釘抜藤吉捕物覚書

怪談抜地獄

林不忘




      一

 近江屋の隠居が自慢たらたらで腕をふるった腰の曲がったえびの跳ねている海老床の障子に、春は四月のうららかな陽が旱魃ひでりつづきの塵埃ほこりを見せて、焙烙ほうろくのように燃えさかっている午さがりのことだった。
 八つを告げる回向院えこういんの鐘の音が、桜花はなを映して悩ましく霞んだ蒼穹あおぞらへ吸われるように消えてしまうと、落着きのわるい床几のうえで釘抜藤吉は大っぴらに一つ欠伸あくびを洩らした。
「おっとっとっと――。」
 髪床の親方甚八は、あわてて藤吉の額から剃刀の刃を離した。
「親方、いけねえぜ、当ってる最中に動いちゃあ――。」
「うん。」
 あとはまた眠気をもよお沈黙しじまが、狭い床店の土間をのどかに込めて、本多隠岐守ほんだおきのかみ殿どのの黒板塀に沿うて軽子橋の方へ行く錠斎屋じょうさいやの金具の音が、薄れながらも手に取るように聞こえて来るばかり――。
 剃り道具を載せて前へ捧げた小板を大儀そうにちょっと持ち直したまま蒸すような陽の光を首筋へ受けて釘抜藤吉は夢現ゆめうつつの境を辿っているらしかった。気の早い羽虫の影が先刻から障子を離れずに、日向へ出した金魚鉢からは、泡の毀れる音がかすかに聞こえてきそうに思われた。土間へ並べた青い物の気で店一体にむろのようにゆらゆらと陽炎かげろうが立っていた。
「ねえ。親分。」
 藤吉の左の頬を湿しながら、甚八は退屈そうに言葉を続ける。「連中は今ごろ騒ぎですぜ。砂を食ったかれいでも捕めえると、なんのこたあねえ、鯨でも生獲いけどったような気なんだから適わねえ、意地の汚ねえ野郎が揃ってるんだから、どうせ浜で焼いて食おうって寸法だろうが、それで帰ってから腹が痛えとぬかしゃあ世話あねえや。親分の前だが、お宅の勘さんとあっしんとこの馬鹿野郎と来た日にゃあ、悪食あくじきの横綱ですからね。ま、なんにせえ、このお天気が儲けものでさあ。町内の繰り出しとなるときまって降りやがるのが、今年あどうしたもんか、この日和ひよりだ。こりゃたしかにどっかのてるてる坊主がきいたんだとあっしゃあ白眼にらんでいますのさ。十軒店の御連中は四つ前の寅の日にわあってんで出かけやしたがね、お台場へ行き着くころにゃ、土砂降りになってたってまさあ――ねえ、親方、今日はいよいよ掃部かもんさまが御大老になるってえ噂じゃありませんか。」
「うん。」
 半分眠りながら藤吉は口の中で相槌を打っていた。安政五年の四月の二十三日は、暦を束にして先にはがしたような麗かな陽気だった。こう世の中が騒がしくなってきても、年中行事の遊ぶことだけは何をおいても欠かさないのが、そのころの江戸の人の心意気だった。で、海老床の若い者や藤吉部屋の勘弁勘次や、例の近江屋の隠居なぞが世話人株で、合点長屋を中心に大供子供を駆り集め遅蒔おそまきながら、吉例により今日は品川へ潮干狩りにと洒落こんだのである。時候のかわり目に当てられたと言って、葬式とむらい彦兵衛は朝から夜着を被って、黄表紙を読みよみ生葱なまねぎをかじっていた。気分が悪くなると葱をかじり出すのがこの男の癖なのである。だからせっかく髪床へ顔を出しても、今日は将棋の相手も見つからないので、手持ち無沙汰に藤吉が控えているところへ、
「親分一つ当りやしょう――大分お月代さかやきが延びやしたぜ。なんぼなんでもそれじゃお色気がなさ過ぎますよ。」
 と親方の甚八が声を掛けたのだった。ぽんと吸いさしの煙管を叩いて、藤吉は素直に前へ廻ったのだったが、実は始めから眠るつもりだったのである。
「こうまであぶれるとわかっていりゃあ、あっしも店を締まって押し出すんだった。これでも生物ですからね、たまにゃあ商売を忘れて騒がねえとやりきれませんや。」
「まったくよなあ。」
 と藤吉はしんみりして言ったが、しばらくして、
「十軒店の人形市はどうだったい?」
からきし駄目だってまさあ、昨日清水屋のお店の人が見えて、そ言ってましたよ、なんでも世間様がこう今日日のように荒っぽく気が立って来ちゃあ昔の習慣しきたりなんかだんだん振り向きもしなくなるんだって――そりゃあそうでしょうよ、あああ、いやだいやだ――。」
 と剃刀そりの刃を合わせていた甚八が、急に何か思いついたように大声を出した。
「親分はあの清水屋の若主人の大痛事を御存じですかえ?」
「清水屋って、あの蔵前の――。」
「さいでげすよ、あの蔵前の人形問屋の――。」
「若主人――と。こうっと、待てよ。」
 藤吉は首を捻っていた。
「伝二郎さんてましてね、田之助たゆうりの、女の子にちやほやされる――。」
「あ。」と、藤吉は小膝を打った。「寄合えで顔だきゃあ見知っているので、まんざら識らねえ仲でもねえのさ。あの人がどうかしたのかい?」
「どうかしたのかえは情ねえぜ、親分。」
 と甚八は面白そうににやにやしていた。
にもったいをつけるじゃねえか。いったいその伝二郎さんが何をどうしたってんだい?」
「じつはね、親分、」と甚八は声を潜める。「実あお耳に入れようと思いながら、ついうっかりしてましたのさ。」
