、おせい様のお金のことばかり申すのではございません。お前さまがあのお方をたぶらかしているのが、悪いというのでございます」
「うんにゃ、そうじゃあねえ。お前は若松屋のほうさえ取り立てが延びれば、それでいいのだろう。ちゃんと面に書いてあらあ。好きな男のために、と。あははははは――おらそれが気に入らねえのだ」

      三

「いったい何の御用でわたしをここまで呼び出したのでございます」
「おめえが拝領町屋へ出かけて行って、よけいなことを  ようだから[#「  ようだから」はママ]、それをやめさせようと思って、急に出向いて来たのだ。わるいことはいわぬ。早々このことから手を引いたほうが、おめえのためだろうぜ」
「それこそよけいなお世話でございますよ。わたしは、お前さまのようなお人が、四方八方に迷惑をかけているのを、黙って見ているわけにはゆきませんでございますよ。手を引けなどと、よくもそんな虫のいいことがいえましたねえ」
「昔のよしみだ。なあ、高音、たがいに邪魔だけはしないことにしようじゃないか」
 磯五がにっこりすると、ちらりと白い歯が走って、小指の先ほどのえくぼがあくのである。お高は、その顔を見ないように眼を伏せて、足もとの枯れ草をむしった。
「いやでございますよ。もうその手には乗りませんよ」
「一言いっとくぜ。後悔しねえようにな」
「おどかしはききませんよ」
 と、いったものの、お高は、とうてい自分が、磯五の敵でないことを知った。手も足も出ないのだ。磯五は、先のさきまで見抜いてる。女のこころもちというものを、鏡にかけるように、すみずみまで知っているのである。
 彼のいうとおり、たとえおせい様は、お高が磯五の女房であって、そのために磯五といっしょになれない。その点では、磯五にだまされていたと知っても、ちょいと何か磯五がうまいことをいいさえすれば、また、ちょろりとごまかされて、かえって磯五に同情を寄せるようなことになるだろう。そして、お高への嫉妬しっとと反感から、いっそう若松屋惣七をせっつくことであろう。かえって事態を悪くするに相違ないのだ。
 ではどうしたらいいか。どうもできない。お高は、とっさに自問自答した。
 磯五が、例の油のような声でいっていた。
「とにかく、おせい様にいらぬことをいわねえようにしてもらおうと思って、おせい様のとこから帰るとすぐ、その足でここへ来たのだ。若松屋が、おせい様の金のことで四苦八苦していようが、いまいが、そんなことはおれの知ったことじゃない。おれはただ、おめえを、このことから手を引いたほうが利口だと納得させれあいいんだ。わかってくれたな」
「わかりませんよ。ちっともわかりませんよ。決して手を引きませんから、そのおつもりでいてくださいよ」
 叫ぶようにいったお高だ。それには、泣き声のようなものがまじっていた。色のないくちびるを歯がかんで歯のあとがついているのだ。
 お高は、あおい顔をして、たち上がっていた。
「お前さまのようなお人、もうもう顔を見るのもいやでございます。せいぜいおせい様なり、あの急ごしらえの妹さんのお駒とかいうひとなり、そのほか何人何十人の女でも、手腕うでいっぱいにおだましなすったがおよろしゅうございましょう。女をおつくりあそばすのは、殿方の御器量と申すことでございますからねえ。ほんとに、磯屋五兵衛さまは、見上げたお腕前でいらっしゃいますよ。ごめんくださいまし」
 お高は、ちょっともすそをからげて、草を分けて歩き出した。白い足に、きつねいろに霜枯れのした草の葉がじゃれついて、やるまいとするようにからんだ。本堂の屋根を、筑波颪つくばおろしがおどり越えてきた。周囲の老松と老杉のむれが、ごうごうと喚声をあげた。うす陽のかげがふるえた。えかえる寒気だ。
 磯五は、衣かけの松のその衣かけの枝に、うしろざまに両肘をあずけてもたれかかったまま、立ち去ってゆくお高を見ていた。お高は、立ちどまって、腰をまげて、風にあおられる着物を押えていた。風を持てあまして、くるりと向きをかえた。磯五のほうを向いたのだ。磯五は、あごを引いて、えくぼを深くしながら、お高を見ていた。
 お高は、頭髪かみのけが顔へかかってきてしようがないので、それをもかきあげた。そういう乱れたところを、まじまじと男に見られるのがいやだったので、ついにっこり笑ってしまった。てれかくしに笑ったのだが、磯五も、すぐに笑いかえした。
「高音、そうけんけんいわずと、ここへ帰って来なさい。まだ、話があるんだ」
 風が、その離れたところから、お高の声を運んできた。
「そのおはなしというのは知っていますよ。わたしはお駒さんではありませんからねえ。お前さまが勝つかわたしが勝つか、これからは、はっきり敵味方に別れて、智恵くらべをしましょうよ。お前さまが勝てば、わたしが負けるのでございますし、わたしが勝てば、お前さまが負けるのですよ」
「そういうことになりますかな」
「そうでございますよ」
「何をわかりきったことをいうのだ。おい、高音、こっちへ来な」
 磯五の顔が急に動物的にゆがんできた。お高は、磯五が何を考えているのかわかった。ふと磯五にかれるものが、お高の身内にちらとひらめいた。それは、忘れていた磯五であった。お高は、たぐり寄せられるように、磯五のほうへ引っ返しかけた。そこへ強い風が吹いたので、お高は、風に押されて、ころがるように、よろよろと意外に磯五の近くまで来てしまった。
 磯五は衣かけの松をくぐって、むこう側へ出ていた。そこは、にかこまれて、どこからも見えないところであった。磯五は羽織を脱いで、ふわりと草の上にひろげていた。

      四

 それを見ると、お高は、はっとした。いそいで磯五に背中を向けて、風にさからって走り出した。うしろで何かいう磯五の声がしていた。ばらばらと衣かけの松を離れて、追っかけてくる気はいであった。お高は、口をあけて風をのんで、けつづけた。夢中であった。
 樹のあいだを縫って逃げるので、いきなり眼のまえにあらわれる立ち木を、すばやくかわすのが大変であった。お高がその樹々のあいだをすり抜けるときは、踊りの手ぶりのように見えた。すぐうしろに、磯五のあし音が迫ってきているような気がした。何度も、声をあげようかと思った。
 実朝公の碑のまえから、もと来た参詣みちへころび出たところで、お高は精がつきて、地面へくずれようとした。話しながら通りかかっていた二人づれがあった。左右から手を伸ばして、お高をささえてくれた。
「ほう。お前は、さっきの若松屋の人ではないか。こんなところを駈けまわって、何をしているのです」
 龍造寺主計が、面白そうにいった。ひとりは、龍造寺主計で、もう一人は、一空和尚であった。一空和尚は、まるい顔に、仕つけ糸のような細い眼を笑わせていた。でっぷりしたからだを、つんつるてんの衣で包んでる。
 いつも若者のように元気な老僧だ。まっ赤な顔をして、笑ってばかりいるのだ。馬鹿みたいだが、たいへんに悟りをひらいた坊さまだということだ。ころものそでをほらほらとゆすぶって、大きな口を空へむけて、笑った。
うさぎ狩りでも思いつかれたかな」
 そして、手をあげて、すこし離れた箇所かしょを指さした。そこには、風雨にさらされて字の読めなくなった禁札が建っていた。御門内にてとんぼることならんぞよ、と大きく書かれてあった。
「あれは蜻蛉とんぼじゃが」と、和尚はさとすようにいった。「兎もとれまい。兎はおらんから。おれば、わしがとらえて、兎汁にするが」
 龍造寺主計は、一空和尚のところへ来る学童のために金をおさめたのち、山門まで和尚に送られて、出るところであった。一空和尚は、龍造寺主計という人間が、すぐすきになったとみえて、ことわるのに、そこまでといって、ならんであるいて来たのだ。
 龍造寺主計はあわてふためいているお高のようすを、ただごとではないと思った。やさしく抱き起こしてきいた。龍造寺主計は、女には、やさしいところがあるのだ。それは、いやみのあるやさしさではなくて、強いものが弱いものをいたわるというだけの、自然なやさしさだ。
「何ごとが起こったのか。わる者にでも追われましたか」
 お高は、明るい世の中へ帰ったようで、うれしかった。着物のみだれを直しながら、しきりに、逃げてきたほうをふり返った。そこの樹のあいだから、今にも磯五が飛び出して来そうで、飛び出して来たら、こんどはこっちから、思いきりいいののしってやりましょうと思った。やっと呼吸いきをしずめて、口をきいた。
「あの、磯屋五兵衛さまが――」
 と、いいかけた。龍造寺主計は、一空和尚の顔を見た。それから、お高へ眼をかえした。
「磯屋五兵衛と申すのは、何者かな。わたしは知らんぞ」
「わしも知らん」
 一空和尚が、いった。お高は、ふたりが磯五を知っているわけはなかったと気がついて、いきなり名まえをいったじぶんが、おかしかった。が、何者かときかれて、返事に困った。何者かといえば、良人でございますというほかはないので、それは、いやであった。
「日本橋の呉服屋さんでございます」
「日本橋の呉服屋がどうしたのです。どうもわからんな」
「わしにも、わからん」
「いえ」お高は、このまますましたほうがいいと思った。おかしくなって、くっくと笑い出した。「何でもないのでございます。ちょっと――」
「いや、何でもないことはあるまい。ちょっと、どうしたというのか」
「はい。ちょっと――」
「その者はどこにおる」
「もうどこかへ行きましてございます」
「そんなことはあるまい。拙者が見届けて進ぜる。こっちへ来るがよい」
 お高は、ためらった。もし磯五が、この荒っぽそうなお武家さまにつかまって、ひどい眼にあわされるようなことがあっては、可哀そうだと思った。かるくあらがった。
「いえ。もうよろしいのでございます」
 が、龍造寺主計に手をとられて、せきたてられてみると、もともと自分のことなので、また衣かけの松のほうへ引っかえして、龍造寺主計を案内しないわけにはゆかなかった。一空和尚も、ついて来た。お高は、磯五はもういないだろうと思った。いてくれなければいいと願った。
 衣かけの松の見えるところまで来ると、お高は、立ちどまった。羽織を着直した磯五が、ぶらぶらこっちへ歩いてくるところであった。
「あれか」
「はい。あの人が、磯屋五兵衛さまでございます」
「ふうむ。あれが、な」
 龍造寺主計は、感心したように、うめくようにいった。そして、ぼんやりお高の手を放して、足早に、磯五に近づいて行った。ぴたりと、磯五の前にとまった。
 磯五は、ちょっと驚いたようだったが、平気で、龍造寺主計をみつめていた。龍造寺主計は、左手ですこし刀を押し出して、口をまげて、お高をかえり見た。それから、また、じっと磯五を見すえた。
「化けおったな、こいつ」
 磯五は、顔いろひとつ変えなかった。お高のほうが驚倒した。お高は、龍造寺主計の腰にある刀が、今にも走り出そうな気がして、とっさに何もかも忘れて、ふたりのあいだへ割り込もうとした。
 一空和尚が、にこにこ笑って、抱きとめた。
 龍造寺主計が、声だけお高のほうへ向けた。
「会うたぞ。この男なのだ、さがしているのは。もう、若松屋に頼むことはない」



    寒雨かんう


      一

 自分を忘れたお高だ。また、ふたりのあいだへ割り込もうとした。名のみの良人であるばかりか、いまは敵となっている磯屋五兵衛だ。が、この磯五の急場にあたって、お高のこころに残っている愛の破片が、お高をじっとさせておかなかったのだ。お高は、一空和尚の腕をふりほどいた。磯五をかばうように、龍造寺主計の眼下に立った。
 龍造寺主計りゅうぞうじかずえは、はや鯉口こいぐちを押しひろげて、いまにも右手が、つかへ走りそうに見えるのだ。
「何ごとか存じませんでございますけれど」お高は、うわずった声だ。「ここは、御門内でございますよ。さっき御制札がございましたよねえ。何とございましたかしら。御門内にて、とんぼ獲ることならんぞよ――」
 笑おうとした。笑えなかった。お高を見おろしている龍造寺主計の眼が、笑った。
「うむ。なるほど。そこで、この蜻蛉も、ゆるしてやれというのか」
 磯五は、土いろの顔をこわばらせて、無言だ。お高は龍造寺主計へ、にっこりした。
「さようでございます。どうか、このとんぼを、逃がしておやりなすってくださいまし」
「とんぼは、面白い。たとえ蜻蛉一ぴきでも、寺内において殺生は遠慮せずばなりますまい。わかった。いずれ機会はある。ここでは斬らぬから安心しなさい。いや、これが、わたしが江戸へ捜しに参った当の男なので、顔を見たとき、むかむかとしたまでだ。大丈夫ここはこのまま逃がしてやる。うふふ、いかさま御門内じゃ。とんぼは獲らぬ。が、このとんぼめ、いまは何と名乗って、どこに住んでいると申したかな」
 磯五は、もうけろりとして、龍造寺主計の顔をみつめたまま答えようとしないので、お高が、代わって答えた。
「日本橋式部小路の呉服太物商、磯屋五兵衛と申すとんぼでございます」
「あくまでとんぼか」龍造寺主計は、やわらかになった眼を、お高へ置いて「その磯屋五兵衛を許すのではない。お前のあつかいによって、とんぼを一匹ゆるしてつかわすのだ。しかし、上方で、こやつは何と申しておったか、ただいまちょっと失念いたしたが、むこうで会うたこともあるし、わしは、人の顔を見違うことはない。この顔だ。盛り場の人込みで一瞥いちべつしても、識別いたす。この顔です」
 一空和尚が、はじめて口を出した。
「何だ。面白うもない。喧嘩けんかは取りやめかい」
 吐き出すようにいって、本堂のむこうにある自分の庵室あんしつのほうへ、どんどん帰って行った。
 磯五は、終始しゅうし口ひとつきかなかった。平気な顔だ。さっさと実朝の碑のほうへ歩き出していた。そっちを廻わって、門を出てゆこうというのだ。その磯五のあとを見送っていた龍造寺主計に、瞬間、ふたたび激しい憎悪がひらめいたが、しずかに話しながら、お高とならんで、おなじく帰路につきかけた。ゆっくり、あるいた。
「もう若松屋惣七どのにお眼にかかって、たずね人に力ぞえをたのむ要もなくなった。運命が、若松屋殿の役目をしてくれた。日本橋の磯屋五兵衛なるものが、きやつであるとわかっておれば、あとは、いつでもよい。いつでもできる」
 境内から樓門さんもんへかかったときは、先に出た磯五のすがたは、もう通りのどこにもなかった。
 お高は、磯五と、その旅の武士さむらいとの関係が気になって、磯五が京阪かみがたで何をしたのか、早く聞きたくてならなかった。磯五は、何もいわないのだ。しかし、この龍造寺主計という人の出現で、じぶんと磯五と若松屋惣七さまとのうずまきが、いっそうこんがらかってきそうなことは、考えられるのだ。
 龍造寺主計は、自分のさがしている男は、公儀のおもてはそうでなくても、神仏の眼からは人殺しであるといった。きっとまた、ひたむきの女のこころとからだをもてあそんで、何か悪いことをしたのであろう。お高は、それにきまっていると思った。
 若松屋惣七ほど、磯五の性格をつかんでいるわけではないが、あの人がよくないことをすれば、それは必ず異性に対してであると、じぶんの経験や、その後の磯五に関する見聞によって、お高は、信じ切っているのである。はじめから男を相手どって、それを敵にまわすような、さわやかな人物ではないのだ。
 それが、いま磯五は、龍造寺主計というはっきりした敵を、この江戸に持つことになったのだ。お高は、とんぼとして助けられたきょうの磯五が、何だかみじめに思われてきた。今のように、男対男として、ほかの男のまえに立つと、ずうずうしいうちにも、ぽっちゃりとしてやさしい磯五が、妙に可哀そうに思われてきた。このさき、どうなるであろうかと思った。
 龍造寺主計は、何か考えている。黙って、歩いている。お高は、そっと龍造寺主計の横顔を見た。そこにお高は、磯屋五兵衛とは極端に反対な人間を見た。やわらかい心臓を包んでいる強い線が、龍造寺主計だ。おなじ男で、こんなにも違うものであろうかと、お高は思った。

      二

 龍造寺主計は、それきり何もいわなかった。つれだって、金剛寺坂の屋敷へ帰ってみると、若松屋惣七はまだかえっていなかった。
 龍造寺主計は、もう若松屋惣七に会う必要がなくなったから、待たなくともいいといったが、どこへも行くところがないので、お高の厚意で、若松屋方へ泊まることになった。お高は、佐吉に命じて、龍造寺主計のために、離室はなれに床をとらせた。
 佐吉に、龍造寺主計のめんどうをみさしておいて、じぶんは、居間へ帰った。しばらく起きていて、若松屋惣七のかえりを待ってみたが、帰りそうもないので、寝る支度をはじめた。
 するりと着物を脱いだところへ、ふすまがあいたので、お高は、びっくりした。着物を前へかけて、その場へしゃがんだ。それは佐吉であった。佐吉は、白い肩を見せてすくんでいるお高を見ると、あわてて襖をしめた。
「何ですよ。そこでいってくださいよ」
 佐吉は、外でいった。
離室はなれのお客さんが、御酒ごしゆを所望なすっていられるのです。宿をするぐれえなら、寝酒はつきものだとおっしゃるので」
「そうですよ」お高は、おかしかった。「出して上げてくださいよ」
 佐吉の跫音が遠ざかってゆくと、まもなく、ひとりで酒をくみながら唄うらしい、龍造寺主計の声が、庭のやみに漂って聞こえてきた。
「きんらい酒にあてられて――」
 お高は、床のなかで、小さな声をたてて笑った。
 お高は、金策に出たきり帰らない、若松屋惣七のことを考えて、眠れなかった。じぶんの考えたことが、すべて失敗に終わったことも、思い出された。おせい様に、ほんとうの磯五を見せようとして、だめだったこと。若松屋惣七様からお金を取り立てることをよさせようとして、よさせられないこと。磯五に、ひとりでぶつかってもみたが、何にもならなかったこと。それからそれと、あたまが、冴えていった。
 早く起きた。おっくうに思いながら、身じまいをすました。滝蔵が、膳を持ってきたが、はしをとる気になれなかった。
「旦那さまは?」
「ゆうべおそくお帰りになって、奥でおやすみですよ」
「あれ、なぜわたしを起こしてくださらなかったのだろうねえ」
此室こちらをのぞいていなすったが、あまりよくているとおっしゃって、奥へ通られて、すぐお寝なされたのですよ」
「いやですねえ。どんなに眠っていても、起きたのにねえ」
 いってから、お高は、赧い顔をした。佐吉も、ちょっと笑った。お高は、もうたち上がって、部屋を出かかっていた。
「まだお眼ざめではないでしょうけれど、ちょっといってみましょうよ」
「まだお眼ざめはねえのです」
 お高は、奥の若松屋惣七の寝間へ行って、そっと障子をあけてみた。枕のうえに、死面のように蒼白い、若松屋惣七の寝顔があった。それは、憂苦のためにいっそう頬がこけて、けずったような、ほそ長い、するどい顔であった。
 お高は、それに吸い寄せられるように、あし音を忍ばせてはいって行って、まくらもとにすわった。夜着のはしに手をかけたが、疲れて熟睡しているらしいので、起こす気になれなかった。すこし口をあけている顔をみつめていると、お高は、悲しくなってきた。お高は、またそっと部屋を出て、縁から庭下駄げたをはいて、庭へおりた。
 土が、しめっているのだ。うす陽が、梅の木を照らしているのだ。梅の木には、花があった。おそいつぼみもあった。蕾は、むすめの乳首のようだ。お高は、そのまきのような梅の木にも、そんなえる力があるのかと何だか恥ずかしいような気がした。
 肩が重く意識されてきた。小雨だ。朝から、日照り雨が渡ってるのだ。一雨ごとのあたたかさが、来るのだ。そこにも、ここにも、春のにおいがある。お高は、鼻孔をふく雨をすいこんで、それをかいだ。
 濡れるのもかまわず、その香をむさぼって、あるきまわっていると、離室の雨戸が繰られて、龍造寺主計の寝巻きすがたが、立った。
 龍造寺主計は、やっこだこのような、のりのこわい佐吉の浴衣ゆかたを、つんつるてんに着ていた。毛だらけのすねを出して、笑っていた。
 お高を見ると、そのまま縁側に腰をかけて、そばの板の間をたたいた。
「ここへ来て、掛けなさい。きのうの蜻蛉のはなしをして進ぜる」

      三

「あの、いま磯屋五兵衛と名乗っている男のことだが驚かれましたかな」
「何を驚いたかとおっしゃるのでございますか」
「いや、わたしがねらっているのは、あの男だと知ってあんたは驚いたことであろうが、わたしもあんたのような無邪気な女が、あんな男と相識しりあいらしいのに、驚かされましたぞ」
「しりあいと申しましても、べつに、しりあいではございません」
「そんなことは、あるまい。あそこで、会っておったのだろうが」
「いいえ。そんな、決して、そんなことはございません」
「なければよいが、わしは、思ったとおりいう男だ。相識でない者を、なぜあんなにかばったのです」
「相識ではございませんが、ちょっと、用事がございまして――」
「それみなさい。何の用か知らぬが、あの男に近づくと、いいことはありませぬぞ」
「さようでございましょうか」
「これから、その証拠を話してあげようというのだ」
「はい」
「若松屋惣七どのは、帰られたかな」
「昨晩おそくおかえりになりましてございますが、まだおやすみなされていられますでございます」
「後刻、お眼にかかろう」
「はい」
「大阪のことでござった。声のいい、浄瑠璃じょうるり語りのおなごがありました。若竹わかたけといってな、人はみな、竹女たけめと呼んだ」
「はい」
「若竹という名を、聞いたことがおありかな」
「いいえ」
「江戸までは、届かなんだかもしれん。京大阪では、たいそうな人気であった。何でも、生まれは江戸で、幼少のおりにあちらへまいったとのことであった。江戸の生家は、相当の家であったらしいが、竹女は、何もいわぬから、知れておりませぬ。
 とにかく、上方で芸人として名を成した。一時は、大変なものであった。金も作った。が、そこへ男が現われて、竹女はその男へ、身も心も与えたのだ。この男こそ、義理も人情も人のまこともわきまえぬ、けだもののごときやつであった。それがあの磯屋五兵衛である。当時何と名乗っておったか、覚えておらぬが、顔は忘れぬ。あの男です。
 あの男が、竹女のあとをつけまわして、金をまき上げた。夫婦約束までして、おんなの心を釣っておいた。きょうあすにでも、晴れの式をあげるようなことをいって、女をだましたのだ。外眼そとめにも、竹女はあの男の手足であった。すべていうがままになって、男のためには何でもしたのです。何もかもささげたのだ。病を押してまで働いて、金をみついだ。
 すると、もうこれ以上いつわっておけぬところまで来て、男が打ちあけたのです。じつは、じぶんには、江戸に妻があって、正式に夫婦になるわけにはいかぬという。そう聞かされても、竹女はあきらめきれずに、やはり、取る金を、右から左に男にやっておったものだが、そのうちに男は、江戸から遊びに来ておったおせい様とやらいう町家まちやの女隠居とねんごろになって、それとも夫婦約束をしたとわかって、若竹は、何もいわなかった。くびれて、死んでしもうた」
「まあ――?」
「その磯屋五兵衛を、あんたのようなきよげな女が相識の模様でかばい立てしようとは、思わなんだ」
「あなた様は、その、若竹さまとやらおっしゃる方を、お好きだったのでございますか」
「うむ」
「それから、その男の方は、どうなすったのでございます」
「おせい様と江戸へ舞いもどったと、聞き及んだ」
「あの人が、磯屋のお店を買いとったお金は、そうしてできたのでございますか」
「若竹からは、大金を絞りおったぞ」
「そうして、あの人の手は、女性おなごの血に染んでいるのでございますね。あの人は、足でおなごのまことに踏みつけて、立っていらっしゃるのでございます」
「あんたは、あの男と、何か特別の関係ででもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございません」
「そうか。そんならよいが――」
「あの人はいままた、そのおせい様から、お金をまき上げようとしているのでございます。おおかた、お金をまき上げたうえで、すてるのでございましょう」
「もとより、そうにきまっておる」
「それを、知っていて、黙って見ているよりほかしかたがないのでございます」
「わたしは、強いことは相当強いつもりだが、簡単な男である。話してくれぬことは、わからぬ」
「はい。いずれ、すっかりお話し申し上げますでござります」

      四

 若松屋惣七の居間で、人をよぶ惣七の声がしていた。彼は、いつのまにか起きて、寝間を出て、奥の茶室兼帳場へ来ていた。お高は、いそいそとはいって行って、手をついた。若松屋惣七は、かすんでいる眼を、お高へ向けた。
「お高か」
「はい。高でございます。久しくお眼にかかりませんでございました」
 若松屋惣七は、庭の老梅の幹のような、ほそ長い、枯れた顔を、まっすぐに立てて、きちんと端坐たんざしていた。いらいらして、膝をふっていた。膝のまえに、何やら書類のようなものが、四、五枚ちらばっていた。
「泊まり客があるそうだが――」
「旅のおさむらい様でございます。きのうお見えになって、そのままお泊まりになったのでございます。江戸の人をさがすにつけて、旦那さまのお力を借りたいとかおっしゃってでございましたが、磯五さんがわたくしに用があるといって、金剛寺まで呼び出して話をしているところへ来なすって、磯五さんを見ると、それが、その、捜していらっしゃる当の相手でございました。お強そうな、お立派なお武家さまでございます」
 お高は、簡単に、いま聞いた、龍造寺主計が磯五をねらって出府したわけを、若松屋惣七に話した。
 若松屋惣七は、眉間みけん傷痕きずあとをふかくして、顔をしかめた。
「いずれ、そういうことであろうと、思っておりました。お前の良人――とは呼びとうない。磯五だ。磯五とは、ゆうべおそく、拝領町屋のおせい様の家で会いましたが、じつにどうも唾棄だきすべき人間である」
「はい。それははじめからわかっておりますことでございますが」いいかけて、お高は、はっとした。「すると旦那様は、おせい様があわててお取り立てをおはじめなすったうらに、磯五がおりますことを、もうご存じでいらっしゃいましょうね」
迂濶うかつなようじゃが」若松屋惣七は、無表情な顔のまま「ゆうべはじめて知った。驚いた」
 が、べつにたいして驚いたふうもなく、見えない眼を小雨の庭へ向けて、身じろぎもしないのだ。連日奔走ののちの虚脱した気もちにいるに相違ない。
 お高は、いざり寄った。
「わたくしは、おせい様のお手紙で、前から存じておりましてございます。できることなら、おせい様に思いとどまっていただこうと存じまして、いろいろと骨を折りましてございましたが――」
「そういうことであろうと、思っておった。わたしはお前が帰ったあと、おせい様の家へ出かけて行って、膝詰め談判をしてみた。すべてむだであった。おせい様は、磯五と夫婦になる気でおる。女子というものは、愚なものだな。磯五に妻のあることを、わしは話してやったぞ」
「あら、わたくしのことを――?」
「いや、いや」若松屋惣七はしお辛い笑いだ。「お前という名は出さぬ」
「はい」お高は、ほっとして、
「わたくしも、そこまではいえませんでございましたが、きのうは、磯五さんがおどかしに参りましたので、わたくしのほうから、いってやりましてございます。おせい様を突ついて若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ、わたくしがおせい様に身分を明かすと申したのでございますが、磯五という人は、こういうことにかけましては鬼のように強いのでございます。何といいましても、平気なのでございます。
 ほんとのことが、すっかりおせい様に知れたところで、おせい様はやはり、こちら様からお金を取って、磯屋へつぎこもうとするに相違ない。それは、わたしにも、どうすることもできないなどと、しゃあしゃあしたことを申しまして――」
「いや、そのとおりなのだ。おせい様自身、わたしにはっきりそういいました。おせい様は、すっかり、磯五と一心同体になっておる。よくもああのうちに丸めこんだものだと、むしろ感心いたしたよ。
 そこで、今後は、おせい様のことは、いっさい磯五が後見するというのだ。このことも、磯五と話し合ってくれというのだ。そういって突っ放された。磯五となら、まとまるはなしも、まとまらぬにきまっておる。談合の要はない。若松屋も、もうあきらめました」
「あの、おあきらめなすったと、おっしゃいますと?」
「この若松屋の名と、両替の店を、暖簾のれんごと手放すのだ、買い手のこころ当たりも、ないことはない」
「では、どうあっても――」
 お高の顔いろが変わった。眼がすぐなみだで光って来たとき、
「若松屋惣七殿ですか。龍造寺主計と申します」
 声が、絹雨の縁側から上がってきた。背負ってきたふろしき包みからでも出したのだろう。龍造寺主計は、旅装束を着かえているのだ。
 若松屋惣七が、声のするほうへ向かって、ちょっと衣紋をつくろっているうちに、龍造寺主計は、さっさと部屋へはいって来て、すわってしまった。
「若松屋惣七でございます」
 若松屋惣七は、かるく頭をさげた。誰にむかっても、低くあたまを下げないのが、若松屋惣七なのだ。
「せっかくの御光来に、他行をしておりまして、失礼をいたしました」
「いや、わたしこそお留守に上がって泊まりこんで――」
 龍造寺主計は、そういって、若松屋惣七とお高の顔を、見くらべた。
「何です。お取りこみな。お邪魔なら、また後刻――」
 おどろいたようにいって、たちかけた。


    水ぬるむころ


      一

 お高は、若松屋惣七が、どうしても若松屋の店を手放さなければならない。買い手の見込みも、ついている。それが、雑賀屋のおせい様へ金をそろえる唯一のみちなのだ。と、聞かされていたときなので、無遠慮に割り込んで来た龍造寺主計も、眼にはいらないふうだ。
 押えても、泣き声になってきた。
「どうしても、そうなさるよりほか、方策がないものでございましょうか」
 若松屋惣七は、帰ろうとしている龍造寺主計をとどめながら、お高のほうへも答えようとした。が、龍造寺主計に、気を兼ねた。
「何だ。そんな内輪の話は、あとでしなさい。失礼ではないか」
 龍造寺主計は、これを聞くと、部屋の一隅いちぐうへさがって、壁によりかかって、すわった。不思議そうな顔をして、腕を組んで、ふたりを見くらべはじめた。
 他人のことは、すなわち自分のことであると、いっさい自他無差別の一種の生活信条を持っている、この龍造寺主計である。黙って、お高と、若松屋惣七の会話はなしを、聞き出した。
 また、そこにそうしていても、妙に邪魔にならない存在なのだ。
 若松屋惣七が、お高にいっていた。
「商売を売るより、ほかに途はつかないのだ。で、売ります。売って、からだ一つになって、わしは、掛川へ出かけてみようと思っておる。掛川へつぎこんだおせい様の金さえ、おせい様のほうへ返してしまえば、あの具足屋は、そっくりわたしのものになるわけだから、ひとつあれを育てて、何とか、芽のふくものなら、芽をふかしてみたい気もする」そして、思い出して、きいた。
「おせい様に会ったら、手紙を持たしてよこしたといっておったが、届かなかったか。わしは、まだ見ておらんぞ。どうせ、読まんでもわかっている用向きだが――」
 お高は、すっかり気が抜けたようにたち上がって、自室の手文庫に入れておいた、[#「入れておいた、」は底本では「入れておいた。」]おせい様の書状を持って来て、何もかもあきらめたように、若松屋惣七の前へ押しやった。
「旦那様に内密で、勝手に計らいましたようで、まことにすみませんでございますが、できることなら、お耳に入れずに、わたくしの手で何とかいたしたいと存じまして――」
「わかっておる」其室そこに、龍造寺主計がいることを忘れたらしく、声が、感情をのせて、ふるえてきた。
「ありがたかったぞ。が、しょせん、助からぬ命であるのが、この若松屋の店である。いやでも応でも、おせい様から預かった額だけは、磯屋五兵衛のほうへ払いこまねばならぬ」
 磯屋五兵衛という名が出たのを聞いて、眠ったように、壁に頭をあずけて眼をつぶっていた龍造寺主計がむくりとしていた。
「磯屋五兵衛か。きやつまた、御当家へも、何か御迷惑をかけておりますかな」
 若松屋惣七は、びっくりした。
「磯五をご存じかな」
「知っているも、おらぬも、拙者は、きやつを成敗せんがために、出府いたしたものでござる」
「ほう。成敗――」
「わけは、ただいま、それなる女衆おなごしゅうに話しておきました」
 が、若松屋惣七は、特別に興味をそそられたふうもない。何も、彼の興味をそそるものは、なくなっているに相違ないのだ。
 お高へ、向き直った。しずかに、いった。
「雨が降れば、あとはまた日が照る。これは、世の定めです。いずれ、いいこともあろう。そういえば、きょうは、雨のようだな」
 土を打つ細雨の音が、庭にしていた。澄んだ水のにおいが、つめたい微風にあおられて、流れこんできていた。それは、鼻の奥に痛いような、とおった感じのするものであった。
 三人は、それを味わうように、しばらく無言に陥った。
 ふと、わがことのように、龍造寺主計が、壁ぎわから声を持った。龍造寺主計は、じれったそうに、舌打ちをするのだ。
「ちっ。のんきだな。聞いていれば、この若松屋を、ひと手に渡そうという、最後の場合ではないか。よほどこみ入った事情があるらしいことは、わたしにもわかるが、もうすこし、何とかして踏みこたえてみる気はないのかな。惜しい」
 若松屋惣七の顔は、見るみる冷笑がひろがった。武士に、何がわかる。さむらいというものは、人を斬り殺すことを考えるか、もったいぶって見せかけて、それで、ただで衣食することを考えるか、していればいいのだ。
 草のように蒼い若松屋惣七の顔が、龍造寺主計の声のしたほうを、さがした。儀礼と嘲笑ちょうしょうだけを、含んだ声だ。
「御厚志は、かたじけない」若松屋惣七は、武士さむらいに対すると、いつのまにか、前身が出るのだ。口のきき方まで、武家出らしく、角張ってくるのだ。そうでなくても、不愉快なことがあると、いつもいかつい口調になる。それが今は、武士に対して不愉快なのだから、二重に不愛想なのだ。にべもなく、いった。
「知らぬことには、口出しをなさらぬがいい」
 お高は、はっとして、龍造寺主計をふり向いた。が、お高の心配は、むだであった。
 龍造寺主計は、剣術の稽古けいこか何かに、思いきり気もちよく一本やられたときのように、かえってうれしそうに、にこにこしていた。
「眼が不自由であろう。お困りだな」
「大きにお世話です」
「あんたは、正直な人物だ。顔で、わかる」
「ふん」若松屋惣七は、お高を返り見た。「投げ出す気になったら、それこそ、正直なものだな。急にせいせいしたよ」

      二

 お高は、にわかに思いついたことがあるらしく、その、若松屋惣七のことばには答えずに、くるりと、壁の龍造寺主計へ、膝を向けた。
「わたくしから、すっかり申し上げますでございます」
 必死の色だ。若松屋惣七が、
「お高、ゆきずりの客人に、よけいなことを話すまいぞ」
 と、声を高めたのも、耳へはいらないのか、はいっても、無視したのか、お高は、なみだに濡れて異様にきらめく眼で、龍造寺主計をみつめて、いい出していた。
「じつは、あの磯五というお人が――」
 龍造寺主計がさえぎった。
「その磯五だが、磯五は、あんたの何かではないのかな。どうも、全然かかわりのない仲とは思えん」
 お高は、声をのんで、ちらと若松屋惣七を見た。磯五の妻であるとは、誰も知られたくなかったので、若松屋惣七が、そばから口を入れて、そう打ちあけはしないかと懸念したのだ。が、惣七がだまっているのでお高は安心した。惣七以外の人には、あくまでその秘密を押し通していこうと思った。
「いいえ。これからお話を申しあげるような、こちら様との取り引きを通して、存じ上げておりますだけでございます」
「さようか。それで安心いたした。何なりとうけたまわろう」
 安心はおかしいと、惣七も、お高も思った。が、惣七は、もうお高にまかせて、黙りこんでいた。お高は、いっしんに先をいそいでいた。
 できるだけ順序立てて、ひととおり今度のいきさつを話し終わった。
 話し終わるのを待って、龍造寺主計が、質問をはじめた。それは奇妙な問いから、はじまった。若松屋惣七は、まるで他人のうわさでも聞くように終始もくもくとして、腕を組んでいた。
「お高――どの、といわれましたな。お高どのは、友だちというものがほしいと、思われることはないかな」
 お高は、何という悠長ゆうちょうな人であろうと、まじめに応対するのが、莫迦ばか々々しくなった。しかし、返事をしないわけにはゆかないので、
「はい、親身に相談のできるお知りあいがあればよいと、しじゅう願っておりますでございます」そして、すぐつけたした。「旦那さまのほかに」
「うむ」龍造寺主計は、まじめとも冗談ともつかずゆっくりとうなずいて、「しからば、わたしを、その一人に考えてくだされい」
「はい。ありがとう存じます。それはもう、勝手ながら、自分だけでは、そう思わせていただいておりますでございます」
「膝とも談合と申すぞ.ましてともだちなら何をきいても、よいわけじゃな」
「はい。どうぞ何なりと――」
「では、きく」
「はい」
「かの磯五なる男が、この江戸でも、金を眼あてに女をたぶらかしていることは、おどろかぬ。先ほども話したとおり、若竹の件をはじめ、上方におったころから、そういう人物であった。おそらく昔から、そういう人物であったろう。が、その磯五のために、この若松屋が滅びんとしているとあっては、黙過できぬ。そこでだ。磯五の女房という女は、まだ生きているのかな」
「はい、生きておられますでございます」
「どこに」
「それは、申し上げられませんでございますが、でも、確かに、生きていらっしゃるのでございます。この江戸に」
「あんたは、その女を、知っているのか」
「はい。よく存じておりますでございます」
「若松屋さんも、承知か」
「磯五の内儀は、ご存じないようでございますが、その女が江戸におられますことは、ごぞんじでございます」
「どうしておる、その磯五の妻は」
「良人の磯五さんにすてられましてから、別人のように、かしこくおなりでございます」
「すると、以前は、馬鹿な女であったのかな」
「はい、何ひとつ世間さまのことを知らぬ、愚かなおなごでございました」
「さようか。わたしは、この若松屋惣七という人が好きである。いま会うたばかりだが、何年、何十年っておっても、きらいなやつはきらい、ちょっと見たのみでも、これはと思う人は、このもしくなるものだ。友情とは、そのようなものです。ところで、何とかできぬかな。若松屋を助ける方法だが」

      三

 龍造寺主計は、うすぎたない旅の浪人だが、龍造寺主計は、単に子供が好きだというだけで、久しぶりに江戸へ出た記念しるしに、縁もゆかりもない金剛寺の一空和尚の学房へ、いささかまとまったものを献じただけでも、あまり金に困っていないことが、わかるのだ。
 事実、龍造寺主計は、庄内しょうない十四万石、酒井左衞門尉さかいさえもんのじょう国家老くにがろう、龍造寺兵庫介ひょうごのすけの長子である。長子だが、年少のころから、泰平の世の儀礼一てん張りの城づとめが、いとわしく思われだした主計だ。武士も、この享保きょうほうにいたっては、本来の面目をはなれて、すでに、宮づかえの長袖に堕しているというのである。
 当否はとにかく、じぶんの生活をそう感じるようになった龍造寺主計には、全く公卿くげにも似た馴致じゅんちと遊楽と、形式と慣習と、些末さまつな事務よりほか何ものも約束しない、奉公の将来が、すっかり、底の見えたものに考えられてきた。あっけなくなった。固苦しく、わずらわしいだけだ。何らの魅惑をも、若い龍造寺主計のうえに、投げなくなってしまった。
 ときどきそういう心理におちることは、何をしていても、誰にでもあるものだが、龍造寺主計も、この無情の風を引きこんだのだといってもいい。ただ、龍造寺主計のは一時ではなくて、長くつづいた。それでも、しばらくは、藩中の変物で通っていた。
 そのうちに、龍造寺主計は、痴唖ちあということになって、龍造寺家から、正式に、主計の廃人届が出された。まもなく、彼は庄内を出奔して、それ以来、こうして、他人のことにあたまをつっこみながら、諸国の山河のあいだに放浪してきたのである。
 故郷くにでは、弟があとをとって、龍造寺兵庫介を名乗っている。金は、いってさえやれば、そこからもいくらでもくるし、江戸の屋敷からもいくらでも引きだすことができるし、ひとのことばかり頭痛に病んで国々をあるきまわっている変人の龍造寺主計だが、金にだけは、苦労を知らないのである。弟というのが、陰に陽に気をつけているのだ。
 いま、お高からだんだんと話を聞いてみると、若松屋惣七を助けるためには、この、庄内藩の国家老の家に咲いた変わり花の龍造寺主計が、金を出してやればいいのである。龍造寺主計は、すぐ出してやろうと思った。ただその名義だ。やたらに金を出すというのでは、誇りの高い江戸の人間でしかも武家出である若松屋惣七だ。とても承引しょういんをしないにきまっている。
 それかといってこの若松屋の店を買いとって、それをすぐそのまま若松屋に返上して、金だけ用立てたようにするのも、見えすいているようで面白くないのだ。その金を出す形式について、龍造寺主計は、あたまを悩ました。
 掛川の具足屋について、一伍一什いちぶしじゅうを聞いた。それを考えた。若松屋惣七が、この掛川の具足屋で大穴をあけて、そのためにこんにちの破滅を招いたということは、ちょっと合点がゆかないのだ。このことは、うき世離れがしているようで、旅をしていろいろな人間に会っているので、世俗のことに通じている龍造寺主計を、不審がらせた。
 それも、お高のはなしで判明した。若松屋惣七は、商人の柄になく、出さなくてもいいところへ金を出したりして、侠気きょうきといえば侠気だが、それでいま苦しんでいるというのである。が、ここしばらく持ちこたえていさえすれば、具足屋という旅籠はたごが、もうけを上げるようになることは、見えすいているというのだ。龍造寺主計は、考えていた。
「わたしも、ここらでいいかげん、ちょっと落ちついてみてもいいのだ」と、いった。「腰をすえて、若松屋惣七どののように、町人にくらがえするも、また面白いかもしれぬ」
 冗談でもなさそうだった。そして、つけ加えた。
「それで、若松屋が一時浮かぶ。わしの身も、まず固まる。とならば、両得である。武士というものがいやになっておる点にかけては、わたしも、若松屋に負けぬつもりだ。
 しかし、その、きちがいになった東兵衛という男に、出した資金もとでをすっかり返してやって、そのうえ、具足屋の借財を一身に引きうけるとは、若松屋惣七という男は、涼しい気性の男だな。いささか涼しすぎると申してよいぞ。若松屋惣七ともあろう腕ききのしたことともおぼえぬが、まず、そうあってこそ、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんであり、世の中も、面白いのであろうな」
 龍造寺主計は、あははと笑った。

      四

 龍造寺主計は、そのままずるずるべったりに、若松屋惣七方の客となって、四、五日を過ごしたが、毎日のように出歩いていて、お高とも、惣七とも、その後会って、くわしい話を聞くというのでも、するというのでもなかった。
 四、五日たって、ぶらりと、奥の惣七の居間へあらわれた。その龍造寺主計は、若松屋惣七のひそみにならって、一思いにさむらい稼業を廃業した龍造寺主計であった。あたまも、いつのまにか、町人ふうに結いなおしていた。着物も、どこでこしらえて来たのか、渋いしまものに変わっていた。すっかり、ちょいと、工面のいい商家のあるじのいでたちなのだ。
 骨張ったからだにもやわらかみがついて見えた。こわいあばた面も、このあたらしい着つけにそんなに似つかわしくないこともないのだ。ひとかど商戦の古つわものらしく、かえって貫禄かんろくをそなえているのである。
 本人も、べつに思い切って変わったというところも見えないのだ。けろりとして、部屋へはいって来て、若松屋惣七のまえにすわった。板についていて、ちっともおかしくはない。龍造寺主計自身も、ただ、さばさばした気もちだけで、じぶんのそうした転身など、気にとめていないようすだ。
 若松屋惣七は、よく見えないから、早変わりをした相手に、おどろかされることもなかった。
 龍造寺主計は、だしぬけにいった。
「この二、三日、掛川宿の具足屋のことを、考えておった。いままであんたがおろした資本もとでの半金だけ、あらたにわたしに、出させてもらおう。どうです、ふたりでやってみようではないか」
 若松屋惣七は、眉ひとつ動かさなかった。
「龍造寺さまですかい。そんな金があるのですかい」
「やっと調達してまいった」
「それは、不思議なことですね。じつはきょうわたしは、この若松屋を売る手打ちをするつもりでおりましたよ。そのまぎわに、あなたという人が、金をもって助け船にあらわれるとは、まるで、作ったようなはなしでございますねえ」
「何でもいい。ぜひその具足屋へ、半口割りこませてもらいたいのだ。私は、田舎いなかが好きだ。掛川は、何度となく通っておるが、いいところです。ひとつ、出かけて行って、自分でやってみたいと思っておる」
 若松屋惣七は、まだ半信半疑のていだ。仮に、この龍造寺主計が、いまそれだけの現金を用意して来て、具足屋につぎ込もうとしているのは、たしかな事実であると知っても、若松屋惣七は、とび立つように礼などはいわなかったに相違ない。ふかく知らぬ人間に、また、深く識っている人間に対しても、決して飛び立つように礼などはいわぬ若松屋惣七なのだ。
 うれしそうな顔も、しなかった。が、それだけの金がはいれば、それを磯五にたたきつけてやって、おせい様のほうをきれいにすまして、具足屋のほうも、急場をしのぐことができるのである。
 若松屋惣七は、願ってもみたことのない転換が、紙一まいのところで降ってきたので、気をおちつけて、しっかり物ごとを見ようとして、内心努力していたのかもしれない。秋の小川のような、刻こく色のかわる影のふかいものが、そうそうと音をたてて、仮面のような惣七の顔を流れた。
 龍造寺主計が、いった。
「承知なさったと、見た」
「具足屋も当分は苦しゅうございますぞ」
「苦しみましょう」
「今までの半金を出していただければ、こちらを済まして、なおあまりある。具足屋も、当座息がつけます」
「わたしは、さっそく掛川へ出向いてみたい」
「それはまた急なことで」
「おせい様と磯五は、いつ金をよこせといってきているのです」
「きょうあすにもという催促が、このところ、だいぶつづきました」
「早いほどよい。後刻、金をお渡し申そう」
 若松屋惣七は、ぷすりとして、はじめて礼らしいことを述べた。
「いろいろ御厄介になります」
「何の」
 ふたりは黙ったまま、ながいこと顔を合わせて、すわっていた。
 若松屋惣七と、龍造寺主計と、二人の友情はこのときから燃え上がったのだ。深海をも、影ふかい谷をも、ふたりで歩きつらぬくことになった。ひとりのためには、そこに、死が待っていたのだ。女のまことが、赤く咲いてもいたのだ。
 おせい様の金のほうは、ひとまず片づいたのだろう。ひと月ほどして、東海道掛川宿の龍造寺主計から、急飛脚が、金剛寺坂の若松屋へ駈けこんだ。おおいに見込みがあると思うから、思いきり金を入れる、安心していいという文面だ。若松屋惣七は、もうすっかりそんな商人らしいことをいう龍造寺主計に、遠くから微笑を送った。

      五

 龍造寺主計が掛川へ発足する前の晩であった。お高は、若松屋の屋敷内の自分の部屋で、縫い物をしていた。何だか、妙にむしむしする日であった。それが、妙にむしむしする晩にかわろうとしていた。お高は縁の障子をあけ放して、そこからくる夕ぐれの光で、針をうごかしていた。金剛寺の鐘がかすかに空気をゆり動かして、きこえてきていた。金剛寺坂をさわいでゆく、子供たちの声もしていた。
 お高は、かるい頭痛をおぼえていた。からだじゅうの肉が、骨からばらばらに離れて、落ちていくような気もちであった。このごろの心労が、お高の顔に、大きく書かれてあった。うすれてゆく陽の色が、ちょっと室内を赤くしたり、また、たちまち暗くしたりした。
 おせい様の取り立てごとが一段落ついて、お高は、はじめてじぶんのことを考える余裕を持っていた。しかし、将来を思ってみても、こういう生活の連続のほか、何もないような気がした。すこしも、楽しいこころにはなり得なかった。
 人がはいって来たので、そっちのほうへ向けたお高の顔は、蝋細工ろうざいくのように澄んで、生気がなかった。口のまわりに、このあいだまでなかったしわのようなものが、かすかにできかけていた。
 はいって来たのは、龍造寺主計であった。龍造寺主計は、お高を見ると、びっくりしたふうで、いった。
「どうなすった。顔いろがよくない」
「さようでございますか。じぶんでは、何ともございませんけれど」
「何ともなければよいが」龍造寺主計は、敷居ぎわに腰をおろして、縁へ足を投げ出した。「できましたか」
 それは、お高の縫っているもののことであった。お高は、あした旅立つ龍造寺主計のために、肌襦袢はだじゅばんを何枚も縫ってやっているところであった。
「もうすこしでございます。こんなに着がえがございますから、たびたびお着かえなさらなければいけませんよ。あなた様のように、一つをいつまでも着ていらっしゃるのは、毒でございますよ」
 龍造寺主計は、そんなことをいうお高をそれとなしに見ていた。お高も、顔を上げて、眼があった。お高は、笑い出した。
「何がそんなに、おかしいのかな」
「あなた様の変わりようでございますよ。ちょっとのあいだに、どこからどこまで、すっかり町人ふうにおなりでございますねえ」
「このほうが、わしの気もちに合うのだ」
「お故里くにの方々がごらんなすったら、どんなにかお嘆きなさることでございましょう」
「なあに。もう武士でないわしだから、何をしようと構わぬとあって、結句、よろこぶだろうよ」
「旦那様といい、龍造寺さまといい、どうして結構な御身分をすててすき好んで町人になぞおなりなさるのでございましょうねえ。何ですか、ふかい事情を知らない方は、酔狂のようにお思いになるでございましょうねえ」
「うむ。酔狂といえば、酔狂かもしれぬ。何しろ、気楽だからな」
 しばらく、沈黙が占めた。そのあいだ、龍造寺主計は、めずらしそうに、部屋のあちこちを見まわしていた。感心したように、いった。
「やっぱり女のいる部屋は違うな。どことなく、女らしいところがある」
 お高は、針を運ぶ手を休めなかった。
「さようでございますかねえ、これでも」
「それに、お高どのは、なかなか手まめで、たしなみがよいから、こういうおなごを嫁に持つ男は、しあわせだな」
「まあ、龍造寺さまは、おひと柄に似ず、お口がお上手じょうずでいらっしゃいます」
「いや、あんたに、大きな宿屋の采配さいはいをふるわせてみても、面白いであろうと思う。たとえば、掛川の具足屋のような」
「こんにちは、いろいろとおほめをいただきまして――」
 お高は、縫っているもので口をかくして、笑った。龍造寺主計は、まじめであった。
「わしは、あす、掛川へ参る」
「ほんと、なみたいていではございません。若松屋さまも、おかげさまで、立ちなおりましてございます」
「いや、わたしこそ、礼をいわねばならぬ。宿場の旅籠の亭主にしろ、何にしろ、わたしという年来の風来坊の腰がすわれば、このうえのことはない。みな、あんたが打ちあけて話してくれたおかげであると、思っておる」
「いいえ。そんなことはございませんが、でも、掛川のほうがうまくゆきますと、よろしゅうございますけれどねえ」
「うまくゆくも、ゆかぬもない。うまくやるようにするのだ。わたしと、若松屋惣七どのと知恵をあわせて」
「そのおことばひとつが、頼みでございます」
「うむ」龍造寺主計は、うなずいて、「若松屋惣七という人物は、知れば知るほど、このましい人物である」
「旦那さまと近しくなすっていらっしゃるお方は、みな様そうおっしゃいますでございますよ」
「いや、そればかりではない。なぜわたしが、若松屋惣七どのに肩を入れるか、あんたには、そのわけがおわかりかな」
「御気性が、おあいなさるのでございましょうよ」
「それもあろう。が、第一の理由は、これまでよくあんたのめんどうをみてきてくれたからだ」
 お高は、ぱっと赧い顔になった。身をすくませるようにした。
 龍造寺主計は、お高のほうへ、平気な顔をつき出していた。
「お高どの、あす発足ほっそくじゃ。その前に、ぜひ一つ、きいておきたいことがある。そのために、ちょっとここへやって来たのじゃが、どうだ、わたしのところへ、嫁にきてはくれぬかな」
 龍造寺主計は、お高と若松屋惣七との関係を、知らないのだ。まるで、ねこでももらいうける交渉のような、こともなげな切り出し方だが、ふとい声が、ふるえていた。

      六

 日本ばし式部小路の磯屋の店だ。いそやと書いた暖簾に陽がにおって、天水おけと柳と、行人と犬の影が、まえの往来に濃いのだ。
 ひるさがりだ。磯屋五兵衛が、奥の居間へはいって行くと、そこには、雑賀屋のおせい様のてまえ妹ということに触れこんであるお駒ちゃんが、膝がしらがのぞくほどだらしなくすわって、何か反物をいじくっていた。
 はいって来た磯五を見ると、ふたつのまなこびをあつめて、にっと笑ってみせた。
 磯五はすぐ、あきらかに不愉快な顔をした。たたみを蹴るように、部屋じゅうをあるきまわって、お駒ちゃんがひろげている反物へ、眼をおとした。
「ちっ! へまばっかりやるじゃあねえか。あきれけえって、口もきけねえや」
 かみつくようにいった。お駒ちゃんは、平気の平左だ。
「何がどうしたっていうのさ。いつもいつも、がみがみいうばっかりで、ほんとに、面白くない人って、ありやしないよ――いったい、この反物のどこが気に入らないっていうんだろうねえ」
「どこも、ここもありあしねえ。そっくり気に入らねえんだ」磯五は、何か、炎のような怒りに、つつまれてゆくように見えた。「そんなさばけもしねえものを、しこたま買いこみやがって、どうする気だ」
 お駒ちゃんも、負けていなかった。
「そういえば、いまさださんが来て、注文したのは、この色じゃあないなんていっていたけれど、へんだねえ。お前さんにしろ、定公にしろ、この店は、唐変木とうへんぼくの寄り合いさ。いいかげんいやになっちまうよ」
「てめえの馬鹿にも、あきれたもんだ。それほどの阿呆あほうではないと思って、一度大口の染めの注文をあつかわせてみたおれが、わるかった」
「それごらん。やっぱりお前さんが悪いんじゃないか」
「何てことをいやあがる。いい気なもんだなあ」
「だって、そうじゃないか。お前さんは、江戸むらさきといやしなかったかい」
「そうとも。江戸むらさきと注文したんだが、これが江戸紫なもんか」
「はばかりさま。立派な江戸むらさきですよ」
「ちょっ! 色の見さかい一つつきゃあしねえ」
「ふん、おあいにくさまですね。そんな色の見さかい一つつかないようなものを、何だってこの商売に引っぱりこんだんだろうねえ。あたしは、一度だって、じぶんのほうから来たいなんていったおぼえは、ありゃあしないよ。おまけに、そんな大悪の妹だなんて触れ込みで、人聞きがわるいやね。あたしゃ、お前さんの出よう一つで、いつだって願い下げにするんだから」
 お駒ちゃんは、なわのしっぽに火がついたように、めらめらめらとしゃべり立てて行くのだ。
「何だい、何といって頼んだか、まさかお忘れじゃあるまいね。都合のいいときばっかり頭を下げれば、それでいいというものじゃないよ」
 口ではぽんぽんいうが、磯五を見上げるお駒ちゃんの眼は、大きくうるんでいるのだ。相手の顔に、ちょっとでも微笑の影がさし次第、すぐにも笑いかけて、この場をおさめようというところが、見えているのだ。
 磯五は、そういうお駒ちゃんの眼を無視して、ますます威丈高いたけだかになっていった。
「第一、おいらあその、おめえの衣裳いしょうからして気にくわねえ。それあ、まるで、何のことはない。茶屋女か河原もののこしれえじゃねえか」
「おや、これがかい」
 お駒ちゃんは、あきれたように、じぶんの袖口をつんと引っぱって、左右の腕から、胸の前を、見まわし、見おろした。
「そうよ。もっと堅気につくってもらおうじゃないか。これは、れっきとした老舗しにせなんだぜ」
「おや、そうかい。これが、れっきとした老舗なのかい。それは、それは、すまなかったねえ」
 お駒ちゃんが、叫ぶように、そうゆがんだ声をあげたとき、するするとふすまがあいて、きょうはじめて住み込みに来た、お針がしらのおしんという、三十二、三のちょいときれいな女が、はいって来た。
 磯五のところへ、挨拶に顔を出したのだ。
「あら、まあ、旦那――」
 おしんの口から、おどろきの声が、逃げた。