「嫌だぜ、親方」と釘抜藤吉は腹から笑いを揺すり上げた。「またいつもの伝で担ぐんじゃねえか。この間のように落ちへ行って狐憑きつねつきの婆あが飛んで出るんじゃあ、こちとら引っ込みがつかねえからなあ、はっはっは。ま、お預けとしとこうぜ。」
 甚八は苦笑を洩らしながらあわてて言った。
「ところが、親分、藤吉の親分、こいつあ真正真銘の掘り出しなんですぜ。」
 と彼は大袈裟な表情をして見せた。
「そうか――。」
 と、それでもいくぶん怪しんでいるらしく、藤吉の口尻には薄笑いの皺が消えかかっていた。その機を外すまいとでもするように、藤吉の右頬へあまり切れそうもない剃刀を当てながら、親方甚八は、
「まあお聞きなせえ。」
 と話の端緒いとぐちを切り始める。眠るともなく藤吉は眼をつぶっていた。
 孑孑ぼうふらの巣のようになっている戸外の天水桶が、障子の海老の髭あたりに、まぶしいほどの水映みばえを、来るべき初夏の暑さを予告するかのように青々と写しているのが心ゆたかに眺められた。

      二

 三月三十一日の常例の日には、ほうぼうの町内から多人数の繰り出しがあって、干潟ひがたで獲物の奪い合いも気がきくまいというところから、わざと遅れた四月の五日に、日本橋十軒店の人形店の若い連中が、書入時の、五月市さつきいちの前祝いにと、仕入れ先のあちこちへも誘いをかけて、怪ぶまれる天候もものかはと、出入りの仕事師や箱を預けた粋な島田さえ少なからず加えてお台場沖へ押し出したのであった。
 同勢二十四、五人、わいわい言いながら笠森稲荷の前から同朋町どうぼうちょうは水野大監物だいけんもつの上屋敷を通って、田町の往還筋へ出たころから、ぽつぽつ降り出した雨に風さえ加わって、八つ山下へ差しかかると、もうその時は車軸しゃじくを流す真物の土砂降りになっていた。葦簾よしずを取り込んだ茶店へ腰かけて、しばらくは上りを待ってみたものの、降ると決まったその日の天気には、いつ止みそうな見当さえつかないばかりか、墨を流したような大空に、雷を持った雲が低く垂れ込めて、気の弱い芸者たちは顔の色をかえて桑原くわばらを口のうちに呟き始めるという、とんだ遠出の命の洗濯になってしまった。
 が、なんと言ってもそこは諦めの早い江戸っ児たちのことだから、そういつまでも空を白眼にらんでべそをかいてばかりもいなかった。結局この大風雨を好いことにして、誰言い出すともなく、現代いまの言葉で言う自由行動じゆうこうどうを採り出して、気の合った同士の二人三人ずついつからともなく離ればなれに、そこここのちゃぶ屋や小料理屋の奥座敷へしけ込んで晴れを待つ間を口実に、甘口は十二カ月の張り合いから、上戸は笑い、泣き、怒りとあまり香ばしくもない余興よきょうが出るまで、差しつ差されつ小酒宴こざかもりに時を移して、永くなったとはいうものの、小春日の陽脚が早やお山の森に赤あかと夕焼けするころ、貝の代りに底の抜けた折や、ほころびの切れた羽織をずっこけに片袖通したりしたのを今日一日の土産にして、それぞれ帰路についたのであった。
 さしもの雨も残りなく晴れ渡って、軒のしずくに宵の明星みょうじょうがきらめいていた。月の出にも間があり、人の顔がぼんやり見えてなんとなく物のの立ちそうな、そや彼かとゆうまぐれだったという。
 ちょっとでも江戸を出りゃあ、もう食う物はありませんや、という見得みえ半分の意地っ張りから、蔵前くらまえ人形問屋の若主人清水きよみず屋伝二郎は、前へ並んだ小皿には箸一つつけずに、雷のこわさを払う下心も手伝って、伴れ出しの一本たちを相手に終日盃を手から離さなかった。父親おやじの名代で交際大事と顔を出したものの、元来もともと伝二郎としては品川くんだりまでうまくもない酒を呑みに来るよりは、近所の碁会所ごかいしょのようになっている土蔵裏の二階で追従ついしょうたらたらの手代とでもこっそり碁の手合わせをしているほうがどんなにましだったか解らない。好みの渋い、どちらかといえば年齢としのわりに落ち着いた人柄だった。それというのも養子の身で、金が気ままにならなかったからで、今に見ろ、なにかでぼろく儲けを上げて、父親おやじ母親おふくろを始め、家つきをかさている女房のお辰めに一鼻あかしてやらなくては、というこころがなにかにつけて若い彼の念頭ねんとうを支配していたのだった。
 酒は強い方だったが、山下の軍鶏屋しゃもやで二、三のおろしさきの番頭たちと、空腹へだらしなく流し込んだので送り出された時にはもういい加減に廻っていた。俗にいう梯子はしごという酒癖さけぐせで、留めるのもかず途中暖簾のれんとさえ見れば潜ったものだから、十軒店近くで同伴つれと別れ、そこらまで送って行こうというのを喧嘩するように振り切って、水溜りに取られまいと千鳥脚ちどりあしを踏み締めながら、ただひとり住吉町を玄冶店げんやだなへ切れて長谷川町へ出るころには、通行人が振り返って見るほどへべれけに酔いれていた。素人家しもたや並みに小店が混っているとはいうものの、右に水野や林播磨はりま邸町やしきまちが続いているので、宵の口とは言いながら、明るいうちにも妙に白けた静けさが、そこらあたりを不気味に押し包んでいた。鼻唄まじりに、それでも頭だけはやがて来るであろう大掛りな儲け話をあれかこれかと思いめぐらして、伝二郎は生酔いの本性違わずひたすら家路を急いでいた。優しい跫音あしおとが背後から近づいて来たのも、かれはちゃんと知っていた。縮緬ちりめんのお高祖頭巾こそずきんを眼深に冠って小豆色の被布を裾長に着た御殿風のお女中だった。二、三間も追い抜いたかと思うと、何思ったか引き返して来た。ける暇もなかったので、あっという間に伝二郎はどうっと女にぶつかった。と、くびすを返して女はばたばたと走り出した。口まで出かかった謝罪の言辞ことばを引っ込まして、伝二郎は本能的に懐中に紙入れを探った。なかった。たしかに入れておいたはずの古渡唐桟こわたりとうざんの財布が影も形もないのである。さては、と思ってかして見ると、酔眼朦朧すいがんもうろうたるかれの瞳に写ったのは、泥濘ぬかるみを飛び越えて身軽に逃げて行く女の後姿であった。
「泥棒どろぼう――。」
 舌はもつれていても声は大きかった。泳ぐような手つきとともに伝二郎は懸命に女の跡を追った。
「泥――泥棒、畜生、太い野郎だ!」
 と、それから苦にがしそうに口の中でつぶやいた。
「へん、野郎とは、こりゃあお門違えか――。」
 すると、街路みちの向うで二つの黒い影が固まり合って動いているのがおぼろに見え出した。一人は今の女、もう一人は遠眼からもりゅうとしたお侍らしかった。
「他人の懐中物を抜いて走るとは、女ながらも捨ておき難き奴。なれど、見れば将来さきのある若い身空じゃ。命だけは助けて取らせるわ。これにりて以後気をつけい――命冥加いのちみょうがな奴め。行けっ。」
 侍の太い声が伝二郎の鼓膜こまくへまでびんびんと響いて来た。言いながら手を突っ放したらしい。二、三度よろめいたのち、何とか捨科白すてぜりふを残して、迫り来る夕闇に女は素早く呑まれてしまった。
 伝二郎と侍とが町の真中で面と向って立った。忍び返しを越えて洩れる二階の灯を肩から浴びた黒紋付きに白博多のその侍は、呼吸を切らしている伝二郎の眼に、この上なく凜々りりしく映じたのだった。五分月代さかやきの時代めいた頭が、浮彫うきぼりのようにきりっとしていて、細身の大小を落し差しと来たところが、約束通りの浪人者であった。水を潜ったそのたびに色のせかけた、羽二重もなんとなくその人らしく、伝二郎の心には懐しみさえき起るのだった。腕に覚えのありそうな六尺豊かの大柄な人だった。苦み走った浅黒い顔が、心なしか微笑んで、でも三角形に切れの長い眼はおたかさまのようにするどく伝二郎を見下していた。気押され気味に伝二郎は咽喉が詰ってしまったのである。
「酒か――。」
 侍は噛んで吐き出すようにこう言った。
「百薬の長も度を過ごしてはわざわいもとじゃて――町人、これは其許そこもとの持物じゃろう。しかとあらためて納められい。」
 ぶっきらぼうに突き出した大きなには、伝二郎の紙入れが折りも返さずにせられてあった。
「へっ、まことにどうも――なんともはや、お礼の言葉もございません。あなた様がお通りすがりにならなければ、手前は災難の泣き寝入りで――この財布には、旦那さま、連中の手前、暖簾のれんに恥を掻かせまいと言うんで大枚の――。」
 言いかけて伝二郎は後を呑んだ。侍の眼が怪しく光ったように思ったからである。手早く紙入れを胴巻の底へ押し込んでから、伝二郎はながながと事件の顛末てんまつを話し出した。
此町ここまで参りますと、あの女が背後からやにわに組みついて来ましたんで。素町人ではございまするが、気が勝っておりましたんで、なにをっとばかり私も、あの女を眼よりも高く差し上げて――。」
「まだ酔いがめんと見えるのう。」
 侍は苦笑しながら、
「いいわ、近けりゃあそこまで身共が送ってつかわす。宅はどこじゃ?」
 伝二郎は慌てた。
「なに、その、もう大丈夫なんで。お志だけで、まことにありがたい仕合せでござります。」
 自家うちまでいて来られては、父母や女房の手前もある。ましてこの為体のしれない物騒ぶっそう面魂つらだましい、伝二郎は怖気おぞけを振ったのだった。
袖摺そですり合うも何とやら申す。見受けたところ大店の者らしい。夜路の一人歩きに大金は禁物じゃ。宅を申せ、見送り届けるであろう。住居はどこじゃ?」
 青くなって伝二郎はふるえ上った。一難去ってまた一難とはこのことかと、黙ったまま彼は頷垂うなだれていた。
「迷惑と見えるの。」
 と、侍は察したらしかった。
「なんの、なんの、迷惑どころか願ったりかなったりではござりまするが、危いところを助けて戴きましたその上に、またそのような御鴻恩ごこうおんに預りましては――。」
「後が剣呑けんのんじゃと申すのか、はっはっは。」
「いえ、」と、今は伝二郎も酒の酔いはどこかへ飛んでしまって、「それでは、手前どもが心苦しい到りでございまするで、へい。」
「ま、気をつけて行くがよい。身共もそろそろまいるといたそう。町人、さらばじゃ。」
 言い捨てて侍は歩き出した。気がついたように伝二郎は二、三歩跡を追った。
「お侍さまえ、もし、旦那さま。」
「何じゃ?」
 懐手のまま悠然ゆうぜんと振り返った。その堂々たる男振りにまたしても逡巡たじたじとなって、