    かなえの座


      一

 沈黙が、お高をとらえた。湯のような熱いものが、なみなみと彼女の胸にあふれた。それは、驚愕の感情だ。恐怖でさえあった。龍造寺主計がじぶんを恋するなどと、夢にも思わなかったことだ。同時にそうして無言でいるお高のこころに、やわらかい、あわれむようなおかしみが、一筋めらめらと燃え上がってきた。お高は、相手があしたたつといういま、それをいいにぶらりと自分の居間へやって来たのだと思うと、べつに悪い意味からではなく、ただちょっとふき出したくなった。
 二つの考えが、その瞬間のお高を走り過ぎた。一つは、この龍造寺主計という人は、諸国を流浪して人にもまれているようでも、案外すれていないということであった。
 もう一つの印象は、この人はいやしい生まれではなく、ことにその母親は、単純な美しいたましいの所有主であったろうということだ。じっさいお高は、龍造寺主計の生母を想像してみた。それほど、不思議なくらい天真爛漫らんまんたるものが、その恋を打ちあけた龍造寺主計のことばからにおって、お高をつつんだのだ。
 お高が困ってもじもじしても、龍造寺主計は平気だ。他人のことのように、つづけた。「聞きなさい。発足の前の晩にこんなことをいうのは、急に思いついたようで、おかしな男だと思わるるかもしれぬ。しかし決して思いつきではない。ただ、掛川へ行くまえに、あんたの心を聞いておきたいだけじゃ」
 決して思いつきでないことはよくわかっております。お高はそういおうとしたが、龍造寺主計が続けて口を開きかけたので、ことばを控えた。
「江戸へ参って、当家へ来たとき、すぐにいえばよかったのだ。あんたを見るとすぐ、わしはあんたが好きになったのだから――といってあすの朝までに型ばかりでも婚礼の式をなどというのではない。ただ承知さえしてくれれば、わしのほうから若松屋どのに話をして、いずれその時節を待つつもりでおる。
 とにかくわしは、こうしてあんたを奉公させておくに忍びんのじゃ。女子おなごというものは、働くために生まれたのではない――が、そう自分の思うことばかりいうても、しようがあるまい。どうです、あんたは、ちっとはわしがすきになれそうだかな」
 お高は、適当のことばをさがすのに忙しかった。が、なかなかそれが発見されなかった。心が真ッ白になったような気もちだ。龍造寺主計のむきだしな口調には、何かしら力があるのだ、思い切って、声を押し出した。
「身にあまるおことばでございますけれど、どうぞ龍造寺さま、どうぞ、そのようなことはおっしゃらずにくださいまし」
「はて、すると、このわしを好きにはなれぬといわるるのかな」
「いいえ。けっしてそういうわけではございませぬ。失礼でございますが、わたくしは、龍造寺さまが好きでございます。大好きでございます。正直に申しますと、今まで、あなた様のような男らしい方にお眼にかかったことはないような気がいたしますのでございます。でも、夫婦になるなどと、そんな――」
「そんな気はないといわるるか」
「気があるないよりも、できませんのでございます」
 龍造寺主計は、眼をみはった。
「何か、仔細しさいがあるのかな」
「なにも仔細はございません」きっぱりいって、お高は、蒼い顔を上げた。「ただ、そのようなことは、考えてみたこともございませんもの」
「考えてみたことがなければいま考えてもらいたい。わたしは、返事があるまで、ここで待とう」
「まあ」お高は笑い出した。「そう右から左に、ごむりでございます」
「むりでもよい。一応よく思案なさい。わしは、だしぬけにいい出してあんたを驚かしたが、あんたは、わしという人間をまだよく知らんのだ。ゆっくりと勘考するがよい。はいという返辞でなくとも、先の望みさえ見せてくれれば、わしは、よろこび勇んで掛川の旅に出られる」
 お高は、はげしく首を振った。
「いいえ、龍造寺さま。あなたの奥様にさせていただくなどと、高は、身分というものを心得ておりますでございます」
「これは異なことを。忘れてはいかん。わしは、もう武士ではないのだ。このとおり、町人である」
「それでも――それでは、はっきりお断わりさせていただきます。龍造寺さま、そればっかりはお許しくださいまし」
 お高の心身を、にわかの悲しみがこめた。口や態度では示さなかったが、この龍造寺主計は、お高を愛すればこそ、若松屋惣七のために、ひいてはお高のために、ああして救いの手をさし伸べてくれたのである。また、お高というものが存在するがゆえに、こうさらりと両刀すてて、町人も町人、宿場の旅籠の亭主とまでなりさがって掛川くんだりへ行こうとしているのだ。
 お高はじぶんの知らないうちに、大きな借金を背負わされているような気がした。しかも、この借りだけは、一生かかっても弁済することはできないのだ。磯屋五兵衛の妻となっているために縛られているからばかりではない。お高のこころとからだは、すでにそれを独占する所有主があるのだ。

      二

「とにかく、考えておいてもらおう。掛川へ行っても、今度はそう長くはおらんつもりだ。どのみち、ひとまず江戸へ帰ってくる。そのとき返事を聞きましょう。いや、藪から棒にすまぬことをした。江戸では当節かような談判ははやらぬかもしれぬが、わしは、いままで一介の旅浪人であった。これから諸人を見習うて、もそっとおだやかに切り出すといたそう」
 龍造寺主計はそういって、濶達かったつ哄笑こうしょうした。龍造寺主計の熱心な顔、黒味のふかい正直なが、お高の胸を苦痛にあえがせた。
 このお方は、何もご存じないのだ。そして、自分はいま、なにごともいうことはできない。いったいどうして、このようなことになったのであろう? できない相談に望みをかけていられるのは、あまりに残酷である。
 この立派な男性に、単なる厚意以上の何ものもあたえられないとは、そうでなくても、このごろのじぶんは、つづく悩みに打ちのめされているのに、と、お高が、龍造寺主計のために襦袢を縫う針の手をとめて、考えこんでいると、龍造寺主計の声は、なにごともなかったかのごとく、子供のように他意ないのだ。
「わしといっしょになると、旅に出なければならんと思うて、それで二の足を踏むのかもしれんが、さようなことはないぞ。旅は、どこへ参っても同じことじゃ。どこまで行ってもきりがないのだ。そのどこまで行ったとておなじことであるという一事を知るために、旅をするようなものである。
 人間は、この一生の旅で、たくさんだ。何も、砂ほこりにまみれ、暑さ寒さとたたかい、風にさらされて歩み、星をながめて眠ることはないのじゃ。さながらおのが骨から肉を引き離し、われとわが命をけずるような苦行であるが、さて、その苦行を何年つづけても、どうなるものでもない。こころのやわらむということは、ないのである。と、今度こそは、龍造寺主計もさとりましたよ。町人として、掛川の仕事におちつくつもりでおる。すぐにとはいわぬ。このつぎ出府するまでに、もう一度考え直してはくれぬかな」
 お高は、黙っていた。お高は、恩があるだけに、この無邪気な人の心臓を傷つけたくなかった。が、それと同時に、何か新しい借りに落ちこんだような気もちは、いっそうひろがって行くのだ。お高はいつも誰かしら男の人に、何らかの形で借りがあるように運命づけられているように、じぶんを感じた。
 お高の恋する若松屋惣七を助けた龍造寺主計が、いまお高を恋しているのだ。が、いかに思われても、この借りだけは、返すことができない。お高は、苦しくなった。お高は、泣き出したかった。
「いいえ、龍造寺さま。考え直せとおっしゃっても、考え直すことがないのでございます。とうていおことばにしたがうことはできませんのでございます。どうか悪くお思いくださいませんように」
 龍造寺主計は、べつに怒ったふうもなく、いきなりたち上がった。
「さようか。ぜひもない。しからば、友として、長くつきあってもらいたいな」
「はい。それはもう、あらためて高からお願い申しあげますでございます」
 龍造寺主計は、縁から庭へおりようとして、ふりかえった。
「ひとつ、ききたいことがある」
「はい。何でございます」
「あんたは、若松屋惣七どのを、思っておらるるのではないかな。若松屋惣七殿と、いっしょにならるる気ではないかな」
 お高は、思い切って、はいさようでございます。事情があって、今のいまというわけには参りませぬが、いずれは晴れてそういうことにと旦那様がおっしゃっていてくださいます、と、口に出かかったが、龍造寺主計の真率しんそつな視線を浴びると、つと舌がためらった。それにたとえ名だけにしろ、磯五という良人のある身が、そういうことをいっては悪いであろうと思い返された。
 うち消すよりほかないのだ。
「旦那様となど、そういうおはなしはすこしもございません。ございましても、わたくしは、いやでございます」
「さようか」
「あの、もうじき縫い上がりますでございますが、のちほど、お部屋のほうへお届けいたさせますでございます」
 龍造寺主計は、お高が、あわてて話題をかえたことに、気がつかなかった。龍造寺主計は、若松屋惣七とお高を張りあおうと思っているわけではなかった。ただ正直な女が、正直な問いに、正直に答えられない理由はないと信じているのだった。
 龍造寺主計は、お高の答えをそのままとって、お高は自分を好きなのと同じ程度に、若松屋惣七をも好きなのに過ぎない。じぶんと若松屋惣七は、お高に対して、高低のない立場にあるのだと解釈した。そして、何かしら、安心のようなものを感じた。それが龍造寺主計に、あたらしい希望を与えた。
 正直な心は、他の正直なこころによって、いつかは、かならずひとつに結びつくものであると、運命的に楽観していたかった。そんなふうに考えるのが、その広い正直な心をもつ龍造寺主計だ。どんなことがあっても、早晩お高を妻に得ようと、倍の決心を固めて、元気よく庭のむこうの離室はなれへかえって行った。あくる朝は早く東海道にたつのだ。
 もし、このときお高が、ほんとのことを打ちあけさえすれば、その後、幾多の悲痛と苦悩は、この三人のうえにこなかったかもしれない。が、お高にその強さがなかったばかりに、この夕方からの運命は、三人をかなえの座にすえることになった。二人の男と、ひとりの女と、恋はこの時代から、ときとして三角だったのだ。

      三

 磯屋の奥は、土蔵づくりになっていて、うす暗かった。店と蔵をつなぐ渡り廊下まで来ると、磯五は、立ちどまった。客に応対する番頭や手代の声と、品物をかつぎ出す小僧たちの物音が、さわがしく聞こえてきていた。そこの廊下の下は、中庭になっていて、こけの青い石などがあった。年じゅう陽があたらないので、岩清水のようなうそ寒いものが、いつもその狭庭さにわに立ち迷っていた。
 磯五は、何かしらつめたさが背すじを走るような気がして、身ぶるいをした。そのまま、庭下駄をはいて、蔵について裏へまわろうとした。右手にお母屋もやの一部が腕のように伸びていて、別棟べつむねのように見えていた。そこは、店で売った品を、注文に応じて仕立てて届ける、お針たちの詰めているところであった。
 お針には、近所の娘や、家持ち番頭の女房などが通ってきていた。大家たいけの婚礼衣裳などを引き請けて、いそぎの品がかさなったときは、夜っぴてここの窓に黄色い灯がにじんで、針と口をいっしょにうごかす女たちのにぎやかな笑い声が、朝までつづくこともめずらしくなかった。
 いまも四、五人の若い女が、座敷に仕立てものをひろげて裁ったり縫ったりしているのが、まえを通りかかった磯五に見えた。女たちは、主人を見かけると、いっせいに仕事をよして、手を突いて頭をさげた。磯五は、そのなかに、お針がしらのおいちがいるのを知っていた。
 お市は、町内のとびの者の女房で、茶屋女あがりということであったが、それにしては、針が持てるのであった。磯屋のお針頭として、どんな品物を出されても、立派にこなしてゆけるのであった。お市は、ちょいと渋皮のむけた、せいの高い、しじゅうにこにことほほえんでいる女であった。態度ものごしにどこかなまめいたところがあって、芸事の師匠といったような女柄であった。
 磯五は、このお市がけむたくてしようがなかった。それは、いつかお市が、このお針部屋にひとりでいるとき、磯五が意地のきたないことをしようとして、上手うわてたれてしまったからばかりではなかった。お駒ちゃんを妹としておもて看板に上げていることを、このお市だけは、からくりの底まで見すかしているように、磯五には思えた。
 それも、そういうことを口に出したのでも、けぶりに見せたのでもないのだが、どうも磯五は、お市が邪魔になってきていた。このあいだからひまを出そうと考えていた。事実きょうは、お市の代わりにお針頭になる、おしんという女が、人の仲介なかだちで目見得にくることになっている。
 磯五は、それを思い出して、悶着もんちゃくのないようにこの出し入れをしなければならないと思った。新しいおしんという女は、手腕うでも達者だし、すこしは人も使えて、人間もいいというのである。そのほうを確かめてから、機をみて、お市に暇をくれることにしよう。それまでは、何もいわないほうがいい。町内のものではあるし、それに、いつかのことで弱点を握られていもする。
 そうでなくても、やむを得ない場合のほか、女性を敵にまわさないように気をつけるのが、磯屋五兵衛のモットウであった。ともかく、こんにちの彼をして、この大店のあるじたらしめているゆえんのものは、この生活信条に負うところ少なくないのだった。
 磯五は、だまって、そのお針部屋の前を通り過ぎて、奥庭から居間へ上がろうとしていた。
 樹のかげに、女の着物がうごいたので、磯五は、足をとめた。それは、多勢いる小間使いのひとりで、見なれない若い女であった。若い女も、そうして近いところで磯五を見るのは初めてであったが、これが旦那様であろうと直感して、固くなって、そこへ出てきた。耳たぶを真っ赤にしている、うつくしい娘であった。磯五は、その顔をのぞくようにして、荒いことばを使った。
「こんなところで何をしているのだ」
「はい」娘は、おどおどした。「ささをとってくるようにとお咲さんにいいつけられまして――」
「笹を? 笹は何にするのだ」
「はい。なにやらお煮物の下に敷くのだそうでございます」
「そんなら、笹は裏にある。こんなところへ来てはいけない。ここは、おもての者以外きてはならぬのだ」
「はい。昨日上がりましたばかりで、まだちっとも勝手が知れないものでございますから――」
「よろしい。行きなさい」
 娘がおじぎをして去りかけると、ぱっちりした磯五の眼に、露骨な興味のいろがうかんだ。その視線は、逃げるように行く娘の足どりにからみついた。
「これこれ、お前は何というのかね」
 庭木のむこうから、娘の白い顔が答えた。
「はい。美代みよと申します」
 磯五は、うなずいて歩き出した。いま、樹のあいだに消えて行ったお美代のすがたが、網膜の底にのこっていた。お美代は、やせて、肩などまだ肉の乗らない、皮膚のいろのわるい娘むすめした女であった。しかしお美代の顔だちは、めずらしくととのったものであった。
 磯五は、女の美醜を見さだめる点では、天才であった。石やかわらのなかから、つねに玉を発見するのであった。あのお美代は、化粧と着物によっては、立派に見られるものになると磯五は思った。何かの役に立つであろうから、そっと眼をつけていようと思った。

      四

 磯五が居間へはいって行くと、江戸紫というのに古代むらさきの染めを注文したお駒ちゃんが、京から届いてきたそのきれをぼんやりながめて、困ったようにすわっていたので、お駒ちゃんが磯五の妹であるというでたらめは、おせい様ばかりでなく、いまでは店の者のあいだにも、いいふらされていた。
 磯五が上方から帰ってこの磯五の店を買いとったとき、江戸に残しておいた妹がおちぶれているのを見つけて、助け出して店へ入れたというのである。そして、それ以来、店のことはいっさい妹のお駒ちゃんにまかせてある、というのだ。
 みな信じて、誰も疑うものはないと磯五は思っていた。ただあのお針頭のお市だけは、にこにこしながら、何もかも知っているような気がするのだが、それも、そんな気がするだけで、確かにお市が見やぶっているとは、磯五にもいえないのだ。
 しかし、妹を選ぶにあたって、お駒ちゃんを採用したことは間違いであったことは、磯五も気がついていた。
 おせい様は、何と思おうと、磯五の口ひとつでどうともなるのだから、そのほうはいいとして、こんなあばずれを妹だなどといって背負いこむようになったのは、第一、あの金剛寺坂の高音がいうことをきかないからだ。高音さえ、こっちの頼みどおりに、妹役を引きうけて店へ来てくれれば、何もすき好んで、この箸にも棒にもかからないお駒などをうちへひき入れることはなかったのである。そう思うと磯五は、高音のお高が憎らしかった。
 いかにいそいでいたとはいえ、どうしてあんなお駒などを妹に仕立てる気になったのであろう。お駒ちゃんは柄や色あいの考えなぞすこしもないのだ。まるっきり商売のあたまがないのだ。お駒ちゃんの持っているものは、悪口の舌だけで、それで家じゅうのものを追い使っている。見たところも、美しいはうつくしいが、何といっても下品で、とても山の手のいい客とは応対さえさせられないのである。
 そんなことを考えると、磯五は自分を蹴とばしたくなった。が、磯五は、あくまで磯屋の黒幕になっていて、外部そとの人と接触したくなかったので、どうしても、お駒ちゃんのような妹役がひとり必要だったのである。それは、おせい様をだますためばかりではなく、店の奉公人に対しても、そのほうがにらみがきくと、磯五は考えていた。
 染め物の色のことから、お駒ちゃんとあらそいになったのだった。磯五は、お駒ちゃんの膝からたたみのうえにひろがっている反物を、つま先で蹴りけり、いった。
「気をつけなくちゃあいけねえじゃねえか。妹とか何とかいわれて、図に乗るばかりが能じゃあねえんだ」
 たちまち、お駒ちゃんの顔に、朱のいろがのぼった。
「何をいってるんだい。気をつけろだって。お前さんこそ、気をつけたがいいや。何だい、面白くもない。妹でもないものを妹だなんてつれまわして、あの四十島田をたらしこんでさ、いっしょになる気もないくせに、いっしょになるなるってお金をしぼっているのは、どこの誰だったっけね。あたしがこんなことをする気になったのは、お前さんとの約束があったからだよ」
 お駒ちゃんの声は、だんだん大きくなるのだ。
「さあ、あの約束はどうしたんだい。それを聞こうじゃないか」
 磯五は、美しい眉をしかめて、お駒ちゃんをみつめた。
「そんなことをここでいい出すものじゃない」
「いい出すのじゃないって」お駒ちゃんは、泣き声になってきた。「あたしが黙っていれば、お前さんはいつまでたっても知らん顔の半兵衛じゃないか。いやだよ。誰がそうそうおあずけを食わされているもんか」
 そとに気をかねて、障子のほうを見た磯五の顔には、その美貌びぼうのかわりに、みにくい表情があった。それは、異様にかがやく眼と、剛情に突きでた顎だけであった。
「忘れちゃいねえ。が、ここでそんなことをいわなくてもいいだろうというんだよ。おれもいそがしいからだだ。あんまりせっついてくれるな」
「おや、お前のような人でも、忙しいということがあるのかねえ。はい。さぞかしお忙しゅうございましょうとも。笑わせるよ。おおかた、後家さんにうまいこといってお金をしぼるのに忙しいんだろうよ」

      五

 手をふりあげた磯五だ。
「何をいやあがる! さ、もう勘弁ならねえから出てうせろ。出て行け、この宿なしの牝猫めすねこ――」
 お駒ちゃんも、すっかり地のお駒ちゃんにかえっていた。
「出てゆけだって。これあ面白い。出て行きましょうとも。ここを出たら、その足で、あたしゃ拝領町屋へ駈けこんで、あのおせい様とかいう色きちがいに、何からなにまでほんとのことをぶちまけてやるんだ。あたしがお前さんの妹かどうか、なんにも知らないものに、こうやっていいお着々べべをきせて、何だって遊ばせておくのか、みんなあなた様をおだまし申そう磯屋のこんたんでございます、とね。考えてごらんよ。どんなことになるか。
 何だって? 宿なしのめす猫? へん、お前さんは何だい、立派な大あきんどでいらっしゃいますよ。日本橋の老舗磯屋の旦那でいらっしゃいますよ。うそつき! 詐欺師! 女たらし! ぶつならお打ち。強い人に弱い者は、弱いものにかぎって、強いんだってね」
 お駒ちゃんが、そんなややこしいたんかを切って、磯五のほうへからだをにじり寄らせてくるものだから、磯五が困って、ふりかぶったこぶしを持ちあつかっていると、するすると障子があいて、あたらしいお針頭のおしんが、顔を出したのだった。
 お駒ちゃんは、泪のいっぱいたまった眼で磯五を見上げてから、みだれていたじぶんの裾に気がついて、膝のまえを直した。磯五は、あわてて手をおろして、笑顔をつくっておしんを迎えた。おしんは、しとやかにはいってきて、磯五のまえにすわった。
 おしんは、堅気のような、堅気でないような、ようすのいい年増であった。細ながい顔であったが、眼がおっとりしているので、鋭い感じを消していた。おしんは、はじめは気がつかないふうだったが、おじぎをして顔を上げたとき、磯五を見て、びっくりした声を出した。
「おや。あなたさまは麻布の馬場屋敷の旦那様ではございませんか」
 磯五は、それを聞かないふりをした。
「わたしが磯屋五兵衛だ。これは妹のお駒です」
 おしんは、ともかくお駒ちゃんのほうへ挨拶をしたが、お駒ちゃんは、ぽかんと口をあけて、磯五とおしんの顔を見くらべていた。
「お名前が変わっていますもんで、ちっとも存じませんでございました」おしんは、うれしそうにつづけた。
「もう三年になりますねえ。わたしは、馬場屋敷のそばにいて、しじゅうお内儀さまの高音様にお仕立てものをさせていただいておりましたおしんでございますよ。旦那様は、おしんをお忘れでございますか。いろいろ御厄介になりましたおしんでございますよ。
 この磯屋のもち主が変わったということは伺いましたけれど、旦那様がおやりになっていらっしゃろうとは、存じませんでございましたよ。またこのたびはこちら様に働かしていただくようになりまして、やっぱり御縁があるのでございますねえ。不思議な気がいたしますよ。高音様はいかがでございますか」
 磯五が、どうこの場をつくろったものであろうかと考えていると、お駒ちゃんが顔いろをかえて進み出てきたが、そのまえに、おしんがいい続けていた。
「そういえば、いつぞや高音さまにお眼にかかりましたことがございますよ。神田のほうで、でも、へんでございますねえ。旦那がこの商売をおはじめになったことは、高音さまは、何にもおっしゃいませんでしたよ」
 お駒ちゃんが、はげしくふるえる声をはさんだ。
「この人には、おかみさんがあるの? こないだ神田であったんですって?」
「はい。お妹さんでいらしって、ご存じないのでございますか。高音さまとおっしゃるおうつくしい奥様がおありでございますよ」
「まあ! あきれかえった――」
 何かわめき出しそうにするお駒ちゃんを、磯五は、いそいで部屋のそとへ押し出すようにした。
「お前は、気がたかぶっておる。部屋へ行って、やすみなさい」
 そして、泣き声をもらすまいとしてくちびるをかんだお駒ちゃんが、廊下を立ち去って行くのを見すましてから、磯五は、むずかしい顔をして、おしんの待っている居間へ引っかえした。おしんは、あっけにとられて、磯五の顔を見あげていた。
 磯五は、しずかにいった。
「妹のお駒なのだが、どうも逆上のぼせ気味で困ります」

      六

「はい。これは、いらっしゃい」磯五は、あらためて、おしんに挨拶をはじめた。
「なるほど、おしんだ。いやよくおぼえております。おしんという人が、お針頭に来てくれるということを聞いたときは、お前さんとは気がつかなかったが、こうして顔を見て、名乗られてみると、いかにもおしんさんだ。いやなに、高音のことで、いまちょっとごたごたがありましてな、お恥ずかしい次第だが、弱っております。何か気に入らんことがあって、高音が家を出たのです」
「まあ、道理で、久しぶりでお眼にかかったのに、高音さまが、旦那様のことをおっしゃらないので、妙だと思っておりましたが、そういうわけでございますか」
「何でも、じぶんの好きなように暮らすのだとかいいましてな、ただいま別居していますよ」
「それはそれは、お困りでございましょうねえ。あんなおとなしい高音様が、どうしてそんなお気になったのでございましょう。でも、おっつけ人でも立ててお帰りになることでございましょうよ」
「そう思って、待っているのだが、まあ、それはそれとして、用のはなしにかかりましょう」
 仕事や給料のとりきめをしながら、磯五はあわただしく考えていた。
 このおしんが、昔のじぶんを知っている以上、そしてまた、高音に会ったりしているのだから、この女を放しておいて、勝手にしゃべらせるのは、じぶんにとって危険でないことはない。しかし、いまいった高音の家出のつくり話を、おしんは信じるであろうか。ふたたび高音にあうことがあるであろうか。じぶんから、好奇心をもって、高音を探したりすることはないであろうか。
 磯五は、いろいろに考えたすえ、こういう女は、手もとにおいて、しじゅう限を届かせてにらんでいるにかぎると思ったので、おしんを雇うことにきめた。が、おしんも、いままでいるところの始末をつけて出て来なければならないというので、急に住みこむというわけにはゆかなかった。十日や二十日は待つことに話しあいがついた。
 ひとまず帰ることになって、おしんが、そのすんなりしたいきなからだを立たせると、磯五は、ちらと、この女をやとったのは失敗ではなかったかという考えが、ひらめいた。それは、何もおしんというもののなかに自分の敵を見たわけではないが、ただ、何となく邪魔になりそうな気がしてきたのだ。
 そのうちに、おしんが帰って行って、磯五は、砂のようなものの残っている重いこころのまま、気になるので、お駒の部屋となっている、土蔵の向こう側の小座敷へ行ってみた。
 まん中の畳に、お駒ちゃんがたもとを抱いてうつ伏していた。案のじょう、狂女のようになって、泣きじゃくっているのだ。それが、はいって来たのが磯五と知れると、お駒ちゃんはいっそうからだをもむようにして、おおびらに泣き声をあげはじめた。もうさっきのように怒っているのではないらしかった。ただ悲しんでいるふうだった。
「ほんとに、ほんとに、お前さんという人は、女房のあることなんか、今のいままで隠しときやがって――こんなになったあたしを、どうしてくれるつもりだい。おせい様からお金さえとれば、そしてそのために、あたしが妹の面をかぶっていれば、いずれ晴れて女房にして、このうちに入れるからなんていったのは、いったい何の口だい。
 あたしゃだまされていたんだよ。お前さんは、女という女を、片っぱしからだましてまわるのが、稼業しょうばいなんだねえ。くやしいのを通りこして、あいた口がふさがらないよ。でも、あたしゃ因果とお前さんが好きでねえ、踏まれても蹴られても、くっついてゆこうと思っているんだよ」
 お駒ちゃんは、なみだに洗われた顔を見せた。そこには、めずらしく真剣なものがみなぎっていた。お駒ちゃんは、からだのどこかに痛いところでもあるように、歯をくいしばって、肩を前後にゆすぶっていた。磯五が、そばにしゃがんで、お駒ちゃんの肩に手をかけて、しずめようとした。
「お駒ちゃん、じっとして、おれのいうことを聞きな」
 例の油っこい声なので、それは、お駒ちゃんのみならず、女のうえには、不思議な力を投げるものとみえる。お駒ちゃんは泣きやんで、小娘のように鼻をかみ出した。夢をみたようにぽかんとして、部屋の隅に眼を凝らしているのだ。
 泣いている女は、磯五にとって、いちばんあつかいやすいのである。なみだをふいてやって、やさしいことばを耳へ吹きこみさえすれば、こんどはべつの感情で、彼女の胸をふくらませることができるというのである。磯五は、そのとおりに、お駒ちゃんの眼をわざとじゃけんにふいてやって、耳もとでささやいた。
「さあさあ、しっかりしろい。早合点するものじゃあねえよ」

      七

「何だ、眼がまっかじゃあないか。可哀そうに」
「可哀そうにもないもんだ。自分が泣かせておいて」
「だから、それが、早合点だというのだ。いま来た、あの女は、おしんといって、新規にやとったお針頭だが、はじめのうち、とんでもねえ人ちがいをしやがって、いや、笑わせもんさ。麻布の馬場やしきだことの、高音とかいうおかみさんだことのと、めりはりの合わねえことばかりいっていたが、やっとあとでまちがいとわかってな、今度は、平蜘蛛ひらぐものようなあやまりようよ。おめえに見せたら、ふきだすところだったぜ」
「それでは、あの、お前さんに女房があるといったのは、あれは人違いだったのかえ」
「なんの。人ちがいなものか。おれには、立派な女房があるよ」
「あれ、また、どこまでうそで、どこから、ほんとなんだか――」
「なに、うそなもんか。これ、このとおり、ここにお駒ちゃんという、れっきとした女房があらあね」
「そんな見えすいたうれしがらせは、いやだよ。憎らしいねえ」
「うんにゃ。うれしがらせじゃあねえ。おらあほんに女房と思っているのは、お駒ちゃんだけなんだ」
だけは心細いね。そんなにほかに、女房と思う女があられて、たまるもんかね」
「こいつあまいった。だからよ、だから機嫌を直して、さっさと支度をしねえな。忘れちゃいけないぜ。今夜はおれとおめえと、おせい様んところに晩めしにばれてるんだ」
「ごまかしっこなしにしようじゃないか。ほんとに、お前さんには、どこかにおかみさんがあるんじゃないかい。あたしゃどうも、そんな気がしてしようがないんだけれど」
「うたぐりぶけえなあ。おいらあ女房なんて、そんなものはありはしねえよ」
「だって、いま来た人が、このあいだ、神田とかで会ったというじゃないか」
「だから、それがどこの馬の骨が牛の骨と、すっかりこんぐらがっているんだってのに。あのおしんてえ女も、どうかしてらあな。おかげでおめえにゃ泣かれる。こんな馬鹿を見たことはねえや」
「それもこれも、みんなお前さんのふだんの心がけがよくないからだよ」お駒ちゃんは、おいおい機嫌がよくなってきたが、それでも、最後に、ちょっとまじめな顔をして、きいた。
「じゃあ何だね、お前さんには女房はないとおいいだね。約束どおりに、あたしといっしょになれるんだねえ」
「そうとも。いつもいっているように、おせい様から取れるものだけとって振り落としてしまえば、あとは、おれとおめえと、な、それをたのしみに、おれもこうやって、あのしわづらの御機嫌うかがいに、拝領町屋へお百度をふんでいるんじゃあねえか。ちったあこっちの気も察しろい」
 磯五が、お駒ちゃんの肩に手をまわすと、それは、魔術のように作用するようにみえた。お駒ちゃんは、すぐにっこりして、磯五の顔に頬ずりしてきた。磯五は、ちらと顔をしかめた。
「さ、そうわかったら、あっちへ行って、早く着がえをしてくれ。磯五の妹という役をわすれねえで、堅気な服装なりをしてくるのだ。おせい様は、もう待っていなさるに相違ねえ。おれも、今夜は何だか気がすすまねえのだが、せっかく招ばれたのに、そろって行かねえと、おせい様が気をわるくするかもしれない。いまおせい様の心もちを損じてならねえことは、おめえも承知のはずじゃあねえか」
 それから、まもなく、磯五とお駒ちゃんは、外出着よそゆきにきかえて、駕籠かごにゆられて下谷の拝領町屋へ出かけて行った。拝領町屋の雑賀屋の寮には、おせい様が、すっかり膳部のしたくをととのえて、今くるか、いま来るかと、いらいらして待っていた。そこへ、磯五とお駒ちゃんが乗りこんで行くと、おせい様は、
「おいでくださらないのかと思いましたよ」
 と、恨むようにいって、さっそく二人を奥の座敷へ案内した。そこには、燭台に灯がはいって、もう配膳するばっかりになっていた。おせい様は、得意げに、磯五を見ていった。
「いつかお話ししましたよねえ。あたらしい料理人いたばが来て、そのおじいさんは、お料理からお客のほうまで、一人でしないと気に入らないといった――久助きゅうすけというのですよ。ひとつ手腕うでを見てやってくださいよ」
 縞の着物に、雑賀屋のしるし半纒ばんてんを着た、六十近い白髪しらが老爺ろうやが腰をかがめて、料理の盆を持ってはいって来た。
 それが、いま話に出た久助であった。


    宵宴しょうえん


      一

 自分で料理をしてじぶんで給仕までしないと気がすまないという変わり者の久助だ。その久助が、料理のさらをいろいろと盆にのせて、部屋へはいって来たので、三人は、そっちを見た。
 おせい様は、その腕ききの奉公人をあたらしく得たことを誇るように、磯五の顔を見上げて笑った。その笑いは、見ようによっては悲しいようなまたうれしいようなわらいであった。
 それは、磯五に対するおせい様の感情を、よく現わしていた。これからこの人と、こうして毎日三度の食膳に向かうようになるのだと思うと、何かよりかかるものができたようで、このごろのおせい様は、行く手の地平線がぽうっとあかるんできているような気がしていた。
 このおせい様は、男の腕にやんわり寄りかかって世の中を送るようにできている女なのだ。が、それも、軽くやさしく寄りかかるのだから、男のほうでは、すこしも重荷にならないというタイプである。おせい様は、そういった女だった。
 しかし、それは危険なことだ。おせい様のような女は間違いのもとになりやすいのだ。ことに、おせい様の見ている前途の光は、明け方の色ではない。薄暮の浮光ふこうである。磯五に向けるおせい様の微笑が、かなしいものに見えるのはそれだった。
 ふと気がつくと、ならんで座についているお駒ちゃんが、急に蒼い顔をして落ちつかないようすなので、磯五がお駒ちゃんにきいた。そのあいだ久助は、物慣れた手つきで、三人の膳部へそれぞれ皿を配っていた。
「どうかしたのかい。顔いろがよくないようだが――」
「何ともありません」お駒ちゃんの声は、かすれていた。
「ただすこし寒気がするだけでございます」
「どうぞお一つ」
 と、いって、磯五の酒杯さかずきに酒を満たそうとしていたおせい様が、この問答にびっくりして、心配そうな表情かおをお駒ちゃんへ向けた。
「わたしもさっきからそう思っていたのですが、ほんとにお駒さんは、浮かないようすですねえ。寒気がするのは、いけませんですよ。風邪かぜのはじめでございます。こんな寒い晩にお呼びして、お駒ちゃんに病気になられたりしては、わたくしが困りますでございますよねえ」
 じっさい、浅い春らしい底冷えのする夜であった。おせい様がそういっているときも、そのおせい様のことばに合わせるように、さびしい風が、大きな音をたてて家をゆすぶって過ぎた。おせい様が、つづけた。
「あついお酒を召し上がると、あったかくなりますでございますよ」そして、部屋を出て行こうとしていた久助に、命じた。「特別に熱くして、一本持って来てくださいよ。大いそぎですよ」
 まもなく久助は、命じられた熱燗あつかんの徳利を持って来て、お駒の前へ置いた。前へ置いたきり、久助はあきれたように、黙ってお駒ちゃんの顔をみつめているので、お駒ちゃんは困ったようにうつ向いてしまった。おせい様が、久助をたしなめた。
「お酒を持って来たら、お酌をしてさしあげるものですよ」
 久助は不承無承に、徳利を持ってお駒ちゃんのさかづきにつごうとした。なかの酒が煮えくり返っているほど徳利があつくなっていたので、久助はあわてて下へおろして、耳へ手をやった。それから、ふところから手ぬぐいの畳んだのを出して、それを当てて徳利を持った。酒をつぎながらも、久助は眼を凝らして、お駒ちゃんの顔を見ていた。
 お駒ちゃんは、つがれた酒を、ほとんど一息にのみほした。さかづきを置く手が、ぶるぶるふるえていた。それきり下を向いて黙りこんでしまった。
 久助は、老爺おやじではあったが、そういう宴席のとりなしなどは、巧みなものであった。口数をきかずに用が足りて、万事によく気が届くのであった。久助の下に、ふたりの小婢こおんなが出て来て、酒と料理をはこんだ。そのおんなたちも、おせい様がやかましいので、立ち居ふるまいもしとやかであった。
 磯五の酌はおせい様が引きうけて、器用に銚子ちょうしを持っていた。料理は、素人しろうとの家のものとは思えないほど、立派なものであった。お駒ちゃんが気分がわるいことで宴はちょっと腰を折られたが、久助とおんなたちは、何ごともなかったようにそこらを斡旋あっせんした。磯五とおせい様も、すぐのんびりした気もちになって箸と酒杯さかずきをかわるがわる動かしていた。
 世間ばなしがはじまって、この小宴は楽しいものになりそうだった。

      二

 久助のやり方がすべて気がきいているので、おせい様は磯五を見て、何度も満足そうにほほえんだ。それは、こういう拾いものをしたという、主人役としての小さな自慢であった。磯五もそれにほほえみ返していた。
 お駒ちゃんだけが無言をつづけていた。いったいお駒ちゃんは、磯五とおせい様がいるところでは、いつもあんまり口をきかないのだ。つんとして黙っているか、しょんぼりほかのことを考えてるのだ。おせい様のようないい生活を知っている人のまえへ出ると、お駒ちゃんはひけ目を感じて、ただぼろを出さないように気をつけるだけが精いっぱいなのである。それが、ときによって、お駒ちゃんをいじらしく見せていた。
 が今夜はそれとも違う。お駒ちゃんはやっぱり気持ちの悪そうな顔をして、黙りこんでいるのだ。
 へんに思って、それとなく磯五が注意していると、お駒ちゃんはときどき眼を上げて久助を見るのだが、その視線が異様なのである。久助が銚子を持ってお駒ちゃんの前へ出て、
「一つお重ねなさいまし」
 というと、お駒ちゃんは妙にびっくりして、恐ろしいような、苦いような顔つきをした。よっぽどどうかしている。つれて来なければよかったと磯五は思った。
 膳が引かれると、おせい様とお駒ちゃんは顔を直しにほかの部屋へ出ていった。磯五はやかましいことをいって特別に入れさせているおせい様の煙草たばこから、一服借りて、ゆたかなけむりを吐いていた。その、色のいい気体の行方をぼんやり眼で追っていた。煙は、光線ひかりの届いているところでは紫に見えるし、天井へ近づくと白く見える。
 磯五はそれをひどく不思議なことのように思って、吹いてはながめ、吹いてはながめ、同じことをくり返していた。すこし酔っていた。
 久助がはいって来て、残りの物を持ってさがって行こうとした。磯五が呼びとめた。
「おとっつぁんはいい腕だね。名は何というのかね」
「久助と申します」
「お、そうそう。久助、久助。そこで久助、おせい様から話してあるだろうと思うが、おれはおせい様と近いうちにいっしょになることになっている。まあ、主人同様にしてもらおう」
 鷹揚おうようにそって、磯五は久助を見た。おせい様の家のものなら、猫とでも仲よくしておいていいのだ。ことにこの久助というおやじは、見たところ一癖ありそうなやつだから、こうして探りを入れて、味方にしておく必要があると思った。はじめから主人同様といい渡しておけば、どんな勝手なことでもできて、都合がいいのだ。久助は、そういう磯五に頭を下げて、ともかく恐れ入ったようすだ。
「はい。伺っております。わっしこそ、よろしくお願い申してえのです」
 久助は、どこから見ても、料理人いたばの久助らしい人物なので、磯五は安心をした。かなりの年齢としだが、がっしりしたからだつきで、江戸でよく見る、そういう職人らしい粋なおやじである。きれいに顔をそって、銀いろの髪を小さく結っている。
 ちらと磯五を見た久助の眼に、何でえ、しゃらくせえ、といいたげな気持ちが走り過ぎたが、磯五は、すっかりいい気にたばこをふかしていて、気がつかなかった。ただ、おせい様は、日々の料理がやかましいので、本職の板場を入れたのだろうが、この久助という老人には、そういう職人にありがちな、庖丁ほうちょう一本で渡りあるいて来たといったところも見えないと思って、感心していた。
 これなら、きっと長く勤まるだろう。いよいよ抱き込んでおかなければならないと思って、磯五は、お世辞をつかった。
「うまく食わせるじゃないか。見上げた腕前だぜ。前はどこにいたんだ」
「どこといって、べつに――以前は石町こくちょうのほうにいたこともありますが」
「石町の大提燈ちょうちんかい」
「へえ」
「あすこならたいしたもんだ。こんな素人家へなんぞ来るのはもったいないぜ」
「あすこに十二年おりやした」
 その石町の大提燈というのは、そのころ石町に、のきに大提燈をつるした、名代のうまいもの屋があった。その家のことだった。
「そうかい。どうしてやめたのかい」
「代が変わって、そりが合わねえから、面白くねえので思い切って引きやした。それから、ふか川のほうに、自前で店をやってみましたが、この年齢としじゃ、若えもんのあいだにまじって、河岸かしの買い出しをするのも、骨でがす。そのうちに、こちら様で板場を探しているてえことを聞き込みましたので、ここから葬式を出していただくつもりでまいりました」
「そうかい。そりゃあまあ、いいことをしたよ。おめえなんざあ年のわりにぴんしゃんしてるけれど、これで、荒い仕事をするよりは、ここらへ住み込んで、じいや爺やと気に入られて日を送ったほうが上分別よ。
 おせい様は、奉公人の出し入れがきらいで、長くいる者は眼をかけて、そりゃあ可愛がるのだ。おれもそうだ。お前もこれで、身のふり方がきまったというものだろう。ゆくところへゆくように、ちゃんと見届けてやるから、おめえも、ここで眼をつぶる気でな、しっかりやんな」
「ありがとうごぜえます」
「まあ、早く片づけて、ゆっくり休むがいいのさ」
 磯五は、すっかりあるじ顔で、べらべらしゃべりつづけた。

      三

 久助がおじぎをして部屋を出て行くと磯五も、たち上がった。彼は、上きげんであった。いよいよこののすべてが、自分のものになったような気がして、あらためて、そこらを見まわした。
 磯五は、家事のこまかいことにかけては、女のような才能があるのだった。大きな才のない者には、こういう小さな才があるものだ。磯五は、その代表的な人物だ。女以上に、あれこれと日常の末に気がつくたちだった。すぐに、この家もいいが、あそこはああしよう、これはこうしようと考えながら、二人の女たちを探して、廊下を歩いて行った。
 不浄場に近いところに、小さな隠れ座敷のようなところがあった。そこは、女の客などが、ちょっと身じまいを直すための場所であった。くらい行燈がともっていて、そのかげに、おせい様とお駒ちゃんが、ぴったり寄りそってすわっていた。お駒ちゃんは、じっと眼をすえて、おせい様が何かいうのを、きいているところであった。
 磯五はそこへふところ手をして、はいって行った。おせい様は、待っていたような、よろこばしそうな顔で磯五を迎えた。
「出て行ったきり、いつまでもお帰りがないから、どうしたかと思って、さがしに来たのですよ」磯五はお駒ちゃんを見て、いった。「気分は直ったかい。気分が直ったら、食べ立ちのようだが、そろそろおいとましようじゃないか」
「あなたは、まだいいじゃありませんか。わたしはいまお駒さんに、わたしに遠慮せずに早く帰っておやすみになるように説いていたところでございますよ」
「いいんですよ。もういいんですよ」お駒ちゃんは、そうあわて気味に口をはさんだ。幾分うるさそうな口調だった。
「ほっといてくださいよ」
 お駒ちゃんは、ぞんざいなことばでなら、かなり雄弁家なのだ。が、すこしあらたまった口になると、容易に舌が動かないのだ。
 おせい様は、今のように、お駒ちゃんに下品なところが見えると、兄の磯五がこの人を江戸に残して旅に出て、そのあとで下女奉公になぞ住み込んで歩いているうちに、こんなふうになったのであろうと思って、いまさらのように、兄の磯五をも妹のお駒ちゃんをも、気の毒に思うのだった。黙って磯五を見上げた。
 磯五が、いった。
「きょうは店が忙しかったので、お駒ちゃんはくたびれているのですよ。なあ、お駒ちゃん、おせい様もせっかくああいってくださるんだから、先に失礼したらいいじゃないか。駕籠をそういってもらうから、支度をしなさい。わたしが、そこまで送って出て、駕籠へ乗せてあげる」
 おせい様と二人きりになりたかったので、磯五がそういうと、お駒ちゃんはおとなしく帰る支度に立った。おせい様と磯五と、おんなたちが戸口まで送って出た。お駒ちゃんはいつになくしんみりしていて、おせい様にも丁寧に別れの挨拶をした。ついぞないことなので、磯五は、そういうお駒ちゃんを不思議そうに見ていた。おせい様も、何だか勝手が違って、まごまごしていた。
 磯五が往来そとまでいっしょに出て、お駒ちゃんを駕籠へ乗せた。駕籠は、もう呼ばれて来て、ふたりの駕籠かきが、息杖いきづえを突いて待っていた。久助が格子こうしをあけたまま、小腰をかがめて見送っていた。お駒ちゃんを送り返して、引っかえしてくると、磯五は久助の横を通ってうちへはいりながら笑った。
「妹だが、ちとからだが弱いんでな、騒がせてすまなかった」
「それはいけませんね」
 久助はそういって、何かにやにやしながら手をもんだ。

      四

 高音というものが現に生きている以上、じぶんに妻のあることを、おせい様にも、そうそう隠してはおけまいと磯五は思った。おせい様は、高音からも若松屋惣七からも、そこまではいわれて、半信半疑でいるはずなのだ。そして、いつかは何らかの形ではっきり知れることとすれば、他人の口からわからせるよりも、いまのうちに自分が打ちあけたほうがおせい様も気をよくするだろうと思った。
 どうせ磯五は、はじめから夫婦になる気はないのだし、夫婦になれないとわかっても、おせい様から金を引き出すほうには、いっこうさしさわりないと考えているのだから、いっそ今夜話してしまおうと思った。
 ただ、あの若松屋の女番頭のお高というのがそれだと知れると、すこし細工がまずくなるのだけれど、お高はじぶんでいいっこないし、若松屋惣七という盲人めくらはお高を想っているのだから、このことは、あいつからももれる心配はあるまい。
 磯五は、男女のことにかけては、いつも眼を大きくあけているのだ。その眼で見ると、高音と若松屋惣七は、大きに熱い仲であることがわかる。それはそれで、面白いことだと、磯五はにっこりして、おせい様の待っている奥の座敷へはいって行った。
 おせい様は、灯をみつめてすわっていた。
 磯五は、着ている洒落た着物にきぬずれの音をさせて、その光のほんのりしている座敷へはいっていった。
 おせい様は、その男ぶりをあがめるような眼つきで、磯五を見た。磯五は、それにはわざと知らん顔をして、おせい様の近くへ行ってすわった。やっと二人きりになったとき、相手の期待に反して、ときどきわざとよそよそしいふうを見せるのが、ますますその女をたまらなくさせるのだった。こうして、女のほうから追っかけて来るようにしむけるのが、磯五の手だった。
「どちらか湯治にお出かけになるというようなおはなしでしたが――」
 磯五がいった。おせい様はそれに答えるまえに、お駒のことをきいた。おせい様は、真剣にお駒ちゃんのことを心配しているのだ。
「お帰りになりましたか。たいしたことでなければよろしゅうございますがねえ」
 お駒ちゃんのことなど、もうけろりと忘れていた磯五は、びっくりした。
「何です、おせい様、誰のことです」
「あれ、いやでございますよ。お妹さんのお駒さんのことですよ」
「ああ、お駒ですか。よろしくと申して帰りました。いつもよくいい聞かせているのですが、あれも気の勝った女で、商売が忙しくなると、つい何から何まで、一人で引き受けてからだを動かさないと気がすまないたちなので、ときどきやられます。困りますよ」
「ほんとに、お気をつけてあげなすってくださいましよ。わたしにとっても、たった一人の大事な妹でございますからねえ」
 おせい様がしんみりそういうと、磯五も、しおらしくうなだれた。おせい様は磯五の問いを思い出した。
「もうすこしおあったかになったら、どこか近いところへ遊びに行きたいと思っていますよ。あなたもおいでなさいましよ」
「いや。いまは店の仕事が立てこんでいて、とても抜けられません。春の仕入れで、いそがしい盛りなのです」
 磯五は、家業大事という顔をした。おせい様が、失望をうかべて、すねるように何かいい出そうとすると磯五が、つづけた。
「おせい様、とんでもないことがわかりました。びっくりなすっちゃいけませんよ。家内がまだ生きているんです」
「家内って――あなたのお内儀さんが?」
「そうですよ。知らせてくれた人があって、わたしもはじめて知って驚いているんですが――いや、仮にも女房ともあろうものが、そうして生きているくせに、今まで居どころも知らせないなんて、何ぼあんなやつでも、そんな義理知らずなことをしようとは、わたしも思わなかったものですから、てっきり死んだものとばっかり――」
「でもおなくなりなすったというしらせがあったというお話でございましたね」
「それが、まちがいだったんです」
「それがね、ええまあ――」
 おせい様は、ふっとすすり泣きでもはじめそうな、動揺した表情になった。磯五は、じぶんの膝のうえにおせい様の手を拾いあげた。むりにつくったおせい様の笑顔が、磯五の顔へ寄ってきた。その耳へ、磯五がささやいていた。油を落としたような、すべりのいい声だ。
「困りました。こんなに困ったことはございません。おせい様よりも、わたしのほうが苦しゅうございます。お察しくださいまし。決して、前から知っていて、あなたに隠していたわけではありませんが、そう思われはしないかと思うと――」
「そんなことは、思いませんよ。ご存じなかったのはあなたの罪ではございませんもの。そのお内儀さんにいろいろひどい眼に合わされて、お気の毒でしたねえ。こんないい方を、そんなに苦しめるなどと、何というわるいひとでございましょう。その人が生きていらしっても、わたしの思いはちっとも変わりませんよ。変わらないどころかいっそう――」
「おせい様、それを伺って、安心いたしました。あんなやつでも、まだ女房となっている女が生きておるとすれば、わたしは、ご存じのとおり、こんな馬鹿堅いたちですから、今すぐおせい様にきていただくということは、こころもちが許しませんけれど、ねえ、おせい様、今までどおりに――」
「いままでどおりではいやでございますよ。今まで以上でございますよ」
 磯五は、ちょっと部屋のそとへ気をくばって、だれもいないことを確かめると、そっとおせい様の肩に手をまわした。おせい様は、小むすめのように身をよじって、その磯五の腕のなかへとけこんで来た。長いことそうしていた。おせい様は、歯をかみ合わせて、懸命に声を飲んでいたが、なみだが磯五の膝へしたたった。磯五は、何かほかのことを考えながら、顔を上げて、障子の桟を読んでいた。
 久助が戸締まりを見て歩く音が、ふたりを離れさせた。磯五はその夜この拝領町屋の家に泊まった。

      五

 当分、いや、一生夫婦となれそうもない男に真実を示してこそ、それは、現代いまのことばでいえば、まず、ほんとの愛というものであろうというふうに、おせい様は考えたのだった。そう考えることによって、おせい様は、内心新しいよろこびを感じさえした。
 どこまでもこの人に実を尽くして行きましょう。女が、心から男を思うみちは、じぶんの望みを殺すよりほかない。それが何よりも尊いまことなのだ。恨みがましいことは一言も口に出しますまい。今夜からすこしでも変わったなどと思われないようにしましょう。この人のかなしみを自分も分け背負って、よし初めの望みどおり夫婦にはなれなくても、いっしょに、一番高い、一ばん清い恋の山路を踏み登りましょう。
 それにしても、わたしたちの邪魔をして、この人をこんなに苦しめている、その、まだ生きている女房という女は、何というひどい人であろう。一眼顔を見てやりたいものだ――と、眠られないので、床のうえに起き上がったおせい様が、そばにぐっすりている磯五の顔を見ながら、こんなことを考えているときに、戸じまりを見おわった久助である。
 もう家じゅう真っ暗になっていた。
 手ぬぐいで頬かむりをした久助が、あし音を忍ばせてそっと裏口から家を出て行った。暗い夜空の下を、風が渡って、樹の枝がしきりに騒いでいた。枝が揺れさわぐと、やみのなかに黒い影がおどって、冷や飯草履ぞうりをとおして、地面の冷えが、はい上がってきた。
 久助は、もう一度、手ぬぐいですっぽり顔をつつみ直して、音のしないように、おせい様の家にそって拝領町屋の通りへ出た。そこにも風があって、白い紙屑かみくずが生き物のように街上まちを走っていた。
 下谷したやの大通りのほうへ小半丁も下ると、軒なみに暗い家がならんでいるなかに、一軒灯のかんかんついている家があった。通夜でもやっているらしく、読経の声が、もれてきていた。その前の往来にだけ、白い布を敷いたように、はばのひろい光線が倒れていた。
 久助がそこまで来て、その光のなかにはいって、合図のようにそこらを見まわすと、家の横の路地から、やはり手ぬぐいを吹き流しにかぶった女のすがたがあらわれて久助のそばへ寄って来た。
 ふたりはならんで、黙って歩きだしていた。