「お名前とお住宅ところとをなにとぞ――。」
 と伝二郎は言い渋った。
 侍は上を向いて笑った。
「無用じゃ。」
 と一言残して歩みを続ける。伝二郎は泥跳はねを上げてすがりついた。
「でもござりましょうが、それでは、手前どもの気が済みません。痛み入りまするが、せめておところとお苗字なまえだけは――。」
「よし、よし、が、礼に来るには及ばんぞ。」
 と歩き出しながら、
大須賀玄内おおすがげんないと申す。寺島てらじま村河内屋敷のりょう食人かかりびとの、天下晴れての浪々の身じゃ、はっはっは。」
 あとの笑い声は、折柄の濃いいぬの刻の暗黒に、潮鳴りのように消えて行った。と、それに代って底力のある謡曲うたいの声の歩は一歩と薄れて行くのが、ぼんやり立っている伝二郎の耳へ、さながらあらたかに通って来るばかりだった。
 家へ帰ったのちも、このことについては伝二郎は口をかんして語らなかった。ただ礼をしたいこころで一杯だった。ことに幾分でもあの高潔な武士の心事をうたがったのが、彼としては今さら良心に恥じられてしょうがなかった。
「何と言っても儂は士農工商の下積みじゃわい。ああ、あのお侍さんの心意気がありがたい――。」
 何遍となく、口に出してこう言った後、二、三日した探梅日和たんばいびよりに、牛の御前の長命寺へ代々の墓詣りにとだけ言い遺して、丁稚でっちに菓子折を持たせたまま瓦町は書替御役所前の、天王様に近い養家清水屋のみせを彼はふらりと出たのであった。
ったいな、伝二郎が、まあ急に菩提ごころを起いたもんや――。」
 関西生れの養母は店の誰彼となくこう話し合っては、真からおかしそうに笑い崩れていた。
 寺島村の寮は一、二度尋ねてすぐに解った。
 河内屋という、下谷の酒問屋の楽隠居が有っているもので、木口も古く屋台もゆがんだというところから、今は由緒ゆいしょある御浪人へ預け切りで、自分は近所の棟割りの一つに気の置けない生計を立てているとのことだった。
 何の変哲へんてつもない、たところ普通の、如何にも老舗しにせの寮らしい、小梅や寺島村にはざらにある構えの一つに過ぎなかった。枝折戸の手触りが朽木のようにもろくて、建物の古いことを問わず語りに示していた。植込みを通して見える庭一体に青苔が池ののように敷き詰っていた。
「礼に来てはならん。」という侍の言葉が脳裡のうりに刻まれているので、伝二郎はおっかなびっくりで裏口から哀れな声で訪れてみた。
「おう、どなたじゃ、誰じゃ?」
 こう言ってさらりと境の唐紙を開けたのは、先夜の浪人大須賀玄内自身であった。それを見ると伝二郎は炊事場の上りがまちへ意気地なく額を押しつけてしまった。丁稚も見よう見真似でそのうしろにへい突くばっていた。
「誰かと思えば、其許はいつぞやの町人じゃな――。」と、案に相違して玄内は相好そうごうを崩していた。
「苦しゅうない。むさいところで恐れ入るが、通れ。ささ、ずうっと通れ。」
「へへっ。」
 伝二郎は手拭いを取り出して足袋の埃を払おうとした。
「見らるるとおりの男世帯じゃ。そのままで苦しゅうない。さ。これへ。」
 と玄内は高笑いを洩らした。それに救われたように、伝二郎は小笠原流の中腰でつつっと台所の敷居ぎわまで、歩み寄って行った。
「そこではお話も致しかねる。無用の遠慮は、身共は嫌いじゃ。」
「へへっ。」
 座敷へ直るや否や伝二郎はぺたんと坐ってしまった。後へ続いて板の間にかしこまりながらも、理由わけを知らない丁稚は、芝居をしているようで今にも吹き出しそうだった。
 玄内は上機嫌だった。一服立ておったところでござる。こう言って彼は風呂かまの前に端然たんぜんとして控えていたが、伝二郎にも、それから丁稚にさえ自身てずから湯を汲んで薄茶を奨めてくれた。伝二郎がおずおず横ちょに押して出した菓子箱は、その場で主人の手によって心持ちよく封を切られて、すぐさまあべこべ饗応もてなしの材料に供せられた。浪人らしいその豁達かったつさが伝二郎には嬉しかった。いつともなく心置きなく小半刻あまりも茶菓の間に主客の会談がはずんだのだった。昨日今日の見識りに、突っ込んだ身上話はしがない沙汰と、伝二郎の方で遠慮してはいたものの、前身その他の過去こしかたの段になると、玄内はあきらかに話題を外らしているようだった。なるほど独身者の侘び住いらしく、三間しかない狭い家の内部なかが、荒れ放題に荒れているのさえ、伝二郎には風流みやびに床しく眺められた。
 初めての推参に長居は失礼と、かすかに鳴り渡る浅草寺の鐘の音に、初めて驚いたように伝二郎はそこそこに暇を告げた。
 玄内は別に留めもしなかったが、帰りを送って出た時、
「伝二郎殿、碁はお好きかな?」
 と笑いながらたずねた。
「ええ、もう、これのつぎに好きなんでございまして。」
 居間の床の間に、まがいの応挙おうきょらしい一幅の前に、これだけは見事な碁盤と埋れ木細工のついの石入れがあったことを思い出しながら、伝二郎はなれなれしく飯をかっこむ真似をして見せた。
「御同様じゃ。」
 と玄内は哄笑こうしょうして、