    父と


      一

 その灯のついている家のかげから出て来て、久助とならんで歩き出したのは、さっき拝領町屋の雑賀屋の寮から一足先に帰ったはずのお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは手ぬぐいを吹き流しにかぶって、つまをとるようにしていた。派手な着物の柄が、やみの底にふんわり浮いて見えていた。
 しばらく黙って歩いた。そこは大門町だいもんちょうの店屋つづきで、ごみごみした場所であった。ちょっと明るいところへ出ると、二人は、横顔をぬすみ見るつもりで、視線が合った。鋭くささやくようにいったのは、お駒ちゃんであった。
「ほんとに、あきれたもんだよ。おとっつぁん。お前、あんなところで何をしているんだい」
 すると、板場の久助が、着物の上からお駒ちゃんの肘をとらえて、
「何だ、お父つぁんだと? なるほど、お父つぁんには相違ねえが、おれは、おめえのような女に、お父つぁんと呼ばれたくねえのだ。人聞きが悪い」
 このお駒ちゃんと板さんの久助は、父娘おやこなのだ。その父親てておやの久助に、こうこっぴどくいわれても、お駒ちゃんは相変わらずしゃあしゃあとしたもので、
「おそかったねえ。戸締まりでも見ていたのかい」
「そうよ。戸締まりをしていたのだ」久助は、娘に対してこころよくないようすである。「往来みちの真ん中で立ち話もできめえ。どこか行くところねえのか」
「そうさねえ。どこへ行ったらいいだろうねえ。お父つぁんは、すぐ帰らなくてもいいの?」
「そう急ぐこともねえのだ。みんなもう寝ているだろう。裏の木戸をあけて来たから、いつでもへえれる。お駒、今夜はびっくりさせたぜ」
「あたいこそびっくりしたよ。久助という新しい板さんが来たということは聞いていたけれど、まさかお父つぁんとは思わなかったよ。歩きながら話そうじゃないか。まだそんなにおそくもないようだねえ」
 父と娘は、また黙って四、五間歩いて行った。近くに銭湯があるとみえて、しまい湯を落とした湯気が、みぞから白く立ちのぼってきた。それには、人間の膚のにおいとおしろいのにおいがまざって、むっと生あったかかった。
 お駒ちゃんは、宵の口におせい様にばれて来たときの服装のままだった。気分が悪いから先に式部小路へ帰るといって、駕籠で出たのだったが、どこかそこらで駕籠をおろして帰ってしまって[#「帰ってしまって」はママ]、じぶんは、眼立たないように路地に立って、父の久助の出て来るのを待っていたのだった。
 向こうから三人づれのさむらいが来たので、父娘は道の端によけて通った。三人の足音がうしろのやみに消えてしまうのを待って、久助が、低い早ぐちでいった。
「お駒、父に得心のいくように話してくれ。おめえはさっきおれに、あんなところで何をしているときいたがおれこそ、それをおめえにききてえのだ。あの美男いろおとこの妹などと触れ込みやがって、いずれまたろくでもねえ芝居をたくらんでいるのだろう。いいやそれにちげえねえ。
 考えてもみるがいい。どこの世界に、おのが娘にへいつくばって給仕をする父親てておやがあるものか。お駒さまが寒気がなさるから熱燗を持ってこいもねえものだ。おめえは主人の客、おいらは奉公人、しかたがねえからばつを合わせてへいこら仕えてるようなものの、実の親を使い立てしやあがって、罰当たりにもほどがあらあ」
「知らずに行ったら、出て来た変わり者の板さんというのがお父つぁんだったんだから、わたしも驚いたけれど、ああするよりほかないじゃないか」
「聞けあおめえはあの磯屋の旦那の妹てえ看板だそうだが、親のしらねえ兄というのがあってたまるか。おおよそ察しのつかねえこともねえが、いってえどういうわけだ。おめえという女はしたたか者になるに相違ねえと、おれあいい暮らしたもんだが、おふくろが先に眼をつぶって、おめえのこのかたり同然のしわざを見せねえですむだけが、せめてもよ」
「そんなこといわないでおくれよ」お駒ちゃんの声はちょっとさびしそうだが、別に肉親の情愛がこもっているでもない。
「何も悪いことをしてるわけじゃあないんだもの。ほんとに、何も悪いことをしてるんじゃないよ」
「じゃあ、何をしてる。正直にいってみな。御大家のお嬢さんのなりをして、金持ちの家へ客に来て、とんでもねえ化けこみをしてやがる。いっていこの二年ほど、おめえは江戸のどこにくぐって、何をしていたのだ。んだともつぶれたとも、たより一つよこさねえのはどういうわけだ。
 おれはおめえに、できるだけのことをして、嫁の口でもあったら、相当のところへ片づけようと、そればっかりを楽しみにこの年齢としになるまで働いてきたんだ、その親を置きざりに勝手に突っ走って、二年もなしのつぶてとは、それですむと思っているのか」
 お駒ちゃんは、歩いている足もとを見て、微笑した。
「そんなことは、知っていますよ。それだって、父娘おやこの仲だもの、あたいがおやにお礼をいわなくっちゃならないってわけも、なかろうじゃないか。はいはい、苦労をかけてすみませんでしたよ。おわびをしますよ」
「ちっ、何てえいい草だ――」
「だって、お父つぁんもむりじゃあないか。あたいはこの二年間、何とかして身すぎをするのに精いっぱいだったんだからね」
「おめえの辛苦は、心柄というものだ。それより、肝腎かんじんのおれのきいたことに返答をするがいい。家を出てから、何をしていたのだ。ちょっと顔出しをするとか、せめていどころぐれえは知らせてもよかりそうなものじゃあねえか。何だってまたわれから家を追ん出たんだ」

      二

「うちにいたんじゃあしたいようにできないからさ。おんな歌舞伎かぶきのほうに出ていたんだよ」
「やれやれ、あきれたもんだ。おいらも、河原者を娘に持とうたあ思わなかった。こちとらあしがねえ稼業かぎょうには相違ねえが、それでも、板の久助といやあ、ちったあ人様に知られもし、可愛がられもしたもんだ。
 なあお駒、いつもいうことだが、人間にあ二種あってな、人を使う身と、人様に使われる身と、これあおめえ、はっきり別れているんだぜ。そこがそれ、生まれというもんで、生まれながら人を使う上の方と、生まれながら人様に使われるおれたち風情ふぜいと――」
「何をいってるんだい。あたいは人に使われるなんて大きらいさ。性分だからしかたがないじゃないか」
「さ、それ、そのおめえの性分てえのが面白くねえ。まあ聞け、お駒。考えてもみるがいい。人に使われる身よりあ、人を使う身のほうがどんなにいいかしれやしねえと思うだろうが、そこが世の中でな、使われる身のほうが、使う身よりも、なんぼうか気やすで楽なのだ。
 いいうちへ奉公をして、御主人様の、気に入られてみねえ、それこそ、面白おかしく日が送れて、またどんないい目をみねえものでもねえ。出世をして、人を使う身になってみたけりゃあ、そこは心がけ一つで思いがけねえ出世をしねえとも限らねえ。
 そこへいくと、ことに女子おなごは、野郎とは違って、大きに芽を吹くことも早けりゃあ、そのためしも、世間にままあるのだ。おんなうじなくして玉の輿こしに乗るたあ、そこんところをいったもんだろうじゃあねえか。いい引きがあって、やっと住み込ませてやったあの藁店わらみせの吉田屋さん、あれはおめえ、どうして出たのだ」
 久助の話を聞いていると、下女奉公がこの世でいちばんやり甲斐のある仕事であり、出世の最好機会のように聞こえるのだ。お駒ちゃんはそれがおかしくってしようがなかったが、また、お父つぁんとしては、むりもないことだと思った。
 自分でもいっているとおり、久助は世の中の人間をかっきり上下に二大別して、じぶんたちはその下のほうに属するもの、そしてこの区別と所属は絶対不可変のものときめて考えているのだった。それは、使用人の家として続いてきていて、いまこの久助の体内に流れている血のことばであった。
 久助にとって、まじめに奉公をして、主人と、朋輩に可愛がられて、いくらか自由のきく晩年を持って飼いつぶしにされるよりほかに、人生はないのだった。それが最大の理想なのだった。他の生き方は、考えることさえもできなかった。だから、自分の家から、人に使われることをきらってこの区別を乱そうとする大それた冒険者がお駒という形で現われたということは、彼には驚異であり、悲嘆でさえあった。
 久助はお駒ちゃんを瀬戸物問屋の吉田屋で立派な小間使いに仕立てて、やがて見込みのある番頭とでもいっしょにさせてもらって、自分は老後庖丁を離れてそれにかかろうと思っていたのだ。ところが、お目見得に行っているうちに、何かよくないことをしでかしたとかで、お駒ちゃんは吉田屋をお払い箱になったきり、家へも帰らず、そのままいなくなってしまったのだ。
 これは二年前のことで、二年後の今夜、久助が雇われて行っている拝領町屋のおせい様の家へ、おせい様の情夫いろの日本橋の太物商磯屋五兵衛といっしょに、その磯五の妹として御馳走になりに乗りこんで来たのを久助が見ると、それが娘のお駒だった。
 吉田屋のことをいい出されると、お駒ちゃんは困ったように笑って、
「だって、お父つぁん、あれはしかたがなかったんだもの。へんなことがあってねえ。他の女中が悪いことをして、あたいに濡れぎぬをきせたんだよ。あのまたおかみさんという人も、あんまり眼がなさ過ぎるじゃないか。そいつのいうことばっかり真に受けて、あたいのいうことは取り合わないのさ。馬鹿々々しい。誰がこんなところにいてやるもんかと思ってね、いいかげんあきてもいたところだったから、ぷいと飛び出しちゃったの。
 お前は、あの吉田屋を御殿のように思っているようだけれど、あんな家、奉公人には地獄だよ。でも、いくらそんなこといったって、お父つぁんは眼の色をかえて怒るにきまってるから、当分あたいのしたいようにしてみて、何とか眼鼻がつくまで、自家うちのまえを通っても、知らん顔をしていよう。そのうちこっちから挨拶に出て――」
「待ちな。その吉田屋さんで起こったへんなことてえのは何だ」

      三

「あっ、そのこと。何でも、おかみさんの物がなくなって、あたいの行李こうりから出てきたとかいうんだよ」
「とかいうんだとは、まるで他人事ひとごとみてえじゃあねえか」
「そうさ。あたいはちっとも知らないことなんだもの。ほかの女中がそっとって、あたいの荷物へいれておいて、ないって騒ぎ出したのさ。あたいを追い出そうというんで、一狂言かいたんだよ」
「おめえは覚えのねえことだというあかしを立てて出て来たんだろうな」
「でも、証しの立てようがないじゃないか。みんな向こうへついていて、おかみさんなんか、頭からあたいを泥棒あつかいにするんだもの。何が何だか、あたいにゃさっぱりわかりやしない。ほんとに、奇妙な話だねえ」
 久助は、ぎっくりした。急に立ちどまって、闇黒やみを通してお駒ちゃんの白い顔をみつめた。
「お駒、ほんとにおめえは、おぼえのねえことなんだろうな」
 うたがいが、久助の声に恐怖を持たせた。お駒ちゃんは、あっさり受け流した。
「何をいってるんだい。いやだよ、お父つぁん。お前までそんなこというのかい。何ぼ何だって、あたいは泥棒じゃありませんからね。みんな仲間の女中が仕組んだことさ。見えすいてるじゃないか。それだのに、あのお民ってお内儀かみさんに、そこんとこを見分ける眼がなかったから、いっそのこと、あたいが出たまでのことさ」
 久助は安堵あんどの吐息をもらして、
「ほんとにおめえが盗ったのでなけりゃあ、それはそれでいいとして、それからどこで何をしていた。二年といやあ、決して短え月日じゃあねえ」
「そりゃお父つぁん。これでもいろんなことがあったよ。阿国歌舞伎おくにかぶきで、あちこち打ってまわったり、ものまねのようなことをしてみたり――」
「だが、今は芸人じゃあるめえ」
「こういうわけなの。お父つぁんは、何かあたいが悪いことをしてるように考えてるから、話しにくくってしようがないけど、べつにわるいことをしてるわけじゃあないんだよ。早くいえば、こうなのさ。あの磯屋の旦那の五兵衛さんて人に見込まれてねえ、ちょっとけに行ってあげているんだよ」
 暗いので、よく見えないのだが、久助は、お駒ちゃんの顔に眼をすえているらしかった。
「見込まれたって、おめえのどこがそんなにいいのかおれにあさっぱりわからねえ。顔かい」
「顔もいいけれど、からだがいいんだって」
「へっ、あきれたことをぬかすやつだ。恥を知るがいいや」
 ほんとにあきれ返ったように、久助が吐き出すようにいうと、お駒ちゃんはげらげら笑い出して、
「妙な感違いをしないでおくれよ。からだといったって容子ようすがいいっていうまでのことさ。ほんとに、お前は話がわからないから、いやになっちまうよ」
「いま何をしているかって、それを聞いているんじゃあねえか」
「だから話しているんじゃないか、へんないきさつがあってねえ、でも、心配おしでないよ。悪いことじゃないんだから。あたいはいま磯屋の人間さ」
「ふん、妹でもねえものが、妹という触れ込みでな。これはいってえどういうわけだ」
「それはね」と、お駒ちゃんはごまかすように、「商売上、そうしておかないとぐあいのわるいことがあるからさ」
「てえげえ察しがつかあ。おいらの主人のおせい様をだまそうてんだろう。磯屋の旦那はおせい様といっしょになるんだってえじゃあねえか」
「そうだとさ」
 お駒ちゃんはためらって答えた。
「そうだとさって、よく知らねえのか」
「よくは知らないやね。人のことだもの」
 お駒ちゃんがいやな顔をすると、久助は、せせら笑いながら突っこんだ。
「人のことって、兄貴のことじゃあねえか。それあそうと、おめえが磯屋さんの妹ってえのが、おれにあまだに落ちねえ」
「いいじゃないか。そんなことうるさくきかなくったって。おせい様は、呉服太物の商売には、流行はやりの色や柄を見る、女の眼が光っていないと、安心しないんだとさ。だから、磯屋さんは、そんなことに眼のきく妹があるっていってしまったの。だから、あたいがちょっと頼まれてその妹になっているのさ。
 磯屋は、あたいがやっていて、五兵衛さんは後見ということに表向きなっているんだよ。ね、さ、もうわかったろう、お父つぁん」

      四

「うんにゃ、わからねえ」
「何がわからないのさ」
「何だってそんなややっこしい細工をしておせい様を抱き込まなけあならねえか、そいつが合点がゆかねえ」
「そんなこと、あたいは知らないよ」
「なに、知らねえことがあるものか。同じ穴のたぬきじゃあねえか。おせい様は金を持っていなさるうえに、あんまり締まりのいいほうでもねえからな。読めたぜ。あの磯屋さんは、だいぶおせい様から吸い取っているにちげえねえ、ああいう男は、おれがこうと一眼でにらんだら、はずれはねえつもりだ」
「そうかねえ。あたいにゃかかわりのないことなもんで、つい気がつかなかったし、考えてみたこともなかったよ」
「おめえはどういうもうけがあるんだ」
「もうけ? いやだよ。もうけなんかありゃあしないよ。頼まれたから、妹でございって顔をしてやっているだけさ」
「うそをつけ。おめえが、もうけのねえことをするわけはねえ。だが、もうけがあってもなくても、これあおめえ、今のうちに手を引いたほうが利口だろうぜ。お奉行所へ聞こえても、面白くあるめえと思うのだ。かたりだからな」
「そうかねえ。かたりかね。あたいは何も、人様の迷惑になるようなことをしてるつもりじゃないんだけれど――」
「磯屋さんの妹という面をかぶっているのがよくねえや。おせい様にばれたら、どうなると思う? よし。おれからあの磯屋さんによく話し合ってみるとしよう」
「あれ、お父つぁん。そんなことしちゃいけないよ、何もかもぶちこわしじゃないか。何かってと出しゃばる人だねえ。年寄りらしくもない。お前の知ったこっちゃあないじゃないか。あたいが困るばっかりだよ。大事なことなんだからねえ。商売に」
「こりゃあ面白え。おせい様の金を巻き上げるのが磯屋さんの商売かい」
 ひとりごとのようにいってから、久助は、つづけた。
「悪いことはいわねえ。いまのうちによしな。娘にそんなことをさせて、おれは黙って見ているわけにゆかねえのだ。磯屋さんは、おめえというものをだしに使って、いっしょになる気もねえのに、おせい様を釣っているに相違ねえ。よしな、よしな。そんなことに加勢をするのはよしな。ちゃんが金を出してやるから、どっかに部屋でも借りるがいい。おれのからだがうごく限り、おめえひとりぐれえ食わせられねえこたあねえ。
 こんなことを続けていちゃあろくなことはねえぞ。そのうちにいい働き口でもみつけるまで、まあ、ぶらぶらしているがいいや。下女奉公が一ばんだ。な、いい家を探すのだ。きれいな家に、うまい物を食って、のんきにからだを動かしていせえすりゃあ、つとまってゆくところがあるめえものでもねえ。行儀見習いてえことも、おなごは忘れてならねえのだから――」
 お駒ちゃんは、あたまをうしろへほうり投げるようなしぐさをして、はっきりした声だ。
「お父つぁん、いまよすわけにはゆかないんだよ。心配しないでおくれよ。大丈夫だからさ」
「何をいやあがる」久助は、高びしゃに「おめえよりおれのほうが、ものの分別があろうてえもんだ」
「それあそうだけれど、あたしだって、自分のことはじぶんでやってゆけるつもりだよ。これでも、今までさんざん苦労をしたんだからねえ。やっとここまできたんだから、こころもちはありがたいけれど、よけいな口出しをしないでおくれよ。さっきから何度もいうとおり、べつに悪いことをしてるわけじゃあないんだから――」
「そんならなぜ、今夜おせい様んところでおれの顔を見たとき、あんなに、気を失いそうにおどろいたのだ」
「思いがけなかったからさ」
「江戸は広いようでも、今夜のように、いつどこで誰に会わねえもんでもねえ。おめえは、あの磯屋の旦那と、ほかのうちへもああしていっしょに行くのかい」
「いいえ、おせい様んとこほか、どこへも行きはしないよ。だから、お前さえ知らん顔していれば、それですむことじゃあないか。あたしもあんまりお前に会わないようにするしねえ――」
「会わねえということができるものか。おせい様んとこにいる限り、おれは、いやでも応でも、磯屋の妹になりすましてるおめえを、見ねえわけにあいかねえ。それがおれにあつれえのだ。磯屋さんは、近えうちに、おせい様と夫婦になるというこった。今夜なんかも、まるで御主人様のように、いろんなことをいっていなすったよ。
 その磯屋さんの妹さんてえのだから、おめえも、おっつけおれの御主筋に当たってくる。てえっ、使う身と、使われる身と、親と娘と、それがそう、何もかもめちゃめちゃになっちゃあ、世の中のきまりてえものはどこにあるのだ。人間はみんな、身分を守ってゆけあ、間違えはねえ。な、お駒、ちゃんのいうことをきいて、足を洗いな、足を」
「あたいが磯屋さんの妹になっているのを、見たり聞いたりするのが、そんなに気になるんだったら」お駒ちゃんは、だんだん持ち前の強情な口調になっていた。
「お父つぁんこそ、どこかほかへ住み替えたらいいじゃないか。何も、おせい様んところばかりが、板の口でもなかろうと思うんだけれどねえ」
「何てえことをいうやつだ。いんや、おれはよさねえ。どんなことがあっても、おれは、おせい様んところを動かねえつもりだ。邪魔で、お気の毒さまみたようだが、おれは、おめえのすることに、眼を光らせていてえのだから――」

      五

「そうかい。そんなら、まあ、すきなようにするがいいさ」
「おう。すきなようにするとも」
「あたいはもう帰るよ。磯屋さんも、もう帰って、きっと待っているんだろうから――」
「なに、磯屋は今夜、おせい様んところに泊まり込みだ」
「あれ! ほんとかい」
「ほんともうそもあるものか」と、いいかけた久助は、お駒ちゃんの顔いろが変わったのに気がついて、
「どうした、お駒。磯屋がどうしようと、おせい様がどうしようと、おめえがそうやっきになることはなかろうじゃねえか」
「あい何もやっきになってやしないがね――」
 いいすてて、お駒ちゃんは、道路みちの一方へすたすた歩き出した。それは、日本橋のほうへ帰る方向だったので、久助は安心したが、しかし、お駒ちゃんが血相を変えているのが心配であった。呼びながら、二、三歩追いかけた。
「これ、お駒。この夜ふけに、女ひとりで歩いてけえれるわけのものじゃあねえ。おれがいま、夜駕籠をめっけて寄越すから――」
 歯を食いしばっているらしいお駒ちゃんの声が、先のやみから流れてきた。
「いいよ。構わないでおくれよ。それより、お父つぁんは、あの五兵衛に気をつけていておくれよ。ほんとに、何をするか、よく気をつけていておくれよ。後生だからあいつに眼を光らせて――」
 傷ついたまま追われている鹿しかのように、お駒ちゃんは、よろよろとして、しかし、それにしては驚くべき速さで、もう黒い影が、倒れるようにむこうの角をまがって見えなくなってしまった。
 久助は、長いこと往来みちに立ちつくしていた。そうやって、お駒ちゃんの残したことばを、あたまの中でかんでいるようなようすだった。やがて、そのほんとの味がだんだんわかってきたらしく、久助は、恐怖をまじえてつぶやいた。
「そうだ。惚れてやがる。お駒のやつ、あの磯五てえ生っちれえ野郎に、首ったけなんだな。ちっ、道理で――だが、待てよ、こりゃあ相手がよくねえ。うむ、気をつけるとも。気をつけるとも。おれあ磯五に、しっかりこのまなこを光らせているからな――」
 さくらが蕾を持つころまで、お高は、同じ金剛寺坂の家にいながら、毎夕かけ違ってばかりいて、若松屋惣七としみじみ話をかわすこともなく過ぎたのだった。
 呼ばれて、奥の茶室へ行ってみると、このごろは他行がちの若松屋惣七が、この午後はめずらしくうちにいて、いつものように、帳面のうずたかい経机をまえに、端然とすわっていた。お高がはいって行くと、顔をななめに、かすんでいる眼を上げた。
 仕事のことは、相変わらずお高が書状を披見して、返書を書いて片づけてきていた。いまはこれという取り引きもなく、わりに静かな日がつづいていた。
 若松屋惣七が、自分と磯五とお高の問題をそのままにしておいて、いつまでたっても積極的な態度に出ようとしないのが、お高には、不幸といえば不幸であった。しかし、このあいまいな状態は、かえって若松屋惣七に対するお高の感情を培っているのだ。お高は、何をしていても、あたまが若松屋惣七のことでいっぱいなのを知っている。ゆっくり話し合わないけれど、いや、ゆっくり話し合わないからこそ、若松屋惣七は、お高の中で生きているのだ。
 お高は、この情感を食べ物にして生活していた。女は、こういう情感で生きているとき、いちばん美しく見えるのだ。が、お高は一日のうちに、やせて見えたりふとって見えたり、さびしそうに見えたり、楽しそうに見えたりする女なのだ。
 はいって来たお高は、そのさびしそうに見えるお高だ。若松屋惣七には、はっきりは見えないが、衣ずれのぐあいや何か、風のように立ってくる感じでわかるのだ。
「お高か。どうした。元気がないぞ」
 若松屋惣七は、武士の前身を出して、しっかり肘を張って、きちんとそろえた膝を向けた。
「そうでございますか。じぶんで何ともございませんが――」
「忙しいか」
「いいえ。ひまでございます」
「気散じの旅にでも出ると、いいかもしれぬの」
「はい」
「居は気をうっすと申して、人間はときおり場所をかえぬと、気がうっするものじゃ」
「さようでございますか」
 若松屋惣七は、近いうちに、武士時代の友人がひとりみえるかもしれぬというようなことをいった。若松屋惣七は、思い出したようにきいた。
「亭主はどうした。近ごろ会うたか」

      六

 押しつけた声だ。若松屋惣七は、感情といっしょに声を押しつけるのだ。お高は、かなしそうな眼をした。
「亭主などと、そんな意地のわるいことおっしゃらないでくださいまし。何もかもご存じでいらっしゃるくせに――」
「ふん。また泣き出しそうな声だな。よく泣くぞ」
「会いませんでございます。一度たずねてまいりましたけれど、佐吉さんにお頼みして、追い帰してもらいましてございます」
「ここへ来たのか。ずうずうしいやつじゃな」
「はい。ずうずうしいやつでございます」
「何しに来たのか」
「何しに来ましたのか存じませんけれど、いつぞや神田のほうへ御用たしにまいりましたとき、もと十番の馬場やしきにおりましたころ、お針を頼んでおりましたおしんさんという小母おばさんにぱったり道で会ったことがございます。むこうから呼びとめて、ちょっと立ち話をいたしましたが、わたくしは、何も申しませんでしたけれど、きっとそのおしんさんが磯五に会って、わたくしに会ったことを話したのでございましょう。
 それで、あの磯五という人は、いろいろ暗いところのある人でございますから、何かまた、った人に会ったとき、わたくしが、いって困るようなことをいいませんように、口止めに参ったのであろうと思いますでございます」
「うるさいな」
「ほんとに、うるさくございます」
「が、まあ、会わんでよかった。今後も、あわぬがよいぞ」
「はい。掛川のほうから、何か飛脚でも参りましてございますか」
「おお参った。万事着々進んでおるようである。具足屋も、どうやら盛り返したらしい。すべて、かの龍造寺どののおかげじゃ」
「ほんとに――」
「いずれ、お前をつれて、掛川へ行ってみるつもりでおる」
「あの、掛川へ――」
 一時に蒼くなったお高だ。お高はそこに行っている龍造寺主計のことを、思い出したのだ。お高が驚いたらしいので、龍造寺主計のお高に対する気もちを知らない若松屋惣七は、いっそうおどろいた。
「いやか」
「いいえ。旦那様とごいっしょでさえございましたら、高はどこへなりと、決していやだなどとは申しませんでございますが――」
「晴れて、旅でもしてみたいな」
「はい」
「わしは、近くひとりで、旅に出るかもしれぬ」
「あの、おひとりで」
「国平でも供につれようかの、眼の湯治に参るのじゃ」
 お高が何かいい出しそうにすると、若松屋惣七は、うるさくなったらしく、気ぜわしく手を振った。
「あああっちへ行け。行け行けと申したら、早く行け」
 お高は、若松屋惣七をよく知っているので、は、はい、といそいで答えて、ほほえみをうかべながら、逃げるように座をたった。
 若松屋惣七は、雪駄せったばきに杖をついて、金剛寺坂の家を出ていた。その杖は、佐吉が立ち木の枝を切ってきたもので、無骨にまがりくねっているのが、見ようによっては、風流にも見えるのだ。
 若松屋惣七は、町人らしい縞の着物にその杖をついて、江戸川を渡って、築土片町つくどかたまちのほうから矢来下やらいしたへ抜けて行った。陽がかんかん当たって、走りづかいのやつこなどの笑い声のする往来であった。武蔵野を思わせる草のにおいのする微風が、こころよかった。
 若松屋惣七の変わったすがたに、行人の眼があつまっていた。彼は半盲目めくらのくせに、がむしゃらに歩いて、足が早いのである。その自然木の杖をふって、怒っているように、なかば駈けて行くのだ。いつもこうなのだ。お先手組さきてぐみの組やしきの前に、古びた冠木門かぶきもんがあった。若松屋惣七は、家を間違わずに、そのくぐりを押してはいって行った。
 玄関の前へ出ても、案内をおうとしなかった。そのまま、家について庭のほうへまわろうとすると、窓の障子があいて、女中らしい中年の女が顔を出した。
「どなたでございますか」
 それは、面長の上品な女であった。窓のそとに杖を突いて立っている若松屋惣七を見ると、愛嬌あいきょうよくほほえんだ。
歌子うたこさまでございますか」
「おられますかな」
「おられますでございます」
 若松屋惣七は、遠慮なく庭へ通って行った。女中は、家の中をいそぎ足に、その歌子というひとへ知らせに行くようすだった。勝手を知っているので、まもなく若松屋惣七が奥庭の縁さきまで来ると、そこの座敷に、もう歌子が来て待っていた。
「こっちへお上がりなさいましよ」
「うむ。ここで結構だ」
 若松屋惣七は、上がろうとはしないで、縁側に腰をかけた。
「いけませんよ。そこでは何ですから、どうぞお上がりくださいまし」
 歌子は、三十五、六の武家風の女なのだ。愛くるしい顔だちだが、からだつきは頑丈がんじょうで、肩や腕などまるまるとふとっているのだ。膚が陽に焼けていた。


    旅心りょしん


      一

 歌子は、肩巾のひろい、色のあさ黒い女だ。せいが高くて、がっしりしている。とびいろの眼と、ユウマアのみなぎった、人のいい顔をしてる。この年齢としまで、独身を通してきた。長刀なぎなたの名手なのだ。渋川流しぶかわりゅうやわらもやる。馬も好きで、男のように肥馬にまたがって遠乗りに出たりする。若松屋惣七の従妹いとこである。
 庭からまわって来た若松屋惣七を、にこやかに迎えた。若松屋惣七が武士を廃業する以前、ふたりは、伯父おじうちにいっしょにいたこともあり、何事もうちあけて相談しあうなかなのだ。伯父は旗本だった。いまは歌子の弟が継いでいて、歌子は知行の分米ぶんまいで、ひとり者の女としては、かなりゆたかな暮らしをしているのである。この矢来下の家へ来てみると、いつものんきだった。
 若松屋惣七は、しばらく歌子を訪れなかったので、あたりが、珍しいものに思われた。縁側に腰をおろして、しきりに庭を見わたしていた。
「旅に出たと聞いたが、いつ戻られたのか」若松屋惣七が、きいた。「江戸におったり、おらなんだり、去就きょしゅう風のごとくじゃから、いつ来ていいかわからん」
 笑った。歌子も、その健康そうな顔を、ほほえませた。
「すこし信濃しなののほうを歩いて来ました」
「ほほう。面白いことでもあったかな」
「はい、面白いといえば面白い。面白くないといえば面白くない――でも、ほこりっぽい江戸よりは、よっぽどましでございます。わたくしは、江戸がいやになると、すぐ旅に出ます。こんども、京都から南、山陽のほうをまわってみようかと思っております」
「気楽な身分だな」
「気楽ではないのですよ。退屈なのですよ」
「同じこった」
「そう。おなじことでしょうか」
 ふたりは、声を合わせて笑った。
「で、いつたつのだ」
「京都のほうは、まだ先のことです。その前に、片瀬かたせ龍口寺りゅうこうじへおまいりして来ようと思っておりますが、同伴つれができましてねえ。大久保おおくぼ様の奥さまが、いっしょに行きたいといい出したのですよ」
「龍口寺とは、また奇特だな。えらい信心ではないか」
「信心も信心ですが、そういっては悪いけれど、遊山半分なのですよ。一度も、行ったことがありませんからねえ」
「ついでに、しまをまわってくるといい。おれも、行きたくなったな。行こうかな」
「そうですよ。ごいっしょに参りましょう。江の島へ寄って、ゆっくり遊びましょう」
「しかし、おれのほうは、すぐ行くというわけには参らぬのだ。友だちが来ることになっているでな。あの、紙魚亭しぎょていの主人じゃ」
麦田一八郎むぎたいっぱちろうさま。存じております」
「そうだ。お前も、知っているな。きやつが、久方ひさかたぶりに岩槻いわつきより出府して参って、たずねると申してきている。待たずばなるまい」
「それは、好都合でございます。わたくしのほうも、いまいった大久保の奥様が風邪かぜでふせっていらっしゃるので、それがくなるのを待っているのですから。では、麦田様がお見えになったら、ぜひおつれになって、同行四人で、にぎやかにまいりましょうよ」
「うむ。そういうことにしようか」
「そうしましょう。麦田様は、面白い方ですから、大久保の奥様も、およろこびになるでしょうし、旅は大勢のほうが、笑うことが多くて、ようございます」
「それは、そうだな」
 若松屋惣七は、何か考えこんでいて、急にいたずら好きな口調を帯びてきた歌子の声に気がつかなかった。しばらくして、若松屋惣七がつづけた。
「紙魚亭は女ずきのするやつだ。お前も、長いこと彼に会わんであろう。以前もとは、だいぶ仲よしであったな」
「はい」
 歌子は、ちょっとしおれて見えた。若松屋惣七は、急に鋭い眼を向けた。
「お前は麦田と仲たがいになっておるようだが、何か、つまらぬ争いでもしたのか」
「いいえ。なぜそんなことをおききになります」
「いや。もしそうであったら、いっしょに旅するのもいかがなものかと思って――どうじゃ、気まずいであろうが」
「決してそんなことございません。ほんとに、麦田さまはいい方ですし――」
「もとはお前、一八郎さんと呼んでおったではないか」
「でも、おたがい年をとりますし、それにこう離れていますと、だんだん遠くなりますよ。それよりお眼のほうはいかがですか」
「悪くもならんが、よくもならん」
「困りますねえ」
「困る」
「そんなにおひとりで出歩いて、およろしいのですか」
「用があって、参った」

      二

「はい。どういう御用でございましょう」
 若松屋惣七は、ちょっと切り出しにくそうにした。相手が、あんまり事務的だからだ。若松屋惣七は、まぶしそうな眼を、歌子のほうへ上げた。
「女をひとりつれて参るが、会ってやってくれぬか」
「女の方――ええ、おあいしますとも」が、歌子はすこし不思議そうな顔をした。「でも、どういう方でございます」
「可哀そうな女なのだ。今後いろいろ、相談に乗ってやってもらいたい」
「それはもう、わたくしできますことなら、何でも――どなたでございます」
「うちの女番頭である」
「すると、あの、お高さんとかいう――」
「そうだ」
 歌子の額部ひたいを、迷惑そうな色が走り過ぎた。彼女は、お高をよくっているわけでない。いや、よく識らないからこそ、この独身の従兄いとこうちへ女番頭として住みこんでいるということだけで、お高を、何か色じかけのわる者かなんぞのように、気をまわして考えているところがあるのである。
 若松屋惣七にははっきり見えないから、歌子は安心して、いやな顔を隠そうとしなかった。
「あわれな女でな、いつもひとりで、屋敷にくすぶっておる。気散じに話し合う友達をつくってやりたいと思うのだ。龍口寺まいりにも、加えてやりたいと思うが、どうであろう」
「結構でございましょう」
 それきり歌子は、ぽつんと黙りこんだ。
「しかし」若松屋惣七が、いっていた。「どこまでも、女の雇い人であってみれば、わしから供を申しつけるというわけには参らぬ。ここはひとつ、お前から出たことにして、どうだ、誘ってみてはくれぬか」
「結構でございましょう」
「では、承知してくれたな」
「なぜそんなにおつれになりたいのでございます」
「保養をさせてやりたいのじゃ」
「まあ、親切な! ほんとに、親切なお主ですねえ」
「妙に思うかもしれんがあの女については、いずれお前にも話すが、いろいろ事情がある」
「そうでございましょうとも。いろいろ御事情がおありでしょうとも。あなたは、あのお高さんがお好きなんでしょう?」
「心のいい女だ。お前にも、決して迷惑をかけるようなことはない。心配せんでもいい」
「それはよくわかっております。そんな心配は致しません。でも、ずいぶんお気に入りのようですねえ」
「ふむ。まあ、気に入っておるな」
「奥様にあそばすお考えですか」
「そうもなるまい。そこが事情じゃ。ただあの心痛の多い女を残してわしひとり面白おかしく旅をする気になれんのだ。このごろは、誰しもちょっと江戸を離れて、田んぼみちでも歩いてみたくなる季節だからな。わしは、あれに相模さがみの海を見せてやりたい」
「結構でございましょう。では、どういうことにいたしますか」
 歌子は、さっぱりした女だ。若松屋惣七のお高に対するざっくばらんな愛を聞かされて、彼女自身ほがらかな気もちになりつつあるのだ。
 若松屋惣七のいかめしい顔に、笑いがひろがった。
「都合がよければ、明晩ここへつれてまいる。お前とお高は、きっと仲のいい友達になるであろうと思う。わしが考えると、よく合うところがあるのだ」
「さようですか。それでは、わたくしも楽しみにしております。わたくしのほうは、いつおつれになっても構いませぬ」
「それとなく、龍口寺まいりのことを切り出してくれ。お高は、さびしがっているのだから、すこし厚意をみせてくれれば、すぐなつくことであろう。からだも、あまりよくないようである。何とかして、旅に出したいと思うのだ」
 歌子は、もう晴ればれとした顔をしていた。
「承知いたしました。明晩おつれなさいまし」
 女中が茶を運んで来て、ふたりは黙って茶を飲んだ。茶を飲みながら、若松屋惣七は、考えた。この歌子と、あの紙魚亭主人の麦田一八郎と、あれほど仲がよかったのが、どうしてこう遠いこころになったのであろう。去るもの日々にうとしというだけのことであろうか。似合いの夫婦である。今度の旅の機会に、何とかまとまればよいが。
 歌子も、茶を飲みながら、考えていた。歌子は女らしい女といえなかった。こまかいことはわからないが、それでも、男のこころというものは、何という不思議なものであろうと思った。この頑固な従兄が、今になって一人の女に柔かい心を向けている。歌子は、それがおかしかった。
 そのお高に、何かしら事情があるという。事情のある女なんか、よしたがいい。歌子は若松屋惣七のためにそう思った。歌子は、簡単な女なのだ。そう思って、若松屋惣七を見ると、庭におどる日光を感じた若松屋惣七の眼が、ひくひくまばたいていた。

      三

 朝、帳場になっている奥の茶室へ、お高が仕事のことで来て、すぐ出て行こうとすると若松屋惣七が、呼びとめた。
「わしの従妹の歌子というのが、お前に会いたいというておるのだが、今夜いっしょに行かぬか」
「どうぞお供させてくださいまし。でも、歌子様は、わたくしのようなものはおきらいでございますまいか。歌子さまとおっしゃいますのは、よく旦那様がお噂なさいます、あの、薙刀なぎなた柔術やわらのおできになる方でございましたね」
「そうだ。近く片瀬の龍口寺へまいると申しておった。きのうは久しぶりに会うて、お前のことをいろいろ話してまいった」
 お高は、さっと暗い顔になった。若松屋惣七は、それを感じて、いそいで話をついだ。
「いろいろと申したところで、例の、お前が知られたくないと思っておることは、いいはせぬ。しかし、それも、考えてみると、皆に聞こえたところで、いっこうさしつかえないではないか。お前が、かの磯五という極道者につながれておるということは、何もお前の罪ではないのだからな」
「いえ。そればかりは、わたくし」お高の声は、苦痛と恥辱で、今にもこわれそうだ。「考えるのもいやなのでございますから、どんなことがありましても、人さまに知られたくはございません。そんなことをお話しなさるようでしたら、今夜歌子さまのお屋敷へ伺うことも、御辞退申し上げますでございます」
「うう、いや。それほどいやなものを、って話すとはいわぬ、わたしはただ、お前と歌子は、よい話し相手になるであろうと思うのだ。いずれそのうち、その気になったら、磯五のこともお前から話しておくがよい。あれは、何を打ちあけても、安心のできる女である。もうよい。休息して、夕刻を待つのだ」
 お高と歌子の会談は、若松屋惣七が望んだ以上に成功であった。自分の女を、家族や親類の女に引きあわすのは、なかなかの難事業である。難事業であるといって、それをしないでいるために、そこにあらゆる誤解が発生して、多くの男は、それで手を焼くのだ。
 若松屋惣七は、歌子が一目でお高に厚意をよせ出したらしいのに安心して、ひとまず先に帰ったのだった。
 お高のうつくしさは、女の歌子をも惹きつけるに十分だったのだ。歌子は、じぶんがあまりきれいでないので、きれいな顔には、ふだんからあこがれのこころを寄せていた。それにお高は、その夜はことに美しく見えた。お高は、若い鹿しかのようにしなやかだった。黒い大きな眼が、興奮と気配りとで、濡れた碁石のようにつやつやしく光っていた。それは、お高の内側に、何か火が燃えているような感じだった。
 若松屋惣七が帰ってから、歌子とお高は、奥の座敷にすわって、長いこと話しこんだ。お高の眼は、同性の歌子をさえ魅了する眼だった。お高が帰ることになったので、庭から出て柴折戸しおりどのところまで送って行きながら、歌子は、自分が、お高のその眼と、ころがるような澄んだ声とに、すっかり包まれているのを意識した。
 お高を見送って、引っかえすとき、歌子はつぶやいていた。あの女は惣七様を想っている。それはわかるけれど、いっしょになれない事情というのは、何だろう? 夜っぴて歌子は、そのことを考えた。が、どうしても想像できなかった。
 惣七さまに、ほかの女のことで引っかかりがあろうとは考えられない。あれほど思いあっているようすなのだから、はやく立派に夫婦になればいいのに、それがそうはゆかないというわけが、歌子にはどうしてもわからなかった。よく気をつけて、二人を見ていることにしよう。そう思った。
 お高が金剛寺坂のうちへ帰って来ると、若松屋惣七が起きて待っていた。
「ほう。ちょっと違った顔を見ただけでも、お前は顔いろがようなったぞ」はいって来たお高を見て、若松屋惣七がいった。「すこし出て、人に会うがいいのだ。この屋敷に、女というてはお前ひとりだから、女同士の細かい話もならず、それで気がふさぐのだ。ちょいちょい歌子のところへ遊びに出かけるようにするがよい」
 全く、見ちがえるようにいきいきしたお高になって、帰って来ていた。このころできた、口のまわりの小さな悲しい皺が消えて、眼が、敏活にきらめいていた。繊細な蒼白い顔に、血のいろがうかんでいた。
「歌子様は、ほんとに面白い方でございます。あしたも、夕御飯におよびくださいましたが――」
「そうか。それは行かねばならぬ。ぜひ行きなさい」
 若松屋惣七は、従妹とお高が親しくなりそうなのをよろこんで、珍しく上機嫌だった。

      四

 あくる日、歌子の家の夕飯から帰って来ると、お高は興奮を隠して考えこんでいた。眼をかがやかして、家じゅう歩きまわった。下男部屋へ顔を出して、佐吉や国平や滝蔵などと二こと三こと話し合っては、けたたましい笑い声をたてた。そこへ、若松屋惣七が自分で呼びに来て、お高を奥へつれて行った。長い廊下を惣七につづいて歩きながら、お高がいった。
「旦那さま、歌子様が片瀬の龍口寺とやらへお詣りにお誘いくださいましてございます」
 若松屋惣七の剃刀かみそりのような顔が、にっこりした。
「うむ片瀬へ? それは面白い。どうじゃ、おれのいったとおりであろう、どうもお前たちふたりは仲よしになるであろうと思ったのだ」
「はい、それはもう仲のよいお友達になりましてございますけれど、でも、歌子様のお客さまになって旅をいたしますのは気がねでございますから、おことわり申し上げましてございます」
「歌子の客というのは、どういうことかな」
「路銀をすっかりお持ちくださるとおっしゃるのでございます」
「路銀と申したところで、相州であるから知れたものだ。出すというなら、出させておいてよいではないか」
「いえ。それでは、わたくしの気が済みませんでございます」
「馬鹿堅いことをいうな。そんならおれが出してやろう」
「こちら様にはお仕事がございますし――」
「それも、おれがよいと申したら、それでよいではないか」
「でございますけれど――」
 二人は、お高の部屋へ行って、むかい合ってすわった。若松屋惣七が、いいつづけた。
「お高、お前は何か、一日も江戸を明けられぬわけでもあるのかな」
「いいえ、そんなことはございませんが――」
「それならば、遊山かたがた参詣さんけいに行け。おれも行くのだ。一日でも二日でも、土地が変われば気もちもあらたまる。わしに、麦田一八郎に、お前に、歌子に、大久保の――」
「でも、旦那様、お高は参られませんのでございます」
「なぜだ」
「なぜでも参られませんのでございます」
「だから、なぜだときいておるのだ」
 お高は、しばらくうつむいていた。低い声でいった。
「旅をしては悪いのでございます」
「旅をして悪い――?」
「はい。旅をしては悪いからだなのでございます」
 若松屋惣七は、その意味を考えて、うかがうようにお高のほうへ顔を向けた。
「そうか」
 と、いった。お高は、膝で歩いて、若松屋惣七のほうへ寄って来ようとした。若松屋惣七が手を出してそれを助けたので、ふたりはすぐ畳のうえの影を一つにして、じっとなった。それきり、両方とも同じことを考えて、黙っていた。
 お高を残して、四人で行くことになったけれど、くるはずの紙魚亭主人もまだ来ないし、大久保の奥様の風邪も思ったより長びいているので、龍口寺詣りのはなしは、そのままぐずぐずして、一時立ち消えの形だった。
 じっさい、人に旅を思わせる好天気がつづいて、江戸の空は、藍甕あいがめの底をのぞくように深いのだ。朝早く、金剛寺の森にうぐいすが鳴く。夜も昼も、草木の呼吸する音が聞こえるような気がした。そんな毎日だった。
 お高が、縁側へ古い手紙類を持ち出して、一応眼を通したのち、一つひとつ丹念たんねんに破いているところへ、玄関に人声がして、国平が取り次ぎに出た。お高は、手紙を巾広く破いておいて、あとで、それを折ってはたきをこしらえましょうと思って、そのとおりに気をつけてやぶいていた。うしろへ、国平が来てうずくまった。
一空いっくうさんが、おめえ様に会いてえといってお見えになったのです」
「一空さん――」
 お高は[#「お高は」は底本では「お高い」]、不意に思い出せないで、眉を寄せて、考えた。
「へえ。裏の金剛寺の一空和尚なのですよ」
「まあ、あの和尚さまが来たのですか。それで、わたくしに御用がおありだとおっしゃるの。上げてくださいよ。お座敷へお通し申しておくのですよ。えらい坊さまですから、失礼のないようにねえ」


    洗耳房せんじぼう


      一

「では、一空さまをこちらへ」
 まもなく、まるい顔に細い眼を笑わせて禅師が、その部屋にお高と向かいあってすわっていた。
「だしぬけにまいって、お邪魔ではござらぬかな」
「いいえ。どういたしまして」
 お高は、金剛寺の境内などで、両三度この坊さまを見かけたことはあったが、こうしてそばでしげしげと見るのは、はじめてであった。おかしい人だとばかり思っていたのが、何だかなつかしい人だと思った。こういう坊さまだからこそ、じぶんの費用で学房などをひらいて、近所の子供と仲よしになっているのだと思った。
「じつは、先日洗耳房せんじぼうのために喜捨きしゃしてくれたお武家が、当屋敷に厄介になっておると聞いて、礼をいいかたがた、ぜひ見てもらいたいものがあって来たのだが、いま玄関で聞けば、あの人はもうおらんという。そこで、代わりにあんたに会うてみる気になった」
 洗耳房というのは、寺内に結んでいる一空和尚の庵室のことであった。そして、そこへ近隣の小児こどもたちをあつめて、学問を教えているのだった。
 お高は、龍造寺主計を思い出して、また妙に胸がはためいた。
「龍造寺様でございますか。あの方でしたら、東海道の掛川のほうへおいでになりましてございますよ」
ったあととあっては、よんどころない。あの金で、餓鬼がきどものためにいいものをこしらえてやったので、見てやってもらおうと思ったのじゃが」一空さまは、残念そうな顔をした。「いや、あんたがわしのところを教えたのだそうじゃから、あんたでも同じことだ。全く、ありがたい喜捨であった。あらためて、礼をいう」
 一空さまは、ひとりでつづけた。
「あの金で、洗耳房を建て増ししてな、餓鬼どもの遊び部屋に当てごうたのじゃ」
 餓鬼ども餓鬼どもと一空さまがいうのは、洗耳房へあつまってくる学童たちのことであった。学童たちは七、八つから十五、六の男女のこどもであった。おもに近所の子供らで、武士の子も、町人の子も、職人のもあった。一空さまにとって、そういう区別はないのであった。
「きまった遊び場がないと、寺内でふざけまわってどうもそこここを汚損し、庭に出ては木石をいためるので本院の番僧はじめほかの房から苦情が出てかなわん。というて、往来まちで遊ばせるのはあぶない。ことに、このごろのように石やかわらが飛んで、何どき騒ぎが持ち上がらんともわからんときに、餓鬼どもを道路みちで遊ばせておくのは、よろしくないでな。道場のような遊び場を建ててやりました。やんちゃども、大よろこびで、きょうはその部屋びらきじゃ。さわぎをやりおる。見に来られんか」
 石や瓦が飛びそうな騒ぎとは何のことだろうとお高がきいてみると、何でも、金剛寺門前町に、このごろよろず屋というべき米、味噌みそ醤油しょうゆ、雑貨から呉服類、草鞋わらじ、たばこまでひさぐ大きな店ができたために、従来の町内の小商人が、すっかり客をとられて難渋なんじゅうしている。が、新店はもとがまわるとみえて、諸式を安く仕入れて売るものだから、とても太刀たち打ちはできない。
 そこで生活をおびやかされた土着の商人たちは、新店に対する憎悪と反感で結束して、ならずものなどを雇い今夜にも新店へなぐりこみをかけそうなうわさである。石や瓦の雨どころか、血の雨が降るかもしれないというので、この数日、付近は戦々兢々せんせんきょうきょうとしている。そんなはなしだった。
「こういうわけじゃから、道路で遊ばせておくことはできん」子供好きの一空さまは、子供のことをいうときだけは、眼を光らせていた。
「そこへおりよく龍造寺どのの喜捨があったので、洗耳房へ遊び場を建て増ししたわけじゃ。あの仁をわしのところへよこしたのは、あんただということじゃから、本人がここに出ておらんならあんたでもよい。ちょっと来て、餓鬼どもがよろこんどるところを見てやってくれんか。それはえらい騒ぎをやりおる」
 お高は洗耳房の子供たちがあたらしい遊び部屋で自由にはねまわっているところを見たい気がした。無邪気な童子のむれに接すれば、こころもちが晴ればれしていいだろうと思った。
「お供させていただきます」
「そうか。すぐ来てくださるか。それはありがたい」
「ちょっと着がえを――」
「いや、そのままでよい」
「いえ、でもおびだけ――」
 お高は帯を締めかえて出てくると、一空さまは何か考えて待っていたが、はいって来るお高をぼんやり見上げて、夢をみている人のような声できいた。
「あんたは柘植氏つげうじを名乗っておらるるのではないかな。どうも似ておる」

      二

 お高は、びっくりした。
「はい、母方の姓を柘植と申しました。でも似ているとおっしゃいますのは、わたしがどなたかに似ているのでございますか。そういえば、和尚さまも、俗名を柘植様とおっしゃったそうでございますね」
 一空さまは、お高の顔に、改めて眼を凝らしていた。何を考えているのか、その自分の考えていることが信じられないというようすだ。やがて、苦痛の色が、雲のように一空さまの額部ひたいを走った。それには、何かはかない思い出を暗示するものがあった。
 お高は、へんに思った。一空さまのそばへ行ってすわった。
「どうなすったのでございます。一空さまは、うちの母をご存じでいらっしゃいますか。何かつながりに、なっていらっしゃるのでございますか」
 一空さまの眼は、恐ろしいものを見てるようにさえ見えるのだ。一空さまが、きいた。
「お父うえのお名は、何といわれたかな」
「父は相良さがらと申しましてございます」
 憎悪と恐怖のいろが、一空さまの表情かおのうえで一時に交錯したから、お高がいっそうぎょっとしていると、
「相良寛十郎かんじゅうろうどのであろう。存じておる。深川の古石場ふるいしばにお住みだったな」
 という一空さまのことばにお高はいよいよ乗り出して、
「どうしてそうあなた様は、父や母のことをごぞんじなのでございますか」
「母者人の柘植ゆうと、生前近しくしておりました」
「親類の方ででもいらっしゃいますか」
「同じ柘植じゃ。遠縁の者です」
「でも、わたくしの顔が、そんなに母に似ておりましょうか」
「似ているとも。そっくりじゃわい」
「わたくしの顔から、母のことを思い出しなすったにしても、はじめ、妙なお顔をなさいましたねえ。いいえ、今でも、妙なお顔をなすっていらっしゃいますよ。どういうわけでございましょうか」
「ははは」一空さまは、へんなぐあいに笑ったきり、黙りこんでしまうのだ。やがて、やっと感情を押えたような、この人には珍しい、低いきまじめな声だ。
「古い思い出は、いつもしめっぽいものじゃて。おゆうさんは、[#「おゆうさんは、」は底本では「おゆうさんは。」]若死にだった」
 おゆうというのは、お高の母であった。お高は一度に、小女こどものような甘い感傷に包まれていった。
「どうぞ母のことをお聞かせなすってくださいまし」お高は、うつむいていた。「わたくしは、ちっとも覚えておりませんでございます」
「そうであろう。美しかったな。ひとであったぞ。父御ててごは、かかさんのことを話されなかったかな」
「いいえ。一度も。母が死にましてから、父は人が変わったのであろうと思いますでございますよ。自暴やけでございました。家は古石場にございましたが、しじゅう江戸を離れて、旅がちでございました。交わる人もございませんでした。ほんとに一人きり――わたくしとふたりきりの、さびしい暮らしでございました」
「いつくなられたかな」
「父でございますか。もう六年になりますでございます」
「あとを困らんようにして、なくなられたであろうな」
 禅宗の坊さまが、金のことをいうなど、お高は奇妙に感じた。が、やっとひとり娘の自分がつましく食べてゆけるだけ、それも、どうやらこうやら路頭に迷わないですむ程度だったと答えると、一空さまが、その父の相良寛十郎ののこした金はいくらあったかと問いかえしたので、お高は、奇異の思いを深めながら、
「そんなことはよろしいではございませんか。父の残しました家財や地所を、お金に換えまして、しばらく持っておりましてございますが、悪い人のために、そっくりなくしまして、それから、あちこち奉公に出ましたのち、ただいまはこの若松屋様に御厄介になっておりますのでございます」
 一空さまは、急に思い出して、たち上がった。
「お、餓鬼どものことを忘れておった。さ、洗耳房へ参ろう。やんちゃども、待ちくたびれておるに相違ない」