「近いうちに一手御指南に預りたいものじゃ。こちらへ足が向いたらいつでも寄られい。男同士の交りに腰の物の有無なぞ、わっはっは、最初はなから要らぬ詮議じゃわい。」
 伝二郎はまぶしそうに幾度もおじぎをしたなり、近日中の手合わせを約して、丁稚を中間にでも見立てた気か、肩で風を切って、引き取って行った。
 彼は愉快で耐らなかった。玄内のような立派なお侍と、膝突き合わせて語り得ることが、それ自身この上ない誇りであるところへ、先方むこうから世の中の区画くぎりを打ち破って友達交際づきあいを申し出ているのだから、伝二郎が大得意なのも無理ではなかった。が、なによりも、憎くもあり可愛くもある碁敵が、もう一人めっかったことが彼にとって面白くてならなかったのである。みちみち彼は、さんざん丁稚に威張りちらして、自分と玄内の二人が先日の晩、七人の浪藉者ろうぜきものを手玉に取った経緯いきさつを、「見せたかったな、」を間へ入れては、張り扇の先生そのままに、眼を丸くしている子供へ話して聞かせた。が、誰にも言うな、と口止めすることを忘れなかった。素姓すじょうのたしかでない浪人なぞと往来していることが知れたら、自家いえの者が何を言い出すかも解らないと考えたばかりではなく、なにかしら一つの秘密を保っていたいと言ったような、世の常の養子根性ようしこんじょうから伝二郎もこの年齢になって脱しきれなかったのだった。
 これを縁にして、伝二郎はちょくちょく寺島村の玄内の宅へ姿を見せるようになった。碁は双方ともざるの、追いつ追われつのあつらえ向きだったので、三日遇わずにいるとなんとなく物足りないほどの仲となった。玄内はいつも笑顔で伝二郎を迎えてくれた。帰りが晩くなると、自分で提灯を下げて竹屋の渡しあたりまで送ってくることさえ珍しくなかった。彼の博学多才はくがくたさいには伝二郎もほとほと敬意を表していた。何一つとして識らないことはないように見受けられた。そのお蔭で伝二郎も何かと知ったかぶりの口がきけるようになって行った。彼のこのにわか物識りは、養父たる大旦那を始め、店の者一統から町内の人たちにまで等しく驚異きょういの種であった。実際このごろでは、歩き方からちょっとした身の態度こなしにまで、伝二郎は細心に玄内の真似を務めているらしかった。供も伴れずに、月並みな発句でも案じながら、彼が向島の土手を寺島村へ辿たどる日がいつからともなく繁くなった。相手の人為ひととなりに完全にされてしまって、ただ由あるお旗下の成れの果てか、名前を聞けば三尺飛び下らなければならないれっきとした御家中の、仔細あっての浪人と、彼は心のうちに決めてしまっていたのである。
「主取りはもうこりこりじゃて、固苦しい勤仕きんじは真平じゃ。天涯独歩てんがいどっぽ浪人ろうにんの境涯が、身共には一番性に合うとる。はっはっは。」
 こうした玄内の述懐を耳にするたびに、お痛わしい、と言わんばかりに、伝二郎はわがことのように眉をひそめていた。
 十軒店の五月さつき人形が、都大路を行く人に、しばし足を留めさせる、四月も十指を余すに近いある日のことだった。
 暮れ六つから泣き出した空は、夢中で烏鷺うろを戦わしている両人には容赦ようしゃなく、伝二郎が気がついたころには、それこそ稀有けうの大雨となって、盆をくつがえしたような白い雨脚がさながら槍の穂先きと光って折れよとばかり庭の木立を叩いていた。二人は顔を見合せた。夜も大分更けているらしい。それに、何を言うにもこの雨である。故障さしつかえさえなければ、夜の物の不備不足は承知の上で今夜はこの寮に泊るがよいという玄内の言葉を、いや、って帰るとも断り切れず、そのうちまた一局と差し向うままに受けたともなく、こばんだともなく、至極自然に伝二郎はその晩玄内宅へ一泊することになったのであった。ええ、家の方はどうともなれ、という頭が先に立って、黒白の石にきれば風流を語り、茶にめば雨に煙る夜景を賞して彼は晩くまで玄内の相手をしていた。玄内は奥の六畳、伝二郎が四畳半の茶の間と、それぞれ夜着に包まって寝についたのがかれこれ、あれでの刻を廻っていたか――。
 何時なんどきほど眠ったか知らない。軒を伝わる雨垂れの音に、伝二郎が寝返りを打ったときには、雨後の雲間を洩れる月影に畳の目が青く読まれたことを彼は覚えている。もう夜明けまで間があるまい。夢かうつつにこう思いながら、ひょいと玄関への出口へ眼をやると、われにもなく彼は息が詰りそうだった。枕元近く壁へ向って、何やら白い影のようなものがしょんぼり据わっているではないか。あやうく声を立てるところだった。が、次の瞬間には頭から蒲団を被って掻巻かいまきの襟をしっかり噛み締めていた。身体じゅうの毛穴が一度に開いて、そこから冥途めいどの風が吹き込むような気持ちだった。が、怖いもの見たさの一心から夜具の袖を通して伝二郎はのぞいてみた。女である。文金高島田ぶんきんたかしまだの黒髪艶々しい下町娘である。それが、妙なことには全身ずぶ濡れの経帷子きょうかたびらを着て、壁に面してさむざむと坐っているのである。かたむいた月光が女の半面を青白く照らして、頭髪かみのけからも肩先からも水の雫が垂れているようだった。後れ毛の二、三本へばりついた横顔は、凄いほどの美人である。思わず伝二郎はふるえながらも固唾かたずを呑んだ。と、虫の鳴くような細い音が、愁々乎しゅうしゅうことして響いて来た。始めは雨垂れの余滴かと思った。が、そうではない。女が泣いているのである。壁に向って忍び泣きながら、何やら口の中でつぶやいているのである。伝二郎はこわさも忘れて聞き耳を立てた。夜は、寺島村の夜は静かである。隣りの部屋からは、主人玄内のいびきの音が規則正しく聞えていた。玄内さまが付いている。こう思うと伝二郎は急に強くなったのである。
 女はすすり泣いている。そして何か言っている。聞きとれないほどの小声だった。が、だんだんに甲高かんだかくなっていった。けれど意味はよくわからなかった。女の言葉が前後顛倒てんとうしていて、ただ何か訴うるがごとく、ぶつぶつと恨みを述べているらしいほか、果して何を口説いているのか少しも要領ようりょうを得ないのである。動くという働きを失ったようになって、伝二郎は床のなかで耳をそばだてていた。すると、女が、というより女の幽霊が、不思議なことを始めたのである。壁の一点を中心にしてそのまわりへ尺平方ほどの円を描きながら、彼女はいっそう明晰めいせきな口調で妙な繰り言をくどくどと並べ出した。聞いて行くうちに伝二郎は二度びっくりした。そして前にも増してその一言をも洩らすまいと、じいっとしたままただ耳をらした。びしょ濡れの女は裏の井戸から今出て来たばかりだと言うのである。
 安政あんせい二年卯の年、十月二日真夜中の大地震まで、八重洲河岸で武家を相手に手広く質屋を営んでいた叶屋かのうやは、最初の揺れと共に火を失した内海紀伊うつみきいさまの中間部屋の裏手に当っていたので、あっという間に家蔵はもとより、何一つ取り出す暇もなくすべて灰燼かいじんに帰したばかりか、主人夫婦から男衆小僧にいたるまで、烈風中の焔に巻かれて皆あえない最後を遂げたのだった。この叶屋の全滅ぜんめつは、数多い罹災のうちでも、瓦本にまで読売りされて江戸中の人びとに知れ渡っていた。
 が、この不幸中の幸ともいうべきは愛娘まなむすめのお露が、その時寺島村の寮へ乳母と共に出養生に来ていたことと、虫の報せとでもいうのか、死んだ叶屋の主人が、三千両という大金をこの寮の床下へ隠しておいたことであった。壁の大阪土の中に掘穴を塗り込んで、それをりれば地下の銭庫かなぐらへ抜けられるように仕組んであった。
「抜地獄」と称するこの寮の秘密を、お露はき父から聞いて知っていたのである。が、彼女もその富を享楽きょうらくする機会を与えられなかった。って生れた美貌びぼうが仇となり、無頼漢同様な、さる旗下の次男に所望しょもうされて、嫌がる彼女を金銭かねで転んだ親類たちが取って押さえて、無理往生に輿入れさせようというある日の朝、思い余ったお露は起抜けに雨戸を繰ってあたら十九の花のつぼみを古井戸の底深く沈めてしまった。と、それと同時に抜地獄の秘密の仕掛けも、三千両というその大金も、永劫えいごう暗黒やみほうむり去られることになった――とこういう因果話のはしはしが、お露の亡霊からいつ果てるともなく、壁へ向ってつぶやかれるのであった。
 伝二郎はぐっしょり汗をかいて固くなっていた。恐ろしさを通り越して自分でもなんとなく不思議なほど平静になっていた。ただ、三千両という数字が彼の全部を支配していた。これだけたんまり手に入れて見せれば、養家の者たちへもどんなに大きな顔ができることか、一朝にして逆さになる自分の地位を一瞬の間に空想しながら、焼きつくように彼は女の肩ごしにその壁の面を睨んでいた。が、眼に映ったのは堆高うずだかい黄金の山であった。もうふところにはいったも同然な、その三千両の現金であった。彼も亦商人の子だったのである。
 と、女が立ち上った。細い身体が煙のように揺れたかとおもうと、枕頭の障子を音もなく開け閉てして、そのまま縁側へ消えてしまった。出がけに伝二郎を返り見て、にっと笑ったようだった。改めて夜着の下深くに潜って、彼は知っているかぎりの神仏の名を呼ばわっていた。が女が出て行くや否や、がばと跳ね起きて壁の傍へにじり寄った。気のせいかそこだけ少し分厚なように思われるだけで、外観からは何の変異も認められなかった。が、水を浴びたように濡れていたあの女が今の今までいたその畳に、湿り一つないことに気がつくと、きゃっと叫びながら伝二郎は狂気のように床へ飛んで帰った。耳を澄ますと玄内の寝息が安らかに洩れて来るばかり、暁近い寺島村は、それこそ井戸の底のように静寂せいじゃくそのもののすがたであった。
 朝飯を済ますと同時に、挨拶もそこそこに寮を出て、伝二郎は田圃をへだてたほど近い長屋に、寮の所有者河内屋の隠居を叩き起した。思ったより話がはかどらなかった。その家は元八重洲河岸の叶屋のものだったが、ながいこと無人だったのをこの隠居が買い取ったものだとのことで、大須賀玄内殿に期限もなしに貸してあることではあり、かつは雨風に打たれた古家であるにもかかわらず、玄内さまもああして居ついていて下さるのだから、自分としては情において忍びないが、いつまで打っちゃっておくわけにもいかず、実は近いうちに取り毀して新しい隠居所を建てるつもりなのだと、いろいろの約定書や絵図面を取り出して、隠居は伝二郎の申し出に半顧はんこの価値だも置いていないらしかった。押問答が正午まで続いた末、始めの言い値が三百両という法外ほうがいなところまであがって行って、とどのつまり隠居がしぶしぶながら首を縦に振ったのだった。どうしてあの腐れ家がそれほどお気に召したかという隠居の不審の手前は、あくまで好事こうずな物持ちの若旦那らしくごまかしておいて、天にも昇る思いで伝二郎は蔵前の自宅へ取って返し、番頭を口車に乗せて三百両の金をこしらえ、息せき切って河内屋の隠居の許までその日のうちに駈け戻った。