      三

 風のひどい日だ。空がうなっているのだ。樹々は、髪を振り乱して泣き叫んでいる狂女のむれだ。眼に見えないうずまきが、玉のように往来をころがって行って、家々のへいにぶつかって爆発するのだ。砂けむりが上がっていた。いつのまにか来て江戸をかきまわしているのはこの眼も口もあけない暴風だ。
 お高は、夢にいた。親戚しんせきのひとり、母方の血縁の人が、みつかったのだ。これは、思いがけないことだ。じぶんには親類はないのだろうとあきらめてはいたが、それでも、あればいいと、この年月ひそかに心にかけて捜していたのだ。それが、わかってみると、隣の慧日山金剛寺の一空さまなのだ。ありがたい、このお人なら、たよりになる。これから何かと相談相手になってもらおう。
 しかし、その一空さまが、何か悲しい話を持っていそうなのが、お高を悲しくしていた。父の相良寛十郎と、母のおゆうと、この一空和尚とのあいだの古傷のようなものを、和尚は、隠しているらしいのだ。お高は、一空さまとならんで歩きながら、とりすがるようにして、そのことをきいてみた。
 おゆうさんがなくなる前は、わしもしばらく遠のいておったから――一空さまは、そんな答えだったが、お高は、そうして母のことをきくと、一空さまが苦しそうに見えるので、よすことにした。ことによると、母と何かあって、そのためにこの人は、出家なぞなすったのではなかろうかと、気がついた。
 だがこの洒々落々しゃしゃらくらくとした禅の坊さまと、自分の母とはいえ、一人のおんなとを結びつけて考えるのは、滑稽こっけいなようにも思えた。
 父については、一空さまもよろこんで話した。ふたりは、楼門さんもんからはいっていくために、まっすぐ金剛寺坂をおりて、いちおう金剛寺門前町の大通りへ出ようとしていた。
 一空さまが、風のあいだに、いっていた。
「大名のような暮らしをしたであろうがの、あんたと父御ててごは」
「どういたしまして」お高は、おどろいた声だ。「なぜでございます」
「ふうむ。つかわんまでも、相良どのは、たいそうな金持ちであったはずじゃ」
「いいえ。ちっともお金持ちでなんぞございませんでしたよ。貧乏でございましたよ。古石場の屋敷なぞ、留守るすがちでございましたから、それはそれは汚れて、荒れほうだいでございましたよ。
 わたくしも、父につれられて、あちこち旅をいたしましてねえ、また、父は、そのほうの眼が肥えておりましたので、家には、諸国の珍しい品がたんとございましたが、わたくしが、家を畳みますときに、みんな売り払いましてございますよ」
「するとあんたは、父親が大分限者だいぶげんじゃであったことに、気がつかれなかったというのじゃな」
「妙なお話でございますねえ。父は、大分限者でも何でもございませんでしたよ。大分限者どころか、ずいぶん困りましたこともありましてございますよ」
「おゆうさんは、香が好きでな。日本中をはじめ、から朝鮮の珍稀ちんきな香炉をずいぶんと金にあかしてたくさん集めてもっておられたが、あのうちの一つだけでも、大店おおだなの一つや二つにはあたいする大財産じゃ。あの香炉は皆どうなったかな」
「おっしゃることがすこしもわかりませんでございます。そんな香炉など、わたくしは、見たことも聞いたこともございませんですよ」
「相良どのが死なれたとき、大口の借銭でも遺されたかな」
「いいえ、そんな引っかかりは何もございませんでした。きれいなものでございました」
「はて! あと始末は誰がしたのじゃ。」
「深川の顔役さんで、木場きばじんとおっしゃる人が、すっかりめんどうをみてくださいましたよ」
「ほかに、相良どのの在世中、出はいりして、家事向きの相談にあずかった者があろうが」
「いいえ。そういう方は、ひとりもございませんでしたよ。さっきから申しますとおり、江戸にいましたりいませんでしたり、それに交際つきあいということの大きらいな人でございましたから」
 お高がそういうと、一空さまは、じつに不思議な話だといって、しきりに首をひねるのだ。容易に信じようとしないのだ。何がそんなに不思議なのかと、お高こそ、不思議でならなかった。
 それから、一空さまは、相良寛十郎が死んだとは知らなかったこと、後妻を迎えはしなかったかのと、いろんなことをきいた。お高は、たった一年、父が南のほうへ旅に出たあいだ離れて暮らしただけで、ほかはいつもいっしょにいたのだから、じぶんの知らない妻やめかけがあったはずはないと断言した。
 一空さまが、あんまり亡父ちちのことを根掘り葉ほりきくので、お高は、すこし不愉快になってきた。黙っていると、一空さまは、ひとり言のように繰り返した。
「合点がゆかぬ。どうも合点がゆかぬ」
「何がそう合点がゆかないのでございます」
 お高が、一空さまの顔を見上げたとき、ふたりは、金剛寺門前町のごみごみした通りにさしかかっていた。

      四

 むこうに山門が見えている。風が、路上を狂奔している。かなりに広い通りだ。両側は、金剛寺をはじめこのへんの武家やしきで立っている小売りの店屋だ。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、履物はきもの類、その他の日用品をひさぐ店が、ずらりと櫛比しっびしているのだ。
 大したものはなくても、何でも用が足りる。この山の手での下町で、近所に重宝がられてきた小商人の町すじなのだ。ここだけで、さながら独立の一商業区域をつくっている。遠く神田京橋きょうばし、日本橋へ出なくても、ここへさえおりてくればおよそないものはない。昔から、ここらの寺と武家屋敷に囲まれて、切り離されたように独自の発達を遂げてきた一劃いつかくだ。それが、金剛寺門前町である。なかなかにぎやかな街景だ。
 ことに、今夜は縁日が立つらしく、風の中で、地割りの相談をしている人がある。子供相手の面白焼きが地面にむしろを敷いて支度をしている。風に追われて、娘たちが派手な衣装をひるがえして町を横ぎったりしているのだが、何となくひっそりしているのである。
 といって、この風にもかかわらず、人通りは、いつもより多いようだ。それでいて、はなやかな笑い声一つなく両側の店をのぞいて行くと、暗い額部ひたいをした主人あるじや番頭が、ひそひそ話し合っている。やくざ者らしい風俗の男たちが、上がりがまちに腰かけて、真っ赤な顔をして、何かしきりに弁じ立てていたりする。丁稚でっちが、そろばんを突っかえ棒に、きちんとすわったまま眠っているような、いつもの風景もない。
 出たりはいったりする女の顔まで、殺気走って、何かしら、押えつけている昂奮こうふんが感じられるのだ。その、ひそかなる戦意といったようなものが、風といっしょに、町全体に流れわたっている。鬱々うつうつとして、いまにも何かはじまりそうな気分である。金剛寺門前町は、危機をはらんだまま、表面しずかに風にまかせている。
 何か大声に呼ばわりながら、走って来る人がある。町内の世話役らしい。あちこちの店から人が駈け出て来て、一団になって、なおも人を集めて行く。やがてそれらが通りの中ほどにある会所へどやどや上がって行ったのは、それから相談でもあるのであろう。
 群衆が、そこの入り口にあふれて、ののしりさわいでいた。あらたにできた万屋よろずや対小商人の確執が燃え上がろうとしているのだ。生活を脅威された金剛寺門前町の小あきんどたちが共通の恐慌によって、こうして団結し、画策しつつある。不穏な状態である。
 お高は、それに気がついたが、さっきの続きで心がいっぱいなのだ。もう一度きいた。
「何がそう合点がいかないのでございます」
 一空さまは、周囲の物騒な空気も意識しないようすだ。お高の声で、現実へ引きもどされた。
「何が合点がゆかぬといって、――それほど合点のゆかぬことはない。あんたの母者人のおゆうさんは、この江戸でも、一、二といわれる大財産を受け継いだのじゃ。が、あんたのいわれるように、相良どのが、そのような大金持ちでなかったとすれば、そのおゆうさんの大資産は、いったいどうなった? 誰が譲られたか。それとも、消えうせたか。じつに、合点のゆかぬはなしである」
 お高は、他人ひとごとのようにぼんやり聞いている。ぴったり来ないのだ。それは、まるでお伽噺とぎはなしだ。母がそんな江戸で一、二の富豪だったとしたら、母の死後、父ももっといい生活ができたはずだし、自分にしたところが食べるための苦労は知らずにきたであろう――お高は、この一空さまをまじめに相手にしているのが莫迦ばか々々しくなってきた。
「きっと母がその財産とやらをつかってしまったのでございましょうよ。さもなければ、父が、海へでもほうったのでございましょうよ」
「わしは、ふざけておるのではない。海へ沈めようが山へ埋めようが、一代や二代でつかいきれる金ではないのだ。ことに、すっかりおゆうさんの名義で、だれも指一本触れられんようになっておった」
 お高は笑い出してしまった。
「よくご存じでございますねえ。どうしてそんなにご存じなのでございますか」
 すると、一空さまは、その、おゆうの莫大ばくだいな財産のために、自分の一生が決定されたと妙な答えをするのだ。
「もしさような金持ちでなかったら、おゆうさんは、わしの女房になったところじゃ」
 わけがわからないので、お高が黙っていると、一空さまはひとりで、良人おっとの相良寛十郎にも娘のお高にも、おゆうが財産を遺していないというのが不審だと、しきりにいいつづけている。おゆうにほかに子供があったのではないかとさえ、きくのだ。お高は、すっかりその話に飽きてしまっていた。自分には兄弟も姉妹もないし、母に隠しがあったなどとは、想像もできない。聞いたこともない。そう答えると、
「おゆうさんは、あんたの幾つのおりになくなられたかな」
「あたくしを生みなすって八月目に、おなくなりなすったのだそうでございます」
「不思議じゃ。あの大財産はどこへ行ったのじゃ。高価な香炉は、どうなったであろう。誰が継いでおるのか」
「聞いたこともありませんでございます」
「それが、不思議じゃ。じつに、異なことじやわい」
 それきり、ふたりとも黙りこんでゆくと、金剛寺門前町をすこし楼門さんもんへ寄ったところに、大きな店のあるのに気がついた。それが、新たにできた、問題の万屋であった。
 和泉屋いずみやという金看板が、風にきしんで、鳴っていた。
「あれじゃ。割りこんで参って、この騒動を起こしたのは」
 一空さまが、指さした。

      五

 和泉屋は、間口の広い、立派な店である。米、味噌、醤油、酒、油、反物、筆墨、小間物、菓子、瀬戸物、履物類その他日用品一切が、きちんとならんでいる。そこらに売っているものは、何でもある。しかも、体裁がよく、品質もまさってるのだ。そのほか他店よりも値段がやすい。
 それで客のはいらないわけはないのだが、店には大勢の番頭小僧のほか、客といってはひとつの人かげもない。品物と店員だけで、がらんとしてるのだ。買い手どころか、近よる人さえないのだ。手持ちぶさたに見える。襲撃に備えて、出入りのとびの者などがそれとなく店の周囲を固めていた。
「何とも、奇妙な話じゃ」
 一空さまが、つぶやいていた。それは、お高の母のことのようでもあり、またこの和泉屋のことのようでもあった。
「何がそんなに奇妙なのでございましょう」
 お高がきくと、
「いや、あんたは、何も知らんようだが、この和泉屋というよろず屋は、江戸中に三十何軒も出店があって、これもその一つじゃ。そもそも和泉屋というのは――」
 いいかけたとき、そこは楼門さんもんの下だった。一空さまは笑いながら、先に立って門をくぐった。
「まず、洗耳房の餓鬼どもを見てもらおう。はなしは、あとでできる。ははははは、後でゆっくり話しましょう」
 金剛寺内の洗耳房には七、八つから十五、六ぐらいの子供たちが手習いをしたり、読み方をさらったり、口論をしたり、とっ組み合いをしていたり、それはそれは大変な騒ぎであった。一空和尚の庵室なのだが、学房に当てているので、こどもたちのためにすっかり荒らされていた。
 相当広い部屋に、笑い声や叫び声が飛びかわしていた。が、一空さまとお高がはいって行くと、騒動が一時にやんだ。みんな澄ました顔をして、机にむかいだした。ふたりの来たことに気がつかない二、三人の子供だけがいたずらをつづけていた。
 一空さまが、これから、隣室となりにできた遊び部屋をひらくから、そこで思う存分あばれるようにいうと、わあっと歓声があがった。そして、雪崩なだれを打って、となり部屋へ駈けこんで行った。お高は、子供好きの龍造寺様がここにいたら、どんなにかよろこぶであろうと思った。そう思いながら、一空さまについて、子供たちにもまれて、その遊び部屋へ出て行った。
 子供たちは、一空さまの両手にぶら下がったり、丸ぐけを引っぱったり、背中によじ登ったりした。一空さまだけでは足らないで、お高にも、前後左右からまつわりついて来た。お高は、からだいっぱいに子供たちがったような恰好で、一段低い板の間へおりた。
 そこは、広びろとして、木のにおいのするへやであった。ちょっと剣術の道場のようであった。隅のほうにへりなしの畳が敷いてあって、すわることもできるようになっていた。窓からとんだりしないように、高いところに頑丈な武者窓があって、うすい陽の光が落ちていた。お高は、この大部分が龍造寺主計の喜捨でできたのだと思うとうれしかった。
 子供たちは、板敷きのうえにがやがや押しならんですわった。みんなすばしこく眼をうごかして、天井と壁と一空さまやお高の顔を、見くらべていた。
 ほかにも、来ている成人おとながあった。若い男女と、中年の女の人であった。若い男は、江戸川べりの古い仏具屋の息子むすこで、普段から、一空さまの学房に何かと力を寄せている人だった。若い女は、その許婚いいなずけの女であった。ふたりは、きょうのことを聞いて、子供たちを遊ばせに来たのだった。男が横笛を吹いて、女が、それに合わせて優雅な踊りを踊ったりした。男が、若い者にかつがせて来た菓子包みを、子供たちに配った。
 もう一人の中年の女の人は、やはり一空さまをあがめて、洗耳房に出入りして子供たちの世話をしている、およしさんという近所のおかみさんだった。お由さんは、しじゅうお高のそばにいて、赤い顔をしてはしゃぎまわっている子供たちについて、何くれとなく話してくれた。
 一空さまは、子供たちに取りまかれて、あっちからもこっちからも引っぱられて、にこにこ笑っていた。針のように細い眼がいっそうほそくなって、すっかり見えなくなっていた。
 お高は、その、耳がわんわんする中で、さっき一空さまがいった、父や母のことを考えていた。母のおゆうが、とてつもない分限者であったというのが、どうしても腑に落ちなかった。それかといって、一空さまがふざけているとも思えなかった。人違いではなかろうかと思った。
 母のことは、顔も思い出せないし、何一つ遺品かたみのようなものも残っていないのだ。が、父の相良寛十郎のことは、まるできのうまで生きていた人のように、そっくり思い出すことができるのだ。お高が、その父親の思い出を心のうちにころがしていると、大声にいっている一空さまのことばが、聞こえた。
「この喜捨をしてくれた人は、旅に出ておられんから代わりに、その人にこの洗耳房のことを話してくれた姉さまをお連れした。今その姉さまから、何か話があるから――」
 というのだ。一空さまは、笑って、お高を見た。子供たちも、大声をあげてよろこんで、お高のほうを見ている。お高は、どきまぎしたが、お由さんに促されて、にっこりしていい出した。

      六

「皆さんのお友だちは、龍造寺主計様とおっしゃるおさむらい様でございます。お帰りになりましたら、皆さんがこんなによろこんだことを、すっかりお話し申しましょう。そして、一度おつれして、この立派なお部屋をごらんにいれましょう」
 子供たちの歓声のなかで、お高は赧くなった。これで部屋びらきがすんで、仏具屋の二人も、お高に挨拶して帰って行った。お由さんがめんどうをみて、子供たちも、三々伍々ごご洗耳房を出て行った。お由さんは、一人ひとりの子供に、いい聞かせていた。
「門前町で遊んでいてはいけません。道草を食うんではありませんよ。まっすぐお自宅うちへ帰るんですよ」
 そして、お高へささやいた。
「今夜あたり何がはじまるかわかりませんからねえ」
「和泉屋のことでございますか」
「そうですよ。あたしの来るときなんかも、通り全体がものものしいようすでしたよ」
「和泉屋には、ひとりもお客さんがはいっていませんでしたねえ」
「申し合わせて買いに行かないんですよ。買いに行く人があると、町内よってたかって半殺しにするというんですからねえ」
「まあ、こわい、そんなにむきになっていますんですかねえ[#「ですかねえ」は底本では「ですからねえ」]
「だってあきんどの身になれは、同じ町内にあんな大きな商売がたきができてみると、糊口みすぎが立ってゆくかゆかないかの瀬戸ぎわですもの」
「むりがありませんよねえ」
「どっちへお帰りですか」
「すぐこの裏手の金剛寺坂でございますよ」
「では一度門前町へお出にならなければなりませんねえ。わたしも、門前町を突っ切るのですからそこまでごいっしょに参りましょうよ」
「ええ、ぜひごいっしょに参りましょう」
 町が物騒なので、一空さまが、金剛寺門前町を通りすぎるところまで送って行くことになった。三人がおもてへ出ると、楼門さんもんの向こうの町すじに、もう群衆がどよめいていた。風はやんだが、夕方が早く、暗くなりかけていた。
 わけもなく激昂した人々が、路上に、さっき一足先に帰った仏具屋の若い二人づれを擁して、悪口雑言を沸き立たせているのが、見えた。お由さんは、憤慨して、そっちへ走り出そうとした。
「まあ、何の関係かかりあいもない人を何でしょう。ちょっと行って、いってやりましょうよ」
 一空さまが、とめた。
「まあま、人は、寄りあうと、理解を失って群れさわぐものじゃ。うっちゃって置きなされ、それより、怪我けがせん算段が肝要じゃて」
 お由さんは、口をとがらせていた。
「いくら商売に困るからって、先方も商売じゃありませんかねえ。良い品を安く売るのに、邪魔だてをされては、買うほうが困りますよ。ほんとに、あんまりなことをすると、かえって、ついていた人気も離れますよねえ」
「こっちは、良い品物を安く買えたほうがありがたいんでございますもの」
「しかし、この、昔からの金剛寺門前町の商人を、見殺しにするということもできんでの」
「それもそうですけれど、でも、わけのわからないならずもののような人を狩り集めて、通る人に迷惑をかけたりしては、せっかく味方についていた者まで、いやになりますでございますよ」
「とにかく、乱暴を働くのは、間違っておる」
「そんなことを大きな声でおっしゃると聞こえますよ」
 話しながら、人を分けて歩いて行った。それはもう文字どおり、かき分けなければならないほどの人ごみになっていた。夕やみの落ちてくる街上に、赤く逆上した顔が、なみのようにもみ合いへしあいして、押し返していた。あわただしい叫び声が、そこにもここにも揚がった。その中を、男伊達おとこだて風の連中が、隊を組んでねり歩いていた。
 いつのまにか、ぎっしり往来をうずめて、身うごきもならない人出だ。みんな血走った眼をして、顔じゅうを口にしてわめいているのだ。近くの武家屋敷から警備に出た仲間ちゅうげんたちや、御用火消しなどのいかめしい姿が、人浪のあいだにちらほら見えていた。金剛寺の若い学僧たちも、肩をいからして、道ばたに立ちならんでいた。一空さまは、彼らと顔が合うと、大声に笑って、二人の女をまもるようにして歩いて行った。
「餓鬼どもは、事なく通ったろうな」
「ええ。子供ははしっこいから、駈け抜けたでございましょうよ」
 そこは、和泉屋の前であった。
 多勢で大戸をおろす音が、戦争か何ぞのようにあわただしく聞こえていた。と思うと、一時に恐ろしい叫喚が生まれて、あっというまに、非常な力で、群衆が和泉屋へ殺到しだしたのだ。
 それに押されて、お高は、骨が折れるかと思ったとき、つれのふたりが、人ごみに呑まれ去っているのを知った。


    群集


      一

 それは、海のを風が渡るような速さだ。動乱する人の渦にまきこまれて、一空和尚と、その洗耳房の小母さんと呼ばれている、学童たちの世話をするお由さんとは、すぐに底に没してしまっていた。お高は、和泉屋の店頭みせさきへ雪崩れかかる人浪と、それをくいとめようとする火消しや、鳶のあいだにはさまれて、椿つばきの花が散り惑うようにほらほらと立ち迷った。口ぐちにわめく声が、地うなりのようにお高を包んだ。
「この金剛寺門前町を他町の者に荒らされて、黙っちゃいられねえ」
「昔からのおれたちの商売をどうしてくれるんだ」
「卸し同様の相場はずれの値で張り合って、この辺一帯の小あきんどの口をほそうてんだ。和泉屋は人殺しだ」
「そうだ。和泉屋は人殺しだ」
「やい、人殺し」
「和泉屋をたたきつぶせ」
「門前町から追ん出せ」
うちん中へ踏んごんで、品物は、困る者にわけるんだ」
「店のやつらは簀巻すまきにして、江戸川へほうりこめ」
 そこここにもみあいがはじまった。群集の一部は、素っ裸にねじり鉢巻はちまきをした若い衆を先頭に、警戒を破って、和泉屋の大戸へ接近した。和泉屋は、もうすっかり戸をおろして、店員たちは裏口からでも逃げたらしく、家の中はしいんとしていた。
 お高は、夏の宵の蚊柱がくずれるように、ぶうんと音を発して飛びかわすこぶし下駄げたや、棍棒こんぼうの下をくぐって、しなやかな手をふって逃げまわっていた。逃げまわりながら、その和泉屋襲撃の先達をつとめている、すっ裸の若い衆が、いつも来る酒屋の御用聞きであるのをみとめて、妙にふっと、おかしくなった。彼の背中には、一めんに大きな牡丹ぼたんの花の文身いれずみが咲いていた。
 叫び声は、いっそう高くなった。顔いっぱいに口がひろがっている化け物のような人の顔が、お高の視野をうずめていた。お高は、やっとのことで、和泉屋の隣の糸屋いとやの軒下へ走りこんだ。そこには、騒動を見物する人が、土間まではいり込んでいた。お高を見つけた糸屋の若いおかみさんが、人をかき分けて出て来た。
「まあまあ、若松屋のお高さま、どうも大変なことになりましてございますねえ」おかみさんはおどおどして、声がふるえていた。「飛ばっちりをくってはたまりませんから、なかへおはいりなさいましよ。もうすこししずまりましてから、小僧をつけてお送りいたしますよ」
 おかみさんが夢中でぐんぐん引っぱるようにするので、お高はよっぽど、しばらくこの糸屋の店に避けていようかと思ったが、もしこの騒ぎから火事にでもなったときのことを思うと、一刻も早く金剛寺坂の家へ帰っていたかった。お高が、そういって辞退しているとき、めりめりと板の割れる音がして、はじけるような喚声が揚がった。
「やった、やった」
「戸をこわしたぞ」
「続いて押しこむんだ」
「和泉屋のやつはねずみ一匹も逃がすな」
 糸屋のおかみさんは、おおこわいといって、お高を離れて店の奥へもぐりこんで行った。和泉屋では、いま飛びこんだ人たちが戸障子を蹴倒したり、商品をこわしたりする音が、ものすごく聞こえていた。
 あとからあとからと押しかける群集で、暗くなりかけた路上は、身動きもならない。八百万やおまんの若い者や、角の夜駕籠よかごかきや、町内のばくち打ちなどの威勢のいい連中が、めいめい獲物をふりかざして、和泉屋に頼まれて警戒に来ていた他町の鳶の者と渡り合っていた。
 どさっと濁った音をたてて、棒が人の頭上に落ちたり、うす闇黒やみに鳶ぐちがひらめいたりするたびに、お高は、両手で顔をおおった。それでも、糸屋の軒下に押しつけられて、人の肩ごしにのぞいていた。
 とめに出ていた金剛寺の学僧たちや、町内の世話役なども、手の下しようがなくて、怪我をしない用心をしながらただ見物していた。月番家主らしい羽織を着た老人が、縦横に人をわけて走りながら声をからしてどなっていた。
「火の用心だけあ頼むぜ。いいか。火の用心を忘れめえぞ」
 誰も、耳をかすものはなかった。

      二

 混乱の上に、夕風が立った。暴動――それはもう暴動といってよかった――は、拡大する一方である。この、戦争のような地上に引きかえて、空は、残映から夜へ移ろうとして、濃紺とあかねとの不可思議な染め分けだ。ゆうやけは徐々に納まって、水のような深い色が、ひろがりつつある。白い月だ。星も、白いのだ。
 薄暮が落ちてくるにつれて、お高は、だんだん恐怖を感じ出した。この騒ぎがいつまでもつづくようだったら、じぶんは一晩じゅう家へ帰れないで、ここに立ちつくさなければならないのだろうか。その不安だ。お高は、蒼い空気の中で、土を蹴って馳駆ちくし狂闘している人々を、なさけない眼で見はじめた。
 すると、一時にあちこちにわめき声が起こった。いつのまにか一人の男が、和泉屋の屋根をはっているのだ。その男は、夜盗のような身軽さで、山形になっているてっぺんへ上って行った。群集は、はじめ仲間のひとりであろうと思って、下から歓喜の声を吹き揚げて声援した。男は、腰から、何か道具のような物を抜きとって、瓦をはがし出したので、群集はいっそうよろこんだ。
 ところが、そうして喝采かっさいしている群集のうえへ、いきなりその瓦が舞い落ちてきたのだ。瓦に打たれた者の悲鳴が、けたたましい笑い声のように、長く尾を引いた。打たれたのは、群集中の少年であった。人々は、地面が割れたように飛びのいて、屋根をふり仰いだ。そこへ、屋上に突っ立った男の手を離れて、二枚、三枚、四枚と、つづけさまに瓦が落下してきた。
 それは、眼まぐるしい速力で矢つぎばやに飛んでくるのだ。しかも、往来の、各ちがった方面へ落ちてくるので、群集は、本能的にあたまをかかえて散り出したものの、全く逃げ場がないのだ。見るまに、そこここに瓦に打たれて倒れたり、うずくまる者が出てきた。
 地におちた瓦は、炸音さくおんをたてて割れ散った。人々は、怒号と叫喚のうちに、たおれる者を踏み、よろめく者を排して、皆、和泉屋の側の家なみの下をめざしてわれ勝ちにおよいだ。
 それは、津浪がくずれかかるような、力強いひしめきであった。あとの路上は、瓦を脳天にくらった者の即死体や、肩を割られてうずくまった者のうめきや、それらの者をかかえて走ろうとする肉親の人や、逃げ遅れてうろうろする者の姿のほか、いたように、一度に無人になった。
 お高は、火に油をそそいだように激昂の度を増した群集に、糸屋の軒下へ押しつけられて、呼吸が苦しくなった。胸わるさがこみあげてきて、眼まいを感じ出した。が、いまは誰も、ひとりの女なぞに構っている者はなかった。ののしりさわぐ声が、群集ぜんたいにどよめいていた。
「ふてえ野郎だ。誰だ」
「和泉屋の用心棒に相違ねえ」
「おれは初め、町内の者かと思った」
「おれもそう思った。屋根を登る恰好が似ていたから、火消しの鉄公てつこうだとばっかり思ってた」
「そうよ。鉄っぺにそっくりだったなあ」
「何せ、この仕返しをせにゃならねえ」
「引きずりおろして、なぐり殺そうじゃねえか」
「おい、誰か上がれ、上がれ」
 お高は、そういう話し声が、だんだん遠のいてゆくような気がした。ほの白い、幕のようなものにへだてられて、すべてが、夢の中へとけこんでゆく感じだ。無意識に、となりの人の腕をつかんでいた。
 腕をつかまれた隣の人は、お高を見かえった。その人は、白い顔をした、二十五、六の武士であった。裕福とみえて、せいの高いからだを、凝った流行はやり衣裳いしょうで包んでいるのが、芝居に出る侍のようであった。帯刀の金の飾りが、ちらちらときらめいていた。
「お女中、御同様とんだ難儀だの」
 と、いった。そして、向こう側の、供らしい仲間ちゅうげんをかえりみて、笑った。お高は、気がついて、あわてて手を引っこめた。そのひとは、用たしの帰りにでもこの騒擾そうじょうにまきこまれたらしく、かえりを急ぐとみえて、いらいらしていた。仲間は、手の、定紋入りの提燈ちょうちんをこわすまいとかばって、骨を折っていた。何かいって笑ったが、お高には聞こえなかった。
 まだ少年々々している武士の顔が、またお高のほうを向いた。
「手を放すには及ばぬ。しっかりつかまっているがよい。総じて、かような場合には、人の力にさかろうてはなりませぬ。流れに乗った気で、水のごとく、人の押すほうへ押されてゆくのだ」
 あはははと笑った。お高は、気やすなお武家だとは思ったが、それかといって、さようでございますかと甘えて、また手を出して腕へつかまることはできなかった。はい、とこたえたつもりだったが、答えたのか答えなかったのか、自分でもわからなかった。彼女は、そこに人にはさまれて立ったまま、気をうしないかけていた。ただ、一空さまと、あの洗耳房の小母さんはどうしたであろうと、瞬間考えた。

      三

 ぞくっと、寒さが走って、気がついた。屋根からはまだ瓦が降りつづけていた。お高の周囲の人々も、大声にさわぐだけで、誰も、屋根へ上がって行こうとする者は、ないようすだった。
「これはいかん。これでは、いつまでたっても屋敷へ帰れぬ。夜が明けてしまう。まず、あの屋根の上の男を何とかせねば――」
 というのが、お高に聞こえた。となりの、色の白い武士の声だった。彼は、そういって、なにか思案しているふうだったが、何事か思いついたとみえて、面白そうに笑って、仲間へささやいた。仲間は、びっくりして、あわてた大声を出した。
「いけません。殿様、そんなことをなすってはいけません」
「なあに。お前は、ここに待っておれ。すぐ帰る」
 侍は、さらりと羽織をぬいで、面くらっている仲間の手へ押しつけて足袋たびはだしになった。しかたがないので、仲間がその履物はきものを拾い上げて、ふところへ入れたとき、さむらいのすがたは、もう人をかきわけて消えていた。
 ことばが、群集の上を、伝わってきた。
「おい、あの野郎は、鷹匠町たかしょうまちかんだとよ」
「なに、鷹匠町の勘か。道理でやりやがると思った」
「勘の畜生か。ちっ、ますます生かしちゃおけねえ」
 お高は、そういう荒あらしいことばを聞きながら、思った。鷹匠町というのは、これからうぐいすだにへ出て、松平讃岐守まつだいらさぬきのかみさまのお下屋敷を迂回うかいして裏手へまわったそのへん一円の、御家人などの多く住んでいる一区劃であった。
 小石川はいったい寺や武家やしきがおもなので、祭礼などといっても、下町ほどに乗り気にはならないのだが、それでも、お鉄砲ぐらの手前の水道町に、金杉稲荷かなすぎいなりがある。別当を玄性院げんしょういんといって、尊敬するもの多く、いつも縁日が栄える。その近くの牛天神うしてんじん金杉天神かなすぎてんじんともいって、別当は、泉松山せんしょうざん龍門寺りゅうもんじ、菅神みずから当社の御神体を彫造したまうとある。頼朝卿よりともきょう東国追討のみぎり、この地にいたり、不思議の霊夢をこうむる。元暦げんれき元年甲辰こうしん勧請かんじょう
 また、さす町にある白山はくさん神社、これは小石川の総鎮守で神領三十石、神主由井氏ゆいし奉祀ほうしす。祭るところの神は、加賀かが白山はくさんに同じ、九月の二十一日がおまつりで、諸人群集、さかんなものである。黒文字の楊枝ようじと、紙でつくった弓矢をお土産みやげに出した。
 こういうふうに、縁日や祭礼もないことはない。町内で催し物があり、山車だしが出る。年によっては、御輿みこしが渡御する。それはいいが、お祭に喧嘩けんかはつきもので、ふだんからいがみ合っている一町と一町が、事につけ物に触れ、あらそいの種をつくって、些細ささいなことから血の雨を降らすようなことも、めずらしくない。
 この、金剛寺門前町と鷹匠町がそれで、昔から、犬猿けんえんのあいだがらだったから、やれ、縁日の縄張なわばりがどうのこうの、祭の割り前が多いのすくないのと、しじゅうごたごたをつづけている。それに、若い者は血が多い。祭の雑沓ざっとうの中で、毎度斬ったの張ったのと、だいぶ物騒であった。
 鷹匠町の者で、門前町へ来てなぐられずに帰ったものはない。こっちでも、誰か何か用があって鷹匠町へ行くときには、喧嘩支度で隊を組んで出かける。なかには、水さかずきをして行く。それほどでもないが、とにかくにらみ合って来た。
 その敵方の鷹匠町に、ひとりとほうもなく勇敢なのがいて、これにだけは、門前町のあぶれ者も手を焼いていた。それが、湯屋の三助をしている勘であった。その勘が、いま和泉屋の屋根から瓦をほうっているというのだ。
 瓦は、続々投げられている。すきをねらって、通りへ駈け出そうとするものも、ためらっているのだ。お高は、勘はきっと、和泉屋に頼まれたわけではないのであろう。こっそり群集にまぎれこんでいたのが、いつもの意趣晴らしに、和泉屋の屋根へあがって、ああいうことをしているに相違ない。
 それにしても、この騒動とは何の関係もない他町の者が、ひどいことをすると、お高は思った。そして、こうして死人が出るほどの挑戦をされた以上、門前町の人も、黙ってはいまい。勘がただで済まないのはもちろん、ことによると、大挙して鷹匠町へ押し寄せるようなことになるかもしれない。
 金剛寺のほとりに住むもののひとりとして、お高がひそかに義憤を発しながら、一方、いつ若松屋へ帰れることであろうと、いよいよ不安の念をふかめていると、群集の中から、すさまじい歓声が生まれた。

      四

 屋上に仁王立ちになって、まだ瓦を投げおろしていた勘が、ふいと足でもすべらしたものか、その瓦の一つのように、ずずずと屋根をなでて、地ひびきをたてて往来の真ん中へ落ちてきたのだ。そのまま起きあがらないから、腰でも抜かしたのだろうと人々が走り寄ってみると、みなびっくりしてしまった。勘は、右の肩から胸まで一太刀たちに斬り下げられて死んでいた。
 それにしても、いつ誰がどこから上がって行って斬ったのかだれにもわからなかった。一同はわいわい立ち騒いで和泉屋のことよりも、勘の一件が、問題の中心になってしまった。
 さっきの若い武士は、いつのまにかお高のとなりへ帰って来ていた。不愉快そうな、むずかしい顔になっているのが、糸屋のもれ灯で見えた。黙って羽織の袖をとおして、仲間のそろえた履物を突っかけると、群集が、みちのまん中の勘の死骸しがいをとりまいているので、周囲のほうは稀薄きはくになりつつある、そのまばらなところを縫って、ずんずん行ってしまった。主従とも終始無言で、ことにさむらいは、きたないものでも見たように、いやな顔をしていた。
 侍が立ち去って行ったので、自分も行けるかもしれないと思って、お高は、歩き出した。
 が、ぎょっとして足をとめた。また、通りの向こうに人々の叫び声が沸き立ったのだ。それにまじって、くつわの音がする。馬のいななきが聞こえる。ふりむいて見ると、山のような黒い物が、かぶさるように突進してくる。馬だ。十人ほどの役人が、騒ぎを聞いて馬で駈けつけて来たのだ。手っとり早くしずめるために、遮二無二しゃにむにこの群集の中へ馬を乗り入れて、蹴散らそうとかかっている。
 ひずめにかけられてはたまらない。人は、算を乱して右往左往する、お高も、走った。が馬は早い。すぐうしろに、馬の鼻息を感じたとき、彼女は、じぶんとならんで逃げている一人の女の児に気がついた。とっさではあったが、何だか、きょう洗耳房で見たことのある児のような気がした。その児は、つとお高を離れて、路地へでも駈けこむつもりだったらしい。往来みちを横切ろうとした。その上へ、馬が来た。
 お高の見たものは、馬の下になって額部ひたいから血をふいている子供の顔であった。お高は、自分のからだが、そっちへのめったのを覚えている。何か重い固い物が、あたまの上へのしかかってきたのまでは意識しているが、あとは、天と地が逆になって、周囲が、お高のまわりで急旋回した。それだけの記憶だ。
 お高は、水のにおいをかいだ。
 誰かが抱きかかえて、誰かが、彼女の口へ水を注いでいるのだ。襟元えりもとがひろげられて、水が、乳のあいだを伝わって、濡らした。お高は、眼を上げた。お高は、一空さまによりかかっているのだった。水を飲ましているのは、屋敷の滝蔵だった。
「ありがとうございました。ほんとに、もうようございます」
 そういうと、不思議に、ほんとに何ともないような気がして、お高はたち上がろうとした。すこし、足がふらふらした。
 ぼろぼろに着物をやぶいて、奮闘の名残なごりをとどめた男がふたり通りかかった。
「おい、このねえさんだよ。お留坊とめぼうを助けたのは。いまみんな話し合っていたろう?」
 お高を指さして、立ちどまった。滝蔵が、お高に肩を貸そうとしていた。
「あぶねえところだったのです。わっちがおむけえに来たときは、もうあの人で、どこにいなさるか、探すこともできねえ始末だ。心配しましたよ。馬に蹴られそうになった子供を助けて、女が気を失っているというから人をわけて来てみたら、お前さまだったのです」
理窟りくつではできることではない」一空さまが、うけ取った。
「えらかったな、お高さん」
 一空さまは、お高を誇って、ほそい眼をかがやかしているのだ。お高は、この坊さまは、世の中にたった一人のじぶんの親身なのだと思い出して、できることなら、いきなり取りすがって泣き出したかった。
 金剛寺門前町には、まだ人出が引いていなかった。が、それは、一段落ついたあとのしずかさに、あった。近所の人々が、騒ぎのあとを見て歩いたり、いつまでも立ち話をつづけていたりして、なかなか家へはいらないのだった。
 和泉屋の前は、引き出された商品のこわれが、こなごなに踏みつぶされて、足のやり場もないほど散らばっていた。おもての雨戸はすっかり破られて、家内なかも、空家あきやのようになっていた。ところどころ壁まで落ちて、まるで半倒壊のありさまだった。
 お高は、滝蔵に助けられて、そこを歩いて行った。一空さまは、門前町の端まで送って来て、そこで別れて、洗耳房へ帰って行った。白い月光の中に、通行人をあらためる町役人の集団かたまりが、黒かった。提燈の灯が、かどかどに揺れうごいていた。

      五

 どこも、怪我をしてはいなかった。が、興奮のあとの疲労が、お高を病気のようにした。若松屋惣七がいろいろ心配をして、お高は、居間に床をとって寝かされていた。若松屋惣七は、じぶんで看病もした。
 ひる下がりに、一空さまが、見舞いの菓子折りなどをぶらさげて、たずねて来た。前の晩と同じに、お高を自慢するように、眼を光らせていた。お高は、床の上に起き直って、いつものさびしいところの見える微笑で、一空さまを迎えた。
 一空さまは、お高の英雄的行動をすっかり聞かされて来て、はいってくるなり、お高をほめちぎった。お高は、そのことをいわれるのが、くすぐったかった。話題をかえて、ゆうべはぐれてからの、一空さまのことをきいてみた。
「まあ、離れて見物しておった。面白かった」
 一空さまは、そう冷々淡々と答えて笑った。が、すぐ真顔にかえって、つづけた。
「そんなことより、きょうはちと話したいことがあって来たのじゃ」
 お高の熱心な視線が、一空さまの顔に凝った。お高は、一空さまはきっとまた母のおゆうのことを話しに来たのであろうと思った。
 お高は、父の相良寛十郎が少しも母のことを話さなかったのみか、お高のほうからきいても、いつも避けるようにするのが、父の生きているころから、不服でもあり、不思議であった。今でも、そう感じていた。生母のことを詳しく知らないのが、情けなかった。誰かと、しみじみ母のことを話し合いたかった、だから、よく母をっているという一空さまの訪問は、お高にとって、いつでも歓迎すべきものだった。
 ことに磯五といっしょになってからは、まもなくその磯五とこうして別居したり、あちこち奉公した末この若松屋へ来て、近ごろは、またその磯五があらわれてあんな事件がつづいたりして、昔はよく顔を知らない母を想って泣いたものだったが、ここしばらく、忘れるともなく、忘れていたのだ。
 そこへ突然、母の遠縁に当たって、いろんな事情を知っているらしい、一空さまという人が現われたのだ。母の人間と、その生活と死とは、すべてこの人が話してくれるであろう。一空さまは、自分の知らない母の顔を見、声を聞き、手に触れ、そして母を恋した人なのだ。何と、信じられないほど不思議なことであろうと、お高は思った。
 が、一空さまの用というのは、単純なことではなさそうである。やっと切り出した。
「うむ。おゆうさんのことじゃが、あんたにも、いや、柘植といううちにかかわりのあることだ。してまた、これは、あの和泉屋の件でもある。じつに、奇妙なことになりましたわい」
 お高には、意味がはっきりしなかった。
「和泉屋と申しますと、ゆうべの騒ぎを起こした、あの和泉屋でございますか」
「さよう。あの和泉屋じゃが、あの和泉屋とは限らぬ。江戸の和泉屋である。いま、人に調べさせたのじゃが、江戸中に、和泉屋は十七軒ある。みな日常の雑貨をひさぐ万屋で、知らん者が多いようだが、ことごとく一つの店なのだ。つまり、和泉屋という看板をあげた家は、すべて一つ店で、分店が江戸中に散らばっておる。門前町に新規にあけて憎まれたのも、そのひとつじゃが、何とも盛んなものだな」
「けれど、その和泉屋が、母とどういうつながりがあるのでございましょう」
「どういうつながりもこういうつながりも、和泉屋は、おゆうさんのものだったのだ。おゆうさんのものだから、したがって、今はあんたのものじゃ」
 お高は、いまに一空さまが、冗談だといって笑い出すであろう、そうしたら、いっしょに笑いましょうと思って、一空さまの笑い出すのを待った。が、いつまで待っても一空さまが笑い出さないので、お高は、ひとりで笑い出した。
「何のことでございますか、わたくしには、わかりませんでございますよ。十七軒のお店が、そっくりわたしのものでしたら、わたしは、江戸で名代の金持ちのはずでございますねえ」
 一空さまは、にこりともしないのだ。
「そうじゃ、あんたは、江戸で名代の金もちなのだが、じぶんでそれを知らんようだから、わしは、しらせに来たのじゃよ」
「さようでございますか」お高は、どこまでも相手になろうとはしなかった。
「それはどうも、御親切にありがとうございます」
「わしのいうことを、信じなさい。いくらわしが酔狂だからというて、やぶから棒に、かような戯談を持ちこんで参るわけがないではないか。和泉屋は、そっくりおゆうさんのもちものであった。おゆうさんがかげにおって、それぞれの者に、十幾つの和泉屋をやらせておったのだ。何から何まで、おゆうさんの金で商売をして、もうけはそっくりおゆうさんのふところへはいる。豪儀なものであった」
 お高は、眼をぱちくりして黙りこんだ。
 一空さまの話では、父の相良寛十郎も、その、おゆうの和泉屋経営に一部の仕事を受け持ったというのだ。ところが、お高の知っている限りでは、父は商法などからはおよそ遠い人物で、そんなことがあったとは、どうしても考えられなかった。
 無言でいると、なおも一空さまがいうには、和泉屋は、おゆうの財産のほんの一部分で、ほかにも、家作や地所などふんだんに持っていたというのだ。こうなると、まことにおゆうは江戸有数の富豪だったといえる。お高は、そのおゆうの娘なのだ。お高は、夢の中で夢をみているような、奇異な気もちになっていった。

      六

 お高の母の父は、柘植宗庵つげそうあんといって、町医であった。それは、お高も知っているのだが、同時に、お高の知っているのは、それだけであった。
 ところが、一空さまの語るところによると、この宗庵先生はただの町医ではなく、長崎で蘭人らんじんに接して医学を習得しながら、大いに密輸入をやったらしい。しまいには、医者よりもこのほうが本業になって、大いにもうけた。
 こうして、あぶない橋を渡って大利を獲たばかりでなく、宗庵は、性来理財のみちに長じていた。江戸で、和泉屋をはじめ、その他種々の商売の黒幕となっていずれも利に利を重ね、隠然一つの黄金王国を形づくるにいたった。が、表面へ出ることを好まず、どこまでも蔭にあって金をうごかすだけだったから、江戸の商法の裏面に通じないものにとっては、宗庵は、やはり一介の町医宗庵でしかなかった。
 つまり彼は、いまのことばでいう二重生活を送っていたのだ。巨富を擁しながら、眼立たぬよう眼立たぬようにと、まずしい医者にふさわしい暮らしをした。彼の住まいや日常など、じつに質素なものだった。ある人にとっては、ちまたの医師柘植宗庵であり、ある人にとっては、いながらにして各種の商売を支配し、ひそかに驚くべき利を上げてゆく、狷介けんかいなる江戸の富豪柘植宗庵であった。
 一空さまは、この柘植宗庵の又従弟またいとこであった。宗庵は早く妻を失って、娘のおゆうとふたりでさびしく暮らしていた。宗庵が暗中飛躍をして財を積んだのは、おゆうのためだけであった。そして、いつじぶんが死んでも困らないように、おゆうに商法のみちに通じさせておいたのだった。
 おゆうは、お高の母であることからも容易に想像できるように、美しい女であった。このおゆうが、若い日の一空さまにとって、彼の生涯にただひとつの恋の相手だったのだ。二人は、ひそかにいいかわしただけで、宗庵の許しを得ないうちに、宗庵が死んでしまった。
 おゆうは、宗庵の築いた隠れたる黄金郷のあるじとなったのだが、まもなく彼女は、お高の父である相良寛十郎に会ってさっそくいっしょになることになった。一空さまに対するおゆうのこころもちは、要するに少女的な感傷に過ぎなかったのだ。おゆうは、相良寛十郎に、はじめて男を見た気になったのだ。すぐ寛十郎を家へ入れて、医者の娘と御家人との結婚生活がはじめられた。
 おゆうの財産は、あくまで秘密になっていたので、寛十郎も、金が眼当てで入りこんだものとは思われない。が、すぐ妻の莫大な資財に気のついた彼は、金が眼当てでおゆうに取り入ったのと同じ結果になった。一空さまにいわせれば、はじめから面白くない人物だったのだ。それが、未経験なおゆうの眼には、神様か仏さまのようにうつったというのだ。
 お高は、じぶんが親しく見送った父のことを悪くいわれて、いい気もちはしなかったが、一空さまのこころもちも察して、黙っていた。黙っていると、一空さまはつづけて、寛十郎は完全におゆうを失望させたと話し出した。
「それはそれは、湯水のように金をつかったものじゃったよ。わしは、そのときはもう出家しておったが、そばで見てもはらはらさせられた。もっとも、いかに贅沢ぜいたくをしたところで、一代や二代でつぶれる財産ではないのだが、宗庵に教育されたおゆうさんは、寛十郎のようにしたい三昧ざんまいに金をついやすことは大きらいであった。おゆうさんは、よくわしをたずねて来て、こぼしたものであったよ」
 二十年前の記憶がすっかり一空さまをとらえているのだ。お高は、知らなかった父母の生活を、眼のまえにくりひろげられて、知らなかったほうがよかったような気がした。両手で顔をおおって、それでも、全身を耳にして、一空さまの言をとらえようとしていた。
「一度などは、大金というべき額の金をさらって、姿をくらましたことがあった」
「あの、父が、でございますか」
 お高は、金を持って逃げたと聞いて、すぐ磯五のことを思い出した。むかし母があったと同じ眼に、じぶんもあったのだ。母娘おやこが、同じ人生をくり返しているのではなかろうか。そういうことがあるものであろうか。お高は、運命の恐怖といったようなものを感じて、身内がしいんとなった。
「さよう」一空さまが、答えていた。「金を持ち逃げして、京阪かみがたのほうへまいってな、ほかの女といっしょになっておった。それから、何でも一旗あげるとか申して、江戸へ帰って来たのじゃが――いや、よそう。あんたの前で父御ててごをののしるようになる。面白うない。わしも、気が進まん」
 一空さまは、思い出したように哄笑こうしょうして、お高を見た。


    九老僧


      一

 そのころから、一空さまは諸国の禅林をまわって、相良寛十郎はもとより、おゆうとも音信不通であったというのだ。おゆうの死んだことは聞いたが、それ以後いっそう、寛十郎に対する一空さまの関心は消えて、ふたりのあいだにお高の高音というものが残されたことまで、今まで知らなかったというのだ。
 が、あの莫大なおゆうの財産は、一空さまもときどき思い出して、どうなったであろうと思っていた。しかし、和泉屋がその一部であるという事実は、忘れるともなく忘れていたのだ。それがいま、金剛寺門前町に起こったあの現実の事件として、また、こうしておゆうの娘であるお高を発見したことによって、一空さまは、かすみの向こうの遠い昔の自分を、振り返らされているのである。
 黒い沈黙だ。やがて、一空さまがいった。
「あんたに伝わっておらんとすると、柘植宗庵のつくった大身代は、いったいどこへ行ったのじゃ」
「おおかたつかい果たしたのでございましょうよ」お高は、うつろな声だ。「誰かがねえ」
「そんなことはあり得ぬ。あれだけの身代がつぶれたとすれば、人のうわさにも上ったはずじゃ。ついぞ聞かぬ。また二人や三人がいかに馬鹿金をつこうたところで、そんなことでびくともする身代ではないのだ」
「さようでございますかねえ。そういたしますと、ほんとに妙なことでございますねえ」
「あんたの知らん兄弟でもあって、そっちに遺っておるのではないかな」
「でも、男の兄弟があるなどということは、聞いたこともありませんでございます」
「しかし、何かの理由で、あんたがものごころつかんうちからほかで育てたと考えれば、あんたの知らんのもむりはないということになる」
「それはそうでございますけれど、でも、父は一度も、そういうことを申したこともございませんし、態度そぶりに見せたこともございません」
 急に、一空さまの眼が、光ってきたように見えた。彼は、ひざを乗り出させるのだ。
父御ててごの相良寛十郎というひとは、見たところ、どういう人であったかな」
 お高が、思いだし思いだし、父相良寛十郎のおもかげを述べはじめた。
 いったいに小づくりで、せいも低く、やせていた。貧相な猫背ねこぜだった。額部ひたいが抜け上がって、ほそい眼がしじゅう笑っていた。晩年はそれに、大きな眼鏡めがねをかけていた。鼻に特徴があって、横にねじれたような鼻であった。お高が、ここまで話したとき、一空さまが、手をあげておさえた。
「どうも不思議じゃ。それでわかった」一空さまは、下くちびるをかみながら、いうのだ。
「何とも奇妙なことである。大いにいわくがなくてはならぬ。あんたのいう相良寛十郎は、わたしの知っとる相良寛十郎ではない。人は、いかに年をとっても、そうまで変わるはずはないのだ。確かに別人じゃ。
 わしの識っとる寛十郎は、世にも美しい男であった。女子おなごにも珍しいほど、眼鼻だちの整うた美男であった。すんなりと背が高く、色白で、澄んだ大きな眼をしておった。たましいをもたぬ相良寛十郎は、うつくしいけものであったよ。たましいを持たぬだけに、いや、おゆうどのはじめ、女という女を籠絡ろうらくしたものであったよ。わははは、かの寛十郎、おなごにかけては、特別の力を備えた達人でありました」
 反射的に、またもやお高は、磯五を思い出してぞっとしている――その相良寛十郎とあの磯屋五兵衛、同じような男が、今と昔にわたって、母とじぶんを苦しめている。母娘おやこは、ひとつの運命に引きずられているのであろうか。母と相良寛十郎と、じぶんと磯五と――お高は、磯五が、相良寛十郎の転身であり、この自分は母のおゆうであるような気がして、しようがなかった。
 一空さまの声をぼんやり聞いていた。
「うむ。この話は、どこぞに大きな間違いがひそんでおるに相違ない。とにかく、同じ相良寛十郎でも、さっきからわしが話しておるのは、あんたが父と呼んでおる人物ではない。それだけはわかったが、ともにおゆうさんの良人で、同名異人とも思われず、はて――」
 一空さまは、そこに解答があらわれているかのように、まじまじとお高の顔を見て、黙りこんだ。お高もそういう一空さまの顔から何かを得ようとするように、視線いっぱいに相手をみつめているのだ。

      二

 若松屋惣七と歌子と紙魚亭主人と大久保の奥様は、片瀬の龍口寺へお詣りに行く行くといって、まだ同勢がそろわないでそのままになっていた。お高は、からだの調子が、そういう二、三日がけの旅を許さないので、行かないことにした。
 しかし、若葉の風があわせすそをなぶるころになると、お高も、紺いろの空の下を植物のにおいに包まれて歩いてみたいこともあった。一度、神田橋外の護持院ごじいんはらのかこいが取れたので、佐吉をつれて、みくさに行ったことがあった。その摘み草が大へん面白かったので、お高は、また一日どこかへ遊びに行きたいと思っていた。若松屋の仕事がひまで、お高もからだを持ちあつかっていた。かぶと人形、菖蒲しょうぶ刀、のぼりいちが立って、お高は、それも見に行きたいと思ったが、二十七日は、雑司ぞうし鬼子母神きしもじん[#ルビの「きしもじん」は底本では「しもじん」]に、講中のための一年一度の内拝のある日であった。お高は、これへ行ってみたかった。
 佐吉はさしつかえがあったので、こんどは国平をつれて行くことにした。一空さまはその後たびたび話しに来て、この鬼子母神参りのことが出たら、それは気が晴れてよいからぜひ行くようにといった。そして、近くの九老僧くろうそうのそばに住んでいる、庄之助しょうのすけさんという相識しりあいの百姓を教えてくれて、そこへ寄ってゆっくり休むようにと、添書までつけてくれた。
 相良寛十郎と母のおゆうとおゆうの財産の行方については、二人とも、もうあまり話をしないようにしていた。いくら話し合っても、わかることではないからだった。ただ、お高が父として知っている相良寛十郎と、一空さまがおゆうの良人として識っている相良寛十郎とは、同じ名前であっても、全然別人であることだけは確かだった。それは、外貌がいぽうだけではなく、性格もすっかり違っていると、お高は思っていた。
 一空さまは、一空さまで、考えがあるらしかった。お高には、互いに知らない兄弟があるに相違ない。それを探し出そうというのが、一空さまのはらであった。兄弟があっても、なくても、相良寛十郎という人物が二人いたことや、お高の祖父の柘植宗庵が築いて娘のおゆうに伝えた富が消えていることや、これらは不思議として葬らるべき性質のものではなく、満足に説明さるべきだと思った。
 一空さま、手近なところで、和泉屋の内幕から調べていこうと考えていた。ほかにも手がかりの心当たりがないでもなかった。むかしの愛人の娘ではあり、ことに血がつながっているので、一空さまは、そうやっていろいろ努力することを、お高に対する義務であると考えていた。一空さまじしん興味のある探査でもあった。
 二十七日は水いろにかわいたのであった。それでも、空には、春らしい濁りがあって、どうかすると、濡れた微風が街道を吹いてきて、お高の襟足をくすぐるのだ。
 お高は、国平とならんで、本伝寺ほんでんじ横町から富士見坂ふじみざかのほうへあるいて行った。お高は、身軽にして来た服装なりと、手ぬぐいを裂いて草履を縛ってある足ごしらえとで、これだけのことでも、もう十分に旅に出た気になって、楽しかった。何もかも忘れていた。忘れようとしていた。男の兄弟などないほうがいいし、母の身代を受け継いでたいそうな気骨を折ることはまッぴらだと思った。
 そう思って、こころをまぎらすためにとんきょうな国平が何か面白いことをいうたびに、飛び出すような笑いを笑って、ぶらぶら歩いた。
 青柳町あおやぎちょうから護国寺ごこくじの前を通って、田んぼのあいだを行くと、そこらはもう雑司ヶ谷であった。一面の青い色が、お高をよろこばせた。一団の桜樹さくらが葉になって、根元の土に花びらがひらひらしているところもあった。百姓家でははねつるべの音がきしんで、子守こもりが二人を見送っていたりした。
 大久保彦左衛門おおくぼひこざえもん様おかかえ屋敷の横から鬼子母神へ出て、お参詣さんけいをすました。鬼子母神様は、内拝につどう講中の人でこんでいた。物売りなども出て、それはそれは大変なざわめきであった。お高は、信心よりも野遊びに来たので、そのにぎわいは好ましくなかった。大行院たいこういんの拝殿へまわって、由来を読んだりした。
 ここに納めてある尊像の出たところは、いま通り過ぎて来た音羽おとわの護国寺からひつじさるの方角に当たる清土きよづちという場処で、そこへ行くと、今でも草むらの中に小さなほこらがあって、はじめはここにまつってあった。そばに、里人が三用の井戸と呼ぶ井戸があって、この神様が出現ましましたとき、井戸のおもてに星かげが映ったとある。そこで、鬼子母神を念ずれば、諸願円満なるこというに及ばず、なかんずく赤児あかごを守り、乳の出ない婦人が祈るとことのほか霊応いちじるしい。
 お高は、赤児と乳のことを思って、それを専念にお願い申してから、疱瘡ほうそうの守護神となっている鷲大明神おおとりだいみょうじんを拝んだ。子供が生まれて、乳の出がたっぷりあっても、疱瘡が重くては大変であるとお高は思った。で、まんべんなく気を凝らして祈って、鬼子母神さまの雑沓をのがれて九老僧のほうへ曲がって行った。
 一空さまがつけ手紙をくれた庄之助さんをたずねて水でも飲ましてもらおうと思ってだった。