 金の手形に売状を掴むと、彼は仕事にあぶれている鳶の者たちを近所から駆り集めて、その足で玄内の寮へ押しかけて行った。相変らず小庭に面した六畳で、玄内は独り茶を立てていたが、隠居からすでに話があったと見えて、上り口の板敷きには手廻りの小道具がいつでも発てるように用意されてあった。その場をつくろう二言三言を交した後、伝二郎はすぐに若い者に下知を下して、そこと思う壁のあたりをしゃ二無二切り崩しにかからせた。玄内は黙りこくって縁端から怪訝けげんそうにそれを見守っていた。が、伝二郎はそれどころではなかった。掘っても突いても出て来るのは藁混わらまじりの土ばかり、四畳半の壁一面に大穴が開いても、肝腎かんじんの抜地獄はもちろん、鼠の道一つ見えないのである。こんなはずではないが――と、彼はやっきとなった。しまいには自分から手斧を振って半分泣きながらめったやたらにそこらじゅうをこわし廻った。
「可哀そうに、とうとう若旦那も気が違ったか――。」
 人々は遠巻きに笑いながら、この伝二郎の狂乱を面白そうに眺めていた。
 はっと気がついた時には、今までそこいらにいた玄内の姿が見えなかった。伝二郎は跣足はだしのまま半こわれの寮を飛び出して、田圃のあぜけつまろびつ河内屋の隠居の家まで走り続けて、さてそこで彼は気を失ったのである。
 隠居の家の板戸に斜めに貼ってあったのは、見覚えのある玄内のお家流、墨痕ぼっこんあざやかにかしやの三字であった。
 が、ここに不思議なことには、清水屋が後から人足を送って、念のため、というよりは気休めにその古井戸をさらわせてみると、真青に水苔をつけた女の櫛が一つ、底の泥に塗れて出て来たという。

      三

「器用な真似をしやがる!」
 親方甚八の長話がすむのを待って、釘抜藤吉は、懐手のままぶらりと海老床の店を立ち出でた。いつしか陽も西に傾いて、水仙の葉が細い影を鉢の水に落していた。
「親分、今の話は内証ですぜ。」
 追うように甚八は声を掛けた。
「きまってらい。」
 と藤吉は振り向きもしなかった。
「が、俺の耳に入った以上、へえ、そうですかいじゃすまされねえ。」
 と、それから、これは口のうちで、
「しかもその大須賀玄内様がだれだか、こっちにゃあちっとばかり当りがありやすのさ。おい、親方、」と大声で、「うまく行ったら一杯買おうぜ。ま、大きな眼で見ていなせえ。」
 頬被りをしてわざと裏口から清水屋へはいって行った藤吉は、白痴ばかのようにしょげ返っている伝二郎を風呂場の蔭まで呼び出して、優しくその肩へ手を置いた。
「慾から出たことたあ言い条、お前さんもとんだ災難だったのう。わしを記憶おぼえていなさるか――あっしゃあ合点長屋の藤吉だ、いやさ、釘抜の藤吉ですよ。」
 なみだながらに伝二郎の物語ったところも、甚八の話と大同小異だった。眼を光らせて藤吉は下唇を噛んで聞いていたが、今から思うと、あの最初の女ちぼと例のお露の幽霊とは、背恰好から首筋の具合いと言い、どうも同一人らしいという伝二郎の言葉に、何か図星が浮んだらしく、忙しそうに片手を振りながら、
「して、伝二郎さん、ここが大事なところだから、よっく気を落ちつけて返答なせえ。人間てやつあいい気なもんで、何か勝負ごとに血道を上げると、気取っていても普段の習癖くせを出すもんだが――お前さんはその玄内とかってお侍とたびたび碁を打ちなすったということだが、その時先方むこうにみょうちきりんな仕草、まあ、いってみりゃあ、頭をかくとか、こう、そら、膝やら咽喉やらあちこちつまみやがるとか――。」
「あ!」
 と伝二郎が大声を張り揚げた。
「そういやあどうもそのようでした。へい、あの玄内の野郎、話をしてても碁を打ってても、気が乗って来るとやたらめっぽうに自身の身体を指の先で押えたり、つまんだりいたしますので。が、どうして親分はそれを御存じですい?」
「まぐれ当りでごぜえますよ。」
 と藤吉は笑った。が、すぐと真顔に返って、
「――駿府すんぷずらかってる喜三きさの奴が、江戸の真中へ面あ出すわけもあるめえ。待てよ、こりゃあしょっとすると解らねえぞ。そっぽを聞いても芝居を見ても――うん、ことによるとことによらねえもんでねえ。喜三だって土地っ児だ。いつまで草深え田舎のはしに、肥桶臭こえたごくさくなってるわけもあるめえ――がと、してみると野郎乙にまた娑婆っ気を出しゃあがって、この俺の眼がまだ黒えのも知らねえこともあるめえに――。」
「喜三って、あの――。」
しっ!」
 と伝二郎の口を制しておいて、