      三

 庄之助さんは、元気な老寄としよりであった。つれあいのおばあさんもいい人であった。一空さまのうわさが出たりして二人は、土間から上がって休んだ。
 お高は爐ばたにすわって、庄之助さんの入れてくれる渋茶を飲んだし、国平は、黒光りのする広い台所で、飯茶碗ちゃわんに地酒をもらって、うまそうにぐびりぐびり音をたてていた。青い色とにおいを持つ風が、家を吹きぬけていた。国平は、まもなく板の間に手まくらをしていびきの声を聞かせ出した。お高が困って起こしに立とうとすると、庄之助さんもお婆さんもあおぐような手つきをしてとめた。
 まわりの田畑があまりきれいなので、お高が、そのことをいうと、庄之助さんは得意げに笑うのだ。
「地主さんがわかった人ですから、わたしどもも大助かりなのです。江戸の後家さまでおせい様というのです」
 お高は、過去が一時に頭の上に落ちてきたように感じて、ぎょっとした。
「江戸のおせい様といって、それは雑賀屋のおせい様でございますか」
 わかりきったことをきいた。庄之助さんがうなずくとお高は、暗い心になった。識っているのかときいた庄之助さんには、ただ聞いたことのある名だとだけ答えて、お高は、いそがしく考えていた。庄之助さんは、その、お高の変化には気がつかずに、手を伸ばして、裏手の田んぼの中に木に囲まれて建っている上品な構えの家を指さした。
「あれがおせい様の出寮でございますよ。おせい様はときどきおみえになりますです。今も、保養かたがた来ておいでですよ」
 お高は、きょうのせっかくの行楽と、このいい景色にしみがついたように思われて、情けない気がした。おせい様がここの寮に来ているなら、磯五も来ているであろうと思った。そして、遠くないところに磯五がいると思うと、お高は、胸がわるくなるように感じて、すぐに国平を促して帰りたかった。
 が、そうもいかなかった。お高は、国平が眠っているあいだ、そこらを歩いてくることにしてその庄之助さんの家を出た。人と話しながら、あたまの中でほかのことを考えるよりも、お高は野路のみちでも一人でたどって考えたいことを考えたかった。何よりも、その甘美な空気を吸って、思い切ってまちを出て来た目的を存分に果たしたかった。
 お高は畑のあぜに雑草のはえている道を通って、御鷹おたか部屋御用屋敷のある一囲いのほうへ歩いて行った。そこらはもう畑といってもだんだん藪つづきになっていて、人に踏まれて草の倒れているあとが一すじに黒く延びているだけで、進むにしたがって両側の灌木かんぼくのせいが高くなって、お高はまるで森の奥へ迷いこんだような恰好になってしまった。日光が白く降り注いで、かすかな風が渡ると、木の枝を離れて虫のむれが飛び立つのが見えた。
 お高は、引っ返したかったけれど、引っ返すよりは先へ行ったほうが早く街道筋へ出られるであろうと思って、そのまま進んで行った。お高は、へびが出てきはしないかと思ってこわかった。人の気がないので裾をかかげて、ぬかるみを拾うようすで草を分けていた。白いふくらはぎが、青い葉のあいだをちらちら動いていた。
 小川へ出た。冷たそうな水が、ゆるく流れているのだ。向こう側は、いっそうたけの高い藪原になって、驚くほど大きなはえが飛んでいた。その羽音が耳に聞こえる全部で、静かな地点であった。お高はいつまでもそこにいたかったが、その寂然じゃくねんとしているのがかえって恐ろしくなって、いそいで、そこにかけてある独木橋まるきばしを渡りかけた。
 それは、立ち木のちたのを投げ渡しただけのあぶないものであった。お高は、踏みためしてもみずにその一本ばしを渡りかけたので、真ん中でぐらぐらし出して、あとへも先へも行けないことになった。お高は夢中であった。安定をとるために腰を下げて、両腕をひろげて、右左にふらふらしていた。聞こえないまでも人を呼ぼうかと思ったが、大声を出すとバランスがくずれそうなので。どうすることもできないのだ。水の上は風があって、それが着物の前を吹きひらいてあしが出ているのを知っていたが、直そうとする拍子に落ちるような気がして、お高は風のするままに脚をあらわして泣き出したい心で立ちつくしていた。
 橋のむこう岸に人影がさしたので、お高は、はっとした。あぶな絵のようなありさまの自分だから、それが男でなくて女であってくれればいいと思ったが、男であった。磯五であった。磯五は、そこの橋の上に立ち往生をして下から吹き上げる風のために面白いけしきになっている女を、お高とは知らずにゆっくりと見物しはじめたが、やがて気がついて驚いた声を放った。
「高音じゃアないか。何をそこで珍妙な芸当をしているのだ」

      四

 お高のことをもとの名の高音と呼ぶのは、磯五だけであった。お高は、磯五にあったのはいやであったが、いやでも、助けてもらわなければならなかった。磯五は、笑いながら向こう側から渡って来て、すぐお高の手を引いて助け帰った。
 磯五は、商売物の洒落た衣類をつけて、いつもの頭巾ずきんの下から、瀬戸物で作ったような、すべすべする美しい顔をのぞかせていた。何か桃色の花のついた木の枝を持って、しきりに花をむしりながら、あきれたように、着物を直すお高を見守っていた。
 急に眼を上げて、お高は、磯五を見返した、にらむような眼であった。お高は、磯五にじろじろ見られるのが気になって、怒っているのだった。磯五は、そのお高の視線をしっかり受けとめて、例の、深いえくぼを見せて拝むような微笑になった。この微笑のためには死んでもいいと思った昔のじぶんを、お高は思い出していた。同時に、自分のみなりのみすぼらしいのが、磯五の前にたまらなく恥ずかしくなってきた。
「こんなところで何をしているのだ」
 磯五がきいた。
「何をしていてもいいじゃありませんか。鬼子母神さまへお詣りに来たのですよ。もう帰るのですよ」
 そして、往来の見えるほうへ歩き出そうとした。
 磯五は、声をたてて笑っていた。それは、忘れていたさわやかなひびきであった。不思議な魅力をもってお高の胸をついてくるものであった。ふとお高は、それにそそられているじぶんを意識した。こころに関係なく、肉体を走りすぎるおののきであった。忘れた磯五のにおいを、その笑い声がお高の中に呼び起こしたのだ。
 お高は、蒼くなっている顔をふり向けた。吸われることを望んでいるように、くちびるがすこしひらいていた。
「おせい様はおめえが大好きなようだぜ」磯五が、いっていた。「遊びに寄りなよ。すぐそこの寮に来ているのだ」
「知っていますよ。知っていますけれど、顔出ししなければならないわけが、どこにあるのですか。あの、妹さんとかいう女ごろつきはどうしましたか。教えてくださいよ」
「お駒ちゃんか。お駒ちゃんは店の用で京へ行っているのだ。おれがつれて行って、おれだけ一足先に、五日前にけえったばかりよ。またすぐ行かなくちゃならねえのだ。高音、おめえお針のおしんに神田とかで会ったそうだが、おしんばかりじゃあねえ。誰にあっても、おれのことあいわねえようにしてもらいてえのだ。よけいなことをいうと、おめえのためにも、あの若松屋の盲野郎のためにもならねえのだから」
 お高は、馬鹿ばかしいことをいうというように、黙って横を向いていた。何もいわずにいるときは、今でもどうかすると肉体的にかれる磯五であったが、そうやって愚にもつかないことをいい立てている女性的な彼には、多分の反撥はんぱつ軽蔑けいべつを感ずるのだ。
 お高はいまもそれを感じて、さっきの一時の動揺からすっかりさめていた。そして、磯五がそれに気がつかなくてよかったと思った。磯五は、まだ同じことをいっていた。
「おしんはいま、おれんとこへお針頭に住み込んでいるのだ」
「そうですか。それは結構でございますねえ」
 磯五はそれから、若松屋惣七のことをきいたり、おせい様のことを話したりしながら、お高といっしょに道路みちのほうへ歩き出した。
「やはりおせい様からお金をしぼって、うまく立ちまわっておいでなのでしょうねえ」
 お高が、いった。磯五は、ちょっとむっとしたふうだったが、すぐしらじらと笑い消した。
「そうよ。だが、ただ奪っているわけではねえのだ。ちゃんとお返しがしてあるのだ」
「お返しとはどういうお返しなんでしょう。いつからそんな律儀りちぎなお前様になったのでしょうねえ」
「なに、昔からだ」
 それでお高に、磯五のいうお返しの意味がわかった。お高は、金が眼当てで後家さんをよろこばせている磯五によりも、そんなことを、かつてはいっしょにいたじぶんにしゃあしゃあとしていえる彼の恥知らず加減にあらためておどろきを大きくした。が、ざっくばらんにいえば、それは真実ほんとのことなので、お高は、ぞくっと寒けのようなものを感じながら、無言でいた。みちへ出ると、磯五は、さっさとお高を離れかけた。
「おせい様に話して、おめえのいるところへ迎えにやらせよう。九老僧の庄之助てえのはおせい様の小作だから、そこに休んでいるがいいのだ」
 そこにいるとはいえないし、おせい様に会いたくないので、お高がおせい様に、知らせてくれるな、自分はいますぐ江戸へ帰るのだからと、頼むようにいっていると、磯五は、それを聞かずに、どんどん雑賀屋の寮のほうへ消えてしまっていた。

      五

 お高は、おせい様に見つかってはたまらないと思ったので、庄之助さんの家へ帰り次第、もう国平も起きたことであろうから、すぐ小石川へとうとがむしゃらに道をいそいでいた。道はそれでいいのだったが、近みちをして来てもかなりあったところを、今度は本街道をゆくので、思いのほか遠かった。気がせいて、お高は、小走りになっていた。無意識のうちに、走りつづけていた。
 そこは、小川を離れて、両側は立ち木もなく陽の照りつけるところであった。塵埃ほこりをのせた土が、白く光って、はるか向こうまで伸びていた。お高は、九老僧をさして、ほとんど夢中で駈けていたが、あまり駈けたので息が切れて、それが悪かったに相違ない。突然気もちが薄れて行って、何か暗いもやもやしたものが、踊るように眼前におりてきたと思った。
 そう思ったとき、彼女は、まるで戸板か何ぞのように思い切りよく道路みちの真ん中に倒れて、そのまま起き上がらなかった。
 長い道には、しばらく人影がなかった。やがて、向こうを突っ切っている小径こみちから、二人の人かげが出て来た。それが、路上に横たわっているお高のすがたを見かけると、いそぎ足に近づいて来た。人影は、おせい様と磯五であった。
 彼らは、お高を捜しに、ここまで出て来たところであった。磯五が、思いがけなくお高に会ったことを話すと、おせい様は、どうしてもお高を見つけて寮へ連れ帰ってもてなすのだといって、きかなかった。おせい様は、磯五の従妹いとことなっているお高に、厚意を寄せているに相違なかった。磯五は、それには及ばぬといい張ったのだが、おせい様はそれを身内の者に対する磯五の遠慮と解釈して、いっそうお高を発見して招じ入れねばと、じぶんで見に来ることになったので、ちょっと会うぐらいなら、双方そうほうともよけいな話にならないであろうと、磯五もいっしょに捜しに出て来たのだった。
 それにしても、従妹と信じ切っていて、そのためこんなによくしてやろうとしているお高が、男の妻であると知れたなら、おせい様の怒りと悲しみはどんなであろうと、磯五は思った。それは決して、お駒ちゃんが妹でないことがばれたときぐらいではすまないのだ。またいいかげんなことをいってなだめすかすのに大骨を折らなければならないのだ。
 おせい様とお高を会わせたくはないのだが、自分がお高を見かけたなぞとついいってしまったのだから、しかたがなかった。自分のいるところでなら、会わせても大したことはあるまいと思ったし、それに、あまりおせい様が熱心にいうので、二人で、まだお高がいるであろう方面へ、捜しに出たところだった。
 おせい様と磯五が、お高のうえに屈みこんでみるとお高は死んだように白くぐったりとなっているので、おせい様は、あわてた声を出した。
「これはいけませんよ。くたびれているところへ陽に当たって、気が遠くなったのでございましょうが、ほんとに大変ですねえ。早くうちへかついで行って、お医者さまに来ていただきましょうよ」
「なに、そんなにしなくても、ちょっと頭でも冷やせばすぐよくなるのです」
 磯五は、尻端折しりばしょりをして、ふところから手ぬぐいを出しながら、小川のほうへ草を分けようとした。その手ぬぐいに水を含ませて来ようというのだ。おせい様がいつになくすこし強い口調で呼びとめた。
「そんなことで直るものですか。この方はあなたのお従妹さんではありませんか。うちへおつれして介抱するのですよ」
 そして、弱よわしいおせい様が、顔を真っ赤にして力んで、お高のからだを抱き起こそうとしているので、磯五も黙って見てはいられなかった。手を出さなければならなかった。
「いいのですよ、おせい様。わたしがかかえて行きますから。ほんとにおせい様は――」
 磯五はそういいかけて、濡れた着物のようになっているお高を、小腋こわきにさらえこんでから、あとをつづけた。
「親切なおせい様だ」
 両足を引きずってずり落ちてゆくお高を揺すり上げながら、磯五は、雑賀屋の寮のほうへ歩いて行った。おせい様が手を貸して、お高の腋の下を持ち上げていた。
 これでお高は、この雑司ヶ谷のおせい様の寮に当分世話になることであろうと磯五は思ったが、それは彼にとって、この上もなく迷惑なことであった。磯五は、この二人の女がいっしょにいるところを見るのが、不愉快であった。じぶんの利益ためにならないことが、両方の口から両方の耳へ交換されるに相違ないと思った。これは何とかしなくてはならないと、忙しく思案しながら、数寄すきを凝らした雑賀屋の門内へ、お高を運び入れていた。
 ひとつ、どうしても必要なことがあった。それは、お高がそこにいるあいだ、じぶんも予定を変更して寮に残っていなければならない――磯五は、そう思った。磯五は、その、死人のようになっているお高が、ほんとに死人であってくれればいいと思った。これは、磯五にも、はじめてきた考えであった。
 彼は、その考えがあたまに上ると、びっくりとして蒼い顔になった。どこからか、生ぐさい血のにおいが漂ってくるような気がして、おせい様を見て、むりににっこりした。


    金雀枝えにしだ


      一

 一空さまは、鳥獣のような、自然に即した生活をしていた。それは、およそ贅沢から遠いものだった。壁とたたみと天井のほか何一つない洗耳房なのだ。金剛寺境内の樹木が、高塀のようにそれを囲んでる。
 一空さまは、若松屋のお高が雑司ヶ谷の鬼子母神へお詣りに行った翌朝、房の縁に座を組んで、日光に顔を向けていた。いつでも、どこででも、独居していても人中でも、随意に坐禅ざぜん三昧さんまいに沈入するのが、一空さまなのだ。
 からりと晴れた日だ。土が光って、陽に夏のにおいがしてる。一空さまは眼をあげて、膝もとに置いてあった手紙を拾い上げた。一空さまのまゆが寄るのは、お高に会って、それから柘植の一家と、ことに、彼女の母のおゆうのことの出たのを、いまだに奇縁に思っているのだ。この柘植一族の神秘を解くためには、古い書き物をあさったり、あちこち歩いて人に会ったりしなければならない。
 一空さまは、金剛寺へ出入りする棟梁とうりょうに、和泉屋の本店はどこにあるのか調べてくれと頼んでおいたのが、けさ、その棟梁のもとから若い衆が返事の手紙を持って来て、神田鍛冶町かんだかじちょう二丁目の裏に当たる不動新道ふどうしんみちの和泉屋が総本家だと知れたので、これからそこへ出かけて行こうとしているところだ。
 出かけて行って、どう切り出したらいいか。一空さまは、それを考えていた。が、それはそのときのことにしようと決心して、はだしに高下駄を突っかけて金剛寺の楼門さんもんを出た。微風が、お衣の袖にはらんで、一空さまは、爽々そうそうと歩いて行った。一空さまが、通新石町とおりしんこくちょうから馬鞍横町ばくらよこちょうへ折れて、小柳町こやなぎちょう鍋町なべちょう東横丁ひがしよこちょうと過ぎて不動新道へはいると、和泉屋の総本店はすぐ眼についた。
 左側の大きな老舗しにせだ。やはり日用の雑貨をひさぐ店なのだ。
 一空さまは土間に立って、立ち働いている番頭手代を見まわした。そのうちのひとりに、ちょっと話したい用があるというと、それは伊之吉いのきちという大番頭であった。伊之吉は一空さまをじろじろ見たのち、急に愛想あいそうよく招じ上げて、店の裏の小座敷へ案内して行った。そこは、畳のじめじめする、うす暗い部屋だ。半間の床の間に、投げ入れた金雀枝えにしだがさしてあった。
 一空さまが、柘植の家がもとこの和泉屋の持ち主で、宗庵の死後、娘のおゆうが采配さいはいをふるっていたはずなのが、それもなくなったのち、どうして柘植の家から離れるようになったのか、そこの関係はいまどうなっているのかと伊之吉にきくと、伊之吉は少なからず驚いたようすであったが、それでも、こころよく、知っている限りのことを話してくれた。
 おゆうの娘のお高というものが生きていて、貧しくしているので、お高のものであるべきおゆうの財産はいまどこへどう行っているのか、それをしらべるための、これもその一つであるということも、もちろん一空さまは、伊之吉にうち明けたのだ。一空さまも柘植姓であること、じぶんとおゆうとのつながり、それらのことも、一空さまは、あますところなく伊之吉に告げた。
 すると、伊之吉が答えた。
 それは簡単なはなしだった。

      二

 だいぶ昔のことで、伊之吉は人のうわさに聞いたに過ぎないのだけれど、おゆうは、良人の相良寛十郎と、ふたりのあいだの、生まれてまもない娘をつれて、上方のほうへ行っていて、そこで死んだというのだ。おゆうはなかなかのしっかり者であったが、寛十郎は、金をつかう以外に能のない、やくざな男であったらしいというのだ。
 それは、一空さまのっている御家人の寛十郎に相違ないのだが、おゆうが、幼いお高といっしょに京阪かみがたへ行っていて、むこうで死んだというのが、お高の話と違うのであった。お高は、幼児こどものことで、覚えているはずはないが、母は江戸でなくなって、それから、前後旅には出たものの、とにかく父の相良寛十郎といっしょに深川古石場の家に住んでいたといっていた。
 なおよくきいてみると、伊之吉がいうには、おゆうが関西の土になってから、寛十郎も娘も完全に行方不明になって、それ以来、父とはどこにどうしているか、見た者も聞いたものもないので和泉屋は自然柘植の家を離れて、べつの経営に移ったまま、二十年もたってきたというのだ。
「いや、まことに不思議な話じゃ」一空さまが、口をひらいた。
「わしが、おゆうさんの娘の高音という、いまはお高といっておるが、そのお高どのから聞いたところとは、かなり相違する点があります。が、しかし、それはそれとして、おゆうさんが死なれると同時に、柘植の者の姿が消えて、この和泉屋が、いつからともなく他人の手へ渡ったというだけのことならば、こんにちそのお高どのという、柘植家の立派な当主が現われた以上、この商売はやはり柘植の者として、お高どのの手へ帰すべきであると思われるが、いかがなものであろう。
 円頂の身が、かような俗事に口を入るるは異なものじゃが、わしも柘植家の一人であり、おゆうさんとは、兄弟同然に親しくした間柄じゃから、柘植の家のために、またお高どののために、ここのところをはっきり聞きたいと思うのじゃが――」
 伊之吉の返答は、いっそう意外なものであった。
 それは、和泉屋は、この十年間ほどに躍進的に発展して、もとおゆうのもっていた和泉屋よりも、倍にも盛んなものになっている。したがって、いまおゆうの娘が現われたところで、現在の和泉屋全体がその手に返るということはないけれど、以前の和泉屋だけの株と、それから上がるもうけだけは、誰が何といおうと、当然そのお高という女のものでなければならない。実際また、いまこの和泉屋の総元締めをしている人が、珍しく堅い男で、柘植のあとが妙なぐあいに消えうせた形になっているものの、いつかは誰か名乗り出て和泉屋へ手をかけてくるであろうと、それを見越して、それだけの額は、かりに柘植の世話役というようなものを立てて、その者へすっかりまかせてあるというのだ。
 律儀な、筋の通った話である。
 伊之吉は、語をつないで、
「良人の相良寛十郎さまも、おゆう様の財産からいくらかわけてもらったという評判でございました。
 ほかの、おゆう様が初代の宗庵先生から受け継いだ柘植家のものは、そっくりその娘のお高さまへのこされているわけなので――このへんのことは、その、どなたか柘植の方がお出になるまで、当店こちらと話し合いで柘植様の世話役に立っていてくださる人におききになれは、すっかりおわかりになることと存じます。そのお方は、ふか川で名の売れた木場きばじんとおっしゃる顔役でございます」
 木場の甚というのは、お高の話にも出た、古石場の家で相良寛十郎が死んだときに、そのあと始末を引き受けて、いっさいがっさいやってくれたという人であった。この、お高が父と思いこんでいる、古石場で死んだ相良寛十郎なる人物が、ほんとのおゆうの良人の相良寛十郎であったかどうか――そこらのところも、その木場の甚にただせばわかるかもしれない。
 とにかく、大変な金がお高を探して待っていて、それがいま、お高の手へころげ込もうとしている。金に興味のない一空さまだが、そう思うと、お高のために勇躍したこころになった。厚く伊之吉に礼を述べて、その不動新道の店を出た。

      三

 要橋かなめばしぎわの吉永町よしながちょうに大きな家を構えて住んでいる木場の甚は、七十あまりの老人だが、矍鑠かくしゃくとして、みがき抜いた長火鉢ひばちのまえで、銀の伸べ煙管きせるでたばこをのんでいた。見慣れない坊さまの訪客に、ちょっと驚いたようだったが、柘植の家のことで来たと聞くと、あわてて一空さまを上座にすえて、会話はなしにかかった。
 一空さまは、前置きとして、和泉屋の伊之吉に話したことをもう一度くり返したのち、自分がそのおゆうの娘のお高を発見したというと、木場の甚は、にやりと笑って、いった。
「いままで何人となく、柘植のおゆうさんの娘をみつけたといって人が来ましたが、みんなにせものでございましたよ」
 そして、およしなさいましといわんばかりに、疑い深そうに一空さまを見た。一空さまは、むっとする感情を忘れている人なので、平気でつづけた。
 一空さまが、その娘というのは、もとここの古石場に住んでいて、死んだとき、すべてお前さまの厄介になった、相良寛十郎の娘で高音というのだから、お前さまがほんとに以前からおゆうさんの娘を探していたのならば、とうに気がついて、預かっている柘植の財産を渡しているはずだというと、木場の甚は、しばらく考えていたが、やっと思い出して、
「ああ、そういえば、そういうこともございましたよ。
 わたしは、宗庵先生とは御別懇に願い、また、おゆうさまからも財産の締めくくりを頼まれていたので、おゆうさまが京阪かみがたのほうでなくなってからは、和泉屋とも相談をして、柘植の財産をそっくり預かっておゆうさんの娘御てえひとが出て来るのを待ってきましたが、するてえと、この深川の古石場で、男やもめの御家人が病死をして、あとには、若い娘がひとり残って困っていると聞き込みました。
 その方の名が相良寛十郎てえのですから、てっきり、おゆうさんの死後姿をくらましている良人の相良寛十郎さんに相違ねえ。ことに娘をひとりつれているという以上、もうそれに決まったと勢いこんで、わたしは自分で出かけて行って、その相良寛十郎てえ人の死顔をあらためたのです。
 すると、名が同じなだけで、似ても似つかねえ別人でした。父がちがう以上、その娘という女も、おゆうさんの娘であるわけはねえから、わたしは、ちょっと娘にくやみを述べただけで、あとのことはすっかり乾児こぶんどもにまかせて、そのままけえったのです。
 ああ、あの娘のこってすかい。あの娘のことなら覚えていますよ。なるほど、おやじが相良寛十郎という人だったから、柘植のおゆう様の娘御と思いなすったのもむりはねえが、あれは、縁もゆかりもねえ、全くの他人でございます。わっしどもの探している相良寛十郎さまなら、おゆう様のところでもよく会って、私もお顔を識っているのです。見間違うわけはねえのです。
 娘さんは、親娘おやこ三人づれで上方の旅へ出かけるとき、ほんの赤児あかごでごぜえましたから、いま成人していらっしゃれば、顔を見てもわかるわけはねえのですが、なに、あの古石場にいなすった娘さんなら、大違いですよ。父御ててごさんがおゆうさまの良人と同じ名だっただけで、別人なのですよ。わっしどもが世話に立っている柘植の家とは、何のかかわりもねえのですよ」
 これで、お高が父として死に水まで取った相良寛十郎が、ほんとのおゆうの良人の相良寛十郎でないことだけは、一空さまの思ったとおり、ますます事実に相違なかったが、この木場の甚は、そのために、そうして、永年ながねんさがしてきたほんもののお高に会ってことばまでかわしながら、頭から別人と思いこんで、そのままはなしてやって、いまだに、預かっている財産を渡すために、お高の現われるのを待っているのだ。
 世の中というものはこうして、ちょっとのことで、こうもくいちがうものであろうかと、一空さまは、実に不思議なすがたを見せられた気がした。

      四

 そのとき、木場の甚が、お高の姓が柘植であることを知りさえすれば、何の問題もなく、おゆうの財産はそっくりとうにお高の手へ移っていたのだ。一空さまが、あらためてそのことをいうと、木場の甚は、急に真剣になって膝を進めた。それから一空さまが、お高がおゆうの娘に相違ないことをいろいろな方面から証明すると、木場の甚もだんだん乗り気になってきて、
「わたしはこの年齢としになるまで、ただ柘植家の財産を守って、それをおゆう様のたった一人の娘てえひとに引き渡してえばかりに、こうして行方をたずねて、生きてきたようなものでごぜえます」
 一空さまは、このごまかしものの多い世の中に、木場の甚の正直さを尊いものに思って、あらためて老人を見た。木場の甚は、いっていた。
「お話によると、私も見たことのある、あの古石場にいなすった娘さんが、わっしがこの年月捜してきたおゆう様の一粒種らしいが、もしそうなら、その娘さんこそは、日本一の果報者でございます」
「まあ、一度会うてみなされ。おゆうさんを知っていなさるなら、疑うどころの話ではない。おゆうさんに生き写しというてもよいから――さっき、にせ物が、柘植の娘じゃと名乗って、だいぶあちこちから出て来たというようなおことばであったが――」
「ああ。あっしが柘植の財産を預かって、引き継ぎ人を探していると聞いて、あちこちからさまざまのことをいい立てて、おゆう様の娘になりすましたやつが出てまいりました。なに、あっしはこの眼で、立ちどころに見破ってきたのです」
「柘植の財産というのは、大きなもののように、和泉屋の番頭も申しておったようだが――」
「和泉屋は、そのなかのほんの一つでございます。ほかにも地所家作をはじめ、いろいろございますですよ。それはそれは、大変な財産でございます。そこで何にも知らずにいて、これだけのものをごっそり手に入れる娘さんは、いくらもともと母から譲られた自分のものとはいえ、たしかに日本一の果報者に相違ねえと、あっしは申すので」
 なるほど、それに相違ないのだった。一空さまは、小石川の金剛寺坂に、若松屋の雇い人になっているお高の現在を思い出して、いったいどういうことばでこの吉報を伝えたものであろうかと、い胸がわくわくするのを覚えた。
 ただ、相良寛十郎のことが、どう考えても腑に落ちないのが、二人は気になってならないのだ。
 おゆうの良人としての相良寛十郎は、一空さまも木場の甚も識っているので、人相風貌ふうぼうなどを話し合ってみると、完全に一致するのである。こうなると、お高の父として死んでいった相良寛十郎は、お高の話で一空さまが考えたとおり、また木場の甚が現に眼で見たように、同名を名乗っていた別人であったということが確定されるのだ。
 何者が何のために換え玉になっていたのであろう。ほんとの相良寛十郎は、いったいどこへ行ったのであろうか。彼にも、おゆうの財産の中からわけられるべきものが、木場の甚の手もとに待っているのに、あれほど金ずきの男が、どうしてそれを受け取りに姿を現わさないのであろうか。これには何かふかい秘密がなければならない。
 一空さまと木場の甚は、顔を見合わせて、とにかく、木場の甚がお高に会ってみることに、はなしが決まった。
 お高は、雑司ヶ谷へ行ったきり、まだ帰って来ていないのだ。国平だけがぼんやり帰って来て、お高さまはどこへ行ったか、じぶんが庄之助さんのところで酔いつぶれてているあいだにいなくなっていたといったので、若松屋惣七をはじめ、屋敷はさわぎになっていた。
 一空さまは、それは何とかしてお高の手へ届くであろうと、何しろ、大急ぎのことなので、ただ簡単にいきさつをしたためて、即日飛脚に持たせて九老僧の庄之助さんの家へまで走らせてみた。お高に、すぐ帰って来て、ふか川の木場の甚に会うようにというのだ。
 この書状てがみを、磯五がひらいたのだ。

      五

 飛脚は、はじめ庄之助さんの家へ行くと、そこで、お高が急病になって、地主のおせい様の寮へ引き取られていると聞いたので、すぐその足で、裏手の田んぼごしに樹立ちに囲まれて見える、その雑賀屋の寮というのへ駈けつけた。
 この、飛脚が駈けつけて来るところをみつけたのが門口に立っていた磯屋五兵衛であった。
 磯五は、ひとりで門ぎわに立って、考えていたのだ。考えながら、門と玄関のあいだをいったり来たりしていたのだ。夕方近かった。お高は、奥の八畳の間に床を敷いて寝かされて、おせい様が看病をしていた。
 磯五はあれこれと思案すればするほど、いらいらしてたまらないのだ。何とかして早くおせい様から引き離して、江戸へ帰すようにするか、さもなければ――と、ここまで突きつめてくると、彼は、ただ、ぴくっと影のようなものにおびえるだけで、そこから先は、どうにも思案が進まないのだ。
 そこへ飛脚が、一空さまからお高へあてた書面を持って来たので、磯五は、じぶんがお高のところへ持って行くといって、受け取った。そして、飛脚には、いくらかのぜにを握らせて、これで、どこかそこらで一ぱいやって休んで行くようにと追い帰した。
 磯五は、その手紙の両面を見こう見しながら、内玄関からはいって行こうとしたが、まわりに人のいないのを確かめると、彼はつと玄関わきの植え込みへ身をひそませて、損じないように注意ぶかく封書の封を切って読みはじめた。そこには、数株の金雀枝えにしだがいっぱい花をつけて、紙面と磯五の顔とに黄いろく照りはえていた。
 磯五は、二、三度読み返した。が、何のことかわからなかった。
 ただ、木場の甚というのは誰であろうと思って、急用とあるのは、金のことではあるまいかと、一流の直感で、しきりにそんな気がした。小判は磯五のたましいなので、金のためには、どんなにでも強くなれる磯五なのだ。黄金こがねいろの神像のほか、磯五は神も仏も知らないのだ。したがって遠くから金のにおいをかぎつけるのに、異常に発達した神経をもち合わせてもいた。
 磯五はいま、何となくその金のにおいをかいだような気がして、粒のそろった白い歯で紅い下くちびるをかんで真剣な顔つきになった。そして、封書をもとどおりにして、家へ持ってはいって、出会った女中の一人にお高のところへ届けさせた。
 それから、自分が寝起きしている客間の渡り廊下がかぎの手についている部屋へ行って、磯五が仰向けに寝ころがって、いまお高へきた手紙は何のことであろう? お高は、あれにあるとおり、すぐ江戸へ帰るであろうか。天井板をにらんで考えているところへ、おせい様についてこっちへ来ている、お駒ちゃんの父親の板の久助が、盆に茶碗をのせてはいって来た。
「磯屋さま、お出初でばなを一つ――」
 磯五は、むっくり起き上がって茶をすすりながら、
「久助どんかい。おめえの奉公ぶりには、おせい様も感心していなすったよ。久助どんは、今じゃあ一番のお気に入りなのだ。まあ、ますますためを思って勤めてもらいてえ」
 久助は、主人でもない磯五にそんなことをいわれて煙たそうに敷居ぎわにうずくまった。もじもじしていたが、やがてきいた。
「お妹さんは、このごろいかがでございますか」
 自分の娘が、磯五の妹ということになっているので、久助は、皮肉な眼をかがやかして、磯五を見た。磯五は、そんなことは知らないし、急に妹などといわれたので、瞬間誰のことであろうと、不思議そうに考えた。が、すぐ、それはお駒ちゃんであったと気がついて、
「おう、そういえば、拝領町屋で、おめえがはじめてうまいものを食わせてくれたときに、お駒も相伴しょうばんして行っていて、気分が悪くなって中座したことがあったげな。なに、このごろは達者さ。式部小路の家に、ぴんしゃんして働いているよ」
「さようですかい。それは結構でございます」
 久助は、こころから安心したように、そういって立って行った。そのうしろ姿を見送って、磯五は、何だか気の許せないおやじだと思って、近いうちに、おせい様をきつけてこの久助を追い出すことにしたほうが、今後のためによくはないだろうかと考えた。久助を警戒する気もちが、急に地水じみずのように、つめたく磯五の胸にわきかけたのだ。

      六

 が、久助がお駒ちゃんの父親であることは、磯五にすぐわかってしまったのだ。
 妻となっている高音と、絞れるだけさんざん絞っている後家さんのおせい様とが、こうして一つ屋根の下にいて、だんだん親しくなりつつあることは、両方から両方へ好ましくないことが伝わりそうで、磯五は、いてもたってもいられない気がするのだ。
 で、久助が立ち去って行ったあと、磯五がもう一度、手まくらで横になろうとすると、その膝の近くに一通の書面が落ちているのだ。これは、いま久助が落として、気がつかずに行ったものに相違ない。それが、庭からの微風に吹かれて磯五のほうへ寄ってきたのだろう。何の気なく取り上げた磯五は、それがお駒より父さまへとしたものだったので、びっくりしたのだ。
 手紙には、お駒ちゃん一流のたどたどしい字で、次つぎに磯五を驚かせるに足ることが書かれてあった。あのお駒ちゃんは、この久助の娘だったのだ。
 お駒ちゃんは磯五を想っているばかりでなく、磯五もお駒ちゃんに約束して、ふたりは夫婦になることになっているというのだ。磯五は、おせい様から金をとるために、じぶんを妹に仕立てておせい様をいいようにしているものの、もしおせい様と深くなるようなことがあったらおせい様の家にいて、磯五との関係をみている久助が、気をつけて、いちいちしらせてくれという文面だ。磯五がおせい様といっしょになるようなことがあれば、じぶんは死ぬよりほかはない。そうも書いてあった。
 かと思うとそのあとへ、磯五には内証だが、田舎いなかの金持ちの息子という新しい情夫おとこができて、よろしくやっているというような文句もつけ足してあるのだ。
 磯五は、意外な引っかかりにおどろいて、じぶんの身辺が音をたててくずれてゆくような気がした。深夜のように暗い顔になって、手紙をふところへ呑んだ。が久助は、手紙を落としたことに気がつくと、こっそりこの部屋へ探しに来るに相違ないのだ。そのとき、じぶんがすべて読んだことをさとらせてやろうと思って、磯五は、また手紙を取り出して、わざと広げたまま、その座敷へ置き放しにして廊下へ出た。
 それは、お駒ちゃんが、拝領町屋のほうへよこしたものらしいのだ。使い屋が持って来たのだろう――磯五は、そう考えて、それにしても、お駒と久助が父娘おやこであろうとは! 全く世の中は、広いようで狭いものだと、感心と戦慄せんりつをちゃんぽんにしたような心状で、いそがしく対応策をめぐらしながら縁側を歩いて行くと、むこうからおせい様が来るのに会ったのだ。
「お従妹さんはぐっすりやすんでいられますよ」おせい様は、にこにこして、先に立って、そばの座敷へはいって行ってすわった。磯五もつづいた。おせい様は年齢としには見えないあどけない顔を上げて、磯五を見ていた。「お医者におみせしたら、だいぶからだが弱っているから、要心をしないとあぶないとおっしゃいましたよ」
 おせい様は、急に心配そうにいったが、磯五は、ほかのことを考えてるのだ。
「おせい様、わたしは久助の庖丁ほうちょうが大好きなのです。ねえ、おせい様、あいつを磯屋の料理人いたばによこしてくれませんかねえ」
「まあ、藪から棒に。でも、よろしゅうございますとも、そうなれば、久助も大喜びでございましょうよ」
「まだ本人にきいてはみないのですが――」
「ほんとに、お店のほうへおつれなさいましよ。そして」おせい様は、赧くなって、ためらった。「わたしたちがいっしょになるようなことになったら、また二人で使いましょうよ」
 磯五は、白い花が咲くようににっこりして、おせい様の手を取って膝のうえにもてあそんだ。
「わかりませんでしょうね、お内儀さんの行方は」
 おせい様が、いっていた。
 磯五は、ほっと溜息ためいきをついた。
「生きているというので、いろいろ捜してはいるのですが、皆目知れぬのですよ」
「お内儀さんはなくなったといい、生きていらっしゃるといい、どっちも人のうわさなのでございますからそれを確かめませんと、わたしたちは、晴れていっしょにはなれませんよねえ。困りましたねえ」
「困りました。ほんとに、こんなに困ったことはございません」
 磯五のことばに、おせい様が黯然あんぜんとうつむくと、磯五は、そのほっそりしたうなじへそっとくちびるを持って行った。

      七

 すこしよくなるとすぐ、お高は、小石川へ帰って、一空さまといっしょに、深川かなめ橋のそばの木場の甚をたずねて行った。待っていた木場の甚は、お高にいろいろのことをたずねたのち、だいたいこれが柘植のおゆうさまのひとり娘に相違ないとはわかったが、大きな財産に関することなので、こんどは自分のほうで手をまわしてなおよく調べているからといって、一応お高を引きとらせた。
 もう半ば以上、木場の甚が預かっていた柘植家の財産がすっかりお高へくることになったようなものだが、こうして急にとほうもない女分限者になることになったものの、お高のこころは、すこしもはずまなかった。よろこびのあまり、夢を見ているような心もちになりそうなものだが、そうではなかった。ただ馬鹿ばかしい気がしているだけだった。自分は、今さらお金持ちになぞなるよりも、このままでいいと思っていた。
 が若松屋惣七のことを思うと、それだけの資財を擁して、彼とともに楽しみうる生活を考えて、お高も、こころがおどった。若松屋惣七には何もいわずに、十日ほど、金剛寺坂の家にぶらぶらしていた。
 まだからだはほんとうでなかったし、若松屋の仕事は、引き続いて暇だった。それに、お高は、おせい様とすっかり仲よしになって、江戸へ帰るときも、もし都合がついたら、すぐにも雑司ヶ谷の寮のほうへ帰って行く約束がしてあった。むこうのほうが、からだにいいことも事実であった。
 磯五が行っているのはいやではあったが、磯五が、じぶんの行くことを好んでいないのを知っているので、かえって、出かけて行って困らせてやろうという気もちも、お高には、強かった。
 若松屋惣七に話すと、若松屋惣七は快く出してくれた。もうみちを知っているので、お高は朝早く、金剛寺坂を出た。
 またちょっと鬼子母神さまへお詣りして、庄之助さん方へも声をかけた。あのときはまだよく咲きそろっていなかった金雀枝が今度来てみるといっぱいに黄色い粒つぶのついた枝をたらして、まるで絵の具を点てんと落としたように、ほかのみどりのうえに浮き出ていた。
 お高は、梅雨つゆさえ越せば、もう初夏が来ることを思って、金雀枝に近づいて、花のにおいをかいでみた。金雀枝の花には、何のにおいもしないのだ。お高は、それがおかしいようにくすくす笑って、それから、その、ひとり笑いに気がついて急にまじめな顔をつくって、雑賀屋の寮の門をくぐった。
 おせい様は、いそいそと迎えてくれた。思ったとおり、磯五はまだ逗留とうりゅうしているとのことだったが、そのときは、家にいないようすであった。おせいとお高は、すぐおせい様の居間へ行って、女同士の長ながしい挨拶あいさつを済ました。
「おことばに甘えてまた押しかけて参りましてございます」
 お高がいうと、おせい様は、しんからうれしそうににっこりした。
「ほんとに、そうしてお気が向いたときに、いつでもおいでになるのがようございますよ。磯五さんのお従妹さんですもの。ここは御自分のおうちとおぼし召して、何の遠慮もいらないのですよ」
「江戸のごみごみしたところから来ますと、ほんとにせいせいいたしますこと」
「ほんとでございますよ。江戸は、どんなに閑静なところでも、どうしてもごみごみした気もちがしますからねえ。こんどは長く泊まっていらっしゃいましよ」
 おせい様は、お高に庭を見せるために、立って行って、半分しまっていた障子を開けひろげて来た。座に帰りながら、いった。
「このあいだみていただいたお医者さまがおっしゃるには、あなたは、近ごろひどくおつむをぶったことがあって、どうかすると、すぐ気を失うのが癖になるかもしれないとのことでしたので、磯五さんも私も、大変御心配申し上げていたところでございますよ。何か、すこし前にひどくおつむをおぶちになったようなことがありましたのでございますか」
「はい。そう申しますと、先日小石川の金剛寺門前町に、和泉屋というよろず屋のことで騒ぎがありましたときに、子供衆を助けようとして、何でございますか、お役人さまの馬に蹴られましたような気もいたしますけれど――」
「ああ、それではきっとそれでございますよ。いけませんでございますねえ。すっかり御自分や今までのことを、お忘れになるようなことにならなければよいが、と、お医者は、たいそう気をもんでおいででございましたが――ねえ、お高さま、若松屋さんのほうはお暇をお取りになって、ずっとこちらで御養生なさいましよ。わたしは、あなたのためなら、どんなことでもして――」
 おせい様の純情に打たれて、お高は、死のような顔いろだ。くちびるをかんで、思わず、ほそくうめいていた。無意識のうちに、決然とした態度になっていた。彫り物のように硬直したお高だ。
「わたくしはもうあなた様をおたぶらかし申すことはできません。わたくしは、磯屋の家内でございます」


    白いこぶし


      一

 お高が、自分は磯五の女房であるとおせい様に打ち明けると、おせい様は、初めはほんとにしなかった。おせい様は、すわったまま、がっくりくずれて、真っ赤な顔になった。それから其っ蒼な顔になった。お高は、今までおせい様をあざむいていたことを詫びたが、おせい様は、そんなことはどうでもいいのだった。すっかり打ちのめされて、迷児まいごのようになったおせい様であった。
 お高は、大阪の若竹の一件をも話してやった。するとおせい様は、磯五の側にまわって、何やかやと磯五のために弁解しようとするのだ。お高がいっそう口をきわめて、磯五がうそつきであること、女たらしであること、金のほかに生きる目的のない人間であることなどをいい立てると、おせい様は、洗われたように白い顔だ。なみだを浮かべていうのだ。
「わたくしは、みんなにかげわらわれてきたのでございますよねえ」
「善人はみんな蔭で人に嗤われるものでございますよ。それでよいのでございますよ」
 そこへ縁に影がさして、人がはいって来た。それは磯五であった。磯五は、女中が金魚売りから金魚を買ったといって、それを見に来ないかとおせい様を呼びに来たのであった。おせい様は、びくっとおびえたように黙っていた。お高が、大きな声でいった。
「わたくしですよ。お高でございますよ。また参りました。いまおせい様に、お前さんがあたくしの良人になっているとお話ししたところですよ」
 おせい様は、じっと磯五を見上げた。磯五は、ちらっと二人の女の顔を見くらべて、にッと笑った。そしてふたりのあいだに割りこむようにすわった。お高が、同じことばを繰り返すと、磯五は、声をたてて笑った。笑いの途中で、おせい様の声がした。
「笑うことはございませんよ。何かおっしゃることはないのでございますか」
「何もありません。このお高のいるところでは、なにをいうのもいやなのです。おせい様一人にゆっくりお話ししてえのですよ」
 おせい様は、座をはずしてくれというようにお高を見たが、おせい様と磯五と相対ずくになれば、またおせい様が磯五の弁巧にだまされるにきまっているから、お高は、わざと知らぬ顔をして動かなかった。
 そのうちにおせい様に問い詰められて、磯五は、曖昧あいまいに事実を承認したような、しないような口ぶりをとったので今度は、おせい様のまえで、名ばかりの夫婦のあいだの口論になった。お高は、それをいやだと思ったが、磯五にいい負かされるのはなおいやであった。
 磯五のいうのは、夫婦であることはほんとうだけれど、夫婦であって、こうして夫婦でない生活をしているのは、すべてお高が悪いからで、だから、つまり夫婦ではないというようなことだった。この黒を白といいくるめようとするようないい草が、磯五の口から出てくると不思議に道筋立って聞こえて、どうかすると、お高が受け太刀だちになるようなぐあいであった。お高は、くやしくなって、半ば泣きながら部屋を出てしまった。
 あとで磯五は、舌に油をくれて一切の間違いをお高にかぶせようとしたが、おせい様は、もうすっかり眼がさめていた。磯屋につぎこんだ金はつぎこんだ金として、これできれいに別れようではないかといい出した。磯五はお高のほうが勝手なことをして逃げたのだといい張って、自分は、お高の生きていることを知らなかっただけだから、べつにおせい様をだましたわけではないと、美しい顔にあらん限りの魅力を見せてもう一度おせい様をごまかそうと努力した。
 おせい様は、うっかりそれに釣り込まれて信じようとしたが、すぐに思い返して、
「とにかく、このうちを出て行っていただきましょうよ。あなたのようなお人は見るのもいやでございますよ」
 磯五は、にこにこしていた。
「そうですか。それで、お高はどうするのですか」
「お高さんはわたしのお友だちですもの、当分ここに遊んでいてもらうつもりですよ」
 立ち上がりながら、磯五がいった。
「いや、何といっても、あれはわっしの家内ですからやはりいっしょになりましょう。それが一番いいのです。そうして今度は、仲よくやってゆきましょう。どう考えてもこれが穏当ですよ」
 それは、おせい様にとって、このうえない残酷なことばであった。磯五は、そこをねらって射ったようなものであった。磯五は、おせい様が泣き出しそうな顔になるのをちょっと見て、にっこりして座敷を出て行った。
 おせい様は、あんな男に、自分のすべてをやったのだと思って、ひとりで泣いた。しかしそれは、何だか色悪いろあくに引っかかったのがうれしくて泣いているような気がした。泣きながら、磯五とお高がまたいっしょになるだろうかとおもうと、嫉妬が芽ばんでくるのを押え得なかった。
 秋のつぎには、冬がくるのだ。そして、それでおしまいなのだ。おせい様の冬には、春が待っていないのだ。おせい様は、また肩をふるわせて泣いた。泣くために泣くような泣き方であった。自分でもそう思って、いっそう激しく泣いた。

      二

 あくる朝早く、磯五は江戸へ帰った。駕籠が動き出しても、おせい様もお高も顔を見せなかった。磯五はかえって気楽な気もちだった。気楽な気もちは、ほかにも二つあった。一つは、おせい様が、磯屋の商売へ融通した金子きんすを忘れてやるといったことであった。これがいちばんうれしかった。もう一つは、おせい様のほうがこうなってしまえば、もうにせの妹などはいらないのだから、お駒ちゃんをお払い箱にしていいことであった。
 磯五は、軽い心もちではあったが、しゃくにはさわっていた。おせい様をたぶらかしつづけて、もっと金を吐き出させることができたのに、途中から邪魔じゃまがはいって計画がこわれたのが残念であった。が、取るものは十分取ったのだし、考えてみれば、惜しくもないおせい様なのだ。磯屋の店は、もう基礎いしずえがしっかりすわっていて、大丈夫だ。
 磯五は、駕籠に揺られながら、若いもののようにはゆかないおせい様のからだを思い出して、きたないお勤めが済んだように、駕籠のそとの地面へぺっぺっとつばを吐いた。
 式部小路の店へ着いて、すぐお駒ちゃんを呼ぼうとしたが、お駒ちゃんは留守であった。先日からお針頭に住みこんでいるおしんが来て、しばと神田の祭礼で大口の注文があったと告げたので、磯五はますます上きげんになった。
「それでは、いつぞやの染めのこともあるし、私は一両日中に発足して、ちょっと京表のほうへ行って来ようと思うが――」
 いっているところへ、お駒ちゃんが帰って来たとみえて、店のほうできいきいいう声が聞こえた。果たしてお駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、流行はやりの派手な衣裳を着けて、のぼせて、真っ赤な顔をして、磯五のいる奥の小座敷へはいって来た。今までふざけ散らして来たとみえて、眼がうるんで光っていた。
 磯五は、苦い顔になって、すぐいった。
「おめえに眼をかけてくださる大家おおやの坊っちゃんてえのは誰だ」
「大家なんかと町人みたいにいわれちゃお刀が泣くよ」お駒ちゃんは、威勢よく答えかけたが、気がついて、びっくりした。「おや、いやだねえお前さん、どうしてそんなことを知っているの?」
「どうして知っていようと、大きにお世話だ。何でも知っているのだ。そうか、さむれえか」
「さむれえもさむれえ、梅舎錦之助うめのやきんのすけさまとおっしゃって、れっきとしたお旗本の御次男ですよ」
「芸人みてえな名だな」
「芸人みたいな名でも芸人ではないのですよ」
「部屋住みか」
「部屋住みだっていいのですよ」
「いくら部屋住みでも、料理人いたまえの娘っ子を相手に、色の恋のとぬかしていると知ったら、さぞ喜ぶだろうなあ。おめえは下女奉公か、おででこ芝居にでも出ていりゃあちょうどいいのだ」
 お駒ちゃんはたちまち紙のように白くなったが、久助とじぶんとのつながりがすっかり知れているらしいのであきらめて、ただもし磯五がその梅舎錦之助に、お駒が料理番の娘であることをばらすなら、じぶんはおせい様のところへ走って、磯五が、妹でも何でもない自分を妹に仕立てて、おせい様をだましていたことを打ちあけるとおどかすと、磯五が平気で、おせい様とのあいだはもうこわれてしまっているから、そんなことはどうでもいいというので、お駒ちゃんは、泣き出した。

      三

 お駒ちゃんはうれし泣きに、なみだを流しているのだ。梅舎錦之助のことなどはけろりと忘れて、磯五がおせい様と別れれば、あとは自由に、自分といつかの約束どおりにいっしょになれるだろうというのだ。いつ晴れて夫婦になってくれるかとお駒ちゃんは、磯五にきいた。磯五は、笑い出していた。
「お駒ちゃん、おめえはいってえ何をいっているのだ」
「まあ! この人は。あれほどはっきり何度も何度も約束したくせに。その約束で、こういうことになったんじゃないか。まさかお前さんは、今になってしらを切るつもりじゃあないだろうねえ」
 お駒ちゃんは、とっさに悲しみに沈んでいた。その悲しみは、女として真剣なものだったので、お駒ちゃんは、急に崇高に見えてきた。磯五は、お駒ちゃんの蒼い顔と、おろおろと開かれた両眼に見入って、そこに避けられない近い将来の紛擾ふんじょうを読み取っていた。そして、女とのあいだのこういう非常時に処する彼一流の機敏な考えから、平然といい出していた。
「おめえに隠しておくのはよくねえ。すっぱりいってしまおう。おいらはおめえと夫婦いっしょになるわけにはいかねえのだ」
 そして、女房があるのだと打ち明けると、お駒ちゃんはなかなか信じなかったが、だんだん事実ほんとうとわかって身をふるわせて泣き伏してしまった。お駒ちゃんはまじめに磯五のことを思っていたのだ。お駒ちゃんとしては珍しい感情だった。それがこんなことになってもう生きている甲斐かいもないといった。
 磯五は、それを慰めるように、梅舎錦之助を持ち出して、その人といっしょになったらいいじゃないかといったが、お駒ちゃんは承知しなかった。磯五は、さらに笑いたいのを押えて、お駒ちゃんの肩にやさしく手を置いた。
「おいらの妹になりすましていたから、その立派なお侍とも近づきになれたんじゃねえか」
「いやだよ。勝手なことをいうもんじゃあないよ。さんざん人を玩具おもちゃにしておいて、きっとこの仕返しをするから――」
 磯五はやっとお駒ちゃんをしずめて、お駒ちゃんが久助の娘であって、したがって磯五の妹でないことは、当分隠しておいたほうが、お駒ちゃんのためにいいだろう。そんなことが知れては梅舎錦之助の手前も面白くないだろうから、まあいつまでもおれの妹になっているがいいと安心させるようにいったが、お駒ちゃんは、そんなことはもうどうでもよかった。きっとこの仕返しをするからと何度もひとり言をつづけていた。
 が、そのうちにうまいように磯五に丸められて、無意識のうちに、お駒ちゃんの悲嘆と怒りがおいおい消えつつあるとき、小僧に案内されてお高がはいって来た。
 磯五は、そのほうがかえっていいと思って、実はこの従妹といっていたのが家内なのだとお駒ちゃんにいった。お駒ちゃんはあきれ返って、かんかんに怒って、お高と磯五にくってかかろうとしたが、磯五になだめられて、しおしお自分の部屋へ帰って行った。
 お高は、磯五が雑司ヶ谷の雑賀屋の寮を出るとすぐ、あとを追うように江戸に帰って来たものに相違なかった。小さな風呂敷ふろしき包みを持って、きちんと磯五の前にすわった。磯五は、そのお高をこのうえなく美しいと思った。蒼い顔に、深い眼をしていた。小さな口が、ぬれて、こころもちふるえていた。磯五は、その口の感触を思い出して、狂暴な気もちのうちにはかないものを感じながら、ゆがんだ笑いでいった。
「よく来たな。ずいぶんこっぴどくやっつけやがったぜ」