「今一つお訊きしてえこたあ、ほかでもねえが、伝二郎さん、その河内屋の隠居と玄内とを二人一緒に見たことが、お前さん一度でもありますのかえ?」
 伝二郎は首を横に振った。
「寮から家主の隠居所までは?」
「小一町もありますかしら。」
「裏から抜けて走って行きゃあ――?」
「さあ、ものの二分とはかかりますまい。」
「ふふん。」と藤吉は小鼻を寄せて、
「伝二郎さん、敵討ちなら早えがよかろ。今夜のうちに縛引しょっぴいて見せる。親船に乗った気で、まあ、だんまりで尾いてくるがいいのさ。」
 御台場から帰ったばかりの勘弁勘次を、万一の場合の要心棒に拾い上げて、伝二郎を連れた藤吉は、みちみち勘次にも事件を吹き込み、宿場端れの泡盛屋あわもりやで呑めない地酒に時間を消し、すっかり暗くなってから、品川の廓街くるわまちへべつべつの素見客ひやかしのような顔をしてくわえ楊枝で流れ込んで行った。
「喜三ほどの仕事師だ。あぶく銭を取ったって、人眼につき易い大場所の遊びはしめえと、そこを踏んで此里ここへ出張ったのが俺の白眼にらみよ。それが外れりゃあ、こちとら明日から十手を返上して海老床へ梳手すきてに弟子入りだ。勘、その気でぬかるな。」
「合点承知之助――だが、親分、野郎にゃ小指れこがついてたってえじゃごせんか。してみりゃあ何もお女郎えでもありますめえぜ。」
「引っこ抜きと井戸の鬼火か、へん、衣裳を付けりゃあ、われだってたぼだあな。それより、御両所、切れ物にお気をつけ召されい――とね、はっはっは、俺の玄内はどんなもんでえ。」
 華やかな辺りの景色に調子を合わせるように、藤吉はひとり打ち興じていた。黄色い灯が大格子の縞を道路へ投げて人の出盛る宵過ぎは、宿場ながらにまた格別の風情を添えていた。吸いつけ煙草に離れともない在郷ざいごうの衆、客を呼ぶ牛太のこえ赤絹もみに火のついたような女たちのさんざめき、お引けまでに一稼ぎと自暴やけに三の糸を引っかいて通る新内の流し、そのなかを三人は左右大小の青楼へ気を配りながら、雁のように跡を踏んで縫って行った。
 二、三度大通りを往来したが無駄だった。伝二郎も勘次も拍子抜けがしたようにぽかんとしていた。藤吉だけが自信を持続していた。足の進まない二人を急き立てるように、藤吉が裏町へ出てみようと、露地にはいりかけたその時だった。四、五人の禿新造に取り巻かれて、奥のとあるうちから今しがた出て来た兜町らしい男を見ると、伝二郎は素早く逃げ出そうとした。
「どうした?」
 と藤吉はその袖を掴んだ。
あれです!」
 伝二郎は土気色をしていた。
「違えねえか、よく見ろ。」
「見ました。あれです、あれです。」
 と伝二郎は意気地なくも、ともすれば逃げ腰になる。火照ほてった頬を夜風に吹かせて、男は鷹揚おうように歩いて来る。
「よし。」
 釘抜藤吉は頷首うなずいた。
「勘、背後へ廻れ、めったに抜くなよ――おう、伝二郎さん、訴人が突っ走っちゃいけねえぜ。」
 苦笑と共に藤吉は、死んだ気の伝二郎を引っ立てて大胯おおまたに進んだ。ぱったり出遇った。
「大須賀玄内!」
 と藤吉が低声で呼びかけた。欠伸あくびをして男は通り過ぎようとする。
「待った、河内屋の御隠居さま!」
 言いながら藤吉はその前へがたがたふるえている伝二郎を押しやった。顔色もかえずに男は伝二郎を抱き停めた。
「おっと、これは失礼――。」
「喜三郎。」と藤吉は前に立った。「蚤取のみとりの喜三さん、お久し振りだのう。」
 ぎょっとして男は身を引いた。
「お馴染の八丁堀ですい。」
 と藤吉は軽く笑って、
「この里で御用呼ばわりはしたくねえんだ。お前だって女子衆の前でお繩頂戴も気のきかねえ艶消しだろう。大門出るまで放し捕りのお情だ。喜三、往生ぎわが花だぞ、器用に来い。」
 女たちは悲鳴を揚げて一度に逃げ散った。下駄を脱ぐと同時に男は背後を振り返った。が、そこには勘次がやぞうを極め込んでにやにや笑って立っていた。男も笑い出した。
「蚤取り喜三郎、藤吉の親分、立派にお供致しやすぜ。」
 と、そうして傍らの伝二郎を顧みて、
「清水屋さん、ま、胸を擦っておくんなせえ。」
 嬉しそうに伝二郎は微笑した。
「相棒は?」
 と藤吉が訊いた。
「弟の奴ですかい――?」
 喜三郎はさすがに悲しそうに襟のあたりを二、三度とびとびにつまんでから、
「へっ、二階でさあ。」
「勘。」
 と藤吉が眼で合図した。
 鼻の頭を逆さに一つこすっておいて、折柄沸き起る絃歌の二階を、勘弁勘次はちょっと振り仰ぎながら、
「あい、ようがす。」
 と広い梯子段を昇って行った。あれ、夜空に屋が流れる。それを眺めて釘抜藤吉は無心に考える。明日も――この分では明日も晴天はれらしい――と。





底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「探偵文藝」
   1925(大正14)年5月号
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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