      四

「お前さまはあのくらいいわなければ性根へ通じませんのですよ」
「御挨拶だな」
「きょう用があって来たのですよ」
「ずっと雑司ヶ谷にいるはずじゃあなかったのか」
「いるはずだって、用があれは出て参りますでございますよ。このことでお眼にかかりに来たのです」
 お高は、手の、小さな風呂敷包みをあけた。それはおせい様が若松屋惣七から資本を取って磯五へまわしたときに、磯五が、おせい様がいらないというのに、堅いところをみせようために、むり押しつけに入れておいた借用申候もうしそうろう一札之事いっさつのことという証文であった。
 そのほか、磯五は、おせい様から大小何口となく金子きんすの融通を受けているのだが、そのたびに、おせい様はそんな水くさいことは不用だというのに、自分から進んで、何の仲でもこれだけは別である、きまるところだけはきちんときまらなければ、乱れて面白くないなんぞといって、借用証文を納めてきたのだった。
 それをそっくりまとめてお高が持って来ているのだから、磯五は、これは何のことであろうと顔色が変わった。
「お前さまの証文をみんな持って来ましたよ。おせい様がわたくしにすっかりおまかせなすったのですよ」
「それでわざわざ持って来てくれたのか。すまなかったな。なに、それには及ばねえのだよ。そんなもの、おせい様の気を悪くしてまで、おれから頼んで入れておいた証文なのだから、反古ほご同然なのだ。口をきく証文ではねえのだから――」
「おや、そうですかねえ。でも、見たところ立派な証文でございますよねえ」
「よこせ。破いてしまうのだ」
「いけませんよ」お高は、ちょっと磯五から離れて、証文の束を両手で握りしめた。「おせい様が相手ではありませんよ。わたしが相手なのですよ」
「それはお高、いってえ何のことだ」
「おせい様に代わって、わたしが、あなたにこの証文の片をつけてもらうのですよ。どこへ出しても、誰に見せても、このとおりちゃんとした証文でございますからねえ。はっきりした話ではございませんか。これだけおせい様からお前さまへまわしてあるお金を、わたしに返していただきたいのですよ」
「だが、しかし、それは、おせい様は、きれいに忘れるといったのだぜ」
「おせい様は忘れても、わたしは忘れませんよ。わたしが忘れても、証文は忘れませんよ」
「どうしろというのだ」
「おせい様から出ているお金を、ここへならべて返してくださいよ」
「そんなことができるか。あの金をみんな返せば、磯屋の店は半つぶれだ」
「返せないというのでありますわねえ」
「当たりめえよ」
「そんならお金を返さなくていいから、その代わり離縁状を書いてくださいよ。離縁状と引き換えに、この証文をそちらへ上げましょうよ」
「ふむ。おめえのねらって来たのは、はじめから金じゃあなくて、その三行半みくだりはんなのだな。そうわかれあ書かねえ。書くもんか。おいらとおめえは、どこまで行っても夫婦なのだ。もう、おせい様にもお駒にも、何の隠し立てもいらねえのだぜ」
 磯五が、眼にとろりとした力をこめて、お高の顔をのぞきこむと、お高は、くらくらとしてそれにひき寄せられそうに見えたが、はっと気がついたように背後うしろへさがった。磯五は、長い、睫毛まつげを伏せて、小高いお高の膝がじわじわと動くのをみつめていた。
「さあ、書いてくださいよ」
 磯五は、黙っていた。黙ったまま、そっと眼を動かして、お高の手もとの証文の束をうかがった。やにわに、む! と小さくうめいて、獣のようにとびかかった。

      五

 お高は、子供が引っくり返るように、思い切りよく引っくり返っていた。磯五は、からだいっぱいにお高を押し倒して、証文をつかんだ。が、磯五の目的は、証文ばかりでないようで、証文を握っても、お高のうえをどこうとしなかったから、お高は真剣に狼狽した。
「いけません! 声を立てますよ」
 お高が大きな息を吸うと、磯五のにおいが鼻の奥までしみこんできて、お高は、ちょっとうっとりしそうになった。自分をしかって、どさどさもがいていると、磯五はあきらめて、たち上がった。着物を直しながら、すっぱそうな笑いを落とした。
「冗談だ――」
「冗談でも、いけませんよ」
 お高も、そこここ乱れたところをつくろっていた。磯五をそんなに近く感じたことがきまりが悪くて、顔が上げられない気もちだった。その膝の上へ、磯五の手から証文の束が投げ返された。
「冗談だ。こんなものはいらねえや」
「いらなければなお縁切り状を書いてくださいよ」
「よし。書いてやろう。が、高音、いま一度、考え直してみねえか」
「考え直すことはありませんよ。お前さまはわたしにとって、死んだ人ですからねえ」
「ここでおれと別れてどうしようというのだ。あの盲野郎のところへでも納まる気かい」
「そんなことは大きにお世話さまですよ。わたしはきれいにお前さまの女房でなくなって、自分の思うとおり、自ままにやってみたいのですよ」
「それもよかろう」
「そんなら、書いてくれますねえ」
「書きせえすれあいいのだろう」
「そうですよ。書きさえすれば、この証文をすっかりあなたに破かせてあげますよ」
「なに、破こうと思えば、いまふんだくったときに破くことができたのだ。もう一度ふんだくって、破いてもいいのだ。破いてしまえあ、それまでじゃあねえか」
「それはそうですよ。ではなぜ取り上げて破かないのですか」
「そこが磯五様のお情けというものだ」
「また何か悪だくみがあるのでございましょう。構いませんから早く離縁状を書いて、証文を取っかえっこしましょうよ」
 磯五はさらさらと一札したためて、名前のところへ印形を押した。そして、お高に渡すにつけて証人がいるといって、お駒ちゃんを呼びこんだ。
 お駒ちゃんは、まだ泣いていたとみえて、眼を真っ赤にして、白粉おしろいのはげた顔のまま出て来てすわった。お駒ちゃんは、磯五とお高が正式に夫婦別れをする、その証人だと聞かされても、きょとんとして二人をながめているだけだった。手を重ねて、不思議そうにふたりのすることを見物していた。
 離縁状と交換に磯五の手に証文の束が渡されると、磯五は、にやにやしながら、それを片ッ端から丹念たんねんに破きはじめた。
 お高は、突ったっていた。ふらふらと磯五のほうへ泳いで行った。磯五が、何だ? という顔を上げたとき、その頬へ、お高の第一の拳が飛んで行った。
「何をするのだ」
「何をするも、かにをするもありませんよ。いつか若松屋惣七さまがわたしの証文を破いたとき、お前さまは若松屋惣七さまをあんなにおぶちになったではありませんか」
「うむ、そうか。それでいまおれをなぐるのか」
 お高の白い握りこぶしが、弱々しいゆみを描いて磯五の面上に降りつづけた。お高は、泣いていた。すすり泣きながら、一つ二つと数えるように磯五をぶっていた。磯五は、じっとすわって殴られていた。しずかに証文を破いていた。
「ちっとも痛くないぜ」と、いった。
 やぶいた証文をほうり上げたので、小さな紙片が、吹雪ぢりに散った。
 何か恐ろしくなったお高が、いそいで部屋を出ようとすると、黙って見ていたお駒ちゃんがすがりついて来た。お駒ちゃんは、磯五の復讐ふくしゅうのためにお高に食ってかかろうとしたのであった。が、すぐ泣きくずれて、お高に、磯五のことをかきくどき出した。お高は茫然ぼうぜんとして、お駒ちゃんのうなじがふるえるのを見おろしていた。
 ふたりの女をそのままにして、磯五は、血相変えて式部小路の店を出ていった。出かけに磯五は、居間の欄間にかかっている額の背後うしろから短刀を取って、油がきいているのでさやがすべりあかないように、手ぬぐいに包んで懐中した。
 すっかり緑いろの顔色になった磯五が、小石川の金剛寺坂へ急いで、若松屋の屋敷のある坂の中途にさしかかったところに、そこに、草のはえている広っぱがあって、付近の人が加宮跡かみやあとと呼んでいた。雑草をつえで分けて歩いて来る人影は、若松屋惣七であった。磯五は、つかつかと前へ進んで立った。


    日向ひなたの庭


      一

 加宮跡の雑草を踏んで、磯五は、若松屋惣七の眼前へ押しかかって行った。右手をふところへ入れているのは、中で、匕首あいくちを包んである手ぬぐいをほどいているのだ。若松屋惣七が、よく見えない眼をまばたいて、それが磯屋五兵衛であることに気がつくまでには、ちょっと間があった。
「何しに来たのだ」若松屋惣七は、歯のあいだからうめいた。
「お高は、おらんぞ」
「お高に用があって来たんじゃあねえ。おめえに用があって来たのだ」
 磯五は、そういって、懐中で短刀の柄を握りしめた。九寸五分の柄は、さめの皮に金の留釘とめくぎを打った、由緒ゆいしょある古物であった。鮫皮の膚ざわりが、冷たくこころよかった。それは、お高の持ちものであったのを、いつからともなく磯五がもっているのだった。麻布十番の馬場やしきのうちへ、お高を置きざりにして京阪かみがたへ行くときに持って出たものらしいが、磯五にしても、はっきりしないのだった。
「ふうむ、わしに用というのは」のんびりした声で、若松屋惣七がいっていた。「どういう用かな」
「おめえは、おいらの女房を横どりする気なのだろう。お高をそそのかして、おせい様の証文を持って来させて、それと引き換えに縁切り状を取らせたのは、みんな若松屋の細工だろう。お高は、いつかおれがおめえにしたように、おれにその証文を破かせて、かわりに、おいらのこの面へ手を当てたのだ」
「それは、それは、近ごろ大できでござった」
 若松屋惣七が、しんから愉快そうに笑い出すと、磯五は、野犬がほえるようにわめいて、いきなり、若松屋惣七へりつけていった。が、若松屋惣七は、今でこそ金勘定の町人だが、武家出で、しかも若いころは剣道の達人であった。星影一刀流に落葉おちば返しの構えという一手を加えた名誉でさえあった。
 磯五は、それを知らないから切りかかっていったのだが、若松屋惣七は、驚かないのだ。半ば盲目めくらだけれど、剣気だけは不思議とはっきり感じ、白刃のしごきは、心眼が見えるのである。一度眼で見たものを脳へ伝えるのではなく若松屋惣七のは、直接あたまで知るのだから、若松屋惣七のほうが、普通人より秒刻早いのだ。
 磯五が、女のように白い腕をふって斬りこんで行ったとき、若松屋惣七は履物はきものを脱ぎすててうしろに飛びさがっていた。同時に、手にしていた自物木しぶつぼくの杖を青眼にとって、にやにや笑っていた。そして、
「あぶない、あぶない」
 といった。
 それは、磯五のことをあぶないといったのか、自分のことをあぶないといったのか、磯五にはわからなかったが、仕損じたことだけは確かなので、磯五はいらだった。
 すぐ追い迫ろうとしたけれど、鼻の前へ来て生き物のようにびくびく微動している杖の先が、ひどく邪魔になった。その一本の曲がり木が、磯五には、はばの広い板のように見えて、若松屋惣七のすがたが隠れてしまうような気がした。その向こうに、蒼い若松屋惣七の顔がほほえんでいた。髪に引きつられたこめかみに太い筋がはっているのが、不思議に、磯五にはっきり見えた。
 人が来てはだめだと気がついて、磯五は、片手で杖をつかんで、今度はしゃにむに突いて行った。しかし棒をつかもうとすると、その棒が激墜してきて、磯五のききうでを強打した。磯五は、その腕を抱きこむようにして、地べたにころがっていた。
 短刀が、若松屋惣七のあしもとへ飛んで行って、若松屋惣七に拾われた。磯五は、の苦痛を訴えて、うなっていた。しきりに、はっはっと息をして、草の中に顔をしずめた。
 若松屋惣七が近づいてゆくと、もう一度空手からてでおどりかかって来たが、からだが惣七に触れたかと思うと、磯五は、思いきりよく投げ出されて、土のうえに仰向けになった。それから、あたまをかかえて、寝返りをうつようにごろりと横になったきり、彼はひじのすきまからぼんやり若松屋惣七を見上げて黙っていた。妙に感心しているぐあいであった。
「何をそこで手荒なことをしているのだ――」
 と、惣七に呼びかける声がして、武士とも町人とも思われない、十徳を着た若い男が、若松屋の屋敷のほうから金剛寺坂をおりて来て、加宮跡へはいって来ていた。きのう若松屋へ来て、滞在している、惣七の友だちの紙魚亭主人であった。
 若松屋惣七は、磯五の短刀を抜き身のままふところへしまいこんで、まばゆそうな眼を、近づいて来ている紙魚亭主人へ向けていた。

      二

 四十七歳の越前守えちぜんのかみ大岡忠相おおおかただすけは、あらたに目安箱を置き、新田しんでん取り立ての高札を立てなどして、江戸南町奉行としてめざましい活躍をしたときだった。
 深川の世話役木場の甚の願訴によって、各町の自身番、会所、銭湯、髪結い床のような人眼の多い場所に貼り紙を許した。それは、柘植宗庵の娘おゆうの夫相良寛十郎の行方、またはその後の動静を知っているものがあったら、どんなことでもいいから木場の甚までしらせてくれば、厚く礼をするという文句であった。
 磯五がこの貼り紙を見たのは、若松屋惣七に突っ放されて、逃げるように加宮跡から式部小路へ帰ろうとする途中、連雀町れんじゃくちょう寄合所よりあいじょでなにげなく立ちどまって読んだのであった。そこでは、通行人の眼にとまりやすい、往来に近いところにってあった。磯五は、柘植宗庵というのがお高の祖父で、おゆうが母であることも、父の名が相良寛十郎であったことも、いつかお高に聞いて知っていた。
 磯五は、この貼り紙はいったい何であろう、きっと金のことにきまっている。いつかも雑司ヶ谷にいるお高のところへ一空という坊さまから手紙がきて、お高に、さっそくこの木場の甚に会うようにといって来たことがあるが、これは必ず同じ用向きに相違あるまいと思った。
 磯五は、その足ですぐ深川要橋かなめばしぎわの吉永町に木場の甚をたずねた。そして、じぶんはお高の良人であると名乗って、それとなくすべてのことを聞き出したのだ。
 柘植宗庵から娘のおゆうに譲られた莫大な財産が、いまお高のものになろうとしていること、おゆうの死後、良人の相良寛十郎とまた嬰児あかごだったお高の行動がはっきりしていないこと、ならびに深川の古石場で死んだ、お高の実父とばかり思いこんでいた相良寛十郎は、全く別人で、おゆうの夫、お高の父の相良寛十郎ではなかったことなどである。
 木場の甚はお高が柘植家の当主であり、したがって、じぶんが預かってきている財産の受け取り人であることに、何らの疑いをはさんでいるのではなかったが、何しろ大きな額なので、奉行所のしらべに対しても、念には念を入れなければならないのだった。お高の出生や、ほんとの相良寛十郎のこと、偽の相良寛十郎のこと、それらをよく知っている者を探し出す必要があるのだった。
「わたしも、そう考えていたところです」
 磯五がいうと、木場の甚は、あのお高が人妻であると前に聞いたことがあったかどうかと、忙しく考えながら、相槌あいづちを打った。
「そうですよ。お高さんが本人であることにちげえはねえのです。わっしも、金剛寺の一空さまも、それはよくわかっているのですが、生きた証人がねえことには何も口をきくものがねえのです」
 木場の甚は、磯五を慰めるような口調だ。磯五も、お高になり代わって、その証人の捜索を頼むようなことをいって、その日はそれで帰った。
 磯五は、堀割りにそって、夕ぐれ近い熟した日光がぽかぽか当たっている深川の町をゆっくり歩きながら、からだ中の血が駈けまわるような気がした。あのお高が、とほうもない財産のあと取りになろうとしている、それは、この陽の光のように確かな事実なのだ。お高、じぶんの妻のお高は江戸で一、二の女分限者だったのだ。
 すると磯五は、お高がもう自分の妻でなくなっていることに気がついて今度は、全身に血が凍るように感じた。あの縁切り状を書くのがもう一日おそければよかったのだ。何とかしなければならない。磯五は、なにかに追い立てられるように、せかせか歩き出していた。

      三

 お高は、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮へ帰って来ていた。そのお高を見舞いに、若松屋惣七と、紙魚亭主人と歌子とが江戸から遊びに来ているのだ。
 いつか、この一行に、大久保の奥様という人を加えて、片瀬の龍口寺へお詣りして、ついでに江の島を見物するはずだったけれど、待っていても、大久保の奥様の病気がよくならないし、そこへ紙魚亭主人が出府してきたので、急に三人で、雑司ヶ谷のおせい様のうちにいるお高を訪れることになったのだ。
 陽ざかりの庭に、松の影が人かげのように見えていた。芝が、南蛮の敷き物のように青く、そこここに置いてある石は、かわいて白かった。座敷の縁に、庭から来て腰かけて、歌子は、そばに立っている紙魚亭主人と話していた。歌子は、いつもの簡粗な着物を着て、陽やけのした顔を仰向かせて笑っていた。紙魚亭は、松葉をくわえてしきりにかみながら、歌子を見おろしていた。
 歌子がいっていた。歌子は若松屋惣七のことをあに様と呼んでいた。
「あに様は、あのお高さんという人を想っているのでございます。でも、むりもございませんよねえ。お高さんはあんなにきれいな、気だてのいい人で、かわいそうな目にあいなすったのですものねえ。今でも、いっしょになっているようなものでしょうけれど、ほんとにうちへ入れてあげたいと思いますよ」
 歌子は、もっと何かいいそうにして、口をつぐんだ。樹立ちの蔭から、若松屋惣七とお高が現われて、庭のむこうを歩いているのが見えて、こっちが黙りこんで静かにしていると、風のぐあいで二人の話し声が聞こえてきた。
「高、歩いておると疲れはせぬかな」
「いいえ、ちっとも、疲れませんでございますよ」
 歌子と紙魚亭主人は、ちらと顔を見合わせて笑った。そして、ふたりは、両方からすこしずつ近づきあって、また、聞くともなしに、向こうから風に乗って流れてくる若松屋惣七とお高の話に耳をやった。
「陽にやけぬよう、木の下をあるいてはどうじゃ」
「はい。でも、日向ひなたのほうがあたたこうございますから」
「からだのぐあいはどうだな」
「はい。大変よろしゅうございます」
「高、お前はもう若松屋の仕事へは帰らぬ。帰りとうない。というようなことを申しておるそうだが、ほんとうか」
「――」
「黙っておってはわからぬ、ほんとうに若松屋へ帰らぬつもりか」
「はい。わがままのようでございますが、そのほうが旦那様のためにもわたくしのためにもよろしいように思われますでございます」
「どうしてだ」
 とききながら、若松屋惣七は、加宮跡で磯五に斬りつけられたことや、そのとき磯五がいった、お高がおせい様の証文を持って来て、交換に、離縁状を取って行ったということやなどを確かめてみようかとも思ったが、それは、お高の気もちがもっとわかるまでいわないことにした。
 しかし、証文を破いている磯五を、お高が、磯五がじぶんにしたように打って、そこは、お高が自分の仕返しをしてくれた形になっているのが、若松屋惣七は、愉快だった。で、お高を見ている彼の顔に、微笑がひろがった。
 が、お高は磯五から縁切り状を取って、晴れてじぶんのところへ来られるからだになっているのに、そして、そうでなくても、どうしても自分のところへ来なければならない事情が、お高のからだにできているのに、なぜ今になってこんなことをいい出すのだろうと、すぐ暗い表情になった。
 若松屋惣七は、佐吉だったか滝蔵だったか、金剛寺の一空さまからふと聞いてきた、お高に家を継ぐ金がはいろうとしているという、夢のような話を思い出して、それが、若松屋惣七をにっこりさせた。
「お前は近くたいそうな金持ちになるという評判だが、それで、もう若松屋へ帰らぬ決心をしたというわけかな」
「いいえ、そんなことはございません。お金持ちなどと、考えてもいやでございます。それも、いろんなむずかしいことがございまして、証人がいるとか何だとか、くさくさすることばかりでございます。お金も、くるかこないか、当てにならないのでございますよ」
「では、どうするつもりなのだ」
「どうするつもりって、何も考えておりませんでございます」
「その金が手にはいれば、一生食うに困らんというわけだな」
「はい」
「なぜもっと詳しく話してくれんのだ」
 お高は、まだ決まりもしない財産のことを話すのがいやであった。気恥ずかしかった。話すのはいいが、財産がこなかった場合のことを考えると、うれしがっていてはずれたように思われるのが、たまらなかった。また、まだ手にしないうちから話しても、誰も信じてくれる人がないようにも思えた。彼女じしんまだぴったりと現実のものに考えられないことを、どうして人に、夢でないように伝えることができるであろうかとあやぶまれた。
 で、いっさい黙っていることにしたのだが、若松屋惣七にだけは、だいたい話しておきたいような気もしたけれど、しかし、同じ理由からやはり黙っていることにした。
「いったい、いつはっきりわかるのか」
 若松屋惣七が、馬鹿々々しそうにきいた。お高も、馬鹿々々しいような気がして、笑い出してしまった。
「まだ当分かかるようでございますよ」
「そうだろう。十年や二十年はかかるだろう」
 若松屋惣七は、苦々しそうにいって、ぷいと横を向いた。若松屋惣七が不きげんになると、お高はやはり悲しい感じがした。


    黄金こがねへの道


      一

「ふうむ、その財産とやらを、わしに保管させてはくれぬかな」
 若松屋惣七が、ちらと眼をいたずらめかしてそういうと、お高は、袂を顔へ持って行って笑うのだ。
「そんなことをおっしゃっても、わたくしのもののようで、まだわたくしのものではございませんもの。母の代からの世話人で深川の木場の甚という人が預かっていてくれるのでございます」
 それから二人は、まだ長いあいだ、磯五のことなど話し合って、肩をならべて寮の母屋おもやのほうへ引っ返して来た。若松屋惣七は、ふたりの将来について、何かいいたそうにして何もいわないのだ。お高のからだのぐあいをききかけて、それも若松屋惣七は黙りこんだ。二人とも、もう磯五とは関係がないと思っているので、そのことでは気が軽かった。
 若松屋惣七がいった。
「どうも高はおれをおそれておるようだが、何もおそれることはないぞ。おれにしろ、お前にしろ、他人の迷惑にならぬ限り、おのが思うとおり暮らしてゆけばよいのだ」
 お高は、自分でもわけのわからない涙が出てきていた。お高は、縁のあけ放してある座敷のほうへ近づいていたので、いそいでなみだをふいた。そのお高の眼に、袖垣そでがきを越して映ったものは、門からはいってくる磯五の姿であった。
 おせい様とああいうことになり、自分ともこうなっている磯五が、どうしてのめのめとこの雑司ヶ谷へ来ているのだろう? お高は、それが不思議なようで不思議でない気がした。それよりも、すぐおせい様のことが気づかわれた。磯五に対する若松屋惣七の憎悪も、この場合、心配であった。
「五兵衛さんが来ているようですけれど、どうぞ手荒なことはなさらないでくださいまし。おせい様を苦しめるようなものでございますから」
 お高がささやくと、若松屋惣七の小鼻に皺が寄った。
「心配いたすな。どうしようともせぬ。が、おせい様は気の毒じゃな。悪いやつとはわかっても、まださっぱりあきらめきれずにおるのだろう」
「いいえ、あきらめていらっしゃることはあきらめていらっしゃるのですけれど、でも、眼に見ると、毒でございますよ。気が迷って、苦しくなりますでございますよねえ」
「うむ。そうじゃ。磯五め、何しにここへ来たのかな」
「ほんとに、何しに来たのでございましょう」
 広い屋敷だ。若松屋惣七に別れて、お高がひとりでおせい様の部屋へはいって行くと、おせい様は、見たくもない磯五が、突然訪れて来たのに動揺を感じて、紙のように白い顔だ。といって、ああして慣れなれしく来ているものをたたき出してやるわけにもいかないので、おせい様は、みじめに困惑しているのだ。くちびるをおののかせてお高を見上げたきり、意味の不明な微笑で頬をゆがめた。
 お高も、恥知らずといおうか、ずうずうしいといおうか、磯五という人間に、口もきけないほどいよいよあきれ返っていて、すぐには磯五のことを話題にできなかった。
「知らん顔していらっしゃいましよ。ああいう人には、それが一番いいのですよ」
 お高がそういうと、おせい様は、泣き出しそうに口をそらして、それでもにっこりした。
 お高は、心からおせい様をあわれに感じた。

      二

 おせい様の部屋を出て、庭に沿ってすこし行った渡り廊のかどに、磯五がにやにやして立っていた。知らんふりして通り過ぎるのも子供らしかったので、お高は、挨拶だけした。
「珍しい人が珍しいところに立っていますねえ。よく当家ここへ押しかけて来る顔がありましたこと」
あしがあらあ。行きたけれあどこへでも行くのだ。亭主が女房に会いに来るに、べつだん不思議はあるめえじゃねえか」
「おや、誰が誰の亭主で、誰が誰の女房なのか、お前さまのいうことを教えてくださいよ」
「まぬけたことはいいっこなしにしようぜ。おいらがおめえの亭主で、おめえはおいらの女房なのだ」
「あれ、忘れてはいやでございますよ。縁切り状は何のために書いたのです」
 すると磯五が、縁切り状? そんなものは夢にも知らないというので、お高は、あれ以来身につけて持ち歩いているあの離縁状を取り出して、磯五に突きつけてやるつもりで開こうとした。その瞬間に、磯五の手が伸びてきた。それは手品のように速い動作だった。磯五は、両腕を使った。片方のをお高の顔いっぱいに当ててうしろへ押しながら、他の手で引きむしるようにその紙を奪いとった。
 お高は大声をあげようとしたが、口をふさがれているので、意味のわからないうめきになってしまった。磯五はすぐ、縁切り状を握った手を懐中ふところへ入れて、何事もなかったようにゆきかけようとした。お高はぼんやりして、どうしていいかわからなかった。離縁状などというものを奪ったり奪われたりしているのが夫婦喧嘩のようで人を呼び立てるのはいやであった。
 ただ磯五の卑怯ひきょうな仕草はいうまでもないが、何ゆえこんな泥棒のようなことをして引ったくらなければならないのだろうか。
 一度は縁切り証文を書いたものの、あとになってみると、自分と別れるのがそんなにつらいのだろうか。あんなに、わりにあっさり書いてくれたものを、今になってどうしたというのだろう。そんなに自分を思っているというのかしら。
 お高が馬鹿々々しい感じが先に立って争う気もちにもなれないでいると、磯五はお高のほうへ、礼でもいうようにちょっと笑顔をみせて、ゆったりした歩調で廊下を歩き去った。
 お高は、若松屋惣七に、このいきさつを話さなかった。引ったくったほうも、ひったくられたほうも、どっちもどっちのような気がして話す心もちになれなかったのだ。
 若松屋惣七と歌子と、岩槻から来た麦田一八郎の紙魚亭主人と、おせい様は、お客さまが好きであった。ことに、こうしてすこしでも江戸を離れていると、江戸の人をなつかしがっていつまでも引きとめておこうとした。が、そこへ、水の上へ油が一滴落ちたように、決してまじらない存在として、自分勝手に磯五が割り込んできて、がんばっているのには、悩まされた。
 が、もともと相識しりあいはしりあいなのだし、知りあいどころか、ついこのあいだまで大事な情夫おとこであったのだから、そうむげに追い立てるということも、おせい様にはできなかった。煮え湯のような気持ちでいながら、人前では、さりげない応対だけはしていた。磯五は、それをいいことにして、のんべんだらりと滞在していた。みな磯五に白い眼を向けて、何かしら激しい空気が、日増しに凝結していくようにみえた。
 若松屋惣七と紙魚亭主人の一八郎とは、磯五の姿を見かけるたびに、よく眼をかわしてうなずき合っていた。若松屋惣七は、ぼんやりした網膜に磯五を追いながら、苦にがしげに口を曲げた。
「きやつはいずれころされることになるであろう。磯五自身のためにも、みなのためにも、彼男あれは一日も早く殺したがよい」
 そんなことをいって笑った。聞こえないから、磯五は、平気の平左だったが、聞こえても、おそらく平気だったろう。

      三

 そのうちすこしずつお高にわかってきたことは、磯五が、あのいまお高にこようとしている莫大な財産をかぎつけて、それでこう急に、しつこくそばを離れまいとしだしたのではないかという懸念であった。
 どうして知るようになったのか、それが腑に落ちなかったが、もしあの財産のにおいをかいだものとすれば、お高を放すのが惜しくなって、ああして一度書いた縁切り状を奪い返したことも読めるのだ。内実はどうでも、表向き夫婦ということになっていれば、お高のものは磯五の自由になるに相違ないのだ。磯五のことだから、すくなくともそれまで、どんなことがあってもお高の身辺から身をひくまいとするにきまっているのだ。
 お高は、何ゆえ早くここへ気がつかなかったろうと迂濶うかつに思えて、同時に、あさましい気もちがこみ上げてきた。そんな金なぞいらないと思った。考えてみると、はじめからほしくも何ともなかった財産なのだから、それにいま、磯五という銀蠅ぎんばえ黄金虫こがねむしのような男がくっついてきて、それと争わなければならないようなことになるなら何もほしくない。いっそ母の金など一文も手にはいらないほうが、さばさばしていてどんなに気持ちがいいか知れないと思った。
 が、一方そういったものでもなく、母の金は当然受け継いでおいて、磯五のほうこそいかなる方法でか振り切るべきではないかとも、考えられた。そしてそれには財産がきたらその中から、相当のものをやって追っ払うのが一番いい。そういうことにしましょうとお高は決心した。
 若松屋惣七とも、たびたび談合した。
「どういうことになるのか、わしにもわからぬ」
 若松屋惣七は、珍しく悲痛な調子だ。若松屋惣七が悲痛な調子になると、よく見えない眼が白っぽくきらめいて、顔の傷がくっきり浮き立ってくるのだ。それがいつもお高の哀感をそそって、若松屋惣七の顔を見られなくするのだ。
 お高は、この方はやっぱり自分を思っていてくださる。そして自分も、旦那様を愛しているのだ。愛しているとはっきり気がつかないほど、心の底の深いところから愛しているのだ。そんな気がして若松屋惣七の膝へ顔を投げて泣き入りたかったが、そうはしなかった。磯五との関係が白か黒かに決着がつくまでは、じぶんの感情も流れにまかせてはならないし、若松屋惣七のこころもちをも、これ以上突き詰めたものにしてはならないと、とっさに気がついたからだった。
 お高は、おなかの子供のことさえなければ、何もかもそのままにして、自分一人でどこか遠い旅へでもたってしまいたかった。それは若松屋惣七の前にいると、じぶんも苦しいし、若松屋惣七をも苦しめるのが、それがまた苦しいので、いっそそんなことも考えられるのだったが、それは、お高が若松屋惣七を恋しているからで、ではといって、思い切ってそうし得ないのも、つまりは、同じ理由からだった。
「お金をやって手を切ってもらえれば、一番いいのでございますけれど、そのお金がくるのやらこないのやら」
「縁切りになっておると申したではないか」
 お高ははっとして、その若松屋惣七のことばを無視しようと努めた。そして、
「いっそ死にでもしてくれますと――」
 といいかけて、いっそうはっとして口をつぐんだ。あわてて、上眼づかいに若松屋惣七を見た。
 若松屋惣七は、平然としていた。聞こえないようすなのだ。しかし聞こえないはずはない。若松屋惣七も、そのお高のことばを無視して、ぎょっとしたのを隠そうとしているらしかった。表情のない人なので、顔には何も出ていなかった。
 しばらくしていった。
「わしとお前とのことは、どこまで行っても、同じであろう。近いようで遠い。な、それだけのことじゃ。これは、星が悪いのであろうとわしは思う」
 若松屋惣七は、ここで珍しいことをした。大声を立てて笑ったのだ。その笑い声に消されて、お高の泣き声は、若松屋惣七には聞こえなかった。

      四

 若松屋惣七が、麦田一八郎にも頼んで、二人で磯五を看視して、お高に近づけないようにすること、そのうちには、お高の出生や生い立ちを知っている生きた証人も現われるだろうし、父として死んだ他人の相良寛十郎と、ほんものの相良寛十郎との仔細しさいも分明して、財産の一件もどのみち落ち着くことであろう。そういう話になって、当分はじっとしているよりほかないのだった。
 十日ほどして、磯五からのがれるために、おせい様は西京さいきょうのほうへ旅をすることになった。気候はよし、東海道の宿々をつぎつぎに下って行くのも、一興でないことはなかった。
 お高と歌子が、そのぶらぶら旅にいっしょに行くことになった。若松屋惣七と麦田一八郎は、ひとまず金剛寺坂の家へ帰って、若松屋の仕事に一区切りつけて後始末をみてから、一足遅れて江戸をたつことになった。途中で追いつこうというのだった。女だけの三人旅でも、歌子という、武技にひいでた男まさりがついているから、安心であった。
 若松屋惣七は、久しぶりに紙魚亭と歩いてもみたかったが、何よりも、掛川の具足屋に行っている龍造寺主計に会って、その後のようすを聞きもし、具足屋のふとりぐあいを見たかったので、これを機会に、五十三次をする気になったのだった。
 ところが、あす発足という前の晩に、深川の木場の甚からお高のところへ飛脚が来て、探していた証人がみつかって、いよいよ柘植の財産の引き継ぎが決められなければならないから、大急ぎで来るようにという書面が届けられた。
 ここまで話が進んでくると、木場の甚ばかりでなく、和泉屋の総本家のものとも会って、いろいろこみ入った相談にはいらなければならないのであった。それには、時を移さず、ふか川要橋の木場の甚の家へ駈けつけることが必要だ。
 若松屋惣七は、さすがにお高のためによろこんで、すぐ江戸へ向かうようにせき立てた。おせい様といっしょに上方へ行けないのは残念でもあり、おせい様のことが気がかりでもあったが、しかし、歌子が同道するのだから、その点は心配しないでもよかった。
 お高は雑賀屋の久助に送られて、夜道をかけて小石川へ帰った。その足で金剛寺の洗耳房に一空さまを訪れると、出て来た一空さまは、しばらく会わなかった自分の娘を迎えるように上きげんだった。それはいつものことだが、この一空さまの態度には、吉報といったようなものを包んでいるところがあった。一空さまの細い眼が、奥へ引っ込んで見えなくなっていた。
「江戸一、いや、日本一の女分限者の御光来じゃな」一空さまは、剽軽ひようきんに頭をさげた。
「いやめでたいことじゃ。生きた証人が出て来ましたぞ。お前さまのことを、ようく知っておるのだ。おゆうさんと相良さがらうじが大阪に仮寓かぐうのころ、あんたに乳をふくませた乳母うばじゃとかいう。だいぶんおゆうさんの気に入りだったとみえて、柘植家のことにはかなり通じておるのみか、今もいうとおり、あんたというものを手塩にかけたのじゃからなあ。もうこっちのものじゃ。よろこびなされ」
 それでも、お高が、喜んでいいのか悪いのか、ぽかんとあっけにとられた形でいると、一空さまは一人でのみ込んで、
父御ててごの相良寛十郎殿のことも、やっと眼星がつきましたぞ。そうではないかと思っておったとおりであった。ま、ゆるゆる話そう、これから深川か」


    街の手品師


      一

 神田鍛冶町二丁目、不動新道の和泉屋総本家の大旦那与兵衛よへえは、店の奥の間に、大番頭の伊之吉はじめ各分店のおも立った者をあつめて評議をひらいていた。
 午後の八つ半だ。ぼんやりした日光が、与兵衛の横顔を浮き上がらせて見せている。
 この与兵衛は、和泉屋がまだ柘植家のものだったころから、店にいたのだが、当時は、丁稚と手代のあいだの、走り使いの小僧だったので、おゆうと相良寛十郎とのいきさつ、その後の仔細などすこしも知らないのだ。おそろしく眼先がきいて、それでいて太っ腹な男なので、儕輩せいはいを抜いて、いつのまにか柘植の家から離れるようになった和泉屋に采配をふるう身分になってきたのだ。四十をよほど越した分別盛りだ。
 実際、近来の和泉屋がふとるばかりなのは、この与兵衛がふとらせてきたのだといっていい。
 与兵衛はきょうはいらいらしている。二十人ばかり寄り合っている者たちを、にらむように見すえながら、伊之吉に話しかけた。
「柘植の娘のほうが、いよいよ眼鼻がついたらしい。どこまでが柘植の和泉屋で、どこからがその後の和泉屋か、そこらが分明せんことには、いざとなると、当方も話が進めにくいでな。どうも困ったことになった」
 伊之吉は腕をくんで、黙って与兵衛を見ている。与兵衛が、つづけた。
「いま蔵やら荷置き場を、人をつけて見せてまわっていますが、そのうちここへも見えるでしょう」
「そういたしますと、もとの和泉屋の分だけは、その娘さんのほうへ返しますことに、もう決まったのでございましょうか」
「はい。きまりました。木場の甚さんが一応いろいろと疑って調べてみたのだが、確かに柘植のおゆうさんの娘御に相違ないというのだ。大変なことになりました。一時にとほうもない女分限者ができてしまった」与兵衛はにっこりして、
「お前は会ったことがあるのかね、そのお高という娘に」
「いいえ。何でも柘植の親類つながりとかで、一空様という坊さまが、一度その用でみえられただけでございます」
「が、まあ柘植の金だけは、木場の親方のほうに積んであるのだから、いつ誰が出て来ても渡せることは、渡せるわけで、そのへんのことはいいのだが――」
「ほんとに固くしていられたので、柘植の者も大喜びでございましょう」
 寄り合いの者たちはざわめいて、あちこちでこのお高のうわさをしているらしかった。そこへお高が、はいって来た。お高は、深川の木場の甚と、ほか二、三の人たちに取りまかれて、上気したような顔をみせていた。多勢の視線に困って、どこへすわっていいのかまごついているようすだった。
 やがて、木場の甚と伊之吉があいだに立って、お高と与兵衛との話になったのだが、お高が柘植の当主として和泉屋の根を押えていることは既定の事実なので、与兵衛も何もいうことはないのだった。集まっている者たちに何もいうことのないのは、もちろんだった。
「さぞいろいろと苦労なすったことでございましょうが、これであなたも芽が吹き、おっかさんもあの世で安心しておいでなさることでございましょう」与兵衛は、こんなことをいうよりほかなかった。「このごろは日和ひよりつづきで、雑司ヶ谷のほうにおいでとか聞きましたが、あちらはまた、江戸とは違って、もっとも、江戸からほんの一足ではございますが、それでも、万事に田舎々々してのんびりしていることでございましょう」

      二

 はい、と、いいえ、だけで受け答えして、さっきからうつむいていたお高が、急に顔を上げたのだ。
「こちらのお店とわたくしとは、これからどういうことになるのでございましょうか」
「どういうことと申しますと?」与兵衛が、木場の甚を見ながらお高にきき返して、「柘植のおうちと和泉屋との関係かかりあいでございますか」
「はい。それから、早く申せば、わたくしの株、こちらのお店での役どころでございますけれど――」
「それはその――」
 和泉屋与兵衛が、笑いにまぎらせてことばじりを濁そうとすると、木場の甚がそばから引き取って、代わりにこたえた。
「それはお高さん、おゆうさんのもっていたお金だけ取って身をひくか、それとも、そのまま和泉屋の商売あきないにつぎ込んでおいて、お前さんも大本おおもとの商法に口を入れるか、それはお前さんのこころもち一つなのですよ」
 柘植の分の金だけふところに納めて和泉屋と関係を切るか、あるいは今までどおり投資しておいて、総支配の方針に関与するか、お高はどっちを取ることもできるので、お高はどういう返答をするであろうかと、集まっている一同がお高の口もとに視線を集めていると、お高は、白く光るような微笑をうかべていい出した。
「それでは、こちら様の商法にわたくしも口をきかせていただきますとして、さしずめ、総本家の皆さまにお願いがありますでございます」
 お高が和泉屋経営の首脳部に割り込んでくるということは、お高を、あきないのことなどわからない普通なみの女であると思っているだけに、集まっている和泉屋の者一同にとっては、かなり迷惑なことでもあり、また業腹ごうはちにも感じられた。大旦那の与兵衛などは、明らかにいやな顔をした。
「ははあ、和泉屋のやり口に、何かお気づきの点がおありなので――?」
 猪口才ちょこざいなといわんばかりの口調だ。
 お高は、平気だ。いいたいとおりにいうので、こういうことには、お高は強いのだ。
「はい。出店をひとつしめていただきたいのでございます」
「なに、出店を一つしめろと――?」
「さようでございます。小石川の金剛寺門前町にこのあいだできました和泉屋こちらの出店でございます。あれをとりいそぎ手を引いていただきたいのでございます」
 皆が立ちさわいで、がやがやしているうちに、お高の声は、ちょっと甲だかに聞こえた。
「昔から小さな店がつづいてきているところへ、こんどこちらの万屋ができたのでございますから、地元の商人あきんどは上がったりでございますよ。そのために、ご存じのような騒動もございましたし、それからも、あの町の小売りあきんどで店をしめましたり、夜逃げをしましたりする人が多うございます。
 可哀そうでございますよ。可哀そうでございますから、あの金剛寺門前町のお店だけは、人助けにしめてやってくださいましよ」
 座が一時にしずかになって、眼という眼が与兵衛に向けられた。が、与兵衛は、長いこと答えなかった。そして、やっと答えたときには、それは、集まっている一同をはじめ、お高自身も半ば以上期待していたとおりの文句であった。そういうことはできないというのだった。商法は商法であって、慈悲やなさけではないというのだ。お高は、それ以上何もいわなかった。
 木場の甚とつれ立って深川要橋のうちへ帰ってくると、一空様からの使いが、お高と木場の甚を待ち受けていた。使いの小僧は、一空さまの手紙を持って来ていた。うけ取って、巻き紙を吹き流しにして黙読していた甚が、手紙のうえから、その鋭い眼をお高へ走らせて、
「おどろきなすっちゃいけませんぜ」かわったことをしらせる人の、ゆっくりした口調で、「一空さまからいってきているのです。父御ててごの相良寛十郎さんがめっかったというのですよ。やはり、生きていなすった。ここの古石場で死んだ、あの相良寛十郎てえひとは、あれあ、おとっつぁんじゃあなかった――」

      三

「わたくしのおとっつぁん――」お高は、金魚のようにあえいで見えた。「わたくしのおとっつぁんの相良寛十郎は、親分さんが始末をしてくだすって、立派に死んでおりますでございます」
「さ、それがです。なるほど、お前さんが父御ててごと思いこんで仕えてきた相良さんは死んでいる。が、一空さまのいうのは、おゆうさんの良人の相良さん、お前さんのほんとの父親の相良さんですぜ。証人に出て来た、お前さんの乳母てえ人の話でも、別人なことはわかっているのです。
 何でも、ここに書いてあるところじゃあ、おゆうさんが死んだ後、相良さんは大阪でお前さんを養女にやったというのです。そのもらった人が、相良寛十郎になりすまして、実の娘としてお前さんを育てたということですよ」
 一空さまが相良寛十郎を発見したのは、あの龍造寺主計の金で洗耳房に建て増しした子供の遊び場であった。
 というのは、ときどきここへ子供の好きそうな芸人などを呼んで余興を催すのだが、きのうも、いま両国りょうごくに小屋がけしている手品の太夫たゆうを招いて学童たちのまえでやってもらったところが、それが、一空さまにもはっきり見覚えのある、おゆうの良人の相良寛十郎だったのだ。日本一太郎いちたろうという芸名で田舎まわりをしている老手品師が、お高の父相良寛十郎のなれの果てであった。
 無情を感じたというのだろう。そうでなくても、寛十郎には、性来、放浪癖といったようなものが強かった。おゆうの死後まもなく、まだ赤ん坊であったお高を、旅で会った、どこの何者とも知れない男の手に預けたまま、乞食こじき同様の山河の旅にひとり発足したのだった。
 そして泊まり合わせた旅の手品師と同行して、いつのまにか手品を習い覚え、同じ旅の手品師としてわずかに糊口ここう草鞋わらじしろを得ながら、旅に旅を重ねてこんにちにいたったのだという。いまは両国の小屋にかかって、日本一太郎は、いっぱし太夫のひとりだった。
 お高のほうから、その日本一太郎の相良寛十郎をたずねたのだ。両国に近い、駒留橋こまどめばしから左へ切れた藤代町ふじしろちょうの安宿の二階だ。寒いほどの河風が吹きぬけて、茶渋で煮しめたような障子紙のやぶれをはためかせていた。
 日本一太郎は、端麗な顔をした弱よわしい老人だ。舞台とは別人のような、むずかしい顔をして、きちんとすわっていた。壁に、よごれきった派手な小袖と肩衣かたぎぬが掛けてあった。手品の道具でもはいっているらしい、小さな古行李が一つ、部屋の隅にころがっていた。そのほかには、何もなかった。真ん中に、置き物のように日本一太郎が控えていた。
 乳呑児ちのみごで人手に渡して以来二十何年も会わない娘のお高が来たのに、迎えに立とうともしなかった。といって、格別うるさがっているようすもなく、来たものだから会おうという顔だ。
 はいって来たお高は、この日本一太郎を見ると、なつかしいはずなのが、ちっともなつかしくなかった。ただおかしかった。彼女にとって、日本一太郎はやっぱり日本一太郎だった。父の相良寛十郎ではなかった。父の相良寛十郎は、あの古石場で死んだ、静かな、学者肌の、陰気な、気の抜けたような、蒼白い――彼女が父と信じてきた相良寛十郎だった。
 それでいいのだ。そのほかに父はないのだ。いらないのだ。たとえほんとの父でも、この相良寛十郎は、もう今は日本一太郎以外の何ものでもない――。
 手品師の父、父というよりも、なくなった母の良人だ。お高は、珍妙な生物を見るような眼で老人を見た。
「おすわんなさい」
 日本一太郎は笛みたいな声を出すのだ。

      四

 鋭い視線がお高をなでた。
「ははあ、高音さんかえ。おゆうにそっくりだな。わしにはあまり似ておらん」
 お高は不思議な怒りを感じて、黙って、にらむように日本一太郎を見かえしていた。
 それからいろいろと話になったのだが、お高が、じぶんが受けついだ柘植の財産のことを切り出して、父の分もあるのだし、それと、そのほかからもいくらでもとってもらいたいというと、父の日本一太郎は、金銭のことなど、もう実際何の興味もないようで、はじめから、てんで聞こうとしないのだ。それかといって、母や自分の過去を話すでもなく、ただ、いま受けている手品の種などを、ひとり言のようにしゃべりつづけているだけだ。
 日本一太郎は、すこし頭の調子が狂っているのだ。そうわかっても、お高はべつに悲しくなかった。莫迦ばか[#ルビの「ばか」は底本では「ば」]ばかしい気持ちが先に立って、父に対する感じなどとうてい沸き得なかった。白じらした心もちでその藤代町の宿屋を出た。
 金剛寺坂の若松屋惣七の屋敷へ行ってみると若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎とが、京阪かみがたへ行くまえにちょっと帰って来ていた。お高は、久しぶりに佐吉や国平や滝蔵としばらく下男部屋でむだ話をしたのち、このあいだまでの女番頭のころのように、習慣的な軽い足どりで、奥の茶室兼惣七の帳場へ通って行った。
 惣七は、あかるい縁に向かって、しきりに眼を洗っていた。派手な女の衣裳がうごいて、若松屋惣七の視野のなかへぼんやりはいってきたので、若松屋惣七はそれがお高であることを知った。
「高か」
「はい。高でございます。いつ雑賀屋からおもどりになりましたのでございます」
「おお。今のさきもどった」
「あの、麦田様も――」
「うむ。一八郎ももどった。午睡ひるねをしている。おせい様と歌子は、たったよ」
「して、旦那様はいつごろ御発足でございますか」
 若松屋惣七と麦田も、あとから二人の女に追いついて、東海道を旅することになっているからだった。
「わからぬ」若松屋惣七は、陽のおもてを雲がはくように、急に不きげんになっていった。「お前にお前の用があるように、わしにもわしの用がある。磯五はどうした? ちょくちょく会っておるのだろう――」
 お高は、父といいこの人といい、じぶんはやっぱりひとりなのだとなみだぐまれてきた。


    藤代町の宿


      一

 若松屋惣七は、お高に案内させて、両国の小屋に日本一太郎をたずねた。裏へまわって、楽屋番に小粒をつかませると、まもなくむしろをはぐって、舞台着のままの相良寛十郎が出て来た。お高と、つれの若松屋惣七を見ても、べつにおどろいたようすもなく、近づきになりたいからそこらの食べもの屋までつきあってくれないかという若松屋惣七の申し出にすぐに同意して、着がえを済ましてつれ立って歩き出した。
 三人は押し黙って両国橋を渡って米沢町よねざわちょうのほうへ行って、それから新地しんちへ曲がった。そこのごたごたした横町をはいったところに、こいこくで有名な川半かわはんという料理屋があった。三人は、若松屋惣七を先に、そこの二階へ上がって行った。
 若松屋惣七と相良寛十郎は、何ということもなく、それからそれと話しているだけだった。ただ、相良寛十郎は、相良寛十郎と呼ばれることをいやがって、芸名の日本一太郎で呼んでくれといった。
 お高は、食べることもせず、はなしにも口を出さず、このあいだからの気苦労と、進んできたからだのぐあいとで、疲れて見えていた。低い欄干のついている窓の下に、流れるようにつづく雑沓を見おろして、ぼんやりすわっていた。
 そのうちに若松屋惣七も日本一太郎も、話材がなくなって口をつぐんでしまった。
「それではこれで失礼をいたします」日本一太郎は、舞台で口上を述べるときのように、四角張って手を突いて、若松屋惣七と、それから自分の娘のお高のほうへも、等分に慇懃いんぎんなおじぎをした。「食べ立ちのようで、心苦しゅうございますが、手まえは、舞台がございますので」
 そういって、さっさとおりて帰ってしまった。若松屋惣七とお高も、しかたがないので、日本一太郎を送って、川半を出た。出てみると、もう日本一太郎は、あとも見ずに、急ぎ足にすたすた小屋のほうへ歩き去っていた。
 若松屋惣七とお高は、途中で駕籠を拾おうということになって、柳原やなぎはらの土手を筋違御門すじちがいごもんのほうへ歩き出したが、お高は、父が、あまりそっけないので、若松屋惣七に気の毒でならなかった。
 若松屋惣七は、平気だった。生まれのいいことを思わせる、押し出しのきく、立派な老人であると日本一太郎のことを思っていた。ただ何となく飽き足らないところがあるような気がして、それは何であろうかと、若松屋惣七は考えていた。しかし、変わった面白い人物であると好い印象を受けていた。
「よい父御ててごじゃが、勝手なことをいわせてくれるなら、ちとどうも信じ難い気がする、あの人の態度に、そういうところが見えるというのだ。わしには、あの人はわからんかもしらんが――なぜ本名をきらっておらるるのだろう?」
「どうかしているのでございますよ。昔のことを思い出したくないのでございましょうよ。わたくしなどとも会いたがっておりませんでございますもの」
「ふーむ。柘植家の金のことを知っておって、お前を捜し出そうともせず、今までどこで何をしていたものであろう」
「それはわたくしも、はっきりは存じませんでございます。一空様も木場の親方さんも、誰もご存じないのでございます。父も、何も申しませんのでございます」
「妙なはなしだな。みたところ、さほど金に恬淡てんたんたるひとのようにも思われぬが――」若松屋惣七は、眉を寄せてつづけた。
「何ゆえお前を人手に渡したか、そこらのところを話したかな?」
「はい。旅から旅へ歩くのに、赤児あかごをつれていては、手足まといになるとか――」
「して、お前をもらい受けた男が、相良寛十郎と名乗って、実の父になりすまして死んでいったわけは?」
「そのことは、父は何も申しませんでございます」
「ちとどうもくさい。ようすがおかしい」若松屋惣七は、うめくような声だ。「あの日本一太郎とやら、実の父御ではないかもしれぬ。どうやらわしは食わせもののような気がしてならぬのだ」
「でも」お高の額部ひたひは、おどろきのため白いのだ。「何しにそんな、そんな――それに、一空さまも木場の親方も、わたくしの乳母であったというおばあさんも、みんな一眼見て、あれが実の父の相良寛十郎であるとおっしゃっておいでなのでございます。旦那様、皆がみな、そんな間違いをなさるはずはございませんですよ。あの日本一太郎という手妻てづま使いの人は、ほんとにわたくしの父なのでございますよ」
 若松屋惣七は、口を固く結んで、何もいわないのだ。
 かすんだ眼に異様なひかりがきて、土手をたどる杖が早くなった。片手を引いていたお高は、引かれるような恰好になって、いそいで出て、ならんだ。

      二

 雑賀屋のおせい様と歌子は、とうに上方へ発足したあとで、若松屋惣七と紙魚亭主人の麦田一八郎もすぐ追いかけて、途中でいっしょになって四人で旅することになっていたのだが、紙魚亭主人は、江戸から九里あまりほどある岩槻藩の大岡兵庫頭おおおかひょうごのかみ、二万三千石のお徒士組かちぐみで、なかなかやかましい武士さむらいなのだけれど、発句ほっくをもてあそんだりして、酔狂なこころで酔狂な服装なりをしていることが好きであった。ことに江戸へ出てくると、町人とも宗匠ともつかない、不思議な恰好でぶらぶらしていて、いつまでも岩槻藩へ帰ろうとはしなかった。
 おまけに今度は、藩のほうへ暇を願って、若松屋惣七といっしょに東海道を下ってみようと思い立ったのだが、それが許されずに、江戸の兵庫頭の上屋敷から呼び出しがあって、すぐに国表へかえらなければならないことになった。
 そこへ持ってきて、若松屋惣七にも、何やかや用事ができてきて予定どおり二人の女のあとを追って旅に出るわけにはいかなくなったので、その旨をしたためた書状を持って、ただちに金剛寺坂から飛脚が飛んで、おせい様と歌子を追いかけた。
 途中で、心待ちに若松屋惣七と紙魚亭を待って、約束によって府中のこっちの由井ゆい宿で、同じ宿屋に泊まりを重ねていたおせい様と歌子は、その飛脚のふみを見ると、歌子というものがついているのだから、女同士でもこころ細いわけではないのだけれど、やはり心ぼそいかつまらないかで、旅をつづける気にならなかったものとみえて、忘れたころになって、ぼんやり江戸へ帰って来ていた。
 だまされたような不平な口ぶりで、歌子はそのまま牛込矢来下うしごめやらいしたうちへはいるし、おせい様は、下谷したやの拝領町屋の雑賀屋へ舞いもどって、いきおいこんで府中の手前まで用もない旅をしたのはどこの人だというような、けろりと莫迦ばかしい顔をして暮らしていた。
 が、そのうちに若松屋惣七は、いよいよ掛川で具足屋をやっている龍造寺主計をたずねて、一人で旅に出ることになった。
「あすたとうと思う」
 小雨の縁だ。若松屋惣七は、その、うっすらと小雨の吹きこむ縁側にあぐらをかいて足の爪を切りながら、うしろの敷居にしゃがんで障子にもたれていたお高を、ちょっとふり返った。お高は蜘蛛くもの巣のような、細い白く光る雨あしをぼんやり見ていた眼を、あわてて伏せた。
 お高は、若松屋惣七の屋敷を出て、どこかへ行ってしまうといって雑司ヶ谷の雑賀屋の寮から帰って来たくせに、まだこの金剛寺坂にずるずるべったりに厄介になっているのだ。しかし、もう若松屋の女番頭として、金勘定や帳簿を見ているわけではなく、いわば客分として、若松屋惣七のいうままに、逗留とうりゅうしているかたちだった。
 お高がこたえないので、若松屋惣七がつづけた。
「一日延ばしに延ばして参ったが、もう延ばせぬ。こんどこそは、行かずばなるまい。龍造寺殿は、あまりに行く行くというて行かぬので怒っておらるるかもしれぬぞ。とにかく、具足屋は立派に芽を吹きました。何から何まで、龍造寺殿のおかげじゃ。繁昌はんじょうぶりを見て、とっくりとお礼を申し上げたいと思う。あすたちます」
 お高は、やっといった。
「ごきげんようおいでなされませ」
「ふん。それだけの挨拶か」
「お達者で――」
「ははは、お前も、達者でくらすがよい。いや一年も二年も帰らぬようないいぐさだな。ナニすぐもどって参る」
「ほんとに一年も二年も、お眼にかかりませんつもりでございます。おかえりになりましても高とのことはもうこれきりでございます」
 若松屋惣七は、見えない眼をぐっと見ひらいて、お高の顔を探した。
「なぜそんなことをいうのだ」
「なぜでも、もうお眼にかかりませんでございます」
「まだあの磯五のことが気になっているのだな、縁切り状を書いたとか、書かせたとか、磯五からもお前からも聞いたようにおぼえているが、あれは、つくりごとであったのだろう。うう、なに夫婦のあいだのことだ。何を申し合わせて他人をいつわろうと、それはそっちのこと。だまされた他人のおれが、愚かであったよ」

      三

 袂で顔と泣き声をおおったお高だ。ふらふらとたって、その、惣七の帳場になっている奥の茶室を出て行こうとした。
 若松屋惣七の眼が、じろりと光って、お高を追った。
「どうするつもりなのだ」
 お高は、手をかけた襖に顔を押し当てて、肩をふるわせてむせび泣いていた。
 草をたたく雨の音がしていた。灰いろの重い雲が、庭の立ち樹のすぐ上にあるのだ。近くの枝から枝へ、濡れた鳥の声がするのだ。しいんと遠のいた江戸の巷音こうおんだ。はねつるべの音がしていた。その、番傘ばんがさをさして水をくんでいる国平の番傘が、青桐あおぎりの幹のあいだに、半分だけ見えていた。
「拝領町屋のおせい様の家へ行って、当分おせい様といっしょにくらす考えでございます。おせい様はお可哀そうでございますよ。おせい様は、ああして歌子さまと旅には出たものの、あきらめ切れないで帰っておいでなすったのでございます」
「あきらめ切れずにと申して、磯五のことか」
「はい。おせい様はまた、あの五兵衛さんのことをおもっていらっしゃるのでございますよ」
「女というものは不思議なものだな。また、かの磯五のごとき男が、女をつかんで離さぬ力も、考えてみれば、不思議な気がする。いや、どちらも不思議なことはないのかもしれぬが」
「おせい様が磯五のことを思い切れずにいるものですから、わたくしがおせい様のところへ行くと、おせい様を苦しめるようなもので、いつも、長くはいられないのでございます」
「そんなところへ行かんでもよいではないか。何ゆえさように食客のようなまねをして歩こうというのだ。金はどうしたのだ」
「ひとりでぼんやりしてはいられませんでございますもの。それに、あのお金はまだほんとに自分のもののような気がいたしませんでございます。手をつけるのがいやでございます」
「高」若松屋惣七は、伸び上がるようにして、声を低めた。
「掛川へ来ないか」
「掛川へ――」
 お高は、おうむ返しにくりかえしながら、龍造寺主計の顔を思い出していた。龍造寺主計は、まだはるかにお高にこころを寄せているに相違ない。お高には、それが感じられるのだ。
 お高は、若松屋惣七と龍造寺主計と、ふたりの男にはさまれることを思うと、とても掛川へ行く気にはなれなかった。行けば、この二人のあいだに、何か恐ろしい問題が起きそうな気がして、それは、どうしても避けることのできないものに思えた。
 お高は、ひとり言のように答えていた。
「いいえ。掛川へ行くことはできませんでございます」
「掛川へ行けば、もうすこしものごとがはっきりいたすまで、柘植の財産に手をつけずに、やって行くことができるのだ。具足屋の仕事を手伝ってもらおう。龍造寺殿も、喜ばれるに相違ない」
 その龍造寺主計が、朴訥ぼくとつなたましいでお高を愛しているために、お高は、掛川へ行けないのであったが、そうはいえなかった。黙っていると、若松屋惣七は、潮が引くように白い顔になっていった。
「お前も、磯五のことが気になって、江戸を離れられぬのかな」
「まあ、旦那様、そんなことはございません」
「そんなら、来い。掛川へ来い。あすいっしょに、というわけにもゆくまいから、あとから来い。そのように手はずをつけておいてやる」
 お高は身をひるがえすように、若松屋惣七に向き直った。口をあけて、何かいおうとした。何かいおうとすると、じぶん以外のほかの意思のようなものが、ことばになって、その口を出たのであった。
「はい。それでは、あとから掛川へ参りますでございます」
 が、お高は掛川へは行かなかった。やっぱりいざとなると行けないでぐずぐずしているうちに、日がたっていっそう行けないことになったのだ。
 若松屋惣七は、もう掛川へ着いて、お高を待っているに相違なかった。
 お高は佐吉を供につれて行くことになっていたので、佐吉は一日に二度も三度もお高の部屋へ顔を出して、いつ発足するつもりかとききに来た。お高は、行く気のないところへ、そういってこられるのが、苦しかった。それよりも、掛川で待っているであろう若松屋惣七と龍造寺主計のことを考えると、いっそう気が重くなって、そうやって逃げるように延ばしていることさえ、苦痛になった。
 お高は、若松屋の留守の者にはゆき先を告げずに、そっと拝領町屋のおせい様のうちに隠れてしまったのだ。

      四

 駒留橋を渡って、藤代町の宿へ帰ろうとするところで、日本一太郎は、足をとめた。みちばたにしゃがんで、切れた草履の鼻緒はなおを、一時しのぎに何とかつくろおうとしている女の横顔に、眼が行ったのだ。
 若い女だ。色あいの派手な、しかしよごれ切った衣裳を着けて、腰を二つに折っているので、太腿ふともものあたりの肉が、着物のうえにむくむくして見えているのだ。女は、鼻緒は手におえないと知って、そこに落ちていた縄ぎれで草履を足にしばりつけて歩き出そうとした。
 それは、お駒ちゃんであった。お駒ちゃんは、つぶらな眼をそわそわと動かしたが、じぶんを見ている日本一太郎には気がつかずに、そのままみすぼらしい身装みなりを恥じるように、軒下づたいに歩き出そうとした。
 老いた日本一太郎の顔に、よろこびの色がうかんで、彼は、足早に追いすがりながら、声をかけた。
「おい、お駒太夫じゃあねえかい」
 お駒ちゃんは、悪いことをしていたところをみつかりでもしたように、ぎょっとして立ちどまって、ふり返った。
「あら、誰? おや、日本一のおじいさんじゃあないの」お駒ちゃんは狼狽して「いやだよ。へんなところで会ったねえ」
「そっちはへんなところかもしれねえが、こっちは何も、へんなところではねえのだ。おいらはいま、そこの両国の小屋にかかっていて、これからついそこの藤代町のとやをけえるところなのさ。それはそうと、久しぶりじゃあねえか」
「ほんとに久しぶりだねえ。あれから」
 と、お駒ちゃんは遠いところを見るような眼になって「何年になるかしら」
「三年だ」
「早いものだねえ」
「早えものさ。三年は三年でもおれとおめえが、あの田川たがわの娘芝居に一座して、信濃路しなのじを打ってまわったころとは世の中も変わったぜ」
「あいさ。世の中も変わったか知らないけど、あたしも変わったのさ。変わらないのは、おじいさんばかりだよ」
「こいつあ耳に痛えや。相変わらず娑婆しゃばの場ふさぎといいてえところだ。あれからどうしたい?」
「おじいさんこそどうおしだえ」
「おいらか。おいらは――ま、おめえこれからどこへ行くのだ」
「どこへ行くといって、ここへ行きますという当てはないのだよ。ただこうやって町を歩いているのだもの」
 日本一太郎が、はじめてお駒ちゃんのみすぼらしい服装なりに気がついたように、改めて、まじまじとお駒ちゃんを見直すと、お駒ちゃんは、ほろ苦く笑って、袂でからだを包むような恰好をした。
「女の子がきたないなりをしているときに、そんなに見るもんじゃないよ」
 日本一太郎の端麗な老顔を、同情のいろが走りすぎて、お駒ちゃんを促して藤代町のほうへまがりながら、
「ちげえねえ。田川の一枚看板のお駒太夫が、そのぱっとしねえありさまはいってえどうしたというのだ」
 お駒ちゃんは、負け惜しみのように、陽気らしく細かく笑って、
「話せば長いことながら、さ」
「いずれそんなところだろう。まあ、あとでゆっくり聞くとして、おめえ何かえ、いまあぶれているてえわけかえ」
「あい。早くいえばね」
「相変わらず、いやにたんがすわっているぜ。いきすじだろう。ははは、こいつあお手の筋だ」
「まあ、そんなところかね」
他人ひとごとみてえにいってやあがる。おいらもきょうはもうからだがあいているのだ。どうだ、これからおいらんところへ来て、一ぺえやりながら、そのおめえの苦労話てえのを聞こうじゃあねえか。惚気のろけでもなんでもいいや」
「そうかい。じゃ、まあ、ついて行くことは行くけど、そんな悠長ゆうちょうなんじゃあないんだよ。食べるか食べないかのどたん場まできているんだからねえ。男なんか、もう、ふっふっ――」
「どうだか、怪しいもんだぜ。お駒太夫が男ぎらいになったら、おいらは今一度、廿歳代はたちでえ若返わかげえるだろう」
「人聞きの悪いことをおいいでないよ。ほんとに男じゃあ今度ですっかり手を焼いたのさ。それはそうと、お前さんはまだ茶番のほうかい」
「そうそう。そういえば、田川では、おいらは茶番のまねみてえなことをやっていたっけな。おめえは大名題おおなだい――なに、今だって、いつだって、おいらは茶番をやっているのだ。生きて行くてえことが、それだけで茶番なのだ」
「また十八番おはこがはじまったねえ。それはそうだろうけれど、両国の小屋では、何をやっておいでだときいているのさ」
「おいらはもとから手妻師なのだ。両国でも、手妻のほうをやっているよ」
「あたしも、いまになってみると、いっそ芝居のほうをやり通してくればよかったと思っているのさ。何やかや、おじいさんには、聞いてもらいたいことが山のようにあるんだよ」
 二人はちょっとしんみりして、押し黙って、狭い藤代町の通りを歩いて行った。陽の弱よわしい夕方近いころで、通る人の影が、寒く長く路上みちに倒れていた。やがて、した芸人などの泊まる、木更津屋きさらづやという軒行燈あんどんを掲げた安宿の前へ出ると、日本一太郎は、あごをしゃくって、お駒ちゃんをかえりみた。
「ここだ」


    昼の風呂ふろ


      一

「おめえ様は、くたびれていなさる」日本一太郎は、一なでなでるような視線で、おちぶれたお駒ちゃんのようすを見ながら、いった。「一しきり横になって、休んだがいいぜ」
 が、お駒は、狭い二階の縁にぺちゃんとすわって、欄干に肘をかけて下の往来を見ながら、声だけ日本一太郎のほうへ向けて、
「あい。くたびれてはいるけど、あたしゃ昼寝られない性分でね。まあ、こうやってぼんやりさせていてもらおうよ。それより、あれから後のお前のはなしでも聞こうじゃないか」
「おれのはなしなんて、何もいうこたあねえ。判で押したように、きまりきったもんだ。おいらはどだい手妻つかいなんだから、ああして田川の一座がこわれてから、もとの東西東西にけえって諸国をうろついただけのことよ。
 ゆきさきの食いものと女だ。なあ、それぞれ味が違うから、若えうちあ面白いが、おいらみてえに、こう年齢としをとっちゃあからきし意気地がねえ。やっぱり江戸が恋しくて、この四月に舞いもどって来たんだ。今じゃあ、まあ、両国で、どうやらこうやら小屋を掛けているよ」
「そうかい。それはよかったねえ」お駒は、人間が変わったように、しんみりした女になっているのだ。そう思って、日本一太郎がじっとお駒をみつめていると、お駒はその心もちを読んでそれにこたえるように、つづけた。「あたしのようなはねあがりものでも、苦労をすると、これで、ちったあ落ちついてくるよ。ひどいやつに引っかかってねえ、お駒太夫も、われながら愛想あいそがつきるほどだらしがなくなっちゃったのさ」
「おめえのことだ。さぞ意気な筋だろうぜ。年寄りを相手に、色ばなしも乙なものだ。そもなれそめはから一段語ったらいいじゃあねえか。こっちから、酒さかな持ち出しで、きこうてんだ」
「いやなこった。ひる間あんまりしゃべると、夜られなくなるから、ま、ごめんこうむっておこうよ」
「こいつあよっぽど参っているのだな。昼寝られなくて、夜眠られなくて、それじゃあいつねむるのだ。おめえは、ねむるのが恐ろしいのだろう?」
 日本一太郎にこういわれて、お駒は、図星ずぼしをさされたようにちょっとどぎまぎしながら、
「なに、そんなこともないのだが、眠るときまって夢を見るのだよ」
「さ、その夢が恐ろしいのだろう」
「夢は、恐ろしいことはないのだよ。その男とあっている夢だもの」
「夢は恐ろしくなくても、その同じ夢を見ることが、おそろしいのだろう。おめえが何といおうと、おめえの顔にそう書いてあるのだ」
 お駒ちゃんはびっくりして、あわてて顔をふきとるような仕草をすると、日本一太郎は笑って、
「ふいたってとれやしねえ。おいらには、ちゃんとわかるのだ。おめえは、夜ひる眠ることもできずに、その男のまぼろしを抱いて、野良犬のように、江戸のまちをほっつきまわっていたのだろう。薄情男に、石ころのように蹴られながら、その男の思い出を追っかけて、きちがいみたいに歩きまわってきたのだろう」
「そんなことはないのだよ」
「ないことがあるものか。鏡を見な鏡を。顔だって、からだだって、昔のお駒ちゃんの面影はありゃあしねえ。まるで、お駒ちゃんに似せた案山子かかしみたようだ」
 お駒が、ぎょっとすると、日本一太郎は、彼の所有物もちもののなかで一番高価らしい、村田むらたの銀張りをからりと投げ出すように置いて、ひと膝乗り出してきた。
「どこの何という者だ、その薄情男は」
 追い詰められたような声が、お駒ちゃんの口を出た。
「日本橋式部小路の呉服屋で、磯屋五兵衛というのですよ。磯五というのですよ」

      二

「なに、あの磯五さん――?」
 日本一太郎は、おどろきを隠しようもなく、はっと顔いろをかえたが、それよりもお駒のほうがびっくりして、
「お前さまは磯五をご存じなのかえ」
 ときくと、日本一太郎はすぐになにげなく装って、
「知らねえこともねえが、っているというほどの仲でもねえ。いま江戸で磯五といえあ、流行はやりの太物商売として、まず、名の聞いたことのねえものはなかろうじゃないか」
 何だかへんだとは思いながら、お駒ちゃんも、ふかく追窮ついきゅうしようとはしなかった。
「あい。その磯五さ」
 吐き出すようにいって、また欄干越しに、下の藤代町の狭い往来をこね返している雑沓へ眼を落とそうとすると、
「お駒ちゃん、一風呂ふろ、ざっと流してこようじゃあねえか。おいらはこんな老人としよりだから、おめえとおいらといっしょにへえっても、誰も笑やあしねえよ」
 日本一太郎が、いった。そして、手ぬぐいを取ってたち上がると、お駒ちゃんもついて来た。
 実の娘であるはずのお高に対しても、またそのめんどうをみている若松屋惣七に対しても、あれほど不愛想な態度をとって、恐ろしく変わり物に見えていた日本一太郎が、このお駒ちゃんにだけはこんなに打ちとけて饒舌じょうぜつになるばかりか、親切も親切だし、何かと真剣にためを思う気くばりをみせるのだ。
 これはいったいどういうわけであろうか。この手品師の日本一太郎が、お高の父の相良寛十郎という御家人のなれの果てだというのだが、それならば、その相良寛十郎は、どういう人間なのだろうか。
 お駒とは、むかし旅役者のむれに一座して、信濃路から木曽路きそじ越後えちごのほうと打ってまわったことがあるというだけのことなのだが、久しぶりに、お互いの生まれ故郷の江戸で会ってみると日本一太郎は、手品の手腕うでは達者でも、人物がこういうふうだし、それに年齢としが年齢だから、だんだんと指さきの細かいトリックがきかなくなって、こうして、両国は両国でも、娘手踊りなどのあいだにはさまって見物衆のごきげんを取り結ぶサンドイッチみたいな芸人に落ちているし、お駒はお駒で、かつて田川一座の看板として旅で鳴らした太夫が男のことで悩みぬいて、気が抜けたようにふらふらと風に吹かれて、みすぼらしいなりで江戸の町から町とほっつき歩いていたのだ。
 父娘おやこといってもいいほど年齢が違うのだから色の恋のという間柄ではもちろんないのだが、それにしても、今、お駒ちゃんが磯五にもてあそばれてすてられたと聞いたときに示した、あの日本一太郎のおどろきは、何を意味するものであろうか。このおじいさんとあの人とのあいだに、どんないきさつがあるというのだろう?
 お駒ちゃんは、それが気になってたまらなかったが、相手が、磯五との関係はそれとなく隠しておきたいようすなので、ざっくばらんにきくわけにもいかなかった。そして、ざっくばらんにきくのでなければ、口うらを引くなどという器用なことはできないのが、お駒ちゃんなのだ。で、黙って日本一太郎について、その、ぎしぎしいう裏梯子うらばしごを踏んで木の腐ったようなにおいのする風呂場へおりて行った。
 安宿にふさわしいきたない風呂場だ。泊まり客もすくないし、まだ午後もそうおそくなっていないので、ほかにはいっている人はなかった。二人きりだった。
 じめじめした板の間に着物をぬいで、木の引き戸をあけると、一坪ほどの、土の黒く固まった土間に、田舎びた五右衛門風呂がすえてあった。焚き口に火がとろとろ燃えて、けむりがいぶるので、浴室の内部には、天井から壁板から、長年の層で黒光りに光っていた。

      三

 お駒ちゃんが思い切りよく着物を脱ぐと、白い膚がいっぱいにひろがって見えた、お駒ちゃんは、女同士ではいっているように、日本一太郎のまえにあけすけな態度なのだ。男のように手ぬぐいを肩にのせて、乱暴に湯槽ゆぶねをまたいだ、うす暗い中に、湯にぬれたお駒ちゃんが光ってほつれ毛を気にして、指をぬらしてはなでつけていた。上気した、ぼんやりした顔をして、洗う手を休めて考えこんでいることが多かった。
 日本一太郎は、そうしているお駒のうしろに取っつくようにして、背中を流し出した。
「あれ、いいのですよ」
「なに、男のあかをつけておくことはない」
 日本一太郎がそういって、構わず洗い出すとお駒ちゃんは、いやな顔をして、泣き出しそうな声になった。
「ほんとにいいのですよ。じぶんで洗えますから」
「なに、おいらは、じぶんがしてもらいてえことは、先に人にするのだ。ははははは、この代償に、おいらも一つ、おめえに背中を流してもらおうと思ってな」
 日本一太郎が笑うと、お駒ちゃんもはじめて、お駒ちゃんらしい大きな声をたてて笑った。
「そうねえ。じゃあ、かわり番こに洗いっこしようよ」
「それがいいのだ。おめえといっしょに湯にへえるのも、楽屋風呂以来、久しぶりじゃあねえか」
「おふざけでないよ。楽屋風呂なんて、いっぱし役者めいた口をきくけれども、ぜんたい楽屋にお風呂のある小屋へなんか、掛かったことはなかったじゃあないか」
「ははははは、そういえば、まあ、それにちげえはねえのだが――」
「おじいさん、これからどうするつもりさ。両国が済んだら」
「さ、そのことだが、おいらにはおいらで、これでも考えてることもあり、かかってる口もあるのだ。としよりだって男一匹だ。なあ。どうころんだところで、身の立たねえということはねえのだが、それより、おめえはこれからどうしてやってゆく気だ。まず、それから聞こうじゃあないか」
「それがあたしには、さっぱり目当てがないのさ。おさき真っ暗でねえ」
「おめえさえ居る気なら、おいらのところにいてもいいのだが」
「そうかい。でも、そうもゆくまいしねえ」
「おいらはいっこうかまわねえが、まあゆっくり考えてみるがいい。それあそうと、さっきちょっと話に出た、磯五とかいう呉服屋とおめえとの一伍一什いちぶしじゅうを聞こうじゃあねえか。そのうえでまた、おいらも何かと力になったりなられたりするつもりなのだ。いいから、初手から話してみな」
 お駒は、たどたどしいことばで、磯五との情事をはじめから話し出した。
 磯五に頼まれて、おせい様をだますために、その妹になりすまして式部小路の家へはいりこんだことや、内儀に直すという約束で、磯五にすべてをあたえたことや、そのほか、お駒のはなしには、お高の名や、父の久助のことや、お針頭のおしんや、磯五がじぶんの眼のまえで関係して見せる小間使いのお美代や、いろんな女の名まえがたくさん出て、だいぶこんぐらがっているので、日本一太郎は、筋みちを理解するために、眉のあいだにふかい皺をつくって、気を詰めてきいていた。

      四

 風呂から上がると、お駒は日本一太郎の浴衣ゆかたを借り着した妙な恰好で、部屋の隅に長くなって眠ってしまった。
 お駒ちゃんが眠っているあいだ日本一太郎は、風呂場から持ち越した眉根の皺をそのままにして、何かしきりに考えこんでいるふうだったが、やがて何ごとか決心がついたとみえて、渋紙いろの顔にはじめて晴ればれとした色がのぼったとき、ちょうどそれを待っていたかのように、お駒が眼をさまして、ごろりと日本一太郎のほうへ向き返った。日本一太郎は眼を笑わせた。
「眠れねえなんて、眠ったじゃあねえか」
「そうだねえ。眠ったようだねえ。すこしはとろとろとしたかしら」
「冗談じゃあねえぜ。あれを見な。もうとうに陽がかげって、お向家むけえの油障子にあかりがにじんでいるのだ。かれこれ一刻半いっときはんもぐっすりたかな。どうだった、夢は見たかえ」
「不思議なものだねえ。見なかったよ」
「そうだろう」日本一太郎は笑って、「ひとりでくよくよ考えているから、そいつがうっして夢に出るのだ。五臓の疲れとはよくいったものよ。おいらに話したから、すっぱりして、こころの荷がおりたのだろう」
「そうかもしれないねえ」
 おき上がったお駒ちゃんが、からだに合わない日本一太郎の着物を持て余して、襟をかき合わせたり袖ぐちを引っぱったりしていると、日本一太郎は、語をつないで、
「さあ、ここにいることに心がきまったろう」
「いてもいいのだけれど、何かすることがないと、気づまりも気づまりだし、それに、からだが遊んでいると、どうしても余計なことを考えてねえ。やっぱりどこかへ行って、つてを探してもう一度芝居にもぐりこんで、田舎落ちでもしてみようかと思うよ。お前の顔を見たら、急にぼたん刷毛ばけをおもい出して、昔がなつかしくなったのさ」
「何をいやあがる」日本一太郎は、お駒の気を引き立てるように、わざと伝法に「むかしがなつかしいの何のと、そんな年齢でもないじゃあねえか。娘っこのくせに、はばったい口をきくもんじゃあねえよ」
 笑っていたお駒が、ふっとさびしそうに黙りこんだので、日本一太郎は、芝店か何ぞのようにやさしくいざり寄って肩に手をかけた。
「おいらのところへ来て、働いちゃあどうだ」
「お前のもとへかえ。何か仕事があるのかえ」
「あるのだ。あるからいうのだ」
「だけど、あたしゃ手品はできないもの――」
「なに、手品をしろというんじゃあねえ。おいらはいま、大きな祭の口を一つ受けようかと思っているんだ。五日ばかり境内に小屋を張って、日本一太郎の手腕うでいっぺえに、手品だけで打ち通してみねえかというのだ。深川の顔役で香具師やしのほうもやっている木場の甚てえ親分とな、ちょっくらほかのかかり合いで相識しりあいになったのだが、このひとがいってすすめてくださるのだ。
 おいらも、その先長えことではなし、一世一代に、手妻の一点張りで舞台みせを張ってみてえ気もあってひとつ根限り、幻妖げんよう摩訶まか不思議てえところを腕によりをかけて見せてえ気もちも大きにあるのだが、ついては、新奇のものをつくって、思い出話にもなるようにれるだけ凝って呼びものにしてえと思うのだ。手品といったところで生やさしいことでは客はつかねえよ。
 そこで一つ考えてることがあって、それにあ女がひとりいるのだ。面と姿が人形のようにくて、それで色気がたんまりあろうてえたぼが一枚入り用なのだ。ちょうどおめえのような――」
 話しているうちに、日本一太郎はだんだん興奮してきて、がくがくあせり出しながら、お駒の肘をとって揺すぶるようにするのだ。かみつかんばかりにことばをつないで、
「実あさっき、おれあおめえのからだを見るために、ああしていっしょに湯にへえったのだが、あれならどうして、振り事でも所作でも、融通のきくいいからだだ。上背はたっぷりあり、四肢てあしはすんなりと、おまけに、顔はそのとおりきれいだし、第一、そのおめえの身から、ほんのりにおってくる色気が大したものだよ。千両ものだよ」
 日本一太郎はお駒ちゃんのはだかを想描するようにうっとりと眼をつぶって、うたうようにつづけるのだ。
「何にもむずかしいことはありゃあしねえ。おめえならすぐ覚えるのだ。ちょっと稽古けいこすりゃあわけあねえよ。女を出して、どう持ってゆくかてえことは、ここんところ、おいらもまだ考えてる最中で、しかとは決まっていねえが、とにかくあっと見物の度胆を抜くものでなくちゃならねえ。
 おいらも、日本一太郎として、一度は江戸中の評判にもなってみてえのだ。日本一太郎――全く、自慢じゃあねえが、おいらの手品はにっぽん一だと、まあ自分じゃあ思っているのだ」
「それはそうだろうけど」お駒ちゃんは、乗り気と不安をちゃんぽんにした眼で「あたしはいったい何をするのさ」
「新作天羽衣てんのはごろも天人娘てんにんむすめ夢浮橋ゆめのうきはし外題げだいはまだ決めちゃあねえが――おめえか、おめえは踊るのだ」
「いやだよ。あたしゃ踊りなんかできやしないよ」
「やってもみねえで、のっけからできねえという法があるか。それがいけねえのだ。立ってみな。たって、おいらのいうとおり動いてみな」
「いやだねえ。馬鹿ばかしい。こうかえ」
 お駒が笑いながらたち上がると、日本一太郎は壁から破れ三味線をおろしてきて、ぺん、ぺんと調子を合わせ出した。お駒を見上げて、眼を輝かしていった。
「ことによると江戸中の人気をさらうぜ、おいらとおめえと」
 その、がたぴしいう藤代町の安宿の二階で、おじいさんの浴衣を着たお駒ちゃんに不思議な振り付けがはじまった。


    天女てんにょ夢浮橋ゆめのうきはし


      一

 重い荷物にでもなったようなぐあいにお高は、拝領町屋の雑賀屋のおせい様の家に、べったり腰をすえて厄介になっていた。お高は、しなければならないことが山ほどあるような気がして、気ぜわしない日を送っていたが、それより、考えなければならないで、考えないで延ばしておいたことを、今しっかり考えることのできるのがうれしかった。
 うす陽の当たる縁で、お高はよくおせい様と会話はなしをした。
「ほんとにおせい様のおかげで助かりますでございますよ。いるところもないわたくしでございますからねえ」
 お高がいうと、おせい様は、眼の隅からにらむようにして笑って、
「そんなことをおっしゃっても、あなたはお金があるのではございませんか」
「いくらお金があっても、あんなお金は使うのがいやでございますから、ないも同じでございますよ」
「それで、これからどうなさるおつもりでございますか」
「若松屋の旦那様は、あとから掛川へ来るようにとおっしゃって、おたちでございますけれど、行ったほうがいいか悪いか、わかりませんのでございます。おせい様がわたしでしたらどうなさいますか」
「それは大変むずかしいことをおききでございますねえ。ちょっと御返事ができませんでございますよ」
「そんなことはございませんよ。おせい様は、わたくしどものことは、何でもご存じでいらっしゃいますから」
「それに、お飾りの数を倍近くもくぐっているのでございますからねえ」おせい様は、しんみり笑い声をたてて、「でも、ひと様のことで御相談に乗る資格はございませんよ。自分がこんな馬鹿で、さんざん莫迦な目にあいながら、まだ――」
「磯屋のことを、おあきらめになれないのでございますか」
「あなたには、すみませんよねえ。かりにも良人となっている人を――」
「わたくしは、思い切って、掛川へまいりましょうかしら」
「いいえ。掛川へいらっしゃるのは、いけませんよ」
「なぜでございますか」
「なぜでもいけませんよ。男の方がおふたり行っていらしって、お二人ともあなたに――何というお侍様でしたかしら? いつかお話しなさいましたよねえ。若松屋さんにお金をお立て替えになって、その掛川の宿屋とかをお引き請けになって、それから、お寺様へ御喜捨なすって掛川へおいでになったという――」
「龍造寺主計さまでございますか」
「そうですよ。その龍造寺主計さまも、あなたを想っていらっしゃるといういつかのお話ではございませんか。で、ございますから、掛川へおいでになるのは、およしなさいましよ。一つで男ふたりに想われて中にはさまれるのは、あぶのうございますよ」
 お高が、あかくなって黙ってうつむくと、おせい様は語をつないで、
「お高様は、若松屋さまを、慕っておいでなのでございますか」
「はい」
「それで、磯五さんとは、ちゃんと切れていないのでございますねえ。まだ夫婦ということになっているのでございますねえ」
「はい。そうでございます。一度、縁切れ状まで書いてくれましたのに、わたくしが母のお金を受けつぐことを、どこからかかぎ出しまして、その離縁状もあとから引ったくって破いてしまいましてございます。どうしても別れると申しませんのでございます。
 あの人は、お金が眼当てでございますからねえ。こうなれば、どんなことがありましても、名だけでも夫婦ということにしておきたいのでございますよ。あさましい人でございますよ」

      二

「お高さま、そんならなお掛川へ行ってはいけませんよ。磯五さんという人があって、若松屋さんと夫婦いっしょになることができないのに、若松屋さんといっしょにいては、若松屋さんも苦しゅうございますし、あなたも、苦しゅうございますからねえ。両方がお可哀そうでございますよ」
「でも、こうして離れていて、両方が可哀そうだとはおせい様は、お考えになりませんでございますか」
「それは、想いあっていて、そうして離れていらっしゃるのは、お可哀そうでございますけれど、でも、掛川へいらしっても、晴れて夫婦いっしょにはなれませんですしねえ。
 それに、わたしは、その龍造寺何とか様とおっしゃるお侍が、掛川においでになるのが、心配で、何かあぶないことになりそうで、それで一つは、お高さまを掛川へ出してあげたくないのでございますよ。男の方は、どんなお友だちでも、女子おなごのこととなりますと、別でございますからねえ」
「さようでございますか」
「そうでございますとも。お高さまが若松屋さんを慕っておいでなさるんでしたら、いっそう掛川行きはおよしなさいましよ」
 お高は、急にわっと泣き叫んで、おせい様の膝に突っ伏した。おせい様も、おろおろ声なのだ。おせい様は、泣いているお高を慰めていいか、そして、どうして慰むべきであろうかと考えているうちに、じぶんでも泣けてくるのだ。
「何も泣くことはありませんよ。世の中は、うつろなようでうつろではございませんよ。わたしは、お高さんが大好きでございますからねえ。あなたには、わたくしのような小母おばさんがついていますと、ようございますよ。わたしはご存じのとおりの馬鹿でございますけれど、理解わかることだけはわかるつもりでございますよ。人を思うことが、どんなに苦しいことか」
 おせい様の声は、すっかり涙にのまれて、聞こえたり、聞こえなかったりした。「人を思うことが、どんなに苦しいことか――この年齢としになって、あの人というものが、わたしの前に立ったのでございますよ。
 お高さま、お高さまは、あの人のお内儀かみでございますよねえ。一度はいいえ、ひところは、しんからあの人を好きだとお思いになったこともございましょうよ。どんなに女をあやなして、好きにさせることの上手じょうずな人か、お高さまは、よくご存じでございますよねえ。
 あの人は、あの人は――あの人はああなって、お高さまもいま掛川へおたちになってしまえば、わたしは、一人ぽっちでございますよ。掛川へなぞいらしってはいけませんよ」
 おせい様とお高は、たがいにかき集めるように抱き合って、長いこと泣いた。二人の周囲から世の中が遠のいて、なみだとすすり泣きの声が、あるだけだった。
 おせい様が、さきに鼻をかみ出して、じぶんの膝に押しつけているお高の顔を、両手にはさんで押し上げるようにした。おせい様は、洗われたような顔を、恥ずかしそうに笑わせていた。
「泣くのはいけませんでございますよ。くたびれますよ」
 お高は、そのおせい様のことばがおかしくて、今度は急に、おなかをかかえて笑い出した。おせい様も、お高の手の甲を一打ちたたいて、陽気に笑い出していた。二人は、涙をふきながら長いこと笑いくずれていた。

      三

 日本橋式部小路の磯屋の奥ざしきで、磯五が、十七、八の女を膝にのせてたわむれていた。その女は、お美代といって、奥向きの仕事をする女中であった。お美代は、出入りのとびかしらの口ききで、草加そうかのほうから来ている女であったが、すっかり江戸の水に洗われて、あくぬけしてきていた。膚の白い、ぽっちゃりした、眼の涼しい娘だった。
 はじめて来たとき、何であったか、何か菜をつむように台所から命じられて出て来て、中庭に迷いこんでまごまごしているところを磯五に見つかって叱られたことがあるので、磯五には、そのときから、印象に残っている女であった。
 中庭は陽がよく当たらないので、露がおりたように、草がしめっていた。お美代は、磯五に叱責しっせきされて、しおしおと台所口のほうへ帰って行ったが、着物を濡らすまいとして、裾を引き上げて歩いていた。ふくらはぎのほうまで見えて、すんなりとろうのように白い脚であった。
 その夜ふけに磯五は、お美代に名ざして茶を持って来させたが、その磯五の寝部屋から、お美代は、朝になるまで帰らなかった。そして、朝になって奥から下げられて来たお美代は、すぐ泣いたり、すぐ笑ったり、つまらないことで赧い顔をして、そわそわしたり、そうかと思うと、しじゅうぼんやりしているお美代になっていた。夜中に、寝巻きの肩をふるわせて、奥としものあいだの廊下にしょんぼり立って泣いているところを、朋輩にみつかったりした。
 お美代は、いつのまにか磯五を恋することを教えられていたのだ。
 そのお美代を、磯五はいま膝にのせて、いろいろに膝をゆすぶって、笑っていた。
「そら! 船だぞ」
 磯五が、子供にいうようにいって、そして、抱いている子供にするように、膝を大きく揺すると、お美代は昼日中主人とふざけていることを忘れて、鈴がころがるようなけたたましい声をたてて笑った。磯五はびっくりして、膝をゆすぶるのをよした。
「いけねえよ。い坊は声が大きいから、はらはらするのだ」
 お美代は笑いを押しもどすように、口に袂を持って行ったが、膝をおりようとはしなかった。
「だって、旦那様が、あぶないことをなさるんですもの」
「なに、誰もあぶねえことなどしやしねえ」
「だって、落ちそうになるのですもの」
「落ちても、ころがっても、誰も見ていねえからいいのだよ」
「いけませんよ。あれ、いけませんよ。落っこちそうになりますよ。誰も見ていないといって、そこに旦那様がいらっしゃるじゃありませんか」
「おれは、いてもさしつかえねえのだ」
「いけませんよ」
「なぜいけねえのだ」
「なぜでもいけませんよ」
「なぜでもなぜいけねえのだ」
 お美代は、そっとたち上がって、こんどは、磯五のほうを向いて、馬に乗るように磯五の膝にまたがって、いたずらそうに眼を笑わせた。
「さあ。ゆさぶってくださいよ。今度は大丈夫。落ちませんから」
「大丈夫落ちねえか」
「落ちませんよ」
 磯五が、力を入れて膝をうごかすと、お美代は、きゃっきゃっと笑いこけながら、うしろへ倒れそうになって、それから、磯五の帯に手をかけてしっかりつかまり出した。
 狭い部屋でふざけていて、笑い声と物音とが大きかったので、縁を近づいてくる跫音あしおとを消していた。
 あし音は、部屋のまえでとまって、そこの障子がするすると開いた。
「大変なさわぎですねえ。地震かと思いましたよ」
 それは、お針頭のおしんであった。おしんも磯五に負けて、よほど以前から、磯五のいうとおりになっているのであった。障子をあけたおしんは、草のように蒼い顔であった。眼が、うわずって、光っていた。おしんは、ばたばたとはいってくると、沈むようにお美代のまえにすわった。お美代は、とぶように磯五の膝からおりて、べったり畳に腰をつけていた。
 突っかかるように、おしんがいっていた。
「このは――、この娘はずうずうしいにもほどがあるよ。前から知ってはいたけれど、真っ昼間から何だろう。こんなところで、旦那様に抱きついたりなんぞ、いやらしい」
 お美代は、だまって、おしんの顔をみつめていた。おしんも、口をあけたてするだけで、無言で、相手をにらみつけた。
 こまかい着物を着た年増と、派手な衣裳の娘と、それは、年とった牝猫めねこと若い牝猫との喧嘩の場面を磯五に聯想れんそうさせて、真ん中にすわっている磯五が、困りながら、内心面白くてくすくす笑って、けしかけるようなこころもちで見物しているとき、もう一度障子が人影を浮かべて、手代のひとりが、ちょっとあたまをのぞかせた。
「日本一の師匠がおみえになりましたが」
「ああそうかい。会いましょう。居間のほうへ通しておきな」
 磯五は、それをしおに、女ふたりを残してにらみ合わせておいて、あたふたと室を出て行った。
 出がけに、ふり返っていった。
「おしんも、何も悪くうたぐることはねえのだ。お美代は、まだ子供じゃあねえか」
「子供か子供でないか、よくご存じですねえ」
 おしんはそういって、磯五を見上げたが、お美代は、眼をすえておしんを見守っているだけで、沈黙をつづけた。おしんも、そのお美代へすぐ眼を返して、また二人の女のにらみ合いになった。磯五は、そのえくぼの深い頬に皮肉のいろをうごかして、背中を向けて縁を立ち去って行った。

      四

 日本一太郎のいささか頭の調子の狂った幻想から生まれた手妻応用の振り事は、彼の人物そのままに、突拍子もないものだった。外題は、どっちにしようかと考えていたのが、新作天羽衣あまのはごろもというのをよして、天人娘てんにんむすめ夢浮橋ゆめのうきはしときまった。
 日本一太郎は、毎日毎晩、藤代町の木更津屋の二階で、お駒ちゃんを相手に猛烈な稽古をつけていった。稽古といっても、手品の部分は、日本一太郎のあたまの中にあることなので、お駒は、そのなかの踊りだけ受け持てばいいのだった。が、その踊りがまた大変なもので、踊りの心得のないお駒ちゃんには、骨が曲げられるような苦しみであった。
 が、十日もすると、お駒ちゃんの差す手抜く手がすっかり板についてきて、そのたっぷりしたからだで、見事な線をつくり出すようになった。
 それは、日本一太郎とお駒ちゃんと、両方の円精えんせいから生まれたものではあったが、いわば、もとからお駒ちゃんの身についていたものであった。お駒ちゃんは、舞踊の才能を多分に持ちながら、じぶんでも気づかずにきたというわけだった。それを、この偶然の機会から、日本一太郎とお駒ちゃん自身と、ふたりで掘り出したというわけだった。
「おめえの踊りは大したものだよ」
 日本一太郎は、破れ三味線の手をやすめて、木更津屋の壁にもたれてうっとりとしながら、よくこういった。その壁は、雨もりのあとが不思議な模様のように見えていて、どうかすると、一寸法師のような形をした、灰いろのきのこが一面に簇生ぞくせいしたりした。
「どうしてなかなか結構もんだ。いとにも乗れば、ちゃんと舞台いたについている。おめえが、踊りの下地がねえといったのは、ありゃあ嘘だろう」
「できることを、できないといって隠すいわれもないじゃあないか。あたしゃ、みんなと同じで、一つできることなら二つも三つもできるといいたい性分なんだよ。ほんとに、踊りのの字も知らなかったんだけれど、今じゃあ自分でも驚いているのさ。何だかこう雲にでも乗っているようで、ひとりでに手足が伸び縮みして動くんだよ」
「ひとりでにそれだけ踊れりゃあ、世話はねえ。大したもんだ。木場の甚さんにも話して、一小屋引き請けることになっているのだから、この分だと、いよいよ祭がきてふたをあけるのがたのしみだ。もう地割りも済んだことと思うが――木場の身内が、のぼりや幕で景気をつけてくださることになっているのだ。まあ、日本一太郎も、一度は江戸で、花を咲かせてみることになったよ」
「お前のほうはそれでいいだろうけれど、あたしは、この自分の手踊りが心配でならないんだよ。せっかくの大きなしものに味噌みそをつけやしないかと思ってねえ」
「なあに、そんなことはねえ。それどころか、ま黙って見ているがいい。おめえは今度の舞台で、江戸中の評判になるのだ。この日本一太郎がついているのだ。その日本一太郎が大丈夫金の脇差わきざしと踏んでいるのだ。案ずるこたあねえよ。万事おいらにまかせて、おめえは、ただ、みっちり稽古を励みな」
 日本一太郎は、こういい残して、その藤代町の木更津屋を出ると、その足で式部小路の磯屋へやって来た。そして、磯五の居間へ通されて、ぼんやりした顔で待っているところへ、ふところ手をした磯五がのっそりはいって来たので、日本一太郎は、ねむそうな眼で見上げて、ふんと小鼻に皺をつくった。
 挨拶もないのだ。それほどの仲なのだ。
「おう、磯五え」日本一太郎が、口の隅から押し出すようにいった。「お高坊のほうがうまくいって、おいらもおめえも、こんな安心なことはねえ。なあ、祝いごころで、ひとつ手妻ばかりの小屋をあげようと思うのだが、どうだ大将、見に来ねえか」


    舞馬ぶま


      一

 磯五は、お高に大金がこようとして、だいたい本人ということがわかっていても、お高の父として死んだ相良寛十郎という御家人がほんとのお高の父の相良寛十郎ではなくて、ほんとの父の相良寛十郎はまだ生きているらしいので、その実父が出てくると万事解決するといってみんなが、探しているということを、木場の甚から聞き出して、さまざまにあたまを悩ましたのだった。
 というのは、お高は、名義のうえでは自分の妻ということになっているのだから、お高が、そんな大きな財産の所有主もちぬしになれば、磯五も、何だかんだと小切りにいたぶることもできそうなものなので、それが、だいぶきまりかけていて、たった父の一件だけ引っかかっているとすれば、磯五としても、まことに残念だったから、何とかしてその実父の相良寛十郎を探し出してお高に財産がくるようにしようといろいろ骨を折ったあげく、考えついたのが、偽物にせものを仕立てることだった。
 木場の甚をはじめ、その身内の若い者や、一空和尚が探しまわっているのだから、とても磯五が一人の手で探し当てることができるわけもなければ、またその方便もないのだった。
 ところで、偽物を仕立てるといっても、木場の甚や一空和尚は、以前の相良寛十郎の顔を見知っているのででたらめのこともできない。そこで磯五は、何度も木場の甚のところへ通って、それとなく実の相良寛十郎の人相を聞いて、ふっと思い出したのが、むかし上方のほうを放浪していたときに、ちょっと出会ったことのある、日本一太郎という手妻使いの太夫である。
 思い出してみると、他人の空似ということをいうが、木場の甚の話によって磯五の心にでき上がった相良寛十郎の面影とこの日本一太郎は、年恰好から顔つき物腰までそっくりだったので、あれならきっと木場の甚や一空和尚の首実検にあっても、何しろ長らく見ないことではあるし、きっと通ってお高の実父ということになりすまし、その結果、お高は難なく財産を受けつぐことになるであろうと、そこで、自分は幸い日本橋の大店おおだなの旦那と納まっていて、贔屓ひいきにする芸人や香具師も少なくないことだから、それからそれへとだんだん手をまわして調べると、その日本一太郎という手品師は、今、おりよく江戸に流れ込んで来ていて、両国の小屋に掛かっていると知れたので、さっそく出かけて行って一伍一什いちぶしじゅうを話し、底を割って頼み込むと、しばらく考えていた日本一太郎が、
「それじゃあ、あっしが、その柘植のお高、もと高音といった女のおやじだと名乗って、面を出せばいいのですね」
「そうだ。いうまでもねえが、おれとは関係のねえことにして、木場の甚が、大岡様にお頼みして、自身番や寄合所に貼り紙がしてある。どこかでその貼り紙を見て、それで飛び出したことにしてもらいてえのだ」
「承知しやした。ものになるかならねえか、ひとつやってみやしょう」
 で、案外、すらすらと引き請けてこの日本一太郎がお高の実父相良寛十郎であると名乗り出ると、案のじょう、木場の甚も一空さまも、磯五の思ったとおり、あまり似ているのですっかりほんものととって、それでもいろいろとためしてみる。
 ところが、柘植の家のことや家出前後の事実は、磯五が、以前お高から、今また木場の甚から聞いたところをあらかじめ含めてあるし、また日本一太郎のいうところが奇妙にいちいちふしが合っていて、ついにほんとの父の相良寛十郎と認められ、お高に無事に柘植の財産が伝えられるようになったのだった。
 すべてがうまくいって、お高はいま、莫大な女分限者である。磯五は、離れてはいても、そのお高の良人なのだ。そろそろ何だかんだと金を引き出してやろう。さもなければ少しまとまった金を分けさせて、それで正式に縁を切るようにしてやろうと、磯五はその機会を待っていろいろに考えながら、このごろは、上きげんの日が続いているのだ。そこへ、だしぬけに日本一太郎がやって来ての話である。
「お高のほうがうまくいって、おめえもおいらも、こんな安心なことはねえのだ。どうだい。こんどひとつ手品ばかりの小屋をあけようと思うのだが、なあ大将、景気づけに見に来てくれねえか」
 磯五は、場所や日日ひにちのことを詳しく聞いて、連中を作って出かけようと約束したのだ。

      二

 七月十三日は王子権現おうじごんげんの祭礼で、俗にいうびんざさらの祭だ。お高のことで木場の甚と相識しりあいになった日本一太郎は、木場の甚の胆煎きもいりで、ここの境内の祭の前後五日間、自分が太夫になって手妻だけの小屋を張り通すことになって、大変な意気込みだ。
 手妻などというものは大道のものか、小屋に掛かってもほんのつけたりのもので、うどん粉のようなつなぎに過ぎなかったのが、はじめて一本立ちの興行をすることになったのだし、それに、さすらいの手品師日本一太郎老人にも、芸人としての矜持ほこりもあれば、一世一代に、老後の思いでとして一度ははなばなしく思う存分に舞台を持ってみたいとかねがね思っていた、その機会がはからず到来したのだから、腕によりをかけて当日を待っていることはいうまでもない。
 ことに江戸で有名な顔役の木甚きじんが太夫元なのだし、それに、日本橋の磯五が力こぶを入れている。芸人冥利みょうりに尽きる話だという、評判も評判、大変な前景気であったが、本人も、一生懸命で、相変わらず藤代町の宿屋木更津屋の二階で、今度の花形のお駒ちゃんに日本一太郎新考案の手踊り天人娘てんにんむすめ夢浮橋ゆめのうきはしを振りつけて、せっせと仕上げをかけながら、
「なあ、お駒ちゃん、おめえはこれで江戸中の人気をさらうのだぜ、みっちりやってもらおう」
「それは、わたしもこれで、芽を吹くか吹かないかの瀬戸ぎわだもの、みっちりやることはやっているけれど、江戸中の人気をさらうなんて、そんな見えすいたおだてはよしておくれよ」
「ところが、決しておだてでもお世辞でもねえのだ。おめえは自分の踊りっぷりがわからねえし、それに、おいらの頭ん中にある天人娘夢浮橋のものを知らねえから、それでそんなことをいうけれど、おいらは考えることがあるのだ。必ずこれで当たりを取って、おめえの名を売ってやるし、おらあ第一、こんだの舞台を最後に、手品にも何にも、芸人渡世はこれですっぱり打ち切るつもりでいるのだ。
 いや、芸人商売ばかりじゃねえ」と、日本一太郎は何か急にしんみり考えこんで、
「この世の中におさらばするかもしれねえのだ」
「何をいっているんだい」
 天人娘夢浮橋の衣裳が届いてきたので、お駒ちゃんは、その、日本一太郎の考案になる、羽衣の天人のような着付けで、本式に稽古の身振りを励みながら、
「あたしの出るところは、ほんのちょっぴりなんだろう? 当てれば、日本一太郎というお前の名が上がるばかりさ。お前の名を上げてあげようと思って、あたしはこんなに稽古に力を入れているのさ。いやだよ。じぶんのことなんか考えてみたこともありあしない。第一、お前、この世の中におさらばするなんて縁起でもない。莫迦ばかしいこというもんじゃないよ」
「いんや、そうでねえ。おいらはもうこの年齢としだからいつどんなことがあるかもしれねえというんだ」
 お駒は、日本一太郎がときどきへんなことをいったりすることのあるのを知っているので、そのときはそれきり黙りこんでしまった。
 祭の迫った十日に、日本一太郎とお駒ちゃんは、その木更津屋の宿を引き払って、王子権現の境内に木場の甚の手で建てられていた小屋掛けのほうへ移って行った。楽屋にごたごたころがっている手品の道具のかげに、むしろのはためく音を聞きながら寝泊まりすることになった。暑いころで、雨も降りそうでないので、この野天同様の住まいはお駒ちゃんにも日本一太郎にも楽しかった。
 両国で日本一太郎と同じ小屋にいたよしという若い者や、香具師の手から手としじゅう渡り歩いている連中二、三人、木戸番やら道具方やらが来ていて、それらは客席に煎餅蒲団せんべいぶとんをならべて、そのうえに車座になって一晩じゅう博奕ばくちを打っていた。手品の前座の芸人も駆り集められてきた。境内には、向かい合って、また背中あわせて、いろんな見世物の小屋がすくすくと立って、祭の支度で、王子一帯がざわざわしていた。

      三

 あすふたをあけるという前の晩に、日本一太郎は妙に考えこんで、楽屋の太い丸太の柱にもたれかかって、ぼんやりお駒ちゃんを見上げていた。日本一太郎は、どっちかというとおしゃべり屋のほうなので、それがときおりこうしてふっと黙りこむと、ことさらあわれに見えるのだ。
 お駒ちゃんは、その辛気臭くしている日本一太郎がいやであったから、あしたを控えて、町のようすでも一まわり見て来ようと思って、裏ぐちの梯子はしごからおりて行こうとすると、
「おめえは小屋にいなけりゃあいけない。いまたずねて来る人があるのだ」
「何をいっているんだい。あたしゃ王子に知りあいなんかありゃあしないよ」
「まあ、いいってことよ。お駒ちゃんはここに待っているのだ。おいらは、ちょっくら一まわり町のようすを見て来よう。あすを控えて、気にならねえこともねえのだ」
 日本一太郎は、いまお駒ちゃんが考えていたことと同じことをいって、お駒ちゃんを梯子口から押しのけるようにして、じぶんは、藍微塵あいみじんの裾をはしょってさっさと梯子をおりて行った。地面へ着くと、上から見おろしているお駒ちゃんを振りあおいで、
「その人が来たら、おいらは今まで待っていたが、行き違いに出て行ったといってくんねえ」
 そして、境内の立ち樹のあいだを縫って、まだそこここ小屋掛けやら飾り付けやらに立ち働いている人影といっしょになって町のほうに消えてしまった。
 お駒ちゃんは、いままで日本一太郎がよりかかっていた太い丸太の柱に返ってその根元にしゃがんで、襟に顎をしずめて、いったい知りあいの人といって誰が来るのであろうかとぼんやり考えていると、いま日本一太郎がおりて行った梯子を上がって、そこの上がり口の筵をはぐって磯五がはいって来た。
 磯五は、そこに思いがけなく、完全にすて切っていたお駒ちゃんを発見して、びっくりした。それは面白くないやつに出会ったと思ったが、磯五は、多くの女と、こういう場合には慣れているので、すぐ、そのむずかしい空気を笑いほぐそうとするように、自信に満ちた、巧妙な表情をするのだ。大げさに驚いてみせて、それからにこにこした。
「お駒ちゃんじゃあねえか。おめえは、こんなところで何をしているのだ。人が悪いぜ。さんざ探さしておいて王子くんだりの手妻小屋に隠れていようたあ」
「お前こそ何しに来たんだい。日本一の師匠は、今まで待っていたけれど、行き違いに出て行ったよ」
 磯五は日本一太郎のことなどは興味もなさそうに、その、頭巾の下のほの白い顔をこころもち傾けて、
「どうしたい、おめえ、おれの心がわかってはいないのか」
「そばへ来ちゃいけないよ。あたしゃ、お前の心なんかわかりたかないんだからね――でも、さんざ玩具おもちゃにされてすてられたってことだけは、これでもちゃんとわかっているんだからねえ」
「何をいっているのだ。おめえはどう変わろうと、おいらの心はちっとも変わっちゃいないのだ」
「じゃなぜ、妹だとか何だとか独廻ひとりまわしておきながら、用がなくなったらほうり出したのさ」
「誰もほうり出しゃしねえ。おめえのほうで、追ん出たんじゃあねえか」
「出なくちゃならないようにしたのは、いったいどこの誰だろうね。見せつけに、あのお美代やおしんなんかとふざけたりして――誰だって、見ちゃあいられませんからねえ」
「つまらねえことをいわずに――しかし、ここでおめえを見つけたのは、まだ縁があるというものだ」
「うふっ。相変わらず口がうまいよ。もうこりごり。よりをもどそうの何のと、味なことはいわないでおくれよ、あたしみたいな素寒貧すかんぴんの女を相手にしちゃあ、磯五様の估券こけんにかかるじゃあないか」

      四

「馬鹿! おめえは何か感違いをしているのだ。おいらは――」
「もうよしておくれよ。聞きたくもない」
「そっちは聞きたくなくても、こっちはいいてえのだなあ、お駒ちゃん、おめえはそんな情けないことをいうが、お前のこころはおいらにわかっているし、おいらのこころはお前にわかっているのだ。何もいざこざはねえのだ」
 磯五が、あやしく光るような、不思議なうす笑いをうかべて、そろりそろりと近づいてくると、お駒ちゃんは、太腿ふともものあたりに何かぴりりと走るものを感じて、泣き出しそうな笑い顔になって立ちすくんでいた。
 ふりきようのない魅惑がお駒ちゃんをつかんで、磯五とのあいだに持った場面の一つ一つがお駒ちゃんの眼のまえを通り過ぎた。それは、お駒ちゃんが、宝もののように大事にしている記憶であったが、そのために、木更津屋やこの小屋裏で日本一太郎とならんで寝ているときに、お駒ちゃんは夜中に眼が冴えて眠られないで困ることがあった。
 いまその夢の中の磯五が、白く笑って、もとよくしたように、お駒ちゃんの肩に手をまわそうとしたので、お駒ちゃんは溜息をついて自分のほうからすり寄ろうとしたのだが、そのとき、お駒ちゃんの見たもの、感じたものは、ぱちぱちと音をたててはぜて、そこら一面に燃えさかる、太い、赤いほのおであった。
 その火の中で、お駒ちゃんは、垂木たるきでも焼け落ちるような、大きな音であった。お駒ちゃんが、磯五の頬をなぐったのだ。
「あっ! 何をしやあがる」
 それは、お駒ちゃんが、火のような自分の感情の中で、磯五の頬桁ほおげたへ手を飛ばしたのだった。
 磯五は、感心したようににやにやして立っていたが、やがて、お駒ちゃんの憎悪に満ちた眼を見ると、はっきり怒りを感じて、つかみかかって来ようとしたが、そのとき、若い者や一座の手品師などががやがやいいながらおもてから筵をはぐって客席へはいって来たようすなので、磯五は、そのまま、すべるように裏の梯子をおりて出て行った。
 日本一太郎が帰って来たとき、お駒ちゃんはまだ、狂気のように大きな声をたて、誰もいない舞台うらにひとりで笑いこけていた。
 王子権現の祭の日本一太郎の手品の小屋は、満員だ。手妻に娘手踊りを加えた、新案の演し物天人娘夢浮橋が当たりを取ったのだ。五色の曇の書き割りで舞台にちょっと天上の景色を見せるという趣向も、受けたのだ。がお駒ちゃんはほんとのことをいうと、あまり感心しなかった。こんなものよりも、その前に二、三度出た、日本一太郎の指先の手品に心から感心していた。
 出幕になって、お駒ちゃんは、羽衣天人のような着つけで舞台に立った。気おくれがしたが、一生懸命に踊った。見物のほうは一面の顔で、その顔を見わけることはできなかった。白いもの、黒いもの、黄色いものが重なり合って、ぼやけているだけだ。
 舞台からすぐ近くのところに、磯五が、お美代とおしんをつれて、左右にすわらせて見物しているのなどは、お駒ちゃんののぼせた眼にははいらなかった。何も見ず、何も感ぜずにただ踊った。からだいっぱいと心いっぱいで踊った。かすかに感嘆の声を聞いたようでもあった。
 日本一太郎のふんしている三保の漁師が眠っている上を軽く飛んで踊るところへきた。ここには、いろいろとむずかしい所作があるのだ。お駒ちゃんは夢中でそれをつづけていた。舞台のあちこちに蝋燭がついて、それが、お駒ちゃんの袖や裾にあおられて高く低くゆらいだ。その加減で、書き割りの雲がかげったり浮かんだり、走ったり止まったりするように見えた。
 眠っていた漁師が起き上がった。お駒の天女と、日本一太郎の漁師と、ふたりもつれ合って踊りになった。漁師が追いかけると、天女は逃げるように舞った。戦うような、からむような仕ぐさだった。漁師の手が届きそうになると、天女はするりとかいくぐってかわした。そこで雲に作られた大きな板が一枚、ふわりとおりてきて、そのかげにお駒ちゃんがつかまって釣り上げられる仕組みだった。それで、お駒ちゃんが消えたように見えるのだった。
 その大事なところへきたので、お駒ちゃんが踊りにまぎらして上を見ると、雲の板が降りかけていた。お駒ちゃんはちょっと身構えをして雲を待った。一瞬間だが、しんとしたなかに見物の息づかいと蝋燭のゆらぎが感じられた。その蝋燭の光がだんだん大きく明るくなるような気がして、お駒ちゃんがふと奇妙なことに思ったとき、見物席に波のような怒号が沸いた。男と女と老人と子供の声のまじった、山くずれのような叫喚さけびであった。
 お駒ちゃんははっとして、われにかえったような気がした。ぱちぱちと木のはぜる音がお駒ちゃんのまわりにあった。大きな赤い舌が舞台と書き割りと壁の筵と板囲いと、そのなかの人を包んでなめまわろうとしていた。締めるような熱さが四方から迫ってきた。その中で、雲の板が切り落とすようにおりてきて、舞台を打って大きな音をたてた。
 お駒ちゃんは本能的にとびのいて、楽屋へ逃げ込もうとした。押された見物が、きちがいの群れのように舞台に駈け上がって来ていた。お駒ちゃんは、眼と口を大きくひらいて叫ぼうとしたが、臭い熱い煙がはってきて、声にならなかった。お駒ちゃんは、二つに折れて舞台を走りながら、つぶやいていた。火はもう小屋全体に高くあがっていた。


    投げ入れぶみ


      一

「ふんそうか」忠相ただすけが笑うと、切れ長の眼尻めじりに、皺が寄るのだ。さざなみのような皺だ。しぼの大きなちりめん皺だ。忠相は、そのちりめん皺を寄せて、庭のほうへ膝を向けた。
「ふん、そうか」
 忠相は、江戸南町奉行大岡越前守忠相だ。外桜田そとさくらだに近い、屋敷である。奥まった書院づくりの一室で、縁に近く、野山の雑草、雑木をそのまま移し植えてあるので、いながらにして深山にある思いがする。忠相の趣味である。
 八刻半やつはんの陽ざしは、やっと西へまわりかけて鋭い。青葉の照り返しで、畳が青い。調度も青い。忠相の顔も青い。微風が渡る。青い影が、畳にも、調度にも、忠相の顔にも揺らぐ。わざと手入れをしない雑草と雑木のあいだを、羽虫はむしがむれをなして飛んでいるのが、その百千のはねが白く光って、日光のなかでちりが舞っているように見える。忠相は、不思議な現象を発見したように、それを見ているのだ。
 やがて、あくびをした。八葉剣輪違はちようけんりんちがいの紋服の着流しに包まれた、小ぶとりの膝を、そのあくびといっしょに、ぽん、とたたいて、
「そうか。死んだか」
といって、じろりと敷居ぎわを見た。そこに、黄びらに、木場と染め抜いた麻の印半纏しるしばんてんを重ねて、白髪しらがまげをみせて、木場の甚がちょこなんとすわって、おじぎのような、おじぎでないような、首を曲げて考えていた。不意に、そうか、死んだかといわれて、ななめに、ぴょこりとひとつ頭をさげた。
「はい。死にましてございます。やっこめ、冥加みょうがな野郎でございますよ。焼け死にましてございます」
「その、びんざさらの火事でな」
「はい。王子権現境内の手妻使い、日本一太郎と申すものの掛け小屋に失火がございまして――」
「これこれ」忠相が、ちょっと声を高めると、次の間との襖を背に、ぼんやり控えて殿と木甚との会話やりとりを聞いていた用人の伊吹大作いぶきだいさくが、かしこまって、耳を立てた。忠相は、いや、お前ではないというように、ちらとそっちへ笑顔を向けて、木場の甚へつづけた。
「これ、気をつけてものを申せ。失火とは火を失う。過失、失態などと申して、すなわちあやまちである。その見世物小屋の火事はあやまちであったというのか。証拠は、あるか」
 木場の甚は、にっこりした。
「証拠は、ございません。しかし、つけ火にしちゃあすこし腑に落ちませんので」
「放火ならば、何人なんぴとか火を放ったものがあるであろう」
「それは、ございましょう」
「わかり切った話じゃ。何が腑に落ちん」
「はい、つけ火でないといたしますと、あまり都合のいいときに燃え出しましたようで。はい、何のことはないまるで、磯屋五兵衛を焼き殺すために――」
「はて。だから、放火にきまっておる」
「つけ火といたしますれば、下手人げしゅにんを出さねばなりませぬ」
「放火したものか。それは、わかっておる」
「はあ?」
「放火したものは、死んでおるぞ」
「は」
「法により、その放火した者の家蔵いえくら、家財、あきない品、一切没収じゃ」
「――」
 享保きょうほう七年のことで、忠相は、四十六歳になる。四十六歳の忠相は山田奉行として、また普請奉行の一年間、それから江戸南町奉行に任官してこの五年のあいだに、あまりに多くを見、多くを聞いてきている。四十六歳の忠相は、もう一度、あくびをした。あくびの余韻よいんを口の中でころがしているうちに、それが、謡曲とも詩吟ともつかないうなり声になって、忠相は、いつまでもそれをつづけているのだ。
 木場の甚は、平伏していた。伊吹大作は、すこしずつ何かがわかりかけてきたように、眼をきらめかせて、横を向いているのだ。

      二

 政朝に鍾馗しょうきを設けて、寃枉えんおうの訴えをきくという故事は、王代の昔だ。このデモクラテックな制度が復活して、目安箱という、将軍吉宗の命に出るものだが、忠相の建策だ。この前年、享保六年八月一日から、評定所ひょうじょうしょに目安箱を置くことになった。申告受付け箱だ。これを民間に説明するために、その一月ほどまえの七月六日に、忠相は、日本橋の高札場に高札を立てさせた。
 そのころ、ところどころへ名も住所も書いてない捨て文をして、法外のことがあるので、毎月、二日、十一日と日を限り、評定所の外の腰掛けに箱を出しておく。書き付けを持って来て、この箱へ入れるのだ。
 時間は、昼間の九時間だ。箱のそとへ落としても何にもならない。悪人の仕置きに参考になる、証拠や反証でもいい。役人の私曲非分は、大いに歓迎する。繋訟けいしょう中の事件で、係の役人があまり長くうっちゃっておいて迷惑していることなどもどしどし投書してよろしい。
 が、単にじぶんのためや、わたくしの意恨で、人のことを悪くいうのはつけないお取り上げにならない。何ごとによらず、じぶんで確かでないことや、また人に頼まれたからといって、両方のいい分を調べてもみないで、すぐ目安箱へほうりこむことはならぬ。何でもありのままに書いて、作りごとやごまかしは全然許されない。これらはすべてお取り上げにならないで、その投書は焼き捨ててしまう。
 投書はみな持って来て箱へ入れなければならない。訴人の名前、宿所は必ず明記すること。これのないものはお取り上げにならない。
 続々と投書があつまるなかに、天下国家の政道に関するものも多いが、個人の隠れたる犯罪をあばいてくるものもすくなくない。その中に、以前からちょくちょく、日本橋式部小路の呉服太物商磯屋五兵衛を呪訴じゅそするものがひんぴんとあって、その中でも、ことに三通、何となく忠相の注意をひいた。
 一は、龍造寺主計と名乗る浪人から、二は、下谷拝領町屋雑賀屋の寮の料理人久助という者から、三は、小石川金剛寺内洗耳房の禅僧一空からであった。
 三通とも、日本橋式部小路の呉服屋で、茶坊主上がりの磯屋五兵衛が、陰で色仕掛けで悪いことをしている事実に触れたもので、龍造寺主計は、彼が、庄内十四万石、酒井左衛門尉の国家老をつとめている弟の龍造寺兵庫介から金はふんだんに出るので、そのとき若松屋惣七が失敗して困っていた掛川宿の脇本陣具足屋に金を入れて、その経営を引きうけて江戸を発足するまえに目安箱へ入れたものであった。
 それは、磯五が上方における若竹との旧悪から、おせい様をたぶらかして磯屋の店を手に入れたこと、それから若松屋惣七の両替ならびに仲介業なかだちぎょうをつぶそうとした奸悪かんあくな手段にまで言及したもので、完膚かんぷなきまでに磯五をやっつけたものであった。
 第二の久助の訴状は、じぶんの娘のお駒と磯五の関係、磯五とおせい様の仲、おせい様をいいようにして金をせしめようとしている磯五の手段など、それも、色悪いろあくとしての磯五の正体をむいたものであった。
 第三の一空和尚のは、若松屋惣七方の女番頭お高という女が、名義上磯五の妻ということになって縛られていて、そのため再縁はもとより、思うままに暮らすこともできず困っているからなにとぞお上の力でその縁を切って、お高を自由にしてもらいたいという、やはり色事師らしい磯五の悪辣あくらつさを突いた文面であった。
 目安箱は評定所五手掛ごてがかりの管轄で下役がひらいて、取るに足らないのはそのまま取りすててしまうのだが、あまりこの磯屋五兵衛という人物に関して重ねて投書があるので、取り上げになるかならないか、そこらの裁断を越前守に一任するとともに、三通の書き物をまとめて、そのまま南町奉行のほうへまわしてよこしたのだ。いわば市井しせいの雑事で、五手掛の役人は、もちろんとるに足らないと思ったのだろうが、この取るに足らない市井の雑事こそは、奉行越前守にとっては、天下の一大事であった。
 市井の些事さじ、奉行職の眼からはすなわち天下の一大事とみているのが、忠相であった。忠相は、何となくこの磯屋の一件が気になった。それは何も、表立った白洲しらすにかかっているわけではなく、どこといってつかまえどころのない、底にうごめいている暗流のようなものであったが、忠相は、そこに、早晩何らかの形で、事件として持ち込まれてくるであろう可能性をみたのだ。関係人物の立場とうごきとからみて、当然破裂しなければならない運命を予知したのだ。
 法は、法を用いざるをもって最上とし、取り締まりは、取り締まる必要のないように、ことを未前にふせぐのが、その任にあるものの分別である。忠相は、磯五のことが気になって、それとなく気をつけながら、おもて立った事件にならないうちに、何とか解決をつけようと試みたのだ。やみから暗へ処分しさって、お白洲の砂のうえに持ち出させまいと考えたのだ。持ち出さなければならないにしても、その持ち出されたときには、できるだけ簡単なものになっているようにしたいと思った。
 忠相は、早くから、この式部小路と、金剛寺坂と拝領町屋をつないで、うごく推移に、眼を凝らしてきたのだ。じっと、遠くから見守っていたのだ。すべての小事件、すべての人の動き、それらはみな、いながらにして忠相の知るところだった。目前に鏡をかけて遠景を映して見るように、忠相は何もかも知っていたのだ。
 そのために彼は、三人の人物を使ったのだった。ひとりは、手附てつけの用人伊吹大作の弟で錦也きんやであった。錦也は梅舎錦之助うめのやきんのすけと偽名して、一時お駒ちゃんの情夫となり、それとなしに磯五の人物、策動、磯屋の内幕などをさぐり出した人であった。
 これは御用の役人といえば役人であったけれど、他の二人は、全く私人関係で、忠相に頼まれてうごいた人たちだった。ひとりは若松屋惣七の従妹の歌子で、もう一人は、若松屋惣七と歌子の親友である紙魚亭主人の麦田一八郎であった。

      三

 はじめ忠相は、若松屋惣七の身辺に近い者を求めて若松屋惣七の側から、惣七を通して、磯五を探ろうと考えて、若松屋惣七の縁辺を物色して、歌子を得たのだ。
 歌子は、惣七の利益ためになることなので、すぐ引き受けたのだったが、もうひとり助勢を求めて、大槻藩の麦田一八郎の名をあげたのだった。一八郎は自用に託して、ちょいちょい出府して来ては、それとなく若松屋惣七をとおして磯五に眼をつけていた。歌子は、お高とおせい様に交わってその方面から磯五の悪計を看視してきた。
 ふたりは、そのために多勢で片瀬の龍口寺へお詣りしようとして、それはお流れになったけれど、そのかわり、雑司ヶ谷の雑賀屋の寮まで出かけたり歌子は、おせい様と同道して、東海道を由井宿まで旅したりした。
 それがいちいち報告されて、忠相は、手の平を読むように、もう磯屋五兵衛をつかんでしまっていた。こうして磯五のまわりには、眼に見えない法の網が、日一日と細かく編まれつつあったのだ。
 このやさきに、木場の甚の手に持ちあがったのが、和泉屋の一部を柘植の財産として柘植家の唯一の血筋であるお高に譲ろうとの一件だ。
 和泉屋という大店おおだなの財産が動くのだし、それに、お高という女が確かにあの柘植宗庵の娘おゆうと婿相良寛十郎とのあいだにできたものとわかって和泉屋の一部へ手を置くことに決まれば、その他、あちこちから地所やら家作やら莫大な資財がお高にあつまることになるので、これは、広く容易ならざる関係を及ぼすことであるから、これらのことはすぐ奉行所の耳へもはいって来ていた。
 和泉屋からも、非公式に具申してきていたし、それよりも、木場の甚は、ふるくから深川の顔役で、公事くじやその他いっさいの口ききで、数寄屋橋すきやばしぎわの奉行所へは日参していたし、忠相も、しっかりした老人をみて、以前から半官式に深川一帯のことをまかせて、忠相と木場の甚とは、役目を離れて、ある意味では友人でもあった。いつもこうして、屋敷で膝ぐみで話をしてきた。
 また奉行の忠相と、相対ずくで会話はなしのできるのも、この木場の老人だけだった。で、和泉屋とお高のこと、そのお高へ行くべき柘植の財産を木場の甚が管理してきたことなどは、忠相は木甚から聞いて、とうに知っていた。
 だから、お高の実父の相良寛十郎という御家人がまだ生きているはずで、それが現われないのでお高のほうへ行くべきものが一時迷っているときに、木場の甚の願いを許して、江戸中の番所、寄会所、湯屋、髪結い床など人眼につきやすい場所に、あの、相良寛十郎のその後や在所ありかを知っていて申し出るかまたはその手がかりとなるべきことをしらせた者には礼をする意味の貼り紙をさせたのは忠相だった。
 その貼り紙が出て、日本一太郎なる手妻使いの芸人が、じぶんこそそのお高の父の相良寛十郎であると名乗り出て、そのために、和泉屋の口をはじめ、お高に巨額の財産が移ったのだが、事実は、その日本一太郎は、磯五の思いつきで、磯五に頼まれて、父と称して出たというのだ。
 磯五は、京阪かみがたで日本一太郎に会ったことがあるので、木場の甚の口やなどで日本一太郎を思い出して、ちょうどぐあいよく江戸に来て両国に掛かっていることがわかったから、似ているらしいからこれなら通るだろうと名乗らせて出したところが、案のじょううまく通ったのだった。
「あの磯五てえ男も、利口なようで馬鹿なやつでございます」
 木場の甚が、何かしんみりした口調でいい出していた。忠相は口をつぐんで、むう、むう、というような音を舌の上でころがしながら、じろりと木甚を見ただけで何もいわなかった。木場の甚がつづけた。
「あの日本一太郎を真物ほんものの相良寛十郎とは知らずに、すっかりにせものを仕立てた気で出してよこしたのだから、笑わせるじゃあございませんか」
「そうさな。愚かなやつであったな」
「あのまた、日本一も人が悪うございますよ。自分がお高の父親てておやの相良寛十郎のくせに、磯屋のほうへは片棒かついで化け込むと見せかけて、知らん顔してわっしのところへ面を出すなんざあ、ちょいとできる芸当じゃあございませんね」
「申しおる。お前が、前もって、かの日本一太郎を見つけ出して、そっと磯五とそういう話し合いになるように、日本一太郎のほうから磯五へ、それとなく在所ありかを知らせさせたのではないか。つまり、万事お前が仕組んで、磯五が引っかかったのであろうが」
 忠相がほほえむと、木場の甚も笑い出すのだ。
「どういたしまして。殿様こそお人がわるい。こうしてああして、磯屋に日本一を近づけるようにしろ。これでひとつ、磯五を取って押えるようにしようではないか――とおっしゃったのは、あれはいったいどこのどなたさまで!」
 二人の笑いに伊吹大作も加わつて、そこへ、そよ風が吹いてきて、青葉のゆらぎがゆらゆらと部屋中にうごいた。

      四

 どうして火が起こったのかわからなかったが、はやい炎の舌だった。お駒が気がついたときは、日本一太郎の姿はどこにも見られなかった。
 お駒のまわりには、赤い火の色と、ぱちぱちいう木の燃える音とがあるだけで、その中に、津浪つなみのようなひびきと黒いものの動揺があった。津浪のような響きは、観客や舞台裏の人々の叫びであった。黒い物は、逃げまどう者の頭や手や足であった。めいめい勝手な方向にもみ合って、全体としてはすこしも動かなかった。その上を、赤い馬の形をした火炎や、白い龍の姿をした煙や、紫のかたまりのような火とけむりの影やが、茫々ぼうぼうと、団だんと、またしいんと静まり返ってなめまわり、燃えさかっていた。
 じっさいそれは、日本一太郎が取り出してみせた、最も効果的な、もっとも幻想的な手品の一場面であった。お駒ちゃんは、今度の興行では必ず江戸の評判になって、一世一代の花を咲かせてみせるといった日本一太郎のことばを想い出して、一生懸命に舞台を駈けまわって火とけむりの下をくぐりながら、あの人はこのことをいったのであろうと薄気味わるい気がした。
 火は高く上がって、どこからでも見えるようになっていた。王子権現の手妻小屋が火事という声は、かすかに煙の見える範囲へまでたちまちのうちにひろがった。遠く近く半鐘が鳴って火消しが集まりつつあった。場所が祭の雑沓なので、騒ぎは倍にも三倍にもなった。
 お駒ちゃんは、その天人姿の扮装ふんそうのまま舞台をいったり来たりして走りながら、叫ぼうとしてけむりにむせる。お駒ちゃんは、下の土間に立って、人にはさまれて袖で口をおおっている磯五を見たのだ。磯五は茶人のような頭巾を脱いだことがないので、どこにいてもすぐ眼につくのだ。磯五は、左右に一人ずつ女を抱きかかえて、きちがい犬のように見にくく取り乱してあちこちよろめいていた。
 お駒ちゃんは一瞥ひとめでその二人の女をみて取った。それは磯屋のお針頭のおしんと、もう一人の若いほうは、小間使いのお美代であった。お美代は、小間使いというよりも、お駒ちゃんが磯屋を出たあとは、おおびらに磯五のめかけのようになっている女であった。おしんは、以前まえから磯五とそういう交渉があって、お駒ちゃんのいたころから、お駒ちゃんとおしんのあいだには、いざこざが絶えなかったものだ。
 がお駒ちゃんは、いまその女たちのことをどうこう恨みがましく考えているのではなかった。ただ、お駒ちゃんがよく見ると、磯五がおしんとお美代をかかえているのではなくて、おしんとお美代が左右から磯五に取りすがって、磯五の進退の自由を奪っているのだ。
 お駒ちゃんは、その二人の女へのくやしさなどはこの場合忘れていた。そんなことはどうでもよくて、三人を助けたかった。ことに磯五は、何とかして救い出したかった。何ともして助けなければならなかった。
 ところがお駒ちゃんが夢中で舞台を飛びおりて、人をかき分けてやっと磯五のまえまで行くと、磯五とおしんとお美代と三人がいっしょにお駒ちゃんを見つけて、三つの口が同時に叫んだ。それは叫んだのではなくて、叫びも何もしなかったのを、お駒ちゃんにだけ、まるで三人が叫びでもしたように、大きな声で聞こえてきたのかもしれなかった。
 磯五の声は、こう聞こえた。こう聞こえたような気がした。
「お駒! 苦しい。助けてくれ! おしんとお美代がおれを殺そうとしているのだ」
 それと同時に聞こえた、あるいは聞こえたような気がしたおしんとお美代の声は、全くおなじ文句であった。
「お駒さん! 近寄っちゃいけません。近よらないでください。あたしたちは、ふたりとももっと苦しいんですよ。ですから、二人で相談して、いま、この火事を幸い、いっそ磯五さんを仲に、三人で心中するんですよ。無理心中ですよ。決して磯五さんを離しませんよ。ここで三人で死ぬんですから――」
 お駒ちゃんは、せめて磯五だけでも助け出したい、助けなくてはと思って、その磯五にしがみついているおしんとお美代にかぶりついて行ったのだが、ふたりは、まるで女とは思えない力で磯五を抱き締めていて、お駒ちゃんにはどうすることもできなかった。
 磯五は、ほう、ほうというような、かもめの鳴くような声を絞って、二人の女を振り切ろうとしてあばれていた。それは、火の中で独楽こまがまわっているように見えた。
 お駒ちゃんは、じぶんが死にそうになるので、磯五のかたわらを離れて小屋のそとへはい出したのだが、お駒ちゃんが最後に見たものは、おしんとお美代にがっしとおさえられて、火煙の中から柱のように首を伸ばしてもがいている磯五の顔であった。

      五

「すると、その駒と申すものは、助かったのか」
 忠相がきくと、木場の甚はうなずいて、
「さようでございます。助かりましてございます。じぶんでは、まるで夢のようで、何事もとんと記憶おぼえておりませぬそうでございますが、おりよく父親てておやの久助と申すものが、娘の舞台を見ようとして来かかる途中から火事を知りまして、いそいで駈けつけ、小屋のすぐそとにけむに巻かれて倒れているのをやっと間に合って助けましてございます」
「それは、よかった。いやしき女ながら、心がけのよいものである」
「さようでございます。焼け死んだのは三人でございます。男女の別もわかりませぬほど、焼けただれておりますが――」
「ふむ、その無理心中の三人であろう、女どもは、心柄とはいい条、可哀そうなことをいたしたな。日本一太郎はいかがいたした?」
「さ、その日本一太郎でございますが、屍骸しがいはもとよりございませんし、屍骸がないくらいでございますから、助かったには相違ございません。が、火事以来、どこへも姿をみせませんので」
「探すな」
「はい」
 忠相はふたたびほほえんで、
「それとも、探し出して、そちと突き合わせてやろうかの」
「は?」
「いや、よそう。そちが困るであろうから」
「へへへ、お殿様、御冗談で」
「冗談ではないぞ」
「御冗談ではございません、といたしますと?」
「いって聞かそうかの」
「どうぞ。うけたまわりとうございます」
「日本一太郎は、死んだのじゃ。近く死ぬようなことを申しておったに相違ない。死んだことにしておけ」
「は」
「死んだほうがよいのじゃ。高とやら申す、その娘のためにも」
「なぜでございましょう」
「父らしゅうない父であったことを今さとって、恥じているからじゃよ。しいて愛情を殺して、娘にもよそよそしくしておったことであろう。娘の妨げにならんように、身を隠したかったに相違ないな。
 死んだものじゃ。すておけ、すておけ。身を殺し、また、娘の悪夫を殺して俗に申す腐れ縁、それから娘を解き放したのじゃよ。見上げた分別じゃ。ほめてやれ。が、ほめてやりとうても、仏であったな。あははは、拝んでやれ」
 木場の甚はにっこりして、その笑顔を隠すためのようにうつむいた。が、忠相は、すばやくみつけて、
「笑いおるな、そろそろ参るぞ。よいか。ここにひとり、白髪しらがあたまの、他人ひとの頭痛を苦に病むことを稼業しょうばいにしておるおやじがおると思え」
「へ」
「日本一太郎と計らって、はじめから筋を編んだな」
「――」
「まず、日本一太郎の手品というに眼をつけたな」
「――」
「つぎに祭である。もってこいじゃ。そのおやじは香具師やし縄張なわばりなどにも顔のきくところより、日本一太郎を後見し、自ら太夫元たゆうもととなって祭の境内に一小屋あけるな」
「――」
「日本一太郎とは、はじめから手はずがついているのじゃが、待てよ、その日本一太郎は、昔しりあいの女子おなごに会うて、それがまた娘の良人にたぶらかされたと聞いて、こりゃ怒りを大きゅうしたかも知れぬな。むりもない。
 いよいよ、おやじめと取り決めた計略を行なわんと、いっそうこころをおどらして、それとなく、娘の夫なる者にも来観を依頼する」
「――」
「その者は、おのれの手先、おのれの味方と信じておるから、はかられるとは知らず、大いによろこび、総見の気で、女子ふたり引きつれて初日に出かけたといたそう。筋書きどおりに、火を失したな。しかも、その者は筋書きどおりに焼死いたしたのじゃ、さすがは日本一の手妻じゃ。日本一、日本一、面白いぞ」
「恐れ入りましてございます」
「何も、そちが恐れ入ることはない」
「いえ、恐れ入りました」
「そうか。恐れ入ったか」
「恐れ入りました。が、二つほど手前にはまだわからぬところがございます」
「何がためにさような手品を考案いたしたか、また、何ものが都合よく火を失したか、この二点であろうがな」
「御意にございます」
「ついでじゃ。いって聞かそう。一に、そのこころざしを罰し、わざわいを事前にふせぎ、世の禍根を除くため、であろうと、まず推測いたすな。縁を絶たれた名ばかりの妻も、若後家となって、良縁を求めて再嫁することもできるによって、まず、このほうも人助けかな」
 木場の甚も、そばで黙ってきいてきた伊吹大作も、いつのまにか平伏しているのだ。
 忠相は、庭の木もれ陽に眼を細くしながら、ひとり言のようにつづけて、
「が、火事はけ火であるぞ」
 うめくようにいった。木甚はいっそう平たくなって、
「申しわけございませぬ。やり過ぎましたでございましょうか」
「火事は、放け火であるぞ」
「はっ」
「放け火は重罪。家財没収、家は没落じゃ。磯屋五兵衛の遺産いっさい、家屋敷、有り金、蔵の品、すべて取り上げるがよい」
「あの、磯五が放け火を――」
「さようじゃ。小屋に火を放ったのは磯五である」
「はい――して、その、お召し上げになりました磯屋の財産は」
「出したところへ返るのじゃ。拝領町屋の雑賀屋とやら申したな」
「恐れ入りましてございます」
「貴様にも似合わん。きょうはよく恐れ入る日じゃな。いや、法を用いずして、よく法を達してくれた。四方八方、届いた計らいじゃ。近ごろの会心事、礼をいうぞ」
 忠相は、そのまますっとたち上がると、そっとすそをけるように歩いて、廊下づたいに奥へはいってしまった。伊吹大作が、あわててつづいた。木場の甚は、敷居をなめそうにひれ伏していて、主従の去ったのも知らないようすだ。雪白のまげが、鶺鴒せきれいの尾のように、こまかくふるえていた。そうしたまま、いつまでもうごかないのだ。
 これより以前に、若松屋惣七は、東海道の旅をつづけて、掛川宿に着いていた。小田原、府中、まりこ、岡部、ふじ枝、島田、大井川を渡って、そこからまた駕籠かご、かなや、日坂、で、掛川である。太田摂津守五万三十七石の城下で、江戸から五十五里あまりだ。一本路の大通りだ。脇本陣具足屋は町の中ほど、眼抜きの場処にあるのだ。
 若松屋惣七の駕籠が広い間口のまえにおりると陽がかんかん照って通行人がぞろぞろ歩いて犬が走っていた。


    雲の峰


      一

 掛川は、人口もかなりあり、いかにも太田摂津守五万三十七石の城下らしい、どっしりと古びた町だ。具足屋は、龍造寺主計が来てから、すっかり面目を一新して、これだけの町の脇本陣の名にそむかない、立派な間口と、絶えない客足を誇っていた。駕籠がとまって若松屋惣七がおりるのを見ると、つややかにふきこんだ広い上がりかまちから、龍造寺主計がころがり出て来て、惣七を迎えた。
 が、駕籠が一つきりなのを見て、龍造寺主計は、ちょっと失望のいろをうかべて、
「お主だけか――」
 と、いった。このことばの影には、お高はいっしょに来なかったのかという意味があったのだが、若松屋惣七は気がつかなかった。まして龍造寺主計の失望の色には、少しも気がつかなかった。
「うむ。しばらくでありましたな」
 きげんよく笑って、立った。龍造寺主計もすぐ気がついて、瞬間のうちにその失望から立ち直って、いつもの快活な彼に返っていた。いま、お主だけか、と驚いたように聞いたことに引っかけて、
「お主だけか、ひとりではたいていではなかったであろう。眼は、もうよいのか」
「眼か。よいようでもあり、よくも悪くもならんでもあり――龍造寺殿の顔ぐらいははっきり見えるよ。ときに、だいぶ繁盛のようじゃな」
「来るくるといって来んもんだから、いかが致したかと思っておった。後刻ゆるゆるとそこここ見てもらいたいし、その後の商売の模様など、話はいろいろ積もっておる」
 二人は、久しぶりに会った兄弟のような気もちに、とけ合って行っていた。龍造寺主計の案内で、若松屋惣七は、具足屋のうちからそとからそこここ見てまわって、その後の商売の模様などいろいろと話し合った。
 帳面の上では非常なもうけになっているのだが、つい最近まで兄の借金が残っていて、そっちのほうへまわしていたため、このごろになって具足屋は、やっと龍造寺主計の身銭みぜにから離れて、家だけの財政として独立したかたちになっていた。大変なはやりようで、食事どきには広い台所の板の間に膳部がならび、いつ見ても、草鞋わらじを脱いだりはいたりする人が、二、三人も四、五人も土間のあがり口に腰かけていた。
 帳場の奥の部屋へ通ると、若松屋惣七はあらためて龍造寺主計に礼をいった。武士上がりで今は、旅籠屋はたごやの主人という、変わった経歴の龍造寺主計は、見ていると面白いほど、相手と場合によって、さむらいになったり宿屋の亭主になったりして、それがまた、何ら不自然な感じを見せずに、二つの性格を生きているようすだった。
 若松屋惣七が礼をいうと、そのときは龍造寺主計はすぐ武士に立ち返って、
「なあに、おれには何もできはせぬ。これもすべて、江戸の若松屋惣七がいよいよ真剣に乗り出したという評判が立ったからだ。いわばお主は、江戸にいて、この掛川の具足屋を生かしたのじゃ」
 などとあっさり謙遜けんそんして、相手を立てた。それからこれは述懐らしく、しんみりいった。
「武道と商道は一致するものだな。どちらも気ひとつである。硬きがごとくしてやわらかく、柔らかきがごとくして固く、つるぎをとる要領で算盤そろばんを持つのだ。剣をとるには、濡れ手ぬぐいを絞るようにやんわり持つ。そろばんを手にするにも、このこつが第一だ――ということを、なに、このごろ発見したばかりじゃ。あはっははは」
 とつるりと顔をなでて、もう何をいったか忘れたようにすまし返ったのだが、そのようすをぼんやり網膜へうつして、若松屋惣七は、相変わらずの龍造寺主計であるとにっこりした。
 龍造寺主計の義侠ぎきょうで、もとの経営者東兵衛とうべえの妻女が女中頭に使われていて、挨拶あいさつに出た。東兵衛は、まだ気がふれたままで裏山に掘立て小屋を作って入れてあるとのことだったが、若松屋惣七は、妻女の気もちも察して、見舞う気になれなかった。
 経営の打ち合わせや、帳簿の引きあわせなど、そのために来た用事が、何日もつづいて尽きなかった。二人は、毎日帳場にすわって、話しこんだり、出入りの客に挨拶したりしていた。田舎いなかびた鷹揚おうような、鈍重なその日その日だった。激しい江戸の生活で疲労していた若松屋惣七の神経は、恐ろしいスピイドで恢復かいふくしつつあった。
 よく雨が降った。雨雲を仰ぎながら、旅人の一団が前の街道を走り去ると、それを追って、白い驟雨しゅうういて過ぎた。ほこりをしずめて、まちは銀に光った。かっとまた太陽が照りつけて、けむりのような陽炎かげろうがゆらいだ。松のあいだをゆく笠が、それ自体ひとつの生物のように、軽快にうごいて見えた。大名の行列もいくつとなく通った。具足屋に泊まったのも、すくなくなかった。そんなような、毎日だった。
 若松屋惣七は、遠く離れて、いっそうお高のことを真剣に思うようになった。龍造寺主計は、久しぶりに若松屋惣七を見て、そして、惣七といっしょに来るであろうと思っていただけに、またいっそうお高のことを思うようになった。ふたりは、ときどきぼんやり考えこんで黙りこんでいることがあった。
 どっちか、先に沈黙に気がついたほうが、きいた。
「おぬし、何を考えている」
「お主こそ、何を考えておった」
 二人とも、お高のことを考えていたとはいわずに、
「なに、ちょっと――」
 と、同じことばを同時にいいあって、それから、いっしょに笑った。そして、ふっとまた黙りこくって、両方ともお高のことを考えた。

      二

 そのお高のことで、一空和尚いっくうおしょうから飛脚が来たのだった。王子権現の祭で、日本一太郎と名乗るお高の父相良寛十郎の掛け小屋で火事があって、磯屋五兵衛が焼死して、お高が自由の身になったというのである。
 この手紙を見ると、仕事もだいたい片づいたところだったので、若松屋惣七は、すぐ江戸へ帰ることになったが、龍造寺主計も、しばらく江戸を見ていないので、あとを東兵衛の妻女にまかせて、若松屋惣七といっしょにちょっと江戸へ出ようといい出した。若松屋惣七も、道づれにはなることだし、長らく田舎にくすぶってきた龍造寺主計に江戸を見せたい気も多かったので、二人はすぐに旅支度をととのえて出発した。
 お高は、拝領町屋の雑賀屋のおせい様の家から、小石川金剛寺坂の若松屋惣七の留守宅へ帰ってきていた。晩春のような、だるい憂鬱ゆううつな空が、むしむしする熱気をもって、金剛寺坂のあたりを押えつけていた。お高は、何かに呼ばれてここへ帰って来たものの、さて、その自分を呼んだものが何であるのか、さっぱりわからないといったような、夢の中で暮らしているような気もちをつづけていた。
 磯五が焼け死んだことも、うれしいようであり、かなしいようであった。それは、自分があの色悪いろあくと縁が切れて、じぶんをどう生かしてゆこうと自分の勝手になってきたのはうれしかったが、それでも、あの磯五ともう戦うことがなくなり、それに、今後じぶんは、単なる金の番人として暮らして行かなければならないと思うことは考えるだけで、かなりにお高を不愉快にし、かなしいことだった。
 自分に財産がきてから、若松屋惣七が急によそよそしくしだして、とてもいっしょになる気もちなどはないらしく見えたからだった。財産のあるお高と夫婦になって、財産があるから夫婦になったのだと思われたくないという、若松屋惣七らしい意地だった。磯五という邪魔じゃまがなくなったいま、お高と若松屋惣七のあいだを邪魔するものはこうしてお高の財産であった。
 お高は、誰の顔も見ないように、ほとんど一部屋に閉じこもって日を過ごした。心もちの苦しみが、からだの苦しみにまでなってきていた。その刺すような苦しみが、お高をはっきりと自意識にもどして、彼女は生き返ったような気がすることがあった。じぶんは今まで死んでいたのだと思うことがあった。
 じっさい、お高は、この最近の磯五との交渉や、母のおゆうの遺産受け継ぎの問題などで、多くのいざこざを[#「いざこざを」は底本では「いざくざを」]重荷のように負わされていたのから解放されて、もとのさわやかなお高にさめつつあった。よみがえりつつあった。
 恋だの愛だのという心臓はふさがって、いのちは糸のようにほそっても、大きな財産さえあれば、幸福である。それが何よりの慰めになるという人が、世の中にはすくなくないものだが、お高の場合は、そうでなかった。反対だった。
 さびしい、しかし、生きいきした光を持ち出してきた眼を壁にすえて、室外そとに進む夏のけはいを感じてじっと味わいながら、お高は、口をきくのもおっくうで、一日中ただすわっていることが多かった。肩で呼吸いきをして、苦しそうに、額が汗ばんでいることが多かった。
「もうじき身ふたつにおなりになるのさ」
 膳を運んでくる国平が、供部屋へ帰って、佐吉と滝蔵にささやいたりした。
 若松屋惣七と龍造寺主計が帰って来ると、お高は、長いことためらっていて、その、惣七の帳場になっている奥の茶室へはいって行かなかった。龍造寺主計が、あの初めて来たときのように、庭を隔てた別棟べつむねに落ちつくと、お高は、思い切って若松屋惣七の部屋へ出かけて行った。
 若松屋惣七は、着がえをすまして、よく見えない眼を庭へ向けているところだった。それは、お高がよく見慣れた座像であった。お高は、なみだが流れるのにまかせてそのまま若松屋惣七のまえへ行ってべったりすわった。
 若松屋惣七は、風のようなお高のにおいを感じて、その来る方向へからだを転じてすわり直した。お高を受けとめようとするように両手をひろげたが、お高は、すこし離れたところにくずれてしまって、その手の中へはころげ込まなかった。
「いま滝蔵から聞いた。ここに帰って来ておったのだそうだな」若松屋惣七は、茶碗ちゃわん糸尻いとじりをすり合わせるような、いつになく上ずった声だ。「知らなかったぞ。何しに帰って来たのだ」
「旦那様は、わたくしになど、もうお会いくださるお気もないのでございましょうけれど――」

      三

「そうでもない。会いたくないくらいなら、何もこういそいで掛川からもどって来ることはないのだ」
「では、おあいくだすっても、どういうことになさろうというお気は、ないのでございましょう。そうなのでございましょう」
「どういうことにするとは、どういうことだ。愚かな、わけのわからんことをいうものではない」
「具足屋のほうはいかがでございますか」
「芽を吹いたどころか、みごとな花が咲いて、やがて、たいした実がなろうぞ」
「龍造寺主計さまが、ごいっしょにお帰りになったようでございますねえ」
「うむ。用もないが、ま、久方ぶりに江戸見物というところである。あとでお眼にかかるがよい」
「――」
「からだのほうはどうか」
「はい」
「一空さんから来書があって、それで急にもどって来たのだが、磯五が焼死いたしたというではないか」
「はい。父の手妻小屋の火事で、おしんさんと、それからお美代とか申す女と、三人で焼け死にましてございます」
「天命じゃ。が、いささかさびしい気もするな」
「そのうえ、あの人が火をかけたことになりまして、南の大岡様のお計らいで、火つけあつかいでございます。地所、家作は申すに及ばず、蔵から店の品物まで、そっくりお取り上げになりまして、いっさい、おせい様へお下げになりますのだそうでございます。磯屋の店はつぶれましてございます。せいせいいたしました。それに、おせい様も、何やかやと磯五にとられましたものが皆手に返ることになりまして――」
「それは、何よりであった。ところで、磯五がそうなってみると、お前も自ままじゃの」
「――」
「自ままじゃの」
「はい」
「――」
「旦那様」
「――」
「なぜそこまでおっしゃって、そのままお黙りになっておしまいになるのでございます。わたくしは、何をそんな、お気にさわるようなことをいたしましたろう? あんまりでございます。あんまりむごうございます」
「むごい? このわしがむごいというのか」
「さようでございます。むごうございます。あんまりでございます。あんまりななされ方でございます。おうらみでございます」
「ふうむ、そのわけを聞こう」
「はい。磯五がなくなりまして、わたくしは、もう晴れてどうともできる身の上でございます。それなのに旦那様は、まるで他人のような口をおききあそばして――でございますけれど、わたくしは、何を申し上げているのでございましょう! じぶんながら、気でも違ったのではございましょうか。どうぞ、お聞き捨てくださいまし」
「そのことか。そのことなら、はっきり申す。断わる」
「おうちへお入れくださらないとおっしゃるのでございますか」
「そうじゃ。どうにもならん」
「わたくしが継ぎました母のお金のことでございますか」
「若松屋も、金持ちの若後家といっしょになったとは、いわれとうない」
「まあ、お金もちの若後家とおっしゃるのは、それはわたくしのことでございますか」
「さよう。まずそこらであろうな」
「お金持ちの若後家――おことばではございますが、あまりな面当てのようではございますまいか」
「面あてであっても、つら当てでなくても、それがほんとのところだ」
「――」
「金のある女など、きらいだ。いかにいわれても、どうにもならん。その、どうにもならんことに相方そうほういろいろとことばをつくすのは、愚じゃ。よそう」
「でも、お金などございましても、ございませんでも――」
「同じだといいたいのだろうが、おれの気もちが違うな。お前に金がきてから、お前は遠いところへ行ってしもうた。わしの手の届かん遠いところへ行ってしもうた」
「わたくしはちっともそういうつもりはございません。そんなところがすこしでも見えようとは、じぶんでは思いませんでございます。やはり旦那様は、お気がお変わりなすったのでございます。そういうことをおっしゃって、それをいいことに、わたくしをおしりぞけなさろうというのでございます。高には、よくわかっておりますでございます」
「なに! 黙れっ!」

      四

 何、黙れと若松屋惣七がすこし大きな声を出したとき、縁の障子のかげにちらと人かげがしていたが、若松屋惣七もお高も気がつかないで話をつづけた。縁の障子のかげにたたずんでいる人物は、龍造寺主計であった。
 龍造寺主計は、別に立ち聞きするつもりで来たのではないが、そこまで来て、室内なかに若松屋惣七とお高の話し声がするので、立ちどまって、はいろうか引っ返そうかとためらっているうちに、自然話が聞こえて立ち聞きすることになった。彼は、そんなことをしている自分がいとわしくなって、何度も、せき払いでもして姿を出そうか、それとも爪立つまだちして庭のむこうへ帰ろうかと思っても、足が動かなかった。からだがきかなかった。
 で、そうやって聞いていて、彼は初めて、お高と若松屋惣七の関係と、若松屋惣七に対するお高の気もちを知ったのだ。龍造寺主計は、それを知っても、失望も怒りも感じないのだ。そういうよけいな感情は、長いあいだの放浪で、彼はすり切らしていて持ち合わせがないのだ。
 ただ龍造寺主計は、すべてがはじめてわかったような気がした。じぶんが掛川へ行く前にお高に嫁に来てくれるようにといったことがあるが、あのときお高が困ったようなようすを見せて、断わりにくそうに断わったわけも、読めた。
 龍造寺主計は、あれ以来掛川で奮闘して、お高を迎える日をたのしみにしていたのだし、今度出て来たのも、実のところはお高を見るために過ぎなかったのだが、若松屋惣七とお高の仲と、ことに惣七に寄せるお高のこころもちを知ると、龍造寺主計は、じぶんの気もちなどはすぐ忘れて、晴ればれすると同時に、お高への同情が、そのがっしりした胸に雲の峰のように沸き起こってきた。
 それは、龍造寺主計において、自然すぎるほど自然な転化だった。そのお高に対する同情は、いま、お高の財産ゆえにお高の恋を退けようとしている惣七への憎しみでもあった。
 この二つは、龍造寺主計にとって、同じ感情であった。そして、龍造寺主計のあたまの中で、同じ度合いと速力で進んだ。お高が可哀そうになればなるほど、若松屋惣七が憎らしくなった。
 龍造寺主計は、この、自分でも不思議な義憤に悩んで、隠れていることを忘れて、障子のかげでしめった。それはさいわい室内の二人には聞こえなかったが、龍造寺主計は、あやうく声に出していうところだった。
「意地もよいが、わからんことをいわるる惣七どのじゃな」
 部屋のはなし声はつづいていた。龍造寺主計は、板縁にくぎづけになったように、脊骨をまっすぐにして聞き入っていた。
 いっているのは、若松屋惣七の声だ。
「しきりにむごいというが、何もむごいことはあるまい。お前にも、わしの気もちはわかっておるはずだ。おれは、戦っているのだ。お前を求める心と、おれは戦っているのだ。金と若さと美しさがあって何でもできるお前が、このおれのような、近ごろは商売もふるわぬ金貸しに一生しばられて動きの取れんことになっていいという法はない。あはははははは、おれはこれでも、自分を知っておるつもりだよ」
「何をおっしゃるのでございます。旦那様は、高を苦しめ、高を嘲弄ちょうろうなすっていらっしゃるのでございます。もしまた、御本心から高の財産がお眼ざわりになっていっしょになってくださらないとおっしゃるのでございましたら、それこそ、つまらないことにわずらわされておいででございます。
 どうぞ、そんな添えものをごらんにならないで、高をごらんなすってくださいまし。ほんとうに柘植つげの財産がお気に召さないのでございましたら、高は、惜しくも何ともございません。すぐすてますでございます」
「いかん。そういうことはならぬ。お前とおれは、何というても、これぎりのものだよ。どうにもならぬのだ」
「旦那様は、世間のおもわくばかりお考えでございます。そんなことより、もっと――」
「いいや、どうにもならぬ」
 若松屋惣七がいい切ったとき、縁の障子のかげから、龍造寺主計があらわれた。龍造寺主計は、血相を変えていた。龍造寺主計は、刀を抜いて持っていた。
「若松屋。聞いておるとじりじり致すわ。話のわからぬやつだな。何ゆえお高どのをいれぬのだ」
「龍造寺どのか。貴殿の知ったことではない」
 若松屋惣七が顔を向けると、龍造寺主計は、気が短いのだ。かっとして、若松屋惣七の顔へ刀をふりおろしたのだ。刀は、惣七の額部ひたいをかすめて、むかし女のことで惣七が眉間みけんに受けた傷のうえにもう一つ傷を重ねて、血が流れたのを、お高は見た。
 同時にお高は、庭のむこうに一空さまが立って、じぶんを呼んでいるような気がして、
「はい」
 と叫んで、はだしで戸外へ駈け出ていた。駈け出しながら、そして子供のように泣きながら、お高がちょっとふり返ってみると、龍造寺主計は、刀をぶら下げて、顔をゆがめて、ぼんやり惣七を見おろして立っていた。若松屋惣七は、ひたいの傷を懐紙でおさえて、端然とすわっていた。

      五

 数寄屋橋ぎわ、南町奉行所の腰かけに、木場の甚が来ていた。お調番所へ名前を通して、ここで待っているのだ。呼び出しを受けて、続々関係かかりあい一同があつまって来る。
 若松屋惣七、龍造寺主計、おせい様、一空和尚につれられたお高、お駒、お駒の父の久助などが急に召し出しを受けて、みな不審そうな顔をあつめて、黙りこんでいた。重々しい空気に押されて、ひそひそ話もできかねるのだ。
 お高は、小石川の上水へ身を投げたのが、金剛寺門前町の和泉屋の者に助けられて、一空さまのところに届けられていたのだ。そこへ、南の奉行所から差し紙が来たので、一空さま差し添えであおい顔を見せていた。
 ちらちらと若松屋惣七のほうを見ると、若松屋惣七は、血の黒く固まった眉間の傷を見せて、何か低声こごえに龍造寺主計と話しこんでいた。ふたりは、ちょっとにしろ、斬ったり斬られたりしたことなどはけろりと忘れて、もと以上に親密になっているようすだった。
 龍造寺主計は、一番平然としていた。何事もなかったように、ちょいちょいお高を見て、その鬼瓦おにがわらのような顔をしきりにほほえませていた。
 おせい様は、お駒といっしょに、久助を左右からはさむように押しならんで、心細そうなようすだった。それとも[#「それとも」はママ]うつむいてめいめいの手をみつめていた。
 一空さまと木場の甚が丁寧にあたまをさげ合った。お高も、それで気がついて、木場の甚に挨拶した。
 むこうを、遊び人風の男につれられた若い女が、町内の多勢おおぜいにかこまれて何か慰められながら、泣き泣きお白洲しらすから下がって来た。おもてには、御門番と争う大声がしていた。六尺を持った同心や、書類をかかえた与力たちが、はかまを鳴らして右往左往していた。あわただしい奉行所の真昼だった。
 お高は、控え所の窓へ眼をやった。窓のそとには、白い空があった。雲の峰が立っていた。それは、すくすくと高い雲の峰であった。お高は、何の形に似ているかしらと思って見ているうちに、その雲の峰が非常にいいしるしのように思われて来て、じぶんの一生と、じぶんの中に発育しつつある小さないのちの前途が、このうえなくかがやかしく約束されているような気がした。[#「気がした。」は底本では「気がした」]お高は、こころの奥でを合わせて、雲の峰を拝んだ。
 ふと振り返ると、若松屋惣七も、その雲の峰を、不自由な眼をほそめてながめていた。その若松屋惣七の顔はこのごろになくゆったりした表情だった。お高のほうを顧みて、微笑したようであった。お高も、ほほえみ返そうとしたとき、ぎいとお白洲の樫扉かしどがあいて、大声に呼び込みがはじまった。
 白洲には、白い砂が、高い窓の洩れ日に光っていた。つくばい同心が左右にしゃがみこんで、正面の高い座の下には、書役かきやくが机をならべてこっちを見ていた。一同が、そこで草履ぞうりをぬいでお先へお先へと譲り合っていると、
「早くはいれ」
 をあけていた同心のひとりがどなった。
 砂にすわって待っていると、奉行の忠相ただすけは、伊吹大作いぶきだいさくその他をしたがえて、すぐ出て来て座についた。一同が平伏しているとき、忠相は、ひとりちょっと顔を上げた木場の甚と眼を合わせてかすかにうなずいたが、誰も気がつかないのだ。
 名や所の読み上げがすむと、忠相の調べは早かった。現代いまでいうと、超速度だった。
 事件は、おもて向きはお高の入水の一件だったが、忠相は、それを取り上げて、この紛糾のすべてを快刀乱麻的に解決しようとするはらであることは、すぐにわかった。木場の甚と一空様と忠相と、三人で計らったものらしいことも、容易に察しられるのだ。
 忠相は、片頬に笑みを浮かべながら、ひとり言のような調子で、ぱたぱたと片づけて行くのだ。
「龍造寺主計、吟味中ことばを改める。そちは、宿屋の亭主と申すが、宿屋の亭主が、大刀をふるって人の眉間を斬るか、宿屋の亭主か、武士か、どっちかになりきれ。すなわち、庄内藩へ帰参するか掛川の具足屋とやらへ帰るか、どちらに致す? 返答せい」
「それは、掛川へ帰らせていただきとう存じまする」
「うむ。よくよくさむらいがきらいじゃとみえるな。つぎにおせい、そちは、磯屋五兵衛の遺産いっさいを受けとったであろうな。何もかかりあいじゃ。磯五の命日をみてやれ。
 さて、駒とやら申すはそちか。そちは、踊り振り事の類をもって身を立て得ると聞き及ぶが、当分、父久助とともに木場の甚方へ掛人かかりびとになるがよい。甚、よくめんどうをみて取らせ。
 皆の者、よくわかったな。よろしい。一同立ちませい――ああこりゃ、それなる盲人は何者じゃ? なに、若松屋惣七。いや、何者でもよい。眼が不自由では困ろう。誰か寝起きの世話をするものはあるか。うむ、これ、ちょうどよい。その高と申す女子おなごじゃ。高は一度死んだものである。よって僧侶の一空にかばねを引き取らせるが、一空は高を惣七に預けるがよかろう。
 高、死んだ気になって、働け。よく惣七の世話をみるのじゃ。惣七はまた、高の身柄を受け取るのではない。高の中に宿っているおのれの世つぎを受け取るのじゃ。高はどうでもよかろうが、腹の子は、そちのものじゃ。致し方がないによって、高も、腹の子のいれものとして納めておけ。高の財産を管理して行くうえにも、そちの才腕と世つぎの子は、大切であろうぞ――立て」





底本:「巷説享保図絵・つづれ烏羽玉」立風書房
   1970(昭和45)年7月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名から外れる表記も、意味を推し量れると判断したもの(「さかづき」「ひたひ」「加わつて」等)は底本通りとし、訂正も、ママ注記も行いませんでした。
入力:kazuishi
校正:久保あきら
2009年10月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について